長い、とても長い夢を見ていた。
 それは身の毛もよだつ程の悪夢であり、円香は何匹もの醜悪な怪物達に追われ、逃げ切れずにその身を食われ続けた。怪物達は、円香が逃げまどえば逃げまどう程に嬉々として齧り付いてきた。
 何度も、何度も。
 繰り返し繰り返し、円香は体を囓られ続けて、その身はもうツメの先ほども残ってはいなかった。それでも尚、怪物達は円香の心まで求め、しゃぶりついてきた。肉体はおろか、心まで汚し尽くされ、円香には最早絶望に浸る事すら許されなかった。
 そんな闇の底のさらに底。闇そのものが汚泥のように溜まり、それ自体が腐臭を放つような牢獄の中で。
 円香は、“光”を見つけた。

「……っ……」
 瞼の向こうから感じる痛みにも似たそれの正体が陽光であると気がついたのは、意識を取り戻してから随分時間が経ってからだった。
 瞼を開けると、木の天井とその手前に大きな梁が見えた。ここは何処だろう――と、円香はゆっくりと辺りを見渡した。
 見たこともない部屋だった。天井がいやに高く、壁にも天井にも木材以外の材料が殆ど見あたらない――テレビの中でしか見たことがないような、古い木造の家なのだという事を、円香はすぐに理解した。
(私……寝てた……の……?)
 ふかふかの布団の感触がなんとも心地よく、上にかけられているのはタオルケットに良く似た――しかし、なんとも手作り感たっぷりな――薄い布団だった。
(風……気持ちいい、な……)
 そろそろ夏も盛りの筈なのに、室温は極めて快適だった。しかし室内にエアコンらしきものは見あたらず、扇風機さえも無かった。であるのに、先ほどからそよそよと絶妙の強度で頬に当たるこの風は一体――。
「っ……!?」
 “風の元”を目で辿った円香は、咄嗟に身を強ばらせ、布団から飛び起きた。
「あら、目が覚めましたか。……気分はどうかしら? 食欲はある?」
 枕元に鎮座し、ゆっくりとウチワを扇いでいた女性はにっこりと微笑んだ。その笑みに、円香は不思議なほどの安堵を覚えた。
(……誰だろう…………誰かに、似てる……気がする)
 小柄な、和服姿の女性だった。年は、もう六十は超えているだろう。綺麗な白髪を結い上げ、静かに微笑むその笑顔に円香は既視感を覚えた。しかし、その正体が分からない。
「あの……どちら様、ですか……?」
 円香はどうしても女性の身元が分からなくて、恐る恐る尋ねた。内心、以前交流のあった人物だったらどうしようと、半ば怯えながら。
 女性は、その微笑みと同様に、静かな声で答えた。
「宮本静琉と申します。……武士の祖母、と言えば解るかしら?」


 自分が二日近くも寝込んでいたという話を、円香は静琉から聞いて知った。そして、“その前”に何があったのかも、静琉と話をするうちに、円香は次第に思い出していった。
(……あの時……武士くんに助けられて……)
 “その後”の事を、円香は断片的にしか覚えていなかった。武士に連れられて、一度富田家へと戻った筈だった。
(そう……そして……)
 そこで、晴夫と武士は真っ向からぶつかったのだ。

「円香さんは俺が引き取ります」
 突然来訪し、不遜にもそんな言葉を口にする“若造”に、晴夫は最初こそ“大人の対応”をした。君は誰だ、突然やってきてどういうつもりだ、病院から円香ちゃんを連れ去ったのも君の仕業か――そんな事を饒舌にまくし立てる晴夫の顔面を、武士は唐突に殴りつけた。
「わちゃっ……」
「ちょ、ちょっと武士!? いきなりそれは――」
 武士の突然の暴行に悲鳴を上げたのは、付添人らしい二人組だった。逃げる円香を追いかけてきたメガネをかけた長身の青年と、横ポニ赤毛少女の二人だ。そんな二人の静止の声も耳に届いていないのか、武士は鼻血を出したまま尻餅をついている晴夫の前に膝を突くと、鼻が触れそうな距離で睨み付けた。
「悪いけど、あんたの意見は聞いていない。これから円香さんが身支度をする間、黙ってそこに座ってるんだ。いいな」
「なになに、何の騒ぎ? あんた達誰よ」
 騒ぎをかけつけて家の奥から現れたのはつばめだった。その足下には陽平も体半分覗かせていた。
「……円香さんを引き取りに来た。頼むから邪魔はしないでくれ」
「はぁ? つーかアンタ誰よ。早く出て行かないと警察呼ぶよ?」
 つばめの挑戦的な言葉に、ゆらりと武士は立ち上がった。
「ちょっ、武士くん!」
「武士! 相手は女の子だよ!?」
 それだけで何かを察したらしい同行者が弾かれたように飛び出して、武士を羽交い締めにする。
「ちょっとちょっとちょっとぉ、何だっていうのよぉ!? まどか姉、こいつら誰よ!」
 直接何かをされたわけではない。が、武士の迫力自体に押されたのか、つばめもまた尻餅をつくようにしてわめき散らした。その後ろに居た筈の陽平は、いつの間にか家の奥へと逃げてしまっていた。
「……円香さん、支度をして。ゆっくりでいいから」
 つばめの言葉を無視して、武士は優しく――しかし、それは今にも破裂寸前の風船のような危うさも含んでいて――円香に語りかけた。“ゆっくり”と言われたにもかかわらず、円香は早足に部屋の中へと上がり込み、富田家に来るときに使った旅行バッグに最低限の着替えと、私物を大急ぎで詰め込んだ。
「な、なんだお前ら! これは犯罪だぞ!? 自分たちが何をしてるのか解ってるのか!?」
 円香が支度を終え、玄関へと戻った時、晴夫が鼻血を出しながらそんな声を上げた。
「円香ちゃん、本当に出て行ったりしないよね? ね? そいつらに脅されて、仕方なく出て行くフリをしてるだけなんだよね? そうなんだよね?」
「っ……やっ!」
 晴夫の手が蛇のように動き、円香の足首を掴む。咄嗟に円香は悲鳴を上げてその手を振り払おうとする。が、晴夫は意地でも離さないつもりらしく、どれほど円香が足を振ってもその望みは叶わない。
「出て行くなんて嘘だろ、円香ちゃん。ボクと結婚するって約束したじゃないか。ボクの子供も産んでくえぶっ」
 晴夫が喋り終わるのを待たず、その顔面に武士の強烈な蹴りが炸裂した。頬と顎の合間へと入ったその蹴りに、晴夫は血しぶきと歯の破片を飛ばしながらその巨体を泳がせた。
「た、武士くん!」
「武士っ! ダメぇ!」
 武士の体を羽交い締めにしていた二人が揃って悲鳴を上げる。遅れて悲鳴を上げたのはつばめだった。
「てめっ、親父に何す――」
 つばめが立ち上がるのと、武士が自分を拘束していた二人組を振り払うのは同時だった。つばめへと迫るその動きは早く鋭く、円香の目には優雅にすら見えた。
「がっ……」
 武士はつばめの喉を掴み、そのまま片手で持ち上げるとその体を壁へと叩きつける。
「……殺しちゃいねぇよ」
 足をばたつかせ藻掻くつばめに、武士は吐き捨てるように言った。
「殺したいくらいムカついてるのを、必死にガマンして手加減してやったんだ」
「かっ……はっ……」
 つばめが掠れた声を上げ、足先を剃らすようにして失禁する。その顔が白目を向く寸前で、武士はその首を解放した。つばめはそのまま壁にもたれるようにして崩れ落ち、“水たまり”の中へと座り込んだ。
「っ……武士くん、危ない!」
 全員がつばめの方へと気を取られていたその時、円香は叫んだ。
「うわぁぁぁああ!」
 台所から、包丁を手にした陽平が叫び声を上げながら武士の方へと突進してきたのだ。ダメ、刺される――円香は思わず両手で顔を覆った。
「…………。」
 しかし、待てど暮らせど武士の悲鳴も何も聞こえなかった。円香は恐る恐る指の間からそっと目を開けた。
「……とんでもないガキだ」
 一体何がどうなったのか、陽平はまるで首を掴まれた子猫の様な格好で口から泡を吹いており、その手に握られていた筈の包丁は武士の手に移っていた。
「円香さん。もう支度は済んだ?」
 武士は包丁を台所へと戻し、陽平をその辺りに放るや円香に向けて微笑んだ。そんな武士の変わり身に円香は少しだけ怯えながらも頷き返した。
「そっか。じゃあ、すぐに帰ろう」
 円香は武士に寄り添われて、富田家を後にする。玄関を出る際、一度だけ背後を振り返った。つん、と異臭が鼻をついたのは、つばめが失禁したからではなく、晴夫が蹴られたショックで脱糞までしてしまっているからだった。
「……武士くん……これはちょっと、やりすぎじゃ……」
 同行者の片割れ――メガネをかけた優男の方――が武士と室内の惨状を交互に見てそんな呟きを漏らすが、武士は男の言葉を無視するように家の前に停めてあった乗用車の後部座席へと円香を座らせ、己もまたその隣へと座った。
「…………こっわ〜……。あたし、武士がマジギレするところ始めて見ちゃった」
 もう一人の同行者もそんな呟きを漏らし、乗用車の助手席へと座る。最後に、メガネの優男がやれやれという顔で運転席へと座り、やがて車が発進した。
 円香は後部座席で武士にもたれかかりながら、或いは自分は既に死んでいるのではないかと、そんな事を思っていた。最初に睡眠薬で自殺を図った時に実は本当は死んでいて、これらは死ぬ前の自分が見ている夢なのではないかと。
(だって……)
 あまりに出来すぎていると思った。こんな――絶望の淵で、絶対に叶わぬと解っていて尚、何度も何度も夢に見ざるを得なかった事が、現実に起きるはずがないと。
(いいの……夢でも、なんでも…………今ここに、武士くんが居るんだから)
 例え走馬燈でも構わない。円香は武士にもたれかかったまま目を閉じ、深い眠りへと落ちていった。



 そしてそのまま熱を出して寝込んでしまい、現在に至る――という事を、円香は漸くにして理解した。
(そっか……だから……)
 記憶があやふやなのだと、円香は思った。武士と再会する前後から――否、服毒自殺に失敗して病院で目を覚ましたときから、そもそも酷い頭痛と微熱に襲われていた。そんな半病人のような状態での経験など、およそ記憶に残る筈がない。
「溜まってた疲れが出ただけだから、大騒ぎするような事じゃありません、って言ってるのに、うちの人も武士も心配性でねぇ」
 困ったように微笑む静琉の顔に、円香は思わずドキリとした。そう、一体誰に似ているのか――その相手が解ったからだ。
(由梨に……似てるんだ)
 正確には、由梨子が祖母に似たのだろうが、そんなことは些細な問題だった。ただ、そうして由梨子の面影がある笑顔を向けられているだけで、円香は心から安らぐ事が出来た。
「あの……すみません……武士くんは……」
「武士なら今はまだ学校ですよ」
 がっこう――それは円香にはひどく遠い響きに聞こえた。
(……早く……早く、武士くんに……会いたい……)
 微熱があったせいだろうか。あの時、確かに武士に助けられて、その後しばらく行動を共にした記憶はあるのだが、円香にはどうしてもハッキリと武士の顔が思い出せなかった。一刻も早く――それこそ一秒でも早く武士に在って、これが夢などではないという事を確信したい――円香がそんな事を考えながら胸をときめかせていると、なにやらきゅう、と空気を読まない音が響いた。
「あらあら」
「あっ……すみ、ません……」
 円香は赤面し、慌てて腹部を押さえた。今のは間違いなく、自分の腹の音だったからだ。
「すぐに何か作ってきますね。おかゆがいいかしら? それとも普通のごはん?」
「えと、その…………普通で、お願いします……」
 静琉は優しく頷き、障子を開けて廊下へと出た。ここは開けておきますね、とあえて締めずに行ってくれたおかげで、円香は布団に横になりながら、庭の景色を見ることができた。
 土がむき出しの地面に飛び石が点々と並び、その片隅には盆栽の鉢植えの棚があり、多種多様な盆栽が所狭しと並べられていた。
 円香は呆然と、時折己の頬を抓ったりしながら、風に微かにそよぐ盆栽達を眺めていた。
(え……?)
 不意に、盆栽達が一瞬浮き上がった。――様に、円香には感じられた。しかし実際にはそれは、何か地響きのようなものが近づいてきているのだと、円香は数秒遅れて気がついた。
「えっ、何……何……地震!?」
 違う、これは地響きではない、足音だ――そう思った時には、庭に面した廊下の中央に巨大な影が姿を表していた。
「きゃあああああぁぁぁッ!!!」
 円香は、咄嗟に悲鳴を上げていた。廊下に立っていたのは、鬼――そう、鬼としか形容のしようがない大男だった。身長は二メートル近くはあるだろうか、両手には金棒のような形をした太く長い木の棒を持ち、頭は白髪のオールバックであり、同色のヒゲがまるで剣山のように鋭く尖っていた。顔は厳つく、体つきはもっと厳つく、筋骨隆々であり何より円香が怯えたのは上半身が裸だった事だった。
 鬼はぜえぜえと肩で息をしながら、真っ赤な顔に血走った目でじろりと。まるで獲物でも見るような目で円香を見る。忽ち、円香は再度悲鳴を上げた。
(いやっ……いやっ……おか、される…………!)
 円香は声にならない声を上げながら布団を這いだし、部屋の角に背中を擦りつけるようにして泣いた。鬼はといえば、円香のそんな様になにやら困ったような顔で固まり、程なくその場にどっかりと腰を下ろしてしまった。
「こら! 何をしてるんですか!」
 と、静琉の声が聞こえたのはそんな時だった。
「ヌ……静琉か。何もクソも無いわい。ワシはこの娘が目を覚ましたと聞いたから――」
「それが若い娘さんに見せられるような格好ですか! ご覧なさい、怯えて口もきけなくなってるじゃありませんか!」
「ウヌ……」
「うぬじゃありません! まずは水浴びでもして、汗を流して身だしなみを整えてからいらっしゃい! くれぐれも、円香さんを怖がらせないように、細心の注意を払うのですよ。もし今度怯えさせたり、泣かせたりしたら今夜は折檻ですからね!?」
「わ、解った……出直してくる。出直すから……そう声を荒げんでくれぃ……」
 鬼は慌てて腰を上げると、来たときとは全く違うそろりそろりとした忍び足でどこかへ去っていった。入れ替わりにそっと、静琉が部屋の中へと入ってくる。
「ごめんなさいね、驚かせちゃったみたいで……。あれがうちの人なの。さっき円香さんが目を覚ましたって教えたら、居ても立っても居られなくなっちゃったみたいで…………フフフ、可愛いでしょう?」
 ごはんはもう少しで出来ますからね、と言い残して、静琉はしずしずと廊下を去っていった。
(……かわ、いい?)
 円香は涙に濡れた頬を拭いながら、全く同意しかねると思った。


「……宮本無双である」
 静琉が用意してくれた食事を食べ終え、その膳を片づけるや否や、入れ替わるように再び現れた鬼は円香の前に正座し、そう名乗った。
 その姿は先ほどとはうって変わった和服の正装ともいえる紋付き羽織に袴という出で立ちだった。
(……凄く、似合ってない)
 和服の下から存在を主張する筋肉によって、その姿はなんともつんつるてんな印象を否めなかった。
「こらっ」
 と、その額をぴしりと打ったのは、またしても脇から現れた静琉だった。
「何ですかその格好は! 円香さんが萎縮してしまってるじゃないですか!」
「お前がちゃんとした格好をしろと……」
「だからって紋付き羽織で現れる事はないでしょう! それと、きちんと“本名”を名乗りなさい!」
 本名? ということは、先ほどのは本名では無かったという事なのだろうか。確かに“無双”等という名前は本人の印象にピッタリではあるが、親が生まれたばかりの赤ん坊につける名としては些かぶっ飛び過ぎているように思える。
「し、しかし……!」
「しかしじゃありません! 門下生相手ならば、“異名”でも良いでしょうけども、円香さん相手にはそれは許しません! どうしてもイヤだと仰るのなら――」
「……宮本、双六である!」
 鬼――双六はどこかばつが悪そうに、それでいて開き直ったように声高に叫んだ。
(……すご、ろく……?)
 或いは、同級生であったり――もっと“軽い場”であれば、円香は吹き出してしまったかもしれなかった。しかし実際にはそんな事はなく、円香は空気を読んだ。
「……佐々木、円香です」
 自らもぴしりと正座をすると、手をついて深々と頭を下げた。
「あらあら、円香さんったら……そんなことしなくていいんですよ。………………おじいさん! 貴方が紋付き羽織なんかで現れるから!」
 静琉は俄に膝を立て、隣に座っている双六の額をぴしりと打つ。
「グヌ……」
 双六はまるで飼い主に不満がある犬のようなうなり声を漏らし、その双眼でじろりと円香を見下ろしてくる。
「ふんっ…………随分な別嬪じゃな。…………気に入らん。武士の奴。色香に誑かされたんじゃなかろうな」
 ぽつりと、そんな呟きを漏らすなり、再びパーンと音を立てて双六の額が叩かれる。
「そういう言い方をするものじゃありません! …………ごめんなさい、気を悪くしないでね。この人、こういう言い方しか出来ない人なの」
「い、いえ……大丈夫、です……」
 体重差にして軽く三倍はありそうなのに、静琉は双六に対して全く怯むところが無い。或いは、これが夫婦というものなのかと、円香はそんな事を思う。
「さあさ、もう顔合わせは済んだでしょう? 円香さんはまだまだ体を休めなきゃいけないんですから、邪魔者は退散しなさい!」
「グヌ……まだ話も何も――」
「そんなのは、円香さんが元気になってからでも遅くはないでしょう。…………円香さん、武士が帰ってくるまで時間はたっぷりありますから、それまでゆっくり体を休めてくださいね」
「は、はい! お気遣い、ありがとうございます」
 円香は再度頭を下げ、静琉に背を押されるようにして去っていく双六を見送り、布団へと戻った。腹が満ちたせいか、心地よい眠気に誘われて、そのままウトウトと円香は眠り込んでしまった。



 まるでナメクジかなにかが肌を這っているような、そんな気色の悪い感触と共に、円香は目を覚ました。
「おはよう、円香ちゃん。……随分気持ちよさそうに寝てたねぇ、良い夢見てたのかなぁ?」
「ッ……!?」
 悲鳴が、声にならなかった。円香の顔を舐めるようにしてのぞき込んでいるのは、他ならぬ富田晴夫だったからだ。
「そん、な……どうして……」
「“どうして”? 一体何が“どうして”なんだい? 円香ちゃん」
 晴夫は自らの唾液を塗りつけるようにして円香の顔を舐め、舐めながらその両胸を弄ぶ。
「だ、だって………………まさ、か……全部、夢……だったの?」
 武士に助けられたのも、夢。富田家から出る事が出来たのも、夢。
 静琉も、双六も、全てただの妄想に過ぎなかったというのか。
「悪いけど、“これ”が現実だよ、円香ちゃん。……ほぉら、もうこんなに大きくなってるよ?」
 ひっ、と。円香は己の腹部をはい回る手の感触に思わず視線を走らせた。そこには――もう今にも産まれそうな程にパンパンに膨らんだ腹部があった。
「もうすぐだねぇ、ホント楽しみだよ。どっちに似るかなぁ? ボクとしてはあんまり円香ちゃんには似ないでほしいなぁ。……だって円香ちゃんに似てたらさ、きっとボク、我慢出来ずにレイプしちゃいそうだもの」
「い……や……」
 円香は首を振りながら、叫んだ。
「イヤァァァァァァァアアア!!!」


「……さん、――どかさん!」
 ユサユサと肩を揺さぶられて、円香は再び目を覚ました。
「円香さん、円香さん、しっかりして! もう大丈夫だから!」
「ぁ……ぁ……ゆ、め…………?」
 円香は混乱した。一体どちらが夢でどちらが現実なのか――その判断がすぐにはつかなくて、そのせいでなかなか安心をすることが出来なかった。
(さっきのが……夢……? じゃあ、こっちが……現実……?)
 その判断には、たっぷり五分近くも有した。そう、紛れもない現実だと確信してから、円香は改めて布団の脇に座っている人物の方を見た。
(えっ……)
 どきりと、心臓が跳ねた。誰――と、一瞬頭が混乱した。てっきり、側にいるのは武士だとばかり思っていたからだ。
「俺だよ、円香さん」
 声も、記憶にある武士のそれと違っていた。武士はもっと――そう、声変わりしきっていないような、幼さの残る声だった筈だ。
(顔も……)
 確かに武士の面影はある。あるが、もっと幼い顔立ちだった筈だ。少なくともこんな、ひと目見ただけで胸の奥がキュンと鳴って、ドキドキが止まらなくなってしまうような、精悍な顔立ちではなかった。
「ちが、う……武士くんじゃ、ない……」
「違わないよ。……酷いなぁ、円香さん」
 武士ではない精悍な青年は困ったように笑い、ぽりぽりと頭を掻く。
「俺から見れば、円香さんだって随分変わったよ。…………うん、二年前よりも、見違えるくらい綺麗になっててビックリしたよ」
 違う――と、円香は思った。自分は綺麗になどなっていない。むしろ、醜く、汚くなっている筈だと。特に、この半年ばかりの間に受けた仕打ちは筆舌にしがたく、その傷痕は体に深く刻みつけられていると、そう思いこんでいた。
「……綺麗だよ」
 円香の表情の変化だけで、その心情を察したのか。武士は励ますように続けた。
「円香さんは綺麗だ、誰よりも」
「武士……くん……」
 あぁ、本当に。本当に夢ではないのだ――円香は武士の手を握り、握りながら、泣いた。子供のように大声を上げて、その胸で泣き続けた。

「……聞きたいこと、話したい事が沢山あるよ」
 三十分近くも大泣きし、泣き疲れた円香を正座したまま優しく抱き留めながら、武士は静かに呟いた。
「……私も、武士くんに聞きたいこと……いっぱい、あるよ」
 円香もまたしゃくりあげるようにして呼吸を整えながら、言った。“話したいことがある”とは言わなかった。
「……じゃあ、先に円香さんが聞いて」
「うん、聞く……」
 髪を撫でられながら、円香は子供のように頷いた。
「どうして……どうして、あの時……武士くんは来てくれたの?」
「あの時……?」
「あの時…………私が、歩道橋から飛び降りようとしてたとき……」
「そりゃあ、円香さんが助けて、って言ったからに決まってるだろ?」
 苦笑する武士の顔を、円香は見上げた。
「円香さん?」
「……言ってない」
 ふるふると、円香は首を振る。
「そんなこと、私……言ってないよ」
 そう、口にしてはいない。心では――それこそ、万を超える数の助けを呼んだ。しかしそれが伝わったと思うほど、円香はロマンチストでもなければ、楽観論者でもなかった。
「でも、電話してきただろ?」
「電話……?」
 そんな馬鹿な、と円香は思う。そもそも、例えどんな目に遭わされても、武士にだけは累を及ぼすまいと円香は決めていた。それこそ、武士に迷惑をかけるくらいなら、大人しく死を選ぼうとさえ。
(……そう覚悟して、武士くんと別れた……のに)
 それなのに、武士に電話で助けを求める筈など無いではないか――そんな事を考える円香の目の前に、武士は携帯の液晶画面をつきつけた。
「ほら、この番号……見覚え無い?」
「これ……は……」
 武士の携帯の着信履歴に表示されているのは、間違いなく富田家の固定電話の番号だった。
 そんな馬鹿な、と思う。
「円香さんが固定電話からかけてくれて良かったよ。……もし、携帯からだったら、居場所が分からなくて間に合わなかったかも知れない」
「違う! 私じゃない! 私は武士くんに電話なんかかけてない!」
「でも、俺は確かに円香さんの声を聞いたんだ。助けて、ここから連れて逃げて!――って。こうして証拠だって残ってる」
 そう、証拠がある。誰かが富田家から武士の携帯へと電話をかけたことは間違いないのだ。
(えっ……この日付と時間は……)
 円香は再度、富田家の番号が表示されている日付と、時間帯に注目した。そう、それは忘れる筈もない――円香が服毒自殺を図った日と時間だった。
(私、だ……)
 その時、円香は全てを理解した。大量の睡眠導入剤を服用し、前後不覚の状態になりながら、記憶を頼りに武士の携帯番号へとかけ、助けを求めてしまったのだ。
 そして、それを聞いた武士は仰天し、慌てて助けに駆けつけてくれたのだ。
「……円香さん?」
「っぅく……ごめん……ごめんね、武士くん…………本当は……武士くんだけは、絶対巻き込まない筈、だったのに……」
 円香は再び涙を溢れさせながら、武士に謝罪をした。電話をかけたのは間違いなく自分だと。服毒自殺を試みて、前後不覚になりながらかけてしまったのだと。でも、そんなことは言い訳にならないと、そこまで言った所で、円香は突然頬を打たれた。
「えっ……」
 自分の身に起きたことが信じられなくて、円香は泣くのも忘れて武士を見た。
「……円香さん、いい加減にしてくれよ!」
 武士は、怒っていた。本気で怒っていると感じた。
「俺にだけは迷惑をかけたくなかった? だから、死にそうなくらい辛い目に遭ってるのに、何も言わなかったっていうのかよ! ふざけんな!」
「えっ……えっ……?」
「俺は何度も、何度も言った筈だよ。俺にとって、円香さんが一番大事で、それ以外の事なんかどうでもいいんだって。円香さんの為なら何でも出来るって…………何度も、何度も何度も何度も何度もそう言ってるのに、どうして円香さんは解ってくれないんだよ!」
「そん、な……だって、それは……」
 きっと、初恋特有の一種の熱病のような……一過性のもので、時間をおけば、距離をおけば、きっとすぐに熱が冷めるものなのだと、円香は勝手に決めつけていた。
「俺は……この二年間……俺なりに頑張ってきたつもりだよ。…………もし、まだ円香さんが俺を必要としてくれるのなら、今度こそ守れるように、頼ってもらえるように、死ぬ気で頑張ってきた……それなのに、円香さんがそんなじゃ……何の意味も無いじゃないか」
「武士……くん?」
 円香の肩を掴んだまま、今度は武士が落涙していた。円香はどうして良いかわからなくて、ただただ不安げにその名を呼ぶことしか出来なかった。
「俺……今、爺ちゃんに鍛えてもらってるんだ」
 円香の脳裏に、厳つい武士の祖父の姿が浮かんだ。
「今はまだ無理だけど、いつか絶対に爺ちゃんから一本とって……一本とれたら、道場継がせてくれるっていうから……だから、絶対に十八になるまでには一本とってやる、って……そうしたら、今度こそ胸を張って……っ……」
「……道場、って……武士くん、サッカーは……」
「サッカーなんかどうでもいいんだよ! 円香さんだけが大事なんだって言ってるだろ!」
 どうして解ってくれないんだと、涙混じりの武士の言葉に、円香は震えた。
(違う……解らないんじゃ、ない……)
 円香は、小さく首を振った。そう、理解が出来ないわけではないのだ。それを信じてしまったら。受け入れてしまったら。嬉しさのあまり頭がどうにかなってしまいそうだから――だから。
「……解ってるんだ。俺の言葉が届かないのは、俺が年下だから。そんな言葉が似合わない、責任も持てない半人前だから……なんだろ? だから円香さんはいつも冗談っぽく誤魔化して、はぐらかして、真剣に取り合ってくれなかったんだ」
 でも、と。武士は円香の肩を痛い程に掴み、続ける。
「俺がちゃんとした“一人前の男”なら、もう円香さんは冗談なんかで逃げたりできない。真剣に向き合って、話を聞いてくれるって……そう、思ったから……だから……俺は……」
 武士の声は段々と小さく、か細くなり、最後には聞き取れなくなった。肩を掴んでいた手からも徐々に力が抜けていき、それと入れ替わるような形で今度は円香が武士の体を抱いた。
 ごめんね、武士くん――円香は武士の頭を抱きすくめるようにしながら、心の中だけで謝罪した。謝って済む話ではないのは百も承知だった。
(武士くんを追いつめたのは……私だ)
 まだ中学生だった武士にそこまで決断させたのは、間違いなく自分の責任だ。しかし口に出して謝れば、そのこと自体が武士の決断に対する侮辱となってしまう。
 だから。
(……すぐに忘れてくれるって、気持ちが冷めちゃうって、勝手に決めつけてごめん……本当にごめんね、武士くん)
 円香には、心の中で謝ることしか出来なかった。


 武士と、いろいろな話をした。その中で円香が最も驚いたのは、ここが北海道という事だった。
「当たり前だろ? 爺ちゃんの道場は北海道にあるって前に話さなかったっけ?」
「聞いたような気もするけど……じゃあ、武士くんは……」
「うん、二年前に家を出て、それからずっと爺ちゃんちで暮らしてる。ちなみに、コジローもここに居るよ、あとで会わせてあげるよ」
「コジローが!?」
 懐かしい、それこそ二年ぶりに聞く愛犬(?)の名に、円香は思わず声を荒げてしまった。
「……私の事、忘れてないかなぁ」
「犬は三日飼えば三年忘れないって言うし、大丈夫だよ、きっと」
 だといいんだけど――と、円香が沈んだ声を出したのは、コジローの件が不安だからではなかった。
(武士くんが家を出た……っていう事は……由梨はどうなったんだろう)
 その疑問を口にしかけて、円香は寸前で止めた。何となくそれは聞いてはいけないような気がしたし、知る必要がある事ならば武士が自分から語ってくれるだろうと思ったからだ。
(……じゃあ、武士くん……あの時、北海道からわざわざ、駆けつけてくれたんだ)
 円香には“祖父の道場”とやらが具体的に北海道のどの辺りにあるのかは解らない。解らないが、どう本州に近く見積もっても、自分が暮らしていた富田家がある地域までは車で半日はかかるだろうと思った。
 それこそ、円香が電話をかけた日付と時間を考えると、あの日あの時間あの場所に車で来る為には電話を聞くなり電光石火で出発して駆けつけなければむりだろうという事も。
 そのことについて円香が尋ねると、武士は申し訳なさそうに肩を落とした。
「ごめん……本当は飛行機ですぐに駆けつけられたらよかったんだけど……電話を受けたのが真夜中で、飛行機も電車もなくって……朝までなんてとても待ってらんなくて、知り合いの――ああ、門馬さんっていう、うちの道場の門下生の一人なんだけど、無理いって車出してもらったんだ。………………結局、朝まで空港で待って飛行機使ったほうが全然早く着けるくらい、遅くなっちゃって……」
 そのことに関しては、円香は無論恨む気持ちなど全く無かった。むしろ、どれほど感謝をしてもしきれない程だった。
(門馬さん……あのメガネの人……だよね。……後で、お礼言っとかなきゃ)
 その名を心に刻みながら、円香ははたと思い出した。そういえば、あの時もう一人いなかったか。
「そういえば、武士くん……あの時に居た女の子は?」
「ああ、門馬さんの妹で……名前は里美っていうんだ。一応同い年で、一応……こっちに来てから出来た最初の友達、かな」
 “一応”の多さが気になるなと、円香は思った。その不審そうな態度をかぎ取ったのか、武士は慌てて弁明を続けた。
「違うよ、そんなんじゃない。あの子もうちの道場に通ってる関係で、そりゃ話くらいはするけど、ただの友達だから」
「……でも、可愛い子だったよね?」
「全然! 円香さんの方が百倍綺麗だよ!」
「そうかな? 年上の“おばさん”よりも、同い年の若い子のほうがいいかも、って一度も思った事ないって誓える?」
「…………円香さん、怒るよ?」
 さすがにそれ以上は聞き流せないとばかりに武士にムッとした顔をされ、ごめん、と円香は素直に謝った。
「……でも今、ちょっとだけ安心したよ。昔の円香さんに戻ったみたいでさ。……歩道橋で助けた時の円香さん、本当に……見てられないくらい、怯えきった目をしてたから……」
 あぁ、きっとそれが――富田家での、武士の行動に繋がったのだと、円香は思った。ろくに何があったのかを話もしていないのに、まるでこいつらが仇だと確信しているかのような武士の行動の謎が円香はやっと解けた。
(…………私の代わりに“仇”を討ってくれたんだよね、武士くん)
 あの時は、武士が極めて暴力的な人間になってしまったのかと危ぶみもした。しかしそれは杞憂だった。確かに身長がぐんと伸び、体つきも精悍になったが、中身は昔のままの――円香が惚れた優しい武士そのままだということが、ひしひしと伝わってくるのだ。
「あっ……そういえば、武士くん……大丈夫なの?」
「大丈夫って?」
「ほら……あの時、かなり……やりすぎちゃったでしょ?」
「ああ……そうだね」
 武士はばつが悪そうに顔を背けた。
「…………円香さんからは何も聞いてなかったけど、それでも…………あいつらのせいで、円香さんがこんな風になったんだって思ったら……自分を抑えきれなかった。もし、あの件で警察が来たりしたら、その時は大人しく罪を償うよ」
「そんな……」
 自分のせいで武士が逮捕されるかもしれない――それは、自分自身が捕まることよりも遙かに恐ろしく、心が痛む事だった。
「……大丈夫、だよ、武士くん。あの人達は、警察に言ったりしない」
 うん、と円香は力強く頷いてみせる。
「だって、そんなことしたら、自分たちの手も後ろに回るって、解ってる筈だもん。……だから、きっと大丈夫だよ」
「円香さん……」
 巧く誤魔化したつもり――だった。しかしそれでも、やはり隠しきれるものではなかった。連中が警察に泣きつけない理由とやらが、そっくりそのまま円香の身に降りかかったものだという事を武士は察したらしかった。
「…………円香さん、ここなら安全だから。とにかく二,三日はゆっくり体を休めて、今後の事は……それから考えればいいよ。大丈夫、爺ちゃんも婆ちゃんも基本暇人で世話好きだからさ、いざとなったら円香さん一人くらい――」
「もしもーし、お取り込み中のところ悪いんですけどー?」
 うぉっほん、とまるで年寄りかなにかのように大げさに咳をしながら、廊下から稽古着姿の女の子が姿を表した。
(あら、この子は……)
 先ほど話に出た、里美ちゃんではないかと。円香は僅かに目を見張った。
「師範が稽古の時間だから呼んでこいってさ」
「あっ、もうそんな時間か。……ごめん、円香さん。俺、行かなきゃ…………爺ちゃんから一本とるっていうのと、怪我と病気と学校行事の時以外、毎日稽古を続けるっていうのが、道場継ぐ為の条件なんだ」
 また後で来るから――早口にそう言って、武士は部屋を後にする。そして何故か、里美が入れ替わりに部屋の中へと入って来た。
「えっと……門馬里美……ちゃん、だよね? 武士くんから、名前だけ教えてもらったの。私は――」
「“ササキマドカ”さん、でしょ? 武士からなんべんも聞かされてるよ。耳にタコが出来るくらいにね」
 敵意すら感じるような口調で、里美は円香の布団の側にどっかと座ると、そのままあぐらをかく。
「あ、あの……何か……」
 あぐらをかいたまま、さらに肘をつき顎を乗せ、ぶっすーっと不機嫌そうな顔をする里美の視線に耐えられなくて、円香はつい視線を伏せてしまった。
「あ、そうだ……あの時は、武士くんと一緒に来てくれてありがとね! 門馬さんが車出してくれたって、武士くんが――」
「車出したのはあたしじゃなくて兄貴。……ったくもー、夜中にいきなり来て、“円香さんが大変だから、車を貸してください!”だよ? 免許もないクセにさ。結局兄貴が大学休んで運転していく事になって……あたしまで付き合わされて、ほんと良い迷惑だったよ」
「ごめん、なさい……」
 円香はしゅんと肩を落とした。落としながら、ちらりと思った。お兄さんは確かに運転手として必要だからついていったのだろうが、何故貴方まで一緒に?――と。
 そんな円香の気持ちなどつゆ知らず、里美はまるで珍しい花でも観察するかのように、角度を変えて円香の顔をじろじろと見続ける。
「……何よ。武士の嘘つき。実物はそんな大したことないじゃない」
「え……? あの……武士くんが、何か……?」
「そりゃーもう、たーーーーっぷり聞かされてるわよぉ? “マドカさんはこの世で一番綺麗だ”とか“マドカさんは俺の女神だ”とか。もー胸やけしてお腹いっぱいになるくらい、寝ても覚めても貴方の自慢話ばっかり」
「た、武士くんが……そんな事を……?」
 顔を真っ赤に赤面させながら、円香は思わず声を上ずらせる。
「う、そ。……あの朴念仁がそんな事おおっぴらに言うわけないじゃない。……だけどさー、態度の端々からプンプン匂ってくるわけ。裸にしたら“円香さん命”って彫ってあるんじゃないかって思いたくなるくらい」
「あ、あは……あはは……」
 一体なんと返してよいか解らず、円香は乾いた笑みしか返せなかった。円香のそんな反応が面白くないとばかりに、里美はぶうと頬を膨れさせた。
「ねえ、一つ聞いていい?」
「な、何?」
「円香さんは、武士の事好きなの?」
 どストレートな直球に、円香はずきゅんと思わず固まってしまった。
「え……と…………」
 かぁ、と頬が熱くなるのを感じながら、円香は小さく頷いた。
「武士のどこが好きなの?」
「それ、は……」
 質問は一つではなかったのだろうかと思いながらも、円香はつい考え込んでしまった。自分は一体、武士の何処に一番惚れたのだろうと。
「やっぱり……優しいところ、とかかな」
「なにソレ。チョーありきたりじゃん。優しい男なら誰でもいいの?」
「そういう、わけじゃ……」
「じゃあさ、うちのアニキなんかどう!?」
 えっ、と。突然目をきらきらさせながら身を乗り出してきた里美に、円香は思わず上体を引いてしまった。
「ほら、あの時車運転してたのがうちのアニキだよ! 妹のあたしが言うのもなんだけど、ああ見えてけっこー頼りがいもあるよ? 勿論優しいし、成績優秀で将来性もばっちり! ……どう!?」
「えと…………どう、って言われても……」
 里美の意図が分からなくて、円香はなんとも答えが返せなかった。
「ま、いちおー考えといてよ。…………武士だけが男ってワケじゃないんだしさ」
 最初に来た時とはうって変わって、にこにこと笑顔を零しながら里美は立ち上がり、立ち去りかけて――はたと、何かを思い出したように立ち止まり、振り返った。
「………………?」
 首を傾げる円香の元へと再び歩み寄り、しゃがみ込む。そしていきなり、むんずと。服の上から円香の胸をわしづかみにする。
「ひゃっ」
「………………重っ…………これ、本物?」
 両手でモミモミされながら、円香は小さく頷いた。
「……まさか武士…………“コレ”に惚れたんじゃ…………」
 里美は何度も何度も、自らの胸元と円香のそれとを交互に見ながら、納得がいかないとばかりに呟く。
「あ、あの………………止めて、下さい…………」
 円香は控えめな声で言ったが、乳を揉む里美の手は止まらない。
「……すっご…………なにこれ、うちの花子みたいじゃん。何食ったらこんな風になるの? それともまさか、本州の女って……みんなこーなの?」
「……えーと……あの……里美、ちゃん?」
 モミモミモミ――捏ねるように揉んでいた里美の手が、唐突に離れた――と思った次の瞬間、円香は“おっぱいに”平手打ちを食らった。
「きゃんっ」
「こんちくしょー! 勝ったと思うなよぉ! うちの花子はおっきいだけじゃなくて乳も出るんだからな!? しかも味で“道一位”になったんだぞ! びびったか!」
 まるで一昔前の悪役が去り際に残すような言葉を吐きながら、里美は涙目で部屋から出て行ってしまった。
「花子って……もしかして、牛……?」
 それともヤギだろうか。どちらにせよ、それと比べられる事は人として大変不名誉な事だと、円香は思った。



 信じられないほどに穏やかな日々が続いた。富田家での生活とのあまりの違いに、或いはここは本当に天国なのではないかとさえ、円香は思った。
 目を覚ましてから二日間は床からあまり出ず、体力の回復に努め、円香は三日目から少しずつ家の中を出歩くようになった。年季の入った木造こけら葺き屋根の本宅と、その数倍はあろうかという道場が円香の主な散策場所だった。庭も広く、きちんと草木の手入れをされたそれはちょっとした運動場ほどの広さもあった。 
 武士の言葉から剣道か柔道の類を教えている道場だと円香は思っていたのだが、改めて武士に尋ねてみると「教えてるのは武術全般」との事だった。剣道、柔道は勿論の事、合気道や空手なども日替わりで教えているらしい。習いたい、と言ってくる者が居れば、人数の多寡にかかわらず面倒を見てやるというのが基本方針らしく、かくいう円香も邸宅内を散策している時に庭の隅っこでヌンチャクの練習をしている三人組の男を見かけてつい首を傾げてしまったりもした。。
「最近は女性向けの護身術とかもやっててね。これが結構評判がいいんだ。さすがに爺ちゃんが相手をするのはマズイから、こっちは婆ちゃんが教えてる」
 確かに、あの“見た目”では護身術を教わる以前に近寄る事すらできない人も多いのではないかと円香は思った。
「まあ、護身術なんか習っても、ここには暴漢なんか現れないんだけどね。過去百年くらい、窃盗事件すら起きてないらしいよ」
 誰も玄関に鍵なんかかけないと、武士はどこか誇らしげに語った。

 四日目には、土曜日で学校が休みという事もあって、円香は武士に連れられて家の周囲を自転車で散策した。円香は武士が漕ぐ自転車の荷台へと座らされ、その後ろをコジローが走ってついてきて、さらに後ろには何故か呼んでもいないのに里美が自前の自転車でついてきた。
 周囲には見事なまでに田圃と畑と、あぜ道と用水路と、そして山と川と森しかなかった。後はちらほらとまばらな民家や牛舎などが見えるだけで、最寄りの駅までは片道四十キロというのだから、円香には信じられない話だった。
「ああでも、去年近くにコンビニが出来たんだ。片道十キロくらいだから、走り込みの目印に丁度いいんだよね」
 片道十キロもかかる距離が“近く”になってしまう感覚に、円香は少々苦笑いをしてしまう。或いは、自分もこの土地で二年も暮らせばそういう感覚になるのだろうか。
 大分日が高くなってきた辺りで、静琉が作ってくれた弁当を食べようという事になった。それなら良い場所を知っている、と。武士に連れられて円香は小高い丘の木陰へと連れてこられた。
「わぁっ、ほら、見て見て!」
 倒木の幹に腰掛けて、三人(と一匹)並んで静琉の作ってくれた弁当を食べていた時の事だった。一足先に弁当を食べ終えた里美が急に立ち上がり、遠くを指さした。
「円香さんがいっぱいいる!」
 その指の先には、放牧された数え切れないほどの乳牛たちが居た。
「…………。」
 武士は弁当を脇に置き、無言で立ち上がると里美の腕を掴み――
「えっ――きゃあ!」
 ひょいと、まるで船の舵でも回すような手つきで投げ飛ばした。びゅん、と音を立てて、里美の体は風車の羽のように縦に回転し――
「ぐえっ」
 と、潰れたカエルのような声を出して、背中から草むらに着地した。
「た、武士くん!?」
「円香さんの悪口を言う奴は許さない。…………大丈夫、里美もうちの古株だからね。こんな事で怪我する程ヤワじゃないよ」
 武士は何事も無かったかのように円香の隣へと座り、弁当の続きを食べ始める。その後、復帰した里美は懲りずに“妖怪乳牛女”と円香を呼び、再度武士に投げ飛ばされた。



 

 六日目、円香は始めて武士の“稽古”を見学した。
 練武場と呼ばれるその場所は、日曜に限り武士の祖父が教える自己流の古武術のみの修練場と化すのだという。
 四十人ほどの門下生が各々の相手と組み手を交わす中、円香は静琉と共に練武場の端に鎮座していた。その目の先が捉えるのは、言わずもがな宮本双六とその孫武士の組み手だった。
 練武場内には様々な声や、地響きにも似た音が響き渡っていた。そんな中、武士と双六の周囲だけがまるで空気の密度が違うかのようにシンと静まりかえり、端で見ている円香にまでピリピリとした緊張が伝わってくる。
 武士も、双六も構えたままかれこれ五分近くも微動だにしていなかった。その実、二人が自分の目に映らない形でしのぎを削っているのだという事だけは、円香にも解った。
「あっ――」
 と。武士が一歩踏み出した、と思った時にはもう、その身はくるりと縦に舞っていた。まさに、瞬き一つの間に攻防が終わり――
「がはぁっ」
 だむ、と。凄まじい音を立てて武士の体が道場の床へとたたきつけられる。一体何が起きたのか、円香には全く解らなかった。
「遅い! 早く立たんか!」
 双六が一喝した瞬間、武士は立ち上がる。よろりと起きあがった武士に、双六は一切の容赦なく襲いかかる。二手、三手の攻防の後、再びその体が宙を舞い、背中から叩きつけられる。
「…………っ!」
 思わず立ち上がろうとした円香を制するように、その手を隣に座っている静琉が握った。静琉はまるで――巣から飛び立とうとする雛鳥を見つめる親鳥のような目で、武士を見ていた。
 円香が静琉を見ている間に、またしてもだむっ、と。武士が叩きつけられる音が響く。
「ちゃんと見てあげなさい」
 静琉の声に、ハッと円香は武士へと視線を戻した。武士は再び立ち上がり、双六へと手を伸ばし、その手を払われ――自分へと伸ばされた手を逆に払い、逆に前へと踏みだし、その襟元へと手をかけた瞬間――またしてもくるりと。
「ぐっ……」
 武士の体が、まるで風車の羽のように縦に回転し、だむっ、と激しく俯せに叩きつけられる。
「やっ……もうっ……!」
 立ち上がりかけた円香の手を、再び静琉の手が強く掴んだ。
「もう、無理です! お願い、止めて……」
 円香の言葉に、静琉は視線を動かしもしなかった。
「大丈夫です」
 まるで、静琉の言葉に呼応するかのように、武士は再び立ち上がり、双六へと組み付いた。
「この二年で、あの子も強くなりましたから」
 その時、武士の動きが変わったように、円香には感じられた。双六の“攻撃”をいなし、その勢いをまるで利用するかのように体を滑らせ、懐へと飛び込む。
「ヌッ……!?」
 懐へと飛び込んだ武士が渾身の掌底をたたき込む。巨岩のような双六の体がぐらりと揺れる。素人の円香の目にも、双六の姿勢が崩れたのが解った。否――武士によって崩されたのだ。
 あと一手、あと一手間に合えば――
「甘いわ!」
 双六の声と共に再び武士の体が舞った。だんっ!と今までで一番強く床へとたたきつけられ、そのあまりの衝撃に周りで同様に組み手をしていた門下生達が一斉にその動きを止めた。
「武士くん!」
 円香が叫んだ瞬間、静琉がいち早く立ち上がり、声を張り上げた。
「そこまで!」
 静琉は大の字に倒れたままぴくりとも動かない武士の元へと駆け寄り、まるで医者のような手つきでその体を調べ、そして安堵のため息をついた。
「安心せい。殺しちゃあおらん」
「当たり前です! 何もここまでやらなくても良いでしょう!」
「ふん。……武士め、女の目があるからといやに張り切りおって。最後はちとひやりとしたわい」
 双六はその尖ったヒゲを揺らして愉快そうに笑う。はあ、と静琉はため息をつき、立ち上がったまま固まってしまっている円香の方へとそっと目を向けた。
「ごめんなさい、円香さん。ちょっと手を貸してもらえるかしら?」
「は、はい!」
「あ、私も手伝います!」
 と、手を挙げて志願したのは里美だった。
「あら、じゃあ二人にお願いしようかしら。軽い脳しんとうみたいだから、医務室の方に寝かせておいてもらえる?」
 はい、と円香と里美は返事をして、それぞれ武士に肩を貸すようにして持ち上げた。
(……重い)
 里美と二分して尚、そう感じた。見た目は華奢なのに、きっとそれだけ筋肉がついているという事なのだろう。
「ふん。女に肩を貸されるとは、軟弱者め」
「誰のせいだと思ってるんですか!」
 背後で、ぺしんと双六が額を叩かれる音が聞こえた。円香は振り返る余裕もなく、里美の誘導にしたがって練武状隣の医務室へと入り、ベッドに武士を寝かせた。医務室、という名前がついてはいるが、常駐の医者などは居ないらしかった。
(ひょっとしたら――)
 と、円香が思ったのは、先ほどの静琉の手つきだった。或いは静琉は医術の心得があるのかもしれない。
「……大丈夫だよ。これくらい日常茶飯事なんだから、多分すぐ目を覚ますよ」
 ベッドの脇で途方に暮れている円香をよそに、里美はてきぱきと洗面器に水を汲み、タオルを浸すやぎゅっと絞って武士の目の上辺りに置く。
「日常茶飯事って……」
「てゆーか、これはかなりマシな方。昔はこんなもんじゃなかったよ」
「えっ……」
「何回か骨折したこともあったし、脱臼や骨にヒビなんてのはしょっちゅうだったね。組み手や乱取り以外にも“特訓じゃあ!”とか言われて師範に無茶な事やらされて、全身生傷だらけになってた頃もあったし」
「骨折……って……」
「師範ってほら、“ああいう人”だからさ。もちろん手加減はしてるんだろうけど、それでも“普通の人”にしてみたらボウリングの球で殴られるか、野球の硬球ぶつけられかの違いしかなかったりするのよね。前にアニキが言ってたけど、師範と一度でも乱取した人は、その後二度と師範の半径二メートル以内に近寄れなくなるらしいよ」
 普通ならね、と里美は最後に一言付け加えた。
(そんな人と、あんなに何度も――)
 円香は先ほどの光景を思い出すだけで、目の眩む思いだった。否、“何度も”どころではない。この二年間、それこそ“ずっと”なのだろう。
「“死に物狂い”って言葉、あるじゃん? よく“死に物狂いで頑張った”とか、そういう使い方する奴いるけどさ。本当の死に物狂いってこういう事なんだって、あたしは武士を見て思ったよ」
 そう、まるで 円香の目にもその光景が浮かぶかのようだった。毎日毎日、それこそ血反吐を吐くようにして鍛錬に励む武士の姿が。
「……ついでに、こうも思ったね。まだ中学生だった武士に、ここまで無茶を強いる“ササキマドカ”って女はどういう女なんだろうって。きっと、とんでもない魔女みたいな奴なんだろうってね」
「…………っ……」
 里美の言葉に、円香は目を伏せ、思わず肩を抱いた。その通りだと思った。自分は魔女だと。武士の人生を狂わせ、ここまでの無茶を強いた張本人なのだから。
「…………ま、そう思ってたんだけど、実物見てガッカリしたっていうか、ホッとしたっていうか。……正直、武士の気持ちもちょっと解るかなぁ、っていうか、見ていてこんなに“何とかしてあげなきゃ”って思わされる人他に知らないっていうか……ああもう、何言ってんだろアタシ」
 里美は勝手に声を荒げ、勝手に顔を赤くし、勝手に地団駄を踏んだ後、唐突にばちこーん!と円香の胸に平手打ちをする。
「きゃあっ!?」
「何ぼさっと突っ立ってんのよ! あんたの為に武士は頑張ってるんでしょうが! せめて目が覚めるまで手くらい握ってあげればいいじゃない! このおっぱい魔女め!」
 がーっとまくしたて、里美は部屋の隅から丸椅子を持ってくるとどん、とベッドの脇へと置く。
「とにかく! サボリだと思われたら心外だから、あたしは稽古場に戻るから! 後は煮るなり焼くなり好きにすればいいじゃない! 隠れてキスとかすればいいじゃない!」
「なっ……ちょっ……里美ちゃん?」
 顔を真っ赤にして、恐らくは自分でも何を口走っているのか解っていないような事を早口にまくし立てて、里美は医務室から出て行った。
 後に一人残された円香は仕方なく用意された椅子に座り、そっと武士の手を握った。
 五分ほどそうして手を握り続けた円香は、不意に自分の手を握り替えされた事で、武士の覚醒を悟った。
「………………円香さん?」
 呟きながら、武士は円香が握っている手とは逆の手で、目元に置かれていたタオルを持ち上げ、改めて円香を見た。
「やっぱりだ」
「うん。……よく解ったね」
「解るよ。里美はもっとギューーーって、痛いくらいに握るから」
「…………。」
「あぁ、違うんだ。ええと……稽古中に気絶した時は、だいたいあいつが付き添いで残ってて、目が覚めたら勝手に手が握られてるだけで……」
「……さっきまで、里美ちゃんも居たんだよ? だけど、お稽古があるからって」
 円香にも、おぼろげに解ってきた。あの子は、恐らく武士の事を――。
「あぁ……そうだ、俺もすぐ戻らなきゃ」
 と、慌てて体を起こそうとする武士の胸を、円香は押さえつけるようにして再び寝かせた。
「円香さん?」
「もうちょっと休んでた方がいいよ」
「でも……」
「武士くんは……無茶、しすぎだよ」
 円香は、武士の手を強く握りしめた。
「……もっと、自分の体も……大事にしてよ」
「………………それ。そっくりそのまま……円香さんに言いたいな」
 円香の手を握り返しながら武士は苦笑し、そしてばつが悪そうにタオルを目元へと戻し、呟いた。
「……さっきはゴメン。格好悪いところ見せちゃった」
「ううん、そんな事ないよ。……武士くん、凄く格好良かったよ」
「円香さんに見られてたら、ひょっとしたら……勝てるかと思ったんだけどなぁ。…………畜生、強すぎだよ」
「でも、最後は凄く良い感じだったじゃない! 次は勝てるよ!」
「まだまだだよ。…………手加減されてるのが、自分でも解るんだ。まだまだ全然及ばない。……だけど」
 武士はそこで言葉を切り、唐突に黙ってしまった。円香もまた何も言わず、ただただ武士の手を握りしめた。
(…………武士くんは、戦ってる……私だけ、いつまでも逃げてちゃいけない)
 武士の覚悟に答えなければならない。円香は空いている手を自らの腹部に当て、小さく頷いた。



 その日の夜、風呂と夕食を終えるなり、円香は大事な話があると武士にそっと耳打ちをした。出来れば邪魔の入らない、二人きりになれる場所で話したいと。
 それなら離れを使えばいいと、武士は静琉にその許可を貰い、円香を連れて邸宅の外れの部屋へとやってきた。
「婆ちゃんが書き物とか茶道とかやってる部屋なんだ」
 四畳半ほどの小さな小部屋だった。そのこじんまりとした縁側へと、円香は武士と並んで腰掛けた。
「それで、円香さん。大事な話って?」
「うん、あのね……武士くんに、お願いがあるの」
 或いはそれは、武士に頼むというのは筋違いであるかもしれない。しかし、静琉や双六に頼むより先に、まずは武士に話しておくべきだと、円香は思った。
「家事手伝いでも、私に出来る事なら何でもするから、もう少しここに置いて欲しいの」
「なんだ、そんな事か。全然構わないよ、爺ちゃんも婆ちゃんも多分二つ返事でOKしてくれると思う」
 むしろ、と武士は苦笑混じりに付け加えた。
「……円香さんが出て行きたいって言い出すんじゃないかって、ハラハラしてたくらいだよ」
「…………それは、無理なの」
 そう、円香にはその選択肢など無かった。武士の側に居たいから、ではない。現実的に無理なのだ。
「……家には帰れないし……それに、お金だって持ってないから……」
 そう、貯金の全てをつばめに捧げた円香にはもう、正真正銘一銭の金も残されてはいなかった。
「家には帰れないって……どういう事?」
「…………私ね、パパに……捨てられたの」
 円香は、武士に自分の状況をかいつまんで説明した。“動画”の件で父の会社に迷惑をかけてしまったこと――ただ、その動画については、大学生らが撮ったものという説明はあえて省いた――そして、そのせいで母がノイローゼになって入院してしまった事。家を出なければならなくなったのは半分は心ない者達の嫌がらせの為であり、半分は円香がそんな母の側に居ては容態が悪化する一方だと父に言われたからだと。
 そして、父はそんな円香の“引取先”をまずは親戚縁者に求めたが誰からも断られ、仕方なく借金を肩代わりする形で親友に引き取らせたのだという事も。
「電話でね、はっきり言われたの……もう帰ってくるな、ここにはお前の居場所は無い。二度と電話をしてくるな……って」
 その父の言葉は、刃物で体を刺されるよりも強い痛みを、円香に与えた。
「私はね、ゴミなんだって。…………パパにとって、一千万円近くの借金を代わりに払ってまで処分したかったゴミだって……っ……」
 自分で言っていて、涙が溢れるのを止められなかった。あんなに、あんなに優しかった父に見捨てられたのだと思うと、それだけで涙が止まらなかった。そんな父を恨んでいないと言えば嘘になる。が、しかし自業自得だという思いの方が遙かに強い。
「……っ……。」
 武士が、唇を噛むのが円香には見えた。円香に遠慮して父の悪口こそ口にしないが、その所業に腹を立てているのだという事は明らかだった。
「だから、本当にもう……何処にも行く所なんかないの…………」
「……大丈夫だよ。円香さん。…………俺は、絶対に……どんな事があっても、円香さんを見捨てたりしないから」
「……ありがとう、武士くん」
 武士の優しさが、円香には嬉しかった。しかし、表情を曇らせずにはいられなかった。こんなに優しい武士に、さらに自分は無理を言わねばならないのだと思うと、情けなさの余り息苦しささえ覚えた。
「…………それと、ね……」
 しかし、言わねばならない。これ以上伸ばしては、本当に手遅れになる可能性だってあるのだから。
「…………もう、一つ……お願いが、あるの……」
「何? 何でも言ってよ、円香さん」
「……お金……を……貸して、欲しいの」
「いくら? 俺、少しなら貯金あるけど」
 円香は、掠れた声でその金額を口にした。咄嗟に見開いた武士の目が、その金額が貯金を上回っているのだという事を物語っていた。
「そんな大金……どうするの? ひょっとして借金があるとか?」
「そうじゃないの………………っ…………」
 “理由”については、出来れば口にしたくは無かった。しかしやはり、大金を借りる以上、言わずには済まされないだろうと、円香は思った。
「……赤ちゃん……堕ろさなきゃいけないの」
「赤ちゃんって…………円香さん、妊娠してるの!?」
 円香は涙を滲ませたまま目を瞑り、小さく頷いた。……頷くという事が、これほど辛いと思った事は無かった。
「誰の……子供なの?」
「あの人…………武士くんが、殴った……多分、あの人の子供……だと思う」
「……あいつか」
 武士の呟きには、殺意すら籠もっているように聞こえた。円香はそっと薄目を開けると、強く握りしめられた武士の拳が見えた。
「ごめんね、武士くん……こんなの、言い訳にならないけど…………私、あの人に無理矢理……何回も、何回も……抱かれ、て……」
「…………あの時、先にそれを聞かなくて良かったよ。……聞いてたら、俺は間違いなくあのおっさんを殴り殺してた」
 恐らくそれは事実かもしれないと、円香は思った。それほどまでに、ぴりぴりと空気を通して武士の怒りが伝わってくるのだ。
「……円香さん、“多分”って事は……ひょっとして他にも?」
 その質問には、頷く事が出来なかった。しかし、円香の表情で、武士は全てを悟ったようだった。
「…………売春、みたいなことも……させられてて……っ……」
「……ごめん、円香さん」
 もう聞かないと、武士は優しく言い、円香はそのまま肩を抱かれ引き寄せられた。
「大丈夫、もう……大丈夫だから。……二度と、円香さんをそんな目に遭わせたりなんかしない。絶対に」
「武士……くん?」
「これからは、俺がいつも側に居て、円香さんを守る」
 だから――と、武士は円香の肩を両手で掴み、正対するや否やそこで言葉を一度切った。躊躇うように何度か唇だけを動かした後、意を決したように、肩を掴んでいる手に力が籠もる。
「俺と……結婚して欲しい」
 



 武士の言葉に、円香はまるで雷に打たれたような気分だった。
(え……? 武士くん……今、なんて……)
 その言葉があまりに衝撃的で、かみ砕いて理解をするのにたっぷり十秒以上の時間を要した。
(結婚して欲しいって……言ったの?)
 その言葉の意味を理解していくにつれて、円香は全身がざわつくのを感じた。
「け……っこん……って……武士、くん?」
 本気なの?――そう口にしかけて、円香は慌てて口を噤んだ。それは、武士の覚悟をあざ笑う言葉だからだ。
「……あの……私……お金も、無くて……」
 言いながら、円香は自分で何を言っているのか解らなかった。
「それに……妊娠も……」
「うん、さっき聞いたよ」
「い、いっぱい……いろんな人に…………汚されて……」
「関係ないよ」
 武士の笑顔が、円香には眩しくすら見えた。
「俺は、円香さんが好きだ。二年前、円香さんと離ればなれになってからもずっと、その気持ちは変わらなかった。…………もう二度と、円香さんを離したくない。絶対に」
「で、でも……!」
「円香さんじゃなきゃダメなんだ」
「武士……くぅん……」
 円香はまたしても、涙が溢れるのを止められなかった。しかし、涙の意味は全く違っていた。
 武士は何も言わず、肩から背へと手を回し円香の体を抱きしめてくれた。円香はただただ武士の胸に顔を埋め、嗚咽の声を漏らした。
 泣きながら、円香は思った。自分は馬鹿だったと、心底思った。最初から幸福になれる道をこうして武士に示してもらっていたというのに、勝手にそれから逃げるような真似をして、その挙げ句に望まない妊娠までしてしまったのだから本当に救いようがないと。
(……でも、もう……迷わない。……逃げない……)
 こんな自分でも、武士は必要としてくれる。何も怖がる必要はない、例えどんな障害があろうとも、武士ならば――否、二人ならばきっと乗り越えられる筈だ。
「…………円香さん、子供の……事なんだけどさ」
 円香の嗚咽が聞こえなくなるのを見計らったかのように、武士がぽつりと漏らした。
「……堕ろすのはやめて……産むのは……ダメ、かな」
「えっ……?」
 武士の言葉が信じられなくて円香は思わず顔を上げてしまった。
「円香さんがどうしても嫌だって言うのなら、それでいいと思う。…………だけど、俺は出来れば……堕ろして欲しくない」
「どうして……? だって、この赤ちゃんは……」
「うん、他の男の子供だ。……だけど、俺の子供だと思って産んで欲しい。…………ダメかな?」
 武士の言っている事が、円香には解らなかった。結婚しようとしている女が、他の男の子供を身ごもっている――それは男としては当然、堕ろして欲しいと思うものではないのか。
 それを、産んで欲しいという武士の言葉が、円香には理解出来なかった。
 そう、理解は出来なかった――しかし。
「……いい、の?」
 そう呟いた瞬間、円香は己自身の“本音”に気がついた。
「…………父親は違っても、大好きな円香さんの子供には違いないんだしさ。……出来れば、殺して欲しくなんかないんだ」
 そう、堕ろすという事は、殺すという事なのだ。かつて、円香はその“痛み”を身をもって味わった。忘れがたい――そして、例えようのないその痛みは、まるで形を成す間すらも与えられずに殺された我が子の呪詛のようにすら思えた。
 もう二度と、こんな痛みは味わいたくないと思った。しかし、円香は再度、望まない子供を孕まされた。“痛み”に怯えつつも、堕ろさなければと思った。何より、“あの男”の子供だと思うだけで子宮をえぐり出したい程の嫌悪に襲われた。例え産んだとしても、自分はこの子を愛せるのだろうかという不安は、無論ある。
 それでも――。
(武士くんと、一緒なら……武士くんが、望んでくれるのなら……)
 自分は、きっと愛せると、円香は思った。
「産んでも……いいの? もう……赤ちゃん殺さなくても、いいの?」
「いいんだよ、円香さん。……俺は大歓迎だよ」
 或いは――と、円香は思った。或いは、そう……武士はそんな円香自身気がつかなかった“本音”を察して産んで欲しいと言ってくれたのではないかと。武士自身、辛くない筈がない。武士が抱いてくれる好意が本物であればあるほどに、それはどうしようもないほどに耐え難い事の筈なのだ。
 それなのに、武士は辛そうな顔一つ見せず、零れんばかりの優しい笑顔を向けてくれる。
(……あぁ、そっか……私の居場所は“ここ”だったんだ)
 そう思った刹那、円香は己の四肢に絡みついていた黒い鎖が粉々に砕け散っていくのを感じた。身軽になった両手が、まるで引き寄せられるかのように武士の肩へと触れ、そのまま首、頬へと伝っていく。
「円香さ――ん……?」
 武士があっけにとられたような声を上げたその瞬間には、円香はもう唇を重ねていた。



 抱かれたい――と。円香はかつて無いほどに思った。性欲とは違う何か――体の奥底から沸々とわき上がってくる想いに突き動かされる形で、円香は唇を重ねた。
「んっ……ぁむっ……」
 そんな呻きはどちらが漏らしたのか。円香は武士の後ろ髪を撫でながら、夢中になってその唇を吸った。
 その円香の体が、唐突にぐいと武士の手によって引きはがされた。
「だっ――」
 武士の顔が、月明かりの中でもはっきりと真っ赤になっているのが、円香には解った。
「だめ、だよ……円香さん、それはダメだ」
「……どうして?」
 武士とのキスに痺れにも似たものを感じていた円香は、微かに呼吸を乱しながらそう尋ねずにはいられなかった。
 自分の体が汚れているから――とは、円香は思わなかった。例え汚れていたとしても、武士は絶対にそんな事は思わないと、円香は確信していた。
「ごめん、円香さん……さっきは俺、偉そうに結婚して欲しいとか言ったけどさ…………現実的には、すぐに結婚するのは無理なんだよね。年だって……まだ十八になってないし、道場を継ぐ許しも貰ってない。……だから――」
 武士が喋り終わるのを待てなくて、円香は再び身を寄せるとちゅっ、とその唇に短い口づけをした。
「……だから?」
「だ、だから……ええと、キスとか、そういうのは……爺ちゃんに勝てた時のご褒美っていう事にしたほうが――」
 武士の言葉を聞いていないわけではなかった。むしろ、円香自身武士の言葉は一字一句漏らさずその身に刻むようにしながら、それでも尚自分でもどうにもならない衝動に突き動かされて、武士の体に手を這わせていた。
(……凄い、“昔”と全然違う……)
 武士が着ているのは、剣道着の胴衣のようなものに袴という組み合わせの“普段着”だった。尤も、普段着とはいえそれは武士が稽古に使っている稽古着とデザイン的には何ら変わらず、両者の違いはただ練習の汗を吸っているか否かという事でしかない。
 その胴衣(正確には、“のようなもの”)の襟元から円香は手を忍ばせ、そっと武士の胸元を指先で探った。かつて触れた武士の胸元とは明らかに違う感触に戸惑いと、そして僅かな興奮を円香は覚えた。
「ちょ、ちょっと……円香さん!?」
「…………?」
 気がついたときには、円香は武士に跨るようにしてその身を縁側の板敷きの上に押し倒してしまっていた。その事実に気がついたからといって己の行為を止められる筈もなく、円香は襟元から差し込んだ指の先で武士の胸の頂を弄りながら、再度唇を重ねた。
「んっ……」
 武士の手が円香の肩へとかかり、押しのけようとするかのように力が籠もる。――が、それは無視できるほどの力でしかなく、円香は唇で食むようにしながらキスを続けた。
(ぁぁ……武士くん、の……唇……)
 食むほどに、“甘い”とすら円香は感じた。――否、それはあえて表現するとすればそう感じるというだけであり、実際に糖分を感じたわけではなかった。ただ、そうして唇を重ねているだけで身も心もとろけてしまいそうな痺れを、円香は感じ始めていた。
「ダメ、だよ……円香さん……そんな風に、されたら……俺、も……」
「俺も……?」
 息も絶え絶えというような武士の呟きに、円香は悪戯っぽい笑みすら見せて問い返した。忽ち、武士は顔をさらに赤く染め、円香の目から逃げるように背ける。そんな武士の仕草に、円香の胸の奥はキュンと高鳴った。
(やだ……そんな反応されたら……)
 ドキドキが止まらなくなってしまう。ただでさえ武士に抱いて欲しくて堪らなくなっているというのに、歯止めが利かなくなってしまう。
 円香は諦めたように無抵抗になってしまった武士の胴衣の紐を解き、その身を肩口あたりまで露出させるや、忽ちキスの雨を降らせた。
「ま、円香……さん……」
 武士は、“何か”に必死に抗っているようだった。その結果として、現在のような無抵抗状態になっているらしかった。円香は構わず、武士の体をなで回し、唇をつけ、時には舐めるようにして吸った。
(……すご、い…………)
 そうして武士の体に触れながら、円香は体がますます熱く火照るのを感じていた。何より、武士の体から感じる“逞しさ”が、円香の女としての部分をこれでもかと刺激してくるのだった。
(……堅い……けど、ただ、堅いだけじゃない……)
 恐らくは、祖父から受けている鍛錬の賜なのだろう。その身は一見華奢なように見えて、その実、頑強な筋肉に覆われていた。それも、いわゆるボディビルダーのような“見せる筋肉”ではない、“実用性”を究極まで追求したもののように円香には感じられた。
 ビルダーの筋肉を風船と例えるならば、武士のそれは髪の毛よりも細い鋼の束を編み込んで作り上げられた鋼鉄の帷子のようだった。その気になれば、円香の体など軽々と押しのける事が出来るだろう。しかし、現実問題として、武士にはそれが出来ないらしかった。
 武士が無抵抗なのを良いことに、円香の“悪戯”は加速度的に大胆になっていく。
「ま、円香さん!?」
 武士が急に上ずった声を上げたのは、円香の手が袴の上から股間部へと触れたからだった。
(……武士くんも、おっきくなってる)
 自分の愛撫で興奮してくれたのだと、その“熱”を衣服越しとはいえ直に手で感じる事で、円香は吐息を乱さずにはいられなかった。もういっそ、武士の袴の帯を解いてしまいたい衝動を必死に我慢しながら、円香は己ですら焦れったいと思う手つきで、武士の剛直を弄る。
「ダメ……だって、円香さん……もう、本当に……」
 はあはあと、武士の息が目に見れて荒くなる。その切ない息づかいに円香もまた興奮を覚え、股間をさする手の動きを一層大胆なものにする。付け根から、先端へと撫でさすり、時には袴越しに強く握り、扱くような仕草で武士に声を上げさせた。
「うあっ、ぁ……円香さんっ……ちょっ……っぁ……ダメ、だ……もう……」
「武士くん……我慢、しないで」
 ぼそりと、円香は武士の股間をさする手を止めずに、まるで添い寝でもするように身を寄せ、武士の耳へと囁きかける。
「武士くんのしたい様にシていいんだよ?」
「……っっ……でも――」
 武士は必死に首を振った。そんな武士が健気にすら思える。一瞬、円香は自分がとてつもなく悪い事をしているのではないかと、そんな考えが頭をよぎった。
「俺、だって……出来るなら……ッ……でも、円香さんには……赤ちゃんが……」
 しかし、武士の呟きで、円香はその健気さの合点がいった。
「……大丈夫だよ、武士くん。妊娠してるって言っても……まだお腹だって膨らんでないし」
 でも、と口に仕掛けた武士の唇を、円香は人差し指で制した。
「私の体……武士くんに……染め直して欲しいの。この子は武士くんの子供なんだ、って思う為にも……抱いて欲しいの」
 詭弁だ、と。言いながら円香は思わざるを得なかった。ただ、武士に抱いて欲しいと感じている事だけは真実ではあった。
「……ズルいよ、円香さん」
 武士が苦笑を見せながら、しかしまるで拗ねた子供のような口調で言った。
「…………そんな事言われたら、断れないよ」


 攻守が、代わった。今度は円香が愛撫を受ける番だった。
「武士くん……ぁっ……」
 堅い板敷きの上から畳の上へと移動し、仰向けに寝かされた円香はそのまま武士に唇を奪われた。
「んっ、あむっ……んっ……」
 円香は積極的に武士の首に手を絡め、唇を吸った。舌を絡め合い、唾液を啜り合うようにして。先ほどまで円香がしていたような一方的なキスではない。互いの想いを確かめ合うような“濃い”キスだった。
(やだ……体が、ぴくんってなっちゃう……)
 キスの濃さに、円香は興奮を禁じ得なかった。体から力が抜けていくのを感じる。そう、男を受け入れる準備を始めてしまっているのだ。
(武士くん以外じゃ……こんな風に、絶対ならない)
 そう思った瞬間、円香は僅かにしこりのようなものを感じた。脳裏に、かつて武士と別れた直後に出会った男の顔が浮かんだが、それは無理矢理に打ち消した。
(……忘れたい…………忘れさせて、武士くん)
 もう二度と、“他の男”の事を思い出さなくて済むように。体を丸ごと、髪の先から爪の先まで全て宮本武士という男のものに染め上げて欲しい――そんな願いを込めるように、円香は夢中になってキスをした。
「あっ、んっ……あはぁっ……」
 そのキスを中断したのは、円香自身の喘ぎだった。武士の手が円香の胸元を捉え、優しくなで回すと忽ちキスどころではなくなってしまったのだ。
「はぁ、はぁ……や、ぁ……む、ねぇ……胸っ……すご、く……感じる……」
 ただ、服の上からなで回されているだけなのに。円香は武士の手の動きにあわせて腰までくねらせてしまっていた。
「……やっぱり、気のせい……じゃないよな。……円香さん、また大きくなった?」
「…………えと……少し、……大きくなった……かも……あっ、だけど……もうミルクは出ないから……んぅ……」
「えっ……出ないの?」
 武士は露骨に表情を曇らせた。
「あ、あれは……で、出る方がおかしかったの! た、武士くんが……いつまでも吸うから……だから、止まらなかっただけで……」
「そっか……残念だな。……でも、妊娠してるなら、また出るようになるよね?」
「出る……と思うけど、でもそれは赤ちゃんの為なんだよ?」
「解ってる。……だけど、俺も少しくらい飲みたいな。円香さんのミルク、大好きだから」
「も、もう……! 武士くんのバカぁ!」
 今度は、円香が顔を真っ赤にする番だった。苦笑混じりに円香のシャツの裾へと武士は手をかけ捲しあげていく。さらにブラのホックも外され、同じように胸の上へと押し上げられた。
「……綺麗だよ、円香さん。あと、大きい」
「もぅ! …………大きいは余計だよ……ンッ……」
 武士の手が、直接乳房へと触れる。それだけで、円香は電気でも流されたかのように体が震えてしまった。
「あっ、うっ……やっ……ぁん……!」
 最初は肌に軽く触れるだけだった手が、徐々に揉むような手つきになる。それに応じて円香の中を駆け抜ける快感も増していく。
「はぁっ……はぁっ……ンッ……あんっ! ……あぁっ、ぁっ……はぁ、ふぅ……はぁ、ふぅ……ンンッ……!」
 ただ、胸を触られ、揉まれているだけ――であるのに、円香は顎を突き出すようにして背を反らせてしまう。
(やだ……気持ちいい……気持ちいいよぉ…………)
 もぎゅもぎゅと強く揉まれ、先端を吸われ舐められて、円香は思わずそう口走ってしまいそうになる。そうして愛撫をされればされるほどに、武士に対する愛情が無限大に高まっていくのを円香は感じていた。
「ね、ねぇ……武士くん……もう、胸は、いいから……」
 円香は堪りかねて、殆ど懇願するようにして武士に訴えかけた。
「もう……十分、だから…………お願い、欲しいの……」
「解ったよ、円香さん」
 そう言って微笑む武士にほっとしたのもつかの間だった。円香がロングスカートを脱ごうと腰を上げた時には、武士の手はさらにその下の下着へとかかっていた。
「た、武士くん……?」
 先にスカートを脱がされるものだと思っていた円香はややあっけにとられた。とはいえ、下着を脱がされる事自体には反対なわけではないので、特に抵抗はしなかった。
「やだっ……だ、ダメッ……あぁぁッ!」
 下着が脱がされ、武士の上半身がスカートの下へと潜り込んだ瞬間、円香は己の言葉が武士に誤解されていた事を知った。――或いは、あえて曲解されたのかもしれないが、確認する術を円香は持たなかった。
「ダメっ……武士くん……それは、ダメッ……ぁぁぁッ!」
 秘部を這う舌の感触に、円香は堪らず声を上げていた。スカートの上から武士の頭を掴み、押しのけようとするが――。
「あっ、あぁっ……あんっ……あんっ、あぁっ……ぁっ、あふっ、ぅ…………」
 ゾクゾクゾクッ――背筋を駆け上ってくる途方もない快楽の量に、たちまち腕の力が萎えてしまう。気がついた時には甘い声を上げながら、武士の舌の動きにあわせて腰まで動かしてしまっていた。
「あっ、あぁっ、ぁっ……だめっ……だめっ、ぇ……」
 円香の目には、一体どんな愛撫をされているのか見る事はできない。が、しかし“感触”で、武士の指によって秘部が広げられ、露わになった割れ目に舌を這わされているという事はいやというほどに伝わってくる。
「……変だな」
 武士がそんな呟きを漏らしたのは、たっぷり十五分ほどなめ回された後だった。
「……俺、下手になった?」
 スカートの下から顔を出し、不安げに尋ねてくる武士に円香はぐったりとしながらも首を傾げた。
「いや、だって……前は、ほら……」
「っっっっ…………あ、アレは……一時的なクセみたいなものだったの! だから、もう、舐められたからって……」
「……そうだったんだ」
 またしても、武士が沈んだ顔をする。
「た、武士くん……そういう、変な事はしなくていいから……」
 そんな事をしなくても、十分すぎる程に感じている、と円香はみなまで口にしかけて慌てて口を噤んだ。さすがにそこは年上としての威厳というか、少しくらいは“余裕を見せるお姉さん”な所を見せてもバチは当たるまいと、そんな見栄からだった。
「だから、……ね?」
「解ったよ、円香さん。…………じゃあ、そろそろ――」
 しかし、“〜してもバチは当たらないだろう”――そんな円香の想いにまるで引き寄せられるかのように。
「えっ……」
 武士が胴衣を脱ぎ、袴を脱ぎ、さらにトランクスも脱いだ瞬間、円香は石になった。
(何……それ……)
 ありえない“モノ”を目の当たりにして、円香の精神は完全に硬直しきっていた。何故ならば、武士の股間にそそり立つそれは見たこともない程に――。
「ま、待って、武士くん!」
「え?」
「そ、それ……どう、したの?」
「どうって……」
 “それ”というのが、己の男性器を指しているという事に気がつくなり、武士はハッと微かに顔を赤らめた。
「あぁ、うん……やっと、“人並み”にはなったかな……って自分では思ってたんだけど」
「ひ、人並みじゃない……」
 少なくともそれは、今まで円香が見てきたどんなモノよりも雄々しく、猛々しく見えた。そう、まるで――祖父に鍛えられた宮本武士の男としての自信を象徴するかのように。
「……えーと……困ったな。……まさか円香さんに嫌がられるなんて」
「い、嫌……じゃ、ないけど……だって、武士くんのって……もっと……」
 可愛らしい感じの――と口にしかけて、円香は大あわてで口を噤んだ。それは恐らく、武士の男としての部分を傷つけてしまう言葉だからだ。
「……うん。円香さんの言うとおりだよ。……昔の俺のは……ちょっと、ね。……でも、今なら」
「えっ……やだ、武士くん……言ってない! 私、何も言ってなっ……ぁあッ!」
 しかし、言わずとも通じてしまうものはある。そしてそれが、武士の中の“雄”を刺激してしまったのか、武士にしては強引に円香の足の間へと体を割り込ませてくる。
「だ、だめっ…………た、武士くんに……そんな、……きいのでされたら……ぁっ……」
 つん、と。堅く、熱い肉の塊が敏感な粘膜に触れるのを、円香は感じた。続いて、武士の体が覆い被さってくる。
「……いくよ、円香さん」
「だ、だめっ……あっ……あっ、あっ、あっあっあっ……ああァァーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーッ!!!!」
 堅く、逞しい肉茎に貫かれながら、円香は弾かれたように声を上げた。


「んぁっ、ぁっ……あうっ、ぁうう!」
 武士の腰の動きに合わせて、円香は腰を跳ねさせながら声を上げる。
「あぁっ、あうっあうぅっ……あぁっ、ぁっ……あっ、あぁっ!」
「っ……す、げ……円香さんの、中っ……生き物、みたいに動いて……グイグイ締め付けて、く、る……」
 こんなにスゴかったっけ――そんな言葉を掠れた声で呟く武士の顔には、脂汗にも似たものが滲んでいた。円香は経験からそれが男が射精を我慢している時に滲ませるものだと知っていた。
「た、武士くんの……だって…………あっぁぁぁっッ……だ、だめっぇっ……ぁっ、ぁぁぁっ! あぁぁぁッ………………〜〜〜〜〜〜ッッッ!!!」
 びくっ。
 びくびくっ、びくぅっ!
 円香の意志とは無関係に勝手に腰が跳ね上がり、同時に津波のように押し寄せてくる快感に翻弄されるようにして円香はイく。
「っっ……くっ、ぁぁぁ……ちょ、円香、さん……締め、過ぎ…………」
 堪りかねるように武士は歯を食いしばり、腰の動きを止めた。
「あ、あと……もうちょっと、声……抑えてくれないと……爺ちゃん達に……」
「そん、なぁ……声、抑える、なんて……無理っ……むり、ぃ……あぁぁあん!」
 武士が抽送を再開させると、円香は忽ち声を荒げずにはいられなかった。無論、抑えようと努力はしている。しているが、それは円香自身の力ではどうにもならなかった。
「あぁっ、あぁぁーーーーーッ!! …………はぁっ、はぁっ……ひぅっ……やっ……だめっ……あぁっ、やっ……スゴ、い……スゴい、のぉ……!」
 それはさながら、荒れ狂う濁流を薄い木の板一枚で何とか止めようとしているような、それほどに無力感を感じる試みだった。
「はぁ、はぁ……こんな、の……知らない…………あぁん! やっ……だめっ……武士、くぅん……あぁっ、やっ……だめっ、イくっ……また、イッちゃう……!」
「っ……ダメ、だよ……円香さん、もう少し……我慢、して……」
「むり、ぃ……やっ……太い、のが……ごりごりって、擦れて……あっ、あぁぁぁあっ……ぁぁぁあ――」
 ビクビクビクッ――!
 腰が跳ね、イきそうになった瞬間、武士が被さるようにして唇を重ねてきた。
「〜〜〜〜〜〜っっっっっ!!!」
 そのままぎゅうっ、と抱きしめられながら、円香は自らも武士の背へと手を回し、抱きしめるようにして達した。
「…………っ……くはぁぁっ……ダメ、だって……円香さん、そんなに、何回もイかれたら……俺も、我慢なんて出来ないよ」
 だから、円香さんの“次”に合わせる――そんな事を呟いて、武士は被さったまま、少しずつ腰を使い始める。
「はぁっ……はぁっ……武士、くん……武士くぅん……はぁはぁっ……」
 円香もまた、密着するように抱きしめたまま、切なげに喘ぎを漏らす。以前とは比べものにならない程に逞しく成長した肉茎でこちゅ、こちゅと子宮口を小突かれるたびにイきそうになるのを懸命に堪え、武士に合わせて腰をくねらせる。
「はぁっ……はぁっ……ンッ……あっ……あぁっ……はぁっ、はぁっ……やっ……く、来るっ……またっ……気持ちいいの、来るっ、ぅ……」
「っ……円香さん、早い、よ……もう少し、もう少しだから、我慢、して……」
 武士が焦るように腰の動きを早めていく。当然、円香はそれにより加速度的に追いつめられていく。
「やっ……だめっ、だめっ……やっ……た、武士、くんっ……」
 円香はかぶりをふりながら、懸命にイくのを我慢する。津波のような快楽に抗うのはそれ自体途方もない苦痛を伴う行為だった。
(お、お願いっ……早くっ…………もう――)
 “限界”は、すぐに来た。ヒクヒクヒクッ――円香は己の下半身が痙攣するように震えるのを感じた瞬間、ぎゅうっ、と武士の背中へと爪を立てた。
「あっ、あっ、あぁーーーーーーーーーーーーーーーーーーッ!!!!」
 堪えていた分、反動も凄かった。円香は殆ど叫ぶように声を荒げ、陸に上がった人魚のように腰を何度も跳ねさせながらイッた。
「ッ……くっ……ぅ……」
 同時に、円香は痛烈なまでに締め付けている剛直が俄に膨れあがる。遅れて、びゅくりっ……と。熱い生命の飛沫を、円香は感じた。
「あっ、あぁぁっ……!」
 びゅく、びゅくと。幾度と無く、己の体内へと吐き出されるそれを、円香は嘆息を漏らしながら受け止めた。
 そう、かつては――身の毛もよだつほどに嫌でたまらなかったその感触が、うっとりと瞳が潤む程に心地良い。ただ、相手が違うだけで、こうまで変わるのかと、円香は肩で息をしながら痺れた頭の片隅で思った。
(武士くんの……精子が……私の、中に……)
 純粋に、身震いするほどに円香は嬉しかった。まるで、汚されきった体が清められていくような錯覚すら覚えるほどに。
「はぁ……はぁ…………ごめん、円香さん……中に、出しちゃった……」
 抜く暇も無かった、と。武士は心底恥じ入るように呟いた。
「……ううん、いいの。…………武士くんのだから、いいの……」
 何も謝るような事はないと、円香は武士の後ろ髪を愛しげに撫でながら言外に示した。
「……それに、まだ……全然足りないの」
「円香……さん?」
「お願い、武士くん」
 もっと――と、円香は妖女ともとれる声で、武士の耳元へと囁いた。
「もう、武士くんの事以外……何も考えられなくなるくらい……抱いて……いっぱい注いで、武士くんのモノにして?」


 

 


「あァァーーーーーーーーーーーーーーーーーーッ!!!!」
 ぱぁんっ――尻が鳴る程に強く背後から突き上げられた瞬間、円香ははしたなく声をあらげ、そしてイッた。
 畳の上――ではない。互いの体を貪るように求め合いながら、気がついたときには土足も厭わずに縁側から降り、縁側の板敷きに肘をつくようにして背後から貫かれていた。
「はーっ…………はーっ…………武士、くぅん……あぁっ、あぁっ!!」
 埋められたままの肉茎がグンと体内で撓るように勃起するのを感じて、円香は自分を犯す未来の夫がまだまだ元気なのだという事を思い知った。
「あぁっ、ぁっ、あっ……あぁぁーーーーーッ!!」
 ぱんっ、ぱんと突かれるたびに尻が鳴る。反動で乳が揺れ、板敷きの木目で先端が擦れる。しかし、そんなものは副次的な要因に過ぎない。円香が声を抑えることすら出来ない程に感じてしまうのは、一にも二にも――。
「っ……だんだん、思い出して、きた、よ…………確か、円香さん……ココ、弱かった、よね?」
 武士が腰をくねらせるようにしてその場所を重点的に刺激し始めるや、忽ち円香はピンとつま先立ちになり、あられもない声を出してしまう。
「はぁっ、はぁっ……だめっぇっ……武士、くんっ……ソコは……だめっ、ソコだめぇっ……!」
「円香さん……もっと声抑えて……本当に聞こえちゃうから」
 とは言うものの、武士はそのポイントを刺激する事自体は止める気はないらしかった。むしろ――。
「あっ、ああァァッ! あァァッ! ……はぁ、はぁ……だ、だめ……そこ、ホントに、弱い、のぉ…………やめて……許してぇぇ……」
 白く濁った蜜を足首まで垂らしながら、円香は泣きそうな声で懇願していた。そして密かに、武士ならばきっとそこまで言えば“許し”てくれるとも思っていた。
「……ダメだよ、許さない」
 だから、武士にそう言われたときは己の耳を信じられなかった。
「……円香さん、本当は止めて欲しくないって思ってるよね。だから、許さない」
「た、武士くん……!?……ぁっ、やぁっ……ああァァッ!!」
 再び、弱いポイントを抉るようにして擦られ、円香は尻を震わせてイかされてしまう。
「それに……こうすると……円香さんスゴい声出すし……滅茶苦茶濡れてくるし、ぎゅっ、ぎゅって絞まって気持ちいいし……止められるわけないよ」
「た、武士くぅん……」
 円香の泣きそうな声は、またしても無視された。鍛え上げられた武士の腕によってしっかりと腰を掴まれ、崩れ落ちることすら許されずに遮二無二背後から突き上げられ、何度も、何度も円香はイかされる。
「はぁっ、はぁっ……た、武士……くぅん……も、無理……もう、無理……死んじゃう……私、死んじゃうよぉ……!」
 両足をがくがくと震わせながら、円香は必死に懇願した。今度という今度は本気の懇願だった。
「っ……大丈夫、だよ……円香さん……俺もっっ……」
 ぱん、ぱんと尻を叩く音の感覚が狭まっていく。
「ぁぁっ、ぁっ……あっぁっぁっぁっ、ぁぁぁぁあああっ、あぁった、武士、くん……武士くんっ……あぁぁっ、あっあああァァーーーーーーーーーーーーーーーーーッ!!!!!」
 円香はピンと足を伸ばし、武士の腰に尻を突き出すようにして、イく。びゅくっ、と武士の子種の感触を受け取ったのは、その直後だった。
「っ……円香、さんっ……」
 武士が被さってきて、ぎゅうっ、と両胸を掴むようにして抱きしめてくる。円香はそのまま地面に膝を突き、縁側の板敷きに上体を伏せるようにしてぜえぜえと呼吸を整える。
 十分近くそうして身を寄せ合って、先に口を開いたのは円香の方だった。
「……武士、くん」
「なに? 円香さん」
 あのね、と。円香は微かに赤面しながら、庭で鳴くコオロギのそれにかき消されそうなほどに小さな声で呟いた。
「すごく、良かったよ。……いっぱい感じちゃった」
「俺もだよ。……本当は、“一回”で止める筈だったのに、円香さんがあんな事言うから……」
「ねぇ、武士くん……そこに座ってくれる?」
 キレイにしてあげる――その言葉だけで、武士には円香の意図が通じたらしかった。
「えと……これで、いいのかな?」
「うん。武士くんはじっとしててね」
 どこか恥ずかしそうに縁側に腰掛ける武士の足の間へとしゃがみ込み、円香はその肉茎へと舌を這わせていく。
(……大きい)
 そう思わざるを得ない。或いは、昔の武士と比べているから、余計にそう感じてしまうのかもしれなかった。
(これが……さっきまで、私の、中に……)
 あの津波のような快楽をもたらしたのはコレなのだと思うと、愛しさのあまり這わせる舌の動きに熱が入った。
「はむっ……んぷっ……んっ……」
 それは最早“お掃除フェラ”から“お掃除”という単語を抜いたものになっていた。
「ま、円香さん……ダメだって! そんなに、されたら……また……」
「また……?」
 円香は、肉茎に頬ずりをするようにしながら、悪戯っぽく武士を見上げる。
「また……円香さんに……挿れたく、なっちゃうよ……」
「ゴメンね。……でも、ちゃんと口で最後までシてあげるから――」
 と、舌を這わせようとした円香の肩を武士が掴み、強引に突き放された。
「いや、口よりも……円香さんの中がいい」
「た、武士くん……?」
 今度は、円香が狼狽える番だった。
「ま、待って……えっ、ほ、本当に……する、の……?」
「……円香さんが疲れてるのは分かってるけど……ごめん、もう一回だけ。……これが最後だから」
 武士に無理矢理腕を引っ張られる形で円香は縁側の上へと持ち上げられ、そして武士と向き合い、抱き合うようにして挿入された。
「あっ、んっ……やっぱり……大きっ……ンッ……!」
 ぐいっ、と子宮を押し上げられるような感覚に、円香は武士の背へと回した指に力を込めざるをえなかった。
 そして同時に、奇妙な既視感を感じていた。――その正体にたどり着いた時、円香は鳥肌を禁じ得なかった。

『座位はね、夫婦の体位なんだよぉ?』

 脳裏に蘇る晴夫の声、臭い息に円香は咄嗟に顔を青ざめさせた。
「……円香さん?」
 困惑したような顔をする武士の言葉に、円香は“現実”へと意識を戻すや、その唇へと遮二無二食らいついた。
「んむ!?」
「……動いて」
 そして唇を離すや否や、円香は声を荒げていた。
「お願い、動いて……早く、塗りつぶして!」
 円香の言葉に、武士はもう何も言わなかった。その尻へと手を宛うや、ゆっくりと優しく揺さぶるように動き始めた。
「あっ、あっ、あっ……!」
 円香は自ら腰をくねらせながら声を荒げる。
「あぁぁっぁぁっ、あぁっ、ぁっ……!」
「ちょっ……円香さ――んぷっ」
 胸の谷間に武士の顔を押しつけるようにして、円香は自ら腰を振る。早く、早くあの男の影を塗りつぶさなければと――。
「はぁーっ……はぁーっ……武士くんっ……武士くんっ……」
 “弱い”所へと、円香は自ら腰をくねらせて肉茎を宛い、こすりつけるようにして動かす。
「あぁぁぁっ、ぁあっ、ぁあっ!!」
 ヒクッ、ヒクと腰を跳ねさせながら、何度も、何度も執拗に擦りつける。あの男はもう関係ない、自分は宮本武士という雄のモノなのだと、自分自身に言い聞かせるように。
「っ……円香さん」
 そうやって遮二無二腰を振るう円香を、武士の言葉が止めた。
「後は、俺に任せて」
「武士……くん?」
 言わずとも、全てを察したような武士の顔に、円香は体の力を抜いた。
 そして――。
「あァッ! あっ、あぁぁぁーーッ!!!」
 武士が動き、円香がしたのと同じように――“弱い”場所へと剛直がこすりつけられた瞬間、先ほどまでの倍以上の快楽に円香はたまらず叫び声を上げた。
(やっ……すご、い……武士くんに、されたほうが……何倍も……!)
 自分がやったのと同じ行為とは思えなかった。ただ、武士にされるというだけで、こうまで感じ方が変わってしまうものなのかと。
「くひぃっ!? ひぁっ……やっ、らめっ……はひぃぃぃいッ!?」
 さらにぐりっ、ぐりっ、ぐりと強烈に擦り上げられ、円香は歯の根をガチガチ言わせながら必死に武士にしがみついた。
(……す、スゴっ……い……これっ、スゴいぃぃ……!!!)
 忽ち、円香は達した。びくっ、びくと体を跳ねさせながら、みっともない声を上げながら、イかずにはいられなかった。
 さらに、二度、三度、四度と……まるで怒りをぶつけるような武士の動きに、円香は立て続けにイかされ続けた。その数はやがて十を越え、その辺りから円香は頭にモヤがかかったかのように数を数えるという事が出来なくなった。
「あはぁぁっ……ひぃっ……ぅっ! た、武士、くっ……もっ、ソコっ……らめぇっ……はぁはぁっ……感じ、過ぎて……おかしく、なるっ……おかしくなるぅっ……!」
「…………それでいいんだよ、円香さん。……おかしくなるくらい気持ちよくなれば、他の男のことなんてすぐ忘れられるよ」
 武士は微笑み、そしてやや乱暴に円香の唇を奪った。ちゅく、ちゅくと舌を絡ませながら、円香の体を激しく揺さぶってくる。
「ンンッ……ンンッッ……ンンッーーーーーーーーーーーーーーーーーッ!!!! …………………………ふはぁぁっ……あぁっ、あぁっ……らっ、めっ……らめっ、ぇっ……はぁはぁっ……やっ……気持ちいいのっ……ずっと、続いてるぅ……イき過ぎて……ホントに……おかしく、なるぅ……」
 まるで、絶頂がずっと続いているかのようだった。かつて経験したことのない連続する絶頂に、円香は武士の言葉通り、“他の男”の事など微塵も気にならなくなっていた。
「ふぅ……ふぅ……円香さん…………好きだ!」
 そんな状態にあっても、武士の言葉だけは円香の心に直に響いた。
「あぁっ……武士、くぅん……私も……好き…………武士くんが、好きぃ……!」
 頬を伝うのは、紛れもない涙だった。哀しみによるものではない証拠に円香は微笑み、そして今度は自分から武士に口づけをした。
「んむっ……んんぅ」
「あむっ、んむっ……」
 互いの体をしっかりと抱きしめ合いながらのキスは長く続いた。まるで唇を離してしまった瞬間、相手の体がかき消えてしまうと思いこんでいるかのように、いつまでも、いつまでも長く。呼吸すらも忘れて、二人は唇を重ね続けた。
「は、ぁふ…………武士くん、一緒に……イこ?」
 “連続する絶頂”に揺られながらも、円香は口にせずにはいられなかった。武士はもう、口を開く余裕もないのか、ただただ歯を食いしばりながら頷いた。
「あっ、あっ、あっ……あぁんっ、あっ、あっあっ……」
 武士が尻を掴み、円香の体を揺さぶる。円香もまた腰をくねらせ、意図的に力を込めては肉茎を締め上げる。
「あっ、あっ、あっ、あっ……!」
 唇が触れるかふれないかの所まで近づけ、互いの吐息を直に吸い合うようにしながら、円香は声を荒げる。ヒクヒクと、肉襞が痙攣するのを感じる。
(あぁっ……クるっ……スゴいの、クるぅっ…………!)
 かつて無い程の絶頂の予感に、円香は我を忘れて腰を振った。
「っ……円香、さんっ……もう、ッ……!」
 円香が覚えているのは、武士が苦しげにそう呟き、ぐっと円香の尻を強く掴んだ所までだった。
「…………ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーッッ!!!!!!」
 瞬間、円香は大きく体を反らし、夜空を仰ぐようにして――絶叫した。



 
 目覚めたときには武士の姿は無く、円香は離れの茶室の布団で寝かされていた。後々になって、茶室には元々は布団などは無く、失神してしまった自分の為に武士がわざわざ運んでくれたのだという事を円香は知った。
「武士くん……」
 良い匂いのする布団にくるまれて、昨夜の余韻に浸っていられたのも十五分が限度だった。ハッと、円香は唐突に身を起こし、周囲を見渡した。
(……今、何時だろう)
 気怠い体をなんとか動かして布団から這い出た円香は真っ先に時計を探した――が、茶室の何処にもそのようなものは見あたらなかった。やむなく円香は、スカートのポケットに入れっぱなしになっていた携帯を手にとって時間を確かめた。案の定、最早昼と言って差し支えない時刻だった。そして今日は平日だから、恐らく武士は既に学校に行った後だろう。
(……どうしよう)
 居候の身として、円香は困り果てた。こんな時間にのそのそと起き出して、どの面下げて静琉達に挨拶ができるというのか。
 いっそこのまま夕方、武士が帰ってくるまで隠れていようかと本気で悩んだ挙げ句、結局円香は布団から出る事に決めた。きちんと服を着て――この段階で、円香は武士が布団へと自分の体を運ぶ前に足についていたはずの土などを丁寧に拭ってくれていた事を知った――布団を畳み、離れの茶室を後にした。
(……ええと、とにかく謝らなきゃ)
 “お客さん”のような扱いを受けているとはいえ、今日からは違うのだと、円香は己に言い聞かせながら静琉の姿を探した。が、買い物にでも出かけているのか、台所にも居間にもその姿が見えず、仕方なく母屋の方の縁側で途方に暮れるようにして座り込み、コジローの相手などをしていると――不意に目の前に影が差した。
「え…………きゃあ!?」
 まず、真っ先にコジローが円香のロングスカートの中へと潜り込んだ――が、円香が悲鳴を上げたのはその為ではなかった。眼前に立つ――恐らくは鍛錬の途中だったであろう上半身裸の双六の姿に驚いてしまったからだ。
「お、おはよう……ございます」
 怯えながらも円香は立ち上がり、そしてぺこりと辞儀をしながら挨拶をした。
「ふん、もう昼じゃぞ」
 そして下げた頭の上から双六のそんな言葉が降ってきて、円香はあわわあわわと顔を上げられなくなった。
(ダメ……怖い……助けて、武士くん……)
 この七日間で大分慣れたとはいえ、それでも双六に対する恐怖は拭い切れていない。どうしよう、どうしようと円香が頭を下げたままだらだらと冷や汗をかいていると、なにやらばつが悪そうに双六が咳払いをした。
「…………そろそろ顔を上げんか。話しづろうて仕方ないわ」
「は、はい!」
 びしっ、と。円香はバネ仕掛けの人形のようにすぐさま顔を上げ、直立不動の姿勢をとる。そんな円香を見て、双六は困ったようにぽりぽりと頬のあたりを掻いた。
「…………ワシは……そんなに恐ろしく見えるか」
 そして、どこか拗ねるような口調でぽつりと呟く。
「とにかく、もそっと肩の力を抜け」
「ひゃっ!?」
 そして唐突に、ぽむ、と肩を強く――恐らく、双六にしてみれば優しく手を乗せただけのつもりなのだろうが――叩かれた。その反動で円香は縁側へと尻餅をついてしまい、慌てて立ち上がろうとするも――
「良い、そのままで良い、良いからワシの話を聞け」
「は、はい……」
 双六の言葉に、円香は上げかけた腰を戻し、縁側へと座った。うぉっほん、と双六がまたしても大きく咳払いをする。
「……道場の裏手にな、山へと通じる道がある」
 獣道じゃがな、と。なにやらもったいぶった口調で語り始める。
「その道を登った先に、ワシが山ごもりに使う小屋がある」
 円香は当然の事ながら、真剣に一言一句聞き逃さないように双六の話に聞き入っていた。聞き入っていたが、一体何でそんな話をされるのか全く解らなかった。
「小屋へは、武士の足ならば片道二時間といった所か。女一人背負って行けば、丁度良い足腰の鍛錬にもなる。………………………………次からはそこを使え」
「えっ…………」
 双六の言葉の意味が漸くにして分かると同時に、かぁ、と。円香は耳まで顔が赤くなるのを感じた。
「あ、あのっ……」
「武士もあれで年頃の男じゃからの。するな、とは言わん。……じゃが、一応世間体というものがあるでな。ああも大声を出されては何処の誰に聞かれぬとも限らぬからの。…………大人しい娘だとばかり思っておったが、顔に似合わずお主もなかなかの好き者じゃな」
「ぁ……ぁ…………」
 円香はただただ羞恥のあまり顔を真っ赤にし、目尻に涙を溜めながらふるふると首を振った。そんな“孫の嫁”を見て、双六はガッハッハと快活な笑い声を上げる。
「なぁに、気にするな! 若いうちはあれくらいハジケとった方が良い。ワシらもあと十才若ければ張り合う所じゃがの。……ともあれ、武士は良い嫁を見つけたもんじゃ」
 双六は再び円香の肩を強く叩き――本人は優しく手を置いたつもりだろうが――ガッハッハと笑いながら庭の奥へと消えていった。
 その後ろ姿が見えなくなるなり、円香はふしゅうと顔から湯気をふきながら糸の切れた操り人形の様にコテッ、と縁側に倒れ込んだ。遅れて、スカートの中に隠れていたコジローがぴょんと飛び出し、ぶるるっ、と身を震わせた後まるで円香を慰めるように顔をぺろぺろと舐めてきた。


 



 
 
 
 ううぅと唸りながら羞恥に身を縮めていた円香だったが、しずしずと近づいてくる微かな衣擦れの音を耳にするなり慌てて身を起こし、立ち上がった。
「し、静琉っ、さん! お、おはっ…………こ、こここんにちは!」
 うっかり“おはようございます”と言いかけて、円香は慌てて舌を噛みながら修正した。そんな円香の慌てっぷりに、静琉はあらあらと優しい笑みを浮かべた。
「おはようございます、円香さん」
「お、おはよう、ございます……」
 ひょっとして、イヤミで“おはよう”と言われたのではないか――円香のそんな不安を払拭するかのように、静琉はいっそう優しく微笑んだ。
「武士から、円香さんは疲れてるから、起こさずそっと寝かせておいて欲しいって頼まれてたんだけど…………余計な気遣いだったかしら」
「あ、あのっ……その……ええと……」
 はたしてなんと答えたらいいものか、円香は返事に困った。恐らくは、双六が知っていた以上、静琉もまた“昨夜の事”は知っている筈だ。ならばまず先にそのことを謝るべきなのかと、円香の頭はパンク寸前にまで混乱した。
「……ちょっと、座ってお話しましょうか」
 静琉に促されて、円香は三度縁側へと腰掛けた。
「…………武士から、大凡の事情は聞きました」
「事情……っていうと……」
 はい、と静琉は微笑みながら頷いた。
「親御さんとの件と、妊娠の件」
「ぁっ……」
「それから、武士の“覚悟”も」
 びくりと、円香は思わず身を震わせずにはいられなかった。静琉が口にした“覚悟”という単語が、それ自体まるで強烈な静電気でも帯びていたかのように、円香の体を痺れさせた。
 気がつくと、静琉の笑みが消え、まるで円香を射殺さんばかりに厳しい目を向けてきていた。
「あの子はまだ十六ですが、決してその場限りの思いつきや勢いで、そのような事を口にする子ではありません。ですから、今更その覚悟を問うような野暮な真似はしません」
 はい、と。円香は身を強ばらせながら静琉の言葉に頷いた。
「そして、武士が選んだという貴方を、私はこの七日間、私なりに観察しました。もし万が一、武士の為にならない人だと判断した場合、例えお爺さんが婚約に賛成をしても、私は反対しようと、そう思っていました」
「ぁ……」
 円香はぎゅっと、肩を抱く手を強めた。武士の為にならない女――そういう意味では、自分ほど為にならない女は居ないと、円香は自負していた。一度は、その為に自ら武士から離れた程だ。
「そして、貴方という人は心の弱い、とても流されやすい人だと見ました。…………到底、武士の嫁に相応しい女性ではないと」
「…………っっ……」
 静琉の厳しい目が怖くて、まともに見れなかった。同時に、静琉の目は確かだとも思った。
 自分は、弱い。特に心が。流されやすく、およそ我を通せた試しがない。
(…………反対、されたら……結婚、なんて……)
 最終的には、両者の意志次第とはいえ、武士はまだ未成年どころか、十八にすらなっていない。故に今すぐどうこうという事は無論できないわけだが、静琉が結婚に反対している以上、この家に居候をするわけにもいかない。。
 ――そう、円香が絶望しかけた時だった。円香の手に、そっと静琉の手が触れた。優しく手を握られ、促されるようにして円香は顔を上げ、静琉を見た。
 そこには、先ほどまでの厳しい目ではなく、孫を想う祖母の優しい笑顔があった。
「少し、脅かし過ぎちゃったかしら」
「えっ……?」
「でも、可愛い孫を取られちゃうんですもの。……少しくらいは、ね?」
「えと……あの……?」
「貴方という人が、とても心が弱い人に見えたというのは本当です。……そして、恐らくそれは事実なのでしょう。…………けれども、そういう貴方だからこそ、あの子は頑張れるんだと思うの」
 仮に――と、静琉は言葉を続けた。
「貴方が、誰の力を借りなくても一人で生きていける人であれば、あの子は見向きもしなかったでしょう。そしてあの子自身も、“目標”の為にひたむきに努力するという事は無かったかもしれません――……そういう意味で、貴方ほど武士に相応しい嫁は居ないと私は思います」
 子供のことも、大した問題ではないと、静琉は付け加えた。
「あの子自身がそれでも構わないと言うのなら、私が口を挟む余地はありません。お金の事も、私たちに出来うる限りの事はさせてもらうつもりです」
「あ――」
 ありがとうございます――その声は、掠れて声にならなかった。嬉しさの余り、感激の余り、涙を堪えるので精一杯だった。
「武士が婚約の申し込みをして、貴方がそれを受けた以上、貴方はもうお客さんではなく我が家の一員なのですよ? 何を畏まる事がありますか、どーんと胸を張ってふんぞり返っていればいいんです」
 小柄な静琉が胸をはり、どんと自分の胸を叩いて笑うと、釣られて円香の方まで笑ってしまった。
「後はお爺さんだけど……まぁ、問題ないでしょう。朝、武士の話を聞くなり嫁と一緒にひ孫まで出来たって小躍りして喜んでたもの。……単純な人だから、ひ孫の父親が誰かなんて、気にもならないみたい」
 可愛い人でしょう?――まるで同意を求めるように微笑まれて、円香は苦笑いしか返せなかった。
「……実はね、私とあの人の結婚も、あなた達のパターンにそっくりだったの」
「えっ……そう、なんですか?」
 静琉を見る限り、とても自分のように弱く流されやすい人間には見えず、円香は本当に意外だった。
 が、話の続きを聞いて、円香は納得をした。
「あの人ったら、私が居なかったらなんにも出来ない人なのよ? 掃除も洗濯も、お料理だって、生のまま丸かじりか、丸焼きしか出来ない人なの。ね? 私がなんとかしてあげなきゃって思うでしょう?」
 はぁ、と円香は困ったように返事を返しながらも思った。ひょっとしてコレは一種の“ノロケ”なのだろうかと。
 その後、たっぷり三十分以上もかけて円香は静琉と双六の熱い熱い話を聞かされ続けながら、ふと武士の言葉を思い出していた。
『爺ちゃんも婆ちゃんも基本暇人だから――』
 そう、恐らくは静琉も“話し相手”が欲しくて欲しくて堪らなかったのだろう。しかし今までは円香はあくまで“お客さん”であり、そのように扱わざるを得なかったという事だろうか。
「あら、いけない。もうこんな時間! お洗濯しなきゃ!」
 そして機関銃のようにしゃべり続けた静琉は唐突に庭石の影の伸び具合を見るなりそんな言葉を呟き、腰を上げた。
「あっ、手伝います!」
 慌てて円香も静琉の後を追おうと腰を上げた――その時だった。スカートのポケットの中で、ぶるぶると携帯が震え出したのだ。
「すみません、後で手伝いに行きますから」
 静琉に頭を下げて、円香は携帯電話を取り出し、その着信番号を見るなりぎょっと身を竦ませた。
 番号は、父親からの着信であることを示していた。


『……円香、一体今どこに居るんだ』
 電話に出るなり、円香の耳に罵声ともとれる父の声が飛び込んできた。
『見ず知らずの男と一緒に晴夫の家を飛び出したそうだな。お前という娘は一体どこまで私に迷惑をかけるつもりなんだ!』
 父は明らかに怒っていた。折角自分が用意してやった安全な鳥籠から何故逃げるのかとでも言いたげな言葉遣いだった。
(…………晴夫おじさんが言いつけたんだ)
 と、円香は思った。一週間のタイムラグは、恐らく晴夫自身どうしたものかと悩んだ末の苦肉の策であることが伺えた。素直に警察に被害届を出し、捜索を依頼できないだけの後ろめたさは一応感じていたのだと、円香はそのことが妙におかしく思えた。
『聞いているのか、円香! 返事くらいしろ!』
「聞いてます、“お父さん”」
 携帯電話越しにでも、父が言葉を失ったのが円香には解った。
「今まで、たくさん迷惑かけてごめんなさい。……だけど、これが最後です」
『何だと! 円香、どういう意味だ!』
「言葉通りの意味です。…………お父さんが言った通り、私の居場所は“ここ”です。……もう、かけて来ないで下さい」
 今まで育ててくれてありがとうございました――円香は最後にそう付け加えて、通話を切った。再度携帯が鳴り出し、円香は仕方なく携帯の電源を切った。
「…………っ……」
 円香はそのまましばし目を瞑り、電源の入っていない携帯電話を握りしめた。このまま、この先何事もないというわけにはいかないだろう。しかし少なくとも今の自分が何を言ったところで、父に言葉が通じるとは思えなかった。
 例え捨てられたのだと解っていても、それでも円香は父が、そして母が好きだった。ゆくゆくは仲直りをしたい――しかし、今のままではダメなのだ。
 きちんと子を産み、武士と身を固めた後、改めて挨拶に行こう。しっかりと成長した娘の姿を見れば、あの優しかった父ならばきっと許してくれる筈だ。
(……っ……お父さん……お母さん……私は、武士くんと結婚します)
 そのことを面と向かって伝えられないのが切なかった。また、伝えたとしても、分かってもらえないであろう事も。
 今まで自分がやってきた事、やってしまった事を考えれば当然だと円香は思う。それ故に、両親を責めるような気持ちは毛頭無かった。むしろ、自分のせいで心を痛めている両親に申し訳ないという想いの方が強い。
(でも、もう大丈夫……)
 例えこの先どんな困難が待ち受けていたとしても、宮本武士を信じ、共に乗り切って行ける。一人では無理でも、武士と一緒ならば。きっと――。
「……さて、と! お洗濯手伝わなくっちゃ」
 円香は携帯電話をポケットへとしまい、大きく腕まくりをした。滲んだ涙を指先で拭い、見上げた初夏の空はどこまでも青く、透き通っていた。

 
 

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