その後のお話  

火葬する
12月24日、クリスマスイブの日に、すぐ近くの火葬場に向かいました。私の母と兄が
来てくれました。たつきは小さな棺に入ったまま、私達を待っていました。
とても冷たくなっていました。そして紫というより赤っぽく見えました。

火葬には45分くらいかかると言われていたのに、結局1時間半弱くらいかかったで
しょうか、やっと呼ばれました。たつきのお骨をみてまたちょっと驚いてしまいました。
もっとカサカサの粉になっていると思ったのに体の形がわかるように並べて下さって
あったのです。特に足の骨は、しっかり形があって、感激しました。
たつきのお骨は、全部私が食べたカルシュームなんだ・・・とぼんやり思いました。
元気な子になってね、丈夫になってね、って思いながら元気に食べていたことを
思い出して、涙が出ました。
ゆっくりと形が残るように焼いて下さったから時間がかかったのかな、と思いました。

納骨する
納骨はどうするのか悩みました。ほんの少ししかこの家にいられなかったたつきを、
すぐにお墓に入れてしまうのはとてもたまらないことでした。
私の母には「いつまでも置いておかないで、早く納骨したほうが・・」と言われましたが、
いつまでも置いておきたいと思っていました。ところが、あることがきっかけで、
亡くなってから約二ヶ月後の翌年2月18日に納骨することになりました。

きっかけと言うのは、翌年2月19日から三泊四日で沖縄に旅行に行くことになった
からなのです。この年は主人が入社11年目にあたり、一週間のリフレッシュ休暇が
もらえる年でした。妊娠出産の為に旅行はあきらめていましたが、
実は何年も前からこの休暇で「ハワイに行こう!!」などと楽しみにしてたのです。

死産後の悲しみのどん底の日々を送っていたこの時の私にとって、
ハワイだのグアムだのと言われても、何の救いも楽しみも無くなってしまい
「行きたくない」と言い張りました。でも、主人が「せっかくだからリフレッシュしよう!」
と強く言うので、結局海外ではなく「沖縄」に行くことにしたのです。

お骨は?たった一人でお留守番させるの?その時は一緒に連れて行くことは
思いつきませんでした。それで、普通に人が亡くなった場合は、四十九日に納骨
することが多いのだから、たつきもそのようにしてあげる方がいいのではないか、
と考えるようになり、急遽、沖縄に行く前日に納骨することに決め手配しました。

お墓は義父母が、以前に買ってあったもので、まだ、お骨は入っていませんでした。
ぽつんと置かれた小さな骨壷を見て、たったひとりで寂しいのではないか・・・
と切なくなりましたが、お骨はお墓が一番落ち着く所のような気がして、
私の気持ちも落ち着きました。

祭壇(?)や、供養はどうする?
我が家は浄土真宗なのですが、私の実家は神道だったので、私は仏教について殆ど
知りませんでした。また、私の実家・主人の実家とも形式にはこだわらない方だったので、
葬儀などについては特に考えなかったのですが、仏壇は?供養は?と悩むようになり、
本屋で、「よくわかる仏教の知識百科」 監修 ひろさちや  主婦と生活社
という本を見つけて興味のあるところを、読んでみました。
この本で、「親に先立つ死は、罪になる・・・三途の川を渡れない」
「お地蔵さんが、成仏できない子供の霊を極楽浄土に連れて行ってくれる」
「子どものことを忘れないでいると、子どもの成仏をさまたげることになる」
(昔から、そうでも言わなければならないほど辛いことだったと言う事らしい・・・)
などという、仏教の考え方を知りました。な・な・なんと言うことでしょう・・・・・。
よく見かけるお地蔵さんが、そのようなお役目を果たしていることを初めて知りました。
いろいろ考えて、結局仏壇を買わないことに決めましたが、
たつきのお骨を置いておいたところを祭壇のような場所にしようと思いました。
そして自分でフェルトで小さなお地蔵さんを作りました。
今ではそこに、おもちゃや戴いたぬいぐるみ等も飾って、たつきのスペースにしています。

供養について、インターネット等でもいろいろ調べましたが、なんでも出生前に亡く
なった場合は、「水子」になるそうで、とても悲しくなりました。アドバイスは、
中絶した方向けのものが多くて・・。確かに、出生前に子どもの命・成長をあきらめ
ざるをえなかった・・・と言う意味では同じなのかもしれないけれど・・・。
結局、形式よりも大切なことは「想う気持ち」だなと思って、私たちがたっちゃんに
してあげたいな・・・と思ったことをしていれば、それが供養だと考えるようになりました。

 ちょっと後悔したこと・・・
私たちはたつきの写真もビデオも撮りました。写真は、今でもよく見ていて
撮っておいて良かったと思っています。ただ、その時はデジカメを持っていなかったので、
現像に出さなければいけませんでした。紫色の赤ちゃん、その赤ちゃんを抱いて撮った
家族写真、火葬場での写真。それらを見た写真屋さんは、随分驚かれたと思います。
デジカメを買っておけば良かったとちょっと後悔しました。

また、これは死産から一年以上が過ぎてからのことですが、
たつきの血液型って何型だったのかな?と、ふと思ったとき、愕然としました。
たつきとお別れするとき、やわらかい髪の毛や、かわいい爪などを
とっておこうか迷いましたが、「辛くなるだろうから・・・」と思って
何もとって置かなかったのです。もちろん、臍のうすらありません。
血液型なんて些細なことだと思うけど、それすら今となっては調べられないのです。
あの時は、あまりの事でなかなか気が回らず、「とっておかないほうがよいのでは・・」
と思ってしまったけれど、思い出になりそうなものは、出来るだけとっておいた
方が良かったなと後悔しています。捨てるのは後からでも出来るのですから。

私たちは写真はよく見ていますが、ビデオはまだ辛くて見る気持ちになれないでいます。
何年かたったら、私が年老いたら・・・見たくなるかもしれないなと思って、
その時まで・・・と、とっておいてあります。

 沖縄旅行のお話し

話は変わりますが、沖縄へは先ほど書いたように、たつきを亡くしてまだ2ヶ月
たってないころ三泊四日で行きました。出発は2月の下旬、羽田空港を出る時には
厚いコートの下にフリースまで着ていましたが、沖縄に下りたら、長袖のTシャツ一枚で
十分の暖かさ。同じ日本とはとても思えませんでした。
三人分のコートにフリース・・・いきなり大きな荷物が増えました。

南の島は初めての私達にとって、飛行機から美しい明るいブルーの海を
見ただけでかなり舞い上がっていました。大感激で沖縄に着きました。
早速、レンタカーを借りて首里城から見学です。その後はMビーチホテルでのんびり2泊。
ビーチには数人しかお客さんがいなくて、まるでプライベートビーチ状態。
2月に海水浴は無理だろうと思って水着を持っていかなかったのは失敗でした。
海水浴は無理でも(無理じゃないかも?)ホテルの屋外プール
はいつでも入れるんだそう。楽しそうに入っている人がいました。
半潜水艦(?)に載って、お魚ウォッチングも素敵でした。なんたって、
背景の海の色がすばらしい。水際のキラキラとした輝きと、透明〜薄いブルー〜
濃いブルーとなってゆく海の色のグラデーションも絶品です。これが2月??

ここで、ギャフンとなる出来事がありました。私が長男に「沖縄の砂の色って、白くて
きれいだねえ」というと、「沖縄の砂の色って、お骨みたいな色できれいだねえ」と
言ったのです。私は言葉を失ってしまいました。確かに・・・たつきのお骨の色、
その灰の色にそっくりでした。

その後は那覇のホテルに一泊して、平和記念公園やひめゆり平和記念館を見学しまし
た。南下する道路を走りながら、ここはかつで戦場だったのだ・・という思いに胸が痛く
なりました。平和記念講公園に着くとその日は真夏の暑さで、半そでを持ってこな
かったことを大後悔しました。2月にこんなに暑いなんて・・・。汗を拭き拭き歩きながら、
4月から始まった米軍の上陸、その戦場がどんなに過酷であったかを想いました。
予備知識をあまりもたずに行った私は、平和の礎(いしじ)を見て圧倒されました。

犠牲となった方々のお名前が丁寧にすべて石に刻まれており、
お名前がどこにあるのか個人名から検索できるようになっていました。
所々に花束が置かれていて、歩きながら涙が出ました。
有名な摩文仁の丘は、青い海に美しくそそり立っていました。とても静かでした。
平和資料館で、たくさん置かれているお一人お一人の壮絶な手記を少しだけ読み
ました。防空壕の中で、泣き声がうるさいからと、日本兵によって殺された赤ちゃん
やお子さんの話が一番辛かった。「泣くな」といっても泣き止まないのが子どもです。
お母さんが必死で泣き止ませようと口をふさいで・・・というフレーズが・・・。

ひめゆりの記念館も、想像以上に胸を痛めました。壁に亡くなった方々の顔写真と、
どのように亡くなったのかがお一人お一人書かれていました。
ここでは公式ガイドブックを買い、家に帰ってから、泣きながらじっくりと読みました。
今でもたまに読み返しています。

たつきを亡くしてどん底の気持ちだったけれど、私はまず生きることが出来る。
それはどんなに素晴らしいことかと感じました。
優しい夫にかわいい子どもにも恵まれているじゃないかと、改めて感じました。
もちろん、平和の尊さと、平和を守ることの大切さも。

また沖縄の郷土料理はどれもとても美味しく、
心身ともにリフレッシュすることができ、行って良かったと思いました。

  原因探しをした日々・・・

なんで、私の中で、あの時染色体の不分離がおきたのだろう??
とあれこれ考えた時期もありました。多くの場合は突発的で原因不明・・・
高齢になるとリスクが高くなる・・・・・と、何を読んでも書いてありました。
当時33歳だったので、年齢のこともあるのかな・・・と思いました。
でも、医師には「まだ33歳でしょ、20代の方もいますよ・・・」と言われました。

私がたつきを妊娠した時は、とにかく早く赤ちゃんが欲しくてしょうがなく、
ひどい花粉症であるにもかかわらず、薬を飲まずに耐えて妊娠を望んでいました。
その代わり、絶え間なく流れる鼻水と涙、目のかゆみで、夜もよく眠れないほど
ボロボロでした。花粉症に効くというハーブティーだけは飲んでいました。
あの辛さに耐えたからこそ、余計に妊娠は嬉しかったのです。
ですから、後から「あんなに無理をしたからこんなことに??」と思ったり。

また、ちょうど排卵の時期にパーマをかけていたので、「薬品のせいで?」
と思ってしまったり。もともと、薬品類の匂いが苦手で、家庭用洗剤や漂白剤で
気分が悪くなることがたまにありました。

「電磁波かも・・・」と思ったこともありました。私は実父を白血病で亡くしています。
実家近くに高圧線の鉄塔がたっているので、そのことが前から気になっていました。
(子どもの白血病と電磁波の関係のことを、雑誌やTVで目にしたことがあったので)
転勤で現在のマンションに引越しをするときも、同じように高圧線の鉄塔がたくさん
あるのがとても嫌だったのですが、まあこのくらい離れていれば大丈夫
かなあ〜と思っていたのです。冬になれば使っていたホットカーペット、ベランダの
目の前の電線も良くないと後から聞いて、ショックを受けたこともありました。

時が経つに連れて、あれこれ考えてもしょうがないし、次回に同じようなことが
おこらないようにする方法も無いのだから・・・・・と思うようになりました。
(もちろん、体に良くないものはなるべく遠ざけるべきですが。)

たつきがたくさんのメッセージを持って、特別な運命を背負って
私の子どもとして生まれて来たことは、偶然じゃ無くて決まっていたのだ・・・
そう思うようになってからは、原因探しはあまりしなくなりました。

 健康な赤ちゃんが生まれるのって・・・

後から、「報告にばらつきはあるものの、全ての受精卵の30〜40%が
染色体異常とされているが、そのほとんどが着床までたどりつかないし、着床しても
流産になったりして、出産までたどりつくまでには約160人に一人にまで減っている」
ということを知りました。驚くべき数字です。

たつきが生まれる少し前、個室で家族と一緒にお産を待っている時でしたが、
女性医師が「今日ね、○○さん(私)と同じようなことが二回続いて
三回目の出産でやっと元気な赤ちゃんを抱けた人がいるの。
『信じられない』って言って、泣いてたよ」と、言いました。
私は、死産なんてこれで最初で最後と思って気を張っていたので、その言葉は
とても・・・ショックでした・・・。主人が「18番なんですか?」と聞いたら
「二回とも違う」とのお答えでした。
また、医師は「大学病院でもね、さすがに2回続くっていうのはとってもめずらしい
ですよ。みんなは、赤ちゃんが生まれることって簡単だと思っているけれど
健康な赤ちゃんが生まれるのって大変なことなんですよ」とも。
全く、そのとおりなんだと思います。

 あれから2年がたって・・・

たつきが亡くなってから2年の月日が流れました。時が過ぎれば、苦しさも薄らぎ、
思い出すことも減るのだろうと思っていました。
一周忌までの間は、妊娠の喜び、不安、絶望、苦しみ・・・と一年前の出来事が
あざやかに思い浮かんでしまい、その度に、重苦しい気持ちになりました。
でも、二年が過ぎると、苦しさは薄れてきた気がします。

ところが、思い出すことが減る・・・ということはまだ無いのです。
たつきは毎日、いつでも私の心の中にいるのです。

私の場合、その後一番苦しんだのは、誘発したことでした。
その件では、いつまでも、いつまでも、自分を責めつづけました。
いつかたつきに会えたら、謝らなくちゃ・・・謝らなくちゃと・・。
病院を責めるつもりは全くありません。
先生だって、弱ってしまう前に出してあげようとしたのだと思います。
それでも、あの時「ママ助けて!ママどうして?」って思っていたかも
しれない・・・と思うとたまらなくなり、ボロボロと泣いてしまうのです。

去年の夏、死産から一年半ほどが過ぎた時も、そのことを考えて号泣して
しまいました。嗚咽が止まらなくなってしまった私に、主人は
「親が苦しんでいるのを喜ぶ子どもがいるか!」と言いました。
その時、ハッとしました。たっちゃんは私を苦しめる為に生まれたんじゃない。
私が苦しんでいるのを喜ぶような子ではない。

自分を責めるのはもうやめよう。私を成長させてくれたたっちゃんへの
感謝の気持ちを大切にしなくちゃと、改めて思いました。

たっちゃん、このお家に生まれてくれてありがとう!
いつも一緒だからね!
パパもママも、お兄ちゃんも、あなたのことが大好きです!


たつきについてのお話は、とりあえずこれで終わりです。
長々とお読みいただきまして、誠にありがとうございました。(2003.1月)

18トリソミーに想うへ

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