―――子供の泣き声が、聞こえた。
 広い、デパートの洋服売り場に、子供が一人。
 俺―――だった。
 両親とはぐれて、周囲の人間は皆知らない顔で、心細くて。
 淋しくてたまらなくて、大声で、泣いた。
 周りの客は迷惑そうに眉を寄せて、迷子の俺には近づこうともしなかった。
 誰も構ってくれない。
 誰も声をかけてくれない。
 誰も助けてくれない。
 …でも、例外が―――あった。
『あきらっ』
 懐かしい…一番会いたかった人の声が聞こえて、俺は顔を上げる。
『泣くんじゃないのっ。…男でしょ?』
 そう言って、姉貴は俺の手を引いて両親の所に連れて行く。
 酷く、懐かしかった。
 何で、今、こんな、モノを、見―――。
 ……………………。
 ……………。
 ……。

 ゴゥンッ!ザァアアッ…バシャァアアッ!!

 耳障りな音で、目が覚めた。
 体中から、嫌な感触がした。
 堅くて、濡れてて、ぐちゃぐちゃで、ぬるぬるで、ぺっとりと張り付いてて。
 大きく息を吸おうとするとズキリと胸の奥が痛んで、ごぽりと鉄の味がこみ上げてきて。
 腹の奥がぱんぱんに張って苦しくてたまらなかった。
 瞼越しに光を感じて目を開ける。
 少し端の駆けた月が恥ずかしそうに、煌々と夜空を照らしていた。
「あっ…―――」
 声を出そうとするとごぽっ…と喉に液体が支えた。
 俺は仰向けに寝そべっていて、両足はちゃぷちゃぷと海水に浸かっていた。
 右手が変な感じがしたから持ち上げて、視界にいれてみた。肘と手首の間で変な風に折れ曲がって、肉がぶくぶくに膨れあがっていた。
「あっ…」
 思い、出した。俺は姉貴と一緒に崖から落ちたんだ。
 どうやら、辛うじて、俺は生きているらしかった。ゆっくりと、上体を起こす。
「あ、ぎっ……」
 痛みというのも烏滸がましいような感覚が全身に走った。俺が寝ていたのは丁度岩礁の上らしく、そこにいきなり落ちて助かるわけはないから多分初めは海に落ちて、そして打ち上げられたんだろう。
「はっ…はっ……」
 深く息を吸うと痛くてたまらなかった。浅く、何度も呼吸をした。それでもズキズキと胸の奥が痛んで、血が口の中にこみ上げてきた。それを、嚥下する。
「あ、ね―――」
 姉貴を捜そうとした。声らしい声は出ない。月明かりの中、辺りを見回した。
 見渡す限りの闇、その僅かな部分だけが月明かりで見えた。
 ザパァッと飛沫が上がって、波は未だに荒々しいままだった。
「(あ、ねき…―――)」
 言葉にはならなかった、口だけ、動いた。多分、まともに声が出てもこの波の轟音にかき消されていただろう。
 俺はどれほど気を失っていたのだろうか、辺りの暗さと月の位置から多分…5分や10分ではないと思う。
「はっ……はっ…」
 まさか波にさらわれた…?―――そんな、絶望的な考えもよぎった。
 だが、仮にそうではなかったとしても姉貴も相当な怪我を負っているのではないか。
 嫌な想像が、いくつも浮かんできた。
「はっ…はっ……」
 体を捻って、辺りを見回した。そして、見覚えのある色、服が見えた。
 目をこらしてよく見る―――間違いない、姉貴だ!
 俺と同じように岩礁に凭れるようにして、引っかかっていた。
「はっ…はっ……」
 辛うじて、左手だけはまともだった。殆ど左手一本で岩礁を降りて、海水に着水した。
「ぷっ…ぁっ…!」
 両足が、否…少なくとも右足だけは殆ど動かなかった。多分、2,3カ所は折れてる。
 左足も足首から先の感覚はまるでなかった。ひょっとしたらちぎれてしまっているかもしれない。
「はっ…はっ…」
 波が体を左右する。それでも必死に藻掻いて、折れた右腕も使って姉貴がいる場所まで泳いだ。
 距離にして約2メートルといったところだろうか。体さえまともなら例え波が強くてもさほど時間をかけずに移動できる距離だ。そう、体がまともなら。
 人間、過ぎた痛みを受けると何も感じなくなるというが、今がそういう状態なのだろうか。
 体の殆どの箇所が麻痺したように痛みがなかった。代わりに熱いような、冷たいような、奇妙な感覚があった。
 特に背中が酷い。大きな穴でも空いているのか、血がそこから流れ出て、冷たい海水が入り込んできているのかもしれない。
「はっ…はっ……」
 どれくらい時間がかかったか分からない。それでもなんとか、姉貴の居る岩礁までたどり着いた。
 這うようにして姉貴の上に被さった。姉貴の体は暖かくて、まだ体温があった。息もしていた。
「あっ……かはッけほっ…!!」
 姉貴を揺すって起こそうとした、声をかけようとした。だが喉の奥からどんどん血が溢れてきて、声は殆ど出せなかった。
 代わりに噎せて、肺が裂けるような痛みが襲ってくる。
 頼りない月明かりで見た限りでは、姉貴には目立った外傷は無いようだった。ただ、顔に一筋の、髪ではない黒い線が流れていた。
 間違いなく、姉貴の血だ。頭を、怪我していた。
「はっ…はっ……」
 姉貴はまるで眠るように穏やかな顔のまま、ぐったりと岩礁の上に横たわっている。
 俺は、上を、崖の上の方を見上げた。浸食で崖は陸地側に大きくえぐれたような形になっていて、俺たちが居る場所は崖上からはまず、見えない場所だった。
 このままここに居て、朝になってだれかが気づいて助けてくれるとは、到底思えない。
 そしてどうやら、というか多分、ここは水没する。心なしか、水位が上がってきている。
 留まるのは、危険だ。
「はっ…くっ……」
 唯一まともに動く左手で、俺は姉貴を背負う。俺の背中はどうやらそうとうグチャグチャになっているらしいことが、姉貴の体の感触で分かった。…そういえば、落ちるとき背中から落ちたっけか…。
 背骨が無事だったのは不幸中の幸いだろう、そのほかの骨や肉についてはどうだかは分からないが。
 もし、姉貴が下になっていたら俺と姉貴の怪我は逆転していたかもしれない。そう考えるとゾッとした。
 いや、勿論姉貴の怪我だって気が抜けたものではない、頭の怪我は…場所によっては…。
 とにかく、一刻も早く、病院に連れて行かねばならない。姉貴を、そして勿論俺も。
「はっ……はっ……」
 姉貴を背負って、再び海水に着水した。そのまま、崖沿いに岸壁に凭れるようにして移動した。
 一応、足場のような感覚はあった。だが、殆ど立ち泳ぎに近い感じで、前に進む。
 このままこうして移動していけば、そのうち夕方歩いた砂浜にたどり着ける筈だ。浜辺なら、多分俺が無理でも他の誰かが見つけてくれて、病院に運んでくれるはず。
 逆に言えば、浜辺までたどり着けなければ俺も、姉貴も多分、海の藻屑で魚の餌だ。


 ザバァッ!
 容赦なく、波が襲ってくる。何度も、岸壁に叩きつけられた。
 その都度、体中が軋んで、悲鳴を上げた。水を含んだスポンジを握りつぶしたような感じで、体から血が溢れていくのが分かった。
 波が来るたびに、確実に俺の命は削られている、それが実感できた。
「はっ…はっ…」
 だんだん、目が見えなくなってきた。視界が暗くなってきて、手の感覚も虚ろになってきて、ちゃんと前に進んでいるのかも危うくなってくる。
 左手は、前進には使えなかった。姉貴が落ちないように左手で支えながら、折れた右手と殆ど動かない右足と左足で前に進む。
 まだ、夏の名残のおかげで海水は凍るような冷たさ…というわけではなかった。それでも、決して油断できない冷たさだ。
 多分、長時間曝されたら間違いなく持たない。だから、少しでも早く前に進んで、水から上がらないといけない。
 
 藻掻いて、藻掻いて。
 息を切らせて、血を吐いて。
 それでも、絶望的なスピードでしか進めなかった。いや、本当に前に進んでいるのかすらも怪しい。本当は波に押されて元の場所から全然動いてないんじゃないか…、そんな気もする。
 やっぱり、大人しく落ちた場所で救助を待った方が良かったかもしれない。
 しかし救助が来るのは何時間後だろうか、ひょっとしたら数日後かもしれない。
 姉貴がもし頭を強く打っていて一刻を争う状況だとしたら、確実に手遅れだ。
 それに、あれ以上水位が、波が高くならないという保証もない。どちらにしろ、あそこは危険だ。
 死にたくなかったら前に進むしかない。
 こんな、悪い夢みたいな目にあって、死ぬなんて冗談じゃない。絶対に嫌だ。
 生き残って、姉貴と―――俺はっ…!

 血がどんどん体から抜けていって、目も霞んで頭がぼんやりとしてきた。
 体がフワフワと浮いているような感じになって、両手と両足の感覚がだんだんぼやけてくる。
「ぜーっ…はーっ…ぜーっ………」
 呼吸をするたびに耳障りな音が聞こえた。
 体が冷え切り、歯ががちがちと鳴る。背中の姉貴の体温が妙に暖かいと感じる。
「んっ…ぅ」
 まるで寝言の様な、穏やかな声が耳元に聞こえた。
 良くは聞き取れなかったがそれでも、何か苦痛めいたものは混じってないように感じた。
「(…暢気だなぁ、ホント……)」
 ひょっとしたら姉貴の方が全然軽傷で、俺が背負ってもらわないといけないんじゃないのか?
 俺がこんなに痛みを堪えて頑張ってるのに、そろそろ目を覚ましてくれても良さそうなものだが。
 いや、でも変に目を覚まされてパニック起こされても困るな…。うん、やっぱり姉貴、病院つくまではそのままでいいや…。
 前に包丁で少し刺された時だってあんなに狼狽えてたのに今、目を覚ましたりしたらそれこそショック死してしまうかもしれない。
 せっかく姉貴を助けようと頑張っているのにそんなことで死なれては俺が報われない。
「ぜーはーっ……ぜーはーっ……」
 耳障りな音が、漏れる。これでは姉貴を起こしてしまう。
 呼吸を押さえようとしても、どうにもならない。
 悪寒が止まらない、歯が鳴ってこれも止まらない。
 だんだん吐き気もしてきた、視界がぐにゃりと歪む。
 時々、何故自分がこんな場所で、こんな目に遭っているのかが分からなくなった。
 俺たちは二人で旅行に来て、散歩して、姉貴が心中しようと言って柵を越えて…。
 たちの悪い悪戯の様な、突風が…吹いて、姉貴が落ちて、俺がそれを追いかけて。
 …何故、俺は姉貴を追ったのだろう。追ったからといって助かるというものでもないのに。
 いや、それでも…姉貴が負う筈だった怪我の何分の一でも、俺が代わりに負うことができたのなら、一緒に落ちた価値は十分にある。
 あとは姉貴を無事に病院に届けることができれば最高なのだが…どうも、それは無理みたいだ。
 もう、今にも体が動かせなくなりそうなのに、まだ浜辺にすらたどり着いてない。
 浜辺から高台までの距離は体感で300メートルくらいだったと思うから、何とかなるかと思ったけど、姉貴の言う通りやっぱり俺は体力が無いらしい。
 思えば、今日は朝飯も昼飯も、当然晩飯も食べてない。極めつけに昨夜は……。
「ぜーはーっ……ぜーはーっ…ッカハッ…ケホッッ…!!…」
 ねっとりとした、半分凝固した血液が喉を塞ぐ。苦しい…。
 頭がガンガンしてきて、クラクラして、寒くて、痛くて、眠くて…。
 ああ、ドラマとかでよくある、『眠ったら死ぬぞ』というのは…こういう感じなのかなぁ…。
 でも、たしかにこれは眠い、眠くて…抗えない。
 ここで俺が寝たら…やっぱり心中になるのかな…、『男は死にきれず、助け求めて浜辺を目指し、力尽きて死亡。』とか新聞に書かれたら嫌だなぁ…格好悪すぎだ。
 やっぱりだめだ、まだ眠れない、せめて、姉貴だけでも助けて、事故だということを証明してもらわないと死んでも死にきれない。
「ぜーはーっ…ぜーはーっ………?」
 急に、今まで右側にあった岸壁が途切れて、急にバランスを崩した。
 そこに波が来て、押された。ごすっ、と堅い突起の様なものが脇腹に当たった。
「がっっ……!」
 腹に鈍痛が走った。内出血か、内臓破裂かしたところをさらに殴られたような感じだった。
 あまりの痛さに、意識が覚醒した。そして見上げた。
 正四面体の各面の重心に垂線を引いたような…そんなモデルの物体―――テトラポット?
 記憶を辿る、高台に登る途中に確かにテトラポット置き場のようなものが見えた気がする。
 ということは、今やっとそこにたどり着いたということか。距離にして、1/3ほど到達したことに…なる。
「がっっ…はっ!」
 波が襲ってきて、何度も、テトラポットに…打ち付けられる。
 だめ、だ、もう、これ以上は、進め、ない。このまま、じゃ、姉貴だって、痣まみれになって…しまう。
「ぜーはっ…ぜーはっ……!」
 波に、抵抗しながら、テトラポットにしがみついて、登った。
 左手で、姉貴を支えて、右手は…指もぐちゃぐちゃに折れ曲がっていて、巧く、捕まれなかった。
 目が、殆ど見えなくて、はたしてテトラポットがしっかりとくみ上げられたものなのか、それとも無造作に置かれたものか分からなかった。
 だから、なるべく”上”を目指した。
「ぜーはっ……ぜーはっ……」
 背負っていた姉貴を、そっとテトラポットの合間に引っかけるようにして横たえる。
 多分、ここなら、大丈夫な気がする。少なくとも波にさらわれることは、無い…筈。
 唯一不安なのは姉貴の寝相だ、バランスが微妙だから落ちるなければいいが…。
 朝まで持てば、きっと誰かが見つけてくれる。散歩の時でも、この場所は普通に見えた筈だ。
「ぜーはっ…………ぜーはっ…」
 耳障りな音が止まらない。
 胸の痛みがどんどん酷くなってきて、息をするたびに口から血が溢れてくる。
 人間、血液を1/3失うと死ぬというが、俺はとうに半分ほど流しきってるような気がする。
 月明かりに照らされた姉貴の体はぐっちゃりと血に濡れていて、その殆どが俺の血の様だった。
 姉貴の綺麗な顔にもべっとりと血がついていて、俺はそれだけが、どうしても我慢できなくて、左手で血のりを拭おうとした。
「ぜーはっ……ぜーはっ……」
 左手も、血にまみれていて、拭っても拭っても血はとれなかった。
 袖で拭うようにして、やっと取れた。
 姉貴の顔は死人の様に白かった。本当に、死んでるんじゃないかと思った時、
「ン…っ…」
 呻きのような、声。呼吸の音こそ波の轟音に消されて聞こえないが、確かに胸も上下して呼吸もしているようだった。
「ぜー…はー……ぜー…はー……」
 体が震えて、寒くて、眠かった、
 座っているのか、立っているのか、寝そべっているのかもだんだん分からなくなってきた。
 最後に姉貴の顔を見た。もう、一度だけキスをしたいと思った。
 でも、俺の口からはどんどん血が溢れてきて、また姉貴の顔が血に汚れてしまうと思うと、できなかった。
「はっ、はは、、、」
 穏やかな、姉貴の顔を見ていると笑いがこみ上げてきた。
 そのまま、ふらりと、宙に浮くような感じがして、ぱちゃりと背中に冷たい感触があった。
 海に、また落ちた。体は浮かなくて、どんどん沈んでいった。
 ああ―――死ぬ…んだな。今更に実感が沸いてきた。藻掻く気も起きなかった。
 想像では死ぬ時ってのはもっと怖いものだと思っていたが、意外にそうでもなかった。
 むしろ、腕や腹、足や胸の痛みが少しずつ和らいで心地よかった。
「…………っ………」
 こぽりと、肺の中に僅かに残った空気をはき出すと、もっと早く沈み始めた。
 水の中は驚くくらいに静かで、シンとしていた。俺の耳がイカれてるだけかな?
 驚くついでにもう一つ、夜の海はとても明るかった。
 海面には月があって、ゆらゆらと揺れていた。
 いや、あれは本当に月だろうか、もう目もイカれてるんじゃないのか。
 遠くにある、月だか太陽だか分からない光の塊はその大きさを増しながら、だんだん俺に近づいてくる。
 ああ、なるほど―――これが噂に聞くお迎えってやつか。それにしても少し眩しすぎだ。瞼を閉じても、眩しくてたまらない。
 どうせ死ぬなら、走馬燈というやつも体験してみたかった。きっと、姉貴の背中ばかり追いかけている記憶だらけだろうから、さして面白みも無いんだろうけど。
 そう、か。死ぬということはもう姉貴に会えなくなるということだ。
 姿を見ることも、声を聞くことも、肌を重ねることも、全部できない。
 今更ながらに、後悔した。やっぱり最期に、姉貴とキスをすればよかったと、思った。
「………………………………」
 体が、どんどん沈んでいく。
 光が、どんどん近づいてくる。
 意識が、否、『俺』が光と闇に挟まれて、消えていく。
 もう、最期―――だ。
 光が、形を変える。
 俺の、最愛の人の姿になって、手をさしのべてきた。
 手を伸ばせば、掴むことができた。でも、伸ばさなかった。
 俺の手は血まみれで、きっと姉貴が嫌がると思ったから。
 
 体が、沈んでいく。
 姉貴の形をした光が、遠のいていく。
 光は、淋しそうな、不安そうな顔で俺を見下ろしていた。
 だから、俺はとびきりの笑顔を作った。姉貴を不安にさせないように、精一杯笑った。

 『さようなら、姉貴』

 最期に、何か洒落た台詞を言って終わりにしたかった。…でも、いい言葉が思いつかなかった。
 だから結局、普通の、別れの言葉しか言えなかった。
 光はどんどん遠ざかって、球形に、そして点になる。
 夜空の星のように小さくなって、そして消えた。
 …………………………………。

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