学校に居ても特に楽しいということはなかった。
 別に友人が居ないわけでもないし、イジメを受けているわけでもない。
 休み時間、流行の曲や昨夜の番組の話について話すのは苦痛じゃない。だが、快感でもない。安らぎも感じない。
 ここには姉貴は居ない。俺は姉貴と一緒に居たい。早く姉貴に会いたい。
 教師の声が、右の耳から左の耳へ鮮やかに抜けていった。周りから見れば多分、俺は一日中上の空だっただろう、
 教科書を開き、シャーペンを持ち、ノートを開いても頭の中では姉貴のことを考えた。

 姉貴は、こんな風に俺のことを考えているのだろうか?

 家に急いで帰った。玄関には鍵が閉まっていたから姉貴は外出してしまったのではないか、と危惧した。だが、玄関に姉貴の靴はあった。
「ただいま」
 家中に聞こえる声で、言った。返事はなかった。母は居ないのだろうか。
 俺は鞄を玄関に放り、姉貴を捜した。ドクドクと胸が高鳴った。
 半日、たった半日姉貴と離れていただけなのに恋しい。姉貴の顔が早く見たい、その肌に触れたい…っ!
 一階を全部見て回った。トイレも、風呂場も。残るは2階。俺の部屋と、姉貴の部屋と、あとは物置だ。
 多分、姉貴は自分の部屋にいるのだろう。ギシリ、と階段を軋ませて、ゆっくりと上った。
 一段、二段……、動悸が酷くなってきた。息も苦しい。早く、姉貴に会いたい。
 姉貴の部屋の前まで来た。妙に興奮していた、興奮のあまり失禁してしまいそうだった。
 この扉の向こうに姉貴が居る。また、姉貴を抱ける。ズボンの下から、俺自身が怒張を始める。
「姉貴、入るぜ」
 ノックはしなかった。ドアノブを握り、そのまま開いた。
 姉貴は机に向かって何か書いている様だった。一瞬、俺の方を見てビクリと体を震わせた様に見えた。
「ああ、明。帰ってたんだ…」
「ん、母さんは?」
「パートの面接行ってくるって、さっき出てったけど…」
 少し震えた声で、姉貴は笑う。部屋に入り、姉貴の机をのぞき込んだ。
「大学のレポート?」
「うん、明日までに出さないといけないから…」
 机の上、A4のレポート用紙には姉貴の綺麗な字がびっしりと書かれていた。大学生は楽そうだと思ったが意外にそうでもないかもしれない。
「姉貴…」
 そっと、姉貴の肩に手を置いた。ビクッ、と今度は間違いなく、姉貴が体を震わせた。
「あ、明……?」
 震えた声で、姉貴が俺を見上げる。
「姉貴、抱きたい」
 正直に自分の気持ちを伝えたつもりだった。姉貴は、表情を曇らせる。
「明、やっぱり、ダメだよ…。こういうの、間違ってる…」
「間違っててもいい。姉貴が嫌だっていうのなら、俺は無理矢理にでも、抱く」
 姉貴の肩に添えた手に、すこしだけ力を込めた。姉貴はそれから逃げるように、椅子から立ち上がる。
「ま、待ってよ明…。どうして、わたしを…」
 俺から距離を取るように後ずさる姉貴。俺は姉貴を逃がさないように、姉貴と部屋の出口の対角線上に移動する。その上で、問いに答えた。
「姉貴が、好きだからに決まってるだろッ」
「嘘っ、好きなら…どうして無理矢理とか言うの?そんなの、レイプと一緒じゃない!」
「五月蠅いッ!姉貴は何も知らないからそんなコトが言えるんだよッ!、俺が今までどんなに我慢したのかも知らないくせに…どれだけ苦しんだかも知らないくせにッ!!」
 気圧されたように、姉貴が黙り込んだ。そして再び、口を開く。
「我慢したから、苦しんだから…だから後は何でもしていいと思ってるの?そんなの、子供以下の理屈じゃない…」
「子供の理屈でも何でもいいッ、俺は姉貴のことが好きなんだ。姉貴を抱きたいんだよ!!」
 じりじりと、姉貴はベッドの方へと後ずさる。合意か、と思ったのは早計だった。
「あんたが―――」
 姉貴がベッド、枕元へと近づく。顔は俺の方に向けたまま、マクラの下から何かを取り出した。それは布でぐるぐるに巻かれていて、すぐに判別するのは無理だった、だが姉貴がすぐに布を取り去ったから、包丁だと分かった。
「あんたが、また…ああいうことをするって言うのなら、あたしは抵抗する。もう、あんな思いはしたくないから」
 姉貴は両手で包丁を握り、構える。その手が、震えているのは姉貴が本気の証拠だろうか。
「お願いだから、このまま部屋をでて、明。あたしも、あのことは忘れるから、また普通の姉弟に戻ろう?」
 普通に姉弟に戻る、それは何を意味するか。
 普通の姉と弟に戻る。それはもう姉貴を抱けないということ、姉貴を好きになってはいけないということ。
 それはダメだ。飲めない条件だ。そんなコトになるくらいなら死んだ方がマシだと、そう思った。
 だから、俺は後ずさらなかった。姉貴に、近づく。
「それ以上近づいたら、刺すわよ…」
「姉貴がそうしたいなら、そうすればいい」
 目の前に、包丁を構えた人間が居ても、前進することに微塵の恐怖も無かった。
 包丁を持っているのが、別の人間だったら話は違っただろう。でも包丁を握っているのは姉貴だ。
 まさか本気で刺すわけはない、とか思ってるわけじゃない。姉貴になら刺されてもいいとか、そういうわけでもない。
 ただ、このまま下がって『普通の姉弟』に戻るくらいなら死んだ方がマシだと思うから、だから俺は下がらない。前へ進む。
「脅しじゃないわよ!あたしは本気、なんだから…」
「わかってる。でも俺も本気で姉貴のことが好きだから、姉貴がそれを拒むのなら、刺されるしかない」
 もう、姉貴との距離は1メートルもない。構えた包丁の先が微かに、カッターシャツのボタンに触れ、カチカチと音を立てる。
「姉貴、」
 構えたまま、肩で息をする姉貴に、声をかけた。途端に、びくんと弾かれたように―――
「っっっっッ!!」
 姉貴の手が動いた。
 ざくり、と包丁の刃が1センチほど、俺の腹にめり込んだ。
「あっ――」
 思い出したような、姉貴の声。その手から包丁が落ちて、フローリングの床にゴトンと落ちた。
 刃の先端と、カッターシャツの一部が紅く染まった。
「ぁ、ぁ、あ、―――」
 目を見開いたまま、ぺたんとベッドに座り込む姉貴。俺はカッターシャツを脱ぎ、下に来ていたTシャツをめくって傷を確認する。
「致命傷、じゃないな。明らかに」
 包丁を拾う。先端が微かに紅くなっているのを確認して、柄の方を姉貴に向ける。
「ほら、姉貴。刺すんだろ?」
 姉貴は包丁を避けるように手を引っ込めた。開いたままの目で、俺の傷を見る。
「あ、明…血が……」
「包丁で刺されたんだ。血くらい出るさ」
 姉貴の顔は蒼白になっていた。そういえば昔から、血を見るのは苦手だったっけか…。
「包帯……っ」
 弾かれたように立とうとする姉貴、その手をつかんで、止める。
「待てよ、姉貴。まだ話は終わってない」
 姉貴が振り向く、その顔は蒼白のままだ。
「話って…血が―――」
「こんなのは放っとけば止まる。それより話を―――」
 と、言っているのに、姉貴は俺の手を振りほどいて、
「手当の方が先よッ!!」
 救急箱を取りに行った。血を見て、明らかに姉貴は気が動転しているように見えた。
 姉貴の気が落ち着くまでは、大人しく手当をされたほうがいいかもしれない、と思った。



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