板碑紀行 |
武蔵の板碑 |
瑞光寺跡にて 埼玉県小川町下里 正中三年の大日板碑と 文保二年の阿弥陀三尊板碑が有る。 |
板碑は、いつ死ぬか分からぬ戦国の世に生きた 鎌倉時代の豪族や御家人達が、生前に極楽往生を 念じて建立した供養塔とされ、美しい梵字で如来 や菩薩を象徴している。 図像を刻んだものもあり、当時の信仰の深さが いかに大きかったかを物語っている。 緑泥片岩という青石を産する武蔵と阿波が中心 だったが、安山岩などを彫った素朴な板碑にも捨 て難い魅力が有る。 |
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慈光寺板碑 |
(埼玉県ときがわ町) |
坂東九番札所の慈光寺へと登る参道の右側に、 青石塔婆とも呼ばれる板碑が七基堂々と立ってい る。その全てが、武蔵の板碑を代表する名品であ る。 鎌倉の御家人であった、武蔵の豪族達の間に信 仰された阿弥陀浄土への願望から、逆修という生 前供養として建立されたものだ。秩父荒川産の緑 泥片岩という青石に、梵字で表された種子という 本尊が刻まれているものが多い。 写真の板碑は、いずれも蓮座に載った「キリー ク」という梵字で、阿弥陀如来を象徴している。 その下に文字が彫られており、右の板碑が元亨四 年(1324) 左が貞治四年(1365)造立で、他からも 鎌倉末期から南北朝にかけての年号が読める。 「キリーク」は絵画的とも思える梵字であり、 薬研彫りと呼ばれるV形に溝を切る手法により、 一層鋭く引締まった美しさが強調されている。青 石の扁平な薄さと彫りの深さとの対比が、繊細さ と剛直さの同居した緊迫感を演出している。 石を立てたことから生じてくる力学的な迫力が 板碑の美しさを支えているのだが、全て塔という ものは立っている事そのものが美しいのである。 |
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霊山院板碑 |
(埼玉県ときがわ町) |
慈光寺や当霊山院の在る旧都幾川村は、現在旧 玉川村と合併して“ときがわ”町となった。 平仮名の薄っぺらさが気になって、旧村名が無 性に懐かしく感じられる。 この寺へは慈光寺から、車の通れる山道伝いに 行くことが出来た。緑濃い山寺、といった風情が 感じられた。 写真の板碑は山門を入った、参道の右側に建っ ている。美しい青石の堂々たる板碑で、高さは約 2mある。 主尊の種子は筆記体になっているので判り難い が、阿シュク如来を表す「ウーン」である。ウー ンはまた五大明王の内の、降三世明王を表しても いるのだが、ここのものは大変珍しい書体となっ ている。 空点を加えた、上部の仰月点もユニークな表現 となっている。阿シュクの憤怒像の背後に、燃え 上がるような炎の光背を見る思いである。 蓮華座の下に、永仁四年(1296)の銘と、造立の 趣旨、梵字の随求真言などが彫られている。 深い薬研彫りの豪放な種子と、繊細な輪郭線と の対比がまことに美しい。立っている事そのもの にも魅力の感じられる、素晴らしい板碑だった。 |
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願成寺板碑 |
(埼玉県飯能市) |
名栗川を望む高台の墓地の一角に、大小七基 の板碑が屋根の下に集められている。塔婆は本 来有るべき場所に立っていてほしいが、保存な どのためで致し方は無い。屋根は有るが柵等は 無く、鑑賞や撮影には支障が無いのが嬉しい。 これはむしろ幸運で、珍しいケースである。 撮影した二基の板碑は時代はやや違うが、種 子はいずれも「キリーク」である。 右は建長五年(1253)の鎌倉中期のもので、板 碑としてはかなり初期の造立である。重量感に 溢れた青石の厚みと大らかな筆致の梵字には、 技術以前の力強い剛毅な精神が感じられる。 左の板碑は南北朝末期の永徳二年(1382)で、 様式も確立した最も完成度の高い時代のもので ある。技術的には絶頂期のものだがやや形式的 になっており、右の建長板碑と比べると少々技 巧的で綺麗過ぎ、図太い個性に欠けるかもしれ ない。 塔には本来四方が有り、宝篋印塔や五輪塔の 東西南北各面には四方仏の種子または仏像が彫 られた。その意味で、板碑は表のみの一面の塔 である、という見方も出来る。 |
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長念寺板碑 |
(埼玉県飯能市) |
飯能から正丸峠を抜けて秩父へ通じる国道に 面した集落に在るお寺で、背後の墓地には多く の板碑が見られる。中でも中村家墓地に立って いる写真の板碑は、釈迦三尊の種子が彫られた 珍しいものである。 種子は中央に釈迦如来を現す「バク」、右下 に文殊菩薩を表す「マン」、左下に普賢菩薩を 表す「アン」が、月輪に囲まれ蓮座に載ってい る。146cmというかなり大きな板碑で、銘 は延文三年(1358)である。 「是人行邪道不能見如来」といった文字も見 られ、善根を施し極楽往生を求めた庶民の切な い願いがこの一文に込められていて面白い。 文殊を表す梵字「マン」の右肩に三日月型の ひげのようなものが付いており、厳密には「マ ーン」と読むのだろうがこれは一体何だろう。 文殊を表したくて余分なものを付けたのか、或 いは別の三尊を表現する種子なのであろうか。 深閑とした古い墓地に在って、一際毅然とし た威風を放つ美しい板碑だった。 |
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宮岡氏墓地板碑 |
(埼玉県入間市) |
鎌倉時代の名板碑を多数収蔵している元加治 の円照寺とは、入間川を隔てた対岸にこの小さ な墓地が在る。 高さは170cm強の大型板碑で、阿弥陀三 尊の種子(キリーク・サ・サク)が大らかな筆致 で彫られている。 それもそのはずで、紀年銘は建長五年(1253) という鎌倉中期の板碑なのである。 鋭い山形、幅広の二条線と切り込み、浅く幅 広の薬研彫り梵字、などがこの時代の特徴であ る。種子の下には蓮座が無いので、何やらさっ ぱりとした印象を受ける。 建立の趣旨が横線の下に彫られているらしい のだが、線が細くかなり摩滅して読めない。 それにしても、こうした板碑が何故ここまで 私を惹きつけているのだろうか。 緑泥片岩という青石そのものの材質の美しさ や、供養塔婆としての形態、薄い板状の細長い 石が立っているという緊迫感、薬研彫りで表現 された梵字種子の美しさなどが重要な要素で、 そこに生前供養によって浄土を夢見たこの時代 の人々の思いが込められ、特異な美的表現へと 昇華されたものと考えている。 |
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吹上板碑 |
(埼玉県毛呂山町) |
地面からすっくと立った青石板碑の魅力は格 別だが、ここ毛呂山町の雑木林の中に立つ吹上 板碑を見た時には、思わず息を呑んだ。 高さが3メートルある緑泥片岩の厚さは10 センチ弱であり、際立って鋭い武蔵型板碑の美 しさはその石の薄さに有ると再認識させられた のだった。 中心の種子は梵字の「アーンク」で、胎蔵界 大日如来を意味しており、蓮華座に乗り月輪の 中に深く豪快な薬研彫りで表されている。 種子の下には、延慶三年(1310)という年号と 一緒に、この塔建立の趣旨が綿密に彫られてい る。鎌倉時代中期の力強さに溢れた雄渾な筆致 で、書としても卓越した美しい梵字である。 板碑は元来、山形の頭部、二段に切り込まれ た二条線、額部、梵字のある塔身、根部の五段 で構成されいて、五輪塔に共通した塔婆だと考 えられているという。 高さが3メートルを越えて完全な美しい姿の 板碑は、全国でも数える程しか残っておらず、 大変に貴重な遺品である。 |
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六地蔵堂板碑 |
(埼玉県越生町) |
梅林で名高い越生町の北部、鳩山町との境界 に近いところに在る大谷という集落に、この小 さなお堂がある。観梅の折に立ち寄ったが、藪 の中にぽつんと立つ板碑を発見するのにちょっ と時間がかかってしまった。 損傷や摩滅のほとんど無い完璧な状態で、や や様式化しているとは言え、まことに端正で美 しい板碑だった。 そう感じたのは、折から西日が真横から当た って、梵字がその陰影をくっきりと見せたから かもしれない。 梵字種子は、阿弥陀三尊を表す「キリーク・ サ・サク」である。 イ点と呼ばれる上から右へ下がってくる線の 先が、涅槃点と呼ばれる二つの点の間に入って いるけれども、これはそれほど珍しいものでは なく、事例はかなりあちこちで見られる。 中央に、嘉暦三年(1328)という紀年銘、そし て両側に「光明遍照....」の光明四句の偈が彫 られている。 鎌倉末期の建立であり、高さ172cmという大 型板碑で、地面にすっくと立った姿はまことに 荘重な雰囲気に満ちていた。 |
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浄光寺板碑 |
(埼玉県東松山市) |
画像板碑は珍しくは無いが、破損の無い作品 の数は稀少である。 この板碑は大正末期までは、田んぼの畦道で 石橋として使われていたと聞く。明治の廃仏毀 釈の影響で打ち捨てられていた大和三輪神宮寺 の観音像が、これを哀れと聖林寺住職が拾い祀 ったものが、時を経て天平の絶品と判明し、国 宝十一面観音像となった話は多くの示唆を含ん でいて興味深いが、この板碑も同様の宿命であ ったらしい。 頭光から放射光を放ち来迎印を結ぶ阿弥陀如 来が中央で、右が観音菩薩、左が勢至菩薩とい う、典型的な阿弥陀三尊来迎図である。三尊共 浮彫りだが、彫られた像の周囲が光背のように 見えて印象的だ。 両手で蓮華を捧げる観音と、合掌する勢至の 両菩薩像が清楚であり、三尊のバランスが実に 見事な傑作である。 建長二年(1250)という年号がこの板碑の風格 を物語り、全ての芸術において、技術や体裁よ りも造形に対する意欲と美意識の方が大きく優 先する、という持論の証左となっている。 |
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香林寺板碑 |
(埼玉県東松山市) |
このお寺は東松山市の南端、坂戸市との境を 流れる越辺川に面した宮鼻という静かな集落に 在る。 五基の大小板碑が一列に並べられ、土台はコ ンクリートで固定されていた。やや味気ないが 盗難などを考慮すれば、鑑賞者にとって最良の 保存方法と言えるだろう。 左から、建武五年(1338)の阿弥陀種子(キリ ーク)板碑、銘年不明の阿弥陀一尊図像板碑、 仁治二年(1241)の阿弥陀一尊図像板碑、嘉暦三 年(1328)の名号小板碑、そして心字座に乗る胎 蔵界大日種子(ア)の順に並んで壮観である。 最左の阿弥陀種子板碑が107cmであり、 最も小さい名号板碑が43cmである。 それぞれ捨て難い特徴があるのだが、中央仁 治二年の図像板碑が特に気に入った。光明遍照 十方世界念仏衆生摂取不捨、という光明四句の 偈が彫られた素朴な造形が、かえって信仰の強 さを表現しているようにも見えて好ましい。 もう一つの大きいほうの図像板碑は、紀年銘 等すっかり摩滅しているのだが、阿弥陀像だけ は見事に残っている。とりわけ、顔の表情、衣 のひだ、蓮弁などが美しい。 |
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須賀広板碑 |
(埼玉県熊谷市江南) |
私が板碑行脚を始めた20年前には、この板 碑は須賀広大沼公園内の中島に、屋根を架けて 保存されていた。 ただでさえ上部が欠落した、嘉禄三年(1227) という飛び切り古い阿弥陀三尊図像板碑で、こ れ以上風雨に晒されて摩耗していくであろう無 残な姿を想像すると、想いは誠に複雑だった。 かと言って、ガラスケースに入って博物館の奥 深く陳列されたのでは、折角の板碑の魅力が喪 失してしまう憂いも残る。 その後何処かへ移転されたという噂を聞いた が、実際の現在の境遇を知らないままでいる。 主尊阿弥陀如来像はほとんど欠けており、坐 像か立像かが論争の的となったが判明していな い。右の観音菩薩像と左の勢至菩薩像は、阿弥 陀来迎に従う脇侍として、たおやかな表現で彫 られている。 中央の嘉禄三年という年号を挟んで、四文字 四行、合計十六文字の偈が彫られている。「諸 教所讃多在弥陀、故以西方而為一准」と手帳に 控えてあるが、意味はうっすらとしか分からな い。他の板碑で、同じ偈を見たことがある。 関東の図像板碑を代表する名品中の名品であ ろう。 |
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野上下郷板碑 |
(埼玉県長瀞町) |
大きければ何でも良いという訳ではないけれ ど、想像を絶する大きさというものが示す迫力 には意味がある。本質とは違った意味でありな がら、価値観をより高める効果があるのだ。 その意味で、この日本一高いとされる板碑に は、初めて見た時、その5.3mというあまり の高さに圧倒されてしまった。しかし冷静に眺 めると、大らかな梵字など、面白い板碑だとす ぐ気が付く。 上部二条線は彫りが鈍く、鎌倉からはやや時 代が下がることを伺わせるが、銘には応安二年 (1369)とあるから南北朝時代である。 上部三つの円は「イ」で地蔵菩薩を表すこと もあるが、通常は「イの三点」とも呼ばれて、 主尊種子を荘厳するために添えられる面白いし るしである。 主尊は「バク」で釈迦如来を象徴し、蓮華座 に乗っている。太い梵字だが、やや彫りの切れ 味が鈍い感じで、鎌倉最盛期のものと比べると かなり大仰で大味な印象は否めない。 中央に梵字で光明真言が彫ってあるのだが、 摩耗していて判読できなかった。 |
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大梅寺二連板碑 |
(埼玉県小川町) |
連碑の事例は少ないとはいえ、同じ小川には 円城寺の二基、西光寺のものが在り、また下総 や国東でも見かけたことがある。しかし、写真 の大梅寺二連碑は他の追随を許さない。やや小 型だが、山形が完備し、しかもこれほど彫りの 美しいものは他に無いからである。 暦応四年(1341)の年号が中央に、そして両側 に梵字で光明真言が彫られている。主尊阿弥陀 の種子キリークや蓮台の彫りも見事で、全体に 華奢ではあるが均整のとれた完璧な美しさだ。 南北朝初期の造立らしく、鎌倉期の剛直さが かなり失われつつあり、替わって様式が固定化 していく室町期との間にあった、南北朝の特色 を備え始めていることが良く分かる。 同じ単体板碑を二基造立する事例も多いが、 いずれも夫婦が生前供養としての逆修を目的と しているケースが大半である。 板碑では、年号の「四」は「死」を連想させ るために忌み、写真にも写っているように「二 二」と表現するのが一般的であった。 |
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伊藤家墓地板碑 |
(埼玉県小川町) |
伊藤家のお内儀からお許しを頂戴し、裏山の 墓地を見せていただいた。昼なお暗い林の中の 古い墓地は、余り気色の良いものではないが、 そこに立てかけられていた板碑の数と質の高さ には圧倒されてしまった。 ざっと見ただけでも、大小15基が確認出来 たのである。 両脇に花瓶の彫られた永仁二年(1294)と徳治 三年(1308)のものなどが最初に目に付いたのだ が、オン・ア・ボ・キャ....という梵字の光明 真言が美しく彫られた、この建武五年(1338)の 板碑が一番印象的だった。 樹林の葉陰から差し込む夕陽が、板碑の左側 から丸でライティングしたかのように、主尊阿 弥陀の種子キリークや蓮座、真言や紀年銘など をくっきりと浮かび上がらせていた。 「薄気味悪いね」という家人に、「これは墓 碑ではなく、生前の供養塔なのだから意味が違 う」とは言ってみたものの、薄暮の雑木林の墓 地は霊気に満ちている。板碑や石塔を追いかけ ていると、どうしても墓地を巡ることになって しまうという、なんとも因果な趣味ではある。 |
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大聖寺板碑 |
(埼玉県小川町) |
この寺は小川町の東南下里地区に在る。小高 い丘の上の、まことに閑静な場所である。 板碑などは資料館に展示されていたので、や やがっかりだったが、ゆっくりと鑑賞するため には支障のない展示だった。 写真は、重要文化財としても有名な、六面石 幢と呼ばれるものである。立川普済寺の国宝に 指定された石幢が最も著名だろう。 六枚の板碑を正六角形状に並べて立て、上部 に笠と相輪が載せてある。 主尊は六面とも蓮座に載る阿弥陀(キリーク) だが、各面には開山上人を筆頭に五十人ほどの 願主の名が刻まれている。 「康永三年(1433)、一結之衆生敬白」という 銘文があり、この時代の阿弥陀信仰がいかに地 元の団結力となっていたかが想像されて興味深 かった。 梵字のキリークは鎌倉期の剛毅さを少し留め た、いかにも南北朝初期らしい完成度を示して いる。前掲の伊藤家墓地のものに近いかもしれ ない。 もう一基在る胎蔵界大日の種子(ア)を主尊と した、同じ康永三年の板碑は187cm の高さ で、圧倒的な存在感を示していた。 |
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日蔭薬師堂板碑 |
(埼玉県嵐山町) |
嵐山町北部の上吉田という集落に祀られた薬 師堂で、板碑はその参道の途中に建っている。 何より目に付いたのはその2mという高さで あり、主尊種子が比較的珍しい金剛界大日如来 を象徴する「バン」であったからである。 また、裏へ突き抜けてしまうのではないかと さえ思えるほど、その薬研彫りが深く豪快であ ることも印象に残った。 蓮座の下中央部分に「南無妙法蓮華経」、右 に「南無釈迦牟尼佛、一結衆」、左に「南無十 羅刹女等五十三人」とあり、どうやら法華信仰 の民衆が集まって建立したものらしい。 一般的に、法華宗の板碑には「南無妙法蓮華 経」のみを刻んだ題目板碑が多いのだが、主尊 種子が彫られたものは余り見たことがない。 しかし大日如来種子「バン」の意味合いや、 日影薬師堂と法華の関係については解明できな かった。 中央下部に、暦応三年(1340)という銘が刻ま れており、ここでも種子の彫りに見られる南北 朝初期の特徴を確認することが出来るまことに 豪壮な板碑であると言える。 |
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大英寺板碑 |
(埼玉県騎西町) |
騎西町や行田市近辺が武蔵型の板碑の発祥地 ではないか、と言われるほど年代の古い傑作が この一帯に数多く集中している。 大英寺には八基の重要な板碑が保存されてい るが、写真はその内の二基である。 右は、阿弥陀如来種子(キリーク)の文永十 二年(1275)板碑である。青石いっぱいに彫られ た梵字は剛毅な大らかさを示しており、輪郭線 や蓮台など大変美しい。 年号の両脇に、光明遍照十方世界、念仏衆生 摂取不捨という観経真身観の経文が彫られてい る。事例は多く見られるものだが、素直に造立 者の信仰を表現した素晴らしい文言であろう。 なお、碑の両側面の細い部分にまで、光明真 言や種子が彫られている完璧な供養塔である。 左の板碑は、複雑怪奇な種子であるが、阿弥 陀(キリーク)の上に、イの三点の筆記体また は三弁宝珠と思われる記号が載っているのであ る。前出の野上下郷板碑のものと同じ、丸三つ が荘厳の意味で使われている。嘉元元年(1303) の銘が彫られている、美しい荘厳体の阿弥陀板 碑である。 |
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大福寺板碑 |
(埼玉県騎西町) |
古い板碑の多いここ騎西町の中にあって、こ の大福寺墓地に建っている写真の板碑は、紀年 銘の有る中では全国十指に入るほどの名品であ る。 正面を見ていても年号は発見できない。右側 の厚さの薄い青板石の側面の下方に、天福二年 (1234)と彫られているのがやっと確認出来た。 高さは191cmという大型の板碑だが、写真 ではそう見えないのは幅が80cmと広いからだ ろう。全体の大らかな印象も、ここから発して いるようにも見える。 主尊は胎蔵界大日如来の種子「ア」で、薄い 線で描かれた月輪に囲まれている。 梵字の薬研彫りを見ると、V字の角度が浅く 字幅が広く彫られており、これはいかにも古式 を示しているのだと思える。 摩滅したのかその下方は空白で、半分地面に 埋まった格好の蓮座が下部に見える。 ここでも、蓮座の描き方が大らかで、技術的 には未熟ながら、古碑特有の風格のようなもの が感じられる。 風雨に晒されたまま風化していく末路は石造 品の宿命であるが、だからこそこの姿は限りな くはかなく美しく感じられるのである。収蔵庫 に置かれた板碑は、骨抜きになった抜け殻でし かないような気がする。 |
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真名板薬師堂板碑 |
(埼玉県行田市) |
厚さ13cmの緑泥片岩が、幅87cmで高さ が3m50cmの板状で立っているという場面を 想像してほしい。写真でその真の迫力を表現す るのは、私の腕では至難だ。 スコットランドのストーンサークルや、映画 「2001年宇宙の旅」の石板などが連想され るが、立っている石が表現する緊張感に意味合 いが感じられるのは、そこに見えざる絶対性や 美意識が存在するからであろう。 主尊は阿弥陀の種子「キリーク」で、上部の 三つの円形は「イの三点」とも「三弁宝珠」と も呼ばれる荘厳のための梵字なのである。 キリークはやや崩れた筆記体で、一見壮麗で は有るが、反面きっちりとした律儀さも見て取 れる。 中央に南無阿弥陀佛の六字名号、その両側に 線彫の五輪塔が刻まれている。かなり摩滅して いるのは、かつて放置されていたこの板碑の上 で、子供が遊んでいたからだそうだ。 最下部の偈文ははっきりしないが、拓本によ れば、建治元年(1275)に、出家した家臣が主君 のために建立したそうだ。さぞ名君だったのだ ろう。 |
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観福寺板碑 |
(埼玉県行田市) |
近年行田市に編入された、利根川に近い旧南 河原村に有る素晴らしい図像板碑である。 私が訪ねたのは数十年も前のことで、その時 はもう一基の図像板碑と共に倉庫のような場所 に収納されていた。現在の状況がどうなってい るのかを、知りたいと思っている。 写真は当時のもので、阿弥陀三尊の図像板碑 である。上部に阿弥陀種子が刻まれており、そ の下に三尊の画像が描かれている。 放射状の光明や衣服のひだなどが繊細に彫ら れていて、観音・勢至菩薩を従えた阿弥陀如来 の荘厳な来迎を表現している。 銘文ははっきりしないが、文応二年(1261)と のことで、国の史跡に指定されている。 高さ2m60cm近い大型板碑だが、繊細な図 像がさらに板碑空間の広がりを感じさせる。 隣に保存されているもう一基は地蔵菩薩の図 像板碑で、文永二年(1261)の銘がある。 かつては寺の墓地に二基並んで立っていたそ うで、その荘厳な姿を想像するだけでわくわく してしまう。 |
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千手院墓地板碑 |
(埼玉県羽生市) |
東武伊勢崎線が利根川の鉄橋を渡る手前に本 川俣という集落があり、そこの千手院という寺 の墓地に三基の板碑が立っている。 写真はその内の二基で、注目するべきなのは 右側の板碑である。 主尊として、種子が二つ並列して彫られてい るのは珍しい。 右は胎蔵界大日如来を表す「ア」で、左はお 馴染の阿弥陀如来「キリーク」である。 高さは144cmで、このあたりがまあ最も親 しみ易い大きさかもしれない。 銘は嘉暦三年(1328)と彫られており、鎌倉末 期の剛毅さと洗練されつつある時代ならではの 美しさを備えている。 阿弥陀種子の下に大日報身真言が梵字で「ア ・ビ・ラ・ウン・ケン」が彫られており、その 横に「後見之人念佛十遍」とあり、この板碑を 見た人は十回念仏を唱えなければならない。 大日種子の下には妙法蓮華経とも書かれてい て、厳密な宗旨はさほど問題ではなかった大ら かさが感じられる。 「逆修善根乃至法界」という文字も見られ、 実に欲張りな板碑ではあるが、意地らしいほど 正直な庶民の渇仰が表れている。 |
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法台寺板碑 |
(埼玉県新座市) |
周囲がすっかり宅地化されてしまい、かつて の武蔵野の面影は失われつつある。そんな中に この寺は、人知れず建っている。 かつては林の中に立っていた九基の板碑が、 全て参道脇の収蔵庫の中に移されている。しか し、写真のように背後がコンクリート壁で味気 無いものの、無粋な囲いや柵は無いので、鑑賞 にはほとんど支障は無い。 南無阿弥陀佛の六字名号板碑の名品が多く、 120~200cmクラスの堂々たる板碑が七基 並んで壮観である。中では、正和二年(1313)の ものがここでは最古である。 写真の名号板碑は嘉暦四年(1329)のもので、 壮麗で流れる様な筆致は見事と言うしかない。 開基である遊行僧他阿上人の念仏が聞こえてき そうだ。 阿弥陀三尊種子の板碑はここには二基あり、 よく見ると瓜二つであった。どうやら夫婦が逆 修を意図して同じ板碑を建立した、双式の板碑 のようだ。 いずれも元亨二年(1329)壬戌十月という紀年 銘が入り、両側に梵字で光明真言が彫られてい る。 |
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護国寺板碑 |
(埼玉県富士見市) |
護国寺は富士見市の勝瀬という場所に在り、 重要な板碑が多数保存されていることで知られ るお寺である。 境内に三基の大型板碑が並んでいた。建長四 年(1252)の阿弥陀三尊板碑、高さ3m余の阿弥 陀三尊板碑が在るが、写真の不思議な梵字が気 になったので取り上げてみた。 紀年銘は摩滅して不明である。頭部山形、二 条線、額、そして技術に頼らない梵字の大らか な表現からみて、建長からそれ以前のもののよ うな気がするが如何だろうか。 梵字種子の解明だが、上部は「バン」だから 当然ながら金剛界大日如来であろう。しかし、 良く見ると、「タラン」もしくは「ラン」とも 読めるようでもあり、そうだとしたら一体何を 表しているのかは判らない。 問題はその下の「ウン」だが、転法輪金剛薩 埵(さった)と共に金剛界大日三尊の脇侍であ る教令輪降三世明王だろう。この組み合わせの 板碑を見たのは、全く初めての体験だった。 梵字の解明はともかく、290cmの板碑全体 に漂う泰然たる雰囲気がとても気に入ってしま ったのである。 |
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龍宝寺板碑 |
(東京都台東区蔵前) |
東京の都心、それも下町のど真ん中に、青石 を用いた武蔵型のかくも見事な板碑が保存され ている事に驚いた。 厩橋に近い寺町の一角に在る、小さなお寺の 裏庭に、柄井川柳の墓と並んで立っている。 造立年号は正応六年(1293)という、れっきと した鎌倉中期の逸品であった。「カー」「アー ン」「マン」などの梵字を複合させた「カーン マン」という種子で、不動明王を象徴した珍し い板碑である。 碑面下部は写真ではちょっと見難いが、蓮台 に乗る「父」の字と真言密教の偈が彫られ、年 号の下に孝子敬白とある。どうやら尊父の霊を 供養した孝行息子が建立した板碑の様である。 不動の種子は、見事な薬研彫りで鋭くくっき りと彫り込まれており、この時代の揺るがぬ美 しさの質の高さを証明している。蓮台にすっく と立つ梵字そのものが、あたかも不動明王の図 像のように見えてくるから不思議である。 豪壮な筆致はこの時代の特色だが、いざ鎌倉 という剛毅な時代背景が梵字ひとつにも表れて いて面白い。 |
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普済寺六面板碑 |
(東京都立川市柴崎町) |
JR立川駅の南西1キロ強の閑静な場所に建 つ臨済宗建長寺派の寺院で、板碑などの文化財 で知られる。特に六角の石幢は国宝にしてされ た名品で、現在は覆屋の中に収蔵されている。 幸いなことに、硝子越しながら格子の間から 見ることが出来る。 六枚の青板石(緑泥片岩)に四天王と仁王像 を陽刻し、正六角柱形に組んだ石幢である。 写真は仁王像で、右が阿(あ)、左が吽(う ん)像である。時計回りに、増長天、広目天、 多聞天、持国天の各像が続く。板彫りに似た薄 肉彫りは絵画的で美しく、上辺に施された宝珠 や散華、下辺の岩座等の演出が効果的である。 仁王像の筋肉など、写実的な描写は鎌倉期の 慶派彫刻の影響も見えるようだ。光背の円環に 火焔が描かれているのも迫力に満ちている。 広目天像の脇に、延文六年 (1361) 南北朝中 期の年号が確認出来る。鎌倉期の図像板碑の様 な、素朴ながら優美な表現とはかなり違った写 実だが、六枚の傑作が六角石幢に仕立てられた 驚異的な至宝と言える。 |
その他各地の 武蔵板碑名品巡歴 |
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西円寺板碑 |
(埼玉県騎西町) |
建長の板碑 梵字はキリーク(弥陀) |
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善応寺板碑 |
(埼玉県騎西町) |
仁治三年 (1242) 鎌倉中期 蓮弁のあるものとしては最古 種子キリーク |
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毘沙門堂板碑 |
(埼玉県羽生市) |
建長八年 (1256) 鎌倉中期。 左:キリーク(弥陀) 右:バク(釈迦) 二仏併座遣迎思想 |
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宝蔵寺板碑 |
(埼玉県行田市) |
左:ウン(阿しゅく) 延応二年(1240) 鎌倉中期 右:キリーク(弥陀) 宝治二年(1248) 鎌倉中期 |
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総願寺板碑 |
(埼玉県加須市) |
種子:キリーク(弥陀) 銘文不詳 左右に五輪塔 周囲の散蓮華が特徴 |
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清見寺板碑 |
(埼玉県東松山市) |
左:ア(胎蔵界大日)心字座 建長元年 (1249) 鎌倉中期 右:キリーク(弥陀)サク(勢至)サ(観音) 宝治元年 (1247) 鎌倉中期 |
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智観寺板碑 |
(埼玉県飯能市) |
左:キリーク サ サク(弥陀三尊) 永仁六年 (1298) 鎌倉後期 右:キリーク(弥陀) 仁治三年 (1242) 鎌倉中期 |
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高正寺板碑 |
(埼玉県入間市) |
左:バク(釈迦) 観応二年 (1351) 南北朝前期 右:キリーク(弥陀)サク(勢至)サ(観音) 年号不詳 |
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林昌寺板碑 |
(埼玉県小川町) |
種子キリーク(弥陀) 弘安七年 (1284) 鎌倉中期 左右に光明真言 |
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瑞光院跡板碑 |
(埼玉県小川町) |
左:アーンク(胎蔵界大日) 正中三年 (1326) 鎌倉後期 右:キリーク サ サク(弥陀三尊) 文保二年 (1318) 鎌倉後期 天蓋・花瓶ほか銘文一部 |
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円城寺二連板碑 |
(埼玉県小川町) |
左:キリーク(弥陀)連碑 光明真言 延文六年 (1361) 南北朝中期 右:キリーク(弥陀)連碑 光明真言 正中二年 (1325) 鎌倉後期 |
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大橋堂脇板碑 |
(埼玉県小川町) |
キリーク(弥陀)サク(勢至)サ(観音) 弥陀三尊種子 正慶二年 (1333) 鎌倉末期 |
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仏蔵院板碑 |
(埼玉県所沢市) |
弥陀三尊種子(キリーク サク サ) 文永三年 (1266) 鎌倉中期 |
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高蔵寺板碑 |
(埼玉県越生町) |
弥陀三尊種子 (キリーク サク サ) 徳治二年 (1307) 鎌倉後期 |
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興禅寺板碑 |
(埼玉県越生町) |
左:キリーク(弥陀)正安二年 (1300) 中:バン(金剛界大日) 建武元年 (1334) 南北朝初期 右:キリーク(弥陀)正安二年 (1300) |
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妙光寺板碑 |
(埼玉県鳩山町) |
種子バン(金剛界大日) 弘安九年 (1286) 鎌倉中期 |
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葛貫板碑 |
(埼玉県毛呂山町) |
種子キリーク(弥陀) 嘉元四年 (1306) 鎌倉後期 光明真言 銘文多数 |
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喜多院板碑 |
(埼玉県川越市) |
キリーク(弥陀) 暦応五年 (1342) 南北朝前期 供養者名多数 |
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宝泉寺板碑 |
(東京都青梅市) |
左:種子アーンク(大日) 建武四年 (1337) 南北朝初期 右:弥陀三尊(キリーク サク サ) 応安七年 (1374) |
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延命寺板碑 |
(東京都板橋区) |
ア(胎蔵界大日) 建長四年(1252) 鎌倉中期 「心」字座 |
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龍福寺板碑 |
(東京都板橋区) |
左:弥陀三尊(キリーク サク サ) 建長七年 (1255) 鎌倉中期 右:弥陀三尊(キリーク サク サ) 延慶二年 (1309) 鎌倉後期 光明真言 |
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浅草寺板碑 |
(東京都台東区) |
種子バク(釈迦) 図像(釈迦または地蔵) 蓮座 花瓶 鎌倉中期? |
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