姉貴が、俺を避けているのはとっくに気づいていた。
 一時的なものかと思っているうちに、夏休みが終わって、学校が始まった。
 家に居て当たり障りのない会話をすることはあっても、それ以上のことは無かった。
 そんな気分じゃないから、疲れてるからと、露骨に姉貴は拒んだ。
 それはまるで、姉貴と初めて体を重ねた日以前の生活、いや、それよりも酷い状態だ。
 相手に好かれていない状態と、避けられている状態は明らかに違う。
 また、あの時の様に姉貴を無理矢理に押し倒すか…。いや、そんな気にはなれなかった。


 気がつけば、学校でも孤立していた。
 思い返せば、クラスメイトとろくに会話をした記憶がない。
 誰かと一緒に帰ったり、遊んだりしたという記憶もここ半年ほどは皆無だ。
 昔はよく話をした友人達ももはや俺など眼中にないといった具合だ。
 学校にも、俺の居場所は無くなっていた。


 家に帰る足取りも重かった。
 帰っても、姉貴と一緒には居られない。姉貴が俺を避けるから。
 姉貴の言い分は、言いたいことはなんとなく分かる。多分、姉貴が言っていることの方が正しいとも思う。
 それでも、俺は少しでも姉貴と一緒に居たかった。
 姉貴と一緒に居られるなら、人生など幾ら浪費してもいいと思った。
 俺にとって姉貴の居ない幸福などあり得ないのだから。
「………………」
 考え事をしていると、時間は早く過ぎるもの。気がつくともう家の前まで来てしまっていた。
 見慣れない車が家の前に止まっていた。赤い軽自動車、新車だろうか…ぴかぴかとワックスの光沢を放っている。
 姉貴の知り合いか、それとも他の誰かのものか。
 特に興味も沸かなかった。



「おかえり、明。遅かったわね」
「っっ…!?」
 まさか玄関のドアを開けるなり、姉貴と顔を合わせることになるとは思わなかった。
 いつもの笑顔で、俺におかえりと言う。
「ただい…ま?」
 姉貴の笑顔を見るのが久々で、呆気にとられた。姉貴は俺を避けているのではなかったのか。
「さっ、早く着替えて。ドライブ行くわよ」
「へ?ドライブ…?」
 姉貴は俺の背中を押すように急かす。
「外の車見たでしょ?」
「あれ…姉貴の車だったのか!?」
「そうよ、誰の車だと思ったの?」
 さも当然の様に言う姉貴。もしかして、夏休みにバイトをしてたのは…。
「てか姉貴、免許とったのか?まさか無免…」
「バカ言ってないで、ほら…さっさと着替える!置いてくわよ?」
 もしかして、外出が多かったのは教習所に通っていたからだろうか。
 何はともあれ、姉貴はいつもの姉貴だった。
 俺は、それが何より嬉しくて、言われるままに服を着替えて赤い軽自動車に乗り込んだ。


「シートベルトは締めときなさいよ?私は運転下手だから」
 乗り込むなり、姉貴は怖いことを言う。勿論俺はシートベルトをすぐにつけた。
「ドライブって、何処行くんだ?」
「ん、適当にその辺ぶらっと回ってくるだけよ」
 と、姉貴がキーを差し込み、エンジンをかける。ぶぉんっ、と大きくアクセルを吹かせたかと思うと―――ゴンッ…!と、いきなり前のめりに…。
「…あちゃ〜。またやっちゃった……」
「……これがエンストか…。」
 よく見ると車はオートマではなく、ミッション車だった。
「不器用なんだから大人しくオートマに乗ればいいのに…」
 ぼそり、と小声で呟く。
「オートマなんて流行らないわよ、ダサいし」
 姉貴は手際よくエンジンをかけ直し、今度はきちんと車が走り出した。エンストからの手際を見るに、教習所でも相当にエンストを起こしていたと思われる。
「さぁ、行くわよ〜。死なないように神様にお祈りしときなさい」
 冗談か本気か、姉貴はそう言うとぶぉんとアクセルを踏み込み、あり得ないスピードで突っ走る。
「いっっ!?」
 突然体がシートに張り付いた。
 みるみるうちにT字路。刹那、踏み込みというにはあまりに攻撃的な足つきで姉貴がブレーキペダルをけたぐる。ギャァとタイヤが鳴いて制動が始まる。
「くっっ…!」
 肝が冷えた。車はギリギリのところでT字路を曲がり、再びあり得ないスピードで直線を突っ走る。
「あ、姉貴っっ、ヤバいってッ…!!」
 巧いとか下手とか言う以前に姉貴の運転は何かが間違っている気がした。
 それも何か、とても致命的なものが。
「話しかけないで!集中してるんだから…」
 姉貴は前方から視線を逸らさずにそう言うと、ぺろりと下唇を舐めずさる。
 …俺は、生きて家に帰れるのだろうか?

「だらし無いわね〜、あのくらいで車酔いするなんて」
 呆れたように、姉貴がふぅとため息をつく。
 家を出て約2時間、俺はマンガの中でしかあり得ないようなスピードと横Gに振り回されて現在に至る。
 名前を知っている内臓から知らない内臓まで全部が悲鳴を上げて、やっとの思いで姉貴に車を止めてもらって、その場で嘔吐した。
「はぁはぁ……姉貴、俺…帰りは電車で帰るわ……」
 胃の内容物を思い切り吐いて、気分は少し楽になった。だが、帰りもまた同じような目にあうと思うと、それだけで再び嘔吐感がこみ上げてくる。
「電車があれば、それもいいかもね」
 そう言って姉貴は周囲を見渡す。…なんだここは、木、木、木…。木しかない。山道?森の中?いつのまにこんな所に…?
「その辺を、ぶらっと回る、だけじゃ、なかったのか…?」
 呼吸を整えながら、聞く。姉貴はにんまりと笑って、
「そのつもりだったけど、道に迷ったみたい」
 あははと、軽く答える。…冗談じゃない!
「迷った、って……」
 ということは、またあの運転に揺られながら帰路を探さねばならないのだろうか。
 あの、安全運転のあの字も無いような運転で…。
「ほら、気分が良くなったんならさっさと車の中に戻って。日が落ちる前には着かなきゃ」
 ばたむっ、と姉貴が車に戻る。しぶしぶ、俺も戻る。
「ううう、頼むから…もう少しゆっくり運転してくれ……」
 無駄だとは思いつつも、懇願せずにはいられなかった。


 もはや吐くものも無くなって、助手席でぐったりとしていること数時間。
 辺りは既に真っ暗になっていた。時々姉貴が地図を取り出しては道を確かめているから多分家には近づいているのだろう。…と、信じたかった。
「ふぅ、着いたわよ」
 キィと車が止まって、姉貴がエンジンを切る。
「……やっと、か…」
 ぐたぁ、としながらシートベルトを外して、ドアを開けた。潮の香りがした。
「へ…?」
 ザァァ…と波の音も聞こえた。ヒュウと風が吹いて、また潮の香り。
 そして今車が止まっているのは広場のような…否、駐車場だった。少し離れた所に古風な旅館のようなものも見える。
 はて…俺たちがドライブをしている間に家が建て増しでもされて豪邸に変貌したのだろうか?
 いや、違う。ここは明らかに家じゃない。
「ボケっとしてないで、荷物を降ろして」
 姉貴はトランクを開けると旅行用バッグを取り出し、肩にかける。…トランクの中には何故か俺のバッグまで入っている。
「へ……?」
 事態が飲み込めない。暗くて帰り道が分からないからとりあえず宿で一泊…というにはあまりに準備が出来すぎている。
「あ、姉貴…これは一体―――」
「駆け落ちよ。今頃気がついたの?」
「駆け落ちぃ!?」
 姉貴は満面の笑みで、トランクから俺のバッグを取り出すと俺に向かって投げる。
「今夜はここに泊まるからね、着替えはバッグの中に適当に詰めといたから」
 そう言って、宿の方へと歩き出す姉貴。
 そして、俺は訳も分からずに、その後を追った。



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