板碑紀行 |
東日本の板碑(武蔵以外) |
柱田板碑群 福島県須賀川市柱田 旧岩瀬村だった1992年の写真である。 現在はどうなっているだろうか。 |
板碑といえば一般的には武蔵の青石塔婆が先 ず挙げられるが、同じ青石の阿波板碑や他の石 を用いた魅力的な板碑が全国に点在している。 ここでは中部以東の東日本各地に点在する板 碑の傑作を探訪したい。特に東北、阿武隈など に見られる素朴な板碑には、心癒される魅力が 秘められている。板碑を巡る旅に、皆様もどう ぞお出かけください。 |
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中別所板碑群 |
(青森県弘前市中別所) |
満開の桜を見物するために訪れた弘前で、鎌 倉期の自然石塔婆が近くに在ると聞き訪ねてみ た。そこはリンゴを栽培する果樹園の真っ只中 で、若葉の向こうに雪の岩木山を望めるという 絶好の眺望が開けていた。 木の柵に囲まれて、大小三十基余りの石塔婆 が保存されている。 そのほとんどが鎌倉中期から後期のもので、 最古は弘安十年(1287)との事だが大部分は摩滅 して読めず、また資料不足のためどれかは確認 出来なかった。 写真は並んだ塔婆群の最奥で、種子は金剛界 大日如来を象徴する「バン」が多く、中には右 側の阿弥陀三尊の種子である「キリーク・サ・ サク」も見られた。 自然石ならではの豪放な塔婆であり、板碑か どうかを論ずる前にすっかり感激していた。 大半はこの地方の豪族の建立であり、辺境に 於ける中世の信仰の形態が推測できてまことに 興味深い。 |
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雄島板碑 |
(宮城県松島町雄島) |
日本三景の一つである“松島”の名のルーツと 言われる雄島は、松島湾に浮ぶ島のひとつで本土 とは朱塗りの渡月橋で結ばれている。 無数の岩窟が掘られ、磨崖碑や五輪塔などが納 められている。古くからの修行僧の聖地であり、 浄土極楽往生を祈念する霊場であった。 島内には多くの自然石塔婆や板碑、歌碑や句碑 等が林立している情念の島、と言う事が出来る。 石段を登って直ぐ左手に、2m以上はある自然 石塔婆(板碑)が立っている。 写真の塔婆は右側のもので、曼荼羅塔婆と呼ば れている。碑面が摩滅しており、その上白苔に覆 われているために彫刻はほとんど判読出来ない。 碑面上部中央に梵字「バン」が見えるが、これ は金剛界大日如来の種子である。大日種子を中心 にして、四方に金剛界四仏の種子を彫って曼荼羅 を形成しているのである。 輪郭の円は蓮座に載る月輪であり、中央の大日 を中心にして、上がキリーク(弥陀)、右がアク (不空成就)下がウーン(阿しゅく)左がタラー ク(宝生)である。写真ではほとんど見る事が出 来ないのだが、自然石塔婆の興趣は伝わってくる ように思える。 右隣のもう一基は、雷紋で周囲を装飾した中に 胎蔵界大日如来の種子が彫ってある。雷紋は同島 に保存されている頼賢の碑(重文)の意匠に影響 されたものだそうだ。 |
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東正寺磨崖板碑 |
(山形県南陽市赤湯) |
南陽市の赤湯温泉街から、山形へ向かう旧街 道を少し行くと、左手に小高い岩山が見えてく る。道側に面した岩壁の上下二段に、十数基の 陽刻された板碑が並んでいるのが下からも見え た。 写真は最も重要な上段の五基で、梵字種子は 左から順に「アク・キリーク・サク・キリーク ・サ」である。 最初の二基は不空成就如来と阿弥陀如来を表 しており、下部に永仁二年(1294)の銘が彫られ ている。逆修とか為往生浄土といった文字が見 え、造立の意図が知れる。 右の三基は併せて阿弥陀三尊となっている。 同じく永仁二年の銘が見え、為悲母幽儀とか為 逆修善根などと彫られていて、死者の供養と自 分の逆修を意図していたことが良く判る。 磨崖板碑とはいえ、鋭い山形や剛毅な額や梵 字など、単体の板碑と変わらない荘厳な美しさ を示している。 |
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漆山大仏板碑 |
(山形県南陽市漆山) |
南陽市の各地には、比較的大型の板碑が数多 く残り幅広く分布している。 “大仏”というのは地名で「おおぼとけ」と 読む南陽市の西部漆山地区にある字名である。 付近に大きなお寺か大仏でもあるのかと思っ ていたら、何と板碑は雑木林の中に孤高な姿で ポツンと立っていた。 先ずは4m以上あると思われる、その高さに 圧倒された。大きければなんでも良いというわ けではないが、石が高く屹立することから生じ る緊迫感は格別である。さらに美しさを有して いれば、なお素晴らしい。 九州の板碑の様式に似て、頭部に二条線を彫 り、額が大きく弧状に張り出している。これは 南陽市の他の板碑群にも共通した特徴である。 種子はキリーク(阿弥陀)で、蓮座に乗った 形でやや浅いが薬研彫りで表されている。 全体の剛毅なプロポーションに比して、梵字 が華奢な観は間逃れ得ないような気はする。そ れは文和三年(1354)という銘が示す様に、南北 朝前期という時代性を物語っているのだろう。 鎌倉期の豪壮な筆致、豪快な薬研彫りと比べ てしまえば見劣りはするが、鄙にも稀といった 風情を感じさせるには十分である。 |
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竹原三間地板碑 |
(山形県南陽市竹原) |
先述の大仏板碑から国道113号線を西へ4 キロ程行くと、JRの梨郷(りんごう)駅に出 る。駅から北へ500mほど行った山裾のお堂 の脇に、三基の板碑が並んで建っていた。 多くの資料には「梨郷如来堂板碑」と記され ているのだが、現地には「竹原三間地板碑群」 と表記されていたのでこちらを採用した次第で ある。 三基の内の左端に建っているのが写真の板碑 で、種子はア(胎蔵界大日)、蓮座に乗った大 らかな筆致である。 写真では良く見えないが、蓮座の上、梵字を 囲む五重の線で円形の月輪が彫られているのが 珍しい。 蓮座の下中央に、正元元年(1259)という鎌倉 中期の魅力的な年号が刻まれている。山形県下 の在銘板碑としては、間違いなく最古のものだ ろう。 種子の筆致が大胆で、薬研彫りの角度が緩い のは鎌倉中期以前の特徴であるが、ここでもそ の時代性が明らかである。おそらく関東で修行 したような、きちっとした石工が当地方に存在 していたのだろう。 中央に建つ板碑は似た形式なのだが、惜しい ことに江戸期に己待供養塔と追刻されてしまっ ている。 右端の板碑は摩滅しており、種子も消えてし まっていた。 |
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大友氏邸板碑 |
(山形県南陽市竹原) |
前述の竹原三間地板碑群から山裾伝いに西へ 行くと、同じ竹原の里の外れあたりに大友氏の お宅がある。裏山への立ち入りをお許しいただ き、少し登った所にこの堂々とした板碑が立っ ていた。 頭部の山形、二条線の切り込み、額部両端の 面取りなど、様式は前述の二基ととても似てい る。 この板碑の種子はバンで、金剛界大日如来を 象徴している。梵字の筆致は剛健で、薬研彫り の深く鋭いことが鎌倉中期以降の最盛期を物語 っているように感じられた。 摩滅した碑面からは明確に読み取ることは出 来なかったが、資料によれば嘉暦二年(1327)と いう年号が彫られているらしい。 青石(緑泥片岩)に彫られた梵字の美しさに 魅了されて始まった板碑行脚なのだが、こうし た素朴な中に深い信仰心と時代の美意識が詰め 込まれたような地方の板碑の魅力にも、またな かなか捨て難いものが感じられて嬉しい。 この板碑まで登って行く山道の途中、ちょっ と崖を下ったあたりにもう一基の板碑が立って いた。小振りだが同じ形式であり、種子も同じ バンだった。嘉暦板碑を模して造立された、後 世の模碑だろう。 |
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陽泉寺板碑 |
(福島市鳥渡) |
後述の通り、福島県の阿武隈川流域には、阿 弥陀三尊来迎図を描いた板碑や石仏が数多く分 布している。 この陽泉寺のものは中でも最高傑作とされ、 石仏として扱う向きもあるが、表面を加工され た余り厚さの無い自然石に図像が薄肉彫りされ ているので、ここでは後述の阿弥陀三尊図像供 養塔と同様、板碑として掲載した。 境内の小さなお堂に祭られているのだが、格 子が邪魔をして写真を撮るのは至難である。僅 かな隙間から、罰当たりな盗撮もどきの撮影を しなければならなかった。 極楽浄土から観音・勢至の両菩薩を脇侍に従 え、雲に乗って来迎する阿弥陀如来を描いてい る。頭光が放射状に輝き来迎印を結ぶ弥陀、蓮 台を前に差し出す観音、合掌する勢至、全てが 左上から右下へと流れるような動きとして描か れている。 磨耗も激しいが、荘厳な場面を描写した美し い図像である。正嘉二年(1258)という鎌倉中期 の作であり、石造美術の最も充実した時代の貴 重な遺産のひとつである。 |
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甚日寺板碑 |
(福島県郡山市田村町) |
郡山市の南、阿武隈川東岸の須賀川市との境 界に近い所に在る真言宗の寺院である。 境内には二基の重要な板碑(自然石塔婆)が 保存されているが、写真は曼荼羅石塔婆と呼ば れる板碑である。かつて阿武隈川近くにあった 護摩堂跡地に建っていたもので、土地開発に伴 って当寺へ移されたものだという。 丸味を帯びた自然石の表面を削り、太い溝の 輪郭を巻き、上部に蓮華座に載る二重の月輪を 意匠している。 中心の主尊は阿弥陀如来の種子梵字「キリー ク」で、なかなかの達筆である。 二重の月輪の間に七つの小さな月輪が配され ており、それぞれの中に梵字が刻まれている。 左から「オン・ア・ロ・リ・キャ・ソワ・カ」 で、聖観音菩薩の真言である。 構成は曼荼羅ではないが、弥陀種子の周囲に 配された聖観音真言の小月輪が、あたかも曼荼 羅のように並べられていることから、曼荼羅石 塔婆と呼ばれるようになったようだ。 蓮座の下に、経文からの偈を含む銘文が彫ら れており、嘉暦二年 (1327) 鎌倉後期の年号が 主尊の左に大きく彫られている。 もう一基は月輪内に弥陀種子(キリーク)を 彫った、徳治二年 (1307) 鎌倉後期の自然石塔 婆である。 |
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如宝寺板碑 |
(福島県郡山市堂前) |
JR郡山駅の西500m程の所に在る大きな お寺で、大同年間(9世紀平安初期)に創建さ れた古刹である。 私たちが訪ねた日は潅仏会の期間中で、釈迦 の誕生仏や花々が飾られていた。 境内左手に立派な覆屋があり、そこに当寺が 保存する石造文化財の数々が展示されていた。 最も貴重なのが、国の重要文化財に指定され た二基の石塔である。一基は鎌倉前期の笠塔婆 であり、もう一基が写真の板碑である。 碑面が相当摩滅しているために線彫りの図像 や文字がほとんど見えず、おまけに前面がガラ ス張りの為写真ではぼんやりとしか見えない。 上部に阿弥陀曼荼羅が意匠されている。従来 の阿弥陀曼荼羅は、九品を表わす九つの弥陀種 子を中央に一つ置き、周囲に八つの弥陀種子を 散りばめるのが通常なのだが、ここでは、阿弥 陀如来の真言「オン・ア・ミリ・タ・テイ・セ イ・カ・ラ・ウン」の九文字(梵字)を、中央 に「オン」を置き、真下の「ア」から周囲を時 計回りに八文字で囲む様な意匠となっている。 月輪の外側には二重の方形輪郭が巻かれ、二 本の線の間の四隅と中央の八箇所に八つの種子 が彫られている。種子の内容は小生には判らな いが、阿弥陀曼荼羅を荘厳する内容のものだろ う。 下方に願文と、建治二年 (1276) という鎌倉 中期の年号が彫られている。 |
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安積国造神社板碑 |
(福島県郡山市清水台) |
「あさかくにつこ」神社と読む。 古来より郡山総鎮守として崇拝されてきた古 社で、創建は何と上古時代2世紀の成務天皇期 というのだから驚いた。坂上田村麻呂や八幡太 郎義家も東征の際に立ち寄ったというほどの由 緒は、並大抵のものではないだろう。 写真の板碑が社務所の中庭に建っているが、 市内の別の場所で出土したものだそうだ。 凝灰岩製で、高さは90cmほどである。 頭部山形の四方が、面取りしたように削られ ているのが珍しい。 碑面の上部に、阿弥陀三尊の種子が彫られて いる。上が「キリーク(阿弥陀如来)」で右が 「サー(観音菩薩)」。そして左が「サク(勢 至菩薩)」であり、梵字の筆致は洗練されては いないが、地方色豊かなもので武家の無骨な書 体とは趣を異にしている。 摩滅のため写真では判読は困難だが、案の定 銘文には「比丘尼性阿、孝子敬白」とあって、 亡くなった母のためにその子が建立したものと 考えられる。 中央に嘉元三年 (1305) という年号も彫られ ており、鎌倉後期の板碑であることが知れる。 この地方には、図像を中心として、阿弥陀三 尊を主尊とする板碑が数多く分布しており、浄 土信仰がいかに深く広まっていたかが判るので ある。 |
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阿邪訶根神社板碑 |
(福島県郡山市大町) |
「あさかね」神社と読む。 郡山には古い社が多いが、この神社は康平年 間というから11世紀半ば、平安後期の創建と いう金箔付きの古社である。 碑全体の姿は、頭部山形の下に段落を設けた 板碑形なのだが、残念なことに碑面の彫刻が摩 滅しているためにほとんど見えない。 全体に大きな三重円が彫られており、中心の 月輪内には梵字が見える。釈迦の種子「バク」 で、外周円内の上下左右とその間の八箇所に、 小月輪とその中に梵字が各々配されている。但 し、剥落や摩滅が甚だしいので、全く判読は不 能である。 「曼荼羅板碑」と呼ばれるのは、こうした意 匠からなのだろう。 銘文や人名が彫られているようなのだが、こ れも判読は不可能である。 碑面の左上に治暦三年 (1067) という、創建 の康平の次の年号が刻まれているのだが、平安 期にこの姿の板碑が在ったとは考え難く、識者 の間では後世の追刻と考えられている。 素朴さの残るこの板碑様式からは、鎌倉中期 頃に造立されたものと考えるのが適当だろう。 |
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八斗蒔板碑群 |
(福島県須賀川市柱田) |
阿武隈川流域には、阿弥陀三尊の来迎板碑が 数多く分布している。北は福島市から、南は白 河市までの狭い範囲であるが、鎌倉から南北朝 を中心とした時代に造立されたものが大半であ る。 写真の板碑は、旧岩瀬村の柱田という場所に 在る。ここには、かつて近辺に散在していた石 田・横耕地のもの各一基と写真の八斗蒔のもの 二基、計四基の板碑が集められている。いずれ も阿弥陀三尊来迎図像が浮き彫りされており、 四基の並ぶ様は周囲の景観も併せ壮観だった。 雲に乗り、西方浄土の極楽から迎えに来る阿 弥陀様への信仰は、闇黒の中世ならずとも、充 分今日でも通用しそうだ。阿弥陀如来の両脇で 腰をかがめ、迎えの意志を切に表現する、観音 菩薩と勢至菩薩の図像もまことに美しい。 彫刻の技術としてはさしたる逸品とも思えな いが、浄土への想いが創出した像容が放つ情念 が、野仏の如き末路の哀れさと重なって、まこ とに美しい叙情的風景となっている。板碑とい うよりも野仏と考えたほうがふさわしいのかも しれない。 |
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宝来寺板碑 |
(福島県須賀川市上人壇) |
須賀川駅は市の中心からは少し離れており、 その北側に森宿という地域が広がっている。こ の寺はその中の下宿という集落に在る、住職不 在の小さな寺である。 本堂の前に三基の図像板碑が並んで建ってい た。いずれも阿弥陀三尊来迎図像板碑で、三基 並んだ姿は大変荘厳に見えた。 写真は左端のもので、高さは1m弱、凸型に くり抜かれた中に、三尊像が浮き彫りにされて いる。 ここでは阿弥陀如来は飛雲に乗った豪華な蓮 座の上に、正面を向きながら来迎印を結んで直 立している。とても威厳に満ちたお姿である。 左の勢至菩薩は中央を向き、少しだけ腰を曲 げ、両手を合わせて合掌している。頭部が損傷 しているのが残念である。 右は観音菩薩で、更に深く腰を曲げながら、 蓮華を捧げ持って来迎の意図を伝えている。 難解な梵字や経文が示す教義に比べ、図像が 表現する説得力は、庶民にとっては最も端的に 理解しやすい具象だったのだろう。図像による 表現という意味では、西洋のイコンや柱頭彫刻 に似ているのかもしれない。 |
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芦田塚板碑 |
(福島県須賀川市浜尾) |
須賀川市外の東側を流れる阿武隈川に沿って 浜尾という地域が広がり、その鹿島という場所 の保育園敷地内に、この珍しい双式来迎板碑が 保存されている。 一つの石を二つの凸型にくり抜き、二組の阿 弥陀三尊来迎の図像が彫られているのである。 梵字による双式は知られるが、図像によるもの はこの阿武隈川流域に数基見られるだけかもし れない。 右の三尊図像はやや摩滅しているが、正面に 阿弥陀如来立像、左右に脇侍の観音・勢至両菩 薩が向かい合っているという、前述の図像とも 似た様式である。 問題は左側の図像で、三尊とも右下方を向い ており、今にも左上方から飛雲に乗って降りて くるといった動きの感じられる場面である。 さらに、勢至菩薩が先端に何かが付いた長い 竹ざおの様なものを捧げているが、これは来迎 する死者を荘厳するための宝蓋だろうと思う。 図像板碑では大変珍しい表現である。 |
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万福寺板碑 |
(栃木県野木町) |
種子キリーク(弥陀) 正元元年 (1259) 鎌倉中期 |
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珊瑚寺板碑 |
(群馬県前橋市石井) |
右:キリーク(弥陀)サク(勢至)サ(観音) 建武二年 (1335) 南北朝初期 左:キリーク サク サ 建武元年 (1334) 南北朝初期 光明真言花瓶一対 |
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妙典寺板碑 |
(群馬県高崎市小八木町) |
阿弥陀三尊種子: キリーク(弥陀)サク(勢至)サ(観音) 康元二年 (1257) 鎌倉中期 |
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山の上板碑 |
(群馬県高崎市山名) |
阿弥陀来迎図像 建治四年 (1278) 鎌倉中期 三茎蓮 一対花瓶 <鍵穴から撮影> |
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医光寺板碑 |
(群馬県藤岡市牛田) |
阿弥陀三尊種子 キリーク(弥陀)サク(勢至)サ(観音) 延慶三年 (1310) 鎌倉後期 |
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桜山板碑 |
(群馬県藤岡市三波川) |
種子:ア(胎蔵界大日)蓮座 文和三年 (1354) 南北朝前期 |
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譲原板碑 |
(群馬県藤岡市譲原) |
阿弥陀三尊種子 キリーク(弥陀))サク(勢至)サ(観音) 文和六年(1474) 室町中期 |
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明王院板碑 |
(群馬県太田市安養寺) |
種子:キリーク(弥陀) 康永元年((1342) 南北朝初期 |
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柏木板碑 |
(群馬県神流町柏木) |
群馬県と埼玉県との県境を流れる神流(かん な) 川の上流に位置する万場町は、近年さらに 上流の中里村と合併して神流町となった。合併 すると、唐突であったり無意味であったりする 名前が多いのだが、この神流(かんな)という のはとても魅力的な良い名前だ。 旧万場町の柏木という集落の、辻のお堂の中 に古い板碑が数基祀られていた。 一基は阿弥陀三尊板碑だが、表現が華奢なの でやや時代は下がるかもしれない。 注目したのは、写真の阿弥陀三尊来迎図像板 碑である。 乾元二年(1303)という、れっきとした鎌倉後 期の紀年銘が確認できる。 雲に乗った三尊の立像で、阿弥陀の後光や蓮 台や雲の陰刻が見事である。ライティングが無 いので、その美しさを写真で表現するのは難し いが、その荘厳な雰囲気は想像出来るはずであ る。 同じような形式の図像板碑が埼玉県の児玉に も見られるが、この辺りは群馬県とはいえ、武 蔵板碑の分布圏であり、大きな影響を受けたも のと考えられる。 |
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真蔵院板碑 |
(千葉市美浜区) |
種子:キリーク(弥陀)荘厳体 三弁宝珠(イの三点) 永仁二年 (1294) 鎌倉後期 光明真言 |
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八幡神社板碑 |
(千葉県成田市小野) |
右:釈迦三尊 バク(釈迦)アン(普賢)マン(文殊) 左:阿弥陀三尊 キリーク(弥陀)サク(勢至)サ(観音) 延徳四年 (1392) 室町中期 |
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宝聚院板碑 |
(千葉県香取市大戸) |
宝篋印塔図像 塔身:種子キリーク(弥陀)瓔珞 基礎(格狭間) 銘文不詳 |
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浄土寺板碑 |
(千葉県香取市大戸) |
中央種子:キリーク並座(下総型双式) 至徳三年 (1386) 南北朝後期 上段種子:アーク(胎蔵界大日) バーンク(金剛界大日) アーンク(胎蔵界大日) 周囲種子:十三仏種子 |
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禅昌寺板碑 |
(千葉県香取市大戸) |
種子アーンク(胎蔵界大日) キリーク(弥陀)バク(釈迦)と三尊形式 光明真言 下総屈指の大型板碑(2.2m) 銘文不詳 (南北朝か?) |
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地福寺板碑 |
(千葉県香取市大戸) |
種子アーンク(胎蔵界大日) 天蓋瓔珞 月輪連座 銘文不詳 |
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不動院跡板碑 |
(千葉県香取市大戸) |
種子バク(釈迦) 永和五年(1379)南北朝後期 天蓋瓔珞 十仏種子 |
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延命寺板碑 |
(千葉県南房総市本織) |
阿弥陀三尊 キリーク(弥陀)サク(勢至)サ(観音) 正安三年 (1301) 鎌倉後期 武蔵型板碑の南限 |
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上矢部板碑 |
(神奈川県相模原市) |
阿弥陀如来立像 (図像) 線彫 蓮座 光背 一対花瓶 乾元二年 (1303) 鎌倉後期 |
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惣吉稲荷板碑 |
(神奈川県相模原市) |
阿弥陀三尊来迎図 二基 線彫 弥陀 勢至 観音 延文四年 (1359) 南北朝中期 |
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五所神社板碑 |
(神奈川県鎌倉市材木座) |
鎌倉材木座地区の東端、逗子との境目にある 丘陵の山裾に建つ小さな神社である。 創建は明治四十一年だが、従来この地に在っ た数社を合祀したものという。当然ながら、こ の鎌倉時代の板碑は、いずれかの社の境内から 移築されたものと思われる。 現在は写真の様に、厨子のような小堂に保管 されており、拝観のために扉の鍵を開けて頂い た。 二重の輪郭線に囲まれた中に、上部の天蓋と 下部の蓮座に荘厳された種子が、見事に薬研彫 りされている。 蓮座の中央から上に不動明王の剣が立ってお りそこに巻き付く倶利伽羅龍を、不動明王の種 子梵字「カン」で表現した珍しい様式の板碑で ある。梵字「カン」の下部が、力強い曲線であ ることを巧みに利用し意匠としたものである。 ある本やサイトに、この種子を金剛界大日如 来の「バン」とする説が載っていたが、倶利伽 羅龍王と不動明王の剣の関係のほうが自然であ り、より説得力があると思う。 輪郭線の下に偈文が彫られているのだが、摩 滅していてほとんど確認は出来なかった。かつ て採取された拓本によれば、どうやら卒塔婆の 功徳を礼賛した珍しい偈文のようであり、鎌倉 中期弘長二年 (1262) の年号を持つ貴重な遺構 でもある。 |
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居神神社板碑 |
(神奈川県小田原市) |
右:種子バン(金剛界大日) 文保元年 (1317) 鎌倉後期 左:種子キリーク(弥陀) 元享二年 (1322) 鎌倉後期 中央の小板碑 (五輪塔図像線彫) |
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西方寺板碑 |
(山梨県富士吉田市) |
種子キリーク(弥陀) 弘長元年 (1261) 鎌倉中期 蓮座 二条線 |
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塩沢寺板碑 |
(山梨県甲府市湯村) |
名湯として知られる甲府の湯村温泉に在る 寺院で、弘法大師が9世紀初頭に開山したと 伝えられる古刹である。 屋根が美しい地蔵堂(重文)の本尊は、厄 除け地蔵として広く信仰されている。 この豪快な板碑は、本堂の右手奥の墓地手 前の藪の中に建っている。周辺は明るいのだ がここだけが薄暗く、陰影が全く無いために 写真を撮影するのは甚だ難しかった。 石材は安山岩であり、裏面は自然石のまま なので、武蔵板碑とは趣を異にしている。頭 部の山形や二条線の処理が素朴であり、武蔵 に隣接していながら、この地ならではの味わ いが感じられる板碑である。 上部に大きく阿弥陀の種子「キリーク」を 薬研彫りしている。梵字の筆致や彫りはやや 柔弱で、鎌倉期のほとばしるような迫力は感 じられない。 種子の下に銘文が刻まれており、南北朝前 期の貞和六年 (1350) という年号が確認出来 る。銘文の内容は、三回忌に当り仏果円満の 為に造立するという趣旨が刻まれたものであ る。 高さが2m強ある山梨県下では最古の板碑 で、武蔵様式と自然石板碑の両方の特徴を備 えた愛すべき遺構なのである。 |
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中段板碑 |
(石川県輪島市中段町) |
輪島市の南西、鳳至川の上流に中段町が在 り、そこに白山神社が鎮座している。境内の 石造五重塔を拝しに訪ねたが、能登地震の直 後だったため塔の上部が崩落してしまってい た。その後修復されたとのことなので、早急 の再訪を期している。 神社から少し下った林の中に小さな覆屋が 在って、その堂内に写真の板碑が祀られてい る。この地方では珍しい関東式の青石(緑泥 片岩)を用いた典型的な阿弥陀三尊形式の板 碑であり、中央に正応五年 (1292) 鎌倉後期 の初めという魅力的な年号が確認出来たそう である。 全体に摩滅が激しい為に、二条線や梵字な ど本来は鋭い切れ味の薬研彫りであった筈の 彫刻が、その持ち味をかなり失ってしまって いる。 しかし、刻まれた阿弥陀三尊の種子は見事 で、それぞれが蓮座に載った形で表現されて いる。 梵字は上段が「キリーク(阿弥陀如来)」 下段は両脇侍で右が「サ(観音菩薩)」左が 「サク(勢至菩薩)」である。 青石は武蔵の荒川上流に産出する石材であ り、能登には全く見られないこと、そしてこ の地が鎌倉御家人の長谷部氏が地頭として赴 任した地でもある事から、武蔵で制作された 板碑が長谷部氏に関連する人達によって運び 込まれた可能性が高いものと思われる。 |
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