たつきが天使になるまで(2)
告知〜出産前日

突然の告知

退院から一週間が経ち、また検診の日がやってきました。羊水は増えてしまい、
また苦しくなっていました。羊水検査からはまだ2週間、まだ結果はわからないし、
今日は羊水を抜いてもらってスッキリしたいなあ・・・赤ちゃんの体重はどのくらい
増えたかなあ・・・と思いつつ、一人で病院に向かいました。

病院へ行くと、まず自分で尿を採り体重と血圧を測りました。
診察室に呼ばれ主治医が直接エコーをします。エコーは赤ちゃんが見れて楽しい時間でした。
「推定体重は1800グラム」・・・ええっ!!全然増えてない・・・何で??って思いました。
その後、内診室に入って内診、また廊下へ。内診室から出る時に、
壁の向こうから看護婦さんか女医さんの「V??あります」と言う声が聞こえました。
「V??って何だろう?染色体の異常なのかな??」と、ぼんやり思いました。
(おそらくVSD・・・心室中隔欠損だろうと、後から思いました)また、診察室に呼ばれて入ると、
机の上に、なにやら染色体の写真(?)が順番に並べてある紙がありました。

そして、「赤ちゃんね、やっぱり染色体に異常があって、弱い赤ちゃんで長く生きられない・・」
「検査で具合が悪くなってしまったのも、そのためで・・・」
「お産に耐えられない場合があって、途中で具合が悪くなってしまう場合があるのですが、
この場合は普通、具合が悪くなってしまっても、帝王切開をしない場合が多いのです。
でも、苦しがっている赤ちゃんを医療が見捨ててしまって良いのか、大変難しい問題です。
次の検診までの一週間、ご主人とよく話しあって、今度は必ずご主人と来てください。」
と言われたのです。その紙の下の方には確か「47,XY,+18」と書かれ、
また、カルテには赤い色で「Etrisomy」と書かれていたと思います。
私は、その紙とカルテをボーっと見ながら、話を聞いていた気がします。
頭の中だけじゃなくて、自分の周りまで白くなったような感じがしました。

初めは「18トリソミー?どうして男の子なのに??」って思いました。
そして、「ああ・・・育てる苦労をしなくて良いんだ・・」と気が抜けたような気もしました。
(これは、今にして思えば、頑張っているお子さんに大変失礼な考え方でした。
その時は「お腹の中でしか生きられない」と言われたので、そう考えてしまいました。
「お腹の中でしか生きられない」という言葉を使ってよいのか、今は疑問を感じています


脳に障害がある子を、ずーっと育てていくんだ・・・一人立ちはできないだろうから、
私が死ぬまで一生そばにいて世話をしなくちゃって思っていたから。
頑張って、受け入れるつもりだった。それなのに、「生きられない」なんて。

説明ってたったそれだけなの?もっとあるんじゃないか・・・と思ったけれど、
「長く生きられないって言うのは、どのくらいなんですか??」と聞くのが精一杯でした。
「多くは新生児期に亡くなります。2〜3ヶ月もってお家に帰れたら良いほうだと・・・」と。
そして、「もう羊水は抜きません」と言われました。「そうですか・・ありがとうございました」
と言って、診察室を出ました。なんで、最後に言うんだろう・・・初めに言ってくれれば
いいのに。まあ、初めに言って診察中に泣かれたら困るんだろうな・・。
ぼーっとしたまま受付で手続きをして、電話ボックスに飛び込みました。
主人に電話で話すと、言葉につまり、初めて涙があふれました。

帰りのタクシーで

タクシーに乗ると、今度は赤ちゃんのことよりも、「長男に何って言ったらいいんだろう?」
「幼稚園のお友達のママ達・・・いつも励ましてくれたママ達になんて言ったらいいんだろう」
ということで、頭がいっぱいに。四人家族になることを、信じていたのに。
18トリソミーとわかっていて、帝王切開にする人っているんだろうか?とも思いました。
告知前の入院中、女性医師たちは、あたりまえのように「お腹の中でしか生きられない子」
の場合は、帝王切開を避けて自然分娩と言っていました。
なんだか、赤ちゃんへの愛情を試されているような気もしました。涙が止まりませんでした。

家へ帰って

急いで帰ってきた主人が、パソコンをつけました。パソコンは半年前くらい前に買って
あったのですが、私は全く使ったことがありませんでした。「18トリソミー」で検索すると、
たくさんの情報が見れました。18トリソミーのお子さんのホームページが、どんなに
励みになったかわかりません。まだ見ぬ赤ちゃんが「異常」なんて言われてしまうと、
可愛いはずの赤ちゃんなのに、なんだか怖いもののような感じがしてしまったのです。
でも、ホームページのお子様たちは、とってもかわいい赤ちゃん達でした。
「なんだ、ただのかわいい赤ちゃんじゃないか」と安心しました。それに、一年、二年と
頑張っているお子さんもいました。と同時に、厳しい現実もわかりました。

また、妊娠中期に入ってからずっと不安に思っていたことについて結論が出た、
という意味では、スッキリしたような気もしました。

この時、私は「うちの子は、出生前にわかったのだから、わからないで生まれたお子さんより
合併が重いんだろう・・・」と思いました。
(後から、そうとは言えないということがわかりました。これは、私の勝手な思い込みです。)
検査であっという間に具合が悪くなったのは、臍のうからの血液の供給が悪くなったから。
羊水が増えるのは、羊水を飲めないから。私の赤ちゃんは臍のうを切ったら、本当にすぐに
生きられなくなりそうな気がしました。だったら、このままずっとお腹に入れておきたいと、
本気で思いました。でも、ずーっとお中に入れておくことはできないんだと思うと、
とても辛かった。とにかく、赤ちゃんにとって一番良いのは、
できるだけ長くお腹に入れておいてあげることだと思いました。

「ママ苦しいから羊水を飲んでね」なんて言ってごめんね

告知から3日間ほど、私はそれまでのように、赤ちゃんに話しかけてあげることができなく
なりました。「羊水を飲んでね!」とお願いしてばかりでごめんね。ここまで大きくなったのは
きっと大変だったんだろう・・・励ましてあげなくちゃ・・・って思っていても、
言葉にすることができなかったのです。お茶碗を洗っていても、洗濯物を干していても
涙が溢れて前がよく見えなくなり、話になりません。
体を横にして休みながら、「大きくなってね」と思うことすらできなくなりました。

陣痛に耐えられないのではないか

それに、赤ちゃんがお産で亡くなる可能性があるという恐怖感で、頭が変になりそうでした。
長男出産の時、あまりの痛さで気が変になりそうでした。それでも、頑張れるのは
「もうすぐ可愛い赤ちゃんに会える!!」という思いでした。
「ああ、赤ちゃんが死んじゃう!」なんて思いながら出産するの?そんなことあり?

今回の大学病院は無痛分娩に定評がありました。それが救いだったかもしれません。
(でも、自分だけ痛い思いをせずに、たつきだけが苦しくなってしまって・・・
本当にたつきに申し訳なかったと思っています。)

このお家に来て良かったって思ってもらわなくちゃ

腹をくくることができたのは、四日目くらいでしょうか。
短い人生なんだとしたら、なおさら「短くても、このお家に生まれてよかった〜」って
思ってもらわなくちゃ!と思えるようになりました。たくさん話しかけるようになりました。
長男にもたくさん話しかけてもらいました。わかりにくいかな?と思うような家族の会話には
解説をつけました。「今のはパパの声だよ!パパって面白いでしょう!」なんて感じで。
私が食べるものは、赤ちゃんの栄養にもなるから、食べ物も説明しました。
「今日はね、すき焼きなんだよ!しょっちゅうは食べれないからね〜!おいしいよ!」 
と泣き笑いしながら食べました。今は元気に動いているんだから、私がくよくよしちゃ
胎教に悪い!って思いました。だって、他の子より「弱い」んだから・・・
他の子よりもっともっと大切にしなくちゃいけない!と自分に言い聞かせていました。

たつきは、いつもお腹の中で元気に動いていました。
羊水が多かった為、上の子の時のような、お腹が内側から蹴られたりするような感じでは
なくて、お腹の内側から特に胃の下のところをヒラヒラとなでられているような感じ。
今日も元気だ・・・と、思える嬉しい瞬間でした。

出産の方針を決める

私は長男を出産した時、会陰切開をしたところの治りが悪く(糸の吸収が悪く)、
半年ほどトラブルが続きました。やはりお腹を切ったら大変なのではないかとも考え
「自然分娩で」との結論を出しました。
帝王切開をしたとすれば、すぐに赤ちゃんを抱っこしてあげることができないだろう・・・。
せっかく生きて生まれても、十分に抱っこしてあげられないまま亡くなってしまったら・・・。
等、いろいろと考えた結果でした。

夫婦で検診に行く

告知から一週間がたち、夫婦で検診に出かけました。
分娩監視装置をつけている間、主人は廊下で待っていました。赤ちゃんはとても元気でした。
診察では、主人もいたためか、いつになく丁寧に説明を加えながらのエコー。主人にとっては、
初めての画面でした。「手指の重なり」「小脳の低形成」「心室中隔欠損・・これは、心臓の
異常ではとても多くて、これだけならそう大きな問題ではないのですが」などと、言われました。

もう一度、医師から丁寧に帝王切開にするのかどうかの説明があり、結論を聞かれました。
「帝王切開ではなく自然分娩で」と主人が言うと、医師は
「まあ、お母さんを守る為に帝王切開になることもあるんですが、わかりました」と言いました。
(これは、胎盤の早期剥離等のことだろうと、後から思いました。)

また、「羊水は抜かない」と言われたので、「大丈夫なんですか?」と聞きました。
実は、羊水は増える一方で、とても苦しく、夜中に何度も苦しくて目がさめてしまい、そのたびに
もう限界だから羊水をぬいてもうらおう・・・でも、羊水を抜いたらお腹が張るかも・・・
そうしたら、陣痛が始まってしまう・・・それは駄目だ!それだけは・・・・
などと、ぐちゃぐちゃと考えてばかりだったのです。

医師に、「突然破水すると、羊水が多いので一気に子宮の圧力が小さくなり、
胎盤が剥がれてしまうこともありますが、まあ滅多にないのであまり心配しないでください。
このくらいならまだ大丈夫」と言われました。それじゃ、我慢するしかないなと思いました。

延命措置などはどのようになるのか聞いてみました。私は、その時、
生まれた赤ちゃんをすぐにNICUへ連れて行かれてしまうのは嫌だなあと思っていました。
沢山のチューブに繋がれたまますぐに亡くなってしまうならば、
ずっと抱っこしていたいと考えていたのです。
医師は「もちろん、最低限の延命措置はしますよ。でも強心剤を入れたり、人工呼吸器を
つけたりはしません【ご参考】
と言うので、納得しました。
「最低限の措置」が何のことだかわかりませんでしたが。

この時、「出産に夫は立ち会えるのか」についても聞いてみましたが、「陣痛室は他の
妊婦さんと一緒だから、だめです。」と言われ、ものすごくがっかりしました。
この大学病院は誘発分娩をおこなっていました。
「お産は12月25日くらいにしましょう」と言われ帰りました。

【ご参考】・・・後から考えたことなどをこちらに⇒人工呼吸器についての補足

パパ頑張る

検査入院の退院後からお産まで、それまで家事育児にあまり協力的とは言えなかった
超多忙のパパが、このときは、ものすごく頑張ってくれました。
私は長男が前期破水からお産が始まったので、破水してお産が早まってしまうことが
何より心配でした。私が重い荷物を持たなくて良いように、土日はたくさんの食料品を
一人で買出しにいって買い込んできてくれました。
私の普段の買い物は、ほんの少しで済みました。私が、食事を作れなかったり、
急に入院したりしたときの為に、冷凍のピラフなどすぐに食べられるものを、
たくさん用意していました。
ちょっとお腹が張ったりしたときは、それらを利用していました。家事も手伝ってくれました。
それまでの主人からは、本当に想像できないことでした。

さらに一週間後、再び検診へ

12月20日、今日はお産の説明があるのかな?と思いながら一人で検診へ行きました。
分娩監視装置をつけると今日も元気な様子。ドクドクドクととっても良い音。
すると、急にゆっくりになりました。見ると90くらいになっていました。
看護婦さんが駆け込んできて、「ゆっくり息を吸ってね」と言いました。
グラフにはお腹が張っている小さな山がありました。自分では気が付かなかった張り。
その前日の夜は、もっと張ったときがありました。気が付かないほどの張りで
やはり弱ってしまうのです。もう少し延長して監視装置を着ける事になりました。

その後の診察で、「赤ちゃんちょっと弱っていますし、羊水もだいぶ増えています。
子宮口もやわらかくなっているのでお産にしましょう。今日入院してください」と言われました。
でも、長男のために家に来てくれた母は、私の家に泊まる用意をしていません。
母も25日のつもりだったし、明日の予定があるかもしれないので、電話で確認しました。
驚いていましたが、「大丈夫」との返事で、そのまま入院することになりました。
医師は、「赤ちゃんが生まれたら、ずっと抱っこしていて欲しいので、個室に入ってください。」
と言いました。

そのままお産の為に入院する

3週間ぶりの病棟に行くと、前回の入院の時沢山お話をしてくれた看護婦さんがいました。
「○○さ〜ん(私)、18トリソミーだったんだね・・・」。 「そうだったんですよ〜」と答えると、
いきなり「言われた時はどう思いましたか?」と聞かれました。突然で、何と言ってよいのか
わからなくなりました。一言で語るのは・・・とても難しいのです。
「○○さん25日って聞いていたから、25日に私担当するつもりだったのに、明日はお休み
なのよ」と。わざわざ気遣って下さっていたのだ・・・・・ありがたいなと思いました。

分娩について「ご主人は付き添えるのか」と聞かれ、「医師には駄目だと言われたんですけど」
と答えると、「こういう場合は助産婦の方でいつも、ご主人も一緒にいられるように
配慮してるから大丈夫」と言われました。なんだ〜良かった!と安心しました。

「無事に生まれたとして、NICUに連れて行かないで、部屋に連れてくるってことで
いいんだよね」と聞かれ、改めて、NICUに行ったほうが良いのか考えてしまいました。
「医師には『強心剤を打ったり人工呼吸器をつけない』って言われたんですけど」と
答えると、「それは、NICUに連れて行かないってことだね・・・。でも、生まれてみて
気持ちも変わるかもしれないから、そのときはまた相談にのるからね」
と言われ安心しました。「この部屋に連れて来るってことは、ミルクを哺乳瓶で飲ませたり
全部他の子と同じようにするからね」と言うので、
「ええっ、飲めないんじゃないですか?」と言うと、「飲めるよ、ちゃんと飲める」と言いました。
口に入ってチュパチュパするっていう意味でしょうか・・・・・。
(この件に関して、後から18トリソミーのお子さんの授乳は、量や与え方をよく考えないと
危険であることを知りました。この場合は看取りが前提だったからなのでしょう。)


「男の子は死産が多いって聞きましたけど、そうですか?」と聞くと
「そうなの?そんなことなかったよ、女の子でも駄目なときもあるし、
男の子でも『オギャー』って泣く子もいるよ」と言われました。

それから、明日のお産について(麻酔分娩は分娩監視装置をつけたまま進めるので)
「分娩監視装置は見えないようにしたほうが良いですか?」と聞かれました。
途中で赤ちゃんが弱ってしまう可能性があるための確認だそうです。
「監視装置のグラフは見えるようにして欲しいけれど、音は消して欲しい」と答えました。
本当は、音も聞こえたほうがいいけれど、陣痛室は他の妊婦さん達と一緒なので
気が引けたのです。

誘発をする時は、前日の夜からバルーンを入れたりするのですが、私は経産婦だから
入れないことになりました。看護婦さんはカルテの子宮口の堅さを見て「でも、ちょっと心配
だなあ〜まだちょっと硬いみたい」と言っていました。なんだか不安だけど、
バルーンを入れたことで張りがおき、赤ちゃんが弱ってしまうのもいやだしな、
と思いました。この夜は、とても辛い夜でした。明日、死んでしまうかもしれないから・・・。
しかもこちらの都合で・・。明日の夜、この部屋でたつきにミルクをあげているなんて・・
そんなことあるのかな?それはありえないような気がしました。

このときは、「たつき」という名前にすることを決めていました。
一晩中、心の中でたつきにお話をし続け、そして、心の中で約束をしました。
「もし、あなたを育ててあげられなくても、あなたを育てる代わりに、何か目標を見つけて
頑張るからね」と。たつきの為に、自分の生き方も変えなくちゃいけない気がしました。
でも、亡くしてからはなかなか元気が出なくて、自分を甘やかしたまま、
ぼーっと過ごしてしまったのですが・・・。

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