第二章 光亡き街


  十一、魔を宿す者の終幕


 いびつな黒い光沢のある翼が、大きく頭上に開かれた。カレトの口が咆哮とともに開かれ、糸を引く鋭い牙と、血のように赤い口内をさらす。
 その直立不動の体勢から、彼は人ならざる素早さで攻撃行動に移った。剣の刃と化した右手が、愕然としていた二人の若者に振り下ろされる。
 突進の勢いをのせた、突きに近い角度からの斬撃は、何とか身をかわそうとした複数の相手の皮膚を割いた。ほんの浅い傷ではあるが、血がわずかにしぶき、雨に洗い流されていく。
「魔族だと……カレトが」
 使い物にならない右腕を庇いながらかまえ、レナスはまだ信じられないように赤い目の怪人を睨む。
「たぶん、いつからか入れ替わっていたんだろう。高位魔族ではなさそうけど……そこらへんの、すぐに召喚できるような魔族でもないね」
 濡れて頬に張り付く長い髪を後ろにやりながら、シリスは油断なく槍の穂先をカレトの胸に向ける。
 大きく引き裂かれたような口の端を吊り上げて、カレトは、黒く硬質化した顔に笑みを浮かべた。
「苦しんで死ね」
 その一言だけで、用は足りたというように。
 全身から、金属の弾丸が発射され始めた。
「ぐっ」
 横に跳んだレナスの腿を、一発の弾丸が撃ち抜いた。その衝撃で呻き、剣士はバランスを崩してつんのめる。
 一方の吟遊詩人は、一歩も動かない。代わりに、一声鋭く叫ぶ。
「〈プロテクション〉!」
 呪文なしでの、下位防御魔法。蒼の月の力を導き、対衝撃用に空気の壁をまとうと、彼は槍をかまえたまま、自ら突撃した。
 弾丸が見えない壁に勢いをそがれ、シリスに降りそそぐ。勢いを失ったとはいえ、軽い打撲の跡は残りそうな衝撃である。
 それでも足を鈍らせることはなく、彼はカレトに接近した。
 危機を察知した怪人は弾丸の発射をやめ、黒い翼を羽ばたき始める。しかし、その巨体が浮き上がる前に、魔法の輝きを帯びた槍の穂先が、硬い皮膚を破って脇腹に突き刺さる。青黒い液体が噴き出し、シリスの顔に点を散らした。
「ガアァァ!」
 人ならざる姿になっても痛みは感じるのか、魔族の姿をとった男は、喉の奥から響くような、低い咆哮を上げた。そして痛みの原因を取り除こうと、鋭い刃と化した右手を振り上げる。
 その切っ先がシリスの背中に落とされかけた、刹那。
「デウスよ!」
「――!」
 シリスがコマンドワードを解放すると同時に、黒い姿がびくん、と跳ね、先ほどより低い、長く尾を引く唸りが周囲に響く。
 魔封槍デウスに封じられていた風の刃の魔法が、カレトの中で弾けた。黒い血が槍の穂先が埋まる傷口のわずかな隙間から流れ出て、石畳の上に血溜りをつくる。
 槍をしっかり握りしめ、弾かれるような圧力に負けないよう押し付けたまま、シリスは痙攣するカレトを見上げた。口からも血を流すその目は、どこか虚ろに輝く。
 しかしその身体を動かす力は、失われてはいない。ただ、制御する理性が失われたようだった。
「アアア!」
 宙で止まっていた刃が、震えて不安定な軌道を描きながら、シリスの首めがけて落ちて行く。
 シリスは、とっさに槍を放した。常にそばに置いておきたい、思い入れもある愛槍だが、この状況では仕方がない。
 黒くつややかな刃が、石畳に突き立つ。跳び退いてその場を離れながら、吟遊詩人は呪文を唱える。
「〈ライトニング〉!」
 電光が雨の中に舌を這わせ、的確に、シリスが指さしたデウスの石突きに収束する。
 蒼白い火花を散らして痙攣するカレトに、足を引きずりながらも体勢を立て直したレナスが、とどめとばかりに愛剣を投げ放った。それは直線的な銀の軌道を描き、黒い翼を突き破る。
 勝負はついたか。
 シリスは、相手の苦しみに終止符を打ってやろうと、一歩、足を踏み出す。
 瞬間、何でもない石畳の上で、彼はバランスを崩した。
……?」
 膝に力を入れようとするが、身体を支えられない。
 レナスが異状を感じ取ったように眉を吊り上げる。その目の前で、吟遊詩人は膝をついた。
「シリス?」
 剣士が今の彼の身体でできる限りの速さで、戦友に近づこうとした。その途端、雨などものともしない、耳障りな笑い声が鼓膜を突く。
 カレトが笑う。その声も、目も、正気を残していない。
「やっと毒が回ったか。もう少し早ければ、もっと良かったんだがな」
 低くかすれた喚き声を何とか聞き取って、シリスは顔を上げた。ぼやけて今にも白んでいきそうな視界を、唇を噛み、はっきりさせる。
「毒……魔族の血のことか」
「そうさ。身体の弱いヤツならとっくに死んでるところだが、お前は見かけによらず丈夫らしいなあ? もっとも、毒が回った今となっては、動けはしまい」
 真っ赤な、カメレオンのように長い舌が、その口の周りを舐める。
「まずいな」
 マントの内側から短刀を取り出し、シリスの前に陣取りながら、レナスはつぶやく。
 二人とも、丸腰と言って良かった。その上シリスは動けず、レナスも負傷し、戦えるような状態ではない。一方、シリスは呪文を唱えようと試みるが、意識を失わないようにするので精一杯だった。
 このままでは、やられる。
 その焦りを感じ取ったか、カレトは実に、楽しそうだった。
「この命が失われるのは実に惜しいが、これが契約だからな。潔く散ろうとしよう」
 言うと、呪文を唱え始める。それは、シリスが聞いたことのある、どの魔法の呪文とも違っていた。
「自爆する気か……?」
 相手の意図を察した剣士が、目を細める。雨の雫が常に彼の頬を流れていなければ、彼が冷汗を浮かべていることがわかっただろう。
 魔族の身体を持つ男のことばからして、その爆発力は、身動きの取れない二人の若者を吹き飛ばすのに充分な威力と効果範囲を持っているに違いない。通常ならシリスの防御魔法で防げたかもしれないが、それも、今は望みがない。
 叩きつける雨音も苦にせず、カレトが高らかに呪文を唱える十秒余りの時間が、ひどく長く感じられる。その呪文は、爆発に続く導火線だ。そして、導火線を伝っていく火種を消す手段は、もう、残っていなかった。
 ここで終わりか。
 少しの間思考の中であがいてから、レナスは簡潔に、そう結論付けた。
 命は、この暗黒都市では高くない。死も、それにめぐり会う機会も、そこかしこに転がっていた。
 彼はただ、じっと終わりのときを待つ。呪文が終わりに近づいたとき、ふと、背後の吟遊詩人の顔を見た。優男の端正な顔は青ざめ、噛みしめた唇からは血が滴る。だが、その目は炎のように苛烈な光をたたえ、カレトの上に留まっていた。
 すでに終幕まで感情を消すことにしたはずの剣士は、外界からグラスタを訪れた旅人がまだあきらめていないことに、軽く驚きを覚えた。
 しかし、あきらめていなくとも、打つ手がないことに変わりはない。
 呪文を最後まで唱え終えた黒い巨体が手を上げる。
 瞬間、空気が変わった。
……あ?」
 不意に、カレトが間の抜けたような声を出す。彼の、天に突き出したはずの腕がなくなっていた。
 ほぼ隙間がないと言えるほど、降りそそぐ雨。その、知覚できないような隙間に、何かがうごめくような気配があった。
……ぎっ!」
 不安を感じたように周囲を見回そうとして、ようやく腕が肩の先からもぎ取られていることに気づいた彼は、悲鳴を上げかけた。声を鋭く吐く一息分だけ洩らしたところで、何かが後ろから、のしかかってくる。
 水滴に、黄金の光が映る。それが魔族の上を駆け抜けながら、翼を引き裂く。
 カレトは、相手の姿を視界に捉えようとした。
 しかし、その目的は遂げられることなく終わった。

 雨を避けて建物の軒先に入り、魔法で傷を癒すと、シリスはフード付マントを着直し、頭を振りながら立ち上がった。まだ、意識が少し朦朧としていて、手足の先に痺れを感じている。
 そのとなりでは、レナスが傷の塞がった肩を動かし、痛みがないことを確かめてから、雨で汚れを流した上にしぼった布で刃を拭いた愛刀を鞘に戻す。
 腰に馴染み深い重量が戻ったのを感じると、彼は、シリスの向こうで身体を丸めている人ならざる姿に目を向けた。
「あんたには、借りができたな」
 と、彼が声をかけた相手は、金色の毛並みを持つ獣だった。獣とはいえ、その目には高貴な知性を感じさせる光が宿っており、そのその姿かたちは、レナスの知識にある、どんな獣のそれとも違っていた。
 聖獣。その目と、額の真ん中にある宝石の魔法的な輝きが、その名と生態の説明に説得力を与える。
 今までの人生のほとんどをグラスタという限られた空間で過ごしてきたレナスは、シリスに説明されるまで、その存在を知らなかった。だから彼はほんの瞬間、獣に話しかけることを奇妙に感じたが、すでに相手が人語を話し呪文を唱えるのも目の当たりにしているので、違和感と呼べるほどのものではなかった。
「気にするな。お前たちが死ねば、わたしに有益な情報も失われるからな」
 その名をゼピュトルと名のった聖獣は濡れた尾を舐めながら、振り向かずに言う。その猫のような仕草と重々しい落ち着いた声が、どこかズレている。
 彼は瀕死の魔族を魔法で塵にすると、二人の怪我人をここへ誘導し、治療した。その合間に告げたことによると、人目に触れないよう外で待機していたが、戦いの気配を感じて駆けつけたということらしい。
「気まぐれな空が、一度に顔色を変えなければいいが」
 ゼピュトルは身体を舐めるのをやめ、少しずつ雨足が緩んできた空を見上げた。
「今のうちに、お前たちの目的地へ向かおう。わたしはセヴァリーと合流しておきたい。新たな情報も手に入ったことだしな」
 シリスとレナスは、彼のことばに同意した。二人としては、一刻も早く薬を届けたいのだ。その道のりの中、ゼピュトルが同行してくれるのは心強かった。
 雨が少しずつ勢いを失う中、彼らは暗黒街を出た。人目を嫌うゼピュトルはシリスとレナスのあとを、少し離れて追いかける。
 幸い、道に出ている者はいなかった。カレトの屋敷の周囲を見張る者など、窓から監視している者はいただろうが、建物の間から建物の間を俊足をもって駆ける聖獣を見咎めるのは、難しい。チラリと視界の隅に捉えたところで、金色の獣などいるはずもない、と、気のせいで済まされるに違いなかった。
 結局、新しい危険に見舞われることもなく、一行は墓に辿り着く。
「なかなか考えられた隠れ家だ」
 そう感想を述べて、聖獣は青年たちに続き、草が伸び放題の墓石の間に半ば姿を埋める。
 先頭を行くシリスは、皆無事だろうか、と一抹の心配を抱えながら、周囲に他の人間がいないことを確認し、するりと傾いた小屋の扉の横に移動する。その動きは、いつもよりぎこちないが。
 小屋は今までと同じように、外見上、中に誰かがいるとは思えない風を呈していた。
 レナスとゼピュトルがそばによる気配を感じながら、シリスは、ピーニに教えられていたノックの仕方で、扉に軽く、七回ほどこぶしを打ちつけた。
 リンファの魔法か何かで帰還を予期していたのか、すぐに扉が開かれる。三分の一ほど開いた隙間から、三人は素早く滑り込んだ。外界との接触を最小限にしようというかのように、扉は即座に閉められる。
 吟遊詩人が、狭い室内を見回してみる。どうやら、中にいる姿は教会をめざして出て行く前と変わらないようだ。
「無事に帰ってきたみたいね」
 暖炉のそばに寝かされた少年のかたわらに座る女魔術師が、ゼピュトルを一瞥してから、シリスに当たり前のように言った。
 一方、ピーニは聖獣にも気づかない様子で、帰ってきた二人に迫る。
「それで、薬は……どうなったの? 手に入ったの?」
 少女は、勢い込んできく。舌が上手く回らない調子で、それでも、その必死の目が言いたいことをすべて言っていた。
 少しぼうっとして、余り状況の良さそうではない表情を浮かべていたシリスの顔に、少しの間忘れていた、優しいほほ笑みが帰ってきた。
「大丈夫だよ」
 懐から、カレトの屋敷で手に入れた薬瓶を取り出す。
「よく、手に入れてくださいました」
 目を見開いて飛び上がらんばかりのピーニの後ろ、ロイエのそばで、セヴァリーが安堵の溜め息を吐く。反対側の壁を背にした傭兵は、同時に口笛を吹いた。
 狭い隙間を器用にするりと抜けて、ゼピュトルが法衣姿の魔術師の横で丸くなり、友人を見上げた。
「どうやら、我々は、人助けに精を出す機会が多いらしいな」
「情報のためですよ」
 元四大魔王の一人は、肩をすくめた。
「情報を持つ人間が危機に瀕していたら、助けなくてはいけない。まったく、面倒なことです」
「同意だな」
 会話に興味を失い、聖獣は丸くなった。そこは暖炉に近い、あたたかい場所だ。
「お疲れさま。あなたも休んだほうがいいと思うの」
 レナスはすでに、端のほうに腰を下ろして目を閉じていた。リンファは立ち尽くすシリスの手を引いて座らせる。見上げる彼女の瞳は、何か気がかりなことを見つけたような色をにじませていた。