永遠の終幕に



 約一二〇〇年もの昔、後に消魔大戦と呼ばれる戦いがあった。
 〈不老の秘宝〉をめぐり、対立する意見を持つ邪神セイリスと大天神ルテがそれぞれの同士を率いて争い、不老の秘宝の欠片を与えられた魔族と新たな神を生み出した戦いは、当時栄えていた超魔法文明を破壊し尽くした。セイリスら魔族が魔界に封じられたのは、十年も後のことである。
「それも、今からじゃ、千年以上前か……
 何度も読んだ一節の載ったページを表紙ごとパタンと閉じ、白衣の男は、やはり何度もつぶやいた台詞を、飽きずに口にする。
 天井高くまで本が積み重なった部屋は埃っぽく、薄暗い。そのためか、色白な青年は一度、咳払いをした。まるで時間が止められたかのように静かで閉め切った書斎は、ただ一人の主人のために存在している。その忠実な空間から、男は出て行こうとした。
 しかし、
 パサリ。
 と、やけに大きな、紙擦れの音が、彼の足を止めた。
 足元に落ちた白いシンプルな便箋を無視するわけにもいかず、拾い上げると、彼は顔色を変える。
「なくしたと思っていたのだが……
 何度も目を通し、大切にしまいこんでいたのが、いつの間にか見当たらなくなっていた、一通の手紙。
『あの丘の桜の下で落ち合いましょう。くれぐれもお気をつけて』
 便箋の中の紙に書かれているのは、そんな、短いメッセージだ。にもかかわらず、彼は釘付けとなった。

 消魔大戦の有名なエピソードのひとつに、メヌエの悲劇、というものがある。
 ユリア、ヌーサ、アートゥレーサ、メヌエ。古代神四姉妹の末妹メヌエが敵である邪神セイリスに恋をしてしまい、それを長女ユリアが戦いの末に倒してしまう、という話だ。妹の死とともにユリアも行方知れずになり、おそらく亡くなったのだろう、と言い伝えられていた。
 しかし、ユリアは生きていた。その事実を知るものは、ほんの一握りだが。
 その、一握りに含まれる存在――〈千年の魔術師〉セヴァリーの住処、ナーサラ大陸南西のマドレーア王国にある、魔術師の塔。あるとき、女神は不意に、塔の最上階を訪れた。
 ユリアとセヴァリーは、旧知の仲だ。前に顔を合わせたのは、千年以上もの昔だが。
「驚きましたね。あなたが訪ねてくるとは」
 ことばとは裏腹に、白い法衣姿の元雷魔王は、その少女のように白く整った顔に浮かべた薄い笑みを、少しも崩すことはない。
 銀髪にアメジストの瞳の、小柄な美少年。数々の民話伝承に登場する、〈千年の魔術師〉そのままの容姿である。
 木の椅子に座って読書中だったらしい彼は、立ち上がって黒目黒髪の美女を迎えた。
 ユリアはほほ笑み、勧められた椅子に腰を下ろす。
「突然の訪問で失礼します。あなたのことは、色々と聞いていましたよ。いつの日か、こうして訪ねるつもりでした」
 黒いワンピースのシンプルなドレスに、真紅のケープ。妖しい魅力は、千年以上の時間を経ても、まったく色あせていない。
「なぜです?」
 棚から茶器と乾燥ハーブを出し、ハーブティーを入れながら、セヴァリーはシンプルな質問を口にする。
 ユリアは、笑みを崩さぬまま、答えた。
「お別れを言いに。言う相手も、少ないですから」
 言うと、彼女は目の前に置かれたカップを手に取り、香しい、温かな液体をすする。
 セヴァリーは、驚くことも、もう一度問うこともしなかった。ことばを聞かずとも、一見しただけで、ユリアの気配が弱まっていることに気づいていたのだ。
 セヴァリーは、その原因も知っている。
 ユリアと彼女の妹であるメヌエの戦いは、熾烈を極めるものだった。セイリスの介入もあり、長く厳しい戦いを続け、そして妹の力を封じた彼女は、大きく力を削られていた。そして、彼女の生命力は回復するどころか、少しずつ失われ、最近では不老の秘宝の欠片の力でももたせることができないほど、消耗されていた。
 それを、伝説の魔術師は知っている。なぜなら、彼もまた、ユリアとともにメヌエを相手に戦ったためだ。
 セイリスの配下、四大魔王でも最強の高位魔族、雷魔王――それが、当時のセヴァリーの異名だった。結局、魔王として戦場に出たことはほとんどなかったが。
 それも、遠い昔のことだ。
……そうですか。あなたの妹たちには告げたのですか?」
 彼は一瞬の追憶にかまわず、無感動に応じた。
「いいえ。今更わたしが姿を見せても、悲しみを与えるだけでしょう。あなたとグランドノスさま、ルテさまの、三人だけです」
 彼女は、妹たちに対して、自分を死んだままにしておくつもりらしい。
 そのことばに、テーブルに置いていた本を取って開きかけたセヴァリーは、笑みを薄れさせ、顔を上げる。
……他に、会っておきたい人物がいるのではありませんか?」
 何かを思い巡らせた様子のまま、低い声できく。
 ユリアは彼の意図がわからずに、小さく首をかしげる。セヴァリーは本を閉じ、いつもの笑みとは違う、苦笑といたずらっぽい笑みの中間のような表情をした。
「アシュリードですよ」
 短いことばに、ユリアも笑顔を崩した。
 甦る、遠い記憶。
 それは、ユリアがセヴァリーと二手に別れ、メヌエを捜していた時だ。
「誰を捜しているんだい?」
 ある、小さな村の近く。岡の上の枯れた大木のそばにたたずむ美女に、青年が声をかけた。強いつむじ風が吹き上げ、周囲に枯葉を舞い上げる。
 ユリアは振り向き、枯葉のベールの向こうを見た。
「人を、捜しているんです。妹を……
 歩み寄ってきたのは、白衣姿の若い男だった。気配からして、ただの人間でないことがわかる。
 ユリアは、気配を殺していた。彼女は、それに気づいたことからして、只者ではない、とわかっていた。
「では、あなたはユリアさんだね? 捜しているのは、メヌエだろう……オレはアシュリード。セイリスの配下だったのが、今じゃわけあって、この村で医者の真似事をしている」
 まるで、セヴァリーと似たようなことを言う、と、ユリアは思う。そのこともあって、彼女は青年が魔族であったことに、特別な警戒心は抱かなかった。
 そして、アシュリードもまた、彼女に協力を申し出た。
「危険を伴いますよ。なぜ、協力するんです?」
 純粋な好奇心から、彼女はそう問うてみる。同じ質問を雷魔王にしてみた時の答えは、『他に何もすることがないので』だった。
「多少は、自分の責任もあるし……それに、あなたたちの事情を知っていてこうして目の前に出てこられると、いたたまれないだろう。誰かが関わっていたほうが、少しは……救われる、ような気がする」
 姉が妹を倒す。
 その責任ややりきれなさを、誰かが分かち合ったほうが救われるのかもしれない。
 否、実際は、それで悲しみが減る訳ではない、と、ユリアは思っていた。それでも彼女は、その悲劇的な戦いを知る者が他にもいるということで、確かに、少しは気持ちが楽になるような気がしていた。
……ありがとうございます」
 彼女が相手の碧眼を真っ直ぐ見つめて言うと、アシュリードは照れたように頭を掻いた。
 一人の旅が、二人の旅になった。彼女らはそれから十日以上もの間、メヌエの足跡を辿って旅を続けることになった。セイリスの追っ手を撃退し、時にはやり過ごし、大河を渡り険しい山道を過ぎ……苦難をともにするうちに、二人の間には強い絆が結ばれていた。
 だが、危険な旅で生まれた想いは、儚いものだった。
 旅の途中、アシュリードはセイリスの呪いを受け、生命を削られていく。医者である彼は、自分がもう手遅れであることがわかっていた。自分の死に目を見て欲しくないからと、彼はユリアに別れを告げ、去っていく。ユリアは黙って、それを見送った。
 それは、神話にも描かれなかった悲劇だ。今は、ユリアとセヴァリーだけが知っているはずの。
 過去の追憶にあったユリアを、セヴァリーの声が呼び戻す。
「今夜、あの木のもとへ行きなさい。今では、昔と違った姿を呈しているでしょうが」
 彼はそうとだけ言うと、再び本を開いた。

 無数の宝石のような大きな星の光が、雲ひとつない濃い闇夜に輝いている。そして、夜闇の覇者である、緋と蒼――赤と青の満月。これほどはっきりと夜空の住人たちが現われる夜は、そうそうないだろう。
 しかし、夜色の瞳にもっとも美しく映ったのは、桃色のつぼみたちだった。
 一瞬場所を間違えたのかと思ったユリアだったが、彼女の記憶は疑いようがなかった。否、むしろ、千年以上もの時が流れたにしては、変化が少ないと言えるかもしれない。だが、あの寂しげな雰囲気が、村の姿がなくなっていたにもかかわらず、一掃されていた。大きな、桜の木によって。
「時は移ろうものですね……
「ああ……でも、きみの姿は変わらないな」
 背後にあたたかい気配を感じて、ユリアは身体ごと振り返る。
 忘れたことのない姿が、まぶしそうな目を向けていた。
「またあなたの顔を見られるとは思いませんでした。アシュリード」
「オレのほうは、会えると信じていたよ。セヴァリーさまの知り合いに助けられて……それ以来、忘れたことはない。最も、きみにはもう素敵な人ができてるだろうと思ってたけどね」
 懐かしい相手の冗談めかしたことばに、ユリアは首を振った。それを見て、アシュリードは嬉しそうに笑った。だが、ユリアはこの再会に、素直に喜びを表せなかった。
 女神の浮かない表情に、青年は不思議そうな顔をする。
「アシュリード……わたしたちは、どうやらともには生きられない運命のようです」
 彼女のことばに、アシュリードの表情が強張る。
 一方、ユリアはいつもの優しいほほ笑みに戻っていた。
「わたしは、もう、数ヶ月ももたないでしょう。終幕の前に、せめてあなたに会えてよかったと思います」
 アシュリードは目の前の相手を見つめたまま、しばらくの間、動かなかった。
 それでも、長い時を過ごしてきた彼の心は、何とか、告げられた事実を受け入れようとする。
……そうか。きみの好きなようにするといい。きみを縛ることはしたくない。だが……
 彼は、恐れるように、そっと手を伸ばした。伸ばした手が、ユリアの手をつかむ。確かにそこには、生きている者が持つ、ぬくもりがあった。
「終幕までの時間の、そのなかのわずかな時間でいい。その時間を、共有させてくれないか」
 彼の手を握りしめ――ユリアは笑った。
「いいでしょう……終幕までの間、あなたと生きましょう」
 まるで幻のようだ、とアシュリードは思った。
 しかし、抱きしめた腕の中にあるのは、頼りないながらも、間違いなく、彼女が想い続けた女神のぬくもりだった。

 そして。
 時は過ぎていく――。