「いらっしゃいませー」
 自動ドアを潜って入ってきた中学生らしい三人組に、円香は精一杯明るい声で挨拶をした。三人組の男子はちらりと円香の方へと目をやり、それぞれトレイとトングを手にとり、思い思いのパンをトレイへと取り始める。三人のうちの一人は見覚えのある――常連の一人だが、他の二人は新顔だった。恐らくは友達だろう、と。円香はそんな事を思う。
 やがてパンを選び終えた三人がレジへと並び、円香は今やすっかり慣れた手つきでそれらを一つずつビニール袋へと詰め、さらに店のロゴの入った袋へと詰めていく。
「これサービス券です。良かったら次回、使って下さい」
 レジを打ちながら、三人組の最後の一人である常連に円香は三人分のサービス券を手渡した。サービス券を渡すのはレジで“会員カード”を提示した相手にだけ、と言われているのだが、円香は独断で三人分のサービス券を渡した。多分そうしたほうがいいだろうと、自分なりに判断しての事だった。そもそもサービス券とはいっても、次回買い物時五百円以上買い物した場合一割値引きするというものであり、パンの原価などを考えるならば五百円以上買ってもらえれば一割引いたところで店としては全然+になる筈なのだ。
「ありがとうございました」
 自動ドアから出て行く三人組に、円香は頭を下げる。顔を上げると、三人組のうちの一人、常連の男子が何やら物言いたげな顔で円香の方を見ていた。さりげなく円香は微笑み、軽く手を振ってやると、忽ち常連の中学生は顔を赤らめ、手を振り替えしてきた。
 恐らく、自分に気があるのだろうという事は、大分前から円香には解っていた。解っていて、その恋心を店の利益に結びつけようとしている自分が汚い生き物に思えて仕方なかった。
(…………いいんだ。……私は、こんな事でしか晴夫さんに恩返しできないんだから)
 自分一人が心を痛めるだけで、店の利益が上がるのであれば安いものだと円香は思った。小さなため息をついて円香はレジを出、商品棚の菓子パンの列を正し、時計を確認して“焼きたて”のプレートを外し、再びレジへと戻った。レジの裏には丸椅子があり、客が居ない時のみそこに座って休憩することを許されていた。
(…………大分、慣れてきた……かなぁ)
 円香はちらりと、商品棚の向こう、店の中と外界とを仕切っているガラスへと目をやった。そこにはほっかむりにエプロン姿の、どこからどう見ても“パン屋のお姉さん”な自分の姿が映っていた。。
(……もう、あれから二年以上になるんだね。…………私、二十才になっちゃったよ、武士くん)
 私の中の武士くんはいつまでも中学生のままなのにね――瞼の裏に浮かび上がるかつての恋人の姿に、円香はついつい苦笑を漏らしてしまった。

 

 

 

 

 

 

『キツネツキ SS−03』

佐々木円香の受難・終

 

 

 

 

 

 

 



 見知らぬ土地へとやってきて、最初は戸惑う事ばかりだった。その最たるものが、“遠い親戚”である富田晴夫とその家族との同居生活だった。
 実の父親によって殆ど厄介払いのように家から追い払われた円香は、実際に尋ねていくまで自分が一体誰の家に預けられるのかを知らなかった。僅かな手荷物と財布、貯金通帳に行き先の住所とそこへの交通手段の書かれたメモ用紙だけを手に、円香は父親の部下らしい男に見送られ、住み慣れた町を後にした。
 メモに書かれた場所で電車を降り、さらにバスに揺られる事一時間。たどり着いた先は山間に囲まれた小さな街だった。

「佐々木円香……ちゃん?」
 バスから降りるなり声をかけてきたのは、でっぷりと太り、さらに頭のはげ上がった中年の男性だった。富田晴夫と名乗ったその男性が、実は円香の父と同級生であり、大の親友でもあるという話を聞いて、円香はとても信じられなかった。晴夫と父が親友という話が、ではない。二人が同い年という事が、だ。
「あっはっは。仕方がないよ、ボクは老け顔だって、昔からよく言われてたからね」
 円香を車へと乗せ、“自宅”へと帰る道すがら、晴夫は陽気に自分と円香の父親の話などを聞かせてくれた。話を続けるうちに、ガチガチに緊張しきっていた体から徐々に力が抜けていくのを感じた。そう、少なくとも“怖そうな人”ではないと、感じたからだった。
「崇志があんまり詳しいことは教えてくれなかったんだけど、なんか“事件”に巻き込まれて、地元に居られなくなっちゃったんだって?」
 崇志というのは、円香の父の名だった。どうやら“事件”の詳細は聞かされてはいないらしいという事に、円香は僅かな安堵を覚えた。
「あーあー、いい、いいから。詳しいことはおじさんなーんにも聞かないからさ。とにかくしばらくうちでゆっくりしていくといいよ。なんなら、そのままおじさんちの娘になってくれたって構わないよ?」
 晴夫は恰幅の良い体を揺らし、思わず耳を押さえたくなるほどの大音量で笑った。あぁ――と、円香はこの時理解した。自分は――厳密には――“親戚”ですらない、赤の他人の家に預けられるのだという事を。
「いやー、しかしほんと見違えたよ。円香ちゃんは覚えてないかな? 円香ちゃんがまだ赤ん坊の頃に一度だけ会った事あるんだけど……うん、ホンット見違えた。お母さんの若い頃そっくりだよ…………あー、“一カ所”だけ違うかな?」
 ちらり、と晴夫の目が円香の胸元の辺りに向けられ、円香は咄嗟に胸元を庇うような仕草をする。
「ごめんごめん! やましい気持ちとかそんなんじゃなくて、ほんと純粋に大きくなったなぁ……って……あーいや、そういう意味じゃなくって……なんて言ったらいいのかな…………ごめん! 白状すると、おじさん……大きいオッパイ大好きなんだ!」
 最初は咳払いをしたり、何とか誤魔化そうと試みたらしい晴夫だったが、結局誤魔化すのは不可能とみたのか、大声で笑いながらそんな事を言い出した。円香もつられて、先ほど感じた嫌悪感も忘れてつい微笑みを漏らしてしまった。
(やっぱり、悪い人じゃないみたい)
 少なくとも、表面上は紳士を装いつつ舐めるように見られるよりは、あけすけに言われたほうがまだ好感が持てるというものだった。
「いやー、でも円香ちゃんってまだ十八くらいでしょ? なのに随分落ち着いてるよねぇ……うちにも近い年の娘がいるんだけどさぁ……女房に先立たれて、男手一つで女の子一人男の子一人育ててきたんだけど……なんていうか、反抗期って奴なのかなぁ。特に娘の方が最近言うこと聞いてくれなくってさぁ。店番はサボるわ家から金を持ち出すわで――」
 それから富田家にたどり着くまで、円香はひたすらに“長女”の愚痴を聞かされ続けた。長女の下に年の離れた弟もいるらしく、こちらはまだ小学校の低学年との事だった。
(……良かった。それくらいなら)
 と、円香は密かに安堵の息をついた。これがもし中学生――或いはそれ以上であったならば、或いは自分は耐えられないかもしれないと。“そうだった場合”の事を想像して、円香はキュッと方を抱きしめた。
「着いたよ、ここが今日から円香ちゃんの家だ」
 晴夫に促されて車を降りた円香は少しだけ驚きの声を漏らした。どんな家だろうとある程度想像はしていたが、まさか自営業のパン屋だとは思わなかったからだ。
「ボクは車を車庫にいれてくるから、円香ちゃんは先に裏口から家の中に上がってて。――そうそう、これがうちの鍵だから、無くさないようにね」
 晴夫は円香に家の鍵を渡し、再び車へと乗り込んだ。円香は仕方なく言われた通りに店の裏手へと回り、そっとドアを開けた。
「……おじゃま、しまぁす」
 ドアを開けるなり、“よその家の匂い”に円香は思わず口元を覆いつつ、そっと家の中へと上がった。家の中は狭く、玄関から上がった先の廊下などは円香の肩幅の倍ほどしかなかった。少し進むと左手側に狭い台所があり、右手側に六畳あるかないかというスペースの居間があった。さらに奥手には二階へと続く階段と、その脇に脱衣所らしき場所へと通じる引き戸と、トイレらしきドアが見えた。反対側にある襖の向こうには仏間があるという事を、円香は後に知った。
「あっ」
 円香は不意に階段の方から視線を感じて、そちらの方を注視した。何やらオモチャの合体ロボを手にもった小さな男の子がじい、と二階の方から円香の方を睨むようにして見ていたのだ。
「こ、こんにちは……あのね、私は――」
 全てを喋り終える前に、男の子は脱兎の如くその場から逃げ出し、円香はしゃべりかけた口のまま固まってしまった。
(…………人見知りしそうなタイプの子だったし、しょうがない……かな)
 うち解けるにはかなり時間がかかりそうだと、円香は肩を落としながら居間へと入り、円形のちゃぶ台の側にそっと身を縮めるようにして座った。早く晴夫が戻ってきてくれないかなと、半ば祈るようにしてその帰還を待ちわびていると、がちゃりと玄関の戸が開く音が聞こえた。
「ただいまー」
 それは男の声ではなく、女の――それも、かなり気の強そうな類の声だった。どたばたと、大型魚類がのたうつような足音を響かせながら、声の主がぬっと居間に顔を覗かせた瞬間、円香は自分の方が年上にもかかわらず、思わず肩を萎縮させた。
「今日から来るっていうオヤジの知り合いの子ってアンタ?」
 金髪にパーマの入った髪を鬱陶しげに書きあげながら、まるでけんか腰のような口調で女は言った。
「あっ……はい……よろしく――」
「どーでもいいけどさー。アタシの部屋に勝手に入ったらマジ殺すかんね? わかった?」
 “おねがいします”と円香が言う前に、女は円香の倍以上の声量でかぶせ、そのまま二階へと上がっていった。
(…………これから、あの人とも仲良くしていかなきゃいけないんだ)
 新たな住処へとやってきて五分と経っていないというのに、円香は早くも目尻に涙を滲ませた。



 そう、最初はどうなる事かと思った。きっと自分はいびられ迫害され、何処にも居場所が無くなって放逐されるのだと。富田家にやってきた初日、晴夫に宛われた居間の布団の中で、円香はひっそりと一晩中泣いた。
 しかし、二年の歳月が経った今だからこそ断言できる。物事は、そうそう悪い方にばかりは行かないものなのだと。
「お疲れ様、円香ちゃん。後はボクがやっとくから、先に上がってていいよ」
「いえ、私も――」
「いいから、いいから。いつも言ってるだろ? 居候だからって気兼ねする必要なんかないんだからさ。こうして円香ちゃんが毎日店番やってくれるだけでボクも大助かりなんだから」
「でも――」
「それに、今夜の料理当番は円香ちゃんだろ? おじさんいつも円香ちゃんの料理楽しみにしてるんだから、とびきり美味しいのを頼むよ?」
 円香は殆ど背中を押されるようにして、店の奥から家の方へと追い出されてしまった。仕方なく円香は着替え、改めて料理用のエプロンをつけて台所へと立った。
 富田家の収入源は言わずもがなパン屋の経営であり、その基本体勢は晴夫が裏方でパンを作り、円香がそれを店頭に並べて売る――というものだった。そもそも、店の規模自体がそう大きくはない為二人で十分ではあるのだが、逆を言えば一人で切り盛りするのはほぼ不可能とも言える。
 元々は亡くなった妻と晴夫の二人で始めた店らしいのだが、晴夫一人になってからはレジ打ちのパートを雇ったり、嫌がる娘に無理矢理手伝わせたりといろいろと苦労が絶えなかったらしい。
 そういう意味で、円香が店番をしてくれるから助かるという晴夫の言葉は真実味がある言葉だった。
 さらに言うなれば食事の支度は晴夫、円香、そして長女のつばめの三交代制であり、最初こそ己の料理下手に泣いた円香だったが、二年も続けていればさすがに上達するというものだった。
「ふひー……疲れたぁぁ……ただいまぁ、まどか姉……ごはんできてるー?」
「あっ、つばめちゃんお帰りなさい。もうちょっとで出来るから待っててね」
 裏口のドアを開けるなり、死にそうな声を出す富田家長女――つばめに、円香は黄色い声で返事を返した。
「ダメ……もうお腹ぺこぺこ……何かパン余ってないの?」
「余ってるのはあるけど……でも本当にもうすぐだから」
「うー…………じゃあ、我慢する……まどか姉、私のご飯大盛りにしてね?」
「うん、解ってる。すぐ準備するから陽平君と一緒に待ってて」
 陽平というのは、富田家長男の名だ。円香は部活帰りのつばめの為にも大急ぎで調理を済ませ、さやインゲン入りの肉じゃが、ほうれん草のごま和え、豚肉の生姜焼きと出来た料理を次々に居間の食卓の上へと運んでいく。最後に茶碗大盛りのご飯を配膳した所で、後かたづけを晴夫が居間へとやってきた。
「おお、こりゃあ美味そうだ。円香ちゃん、ボクのも大盛りにしてね」
「オヤジはいつも大盛りだろ? ああもう、まどか姉も早く座りなよ。こら、陽平! 食べるのはいただきますの後だっていつも言ってるだろ!?」
「…………ごめんなさい」
 陽平はぽつりと呟き、手に握っていた箸を置いた。
「こらこら、堅いことは気にするな。まるで姑だな、つばめは。ガハハ」
「オヤジの躾がなってねーからアタシが言ってんだろ!? ガハハじゃねーよ! まどか姉もこのクソ親父に何か言ってやりなよ!」
「少しくらいいいじゃない、つばめちゃん。陽平くんまだ三年生なんだし……」
 騒がしくも暖かい富田家の食卓に、円香はついつい笑みを零してしまう。――そう、これは“前の家”には無かったものだ。こんな風に、家族全員で顔をつきあわせ、大声で笑いながらとるような夕食がどんなに楽しいものなのか、円香は知らなかった。


「うーん、しかし最近ホント客が増えたなぁ。新作のパンの売れ行きもいいし、この分なら今月も黒字で終われそうだ」
 夕食の後、洗い物をしていると居間のほうから晴夫のそんな呟きが聞こえてきた。晴夫は見かけによらずマメな男であり、夕食後は必ず家計簿や店の帳簿などとにらめっこしているのを円香は知っていた。
「言っとくけどオヤジ、客が増えたのはぜーんぶまどか姉のおかげだかんね? てかさ、もうちょっと給料上げてやりなよ。どーんと時給二千円くらいにさ」
「ううん、そうだなぁ。確かに円香ちゃんの働きを考えるとそれくらいは――」
「ま、待って下さい! 私は今のままで十分ですから!」
 居間で交わされる会話が聞き捨てならなくて、円香は堪らず洗い物も途中に口を挟んでしまった。
「何言ってんの。まどか姉にはそれくらい貰う権利あるって! だってさー、まどか姉が来る前のうちの経営ってほんとヤバかったんだよ? 朝ご飯も晩ご飯も売れ残りのパンばっかだったしさぁ」
「それは……」
 そういえばそうだった、と円香は記憶を振り返った。自分が富田家に来たばかりの頃は、本当に当たり前のように食卓にパンが並び続けていた。そして食事の度に米の飯が食いたいとつばめの罵声が飛び、晴夫がそれに反論し、陽平が泣く――というような光景を幾度と無く見せられたものだった。
(……あのころに比べたら、今は――)
 初めこそつれなく、まさに他人行儀そのものであったつばめも、共同生活を続けるうちに徐々にうち解け、今では『まどか姉』『つばめちゃん』と呼び合える程の仲になった。そうなった主な要因は、つばめの相談に円香が乗った事だった。
(……もう、一年以上前になるかな)
 円香が富田家に来たばかりの頃、つばめは中学三年生であり、髪を金髪に染めていた。初めは晴夫に対する反抗期故にそうしているのだろうと思っていた円香は、ある日つばめから相談を持ちかけられた。
 相談の内容は、当時つばめが付き合っていた彼氏に関するものだった。つばめが言うには、自分の方から告白をし、髪を金髪にする事を条件に付き合う事になったらしかった。しかし、このような関係で本当に良いのだろうかと、ある日つばめは不安になったらしい。その時、円香の存在が相談するのに丁度良い距離感だったのだろう。
 これはつばめと仲良くなるチャンスだと、円香は自分なりに真剣に考えて、そして助言をした。私はそんな関係は間違っていると思う、本当にその人がつばめちゃんの事を好きなら、金髪かどうかなんてこだわる筈がない――と。
 つばめは円香の助言を受けて尚悩み、悩みに悩み抜いて結局髪を元に戻したのだった。元々受験が近いという事で、つばめ自身も出来れば元に戻したいと思っていたらしかった。円香の助言は、言わばその後押しだった。
 とにもかくにも、自分の悩み事に真剣に相談にのってくれたという事に、つばめは好感を持ったらしかった。髪を元に戻した為、件の彼氏とやらはすぐさま別れる事にもなったが、そのことについて後日円香が謝ると『三日もしないうちに別の金髪の女を連れてるのを見て、どうでも良くなった』とつばめは逆に円香に感謝の言葉を返してきた。
 そういった経緯もあり、今では――少なくとも円香の方は――つばめを本当の姉妹のように感じていた。休みの日など、友達と出かける約束があるから店番を変わって欲しいと言われた時などは、円香は二つ返事で変わることにしているし、つばめの方もおかえしとばかりに円香の食事当番の代わりを申し出たりするから、二人の間に貸し借りなどは全くないと円香は思っていた。
(…………ううん、本当は……私の方が――)
 見知らぬ土地に一人厄介払いされ、心底心細かった自分に親しくしてくれているというだけで、円香はつばめに対してどれほど感謝しても足りないほどの恩恵を感じていた。否、恩恵という意味では晴夫に対しても同程度のものを感じてはいるのだが。
「ねえ、親父。まどか姉の今のお給料って、時給いくらで計算してんの?」
「ん……それは――」
 晴夫が困ったように口ごもったのは、それがおよそ実の娘には言えないような金額であるからだった。無論円香は、自分の時給がいくらなのか知っていた。
 だから――
「いいの! つばめちゃん、私は今のままで。…………うん、そうだね、お客さんがもっといっぱい来て、お店を大きくできるくらい貯金が出来たら、その時ちょこっとだけ上げてくれれば、それでいいから」
 晴夫の窮状を察して、円香は助け船を出した。すぐに晴夫が「申し訳ない」という目配せをしてきて、円香はこっそり目で合図して台所へと戻った。
 円香の時給は、まだ越してきたばかりの頃――それこそ、店の経営状態がどん底状態の頃に決定された額のままだった。
『申し訳ない……円香ちゃん。…………これが、ボクに払える精一杯のお給料なんだ』
 月末に手渡しされた封筒の中に入っていた金額を、円香は失礼とは思いつつも自分が働いた時間で割ってしまった。――結果、時給五百円という値によって導き出された給料という事が判明し、円香は大きく凹んだ。給料の少なさに、ではない。己の卑しい性根に、だ。
 給料などいくらでもいい、家に置いてくれるだけで満足だと心底思っているのならば、そもそも計算などしたりはしない。それなのに計算をしてしまったのは、自分の価値をどれくらいと見てくれているのか、それを確かめたいという卑しい性根があったからだと。
 同時に、円香はこれ以上ないというほどに晴夫に対して申し訳ない気持ちに苛まれた。
(…………そんなにお金がないのに……私の事、引き取ってくれたんだ)
 厳密には親戚ですらない、他人の子を引き取るなど、よほどの覚悟がなければ出来る事ではない。ましてや、家計が火の車な状況であれば尚更だ。それだけに、円香は晴夫に対して多大な尊敬の念と、そして感謝の気持ちを忘れまいと、心に刻んだのだった。


「あーもー! まどか姉ってば、またそんな事やってる!」
 洗い物を終えた後、溜まった洗濯物を洗おうと洗濯機に入れているところを、めざとくつばめに見つかってしまった。
「あっ、でも……洗い物が随分溜まってるみたいだから……」
「洗濯の当番は親父っしょ!? まどか姉が一人で何でもやる事ないんだから、少しはゆっくりテレビでも見てなって!」
「で、でも……洗濯機に入れてスイッチ押すだけだから」
「それだけじゃ済まないでしょ、まどか姉は。こないだアタシが洗った洗濯物をこっそりコインランドリーに持っていって乾かしてたの、アタシ知ってるんだからね?」
「だ、だって……あの日はつばめちゃん部活疲れて寝ちゃってたから」
「だったら起こしてくれていいの! もう、本当にまどか姉ってばヤキモキさせるんだから。……どーせあのブタ親父は晩酌やってべろんべろんになってて言うこと聞かないだろうから、今日はアタシがやる! 文句は言わせないかんね!」
 うがーっと威嚇するように歯を見せて怒鳴られて、円香はしぶしぶ洗濯物をつばめに渡した。
(……ありがとう、つばめちゃん)
 そして同時に感謝もした。こうしてつばめが気を使ってくれるからこそ、その倍も三倍もお返しをしなければ、と円香は思ってしまう。
「……?」
 と、その時だった。何やらスカートの裾の辺りをクイクイと引かれて、円香はくるりと振り返った。
「まどかお姉ちゃん……お風呂、入ろ?」
「だーめ! アンタもう小学生なんだから、風呂くらい一人で入りなさい」
「つばめちゃん……でも、まだ三年生なんだし」
「ダメったらダメ! お願いだからまどか姉、陽平を甘やかさないで。コイツったらほんといつまでも甘えグセが抜けなくて困ってるんだから」
「でも、まだ小さいんだし……少しくらい甘えても……」
 ずっと一人っ子として育てられた円香にとって、弟や妹がいればと思った事は一度や二度ではない。年下の姉弟がいればアレをしてやりたいコレをしてあげたい――そんな願望を叶える相手として、ある意味では陽平はうってつけの存在だった。
「いーい、陽平。風呂は一人で入るの! 解った?」
「……うるさい、ブス姉!」
「なっ――こら!」
 陽平は忽ち脱兎の如く逃げだし、つばめもそれを追って脱衣所から飛び出していった。
「……良いなぁ、本物の姉弟って」
 円香はつばめが入れ損ねた洗濯物を洗濯機の中へと入れ、洗剤を入れて蓋を閉め、スイッチを入れた。脱衣所を出ると、頬を真っ赤に腫らした陽平が半ベソをかきながらグズっていた。
「……陽平くん」
 円香は微笑を浮かべ、そっと陽平に歩み寄るとその頭を優しく撫でた。
「…………お姉ちゃん、今からお風呂はいるから。後からこっそり入っておいで」
 ぼそりと囁いてやると、陽平はたちまち笑顔を取り戻した。円香はそのまま陽平の脇を抜け、居間のタンスから着替えをとってから再び脱衣所へと向かった。
 いそいそと衣類を脱ぎ浴室へと入る。来た当初こそ目眩がするほどに狭いと感じた浴室だが――円香の家の半分ほどのスペースしか無かった――慣れてしまえばこれはこれで味わい深いものだった。
 円香は先に体を洗い、そっと湯船で体を温めていると、曇りガラスの向こうに見慣れた影が姿を現した。
「まどかお姉ちゃん……」
 どこか不安げに呟く陽平に、円香は微笑みながらちょいちょいと手招きをした。忽ち陽平は服を脱ぎ散らかし、浴室へと入ってくる。
「ほら、いきなり湯船に入っちゃダメ。まずは体を洗ってから、ね?」
 いきなり湯船に飛び込んでこようとする陽平を制し、円香自身も湯船から上がって陽平を風呂椅子に座らせ、その背中を流してやった。
「シャンプーするから、目を閉じててね。開けてたら染みちゃうからね?」
 円香はわしゃわしゃと――まだ柔らかい、少年の髪の毛を痛くない程度に洗ってやり、最後に洗面器で数回にわたって泡を流してやった。
「おしまい。じゃあ、一緒にお風呂に入ろうか」
「うん!」
 先に円香が湯船に入り、余った隙間に陽平が入る形で浸かると、さすがにいくらかお湯が溢れてしまった。そもそもが、一人で入るにしてもそう広い風呂ではない為、自然と互いに体を密着させるような形になってしまう。
「えへへ……まどかおねーちゃんの体、柔らかくって気持ちいい」
 陽平は無邪気な声を上げながら、ぐりぐりと顔を円香の胸元に埋めるようにして密着してくる。
「もうっ……陽平くんは甘えん坊さんなんだから。いーい? つばめお姉ちゃんには絶対内緒だよ?」
「うん!」
 良い返事だと、円香は苦笑する。もし陽平が実の弟であり、こんなにも無邪気になついてくれていたら、きっと自分は姉として弟のためになんでもしてやりたい気持ちになるんだろうなと、陽平の髪を撫でながら円香はそんな事を考えていた。
「ねえ、まどかお姉ちゃん」
「なぁに?」
「お姉ちゃんのおっぱい、触ってもいい?」
「おっぱい触りたいの?」
「うん……お姉ちゃんのおっぱい……すごく触りたい」
「……正直でよろしい。…………じゃあ、ちょっとだけ触らせてあげる」
 実をいえば、少しだけ悩んだが、結局円香はOKしてしまった。一つは“正直な事を言えば、いいことがある”という経験則を、まだ幼い陽平に覚えさせてやれば、将来誠実な人間に育ってくれるのではないかという、円香なりの計算もあった。
「えへへ……お姉ちゃんのおっぱい、すごく柔らかぁい」
 許しが出た、という事で陽平は夢中になって円香の胸元へと手を伸ばしてくる。それはおよそ愛撫という類のものではなく――愛撫でないのは当然ともいえるが――本当に興味本位で触ってみたいだけという手つきで、円香はくすぐったく身を捩りながらも奇妙な安堵を得ていた。
(……やっぱり、まだ子供なんだ)
 ある意味では乱暴とも言えるその手つきが逆に、胸の奥がキュンとするほどに円香の母性本能を刺激してくるのだった。
(そういえば……お母さん……死んじゃっていないんだっけ)
 具体的にいつ死んだのか等、聞ける筈がない。少なくとも、円香が富田家にやってきた一年半前の時点で居なかったのは確実だ。
(……そっか。陽平くん……まだお母さんが恋しい年頃なんだ)
 自分が小学校低学年の頃などは、毎日のように両親のベッドに潜り込んでいた事を思い出し、円香は不意に感慨深くなった。たまらず、ぎゅうっ、と。胸元に押しつけるようにしして、陽平の頭を抱きしめた。
「わぷっ……お姉ちゃん……苦しいよぉ」
「あっ、ごめんね……。………………陽平くん、おっぱい、吸ってみる?」
「えっ……?」
「ちょっとだけなら、吸ってもいいよ。………………それとも、赤ちゃんみたいだから、イヤ?」
 陽平はしばし黙り込んだ後、首を大きく横に振った。それは“吸いたくない”という拒絶ではなく、円香の“イヤ?”に対する否定だと、すぐに解った。
「陽平くんが吸いたいなら、吸ってもいいよ。…………だけど、一つだけお姉ちゃんと約束して?」
「……何を約束すればいいの?」
「つばめお姉ちゃんと、ちゃんと仲良くするって約束して。もう絶対、冗談でも、つばめちゃんの事“ブス姉”なんて呼んじゃダメ。…………約束できる?」
「うん……約束する。もう絶対、つばめ姉ちゃんとケンカしない」
「絶対よ?」
「うん!」
 よろしい、と円香は両手を胸の下側で組むようにして圧迫し、陽平に向けて胸元を強調するようにして押し出した。
(……やだ、ちょっと……恥ずかしい、かも)
 円香は思わず顔を赤らめたが、かといって自分から言い出した手前、途中で止めるわけにもいかない。陽平は躊躇いながらも顔を寄せ、円香からみて右の乳房の先端にちゅう、と吸い付いた。
「ぁンっ……」
 つい、声が出てしまった。陽平は最初こそ躊躇っていたが、ひとたび吸い付いてしまえばあとはもう無我夢中に吸い続け、先端が痛いほどに引っ張られていた。
(ぁっ……そっか…………もう、出ないんだ)
 ここに至って、はたと。円香はそんな事を思った。そう、かつてはこれほどに強く吸われれば、むず痒い感覚と共に中に溜まっていたミルクが吸い出されていた筈だ。
 しかし故郷を離れ、武士は無論他の誰とも性交渉を絶って久しい。いつのまにか母乳も出なくなってしまったらしい。
(…………だったら、もう少し……縮んでくれてもいいのに)
 母乳が溜まっているから、巨乳になってしまったのだと思っていた。しかし、出なくなって尚、前と変わらないというのはいかがなものだろう。否、むしろ前よりも大きくなったような気さえする。
「ぁっ……ぁっ……ちょっ、やだっ……そんなに、強くっ……ンぅ……」
 カリッ、と円香は思わず陽平の後頭部にツメをたててしまう。敏感な先端は相変わらず吸われたまま――否、ただ吸われているだけではない。ちゅぱちゅぱと、乳頭を扱くように唇で食みながら吸われ、“そういう目的でされているわけではない”と解っていても、円香はむずがゆさに体を強ばらせた。
「んくっんくっ……お姉ちゃんのおっぱい……甘ぁい味がする……」
「ちょっ……陽平、くん……もう……」
 おしまい――そう口にしようとして、円香はさらに身を強ばらせた。
(えっ……)
 そして、ゾッと背筋が震えた。狭い湯船の中、陽平は円香と抱き合うような形で湯に浸かっている。当然体はほとんど密着しているようなものなのだが、陽平とふれあっている体の一部分に違和感を感じたのだ。
(これって……)
 間違いない、と思った。見れば、陽平は先ほどから小刻みに腰を前後させるような動きをしている。その度に、円香の腹のあたりに堅い物がこすりつけられているのだ。
(嫌ッ……!)
 先ほどまで、愛しくて溜まらない存在に思えた陽平が、途端に巨大な爬虫類か何かのように思えて、円香は慌ててその肩を掴み、己の胸元から引きはがした。
「……お姉ちゃん?」
 夢の途中で起こされたように呟く陽平の股間を、改めて見る。包皮に包まれたままだが、それは明らかに勃起していた。
(うっ――)
 と、円香は咄嗟に吐き気にも似たものがこみ上げてくるのを感じた。
「ご、ごめんね……お姉ちゃん、のぼせちゃったみたいだから、先に上がるね」
 円香は早口に言って、そそくさと浴室を後にした。


 その日から、何かが歪み始めたように、円香には感じられた。平穏だった日常に少しずつ黒い不純物が混じっていくような、そんな漠然とした不安。
「お姉ちゃん……またお風呂一緒に入ってもいい?」
 円香が一人湯船に使っていると、陽平は二日に一度の割合で曇りガラス越しにそんな言葉をかけてきた。その度に円香は悩み、悩みつつも陽平を受け入れた。
 始めに『内緒でこっそり入っておいで』と言ったのは自分の方だという負い目もあった。同じ理由で、つばめに相談することも出来ず、円香は同じ湯船に浸かるたびに執拗に体を触られ、まだ未発達な――そのくせ明らかに勃起している――男性器を肌に擦りつけられる感触に耐えねばならなかった。
 それは、否が応にも円香にとって思い出したくない過去を連想させられる事だった。――自然と、“薬”の量が増えた。

「あっ」
 しまった――と、円香は思った。夜、寝る前の歯磨きを終え、薬を飲もうとした時だった。
(今日、病院に行かなきゃいけないんだった)
 薬――睡眠導入剤の残りが明らかに足りない。瓶に入った錠剤状のそれを寝る前に二錠ずつ飲む様に医者には言われているのだが、まるで不安の大きさに比例するかのように三錠、四錠と多めに飲み続けたせいで、気がつくと瓶の中には二錠しか残っていなかった。それは医者が言う“適切な分量”ではあるのだが、今の自分にはさして効かないであろう事を円香は経験から知っていた。
(……本当は、薬なんかに頼りたくない……でも……)
 最早、これなしでは夜もまともに眠ることが出来ない。富田家へと移り、自分を脅かす者など居ないと解っていて尚、円香は睡眠薬の常用を止められなかった。
(…………明日は、絶対に薬……もらってこなきゃ)
 二錠でも飲まないよりはマシだと、円香は水で流し込み、洗面台を後にした。
「円香ちゃん、ちゃんと薬は飲んだかい?」
 洗面台のある脱衣所を出るなり、ほろ酔い状態の晴夫に円香は声をかけられた。
「はい、ちゃんと飲みました」
「うんうん、早く良くなるといいねぇ」
 晴夫はなんとも人の良い笑みを浮かべて頷きながら脱衣所へと入っていく。どうやら晴夫は円香が飲んでいるのは睡眠薬ではなく、何かの持病の薬とでも思っているらしい。
(……薬を飲んだからって、良くなるわけじゃないんだけどな)
 晴夫の勘違いがおかしくもあり、微笑ましくもある。陽平の事は懸念の一つではあるが、晴夫のこういう微笑ましい程の人の良さに円香は救われる思いがした。
 くらくらと、軽い目眩のようなものを覚えて、円香は“それ”に逆らわずに布団に入った。富田家には円香の部屋というものは無く、円香はいつも居間に布団を敷いて寝ていた。そこは本来ならば晴夫が寝起きしていた場所だったらしいのだが、さすがに円香と同じ部屋での寝起きを遠慮し、円香が来たその日からずっと晴夫は仏間の方で寝ていた。ちなみに二階にはそれぞれつばめと陽平が自室と自分用のベッドを持っており、陽平などは自分のベッドで一緒に寝ようと時折円香を誘ってくるのだが、勿論承諾はしない。見た目は幼くとも、“男”になりかけているのだということを、身をもって知っているからだった。
(…………あぁ、まただ)
 眠りの谷へと落ちながら、円香は漠然とそんな事を思った。そう、また“あの夢”だと。
 夢の中で、円香は両手両足を鎖のようなものにつながれ、大の字に寝かされていた。そこへ、黒い影のようなものがゆっくりと覆い被さってくるのだ。影の形はある時は肉食獣に見え、ある時はは大型のヘビのように見え、またある時は巨大なブタのように見えた。
 影は身動きが出来ない円香の体をその巨大な舌で執拗になめ回してくる。最初は顔、首から脇、胸、腹、太股――時には手の指や足の指などを執拗にしゃぶられる事もあった。
(嫌ッ……気持ち、わるい……)
 耐え難いほどの嫌悪感に、円香は全身に鳥肌が立つのを感じた。が、しかしどうにもならない。夢の中の円香は声を出す事も出来ず、勿論抵抗をすることも出来ない。ただひたすらに、影の気が済むまで、全身をいたぶられる――そういう夢なのだ、これは。
(イヤッ……イヤッ……!)
 影の舌が、円香の股ぐらの辺りを這う。ぐいと足を広げられ、割れ目の辺りをぴちゃぴちゃと音を立てて舐められたその時、円香の怖気は頂点に達した。
「イヤぁッ!!」
 声は、出ない筈だった。しかし、円香は確かに“耳”で自分の声を聞いた気がした。その瞬間、円香に被さっていた影は霧散したかのように形を無くし、程なく円香は深い眠りへと落ちていった。

 ――朝。
 ピピピと鳴る目覚ましの音に円香の意識は覚醒し、重い瞼をゆっくりと持ち上げた。頭が酷く重く、最悪の目覚めだと円香は思った。
(…………いやな、夢……一体、いつまで……)
 頭を振って上体を起こしながら、円香はぶるりと震え肩を抱いた。やはり、二錠ではダメだと思った。二錠では、眠る事は出来ても、“悪夢”までは遮断できないのだ。
(…………朝ご飯の準備、しなきゃ……)
 布団を片づけ、朝食の準備をする――居候の身なのだから、毎日の朝食の支度くらいはするのが当然だと円香は思っていた――前に顔を洗おうと、円香は洗面台へと向かった。
 掌に冷水を貯め、ぱしゃぱしゃと顔を洗うとそれだけで重かった頭の中まですっきりする気がした。タオルで顔を拭きながら、今日の朝食は何を作ろうかと考えて――はたと。円香の目が鏡の向こうの自分の姿に止まった。
(え……?)
 最初に違和感を感じた。次に、一体何が変なのだろうと注意深く見て、その原因を見つけるなり、円香は今度は恐怖を覚えた。
「え……えっ?」
 円香が寝間着に使っているのは、上は前をボタンで止め、下はズボン型の男でも女でも着れるタイプのオーソドックスなパジャマだ。昔は――それこそ、学校を辞める前までなどは――肌の透けたネグリジェなどにあこがれ、寝間着にもこだわっていた時期もあったが、少なくとも今となってはそういう少しでも男の欲情を誘うようなデザインのものは体が受け付けなかった。
 そういうオーソドックスなデザインのパジャマではあるが、円香には一つだけ悩みの種があった。それは胸元の窮屈さだった。窮屈で窮屈で、ボタンをとめる際いつも苦労をするのだ。だからこそ、円香は断言できる。もし“ボタンを掛け違っていた”なら、その時に絶対に気がつく筈だ。
 なのに、今鏡の前に立つ自分のパジャマのボタンは見事に一段ずつズレてしまっている。これは一体――。
「おはよう、円香ちゃん」
「……っ!?」
 脱衣所の入り口の方から突然声をかけられ、円香は振り返ると同時につい身構えてしまった。
「うん、どうしたんだい? ボクの顔に何かついてる?」
「あっ、いえ……」
 円香は、咄嗟に晴夫から顔をそらし、まるで逃げるように脱衣所を後にした。昨夜まではただただ人の良さしか感じなかった晴夫の笑みが、まるで自分を嘲るような笑いに見えたしまったからだ。
「……っ……」
 ざわりと。円香は自分の周りに黒いモノが再び混じり始めるのを感じた。



 そんなはずはない。絶対に違う。ただの気のせいだ。夢はあくまで夢で、ボタンの掛け違いだってたまたま見落とした可能性もゼロではないではないか。
 そう、あれは夢だ。ただの夢、絶対に現実などではない――そう頑なに思いこもうとした。が、どうしても懸念が消えない。思い返せば思い返す程に、何度も、何度も味わった“悪夢”の際の悪寒が、ただの夢ではなく実際にあった事のように思えてならなかった。
(……確かめ、なきゃ)
 そう、確かめねばならない。夢か現か、はっきりさせなければ。そしてその方法は極めて単純だった。薬を、飲まなければいいのだ。
(…………それなら、例え眠ってても……絶対に気がつく……筈)
 それで何事もなく朝が来れば、何の問題もない。ただの悪夢だったと安堵することが出来る。だがしかし、もし夢ではなかった、その場合は――。

 その夜、円香は薬を飲まずに布団に入った。勿論、事前に“薬を飲むフリ”はした。切れた薬は昼間のうちに病院に行って新しいものを貰っていたし、その封もちゃんと開けている。もし、夜中に自分の体に悪戯をする者がいるのならば、これで尻尾をつかめる筈だと円香は思った。
 ――が、同時に円香は結果を知るのを恐れてもいた。夢であれば、杞憂であればいい。しかしそうでなかった場合、一体どうすればいいのか解らなかったからだ。
(……怖い…………お願い……神様……)
 円香は布団の中で身を縮め、祈るようにして朝が来るのを待ち続けた。眠ることなど出来る筈もなく、気がついたときにはもう瞼の裏に朝日を感じるような時間帯になっていた。
(あっ……)
 その瞬間、円香は安堵の余り涙を滲ませた。良かった、やっぱりただの夢だったのだと――そう安堵した直後、円香は思い直した。
(一日じゃ……まだ、解らない)
 そう、安堵するのは未だ早い。何も毎晩来るとは限らないではないか。思い返せば、“悪夢”も二日続けて見る事は無かったように思えた。
(今夜も……確かめなきゃ)
 円香は寝不足の目を擦りながら布団から出て、洗面台で顔を洗いながらそんな事を思った。

 時折うたた寝をしながらも店番をこなし、そしてまた夜が来た。円香は昨夜同様、薬を飲まずに布団に入った。絶対的な睡眠量が足りてないからか、不安に苛まれながらも円香は二度、三度と浅い眠りを繰り返した。が、しかし例の悪夢の類は見る事なく再び朝を迎えた。
 何もない夜が二日続いた事で、円香は安心を感じ始めていた。そう、やっぱりアレはただの夢だったのではないかと、本気で思えるようになってきていた。
(もう一日だけ試して、それで何も無かったら……)
 きっと本気で納得することが出来ると、円香は思った。昨日よりも幾分晴れ晴れとした気持ちで昼間の店番をこなし、そして――夜を迎えた。



 “それ”は、家族全員が寝静まってから、約一時間後にやってきた。
(……えっ?)
 最初は、気のせいだと思った。が、しかし断続的に聞こえる廊下の軋む音は、何者かがそこを歩いている事を円香に確信させた。
(きっと……晴夫さんがトイレに行くために……)
 そうだ、今夜はまた随分と酒を飲んでいた。一度布団に入ったけど、トイレが我慢できなくて起きてきたに違いない――円香はそう思おうとした。
 が、しかし足音はトイレの方ではなく、明らかに円香が居る居間の方へと近づいてきていた。廊下と居間とを区切っている襖が音もなく開かれるのを、円香は目を瞑ったまま“肌”で感じた。 
(っっ……入って、きてる?)
 室内の微かな空気の動き、畳のへこみ方などから、足音の主が忍び足で自分の方に近づいてきている事を察し、円香は全身を強ばらせた。ぎゅっと目を瞑り、必死に“寝たふり”を続ける。
 何者かが布団の脇に膝をついた。そっと、布団越しに肩を触られるのを、円香は感じた。
「円香ちゃん」
 それは、耳を澄ましていなければ聞き取れない声だった。そしてその声で、円香には足音の主が紛れもなく晴夫だという事が解った。
「起きてる?」
 軽く肩を揺さぶられる。或いはここで返事を返していれば、結末は違ったのかもしれない。しかし円香は狸寝入りを続けた。何より、恐怖の余り声も出せなかった。
「円香ちゃん?」
 晴夫は再度呼びかけ、円香の体を揺さぶってくる。が、円香は身動き一つしない。やがて、体を揺さぶる晴夫の手が止まり、布団から離れた。
(お願い……そのまま帰って……お願い!)
 円香は祈るように念じたが、その想いは晴夫には伝わらなかった。代わりに、ゆっくりと掛け布団が持ち上げられ、続いて薄い毛布までもが円香の上から取り払われた。
(嘘……嘘、でしょ……?)
 ここに至って尚、円香には自分の身に起きている事が信じられなかった。或いは、知らず知らずのうちに自分は眠ってしまっていて、これも夢ではないのかとすら思った。
「………………。」
 晴夫によって右手首が掴まれ、持ち上げられる。目を閉じたまま寝たふりをしている円香には、晴夫の狙いなど解るはずもない。晴夫の手が、円香の手を――手首から先をなで回してくる。そして不意に、その人差し指にぬらりとした感触が走った。
「……っ……!」
 思わず悲鳴が出てしまいそうになり、円香は慌てて口を噤んだ。
(指を……舐めてる、の……?)
 ぬらり、ぬらりと人差し指を這う感触はどう考えても人間の舌としか思えなかった。そうしてしばらく指をなめ回された後、唐突ににゅるりとした感触に指全体が包まれた。口に咥えられたのだと、後から気づいた。
(い、イヤッ……止めて……!)
 ちゅぱ、ちゅぱと微かに音を立てて指をしゃぶられ、円香は全身に鳥肌が立った。こんなことを、今までもされていたのかと思うと全身に怖気が走った。
 晴夫はそのまま、指が唾液でふやけるほどにしゃぶった後、続けて中指、薬指、小指、親指と全ての指を同じようにしゃぶった。右手の次は左手を、左手の次は左足を、左足の次は右足を――たっぷり一時間以上かけてしゃぶり続けた。
「ふぅ……ふぅ……ふぅ……」
 さすがに疲れたのか、円香の足の指から唇を離した晴夫の息は上がっていた。そのまま部屋から出て行って欲しい――という円香の願いは、またしても無視された。
(…………っ……!)
 衣擦れの音と共に、太股の辺りに晴夫の体重を感じた。そのまま、“何か”が被さってくる。
「ふぅ……ふぅ……円香ちゃん……はぁ……はぁ……」
 プンと鼻を突く加齢臭と酒の匂いに、円香は咄嗟に顔を背けそうになった。晴夫は寝たふりを続ける円香の体を抱きしめるように両手両足でぎゅうっ、としがみついてくる。そのまま体を擦りつけながら、ぺろぺろと円香の顔に舌を這わせてきた。
「はぁはぁ……円香ちゃん……可愛いよ、円香ちゃあん!」
 頬に額、鼻、耳、唇――顔中が晴夫の涎でべとべとになる程に舐め回されながらも、円香は頑なに“寝たふり”を続けた。そう、最早声も出せない程に、円香は晴夫に対して恐怖を感じ始めていた。
「円香ちゃん、円香ちゃん、円香ちゃん……!」
 晴夫の舌が、強引に唇の中へと入ってくる。中年のキツい口臭に吐き気すら覚えたが、それでも円香必死に耐えた。
(……もし、起きてるってバレたら……)
 晴夫はどうするだろうか。今日の――そしてこれまでの非礼を詫び、反省して謝るか?……否、逆に開き直るのではないか。どうせバレてしまったのだからと、ヤケになってむしろ酷い目に遭わされるのではないか。
(……そうに、決まってる)
 今までがそうだったではないか。男という生き物はおよそ円香の願いなど聞き入れてはくれない。むしろ逆らえば逆らうほどに状況は悪化していくものだという事を、円香は骨身に染みて知っていた。
 だから。
「ふぅ……ふぅ……円香ちゃあんっ……」
 唇を、歯を晴夫に執拗になめ回されながら、パジャマの上からむぎゅむぎゅと両胸をこね回されても、円香は必死に狸寝入りを続けた。こうして寝たふりを続けている以上は、少なくとも“起きても不思議ではない”ような事まではしない筈だと、そこにだけ一縷の希望を託して。
「いけないなぁ、円香ちゃん……おっぱいの所のパジャマ、パンパンになっちゃってるじゃないか。こんなの見せられたら、おじさん辛抱できなくなっちゃうよ」
 パジャマのボタンが、一つずつ外されていく。続いて、背中の方に手が回ってきて、ブラのホックが外され、ブラ自体が上方へとずらされる。
 その後はもう、円香の予想通りだった。これでもかという程に胸をなめ回され、先端をしゃぶられた。指や顔などよりもねちっこく、時間をかけてたっぷりと。
「はぁはぁ……円香ちゃん、円香ちゃんの……オッパイ…………」
 晴夫は譫言のように呟きながら、不意に口での愛撫を止めた。かとおもえば、太股のあたりにかかっていた体重も消え――その代わりに、微かな衣擦れの音が聞こえた。
(まさか……)
 という円香の予想はある意味で当たり、ある意味で外れた。晴夫は再び――今度は円香の腹の辺りに跨ると、“何か”を胸の合間に挟むようにしてぎゅう、と左右から圧迫した。
「はぁ、はぁ……男を誘惑する、悪いオッパイにはお仕置きしなきゃいけないよね……はぁはぁ……円香ちゃん……円香ちゃん……!」
 愛しげに円香の名を呼びながら、晴夫は腰を前後させる。目を開けずとも、円香には晴夫が何をしているのかはすぐに解った。
(っ……イヤッ……ぁ……!)
 胸の合間を前後するモノの感触に、円香は再び全身に鳥肌を立てた。それは間違いなく晴夫の男性器であり、そしてその向きは――。
「ううっ、出るっぅ!」
 円香の胸の間で、びくりと肉の竿が震えたその刹那、熱いものが円香の顔へと降りかかった。生臭い匂いを発するそれが何なのか、円香は無論解っていた。
「はー……はー…………うっ、まだ、出るっ、ぅ……ふぅ、ふぅ……」
 晴夫はさらに円香の胸の間で先端部を押し包むようにして扱き、びゅくりっ、と白濁液を吐き出した。怖気の走る感触を耐える為に、円香は晴夫から見えない位置でぎゅう、と頑なに布団を握りしめた。
(……お願い……もう止めて、これで終わりにして……!)
 感じる嫌悪感は、悪夢の比ではなかった。腹の上に座っていた晴夫が立ち上がった時、円香は今度こそ全ての終わりを願った。
 しかし、運命というものは悉く円香の期待を裏切るものらしい。晴夫の手が、今度はパジャマのズボンへとかかった時、さすがに円香は身じろぎを禁じ得なかった。
「っ!?」
 咄嗟に、びくりと晴夫が手を引いた。しばらくそのまま、はぁはぁと荒い息づかいだけが室内に響く。
「円香ちゃん……起きたの?」
 震える声で晴夫は尋ねてくる――が、円香は返事を返せなかった。返してしまうのが怖かった。
(お願い、もう止めて……!)
 ただただそう祈った。しかし、祈りは通じなかった。晴夫は再び円香のズボンへと手をかけると、そのまま膝まで下ろした。今度はもう、円香は身じろぎをしなかった。
 晴夫は露わになった円香の太股の間へと顔を挟み込み、頬ずりをしながら太股へと舌を這わせてくる。
(イヤッ……イヤッ……!)
 ショーツ越しに晴夫の鼻の感触を感じながら、円香はただただ頑なに目を瞑り、悪寒に耐え続けた。
「ふぅぅぅぅ……はぁぁぁぁぁ…………ふぅぅっぅぅ…………はぁぁぁぁ…………」
 晴夫がショーツに鼻を押しつけ、深呼吸でもするかのように深く息を吸い、吐く。その都度、湿り気を帯びた晴夫の息がショーツ越しに感じられて、円香は堪らず唇を噛みしめた。
 “深呼吸”はショーツが晴夫の息で湿り気を帯び、色が変わるほどに長く続けられた。その頃にはもう円香は半ばあきらめの境地に達しかけていた。きっと、このままなし崩しに最後までされてしまうのだろうと。
 だから、ショーツを脱がされ、再び股ぐらに頭をつっこんだ晴夫によってしつこく性器を舐め回された後、何事も無かったかのようにショーツとズボンを履かされた時にはかるい驚きすら感じた。
(えっ……?)
 ズボンまで履かされた後、今度は何か冷たいガーゼのようなもので体中を拭われた。恐らくはウェットティッシュだと思われるそれで、特に顔の辺りを丹念に拭われた。かかった精液を拭っているのだと、円香は推測した。
(…………終わった……の?)
 ほっと安堵すると同時に、納得もした。こうして、いつも“事の後”で後始末をされていたのだと。
 円香は体中を拭われ、服を元通りに着せられた後、掛け布団をかけられた。程なく晴夫は部屋を後にしたが、無論円香はそれでぐっすり眠れるというわけもなかった。
(…………どう、しよう……)
 “これから”の事を考えねばならなかったからだ。


 止めて欲しいと、晴夫に面と向かって言う――それが正攻法だというのは、円香にも解る。仮に自分と晴夫の立場が対等ならば、それもアリだったかもしれないとも。
 しかし、悲しいかな円香は居候の身だ。父の口利きで無理矢理引き取ってもらっているようなものであり、立場的には明らかに弱い。が、だからといって何をされてもかまわないというわけでは、勿論ない。
(…………やっぱり、言わなきゃ……何も変わらない)
 それは、円香にとってとても勇気のいる事だった。惚けられたらどうしよう。惚けられなくても、居直られたらどうしよう――悪い想像ばかりしてしまい、晴夫に言おうと決めて尚、丸一日は何も言い出せなかった。
 明日こそ、明日こそ言おうと心に決めて尚、夜が明ければ気持ちが負けてしまう。なまじ、普段の晴夫がとても人の良い――それでいて、何かと自分を気遣ってくれる優しい男なだけに、円香は余計に言い出しづらかった。こんな事ならばいっそ、薬を切らしたりなどせず、あくまで悪い夢のまま何も知らなければよかったと、円香は詮無いことを思った。

 そして、“三日目”。前の時と同じならば、今夜また晴夫が部屋に忍んでやってくるはずだった。
 言わなければ、言わなければと気ばかり焦って、結局夕飯が終わるまで円香は何も言えなかった。刻一刻と就寝時間が近づくも、やはり言い出せない。贔屓にしている球団の試合中継を見ながら晩酌をしている晴夫が、時折横目で舐めるように円香の方へと視線を這わせてくる。やはり今夜だ――と、円香は体を強ばらせた。
「あっ、あの……」
 言わなければ、またあの夜のような思いをすることになる――その悪寒と恐怖が、円香に踏ん切りをつけさせた。弾かれたように声を出し、“用件”を切り出そうとした、その時だった。
「まどか姉、ちょっと……いい?」
 突然、つばめが居間へと入ってきて、円香は言葉を切らざるをえなかった。こんな話、陽平は元よりつばめにだって聞かせるわけにはいかない。
「な、なぁに? つばめちゃん」
「あのさ……良かったら、今夜一緒に寝ない?」
 えっ、と。円香は息をのみ、反射的に横目で晴夫の方を見てしまった。
「……どうして?」
「うん……実はちょっとさ、まどか姉に相談したいことがあって……」
 つばめは晴夫にはあまり聞かれたくないのか、殆ど円香に耳打ちするようにしてそんな事を言った。
(……そうだ、つばめちゃんの部屋なら……)
 その時、はたと円香は思い至った。居間ではなく、つばめの部屋に泊まれば、少なくとも今夜は晴夫に夜這われる事はないのではないか。
(でも、それじゃあ……)
 一時的な避難場所としてならば申し分ない。が、根本的解決にはならないのではないか。
(…………今日だけ、なら……)
 しかし、円香は己の気持ちが“逃げ”に傾いているのも感じていた。当座の――今日だけの避難路だと分かり切ってはいても、結果が予測不明な晴夫の説得よりは、そちらの方がいいのではないかと。
「わかった。……じゃあ、今夜は一緒に寝よ、つばめちゃん」
 円香はわざと大きめの声で言って、居間を後にした。怖くて、晴夫の方は振り替えれなかった。

「無理言ってゴメンね、まどか姉」
「いいの。……相談って何?」
 つばめの部屋は決して広くはない。部屋の半分近くをベッドが占拠し、残ったスペースも勉強机や本棚などによって占拠され、とても布団を敷くゆとりなどはない。
 至極、文字通り“一緒に寝る”事になってしまい、しかもベッドも二人で寝るにはやや狭かった。が、無論円香がそんな事で文句を言えるわけもない。
「あのさ……アタシ、好きな人が出来たんだよね」
「ホント!? 良かったじゃない! 今度はどんな人?」
「うん……高校の先輩なんだけど。前からちょくちょく部活の帰りとかにたまにすれ違っててさ。その時は、カッコイイ人だなぁ、くらいしか思ってなかったんだけど……」
「うんうん、それで?」
「本当に、気味が悪いくらい帰り道に会うからさ、ひょっとしたら待ち伏せされてるんじゃないかって……気になってたんだよね。あ、本当に気味が悪かったわけじゃないよ? むしろそうだった方が嬉しかったんだけど……てゆーか、その頃にはもう……かなり先輩の事好きになりかけてて…………こないだ、うちの袋小脇に抱えてるの見ちゃってさ」
 なるほど、と円香は得心がいった。帰り道にすれ違うのは、その先輩とやらが学校帰りにパンを買ってから家に帰るから、丁度その際に部活帰りのつばめとすれ違っていたという事なのかと。
(…………あの人、かなぁ)
 毎日のように店番をしている円香には、当然見覚えがあるはずだった。夕方、それもつばめが帰ってくる頃となれば割と閉店間際に近い時間帯に来る客で、尚かつカッコイイ男子高校生となると、候補は一人しか思い至らなかった。
「それでね、今日……思い切って話しかけてみたんだよね。……いつもパン買ってくれてありがとうございます、ってさ。当然向こうはアタシの事なんか知らなかったみたいで、最初はびっくりしたような顔されたんだけど、話すうちにすぐアタシの事も解ったみたいでさ……」
 喋りながら、つばめは顔を円香から隠すようにどんどん身を縮め、布団の中へと潜っていく。
「うんうん、それでそれで?」
 円香は少しだけ苦笑しながらも、明るい声で続きを促した。見た目にそぐわないつばめの純情さをあざ笑ったのではない。その逆、心が痛いほどにつばめの気持ちが伝わってきて、共感すら感じてしまったからだった。
「それで……なんかうちとけちゃって……今度部活が休みの日とかに二人だけで会って話したいとか言われちゃったんだよね」
「わわっ……つばめちゃん、良かったじゃない! それもう殆ど告られたようなものだよ!」
「なっ……ち、違うよ! 絶対違うって! だって、そんな…………あんなカッコイイ先輩がアタシの事なんて……」
「ううん、絶対そうだよ! きっとその先輩の方もつばめちゃんの事が好きで、話すきっかけ作りたくてうちでパン買ってたんだよ!」
「やめて! やめて! そんなの絶対ありえないから! ああもうバカバカ! まどか姉のバカぁ!」
 顔を真っ赤にして――部屋の灯りは既に消えている為、恐らくそうだろうと推測するしかないのだが――ぽかぽかと布団の中で拳を振るってくるつばめが、円香には可愛らしく思えてならなかった。
「そりゃあ、まどか姉はいいよ。掛け値なしに美人だもん。言い寄ってくる男が居たら、間違いなく自分に気があるんだろう、って思えるかもしれないよ? でもアタシはほら……どっちかっていうと……」
「そんなことないよ! 私なんかより、つばめちゃんの方が絶対美人だから! 特にバレーやってる時のつばめちゃんって男の子みたいに格好良いし、スパイク打つ時とか怖いくらい迫力あるもん!」
「……まどか姉、それ遠回しに“美人じゃない”って言ってない?」
 うっ、と。思わず痛いところを突かれ、円香は言葉を詰まらせてしまった。
「アハハ、いーのいーの。自分で解ってるから。陽平にもしょっちゅうブス姉ブス姉って言われてるし。自分が美人じゃない事なんてアタシが一番よく解ってるの。…………だから、相手の方から言い寄られるなんて、どうしても信じられなくって」
「つばめちゃん。私はつばめちゃんとたった三つしか年は変わらないけど、それでもこれだけは言えるよ。男の人は、女の子の見た目だけに惚れるわけじゃないんだよ? その先輩はきっと、つばめちゃんの“中身”に惚れたんだよ!」
「うわーん、やっぱりまどか姉もアタシの事ブスだと思ってるぅー!」
「あっ、そういう意味じゃなくって……」
 泣くような声を上げて寝返りをうち、背を向けたつばめに円香は慌ててフォローを入れようとする――が。
「……なーんちゃって。うふっ、まどか姉ってば、ホントお人好しなんだから。……大好き!」
「きゃっ……もうっ、つばめちゃんったら……」
 再び寝返りを打って円香の方に向き直ったつばめは当然泣いてなどおらず、ころりと笑ってそのままぎゅうーーーっとしがみつくようにして抱きしめてくる。
「いいなぁ、まどか姉ってば。女のアタシから見てもハンカチ噛みたくなるくらい美人なのに、スタイル良くっておまけにおっぱいまで大きいんだもん。ぶっちゃけ向かうところ敵なしって感じだよね。……どうして彼氏とか作らないの?」
「あはは…………そのうち、ね。今は……まだ一人のほうがいいかな……」
 円香の脳裏に、ふと――まだ幼さの残る顔立ちの少年の――影が浮かぶが、円香は首を振ってその影を打ち消した。それはもう、二度と顔を合わせる事のない相手の姿だからだ。
「ふぅーん……ひょっとして、引っ越してくる前に何かヤな事があったとか?」
「うん……まぁ、そんな感じかな」
 円香ははぐらかすように微笑んだ。
「そっか。無理には聞かないよ。……だけど、まどか姉が話したくなったら、いつでも聞いたげるからね?」
「うん、その時はおねがいね、つばめちゃん」
 その後は、とりとめのない話をしながら、どちらともなく寝息を立てた。すぐ側につばめが居る事で、円香は珍しく薬無しでの安眠をとることができた。



「円香ちゃん、今夜もつばめと一緒に寝るのかい?」
 就寝前の歯磨きを終え、脱衣所を出ようとした矢先、円香はまるで出口を塞ぐように立つ晴夫にそんな言葉をかけられた。
 つばめに“相談”を受けた日からさらに三日後の事だった。
「……はい」
 驚きつつも、円香は小さく頷いた。
「そっか。……おじさんはそういうの、あまり良くないと思うなぁ」
 口調こそ、いつも通りの優しいそれだったが、どこかトゲのある声で晴夫は言う。
「…………どうして、ですか?」
 円香は晴夫から目を背けたまま言った。怖くて、とても直視などは出来なかった。
「どうして、って……ほら、つばめもあれで年頃だからさ。やっぱり夜は一人で過ごしたいんじゃないかな?」
「……でも、つばめちゃんの方が……一緒に寝ようって……」
 それは、事実だった。無論、円香の方から幾分かは一緒に寝たいというオーラを出しはしたが、つばめにも決して嫌がられてはいない筈だという自信はあった。
「それは円香ちゃんに気を使ってそう言ってるだけだよ。つばめだって本当は一人で寝たい筈さ。第一、あのベッドに二人じゃ狭いだろう?」
「……すみません。あとでつばめちゃんにちゃんと聞いてみて、それから決めます」
 円香は晴夫の脇を強引に抜け、逃げるようにつばめのベッドへと潜り込んだ。
「まどか姉? どうしたの?」
「なんでもない。……寝よ、つばめちゃん」
 今夜は円香の方からつばめに抱きつき、抱きマクラのようにして瞼を閉じた。

 いつまでも逃げ続けているわけにはいかない――それは解っているつもりだった。それでも、円香は一縷の希望にかけた。
 そう、ひょっとしたら、晴夫も解ってくれるのではないかと。自分がつばめのベッドで寝続ける事で、或いは気がついていて、それがイヤで逃げているという事が暗黙のうちに伝わり、晴夫が考えを改めてくれるのではないか――そんな円香の甘い考えは、先ほどの晴夫の態度で脆くも崩れ去った。
(……また、私に……いやらしいことをしようとしてる)
 そうでなければ、ああも強引に一人で眠らせようとするだろうか。その筈がないと円香は思う。
(…………やっぱり、ちゃんと……言わなきゃいけない)
 逃げてばかりでは、何も解決しない。つばめのベッドに永遠に潜り込む事も不可能だろう。いつか、きちんと晴夫に面と向かって拒絶の意を示さねばならない。
(でも、もしそれでダメだったら……)
 その先を考えるのが怖くて、円香はそこで思考を打ち切った。とにかく、言わなければ何も始まらないのだという事だけを、何度も何度も自分に言い聞かせながら、眠りの谷へと落ちていった。

 今日の夜、言おう――翌日、円香は店番をしながら決意した。いつまでもズルズル先延ばしにしても何の解決にもならないという事は、昨夜思い知った。ならば早いほうがいいと、挫けそうになる心を何度も励ましながら、円香は己の気持ちを奮い立たせた。
(大丈夫……話せば、きっと解ってくれる)
 晴夫は、かつて自分を襲った異常者達とは違うはずだと。仮にも一度は結婚をし、その後妻を失っても男手一つで子供二人を育ててきた男なのだ。今回の事もきっと魔が差しただけの筈だ。別に訴えたりするつもりもない、ただ今まで通り普通に暮らせればそれでいいという事を伝える事ができれば、きっと考え直してくれるに違いない。
(それに――)
 あの時、晴夫は最後までしなかったという事に、円香は少なからず好感を抱いていた。晴夫が本当に悪人であるならば、どうせ意識などないのだからと、最後までヤッてしまうのが普通ではないかと。
 晴夫は、それをしなかった。良心の呵責か、或いは最後の一線だけは越えまいとしたのか。どちらにしろ、説得の余地はあるのではないかと、円香は思っていた。
 そのようにして円香は一人、店番をしながら何度も不安に苛まれては、晴夫の良識を信じる形で己の心を落ち着けていった。
 そんな矢先の事だった。
「円香ちゃん、ちょっと奥の方手伝ってくれるかな?」
「あ、はい!」
 丁度昼飯時を過ぎ、客足が途絶えた時、不意に工房の方にいる晴夫に呼ばれ、円香はレジの裏の椅子から立ち上がった。
「時間かかるかもしれないから、準備中の札かけといて」
「解りました」
 円香は言われたとおりに店のドアの前に準備中の札をかけ、鍵をかけてから工房の方へと向かった。営業中、こうして晴夫に呼ばれる事は良くある事ではないが、珍しいという程でもなかった。基本的にパンは工房の方で晴夫が一人で作っているのだが、ごくまれに手間のかかる菓子パンを作る時など円香も手伝っていたから、きっとその類だろうと思ったのだ。
 しかし。
「ああ、ちがうちがう。そっちじゃない、倉庫の方」
「倉庫……?」
「うん。ちょっとね、小麦粉の袋新しいのを出さなきゃいけないんだけど、高く積みすぎちゃって一人じゃ下ろせないんだ。肩車するから、円香ちゃん頼むよ」
「えっ、でも……」
 戸惑う円香の背を押すようにして、晴夫は強引に店の裏手、裏庭の片隅にある倉庫へと入っていく。そこは主に店で使う小麦粉やその他常温保存可能な材料をしまっておく倉庫で、円香は一度しか中に入ったことはなかった。
 倉庫の中は肩幅より僅かに広い程度の一本道のようになっていて、その両脇に天井近くまで棚が並び、いくつもの小麦粉の袋が並んでいた。その中には確かに大人の晴夫でもとれるか怪しい高さのものもあるにはあった。
 が――。
(脚立が……あるのに)
 倉庫の奥に脚立の姿を認めたその瞬間だった。がちゃりと、倉庫の鍵がしめられる音を円香は聞いた。
 振り返った円香の目に、黒い影の塊とだけ映る晴夫の姿があった。倉庫内は暗く――白熱電球があるにはあるのだが、晴夫はそれをつける気はないらしい――通路の奥の壁の天井付近にある天窓から漏れる光だけが、唯一の光源だった。
「あ、の……おじ、さん……?」
 円香は、思わず後ずさった。円香が後ずさった分、晴夫が前進する。さらに円香が後退する。晴夫が前身する。円香は後ずさろうとして――その背が、倉庫奥の壁にぶつかった。
「いやっ……いやっ……そんな、嘘……止めて……」
 全身の細胞が悲鳴を上げるのを、円香は感じた。そう、“この感じ”はかつて――何度も味わったアレだと。
「……いつからだ」
 それは、およそ晴夫の口から発せられたとは思えぬ程に――暗い響きを孕んだ声だった。
「いつから、気がついてた」
「な……何の、事……ですか?」
「とぼけんな!」
 ガァン!――晴夫が拳を握り、横薙ぎに棚に叩きつける。凄まじい音がして倉庫全体が揺れ、はらはらと埃が舞った。
 円香はもう、それだけで抵抗する気力を無くし、ぺたんと尻餅をついてしまった。
「ふぅ……ふぅ…………人が優しくしてりゃあ図に乗りやがって……てめぇ、自分の立場解ってんのか? あぁ?」
「私の……たち、ば……?」
「そうだよ。親に捨てられたテメーを拾ってやったんだ……少しくらい“恩返し”したってバチは当たらねーだろ」
 親に捨てられた――晴夫の言葉が、鋭く円香の胸を切り刻んだ。痛みのあまり、呼吸すら止まってしまう程に。
(……私……捨てられた……の……?)
 そのことを深く考えた事は無かった。――否、考えないようにしてきた。しかし客観的に見れば、やはりそう映るのかも知れない。たった一人だけ、親元から離され、赤の他人の元へ預けられたのだから。
「知らねーみたいだから、教えてやるよ。…………何で“親戚”じゃなく、俺の所に預けられたと思う? 本物の“叔父さん”や“叔母さん”の所じゃなく、実家でもなく、親友とはいえ赤の他人の俺の家に預けられたのは何故だ?」
 サディスティックな笑みすら浮かべながら、晴夫がにじり寄ってくる。
「答えは一つだ。誰も引き取りたがらなかったからだよ。……本当は俺、知ってるんだぜ? 円香ちゃんがどうして地元に住めなくなったのか」
「っっ……!」
 体が、震えた。堪らず、円香は晴夫の顔を見上げた。晴夫は――これまで円香が見たことがないような歪んだ笑顔で、円香を見下ろしてきた。
「解ったか? もう円香ちゃんはここ以外に行く所なんかねーんだよ。……つまり、円香ちゃんが今夜も屋根のある部屋で、暖かい布団で眠れるかどうかは、俺の胸先三寸にかかってるってワケだ。……理解したか?」
「……っ……」
「理解したのか、って聞いてんだよ!!!」
 突然髪を掴まれ、唾がかかるほどの至近距離で怒鳴りつけられ、円香は堪らず悲鳴を上げた。上げながら、必死に頷き、肯定の言葉を叫んだ。
「ふー……ふー…………じゃあ、咥えろ」
「えっ……」
「え、じゃねえんだよ。……咥えろ、ほら、早く」
 晴夫はズボンのジッパーを下ろし、既にガチガチにそそり立ったそれを円香の眼前に突きつけてくる。
「い、イヤッ……お願い……止めて、下さい……」
 目の前でヒク、ヒクと波打ちながら先端から先走り汁を零すそれを直視出来ず、円香は涙を零しながら懇願した。
 ――が。
「日本語が通じねーのか? 咥えろ、つってんだよ。……それとも、この場で犯してやろうか?」
「っっ…………わかり、ました…………咥えます……から、だから…………」
「いいからさっさとやれよ。おらっ」
「んぷっ……んっ……んんっ…………!」
 円香は頭を掴まれ、強引に亀頭を唇の中へとつっこまれた。舌先に感じる――先走り汁特有の生臭い風味に、思わず吐き気がこみ上げた。
「おら、休んでんじゃねえ! 舌動かしてしゃぶれ。イくまで続けろ」
「んくっ……は、い……んんぅっ……んっ……」
 円香は逆流しようとする胃液を堪えながら、涙を零しながら剛直を舐め、しゃぶる。年齢のせいだろうか、晴夫のそれは今まで円香が相手をしてきた大学生や高校生、中学生のそれにくらべて臭みが強く、その為余計に吐きそうだった。
(うげ、ぇ……臭いぃ……)
 男性器の匂いの染みた唾液を飲み干すことがどうしてもいやで、円香は口の端から零すようにしながら口戯を続ける。唇から溢れたそれらがしたたり、エプロンやスカートを汚したが、そんなことを気にしている余裕は全くなかった。
「へ、へへ……巧いじゃねえか。何人の男に仕込まれたんだ?」
 晴夫は円香の髪を、頬を優しく撫でながら、自分でも腰を前後させていた。円香はそれにあわせて唇をすぼめたり、吸ったりして少しでも早くこの拷問のような時間が早く過ぎる事を願った。
「はぁはぁ……いいぞぉ……おおぅ……もう少し……もう少しだ……たっぷり出してやるからなぁ……いいか、全部飲めよ、全部だ……零したらブン殴るからな?」
 晴夫は腰を使いながら、気持ちの悪い声でそんな事を呟く。
「んんっ、んんくっ……ンンッ!!!」
 びくりっ、と剛直が震え、たちまち円香の口腔内に苦いものが溢れた。円香は吐き気を懸命に堪えながら、痙攣する胃を押さえつけるようにしてそれらを飲み干していく。
「ふーっ……ふーっ……まだだ……尿道に残ってるのも、全部吸え」
 円香は、晴夫の言葉通りにした。最後に文句をつけられぬ様、ていねい精液を舐めとり、唇を離した。
「ふぅぅ……ありがとう、円香ちゃん。とっても気持ちよかったよ」
 そう言いながらペニスをしまう晴夫は、いつもの“優しい顔”に戻っていた。
「乱暴な事をしてゴメンね、円香ちゃん。だけど、円香ちゃんがいけないんだよ? 気づいたなら気づいたで、避けたりしないで大人しく寝たふりを続けてくれてれば、こんな事しなくても良かったんだから」
「……っ……そんな……」
 そんなのは、勝手な言いぐさだと、円香は思った。自分が寝ている間にあんな事をされて黙っていられる女など、居るわけがないと。
「ボクとしても本当に残念だよ。ボクなりにきちんとばれないように気を使って、しかも“本番”は止めてあくまで円香ちゃんをオナペットにするだけで我慢してきたのにさ。そこまで気を使ってあげてるのにあんな風に露骨に避けられたら、温厚なボクでも頭に来るよ」
 しかし、言葉には出来なかった。したところで、通じる相手とも思えなかった。
(……こんな、人……だったなんて)
 完全に見誤っていた。こんな男を、自分は説得しようとしていたのかと。晴夫が“まともな人間”であれば、そもそもあんな事はしないではないか――そんなことに今更ながらに気がつく己のばかばかしさにも、円香は涙した。
「ふー。すっきりしたから、ボクは仕事に戻るよ。円香ちゃんも早めにお店に戻るんだよ? ……ああそう、今夜からはちゃんと自分の布団で寝るようにね。じゃないと……またムラムラが溜まって円香ちゃんに乱暴なことしちゃうかもしれないからさ」
「…………。」
「円香ちゃん、返事は?」
「……はい……わかり、ました」
 円香は涙を拭いながら、血を吐くような声で承諾した。



 顔を洗い、うがいと歯磨きをして、円香は店へと戻った。鍵を開け、準備中の札を外すと、程なくぽつりぽつりと客が入り始めた。忙しくなるのは大歓迎だった。過ぎてしまった事でうじうじと悩まなくて済むからだ。
 円香は、店に戻る前にマスクをつけた。うがいと歯磨きによって匂いは消えたはずだが、それでも晴夫のペニスの臭さが気になって仕方がなかった。万が一、それが口臭という形で残っていたらと気が気でなかった。
 時間は、めまぐるしく過ぎた。昼間、あんな事があった事など嘘のように。しかし、服やスカートに残った僅かな染みが、全ては現実に起きた事であることを如実に示していた。
「……っ……ぅっ、……」
 不覚にも、円香は涙を零してしまった。もう、あんなことは二度と起きないと思っていた。そう、自分ばかりがそう何度も何度も酷い目になど遭うはずがないと。どこか油断していたのかもしれない。
(どうして……私ばっかり……)
 その事が悔しくて仕方がなかった。世の女性の大半が自分と同じような目に遭っているとは、円香にはとても思えなかった。何故、自分ばかりが狙われ、酷い目に遭わされるのだろうと、そんな事を考えて涙が溢れた。
「……あの……」
 戸惑うような声に、円香はハッと瞼を開け、慌てて涙を拭いた。見れば、トレイを持った男子高校生が困ったような顔でレジの前に立っていた。
「あっ、すみません! ええと……フランクフルトが一点と――」
 円香は慌てて立ち上がり、すぐさまトレイの上に置かれたパンの袋詰めを始める。同時にレジをうちながら、円香は二重に慌てた。よりにもよってその客はつばめがご執心の“カッコイイ先輩”だったからだ。
「八百四十円になります」
 円香は必死に笑い、いつも通りの対応をしようと試みた。千円札を受け取り、おつりの百六十円を渡す――その時、突然手を掴まれた。
「あっ、すみません!」
 男子高校生自身、自分の行動に驚いたかのように慌てて手を離した。そしてぽりぽりと頭をかきながら釣り銭を財布にしまい、パンの入った袋を受け取り、一度はレジを後にしようとしたが、その足が途中で止まった。
「あの……余計なことだったらすみません」
 そう言って、ぎこちなく男子高校生は円香の方を振り返った。
「……何か、あったんですか?」
「えっ……?」
「いや、その……さっき、泣いて……ましたよね?」
 円香はハッとして、再度目元を拭った。拭った後で、それは何の意味もない行動だと思った。
「あの、もしよかったら……俺――」
「すみません、何でもないんです」
 男子高校生が喋り終えるよりも先に、円香は言葉をかぶせた。
「でも……」
「何でもないんです」
 少し怒ったような声で、円香は言った。男子高校生の顔は見れなかった。程なく、店から去ったという事だけはドアにつけられたベルの音で解った。
(弱みなんか、見せたら、だめだ)
 人の良さそうな顔になど、騙されてはいけない。
(どうせ、また――)
 あの男も、すぐに晴夫のように形相をがらりと変えて、自分に襲いかかって来るに違いないのだ。
 円香は自虐的に笑い、そして泣いた。



「まどか姉ー! 今日も一緒に寝よっ」
 風呂から上がるなり、円香は背後からつばめに抱きつかれた。
「……ごめん、つばめちゃん。今日は……ちょっと一人で寝たい気分かな」
「えぇー、一緒に寝ようよぉ。アタシ、まどか姉のオッパイマクラが無いともう眠れない体にされちゃったんだよ?」
「つばめ、我が儘を言うもんじゃない」
 ごねるつばめに苦慮していた円香に助け船(?)を出してきたのは晴夫だった。
「お前ももう高二だろう。一人で寝なさい」
「うっさいクソ親父。バーカバーカ! ……まどか姉、明日は一緒に寝ようねー?」
 つばめはいーっ、と歯を見せながら悪態をつき、どたどたと足音を響かせて二階の自分の部屋へと上がっていった。その姿が見えなくなってから、晴夫は円香の背後へと歩み寄り、ぽむと肩に手を置いた。
「円香ちゃん。今夜はお薬飲まなくてもいいからね?」
「……はい」
 としか、円香は答えられなかった。


 深夜。
 二人の子供達が寝静まり、さらに一時間ほと立った頃、円香の居る居間の襖が音もなく開いた。何者かが居間の中に入り、再び音もなく襖が閉められる。その影は足音もなく円香の布団の側へと歩み寄り、そっと膝を突いた。
「来たよ、円香ちゃん」
 その優しい口調が、余計に嫌悪感を倍加させた。円香が返事を返さないで居ると、晴夫はいそいそと円香の布団の中へと潜り込んできた。
「本当はもう少し時間をおいてから来る筈だったんだけど、待ちきれなくってさぁ。……円香ちゃん、まさか寝ちゃってないよね?」
「……起きてます」
 布団の中で背後から体中をまさぐられ、全身を強ばらせながら、円香はぽつりと呟いた。
「晴夫さん……お願いします、もう、こんな事はやめてください」
 堪りかねたような口調で、さらに円香は続けた。
「今なら……誰にも……パパにも何も言いません。もちろん、警察にも……だから、このまま自分の部屋に帰って下さい」
「円香ちゃん?」
 体をまさぐる手が、ぴたりと止まった。
「何それ。ひょっとして、ボクを脅迫してるの?」
「脅迫なんかしてません。……お願い、してるんです……」
「同じ事でしょ。手を出したら、パパと警察に言いつけちゃうゾって、そう言ってるようにしか聞こえないよ?」
「……じゃあ、それでも構いません。……とにかく、こういう事は止めてください。……本当に、本当に……イヤなんです。晴夫さんが思ってる以上に、私にとっては辛い事なんです。だから、やめてください」
 円香は精一杯、真摯に心を込めて哀願した。晴夫に人の心というものがあるのなら、きっと聞き入れてくれるものだと信じて。
「円香ちゃんさぁ、最近お父さんと話した?」
「…………いいえ」
 晴夫の突然の言葉に、円香は戸惑いつつも首を振った。父親とは、もう半年以上話もしていなかった。
「ボクはしたよ。一週間くらい前だったかな。漸く奥さんが――円香ちゃんのママが退院できそうだって、凄く嬉しそうだったよ」
 ちなみに、円香ちゃんの様子とかは一切聞かれなかったよ――晴夫は尋ねもしないのに、わざと意地悪く円香の耳元にそう付け加えた。
「円香ちゃんのママってさぁ、円香ちゃんの“男遊び”のせいでノイローゼになって入院しちゃったんだろ?」
「……っ……それ、は……」
「大変だよねぇ。やっと退院できるくらい治ってきたのに、ここでまた円香ちゃんが預けられた先で性的暴行を受けた、なんて聞かされたら……お母さんどうなっちゃうかな?」
「っっっ…………!」
 晴夫の手が、再び円香の体をまさぐり始める。胸元から、尻にかけて。何度も何度も往復するように。
「もちろん、どうするかは円香ちゃん自身が決める事だよ。ボクにこうして体を触られる事がどうしても耐えられないっていうのなら――それこそ、お母さんの事なんかどうなってもいい、っていうのなら、どうぞ。お父さんでも警察でも好きな所に言いつければいいさ」
 晴夫の言葉から、円香は晴夫が暴行自体を止める気は毛頭ないという事だけは解った。そして、それに対して自分が予防策として考えていたものが使い物にならないという事も。
「ほら、円香ちゃん。本当にイヤだったら大声だしちゃってもいいんだよ? そうすれば、つばめも陽平もビックリして飛び起きてくるだろうさ。ボクが円香ちゃんを襲った事は明るみになって、めでたく警察行きかな? 円香ちゃんのシナリオだと。その後、二人とも性犯罪者の子供として生きていく事になるわけだ」
「あ、あなたが……止めれば……」
 それで済む話ではないか――円香は声を引きつらせながらも、言わずにはいられなかった。
「パパの……親友、じゃないんですか? なのに、どうして……こんな、酷いことを……」
 そう、この男は今まで自分を襲ってきたような“赤の他人”ではない。父が言うには、晴夫と円香の父は小学校以来の親友の筈なのだ。
 なのに。
「親友にも、いろいろあるよ」
 ニタリと、晴夫は笑う。
「お互いに認め合って、それこそ相手のためなら自分の命だって投げ出せるって思える関係もあるし、片方は親友だと思ってても、もう片方はそうだと思ってない場合もあるよね」
「……っっ……」
「或いは、片方は親友だと思ってても、もう片方は相手の事を“財布”くらいにしか思ってない場合なんてのもあるかなぁ」
「財布……って……」
「ボクの育った家は貧乏でね。家に帰っても何も食べるものが無いなんて事はザラだった。そういう時、いつも小金を持ち歩いてて、ちょっと仲良くすればすぐメシを奢ってくれる奴ってのは貴重だったのさ。…………例え、どれだけ鼻持ちならない奴でもね」
 ぎゅうっ、と。円香の胸元が痛いほどに握りしめられる。そう、まるで憎しみでも込めるかのように――。
「そういう家に育ったからさ。将来は食べ物を作る仕事をしようって、パン屋を始めてはみたけど、なかなかうまく行かなくてさ。女房には先立たれるし、パンは売れないしで借金ばかりかさんで、そろそろ首を釣るしかないっていう頃だったよ。崇志の奴から、娘を預かってくれないかって話をもちかけられたのは。……ぶっちゃけ、ラッキーって思ったね」
 晴夫の言葉の意味が、円香には全く分からなかった。
「そりゃあ、“親友”の頼みだから、ボクとしても二つ返事で引き受けてやりたかったさ。……だけど、うちはこれこれこういう事情だから、とても他人の子を養う余裕はないって言ったら……出してくれたよ。ぽーんと、一千万」
 きひきひきひ――晴夫は奇妙な音を立てて笑った。
「スゴいよねぇ、さっすが大会社の社長だよねえ。一千万をケロッとした顔で出すんだから。おかげで借金返してもおつりがきたよ。…………円香ちゃん、この意味解る?」
「意味……?」
 ざわざわと、円香は全身の気が怖気立つのを感じた。きひひと、晴夫が笑う。
「崇志にとって、円香ちゃんは一千万払ってでも処分したかったゴミ、って事だよ」
「っっっ…………!」
 晴夫の言葉に、円香は思わず頭の中が真っ白になった。
「ヒドい奴だと思うだろ? 同情するよ、円香ちゃん。……だから、ボクはいっぱい優しくしてやっただろ? 実の娘のつばめなんかより、何倍も円香ちゃんに優しくしてやったつもりだよ? なのに――」
 晴夫の腕が、肩越しに円香の首を巻くように捉える。ぐっ、と、まるで羽交い締めのように力を込められ、円香はたまらず息を詰まらせた。
「そんなボクの優しさを、円香ちゃんは裏切ったんだ。ボクが怒ったのも当然だって、いまなら解るだろ? ……だけど、許してあげるよ。ボクは優しいからね。それに、雨降って地固まるっていうし、結果的に円香ちゃんと“より親密”になるいいきっかけになったしね」
 首に回された腕が離れ、円香は噎せるようにして呼吸を再開させた。晴夫の手が、再び円香の体を這い始める。
「そんなっ……い、イヤッ……止めて……ください……」
 殆ど思考停止状態になっていた円香は、体をはい回る気色の悪い感触に無理矢理現実へと引き戻された。思い出したように抵抗を始める――が。
「だからぁ、本当にイヤだったら大声出しちゃってもいいって言ってるだろ? ほらほら、出さないならこのままオッパイ触っちゃうよ?」
 そう、晴夫の言うとおりだった。この状況から脱する為には、大声を上げれば済むことだ。――しかし、晴夫の打ち込んだ“楔”が円香に声を出す事を許さなかった。
 布団の中でブラを外され、露出した胸元をこれでもかと晴夫に弄ばれる。そうして胸を触られる事自体も不快だったが、それよりなにより、先ほどから尻に擦りつけられている強ばりのほうが、円香には気色悪くて堪らなかった。
「円香ちゃん、イヤ、イヤって言ってるけど、大声を出さないって事は…………“イヤだけど、イヤじゃない”っていう事なのかい?」
「っっ……違っ……本当に、イヤなんです……お願い、ですから……」
「だぁめ。……ほら、円香ちゃん、こっち向いて」
 円香は顎を掴まれ、無理矢理後ろを振り向かされ、唇を奪われる。
(イヤッ……く、臭いぃぃ……)
 相変わらず、晴夫の口臭は許容域を遙かに超えるものだった。さらにそこに酒臭さが加わり、円香は早くも吐き気を催した。勿論円香が嫌がったからといって、晴夫がキスを止めるわけもない。そのまま執拗に唇を舐められ、舌を吸われ、唾液を流し込まれた。
「あぁもう、円香ちゃんは可愛いなぁ。…………よし、決めた。円香ちゃんはボクのお嫁さんにする!」
「えっ……?」
 この男は何を言っているのだろう――晴夫の突然の言葉に、再度円香の脳内はホワイトアウトした。
「つばめも陽平も円香ちゃんに懐いてるし、円香ちゃんが本物のママになったらきっと喜ぶな、うん」
「ま、待って……下さい……何を……言ってるんですか?」
「ああ、大丈夫だよ、円香ちゃん。最初は少し戸惑うかもしれないけど、すぐに慣れるから。ほら、よく言うだろ? 美人は三日で飽きるけど、ブスは三日で慣れるって。まあ、この場合のブスってのはボクのことだけど。謙虚だろう? ガハハ」
「意味が……」
「それにね、円香ちゃん」
 円香の言葉を無視して、晴夫は続ける。
「女の子っていうのはね。最初は嫌いな男でも、何度も何度も抱かれて、気持ちよくされてるうちに段々好きになっちゃうものなんだよ?」
「何を……言って……」
 晴夫の言動に、円香は恐怖すら覚えた。そんなことが本当にあり得ると本気でこの男は思っているのだろうか。
「い、イヤッ……止めて、止めて下さい!」
 晴夫が布団の中に潜り、円香の胸元へと頭をこすりつけるようにして舐めてくる。生ぬるい舌の感触がする度に、円香は鳥肌を立たせた。あの臭い唾液が自分の体に塗られているのだと思うだけで怖気が走った。
(いっそ――)
 と、円香は悩んだ。晴夫の言うとおり、大声で助けを呼ぼうかと。しかし、そうすれば間違いなくこの惨状をつばめと、陽平に見せる事になる。実の父親のレイプ場面などを目の当たりにして、二人はどれほどショックを受けるだろうか。
(…………見せられ、ない……)
 二人のショックを受ける様など見たくはない。そんな事をすれば、下手をすれば家庭そのものが崩壊してしまうだろう。その引き金になど、円香はなりたくはなかった。そして何よりも――やっと退院が決まったという母の事が、円香の心に楔を打っていた。
 円香は考え、さらに考えて、声を上げようと大きく開けた口を噤んだ。噤み、必死に下唇を噛んだ。
「はぁはぁ……円香ちゃんのマン汁美味しいよ……じゅっ……じゅるっ、んぶぶっ……!」
 思案をしている円香をよそに、晴夫は勝手にパジャマのズボンとショーツを脱がせ、股ぐらをなめ回していた。時折声が出そうになるたびに、両手で口を押さえ、堪えた。
 そう、声は抑える事は出来る――しかし、溢れてくる涙までは、堪えることが出来なかった。



「いやっ……いやっ……お願い、です……それだけは……」
 円香は裸に剥かれ、仰向けに押し倒されながら、最後の抵抗を試みた。
「ダメだよ。円香ちゃん。ボクはもう円香ちゃんを奥さんにするって決めたんだから。……夫婦なら、当然セックスもするだろ?」
 しかし、抵抗の通じる相手ではないことも、円香は薄々理解していた。そんな“諦め”の入ったおざなりな抵抗では、到底犯る気に満ちた♂の行動など止められる筈もなかった。
「イヤッ……イヤぁ! せめて、せめて……ちゃんと、ゴムを、つけて下さい……」
 円香は殆ど泣くようにして懇願した。妊娠の恐怖も勿論あるが、それよりもなにより、あの強烈に臭い晴夫のペニスを受け入れるなど、耐えられなかった。
「ダメだよ。ゴムなんかつけたら気持ちよくないだろ? ほら、円香ちゃん、もっと足を開いて。……自慢じゃないけど、ボクのは太いからね。下手に力いれてると裂けちゃうよ?」
「イヤッ……止めて! イヤッ……嫌ぁぁぁ……!」
 抵抗空しく、秘裂に剛直の先端が宛われ、ゆっくりと埋没してくる。
「ひぃ……!」
 かつて、何度も……何度も味わった、不愉快極まりない、“強姦の味”だった。しかし、不快感は過去に味わったそれの比ではなかった。
「いっ、やっ……止めてっ……汚い……!」
 円香は、暴れた。太いモノが肉を押し広げるようにして入ってくるその感触。あの臭さの素が液状となり、体に染みこんでくるような錯覚――そう、錯覚だと、円香は信じたかった。
「うぉぉっ…………グニュグニュッて蠢いて……や、ばっ……円香ちゃんのマンコ最高だよぉ…………」
 晴夫は円香の顔に臭い息を吐きかけながら、剛直を根本までねじ込んでくる。
「あぁぁ……い、やぁぁ……」
「ふぅふぅ……ヤバいよ、円香ちゃんのナカ……気持ちよすぎだよ……入れただけなのに、おじさんもう出ちゃいそうだよ」
 晴夫は気持ちの悪い猫なで声で呟きながら、円香の顔を舐めるようにキスをしてくる。
「こんなに気持ちいいマンコ持ってるんじゃ、男が群がってくるわけだよぉ……はぁはぁ……円香ちゃん、出すのは勿論ナカでいいよね?」
「っ……! だ、ダメ! 絶対、だめっ……止めて、ナカだけは、絶対に止めて、下さい……!」
「どうして? 危険日だから?」
 ぶよぶよにたるんだ腹を揺らしながら、晴夫は切なげな声を出しながらも腰を使う事を止めない。
「ぁっ……ぅく……はい……だから、ナカには、出さないで、下さい……ンッ……!」
 晴夫のモノは、確かに太く、存在感はたっぷりだった。それでごりごりと肉襞を削るように動かれて、円香は嫌悪感とは別のもので鳥肌が立ちそうになってしまう。
「なら、丁度良いじゃないか……はあふう……はあふう……“既成事実”が出来れば、円香ちゃんも心おきなくボクと結婚する気になるだろ?」
「なっ…………ぁあん!」
 絶句した瞬間、剛直が――恐らくはたまたま――円香の弱い場所を擦り上げた。忽ち円香は腰をハネさせ、思わず甘い声を上げてしまった。
「うん? 円香ちゃんはココがいいのかな?」
「っっ……やっ、止めっ……そこっ、擦らなっ……あっ、あっ、あっ……い、イヤッ……ぁぁっ、あんっ……ダメッ……あぁんっ……!」
 円香の意志など関係なしに、腰が跳ねる。そう、円香自身がどれほど拒絶しようとも、“体”は約二年ぶりの牡性器の挿入を喜んでいるかのように。
「うおっ、おぉっ、ぉぉぉ!? す、スゴいよ……円香ちゃあん……イッた? 今、イッたの? イッたからこんな……ぉおおおおっ、おっ……ダメだって、そんなにされたら……はぁはぁ……出るっ……出るっ、ぅ!」
「やっ……イヤッ……だめっ、だめぇっ……ナカっ……ナカ、はぁっ……やっ……イヤッ……いっっ……〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜ッ!!!!!」
 晴夫が腰の動きを止め、ううぅ、と呻きながら体を震わせた瞬間。円香は全身を襲う怖気に耐えかねるように絶叫した――が、それは済んでのところで晴夫の手によって口元にマクラをおしつけられ、低いうめき声へと変わった。
「うっ、はっ、うううっ……出るっ……出る、よぉ……円香ちゃあん……はあはあ……」
 びゅぐりっ。 
 びゅっ、びゅるっ……。
 晴夫に言われるまでもなく、円香は己の体内に吐き出される牡液の感触に身震いしていた。
(イヤッ……イヤッ……イヤァァァ……!)
 かつて、何度も味わった。強制的に、何度も。その中でも嫌悪感という意味ではダントツだった。
(こんな人の、精子が……私の、ナカに……)
 口元におしつけられたマクラを噛みしめながら、円香は涙を溢れさせた。汚された――と。かつて無いほどに実感した。
「ふひー……ふひー……スゴいよ……円香ちゃん……おじさん、一回の射精でこんなに出した事無いよぉ……はぁはぁ……ほら、解るだろぉ? 腹の中で、おじさんの精子がぴちぴち跳ねながら円香ちゃんの可愛い卵子探してるのが」
「っっっ……! どい、て…………どいて、下さい!」
「ううん? どうしたのかな? 円香ちゃん。トイレかい?」
「しゃ、シャワー……浴びないと……早く、洗い流さないと……」
 円香は殆ど譫言のように良いながら、必死に晴夫を押しのけようとする――が、体重にして円香の倍はあろうかという肉の塊は、円香のか細い腕では微塵も動かす事が出来ない。
「だーめだよ、円香ちゃん。何言ってるの。……それに、“夫婦の夜”はまだまだこれからだろ?」
「ふう……ふ……?」
 まるで初めて耳にする単語のように、円香はオウム返しに呟いた。
「そうだよ。これからたーっぷり円香ちゃんをイかせて、中出しして、おじさんのことを好きで好きで堪らなくしてあげるんだから」
「い、や…………いやっ、いやっ……」
 円香は再び涙を溢れさせながら必死に首を振った。最早、つばめや陽平に対する気遣いも忘れて、絶叫しようとした――それよりも早く、再びマクラが口におしつけられた。


 


 その日から、三日に一度の割合で晴夫が夜這ってくるようになった。
「あぁっ……あぁぁっ……イヤッ……いやぁっ……もう、止めっ……やめ、てぇ……!」
 背後から突き上げられながら、円香はマクラに顔を押しつけるようにして声を押し殺しながらも、それでも叫ばずにはいられなかった。
「んふっふふっ……ダメだよ、円香ちゃん。今夜もたっぷり、活きの良い精子を注入してあげるからね?」
「やっ……やぁぁっ……あぁぁっ!」
 晴夫の動きが止まるのが、イコール射精の合図だった。びゅくり、びゅくりと己の体の中に吐き出される熱い感触に、円香はただただむせび泣くしかなかった。
「ふひぃぃぃ……最高だよ、円香ちゃんの体……ほら、解るだろ? 出したばっかりなのに、もう勃ってるよ?」
 そう、既にこれで三度目の射精だというのに、円香の中に収まったままの晴夫のペニスはいっかな衰えを感じさせない。円香の父と親友ということならば――そして二人が同級生ならば――軽く四十は越えている筈であるのに、この精力は一体どういう事なのだろう。
(ううぅ……いやっぁ……気持ち、わるい……)
 中に出される精液の感触もさることながら、こうして背後から好き放題突かれ、射精と同時に被さられ体を密着されるのが円香は何より嫌だった。ただでさえ汗かきの晴夫は抽送の度に全身から汗を噴き出させ、それが最悪のローションとなって円香の体に降り注ぐのだ。
 にちゃにちゃと、離れる時に糸を引くのではないかという程に気持ちの悪い汗の感触、肩越しにはきかけられる臭い息。抱かれれば抱かれる程に、円香は晴夫に対する嫌悪を募らせた。

 あの日――意識のある状態としては、初めて――晴夫に性的暴行を受けた後、円香は一人の時間を使って父親に電話をかけてみた。電話の向こうから聞こえてきた父親の声は酷く気怠そうであり、鬱陶しそうだった。
 円香は、尋ねた。母親の病状を。或いは、晴夫が言った事は全てデタラメではないかと――そんな希望は、父の言葉によって否定された。
 母の退院が決まったのは事実だった。ならば何故それを自分に教えてくれないのか――そんな言葉をぐっと堪え、円香は訴えた。
 帰りたい――と。父と母の元へ帰りたい。涙すら滲ませながら、そう訴えた。
『今はダメだ。お前の顔を見ると、母さんがまた具合を悪くするかもしれない』
 だが、父の言葉は円香の願いを粉々に打ち砕いた。が、すぐに円香は父の言葉の中に次の希望を見つけた。
 そう、“今はダメだ”――父はそう言ったのだ。即ち、“今”ではなく未来なら――。
『…………そうだな。母さんがもう少し落ち着けば、顔を合わせても大丈夫だろう』
 父は、渋々ながらもそう言った。言質をとったと、円香は思った。
「パパ、私……待ってるから!」
 円香は受話器に食らいつくようにして叫んだ。
「迎えに来てくれるの、ずっと待ってるから!」
 円香は再度叫んだ。しかし、父からの返事はなく、程なく受話器からは不通音だけが響いた。
(パパは……迎えに来てくれる。……きっと、来てくれる!)
 捨てられた等という事はない。ありえない。母の容態さえ良くなれば、きっと迎えに来てくれる筈だ――円香はもう、そこに一縷の望みを託すしかなかった。

 辛い毎日が続いたが、いつか父が迎えに来てくれるという希望が、辛うじて円香の正気をつなぎ止めていた。ふさぎ込む事が多くなったが、そんな円香を一番気遣ってくれたのがつばめだった。
「まどか姉、大丈夫? 最近元気ないけど……」
「そ、そう? 私は大丈夫だよ? そんなことよりつばめちゃん、例の先輩とはどうなったの?」
 夕食の後、洗い物をしていた所をつばめに声をかけられ、円香は慌てて話題をそらした。
「あぁ……うん、そのことなんだけどさ……今度の土曜、デートすることに……なっちゃったんだよね……」
「わぁぁ! 良かったじゃない、つばめちゃん! デートって何処に行くの? お泊まり?」
「なっ……ち、違うよ! 普通に日帰りだって! だいたい初めてのデートで泊まりとかありえねーから!」
「それもそうだね。…………とりあえず今度のデートで仲良くなっておいて、“お泊まり”は来週以降って感じかな?」
 くふくふと、円香は悪戯っぽく笑ってみせる。たちまち、つばめは顔を真っ赤にして湯気を噴いた。
「もぉ! そんなんじゃないってば! ふつーに、友達として一緒に街を歩いたりするだけだって!」
「そうかなぁ? つばめちゃんはそのつもりでも、相手は違うかもしれないよ?」
「や、止めてよ! 本当にそんなんじゃないって…………き、期待なんかしたら、絶対、裏切られるに決まってるんだから…………」
 もじもじと指をつつき合わせるつばめが可愛くて仕方なくて、円香はふふふと微笑みながらその耳元にそっと唇をよせた。
「万が一って事があるよ? 一応“勝負下着”をつけていった方がいいと、私は思うなぁ」
「なっっ…………バカバカ! まどか姉のバカぁ! そんな下着なんか持ってるわけねーだろ!」
 うがーーっ、とつばめは両手をぶんぶん振り回しながら叫ぶと、そのまま逃げるように二階へと上がっていった。円香はそっと目を細めてその後ろ姿を見送り、洗い物を再開させた。
(……うまくいくといいね、つばめちゃん)
 自分にはもう絶対に出来ないであろう“普通の恋愛”をするつばめが、円香には素直に羨ましかった。がんばれ、がんばれと内心エールを送る円香の肩に、ぽむと。不吉を告げる手が乗った。
「円香ちゃん。……今夜、行くからね?」
 はい、と。円香は感情のない声で返事を返した。



 土曜日がきた。
 つばめの気合いは相当なもので、前日には部活を休んで美容院へ行き、さらにデートに着ていく服の組み合わせを円香にまで相談するという念の入れようだった。ただの遊びだから、デートじゃないからと見ていて哀れなほどに連呼し続けるつばめに、円香はもう苦笑しか出来なかった。
「つばめちゃん……巧くやってるかなぁ」
 店番をしながら、円香はつばめの帰宅を楽しみにしていた。不思議と、デートが失敗に終わるという結末は考えなかった。きっとつばめは笑顔で帰ってきて、照れながらも昼間の出来事を話してくれるに違いないと。何の保証もなく、円香はそう信じ切っていた。
 だから、閉店時間が来て、後かたづけをして本宅の方へと上がった後、夕食の支度などをしながらつばめの帰りを待ちわびていた円香は、まさかとっくにつばめが帰ってきている等思いもしなかった。
 玄関にある靴でそのことに気がついた円香は、何事かと二階のつばめの部屋へと向かった。ドアをノックするが、返事はなく、やむなく断ってから部屋の中へと入った。部屋には灯りがついておらず、つばめらしき影がベッドの膨らみという形で辛うじて確認できるのみだった。
「……つばめちゃん?」
 円香はそっと後ろ手にドアを閉めながら部屋の中へと入った。灯りをつけようかと迷って、結局つけなかった。
「……何か、あったの?」
 聞くまでもない。何かがあったに違いないのだ。そうでなければ、あの快活さが取り柄のようなつばめが帰るなり自室にふさぎ込むなど考えられないではないか。
(まさか……)
 円香はつばめのベッドの脇へと座りながら、最悪の予想をしていた。もしかして、つばめも、自分のように男達に――。
「……一人にして」
 それは、円香に向けてというよりは、独り言のような声だった。布団越しでも、涙声だと解る声。
「……わかった。私は何も聞かない。……だけど、私はいつでもつばめちゃんの味方だから」
 “一人になりたい時”の気持ちは、円香には痛いほどに理解できた。今はまだそっとしておいたほうがいいと判断して、円香はそっと腰を上げ、部屋から出て行こうとした。
「…………っっっ……知った風な事を言わないで!」
 その背に、マクラが投げつけられた。驚いて円香が振り返ると、灯りのない室内でもそうと解るほどに、くしゃくしゃに顔を歪めたつばめが睨んでいた。
「全部……全部まどか姉のせいなんだから! まどか姉さえうちに来なかったら……うぅぅ…………ぅぅ……」
「つばめ……ちゃん……?」
 キュッと、円香は己の心臓の当たりを掴むような仕草をする。その辺りがどうにも苦しく、立っていられないほどにやるせなかった。
(そんな……私の……せい?)
 まさか、もしや――心当たりは、いくらでもあった。はぁ、はぁと円香は過呼吸気味に肩を揺らしながらその場に膝を突いた。
「……ごめん、違うの……まどか姉」
 そんな円香に、再びつばめの涙声が届いた。
「今の、嘘……ごめん、本当にごめん、まどか姉……ただの八つ当たりなの、ごめんなさい」
「つばめちゃん……?」
 円香が恐る恐る顔を上げると、つばめはくしゃくしゃの顔のままにぱっ、と笑顔を見せた。
「あはは……ホントにごめんね。いきなり……こんな事言われても、ワケわかんないよね。うん、ちゃんと……順番に話すから」
 つばめは涙を拭いながら、ベッドの端へと座り直した。
「あのね、……あの人ね、まどか姉の事が好きなんだって」
「えっ……」
「あの人はバイトの人なの? 名前は? 年はいくつ? 何処に住んでるの? バイトが休みの日はいつ? 趣味は? 好きな食べ物は? 彼氏はいるの?――って、いっぱい聞かれちゃった。うん……それを聞く為だけに、アタシ……誘われたみたい」
「そんな……」
 ろくに知りもしない相手から寄せられる好意などよりも、その質問を投げかけられた時のつばめの心境を想像して、円香は呼吸が出来ない程に胸が苦しくなった。
「あはは……ほんと、そんなの本人に聞けよバーロー!ってな感じだよね。気ぃ持たせといてそれかよ! みたいな?」
 つばめの笑顔が、痛々しくて円香はとても見ていられなかった。同時に、つばめの気持ちを無責任に煽った自分に対して腹が立った。
「しょうがないよね、まどか姉美人だもん。アタシが男だったら絶対ほっとかないよ。もーホント、一緒に住んでたら毎晩夜這いにいっちゃうかも?」
「……っっ……」
 ただの冗談――それは勿論解っている。解っているが、円香はつい下唇を噛み、それを見られまいとつばめから顔を背けた。
「ねえ、折角だからさ、まどか姉付き合っちゃえば?」
「えっ……」
「ホントホント、お似合いだって! 美形で成績優秀、しかもサッカー部のエースなんだよ、あの人。ファンクラブ出来てるくらいモテる人なんだから!」
「…………。」
 円香は無言で首を振った。
「どうして? ひょっとして、アタシに気を使ってる? いーのいーの、アタシはほら、惚れっぽいからさ。今はちょっと辛いけど……どーせすぐに他の男好きになっちゃうから、気兼ねなんてしなくていいの!」
「気兼ねなんてしてないよ。……彼氏とか、欲しくないの」
「そんな……まどか姉折角美人なのにもったいないよ! もっと人生楽しまなきゃダメだって!」
「ありがとう、つばめちゃん。…………でも、本当にいいの」
 当然、つばめに対する気兼ねもある。あるが、しかし例えそれがなくとも、円香はそのイケメン先輩とやらと付き合う気は毛頭無かった。
(…………好きな人、いるから)
 愛しくて愛しくて、それ故に離れなければならないと思った相手が。……そんな事を言えば、つばめの事だからまたぞろややこしい事になるかもしれないと、まどかは武士の事だけは絶対に口にすまいと決めていた。
「……あーっ……わかった。まどか姉のその目は……“私には本命の人がいるから”っていう目だ!」
「えっ……!?…………どうして解ったの!?」
 円香は、わざと狼狽えたような声で言った。
「解るよぉ、それくらい。こちとら十七年も恋する乙女やってるんだもの。……で、まどか姉の想い人って誰? まどか姉の地元の男の子?」
「ふふ、秘密。つばめちゃんが新しい彼氏捕まえて紹介してくれたら、その時に教えてあげる」
「あ、言ったね? まどか姉。そんな事言うなら、本当にすぐ捕まえてみせるんだから。その時になってやっぱり言わないなんて言ったら許さないからね?」
 そう言って笑うつばめは、すっかり元のつばめだった。
「あー……なんかまどか姉と話してたらスッキリして元気出てきちゃった。………………さっきは本当にごめんね、まどか姉。アレ、本当に八つ当たりだから、気にしないでね?」
「うん、大丈夫だよ、つばめちゃん。……良かった、つばめちゃんが元気になって」
「あはは。アタシってば元気だけが取り柄みたいなトコあるしね。暗い美人より明るいブス、ってね! あっ、暗い美人っていうのはまどか姉の事じゃないよ?」
「……私って、暗い?」
 円香はおどけた口調で、あえて尋ねてみた。
「ちょこ……っとだけね。 暗いっていうか、影がある……みたいな? でも、そこが逆に男共にはウケるんじゃないかなぁ? ほら、あいつらって未亡人とか好きじゃん? あれって夫を失った哀しみを背負ってる女に惹かれるって事なんじゃない?」
「そっかぁ。…………私ってそんなオバサン臭いイメージもたれてたんだ」
 しゅん、と円香は露骨に落ち込むような声を出し、肩を落とす。
「違う違う、未亡人だからってオバサンとは限らないじゃん? アタシが言いたいのはさ、男共は弱さを見せる女に弱いってコト。そういう意味では、まどか姉ってもうスンゴイよ? 目に入った男共の後ろ髪掴んで、ぐぃぃって毛根抜けそうになるくらい引っ張っちゃうレベルだよ?」
「それは……さすがに大げさだよ、つばめちゃん」
「大げさじゃないと思うけどなぁ。うちの親父だって、まどか姉のコト時々やらしー目で見てるよ? まあ見てるだけだから、まどか姉が気にしないならそれでいいんだけどさ。もし万が一なんか変なことされそうになった時は、すぐアタシに言いなよ? ブン殴ってやるからさ」
「…………うん、その時はお願いね、つばめちゃん」
 “変なこと”どころか、三日おきにレイプされ続けている等とつばめが知ったらどうなるだろうか――円香は頭の片隅で考えて、つばめには絶対に知られてはいけないと再確認した。
(……つばめちゃんを巻き込みたくない…………だけど、つばめちゃんが居るから、私……がんばれるんだよ?)
 いつか父が助けに来てくれる――恐らくそれだけでは、とても正気を保てなかったことだろう。つばめがこうして心の清涼剤となってくれるからあのような汚辱にも耐えられるのだと。
「……ねえ、つばめちゃん」
「なぁに? まどか姉」
「これからも……ずっと……ずっと友達でいてね?」
「へ? 何言ってんの、まどか姉。アタシとまどか姉が友達なわけないじゃん」
 ぎょっと。ドン引きするかのようにつばめは上体を引き――そしてころりと笑った。
「アタシ達はもうシンユーっしょ。親しい友、じゃなくて心の友の方ね。まどか姉がただの友達のつもりでも、アタシの方はそのつもりだかんね!?」
「つばめちゃん……」
 ほろりと、円香はつい涙を溢れさせてしまった。
「あぁん、もぉ、まどか姉ってば涙もろすぎなんだから……だけどそこが好き! 結婚して!」
 つばめに抱え上げられるようにしてベッドの上へと持ち上げられ、むぎぅーと円香は抱きしめられた。ぐりぐりと胸元に顔をすりつけてくるつばめを、円香もまた愛しむように抱きしめた。


 つばめの部屋を後にした円香はそのまま着替えを手に、浴室へと向かった。つばめの元気が伝染したのか、珍しく鼻歌などを口ずさみながら湯船に浸かった。
 そんな円香の油断を、悪魔が見逃さなかった。
「やあ、円香ちゃん。ずいぶんと機嫌がいいみたいだね」
 風呂から上がり、体を拭いて着替えた後、脱衣所の洗面台の前で髪を乾かしていると、唐突に晴夫の声が聞こえた。円香は慌てて脱衣所の入り口を振り返り、身構えた。
「そんなにビックリしないでよ。……第一、ちゃんと誓っただろ? “三日に一度の夜しか、手を出さない”って」
 そう、確かのあの夜――事が終わった後、晴夫はそう言った。言ったが、その言葉を鵜呑みにするほど、円香は男の言葉というものを信用していなかった。
「そりゃあ、ボクだって出来ることなら今夜も、そして明日も円香ちゃんを抱きたいよ? だけどさ、メリハリって大事だと思うんだよね」
 晴夫はニヤつきながら、円香の側へと歩み寄り、そっと背後から体をすりつけてくる。
「ひっ……」
「ほら、解るだろ? 今だって円香ちゃんとシたくてシたくてガチガチになっちゃってるんだよ? だけど、我慢してる。……ボクって紳士だろ?」
 晴夫は円香の手を掴み、自分の寝間着用ハーフズボンの上から肥大した股間へと宛った。
「それもこれも、全部円香ちゃんの為なんだよ? 三日かけて、たっぷり精子つくって、、濃いのを全部円香ちゃんの子宮に注ぎ込む為に我慢してるんだから」
 そう、それが――晴夫に対する恐怖の一つだった。この男は、本気で自分を孕ませようとしている――言葉だけではなく、行動でそれを示してきている。それが、円香には恐ろしくて堪らない。
「確か、生理がきてから十日後くらいが一番妊娠しやすいんだよね? あぁ……楽しみだなぁ、円香ちゃん、生理がきたらすぐに教えなきゃだめだよ? 来ない方がもっと嬉しいんだけど……まあ、無理に教えてくれなくてもいいよ。下手な鉄砲数撃ちゃ当たるっていうしね。円香ちゃんが妊娠するまで、何度だって中出ししてあげるから。…………あぁ、早く円香ちゃんに精子注ぎ込みたいなぁ」
 恐怖の余り言葉を無くし、立ちつくしている円香の体を晴夫は背後からまさぐり、まるで愛しむようにその腹部をなで回してくる。なで回しながら、うなじのあたりに舌を這わせ、さらにまだ濡れている髪をもしゃもしゃと――草を食べる牛のように――噛んでくる。それをあと五秒ほども続けられていたら、円香は恐怖と嫌悪感の余り発狂していたかもしれなかった。
 が、幸か不幸か、それよりも早く晴夫は離れ、脱衣所から出て行った。円香はぶるりっ、と怖気に体を震わせ、再び脱衣すると浴室に戻り、念入りに体を洗い直した。
「…………っっっ…………!」
 気分が台無し――それどころの話ではなかった。つばめとのやりとりで、たとえ一瞬でも自分が平穏無事な生活の中に居るのだと錯覚出来ていた矢先。例えるならば海で泳いでいた所をいきなり両足を掴まれ、深海へと引きずり込まれたような気分だった。
(……でも、まだ……耐えられる)
 三日おきに体を求められるのは、正直辛い。辛いが、言い換えればそれはただ体を求められているだけだ。
(もっと……酷い目にだって……遭った……)
 大丈夫、耐えられる。耐えられる筈だと、円香は自分を励ますように言い聞かせた。
(……それに、“奥の手”もある)
 今一番気をつけなければならないのは、それを晴夫に知られないコトだ。その為には、晴夫とのセックスを心底嫌がっているように見せかける必要があった。それは、実際問題として晴夫に抱かれることが死にたくなる程に辛い円香にとって、演技の必要もないことだった。
 
 円香は再度湯船に浸かり直そうとして、はたと。体の動きを止めた。
 そう、今までは――さほどには気にしていなかった。居候の身である円香は、よほどのことがない限りは一番風呂になどは入らない。だいたいは居候の円香が最後に入る。ということは、自分は晴夫が浸かった後の湯に浸かっているのだと、円香は身震いしながら気がついた。
(イヤッ……!)
 全身を包む悪寒に耐えられなくて、円香は三度体を洗った。洗いながら、もう二度と湯船は使うまいと心に決めた。必ずシャワーだけで済ませようと。そういえば、晴夫が先に風呂に入った時のつばめの入浴時はいつもシャワーの音が聞こえていたと、円香はそんな事を思い出しながら、浴室を後にした。
 体を拭きながら、まさかまた晴夫が来やしないかと脱衣所の入り口へと横目を這わせていると、不意に小さな影がちらりと姿を現した。
「…………まどかお姉ちゃん。ちょっと……いい?」
 脱衣所から、体半分ほど覗かせて控えめに声をかけてくる陽平に、円香は躊躇いながらも笑顔を返した。



 晴夫に比べて、陽平の方は“空気を読む”という事に長けているのではないかと、円香は思う。何故ならば、口で言わなくとも、なんとなく自分が陽平と一緒の入浴を避けている事を察してくれたからだ。
 そう、最近はもう全く一緒に風呂に入りたい等と我が儘を言わなくなっていた。そのせいだろうか。一時期は爬虫類かなにかのように気味悪く思えた陽平が、再び以前のように愛くるしい弟のように見えるようになっていた。
 そんな陽平が、話があるという。これは是非聞いてやらねばと円香は自分の置かれている状況も忘れて――或いは、一時的にでも忘れてしまいたくて――陽平の部屋へと出向いた。
 陽平の部屋は、つばめの部屋とまったく同じ大きさと間取りで、ベッドと机の大きさまで同じだった。違うのは“それ以外”であり、高二らしく壁には好きな男性アイドルのポスター、本棚には参考書類が少しと少女コミックが並んでいるつばめに対し、陽平の部屋はプラモデルや低年齢向けの漫画本に溢れていた。
「それで、話ってなぁに?」
 円香は陽平と並んでベッドへと腰掛け、精一杯の笑顔でそう尋ねた。少しでも気を抜けば涙を零してしまいそうな現状にあって、こうして陽平と二人きりの時間を持ち、相談にのってやれる事自体、円香にとっては心の清涼剤のようなものだった。
 だから。
「あのね、お姉ちゃん……僕、見ちゃったんだ」
 陽平がそんな呟きを漏らしたとき、円香は思わず笑顔を作るのを忘れてしまった。
「見た……って、何を……見たの?」
「…………パパと、お姉ちゃんが…………せっくすしてるところ」
 冷たい手で心臓を掴まれたような気分だった。円香は、慌てて作り笑いを浮かべた。
「あは……あはは……それは、寝ぼけて夢でも見たんじゃないかな?」
 円香は精一杯惚けてみせたが、陽平は深刻そうな顔をしたまま、ゆっくりと首を振った。
「見たの、一度だけじゃないんだ。昨日と、その前の、前の前の日も……夜、おしっこしたくなって、一階に下りたときに……」
「っっ…………」
 ダメだ、誤魔化しきれない――円香は咄嗟に肩を抱き、唇を噛んだ。よりにもよって、陽平に見られていたなんて。
「いつも、イヤッ、イヤッって……お姉ちゃん嫌がってるのに、パパが、無理矢理……」
「ち、違うの……陽平くん……あれは……」
 フォローを入れようとして、円香は言葉を詰まらせた。一体、なんと言えばいいのだろう。お前の父親はレイプ魔だ――などと、“真実”を言えるわけもない。まだ十才にもなっていない少年にそんな現実を突きつければ、一体どうなってしまうのか、円香は想像するのも恐ろしかった。
(だからって……)
 実はお姉ちゃんとパパは好き合っていて、合意の上でエッチしてるんだよ?――そんな事をいけしゃあしゃあと言う図抜けさも、円香は持ち合わせていなかった。
「僕、つばめお姉ちゃんに相談しようかと思ったんだけど…………」
「っっっ…………だ、ダメ! つばめちゃんには、絶対何も言っちゃだめ!」
「どうして? お姉ちゃん、パパに苛められてるんじゃないの?」
「違うの。苛められてるわけじゃないの……だから、とにかく誰にも、何も言っちゃダメ」
 つばめにまで知られたら、間違いなく大事になる。両親にも、きっと連絡が行く。それだけは――避けなければならない。
「………………つばめ姉ちゃんに言ったら、まどかお姉ちゃん困るの?」
 きらりと。一瞬――陽平の目が怪しい光を放ったように、円香は感じた。気のせいだと、最初は思った。
「そう、困るの。……だから、まどかお姉ちゃんと二人だけの内緒だよ?」
 円香は人差し指を立てて、悪戯っぽく微笑んで見せた。――だが、陽平が返してきた微笑みは、到底小学校低学年とは思えないような、下卑た笑みだった。
「……………………だったらさ、おっぱい触らせてよ」
「えっ……」
 始め、聞き違いかと思った。あの愛くるしい陽平の口から、まさかそんな言葉が飛び出してくる等と夢にも思わなかったからだ。
「ねえ、いいでしょ? つばめ姉ちゃんには何も言わないから、おっぱい触らせてよ!」
「よ……陽平、くん?」
「おっぱい触らせてよ! ねえ! 触らせてくれなきゃ、お姉ちゃんに言っちゃうよ? まどかお姉ちゃんがパパとせっくすしてるって」
 あぁ――と。円香は全身から血の気が引くのを感じた。同時に、納得もした。親が親なら、子も子なのだなと。
「……陽平くん、そんな事言っちゃダメ。人の弱みにつけ込んで我が儘を言うのは人間として最低な事なんだよ?」
 これは、厳しく叱らねばダメだと、円香は思った。晴夫は最早手遅れだとしても、まだ幼い陽平ならば――。
「…………じゃあ、いいの? つばめ姉ちゃんに全部言っちゃうよ?」
 およそ、九歳児とは思えない笑い方だった。円香はゾクリと背筋が震えた。
「よ、陽平くん、そんな事言っちゃダメ。……そういう事言ってたら、いつか警察に捕まっちゃうよ?」
「別に捕まってもいいよ。僕まだ“みせーねん”だから捕まっても大丈夫だし」
「…………未成年がどういう意味なのか、ちゃんと解ってるの?」
「解ってるよ。警察に捕まっても大丈夫って意味でしょ?」
 ニヤニヤと笑いながら、陽平は早くも円香の胸元へと手を伸ばしてくる。
「……ダメ」
 円香はその手を払う。が、陽平はしつこく手を伸ばしてくる。
「触らせてよ。……触らせてくれなきゃ、ホントのホントにつばめ姉ちゃんに言うよ?」
「……っ……」
 陽平の手が、パジャマの上から胸元を捉える。そのまま、もぎゅもぎゅと揉み始める。円香はもう、その手を払わなかった。
「まどかお姉ちゃん。服が邪魔だよ」
「…………。」
「服、脱いでよ。早く」
 円香は仕方なくパジャマのボタンを外し、ブラのホックも外して上へとずらした。
「アハッ」
 陽平はここぞとばかりに子供のような声を出し、円香の胸元に飛びつくようにしてむしゃぶりついてくる。
「……っ……」
 ちゅば、ちゅばと胸を吸われながら、円香は嫌悪感に打ち震えていた。晴夫に体を触られる事に比べれば遙かにマシではあったが、それでも嫌なことには代わりがない。
(やっぱり……爬虫類、だ)
 こんな悪魔の事を、なぜ可愛いなどと思ってしまったのだろう。自分はつくづく男を見る目がないと、円香は自嘲の笑みすら浮かべた。
 陽平はそのまま、夢中になって円香の胸を触り続けた。揉み、吸い、時には噛み――それは子犬がじゃれつくような無邪気さのある行為だったが、パンパンに膨れあがっているパジャマズボンの膨らみのせいで、円香にはとても可愛げなどは感じられなかった。
「ねぇ、まどかお姉ちゃん……せっくすって気持ちいいの?」
 三十分ほど胸を触りつづけた後、不意に陽平がそんな言葉を漏らした。
「…………。」
「ねえ、気持ちいいの?」
「…………。」
「ねえってば!」
「……ッ痛っ……!」
 キュッ、と乳首を抓られて、円香は陽平を無視できなくなった。
「……知らない」
 それでも、このミニ晴夫とまともに言葉を交わしたくなくて、円香は突っ慳貪に呟いた。
「気持ちいいんでしょ? だから、パパはお姉ちゃんとせっくすするんでしょ?」
「知らない! 気持ちよくなんかない!」
 円香は、叫ぶように言った。そう、気持ちよくなんかない。むしろ、その真逆だと。体に触れられるたびに死にたくなる程の苦痛を感じると言ってやりたかった。
「…………僕もしたいなぁ、せっくす」
 陽平の呟きに、円香は思わず目を見開いた。
(……何を、言ってるの?)
 つい、そう漏らしてしまいそうになった。この子は、本当に小学生なのだろうかと。
「ねえ、おねえちゃん……僕にもさせてよ、せっくす」
「ッッ……絶対に、嫌」
「いいでしょ? せっくすすると女の人も気持ちいいんでしょ? この前江口くんに見せてもらったえっちな本に書いてあったよ?」
「っっっ……とにかくダメ! おっぱいももう終わり!」
 円香は強引に陽平の手を払い、衣類をただした。――途端、ゾッとするほど暗い目で、陽平に睨まれた。
「お姉ちゃん。言うこときいてくれないと、僕何するかわからないよ?」
 なんて目をするのだろう――円香は、素直に怯えた。これが、“晴夫の血”なのだろうか。
「ねえ、せっくすさせてよ、ねえ!」
「ダメッ……」
 しつこく体にまとわりついてくる陽平に辟易しながらも、円香は気持ちが挫けそうになるのを感じていた。かつて、このように強引に迫られて、拒みきれた事があったか――いや、無かった筈だと、円香の中に奇妙な諦めが生まれ始めていた。
(…………っ……そんなの、絶対に、嫌……)
 相手は、小学生ではないか。いざとなれば力ずくで逃げてしまえば――。
(でも……そうしたら、何をされるか……)
 その先を想像して、円香は震えた。かつて受けた“男達の報復”によって、円香は故郷に住めなくされた。あの時の恐怖が骨身に染み、おいそれとは忘れられないのだ。
 だったら、いっそ――。
「…………ねえ、陽平くん」
 円香は、意を決した。
「じゃあ、セックスより気持ちいいこと、お姉ちゃんがしてあげる」
「……せっくすより、気持ちいいこと?」
 円香は頷き、そっとベッドから降りた。陽平の前に跪き、慣れた手つきで陽平のズボンを下ろし、ガチガチに勃起してしまってる――しかしまだ未成熟な――ペニスにそっと舌を這わせた。
「あっ……!」
 と、陽平は途端に女の子のような声を上げた。円香はさらに舌を這わせ、程なくぬぷりと唇全体で包み込むようにしてペニスをくわえ込んだ。
「うっ、ぁっ、ぁっ……あぁっ、あ!」
 つぷ、つぷと微かに音を立てながら円香が頭を前後させると、堪りかねたように陽平の手が乗ってきた。
「だ、ダメッ……お姉ちゃん……なんか、ゾワゾワってきて……何か、熱いのが……く、来るっよぉ……!」
「っ……!」
 ビクンと陽平が大きく体を揺らした瞬間、円香の口に苦いものが溢れた。陽平は再度体を跳ねさせ、びゅくりっ、と。二度にわたって吐き出されたそれを、円香はそっとティッシュを手に取り、そこに吐き出した。
「はーっ……はーっ……はーっ……はーっ…………」
 荒く息を吐きながら、陽平はそのままぐったりとベッドに倒れ込んだ。円香は陽平の下半身の衣類をただしてやって、再びその隣へと腰を下ろした。
「……ね、良かったでしょ?」
 そして、妖女のように笑った。陽平はうつろな目をしたまま、こくりと頷いた。
「陽平くんがこの先、ちゃんと良い子にしてたら、またしてあげる。…………けど、もしまた我が儘を言ったり、私を困らせるような事をしたらもう二度としてあげないから。…………解った?」
 呼吸を整えながら、陽平はこくりと頷いた。円香もまた頷き、陽平の部屋を後にした。
 洗面台へと行き、何度も何度もうがいをしながら考えた。これで、本当によかったのかと。
(…………ううん、ああしないと……また……)
 ぶるりと体が震え、円香は思わず肩を抱いた。ひょっとしたら、自分は越えてはならない一線を越えてしまったのではないか――そんな形の見えない恐怖に怯えながら、円香はその場に膝から崩れ落ちた。


 円香の目論見は外れた――そう言ってよかった。
「ねぇ、お姉ちゃん……また、アレしてよぉ」
 大人しくなるかと思った陽平の行動は、日増しに目に余るようになっていた。日常生活の中、何かと円香と二人きりになるチャンスを利用しては、パンパンに膨らんだ股間を円香の足にすり当てながら“おねだり”をしてくるのだ。
「…………ダメ。良い子にしてないとしてあげないって言ったでしょ」
「僕、ちゃんと良い子にしてるよ? 嫌いなピーマンだってちゃんと食べたし、にんじんだって残さなかったよ? だから、ねぇ……お姉ちゃあん」
「ダメったらダメ! そうやってお姉ちゃんを困らせてる間は、絶対にしてあげない」
 夕食の後、晴夫が晩酌。つばめが風呂に入ってる間隙を縫って、陽平は洗い物をしている円香の元へと“おねだり”をしにくるのが通例だった。
 無論、円香は首を縦に振ったりはしない。
「お姉ちゃあん……おちんちんがパンパンになって苦しいよぉ……」
 陽平は殆ど哀願するように円香の足に股間をすりつけてくる。最初はこんな子ではなかった――という思いと、ひょっとしたら自分のせいでこうなってしまったのだろうかという思いで、円香は俄に揺れた。
「…………男の子は誰でもそうなるの。だけど普通は…………オナニーをして、自分で性欲を発散するの。だから、陽平くんも自分でしなさい」
「オナニーって何? どうするの?」
「それは……」
 円香は、俄に口ごもった。女の自分が、男のオナニーの事など詳しいわけないではないか。
「じ、自分で……おちんちん触ってたら、気持ちよくなってくるでしょ? それを、続ければいいの」
「自分でなんて、そんなのヤダよぉ……僕、お姉ちゃんに気持ちよくして欲しい……」
「言うこと聞かない子にはしてあげないって言ってるでしょ。……ほら、もう洗い物終わったから、離れて」
 弱気に出てはいけない。自分の方が遙かに年上なのだから――円香は半ば陽平を払いのけるようにして強引に台所を後にし、つばめと入れ替わりに風呂へと入った。幸い、晴夫が風呂前に晩酌を始めてしまった為、円香は心おきなく湯船を使う事が出来た。
「……おねえちゃあん」
 湯に浸かっていると、不意に陽平の声が聞こえて、円香は脱衣所の方へと目をやった。曇りガラスの向こうに見える姿は、間違いなく陽平のものだった。
「一緒に入ってもいい?」
「ダメ。絶対にダメだからね。もし入ってきたら、二度としてあげないから」
 円香は恫喝するように言って、言いながら自己嫌悪した。これでは、やってることは晴夫と同じではないのか。相手の弱みをエサに、自分の我を通す――。
(……ううん、違う筈……だってこれは、自衛の為に――)
 陽平が、それこそ飢えた獣のように迫ってこなければ、こんな事を言う必要もないのだ。
(……それに、きちんとしかり続ければ、いつかきっと解ってくれる)
 完全に手遅れとなってしまっている晴夫とは違い、陽平は未だ九才なのだから。この先いくらでも変われるはずだと――円香は思っていた。

 風呂からあがり、晴夫達の就寝の時間に合わせて、円香はこっそりと脱衣所で薬を飲んだ。いつもの睡眠導入剤だった。晴夫に襲われると解ってからしばらくは服用を止めていたが、やはりそれなしではろくに眠れず、日常生活に支障を来し始めてから再度飲むようになった。
 といっても、晴夫が夜這ってくる夜には勿論飲まない。飲むのはあくまで夜這いが無い日のみだ。それも、飲んでいる事がバレぬ様、薬も隠し飲む所も見せないようにしていた。そうでなければ、意識が無いのを良いことに晴夫に何をされるか解らないからだ。
「……おねえちゃん」
 だから、薬を飲んだ瞬間、陽平に声をかけられたとき円香は反射的にしまった、と思った。
「……? お薬飲んでるの?」
「……生理痛のお薬よ。どうしたの?」
 また、例の“おねだり”かと、円香は辟易しながらも尋ね返した。
「…………その、お姉ちゃんに……謝ろうと思って」
 だから、陽平がしゅんと下を向いたままそんな事を言った時、円香は少しばかり驚きを隠せなかった。
「今までいっぱい我が儘言ってごめんなさい」
「……解ってくれたならいいの」
 円香は陽平の前にかがみ込み、そっと頭を撫でた。出来ることなら「お父さんみたいになっちゃダメよ?」と一言付け加えてやりたかったが、そこはぐっと我慢した。
「……ねえ、お姉ちゃん。折り紙好き?」
「折り紙?」
 突然何を言い出すのだろうと、円香は首を傾げた。
「あのね、今日学校で……明日“せんばづる”っていうのを作るから、一人十個ずつ折り紙の鶴を持ってきなさいって、先生に言われたの」
「千羽鶴……」
「それでね、家に折り紙があったから自分で折ろうとしたんだけど、巧くできなくて……パパもつばめお姉ちゃんも鶴の折り方が解らないって言うから、まどかお姉ちゃんなら知ってるかなぁ、って」
「折り方は……知ってる、けど……」
 くらりと、頭が重くなるのを感じながら、円香は譫言のように呟いた。早く布団に入らなければ――と思う。
「お願い、お姉ちゃん! 今すぐ教えてくれないと、明日学校に持っていけなくなっちゃうよ!」
「でも……今から折り紙の鶴十羽なんて……」
 それまで、とても意識が持つとは円香には思えなかった。明日の朝、早起きして手伝ってあげる――そう言おうとした矢先。
「大丈夫だよ、一個だけ折ってくれたら、あとはそれを真似して自分で折るから。だからお姉ちゃん、一個だけ折って?」
「一羽、だけなら……」
 ぐらり、ぐらりと揺れる頭を支えるように手を当てながら、円香は陽平に導かれるままに二階の陽平の部屋へと入っていく。猛烈な眠気に思考力の大半を奪われ、とにもかくにも陽平の言葉の通り一羽の鶴を折ってさっさと布団に入りたいと、そのことしか考えられなくなる。
 円香は陽平の勉強机に座り、目の前に置かれた折り紙をつかって半ば舟を漕ぎながら一羽の鶴を折った。
「ほら、こうして……折るのよ」
「……お姉ちゃん、よく分からなかったからもう一個作ってよ」
「もう一羽……は……ダメ、もう、眠いから……明日……」
 椅子から腰を上げ、部屋を後にしようとした矢先、円香は突然腕を強く引かれ、ベッドの上へと倒れ込んだ。
「ちょっと……何を……」
「鶴を折ってよ」
「だから、それは……」
 明日のあさ――と、円香は掠れるような声で言った。否、言ったつもりだったが、それは声にはならなかった。
(ダメ……眠……い…………)
 まるで気絶でもするかのように、円香は眠りの谷へと落ちていった。

 地震かな、と。円香は覚醒し始めた意識の中で、そんな事を思った。
 体が揺れていたのだ。上下に――否、それは正しい表現ではない。確かに、立っている時ならば“上下”で合っているだろうが、今自分は横になっている。ならば前後に、と言うのが正しいのかといえば、何やらそれも正しくないように思えて、円香は微かに笑みを浮かべてしまった。
「あれ、お姉ちゃん起きたの?」
 声が、聞こえた。あぁ、これは陽平の声だと、まだ薄ぼんやりとした頭で円香は理解した。うっすらと瞼を開けると、目の前に陽平の顔があった。どういうわけか、陽平は服を着ていなかった。
(えっ……あれ……)
 徐々に、意識が覚醒してく中で、円香は知った。裸なのは陽平だけではない、自分もだと。その上で、下腹の辺りになにか違和感を感じた。――そう、まるで異物でも入っているかのような――。
「はぁはぁ……待っててね、お姉ちゃん……僕、もうすぐ……イくから……うぅっ、ぅ……」
「っっ!? やっ、ちょ……何、して……」
 びゅるっ、と。なま暖かいものが体内に出された瞬間、円香の意識は完全に覚醒した。
(えっ、嘘っ……でしょ……)
 がばっ、と体を起こして、唖然とした。自分の下半身に入っているのは、紛れもない――陽平の勃起したペニスだったからだ。
「はぁっ……はぁっ…………ごめんね、お姉ちゃん。僕、どうしても我慢できなくって」
 愕然として固まる円香の体に、陽平はぎゅうっ、と抱きつくようにして密着してくる。
「僕、知ってたんだ。お姉ちゃんが、眠くなるお薬飲んでる事。……だから、こうすればお姉ちゃんとせっくす出来るって思って――」
 パンッ、と。円香は陽平が喋り終わるよりも先にその頬を打っていた。
「自分が――……」
 思わず、涙が溢れた。
「自分が、何をしたか……解ってる、の?」
「わかってるよ、せっくすでしょ?」
 陽平は赤く晴れた頬をさすりながら、けろりと言った。
「お姉ちゃんのおまんこ、すっごく気持ちよかったよ。ふぇらちおしてもらうより、ずっと気持ちよくって、僕何回もシャセイしちゃったよ」
「っっ……」
 円香はハッとして、己の股間の辺りへと目をやった。避妊をした形跡など、全くなかった。
(そんな……っ……)
 今まで味わったショックとは全く別のものに、円香は殆ど思考停止状態になった。よりにもよって、年端もいかない――それも、小学生にレイプされるなんて。一体どう受け止めて良いのかまったくわからなかった。
 完全に固まってしまった円香をよそに、陽平は邪鬼のような笑みを浮かべ、言った。
「まどかお姉ちゃん。これからは……お姉ちゃんが僕の言うことを聞く番だよ?」
 陽平の言葉の意味が理解できなくて、円香は瞳だけで、陽平を見た。
「お姉ちゃん、覚えてる? 去年のクリスマス、僕がデジタルカメラ買って貰ったのを。…………お姉ちゃんが寝てる間に、アレでいーーーっぱい、お姉ちゃんのいやらしい写真撮ったよ」
 そう、確かに――陽平は晴夫にデジカメを買ってもらっていた。円香はゆっくりとそのことを思い出し、少しずつ、少しずつ自体を把握し始めた。
「おまんこの写真も、お尻の写真もいっぱい撮ったよ。指で広げて、中までちゃんと見えるようにしたのをね」
「どこ…………デジカメ、どこ……?」
 それは詰問というよりは、悲鳴に近い声だった。にぃと、陽平は口元を歪めて笑った。
「隠したよ。お姉ちゃんには絶対解らないところに」
「っっ……」
「江口くんに借りた本に載ってたよ。そうすると女の人は“ニクドレイ”になるんだって。何でも言うこと聞いてくれるんだって」
 陽平はベッドの下から一冊の本を取り出し、円香に表紙を見せた。それは、何処にでもありそうなありふれた成年漫画誌に、円香には見えた。
「円香お姉ちゃんは、今日から僕の“ニクドレイ”だよ」
 蛇のように舌を出しながら体を触ってくる小悪魔に対して、円香はもうかける言葉がなかった。
(夢よ……これは夢、悪い、夢……)
 再び陽平の手によってベッドに体を押し倒されながら、円香は祈るように念じ続けた。


 表面上は、“いつもの日常”が続いた。
 その実、二人の陵辱者は互いに相手の目を盗むようにして、円香の体を求めてきた。
 円香はもう、睡眠導入剤を服用する事を止めた。寝ている間に何をされるかわからないからだ。
 尤も、意識があったからといって結局逆らうことなど出来ないのだから、大した違いは無かった。それでも、せめて自分がされている事くらいは把握しておきたかった。
 薬無しでは夜はまともに眠れなかった。皮肉なことに、円香にとって一番安心出来、眠気を誘うのが衆目に晒されている昼間の店番時だった。うつらうつらと、幾度となく眠り込んでは、困った顔の客に肩を揺さぶられて飛び起きる――そんな事が多々あった。それでなくとも、慢性的な寝不足のため円香は常時半分寝ているような状態だった。或いはそれは、体の方が心まで壊れてしまわないようにと、無意識のうちにそうし向けたのかもしれなかった。
 そうでなければ、およそ正気を保つことなど、出来なかったかもしれない。

「お姉ちゃん、今日は友達が遊びに来るから、あとでお菓子とジュース持ってきてね」
 土曜日、晴夫が珍しく店を閉めて朝早くから出かけた日の事だった。材料の仕入れだか取引先からの呼び出しだかの理由を昨晩布団の中で聞かされたような気がしたが、詳しいことは何も思い出せなかった。
「……うん」
 円香は居間のテーブルの前で呆然とテレビを見ながら――円香の目はテレビの方を向いてはいたが、その瞳には何も映っていなかった――人形のように返事を返した。
 今日は、つばめも朝から友人と出かけると言っていた。だからてっきり陽平が手を出してくると予想していただけに、友達が来るというのは少々予想外だった。
(ううん、安心なんかしないほうがいい……。どうせ、その友達が帰ったら……)
 陽平の部屋へと連れ込まれ、体を要求されるのだ。そうに決まってる――円香は自分の未来に対して希望的観測を持たない事で、後に受ける苦痛を少しでも軽減しようとした。
 約一時間後、玄関の方が俄に騒がしくなり、どたどたと足音が二階の陽平の部屋へと上がっていった。円香はうとうとしながらその足音を聞き、十五分ほどうたた寝した後、思い出したように腰を上げた。
(お菓子……持って行かなきゃ……)
 “怖い御主人サマ”の言いつけだと、自嘲の笑みをもらしながら円香は盆にお菓子と、二人分のコップにジュースを注いで二階へと上がった。
「陽平くん、入るよ?」
 コンコンとノックをして、円香は陽平のドアを開けた。その瞬間、しまった、と思った。
「あっ、おじゃましてます」
「おじゃましてます」
 やや垢抜けた感じの男の子と、同じく小学校三年生にしては随分おしゃれな格好をした女の子の計二人がぺこり、と円香に頭を下げてきた。
(友達って、二人だったんだ)
 陽平も含めれば三人だ。コップが二つでは足りない――慌てて引き返そうとした円香を、陽平の声が止めた。
「いいよ、お姉ちゃん。僕飲まないから、二つで」
「でも……」
「いいから、お姉ちゃんもこっち来て座りなよ」
 二人に紹介するから――そう言って手招きする陽平に逆らいきれずに、円香は渋々部屋の中へと入り、二人の前の折りたたみ式の簡易テーブルの上に盆を置き、陽平と同じように並んでベッドの端へと座った。
「まどかお姉ちゃんだよ。イソーローなんだ」
「……初めまして、佐々木円香です」
「初めまして! オレ、江口大祐です」
「……水藤美紀です」
 ああ、この子が例の“江口くん”かと。円香はつい値踏みをするような目で大祐を見てしまった。スポーツ刈りが少し伸びたような髪型に、目鼻立ちは明らかに陽平のそれよりも勝っていた。きっと女の子にモテるんだろうなと、円香はそういう印象を持った。
 そんな円香の視線を受けて、大祐は照れるように笑い、顔を赤らめながら身を捩った。
「大祐くん!」
 すかさず、隣に座っている美紀がぐいと肘で大祐の脇腹をつつく。成る程、二人はそういう仲なのかと、円香は密かに納得した。
(……お似合いの仲だね)
 美紀もまた、小学生にしてはずいぶんと垢抜けているようにみえた。髪は背中辺りまで伸ばしていて、手入れもよほど入念にしているのか思わず手を伸ばしてみたくなるほどにさらさらだった。
 服も、テレビに出てくる子役アイドルのように洒落ている。ゴスロリ調のシャツにスカートが色白の肌に良く似合っていた。
「ミキちゃんは大ちゃんの彼女なんだよ」
 成る程、友達の前では“江口くん”じゃなくて大ちゃんなのかと。“友達”の前では年相応な陽平に、円香は鼻で笑いたくなった。
 ――否。“笑っていられるのもそこまでだった”と、言い換えるべきかもしれない。
「でもね、円香お姉ちゃんは僕のドレイなんだ」
 なっ、と。円香は始め、自分の耳を疑った。
「僕の言うことなんでも聞いてくれるんだよ?」
 陽平の言葉に、その場にいた全員が固まっていた。ハハハ、と乾いた笑い声を漏らしたのは、大祐だった。
「なっ……バーカ、何言ってんだよ。こんな綺麗なおねーさんが、そんなワケないだろ?」
「本当だよ? 前に大ちゃんから借りた本の通りにして、ドレイにしたんだ」
「ちょ、ちょっと……陽平くん!」
 円香は可能ならば、今すぐ陽平の口を塞いでしまいたかった。しかし、夜な夜な陽平に痛め付けられた心が、陽平に対して逆らう事に二の足を踏ませた。
「信じられないなら、証拠見せてやるよ。……………………お姉ちゃん、服、脱いで」
「っっっ……!」
 びくりと、体が震えた。二人の客の目が、陽平から自分の方へと集中するのを感じていた。
「やっ――」
 円香は、舌がもつれそうになるのを懸命に防ぎ、戯けた口調で続けた。
「やだなぁ、もう! 陽平くんったら、二人とも引いちゃってるじゃない。……この間はトランプで負けたから、陽平くんの我が儘少し聞いてあげただけだよ? 陽平くんの分のジュース忘れたからって、こういう風に仕返しするの、お姉さんは良くないと思うなぁ?」
 円香はさりげなく立ち上がり、すぐにジュース持ってくるね、と言い残して部屋から出ようとした。――その背に、「待ってよ」と、陽平の言葉が突き刺さる。
「何処に行くの、お姉ちゃん。部屋から出ていいなんて言ってないよ」
「よ、陽平……くん……」
「言うとおりにしてくれなきゃ、デジカメで撮ったお姉ちゃんの写真、みんなに見せちゃうよ」
「ちょ、ちょっと……」
「それに、“あのこと”もぜーんぶつばめお姉ちゃんにバラしちゃうよ? それでもいいの?」
「っ……」
「ほら、お姉ちゃん。こっちに戻ってきて」
 戻ってはダメだと、円香は思った。逃げなければならないと。そう、解っているのに――。
「そうそう、お姉ちゃんは僕のドレイなんだから言うこと聞かないとね」
 円香は、陽平の隣へと座ってしまった。二人の客が、凍り付いたまま、瞬きもせずに円香の方を見ていた。
「じゃあ、早速服を脱いでよ、お姉ちゃん」
 円香は、ゆっくりとカーディガンに手をかけた。



「うわっ……すっげ……おっぱいデケー……」
「うわぁ……」
 陽平の言葉のままに円香は一枚ずつ衣類を脱ぎ、下着だけの姿になるや、二人の客が驚いたように声を上げる。
「お母さんより大きい……」
 そんな言葉まで漏らしたのは美紀の方だった。二人とも、最初こそ互いに戸惑うように目を合わせ、盗み見るように円香の脱衣を見ていたが、下着だけの姿になるやすっかり好奇心の虜になっていた。
「お姉ちゃん、ブラジャーも外して」
「……っ……」
 陽平の言葉に、円香は逆らうことが出来ない。唇を噛みながら、円香はベッドへと腰掛けると背中へと手を伸ばし、ホックを外す。
「うわっ」
「うわぁ……」
 ブラを外し、取り去るなりまたしてもそんな声が挙がり、円香は思わず両手で胸元を隠してしまった。
「隠しちゃダメだよ」
 “命令”を受けて、円香はゆっくりと手を下ろしていく。うわぁ、とまたしても声を上げたのは大祐の方だった。
「す……っげぇ…………本物のオッパイだ……」
「大ちゃん、触りたい?」
 陽平の言葉に、円香と大祐が同時に陽平の方を見た。
「大ちゃんならいいよ。いつもいろんな本見せてくれたり、ビデオ見せてくれたりしたから。そのお礼だよ」
「いや……でも……」
 さすがに触る事には抵抗があるのか、大祐は円香の胸と陽平とを交互に見ながら戸惑っていた。
「ちょ、ちょっと……もう、止めようよ…………お姉さん嫌がってるよ?」
 それは“良識”から導き出された言葉なのか、それとも目の前で彼氏が他の女に誘惑されている事に対する反感だったのか。
 しかし、どちらにせよ結果は同じだろうと、円香は思った。
「……マジで、触っていいのか?」
「ちょっと、大祐くん!」
「うるせえよ。……文句あるなら帰れよ」
 まるで、突然人格が変わってしまったような荒々しい声だった。ふぅふぅと荒々しい息を吐きながら、大祐はぎろりと“彼女”を睨み付けた。
「だ……大祐、くん?」
「……陽平、ホントに良いんだな?」
「いいよ」
 即答だった。円香の目にも、眼前の大祐がごくりと唾を飲むのが解った。
 小さな手が、ゆっくりと伸びてくる。そのまま、大祐の手がまるで埋没するように、円香の胸に触れた。
「……んっ……」
 どうやら、中途半端に知識だけは豊富らしい。陽平と違い、大祐は愛撫の基本のようなものを心得ていた。両手で優しく、まるで円を描くように揉み始める。
「う、わ……すっげ……指が、埋まる……柔らけぇ……」
 鼻息を荒くしながら、大祐は夢中になって乳をこね回してくる。別に確認したくもないのに、円香はついつい大祐の股間の方へと視線を走らてしまう。予想通り、半ズボンの前の部分はパンパンに膨らんでいた。
「ねぇ、ねぇ……止めようよ、ねぇ! 大祐くん……」
 大祐の上着を引きながら呟く美紀は目に涙を滲ませていた。可愛そうに――と、円香は同情を禁じ得なかった。何故陽平は大祐だけでなく美紀まで家に呼んだのだろうか。それとも、大祐を呼んだつもりが、勝手に美紀までついてきてしまったのだろうか。
(……どうでもいい)
 と、円香はすぐに思案を止めた。晴夫も、陽平も、異常者の考えることは悉く円香の範疇の外なのだから。
「舐めたり吸ったりすると、お姉ちゃん喜ぶよ」
「マジ!? ……いいのか?」
「いいよ。大ちゃんだから特別だよ」
 自分のあずかり知らない所で、自分の体の使用権が勝手に譲渡される――最早慣れっこな現象に、円香はもう苦笑しか浮かばない。
「ちょっと、大祐くん!」
 美紀の悲鳴をよそに、大祐は円香に抱きつくようにしてその体をベッドへと押し倒した。そのままエサに群がる肉食獣のような勢いで胸を掴み、しゃぶり、吸い始める。よしよしと言わんばかりにその後ろ頭を撫でてやったのは、ある意味では大祐も陽平の“犠牲者”のように思えたからだった。
「……私、帰る!」
 殆ど叫ぶように言って、美紀が立ち上がった。が、しかし大祐は円香の乳を舐めしゃぶるのに夢中で、その声は全く耳に届いていないようだった。
「……本当に帰るからね!?」
 再度、美紀は声を荒げたが、やはり大祐の反応はない。そのまま帰るのかなと円香は美紀の様子を見守っていたが、どうやら本当に帰る気はないらしく、進退窮まったまま美紀はその場に立ちつくしていた。
「ミキちゃん、まだ帰らない方がいいよ」
「陽平、くん……」
 立ちつくしている美紀の側に、そっと陽平が歩み寄り、何かを耳打ちする。乳をしゃぶるのに夢中の大祐には、勿論聞き取れないだろう。しかし円香には、唇の動きで大凡何を言ったのか解った。
 そう、陽平はこう言ったのだ。「このまま帰ったら、お姉ちゃんに大ちゃん取られちゃうよ?」――と。
「……っ……」
 陽平の言葉は効果が絶大だったらしい。美紀は目尻に涙を滲ませながらその場に腰を下ろした。そして、明らかに憎しみの籠もった目で円香を睨み付けた。
(……ごめんね)
 円香はただ、心の中で謝ることしか出来ない。
「そうだ、……ねえ、大ちゃん」
 ちゅぐ、はぷ、はむっ――汚らしい音を立てながら乳を吸い続ける大祐の耳には最早陽平の言葉すら届いていない様だった。
「お姉ちゃんのパンツの中、見てみたくない?」
 しかし、陽平が続けたその言葉に、大祐はぴたりと全身の動きを止めた。


 

 お姉ちゃん、パンツ脱いで?――陽平のその言葉に、さすがに円香は顔が引きつった。
「よ、陽平くん……さすがに、それは止めよ? ね?」
 無駄だと解っていても、円香は異議申し立てをせずにはいられなかった。胸を見せ、ちょっと触らせただけならば、まだ引き返せる。しかし、そこまで行ってしまっては――。
「いいから、早く脱いでよ」
「そうだ、脱げよ」
 陽平の言葉に、大祐が同意の声を上げる。あぁ……と、円香はそれだけでもう、全身から抵抗の気力が殺がれていくのを感じた。
「……脱ぐから、退いて」
 全てを諦めたような声で円香は良い、大祐を自分の上から退かせるとベッドから腰を上げ、ゆっくりと下着を下ろした。忽ち大祐がおぉ、と感嘆の声を漏らしながら、食い入るように股間をのぞき込んできた。
「すっげぇ……ホントに毛が生えてんだ」
「お姉ちゃん、座って」
 陽平の言葉のままに、円香はベッドに腰を下ろす。
「そのまま、足を開いて」
「……っ……」
 さすがに抵抗があり、すぐには開けなかった。
「早く開けよ!」
 戸惑う円香の膝を大祐が掴み、強引に開いた。
「やっ……」
 咄嗟に、手で股間を隠そうとした――それよりも先に。
「ダメだよ、お姉ちゃん」
 陽平の言葉によって、円香は隠すことが出来なくなった。
「よく見えねえ、もっと足開けよ」
「お姉ちゃん、言うとおりにして」
「……くっ…………」
 円香は唇を噛みながら、恐る恐る足を開いた。
(やだっ……)
 自分の股間を食い入るように見入る二人の姿に、円香は堪らず視線をそらした。それでも、股間に注がれる視線を意識せずにはいられなかった。
「うわ……すっげ……」
 息が掛かるほど間近でまじまじと観察されて、円香は堪らず赤面した。単純にレイプされるのとは違った類の屈辱に身を震わせながら、その秘部を無垢な好奇心に晒し続けた。
「触ってもいいよ」
 陽平の言葉に促されて、大祐が恐る恐る手を伸ばしてくる。円香は顔を背けたままだが、それでも秘部を這う感触で触られているのだという事は理解した。
「お姉ちゃん、自分で広げて」
「ひろげ……そん、な……」
「いつもみたいに自分で広げて、大ちゃんに良く見えるようにして」
 円香は顔を背けたまま股間へと手を這わせ、くぱぁと開いて見せた。うわっ、と大祐が再度声を漏らし、円香は耳まで赤くなった。
「すっげぇ……こんな風になってんだ……。おい、ミキも見てみろよ」
 唐突に名を呼ばれて、美紀はぴくりと顔を上げた。
「ほら、見てみろって。すっげぇから」
「……やだよ。ねぇ、大祐くん、もう帰ろう?」
「いいからこっち来いって!」
 大祐に腕を引かれ、美紀は強引に円香の足の間へと体を入れてくる。
「ほら」
「やだ…………ヒクヒクってしてる……」
 二人の無邪気な呟きが、円香の羞恥をより一層煽った。
「……指、入れてみようかな」
「……っ……!」
 呟きと共に異物が入ってくるのを感じて、円香は微かに体を震わせた。
(やっ……)
 ゆっくりと、小さな指が入ってくる。それは肉襞の感触を確かめるように前後し、円香は思わず口を手で覆ってしまった。
「……ヌルヌルしてる。ミキも触ってみろよ」
「えぇっ、やだよ……やっ、大祐くん、止めて……」
 大祐が美紀の手を取り、強引に円香の秘部へと伸ばさせる。そう、最初は無理矢理ではあったが、そのうち好奇心に勝てなくなったのか、大祐の手が離れて尚、美紀の手は円香の秘裂を触り続けていた。
(やっ……ちょっ……そんなに、弄らないで……!)
 無邪気な手に秘部を弄られ、円香は口を覆ったまま懸命に声を押し殺していた。
「……なんか、スッゲー濡れてきた……これって、“キモチイイ”って事なんだろ?」
「っっっ……!」
 挿入された指を乱暴に動かされ、円香は堪らず腰を跳ねさせた。
(っ……オモチャに、されてる……)
 こんな、二人合わせても自分の年齢に及ばないような子供に。秘部を観察され、好きなように弄り回され――とうとう、落ちるところまで落ちてしまったのだと。円香は羞恥のあまり落涙しそうになりながら、屈辱を噛みしめていた。
(……もう、これ以上、は……)
 さすがに従えない――そんな円香の気持ちをあざ笑うかのように、陽平が言った。
「大ちゃん、……お姉ちゃんとせっくすしてみたくない?」
「っっっ……ちょっと、陽平くん!?」
 ハッと。円香は弾かれたように声を荒げていた。
「ダメよ、それだけはダメ! 絶対にダメだからね!?」
「ダメかどうかはお姉ちゃんが決める事じゃないよ」
「っっ……い、いい加減にしなさい! いくら、なんでも……」
「別にいいじゃん。それくらい」
「それくらい……って……」
 円香は、背筋が冷えた。同時に、陽平の正気を疑った。
「どう、大ちゃん。せっくすしたくない?」
「……………………したい」
 小声だが、しかしハッキリと大祐は言った。そして、恐らくは思った筈だ。今までの流れから、すぐさま「いいよ」という声が聞こえるものだと。
「じゃあさ、その間代わりにミキちゃん貸してよ」
 だから、陽平がそんな事を言った時、大祐は俄に円香の秘部から顔を上げ、陽平の方を見た。
「ちょ……えっ……?」
 美紀は、陽平の言葉の意味が分からないとでもいうように、二人の顔を交互に見た。その時になって、円香は漸くに理解した。
 何故、この場に美紀が呼ばれていたのか。
 何故、大祐が望むままに自分は体を開かされたのか。
 全ては、このときの為だったのだ。
「……いいぜ」
 およそ小学生とは思えない笑みが大祐へと伝染した瞬間、陽平はまるでケダモノのような動きで美紀へと襲いかかった。
 そして、狂宴が始まった。



 狂宴――そう、まさに狂宴だった。
「ちょっ……やだっ……こら、止めなさい!」
「ハァハァ……暴れるなよ! ヤッてもいいって、陽平が言ってるんだから」
「だからッてっ……と、とにかくダメ! セックスするってことがどういう事か解ってるの!?」
「知ってるよ。すっげぇ気持ちいい事なんだろ? いいから大人しくしろよ。陽平に言いつけるぞ?」
「っっっ……」
 大祐の言葉に、思わず円香は抵抗の手を止めてしまった。その隙に、とでもいうかのように、大祐は円香へと被さり、体をこすりつけるようにして胸を触ってくる。
 既に、大祐は衣類を脱いでいる。陽平同様、勃起は出来ているがまだまだ未成熟なそれを、円香の足の間へと宛おうとしてくる。
「暴れるなよ!」
 およそ、小学生とは思えないような恫喝の声に、円香は純粋に悲鳴を漏らし、身を竦ませた。――脳裏には、かつて数人の大学生らから受けた陵辱の記憶が、俄に蘇っていた。
 そう、相手はあの男達とは違う――ただの小学生だと解っていても、恫喝されただけで身が竦んでしまって満足に抵抗をすることが出来なくなる。それが、数多の男達によって陵辱されつづけ、体に刻みつけられた佐々木円香という人間の習性だった。
「へ、へへ……それでいいんだよ……ほら、もっと足を開けよ」
 大祐はうすら笑みを浮かべ、勃起したペニスを秘裂へと宛い、少しずつ腰を前に押し出してくる。
「うあっ、うあっ……す、げ……ぐにゅぐにゅってしてて……うわぁぁぁ……!」
「っ……」
 情けない声を上げながら、大祐は徐々に腰を使い始める。両手で痛いほどに円香の胸をもみくちゃにしながら、腰をがくがく振るわせながらそれでも抽送を止めない様は滑稽にすら映った。
「うあっ、うわぁぁぁ……気持ちいい……気持ちいい! あぁぁっ……なんか、ムズムズって……来るっぅ……あぁあっ……出るっ……出るっ、ぅ!」
「っっ……ちょっ、ダメッ……!」
 円香が大祐の体を押しのけようとするよりも早く、びゅくりっ、と。その先端から熱いものが円香の体の中へと吐き出された。
「うあっ、あっ……これ、が……シャセイ……? はうっ……気持ち、いぃ…………はう、ぅ……!」
「っっ……なんて、事を…………せめて、避妊、を……」
「“ヒニン”って何? オレまだ子供だから、難しい言葉なんて……解らないよ」
 はぁはぁと肩で息をしながら、大祐は満足げに呟き、絶頂の余韻を楽しむように円香の胸を触り、舌を這わせてくる。
「あぁぁ……いい……せっくす、すっげー気持ちいい……お姉ちゃん、もう一回してもいいだろ?」
 円香は、返事を返さなかった。大祐を無視でもするようにベッドの外へと顔を向けた。――そこでは、もう一つの“狂宴”が行われていた。

「やだっ……やだやだっ……止めて、止めてよぉ……!」
 美紀はその目に涙すら滲ませながら悲鳴を上げるが、そんな事くらいではその体にまとわりつくものを止められなかった。
「止めないよ。ミキちゃんも聞いただろ? 大ちゃんが円香お姉ちゃんとせっくすする代わりに、僕がミキちゃんを好きにしていいって、そういう約束なんだよ」
 陽平は嫌がる美紀に背後から抱きつき、肉欲丸出しでその体をまさぐっていた。まさぐりながらシャツの裾をスカートから引きずりだし、その下へと手を滑り込ませていく。
「やぁっ、いやっ……いやぁ!」
「ミキちゃん、暴れちゃダメだよ。……暴れたら痛くするよ?」
 陽平の言葉が、多少は美紀の抵抗を封じた。その隙に、陽平の両手が美紀のふくらみかけの胸元へと到達した。
「はぁはぁ……ミキちゃんのオッパイ、ちょっと膨らんできてるね。…………先っぽ、コリコリしてるよ?」
「やぁっ、だめぇ! 触らないでよぉ! だめぇっ、大祐くん、助けてよぉ!」
 美紀は胸元をまさぐられながら、ベッドの上にいる恋人へと助けを求める――が、その相手の耳には美紀の言葉は届かなかった。
「ダメじゃないよ。大ちゃんに円香お姉ちゃんのオッパイ触らせてあげたんだから、僕にもミキちゃんのオッパイ触るケンリがあるんだよ?」
「うぅ……やだぁ……やだよぉ……」
「それに、ミキちゃんも……興奮してたでしょ?」
 未発達な胸元を触りながら、陽平は泣きじゃくる美紀の耳元へと囁きかける。
「ほら、ミキちゃんのオッパイの先、こんなにツンってしてる。これはね、ミキちゃんが円香お姉ちゃんのいやらしい所を見て、コーフンしたっていう証拠なんだよ?」
「し、してない! 興奮なんて……私、してない!」
「嘘ついちゃダメだよ。大ちゃんと一緒にハァハァ言いながら円香お姉ちゃんのおまんこ触ってたの、僕ちゃんと見てたんだから」
「っっ……やっ、や、ぁっ……っっ……!」
 ブンブンと、否定するように美紀は首を振る。――その口から、徐々に悲鳴以外のものが漏れ始めていた。
「……ほら、ミキちゃん。段々気持ちよくなってきたでしょ? 女の子はね、オッパイ触られると気持ちよくなるんだよ?」
「っっ……気持ちよく、なんて……」
 美紀は否定の言葉を口にする――が、しかしその抵抗は目に見えて減っていた。はぁ、はぁ、と肩で息をしながら、徐々にその瞳がとろりと濡れ始める。
「大丈夫だよ、ミキちゃん。……僕、円香お姉ちゃんといっぱいせっくすして、女の子がどうすれば気持ちよくなるか解ってるから」
 陽平は笑い、美紀が完全に抵抗をしなくなるまで胸を弄り続け、すっかり体が脱力しきった所で背後から胸を触るのを止め、仰向けに押し倒しながらその唇を奪った。
「やっ……ンンッ……!」
 キスをされる事は予想外だったのか、美紀の対応は遅れた。そしてその後の抵抗も陽平は巧みに封じながら、何度も何度も美紀の唇を奪い、キスを続ける。
「やっ、ぁっ……キス、だめぇっ……大祐くんと……キスは、大祐くんとしか……」
「ダメだよ。ほら、大ちゃんも円香お姉ちゃんとキスしてるだろ? だから僕もミキちゃんとキスしていいんだよ」
 陽平は嫌がる美紀の唇を奪いながら、一枚ずつ美紀の服を剥いでいく。先ほど散々に触ったふくらみかけの胸を露わにするや、今度はそれ目がけてキスの雨を降らせた。
「やっ……あぁん! やっ……くすぐったい、よぉ……」
 暴れる美紀に構わず、陽平はふくらみかけの胸を舐め、その頂を吸った。堅くそそり立っているそれを唇で食むようにしながら舌先で転がし、何度も美紀に甘い声を上げさせる。
「ぁっ、ぁっ……あっ……やぁっ……だめっ、ぇっ……おっぱい、ムズムズ、するぅ……」
「それが“気持ちいい”って事なんだよ。……ミキちゃん、もっともっと気持ちよくしてあげる」
 陽平は執拗に美紀の胸を舐め、吸った。唾液でべとべとになった胸にさらに恍惚としながら頬ずりをした。
「はぁはぁ……ミキちゃあん……好きだよ、ミキちゃあん……」
 譫言のように呟いて、再び美紀の唇を奪った。ただ唇をあわせるだけではなく、舌まで入れた。そのようにしながら、今度はその手がスカートの下へと伸びた瞬間、比較的大人しかった美紀が狂ったように暴れ出した。
「やぁ! だめぇ! そこは絶対だめぇ!」
「それはズルいよ、ミキちゃん。円香お姉ちゃんだってちゃんと脱いだんだから、ミキちゃんも脱いでおまんこ見せてよ」
「やだぁっ、ヤダヤダヤダ! 絶対に嫌ぁ!」
 美紀は足をばたつかせて陽平に抵抗し、再びベッドの上の大祐へと助けを求めた。
「大祐くん、助けて、助けてよぉ! 陽平くんがパンツ脱がせようとして――」
「陽平、腹なら殴っていいぜ」
 美紀の方を見ようともせず――自分は腰を使いながら円香の乳をなめ回しながら――大祐は言った。
「だってさ、ミキちゃん」
 どすっ、と。陽平は思いきり拳を振りかぶり、美紀の腹めがけて振り下ろした。
「かはっ……」
 美紀は息を詰まらせ、体の動きを止めた。その隙に陽平の手でいっきに下着を下ろされた。
「へぇ、お姉ちゃんのとはやっぱり全然違うね。毛も生えてないし、まだただの“線”って感じだ」
「やっ……み、見ない、でぇ……」
 スカートの中に頭をつっこみ、しげしげと秘裂を観察している陽平を押しのけようと、美紀は手を伸ばす。
「暴れたら、またお腹殴るよ」
 しかし、その手は途中で止まった。それを知ってかしらいでか、陽平はスカートの中に頭をつっこんだまま、れろり、れろりと美紀の太股を舐め始める。
「やっ、いやっ、ぁ……!」
「ミキちゃん、うちに来る前におトイレ行った? 少しだけオシッコの匂いがするよ」
 陽平の言葉に、美紀は蒼白だった顔を一気に赤らめた。無論、スカートの中に頭をいれたままの陽平にはそれは解らないのだが、まるでその反応を察したようにくすりと笑った。
「嘘だよ、ミキちゃん。…………嘘ついたお詫びに、いっぱいおまんこ舐めて気持ちよくしてあげるね」
「っっ……やっ、やだぁっ……そんな、ところ……舐めないで、よぉ……あぁ、ぁ……」
 陽平はしつこく、三十分以上にもわたってクンニを続けた。その間美紀はただただスカートの上から陽平の頭に手を宛い、膝を立てたままはぁはぁと荒い息を上げ続けた。
「んっ……やっぱり、お姉ちゃんとは全然違うなぁ……これじゃあ、せっくすをするのは無理かなぁ」
「っっ……い、いやっ……せっくすなんて、絶対に嫌!」
「あはは、ミキちゃん、お姉ちゃんと同じ事言ってる。……まぁいいや、その代わり口でしてよ」
 陽平はスカートの下から顔を出すと、そのまま美紀の腕を引くようにして体を起こさせ、自分はズボンと下着を脱ぎ、あぐらをかいた。
「えっ……口で、って……」
「ふぇらちおして、って言ってるんだよ。おちんちんを舐めろ、って事」
「やっ――痛っ……」
「もうその言葉は聞き飽きたよ。いっぱいまんこ舐めてあげたんだから、今度はミキちゃんがしゃぶる番だよ?」
 陽平は美紀の髪を掴み、強引に自分の股間へと持ってくる。
「先に言っとくけど、絶対に歯を立てちゃだめだよ」
「うっ……うぅぅ……ぷぁっ……んふっ、ぅぅ……」
 美紀の唇へとペニスをつきたて、ゆっくりと埋没させながら、陽平は恍惚の笑みを浮かべていた。
「ただ咥えてるだけじゃダメだよ。舌をつかって、いっぱいいっぱい舐めて。……僕がシャセイするまで続けて」
 ………………。
 …………。
 ……。
 

 狂った宴は、夕暮れ時まで続いた。
 円香は幾度となく大祐に犯され、その未発達な陰茎をしゃぶらされた。同様に、ベッドの下では美紀が、その体を陽平のオモチャにされ続けていた。
「ミキちゃん、クチフウジしといたほうがいいと思うんだけど」
「そうだな。裸の写真とっとこうぜ」
 陽平と大祐はまるで双子のように意気投合し頷きあうと、そろって美紀を羽交い締めにし、陽平のデジカメで写真を撮り始めた。
(……デジカメ…………)
 円香はぐったりとベッドに横になったまま、そんな惨状をぼんやりと眺めていた。アレには、自分の裸のデータも入っているのだろうか。
「お姉ちゃんの写真はこれには入ってないよ」
 そんな円香の心を読んだかのように、陽平は呟いた。それは或いはハッタリだったのかもしれないが、円香はその確認すらも億劫だと感じ始めていた。それほどに、小学生にレイプされるという屈辱は、円香の精神を摩耗させていた。
 自分の事でもそうなのだ。他人の美紀に対して可愛そうと思う気持ちもおざなりだった。美紀は結局、何枚もの裸の写真を撮られ、さらに今日のことは絶対に口外しないと堅く約束をさせられてから、漸くに服を返してもらえた様だった。富田家を去る時にはもうその目は廃人のようになっていたが、彼女がどうなろうと円香の知った事ではなかった。

「今日はお疲れ様、お姉ちゃん。お風呂沸かしたから、入ってきなよ」
「……うん」
 円香は人形のように頷いて、脱衣所へと向かった。脱衣し、浴室へと入った所で、同じく裸になった陽平が後を追ってきた。
 円香は驚きもしなかった。
「えへへ、ミキちゃんもいいけど、やっぱり円香お姉ちゃんが一番いいよ」
 陽平は早くも勃起したペニスを円香の足にすりつけるようにしながら抱きついてくる。
「ね、お姉ちゃん。いつもみたいにしゃがんで?」
「……うん」
 逆らう気力も無かった。円香はいつも浴室で陽平に犯される時のように浴槽の縁に向かう形で膝を突き、尻を突き出した。
「アハッ、お姉ちゃんのまんこ、まだ大ちゃんのせーしが残ってるよ? これなら、アイブはしなくていいよね?」
 どうやら他人の精子が汚い、という概念は陽平には無いらしい。むしろ手間が省けたとばかりに、勃起したペニスを円香の秘裂へと宛い、一気に腰を突き出してきた。
「……っ……」
「あぁぁっ……! いいよぉっ、お姉ちゃんのまんこ気持ちいいよぉ! ミキちゃんに口でして貰うより、全然いい!」
 にゅるりとペニスを埋没させるや、陽平は歓喜の声を上げ、円香に密着するようにして胸元を触りながら、ヘコヘコと腰を使い始める。
「はぁはぁ……お姉ちゃん、お姉ちゃんっ……」
 陽平が腰を引き、突き出す。その都度、包皮がめくれ上がり、時間差でゆっくりと先端へと戻っていくのが感触として解る。それを気持ちいいとも、気持ち悪いとも思わない。
 円香は、疲労の極みにあった。
「あぁぁっ、ぁあっ! 出るよぉ、お姉ちゃん! はあはあっ……出るっ、ぅ!」
 陽平が腰を突き出し、びゅくびゅくと射精を行う。あぁ、また中に出されちゃった――円香はまるで人ごとのように惚けていた。そういえば今は何時だろうと、そんな事を考える。
「はぁっ、はぁっ…………ほら、お姉ちゃん……舐めてキレイにして?」
 陽平がペニスを抜き、半勃ちのそれを円香の方へと差し出してくる。あぁ、今日は一回で終わりなのかと。そういえば“ミキちゃん”の口にも何回か出していたなと、円香は頭の片隅で思考しながら、ちろり、ちろりと陽平のペニスを舐め始める。
(……時間、大丈夫……なのかな)
 舐めながら、漠然とそんな事を考える。そろそろ、晴夫やつばめが帰ってくる頃ではないのか。二人が帰ってきて、その時家の何処にも自分たちの姿が無かったら変に思われるのではないか――。
 そう、円香は疲労の極みにあった。漫然と考えながら、命令されるままに漫然とペニスを咥えていた。だから、曇りガラスの向こうの人影にも全く気がつかなかった。
「……ちょっと、何……してんのよ」
 がらりと、曇りガラス戸が開かれた瞬間、円香はハッと身を捩って脱衣所の方を見た。
「つばめ……ちゃん?」


 陽平の動きは素早かった。
「うわぁぁん! つばめおねえちゃあん!」
 さながら、誘拐犯に捕まっていた所を救出されたような――そんな迫真の演技で、陽平は咄嗟につばめの元へと駆け寄り、その身を盾にするかのように体を寄せた。
「怖かったよぉ」
「……怖かった?」
 つばめは怪訝そうな声を出しながら、陽平の頭を撫で、そして――まるで敵でも睨み付けるような目で、円香を見る。
「うん……あのね、円香お姉ちゃんがね……二人きりだから、一緒にお風呂入ろうって……それでね、おちんちん舐めさせて、って……無理矢理……」
「なっ……」
「まどか姉……?」
 つばめが、露骨に眉を寄せる。
「違うの! つばめちゃん! 私はそんな事言ってない!」
「……じゃあ、一体何してたの? まどか姉、悪いけど……“そういう風”にしか見えなかったんだけど」
「あ、あれは……陽平くんに……脅されて……」
 円香は消え入るような声で言った。はぁ?とつばめは甲高い声を上げた。
「何言ってんの。小学生の陽平が、一体どうやってまどか姉を脅すっていうの?」
「それ、は……」
「前からおかしいと思ってたんだよね。陽平にやたら甘いし、風呂にだって一緒に入ったりしてたし。……まさか、“彼氏要らない”って、“そういう事”だったワケ?」
「……っ……おねがい、私の話を聞いて、つばめちゃん!」
「悪いけど、まどか姉。そうとしかしか解釈のしようがないよ。……ホント、変だと思ったんだよ。あんなに格好良くて、性格もいい先輩を相手にもしないなんてさ。まどか姉が“そういう性癖”だって考えるのが一番しっくりくるじゃん」
「違う! 本当に違うの、つばめちゃん!」
「ちょっと……近寄らないでよ。……………………人んちの弟に手ぇ出す? フツー…………マジ信じらんない。まだ陽平は小学生なんだよ?」
「つばめちゃん……」
 つばめはぺっ、と唾を吐くと曇りガラスを乱暴に閉めた。途端、円香は糸が切れた操り人形のように、その場に膝を突いた。

「嘘ついてごめんね、お姉ちゃん。…………僕、つばめお姉ちゃんが怖かったから……」
 夕食の後――晴夫は帰りが遅くなるという電話があり、まだ帰っておらず、つばめは自室に籠もっているため陽平と二人きりの食事だったが――呆然としながら洗い物をしていた円香の元に、陽平がやってきた。
「だけど、僕……本当にまどかお姉ちゃんが好きなんだ。…………解ってくれるよね?」
 そして、まるで動物が自分のナワバリを主張するように――陽平は円香の足へとしがみつき、怒張した股間をすり当ててくる。
 ――その瞬間、円香はぶつんと何かが切れる音を聞いた。
「……いい加減にして!」
 円香は手に持っていた皿を流し台に叩きつけるようにして割り、濡れた手で思い切り陽平を突き飛ばした。
「もううんざり! 私はあんたのドレイでも恋人でもなんでもない! 二度と私に近寄らないで!」
「……お姉ちゃん?」
 円香の突然の変貌に、陽平は驚いたように目を見開き、ゆっくりと立ち上がる。
「……そんな事言っていいの?」
「写真でもなんでも、好きにばらまけばいいわ。…………つばめちゃんに嫌われたら……私……もう……もう…………」
 そう、円香にとってつばめの存在は心の支えそのものだった。こんな、腐泥のたまり場のような富田家において、つばめと過ごす時間は唯一心を安らげる瞬間だったのだ。
 円香は感極まり、その場に膝から崩れ落ち、さめざめと泣いた。そんな円香を無視するように、陽平は流し台へと歩み寄ると出しっぱなしの蛇口をキュッとひねり、そのまま台所を後にした。
「……お姉ちゃん、後悔するよ」
 そんな一言を残して。


 


 陽平からの陵辱は無くなった。しかしかわりにつばめの信頼も失った。差し引きマイナスだと、円香は思った。
 つばめは、円香と陽平の件については、己の胸の内に留める所存のようだった。少なくとも、晴夫に言いつけるつもりはないという事を、いつもと変わらぬ晴夫の態度で円香は知った。
「円香ちゃーん、来たよぉ」
 相変わらず怖気の立つ猫なで声だと、円香は思った。夜、他の家族が寝静まった頃を見計らって晴夫は夜這いをかけてくる。三日に一度の、通例行事だ。
「……好きに、してください」
 鼻息荒く布団の中へと入ってくる晴夫に、円香は冷めた声で呟いた。
「最近円香ちゃん“イヤッ”って言わないねぇ。…………段々ボクの事が好きになってきたのかな?」
「……そうなのかもしれませんね」
 抵抗する気も失せた、というのが真実だった。どれほど拒絶の意を示しても通じないのならば、それはもうただ疲れを増すばかりだ。
「フヒヒッ……冷めた円香ちゃんも可愛いなぁ。……でも大丈夫だよ? すぐにボクのチンポで体を熱ぅく火照らせて、ヒィヒィ言わせてあげるからさ」
「っ……」
 晴夫は布団の中でこれでもかと円香の体をまさぐり、尻に股間をすり当ててくる。よくもまぁ飽きないものだと、円香は呆れすら感じていた。
「はぁはぁっ……ほらぁ、円香ちゃん、こっち向いて?」
「うぐっ……やっ、臭っ……んんっ……!」
 いつになく臭い晴夫の口臭に眉を寄せながらも、円香はさしたる抵抗もせずに晴夫のキスを受け入れた。気色の悪い舌の感触と唾液の味に、鳥肌が立つのだけは堪えられなかった。
「ふはぁっ……臭いのは、円香ちゃんの為にニンニクやニラをいっぱい食べてるからなんだよ? 我慢しなきゃ」
「っ……」
 れろぉ、と頬を舐められ、円香はまたしても鳥肌が立った。晴夫の唾液が臭すぎるのだ。心なしか、体臭すらも酷くなってるように思えた。
「やっ……んんぅ!」
 晴夫は円香の上にのしかかるように移動しながら、再び唇を奪ってくる。それはキスというよりも、己の唾液を円香に飲ませようとしているような、そんな仕草だった。
「おえっ……んぷっ……やっ……うげぇっ……」
 円香はさすがに首を振り顔を背け、晴夫の唾液を吐き出そうとした――が、晴夫は円香のそんな意図を感じ取るや、両手でがっちりと円香の頭を掴み、動きを封じた。
「やっ……んぷぁっ……臭いぃ……んんんっ……んぐっ……んんっ……」
「フヒヒっ……ダメだよぉ、円香ちゃん。ボクの唾、ちゃんと飲んでくれなきゃ」
 晴夫は一端唇を離し、舌だけを出すととろり、とろりと糸を引かせて円香の唇へと唾液を落としてくる。
「やっ……やぁぁあっ、ああ!」
 円香はがっしりと顎を掴まれ、口を半開きのまま固定されていた。それでも飲み込むことだけは拒絶していたのだが――。
「円香ちゃん……飲んで?」
 晴夫に鼻まで塞がれては、為す術がなかった。そのまま死ぬまで呼吸を止めることなど出来る筈もなく、円香は両目から涙を溢れさせながら口腔内に溜まった唾液を飲み干した。
「ングッ…………うげぇ……」
 円香は吐き気を堪えきれず、しゃくりあげるように胃を痙攣させた――が、仰向けに寝たままでは、吐き出すことも巧く出来ない。
「フヒッ……ボクの唾が円香ちゃんの体の中で消化吸収されて、円香ちゃんの体の一部になるんだって考えると、なんだか感動するよね。本当は唾なんかじゃなくて、ボクの精子をいっぱい飲ませてあげたいけど、そっちは円香ちゃんが妊娠するまで我慢するよ」
「っっ……」
 晴夫が気味の悪い笑みを浮かべながら、円香のパジャマを脱がしにかかる。円香はされるがままにパジャマの上着とズボン、そしてブラを取り去られた。
「はぁはぁ……円香ちゃんのオッパイ……ほんとスゴいよね。大きいのに張りがあって、乳首もちゃんとピンクでさ……前の女房なんかとじゃ格が違うって感じだよ。…………円香ちゃんさ、もうお母さんよりオッパイ大きいでしょ?」
 晴夫に言われて、円香はふと記憶の中にある母の姿を思い出した。言われてみれば、確かに一度妊娠をして母乳が出るようになった辺りから、母のそれを越えていたような気がした。
「ボクさぁ、今だから白状するけど……円香ちゃんのママの事ずっと好きだったんだよね。だから、崇志のやつに結婚式に呼ばれた時はほんとムカッ腹が立ったよ。式の間中、ずっとウエディング姿の円香ちゃんのママを犯す所想像して我慢してたのを覚えてるよ」
 鼻息荒くそんなことを言いながら、晴夫は早くも円香のショーツを脱がしにかかる。
「そんなこと顔や態度にはおくびにも出さなかったけどね。円香ちゃんが言ったように、一応アイツにとってボクは親友らしいし。…………そうそう、そういえばまだ円香ちゃんが赤ん坊だった頃、一度だけ海外旅行に行くからって預かった事があったよ」
 それは、円香にとっても初耳だった。ハッとして晴夫の方を見ると、にたりと。晴夫はブタのように笑った。
「憎い憎い相手と、愛しい愛しい相手の愛の結晶だからね。大切に預かったよ。大切に大切に、円香ちゃんの全身にキスしたり、まだ歯が生えてもいない口にチンポ入れたり、まんこ舐めたりして可愛がってあげたよ」
「っっっ……やっ…………」
 そんなの、嘘だ。嘘に決まってる――円香は怖気に震えながら、そう思いこもうとした。
「……はぁはぁ……円香ちゃん、もう良いだろ? おじさんもう辛抱堪らないから挿れちゃうよ?」
 晴夫は円香の足の間に体を入れ、ぐいぐいと剛直を押し当ててくる。円香の返事を待たずにその足を勝手に広げ、宛うや否や――ずいと腰を押し出してくる。
「うっ、くっ……ぁう!」
 ゴリッ――と中を抉るようなその太さに、円香は声を上げまいとしていてもつい呻いてしまった。ふひぃ、と晴夫が満足げに息を吐きながら被さってくる。
「あぁぁっ……やっぱり最高だよぉ、円香ちゃんのマンコ! 円香ちゃんのママとは結婚出来なかったけど、でも全然OKだよ。だって、円香ちゃんの方が美人だし、おっぱいも大きいし、おじさんもう幸せ過ぎて死にそうだよぉ!」
「くっ……はっ……ンッ……!」
 ずんっ、ずんと体重をかけて突かれ、円香は苦しげに呻いた。そんな様を見て、晴夫がまた笑う。
「ホント、円香ちゃん抵抗しなくなったねぇ。……おじさんちょっとつまんないよ? もっと前みたいにイヤ、イヤッ、って言ってくれたほうが興奮するんだけどなぁ?」
 誰が――と、円香は唾をはきかけてやりたかった。そうして欲しいと晴夫が望むのなら、意地でも口にしないと心に決めた。あくまで人形の様に心を凍てつけ、淡々とこの時間が終わるのを待つだけだと。
「うーん、まぁいいや。これはこれで、円香ちゃんがボクのことを好きになってくれたからだと思う事にするよ。…………お礼に、今夜はいっぱい円香ちゃんのを気持ちよくしてあげるよ」
「っっ……くっ、ふ……んんっ……!」
 晴夫が、不意に動きを変えた。円香の腰に手を添え、持ち上げるようにしながら、ずん、ずんと。
「っっ……ぁくっ……ぁっ……ぁぅ!」
 円香は声が出そうになってしまうのを懸命に堪え、唇を噛むようにしながら全身を強ばらせた。
「フヒッ……フヒヒッ、ほらぁっ……気持ちいいだろぉ? もう円香ちゃんの体の事は隅から隅まで解ってるからね。……こうして突かれると、いつも腰ぶるぶる震わせてギューーーって締め付けてくるよね?」
「気持ち、よく、なんか…………ぁあぅ!」
「ほら、またぎゅーって。円香ちゃん、嘘はよくないなぁ?」
 ビクッ。
 ビクビクッ。
 晴夫に突かれるたびに、腰が勝手に跳ねる。それは肉体的な反射であり、円香の意志ではどうすることもできなかった。
「あはぁっ……はぅっ……あぁん!」
 声を抑えることが、徐々に叶わなくなる。歯の根が合わないほどの快感に――快感だと、円香は認めないが――全身が紅潮し、汗が噴き出してくる。
「あぅっ……あぅうっ! …………っ…………やっ…………いやっ、いやっ、ぁっ……!」
 イヤ――その単語は決して口にしないと誓った。その筈なのに、円香は全身が浮き上がりそうな快感に、思わず叫んでしまった。
「円香ちゃぁん、イヤじゃないだろ? “イイ”だろ? ほら、ほらぁ!」
「あぁっ、あぁぁァッ! やっ、そこっ、いやっ……やめっ……こ、擦らないっ、でぇ……あぁあんっ! あぁぁぁっ……だめ、だめぇえっ!」
 ビクビクビクッ――痙攣するように肉襞が蠢く。
「おっ、ヒクヒクってなったね。円香ちゃん、そろそろイきそー?」
 晴夫の問いに、円香は必死に首を振る。
 ――が。
「あァァあッ! あぁっ、あっ……ひっ……あぁっ! だめっ……だめっ……も、動っかな……あぁぁぁ!」
「ダメだよぉ。円香ちゃんがイくまで続けるよ? そして円香ちゃんがイッたら、ボクの濃ゆーいチンポミルク、いっぱい注ぎ込んであげるよ」
 晴夫自身も既に限界が近いのか、切なげな声で言いながら円香の中を抉るように腰をくねらせる。
「あっ、あぁっ、ぁっ……やっ……イヤッ……イヤッ……いやっ、ぁっ……っっっ……ぁっ……ぅぅぅ〜〜〜〜〜〜〜〜〜っっっっ!!!!」
 津波のように押し寄せてくる“それ”をどうにも堪える事が出来ず、円香は咄嗟に口を押さえ声を押し殺しながら――達した。
「フヒッ……イッたね、円香ちゃん…………じゃあ、ボクもッ……はあはぁっ…………うぅぅっ……!」
 肉茎がぐんと膨れあがるようなにして震えた瞬間、円香の中にびゅくりと汚液が吐き出される。
(やっ……)
 口を押さえたまま、円香は背筋が震えた。
 びゅるっ、びゅっ、びゅうう!
 びゅっ、びゅっ、びゅっ……!
 何度も、何度もそれは震え、その度に粘度の高い液体を吐き出し、円香の中を汚していく。
「ううぅっ、ぅぅ……我慢してたから、いっぱい出るよぉ……はぁはぁっ……今度こそ孕むかなぁ?」
「っ……ぅ……い、やぁ…………」
 しつこいほどに繰り返される射精に、円香は子供のように嗚咽を漏らした。陽平や大祐のように、ただただ自分の快楽の為だけに犯され、射精をされるのも屈辱には違いない。しかし、こうして好きでもない相手に――むしろ極限の嫌悪すら感じる相手に――犯され、しかもイかされる事には、何度味わっても円香は慣れる事ができない。
(どうして――)
 何度、そう思った事だろうか。何故、好きでもない相手でも気持ちよくなってしまうのだろうと。
「フヒヒッ……円香ちゃあんっ……ぐったりするのはまだまだ早いよ?」
 休憩は終わりだと言わんばかりに晴夫が腰を使い始めると同時に、円香は愚にもつかない事を考えるのを止めた。


「あっ、あっ、あぁっ……あぁぁぁぁッ!!!」
 晴夫に後ろから突き上げられながら、円香は堪らず声を上げた。布団に肘を突きシーツを握りしめながら、必死に“背後からの圧力”に抗った。
「ふぅふぅ……ダメだよぉ、円香ちゃん。気持ち良くてつい声が出ちゃうのは解るけどさぁ、もうちょっと抑えてくれないと……つばめたちに聞こえちゃうよ?」
 困ったような口調で言いながらも、その実晴夫は腰の動きを止める気は全く無いらしかった。ぱん、ぱんと円香の尻に腰を打ち付けるたびにそのたるんだ腹を揺らし、全身にびっしょりとかいた汗が飛び、円香の背中へと降りかかる。
「はぁっ……はぁっ……だったら、も、止め……あぁぁあんっ!」
「ダメだよぉ……こんなに気持ちいい事止められるわけないだろぉ? 円香ちゃんだって、さっきから腰くねらせっぱなしじゃないか。……止めたくないだろぉ?」
「っ……やっ、違っ……」
 腰をくねらせてなんか――円香はハッとして、そして気がついた。知らず知らずのうちに、晴夫の動きにあわせて腰を動かしてしまっていた自分に。
(う、そ……でしょ……?)
 ゾッと、悪寒に全身が震えた。信じられない――しかし、事実だった。
「はぁはぁ……円香ちゃん……気持ちよすぎて、また出そうだよぉ……はあはあ、ほら、円香ちゃんも一緒にイかなきゃ」
「っ……やっ、だれ、が……一緒に、なんて……あぁぁぁぁッ!!」
 強がる円香をあざ笑うかのように、晴夫はまたしても円香の弱点を擦り上げるような腰の動きを始める。
(やっ、それ……ダメっ、……!)
 太股をぶるぶる振るわせながら、円香は必死に抗う――が、それは時間稼ぎにしかならなかった。
「あっ、あぁっ、やっ……あっぁあっ……あっぁぁあッ!!!!」
 体を跳ねさせながら、円香はあっさりとイかされた。――同時に、びゅるっ、と汚液が痙攣する膣内へと吐き出される。
「いっ……やぁっ…………」
「イヤじゃないだろぉ? そろそろクセになってきてる筈だよ?」
 一体何を根拠に言っているのか、晴夫は気持ちの悪い猫なで声で囁きながら、円香の両胸をむぎゅむぎゅと弄ぶ。
「大分疲れてきたから、今夜はそろそろお開きにしようか。…………勿論、最後に“アレ”をやってからね」
「っっ……イヤッ! あれは、嫌!」
 拒絶する円香をあざ笑いながら、晴夫は布団の上にあぐらをかくと、その上に円香を座らせるように促してくる。
「イヤ、じゃないんだよ、円香ちゃん。座位は夫婦の体位なんだから。最後の締めはやっぱりコレじゃないとね」
「っ……うぅ、ぅ……」
 晴夫の意向を拒絶しきれず、円香は渋々ながらも晴夫と向かい合う形で――座位の姿勢へと誘導される。
「ほら、ちゃんと足を回して。手も肩にかけて。そうそう……じゃあ、挿れるよ?」
「っ……くっ……ぅぅんっ……!」
 一端尻を持ち上げられ、剛直を宛われた後、ゆっくりと体を沈められる。
「あっ、あぁぁっ、ぁっ……!」
「フヒヒ、もう円香ちゃんもすっかり慣れてきたみたいだね。ほらぁ、この体位が一番気持ちいいだろぉ?」
「っ……っ…………ッ!」
 尻をもたれ、何度も何度も上下に体を揺さぶられながら、円香は首を振った。口を開けば甘い声が漏れてしまうため、唇を噛みながら必死に否定し続けた。
「フヒッ……やせ我慢してる円香ちゃんも可愛いなぁ。ほら、わかるだろ? 円香ちゃんのナカで、ボクのがムクムクって大きくなるのが」
 それは事実だった。まるで晴夫の興奮の度合いを示すように、肉茎の存在感が円香の中で増していく。
「はぁはぁっ……ほんと可愛いよ、円香ちゃん……可愛い円香ちゃんの顔を間近で見ながら犯れるのも、座位のメリットだよね」
 晴夫は感極まったように呟き、れろり、れろりと円香の顔をなめ回してくる。その涙の痕すらも、晴夫にとっては興奮を呼び覚ます材料の一因に過ぎないらしかった。
「ほら、円香ちゃん……むすっとしてないで、口を開けて?」
「っ……やっ……んぷっ……んんっ!」
 顔を背け続ける事も不可能だった。何より、途中で円香自身が抵抗を諦めてしまった。
「はぁ、はぁっ……んぁっ……あむっ、んっ……んぐっ……ぅ……!」
 ぴちゃぴちゃと汚らしく唾液を混ぜ合うようなキス――それに合わせて尻をゆさぶられて、円香はもうワケがわからなくなった。
「んぷぁっ……はふっ……んんっぁあっ……ぁあっ!!」
 気がつくと、自ら舌を動かしてしまっていた。さらに腰をくねらせ、より“良い”場所にペニスが当たるようにと――。
「あぁっ、あぁぁっ……いいっ、いいよぉ! 円香ちゃあん! やっと身も心もボクの奥さんになってくれたんだね! 嬉しいよ!」
 そんな円香の変化に晴夫は感嘆の声を上げ、円香の尻を揺さぶる手を一層激しいものにする。
「あぁっあぁぁっ! あっ、あっぁっ……ぁっ、ぁっぁっ……!! あァァーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーッ!!!!」
 円香はただただ己の全身を包む快楽に身を捩り、快感のままにサカり声を上げた。イく瞬間、ぎゅうっ……と晴夫にしがみつくようにしながら、びゅく、びゅくと己の中に吐き出される汚液を受け止めとめた。
「はーっ……はーっ……円香ちゃん……最後、スゴい声出してイッたね?」
 晴夫もまた円香の体を息苦しい程に抱きしめ、そしてキスをしてくる。そのまま円香を布団へと押し倒し、ちゅっ、ちゅっ、と円香の唇と胸元にキスの雨を降らせた。
 円香は、呆然としながらそれを受け入れていた。疲労の極みであり、思考力も無いに斉しかった。
 だから、晴夫の肩越しに見える――居間の入り口につばめの姿を見ても、それが何を意味するのかまでは理解できなかった。



 どうやらつばめは部活を辞めたらしいという事を、円香はつばめの帰宅時間で知った。とはいっても、確証があるわけでもなく、円香は夕食の後思い切ってつばめに尋ねてみる事にした。
「はぁ、何言ってんの?」
 つばめは敵意丸出しに、甲高い声で言葉を続ける。
「家の中に小学生に手を出すような痴女が居るっていうのに、部活なんかやってらんないわよ」
 ちじょ、と円香は掠れた声でオウム返しに言った。
「違っ……本当に違うの、つばめちゃん!」
「ちょっと……あんまり近くに来ないでくれる? なんか最近のまどか姉って、親父と同じニオイがするよ? ちゃんとお風呂入ってるの?」
「え…………う、嘘っっ……」
 円香はハッとしてつばめから距離をとった。青ざめる円香をよそに、つばめはふふんと鼻を鳴らして自室へと戻っていった。
(嘘っ……嘘、でしょ?)
 もちろんつばめに言われるまでもなく風呂には毎日入り、体だって入念に洗っている。或いは、それでも拭い切れぬ程に染みついてしまっているということなのだろうか。
「っっ……!?」
 円香はふと視線を感じて、居間の入り口を見た。体半分ほど覗かせていたのは陽平だった。陽平は円香の視線に気がつくや、嫌な笑み一つ残してその場を後にした。
 “事件”は、その翌日に起きた。

「……ねえ、まどか姉。私の下着知らない?」
 商店街の飲み会で晴夫の帰りが遅く、珍しく三人だけの夜――その夕食の支度をしていた円香は、どこかとげとげしいつばめの声に思わず振り返った。
「えっ……知らない、けど……」
「タンスに入ってたの、全部無いんだけど」
 まるで、最初から円香が犯人だと決めつけているような口調だった。
「し、知らない……私じゃないよ、つばめちゃん!」
「陽平が、まどか姉が私の部屋に入るのを見たって言ってるんだけど」
「陽平くんが……?」
 ぎょっと、円香はつばめの背後に隠れるように立つ陽平に目をやった。陽平はにたにたと、小悪魔のような憎たらしい笑みを浮かべていた。
「僕、見たよ。まどかお姉ちゃんが自分の衣装ケースの中に何か隠してる所」
「なっ……違う! 私は――」
 円香の弁明など聞かず、つばめは台所を飛び出し、居間へと向かった。円香も慌てて手を洗い、エプロンで拭きながらつばめの後を追った。
 居間の隅には、円香の衣類だけを纏めた三段重ねの衣装ケースが置いてある。つばめはその引き出しを乱暴に引き、ひっくり返すようにして中身を改めていた。
 円香の普段着、下着、靴下などが散乱する中で、その茶色い紙袋は悲しいほどに目立っていた。無論、円香はそんなものを入れた覚えはないし、見たことも無かった。
 つばめはそれをつかみ、口を開いて無造作に逆さにした。中から現れたのは――無惨に切り刻まれた女物の下着だった。
「…………なにこれ。まどか姉、これどういう事?」
「違う……私じゃない! 本当に私じゃないの!」
「ひょっとして、昨日臭いって言ったことの仕返し? 呆れた、まどか姉ってこーゆー女だったんだ」
「違う! 私じゃ………………陽平くん、貴方でしょ?」
 キッ、と。円香はつばめの足下に隠れている陽平を睨み付けた。
「何言ってんの? どうして陽平がアタシの下着を切り刻んで、まどか姉の衣装ケースに隠すの?」
「それは……嫌がらせで……」
「僕そんなことしないよ! お姉ちゃん酷いよ!」
 陽平は心外だとばかりに叫んだ。それは、円香の目にも演技には見えなかった。つばめにはそれ以上に映った事だろう。
「マジ信じらんない。悪口言われた仕返しに人の下着切り刻むとか、頭オカシイんじゃないの? こーゆーことするから、地元に居られなくなったワケね。よーく解ったわ」
「違う、本当に違うの! お願い、信じて……つばめちゃん!」
「ウッザ……もう猫被っても意味ないってわかんないの?…………どうでもいいからまどか姉、これ弁償してよ」
 最早、円香の弁明などまったく聞くつもりがないらしいつばめは下着のかけらをつかみ、乱暴に円香に投げつけた。
「親父に貰った給料、貯めてんでしょ。ここに持ってきなよ」
「………………っ……」
 もう説得は無理だと、円香にも解った。ならばせめて、下着を弁償する事で少しでもつばめの機嫌を損ねまいと、円香は戸棚の奥にしまっておいた私物入れから、厚い封筒を取り出し、つばめに渡した。
「へぇー、まどか姉ケッコー持ってんじゃん。じゃあイシャリョーって事で、これ全部貰っとくから。…………今回は許してあげるけど、次やったら親父にも言いつけるからね」
 つばめは封筒の中を見るなり露骨に目の色を変えた、そう、まるで悪魔か何かに魅了されたかのように口元を歪め、一気に上機嫌になった。封筒には、今まで円香が晴夫から貰った給料の殆どが入っていた。それなりに大金ではあったが、円香にとってはつばめとの絆のほうが遙かに大事だった。
「つばめちゃん…………本当に私じゃないの。……お願い、信じて」
 この大金をつばめに渡すのがその証拠だと、円香は言いたかった。しかしつばめは円香の必死の哀願に眉をひそめただけで、封筒を手に居間から出て行ってしまった。
「お姉ちゃんが悪いんだよ」
 膝から崩れ落ちた円香にいやみったらしく囁いて、陽平もその場を後にした。



 つばめは、変わった。――それとも、元に戻ったと言うべきなのか。
 髪を再び金髪に染め、やたら高そうなアクセサリーをちゃらちゃらと身につけ、夜遅くまで遊び歩く事が多くなった。
 実の娘のそのような変化に、当の晴夫はといえば極めて無関心だった。
「ボクにとって大事なのは、円香ちゃんだけだよ」
 晴夫は、いけしゃあしゃあとそんな事を言った。つばめが身につけているアクセサリーや、夜遊びの金などがどこから出ているかなど、考えも至らないらしかった。
「あいつらは失敗作なんだ」
 とも、晴夫は言った。
「円香ちゃんとの間に出来る子供が、ボクの本当の子供だよ」
 そう言って、晴夫はまるで子供が甘えるように円香の服をまくり、胸を吸い始めた。晴夫のそういった行動に、以前ほどの嫌悪感を感じなくなってしまっていることが、円香には恐ろしくて堪らなかった。

「まどか姉、お金貸してよ」
 つばめは、本当に変わった――と、円香は思った。よほど金遣いが荒くなったのだろう、つばめは度々そうして円香に金の無心をしてくるようになった。最初に無心をしてきたのは、まだ“封筒”を渡して二週間と経っていない頃だった。
「……つばめちゃん……もう、無理だよ……私も、お金ないよ……」
 円香は洗い物の手を止めて、心底申し訳無さそうに言った。
 今にも切れてしまいそうなつばめとの縁をなんとか守りたくて、可能な限りつばめの要求に応えようとした。しかし、元々晴夫からそんなに多額の給料を貰っているわけでもなく、富田家に来る前から持っていた貯金も全てつばめへと譲渡しつくしていた。
「そんな事言って。本当はまだ持ってるんでしょ? まどか姉の家って大金持ちだもんね」
「ほ、本当に……もう無いの……貯金も、この間あげたので、全部……」
「ホントに? ホントのホントにもう無いの?」
 どこかしらけたようなつばめの声に、円香は力無く頷いた。
「ねえ、つばめちゃん……こんな事もう止めよ? いくらなんでもお金使いすぎだよ」
「……何言ってんの。元はといえばまどか姉が悪いんじゃない。まどか姉のせいで私、彼氏とも別れて、部活も辞める事になったんだよ?」
「そう、だけど……」
 彼氏と別れた件については、つばめ自身それで良かったと言っていたではないか――そんな言葉を飲み込みながら、円香はしぶしぶつばめに同意した。
(陽平くんの事だって……本当は誤解、なのに……)
 そう、部活を辞めたのは陽平から目を離せないから――最初はそうだった筈だ。しかしいつしかつばめにとってその存在もどうでもよくなった――少なくとも、円香にはそう見えた。まるで、金の魔力というものに取り憑かれたかのように、つばめは変わっていった。
「まどか姉のせいでアタシは何もかも無くしちゃったんだからね。だからまどか姉はアタシの為にお金を集めなきゃいけないの。……解った?」
 それはむちゃくちゃな理屈だと円香は思う。思うがしかし、それでも円香は信じていた。つばめが、元の優しいつばめに戻ってくれるという事を。
「……ねぇ、まどか姉。レジのお金って持ち出せない?」
 しかし、裏切られる。まるで、裏切られる為に希望を抱いているような錯覚すら円香が覚えるほどに、容易く。幾度となく。
「だ、ダメ、だよ! それは絶対ダメ! そんな事したらすぐバレちゃうよ!」
「だーいじょうぶだって。親父も前は家計簿とかマメにつけてたけどさ、最近全然つけてないじゃん。てきとーに誤魔化しておけば絶対ばれないって。試しに明日一万円だけ抜いてみてよ」
「無理……無理だよぉ……おねがい、つばめちゃん。……正気に戻って」
 そう、正気に戻って欲しいと、円香は思った。今のつばめは正気ではないのだ。早くあの、何よりもバレーを愛し、思いやりと優しさに溢れたつばめに戻って欲しいと。
「ねぇ、つばめちゃん……私にはもう、つばめちゃんしか居ないの……。……つばめちゃんしか……」
「……まどか姉?」
 怪訝そうな声を出すつばめへと歩み寄り、その足下に膝を突き、文字通り縋り付くようにしながら、円香は続けた。
「…………私ね、おじさんにレイプされてるの」
 そう。この地獄のような現実の中で、円香にとってつばめの存在だけが蜘蛛の糸だった。円香はつばめのスカートを握りしめ、涙に濡れた目で見上げながら、続ける。
「それを、陽平くんに見られて……つばめお姉ちゃんに言いつけられたくなかったら、言うことを聞けって…………いっぱいいやらしい事されて…………つばめちゃんが見たのも、命令されて無理矢理させられてる所だったの……」
「…………。」
 つばめは、何も言わない。がしかし、円香の言葉には耳を傾けているようだった。
「下着を盗んだのも、本当に私じゃないの……あれは、多分……陽平くんが……私とつばめちゃんの仲を裂くためにやったんだと思う…………」
「…………それを信じろっていうの? まどか姉の言葉だけで?」
 円香はこくりと頷く。
「ねえ、つばめちゃん……前につばめちゃんの部屋で話したときにさ、つばめちゃん言ってくれたよね? 私の事、シンユーだって。心の友って書いて、心友だって。……その心友の言葉だと思って……信じて欲しいの」
「……………………。」
 つばめは困惑するような、戸惑うような顔で円香を見る。それは少なくとも――かつて部活動に明け暮れていた頃のつばめの顔だと、円香は思った。
「………………解った、まどか姉。……まどか姉の言う事、少し信じてみる事にする」
「本当!? つばめちゃん!」
 富田家に来て、これほど嬉しい事は無かった――円香は感動の余り、うれし涙を溢れさせた。
(解ってくれた……つばめちゃんはやっぱり解ってくれた!)
 そのことが嬉しくてたまらなくて、円香はつばめのスカートを握りしめたまま感涙に噎び泣いた。



 その夜、まどかは久しぶりにつばめのベッドへと呼ばれた。つばめから話し合いたい事があると言われたからだったが、円香としては理由など何でも良かった。
「……親父の事なんだけどさ」
 同じベッドに入ってはいるが、円香は少しだけつばめから距離をとっていた。そんなことはない――とは思うが、ひょっとすると本当に晴夫の体臭が自分に染みついているかもしれず、そのことでつばめに不快な思いをさせたくないと思っての配慮だった。
「まどか姉……親父に襲われてるって本当なの?」
「………………うん」
「いつから?」
「結構前から…………ほら、前に何日かつばめちゃんのベッドで寝た時あったでしょ? あれを止めた日から」
「そんなに前から…………どうしてもっと早く言ってくれなかったの?」
「だって…………つばめちゃん、絶対ショック受けると思ったから……」
「そりゃあ、ショックだけど…………警察には言わなかったの?」
「うん……警察に行ったら、多分……パパとママの所にも連絡が行くから…………私のママ、今ちょっとノイローゼになってて……もしまた、私が襲われたって聞いたら……」
「……ますます具合悪くなっちゃう……よね」
 こくりと、円香は頷く。そう、現状はいわゆる八方ふさがりであり、唯一の望みは父が迎えに来てくれる事なのだ。
(……でも、遅い……な……そんなにママの具合悪いのかな)
 前回父に電話をかけてから、既に二ヶ月以上の月日が経っている。父は言った。母の具合が良くなったら迎えに行くと。そう言った筈だ――少なくとも、円香の中でそれは真実だった。
「…………あのさ、まどか姉。ひょっとしたら、それ……なんとかできるかもしんない」
「えっ……?」
 思いも寄らぬつばめの言葉に、円香は顔を上げてつばめを見た。
「ようはさ、警察使わずに、親父を止められりゃいいんだろ? …………アタシ、知ってるんだ。親父が絶対頭上がらないって言ってる人」
「そんな人が……居るの?」
「うん、しかも隣町にね。アタシも何度か合ったことあるんだけど、親父はホーゾーさんって呼んでた。名字なのか名前なのかは知らないけど、前に親父があの人は恩師だって言ってたのを聞いたんだ。絶対に足を向けて寝れないとも言ってた」
「ホーゾーさん……その人に相談すれば……」
「うん、さすがにレイプされてるって言うのはまずいから、セクハラされてるとかでさ。それで親父を叱ってもらえば、多分……二度と手を出してこなくなるんじゃないかな」
「本当? 本当に、もう……レイプされないの?」
 まさか、そんな解決法があったなんて――円香は嬉しさの余り頭がどうにかなってしまいそうだった。
(本当に、どうしてもっと早くに……)
 つばめに相談しなかったのだろうと、強烈な後悔にも苛まれた。もっと早くにつばめに相談し、その恩師とやらの元を尋ねていれば――あれほどまでに屈辱じみた目に遭わなくて済んだかもしれないのに。
(……でも、まだ……手遅れじゃ、ない……)
 ギリギリの所だったが、つばめは自分を信じてくれた。今はそれで十分だと、円香は思った。



 親父に内緒でこっそり住所とか調べなきゃいけないから、少し時間がかかると、つばめは言った。その間、自分は親父との事を知らないフリをするけども、恨まないで欲しいとも。
 勿論、円香はつばめを恨むつもりなど毛頭無かった。その胸の内は感謝の心でいっぱいだった。
 相変わらず、三日に一度のペースで晴夫に抱かれ続けたが、もうすぐその地獄からも解放されるのだと思うだけで幾分気が楽だった。その恩師とやらに目一杯叱ってもらって、二度と手出しできないようにしてもらおうと、執拗なまでに子種を注ぎ込まれながら、円香は叱られてぐうの音も出なくなっている晴夫の姿を想像し続けた。

 その恩師とやらの住所が判明したのは、円香がその存在を知ってから約一週間後の事だった。丁度その週の日曜が晴夫が仕入れ先へと出かける日であったから、その日に尋ねて行こうということでつばめと意見が一致した。
「そうだ、つばめちゃん。電話とかしなくていいのかな」
「電話?」
 つばめは円香の言葉の意味が分からないとばかりに首を傾げた。
「うん。だって……ちゃんと日曜日行っても良いですか、って断ってからじゃないと……」
「ああ、そういうこと。それなら大丈夫だよ、まどか姉。住所調べるついでに、ちゃーんとアポも取ってあるから。行ったら留守だったーなんて事はないよ」
「それなら、いいんだけど……」
 どこか腑に落ちないものを感じつつも、つばめの言うことだからと円香は無理矢理自分を納得させた。
 翌日、円香はつばめと共に昼過ぎに家を出た。昼過ぎに出発したのは、つばめがあまり早い時間に行っても先方に迷惑をかけるからと言ったからであり、そのことについては円香は不満はなかった。無かったが、疑問はのこった。
(隣町まで行くなら、もうちょっと早く出ないと帰りが遅くなっちゃうんじゃ……)
 隣町というのが“隣”というのは名ばかりであり、バスで一時間以上かかる距離であることを円香は知っている。そんな場所に昼過ぎから向かっては、それこそ帰りはかなり遅くなってしまうのではないか。
 円香は不審に思いつつも、つばめと共にバスに乗った。が、しかし乗った後でそのバスはどう見ても隣町へは向かわないという事に気がついた。
「実はさ、丁度近くまでくる用事があるって言ってたから、待ち合わせすることにしたんだよね」
 違うバスを選んだ理由として、つばめはそう言った。前日の発言とやや食い違う点に円香は不安を感じたが、あえて押し殺した。
 十分ほど揺られて降り立ったのは、森の中にぽつんと停留所だけ置き去りにされたような、そんな場所だった。自分が住んでいるのが山間の片田舎だということは理解していたつもりだったが、バスで十分走っただけでもう緑しかないような場所があるというのは正直驚きを隠せなかった。
「こっちだよ、まどか姉」
 つばめに腕を引かれ、円香はどんどん人気の無い方へと連れて行かれる。やがて木々の切れ目からコンクリート製の古い建物が見えるようになった。
「あそこが待ち合わせ場所だよ」
 それはどう見ても、潰れた病院かなにかのようにしか見えなかった。つばめは立ち入り禁止と札のかかったロープを跨ぎ、まるで我が家に入るような気楽さでずんずん廃墟の奥へと入っていく。
 廃病院だと思った円香の推測は当たっていたようで、そこかしこにその名残を思わせるようなものが散乱していた。つばめは階段を上がり、二階のとある部屋の中へと入った。それは元々病室として使われていたものらしく、部屋の隅にはいくつかの折りたたみ式のベッドが置かれていた。
「つばめちゃん……ホントにこんな所で待ち合わせしてるの?」
 声が震えるのを、円香は止められなかった。そんなはずはない、そんな筈はないと、“己の直感”を頑なに否定しつづけながら、縋るように言った。
 つばめは円香の言葉を無視して、折りたたみ式のベッドの一つを展開させると、埃を軽く払ってその上へと腰掛けた。
「まどか姉も座りなよ」
 促されて、円香はしぶしぶつばめの隣へと座った。つばめはちらりと腕時計を見て、そしてにこりと笑った。
「実はさ、この場所……アタシの秘密の場所なんだよね」
「秘密の場所……?」
「そそ。中学の頃とかさ、よく家出とかしたりして、ここに食べ物持ってきてさ。ベッドはほら、ちょっと埃くさいけど一応あるし。冬とかじゃなかったら、二,三日余裕で暮らせるよ」
 ただ、トイレに難ありだけど――と、つばめは苦笑する。
「アタシだけの秘密の場所なんだよね。だから、まどか姉にも教えてあげたくってさ」
「そう、だったんだ……」
 だから自分はこんな場所に連れてこられたのかと、円香は己を納得させようとした。つばめの行動と言動が一致していないという事実から、必死に目を背けながら、それでもつばめを信じようとした。
「……そろそろかな」
 再びつばめが時計に目を落とし、呟く。ざわりと、まるで巨大な猫の舌で舐められたような胸騒ぎが、円香の胸を襲った。
 咄嗟に、円香はベッドから腰を上げた――が。
「何処行くの、まどか姉」
「何処、って……」
「座っててよ、もうすぐだから」
「でも……」
「座ってて」
 つばめに肩を押さえつけられる形で、円香はベッドに腰をおちつけた。――その時だった。円香は病室へと近づいてくる足音を聞いた。
「誰か……来る……」
「そりゃあ来るよ。待ち合わせしてるんだもん」
「でも……」
 この足音、一人ではない――円香は涙すら滲んだ目で、つばめを見た。
「……あのさぁ、まどか姉。今だから言うけど…………アタシ、見ちゃったんだよね」
「見た……って、何を……?」
「まどか姉と、親父がセックスしてるところ」
「……っ……」
「まどか姉ってば、こーんな風に親父に抱きついちゃってさ、あー! あー!ってすんごい気持ちよさそうな声出してたよね。…………アレでレイプ? 笑わせんじゃないわよ」
「つ、つばめ……ちゃん?」
「おー、居た居た。つばめぇ、お前の地図解りづれーよ」
 円香が消え入りそうな声でつばめの名を呼んだ瞬間、病室のドアが開き、同時にぞろぞろと私服の男達が室内へと入ってきた。見たところ、まだ円香よりは年下の――恐らくはつばめと同級生くらいの男子達だった。
 その数、およそ十人強。
「ごめんごめん。でもいーじゃん、一回来れば次からはすぐ解るっしょ?」
「まぁな。……で、その女が例の?」
「そそ。一人五千円ね。言っとくけど先払いよ?」
「わーってるって。最後までヤッていいんだろ?」
「うん。遠慮なんかしなくていいよ。……その人、小学生相手でも手を出しちゃうようなインランだから」
 男達がヒュウと口笛を鳴らし、どよめいた。そして皆が皆、獲物でも見るような目で円香を見た。あぁ――と。円香はただもうそれだけで、全てを諦めてしまった。
「じゃーねー、まどか姉。アタシ外で待ってるから、バイト頑張ってねん」
 つばめは男達から受け取った五千円札をポケットにしまい、病室を後にする。ばたんとドアが閉められた瞬間、男達は円香を囲むようにベッドの周りに集まってきた。
「あ……あっ……」
 逃げる事など、出来る筈がない。泣いて叫んでも、結果は何も変わらない。
 だったら――。
「お願い、します」
 円香は男達を見上げながら、涙を零しながら、哀願した。
「暴れたりしません……ちゃんと、言うことを聞きます……だから、乱暴にしないで下さい……優しく、して……下さい……」
 必死の哀願に対する返事は、男達の下卑た笑い声だった。


 集まった男達はほぼ全員が童貞らしいという事を、円香は男達の手つきで知った。皆が皆余裕の全くない飢えた獣のように円香の体を求め、滾る精の限りを吐き出していった。 他の男の精液が気になる者は持参したコンドームを使い、そうでないものは遠慮無く生で挿入し、中出しをした。代わる代わる犯されながら、こいつらは性病が怖くないのかと、円香はまるで人ごとのように思った。
 恐らくは、つばめから在ること無いこと言い含められているのだろう。皆が皆、安宿の売春婦か何かのように円香を扱った。円香も男達に下手に逆らわず、フェラを命じられればフェラをし、飲めと言われれば笑顔すら見せて精液を飲み干した。自分の身を守るために、そうするしか無かった。
 最後の男の相手を終えた時にはもう、円香は自分が何人相手にしたのか解らなくなっていた。
「まどか姉お疲れさまー、はい、おしぼりだよ」
 最後の男と入れ替わりに部屋に入ってきたつばめにおしぼりを渡され、円香は無感動にそれを受け取るや、体に付付着した精液を拭った。その量があまりに多すぎて、とてもおしぼり一つでは足りなかったが、つばめが追加を持ってくる様子も、またそのつもりも無い様だった。
 自分を騙したつばめを恨む気持ちは、不思議と沸いてこなかった。途中で、薄々この結末を予想していたからかもしれない。予想していて尚、逃げなかったのだから自分の責任だとすら、円香は思った。
「ん? どうしたの? 何か言いたい事があるなら言いなよ、まどか姉」
 つばめはつばめで、円香が何も言わない事を不思議がっているようだった。
「別に……」
「あ、そ。それならいーけど。……それよりほら、見てよまどか姉! たった半日で八万五千円だよ!? まどか姉ってば人気在りすぎ! うちのバイトの子とヤりたくない?ってちょっと声かけただけでこれだもん!」
「…………。」
「あ、そうそう。頑張ってくれたまどか姉にも分け前あげないとね。……はい、百円」
 つばめはスカートのポケットから百円玉を取り出すと、汚いものでも摘むような手つきで円香の方へと差し出した。
 円香はそれを、緩慢な仕草で受け取った。
「ありがとうは? まどか姉」
「……ありがとう」
「言ったね? まどか姉も分け前受け取ったんだから、被害者じゃなくてもう共犯だよ。アタシが捕まったら、まどか姉も捕まるってことだからね」
 つばめが早口にまくし立てるその内容に、円香はふっと思わず笑みを零した。
(…………心配しなくても、誰にも言ったりしないよ、つばめちゃん)
 こんな事で警察に駆け込むくらいならば、そもそも晴夫にレイプされた時点で行っている。それが出来ないからこそ、自分は今生き地獄を味わっているのだ。
 この件が公になるとすれば、それは男達の口からだろう。それに関しては、最早円香のあずかり知らぬ事だった。


 週一でちゃんとした休みが欲しい――晴夫にそう交渉しろと、つばめに言われた。それも、日曜日か土曜日にしろと。その日は自分が店番に入るから、代わりに円香には男達の相手をしろと。つまりはそういう事だった。
 円香は、言われるままに晴夫に交渉した。晴夫は最初こそ渋っていたが、途中からつばめが会話に混じり、自分が家の手伝いをするからまどか姉にもちゃんとした休みをあげてと、さも出来の良い娘のような説得を続けた結果、渋々晴夫は条件をのんだ。
「アタシがバイトしてる間、まどか姉がしっかり稼いでくれるんだもん。時給一万円くらい貰ってるのと同じだもんね」
 つばめは交渉が成功するなり、円香にだけ聞こえるようにその耳に囁いて居間を後にした。

 廃病院での事があってから、昼間の客層にも変化があった。そう、明らかにパンを購入する以外の目的があるらしい客がやってくるようになったのだ。
 全て若い男性客だった。皆が皆、パンを選ぶフリをしながらじろじろと横目で円香を観察していた。値踏みしていると言ってもいい。恐らくは、“噂”を耳にしてやってきた者達だろう。彼らにしてみれば、カレーパンやクリームパンなどが値札つきで並んでいる中で、“ササキマドカ”という商品が五千円の値札つきで置かれているように見えていたのかもしれない。
 そしてどうやら、男達にとってその値段は“安い”と感じるらしかった。そうやって“下見”に来た男達の殆どが、その週の日曜日に再び顔を合わせる事になった。中には常連とばかりに毎週のようにやってくる男も居た。その中の一人が、例の“カッコイイ先輩”だった。
 そう、彼は“最初の時”にも顔を連ねていた。下卑た笑みを浮かべる男達の中で、唯一円香を哀れむような、それでいて居心地の悪そうな顔をしていたのが印象的だった。
 男達の“円香の食べ方”はそれぞれ違っていた。複数人で同時に、という者達もいれば、他の男達を一端部屋から閉め出し、一人でじっくり楽しもうとする者も居た。ただ、じっくりとはいってもつばめによって最低限の時間は決められているらしく、一人の相手を三十分以上することは殆ど無かった。
 その“先輩”は人払いをしての形を望んだ。そして、他の男達がそうしたのとは違い、円香をベッドに座らせ自分もその隣に座って、語りかけてきた。
「……どうしてこんな事をしてるんですか?」
 したくてしてるわけじゃない、と円香は思った。
「もしかしてお金が必要なんですか? だったら……力になれるかもしれません」
 別にいらないと、円香は思った。
「お願いですから、こんな事はやめてください! 貴方は……こんな事をする人には見えない!」
 したくてしてるわけじゃない、と円香は再度思った。
「前に……貴方が泣いてる所を見ました。…………何か、事情があるんじゃないんですか?」
 そう、事情はある。けど、それをキミに明かす気はないと、円香は思った。
(どうせ、この男も……)
 “弱み”を知った瞬間、ニタリと。あの狂った笑みを浮かべるに決まっているのだ。そして、つばめには内緒でこっそり自分と会うようにしろとか、そういう事を要求して来るに決まってる。
「…………力になりたいんです。好きなんです、貴方が」
 私の事をろくに知りもしないクセに、と円香は内心毒づいていた。
 もう騙されない。騙されてたまるものか。
 円香は頑なに心を閉ざし、一切口を開かなかった。

 それからも男は毎週のように円香を“買い”、しかし一度も手は出してこなかった。円香を自分の隣へと座らせ、円香が無視するのも関わらず執拗に話しかけてきた。最近読んだ本の話、テレビドラマの話。まるで円香が“そういう普通の会話”に飢えている事を見透かしているような、巧みな話術だった。
 しかし、円香は無視した。男の話に応じてしまえば、きっと自分は靡いてしまう。男を信じてしまう。そして、またしても裏切られたときの痛みに、とても耐えられるとは思えなかった。
 だから、円香は頑ななまでに無視した。男は次の週も、その次の週もやってきて話をした。しかし、円香は無視し続けた。
 そのさらに翌週、またしても男はやってきた。円香の中で、僅かに気持ちが綻び始めていた。今日、もしまた同じように優しく話しかけられたら――気持ちが崩れてしまうかもしれない。やがて裏切られる事を覚悟の上で、助けを求めてしまうかもしれない。
 そんな円香の“不安”は杞憂に終わった。何故なら、その日の男は円香を座り直させることもなく、他の男達となんら変わらぬ荒々しい手つきでレイプしたからだ。
 ちくしょう、ちくしょう!――男は何故か涙を流しながら、そんな言葉を呟いていた。
(……良かった。……信じなくて、本当に良かった)
 男に荒々しく抱かれながら、円香は心底そう思っていた。これが男の本性なのだと。そして、自分はそんな男達が性欲を吐き出す器に過ぎないのだと。
 翌週から、男は姿を見せなくなった。それでいいと、円香は思った。



 父に電話をかけてみようと、円香は唐突に思い立った。いくらなんでも連絡が遅すぎるからだ。母の容態が思わしくないならないで、そういうわけだからまだしばらくは迎えに行けないと、そんな連絡くらいくれてもいいではないか。
 最初に、夕食前に電話をかけた。しかし父は出ず、留守番電話サービスへと繋がった為、円香はまたかける旨を言い残して電話を切った。夕食後、入浴を経て再度かけた。しかしまたしても留守番電話サービスへと繋がった。
 おかしい、と思った。円香は、父の生活習慣をよく知っている。よほどのことが無い限り、その時間に携帯に出られないほどに忙しいという事は無い筈だった。何よりも、着信に気がついたならすぐさまかけ直してくるべきではないのか。
 円香は再度、就寝前に電話をかけたが、やはり繋がらなかった。その日は諦めてそのまま布団に入り、翌日改めて円香は電話をかけた。
『……なんだ』
 漸くにして電話が繋がり、父親の不機嫌そうな声が聞けたのは、通算三十回以上かけた後だった。
「あっ、もしもし……パパ? ごめんね、忙しかった?」
『……何の用だ』
 父親はどうやらいつになく不機嫌らしい。円香はどきりと冷や汗をかきながら、恐る恐る“本題”を口にした。
「んとね……ママの具合……どうかな、って思って……電話かけてみたんだけど……」
『良くはない』
 突っ慳貪とした言い方だった。さも“誰のせいだと思っているんだ”とでも言外に含めるような声に、円香は身の縮む思いだった。
「そう、なんだ……早く、良くなるといいね………………じゃあ、まだしばらくは……一緒には住めないのかな……」
『…………。』
 沈黙が続いた。その沈黙が、円香に希望を抱かせた。そっちの生活はそんなに辛いのか?――同情するような声で、そう言ってくれるのではないかと。
『…………円香、いつまでも甘えてるんじゃない』
 しかし、父の言葉は円香の予想とは全くの逆だった。
『お前ももう二十歳だろう。いい加減自分の身の振り方くらい、自分で決めたらどうなんだ』
「え……パ、パ……?」
『何がパパだ。一体いくつまでそんな子供みたいな呼び方を続けるつもりなんだ』
 そんな――と、円香は父親の言葉に身が震える思いだった。
(そう呼んで欲しいって……パパが、言ったのに)
 円香は覚えている。中学に入ったばかりの頃、珍しく弱気な顔をした父に尋ねられた。円香はパパの事が嫌いじゃないのか、と。
 聞けば、上司の娘が丁度円香と同じ年頃であり、聞くに堪えないほどの扱いを娘から受けているのだとか。そんな話を聞かされて、つい弱気の虫が顔を出してしまったらしい父が、円香には可愛いとすら思えた。
 確かに、円香も年相応に反抗の気持ちはあった。しかしそれ以上に一人娘だからと、両親から注がれた愛情が勝った。大丈夫だよ、パパ。私はいつまでもパパの事大好きだよ――そう言う円香を、父は優しく抱きしめてくれた。いつまでもそうやってパパと呼んで欲しいと言われ、円香は多少恥ずかしくともそう呼び続けた。
 なのに。
『……いいか。もうお前は大人なんだ。家に帰ってこようなんて考えるな。解ったか』
「待って、パパ! お願い、切らないで!」
 会話の流れから、電話を切られると思った円香は慌てて叫んでいた。
「私、おじさんにレイプされてるの!」
 受話器の向こうで、父が息を飲むのが円香にも解った。
「何回も、何回も……イヤだって言っても、止めてくれなくて…………それに、他にもいっぱい……嫌なことされてて……」
『………………それは本当に強姦なのか?』
 父の言葉の意味が、円香にはしばらく分からなかった。
「……え?」
『お前に非はないのか、と言ってるんだ』
「パパ……何を、言ってるの?」
 私、レイプされたんだよ?――円香は泣き笑いのような顔をしながら、再度口にした。レイプ――その単語を口にするだけでも、心が酷く痛んだ。
『最初に、お前の方が晴夫に気があるような事を言ったんじゃないのか』
「言ってない! そんなこと、絶対に――」
 円香は必死になって否定をしたが、『どうだかな』という父の呟きが、自分の言葉がまったく信用されていないという事を物語っていた。
『晴夫の方はなんて言ってるんだ?』
「えっ……?」
『お前と結婚したい……そう言ってるんじゃないのか?』
 ぐらりと。視界が揺れた。
 晴夫が、結婚を申し込んできているのは事実だ。しかし何故それを父が知っているのだろう。
『晴夫はお前と結婚を前提にした付き合いをしたいと、そう言ってたぞ。…………つまり、そういうことじゃないのか?』
「わからない! パパの言ってる事、全然解らないよ! 私、あの人と結婚なんて絶対にイヤだよ!」
『……お前はまだ自分の立場が解っていないのか』
 呆れを通り越して怒りすら感じる――そう言いたげな、父の声。
『どうして家を出なければならなくなったのかを考えた事はないのか。家族にも、会社にも迷惑をかけて、そのことを反省はしないのか』
「反省……って……」
 まるで、全ては円香のせいだと言わんばかりの父の言葉に、円香は危うくその手から携帯電話を取りこぼしてしまいそうになる。
『いいか、これだけは言っておくぞ。うちに戻ってきても、もうお前の居場所はない。お前の居場所は、“そこ”しかないんだ。…………二度と電話なんかかけてくるんじゃない』
「パパ!? 待って、お願い――」
 見捨てないで――円香がその言葉を口にするよりも早く、一方的に通話が切られた。円香は慌ててリダイヤルをするが繋がらず、さらにそれを繰り返すうちに、別のメッセージが流れるようになった。
『この電話番号からの電話は、お受けできません』
 それは、円香にとって絶望を告げるメッセージだった。
「……ぅぷっ……」
 ショックの余り、円香は唐突に吐き気を覚え、慌ててトイレへと駆け込んだ。げぇげぇと、ろくに何も入っていない胃をひっくり返すようにしてはき続けた。


 
 
 
 望みの糸は絶たれた。
 正真正銘、自分は親に捨てられたのだという事を、円香は漸くにして理解した。
 だからといって、望みが見えないから即座に命を絶つ――というわけにもいかなかった。何か、何か他に方策はないかと、円香は必死になって考えた。
 素直に警察に助けを求めるというのが、真っ先に思いついた案だった。しかしそれも、今となっては――前とは違う理由で――下策かもしれないと円香は思った。
(……パパまで、あんな事言うなんて)
 父の口ぶりは、まるで晴夫の暴行を暗黙のうちに許諾しているように円香には聞こえた。親友が欲しいというのなら丁度良い、不出来な娘だが引き取ってもらおう――そう言わんばかりの言い方だったではないか。
 何より、そうして被害届を出して警察の保護を受けた後、自分は一体何処に行けばいいというのか。父からはハッキリと家には帰ってくるなと言われた。かといって、富田家を出て一人でやっていけるような貯金も無い。
(……結婚、するしか……ないの?)
 警察に行き、根無し草になるか。晴夫を受け入れ、その妻となるか。それとも――大まかに分けて、円香の未来は三択だった。

 そのどれも選ぶ事が出来ず、円香はただただ惰性のままに日々を過ごした。相変わらずつばめに売春を強要され、晴夫には妊娠を強要される毎日だったが、“決断”をすることが出来なかったのだ。
 そんな矢先、円香は唐突に、昼間。店の中で晴夫に襲われた。
「ちょっ……晴夫、おじ、さん?」
 珍しく工房から出てきて、店舗の方へと顔を現した晴夫は鼻歌交じりにドアの前に“準備中”の札を下げ、鍵を閉めた。そしてそのまま円香の居るレジへと歩み寄るや否や、その裏に円香を押し倒してきたのだ。
「んっふふぅっ……円香ちゃん、ごめんね。なんだか今日は円香ちゃんの後ろ姿が妙に色っぽくって、おじさん我慢できなくなっちゃったよ」
「ちょっ……やだっ、やっ……そんなっ……だって、昨日、した、ばかり……」
「そうなんだよねぇ。本当ならまだまだ全然我慢出来る筈なんだけどさ……どーしてもダメなんだよぉ。円香ちゃんのマンコに入れたくて入れたくて仕事が手につかないんだ。だからちょっとだけ、ね? いいだろ?」
 良くない、と言って通じる相手でないことは、円香は百も承知だった。恐らくは晴夫も、強気に出続ければやがて円香は逆らわなくなるという事を見透かしているようだった。
 晴夫はそのまま好き放題に円香の体をまさぐり、スカートをまくり下着だけをずらして挿入してきた。
「はぁはぁ……おじさん一応これでもガマン強い方なんだよ? それなのに、円香ちゃんのマンコの気持ちよすぎてもうクセになっちゃってるんだよぉ……あぁー、いい、気持ちいいよぉ!」
 晴夫は円香の顔の上に異臭のする涎を滴らせながら叫び、腰を振る。行為自体は短く、十五分ほどで終わった。
 だが。
「……円香ちゃん、何処に行くの?」
 晴夫が離れるやいなや、円香は衣類をただしながらレジを後にしようとした。が、晴夫の言葉がそれを止めた。
「何処、って……シャワーを……」
「ダメだよ、円香ちゃん。今日はこのまま店番をするんだ」
「で、でも……!」
「まんこにボクの精液を貯めたまま、お客さんの相手をするんだよ。……キヒッ、興奮するだろう?」
 晴夫は円香の背後からその体を抱きしめ、愛しいものでも撫でるかのように下腹へと手を這わせてくる。
「っ……うぐっ……!」
 その時、円香はまたしても吐き気を感じ、今度はトイレに駆け込むのが間に合わずその場で戻してしまった。
「おやおや……まどかちゃん。ひょっとして“つわり”かい?」
 晴夫はニヤニヤと嬉しげに口元を綻ばせながら、円香の背中を撫でてくる。
 違う――と、円香は吐きながら心の中で否定した。これは断じてつわりなどではない。その筈がないと。
(だって……)
 妊娠などする筈がないから。だから、これは絶対につわりなどではない。
(……えっ……)
 げえげえとひとしきり吐き戻した円香は横目で晴夫の顔を見て、思わず背筋が冷えた。
 妊娠の筈はない。筈はないのに、晴夫の意味深な笑みが、円香の心を激しく揺さぶったのだ。
 そう――まるでそれは、“騙されてる事に気がついてない円香ちゃんは本当に可愛いなぁ”とでも言わんばかりの――。



 店番が終わるや否や、円香は真っ先にシャワーを浴びた。居候の気兼ねなどよりも、全身を包む不快感をぬぐい去る事の方が大事だった。
 シャワーの後で、円香は晴夫の目を盗んで居間の戸棚の奥、そこに隠してある錠剤の瓶を手にとった。それは、家政婦に連れられて妊娠の検査に行かされたとき、無理を言って処方してもらった避妊薬だった。役に立たないに越したことはない、越したことはないが“万が一”が起きた時のためにと。
(大丈夫……コレを飲めば……飲んでいる間は、妊娠なんて……)
 そう思っていたからこそ、今まで耐えてこられた。晴夫がどれほど孕ませようとしてきても無駄なのだと。むしろ、徒労を繰り返しているだけの晴夫を心の中で笑い続ける事で、円香は己の今にもかき消えてしまいそうな自尊心を保ってきた。
(……でも、もう……残り少ない……)
 むしろ、今までよくもったと言える。こればかりは、薬局で買う――というわけにはいかない。産婦人科に行き、きちんと処方してもらわなければならない。
「おや、円香ちゃん。……何か捜し物かい?」
 背後から声をかけられた瞬間、円香は大あわてで振り返り――と同時に、手に持っていた瓶は背に隠した。
「ちょ、ちょっと……胃薬とか、無いかな……って……」
「ああ、そうか。昼間戻してたもんね。あとで探しておいてあげるよ」
「……ありがとう、ございます」
 円香は小声で礼の言葉を言い、晴夫から逃げるように居間を後にした。

 夕食の際、円香はまたしても抑えきれない吐き気を感じ、トイレに駆け込んで嘔吐した。
 ちがう、これは精神的なものだ。むしろ今のような現状で、平気な顔をして食事をとれる方がおかしいのだと、円香は吐きながら懸命に否定をした。
 しかし、疑念が消えない。避妊薬といえども、絶対ではないのではないかという思いが沸々とわき上がってくる。
(違う、違う……絶対に違う!)
 吐き終わった後、円香は肩を抱いて震えた。晴夫の子供を身ごもってしまった自分の姿など、たとえ想像の上であっても耐えられるものではなかった。
「円香ちゃん、ご飯はちゃんと食べないとダメだよ?」
 気がつくと、トイレの入り口に晴夫が立っていた。
「……もう、一人の体じゃないんだからさ」
 そう、晴夫の中ではそういう事になっているのだろう。その笑みも、目論見通りに妊娠させることが出来たという思いから生まれているのだろう。
 だから、気にする事はない。騙されているのは晴夫の方なのだ。
 円香は晴夫を無視し、何事も無かったかのように食卓へと戻り、後かたづけを始めた。陽平も、つばめもまるで円香など目に映っていないかのように振る舞っていた。つばめはともかく、あれほどまとわりついてきていた陽平がまるで憑き物でも落ちたかのように手を出してこなくなったのは少々意外ではあったが、想像はついた。そう、円香の予想が正しければ――……哀れだとは思うが、円香にはどうすることも出来なかった。
 夕食の片づけを終え――まるで、一人きりになる口実を作っているかのように円香は全ての家事を行い、富田家の家族全員が各々の寝室へと戻っていくまで息を潜めて過ごした。
 
 ――そして二日後、円香は晴夫の笑みの本当の意味を、知った。


 


 日曜日の朝、円香は一人でバスに乗っていた。行き先はいつもの廃病院――そう、恒例の“バイト”の為だ。
 つばめは、最初の一回以降は一度も同行していなかった。そう、彼女には円香の代わりに店番をするという大役がある為、円香は一人で廃病院へと赴き、男達に体を差し出さねばならなかった。
 そのことに慣れたわけではない。辛くないわけでもない。それでも、何故自分は言われた通りに向かっているのだろうと、円香は我が事ながらそのことが不思議で堪らなかった。
 いつもの停留所でバスを降りると、早くも下卑た笑みを浮かべた男達がまるで円香を挟み込むように身を寄せてきた。どうやら、“客”の何人かが同じバスに乗っていたらしい。
「オハヨー、円香ちゃん。今日もよろしく頼むよ」
「相変わらずいいケツしてんなぁ。今日もたっぷり可愛がってやっからな?」
「ほらほら、モタモタしてねーで早く行こうぜ。チンポ立ってきちまったよ」
「バーカ、早えーよ」
 ゲラゲラと笑い声を上げる男達に背中を押される形で、円香は“いつもの場所”へと連れて行かれる。
 埃くさいベッドだけが置かれた病室には、既に10人以上もの男達が集まっていた。円香は男達の衆目に晒されたまま、ゆっくりとその場で脱衣をする。全ては脱がず、下着だけの姿になると、男達が一人、また一人と顔をニヤつかせながら病室から出て行く。最後に残った一人が“最初の相手”だという事を、円香は経験から知っていた。
(……最初はこの人、か)
 最後まで病室に残った若い男の顔をちらりとみて、円香はさらに憂鬱になる。誰も彼も一癖も二癖もある男達ばかりだが、その中でも特に相手をするのが億劫だと感じる男達が数名いる。
 その中の一人が、目の前の男だった。
「おっはよー、円香ちゃん。いやぁ、一番手やれるなんて感激だよぉ、いつもいつも他の奴の精子が髪についてたり、中出しされまくってたりだったからさぁ」
 男達が“順番”をどうやって決めているのか、円香は知らない。どうせジャンケンでもして決めているのだろう。
「今日はまっさらな円香ちゃんに俺っちがいーーっぱい種付けしてあげるからさ。期待しちゃってよ」
 男はいつになく高いテンションで円香の肩を押すようにしてベッドへと倒すと、そのまま強引に唇を奪ってくる。
「んっ……やっ……」
「んっ、ちゅっ……んんっ……!」
 男の舌が、軟体動物のように唇の中へと割り入ってくる。
「はぁはぁ……円香ちゃん、円香ちゃん……!」
 一言で言えば、男は“キス魔”だった。常連と言っても良いほどに殆ど毎週円香の体を買っては、執拗なまでにキスを続けてくる。それがとにかく不快で、円香にとって“嫌な相手”の上位にランクインしていた。
「ほら、円香ちゃん。もっと舌突き出すようにしてみて?」
 男の言いなりになどなりたくはない。が、言うことを聞かなければ後が怖い。円香は渋々口を開き、舌を突き出すようにする。
「んんっ、んんっ。んんっ!!」
 差し出した舌を男が嬉々として吸い始め、円香はぎゅうとベッドシーツを握りしめながらその不快な感触に耐えねばならなかった。
「はぁはぁ、円香ちゃんの舌美味しいよぉ…………もっともっとキスしてあげるからね。……円香ちゃんもキス大好きだろ?」
 はい、という返事しか求められていないのだということを、円香は無論理解していた。
 …………。
 ……。


 ……。
 …………。
 三番目に部屋に入ってきた男も常連――そして、“嫌な相手”の上位に入る男だった。「円香チャーン、お待たせー、待ったー? 待ったよねぇ?」
 他の男達よりも一回り大きな体躯に、どこかべたつくような言葉遣い。晴夫を三十才ほど若くしたようなそれはまさに典型的な“キモオタ”と呼ぶに相応しい外見だった。男はベッドの上で力無くぐったりと仰向けのままの円香の手を握り、引くようにして自らの股間へと当ててくる。
「ほらぁ、分かるだろ? 一週間ずーっとオナ禁してパンッパンなんだよぉ」
 こんな事を言われて、どういう答えを期待されているのか、円香には皆目見当がつかなかった。「わぁ、私の為に一週間も我慢してくれたんですね、嬉しいですぅ」とでも言って欲しいのだろうか――円香は摩耗しきった思考の片隅でそんな事を思い、少しだけ鼻で笑った。
「ほらほら、円香ちゃん寝てないで早く起きて。いつもみたいにシて?」
「……はい」
 円香は体を起こし、そのままベッドから落ちるようにして男の前へと膝を突くと、ズボンのジッパーを下げ中から既に臨戦対戦になっているペニスを取り出す。
「おおうっ、円香ちゃん積極的だねぇ」
 早く終わらせたいだけだと円香は心の中で毒づきながら、円香は感情を殺してペニスへと唇をつける。
「おふっ……おふぅっ! いイッ……いいよぉ……円香ちゃんのクチマンコ最高! 円香ちゃんフェラ巧すぎぃぃ!」
 唇をすぼめるようにして吸い上げながられろれろとなめ回してやると、忽ち男は気味の悪い声を上げながら両足をがくがくさせ始める。
「はぁはぁ、ダシが聞いてて美味しいだろう? 円香ちゃんの為に一週間チンポだけは一切洗わなかったからね。丁寧に舐めて綺麗にしてくれよ?」
 優しく髪を撫でながら、男は自慢げにそんな事を言う。円香は可能な限り舌から伝えられる情報を遮断しながら、男のペニスのくびれや皮の間に溜まった恥垢を舌先でこそげ取っていく。
「あぁーー! あぁぁぁーー! 凄い、凄いよ! オナホなんかより百万倍良いよぉ! はぁはぁっ、……で、出るっ……出るよぉ!」
 まだ咥えて一分と立っていないというのに、男は早くも甲高い声を上げながら円香の頭を掴み、自ら腰を使いながらそんな声を上げる。
「……んんっ……!」
 咥えたペニスがびくりと震え、生臭い液体が勢いよく口腔内に溢れてくる。円香は眉を寄せながらそれらを受け止め、口腔内へと溜めていく。
(っっ……いつもより、濃い…………量、も……)
 一週間溜めてきたというのは嘘ではないのだろう。口腔内から鼻へと抜けていく汚臭に、円香は咄嗟に吐き出しかけて、慌てて両手で口を覆わねばならなかった。
「ふぃぃぃぃ…………イッパイ出たよぉ……ほら、円香ちゃん、お口あけて見せてみて?」
「…………。」
 円香はそっと手をどけて、男を見上げるようにして口を開けて見せる。
「ふひっ、ふひっ、真っ黄色なザーメンが円香ちゃんの口にいっぱいっ、いっぱい! ほら、口を閉じてくちゅくちゅってよーく味わって?」
「んっ……んんっ……」
 言われるままに、円香は口を閉じ、くちゅくちゅと唾液と混ぜ合わせるようにして音を立てる。正直、吐き気を催す程に不快ではあったが、言うとおりにしなかった場合にどういう目に遭わされるかを考えると、円香には選択肢は無かった。
「まだだよぉ、まだまだ……よーーーく味わうんだ」
 この男の厄介な所はここだった。いつもいつも五分以上もの時間をかけて精液を口の中に溜めさせられるのだ。その間、円香は吐き気を堪え続けるのが苦痛で堪らない。
「よし、飲んでもいいよ。ほら、ごっくんして?」
「んっ……っ……」
 飲むところが男によく見えるように円香は喉をさしだし、ごくりごくりと精液を飲み干していく。
「あぁぁぁーーー……良いよぉ、円香ちゃん最高! あぁぁ……また勃ってきたから、もう一回やろうね?」
 そう、これもいつもの事だ。男の目的は性行為そのものではなく、自分の精液を飲ませる事を目的に、円香の体を買うのだから。
 …………。
 ……。


 ……。
 …………。
「い、イヤッ……止めてっ……やっ……そんなっっ……!」
「うるせーよ。いいからジッとしてろよ。キレーに撮ってやっから」
 小型のムービーカメラを構えた男がにたりと笑い、さらに周囲にいる男達に手短に指示を出す。忽ち複数の手によって円香はベッドへと押さえつけられ、身動きが取れなくなる。
「お、おねがい、します……何でも、言うことは聞きますから……と、撮るの、だけは……」
「安心しろよ。仲間内だけで見て楽しむだけだからよ。いいか、つばめには言うなよ。チクッたらこの動画ばらまくからな?」
 そう、楽しむのはあくまでこの場所の中だけ。写真をとったり、動画を撮ったりするのは禁止であると、つばめから通達がいっている筈だった。
 しかし、それを監視する目が無い以上、そのような規則は形骸にも等しい。
「やぁぁ……お願い、ですから……顔は……顔だけは、撮らないで…………」
 こういう動画を撮られるという事がどういう未来に直結するか、円香は悲しいほどに理解していた。
「へっ、売春やってるような女でも動画撮られんのは嫌なのかよ」
「いーからさっさと足開けよ。ホラ!」
「ひぃっ」
 殴られたわけではない。ただ、顔の側でパンッ、と手を鳴らされただけだ。ただそれだけの事なのに、円香はもう悲鳴を上げて全身を強ばらせてしまう。
 円香を囲む男達がゲラゲラと声を上げて笑う。――そう、こいつらは毎回“多人数で同時に”というプレイを楽しむ男達だ。そしてそのプレイの最中で、円香が不意に大きな音を立てられたり、罵声を浴びせられる事にひどく耐性が無いという事を見抜かれてしまっていた。
「ほーら、円香ちゃん。カメラに向かってヤラしくおねだりしてみよーか?」
 ムービーカメラを持った男がニヤつきながらそんな事を言う。円香の体を押さえつけていた男達が、それは名案だと言わんばかりに手を離し、ベッドから距離を撮る。
「おね……だり?」
「そそ。足開いて、指で広げながらチンポ入れて下さいーっておねだりしろよ」
「…………っ……」
「ほら、早くしろよ!」
 がんっ、とベッドの足が蹴られ、それだけで円香は全身を竦ませてひぃと悲鳴を漏らす。男達がドッと笑い声を上げ、口々に円香を急かしてくる。
「っ……お願い、します…………ち……チンポ、入れて、下さい……」
「おいおい、いくらなんでもそのままはねーだろ。ちったぁ自分で考えてアドリブ聞かせろよ、頭ワリーな」
「無茶言うなって。五千円で体売るような女だぜ? 頭良いわけねーじゃん」
「そういやこいつ、高校中退の最終学歴中卒なんだってよ。つばめが言ってたぜ」
「マジかよ。今時中卒とかありえねー。巨乳は頭悪いってマジだったんだな」
 ゲラゲラと男達が嘲り、笑い声を上げる。
「てゆーか、ひょっとして義務教育じゃなきゃ中学もヤバかったんじゃね?」
「円香ちゃーん、九九は言えまちゅかぁ? 5かける5は何かなぁ?」
「ほら、黙ってねーで答えろよ!」
 がんっ、とまたしてもベッドの足が蹴られ、円香は悲鳴を漏らす。
「に、25……です……」
「おお、スゲー!」
「九九は分かんだ。凄いねー、円香ちゃん」
 パチパチと男達がニヤつきながら盛大な拍手をする。円香はただただ、涙を滲ませながら屈辱に耐えるしかなかった。
「まー、バカな円香ちゃんにはおねだりはちっとキビシーかぁ。……しゃーねえから、カメラの前でオナニーでもしろよ。見ててやっからよ」
「ちゃんとイくまで続けろよ」
「男の名前言わせながらやらせたほうがよくね?」
「それ採用。円香ちゃん、俺らの中で誰が一番好き?」
 男達の、言葉による陵辱から逃げるように円香は視線を背ける。――それも、何の解決にもならない、それどころか時間稼ぎにしかならないという事を、円香は知っていた。
 …………。
 ……。

 ……。
 …………。
 もう、何人を相手にしたのかもわからない。
「円香ちゃん、どうしたの……泣いてるの?」
 円香の体にしがみつくようにして腰を振りながら、男が耳元で囁いてくる。
「ねぇ、どうして泣いてるの?」
「…………っ……。」
 円香はもう、ただただ首を振るしかなかった。
「ねぇ、答えてよ。気持ちよくないの?」
「きもち、いい……です」
「嘘でしょ? だったらどうして泣いてるの?」
 あぁ、この男も常連の――そして、最も相手をするのが嫌な相手の一人だと、円香は遅まきながらに気がついた。円香と同年代、或いは少し下くらいの年齢が最も多い客層の中で一人だけ三十台かそれよりやや上。恐らくは会社員か何かなのだろう、いつも背広姿で男は参加していた。
「他の奴らに酷いことされたの?」
 そう、この男はいつもいつも、こうして質問攻めにしてくるのだ。
「大丈夫だよ、円香ちゃん。僕は優しいから、いーっぱい円香ちゃんを気持ちよくして、慰めてあげる」
 ぎゅう、と円香の体を抱きしめるようにしながら、両手でひっきりなしに乳をこね回し、ぐりぐりと腰を使われる。
「……っ……」
 男に何をされても反応を返すまいとしていた円香だったが、微かにうめき声を漏らし体を震わせてしまう。
 男が、笑うのが分かった。
「円香ちゃん」
 れろり、と耳が舐められる。ぐいぐいと腰を使われ、乳首を痛いほどに抓られる。
「気持ちいい?」
 円香は言葉を返さない。男が腰を引き、ぱぁん!と鳴るほどに強く突いてくる。
「ッ……くっ……ンッ!」
「円香ちゃん、気持ちいい?」
「きもち、いい……です」
「嘘でしょ?」
 ねちっこく、まるでヘビが舌を出しながら囁いてくるような、そんな声だった。
「円香ちゃん、本当はまだ全然感じてないでしょ?」
「そん、な……こと、ないです……すごく、良い、です……」
「嘘ついてるってバレバレだよ」
 ぐりん、ぐりんと男が腰をくねらせ、ペニスの先端で膣内をかき回すようにしてくる。
「あぁッ……!」
「円香ちゃん、ちょっとは気持ちよくなった?」
 ぐり、ぐりとさらにそれを続けられ、それが徐々に円香の弱い場所へと近づいてくる。
「あぁっ、あぁっ……!」
「僕は愛のないセックスは嫌いだからね。例え売春婦相手でも、きちんと感じさせて、イかせてあげないと我慢ならないんだ」
 そう、どうやらそれが男のモットーらしかった。その為にこの男は常に相場の三倍の金をつばめに払い、他の男達よりも三倍もの時間円香を自由にする権利を得ているのだ。
「い、いやっ……いやっ……」
「嫌? 何が嫌なの?」
 暴れる円香を押さえつけるように、男の抱擁が強くなる。
「気持ちよくさせて、イかせてあげるって言ってるのに、一体何が嫌なのか僕には分からないよ」
「あああぁぁぁぁ……!」
 男の技量は、ある意味では確かではあるのかもしれない。心は凍てつき、体は疲れ果てているはずの円香を確実に絶頂へと近づけていくのだから。
「いやっ……いやぁぁ……!」
 しかし、そのことが円香には不快で堪らない。このような、殆ど見ず知らずの男の愛撫でイかされるという事が屈辱で堪らない。単純に体を汚される事よりも何倍も自分が貶められている気がした。
「いっ……やァァッ!!」
 びくぅっ、びくん!
 男の執拗な攻勢に耐えかね、とうとう円香はイかされる。
「イッたね?」
 少しだけ得意げな声で、男が囁いてくる。
「でも、まだだよ。もっともっと、気持ちよくしてよがらせてあげる」
「い、やぁ……も、……止め、てぇ……」
「止めないよ。君がいつもみたいに僕の前で全てをさらけ出して、よがり狂うまで、止めてあげない」
「あぁぁっ、ぁぁぁぁ……!」
 …………。
 ……。


 ……。
 …………。
「おいおい、なんだよ! 最後まで待たされてこれかよ!」
 部屋に入ってきた男の罵声で、円香はようやく次の相手が最後の一人であるという事を知った。
「ベッドもドロッドロでぐちょぐちょじゃねーか。キッタネーな……おい、これどうにかしろよ!」
 どうにかしろ、と言われた所で円香には術がなかった。すでに円香の体自体、男達が吐き出した白濁で余すところ無く汚れきっていた。
「チッ……マジかよ。……いくらなんでもこんなキタネー女とヤれっかよ」
 ごめんなさい――円香は反射的にそう呟いたが、はたして声になったかは分からなかった。
「……しょーがねーな、おい、ちょっとこっちに来い」
 腕を引かれて、円香はほとんど這うようにして部屋の隅へと連れてこられる。その場で壁に背をつけて座るように言われ、円香はその通りにした。
「へへっ……前から一度やってみたかったんだ。いいか、動くんじゃねえぞ?」
 男はズボンの前を開け、半勃起状態にあるペニスを取り出すと、それを円香へと向ける。
 そして軽くしごいたかと思いきや――黄金色の飛沫が円香目がけて迸った。
「ぇ……やっ……んっ、ぷぁっ」
「おら、動くんじゃねーよ。キタネーの洗い流してやっから、ちゃんと顔こっちに向けろ」
 男は態と円香の顔を狙うようにして小便を続け、終わるや否やそのまま自らペニスを扱き――。
「うぅっ」
 びゅうっ、と白濁の飛沫を円香の頬に飛ばし、漸くに満足の息を吐いた。
「ふぅぅ……つばめに金返してもらわねーとな。いくらなんでも女に小便かけるだけで五千円は高すぎだぜ」
 ぺっ、と。男はさらに円香の顔目がけて唾をはきかける。
「てめーも体売るなら売るで、前のやつの後始末くれーちゃんとしろよな。次からはタオルかなにかくらい持ってこいよ。わーったか?」
「…………はい。……すみませんでした」
 ケッ、と男は再度唾を吐き、病室を後にする。後に残された円香はそのまま壁にもたれるようにして、少しだけ眠った。
 極度の疲労から、どうしても眠気を堪えきれなかった。

 ほんの三十分ばかりの眠りから覚めた円香は、そのまましばらく呆然と惚け、やがてのろのろと帰り支度を始めた。耐え難い異臭は、自らの体から発せられているようだった。いっそこのまま帰ってしまおうかと考えるも、結局実行には移せず、円香はいつものように病院の外、辛うじて生きている水道の蛇口を捻って水浴びをするようにして体を洗った。
 体を拭くようなものなど、当然あるわけがない。円香は長い髪を絞るようにして可能な限り水気を切った後、衣類を探しに病室へと戻った。全くと言っていい程に明かりのない病室内の片隅に、それはあった。綺麗に畳んでおいた筈が、心ない男達によって見るも無惨に――生臭い匂いを放つ液体によって――汚されていた。
「………………。」
 服を握りしめたまま、円香は涙が溢れてくるのを堪えきれなかった。何故、ここまでするのだろう。着替えがない事など、わかりきっているはずだ。それなのに、唯一の着衣にこんな事をされて、一体どうやって帰れというのか。
 円香は仕方なく外の水場にまで戻り、そこでシャツやカーディガン、スカート、下着に至るまでは水洗いした。乾かす手段などないから、可能な限り水気を切った後はそれを着なければならないのだが、少なくとも精液の匂いをぷんぷんさせながら帰るよりはマシだと、円香は判断したのだった。
 濡れた下着、シャツ、そしてスカート、カーディガンの感触は最悪の一言に尽きた。初夏とはいえ、これでは風邪をひいてしまうかもしれない――しかし、他に方法も無く、円香は奇異の目に晒されながらもバスへと乗り、そして富田家へと帰宅した。
 すぐに脱衣所へと行き、濡れた衣類を洗濯籠へと放り込むなり円香は浴室に入り思い切り頭から熱いシャワーを浴びた。
「ううぅ……ぅぅ……」
 浴びながら、円香は力無く膝から崩れ落ち、さめざめと泣いた。最早その涙の理由すら、円香には分からなくなっていた。


「んっふふふふっ……円香ちゃん、ちょっとお腹大きくなってきたんじゃないかなぁ?」
 男達によって散々な目に遭わされたからといって、それで円香の一日が終わるわけではない。そう、今日は“バイト”と“夜這い”が重なる円香にとって最も辛い日だった。
 体は疲れ切っていて、円香は布団に横になっただけで意識を無くしそうなほどに眠気を感じていた。しかし、肩越しにかかる生臭い息が、酸っぱいような体臭が円香に眠ることをを許さない。
「……気のせいじゃないですか」
 極限に近い疲れもあって、円香はいつになく冷めた声で呟いた。フヒッ、と晴夫がブタのような笑い声を上げる。
「変だよねぇ、円香ちゃんって。あんなに何回もエッチして、全部中出しされてるのに、まるで自分は絶対妊娠なんかしないんだって、確信してるみたいだよねぇ」
「……っっ……」
 晴夫の言葉に、円香は僅かに体を震わせてしまった。
「ねぇ、円香ちゃん。……生理はきてる?」
「せ、生理……は……」
 さーっ、と。円香は全身血の気が引くのを感じた。言われてみれば、随分と遅れている気がした。元々周期にはバラつきが大きく――散々な目に遭わされて以降、それはより顕著になったが――それにしても遅すぎるのではないか。
(あれ……前にきたのは……いつ、だっけ……)
 円香は慎重に記憶を辿り――そしてますます顔を青ざめさせた。それは最早、“遅れているだけ”とは言えないほどの昔の出来事だった。
(えっ…………う、そ……だったら、どうして……)
 薬はちゃんと飲んでいたのに。何故――まるで凍えるように震える円香を背後から抱きしめながら、晴夫は耳元でフヒフヒと笑う。
「じゃあ、そろそろネタバラシしちゃおうかなぁ?」
「ねた……ばらし……?」
「円香ちゃんが避妊薬飲んでるの、ボクかなり早い段階で気がついちゃったんだよねぇ」
 だから、と晴夫は舌なめずりをして、より円香に密着するように身を寄せてくる。
「知り合いの医者に頼んで、“そっくりの偽物”を用意してもらって、中身だけすり替えちゃった」
「っ!? うそ…………嘘……でしょ?」
「残念。本当でーす。円香ちゃんが飲んでたのは、ただのビタミン剤でした」
「ビタミン……剤……」
 血の気が引きすぎて、意識が遠くなる。
(そんな……そんな……じゃあ――)
 あの吐き気は、本当に――。
「嘘っ……嘘よぉ…………嘘って言ってぇ……!」
 円香は、まるで幼児のように涙を溢れさせ、泣いた。おお、よちよち――そんな赤ちゃん言葉を使いながら、晴夫が頭を撫でてくる。
「大丈夫でちゅよぉ、おじちゃんがちゃーんと責任をとって円香ちゃんと結婚ちてあげまちゅからねぇ」
「イヤッ……イヤイヤッ! 結婚なんて絶対したくない! 妊娠もイヤぁ!」
「ほーんと、円香ちゃんってば甘やかされて育ったんでちゅねえ。アレもイヤ、コレもイヤじゃあ人間生きていけないんでちゅよ?」
「っっ……だったら、堕ろしてやる……! 明日、……病院に、行って……すぐに、堕胎……して、やる……!」
「そんなことはおじさんが許さないよぉ? 第一、円香ちゃんにそんなお金あるのかな?」
「…………っ……!」
「おじさん、円香ちゃんの私物はマメにチェックしてるからね。円香ちゃんにあげたお給料も、持ってきた貯金も殆ど無くなってるよね? 何に使ったのかは知らないけどさ。とても堕胎する費用なんて払えないだろう?」
「あっ……あっ……」
 晴夫の言うとおりだった。堕胎には、保険が利かない。当然かかる費用は相当なものになる。今の円香には、とても払いきれる金額ではない。
「お、お金……」
「うん?」
「お金……貸して、下さい……」
 それはもはや、正常な思考力すらも失ってしまった証と言えた。極度の疲労に、さらに極限とも言えるショックが重なり、円香の瞳からは完全に光が失われる。
 フヒッ、と晴夫が弾かれたように笑った。
「何を言ってるの? 円香ちゃん。どうしてボクが、ボクの赤ちゃんを堕胎させるためのお金を出さなきゃいけないのさ?」
「お、お願い、します……早く……早く堕ろさないと…………」
「ダメだよぉ。円香ちゃんはボクの赤ちゃんを産んで、そして結婚するんだ。最初からずっと言ってる事だろう?」
「何でも……何でも、しますから……堕ろさせて、下さい……お願い、します……お願い……」
 円香は譫言のように繰り返した。ショックの余り、自分が何を言っているのかも自分でよく分かっていない状態――晴夫はそれを悟るや、にたりと笑みを浮かべる。
「……本当に何でもするのかい?」
「何でも……します……何でも……」
「じゃあ、円香ちゃんがボクのお願いを聞いてくれたら、特別ボーナスをあげちゃおうかな?」
「何を……すれば……」
「うん、それはね――」
 晴夫はぼしょぼしょと、自分の欲望を円香の耳へと吹き込んだ。
「どうだい?」
「やり、ます……」
 円香は焦点の定まっていない目で、こくりと頷いた。


「おおうっ、ぉぉおう! イイッ! 良いよぉ、円香ちゃあん!」
 晴夫は逆まんぐり返し――女ではなく、男の方がという意味で――のような体勢で、はしたなく声を荒げた。
「んっ……れろっ、れろっ……れろっ……」
 円香はそんな体勢の晴夫の足を両手で広げるようにして、舌をすぼめて菊座へと這わせる。そう、“尻の穴を舐めながら、手でシゴいて欲しい”というのが、晴夫の要求なのだ。
「うぁぁっ、ゾワゾワって来るよぉ! 前の女房はこんな事絶対してくれなかったんだ! あっぁぁぁ……円香ちゃあん! やっぱり円香ちゃんは最高だよぉ!」
 歓喜の声を上げる晴夫の肛門を、円香は執拗に舐め上げる。尻穴の周りにはうんざりするほどに毛が生えており、それらが舌に絡みつき、口の中にまで入ってくる。半ば以上正気を失っていなければ、とても出来る事ではなかった。
「ほら、円香ちゃん! 手も使って! ちゃんとシゴいて!」
 言われるままに、円香は肛門を舐めあげながら肉茎を扱き上げる。あぁぁぁ!――晴夫が情けない声を上げ、忽ち達した。
「円香ちゃん! 早く、早く咥えて! 飲んで!」
 晴夫の言葉のままに、円香は肉茎を咥えこんだ。びゅく、びゅくと溢れるそれを口腔内で受け止め、ごきゅごきゅと飲み干していく。
「ふひぃぃぃぃ………………サイコーだよぉ……おじさんもう完全に円香ちゃんにメロメロだよぉ」
 脱力し、大の字に寝そべりながら、晴夫は口から魂が半分はみ出してしまっているような、そんな声を上げる。
「もう、絶対手放さないからね、円香ちゃん。……ほら、円香ちゃん四つんばいになって。今度はボクが円香ちゃんのお尻の穴いっぱい舐めてあげる」
 円香は四つんばいになり、晴夫に尻を差し出すような格好になる。
「フヒヒっ、円香ちゃんのお尻、お尻っ、円香ちゃんはお尻も綺麗だねぇ」
 晴夫は円香の尻肉を掴み、ぐにぐにと円を描くように揉んだ後、その合間の窄まりへとしゃぶりついた。
「っ……」
「じゅるるっ、じゅるっ、はむっ、ぅぅぅ……はぁはぁ、円香ちゃん、円香ちゃぁん!」
 それは最早“舐める”ではなく、“しゃぶりつく”というのが正しい表現といえた。晴夫はこれでもかと円香のすぼまりにキスをし、舌先をすぼめてその中へと差しこむようにしながらなめ回した。
「っ……ぁっ、ぁっ……!」
 正気を失っていても、刺激を受ければ声が出てしまう。円香の甘い声に気をよくした晴夫はさらに指をつかい、つぷりと埋没させるとそれを出し入れするようにして円香の尻穴を弄り始める。
「はぁはぁ……円香ちゃん、アナルセックスはOK? これからお腹がおっきくなってきたら、普通のセックスは出来なくなるからね。……今から慣れておいたほうがいいよね?」
 最早、堕胎のための費用を出す等という条件の事など――無論ただの建前であろうが――晴夫の頭の中からかき消えているらしかった。
「実はね、こんな事もあろうかと、寝てる円香ちゃんの体に悪戯してた時、ちょっとずつお尻も弄ってたんだよね。……だからほら、指だって二本、簡単に入っちゃうだろう?」
「っ……ぅっ……んっぅ……ぁ、う……」
 にゅぷり、にゅぷりと晴夫に人差し指と中指の二本を抜き差しされ、円香はさらに甘い声を上げる。晴夫はひとしきり愛撫を続けた後、唐突に指を抜き、丹念にしゃぶってから、今度は己の肉茎をその場所へと宛った。
「もう、挿れちゃっていいよね、円香ちゃん。本当はナマでアナルセックスすると色々危険だから良い子は真似しちゃダメだゾ? ……まぁ、ボクは円香ちゃんへの愛でその辺はカバーできるけどさ」
 ぬぷぷと先端を埋め込み、さらに円香の腰を掴み引き寄せるようにして、肉茎を根本まで埋没させる。
「ンンッ……ぅ……やっ……そ、こ……ち、がう……」
「違わないよぉ……はぁはぁ……円香ちゃん……お尻の穴も最高だよぉ……」
 晴夫はカリ首が辛うじて顔を覗かせる辺りまで腰を引き、再び突き入れる。
「っ……ンッ……ンンッ……! ぁっ……あぁ……!」
 丁度、カリで尻穴の裏側を引っ掻くような動きに、次第に円香は体を反応させ、声を上げ始める。
「あっ……あぁっ、ぁっ……ぁあっ、あっ……!」
「フヒッ……円香ちゃんも感じてきたのかなぁ? アナルでも気持ちよくなれるなんて、円香ちゃんは本当にスペック高いねぇ。こりゃあ結婚してからが楽しみだよ。いっぱいいっぱい調教して、開発してあげるからね?」
 ぐーりぐりと腰を捻るようにして突き入れながら、晴夫は円香の背中に浮いた汗を舐め採り、かわりにぽたぽたと自分の唾液を落としていく。
「はぁっ……はぁっ……いいよぉ! 凄く良い! もうイッちゃうよぉ! 出すよ、精子! 円香ちゃああん!」
「…………っ……ぅっ……」
 晴夫が一際強く腰を掴み、引き寄せながら自らの腰を突き出した。瞬間、びゅるっ、と。円香の腸内に汚液が迸る。
「はぁはぁ……円香ちゃん……円香ちゃあん……」
 晴夫はぐったりと脱力するように円香へと被さり、その後ろ髪に鼻をこすりつけるようにしながらニオイを嗅いでは巨乳をもみくちゃにする。
「……おか、ね……」
「うん?」
「おか、ね……下さい……」
 壊れかけの人形が喋るような、無機質な声だった。
「うんうん、解ってるよぉ。円香ちゃんと結婚したら、円香ちゃんにはいっぱいいっぱいお小遣いあげるからね。……勿論、その前に円香ちゃんのパパからきっちり“ご祝儀”は貰うけど」
 円香の腹部を愛しげになで回しながら、晴夫は円香の横顔にキスの雨を降らせる。
「おか、ね……赤ちゃん……堕ろさなきゃ……」
「だぁめ。赤ちゃんは堕ろさせないよ。……円香ちゃんはボクの子供を産むんだ。それはもう決定事項なんだから」
「けってい……じこう?」
 晴夫はもう、円香の呟きには答えなかった。ただただ肉欲のままに――円香の反応が薄い事など気にもせず―― 一晩中その身をしゃぶり続けた。

 


 翌日、円香は服毒自殺をした。使ったのは大量の睡眠導入剤だった。晴夫ら他の家族が寝入るのを待ってから、円香は瓶に半分ほど残っていたそれを一気に煽った。
 そう、円香に残された三つの未来の選択肢。その三番目を円香は選んだのだった。遺書は残さなかった。例え何を書き残しても、恐らくは第一発見者となるであろう晴夫達にとって不利な証言は握りつぶされるだろうと思った。何より、本当に言葉を伝えたい人たちには絶対に伝わらないだろうという確信もあった。
 自殺に睡眠薬を使ったのは、眠るように死ねると思ったからだった。しかし、そんな円香の目論見は、ものの三十分もしないうちに覆った。
「っっ……うっ、げっ、ぇっ……!」
 最初こそ、いつものように強烈な眠気によって円香は気絶するように倒れ伏した。が、しかし目眩と吐き気によってすぐ目が覚めた。
「うぐっ……ぐっ……げぇっ……」
 胃が痙攣するようにして、内容物が逆流してくる――が、円香は両手で必死に口を押さえ、それらを吐くまいとした。
(ダメッ……吐いちゃダメッ!)
 吐いたら、死ねない。吐くな、吐くな――円香は地獄のような苦しみの中、何度も口の中まで押し出された薬を飲み干した。
 しかしそれすらも次第に出来なくなる。四肢が麻痺したかのように言うことをきかなくなり、何よりものを考えるという事が出来なくなった。ただ、“苦しい”という事以外何もわからない――そんな中で、円香は“幻覚”を見た。
「ああぁ……」
 気がつくと円香は富田家ではない、暗い牢獄のような場所に立っていた。床は冷たく、、耐え難い悪臭に誘われるかのように、部屋の隅をネズミやゴキブリが走り回っているような場所だった。
 ここから出なければ――と思った。出る方法は、既に知っていた。鍵を使うのだ。円香は牢獄のベッドの下を漁り、光り輝く黄金の鍵を取りだした。そう、これが牢獄の鍵だ。これを使えば、ここから出ることが出来る筈なのだ。
 円香はその黄金の鍵で牢獄の扉を開けようとした。しかし、鍵が合わない。そんな筈はない。これを使えば出られる筈なのに。おかしい、こんなことはおかしいと円香は混乱した。
『……か、さん』
 その時、声が聞こえた。円香は鍵穴を弄るのを止め、耳を澄ませた。
『……か、さん。まど……ん』
 あぁ、と。円香は涙を溢れさせた。その声こそ、自分をこの場所から助け出してくれる声だと確信した。
 助けて!――円香は咄嗟に叫んでいた。お願い、助けて、ここじゃないどこかに連れて逃げて!――円香は続けて叫んだ。
 それは最早、魂の叫びだった。円香の叫びに呼応するかのように、牢獄が崩れていく。鉄格子は砂のように崩れ、壁に入った無数のヒビからは金色の光が漏れていた。ヒビが、さらに増え、壁の一部が崩れた。円香はその穴から外へと逃げ出した。
 ふわりと、体が浮くのを感じた。牢獄の外には地面が無く、目映いばかりの光に満ちていた。
 その光の一部が、粒子となって円香の体にまとわりつく。そして徐々に、徐々に人の形へと、光が収束していく。
 あぁ、と。円香は再度声を漏らした。人の形になった光が自分の方に手を伸ばしてくるのが解った。円香は、夢中になって手を伸ばした。しかし、もう少しで手をつかめると思ったその刹那、唐突に光は雲散霧消し、円香の前から消えた。
 えっ、と。円香は同時に己の体が急速に落下するのを感じた。辺り一面にヒビのようなものが入り、さらにガラスが割れるような音を立てて崩れていった。

 

 


 

 ――気がつくと、円香は再び牢獄へと戻されていた。

 

 

 


「目が覚めたかい、円香ちゃん」
「っ……ひぁあッ!?」
 晴夫の声に、円香はそんな悲鳴を上げて咄嗟に飛び起きた。
(えっ……何、ここ……)
 頭が混乱した。目の前に晴夫が居るが、しかし部屋の内装が明らかに富田家ではない。そう、これはまるで病院の――。
「ここはね、ボクの知り合いがやってる病院だよ。…………いやー、びっくりしたよぉ。なんか物音がするからって起きてみたら、円香ちゃんが電話機の側で泡吹いて倒れてるんだもん」
「ぁ……ぁ……」
 そうか、失敗したのだと、円香はこの瞬間悟った。
「すぐに車に乗せて、ここまで連れてきて胃洗浄してもらったんだよ。……よかったね、円香ちゃん。命に別状はないんだってさ、二,三日安静にしてればすぐ家に帰れるらしいよ」
 晴夫は円香の手を両手で揉むようにして握りながら、良かった、良かったと繰り返し頷いた。
「もうこんな事しちゃダメだよ? 自殺するフリなんかして、ボクの気を引こうとしなくっても、ボクはもうカンストするくらい円香ちゃんの事が好きなんだからさ」
「フリ……なんかじゃ……」
 この男の思考回路はどうなっているのだろう――円香は酷い頭痛に苛まれながらも、不思議で堪らなかった。
「フリだろう? 昔はともかく、最近の睡眠薬はどれだけ大量に飲んでも死ぬことなんか出来ないって事、勿論円香ちゃんも知ってたからこそこんな事したんだろう?」
「えっ……」
 それは、少なくとも円香は初耳の話だった。
「とにかくもうこんな事しちゃダメだよ? 今回はたまたまボクが見つけて、知り合いの病院に入れたから大事にならなかったけどさ。何度も言うけど、円香ちゃんはもう一人の体じゃあないんだから」
 そうそう、と晴夫はわざとらしく手を叩いた。
「入院ついでに検査してもらったら、やっぱり間違いないってさ」
「間違い……ない……?」
「そ。……キミは“ママ”になるんだよ、円香ちゃん」
「っっっ…………!」
「あっははー! そんなに驚かなくてもいいだろ? 薄々解ってた事じゃないか。……さてと、それじゃあボクは一端帰るよ。大あわてで円香ちゃんを連れてきて、そのままずっと付き添ってたから家の事が心配だし、円香ちゃんの着替えとかも持ってきてあげなきゃいけないしね」
 茫然自失とする円香をよそに、晴夫は病室を後にした。それから一時間近くもの間、円香はただただ呆然とし続けた。
(本当に……妊娠……してるの……?)
 晴夫の言った通り、それは薄々解っていた事ではあった。
(本当に……あの人の、子供を……)
 或いは、他の誰とも知れない男の子供を。円香は病衣の隙間から手を忍ばせ、己の腹部に触れてみる。今はまだ目立つほどではないが、しかしやがては確実に膨らんでくるだろう。
 そして――。
「い……やっ……いやっ、ぁぁああああ!」
 それは、考えるだけでおぞましい事だった。自分の体の奥で、あの男の子供がせっせと作られているのだということを想像するだけで、今すぐ腹に刃物を突き立てて子宮をえぐり出したい衝動に円香は駆られた。
(死ななきゃ……)
 円香は腕に刺さっていた点滴を無造作に引き抜き、ベッドの脇に置かれていた――入院する前に自分が着ていた服に着替えた。病衣のままでは、病院内はよくとも外に出たら目立ってしまうと思ったからだ。
(早く、死ななきゃ……)
 晴夫の子供を孕み、醜く膨らんだ腹など見たくはない。そうなる前に死に直さなければと、円香は服を着るや病室を飛び出した。どうやら病院というよりは診療所といった規模の施設らしく、慎重にやれば脱出はそう難しくない事のように思えた。
(…………なんか、揉めてる……?)
 廊下の物陰からそっと入り口付近の様子を伺うと、受付の辺りで何やら揉めているのが解った。看護士も医者もそちらの方に注意が行っているらしく、円香は悠々と裏口から脱出することが出来た。
(どこ……何処に行けば、死ねるの……?)
 あるかどうかも解らない自分の靴を探している暇ももどかしかった。円香は病院内用のサンダルのままで夕暮れの街を放浪した。
「…………っ……」
 頭痛がますます酷くなり、あまりの痛さに円香は吐き気すら催した。微熱もあるのか、視界がぐらぐらと揺れ、歩くこと自体辛かった。朦朧とする意識の中、それでも円香は懸命に“死に場所”を探した。
(高い所から……落ちれば……)
 そう、それなら確実だ。円香は手近な高い建物を見つけると、それに登るべくその根本へと向かった。
 その時だった。
「ねえ、キミ。ちょっといいかな」
 突然、肩を叩かれ円香はハッと振り返った。見覚えのない、メガネをかけた長身の若い男だった。男は手には写真らしきものを持っていた。
「キミの名前、もしかして“ササキマドカ”って……あっ、ちょっと!」
 男が喋り終わるよりも先に、円香は逃げ出していた。逃げながら、円香は恐怖に全身を引きつらせていた。
(誰、誰なの? どうして……私を捜してるの?)
 晴夫の関係者とは考えにくい。病院を抜け出した事がバレて、追っ手が掛かるにしても早すぎると思った。
(もしかして……)
 “例の動画”を見た男なのではと、円香は思った。或いは、つばめが行っていた売春の線かもしれない。
「はは……あはは、は……はは……」
 円香は逃げながら、不思議と笑いがこみ上げてきて、それを堪えることが出来なかった。自分の事ながら、なんて後ろ暗い身分なのだろうと。そのことが妙におかしくて堪らなかった。
 謎の男の妨害で目当てのビルには登る事ができなくなり、円香は仕方なく別のビルへと向かった。
 しかし。
「あっ、居た! こらっ、逃げんな!」
 突然見たことも無い女に指をさされ、円香は弾かれたようにその場から逃げ出した。
(なんで……? 今の……女の子……でしょ?)
 それも、まだ若い――つばめと同じか、それよりさらに下くらいの――に見えた。それが何故、目が合うなり自分を指さし、追いかけてくるのだろう。
 円香は、決して足は速い方ではない。しかも履いているのは走りにくいサンダルだ。それでも逃げ切る事ができたのは、地の利とそれだけ必死だったからだった。
(イヤッ……もう、イヤッ……死なせて、死なせてよぉ……!)
 まだこの体を食い物にするというのか。しゃぶり足りないというのか。円香は夕暮れの街を逃げに逃げ続け、気がついた時にはもうすっかり辺りは夜になっていた。
(……まだ、探してる)
 或いは、本当に病院の追っ手かもしれないと、円香は路地裏のゴミ箱の影に隠れながらそんな事を思っていた。そうでなければ、自分を捕まえればよほど美味い汁が吸えると勘違いしている連中だろう。
(…………死んでやる)
 円香は殆ど意地になっていた。もう二度と、自分の体を他人の勝手にさせるものかと。肉欲の処理に、小遣い稼ぎに利用されて堪るものかと。
(……そうだ、あそこ、なら……)
 別に何もビルになど登る必要はないではないか。“あそこ”ならば、ここからも近く、簡単に、それもほぼ確実に死ねるに違いない。
 円香は慎重に辺りの様子を伺い、追っ手の気配が遠のいた間隙を縫って路地裏から飛び出した。目指すは片側二車線の大通り、その歩道橋だった。
(あそこの上から、飛び降りれば……)
 背後で、“追っ手”の声が聞こえた。どうやら見つかってしまったらしいが、しかしもう遅いと円香は思った。既に歩道橋は視界に捉えている。追いつかれる前に飛び降りてやると、円香は死にものぐるいで走った。途中で片足のサンダルが壊れ、円香は転びそうになりながらも両足のサンダルを脱ぎ捨て、裸足になって走った。
 階段を一気に駆け上がり、歩道橋の半ばよりもやや奥――登ってきた側からみて――の辺りで、円香は足を止めた。
 眼下には、ヘッドライトをつけた車がひっきりなしに往来していた。この勢いならば、飛び降りればまずブレーキなどは間に合わないだろう。
 確実に、死ぬ事ができる――そう思った瞬間、ぶるりと。体が震えた。
(死ぬ……本当に、死ぬ…………の?)
 事ここに及んで、円香は二の足を踏んでしまった。この柵を越えれば、死ねる。本当に死んでしまう――柵にかけた手が震え、足まで震えてきた。
(やだ……やだよぉ…………怖い……よぉ……)
 眼下を行き交うヘッドライトの量とスピードに気圧され、円香は気力が萎えていくのを感じた。死ぬ前に、あれにぶつからなければならないのだ。それは想像を絶する痛みを伴う事であり、円香にとって痛みとは恐怖そのものだった。
「…………っ!?」
 気力が萎え、その場に膝をつきそうになっていた円香の耳が、歩道橋を駆け上がってくる足音を聞いた。円香は咄嗟に見た。男が、息せき切って階段を上がってくるのが見えた。
「……やっ……!」
 男の接近に、円香は怯えた。捕まったら終わりだと思った。咄嗟に円香は柵を握る手に力を込め、乗り越えようと足をかけた。
「ダメだ、円香さん!」
 男が走り出し、猛烈な勢いで近づいてくる。
「イヤァァッ、来ないでぇえ!」
 円香は絶叫し、歩道橋の上から身を躍らせた。

 

 ふわりと、体が宙を舞ったその刹那。
 全ての音という音がかき消え、円香はまたしても、“幻覚”を見た。自分目がけて手を差し出してくるその光に向けて、円香は反射的に手を伸ばした。
 今度は、空を掻かなかった。円香の手はしっかりと“それ”をつかみ、握りしめる事が出来た。
「っ……くッ……!」
 その悲鳴はどちらの口から漏れたものなのか。円香は腕一本で歩道橋の柵の向こう側にぶら下がる形となり、その腕は同じく一本の腕によって支えられていた。
「……待ってて、今……引き上げる、から……」
 足の下を行き交う車達がまるで罵声を浴びせるようにクラクションを鳴らす中、“男”の声は不思議なほどに鮮明に円香の耳へと届いた。
 あぁ、そんな。
 そんな、まさか。
 円香は文字通り腕一本でその身を持ち上げられ、歩道橋の柵の内側へと抱き上げられながら、両目から涙を溢れさせていた。
「……遅くなって、ゴメン。…………でも、ギリギリ間に合ったみたいで、本当に良かった」
 涙で、視界がぐちゃぐちゃに歪んでしまっていた。それでも――例え二年もの間離れていたとしても――愛しい恋人の顔を、円香が見間違える筈はなかった。
「…………迎えに来たよ、円香さん」
 宮本武士は静かに微笑み、優しく円香の体を抱きしめた。

 

 

 

 

 

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