たつきが天使になるまで(3)
出産〜退院

出産の日

誘発分娩は、朝六時から始まります。錠剤の促進剤を一時間おきに飲み始めます。
分娩監視装置をつけると、たつきの心音は元気でした。確か9時ごろ、
陣痛室(分娩待機室だったかな)へ。号泣してしまうかも・・・とタオルを持って行きました。
歩いて移動する時、付き添ってくれた看護婦さんが「○○さん、25日って聞いてたんです
よ・・」と、言いました。(この日はまだ21日)それだけのことでも、
皆さんがたつきのことを心配してくれているのを感じてちょっと嬉しかった。

部屋に入って暫くたって、主治医による内診がありました。この時破水させたのですが、
内診がものすごく痛くて、「痛い痛い」と小声で言ってしまいました。
破水は、すごい音がして、温かいお湯を股間にバシャとかけれられたような感じでした。
「すごいな〜」と思うと、それが3回くらい続き、「もう終わりかな・・・すごかった〜」と思うと
さらに何度か繰り返されたのです。内診台ばびしょびしょ・・・本当に、驚きました。
この時、主治医が「まだまだだいぶ固いな、やっぱり昨日バルーンを入れておけばよかった」
と言いながら、何度かバルーンを入れようとしたのですが、入らずにあきらめました。

破水すると、またお腹が小さくなり、「ああ、本当に小さいんだな・・・」と実感しました。
ベットに戻り、麻酔をして、促進剤の点滴が始まりました。ものすごく、ドキドキしました。
麻酔分娩は、赤ちゃんの心拍を確認するために赤ちゃんの頭に電極のようのもの
をつけて分娩監視装置につなぐのです。分娩監視装置は、
昨日「音は出さない」と確認しておいたはずだったけど、音が出ていました。
本当は聞いていたかったので、そのまま何も言わずに元気な音を聞いていました。
暫く、一人になっていたと思います。初めのころは、心音も元気でしたが、ちょっと遅く
なる時が出てきました。「たっちゃん頑張れ!たっちゃん頑張れ!」と祈りながら、
「スーッ・ハーッ」と大きく呼吸をしていました。
でも、どんどん、心拍が遅くなってしまうのです(60くらい)。看護婦さんが来て、
また主治医が来て、再びバルーンを入れようとしました。何とか入ったようでしたが、
この時は医師も焦っていたような感じで「昨日入れておけばよかったな」と繰り返し
呟いていました。昨日の看護婦さんの言うとおりだったようです。
やっぱり、もう駄目なのかな?後どのくらいもちそうなんだろう?
もう不安で一杯だったけれど、そのことは怖くて質問できませんでした。
何度か、看護婦さんが様子を見に来てくださり、現在の様子や
他の18トリソミーのお子さんのお話をしてくださったりしました。

陣痛の波にあわせて、たつきの心拍は速くなったり遅くなったり・・・でもだんだん、
速い時も遅い時もどんどん落ちていくのです。必死で深呼吸を続けました。バルーンを
入れてから一時間くらいだったかな・・・「せっかく主人が来ているのに、いつ呼んで
くれるんだろう・・・呼んでくれないのは大丈夫ってことなのかな?でももうだめなんじゃ
ないか・・・・・」と、たまらなくなり、ナースコールしようかとても迷いました。
そのうちに(陣痛室に入ってから、2〜3時間はたっていたのかな)主人を呼んでくれま
した。主人は頭に陣痛室用の(?)帽子をかぶっていましたが、その姿があまりに
おかしくて、ちょっと笑ってしまいました。主人は全く様子がわかっていなかったので、
今までのことを細かく説明しました。もう心拍数は50〜30くらいだったと思います。

さよなら たっちゃん

主人の職場は、その日は多忙を極めていました。どうしても電話をかけなければ
ならないということで、主人は一旦部屋を出て行きました。
主人が電話を終えて帰ってくる直前に心拍数が70位に安定したような感じになりました。
「パパが戻ってきたら、心拍数が上がったよ!喜んでいるんだよ!」なんて話して
喜びました。でも、そのうちになんとなく嫌な予感が・・・。
そう、臍帯穿刺の時と同じように、「これは私の心拍数じゃないか?」という気がしました。
自分で自分の心拍を測ると、なんだか似ているのです。しかも、たまに監視装置は140
とか190とか変な数字も出るようになったのです。次第に・・・・・私はたつきが力尽きて
しまったことを感じざるをえなくなりました。だって、心拍数が60ぐらいに落ちてから
さらに時間をかけてゆっくりと50〜30位に低下していったのに、
急に70ぐらいに戻って安定するなんて、考えられません。
私は、自分の心拍をみるために手首を触りながら、わざとドキドキしてみたりして
自分の心拍を速めたりしました。私の心拍が少し速くなると、やっぱり監視装置の音も速
くなる気がしました。何度か繰り返しました。やはり「気のせい」ではなくて、
「そっくり」でした。

主人が、「看護婦さんに聞こう、機械の調子がおかしいのかもしれないし」
と言って看護婦さんを呼びました。私の心拍ではないか私の手首を触りながら診てくれま
したが、考えて「違いますよ」と言うのです。170とかになってしまうことについては
「ちょっと脈が乱れているのですね」と。
私は「変だなあ〜看護婦さんは隠しているんじゃないか」と思いました。
そのような状況がずっと続きました。主人に再度「これね、看護婦さんが気遣って隠して
いるんだと思う。私にはわかるから。たっちゃん、さよならなんだよ・・」というと、
主人が「そんなこと無いって、さっき言われたじゃないか、それじゃあもう一度看護婦さん
を呼んで確認してもらおうよ」と言いました。私は、「もういいから・・」
と繰り返したのですが、結局また看護婦さんに来てもらうことになりました。

看護婦さんは一通り診た後、ドップラー(おなかに直接あてて心音を聞く機械)をとりに
行きそちらで確認してくれましたが、やはり何も聞こえませんでした。その看護婦さんが
慌てて他の看護婦さんを呼びに行きました。暫くすると他の看護婦さんが来て、
「お母さんの心拍をひろってしまうことはないからね」と再度言いました。
主人の様子を見てそのように言ったのかもしれませんし、このような場合にはごまかす
ようにしているのかもしれません。どうしてなのかは、よくわかりません。
きっとダメだと思いつつも、「そんなこともあるのかな?」と、
きつねにつままれたような感じでした。

こんな私達を見て、たっちゃんはどう思ったのかな・・・。
暫くして、看護婦さんが主人に「今のところ安定しているので今のうちにお食事されても
良いですよ」と言ってくださり、主人が陣痛室から出て行きました。

個室に戻って出産待機

少しして、看護婦さんが「分娩監視装置は30以下になるとひろえなくなっちゃうの、
脈が乱れてしまっているので、赤ちゃんの心拍を記録するグラフはもうはずしましょうか?
気になるでしょう・・・」と言うのです。納得して、陣痛の強さをみるグラフだけにしてもらい
ました。「まだまだ、赤ちゃん生まれないみたいだから、もしよかったらこのまま個室に帰っ
てご主人や上のお子さんに来てもらってお産まで過ごしても良いですよ。」と
おっしゃってくださったので、そのように(個室に戻るように)してもらいました。
こんなに落ち着いていられるのも、無痛(麻酔)分娩のおかげだったと思います。
(と言っても、涙は何度も流れていました。)
ベットごと個室に戻り、ベットの上から手を伸ばして自分で自宅で待っている母に電話し
ました。30分もしないうちに上の子と母が病室に来てくれて、みんなで話しながら
過ごしました。途中何度か、医師と看護婦さんが診察に来ました。

3時ごろだったでしょうか、「まだだね〜もしこのままお産が進まないようだったら
今日はいったん中止して、明日にしたほうがいいかなって言っているんですよ・・・」
と女医さんに言われ、大ショックでした。
「赤ちゃん死んじゃったのに・・・亡くなった赤ちゃんをお腹に入れたままもう一晩
すごすなんて・・・」とパニックになりそうでした。「こんなことなら今日誘発しなきゃ
良かったじゃないか・・・」と。それまでは、できるけ長くお腹にいれておいて
あげることがたつきの為だと思ったけれど、もう亡くなってしまったのなら、
事情が変わります。このままだと、たつきの体が傷んでしまいます。
「そんなの嫌だ、今日生まれて・・・早く会いたい・・・」とひたすら願いました。

4時過ぎ、急に「プ〜」っとおならのような音が出ました。「ごめんね〜おなら出ちゃった」
と苦笑い。でも、おならだけじゃなさそうな感じ・・・もしかして?麻酔をしているので
はっきりとは感じないのですが何かが出てきそうな感じがして、ナースコールしました。
「もう、頭がここまで来ているので分娩室に行きましょう!」と言われ、
ベットのまま分娩室へ移動しました。

静かな出産

分娩室には勉強の為なのか沢山の看護婦さん(助産婦さん)がいました。
少し離れたところに、医師、そして小児科の医師も立ち会ってくれているとのことでした。

この時は、上の子を産んだ時のことを思い出していました。
朝から誘発を始めて4時半過ぎに生まれるなんて、全くお兄ちゃんと同じだなあ・・・。
でも、上の子を産んだときは、怖い助産婦さんに怒鳴られながらの出産でした。
上の子の時は助産婦さんが「この子は男の子で、小さいし破水しちゃってるからとっても
苦しいんだよ、お母さんが頑張らないと赤ちゃん死んじゃうよ!!」
「この人、陣痛が短すぎるんだよね〜!もっと長くいきんで!」
「首を上げてって言っているでしょう!!」 ちょっとうめき声がもれるだけでも
「声を出さないって言ってるでしょう!」と怒鳴られまくり。
産声を上げたときは「なんだ〜元気じゃん・・・」と気が抜けてしまったお産でした。
「赤ちゃん死んじゃうよ!」「死んじゃうよ!」と何度も言われたので、
よっぽど弱ってしまっているのかと思ったし、あまりの痛みにパニック状態だったから
です。この時、「赤ちゃん死んじゃうよ」と何度も言われたことは、何とも言えない・・
とても嫌な思い出でした。

それが、今度は本当に死んでしまった子供を産むことになったのです。
あの時の出産に比べて、沢山の良心的な看護婦さん(助産婦さん)に囲まれて、
みんなが励ましてくれて、全く違うお産でした。 皆さんに囲まれて「ほらね!頭が出たよ、
見える?」と言われ、私も頭を起こしてもらってしっかり見ました。
たつきは、ヌ〜っと出てきました。

髪の毛が黒々としているところが上の子にそっくりだと思いました。
「おめでとうございます」の言葉が無い出産。でも大勢の方が見てくれていたこと、
それは、場合によっては大学病院の嫌なところかもしれませんが、
この時は、ちょっと嬉しく感じました。だって、他の人には、もうたつきを見せることが
できなくなったのですから。なんだか皆さんに祝福してもらったような気さえしました。
どうか、みなさん、出産で亡くなった18トリソミーのたつきの姿を
忘れないでいてください・・。

私は、「ああ今日生まれてよかった・・・」と、ほっとしました。たつきは体を拭いても
らって小児科医の方の診察を受けていました。看護婦さんに「このままお母さんのベットに
乗せて、一緒に病室に戻っても良いけれど、どうしますか?」と聞かれました。
そのようにしたい気もしましたが、紫色の(もしくは白い布を顔にかけた)赤ちゃんを
乗せて、廊下を移動しているところを他の入院中の方がみたらびっくりするだろうと
思ったので、たつきは後から小さなベットで連れてきてもらうことにしました。

対面する

病室に戻ると、主人が医師から説明を受けた後でした。「独特の手指のかさなり、そけい
ヘルニアが外見上わかるけれど、きれいな赤ちゃんです、って言っていたよ」と言いました。
「それから、問題がなければ明日退院だって・・・」と言われ、びっくりしました。
無痛分娩はお母さんがあまり消耗しないのです。上の子の時には傷の治りが悪くて
半年間苦しんだ会院切開もしなかったので、(自然に切れてしまったところは
縫合しましたが)確かに「母体に負担がかからないお産」だったようです。

いよいよ、たつきが病室へ入って来ました。わかっていても紫色になっているのが
初めは気になりましたが、一目見て「お兄ちゃんにそっくり!!」って思いました。
ただ、すやすやと寝ているだけのような安らかな顔。よ〜く見ると右手の人差し指が
かなり曲がっていました。左の顎が小さくて、左の耳も小さくていくぶん下のほうに
ついていました。何も知らずに気付いたらとても驚いたと思いますが、
事前にわかっていたのでじっくり見ることができました。
自分の子供だと、ただのかわいい個性のひとつだなあ〜と感じました。

この時は亡くなってしまったと言う事実よりも、会えたことが嬉しくてハイになっていた
気がします。それに、思っていたより(などと書くとたつきに失礼なのですが、)
ずっとずっとかわいくて「かわいいね〜すごくかわいいね〜かわいい赤ちゃんで
良かったね〜」と何度も言いながら写真やビデオをとったり、抱っこしたりしていました。
涙を流しながらも笑っていました。
抱っこするとまだ温かくて、思ったよりもずっしりと重かった。

ただ、上の子に亡くなっていることを伝えていなかったので、上の子は
「かわいいね〜病気だったのによく頑張ったね、偉いね〜」と言い、とっても嬉しそう。
もうすぐ五歳の長男は、お兄ちゃんになることを本当に楽しみにしていました。
一人だけなんともいえない晴れやかな(?)笑顔なのです。「抱っこもさせて」と言うので、
させてあげました。そして「ミルクは?ミルクあげなくていいの?」と何度も聞くのです。
その言葉に、主人が大泣きしてしまいました。私も「死んじゃったの」と言えずに、
「今はネンネしているからいらないんだよ・・」と答えてしまいました。

その後についての説明を受ける

暫くしてから、看護婦さんが来て、たつきをどうするか説明に来てくれました。
自分で手続きをしても良いし、葬儀屋さんをたのんでも良い等、いろいろな方法の説明
をしてくれたのですが、私は主人任せで、ほとんど耳に入らない状態。それなのに
主人も同じだったのです。後から、また説明に来てくれたのですが、
二人ともちっとも飲み込めず、何度も同じような説明を繰り返していただくことに
なってしまいました。結局、葬儀屋さんのお話を聞いてみることにしました。
あんまり、すぐに葬儀屋さんが到着したのでびっくりしました。
どうやら、この大学病院の関連会社(?)のようでした。

ここでも、また私達は、なかなか説明が頭に入らず、何度も説明を繰り返してもらいま
した。そして、赤ちゃんの場合は書類の手続きや火葬を葬儀屋さんに代行してもらい、
お骨を手渡してもらうことが多いと聞きました。でも、火葬場が家の近くだったので
火葬に立ち会いたいと思い、12月24日(日)に火葬場で立ち会うまでたつきを預かって
いただくことに決めました。また書類などの手続きも代行して頂くことにしました。
そのまま、たつきを連れて行ってもらうのは忍びないので、翌日の私の退院の時に
葬儀屋さんに再度来てもらって、たつきを預けることにし、それまでは病棟で預かって
もらい、会いたい時には会わせていただけるようにしてもらいました。
その夜は、本当は一晩中一緒に過ごしたかったのですが、傷んでしまうとのことで、
夜9時の面会終了時間まで、一緒に過ごしました。

翌日の退院

お産の夜から後陣痛の痛みが押し寄せて大変でした。二人目は後陣痛が大変とは聞い
ていたけれど、本当の陣痛は麻酔で過ごしてしまったからなのか、とにかく定期的に
激痛が走るのです。退院前の内診の時、「はい大丈夫です」と言われ、
こんなに痛いのに本当に大丈夫なのかしら?と思いました。
主人が迎えに来てくれて、再度たつきに対面し、二人で折り紙で車や飛行機を作って
棺に入れてもらうことにしました。あとから、あわてて折り紙に名前を書いてあげたり
しました。葬儀屋さんはたつきをシーツで巻いて、抱えて出て行きました。

看護婦さんに、「2000年で、18トリソミーの子のお産は、5人目くらいだったと思う」
と言われました。私のように他の病院から来る人が集まるからでしょうが、
それにしても多いな〜と思いました。それから、死産届けの死因に
「18トリソミー」と書いてありました。それって死因なのかしら??と思いました。

看護婦さんには、細かいところまで配慮していただき、感謝の気持ちが一杯でした。
私に対して特に何か言うことは無かったけれど、私が質問すること(次子への不安等)
には親身にお答え頂きました。皆さんにきちんとお礼をしてから退院したいと思っていた
のですが、いざ帰ろうとした時はナースステーションにはお一人しかいらっしゃらず、
なんだかバタバタと病院を後にしてしまいました。

退院してから

退院してからというもの、お産直後のハイだった状況から打って変わって、
悲しみのどん底に突き落とされてしまいまいした。何度も襲ってくる後陣痛の痛みに
冷や汗が出そうなくらい。でも、少なくともお産の時にはたつきだけが苦しい思い
をして、私は痛みを感じていなかったんだから、このくらいガマンガマン・・・といくら
自分い言い聞かせても、こんな痛い思いをして、どうして私は赤ちゃんを抱けないの?
どうして横に赤ちゃんがいないの?と思うと泣けて泣けてどうしようもなくなって
しまうのです。目は真っ赤に腫れあがったままでした。
それに、誘発しなければまだ元気だったかもしれない・・・
と思うと胸が張り裂けそうでした。私が、入院拒否していれば・・・
病院から逃げ脱していれば・・・一緒にクリスマスを過ごせたかもしれないのに・・・。

帝王切開をしていれば、出生届を出せたのではないか?という思いにも苦しみました。
出生届にはこどもの名前を書く欄が当然ありますが、死産届には無いのです。
私は、せっかくここまで大きく育ったたつきの名前を、書類に残せなかったこと
戸籍に名前を残してあげられなかったことが、悲しくてたまりませんでした。

また、お産直後から母乳を止める薬を飲んでいたのですが、産後三日くらいには
だいぶおっぱいが張って痛くなり、腹部と胸の痛みと空しさで心も体もボロボロでした。
主人や実母から、「早くスッキリして・・・」と言われるたびに、「私があの子を忘れて
しまったら、この世から忘れ去られてしまう。生まれた意味さえ無くなってしまう。」
としか思えずに、余計に悲しくなったりしました。

その後のお話しへ

たつきのお話しトップページへ戻る