魔法は万能なんかじゃない。



   1

 強い風がびゅうびゅう耳もとで音を立てる。わたしは飛ばされないよう、片手で帽子を押さえつけた。もうここで地上を見下ろすのも何回目にもなるけれど、何回繰り返してもいいものだ。風を突っ切りながら、少しずつに近づく地上を眺めるのは。
 風を突っ切ってるのはわたしじゃなくて、この飛行船〈サンタモニカ〉号だけど。
 見上げると、巨大なミサイル型の白いバルーンが視界一杯に広がる。わたしが居るのは、そのバルーンに吊るされた船の先端だ。
「そんなところにいると吹き飛ばされますよ、コレット」
 背後からの声に、わたしは仕方なく振り返る。
 船の中央部分にある屋内から出てきたのは、見た目でそうとわかる、金髪碧眼の吟遊詩人。羽根付帽にヨナギの木から彫り出したリュートは、アマネ大陸で吟遊詩人っていったらみんな持ってる目印みたいなものだ。美形なのもお約束。
 でも中身はふざけた男、ケーニッヒ。この飛行船の数少ない乗員の一人だ。
「そんなの今さらじゃない。ま、落ちたら骨でも拾ってやってよ」
「また、無茶を言いますねえ」
 風になびく髪を少しうるさそうに払いのけながら、彼は肩をすくめ、それからリュートの弦を弾いた。
「それにしても、いい眺め、いい風です。この風景に一曲捧げましょう」
 強風もものともせず、そのよく通る声が響いた。

 おお、古の都イザナーク
 晴れ渡る空に賛歌が響く
 叡智の炎を灯さんと
 学べる者はその地をめざすよ
 古き日々が造りあげし街並み
 石に刻まれた歴史が人に道標を与える

 その重々しい感じの曲はわたしの好みじゃないけれど、今の状況にぴったりであることは間違いなかった。
 近づく石造りの家々が建ち並ぶ街は、知識の都とも呼ばれるイザナーク。この大陸でも一番歴史が古い町。それに、空は歌の内容通り、雲ひとつなく。
 ただ、空はとても、不吉なものも見せていた。
 わたしは片手をかざして、指の間から透かし見る。赤く煮沸して、時折、細長い虫のようなものにまとわりつかれている太陽を。
 それは一体何なのか――ということを調べるのが、イザナークを訪れる第一の目的だ。
 〈サンタモニカ〉号は間もなく、イザナーク郊外の丘の上に着陸する。さすがに、街中に全長数百メートルもある飛行船が着陸できる場所はない。
 プロペラがすべて静止すると、操舵室から小柄な男が出てくる。黒目黒髪、丸顔に黒髭を生やした、サラヴァンさんだ。この船の持ち主であり、パイロット。この船のことなら何でも知ってる。
「さあて、無事到着だ。それで、お前さんがた、太陽のことを聞きに行くんだろ?」
 そう言って、彼は ベストの内側から一枚の封筒を差し出す。
「西区の夕陽丘にディアン・マロウルっていう天文学者がいる。古い知り合いでな。コレを見せれば、まあ、門前払いにはされんだろ」
「相変わらず、顔が広いね。サラヴァンさん」
 彼は、ほとんどこの船を離れることはない。この船、それに船を動かすこと自体が本当に好きらしい。行き先も、大抵はほかの乗組員の案を採る。案がなければ、彼が行き先を決めることもあるけれど。昔は国のパイロットで、引退してからこの船を買い取って旅暮らしを始めたとか。悠々自適の生活、ってやつだ。
「まあな。オレも、太陽の異状は気になるしな……ここ数ヶ月、風の調子もいつもと違ってきている。違うなりに安定してくれればいいが」
「飛べなくなったら困るものね。それじゃあ、わたしたち――」
 そう言いかけるなり、わたしは、足もとに何かあたたかいものを感じた。
 見下ろすと、全身が黒い、毛むくじゃらのものが座っている。薄茶色の目をもつ、一見、ただの黒猫。
「バロン、お前も行くの?」
 わたしが尋ねると、相手はこちらを見上げた。
「待ってるほうが楽だけど、ボクも太陽の件は気になるしね。邪魔はしないよ」
 小さな男の子のような声で答えて、ケーニッヒの持つリュート、そして肩へ次々跳びのり、お気に入りの場所、羽根付帽の上で丸くなる。
 バロンは、妖精族の一員だ。わたしやケーニッヒより前からこの飛行船の住人で、わたしが乗員になる前は名前はなかったけど、それじゃあ不便だから、わたしが来たとき――二年くらい前に名づけた。
 三人と一匹。これが、十人でも大き過ぎるくらいの飛行船の乗員のすべてだ。
「気をつけてな」
 いつものひとことで船長に見送られて、わたしとケーニッヒ、それにバロンは飛行船から地上へと降りた。

 イザークの街並みは整然としていた。わたしの故郷なんかじゃ露店が道のあちこちに出て賑わってたものだけど、白い石を切り出した家々や石畳が形作る道は静かで、ちょっと寂しいくらい。
 でも、門をくぐってしばらく続いた住宅街を抜け、大きな通りに入ると、だいぶ行き交う人の姿が増える。
「おやまあ、やはり、いつもよりごった返してますねえ」
 忙しく行き交う人の流れを見て、ケーニッヒが少し肩をすくめる。
「ここ、来たことあるの?」
「まあ、これでも、けっこうあちこちを旅していますから。いつもは、もっと静かな町ですよ。しかし、太陽の異状の件がありますからね。やはり、あちこちから識者が集まったり、問い合わせの使者が来たりしているのでしょう」
「あー、確かにそうかも。ディアンさん、ちゃんと家にいるかなあ」
「そうですね……どうにせよ、行ってみるしかないでしょう」
 それもそうだ。
 ディアン・マロウルさんは、西区の夕陽ヶ丘。どの辺りか大体の目星はつくものの、念のために西区に向かう途中にあった果物屋さんで詳しい場所を聞き出してから、わたしたちはそこへ向かった。
 それにしても、人が多い。学者風の姿もちらほらと見える。やっぱり、太陽の件のためだろうか。
 太陽に異状が見られ始めたのは、大体二ヶ月前くらいだろうか。それは、肉眼で異状が見えるようになった頃の話で、半年くらい前に立ち寄った町ですでに、『学者の話じゃ、太陽の様子がおかしいらしい』と耳にしたような記憶がある。
 自然のことだから人間にはどうしようもないけど、大きな影響がなければいいな。少なくとも、世界が滅ぶならわたしが天寿を全うしてからにして欲しい。
 そんなことを考えて歩いているうちに、夕陽丘が見えてくる。ご丁寧に、白い階段の横に〈夕陽丘・マロウル邸〉という看板が立ててあった。
 階段を上ると、周囲に花畑が広がっていた。その真ん中を石畳の道が、大きな二階建ての屋敷へ突っ切っている。
「観光名所にでもなってるのかな」
「なっててもおかしくないですね。わたしは、あれも気になりますが」
 丘の端には木が植えられ、下の街並みが見えにくくなっているものの、その木の上に突き出した建物があった。屋根はドーム状で、そこから、筒状のものがわずかに突き出している。
「天文台か。初めて見た」
 ケーニッヒが指し示した方向を目で追ったわたしは、心底感歎した。天文台なんて、本の中の絵でしか見たことがなかったのだ。
「じゃ、帰りに寄っていきます? 入れるかどうかはわかりませんが」
 彼の提案に、興味津々のわたしは即座に飛びつく。
「いい、寄ってこ。近くで見るだけでもいいし」
「決まりですね。その前に、マロウルさんですが」
 ケーニッヒは懐から、サラヴァンさんにもらった紹介状を取り出す。これさえあれば門前払いはないだろうと言うけれど、門前払いかどうか以前に、果たしてご在宅なのかどうかが問題。
 わたしたちは肩を並べて、屋敷の扉に近づいていく。すると、次第に、扉の前に誰かがいるのが見えてきた。
「あー、しょうがないわねえ」
 最初に聞こえてきた声は、女のもの。
 もっと近づくと、扉が少し開かれているのがわかる。顔を出しているのは、屋敷の執事さんだろうか。
「どうもすみません。天文台に缶詰で、いつ戻れるのかはわからないそうで……
「そう、わかったわ。ほかを当たりましょう」
 扉が閉じられると、その人物は黒いマントに覆われた肩をすくめ、こちらへクルリと身体を向ける。すると、相手がわたしとそう変わらない年頃の少女だとわかった。大体、二〇歳前くらいだろうか。
 まあ、同じ少女でも、わたしは彼女ほど美人でも何でもないけど。彼女は、長く艶やかな黒髪に漆黒の目。銀色のリングで額を飾っている。ほかにも、あちこちにさり気ないアクセサリーが散りばめられていた。肌の色は白く、腕はほっそりとしていて、それでいて紺色のローブをまとった身体の出るべきところは出ている。均整の取れた体型。
 一方のわたしは、ボサボサの、それほど長くもない薄茶色の髪を首の後ろ辺りで縛り、町娘と変わらないようなワン・ピースのスカート姿だ。飾り気は、帽子と、昔お祖父ちゃんにもらった耳飾りくらい。背は低いし、同じ年頃の娘としてかなり『負けている』ような気分になってしまう。
 そんなこちらの様子に気がつくわけもなく、相手は笑顔を向けてきた。
「あら、あなたたちも博士に用事?」
「ええ、太陽のことをお聞きしたいと思いまして。しかし、留守のようですな。ところで、あなたも太陽について研究されているかたで?」
 ケーニッヒが尋ねると、少女は首を振る。仕草はどこか優雅で、大人びて見える。
「わたくしは、アーリア・ベント。考古学分野で魔法研究をしている者です」
 魔法、という単語に、わたしはちょっと意表をつかれる。
 昔は、魔法使いと呼ばれる人たちが力を使った時代もあったらしい。でも、その魔法使いになるには、アリョーシャ族という古代種族の血をひいていることが必要だったという。その古代種族の血をひく者も少なくなり、いたとしてもだいぶ血が薄れて、魔法もその使い手もほぼ全滅したはずだと言われている。
 魔法の研究者もいなくなったわけじゃないだろうけれど、昔に比べればだいぶ減っているはず。
「魔法の研究者って、珍しいですね。あの、わたしはコレット、こっちはケーニッヒ、そして頭の上のがバロンです」
 少しの間固まっていたものの、わたしは、相手が名のっているのだからこっちも名のらなければ失礼だ、という衝動に駆られて、慌てて口を開いた。
 いつもはケーニッヒのほうが対応が早いけど、彼はぼうっとアーリアさんを見ている。そうね、彼女美人だものね。何か悔しい。
 しかし、アーリアさんはアーリアさんで、彼ではなく、その頭上で丸くなっているものに夢中。
「まあ、ロバタナ族じゃないの! こんな街中で見るとは思わなかったわ。可愛い~」
 バロンの正体を一目で見抜ける人は少ない。わたしと同じくらいの年頃でも、知識の量も決定的に違う。
 わたしが微妙な劣等感を覚えている間に、彼女は『撫でていい?』と訊いてからバロンを撫でている。バロンはちょっとうるさそうな顔をしているけれど、危害を加えられそうにない限りはされるがまま。
「ところで、太陽の異状について何かご存知では?」
 我に返ったケーニッヒが、間接的に頭を撫でられながら質問した。
「現状がどうなってるのかは、ちょっと……わたくしも、今日この町についたばかりですし。ただ、大昔にも、似たようなことがあったらしいの。だから、知人と一緒に調べている最中なの」
「似たようなことがあった……?」
「ええ。太陽に異状が出て、やがて巨大化し始めたとか」
 答えて、空を見上げる。
 赤くにじんだ姿は、気のせいか、今までより大きく見えた。
「そろそろ行かなくては」
 と、彼女が視線を戻すなり、その切れ長の目が少し見開かれた。彼女の目は、わたしに向けられている。
「あら、あなた、いい耳飾りをしているわね。少しだけ魔力も感じるし……それ、大事にしたほうがいいわよ」
 彼女のことばに、わたしは凄く驚いた。
 耳飾りは小さなほら貝を模ったもので、見かけはそんなに高価な物でもないはず。それに、魔力が込められているなんて。
 アリョーシャ族やその末裔の一部に、物に魔力を込める職人がいた。その手による物が、あちこちに残っているというのは知っているけれど。
 もっと詳しい話も知りたかったけれど、アーリアさんは『それじゃあ』と手を上げて、急いだ様子で丘を下りていってしまう。
「ははあ、魔力が込められているとわかるなんて、アーリアさんもアリョーシャ族の血をひいているんでしょうねえ」
 しばらく茫然と見送っていたわたしのとなりで、やっぱり少しの間ぼーっと見送っていたケーニッヒが言う。
「魔法使いか。もっと色々きいてみれば良かったかなあ」
「忙しいみたいですし、そうもいかないでしょう」
 首を振ってから、彼は紹介状を持ち上げてみせる。
「それより、天文台に行ってみませんか? 我々は彼女と違って紹介状を持っているわけで、会える可能性もなくはないでしょう」
 確かに、わたしたちはアーリアさんとは少しは条件が違うかもしれない。どうせ、天文台には寄るつもりだったんだし。
 わたしたちは丘を下りてふたたび歩き始める。今回は人に尋ねるまでもなく、天文台の場所は一目瞭然。
 歩いている途中、それまで黙っていたバロンが、周囲に注意しながら小声で話し始めた。
「なあ、ボクはさっきから思ってたんだけれど……太陽が大きくなったら、一体どんな不都合があるんだい?」
 彼の質問に、わたしは思わず、立ち止まりそうになった。
「どんな不都合って、あんた……
「いや、風がおかしくなると船長が困るってのはわかる。でも、べつに太陽が爆発するってわけじゃあないんだろ?」
「確かに、爆発するまで太陽が大きくなるとも限りませんが……
 わたしがどんな風に答えようかと迷っているうちに、ケーニッヒが口を開いた。
「最近でも、毎年の今頃よりずいぶん気温が高いという風に言われていますね。アーリアさんが言った通り、昔と同じ状況になるのなら、太陽がどんどん大きくなるにつれ、地上は熱されるでしょう」
「海が干上がるかも」
 わたしがふと思いついて言ったひとことに、バロンはギクリと頭を跳ね上がらせる。
「そ、それは困る。魚が食べられなくなるじゃないか」
「それに、暑さで病人も増えるでしょうし、風を含めて天候にも大きな異変があるでしょうね。地上は災害に見舞われて……そう言えば、ここ数週間、雨も降っていませんねえ」
 そう言われてみれば、しばらく雨が降った記憶がない。空気も乾いているように感じる。
 雲ひとつない空も気持ちが良くて好きだけど、わたしは、雨が好きだった。
 ――脳裏を、〈雨〉を思い浮かべるたび、引き出される情景が行き過ぎる。
 二年ほど前まで、わたしはリギルという町に住んでいた。リギルは海岸沿いの小さな町だけれど、それなりに賑やかでのどかな町でもあった。治安も悪くなかったし、雑貨屋の娘だったわたしも、特に不自由はなく生活していた。
 そう、わたしは両親とお祖父ちゃん、それに妹と一緒に、平和に暮らしていた。そして、二年前に置手紙を残して家出してきたわけだ。
 理由は、今となっては曖昧で、よく思いだせない。ただ、お祖父ちゃんやお母さんが、わたしは地元でお嫁に行ってそこで暮らしていくものだと思い込んでいるような話をしているのを聞くと、とても嫌な気分になったような気がする。もともと、じっとしているのが苦手な性分だったのかもしれない。
 あとは、単純に、広い世界への憧れだ。そんな衝動に突き動かされて、わたしは荷物をまとめ、ある日の早朝、家を出た。
 まずは歩いて近くの港町へ行くつもりだった。変装グッズなんて物まで用意して、別人になったつもりで船に乗って遠くへ行こうと思っていた。
 それなのに、わたしの旅は間もなく頓挫する。町を出る直前、雨が降り始めたのだ。
 慎重に旅に必要そうな荷物をそろえたつもりだったのに、あいにく、傘は持っていなかった。――そのことが、わたしの運命を変えたのかもしれない。
『お嬢さん、風邪をひきますよ』
 どうしようもなくて、街外れの木の下で雨宿りをしていたわたしに、傘をさしかけてくれた人がいた。
 近所の家の人かと思って見上げたその相手は、今は馴染み深い、吟遊詩人の姿。
 当時はまるで、白馬の王子さまのように感じたものだ。ああ若かったな、あの頃のわたし。
 ともかく、わたしが雨を好きになったのは、それからだ。これは、誰にも言えない話。
「まあ、詳しいことはこれから聞きましょう」
 束の間の追憶の間に、天文台が目の前に迫っていた。この辺でもちょっと見られない、大きな建物だ。
 見張りらしい二人の男が出入口に立っているものの、特に咎められることもなく、重そうな開きっぱなしの扉をくぐって石造りの通路を歩く。すぐにロビーが目の前に広がった。
 殺風景でない程度にスッキリした印象のロビーにはテーブルやソファーがあって、何人か、一般人らしい姿が見える。掲示板には星図やお知らせのほかに、昨日の太陽の状況、という紙が張り出してあって、それを眺めながら議論しているような男たちもいた。
 奥に関係者用らしいドア、そして、その横手に受付カウンター。
「すみません、こちらにマロウル博士がいらっしゃるとお聞きしました。一応、紹介状もあります」
 ケーニッヒがカウンターのお姉さんに問いかける。声を掛けられてすぐ、残念そうな表情を作ったものの、紹介状を見せられると、お姉さんはわずかに表情を変える。
「紹介状ですか……今までにも何度か、そういうかたがいらっしゃいましたけれど……
 結局断られるのか、と思ったそのとき、ケーニッヒが帽子のつばを持ち上げ、じっと相手の目を見つめて口を開いた。
「お時間は取らせません。どうか、わたしたちを助けると思ってきくだけきいてみてはいただけませんでしょうか、美しいかた」
 きらり。と、その澄んだ目が輝く。
 受付のお姉さんは「そうですね、一応訊いてきます」と言って、慌てたようにドアの向こうへ去って行く。その頬がほのかに赤く染まっているのを、わたしは見逃さなかった。
 さすが、のん気そうな顔をして己の武器を知り尽くした男・ケーニッヒ。
「相変わらずだねえ……
 わたしがぼやくと、一体何を勘違いしたのか、彼は実に楽しそうな笑みを浮かべ、
「もしかして、ヤキモチを焼いています? 心配しなくても、わたしはコレットのしもべですよ……あ痛っ」
「変なこと言うなっ!」
 楽しげに言う相手の足を、思いっきり踏んづけてやる。と、同時につい今しがたお姉さんが入っていったドアが開かれた。
 お姉さんはドアから出てくるなり、こちらを見てちょっと不思議そうな顔をするものの、職人根性で一瞬で愛想笑いに戻す。見知らぬ男性と一緒ということは、訊かなくても、首尾が上手くいったんだろうとわかる。
「おお、きみたちがサラヴァンの知り合いか」
 ディアン・マロウルは白、髪頭の頂点が少し薄くなった、黒縁メガネに白衣の壮年の博士だった。威圧感はない、人の好さそうな雰囲気だ。
「わたしはコレットです」
「わたしはケーニッヒ、それに、頭の上のはバロンといいまして、ロバタナ族です」
 博士はわたしたちを順に眺め、最後に、少し驚いてケーニッヒの帽子の上を見た。
「ほう、こんなところでロバタナ族に会えるとは。サラヴァンは、また変わった乗員と一緒に旅をしているな。ちょっとうらやましいよ」
 そう言って、彼は笑う。
 サラヴァンさんとはかなり親しい間柄らしい。こうして出会えたのも、紹介状の威力のおかげみたい。
「いつか空の散歩に連れて行って欲しいものだが、それはまた今度だね。それで、何が訊きたい?」
 やっぱり忙しいんだろう。単刀直入に言う。椅子に座ろうともせず、カウンターの前に立ちっぱなしだ。
 でも、わざわざ専門家に話をききに来たわけだけれど、具体的に何をきけばいいのやら。
 わたしが迷ううちに、職業柄話し上手なケーニッヒが切り出した。
「わたしたちは、空の上にいる間は情報が遮断されていますからねえ。それに、船長の話では、風の流れに異状が出ているようですし。とりあえず、現在の状況と、今後の見通しが知りたいわけです」
「なるほどね。今後の状況次第では飛べなくなる可能性もあるし、そうでなくても事故は避けたいだろう」
 彼は納得しながら、肩をすくめる。
「でも、状況は余り良くないね。太陽は少しずつ巨大化し、放出される熱も増幅している。このままでは病気が広がり、異常気象が起こる。作物は採れなくなり、飢饉が起こる。風の流れもどんどん乱れていくだろうね。異状が早いうちに収束してくれればいいが……
「対策はないんですか?」
 どれもこれも暗い予想ばかり。少しは安心できるような要素がないだろうかと、そう尋ねてみる。
「何せ、相手は空の向こうの太陽だからね。まだ、対処ができるところまで話は進んでいない。進んだところで、何ができるか……。直射日光に気をつけるよう警告を出すくらいかもしれないね」
 わたしは、しっかりアーリアさんのことばを覚えていた。
「大昔にも、同じことがあったんでしょう? そのときは、どう解決したんですか?」
 これに対して、博士はまた、肩をすくめる。
「同じようなことがあったのはわかってるんだが、詳しいことは歴史書にも書かれていないんだ。アリョーシャ族の血を継ぐ者たちに伝わるという古文書なら、あるいは何か書かれているかもしれないが……でも、だいぶ古文書も失われているそうだからね」
 アーリアさんなら、何か知っていたかもしれない。でも、街中捜すわけにもいかないし、いないものは仕方がない。
「アリョーシャ族に伝わる古文書、ですか……博士、お忙しいところ、ありがとうございました」
 となりで何か唸っていたケーニッヒが礼を言うと、わたしも頭を下げる。これ以上の情報はなさそうだ。
「サラヴァンによろしく伝えてくれ。気をつけてな」
 そう言って、マロウル博士はドアの向こうに戻っていった。
 用事を済ませたらさっさと〈サンタモニカ〉号へ戻るつもりだったものの、思ったより時間がかかったせいか、天文台を出ると真っ赤な太陽はお昼時を示していた。わたしの正確な体内時計も、『お昼ご飯まだか』と訴えている。
 そんなわけで、飲食店街のある東区で適当なお店を見つけてご飯を食べよう、ということになったんだけど。
 そのお店へ行く途中で、事件が起きた。
「あれ、危ないなあ」
 歩きながら、わたしは通りの脇にある、岡の上の教会を見上げていた。正確には、教会の横に建つ塔の鐘の中にぶら下がる、小さな子どもにだ。
 鐘の吊り下げられた場所には、柵も何もない。本来は、子どもが上れるような場所じゃないらしい。
「本当ですね。おーい、危ないですよー!」
 ケーニッヒが足を止め、大声を出した。鍛えられた声は、雑踏の中でもよく通る。
 みんなの視線がこちらを向く。恥ずかしい、と本来は殴るところだろうけれど、こういう場合は仕方がないか。
 それに、周りのみんなも、高い場所にいる子どもの存在に気がついた。教会内部にも届いているといいんだけれど。
 子どもは鐘から下りたものの、こちらを見下ろしてくる。黄色い服を着た、五歳前後の女の子みたいだ。
「わわっ、やめろって!」
 周囲に広がる、悲鳴交じりのざわめき。人前じゃ滅多にしゃべらないバロンですら、慌てた声を出す。
 子どもは、面白がってこちらを覗き込み、小さな身体がこっちに傾いて――
「あっ」
 わたしは、それだけ言うのがやっとだった。
 小さな姿が、白い塔の側面に影を落とす。あまりにあっさりと、女の子は足を踏み外して前のめりに落ちた。
 周囲で起こる悲鳴。
 その中に、わたしは確かに聞いた。今まで聞いたこともないようなことばを、聞き慣れた声で。
「〈ニール・アウナス〉」
 誰かの名前にも思えることばを告げて、ケーニッヒは落下中の女の子を指さした。
 するとわたしを含む人々が見守る中、女の子の落下速度が緩くなる。そのままふわふわと風船のように空中を漂いながら、女の子は下に置いてあった木箱の上に着地した。おそらく、怪我はないだろう。
 こんなことができる力は――魔法!
「ケーニッヒ、あんたアリョーシャ族だったの?」
 となりを振り返るとほぼ同時に、手を強く引かれた。抵抗すると地面に顔面激突という悲惨なことになるので、引っ張られるのには逆らわず、わたしは走る。
「何で今まで言わなかったのさ」
「きかれませんでしたから」
 すました顔で答えながら、角を曲がる。それでも、まだ走る速度は緩めない。
「それで、何で逃げているわけ?」
 こいつにまともな答を求めることからして間違っている。改めてそう思いながら質問をすると、今度は割とまともな答が返ってきた。
「魔法が使えると知られると、色々と面倒になることが多いんですよ。まさか人体実験はないでしょうけれど、自由に気ままな旅とはいかないでしょうね。魔法が使えるほど血の濃いアリョーシャ族の末裔も、少なくなってますから」
 それじゃあ、ケーニッヒは魔法が使えるほど血の濃いアリョーシャ族の末裔なんだ。
 とか、頭で考えている間も、わたしは走り続けている。やっと止まったときには、だいぶあの現場から離れていた。
 あれだけ注目されてたんだからバッチリ顔を見られているだろうけれど、あと少しだけなら、街中にいても大丈夫だよね。
 わたしは、さらに切迫してきた腹の虫と相談して、そう結論を出した。
「それじゃ、とっととお昼ご飯買ってから、とっとと帰りますか」
「はいはい、お昼ご飯を買ってからですね」
「店ん中で食べていくより早く済むでしょ」
 そう、わたしにとってはこれが最大限の譲歩だ。ここまで来て、何も食べ物を手にしないで帰れるものか。
 飛行船にはキッチンもあるし食糧もちゃんと積んであるから、べつに食いっぱぐれるってことはないんだけれど。
 少し歩いて最初に見つけたお店で、ミートパイとデザートの果物を購入。紙袋に入れてもらったそれをわたしが抱える。丁度鼻のあたりに、いい匂いが漂ってくる。
「コレットぉ、こっそり食べないでよ」
 よっぽど嬉しそうな顔でもしてたのか。バロンがそんなことを言ってくる。
「いくらなんでも、そこまで食い意地張ってないって」
 あきれた目を向けると、バロンではなくケーニッヒが口を開く。
「さあ、コレットのことだから町を出る前にはなくなってイタッ」
「そんなわけないでしょ。殴るよ」
「もう殴ってるじゃないですかっ」
 人気のない狭い道を歩きながら、そんな風に賑やかに話している、その延長線みたいな感じで。
「つけられてますね」
 声の調子を変えず、振り返りもせずにケーニッヒが言う。
 わたしはつい、少しだけ後ろに目をやってしまう。そんなにあからさまには見ていないつもりだけれど、気がつかれたかも。
 背後を歩いてくるのは二人。茶色のフード付マントを頭から被っている。わずかにのぞく顔は、男のもの。
「逃げましょう!」
 先手を打ったつもりか、ケーニッヒが駆け出した。わたしも慌てて追いかける。
 もちろん、背後の二人も走り出す。
「ま、待て!」
 とか何とか言ってるけど、当然待つはずはない。
 大事に紙袋を抱えながら、わたしは必死に走った。ときどき石畳の凹凸につまずいて転びそうになるけれど、何とかこらえる。転べば昼食がパーだ。それだけは、何としても避けなければ!
 息は切れるし足は痛いし……身体は全力疾走しながらも、頭の中だけは自由に動く。
 そもそも、何で今日はこんなに走るんだ。確か、最初はケーニッヒの魔法を見られたから。今追われているのも、たぶんその延長みたいなものだろう。なんだ、全部こいつのせいじゃないかっ!
 でも、走ってる途中で殴るわけにもいかないし。わたしは、別のことを思いついてもいた。
「ケーニッヒっ! 魔法であいつら何とかできないのっ!?」
 走りながら後ろへ目をやると、二人の追っ手も、必死に全力疾走中。あまり運動が得意なほうではなさそうだ。
「それは無理です。走りながらでは使えません。それよりっ……コレット、あなたの馬鹿力で、何とかならないんですかっ? 地面を割って足止めするとか」
「できるかっ!」
 多少、一般的な女の子よりも極々わずかに力に自信はあるものの、さすがにそこまでの破壊力があるわきゃあない。
 失礼なことばに、思わず殴ろうとするが、寸でのところで思いとどまる。ケーニッヒだけを追っ手に捧げてわたしたちだけ逃げるのは薄情だ。そもそもケーニッヒさえ引き渡せばそれで済むんだからやってみようか、という悪魔的な考えが一瞬脳裏をかすめたりするけど、気のせいだったことにする。
 その、ケーニッヒを後ろに転がすイメージに、行く手の脇に積まれた物が重なった。
 ――あれだ!
 わたしはわざとちょっとだけ足を遅らせて、ケーニッヒを先に行かせてから、スカートの裾を少し持ち上げ、思いっきり後ろ回し蹴りを放った。積み重なったタルは蹴られた勢いのまま、ゴロンゴロンと轟音を立てて背後の男たちに殺到した。
 ぎゃーだのわーだの言いつつ立ち往生しているのを尻目に、わたしたちはさらに逃走。これでかなり距離を稼げたはずだ。
「さすが馬鹿力」
「うるさい」
 年頃の娘に対しては褒めことばになっていない褒めことばに文句を言いながら、追っ手が後ろに見えなくなったことにちょっとほっとする。
 あとは、飛行船に乗ってしまいさえすれば追っては来れないだろう。
「船長、離陸準備を! 急いで!」
 丘に辿り着いたときには追っ手の姿はまだ見えないが、縄梯子を昇りながらケーニッヒが声を上げる。
 サラヴァンさんはわけがわからない様子だったけど、わたしたちの慌てぶりを見てすぐに準備に取り掛かったようだ。
 ケーニッヒに続いてようやく船に着いたわたしは、呼吸を整えながら、イザナークのほうを眺めていた。どうにか走ってきた反動が落ち着いてきても、鼓動が速く脈打つ。準備には多少時間がかかるし、その前に連中が追いついて来るのもあり得る。
「あいつら、悪いヤツなのか?」
 縄梯子を引き上げているケーニッヒの足もとで、バロンが今さらって言えば今さらなことを訊く。
「悪くないなら、わざわざ人気のないところで追い掛け回したりしないでしょ」
「ふうん。そういうものかあ」
 よっ、と声をかけて黒猫は木箱の上に乗り、そこから前足を縁にかけて町のほうを眺める。可愛い格好だけど、今はそれをじっくり見てる余裕はない。
 イザナークから、茶色いものがふたつ、こっちに向かってくる。そう簡単には乗れないだろうけれど、徐々に大きくなる姿を見ているとハラハラする。
「待て! 我々の話を聞け!」
「待ってくれー!」
 そんなことを叫びながら、こっちに駆け寄ってくる。
 すると、何かが陽を照り返して光った。目を凝らすと、男たちの左の手首に、銀色の腕輪らしきものがはめられているのが見える。腕輪には、翼を広げた鳥のような紋章が彫り込まれていた。
 両手を挙げながら走ってくる二人のうちの一方が、だいぶ近づいて来たところで、袖口から何かを取り出した。そしてそれをブンブン振り回す。
 あれは……先端に分銅がついたロープ?
 その使い方を思い出そうとすると同時に、ふわっ、と、船がちょっとだけ浮いた。男たちは慌てて真下にやってくる。
 そして、下から放り込まれたロープの先端が、船に積んだ木箱のひとつに絡まった。
「何よこれっ」
 特に意味のないことを言いながら、知らないうちに強く抱いてた紙袋を置き、木箱に絡むロープを外そうとする。でも、慌ててる上にロープは幾重にも巻きついているし、なかなか上手くいかない。
 もう木箱ごと捨てようか、と思いかけて、やっとケーニッヒが呪文を唱えていることに気がつく。
「〈ファード・レイヴン〉」
 彼は呪文の最後にそう言って、ロープに触れる。
 すると、ロープは何十年、何百年も時間を経たように、彼の手が触れたところからボロボロと腐って赤黒い塵になってしまう。
 どさっ、と音がした。船の端から見下ろすと、落ちた男が目を丸くしながら、ロープの成れの果てを見つめているところだ。
 さあ、今のうち。
 地上に縛り付けるもののなくなった〈サンタモニカ〉号は、自由な――そして不吉な赤い太陽がにじむ大空へと飛びたった。