講師の声が、右の耳から左の耳へ鮮やかに流れていく。
 その間に抵抗は何も無い、だから頭の中には何も残らない。
 広くて、空調の効いた教室の中で、シャーペンを走らせる音が方々の机から鳴り響く。
 皆が講師の話に耳を傾け、ホワイトボードの文字を必死に書き写している。
 
 希望を持たずに努力をする人間は居ないだろう。
 誰もがより良い未来を獲得するために努力をする。
 だが、時としてそれが裏目に出ることもある。
 俺はテストでいい点を取れば、親父も母も少しは俺の言い分を聞いてくれると思っていた。
 しかし、人生というのはそうそう思い通りに行かないらしい…。



「…やっとお前も本気で勉強をする気になったか。そのままの調子で冬まで頑張るんだぞ」
 そう言う親父は、俺に夏休みの間、有名塾の夏期講習に行けという。冗談じゃない、夏休み姉貴と一緒に過ごすために頑張ったってのに。
「うちにはそんな金は無いだろ。俺は姉貴に勉強教えてもらうからいい」
「お金のことなら大丈夫よ、明。こういう時の為に、母さんがパート行ってお金貯めてたんだから」
 呆れる。俺が本気で金がないから行かないと言っているとでも思っているのだろうか。
「それにな、明。3流私大しか行けなかった美希に勉強を教えてもらったところで役には立たんだろう。お前が本気で塾に通えばK大だって狙えるんだぞ?」
「…………ッ…!」
 クソッ、イライラする。俺がK大に行って喜ぶのはアンタ達で俺じゃない。俺のことを考えているような口調でその実、自分たちのステイタスのことばかり考えている親父達。
 姉貴を蔑む様な事を言うのが、その証拠だ。
「俺は別に、K大なんて行きたくない」
「それじゃあ何処に行きたいんだ?言っとくがなぁ、この先どんな職業に就くにしてもK大を出ておけば―――」
「っっっ………!」

 らちが明かなかった。結局の所俺がどんなに拒んでも親父達の考えは変わらず、俺は夏休みには何処かの有名塾に通うことになった。

 俺的に、最も意外だったのが親父達のこの話に姉貴も賛成したという事だ。
「だって、あたしが教えるより塾の講師に教えてもらった方が身に付くに決まってるじゃない」
 早速、姉貴の部屋に行って愚痴でもこぼそうかと思ったら、そんな事を言う。
「それに、あんたと二人きりじゃ絶対保健体育の勉強(実技)になっちゃうし。それじゃあ受験は絶望的でしょ?」
 クスクスと意地悪な笑み。…確かに、その通り…かもしれない。
 それでも、俺は…姉貴と一緒に居られる時間が減るのが嫌だった。
「まぁ、ちょうど良いんじゃない?あたしも夏休みはバイト三昧の予定だし。だから殆ど家には居ないわよ」
「へ…?初耳…だぞ…」
「そりゃそうでしょ、あんたには言ってないもん」
「………………………………」
 薄情、だと思った。
 やっぱり、姉貴にとって俺は弟以上の存在ではなく、俺が想う程に姉貴は俺を想ってくれてないのかもしれない。
「それにあんた、頑張ればK大行けるんでしょ?折角だから頑張ってみればいいじゃない」
「…冗談じゃない。俺は姉貴と同じ大学に行くって決めてたんだ」
「へ…?」
 意外そうな、声。姉貴が目を丸くして、俺の方を見た。
「なんでうちの大学受けるの? 私大の割に授業料が安いっていう事以外、なにも取り柄がない三流大学なのよ?」
「大学の取り柄とかはどうでもいい。どうせ、どこも大差ないに決まってる」
「あんたさ、まさかとは思うけど…」
「うん?」
「あたしが居るから、とか…そんな安易で選んでるわけじゃないよね?」
「そうに決まってるだろ?」
 当然のごとく答えたら、姉貴が浮かない顔をして黙り込む。…てっきり喜んでくれると思ったのに。
「ダメよ、明。そんな理由で大学選んだら…あとで絶対後悔するよ?」
「しないよ。むしろ姉貴と違う大学に行く方が後悔するね」
「あのね、あんたがうちの大学入ったってあたしは4年生、あんたは1年生。同じ講義受けることもなければ大学内で殆ど会うこともないのよ?」
「殆ど会えなくてもいい、少しでも長く姉貴と一緒に居られるなら…それでいい」
「…それにね、明。仮にそうなったとしても、あたしは1年したら卒業するのよ?そしたらあんたは3年間どうするつもりなの?」
「さぁ…、その時になってみないと分からない。でも、俺は姉貴の居ない大学なんて行く気はない」
「あんた……」
 絶句するように、姉貴が言葉を止めた。
「本気、なの?」
「俺が姉貴がらみのことで本気じゃないことなんてあったか?」
「……ダメよ、明。そんな理由でうちの大学なんて受けたら、一生あんたとは口もきかないからね」
 姉貴はそう言うと、露骨に俺を避けるように雑誌を手にとってベッドに横になった。
「何…怒ってるんだよ。俺はただ……」
 ジロリ、と露骨に怖い目で睨んでくる。邪魔だ、と言わんばかりに。
「…………………」
 俺は逃げるように、姉貴の部屋を出た。
 複雑な気分だった。姉貴まで、親父達みたいなことを俺に言う、…姉貴は、姉貴だけは俺の味方だと思っていたのに。

 講師の声が、右の耳から左の耳へ鮮やかに流れていく。
 その間に抵抗は何も無い、だから頭の中には何も残らない。
 広くて、空調の効いた教室の中で、シャーペンを走らせる音が方々の机から鳴り響く。
 皆が講師の話に耳を傾け、ホワイトボードの文字を必死に書き写している。

 毎日毎日、夏休みだというのに、俺は制服姿で家を出る。
 学校に行くよりも少し遅い時間帯に、家を出る。
 行き先は学校ではなくて、大きな塾の、その2階。
 そこで毎日、朝9時から6時まで講義を受ける。休憩は90分に一度、昼休みは1時間。
 だが実際に休んでいる者など居ない。皆が何かにとりつかれたかのように、休み時間にもカリカリとペンを走らせる。
 ここに俺が居るのが酷く場違いな気がした。

 家に帰っても、姉貴は居ない。夜遅くまでバイトをしていて、殆ど俺とはすれ違いの様な生活になっている。
 母もパート、親父も夜遅くにならないと帰ってこない。
 だから、家には俺一人。
「………………………」
 特にやることも無くて、自分の部屋に戻る。
 ベッドに仰向けに、天井を見た。
 そして、いつも下らないことを考える。
 時間というものを溜めることができたらどんなに素晴らしいか。
 塾に行く、その退屈な時間を取っておいて、姉貴と二人で過ごす時にその溜めておいた分を使えたら。
 退屈な時間を楽しい時間の延長に回せたら、どんなにいいか。
 もう夏休みが始まって2週間。ということは毎日約9時間を14日分も失っていることになる。ものすごい浪費だ。もったいない。
 こんな事なら、もっと強固に反対して塾など行かない方が良かったか。いや、どのみち姉貴が家に居ないのなら塾に行こうが行くまいが関係の無いことだ。
 姉貴も姉貴だ、少しくらい休みを入れてくれてもいいのに。一体何をするつもりなのだろう。
「ただいま〜」
「っっっ!?」
 幻聴かと一瞬思った。だが違う、確かに姉貴の声、バタンと玄関のドアの閉じる音。間違いない!
「姉貴っっ!」
 部屋を飛び出した。階段を駆け下りて、姉貴の所に行く。
「ああ、明。帰ってたんだ」
 姉貴は台所でコップに水を注ぐと、それを一気に呷る。その姉貴を、後ろから抱きしめた。
「ごめん、明…。今日、疲れてるから…」
 だが、姉貴は素っ気なく、俺の腕の中から逃げる。階段を上って、自分の部屋へ。
 何故か、その後ろ姿を追えなかった。




Information

現在の位置