ピッ………ピッ………

 何かを刻むような音が聞こえた。
 瞼越しに光を感じて、それ以上眠るのが億劫になって、目を開けた。
「う…んっ………。」
 見慣れない白い天井があって、クスリ臭くて。
 すぐに自分が、病院のベッドに寝てるって、分かった。
「おはよう、姉貴」
 ひどく懐かしい声がして、私は顔を擡げた。
 頭とか、いろんな所に包帯を巻いて、三角巾をつけて、松葉杖を肩にかけた明がベッドの側の椅子に腰掛けていた。
 ああ、そうか…私は、崖から落ちたんだ、明と一緒に…。
「…かすり傷のくせに…、2日も眠りこけやがって…」
 目に涙をにじませて、明が悪態をつく。
 そんな明の姿は包帯ぐるぐるで、マンガとかに出てくるミイラ男みたいな感じだった。
「……明、ミイラ男みたい……」
「バカ…、ホントは姉貴がこうなる筈だったんだぜ?」
 明が、笑う。
 多分、明が言うことは本当で、私は明に守られて、助かったんだと思う。
 あの時、風が吹いて、飛ばされて、崖から落ちて。
 明が追いかけてきて、私を捕まえてくれて、庇って…くれて。
「明、ごめんね…わたしのせいで……」
「まったくだ、怪我が治ったら…覚悟しとけよな?」
 意地悪な顔で、明が笑う。明のこういう顔、嫌いじゃないな…。
 特別好き…っていうわけでもないけど…。
「朝までは親父達も居たんだけどな。…ホント大変だったんだぜ?旅行のこととか聞かれまくって」
「なんて、説明したの?」
「ん?、崖から落ちたショックで全部忘れたから姉貴に聞いてくれ、って言っといた。だから姉貴の口から説明頼むぜ」
「…ズルい。」
 精一杯恨みがましく、明を睨んだ。
 そのまま、体を起こそうとしたけど、巧く動かなかった。
「まだ寝とけよ、腕に点滴ついたままだろ?」
 明がそう言って、制してくる。
 もどかしかった、本当は今すぐ、明に飛びついて、抱きしめたかったのに。
「さて、俺もそろそろ検査の時間だから行ってくるわ」
 そう言って、明が立ち上がった。何故か、胸が苦しくなって。
「明、待って…」
「ん……?」
「嫌な予感がするの…。検査なんて…行っちゃだめ、ずっと側に居て……」
「何言ってんだよ、検査終わったらすぐ戻ってくるから……」
「嫌ッ…明が行くなら…あたしも…一緒に行く…っ…」
 体を起こそうと、腕に力を込めた。それでも、鉛みたいに腕が重くて、全然動かなかった。
「まだ体が動かないんだろ?いいから寝てろって、俺もすぐ戻ってくるから」
 明が笑って、病室から出て行く。
 私も追いかけようとして、藻掻いて、それでもベッドの上から動けなくて。
「待ってっ!待ってよ明ッ!あたしもっ…一緒―――にっっ……!!」
 明の姿がどんどん小さくなって、私はっ、私―――はっ…!
「―――ッ!!―――っ!」
 別の場所から、叫び声のようなものが聞こえた。
 必死な、声。聞き覚えのある声―――だ。


「―――きッ…美希っっ!美希ってば!」
 急に、景色が変わった。
 真っ暗な部屋の中、聞き覚えのある声が聞こえて、私は体を揺さぶられてて…。
「美希っ!しっかりしてっっ!」
「えっ……ぁ―――」
 意識がだんだん覚醒してきて、さっきまでのが夢だって、分かった。
 私は暗い部屋に居て、側には和美が居た。
「あっ、やっと起きた…。もう……、お願いだから夜中にいきなり大声で泣き出さないでよ……」
 和美がふぅとため息をついた。確かに、私は両目から涙を零して、泣いていた。
「ごめ、ん…夢、見て……」
「そんなのは分かってるって、…いつものことじゃない」
 そう、和美の言う通り、いつものこと。
 私は毎夜、明の夢を見た。内容は、いつも大差なかった。
 明と私が、二人とも助かって、笑い合ったり、デートしたりする夢。
 でも、それは夢。現実じゃない。


 あの後、私は血まみれでテトラポットの上に横たわっているのを早朝釣りに来たオジサンに発見されて病院に連れて行かれたらしい。
 白いテトラポットの一つが殆ど真っ赤に染まっていて、遠目にもかなり目立ったらしくて、出血量から私は絶対死んでると思われたとか。
 でも、実際に病院に運ばれてみると殆どが返り血で、私自身の傷なんてかすり傷もいいところだった。
 唯一、頭を少し軽く傷つけていたけど、でもそんなのは全然問題にならない程度の傷だった。
 私が意識を取り戻したのは発見された日の夜で、目を覚ましたときに側には看護婦さんと母、それと苦虫を噛みつぶしたような顔で私を睨む父が居た。
 初めに母が話しかけてきて、いろんなことを聞かれた。答えるのも億劫だったから、殆どの事は”思い出せない”と言って誤魔化した。
 途中で、父も話に参加してきた。憤りの口調を隠そうともせず、
「誰の子だ?」
 いきなりそんなことを聞いてきた。
 私が、よく分からないような顔をしていると、
「あなたは妊娠しているのよ」
 母が説明をするように、言った。
 別に驚かなかった。明とするときは避妊らしい避妊もしなかったから、いつかはそうなるような気がしていた。
 勿論、子供の父親の事も思い出せないと言って誤魔化した。父も母も、私と明との関係に気づいているのか、いないのか、怪訝そうな顔をしていた。
 しばらくすると眼鏡をかけた白衣の医者が入ってきて、具合はどうですかと聞いてきた。
 最悪です、と答えたら笑いながら明日には退院できますよと言ってきた。
 そのまま、両親と医者が何かを話して、申し合わせたように皆が病室から出て行く。
 私は、大事なことを聞き忘れていた。慌てて母を呼び止めた。
「明は?」
 声を絞り出して聞いた。母は淋しそうな顔をして、答えた。
「見つかったのは美希だけよ」
 涙は、出なかった。


 退院して、父の車で家に帰った。
 父は家に帰るまでずっと無言だった。
 家に着いて、母が助手席から降りた後に一言、
「なんで、お前が……」
 憎悪の混じった目で、父が私を見る。
 ぞっとするくらい、気持ち悪い目だった。
 

 二つの意味で、家には居たくなかった。
 一つは勿論、両親との折り合いが悪いということ。
 もう一つは、あの家は明の匂いが強すぎたということ。
 だから私は家を出た。
 行く当ては特に無くて、知り合いの家を片っ端から訪ねて、そして中学からの腐れ縁の、萩野和美のアパートに居候することになった。
 腐れ縁とは言っても、私が選んだ進路と同じ進路を彼女が選んだわけで、ようするに…なんか好かれてるらしい。
 私が第一志望の大学に落ちた時も、自分は受かったのにわざわざそれを蹴ってくっついてきて、いい娘なんだけど少しレズっぽいところが…、まぁ、この際だから贅沢は言えないんだけど…。
 
 同居をする際に明との関係については話した。
 そのことに関して和美は私が思ったよりも驚かなかった。彼女自身が同性愛者だからということもあったかもしれない。
 身重の体だから、と一つしかないベッドを私に貸してくれた。うん…やっぱりいい娘だな。
 長いつき合いの中で正直、鬱陶しいと思ったことも少なくなかったけど。でも今は、彼女が居てくれて良かったと思う。
 ――私は、嫌な女だ。体の事だって、まだそんなに自覚症状は無かったし、お腹だって膨らんでなかった。それなのに、ベッドを占領して、毎夜明の夢を見て、魘されて。

 ―――いつまで、この夢は続くんだろう…。

「こっちの道でいいの?」
「うん、…次、右に曲がって」
 週末、無理を言って時間を作ってもらって、車を出してもらった。
 あの場所に、一人で行くのは怖かったから、だから…和美に一緒に来てもらった。


 車を、例の旅館の駐車場に止めて、二人で歩いた。
 途中で私が見つかったというテトラポット群を見た。赤いのは見えなかったから多分撤去されるか何かしたんだと思う。
 数分和美と話しながら歩いて、岬に着いた。
 腰までだった柵がさらに一回り高くなっていて、”突風注意”の看板が立っている以外はそのままだった。
「ごめん、和美。ここでちょっと待ってて」
「うん、いいけど…。美希、後追いとかは…やめてよ?」
「ばかっ、花を添えてくるだけよ」
 不安そうな和美をその場に、花束を持って岬の先端まで歩いた。
 ヒュウ、と潮風が吹いてきて、目に、しみる。
「………明、」
 妙に懐かしい感じがした。
 ここで明と駆け落ちの相談をしたのが、まるで昨日の事みたいだった。
 身を乗り出して、崖下を覗いてみた。
 ゴツゴツとせり出した岩礁に荒い波が当たって白い飛沫と、轟音が風に乗って舞い上がってくる。
 ここから落ちて、殆ど無傷で助かったなんて、信じられなかった。
「ミキーッ!!」
 後ろから声がして、足音が近づいてきた。
「……待ってて、って言ったでしょ?」
「何言ってんのよぉっっ!今柵を越えようとしたくせにぃぃ……」
 目尻にいっぱいの涙を浮かべて、私を睨んでくる。
 …早とちり、なんだけど。
「ちょっと崖下を見ただけよ、第一、死ぬつもりならあんたと一緒に来ないって」
 そう、私は後追いなんてするつもりはない。
 明に会いたいって気持ちはあるけど、死んで会える保証も無いし、それに私まで死んだら明が私を庇ってくれたことまで無駄になってしまう。
 臆病な、自分勝手な考えだって思われてもいい。
 それでも、私は明の子を産みたい。産んで、明の分まで愛してあげたい。
 だから、今日はその決意の為に、ここに来たのに…、この娘は……。
「ううぅ…美希が死んだら、わたしも死んでやるんだから……」
 ああ、もう…。せっかく人がセンチな気分に浸ろうと思ってたのにが台無しだ。
 やっぱり一人で来るべきだったかもしれない。
 だいたい一番悲しいはずの私が泣いてないのになんでこの子の方が泣いてるんだろう…。
「はぁ…、」
 ため息が、出た。
 やっぱりこの娘、ちょっと鬱陶しいかもしれない…。寝る場所と3食まるまるご馳走になっててこんなこと言うのもアレなんだけど…。
 これからしばらくは…彼女の家に厄介になるんだろうな…。彼女が嫌がらない間は、多分ずっと…。
「んっっ……」
 両手を上げて、伸びをする。ついでに、思い切り天を仰いだ。
 空は透き通るくらいに蒼くて、白い雲が点々としてて。
 太陽も、海も、全部が憎たらしいくらい綺麗で、清々しかった。
「はぁ〜……やっぱり、海は綺麗だわ…。」
 本当に綺麗だった。
 雄大で荘厳で繊細で、いつまで見てても飽きなかった。
 そう、見る分には…飽きなかったのだけれど…。
「ん……?」
 きゅるる〜、と情けない音がお腹から聞こえた。ああ、そういえば今日は朝ご飯も食べてなかったんだっけ…。
「和美、何か美味しい物でも食べに行こっか」
「ふぇ……?」
「ふぇ、じゃないの。帰ろうって言ってんのよ」
 きょとんと呆ける和美の背を押すようにして、私は岬を後にする。
「…そうだ」
 右手の花束をすっかり忘れる所だった。
 私は眼下に広がる空色の海めがけて思い切りそれを投げた。
「ばいばい、明。………またね」


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