クグツガリ

とおりゃんせ 一

 桐紗という新たな存在が加わって数日も経過した頃には、彼女はまるで今までもずっといたかのようにクラスと馴染んでいた。ただ、一見変わり映えのしないものに戻ったはずの日常に桐紗が加わったことは、少なくとも美佐子にとっては重大な変化には違いない。
「ねえねえ、知ってる?」
 部活のない日の学校帰りには、美佐子と奈美、桐紗の三人で歩くことになる。
「B組の糸井敦子ちゃんって昨日から休んでるんだけど、今、北区の病院に入院してるんだって。自転車でずっこけちゃったらしいよ」
「へえ、言っちゃあ何だけど、ドジだねえ」
 奈美と桐紗が間に美佐子を挟みながらことばを交わしている。
 晴れた日の放課後だ。やや強過ぎるくらいの日差しに顔をしかめながら、美佐子は糸井敦子の、短く髪を刈り上げた活発そうな顔を思い浮かべてみた。
 クラスが違うのもあって、もともと話す機会も余りない相手だ。ただ奈美と同じテニス部の部員なので、放課後に顔を見る機会は何度もあった。
「どうする、お見舞いに行ってみる?」
 そう切り出してみると、奈美はほっとしたような笑顔を見せた。
「そう言ってもらえると助かるわ。あっちの方ってあんまり行ったことないし、一人でお見舞いって行きづらいのよね」
「じゃ、何かお菓子でも買って行かないとね。途中でお勧めのお菓子屋さんがあるんだ」
 当然のように桐紗も同行するつもりらしい。
「へえ、桐紗ちゃんてけっこうこの町に詳しいね」
 奈美の感心したようなことばに桐紗は、んー、と少しの間考え込んだあと、
「昔住んでたことがあるんだ。まあ、ほんの少しの間だけだけどね」
 太陽がだいぶ傾いてきた空を見上げながら言う。
 陽が落ちる前に見舞いを済ませて帰るために三人は店で菓子を買うと、足を速めて北区に向かった。駅前通りを抜けて、少し寂しげな街並みに入る。周りから少し高くなった川沿いの道路から、脇道に逸れたところに病院があった。静かで、養生するには良さそうな場所だ。
 二階の四人部屋の入り口の壁に、見知らぬ名前と並んで糸井敦子の名前があった。
「奈美、来てくれたんだ」
 窓際のベッドの上で漫画を読んでいたボーイッシュな少女が顔を上げる。後頭部と左の手首から手の甲が白い包帯に包まれていた。
「はい、これお土産」
 奈美が見舞いの品である二種類のカップケーキを渡すと、敦子は嬉しそうに笑う。
「わー、おいしそう。ありがとうね、奈美も美佐子ちゃんも桐紗ちゃんも」
 転校初日に有名人になっていた桐紗はともかく、自分の名前も覚えられていたことに美佐子は少し嬉しくなって口を開いた。
「いつごろ退院できそうなの?」
「歩けないわけじゃないし、ほとんど検査入院だけなんだ。近いうちに退院できるって先生が」
「そっかぁ。良かったわね」
 ベッドの縁に腰を下ろした奈美がほっと息を吐く。
「にしても、あんたもけっこうドジよねー。なんだって転んだの? ああ、何か動物でも飛び出してきて避けようとしたとか?」
 それは、美佐子もききたいところだった。見るからに運動神経の良さそうな敦子が、使い慣れた自転車で転倒することが信じられない。転倒したとしても、大怪我を負うほど無防備な状態にはなりにくいはずだ。
 当然の疑問に、敦子は少し口ごもってから答えた。
「部活終わったあと、お祖母ちゃん家に頼まれたお使い買って行こうとしてさ……辺りがけっこう暗くなってたから急いでたんだけど、子どもの声が聞こえた気がしたんだ。もしぶつかりでもしたら大変だから、急ブレーキかけたんだけど……」 
「それでハンドル操作を誤ったわけ?」
「そうじゃなくて、何かにぶつかって弾かれた。川に落ちそうだったけど、どうにかそれは避けたよ」
 暗い中なら、石でも転がっていたのにそれに気付かなかったのかもしれない。
 美佐子はそう考えたが、親友の方は違っていた。
「それって……もしかして、トオラセンの橋じゃない?」
 目を輝かせて身をのり出す姿を見るなり、少し呆れる。
 ――ああ、奈美の悪い癖が出たわ。
「トオラセン? 何それ?」
 同居人の思いなど露知らず、桐紗が問う。かつてこの町に住んでいた彼女でも知らないほど、マニアックな知識に違いない。
「ここの近くにあるの。暗い夜に一人でその橋を通ろうとすると、女の子の歌声が聞こえてくるんだって。噂によると、いじめられて不幸な死に方をした女の子の霊が祟っているとか」
「奈美……そんなこと言って、敦子ちゃんに失礼じゃない」
「んー、でも……
 オカルト好きの友人のことばを、意外にも敦子の方は真面目に聞いていた。
「確かに、あれは歌声に聞こえなくもなかった……かも」
 完全に信じているわけではなさそうだが、遠い目をして記憶を探る。
「あれって確か、昔、信号渡ってるときとかに聞いたようなメロディだったかも。でも、ほんの短い間だったし、風を切る音がそう聞こえただけだって言われればそうなのよね」
「そんなの、気のせい気のせい」
 美佐子が無理矢理話題を終わらせる。
 それでも、敦子の妙に真剣なまなざしと何かを考え込んでいるような桐紗の態度が、彼女の心に引っかかりを残した。
 そんな流れのあと、病院を出るなり、
「ねえ、例の橋、見てかない?」
 奈美がそう言い出すことは親友には想定内だった。
 夜闇はまだまだ訪れないものの周囲は黄昏に染まり、どこか非現実で不気味だ。それに、この周囲は静かで少し異様な雰囲気もある。
「イヤよ、帰るの遅れるし」
「ねえ、お願い。ほら、一人で渡るわけじゃないんだから大丈夫だって。ちょっと離れたとこから見るだけだから、ね? 桐紗ちゃんもいいでしょ?」
 美佐子が即座に拒否するものの、奈美も簡単には引かない。彼女は桐紗に後押しを求める。
「ま、いいんじゃない?」
 二人の視線を受けた少女は、美佐子が願っていた答えとは正反対のことを軽く言った。
「大丈夫、すぐ近くだから。ほら」
 奈美が意気揚々とあきらめた親友の手を引き、歩きながら指をさす。
 確かに目的の橋は、川沿いの道を病院への脇道を越えてそれほど歩かない辺りにあった。コンクリートでできたその橋は車二台分程度の長さの、極普通の橋だ。欄干に打ち付けられたプレートには『楽駕北第二橋』と彫られている。
 橋の手前の脇には若い樹があり、橋の向こうは少し背の高い建物が並んでいる。橋の手前のこの辺りにも多い、ビジネスホテルや企業の事務所が入ったビル、廃ビルなどだ。
「普通の橋だねえ」
 桐紗が思わず洩らした一言が、橋の全容を表わしていた。
 脇の川縁には一定間隔で大きな排水溝が口を開け、昔は水害があったのかもしれないと思わせるが、今は川の水量も減り橋にも激流に晒されたような痕跡はない。
「そんなに古くもなさそうだし、着物の女の子が現われるって感じじゃないね」
「あたしも詳しいことは知らないけど、時代劇とかの舞台になりそうな頃のオバケじゃないみたい」
 会話をする二人の後ろから、美佐子は前方をチラリと見たきり目を逸らしていた。先入観から来る思い込みかもしれないが、橋から何となく嫌なものを感じていた。
 傀儡と初めて遭遇したあの家、事故が多発する交差点、高校の裏山――そういった場所で感じる何かと似ている気がする。
「ねえ、早く帰ろうよ。遅くなるわよ」
 美佐子が声をかけ、二人が振り向く。
「そうだね、帰ろうか」
 見ていて何かが変わるわけでもないただの橋だ。奈美ももう飽きてきたらしく、すぐに賛成した。
 あとはいつもと変わらない。他愛のない世間話をしながら帰路につく。美佐子は、橋から遠く離れるまで背中の方が薄ら寒い気がしたのは、気のせいだと思うことにした。

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