寝たり起きたり、本格的にベッドから出たのは夕方だった。
「こうなると思ってたから、今日は何も予定入れてなかったの」
と、姉貴は自信満々に言った。…確かに言うとおりになったから何も言えない。
「結局、朝飯も昼飯も食わずじまいか…、旅館の人に失礼じゃないのか?」
「さぁ…逆に食費が浮いて助かってるんじゃないの?」
「さすがに今から昼飯…ってのは無理だよなぁ…」
時計を見ると5時、夕飯の時間の方が近い。
「…少し、散歩でもしてみる?何かお店とかあるかもしれないし」
「俺としてはあんまり動きたくない気分なんだが…」
「ホンッット体力無いのね、明…。少しは運動したら?」
そう言う姉貴はまだ元気が余っている様でベッドからぴょんと飛び降りるとそのままシャワー室へ。…出かける気は満々だ。
俺だけ部屋に残る…ってのも無理だろうなぁ…。
旅館を出て、海岸沿いに歩いた。
さすがに季節外れの為、泳いでいる人の姿は見えない。
ヒュウ…と潮風が、吹く。
「姉貴、寒くないか?」
「ん…大丈夫……」
そんな筈は無いと思った。上着を着ている俺が寒いと思っているのだから、上着を着ていない姉貴が寒くないわけはない。
だから、姉貴の返事に関係なく、俺は上着を脱いで、
「ほらっ…」
姉貴の肩にかけた。
「…いいよ、明が寒いでしょ?」
「ばか、こういうとき男は例え自分が寒くても我慢して相手に上着を着せてやるもんなんだよ」
「……前時代的ね…。でも…明がいいって言うんなら…」
姉貴は上着に手を通して、暖かそうに微笑む。
「…明の匂いがする」
「悪かったな、全然洗ってなくて」
「えっ…洗ってないって………どれくらい?」
心底嫌そうな声で、姉貴が顔を顰める。
「んー……軽く2,3年は洗ってないかな」
なんか悔しかったから、少し誇張しておく。
「げっ…あんたなんてモノを着てんのよぉっっ!」
「冗談だ、気にするなよ」
苦笑する。
「もうっ……本当っぽい冗談はやめてよね」
姉貴も合わせて苦笑する。
ヒュウ…と、また風が吹いた。
「よっ…と」
何の気なしに、姉貴がアスファルトの段差を越えて浜辺に降りる。俺も、後を追う。
渇いた砂の感触がサクリ、と心地よかった。
「………夏も…もう終わりかな?」
砂浜をサクサクと鳴らして、長い髪を風に靡かせて、姉貴が哀愁たっぷりに言った。
「受験生としては、今年は暖冬になって欲しいところかな」
サクリと、砂浜を歩く。
波がザァァと足のすぐ近くまで上がってきて、引いていく。
「明日はもう、帰らなきゃね……」
「そう、だな…」
家に帰るのは、嫌だ。家に帰れば、姉貴とは普通の姉弟を装わねばならない。
帰りたく…ない。
「今度来るときは水着もって来ようか、今の季節はさすがに泳げないけど」
「厚手のパット買わないとな、姉貴の体型じゃ浜の笑い者になる」
「あんたねぇ…殴るよ?」
「姉貴、女の癖にグーで殴る癖は直せよ…」
「明が変なこと言わなきゃ殴らないわよ」
要するに姉貴のゲンコツはツッコミの意なのだろうか。
それにしては痛すぎるんだが…。
「ねぇ、明…」
「なんだよ」
「腕、組もうか?」
姉貴が少し照れくさそうに言ってきた。勿論、断る理由なんて無い。
組めるように、肘を差し出した。そこに姉貴が腕を絡めてきて、寄り添ってくる。
「…前に同じ事を姉貴に言ったときは…バカにされたな〜」
イヤミっぽく言うと、姉貴はふふんと笑って、
「…あの時はまだそんなに、明のこと好きじゃなかったしね」
「そんなに、って事は…少しは好きだったのか?」
「そう、なるのかなぁ…よくわからないや…」
「曖昧だな、俺はずっと前から…姉貴のことが好きだったけど…」
「わたしも…ひょっとしたらそうだったのかもしれない…。勿論、弟として、ね?」
「弟として、かぁ…」
少し、残念だった。
「初め明に無理矢理された時は…凄く怖かったな。目の前に居るのが、明の形をした化け物みたいに見えて…」
きゅっと、姉貴が腕に力を込めてくる。
「すっごい痛くて、全然気持良くなくて…それなのに明だけ凄く楽しそうで……憎かったなぁ…」
「…まぁ、あの時は…俺もかなりキてたから………」
今だから、こうして姉貴と一緒に腕を組んで歩いたりできる。昔は普通の姉弟を装うために、俺は必死に我慢していた。
我慢をして我慢をして、タガが外れて…そして姉貴を襲った。
今思えば…なんて自分勝手なことを考えてたのだろうか。若さ故の過ち…そんな言葉では誤魔化しきれない。
「姉貴、ごめん…」
「うん…?」
「いや、さ…今更…だけど、…やっぱり謝っとくべきかなって…」
「ばかっ、…遅すぎよ…」
姉貴ははにかむように笑って、組んでないほうの手でぽかっと俺の頭を殴った。
「でも、なんか不思議ね。あんなに明のことが憎かったのに…今はこんなに…明のことが好き」
「…俺の人間的魅力かな?」
「自惚れてるわねー…、あんたさぁ、鏡見たことある?それとも目が悪い?」
「…ひっでぇ言われ様……」
確かに、世間的に美男子じゃないとは自覚してても面と向かってそこまで言われると少し…ショックだった。
「ま、顔だけが人生じゃないしね、そういうのもいいんじゃない?」
「姉貴がいいなら、俺も気にしないことにする」
サクサクと、砂を鳴らして歩く。
夕日の下端が、水平線に埋没しようとしていた。
「あたしたちさ…、姉弟…なんだよね」
確かめるように、姉貴が呟く。
「そう、だな…」
「…どうして、姉弟なのかな…。赤の他人だったら…良かったのに…」
「………………………」
会話が、途切れた。
俺も、姉貴も、ただ無言で歩き続けた。
海岸沿いに歩いた。
次第に砂浜からごつごつした岩へ、平地から高台へと…道が続いた。
最後に高台の岬に着いた時にはもう、日が海に埋没しかかっていた。
「折り返し、かな…」
踵を返そうとした時、姉貴がするりと腕を抜けて、岬の先端の方に歩いていく。
「姉貴?」
「ん…、せっかくだから…夕日でも見ていこうかなと思って」
腰の高さほどの木の柵に腰掛けて、俺の方を見る。
「…夕日って…」
大半はもう海に没して上辺だけがチラチラと見えるそれも果たして夕日と呼んでいいのだろうか。
しかたなく、俺も姉貴の隣に座る。背中に海からの風が当たって、少し寒かった。
「…未来、」
ふいに、ぽつりと姉貴が呟いた。潮風に消えそうなくらい、小さな声だった。
「ん…?」
「明は…未来…、将来のこととか…考えたことある?」
「なん…だよ、急に……」
「わたしはね、考えたよ…。この先、明が大学に行って、私が大学を卒業して…仕事について…家を出て……」
くるりと、姉貴は海を見る。柵から身を乗り出すようにして。
「でも、ね…いくら考えても…明と一緒に幸せになるヴィジョンが見えなかった。姉弟じゃ…結婚もできないし…子供も産めないしね」
「……………っ…」
何故か、それ以上、姉貴の言葉を聞きたくなかった。
姉貴が言っていることは、俺が必死に考えないようにしてきたことそのものだったから。
きっとこれが、姉貴の言っていた『考えたいこと』だったのだろう。
姉貴は、俺よりもずっと大人で、きちんと将来を見つめて…考えてたんだ。
「…今の関係を…いつまで続けられると思う?いつかは…父さん達にバレるだろうし…そしたら…もう……」
「…だからって…、どう…すりゃいいんだよ……」
問うても、答えは返ってこない。返ってくる筈はない。
姉貴自身も、その答えを探しているのだから。
「本当は…ね、」
懺悔する咎人の様な声で、姉貴が呟いた。
「わたし、決めてたの。旅行が終わったら…もう明とは普通の姉弟に戻るって」
「…………………」
「だから、旅行の間は…明と精一杯楽しもうって…そう思ってた。…だって…それが一番いい方法だと思ったから…っ……」
姉貴の声が乱れて、しがみつくようにして、俺に抱きついてくる。
キシリと柵が鳴る。
「でもっ…やっぱり…嫌だよ…そんなの…。今更…明のこと…ただの弟なんて思えない…」
「……俺だって、嫌だ。…そんなの…死んだ方がマシだ」
きゅっ…と姉貴が手を回してきて、抱きしめてくる。離れたくないとでも言う様に。
「……心中、しよっか…」
ぽつりと、そんな呟きが聞こえた。冗談とか、そういう口調には…聞こえなかった。
すっ、と姉貴は俺から離れると、ひょいと柵を乗り越えて向こう側に立つ。
そこから一歩踏み出せば、そこにはもう地面はない。
ざっと見て十数メートル―――いや、もっとあるかもしれない―――下には飛沫が舞う岩礁、これなら落ちればまず助からないだろう。
「…明となら、わたしはいいよ…、思い残すことも、そんなにないし……」
ヒュウッ…と水平線から潮風が吹いて、姉貴の髪を靡かせた。沈みかけの夕日を背にして立つ姉貴の目は、少し潤んでいるように見えた。
「…心中、かぁ―――」
姉貴と一緒なら、それも悪くないんじゃないかと思った。
多分、姉貴の言う通り…姉貴と今の関係を続ける限りまともな生活はできないだろう。
それなら、いっそ―――
「でも、さ…どうせ心中するなら…その前に一つくらい悪あがきをしてもいいんじゃないか?」
「悪あがき…?」
姉貴が少し首を傾げて、聞き返してきた。
「せっかく車があるんだから……このまま二人で駆け落ちってのもいいかもしれない。日本じゃ無理でも、世界中を探せば近親結婚OKな国があるかもしれないし…」
「…って、あんたまさか…駆け落ちで海外まで逃げる気!?」
呆れたように、姉貴が声を上げた。俺は笑い返して、
「たとえば、の話。寒風吹きすさむ北の町に姉貴が行きたいんなら…それでもいいさ」
「う…、寒いところは嫌かなぁ…。どうせなら南に行こうよ…沖縄とかさ…」
「沖縄かぁ…じゃあ、俺は漁師になるのかなぁ……」
沖縄=漁師という発想は偏見かもしれないが、ふと漁師になった自分を想像してみる。
…銛を片手に、黒く焼けて、マッチョで…やばいっ、なんか…嫌だ。
「明に漁師は無理なんじゃないの?体力無いし……」
「漁師が無理なら農家の手伝いでもなんでもやるさ。姉貴にひもじい思いだけはさせないように頑張るよ」
「…なんか、相当悲惨な生活になりそうね…。覚悟しなきゃ……」
「貧乏でも、そこに愛があればそれ以上何もいらないだろ?」
冗談っぽい口調で言うと、姉貴は怪訝そうに眉を寄せて、
「…愛じゃお腹は膨れないわよ。減りにくくはなるかもしれないけど…」
なんてシビアなことを言う。…やっぱり姉貴は大人だ。
「…まぁ、とにかく。俺が言いたいのは…このまま死ぬくらいなら…その前にそういう悪あがきをしてみるのもいいんじゃないかって事。姉貴は…どうなんだよ?」
「ん…いいよ。あたしも悪あがきに賛成。死んじゃったら…それで終わりだもんね」
姉貴が、微笑む。丁度、夕日の最後の欠片が海に没して、闇が深くなる。
ヒュウと、潮風が、吹いた。
「…日も沈んだし、帰るか」
「そう、ね。お腹も空いたし…」
踵を返した時、だった。
ふいに、キ…ンと耳が痛くなって、海からの風が止まって。
なにか、とてもたちの悪い音が聞こえた。
「っっ…っく…!?」
ビュゥウウッ!!
轟音の様な突風が吹いてきた。俺の、”真正面”から。
風圧に体が仰け反って、俺は咄嗟に柵に凭れ―――
「あっ―――」
間の抜けたような声が”背後”から聞こえた。
ハッとした。
俺の背後には柵がある。だが、姉貴の後ろには……。
「姉貴ぃっっッ!!!」
振り返って、叫んだ。
姉貴の足は、地面から離れていた。
「―――ッ!!!」
心臓が一際高く、ドクンと波打って、まるでスローモーションの様に景色が流れた。
俺は柵を跳び越えて、さらにそれを蹴って、跳んだ。
柵から崖までは50センチも無い、崖の縁を蹴って落下に初速をつける。
上着が無くて幸いだった。上着が無いから、こうも身軽に動けた。
そして姉貴は、多分上着を着ていたから…風をモロに受けた。俺でも押される突風に、軽い姉貴は―――ッ!
「くっっ…!」
ぐらりと、景色が90度曲がる。
眼下には暗い海、ザァァと荒い波が岩礁に渦巻いている。
俺は岸壁を走るようにして、姉貴を追った。初速と加速の差で、俺はすぐに姉貴に追いついた。
「あきらっっ…!!」
姉貴が震えた声で俺の名を呼んで、しがみついてきた。俺も両手でしっかりと姉貴を抱きしめる。
肩越しに、今から自分が落ちる景色を見た。
ゴツゴツした岩が各所露出して、それに荒い波が当たって白い飛沫を立てていた。
岩に当たれば、確実に死ぬと思った。いや、海に落ちても同じ事かも知れない。
咄嗟に、俺は体を捻った。姉貴の体を上に、俺の体を下にするように。
ギュウ、と姉貴が一際強くしがみついてきた。
落着が近いんだと悟った。
「う、わっ……―――ぁあぁあっあぁぁあぁああああああぁあッ!!!!!!!!!!!」
俺も、精一杯の力で姉貴を抱きしめて、咆哮した。その叫びすら、波の轟音に消されて、飲み込まれた。
「こうなると思ってたから、今日は何も予定入れてなかったの」
と、姉貴は自信満々に言った。…確かに言うとおりになったから何も言えない。
「結局、朝飯も昼飯も食わずじまいか…、旅館の人に失礼じゃないのか?」
「さぁ…逆に食費が浮いて助かってるんじゃないの?」
「さすがに今から昼飯…ってのは無理だよなぁ…」
時計を見ると5時、夕飯の時間の方が近い。
「…少し、散歩でもしてみる?何かお店とかあるかもしれないし」
「俺としてはあんまり動きたくない気分なんだが…」
「ホンッット体力無いのね、明…。少しは運動したら?」
そう言う姉貴はまだ元気が余っている様でベッドからぴょんと飛び降りるとそのままシャワー室へ。…出かける気は満々だ。
俺だけ部屋に残る…ってのも無理だろうなぁ…。
旅館を出て、海岸沿いに歩いた。
さすがに季節外れの為、泳いでいる人の姿は見えない。
ヒュウ…と潮風が、吹く。
「姉貴、寒くないか?」
「ん…大丈夫……」
そんな筈は無いと思った。上着を着ている俺が寒いと思っているのだから、上着を着ていない姉貴が寒くないわけはない。
だから、姉貴の返事に関係なく、俺は上着を脱いで、
「ほらっ…」
姉貴の肩にかけた。
「…いいよ、明が寒いでしょ?」
「ばか、こういうとき男は例え自分が寒くても我慢して相手に上着を着せてやるもんなんだよ」
「……前時代的ね…。でも…明がいいって言うんなら…」
姉貴は上着に手を通して、暖かそうに微笑む。
「…明の匂いがする」
「悪かったな、全然洗ってなくて」
「えっ…洗ってないって………どれくらい?」
心底嫌そうな声で、姉貴が顔を顰める。
「んー……軽く2,3年は洗ってないかな」
なんか悔しかったから、少し誇張しておく。
「げっ…あんたなんてモノを着てんのよぉっっ!」
「冗談だ、気にするなよ」
苦笑する。
「もうっ……本当っぽい冗談はやめてよね」
姉貴も合わせて苦笑する。
ヒュウ…と、また風が吹いた。
「よっ…と」
何の気なしに、姉貴がアスファルトの段差を越えて浜辺に降りる。俺も、後を追う。
渇いた砂の感触がサクリ、と心地よかった。
「………夏も…もう終わりかな?」
砂浜をサクサクと鳴らして、長い髪を風に靡かせて、姉貴が哀愁たっぷりに言った。
「受験生としては、今年は暖冬になって欲しいところかな」
サクリと、砂浜を歩く。
波がザァァと足のすぐ近くまで上がってきて、引いていく。
「明日はもう、帰らなきゃね……」
「そう、だな…」
家に帰るのは、嫌だ。家に帰れば、姉貴とは普通の姉弟を装わねばならない。
帰りたく…ない。
「今度来るときは水着もって来ようか、今の季節はさすがに泳げないけど」
「厚手のパット買わないとな、姉貴の体型じゃ浜の笑い者になる」
「あんたねぇ…殴るよ?」
「姉貴、女の癖にグーで殴る癖は直せよ…」
「明が変なこと言わなきゃ殴らないわよ」
要するに姉貴のゲンコツはツッコミの意なのだろうか。
それにしては痛すぎるんだが…。
「ねぇ、明…」
「なんだよ」
「腕、組もうか?」
姉貴が少し照れくさそうに言ってきた。勿論、断る理由なんて無い。
組めるように、肘を差し出した。そこに姉貴が腕を絡めてきて、寄り添ってくる。
「…前に同じ事を姉貴に言ったときは…バカにされたな〜」
イヤミっぽく言うと、姉貴はふふんと笑って、
「…あの時はまだそんなに、明のこと好きじゃなかったしね」
「そんなに、って事は…少しは好きだったのか?」
「そう、なるのかなぁ…よくわからないや…」
「曖昧だな、俺はずっと前から…姉貴のことが好きだったけど…」
「わたしも…ひょっとしたらそうだったのかもしれない…。勿論、弟として、ね?」
「弟として、かぁ…」
少し、残念だった。
「初め明に無理矢理された時は…凄く怖かったな。目の前に居るのが、明の形をした化け物みたいに見えて…」
きゅっと、姉貴が腕に力を込めてくる。
「すっごい痛くて、全然気持良くなくて…それなのに明だけ凄く楽しそうで……憎かったなぁ…」
「…まぁ、あの時は…俺もかなりキてたから………」
今だから、こうして姉貴と一緒に腕を組んで歩いたりできる。昔は普通の姉弟を装うために、俺は必死に我慢していた。
我慢をして我慢をして、タガが外れて…そして姉貴を襲った。
今思えば…なんて自分勝手なことを考えてたのだろうか。若さ故の過ち…そんな言葉では誤魔化しきれない。
「姉貴、ごめん…」
「うん…?」
「いや、さ…今更…だけど、…やっぱり謝っとくべきかなって…」
「ばかっ、…遅すぎよ…」
姉貴ははにかむように笑って、組んでないほうの手でぽかっと俺の頭を殴った。
「でも、なんか不思議ね。あんなに明のことが憎かったのに…今はこんなに…明のことが好き」
「…俺の人間的魅力かな?」
「自惚れてるわねー…、あんたさぁ、鏡見たことある?それとも目が悪い?」
「…ひっでぇ言われ様……」
確かに、世間的に美男子じゃないとは自覚してても面と向かってそこまで言われると少し…ショックだった。
「ま、顔だけが人生じゃないしね、そういうのもいいんじゃない?」
「姉貴がいいなら、俺も気にしないことにする」
サクサクと、砂を鳴らして歩く。
夕日の下端が、水平線に埋没しようとしていた。
「あたしたちさ…、姉弟…なんだよね」
確かめるように、姉貴が呟く。
「そう、だな…」
「…どうして、姉弟なのかな…。赤の他人だったら…良かったのに…」
「………………………」
会話が、途切れた。
俺も、姉貴も、ただ無言で歩き続けた。
海岸沿いに歩いた。
次第に砂浜からごつごつした岩へ、平地から高台へと…道が続いた。
最後に高台の岬に着いた時にはもう、日が海に埋没しかかっていた。
「折り返し、かな…」
踵を返そうとした時、姉貴がするりと腕を抜けて、岬の先端の方に歩いていく。
「姉貴?」
「ん…、せっかくだから…夕日でも見ていこうかなと思って」
腰の高さほどの木の柵に腰掛けて、俺の方を見る。
「…夕日って…」
大半はもう海に没して上辺だけがチラチラと見えるそれも果たして夕日と呼んでいいのだろうか。
しかたなく、俺も姉貴の隣に座る。背中に海からの風が当たって、少し寒かった。
「…未来、」
ふいに、ぽつりと姉貴が呟いた。潮風に消えそうなくらい、小さな声だった。
「ん…?」
「明は…未来…、将来のこととか…考えたことある?」
「なん…だよ、急に……」
「わたしはね、考えたよ…。この先、明が大学に行って、私が大学を卒業して…仕事について…家を出て……」
くるりと、姉貴は海を見る。柵から身を乗り出すようにして。
「でも、ね…いくら考えても…明と一緒に幸せになるヴィジョンが見えなかった。姉弟じゃ…結婚もできないし…子供も産めないしね」
「……………っ…」
何故か、それ以上、姉貴の言葉を聞きたくなかった。
姉貴が言っていることは、俺が必死に考えないようにしてきたことそのものだったから。
きっとこれが、姉貴の言っていた『考えたいこと』だったのだろう。
姉貴は、俺よりもずっと大人で、きちんと将来を見つめて…考えてたんだ。
「…今の関係を…いつまで続けられると思う?いつかは…父さん達にバレるだろうし…そしたら…もう……」
「…だからって…、どう…すりゃいいんだよ……」
問うても、答えは返ってこない。返ってくる筈はない。
姉貴自身も、その答えを探しているのだから。
「本当は…ね、」
懺悔する咎人の様な声で、姉貴が呟いた。
「わたし、決めてたの。旅行が終わったら…もう明とは普通の姉弟に戻るって」
「…………………」
「だから、旅行の間は…明と精一杯楽しもうって…そう思ってた。…だって…それが一番いい方法だと思ったから…っ……」
姉貴の声が乱れて、しがみつくようにして、俺に抱きついてくる。
キシリと柵が鳴る。
「でもっ…やっぱり…嫌だよ…そんなの…。今更…明のこと…ただの弟なんて思えない…」
「……俺だって、嫌だ。…そんなの…死んだ方がマシだ」
きゅっ…と姉貴が手を回してきて、抱きしめてくる。離れたくないとでも言う様に。
「……心中、しよっか…」
ぽつりと、そんな呟きが聞こえた。冗談とか、そういう口調には…聞こえなかった。
すっ、と姉貴は俺から離れると、ひょいと柵を乗り越えて向こう側に立つ。
そこから一歩踏み出せば、そこにはもう地面はない。
ざっと見て十数メートル―――いや、もっとあるかもしれない―――下には飛沫が舞う岩礁、これなら落ちればまず助からないだろう。
「…明となら、わたしはいいよ…、思い残すことも、そんなにないし……」
ヒュウッ…と水平線から潮風が吹いて、姉貴の髪を靡かせた。沈みかけの夕日を背にして立つ姉貴の目は、少し潤んでいるように見えた。
「…心中、かぁ―――」
姉貴と一緒なら、それも悪くないんじゃないかと思った。
多分、姉貴の言う通り…姉貴と今の関係を続ける限りまともな生活はできないだろう。
それなら、いっそ―――
「でも、さ…どうせ心中するなら…その前に一つくらい悪あがきをしてもいいんじゃないか?」
「悪あがき…?」
姉貴が少し首を傾げて、聞き返してきた。
「せっかく車があるんだから……このまま二人で駆け落ちってのもいいかもしれない。日本じゃ無理でも、世界中を探せば近親結婚OKな国があるかもしれないし…」
「…って、あんたまさか…駆け落ちで海外まで逃げる気!?」
呆れたように、姉貴が声を上げた。俺は笑い返して、
「たとえば、の話。寒風吹きすさむ北の町に姉貴が行きたいんなら…それでもいいさ」
「う…、寒いところは嫌かなぁ…。どうせなら南に行こうよ…沖縄とかさ…」
「沖縄かぁ…じゃあ、俺は漁師になるのかなぁ……」
沖縄=漁師という発想は偏見かもしれないが、ふと漁師になった自分を想像してみる。
…銛を片手に、黒く焼けて、マッチョで…やばいっ、なんか…嫌だ。
「明に漁師は無理なんじゃないの?体力無いし……」
「漁師が無理なら農家の手伝いでもなんでもやるさ。姉貴にひもじい思いだけはさせないように頑張るよ」
「…なんか、相当悲惨な生活になりそうね…。覚悟しなきゃ……」
「貧乏でも、そこに愛があればそれ以上何もいらないだろ?」
冗談っぽい口調で言うと、姉貴は怪訝そうに眉を寄せて、
「…愛じゃお腹は膨れないわよ。減りにくくはなるかもしれないけど…」
なんてシビアなことを言う。…やっぱり姉貴は大人だ。
「…まぁ、とにかく。俺が言いたいのは…このまま死ぬくらいなら…その前にそういう悪あがきをしてみるのもいいんじゃないかって事。姉貴は…どうなんだよ?」
「ん…いいよ。あたしも悪あがきに賛成。死んじゃったら…それで終わりだもんね」
姉貴が、微笑む。丁度、夕日の最後の欠片が海に没して、闇が深くなる。
ヒュウと、潮風が、吹いた。
「…日も沈んだし、帰るか」
「そう、ね。お腹も空いたし…」
踵を返した時、だった。
ふいに、キ…ンと耳が痛くなって、海からの風が止まって。
なにか、とてもたちの悪い音が聞こえた。
「っっ…っく…!?」
ビュゥウウッ!!
轟音の様な突風が吹いてきた。俺の、”真正面”から。
風圧に体が仰け反って、俺は咄嗟に柵に凭れ―――
「あっ―――」
間の抜けたような声が”背後”から聞こえた。
ハッとした。
俺の背後には柵がある。だが、姉貴の後ろには……。
「姉貴ぃっっッ!!!」
振り返って、叫んだ。
姉貴の足は、地面から離れていた。
「―――ッ!!!」
心臓が一際高く、ドクンと波打って、まるでスローモーションの様に景色が流れた。
俺は柵を跳び越えて、さらにそれを蹴って、跳んだ。
柵から崖までは50センチも無い、崖の縁を蹴って落下に初速をつける。
上着が無くて幸いだった。上着が無いから、こうも身軽に動けた。
そして姉貴は、多分上着を着ていたから…風をモロに受けた。俺でも押される突風に、軽い姉貴は―――ッ!
「くっっ…!」
ぐらりと、景色が90度曲がる。
眼下には暗い海、ザァァと荒い波が岩礁に渦巻いている。
俺は岸壁を走るようにして、姉貴を追った。初速と加速の差で、俺はすぐに姉貴に追いついた。
「あきらっっ…!!」
姉貴が震えた声で俺の名を呼んで、しがみついてきた。俺も両手でしっかりと姉貴を抱きしめる。
肩越しに、今から自分が落ちる景色を見た。
ゴツゴツした岩が各所露出して、それに荒い波が当たって白い飛沫を立てていた。
岩に当たれば、確実に死ぬと思った。いや、海に落ちても同じ事かも知れない。
咄嗟に、俺は体を捻った。姉貴の体を上に、俺の体を下にするように。
ギュウ、と姉貴が一際強くしがみついてきた。
落着が近いんだと悟った。
「う、わっ……―――ぁあぁあっあぁぁあぁああああああぁあッ!!!!!!!!!!!」
俺も、精一杯の力で姉貴を抱きしめて、咆哮した。その叫びすら、波の轟音に消されて、飲み込まれた。
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