クグツガリ

傀儡狩り 二

 授業が終わり、班の担当になった場所の掃除も済ませると、部活のある生徒はそれぞれの部室へ向かう。この時間に多くの高校で見かけられる、いつもの光景だ。
 新しいクラスメイトが加わるといういつもと少し違う経験をした二年A組の生徒たちも、教室を出てしまえば普段と何も変わらない。
 昨日も一昨日もそうしたように、玄関を出た神代美佐子は少しの間フェンス越しにグラウンドを眺めていた。
 グラウンドでは進藤竜樹を含むサッカー部の部員たちが、準備運動やランニングに精を出している。
 奥のテニスコートでは、女子テニス部が賑やかに試合を始めていた。テニス部員の高木奈美もそこにいるはずだ。
 一度は竜樹やテニスコートの方を視界に捉えながら、彼女が視線で追いかけているのは、もっと背の高い姿。
 屈託のない笑顔に、ときどき聞こえる低く優しい声。あたたかそうな大きな手。そのどれもが、少女をなぜか、とても懐かしい気分にさせる。
 幼い頃失った、父の笑顔に、声に、手に似ているのか。いや、違う――思い返すたび、美佐子は自問自答する。このデジャ・ヴの原因は、父に関する記憶じゃない、と。
 憧れの先輩の姿は、幼い頃、優しく笑いかけてくれた父ではない誰かに似ていた。
 その誰かに似た彼に近付きたくて、美佐子は何度も、みんなと同じように部活に入りたいと思った。サッカー部のマネージャーになって、もっと近くでその姿を見たり声を聞いたり、応援できれば幸せだろうと。
 だが、それは彼女には許されないことだ。すぐに帰って、光江の手伝いをしなければならない。家族と居候五人、それに加えて夕方の稽古に来る師範と門下生二〇名余りの食事を作るのは、かなりの重労働だ。
「美佐子、これからお茶しに行かない? 今度さ、温泉街の近くに新しいデパートができたんだって。そこに入ってるクレープ屋が評判いいみたいでさ」
 そろそろ帰ろう、と身体の向きを反転させたところに、クラスメイトの女子三人組が歩み寄ってきた。
 自分でも卑屈だな、と感じる愛想笑いを浮かべて、美佐子は首を振る。
「ごめん、ちょっとぼーっとしちゃってたけど、ほんとは早く家に帰らないといけないの。また今度ね」
「そう、残念」
 肩を落とすクラスメイトの横を、逃げるように早足で抜ける。校門を出たところで妙に緊張していることに気がついて足を止めた。
 そこに、後ろからの声が届く。
「あの子、つき合い悪いね」
 ドキリとした。
 心臓を鷲掴みにされたようで、胸が痛くなる。耳を塞ぎたい気分なのに少しも動けず、しっかり耳をそばだててしまう。
「しょうがないでしょ、あの子んち、道場なんだから」
 哀れむような、同情を込めた声に、せっかく誘ってあげたのに、という調子の声が続く。
「それにしたって、ほとんど毎回じゃん? あれじゃ、いくら目当ての先輩がいても告白なんてしてる時間もないよねえ」
 聞いているうちに段々と余計に情けない気分になってくる。クラスメイトの言うことそのままを、当の美佐子も痛いくらいに実感していた。
 半分以上、あきらめているつもりだった。ただ、朝夕にその姿を眺めていられるだけでいいと。それでも完全にはあきらめきれず、大間先輩のことを考えると、心のどこかが痛む。その純粋な気持ちすら情けなかった。
「どうしたの、暗い顔して?」
 近づいてきた気配に、美佐子は気がつくことができなかった。すぐそばで声をかけられ、びくりと顔を上げる。
 そして転校生の笑顔を見ながら、今の友人たちのことばを聞かれていたら嫌だな、と思う。
「あのさ、あんた、北区なんでしょ?」
 聞こえていたのかどうかは不明だが、幸い、矢内桐紗は美佐子の友人関係にも、暗い表情の理由にも興味はないらしい。
「あたしも北区なんだ。まあ、もっと北の、駅前近くなんだけど。途中まで一緒に帰らない?」
「いいけど……
 桐紗は平気で一人で帰りそうなので、向こうから誘ってきたのが美佐子にとっては少し意外だった。
 どうにしろ、それは美佐子にとっては嬉しい頼みだ。この時間に北区に帰る同級生は少ない。治安が悪いわけではなくても、一人より二人のほうが心強い。
「んじゃ、よろしくね」
 校門を出て、並んで歩き出す。
 歩き出して間もなく、美佐子は滅多にないことだが自分から口を開いた。
「あの、矢内さん」
「桐紗でいいよ。こっちも、美佐子ちゃんって呼ぶから」
「じゃあ、桐紗ちゃんは、部活に入らないの? 断ってたみたいだけど……
 今更ながら、美佐子は転校生を独占していることに少し優越感を覚え、ついでなのでいくつか質問をしてみることにした。休み時間や昼休み、質問責めにあっている桐紗を遠巻きに眺めているだけだったものの、転校生への好奇心は人並みにある。
「あー、今は貯金があるから大丈夫なんだけど、バイトしないとやってけなくなるかもしれないし。あんまり保護者に迷惑掛けたくないしね」
 一人暮らし、というのは聞いていた。彼女の境遇に美佐子は少し共感する。
 両親の残した貯金と道場の収入で金銭的に困ることはないが、その道場のために美佐子が部活動に当てるはずの時間を割いて働いていることを考えれば、理由は似たようなものと言っても良いだろう。
「家族は遠いところに住んでるの?」
「うん、遠いよ。まあ、もう一人暮らしにも慣れちゃったけどね。慣れてみると、一人も気楽でいいものだよ」
 一人暮らしなど、美佐子には無縁の話だ。だからといって、桐紗の暮らしが自分の暮らしより楽だとは思わなかったが。
「食事の用意とか、洗濯とか、色々面倒臭いけどねえ」
 桐紗が溜め息交じりに言うのを聞くと同時に、美佐子は行く手に古い門を見つけて、気が重くなるのを感じた。
 表札の文字も剥げひび割れの走る門の奥には、白い外壁も汚れ、一見して長年雨風にさらされてきたのがわかる、二階建ての家がたたずんでいた。庭の草木も伸び放題で、家の全体像をほとんど隠している。
 美佐子は、その家の前を歩くのが嫌だった。まるでその一角だけいつも夜のように暗いかのようで不気味に感じる。いつもならもう少し遠回りしてでも迂回していくのだが、一緒に歩く友人に、『怖い家があるからここは通りたくない』などと我が儘は言えなかった。
 昔からたびたび妙な気配や人影を見ることはあるが、小学生のときに奇妙な動物を見たと口にしたところ、酷く馬鹿にされたことがあった。友だちの中でも信じてくれたのは竜樹くらいである。
 それ以来、彼女は奇妙なものを見てもそれを誰にも話さないようにしようと心に決めていた。
「どうかしたの、美佐子ちゃん?」
 桐紗は敏感に、となりを歩く少女の様子が少し変わったのを察知したようだ。
「ううん、なんでもない」
 ――そう、なんでもない。何も感じていない、平気なふりをしなくちゃ。
 古びた門の前を重い足取りで歩きながら、無理矢理笑みを浮かべる。背中には冷たいものが走り誰かに見られているような気配を感じるが、そんな素振りは面に出さない。
 それでも完全に無視はできなかった。門の前を抜けるとき、つい振り返ってしまう。
「え……
 いつもは見えない形が見えた。
 木々の間から蒼白く伸びたものは――あきらかに、人間の腕。
 気のせいかもしれないと思いたい美佐子の希望をよそに、それは何のためらいもなく木の陰から飛び出した。
 骨がないかのように捻じ曲がった手足に支えられた、痩せ細った身体。髪が半分抜けた男の顔は、上下逆についている。
「ひっ」
 悲鳴がのどに張り付いた。
 逃げたいのに、のそのそと長い草をかき分けて近づいてくる姿から目が離せない。濁った目と視線を絡めたまま、外すことができない。少しでも視線をそらすと、その瞬間にすべてが終わってしまいそうだった。
 ただ立ち尽くすだけの美佐子の手に、あたたかいものが触れた。
 次の瞬間、強く手を引かれる。
「逃げるよ」
 耳もとで桐紗がささやき、走り始める。足が動かず、半ば引きずられるように美佐子が続く。目を逸らす直前、奇妙な怪物の足が門の上にかかるのが見えた。
 一体、どこをどう逃げたものか。
 気がつけば、ただ手を引かれるままに何とか足を動かしている。
「そろそろだいじょぶか」
 振り返り、桐紗が歩調を緩めた。それでも美佐子はまだ安心する気にはなれない。
「それにしても、あれが見えるんだね、美佐子ちゃん」
 異様なものを目にしたというのに桐紗は動揺もなく、顔にはかすかに笑みすら浮かべている。
 一方の美佐子は、膝がガクガク震えていた。歯の根も合わず、奥歯がカチカチと乾いた音を立てる。
 桐紗は声をかけ、振り返って初めて相手の様子に気がついたらしい。
「怖いよね、そりゃあ……家まで送ってくから、帰ろう。もうあの家には近づかない方がいいかもね。大丈夫?」
「うん……
 何とかそれだけを言って、美佐子はただ、桐紗についていく。時折道をきかれるが、それに答えるのも半ば上の空だった。
 普段なら恥ずかしくてとてもできないことだが、家に着くまでの間ずっと桐紗の手を握り続ける。その温もりがなければ、とても安心できそうにない。
「ここがそうなの? でっかい家だねえ」
 感心したような声が、美佐子を少しだけ落ち着かせた。
 神代家の表札が打ち付けられた門の奥には、道場に続く玄関が口を開いている。いつもならこの時間帯には道場からの威勢のいい声が聞こえてくるはずだが、休憩中なのか、今日は静かなものだ。
「ありがとう、桐紗ちゃん。あの……
 やっと声が出た。停止しかけていた思考が動き出す。
 もう少し桐紗と一緒にいたくて――それに、あの窮地から助けてくれたお礼がしたくて、家でお茶でも飲まないかと誘うつもりだった。
 だが、そう切り出す前に、転校生は一歩身を引く。
「あたし、もう帰るね。あいつらだって、あたしが一緒にいたせいで寄ってきたのかもしれないし」
「あいつら……
 それがあの白い人間にも蜘蛛にも似た化物をさすことばだと気がつくのに、少し時間がかかった。
 その間に、桐紗は背中を向ける。
「あたしさ、昔からあーゆーのに好かれやすい体質でさ。美佐子ちゃん見える人みたいだし、あたしと一緒にいると怖い思いしちゃうかもよ? もう、一緒に帰ったりしない方がいいかも」
 早口で言うと、少しだけ振り返って「バイバイ」と手を振る。
 それに応えて去って行く背中を見送ったあと、後悔が美佐子の胸をしめつける。

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