日本庭園の源流 |
古代環状列石/磐座・磐境 |
酒船石 奈良県明日香村 庭園の遺構とも言われている |
木の文化といわれる日本でも、古代より人は 石と深くかかわってきた。縄文時代のストーン ・サークルと考えられる環状列石や、古代に起 源を持つ神社に伝えられている磐座や磐境の石 組は、日本人の美意識の底流となって伝わり、 隋唐庭園の影響も受けながら、後世の日本庭園 を形成していったと私は考えている。 また古代より神社には神池・神島が造営され て、池泉庭園の先駆をなしたと考えている。 全国に残るそうした事例を、見て歩きたい。 |
|
忍路環状列石 |
北海道小樽市 |
正しくは忍路(おしょろ)三笠山ストーン・サ ークルと称され、小樽市の西方、余市町との境 界に近い海岸から比較的遠くない場所に位置す る。 西欧の環状列石を数多く見た経験があるが、 それらと比してもここは円の半径がとても大き い方である事と、石の数が膨大である事に驚い た。 列石造営の目的には祭祀説や墳墓説など諸説 あるが、人の手で石が立てられ並べられた事実 に間違いはないだろう。 そこには石を円形に立てる何らかの意図と、 縄文時代のそれなりの美意識が働いていたはず である。 そうした感覚や感性がDNAとなって、後世 の墓碑や庭園文化に受け継がれたのではないか と私は思う。 サークルの中央に立石を囲んだ石組があるの だが、何やら庭園の感覚にとても似ていること にハッとさせられたのである。 |
|
大湯環状列石 |
秋田県鹿角市 |
小樽からニセコ・渡島、さらに津軽から羽前 地方にかけて大小の環状列石が多数分布してい る。 この列石は大湯温泉の郊外に在り、構造的に は忍路のものととてもよく似ている。野中堂と 万座という二つの遺跡に分かれており、サーク ルは何重にも重なった複合的なもので、小さな サークルが幾つも点在している。 写真は、中央に屹立した立石群の一つで、放 射状に組まれた石には、高度に美的な感覚が込 められている。 また、中央に立つ棒状の石は、さながら西欧 のメンヒルのようでもあり、ヒンドゥーのリン ガのようにも見える。 洋の東西を問わず、人間は石を立てるという 行為には、何らかの意義を見ていたとしか思え ない。そうした石の持っている神秘性や絶対性 に対する想いが、庭園の石組という造形となっ て現われたものと考えたい。 |
|
山梨岡神社磐座 |
山梨県笛吹市 |
この場所は旧春日居町で、15年程前に甲府 周辺の日本庭園を探訪していた途中、偶然立ち 寄ったのが最初であった。 大山祗命や別雷神などが祭神となっており、 延喜式神名帳にも記載された由緒ある式内社だ ったのである。 参道の脇に、見上げるような規模で、巨石の 数々が累々と重なっていた。 どう見ても自然の岩場とは思えず、人の手に よって組み上げられた磐座ではないかと直感し た。 神社の背後は、大蔵経寺山の斜面になってお り、社殿の後方にも意味ありげな巨石が見られ た。山や巨石そのものが、信仰の対象になって いたようにも見えた。 この磐座がそのまま日本庭園に影響を与えた とは考え難いが、須弥山石組や滝石組のイメー ジにかなり近いと感じるのもまた事実である。 |
|
生島足島神社神池 |
長野県上田市 |
延喜式の巻十に「生嶋 (いくしま) 足嶋 (た るしま) 神社二座名神大社、と記載されている という。 さらに「大八洲之霊」ともあり、御神体が大 地そのものであるとのことだが、周辺に山は無 いから致し方は無いにせよ珍しい形態である。 この神社のように、規模の大きい神池や神島 の土木工事は、技術的には渡来人の仕事と考え られないだろうか。 大八洲は天地であり、天地は大地と海洋をも 意味するものだ。神池と神島とは、そうした天 地海洋信仰から生まれた、宇宙観の表現なのだ ろう。 この神池はかつて多島式であったそうで、各 島には諸神が祭られていたと思われる。 神池や神島は純然たる信仰の所産で、観賞と しての対象では決してなかっただろう。しかし 池を配して出来上がった空間に対する感性は、 技術や美意識として後世に継承されたにちがい ない。 |
|
城之越遺跡護岸石 |
三重県上野市 |
上古古墳時代の住居跡などが残る遺跡で、最 大の特徴は三ヶ所の湧水源とその流れが構築さ れていたことである。 写真に写っている流れの左右奥に湧水源が在 って、現在でも透明な清水が湧き出ている。 さらなる特徴は、流れの岸辺に石を敷き詰め てあり、要所に護岸のための石を組んでいるこ とである。その上二つの流れの合流地点には、 格別象徴的な石組が構築されている。 磐座や庭園石組の原形とも思えるようなシン ボリックなオブジェであり、見方によっては造 形的なセンスすら感じられた事が驚きだった。 これらは湧水と流れを荘厳するための構造で あり、湧水を聖なるものとして崇めた祭祀の場 であったのだろうと思う。 |
|
阿自岐神社神池 |
滋賀県豊郷町 |
豊郷の安食という場所にあり、それは神社の 阿自岐が語源で、さらに朝鮮渡来の阿知岐一族 に由来する。 神池は本殿の東と西に分かれており、現状の 出島も島であったと見れば、東池に五島、西池 に七島となる。しかし拝殿付近も島であった可 能性が高く、合計十三の神島が在ったらしい。 この神社が祭る天照大神や須佐之男神などの 十三神と附合することから、各神島に一神を鎮 座せしめたものと思える。この話は重森三玲先 生の御説に依るところ大なれど、実際にこの神 池の多島ぶりと複雑怪奇な出島の有様を眺める と、そうした考えは自然に湧いてくる。 つまり、何故かくも複雑な神池を造ったかを 考えた時、後世の池泉庭園のような観賞主体で はなく、あくまで神域を崇敬する目的だとすれ ば、神島の数を意味付けることしか有り得ない のである。 |
|
鞍馬寺奥の院磐座 |
京都市左京区 |
鞍馬寺は京都の北20キロ、北山連峰に位置 する海抜約600mの地に在る。 創建は宝亀元年(770)という、毘沙門天を祭 るまことに古い寺院である。 或る年の暮れに鞍馬寺から奥の院へと登り、 杉根の露呈した道を貴船神社へと歩いた経験が ある。 奥の院の拝殿と社殿の周囲には、写真のよう な磐座が構成されている。やや小ぶりとはいえ 大小さまざまな石が多く、周囲はやや円形に近 い形に小石が組まれ、磐境が意図されている。 仏教寺院に磐座・磐境は珍しい。だが、この 奥の院の社殿・拝殿は神社形式であり磐座の上 に建てられた後世の建築である。麓の貴船神社 の領域だったと考えられる。 貴船は水神信仰が中心であり、ここ奥の院は 水源信仰の中心として、磐座や磐境が造営され たものと思われる。 まことに、天狗でも出そうな、鬱蒼たる神域 である。 |
|
保久良神社磐座 |
兵庫県神戸市東灘区 |
神戸の東端、芦屋に近い山の斜面にこの古い 神社が建っている。 「ほくら」とは妙な名だが、ホは火・穂・浦 などを、またクラは座・蔵などを指す事から、 この宮の性格がおぼろげながら見える様な気も する。 拝殿奥の玉垣内に建つ本殿の周囲に、威風堂 々たる巨石を組んだ磐座が在るのが知れたが、 垣内に入る事は禁じられていた。 写真は、社務所の背後に広がる、膨大な磐座 石のほんの一部である。各石は組まれずに個々 に連続して、西部から北部・東部へと置かれて おり、これはまさに磐境を意図したものと思わ れる。 無造作に置かれたかのように見える石の列な のだが、そこからは自然を崇拝する上古の人々 の、大らかで品性を持った柔和な美意識が伝わ って来るような気がしてならない。石そのもの を神聖化し、その中に永遠性や絶対性を見てい たのだ。 こうして上古の人々が抱いていた石に対する 美意識は、後の石造美術や庭園石組へと受け継 がれていく事になる。 |
|
阿智神社磐座 |
岡山県倉敷市 |
倉敷の鶴形山に在り、前述の阿自岐神社と同 じ朝鮮渡来の阿知岐族が、阿知明神として祀っ たことに由来する上古の社である。 社殿の周囲に磐座・磐境・鶴亀石組・陰陽磐 座と見られるおびただしい数の石組を見る事が 出来る、まことに謎に満ちた場所だ。 写真は、鶴形山の名前の発端ともなった 鶴 石組とも称される磐座である。 枯山水的な感覚が感じられるほど均整の取れ た石の並び方であり、個々の石が持つ神性が感 じられるほど厳選された石ばかりなのだ。磐座 の感覚が、後世の石組に大きな影響を及ぼした という発想は、ここを見れば容易に想像できる だろう。 但し、斎館前の陰陽石組や末社玉垣内の枯滝 風石組などには、どう見ても後世の石組に対す る美意識がちらついて見える様な気がしてなら ない。 神秘的で豪壮な磐座以外は、後世の石組とし ての手が入っているのではないだろうか。 |
|
吉備津彦神社神池 |
岡山県岡山市 |
吉備氏の祖神である大吉備津彦命を祭神とす るが、付近の吉備津神社との関係は不明だ。 神社の創建は崇神天皇の時代とされているの で、おそらく神池・神島もこの頃に造られたの だろうと思う。 社殿は江戸期の再建であり、神池・神島にも かなりの手が入っているので、現状の姿からは 創建時を想像するのは容易ではない。 実際写真の神島にも護岸石組が施されている が、これは江戸時代頃のものであることは歴然 としている。 注目しなければならないのは、神池の平面図 をイメージした時、大小三つの神島が直線的に 配置されていたであろう、ということだった。 一列に神島が並んだ壮麗な神池や、荘厳な社 殿の数々などが、祭神を祀った神々しい中山の 頂へと続く景観は、想像しただけでも見事だっ ただろうと思う。 |
|
総社宮神池 |
岡山県総社市 |
かつては沼田と呼ばれる海浜に近い沼沢地だ った場所で、沼田社または野俣社という名の古 社であった。 ここが吉備の総社たる斎祀として、後に奉斎 されたものといわれている。したがって、神池 ・神島は、総社以前の沼田社期のものと考えら れる。 拝殿・本殿へ向かう参道の左(社殿の東南) に、三つの神島を持つ美しい神池が広がってい る。この神池の特徴である三島が「品」の字の ように、三角に配置されていることで、他の神 池と比較して誠に興味深い。 しかし、ここだけではないが、上古の神池が そのままの姿で在るわけは無く、多くの改修や 変形が成されてきたことだろう。 だとすれば、創建時のものとして感じ取れる のは、崇敬の対象としての神池の雰囲気だけな のかもしれない。 |
|
楯築神社磐座 |
岡山県総社市 |
小高い岡の上に祭られている神社の背後に造 られた、古代の磐座である。ヨーロッパのメン ヒルのようでもあり、ストーン・サークルのよ うに環状に並んでいるようにも見える。 何らかの祭祀の場であったと考えられ、巨石 を立てることによって神性に接近出来ると考え たのかもしれない。 立石が示す美しさに気付いた先人が、この要 素を庭園の石組に取り入れたのだろうか。 現に、この付近で生まれ育ち、この磐座をい つも見ていた近代造園界の鬼才重森三玲作品に は、この磐座立石のエッセンスがたっぷりと含 まれている。 |
|
三加茂八幡宮磐境 |
徳島県東みよし町三加茂 |
レンタカーを駆使し、阿波に分布する庭園と 板碑を見学しながら、四国八十八ケ所巡礼を2 回に分けて完遂した。 90年と94年の正月休みであった。阿波巡 礼は90年で、わざわざルートから外れてこの 神社を見に行ったものである。 延喜式内社だった旧田寸神社鎮座の地で、そ こに設けられた上古の磐境が目的だった。 阿波吉野川特産の青石が使われた玉垣式の磐 境だった。 背後に一般的な石造の玉垣が見られるが、こ れは奉納者の名前や金額などを刻んだ、信仰に 名誉欲の絡んだ江戸末期以降の下賎な代物であ る。 境内敷地の北側境界を中心に並べられた青石 の列石は荘厳で、従来の玉垣とは比較にもなら ぬほど神秘的であり美しかった。 列石で磐境という結界を形成し、神域を浄化 するというこの形式は、全国でも他に類例の無 いもので、板石状の吉野川産緑泥片岩(青石)と いう材料が身近に有ったからこそだろう。 |
このページTOPへ |
次のページ(重森三玲)へ |
日本庭園TOPへ |
総合TOPへ |
掲示板へ |