東海・北陸地方 の庭園 |
摩訶耶寺庭園(静岡県浜松市三ケ日) 昭和期に発掘された奇跡の名園 |
歴史的にも地理的にも都とのつながりが古く からあったので、この東海・北陸地方には、洗 練された庭園文化が広く普及していた。 それゆえに、鄙にも稀といった山里の地であ りながら、瑞々い迫力を感じさせてくれる質の 高い庭園と出会うことが出来る、そういった地 域なのである。 私の好きな一乗谷の朝倉氏館址の庭園群や名 古屋城二ノ丸、遠州の摩訶耶寺、龍潭寺等は、 日本を代表する鋭い美意識の感じられる名園で あると思う。 福井・石川・岐阜・愛知・静岡の各県を、こ の範囲に入れることとする。 |
|
龍潭寺庭園 |
(静岡県浜松市引佐町) |
寺の位置する処は井伊谷と言い、元来彦根井 伊家の先祖が出た場所である。寺院も庭園も、 当然ながら井伊家との関係は深い。桶狭間で戦 死した井伊直盛が寺を再興したのだが、その法 名にちなんだ寺名である。彦根にも同名の寺が 在る。 庭の好きな人だったら誰でも、遠州といえば 小堀遠州を連想するだろう。事実遠江地方の庭 園には遠州作庭とされるものが多いのだが、残 念ながらここも含め全て時代も作風も違う。 細長い池と山畔の石組という、江戸初期の様 式だが、石組の示す量感と迫力は見事で、作者 は並々ならぬ造形感覚の持ち主だろう。石はや や小型化した時代へと移りつつあるのだが、立 てられた石の表情に引締まった美しさがあり、 石組を鋭い感覚に統一している。 写真は中央の枯滝石組部分で、深山幽谷を思 わせる素晴らしい造形である。但し、ここでも 植栽が石の景観を覆ってしまっており、刈込み の手入れが良すぎてかえって目障りになってし まっている。 |
|
実相寺庭園 |
(静岡県浜松市引佐町) |
近年までこの庭園の存在を知らなかったが、 何と平成6年に枯山水の石組が発見され、庭園 の全貌が明らかになったとのことであった。 地元金指の旗本、近藤季用を開基として、寛 永5年(1628)に創建された寺院であり、庭園も その直後に造営されたものと考えられる。 大らかな芝の築山を背景に、力強い滝石組を 中心にして、意欲的に石が組まれている。典型 的な江戸初期の手法である。 手前の岩島や出島も効果的に配されており、 小規模ながらもかなり洗練された、至極趣味の 良い枯山水だと言えるだろう。 すぐ近くの龍潭寺庭園との類似点も見られ、 こちらの方が時代的には古いので、どういう関 係にあったのかは研究を要するところである。 |
|
摩訶耶寺庭園 |
(静岡県浜松市三ケ日町) |
東名高速道路工事の際発見されるまで、土中 に埋もれたまま奇跡的に作庭当初の面影を保っ たまま残っていたという。発掘によって現れた 庭園は想像を絶する名庭であった。 なんと生き生きとした石組だろうか。 禅文化の反映が見られぬ事から、鎌倉初期の 蓬莱庭園であろう、というのが定説になってい るが、石組を見た限りでは素人の判断は難しい かもしれない。 入り組んだ汀線から成る池泉の護岸石組の見 事さは特筆すべきものであり、中島の三尊石組 の個性的な姿も周辺の石組と調和して美しい。 そして何よりも感動的なのは庭園全体の設計 が誠に洗練されており、野筋ともいえる築山に 配された多くの石組が庭全体を引き締めている 事である。 この庭に一切の植栽は必要ではなく、池泉・ 護岸石組・石組・築山だけで構成された抽象的 造形が、なんと鎌倉時代に行われたというのは 驚きである。 |
|
大福寺庭園 |
(静岡県浜松市三ケ日町) |
平安初期貞観年間の創建と伝えられる、由緒 ある古いお寺である。 前述の摩訶耶寺からは、まことに程近い場所 にある。 庭園は、客殿の西側に広がる大きな池泉を中 心に、奥行のある眺めを構成している。 写真は客殿付近からの眺めで、手前に北側の 出島が前景となり、正面の築山石組が遠景とな った見事な景観だ。 手前の出島には三尊石組も見られ、護岸石組 も剛健である。 近景に緊迫感に満ちた石組を配することで、 庭園全体を単なるたおやかな自然風景に見立て たままの庭で終わらせていないところが、この 庭園の真骨頂だと言えるかもしれない。 池泉対岸の築山石組を近くで観察したが、滝 石組や三尊石組などが力強く、野筋に配した須 弥山石組も古典的な面影を感じさせてくれた。 |
|
冨賀寺庭園 |
(愛知県新城市) |
ある年に三ケ日まで行き、摩訶耶寺と大福寺 の庭を訪ねた後、比較的新しく発見されたと言 われていた当庭園を見るために、少し寄り道を しようということになった。 とは言っても、三ケ日町と新城市とは、県境 の宇利峠を挟んで隣同士である。 信仰の中心ともいえる十一面観世音の祀られ た御堂へ至る参道を進むと、右手の土塀の中に 庭園が有った。 雑草が繁茂し、やや荒廃の感有りだが、細長 い池泉の中央部と右端とに、見応えの有る滝石 組が残っている。 写真は中央部の滝組で、小振りながら感覚の 鋭い石組が成されていた。室町時代の美意識に 共通するような、大袈裟でない洒落た意匠に好 感が持てる。 右奥の石組もなかなか大らかで、江戸初期の 豪放な美的感覚を、充分今日に伝える作品だと 言えるだろう。 |
|
満光寺庭園 |
(愛知県新城市鳳来町) |
浜名湖の北に散在する名園を歩いた際に、折 角だからと鳳来寺へ詣でることにした。その帰 途に立ち寄った庭だが、思いがけずも傑出した 庭園に出会って感動した記憶がある。 庫裏の背後に在る庭園で、天然の山の斜面を 利用して多数の石組を行い、見事な景観を造っ ている。 手前は池泉で蓬莱島を象徴する中島がある。 山畔には大小四つの滝石組が組まれていて、石 組の中心となっている。写真は、池泉中央部か らほぼ全景を眺めたものだ。手前右手に架かる 橋付近には、三尊形式の美しい石組がある。 山の斜面全体に、累々たる石組が成されてい るのだが、その大半が植栽に隠れて、迫力在る 主張が消されてしまっている。初夏に咲き競う 皐月の類なのだが、ぜひ別の場所にサツキ園を 造成し、移植してゆっくりと愛でていただきた いと思う。 |
|
華蔵寺庭園 |
(愛知県吉良町) |
三河湾に面した吉良の町は、忠臣蔵の悪役と して知られる吉良上野介義央の所領であった。 当寺は吉良家の菩提寺で、当地では名君と称 えられた義央公が寄進したと伝えられている。 庭園は枯山水で、崖の斜面に沿って石組が配 されており、中央に滝石組や洞窟石組のような 意欲的な造形も見られる。 中島や出島等、なかなか変化に富んでおり、 植栽を思い切り伐採すれば、見事な石組が出現 してくるような気がするのは、果たして欲目だ ろうか。 お寺の説明には義央公の元禄、つまり江戸中 期の作庭とされているようだが、遠州系列の作 庭説もある通り、江戸初期の力強さを残した非 凡な作庭家の設計による庭であることは確かな ようだ。 少なくとも、サツキの花を愛でるだけでは勿 体無いだろう。 |
|
名古屋城旧二ノ丸庭園 |
(愛知県名古屋市) |
壮大な二ノ丸庭園は、南の御庭と北の御庭に 分かれて構成されている。いずれも巨石を豪華 に用いた、桃山時代らしい城郭庭園である。 北庭は栗石の敷かれている部分が枯池で、右 側が池に浮かぶ中島の護岸である。滝石組付近 の景観が豪快で立体的に組まれた滝と、そこに 架かる石橋の手法は玉澗流と呼ばれ、徳島千秋 閣や粉河寺に共通して見られる。 写真は北庭の滝石組付近のもので、画面はか なり暗いのだが、ここには桃山期の豪快な石組 が見られる。 玉澗流の上田宗箇と名古屋城との関係は不明 だが、傾斜した巨石の使い方などからも、かな りの関わりはあったものと思われる。 石組主体で植栽をほとんど用いなかった玉澗 流の本意を汲めば、南庭は近代に整備されて美 しいが、北庭は植栽が繁茂し過ぎだろう。 しかし、火災や戦災で破壊された城郭内にあ って、幾多の変遷の後でも、ここまで原型のイ メージが保たれたという事は奇跡に近いのであ り、それは贅沢な不満だと言うべきなんだと納 得した。 |
|
内々神社庭園 |
(愛知県春日井市) |
“うつつ”神社という延喜式内社だが、火災 等のために社伝は不明らしい。 元来、神社の為の古庭園は存在しないので、 ここでも本地垂迹による寺院の存在が考えられ るだろう。 事実、現在の社殿からは、この庭園を鑑賞す ることは出来ない。 山畔に掘られた池はやや丸味を帯びており、 その中心に写真の鶴島が設けられている。 島全体に立石中心で組まれた石組は力強いも ので、植栽が邪魔に感じられてならないが、見 事な立体感が伝わってくる。 一瞬亀島ではないかと感じたが、鶴島だろう という見解はものの本による。 事実、池泉北側の滝石組の中に亀頭石が見え るので、この説は納得出来る。 池中には立石による岩島が三つ在り、鮮烈な 意匠となっているが、これは江戸初期の様式で ある。 |
|
永保寺庭園 |
(岐阜県多治見市) |
何度も訪ねているので今さら永保寺もないの だが、実は庭園を切り口とした写真が無かった のである。 だからと言って、再訪の機会を得て撮ったこ の写真が、自慢出来るほどのものではないのだ が。 美濃源氏の豪族土岐氏の居館が在った場所で あり、鎌倉時代に夢窓国師を開創として禅寺と なった由である。 国師が観音堂を創設した時には、既に苑池が 存在していたらしいので、国師作庭説を全面的 には肯定は出来ないかもしれない。 それにしても、梵音巌から流れ落ちる清滝、 庭園の象徴的な建造物である観音堂と橋亭形式 の無際橋など、苑池を中心に展開する空間は、 まさに理想的な美の世界の姿であっただろう。 写真手前の島は亀島だが、近年の荒廃によっ て石組の大半が失われてしまったらしい。 しかし、畔池や多島といった鎌倉期の様式を 伝える、貴重な庭園遺構であることに変りは無 い。 |
|
真長寺庭園 |
(岐阜県岐阜市) |
岐阜から美濃へと抜ける街道を通る度に、こ のお寺の参道前の看板に「石庭」の案内がある のを知っていた。何回目かの時にようやく訪問 の機会を得た。 方形に仕切られた龍安寺式の方丈前庭で石組 は無く、大小七つの立石による枯山水“石庭” が在った。 一面の杉苔が見事だが、従来は白砂敷きであ ったのだろう。中央を横断する飛び石も後補と 考える。 枯山水といっても古庭においては、龍安寺の ような平庭に石と砂(苔) だけで構築された例 は、在りそうだが実はそれほど多くない。龍源 院など数例しか思い浮かばないほどだ。 やや散漫な配石とは申せ、江戸初期の築庭で あり、様式上も貴重な作品だと言える。 特に背の高い二石には、モダンな造形意識が 感じられる。 |
|
禅昌寺庭園 |
(岐阜県下呂市萩原) |
ここ数年、郡上踊りに参加するために、毎夏 郡上八幡市に滞在するのだが、その度に古都高 山を訪ねている。市周辺の諸庭園を歩いてみた が、そんな中でこの庭が最も心に残っている。 植木尊重現象はいずこも同じだが、急な山畔 の斜面を利用して、小石ながら豊富な石組を立 体的に組み上げた景観は非凡である。 解説書には、滝組から落ちた水が岩峰そびえ る渓谷を流れ、石橋を抜けて大海へと下るとい う一大絵巻となっている、とある。 石橋は桃山期を想わせる豪放なものだが、他 に鋭い立石は少なく、やや丸みを帯びた石が多 いことから、江戸中期頃の築造だろうと想像さ れる。 高山に関係の深い、金森宗和が作庭したとい う伝承があるらしい。事の真偽はともかく、堕 趣味に陥らない品格の保たれた美しい庭園から は、真珠庵の庭玉軒や鹿苑寺の夕佳亭を設計し た、“姫”宗和らしいセンスが感じられなくも ない。 |
|
東氏館跡庭園 |
(岐阜県郡上市) |
数年の間毎夏、城下町郡上八幡を訪ねていた ことがあった。数日滞在して、郡上踊りに参加 するためである。情緒と哀愁に満ちた雰囲気が とても気に入っていた。 この庭園は旧大和町の山里に在り、東氏の居 城であった篠脇城跡の麓で、館跡と共に近年発 掘されたものだ。 代々室町幕府の御家人で、特に九代東常縁は 古今伝授の祖と言われ、将軍の和歌の師であっ た。東氏は戦国時代に滅亡しているので、発掘 された庭園は当然ながら室町時代のもの、とい うことになる。 広大な芝生の遺蹟の中にポツンと池泉がある ので一見締まらないが、目線を庭園に絞って眺 めると、護岸石組や岩島、滝石組などには当代 の品格ある造形美を見ることが出来る。大仰で はない、落ち着いた趣味の良さ、ということで あろうか。 この洗練された文化遺蹟は、現在古今伝授の 里として保存されている。 |
|
円照寺庭園 |
(福井県小浜市) |
若狭小浜に遊んだ際、名園として国の名勝指 定を受けている万徳寺庭園を訪ねた。正直言う と、さして感動に値する庭でなかったことにが っかりした。 何気なく訪ねたこの円照寺の裏庭で見た、こ の滝石組の美しさに敏感に反応したのには、き っとそんな背景が有ったからだろう。 山畔の最奥部に組まれたこの枯滝の魅力は、 その奥行きと段差に由来する。石組から受ける 印象はモニュメントとしての造形を意識する場 合と、超自然とも言うべき景観をイメージする 場合とが有るとすれば、ここでは明らかに後者 の具体的な岩山の連想ということになる。 手前には池泉が有り、落ち着いた石橋のかか った亀島の石組と立石が池中に浮かんでいる。 実際の面積以上に広がりを感じさせるのは、優 れた地割と役どころを心得た石組の存在が有る からであろう。 若狭小浜は、庭園のみならず建築・仏像など にも美しい歴史の残された、何とも魅力的な町 である。 |
|
羽賀寺庭園 |
(福井県小浜市) |
若狭小浜の庭園で最も有名な国指定の名勝で ある万徳寺庭園を再訪した。しかし前述の円照 寺庭園の時もそうだったのだが、刈込主体のそ の庭には今回も満足出来ないまま、美しい十一 面観音を拝しに訪ねたこの寺で、何気なく出会 ったのがこの庭園だった。 小規模な庭ではあるが、山畔の斜面を利用し て滝を組み、手前の建物との間に細長い池泉を 設け、切石による石橋が架けられている。様式 はまさしく江戸初期そのものではないか。 写真は枯滝部分の石組であるが、江戸初期ら しく豪壮な中に、軽快な優しさが秘められたよ うな風情を見ることが出来る。 美術史に残るような傑作ではないが、こうし た小庭ながらキラリと輝くような美意識が読み 取れる庭に最近惹かれている。 惜しむなくは、せめて滝組周辺の植栽だけで も、もう少々刈り込んでいただければと思う。 小浜では、訪ねるたびに新しい発見がある。 |
|
柴田氏邸庭園 |
(福井県敦賀市) |
柴田家は敦賀の市野々に代々伝わる名家で、 甘棠館という美しい書院建築と共に、民家とは 思えぬほど充実した美しさを見せる庭園が伝え られている。 L字形の細長い池泉が書院を囲み、中島が一 つ二本の橋で対岸と結ばれている。写真は、手 前が中島の立石で蓬莱石のようであり、左は対 岸の護岸石組である。橋は右手で隠れていて見 えない。 石組はまことに雄渾で、桃山期の武家の感覚 を残した江戸の初期の築庭だろうと思われる。 池泉と書院との間には、見事な飛び石が打た れている。茶庭の飛び石とは全く異なる豪快な ものである。 池の汀部分に栗石が敷き詰められていて、浜 辺が意匠されている。京都小御所の池庭を連想 するが、趣はかなり違っていて意図が露骨であ る。しかし、何にせよ民家の庭であり、並外れ て贅沢な意匠であると言わざるを得ない。 |
|
伊藤氏邸庭園 |
(福井県南越前町今庄) |
旧南条郡今庄町瀬戸にある名門の旧家の庭園 であり、国の名勝庭園に指定されている江戸時 代末期の作品である。 私達は5月のある日、旧北国街道を近江木之 本から旧板取宿を経て、武生まで旅したことが あった。その際に見学したのが本庭である。 江戸末期という時代には庭園も一般化し、裕 福な庶民なら庭を持てる時代となっていた。こ こには、定型的であるとは言え、美しい民家の 庭園の景観が保護維持されている。 丸い池泉に中島という様式は中期の名残で、 山畔に滝口があり石組が渓谷を構成している。 この時代だけに、小石が多く迫力には欠ける が、苔むした庭石には捨てがたい魅力がある。 一位の古木も立派で、民家の庭としては破格 の古庭であり、管理される方の御苦労に心から 敬意を表する次第である。 |
|
旧玄成院庭園 |
(福井県勝山市) |
白山権現の別当寺で、苔と杉林の美しさで知 られる平泉寺の山内に在る塔頭寺院である。 庭園は現在の建物とはかなり離れており、ま た苔に覆われた状態で荒廃している。おそらく 当初は何等かの寺院または館が存在したに違い ない。 通路から庭園内部へは入れないため、涸池部 分を詳細に見る事が出来ないのが残念だった。 山畔上部の集団石組のイメージは北畠館跡の 渦巻石組に似ており、また曲がった涸池部分は 旧秀隣寺の池泉にとても似ている、とのことだ が、近づけないため明確な把握はやはり不可能 だった。 築山上の集団石組は、言われてみればそんな 気がしないでもない。写真は滝石組を望遠レン ズで撮影したものだが、室町後期の優雅な石組 であることは確認できる。 全体の景観の美しさの中で、庭園の命が、造 形的に構築された地割と、景観を形成する石組 に在るとすれば、せめて涸池部分や石組をより 美しく眺められる場所を設けてほしいものであ る。苔庭部分に旧来の建物が建っていたはずな のだから。 |
|
滝谷寺庭園 |
(福井県坂井市三国町) |
名勝東尋坊で知られた三国港に近く、少し山 間に入った閑静な場所にこの寺は在る。 この庭は、方丈と書院の北側に展開されてお り、山畔に沿って細長い池泉が広がっている。 写真は出島付近の光景で、分厚い石橋が架け られている。この辺りの造形は、鋭さには欠け るがなかなか美しく、庭園中の白眉となってい る。山畔の上部に桃山式の三尊石組が見られる が、池泉庭園の石組は穏やかな江戸中期の特徴 を備えている。 飛石や植栽を重視した改造が、江戸中期頃に 行われたと見るべきだろう。 この時代から次第に自然主義的な風潮が主流 となり、超自然を象徴する峨々たる立石による 石組は消え、優しい丸石や巨石が好まれるよう になっていくのである。 |
|
朝倉氏諏訪館跡庭園 |
(福井県福井市) |
福井市郊外の一乗谷には、戦国時代の武将朝 倉一族の館跡が残されている。義景の代で滅亡 する血生臭い時代の歴史的痕跡が秘められた壮 大な屋敷跡と、桃山期を代表する優雅な庭園が 四つ保存されているのである。 諏訪館は義景が寵愛した小少将の為に建てた 館で、将軍足利義昭も明智光秀と共に訪れてい るという。 平和な時代には活力に満ちた造形は無く、む しろ乱世程力強い芸術が創出するという説は、 少なくとも庭園の変遷を見る限り間違い無く正 しいと思う。戦国桃山時代の庭園のような豪壮 な作品は、江戸中期以降には全く作られず、技 術のみの無力で女々しい自然主義の庭ばかりに と頽廃するのである。 豪快な枯滝石組と脇に立つ滝添の巨大な石、 自然石の石橋、力強い護岸石組と、どれを取っ ても戦国時代に似合った豪壮なプランである。 しかし、その何処かに、鄙にも稀とでも言う べき京都風の洗練された高雅な美意識と、一族 郎党がたどった戦国武将の悲劇的な末路を象徴 するかの様な、一抹の寂寥感も見て取れる。 |
|
朝倉氏湯殿跡庭園 |
(福井県福井市) |
朝倉氏館跡には、本館跡庭園・諏訪館跡庭園 ・南陽寺跡庭園と、この写真の湯殿跡庭園が残 されている。 この日は雨で訪れる人も無く、静寂に包まれ ていて、庭園探訪には絶好の一日だった。特に 石が濡れていて、その存在を生き生きと主張し ているように感じられたからだった。 現在は枯れているが元は池泉だったもので、 曲水式とも見える複雑な形状である。それに伴 って、護岸の石組も巧妙に組まれ、豪快かつ荘 重な美しさを見せていて嬉しい。 やや荒廃しており、倒壊した石も見られるの だが、山畔を背景に意欲的に組まれた石の一つ 一つが重なり合って、緊迫した重量感を生み出 している。朝倉氏館跡では、この庭が私は最も 好みだ。 |
|
朝倉氏本館跡庭園 |
(福井県福井市) |
織田信長との対立によって滅亡するまでの1 世紀の間、室町末期から桃山初期にかけて築造 された朝倉氏の館には、当代を代表するような 名庭が幾つも築かれた。前述の諏訪館跡、湯殿 跡の他にも、この朝倉館跡や南陽寺跡等がそれ である。 一乗谷で発掘されたこの場所は朝倉義景の館 跡であり、歴史的背景を考えれば、将軍足利義 昭を迎える際に築庭されたと考えるのが自然だ ろう。 地方の豪族としては広く京の都の文化に通じ た傑物で、まことに洗練された趣味を持ってい たであろうことが、一連の庭園群を眺めただけ で容易に理解できる。 館の南角と斜面との間の狭い空間に、この庭 園は意匠されている。その中心が写真の滝石組 であり、小規模ながら豪快、しかも室町時代の 高雅な美意識を留めた、美しい造形となってい る。 後世の大仰な田舎大名庭園の悪趣味と比べれ ば一目瞭然で、抑制された表現の中に凝縮され た稀有な美意識を、この庭では見ることが出来 るのである。 |
|
南陽寺跡庭園 |
(福井県福井市) |
朝倉氏一族の菩提寺として、一乗谷の館近く に建立された寺であった。館跡と同様、ここに も一切の建造物は残っておらず、小規模な池庭 が保存されているのみである。 残ったとは言え造庭当初から見れば、庭園の ほんの一部に過ぎないのだが、この滝石組の示 す力強さは、この庭園がいかに素晴らしいもの であったかを後世に語り伝えるために、必死で 生き延びて来たように思えてならない。 地に根が生えたかのような落ち着きを示す石 組は、そうざらに在るものではなく、この石組 の美しさ一つとっただけでも、並み居る凡百の 指定庭園を遥かに凌駕するものと信じる。 時代が造る様式や美意識の変化の面白さを毎 度感じるが、良い意味での貴族趣味的で高雅な 室町時代の美意識が、戦国という乱世が創出し た華麗な桃山文化に同化していったこの時代こ そ、庭園の歴史の中では最も輝いていた刹那だ ったのではないかと思っている。 |
|
那谷寺庭園 |
(石川県小松市) |
西国札所の一番那智山の「那」と、結願の三 十三番谷汲山の「谷」とを組み合わせ、この寺 を参拝すれば西国巡礼に匹敵するとしたアイデ ィアには脱帽した。 境内は崖地に在り、舞台造りの本堂や三重塔 などが建っていて、逍遥すれば正に仙境に遊ぶ 心地である。 書院の後方に、枯山水のように見える庭園が ある。もっとも、右手が池泉へと続いているの で、正確には池泉庭園という方が正しいかもし れない。 三尊石組が中心に組まれ、さらに奥の方に石 組が連なっているが、実は小振りな石ばかりが 用いられた茶庭で、手前の飛び石は書院北側に 設けられた茶席へと通じているのである。 通常露地には植栽が多く用いられ、目立った 石組など無いのだが、京都の黒谷西翁院の露地 などにもこうした石組が見られる。“侘び”よ りも造形の“妙”が強調されているようだ。 |
|
妙成寺庭園 |
(石川県羽咋市) |
木造五重塔など見事な伽藍が建ち並ぶ境内の 一画に、書院の前庭となっている池泉庭園が在 る。 池中や山畔に植栽が繁茂しているために、石 組の全貌を見ることが出来ない。それでも、細 長く小さい池の護岸から、後方の斜面にかけて の石組には魅力を感じる。小石ながら立石が多 く、江戸時代初期の意欲的な造庭感覚が随所に 散りばめられている。 山畔の左奥にうっすらと五重塔が見えるが、 当寺の説明にも庭園の要となる借景、と記され ていた。しかし最も重要なのは石組と地割であ って、借景を意識して造られた庭では決してな い、と感じた。 江戸初期以前の庭園は、自然を模しながらそ れを凝縮した究極の抽象であり、とても観念的 な景観である。そこへリアルそのものの景色を 取り込もうなどという考え方自体が存在しえな かった、というのが小生の持論である。 |
|
平氏邸庭園 |
(石川県志賀町) |
時国家とは遠い縁戚とのことだったが、鎌倉 の追求を逃れるために先祖がたどった艱難辛苦 の歴史を御当主から伺った。 現在でもこの地の名家として、簡素ながら立 派な建築美を誇っている。 庭園は江戸時代中期の造築との事であった。 細長い池泉の右側には石橋が架けられていて、 苔に覆われた野筋へと通じている。 写真は左側の出島と滝石組周辺で、大層豪快 な石組による造形が成されている。 高さの感じられる立体構成で、能登では一番 の滝石組だと思う。植栽が適度な量に刈られて いるのは、御当主の庭園に対する理解と愛情の 深さを示している、と言えよう。 出島の先端に置かれた石は妙な形だが、亀島 を意図した亀頭石なのではないか、と感じられ た。 |
|
上時国家庭園 |
(石川県輪島市) |
曽々木海岸に近い上時国家と下時国家は、壇 ノ浦で敗れた平時忠の末裔で、能登に逃れてか らは時国姓を名乗ったという。 建築は江戸期のものだが、中世の重要な史跡 として、又民家の建築としても貴重な遺構であ る。 江戸末期の作庭とされる上時国家の庭園は、 石組に迫力が感じられるということで、能登一 の庭とも称される。 細長い池泉と斜面を利用した築山という構成 は下時国家と似ており、護岸や石橋と橋添石、 築山の三尊石等には意欲的な創造性が感じられ る。 一般的に、江戸末期には造形性の衰退傾向が 見られるのだが、平家の末裔としての伝統的な 美意識が存在したことが、大勢に流されるのを 防ぐ作用を果たしたのだろうか。 写真ではとても暗いのだが、築山にはとても 力強い石組が見られた。 |
|
下時国家庭園 |
(石川県輪島市) |
豪族として繁栄していた時国家は、前田利家 の時代に年貢が二分されたのに伴って、家も下 時国として分家した。 以後両家共に栄えるのだが、庭園はこちらの 方に古いものが残っている。 住宅の北側から南東側へと、庭園は鉤形に展 開しており、細長い池泉が建物に沿うように設 けられている。 護岸がやや陳腐な北側の池庭は、どうやら江 戸中末期の作らしい。 写真は建物の東南角付近からの眺めで、この 辺りは江戸初期に造庭されたと思われる。 写真右上の立石は築山上部の三尊石組で、当 庭園の石組の白眉と言える。そこから池に向か って滝石組が組まれ、渓谷風の石組が続いてい るのだが、植栽に阻まれて見る事が出来ない。 石組主体の庭とはいえ、民家の庭は植栽との バランスが大切であろう。とは言え、ここでは 余りにも植栽のみが主役になってしまっている のではないか。 |
このページTOPへ |
次のページ (甲信越の庭園)へ |
日本庭園TOPへ |
総合TOPへ 掲示板へ |