一体何故――夜道を歩きながら、由梨子の胸中はその一言に埋め尽くされていた。いつものように白耀の店でバイトをし、後片付けと着替えを済ませて帰宅――そう、いつもの流れになる筈だった。
 しかし今、自宅アパートへと向かう由梨子の隣には、少なくとも今日の朝の時点では予想だにしなかった人物が随伴していた。
「えっと……ここ、です」
 アパートの前で足を止め、由梨子はまるで家族でも紹介するように手のひらを差し向けた。
「……なかなか趣のある建物でございますね」
 随伴者――黒いコートに身を包んだ保科菖蒲は小さく頷き、感想を述べる。その表情からはおよそ感情というものが読み取れず、まるで無表情という名の仮面を被っているかのようだった。
(……本当に、どうして)
 そう思ってしまう。いつものように白耀の店で働き、いつものように着替えを済ませて帰る――その筈だったのだ。
『……あの、由梨子さま。少々お時間よろしいですか?』
 帰りがけにそう話しかけてきた菖蒲に、由梨子は少なからず驚いた。面識はあったが、同じ店で働いてはいるものの今まで殆ど会話らしい会話をしたことが無かったからだ。そして菖蒲は言いづらそうに、しかし丁寧な物腰で由梨子の部屋を見てみたいと言い出したのだ。
 普段であれば、断っていたかもしれない。それは菖蒲のことが嫌いだから家にあげたくないというのではなく、よく知らない相手を部屋にあげたくないというごくごく一般的な感情だった。
 しかし今由梨子は別の事を考えていた。
(………………白耀さんの力になるチャンスかもしれない)
 些細なことでもいい。菖蒲の情報を得ることが出来れば、先日の見舞いの恩も返せるかもしれない。ましてや、菖蒲の方から機会を作ってくれたのならば、これを活かさない手はない。
(……あとは、どうやって切り出したら……)
 いきなり根掘り葉掘り情報を聞き出すというわけにもいかない。どうにかして会話の流れを作らなくてはならない。
「えと……ちょっと、片付けさせてください」
「はい」
 菖蒲の短い返事から、必要ならば一時間でも二時間でも待つという覚悟が伝わってくるかのようだった。どうやら目的は不明だが、菖蒲の方も伊達や酔狂で部屋に入りたいわけではないらしい。
 別段散らかっているわけではなかったが、よく知りもしない相手を上げる関係上、どうしても片付けは入念にやらざるをえない。とはいえ、この寒空にいつまでも待たせるわけにもいかず、やむなく由梨子はなんとか見苦しくない程度に片付けを終えるなり、玄関のドアを開けた。
「……どうぞ」
「失礼致します」
「あっ、上着を……」
「心遣いありがとうございます。ですが、長居は致しませんので」
 菖蒲は座ろうともせず、まるで何かを捜すように周囲を見回し始める。長居はしないと言われてしまった為、上着をかけた後は飲み物を用意しようと思っていた由梨子のほうが手持ちぶさたになってしまった。
「…………。」
 居間に立ったまま、菖蒲はじっくりと観察するように内装へと目をやる。かと思えば、家具の一つ一つの材質でも確かめるように手袋越しに触り、時には露骨に匂いまで嗅ぐその姿に、由梨子は少なからず不快感を覚えた。
「あの、何か……?」
「申し訳ございません、由梨子さま。あちらの方も見せて頂きたいのですが」
 あちら、と菖蒲の白い手袋が台所の方を指さす。とにかく早く帰って欲しい由梨子としては、断ることは出来なかった。
 その後も、菖蒲は風呂場が見たいトイレが見たいと室内の隅々まで見たがった。押し入れの中も見たいと言われたがさすがにそれはと由梨子は断った。
(…………まるで、貰われてきた猫みたい)
 不審そうに部屋の隅々までチェックする菖蒲を見ながら、由梨子はそんなことを思った。既に菖蒲の正体については知っているから、尚更だった。
(…………どうしよう、このままじゃ……)
 ただ、部屋をチェックされて、それで終わりになってしまう。長居はしないという菖蒲の言葉が本当であれば、そう遠くない未来菖蒲は帰ってしまうことだろう。
「あ、あの……保科さん!」
 手袋を外し、カーテンのレース生地の感触を確かめているらしい菖蒲に、由梨子は思い切って声をかけた。
「こ……この部屋……空気が乾燥してると思いませんか?」
「………………左様でございますね。些か……」
「今度、お給料を頂いたら加湿器を買おうと思ってるんです。前々からずっと欲しいと思ってて……」
「良いお考えだと思います」
「保科さんの方は、今何か欲しいものとかあったりしますか?」
 ああ、なんという質問だと、由梨子は全身から汗が噴き出すのを感じた。いくら白耀が喜びそうな情報を聞き出す為とはいえ、こんなド直球な質問はありえないと、由梨子自身思った。
 が、菖蒲はといえば一瞬驚いたように目を丸くした後、
「…………イチヤメオト……」
 耳を澄ましていなければ聞こえないほどの音量で、小さく呟いた。
「イチヤ……えっ……?」
「あぁ、いえ……欲しいモノ……でございますか。急に言われて思いつくものと言えば――」
 菖蒲はちらりと、自分のコートへと視線を落とす。
「あっ……コート……ですか?」
「由梨子さまのように、是が非でもという程ではございませんが……」
 強いてあげるなら、それくらいだと、菖蒲は無言で匂わせる。
「…………いいコートだと思いますけど……」
 別段古くなっているようにも見えない。菖蒲にもよく似合っているし、もちろん汚れもほつれも見えない。
「…………確かに、良い上着なのでございますが……」
 菖蒲は意味深に言葉を切り、そっと目を伏せた。言葉には出来ない事情がある――そう言いたげな仕草だった。
 さて――そう言わんばかりに、菖蒲は改めて由梨子に向き直り、大きく辞儀をする。
「…………急な申し出にもかかわらず快くお招き下さり、由梨子さまには感謝の言葉もございません。このお礼は後日改めてさせて頂きます」
「あっ……もう、いいんですか?」
「はい。大変参考になりました」
 一体全体何が参考になったのか、由梨子には全く分からなかった。それだけに、由梨子の目には菖蒲の存在がこれ以上無い程に無気味に映った。
「それでは、わたくしは失礼させていただきます。由梨子さまも良い夢を」
 玄関で靴を履くなりもう一度大きく辞儀をして、菖蒲は帰って行った。閉まるドアの向こう、漆黒の闇と黒いコートに縁取られた菖蒲の白い微笑がまるで、冥界からの使者かなにかのように、由梨子には見えた。
 


 
 

 

 

 

 

『キツネツキ』

第六十話

 

 

 

 

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 




 気配というものについて、月彦は考えていた。明らかに視界の外のことなのに、音を立てているわけでもないのに、“そこ”に“何か”が居る気がするというのは、そもそも一体全体どのような要素を根拠にそう判断しているのだろうか。
(…………何だろう、見られてる気がする)
 登校の途中でその気配に気づき、さらに休み時間の間にもちょこちょこと悪寒めいた気配を感じた。最初はてっきり雪乃辺りのかまってビームかと思ったのだが、どうもそうではないらしい。次に疑ったのは学校に侵入した都がかくれんぼ感覚でこっそり潜んでいるのではというものだったが、仮に都であれば二時間目の休み時間あたりに見つけてもらえないことに焦れて飛びついてきそうなものだと、その可能性も消えた。
(……となると)
 多分、“あの人”ではないかと、月彦は推測する。正確には人ではないから“あのヒト”と表現するべきだろうか。そしてその推測が間違ってはいないことを、月彦は下校途中に知った。
「……月彦さま」
 周囲の雑音にかき消されそうなその声を、一日中不審な気配に神経を尖らせていた月彦の耳は鋭敏に捉えた。振り返ると、菖蒲が電柱の影から上半身の1/3ほどを覗かせていた。
「……やあ、菖蒲さん。どうしたの?」
 声をかけると、姿を現す許しがやっともらえたとばかりに菖蒲が物陰から全身を出し、足音無く歩み寄ってくる。
「ご無沙汰しております。…………月彦さま、不躾で申し訳ございませんが、この後何かご予定とかはお有りでしょうか?」
「予定……」
 月彦は悩んだ。予定があるからではない。無いからこそ悩んだ。
(無い――って答えたら、どうなる?)
 こういうとき、このあと予定があるかという質問はズルいと、月彦は思う。先に予定はないと言わせることで、その後の用件を断りにくくするという縛りが発生するからだ。
「あるにはある、けど……どうしても今日やらないといけないっていう程でもない、かな」
 結果、月彦は答えを濁した。
「実は……月彦さまに見て頂きたいものがございまして」
「俺に見て欲しいもの……?」
「はい。お時間は取らせませんので、わたくしの部屋まで来ては頂けないでしょうか」
「あ……菖蒲さんの部屋に行かないと見れないもの……なの?」
 はい、と。菖蒲は大きく頷く。うぐと、月彦は口の中だけで呻いた。
(何だろう……ものすごく嫌な予感がするぞ)
 今まで散々に性悪狐に騙された経験が、美人姉妹の罠にかかった経験が、愛娘のミスを装った無邪気な誘惑に乗せられた経験が、輪唱のように警鐘を鳴らす。絶対に行くべきではないと、脳内にいる小さな月彦達が満場一致で“反対”の挙手をする。
「お時間も、お手間も取らせません。ひと目見て頂くだけでいいのです。どうか」
 ぎゅっ。
 気がつくと白い手袋に包まれた菖蒲の両手に、しっかりと右手が握られていた。うんと言ってくれるまでは絶対に離さないぞという決意が、菖蒲の腕を通じて痛いほどに伝わってくる。
「………………わ、か……った。ほ、本当に時間がかからない、なら」
「来て頂けるのでございますね! ありがとうございます、月彦さま!」
 菖蒲は飛び上がらんばかりに歓び、そしてそのまま月彦の腕を引くように歩き出す。躾のなっていない飼い犬にリードを引かれる間抜けな飼い主のような足取りで、月彦も菖蒲の後に続いた。


 菖蒲の部屋に行き、“それ”を見るまで――不思議なことにと言うべきだろうか――月彦は想像力というものを殆ど使用しなかった。何故なら、十中八九菖蒲の言う“見て欲しいモノ”というのは自分にとって愉快な代物ではないだろうな、という想像からその先――つまり具体的に何か、というものを想像したくないという方向に頭が働いてしまったからだ。
「どうぞ、月彦さま」
 部屋へと到着するなり、菖蒲は鍵を開け、月彦を先に入らせるように自分はドアと共脇に体を避けた。やむなく月彦は菖蒲に促されるままに、先に部屋に上がる事になった。
「……ん?」
 月彦が最初に感じたもの――それは違和感だった。次に混乱が訪れ、最終的に月彦の頭はフリーズ状態になった。それは例えるなら、朝学校に行き、教室の扉を開けて中に入った筈が、何故かそこには一面の便座が並んでいたようなものだった。
 ひょっとして、化かされているのか――そんな疑惑から、月彦はつい背後を振り返ってしまう。しかしそこには性悪狐の意地悪笑みなどは無く、むしろ確実に褒めてもらえると確信している飼い猫のような、若干得意げともとれる笑みを浮かべた菖蒲の姿があるだけだった。
「えっ……と」
「はい。なんでございますか?」
「ここ……菖蒲さんの部屋、だよね?」
「はいっ」
「なんで――」
 その続きが口から出ず、月彦は改めて室内を見回す。台所の調理器具の配置や、居間の絨毯の柄。カーテンも、ベッドも、クッションも、テーブルも、何もかもが由梨子の部屋にあったものばかりだ。そもそもの間取りが違う為、何もかもが完璧に同じというわけではないが、限界まで似せようとしたという努力の跡だけははっきりと残っていた。
「気に入って頂けましたでしょうか」
 ずいと、菖蒲が服が触れそうなほどに身を寄せてくる。『褒めて! 褒めて!』とでも言わんばかりの仕草に、月彦は困惑の色を濃くする。
「いや……ちょっと待って……聞きたいことがいくつかあるんだけど」
「何でございましょう?」
「まず、どうして菖蒲さんが由梨ちゃんの部屋の内装を知ってるの?」
「先日、由梨子さまにお願いして部屋に上がらせて頂きました。その際、内装や使われている芳香剤などを調べて、可能な限り再現致しました」
 まるで手柄を誇るように、菖蒲は――あくまで普段の無機質無表情な立ち振る舞いに比べれば若干そう見えるというレベルだが――目を爛々と輝かせ、興奮気味の口調で答えた。
「………………もう一つ。なんで由梨ちゃんの部屋そっくりにしようなんて思ったの?」
「それは……」
 菖蒲は若干目を伏せ、戸惑うように言葉を濁した後。
「…………月彦さまは、由梨子さまのお部屋には結構な頻度で通われているように見受けられましたので…………きっとこのような内装がお好きなのだろうと……」
「け、結構な頻度って……俺は別にそんな……多くても週三日くらいしか……そっ……そもそもどうしてそのことを菖蒲さんが知ってるんだよ!」
「そ、それは…………由梨子さまがそのようなお話を……」
「本当に由梨ちゃんから聞いたの?」
 ジッと。両目を見据えると、菖蒲は逃げるように逸らした。
「…………申し訳ございません。どうしても月彦さまにお会いしたい気持ちを抑えきれず、時折無断で下校の様子などを影から窺っておりましたことを、深くお詫び申し上げます。……ですが、決して悪心あってのことではなく、或いは今日こそ部屋を訪ねて来て下さるのではないかという思いから、そうせずには居られなかったのでございます」
「そうせずには居られなかった、って……」
 ひょっとして、放課後雪乃の部屋に連れ込まれたり、或いは矢紗美に拉致同然に車に乗せられたりしている所も見られていたのだろうか。戦慄する月彦を、菖蒲はあくまで恐縮する従者然とした上目遣いで見る。
(ていうか、俺が菖蒲さんの部屋に足が向かないのは内装が気に要らないからじゃないんだけど……)
 同様に、由梨子の部屋に通ってしまうのも内装が好きだからではない。仮に由梨子の部屋が四畳半にちゃぶ台一つという間取りであっても、やっぱり同じように通ってしまうだろう。何故なら部屋ではなく、宮本由梨子本人が好きで、その側に居ることで得られる癒やし効果が何より有り難いからだ。
 そういう意味で言えば、菖蒲の部屋ほど居心地が悪い場所もそうはない。菖蒲本人が嫌いというわけではない。こうして二人きりで会っているだけで、同じ心の傷を持つという意味での心の友――心友を裏切っているも同然だからだ。
「…………えーと、何て言ったらいいか………………」
 ここに来たくないのは、内装の問題じゃない――そうきっぱりと言えば、菖蒲もショックを受けてしまうだろう。かといってここで「凄く気に入ったよ!」なんて言おうものなら、足繁く通わされる羽目になる気がして、それも口にすることが出来ない。
(由梨ちゃんとは同じ学校の先輩と後輩だから、いろいろ相談とか受けることもあるから部屋に行っているだけで、内装の問題じゃないってのはどうかな……?)
 少し考えて、月彦は首を振る。そんな事を言えば、今度は菖蒲が“後輩”となってしまうかもしれない。珠裡の例もある。人外勢が学校に潜り込むことは、そう難しいことではないのだ。
「………………月彦さま?」
「……ごめん、菖蒲さん。色々考えたけど、どうしても菖蒲さんを傷つけないような言い方が思いつかないから、この際はっきりと言うよ。俺が菖蒲さんの部屋に行きにくいのは、内装の問題じゃなくて白耀を裏切ってるみたいで落ち着かないからなんだ」
 ハッと。心臓が縮んだように菖蒲が体を竦ませる。
「今更何を、って思うかもしれないけど……菖蒲さんはやっぱり白耀とくっついたほうがいいと思うんだ。白耀は本気で菖蒲さんの事を好きだろうし、菖蒲さんも本当は白耀のことが一番好きなんだろうし……一時の火遊びみたいなことを、いつまでも続けるのはよくないよ」
 無表情という名の仮面を着けているかのような菖蒲だが、よく見ればその端々に感情の色は見てとれる。顔色を蒼白にし、唇を震わせながら僅かに俯くその姿に、月彦は胸をかきむしりたくなる程の痛みを覚えた。
「…………一時の火遊び。で、ございますか」
「……ごめん、表現が悪かったかもしれない。だけどほら、そもそもの発端が酒の勢いみたいなものだし、その後も変な蝋燭やら怪しげな鈴やらでたまたま事故が続いたようなものだし、今ならまだ“健全な状態”に戻れると思うんだ」
「………………。」
「それにほら、菖蒲さんも知っての通り、俺は真央の事が好きだし、同じくらい由梨ちゃんの事が好きだ。この上菖蒲さんとも付き合うことになったら完全に身の破滅だよ。菖蒲さんだってそんなの嫌だろうし、だったら菖蒲さんのことを一番に考えてる白耀とくっつくのが絶対いいって!」
「…………………………左様で、ございますね」
 菖蒲は小さく頷く。
「月彦さまの仰る通り、わたくしは、ただただ月彦さまの心を苦しくするだけの存在でございます。そんなことも分からず、ご迷惑をかけ続けたこの身を呪うばかりでございます」
「……そ、そこまでは言わない、けどさ……俺だって、白耀とのことが無かったら菖蒲さんの事が好きになってたかもしれないし……」
 それに、菖蒲の抱き心地については正直かなり気に入っている――そう言いかけて、飲み込む。親友の恋人の体の味など、軽々しく口にしていいものではない。
(…………本当に、惜しいっちゃ惜しいんだよな。しがらみさえ無きゃ……)
 長い間、ろくに触れてももらえなかった為だろうか。普段は瀟洒然とし、或いは不感症ではないかとすら思わされるほどに人間味を感じさせない菖蒲が、一度皮を剥けば抑圧された肉欲に乱れに乱れ、声を抑えようとしつつも抑えきれずに悶える様は思い出すだけで下半身に血が集まりそうになる。加えて、あくまで従者として主を喜ばせようと必死に奉仕する様や、騎乗位での腰使い等“これきり”にするにはあまりに惜しいと思わされる相手だ。
 そう、あまりに惜しい――しかし、親友を裏切りたくないという思いは、それよりも遙かに強い。
「と、とにかくそういうことだからさ……もし、この部屋もまだ元に戻せるなら、戻したほうがいいと思うよ。なんだかんだで、前の部屋の方が菖蒲さんの雰囲気には合ってたと思うし……」
 “これ”も一応は別れ話ということになるのだろうか。一刻も早くこの場所から逃げ出したくて、月彦は早口に言い、早足に玄関へと向かった。
「……あの、月彦さま」
 その歩みが、まるで幽霊か何かが喋ったような菖蒲の声によって止められた。
「…………申し訳ございません。これ以上月彦さまに心苦しく思われるのはわたくしとしても本意ではないのですが、最後に一つだけ、どうしても解消しておきたい心残りがあるのです。……真央さまとのことです」
「真央……?」
 何故ここで真央の名が出てくるのか。声を上ずらせる月彦に、菖蒲ははいと、無機質に答える。
「実はその……わたくしは真央さまにあまり良く思われていないようなのです。わたくし自身、身に覚えがございますので、仕方のないことだとは思うのですが、もし可能でしたらば月彦さまに仲立ちをお願いしたく存じます」
「真央との仲立ち……」
 菖蒲からの意外な要請に、月彦は思案する。確かに、記憶を探っても菖蒲と真央の間には決定的ではないまでも、小さな摩擦、軋轢があったように思える。真央が菖蒲を良く思っていないということも十二分にありうる事だ。
(…………できれば、これ以上関わりたくない、けど……)
 一方的に関係を遮断しようとしている負い目から、この上さらに真央と仲直りをしたいという菖蒲の願いまでも無下にするのは気が引ける。菖蒲を傷つけてしまったのだから、そのくらいは役に立たなければ――そんな思いが、むくむくと頭を擡げてくる。
「…………わかったよ、菖蒲さん。真央と仲直りできるように、俺も何か考えてみるよ」
「ありがとうございます。ご無理ばかり申し上げて、月彦さまにはどれだけ感謝の言葉を重ねても足りません」
「そんな……俺の方こそ、できもしない約束をしたりして……その、なんていうか……普通の相談とかだったら、いくらでも乗るからさ」
「はい。………………その時は是非、お願い申し上げます」
 深く辞儀をする菖蒲に見送られて、月彦は部屋を後にした。


 真央との仲を取り持つ――とは言ったものの、一体全体なにから手をつけたものか。月彦にはさっぱり見当がつかなかった。
(うーん…………考えてみたら、菖蒲さんが白耀とくっつくにしても、真央と不仲ってのはネックだよなぁ……)
 一応ながらも真央は白耀の妹にあたるわけで、何かと顔を合わせる機会も多いだろう。そういう意味では、真央との仲直りをしたいという菖蒲の申し出は至極真っ当なものであり、力になってやりたいとは思う。
(…………けど、真央と菖蒲さんを仲良くさせる…………うーん……イメージが全く湧かん)
 これは菖蒲に問題があるというよりも、真央の方に問題があるのではと月彦は思う。仮に菖蒲ではなく誰か別の――まずあり得ない事だが――たとえば雪乃と真央の仲を取り持つ場合であっても、雪乃を説得するよりも真央の説得の方が難しいだろう。
 それはひとえに、真央がどれだけ嫉妬深いかを身をもって知ったことに起因する。
(…………でも、最近は良い子にしてるし……案外菖蒲さんとも簡単に……)
 とにもかくにも、真央と話をしてみないことには始まらない。夕飯の後にでも早速話をしてみようと早足に帰宅を急ぎ始めた月彦のすぐ脇を、一台の原付が駆け抜けていった。
 と、思ったのもつかの間。月彦を追い抜いた原付は10メートルほど先で停車してしまった。その後ろ姿を見て、月彦の方が先に声を上げた。
「あれ……? ひょっとして倉場さん?」
「やあ。妙なところで会うね。今帰りかい?」
「まあ、ね。倉場さんは買い物?」
「うん。まあ、そんなところだ」
 見れば、佐由も制服姿だ。恐らくは下校後の買い物帰り――という所なのだろう。
「丁度良かった。さっきコーヒーを買ったら、オマケでもう一本ついてきたんだ。さすがに2本は多すぎるからもてあましてた所なんだが、よかったらどうだい?」
「あまってるってことなら、もらおうかな。ありがとう、倉場さん」
 別段欲しいとも思わなかったが、もてあましているのならばと。軽い気持ちで月彦は了承した。
「確か、少し行ったところに公園があった筈だ。先に行って待っているよ」
 えっ――思わずそんな声を漏らす月彦を置いて、ブロロと佐由が原付を走らせてしまう。
(良かったらどうって……すぐくれるって意味じゃなかったのか)
 まさか一緒に飲もうという意味だったとは。とはいえ、ここで佐由を置いて帰ってしまうわけにもいかない。しぶしぶ佐由の後を追うと、角を曲がってすぐのところに小さな公園があった。砂場と、滑り台と、小さなベンチしかないそこに佐由は原付を停め、ヘルメットをしまおうとしている所だった。
「無糖と微糖があるが、希望はあるかい?」
「特には。どちらかといえば、微糖かな」
「では私は無糖にしよう」
 佐由から缶コーヒーを受け取り、口をつける。そのまま二人並んで、ベンチへと腰掛けた。
(……妙な事になった)
 そんな事を思う。少なくとも10分前には、佐由とこんな場所でまったりしているとは夢にも思わなかった。
「…………そうそう、白石君とは無事仲直り出来た様だね。一応おめでとうと言っておくよ」
「あ、ありがとう……ていうか、どうして倉場さんがそのことを!? まさか、妙子から……?」
「それこそ“まさか”さ。触れる者みな傷つけるギザギザハート状態だった白石君が唐突に平常運転に戻れば、何があったかは容易に想像がつくよ」
「…………なんか、迷惑かけちゃってたみたいで、ほんとゴメン」
「君が謝るようなことじゃないさ。そもそも誤解から始まったことなんだろう?」
「まあ、ね」
 月彦は頷き、コーヒーに口をつける。
「白石君はどうも君がらみの事には融通が利かないというか、意固地になるところがあるからね」
「ま、まぁ……妙子がそうなっちゃったのも俺の責任なわけだから、仕方ないんだけどね」
「幼なじみというのも、良いことばかりではないということだね」
 佐由が苦笑し、コーヒーに口をつける。
「………………君たちがどういった経緯で今のような関係になったのか、興味をそそられる所だよ。いつか機会があったら、是非とも聞いてみたいものだ」
「それは……ははっ……どうだろう。先に妙子の許可を取ってからじゃないと怖いな……」
「確かに。……しかし、白石君が許可するかな?」
「………………しないんじゃないかなぁ」
 あの妙子のことだ。そういう“身内の恥”的なものは他に漏らすべきではないと考えるのではないだろうか。
 月彦もまた、缶に口をつける。もともと大きくは無い缶コーヒーの中身は、それほど残ってはいない。一息に飲もうと思えば飲みきれる量だ。
「……………………倉場さん、一つ聞いてもいいかな」
「何だい?」
「たとえば……ええと、仲の悪い二人の仲立ちを頼まれたとして、どうするのが一番いいのかな?」
「その二人がどういう人物で、どういう関係かにもよるね」
「ええと……じゃあ、AさんとBさんとして…………Aさんの方は女性で年齢は……二十台前半くらいって感じで。恋人が居て、その恋人の妹がBさん」
「ふむ?」
「Bさんの年齢は……俺たちと同じくらいって認識でいいと思う。ただ、前にちょっと色々あって、BさんはAさんに苦手意識というか、嫌悪に近い感情を抱いている」
「Aさんの方は、Bさんに対してそういう感情はない?」
「元々はあったのかもしれないけど、その恋人とくっつくにあたって、関係を修繕しておいたほうがいって考えたみたいなんだ。で、なんとかBさんとの仲立ちをして欲しい、と」
「………………一つ質問があるのだが、その恋人というのが紺崎君なのかい?」
「まさか! 俺はただの友達だよ! ただ、Aさんにはちょっと負い目……でもないけど、借りがあるからさ。頼まれたら嫌とは言えないんだ」
「ふむ…………。話を聞いた限りだと、その“恋人”が一肌脱ぐのが筋のように思えるのだが、それも出来ない理由があるのだね?」
「…………まぁ、そう思ってもらっていい……と思う」
 佐由の指摘に、どきりとする。確かに佐由の言うとおり、別に白耀に仲立ちを頼んでもいい筈なのだ。
(…………ただ、白耀が菖蒲さんと仲良くしてくれって言って、真央が聞く気がしないってのも確かだな)
 一応兄妹ではある筈なのだが、場所も年代も別々に育った為だろうか。普通の人間の兄妹のような感覚は二人の間には無いように思えるのだ。
「Aさんは成人だが、Bさんは未成年。………………となれば、一緒に鍋でも突くのが一番手っ取り早いのではないかな?」
「一緒に食事をするってこと?」
「ただの食事よりは、鍋を推したいね。やはり、一つの鍋をみんなで突くというのは距離が縮まるものだよ」
「そ、そうなの……? 俺にはよく分からないけど……」
「出来れば酒も酌み交わすと尚良いのだが……Bさんが未成年ではね」
「さ、酒はダメだ! 絶対に…………Aさんは酒が入ると荒れるっていうか、ほんとヤバいから……」
「なら、季節柄鍋が一番だよ。何なら紺崎君と、その恋人とやらも混じって四人でワイワイやれば、きっと仲直り出来るさ」
「そ……っか。ありがとう、倉場さん。なんだかいけそうな気がしてきたよ」
「ありふれた助言しか出来なくて申し訳ないね。巧くいくと良いのだけれど」
 話のキリもよく、丁度コーヒーも飲み終わった。缶をゴミ箱に捨て、佐由もまたヘルメットを手に原付に跨がる。
「夜も更けてしまった。良かったら家まで送って行こうか?」
「とんでもない。むしろ俺のほうが送らなきゃいけない立場だよ」
 とはいえ、徒歩の身の悲しさ。佐由も原付に乗っていれば、そうそう変質者に襲われることもないだろう。
「倉場さんも、事故には気をつけてね」
「うん。………………あっ、紺崎君!」
 じゃあ、また――手を振って別れようとした矢先、不意に佐由に呼び止められた。
「倉場さん?」
「その、何だ。もし良かったら……今度一緒に食事でもしないかい?」
「えっ……二人だけで……ってこと?」
「ああいや……ほら、その……さっきの話…………白石君との経緯について、やっぱりきちんと教えてもらいたいんだ。もちろん白石君には絶対に秘密にするから」
「ああ、成る程…………って、えぇええ!? た、妙子に内緒でって……さすがにそれはマズイよ倉場さん!」
「だが、白石君に許可を貰おうとしてもくれないだろうということで見解は一致しただろう? 大丈夫、むやみに言いふらすつもりなんかないさ。私はただ、君たちの力になりたいんだ」
「いや、でも……」
「私が……信用できないかい?」
「そんなことない、けど………………ごめん、気持ちは嬉しいけど、俺のことだけならともかく、妙子も絡む話ってなると、本人に無断でってのはちょっと出来ないよ」
「そう、か……。確かに、これは私が無理強いできる話ではないしね。…………だけど、君を応援したいという私の気持ちは嘘偽りの無いものなんだ。それだけは信じて欲しい」
「その気持ちだけで、本当に嬉しいよ、倉場さん。なんとか応援に応えられるように、俺も努力してみるよ」
 手を振って、今度こそと月彦は歩き出す。やがて、遙か後方で原付のエンジン音がどこか悲しげな響きと共に走り去って行った。



 佐由の励ましを力に変えて――とはいっても、佐由が励ましてくれたのは妙子との事だろうが――夕飯後、月彦は例の件について真央に切り出すことにした。
「ってなワケで、菖蒲さんが是非真央と一緒に晩飯を食べたいって言ってるんだが、どうだ?」
「…………あの人が?」
 真央は、露骨とはいわないまでもはっきりと分かる程度には顔を曇らせた。
「いやほら……菖蒲さんも真央に悪いことしたなぁーって思ってるらしいんだ。この先、菖蒲さんが白耀とくっつくにしても、真央と顔会わせる機会も多いだろうし、いつまでもギスギスした関係なのは嫌ってことなんだと思うぞ」
「……………………。」
 真央は黙り込んだまま、何事かを思案し続けているようだった。月彦としても、真央がここまで渋るというのは少々意外ではあった。
(…………そんなに嫌なのか?)
 月彦はもちろん、自分が真央に一番慕われているという自覚がある。よほど嫌な要求でなければ真央も首を横には振らないだろうと思っていただけに、ここまで渋られるという事自体、真央の中ではよほど受け入れがたいのだろうという証左に思えてならない。
「…………父さまも一緒に来るの?」
「……まぁ、一応、な」
 気のせいか、真央の表情がいっそう険しくなったように見えた。
(…………ひょっとして、“例のアレ”なのか?)
 嫉妬の虫――最近は大分マシになったと思っていた真央のそれが、この場合にも首を擡げているのだろうか。
「…………………………父さま、あの人はね――」
 真央はそこまで口にしたが、そのまま言葉を飲み込んでしまった。
「いや、まあ……真央がどうしても嫌だって言うんなら、無理に来いとは……」
 父親としても、娘がそこまで嫌な事を無理強いはしたくない。真央がどうしても嫌だというのならば引き下がろう――そう思っての譲歩だったが。
(なんか、真央の顔がさらに険しくなったよーな……)
 否、険しいというよりは、もどかしいといった顔だった。「あぁ……父さまが騙されてる。これは教えてあげたほうがいいのかな? でも……」とでも言いたげな顔なのだ。
「…………私が行かなかったら、父さまが一人で行くの?」
「ん? んー…………そ……うだな。折角誘われたんだし、二人とも行かないっていうのもな」
 実際の所、菖蒲からは真央との仲立ちを頼まれただけであり、“食事を一緒に”というのは佐由のアドバイスで月彦が思い立っただけに過ぎないのだが、月彦はあえてそういうことにしておいた。
「…………行く」
「えっ……く、来る……のか?」
「うん。父さまが行くなら、私も行く」
「そ、そうか……わかった」
 あぁ、やはりこれは“アレ”なのかと。月彦の胸中は複雑だった。
(…………とはいえ、やっぱり二人を引き合わせないことには仲直り以前の問題だよな) しかし顔を合わせたところで、真央と菖蒲が仲むつまじくなれるとは微塵も想像出来ない月彦だった。



 月彦が腫れ物に触れるような態度で真央に話を切り出していた頃、由梨子もまた同様に“大事な話”を切り出していた。
「あの、白耀さん……ちょっと、話したいことがあるんですけど……」
 仕事が一息つき、同様に一休みしていた白耀の周りに人気が無いのを見て、由梨子はそっと声をかける。
「……ちょっと場所を移しましょう」
 ただの世間話では無いということを察したのか、白耀は由梨子の手を引いて料亭内から母屋の方へと移動する。そのまま応接室まで先導され、ソファに座るように促された。
「それで、話というのは?」
「はい。あの……実は先日、保科さんに部屋を見せて欲しいと言われて……その時に、少し話をする機会があって――」
 その時に、菖蒲が新しいコートが欲しいというようは話をしていた――そう伝えるなり、白耀の顔色が一辺した。
「なるほど……コートですか」
 喜色半分、残り半分は腑に落ちないとでも言いたげな顔だった。その理由は何となく由梨子にも察することが出来た。
「確かに少し前まで随分と寒い日が続いていましたが…………いや、菖蒲が欲しいというのであれば、是非もないことです」
 そう、この時期に春物の衣服が欲しいというのならば分かるが、コートというのは少々時季外れではないかと由梨子も思うのだ。
(…………そういえば、保科さんも“急に言われて思いつくものと言えば”って言ってた……)
 つまり、菖蒲としても突然の質問に熟慮する時間も無く、即興の答えとしてただコートと言っただけなのではないだろうか。
(…………どうしよう。私……早まったかもしれない)
 白耀の役に立ちたい。白耀が喜ぶような情報を早く伝えたい――その思いが高じて、菖蒲が欲しがっているものを知るなりろくに考えもせずにそのまま伝えてしまった。しかし今にして考えれば、それはあまりに軽率な行動だったのではと思わざるを得ない。白耀に伝える前に、もう一度改めて菖蒲に尋ねた方が良かったのではないか――そんな後悔が、沸々とわき起こる。ひょっとしたら、この一件が原因で二人の仲が巧くいかなくなるのでは――由梨子は足下が崩れるような恐怖を覚えた。
「ありがとうございます、由梨子さん。…………僕のために、菖蒲から聞き出してくれたんですね」
 しかし由梨子の胸中とは裏腹に、白耀はほろりと、零れるような笑顔見せた。
「ぇ、ぁ……は、白耀さん!?」
「実は僕もそろそろ進展をと思っていた所だったんです。その矢先に菖蒲が欲しいものが分かるというのも天佑というものです。……ありがとうございます、本当に助かりました」
「あっ……あのっ……あのっ……ちょっ…………」
 両手で手を握られ、さらに一辺の曇りもないまっすぐな目で見られ、由梨子は頭の奥が湯立つのを感じる。そう、分かっている。過去何度も何度も錯覚しそうになって、その度に違うのだと自分に言い聞かせてきた由梨子には分かっている。“これ”はあくまで白耀が本心から“お礼”を言っているのであって、宮本由梨子を口説いているわけではないのだ。
(っっ………………私には、先輩が居る、のに……)
 やはり、真央の兄――ということなのだろうか。人のそれを越えた魔性の魅力はただ間近で見つめられているだけで胸の奥が熱く火照りだす。懸命に月彦のことを考えながら自制をしていなければ、容易くその腕に抱かれてしまいかねないほどの引力を由梨子は感じていた。
(…………杞憂、だったかもしれない)
 “この白耀”が菖蒲を落とせないわけがない。いくら菖蒲が機械のように無感情な従者であったとしても、“これ”には勝てないだろうと。
(…………むしろ、真央さんより……)
 同性の真央よりも、異性の白耀のほうが、より“引力”を感じてしまうのは、恐らく自分だけではないだろうと由梨子は思う。同じ女である菖蒲もまた、白耀をこれ以上無く魅力的な男性だと感じている筈だ。ましてや、自分などより遙かに長い時間を共に過ごしてきたのだから。
 やはり、大丈夫だ。二人が破局する要素など何処にもない。絶対に巧くいく――その確信に由梨子は安堵する。
「あっ………………と。す、すみません! つい、興奮して……」
 そこで漸く、手を握ってしまっていたことに気づいた白耀が慌てて離した。女として羨みたくなるほどに白い肌を食べ頃の桃のように染める様に、いけないとは思いつつも由梨子はドキドキと胸が高鳴ってしまう。
(…………うぅ、保科さんの代わりに、私が抱きしめてあげたい……)
 顔がいいのもさることながら、それを鼻にかけずむしろ女顔であることをコンプレックスにしている白耀には、母性を擽る何かがあるのかもしれない。そうした欲求を感じる度に、由梨子は心の中で何度も月彦に謝罪をせねばならなかった。
「と、とにかく……ありがとうございました! お礼はまたいずれ……必ず!」
 赤くなった顔を隠すように体を捻りながら、白耀が一足先に応接室を出ようと障子戸に手をかける。
 安堵の笑みと共に、その後ろ姿を見守ろうとした刹那、由梨子は唐突に――雷に打たれたように寒気が走った。
「あっ、白耀さん!」
 きっと大丈夫。巧くいく――今まで何度そう思い、裏切られてきたことか。その経験が、由梨子の中にあった“気がかり”を掘り起こしたのだった。
「……ゆ、由梨子さん? どうかしましたか?」
 まだ顔が赤い白耀は懐からハンカチを取り出し、顔汗を拭いながらも振り返る。
「あの…………白耀さん。“イチヤメオト”って何のことか分かりますか?」
「イチヤメオト………………あぁ、苺の品種の一つですね」
「苺の品種……?」
「はい。ああ、“こちら”では出回ってないかもしれないですね。丁度こう、サクランボのように寄り添って成る苺なんですよ。それが仲むつまじい夫婦のように見えることから、その名がついたんだと聞いてますが」
「そう……なんですか……苺……」
「っと、さすがにそろそろ戻らないと拙いですね。もし興味がおありでしたら、今度実物を取り寄せますよ」
「あっ、いえ……私じゃなくて――」
 慌ただしく応接室を後にする白耀に、由梨子は続きの言葉を言うことが出来なかった。(苺……)
 あれは。あのときの菖蒲の言葉は、本当に苺のことを言ってたのだろうか。
(……本当に欲しいのは苺……? でも、それならどうしてそう言わなかったんだろう……)
 由梨子自身、己のこういった思考法が嫌で嫌で堪らない。何かしら不安の種を抱えていないと安心出来ないのだから。
 きっと考えすぎ――そもそも“別に欲しくはないもの”であっても、異性からプレゼントされて喜ばない女など居ない筈が無い。ましてや、相手はあの白耀だ。そもそも、くっついていないのが不思議なくらい仲の良い二人が、最後の一歩分の距離を縮めるきっかけとしてはそれでも十分過ぎる筈だ。
 そう、何も問題は無い。絶対に巧くいく。絶対に大丈夫――何度も何度も、亀裂の入った壁を漆喰で塗り固めるように、由梨子は念じ続けた。



 翌日、月彦は学校帰りに菖蒲の部屋へと立ち寄った。もちろん、“昨日の件”を相談する為だ。
「……月彦さま!?」
「あれ、菖蒲さん。ひょっとして今から仕事?」
 が、部屋に向かう途中の階段の踊り場でまさかの遭遇。
「はい。……あぁ、いえ……その、もしご用でしたら……」
「いや、用っちゃ用だけど……ほら、昨日真央と仲直りしたいって言ってただろ? それでちょっと思いついたことがあったから……」
「真央さまとの……!」
「でも、急ぎってわけじゃないし、仕事があるならまた出直すよ」
「いいえ、月彦さま。今、わたくしにとって真央さまとの事よりも優先すべき事などございません。すぐにでも話を伺いたく存じます」
「いやでも……」
「先に連絡だけさせていただければ大丈夫でございます。さあ、月彦さま?」
 がっしりと腕を掴まれ、ぐいぐいと部屋に引っ張って行かれる。やはり、この従者にあるまじき強引さが苦手だなぁと思いつつも、今回ばかりはそれだけ真央と仲直りをしたいのだろうと、月彦はポジティブに考えることにした。
 どうやら設置電話の使い方は分かるらしい菖蒲が職場へと連絡する間、月彦は出されたコーヒーを口にしながらぽつねんと居間に座していた。
(…………部屋が元に戻ってる)
 まるで昨日見たものが夢だったのではないかと思いたくなる光景だった。或いは、部屋は最初からこのままで化かされていたのではないかとすら。
「……大変お待たせして、申し訳ございません」
 電話が終わるなり、菖蒲はくるりと向き直り、深々と頭を下げてきた。
「いや、俺の方は全然問題ないんだけど……仕事の方は本当に大丈夫なの?」
「はい。それよりも月彦さま、早速にお話を伺いたく存じます」
「あぁ、うん……ええと、真央と仲直りしたいって話だったけど…………俺なりに考えた結果、一緒に鍋でもするのが一番じゃないかって思うんだ」
「鍋……で、ございますか?」
「うん。ほら、やっぱ一つの鍋をみんなで突くってのは楽しいし、距離も縮まると思うんだ。普通に会って話をしたりするよりも、その方が良いんじゃないかな?」
 なるほどと、菖蒲は大きく頷く。
「お話はよく分かりました。それでは、わたくしは鍋の用意をしておけばよろしいのでございますね?」
「うん……そうしてもらえれば助かる。無理なら母さんに頼もうかと思ってるけど」
「いいえ。ここは是非わたくしにやらせて下さいまし。真央さまの為に、誠心誠意準備させて頂きます」
「そ、そんなに気張らなくても……もっと肩の力を抜いて大丈夫だよ。真央も、基本的には良い子だから、菖蒲さんがいい人だって分かればきっと打ち解けると思うから」
「…………ちなみに、真央さまは何鍋を所望されてらっしゃるのですか?」
「えっ……何鍋って…………」
 ハッと、菖蒲の質問に月彦は我に返る。
(………………しまった。そこまで気にしてなかった!)
 確かに、おおざっぱに鍋が食いたいと言われても準備をする菖蒲も困るだろう。
(…………一端真央に聞いて出直すか……? いやでも……)
 何となく「何鍋でもいい」と答える真央の姿が脳裏に浮かぶのは気のせいだろうか。
「な、何鍋でもいいって言ってたと思うけど……ちなみに菖蒲さんは何鍋が好き?」
「わたくしも特にこだわりは…………月彦さまは?」
「俺、は………………うーん………………強いて言うならカニ鍋……かなぁ」
「では、それでいきましょう。白耀さまにお願いして、とびきりの蟹を仕入れて頂きます」
「あっ、だったらいっそ白耀も呼んだ方が良くないかな? 材料の仕入れだけ頼んで鍋には混ぜないってなんだか……」
「確かに……道理ではございますね。では、白耀さまにもお声をかけさせて頂きます」
「うん、そのほうがいいと思う。あとは日程だけど……菖蒲さんはいつなら大丈夫?」
「いつでも大丈夫でございます」
「え、いや……いつでもってわけにはいかないんじゃ……」
「白耀さまにお願いしてお休みを頂きますから」
「そ、そう…………んじゃ、次の金曜の夜とかで大丈夫かな?」
「金曜の夜、でございますね。畏まりました」
「本当に大丈夫? 無理なら延期とかでも俺も真央も全然構わないから……」
「はい。必ず最高のカニ鍋をご用意してお待ちしております」
 菖蒲がここまで大丈夫だと言い切るということは、それだけの自信があってのことなのだろう。
「じゃあ、金曜の夜……6時くらいに、真央を連れて来るよ」
「はいっ。……よろしくお願い申し上げます」
 何度も頭を下げる菖蒲に見送られて、月彦は部屋を後にした。

 



 そして迎えた金曜日。月彦は一端帰宅して着替え、真央と共に菖蒲の部屋へと向かった。
 やはり気は進まないのだろう、道中真央の口数は少なかった。愛娘のそんな姿を見ていると、菖蒲がどれほど仲直りを望んでいたとしても橋渡しなど引き受けるべきではなかったのではないかという気にさせられる。
「…………ま、まぁ……大丈夫だ、真央。そんなに気負わなくても……やっぱり合う合わないってのはあるからな。無理だと思ったら、無理に仲良くなろうとしなくていいからな?」
 結局、じゃあ何の為にこの食事会をセッティングしたんだと。自分で自分に突っ込みたくなるような事を言いながら、むしろ月彦の方が引き返したいのを我慢しながらどうにかこうにか菖蒲の住むマンションへと到着した。
「お待ちしておりました、月彦さま。真央さま」
 驚いたことに、菖蒲は部屋の中ではなく、マンションの入り口で待っていた。
「や、やぁ……菖蒲さん。今日はご馳走になりに来たよ」
「………………こんばんは」
「はい。真央さまもお元気そうでなによりでございます」
 どうぞ、と菖蒲に促され、部屋まで案内される。
「あれ……そういえば、菖蒲さんの部屋でやるんだね。白耀も来るなら、いっそ白耀の屋敷でやるのもアリだったんじゃないかな」
「その件ですが、月彦さま。白耀さまは来られません」
「へ……?」
「その……お誘いはしたのですが、どうしてもお相手をしなければならないお客様と予定が重なってしまったのでございます。折角のお誘いを無下にする形になって申し訳ないと、白耀さまも仰っておられました」
「そ……っか。なんだ、そういうことなら言ってくれれば、別に俺たちは他の日でも良かったのに……なぁ、真央?」
 真央も無言で頷く。
「代わりに、というわけではございませんが、食材の方は白耀さまが最高のものを揃えて下さいました。わたくしも白耀さまに代わって、精一杯おもてなしをさせて頂きます」
「いやいや……そんなもてなすとか、そういうのじゃなしに、普通に仲良くやろうよ、菖蒲さん。なぁ、真央?」
 真央は無言で頷く。
「はい。月彦さまのご意向に沿うよう、誠心誠意努力させて頂きます」
「……あぁ、うん……と、とにかく楽しみにしてるよ」
 ぽぅ、と熱を帯びた視線を向けてくる従者と、その熱っぽい視線に気づいてますます口数が減ってしまった愛娘との間に挟まれながら。
 月彦はただただ“会”が無事終わることを願わずにはいられなかった。

 

 



 さて、“失敗”の原因は何だろうか――カセットコンロの上でぐつぐつと煮えている、具材を半分ほどに減らした土鍋を見ながら、月彦はふと考える。
 菖蒲の言葉通り、鍋は最高のものが用意されていた。食材もさることながら、味付けも絶妙で薄味ながらも素材のダシをふんだんに活かし、むしろ塩気を抑えることで食材の味を最大限に活かしたその味は濃厚至極。舌が歓び踊り出すほどのすばらしい味だった。
 つまり、失敗の原因は鍋そのもの――味ではない。それは明白だ。では何がいけなかったのか。――それは“熱”だ。

「……あれ、菖蒲さんは食べないの?」
 いざ鍋を囲み、それぞれ箸を伸ばし始めた矢先のことだった。
「ああ、いえ……わたくしのことはお気になさらないでくださいまし」
 真央と仲良くなる為の親睦会――従者としての分を守る為か、普段はよほど勧めない限りは食事を共にしない菖蒲だが、今日この時ばかりは共にテーブルにつき、小皿と箸を手にしている――が、その皿に春菊と春雨、豆腐を載せたまま菖蒲はなかなか口に運ぼうとしないのだ。
「その……恥ずかしながら……わたくしは猫舌なのでございます」
「猫舌……」
 側頭部を撞木でがつんとやられた気分だった。
(しまった! なんでそのことに気がつかなかった……!)
 仲良くなるには鍋が一番――そのことにばかり気を取られて、菖蒲が熱い料理が苦手だということをすっかり失念してしまっていたのだ。
(そういや、菖蒲さんはいつも冷ましてから食べてたじゃないか! バカか俺は!)
 親睦を深めるための鍋。しかし、参加者の一人がその鍋をまともに食べられないのでは盛り上がりに欠けるのは必然というものだ。
 そう、確かにこのことも失敗の一因ではあるかもしれない。しかし、それだけではないのも明白だった。
 月彦はちらりと脇を――菖蒲と鍋を挟む形で座っている真央の方へと目をやる。猫ではなく狐だからなのか、それとも人間の血が半分入っているからなのか、菖蒲のように猫舌だから冷まさないと食べられないということはないらしいく、先ほどから一心不乱に食べ続けてはいる。が、その様子を見るに鍋の味が気に入って食べているのではなく、何かしら食べ続けていれば相手も話しかけ辛いだろうということを見越して常に口に何かを入れているようにしか見えない。
「…………ま、真央…………美味いか?」
 ぴたりと、真央が蟹の足を剥く手を止める。
「うん、すごく美味しいよ、父さま」
「そ、そうか……良かった。じゃあ……俺も蟹を食べてみ――」
 真っ赤な蟹の足を手に取ろうと手を伸ばすよりも早くに、脇からそっと菖蒲が既に食べるだけにされた蟹の足を差し出してくる。
「どうぞ、月彦さま」
「あ、ありがとう……菖蒲さん」
 菖蒲から蟹の足を受け取り、かぶりつく。よく肥えた――という表現が、蟹に相応しいかはともかく――肉厚の身は噛み締めるとたっぷりと肉汁がしみ出してきて、真央が言うように大変美味だった。
「こちらもどうぞ。お口に入れやすい程度にまで冷ましておきました」
「や、そっちは菖蒲さんが食べるために小皿にとっておいたやつだし……」
「わたくしも半分頂きます。半分は月彦さまに」
「あ、ありがとう……」
 横目でチラチラ真央の様子を伺い、恐々としながら月彦は“はんぶんこ”を受け入れる。
 そう、やはり一番の原因は真央と仲直りをする為の鍋である筈なのに、当の菖蒲が真央を煽るようなことばかりするのが問題ではないだろうか。
「月彦さま、この椎茸も最高級のものを白耀さまが仕入れてくださったものです。肉厚で大変美味しゅうございます」
「ありがとう、菖蒲さん。でも、俺よりも真央に――」
「あっ、まだ口に入れるには熱うございますね」
 菖蒲は箸でつまんだ椎茸を口元によせるや、ふう、ふうと息をかけて冷まし、再度月彦のほうへと差し出してくる。
「さっ、月彦さま?」
「あ、うん……」
 やむなく口を開けて椎茸を受け取る。確かに肉厚でかつ、ダシをたっぷりと含んで美味いことこの上なかった。
「…………そ、そういえば、菖蒲さん……真央に何か言いたいことがあるって言ってなかったっけ?」
 このまま真央に“らぶらぶ新婚夫婦っぽいイチャイチャ”を見せつけるのはとても危険な気がして、月彦は強引に切り出した。
 あっ、と。漸くにして――というべきか。菖蒲が“本来の目的”を思い出したというような顔をする。
「真央さま、楽しんで頂けてますでしょうか?」
「………………うん」
 嘘でももう少し楽しそうな顔が出来そうなものだが、真央は蟹は親の敵とでも言うかのように両目を蟹の足に固定したまま、一心不乱に食べ続けている。
「…………わたくしに対しては、いろいろと思う所もあろうかと思います。全てを水に流して欲しいなどと、言える立場ではないことも重々承知しております。ですが、今日この日が、講和のきっかけとなることを願って止みません」
「ま、まぁ……確かにいろいろあったけど、菖蒲さんもこう言ってるし、うまい鍋まで用意してくれたんだしさ。許してやってくれ、って俺が言うのも変だけど……確かにいつまでもギスギスしてるのもアレだし、ちょっとずつでもいいから仲良くできないか?」
「うん。がんばる」
 とだけ言って、真央は蟹を食べ続けている。やれやれとため息をつきそうになって、辛くも飲み込む。
(………………いっそ、由梨ちゃんの時みたいに菖蒲さんを交えて三人でヤれば………………いや、ありえないな)
 病的とも言える己の発想にうんざりしながら、月彦もまた娘に倣って蟹の身をもしゃもしゃと平らげるのだった。


 カニ鍋は美味く、シメのカニ雑炊がまた絶品だった。あまりの旨さに持ち帰って葛葉にも食べてもらおうかとも思ったが、そんなに時間が経ってはこの旨さは持続されないだろうと、泣く泣く断念した。
「ご堪能頂けてなによりでございます。…………実はもう一品だけ、とっておきを用意させて頂いております。少々お待ち下さいまし」
「えっ……そんな、菖蒲さんさすがにもう十分だって」
 しかし菖蒲はてきぱきと土鍋、コンロ、皿を片付け、テーブルの上を丁寧に拭いて台所へと行ってしまう。そして五分後、今度は特大のサンデー・グラスに盛られた見事なプリン・ア・ラ・モードを盆に載せて戻って来た。
「うおっ……何それ菖蒲さん! すっげぇ……プリンっていうか、殆どパフェみたいになってるじゃないか!」
「お鍋の方は、ほとんど白耀さまが材料を揃えて下さったものですので……真央さまの為にわたくしも何か一品添えさせていただければと、作らせて頂きました。どうぞ、ご賞味下さいまし」
「おーっ! 良かったな真央、めちゃくちゃ美味そうじゃないか! あとで一口だけ俺にも」
「いらない」
 月彦が喋り終える前に、真央は一刀両断に切り捨てた。
「蟹でお腹いっぱいになっちゃったから、私いらない」
「そ…………そう言わずにさ、真央? 折角菖蒲さんが作ってくれたんだし……」
「デザートがあるって知らなかったから、本当にお腹いっぱいになるまで食べちゃったの」
 真央の声には、少なくとも悪意というものは含まれてはいないように聞こえた。お腹いっぱいというのも、恐らくは真実なのだろう。
 しかし――。
「ぁ…………さ、左様でございますね…………わたくしの落ち度でございます……予め、デザートもあるとお伝えてしておくべきでした」
「やっ……でも…………ほらっ、菖蒲さんは真央をびっくりさせようと思ったんだろうし…………ま、真央……少しだけでも食べられないか? 少しなら入るだろ?」
 二人の間であわわあわわしながら、月彦はそっと真央に耳打ちをする。
 ――が。
「ごめんね、父さま。でも、本当に無理なの」
「そ、そうか……」
 いっそ、“ちゃんと食べたら後でごほうび”と耳打ちしようかと思って、結局出来なかった。何となく“そういうノリ”はこの場には相応しくないように思えたからだ。
「あっ……と、じゃ、じゃあ……菖蒲さん、それなんとかしてお土産に出来ないかな? デザートだし、冷蔵庫で冷やしておけば明日の朝とかなら食べられるだろうし」
「………………はい。畏まりました」
 しゅんと。菖蒲ははっきりと見て取れるほどに肩を落とし、そのままとぼとぼと台所へと戻っていく。踵を返すその瞬間、その頬に一筋の涙が光ったように見えたのは、果たして気のせいだろうか。
(………………菖蒲、さん……)
 キュンと、胸の奥が痛いほどに疼く。白耀に対する罪悪感とは違うその痛みを、月彦はいつまでも忘れることが出来なかった。


 食事の後は気を取り直して軽く雑談に興じてみたが、やはりというべきか。盛り上がることはなかった。会話をキャッチボールに例えるならば、月彦が投げて菖蒲が受けて投げ返したボールを真央がナイスキャッチするも投げ返してこない、一時が万事そのような感じなのだ。
 これはもう今日は諦めたほうが良さそうだと、月彦は八時過ぎには菖蒲の部屋を後にし、真央と共に帰路についた。父親として、今日の態度はちょっと問題があるぞと叱るべきなのか、気の進まないことに無理に付き合わせて悪かったと謝るべきなのか悩ましいところだった。
「…………………………とうさま、あのね」
 帰宅途中、ずっと黙り込んでいた真央がとうとう堪えかねたかのように唇を開いたのは、もう自宅の灯りが見えるほどに近づいてからだった。
「うん?」
「騙されないでね?」
「騙される……?」
 うんと、真央は頷く。
「あの人はね、ああやって父さまの気を引こうとしてるだけだから」
「あぁ」
 真央の言わんとすることを瞬時に理解して、月彦は笑顔を零す。
「なるほど、そういう勘違いをしてたのか。真央、菖蒲さんはそういう人じゃないんだぞ? 今日のことだって、白耀とくっつくにあたって真央とのことが気がかりだったってだけなんだからな」
 いくら真央が聡いとはいえ、数度にもわたる菖蒲との“あやまち”や、菖蒲の心の微妙な揺れ具合などまでは分からないだろう。その疑念はただの杞憂でに過ぎないということを分からせる為にも、月彦は菖蒲の肩を持った。
「………………うん、わかった」
 とは言ったものの、どう見ても真央の顔は納得とはほど遠いものだった。
(うーん…………色々難しいなぁ……)
 或いは、連れ子が継母に懐かなくて困っている男の気持ちというのは、こんな感じなのだろうか――そんなことを考えているうちに、程なく自宅へと到着した。


 まさしく目も眩むような忙しさだった。得意先の予約が重なった上に普段ならば主力級の働きをする筈の菖蒲が休みをとった為、そのしわ寄せはアルバイトに過ぎない由梨子にまで降りかかってきたのだ。
 普段ならば未成年で――しかも学校に通っている――由梨子に遅くまで働かせられないと、どんなに忙しくとも八時前には半ば強制的に帰らされるのに、この日ばかりは請われる形で十一時過ぎまで残業をする羽目になってしまった。
 もちろん、由梨子としては世話になっている白耀の窮地でもあるし、火が出るような忙しさの中で自分も一助となれていることが嬉しくもあった。普段はほとんど接客――まがいだと、由梨子は自覚している――しかやらせてもらえないが、今日ばかりはどうしても人手が足りず、簡単な調理や盛りつけの手伝いなど、普段出来ない仕事をさせてもらえたことも嬉しかった。
「本当に申し訳ない。帰りはきちんと家まで遅らせますから」
 顔を合わせる度に白耀は心底済まなそうに頭を下げ、そう繰り返した。残業など苦ではない、むしろ力になれることが嬉しいと由梨子が言っても、耳には届いてないらしいのがもどかしかった。
(……確かに大変で、すごく疲れた……けど…………)
 心地よい疲れとでも言うべきか。失った体力と同等以上の充実感を得られたことが、由梨子には嬉しかった。
(…………それに……白耀さん、すごく格好良かった)
 仕事ぶりが輝いている、というべきか。お得意様の応対から、調理の指図。また時には自らが包丁を握り、吸い物の味見をし――と、その活躍ぶりはまさに八面六臂。きらきらと宝石のように輝く汗に見とれて、つい仕事の手を止めてしまい、他の従業員の怒号のような声に我に返る――そんな事が一度ならずあった。
(…………私には、先輩が居る、のに)
 簡単に他の男に目移りしてしまうのは、“あの母親の血”が自分にも入っているからなのだろうか。そんな自分を嫌悪する反面、相手が白耀なら好意を抱くのも仕方が無いと納得しかけているのも事実だった。
(それに……先輩には、真央さんが……)
 どんなに想っても、一番にはなれない。それならいっそ――そこまで考えて、由梨子は首を振る。“二番でも良いから”と迷惑がる月彦に側に居させて欲しいと無理矢理ねだったのは自分ではないか。ここで白耀に乗り換えるなんて、それこそ尻軽女の所業だ。
(…………それに、白耀さんにも……保科さんが……)
 ひょっとしたら、自分は月彦に惚れているわけではなく。ましてや白耀に惚れているわけでもなく。ただ単に横恋慕が好きなだけの性根の腐った女なのでは――そんな自虐じみた考えに浸ってしまうのは、やはり心身共に疲れ切っている証拠だろうか。
(…………着替えて、帰らなきゃ)
 既に従業員の大半が着替えを済ませ、帰ってしまっている。由梨子もまた着替えようと従業員用の更衣室に移動する途中で――
「ああ、由梨子さん。良かった、捜してたんです」
「は、白耀さん!? ぁ…………お、お疲れ様、です」
「由梨子さんも、お疲れ様です。今日は本当に申し訳ありませんでした。どうしても手が足りずに、こんな時間まで付き合わせてしまって……おかげでとても助かりました。今日、無事に乗り切れたのは由梨子さんのおかげです」
「そんな……白耀さん…………」
 お世辞にも程がある――それは由梨子自身が一番よく分かっていた。しかし、世辞もここまで真摯に、心をこめて言えれば世辞に聞こえないから困ったものだった。
(ダメ……白耀さんと話をしてるだけで…………)
 ドキドキと胸が高鳴り、頬が熱くなる――自然と、由梨子は白耀の顔をまともに見れず、俯いてしまう。
「お疲れでしょう、すぐに車を呼んで送らせますから。ああ、それと良かったらこれを――」
 白耀が風呂敷に包まれた重箱を差し出してくる。
「残り物で恐縮ですが、良かったら召し上がってください。いくつかは由梨子さんのお口に合う様、僕が手直しをしておきましたからきっと気に入って頂ける筈です」
「ぁっ……ぁっ……あっ、ありがっ…………とう、ございます…………」
 赤くなった顔を白耀に見られているという羞恥が、顔をますます赤く染めるという悪循環。もはや由梨子自身どうすることも出来ず、ただただ重箱を両手で抱えたまま立ち尽くすことしか出来ない。
「……由梨子さん、大丈夫ですか?」
「ひぃあっ!?」
 ハッと気がつくと、膝を突いた白耀にうつむき加減だった顔を覗き込まれていて、由梨子はつい変な悲鳴と共に飛び退ってしまった。
「だ、だいじょう、ぶ、です! 一人、で、帰れます、から!」
「いえ、万が一があっては大変です。責任をもって遅らせて頂きます。…………誰か!」
 白耀が手を叩き、声を上げるやたちまち着替えを済ませた従業員が足早に駆け寄ってきた。すぐにタクシーが呼ばれ、従業員随伴の元――由梨子一人でタクシーに乗せなかったのは、もちろん“万が一”を警戒してのことだろうと思われる――由梨子はアパートへと送られることになった。
 随伴した従業員からも、タクシーの中で一言二言今日は助かったという旨の言葉をかけられたが、由梨子はといえば完全に上の空だった。頭の中は調理場を指揮する白耀の姿が、艶やかにすら見える手つきで丁寧に包丁細工を凝らす白耀の姿が、そして自身も疲労の極みにあるであろうに、底抜けに優しい笑みを浮かべる白耀の姿が。それぞれ嫋やかに描かれた一枚絵のような荘厳さで、由梨子の頭を、心を満たしていたのだ。
 程なくタクシーがアパートの前へと到着し、由梨子は上の空のまま両手に重箱をかかえて降り、ふらふらと自分の部屋の前まで移動し、無意識的に部屋の中へと入った。靴を脱ぎ、殆ど尻餅をつくようにベッドへと腰を下ろした。
 留守にしていた室内は、本来ならばしんしんと冷え切っている筈だった。いつもならば帰るなり真っ先に暖房のスイッチを入れるのだが、今日に限ってはその必要性をまったく感じなかった。
(…………体の奥が、熱い……)
 こうして両手で重箱を抱きしめているだけで、まるで愛しい人に触れられている時のように、全身が幸せな気分に包まれる。こと、ここに至ってはもう、由梨子は認めざるを得なかった。
(………………私、白耀さんのこと……好きになっちゃってる……)
 それは、かつて味わったことがない程に――苦い、恋の味だった。


 月曜日の朝を笑顔で迎えられるかどうかは、週末の過ごし方にかかっている。実際に笑顔で月曜日の朝を迎え、愛娘と共に並んで登校しながら、月彦はそんなことを考えていた。
 金曜、菖蒲の部屋を後にした時は或いはこのまま真央が拗ねてしまうのではないかと危惧したものだが、それは杞憂に終わった。否、実際真央の内心は穏やかではなかった様なのだが、菖蒲の部屋で散々に抑圧されたそれらが爆発した結果が”思い切り甘える”というものであったのが月彦には嬉しかったのだ。
 金曜日の“夜”が普段の三割増しで激しく、また真央が積極的になったのを皮切りに、「父さまは私のモノなの!」とばかりに土日の間中始終まとわりついてくる真央がもう可愛くて堪らず、むしろ月彦の方が可愛いという気持ちを抑えきれなくてやれ洗面所で、葛葉の留守中に居間でと真央を襲いまくってしまった程だ。
 そんなこんなで、結局土日はどこにも出掛けず、始終家の中でイチャイチャ&セックスを際限なく続けてしまったのだが、そんな休日の過ごし方も幸せの形の一つだと月彦は思うのだ。
 そう、こんなに充実した気分で月曜日を迎えるのは久しぶり――否、初めてかもしれなかった。真央と別れて自分の教室に行き、HRが始まり授業が始まっても、頭の中を巡るのは真央とのイチャイチャの記憶ばかり。真っ昼間から居間のソファの上でじゃれ合うようにキスを交わし、服の上から真央の胸元に触れながらさらにキス。擽ったそうに声を上げる真央の髪を撫で頬を撫で、狐耳を撫で尻尾を撫でながら、キス。次第に息を弾ませて喘ぎ出した真央が我慢しきれずにセーターを自らまくし上げ、「ここも触って」とばかりに母譲りの巨乳を露わにしてきたところで突然葛葉が買い物から戻って来て。二人、慌ててソファに座り直したり。
 それこそ休日中のべつ幕無し互いの体へと手を伸ばし続けたというのに、飽きるどころかますます物足りなく感じるのは何故なのか。今日も帰ったらすぐにでも真央の体を味わいたいと――ピンク色の妄想に耽っていた月彦の脳裏を。
「…………っ……!」
 突然、一筋の雷光が貫いた。ぎゅうと見えない手で心臓を鷲づかみにされるような苦しさを伴うそれは、あのときの。菖蒲の頬に微かに見えた涙の輝きだった。
 ピンク色の肉欲に染まっていた脳が、忽ち冷めていくのを感じる。ひょっとしたら、あの時に見た涙のことを無意識に忘れようとした結果、いつも以上に娘の体に耽溺していたのではないかとすら思える程に、寂しそうな菖蒲の横顔が、その後ろ姿が、瞬く間に月彦の心を支配する。
(………………菖蒲、さん)
 胸の奥が、さらに苦しくなる。菖蒲に対して、月彦は常にそういった苦しさと隣り合わせであったと言える。それはひとえに親友に対する申し訳なさに一因し、その耐えがたい苦痛から逃げる為にも、菖蒲のことを月彦は避け続けた。
 しかし、今感じている“これ”は、“その苦しさ”とは明らかに違う。その差異に、月彦は戸惑っていた。
(……そう、だな。やっぱり、金曜日のこと……一言くらい謝りに行ったほうが……いい、かもしれないな)
 何度も、何度も脳裏にフラッシュバックする菖蒲の悲しそうな横顔に、うずうずと体の奥底から沸き立つものを感じる。それは強迫観念にも近い衝動となって、月彦の心身を支配していく。
(………………今日の帰り、菖蒲さんの部屋に……行ってみるか)
 一言、謝りに行くだけ。それならば人としてなんら間違ってもいなければ、裏切りでもなんでもない。
 父さま、騙されないでね――同時に脳裏に蘇った愛娘の言葉はしかし、雷鳴のように強烈なフラッシュバックにかき消され、月彦の意識に知覚されることは無かった。



「……ちゃん、ねえ、由梨ちゃん!」
「えっ……はい! 何ですか? 真央さん」
 ハッと我に返った由梨子は、慌てて笑顔を取り繕い、真央へと向き直る。
「今日はどうしたの? 具合でも悪いの?」
「そんなことは……」
 ない、と言いかけて、由梨子は気づく。既に昼休みも終わりに近づいているというのに、まだ8割ほども残っている自分の弁当箱の中身と、既に食べ終わり弁当箱を包み終わっている真央の姿に。
「………………すみません。ちょっと、食欲がなくて」
「……本当に大丈夫?」
 しまった、言葉を選ぶべきだったと、由梨子は己の失言に遅まきな柄に気がついた。かつて拒食症で入院してしまった手前、食欲がない等と言えば、周りの方が過剰に反応してしまうに決まっているからだ。
「あっ、違うんです……その、食欲がないのは、朝ご飯を食べ過ぎちゃったからで………………」
 もう、昼休み中に弁当を食べ終わるのは無理――そう判断して、由梨子は蓋をしてしまう。尚も不審そうな目を向けてくる真央の目線からつい、顔を背けてしまったのは、やはり“後ろめたさ”があるからだ。
(…………ダメ、どうしても……真央さんを見ていると……白耀さんのことを思い出しちゃう)
 かああと、頬が熱くなるのを感じる。血の近さでいえば、真央と白耀よりも月彦の方が近いのだから、真央を見て月彦のことを思い出してもいい筈なのにと思うが、どういうわけかそうはならないのが困ったものだった。――否、どういうわけか、ではなく、由梨子は既にその理由を察していた。真央と月彦は――中身はともかく――少なくとも外見上は、親子とすぐに分かるほどには似ていないのだ。逆に、真央と真狐ははっきり娘と母と分かるほどに似ていて、白耀も真央ほどではないにしろ、やはり真狐の面影が在る。だからどうしても連想されてしまうのだ。
(………………っっっ…………今朝、あんな夢を見ちゃった、から…………)
 今朝方見た夢のことを思い出すだけで、由梨子は赤面し、同時に叫び出したくなるほどの羞恥にかられる。夢は所詮夢と割切るには、あまりに独善的なその内容に、目覚めた直後などは嗚咽のような声を出しながらしばらく身動きがとれなかった程だ。
 夢の中で、由梨子は白耀に抱かれていた。それは文字通り“ただ抱きしめられているだけ”の夢であったが、目覚めた後ですら白耀に抱きしめられていた感触がはっきりと思い出せるほどに確かな夢だった。
(それに、もう少し、で……)
 夢の中で抱きしめられたまま、由梨子は潤んだ目で白耀を見上げ、いつも浮かべているあの笑みを。身も心もとろけてしまいそうなほどに、底抜けに優しい笑みを浮かべた白耀と互いに視線を交わらせ、そのまま見えない糸に引かれ合うように唇をかさねようとして――その瞬間、由梨子はハッと目を覚ましたのだ。目覚めた直後、もう少しだったのにと落胆する気持ちがゼロではなかったことが、さらなる自己嫌悪を呼んだのは言うまでもない。
(私……先輩のことが好きなのに…………好きな筈、なのに)
 どうして――何度そう思ったことか。月彦に対して不満があるわけでもないのに。……もちろん、細かなことまで言うならば、まったくのゼロではないが、どれもこれも些細なものだ。嫌いになる程のことではない。
(…………それに、白耀さんは保科さんの事が好きなんだから…………)
 異性の目から見て、白耀が十分過ぎる魅力的であることは間違い無い。ある程度の好意を出してしまうのは仕方がないことなのだ――だから、それ自体は月彦に対する裏切りではない。
(でも……夢にまで見ちゃう、なんて……)
 そこまで“想ってしまう”のは、裏切りではないのか。今朝はただ抱きしめられているだけの夢だったが、今夜には或いは本当に抱かれるかもしれない。そうなったとき、自分は果たしてどんな顔で月彦に会えばいいのだろうか――。
「由梨ちゃん、もし悩んでることがあるなら……」
 真央の言葉で、由梨子は再び現実へと意識を引き戻される。“悩み”が顔に出ていたのだろう。慌てて笑顔で取り繕う――が、真央の顔には以前“心配”が滲んだままだった。
「……大丈夫です。本当になんでもないですから」
 親友(以上になる場合もある)の真央相手でも、さすがにこの“悩み”だけは相談できない。できるわけがない。
(…………私……どうしたら…………)
 聞き慣れた昼休みの終了を告げるチャイムの音が、今日に限っては自分の尻の軽さをあざ笑っているように、由梨子には聞こえた。


 


 学校が終わり、微かな後ろめたさを感じながらも菖蒲のマンションを訪ねた月彦だったが、生憎と菖蒲は留守だった。
「あれ…………仕事、かな」
 何となく、菖蒲の仕事は夕方から夜遅くまで――というシフトが主だと思い込んでいただけに、尋ねて留守というケースは全く想定していなかったのだ。
「仕方ない。また明日出直すか……」
 代わりにメモでも挟んでおこうかと鞄を開けかけて、ふと手が止まる。
(………………謝りたいから、明日家に居てくれ、ってのも、変な話だな)
 むしろ、お前は本当に謝る気があるのかと相手を怒らせてしまうのではないだろうか。もちろん菖蒲がそんなことを言う筈が無いし、思うはずも無いとは思うのだが、やはり人として――というより、親として。娘が失礼をしてすみませんと謝りに来た以上、誠意を見せるのが筋ではないだろうか。
(……そうだな、うん。誠意は大事だ。きちんと菖蒲さんが帰ってくるまで待ってよう)
 それでこそ、誠意の証拠ではないか。幸い今日は是が非でも早くに帰らねばならないというわけではない。多少の暇はもてあますが、それも仕方が無い事だと割切って、月彦は菖蒲の帰宅を待ち続けることに決めた。
 途中、何度か他の住人らと遭遇し、不審そうな目を向けられたにもかかわらずいつかのように通報には至らなかったのは制服姿だからではないかと、月彦は暇すぎる時間の中で考察した。恐らくは“家の鍵を持って出るのを忘れてしまって、家族の帰宅待ちになってしまったバカな学生”くらいに思われたのではないだろうか。
(………………そろそろ7時、か)
 ひょっとしたら寝ていてインターホンに気づかなかっただけで、部屋の中に居るのではないか――そんな淡い期待から時折インターホンを押してみるも、やはり反応がない。
 日が落ち、寒さも次第に厳しくなる。八時が過ぎ、九時が過ぎて、空きっ腹がますます寒さを耐えがたいものに感じさせる。
(…………やっぱり、出直そうかな)
 そう思い、何度か部屋の前から歩き出すも、その都度まるで戒めのように、菖蒲の寂しげな後ろ姿と、今にも泣き出しそうな横顔がフラッシュバックし、足が止まってしまう。
(考えてみりゃ、別に部屋の前で待ち続けなくても、留守って分かった時点で一度白耀の所までいけば良かったんだよな。別にやましい用事ってわけじゃないんだし……)
 10時を過ぎる頃になって、今更ながらにそんなことを考えて今度は自分の頭の鈍さに嫌気がさす。きっと霧亜であれば、この程度のこと下校する前に考慮してむしろ先に白耀の屋敷に行くことで手間と時間を省略したに違いない――。
 さらに11時が過ぎ、さすがにそろそろ帰らないと葛葉も真央も心配するだろうからどうしたものかと悩んでいた時だった。暇をもてあまし必要以上に鋭敏になっていた月彦の感覚器官が“足音無く階段を上ってくる何者か”の気配を察知した。
「えっ……」
 顔を合わせるなり、声を漏らしたのは菖蒲の方だった。いつものメイド服ではなく、まるで冥界からの使者のような黒のロングコートに身を包んだ菖蒲は、自分の部屋の前に立つ男の姿に心底驚き、絶句し立ち止まっていた。
「……やっ、菖蒲さん」
 さんざんに待たされた為か。目を丸くして立ち尽くしている菖蒲の顔がいつになく可愛いくすら思える。ハッと、我に返った菖蒲が、慌てて部屋の前まで駆け寄って来る。
「い、いつからそこにいらっしゃったのですか?」
「ええと……正直に言うと、学校が終わってから、ずっと……かな」
「そんな……」
 再び、絶句。そして菖蒲は即座に鍵を取り出して、ドアを開けた。
「とにかく、中に入ってくださいまし。すぐに何か暖かいものをを用意致します」



「ふーっ…………ありがとう、菖蒲さん。やっとひとごこちついたよ」
「満足して頂けたようでなによりでございます」
 菖蒲はてきぱきと、たったいま月彦が平らげた軽食の皿とコーヒーカップを重ね、キッチンへと運んでいく。本来ならば、洗い物くらい自分でやると言いたい所だが、菖蒲相手にそれを申し出ても絶対に了承してもらえないと悟っている為、月彦はあえて動かずに菖蒲が洗い物を終えて戻ってくるのを待った。
「…………あの、それで……月彦さま」
 数分後、どこかソワソワとした物腰で菖蒲が居間へと戻ってくる。こういうとき、人外勢が可愛そうだなと思うのは、仮に本人がどれだけ平生を装っていても尻尾の動きで容易に察することが出来てしまうからだ。
「今日は、その……一体どういったご用件で…………」
「あー……うん、大した用事じゃないんだけど」
 ソワソワ。
 ソワソワ。
 忙しなく蠢く猫尻尾を見ているだけで、菖蒲がどういった答えを期待しているのか手に取るように分かる。
(うわぁ……なんか菖蒲さんめちゃくちゃ期待しちゃってるな……これ、ひょっとして逆効果になるんじゃ……)
 てっきり、“金曜日のこと”を気にして菖蒲はヘコんでいるのではと思っていた。しかし菖蒲の様子を見るに、むしろこれだけ期待をさせておいて「実は謝りに来たんだ」と伝える方が、ショックを受けてしまうのではないだろうか。
(…………菖蒲さんの“期待”って……やっぱり“アレ”……だよなぁ……)
 まさかこの後に及んで、頭を撫でてもらいたいだの、猫缶が欲しいだのでここまで期待されるわけはない。何となく、菖蒲の態度から望まれているものを察して、月彦はなんとも苦い汁が口の中に満ちるのを感じる。
(“お前を抱きに来た”って……そう言えたら、いいんだけど……)
 期待に胸を膨らませ、いつも通りの鉄面皮従者を装おうとしているのに、尾の動きまでは抑えきれずにソワソワしっぱなしの菖蒲が、なんとも可愛く見えて仕方ない。叶うことなら、このまま菖蒲の願いに答えてやりたいとは思うが、さすがにそれだけは出来ない。
「…………ええと……変な期待をさせちゃってたらごめん。俺はその……金曜日、真央の態度がちょっと良くなかったって、謝りにきただけなんだ」
 へなへな、しゅーん。
 まさにそんな感じで、ザワついていた猫しっぽが萎れて、ぺたりと絨毯の上に横たわる。
「……左様で、ございますか。それは……本当に…………わざわざお越し頂いて………………わたくしのほうこそ…………真央さまに良く思って頂こうと先走るあまり、空回りをしてしまう形になってしまって…………申し訳なく思っておりました」
 ずずーんと、耳にしているだけで気分が落ち込んでくるような、なんとも無機質で機械的な発音だった。
「いや、菖蒲さんは悪くないよ。じゃあ真央が悪いのかっていうと……その、親ばかって思われるかもしれないけど……真央はあれでいいっていうとアレなんだけど……ええと……ごめん、巧く言えないけど……とにかく、俺が言いたいのは真央と巧くいかなくても落ち込まないで欲しいってことなんだ」
「……はい」
 しゅーんと猫耳を萎れさせたままの、見事な返事。まさしく、月彦が危惧した通りの結果だった。
(…………俺って、いつもこうだ。よかれと思って…………逆効果……)
 むしろ月彦の方が肩を落としたい気分だった。由梨子の肉まん事件然り、今回然り。こういう結果になると分かっていればわざわざ寒い中何時間も待ちぼうけを食ってわざわざ菖蒲を落胆させるなどという愚行を犯さずに済んだのだが、それを事前察知できない我が身がもどかしかった。
「………………その、このことは胸にしまっておこうと思っていたのですが……」
 ぼそりと、菖蒲が聞き取れるかどうか危ういほどの小声で語り出した。
「実は、真央さまとの関係修復を試みたのは、今回が初めてではないのです」
「えっ……そう、なの?」
 はいと、菖蒲は頷きながら小さく答える。
「以前にも手作りした菓子を持参して月彦さまのお宅を訪ねたことがございまして――」
 ぽつりぽつりと、菖蒲は語る。なんとか真央との関係を修繕したくて、真央が好きだと聞いたチョコレートをふんだんに使ったケーキを自作し、持っていったのだと。
「あの……月彦さまはその件について、真央さまから何か……?」
「…………いや、俺は何も聞いてない」
 首を振った後で、あっ――と。月彦の脳裏に“ある光景”がフラッシュバックした。
(待てよ……チョコレートケーキといえば…………いつだったか“アイツ”が……)
 あれは、しほりと初めて会ったばかりの頃だっただろうか。自室に戻ってくると、憎たらしいことこの上ないあの女がむしゃむしゃと手づかみで“捨てられていたケーキ”を食べていたことがあったではないか。
(…………いや、あのケーキが菖蒲さんが持って来たものだって決まったわけじゃない、けど…………)
 虚無色の目のまま、無表情に菖蒲のケーキを処分する真央の姿を想像して、月彦は俄に震え上がった。もしそうだとしたら、菖蒲と真央の間の確執は自分が思っているよりも遙かに深いものなのではないか。
「…………月彦さまに手伝って頂ければ、今回こそ或いはと……ですが、どうやらわたくしが考えていた以上に、真央さまはわたくしのことがお嫌いなのでございますね」
「いや……そんなことは…………」
 ない、とは言い切れず、月彦は言葉を濁すしかなかった。
「……………………わたくしは、いつもそうなのです。桜舜院さまの元を追われたときも…………桜舜院さまご本人は、ずいぶんと庇って下さったのでございますが…………やはり、他の方々に疎まれてしまって…………」
「菖蒲、さん……」
「………………詮無い話をお聞かせしてしまいました。どうか、忘れてくださいまし」
「ああ、いや……うん…………なんていったらいいか……」
 テーブルの向こう。正座したまま今にも泣き出しそうな程に張り詰めている菖蒲の姿に、月彦は完全に狼狽しきっていた。
「…………確かに、菖蒲さんってちょっととっつきにくい所があるっていうか、俺も第一印象はすごく気むずかしい人だって思ったし、そういう意味では他の人よりも損をしてるとは思うけど……だけどその分、本当はすごく優しい人だって分かれば、むしろ普通の人より好感を持ちやすいっていうメリットもあると思うんだ」
「…………。」
「な、なんて言ったらいいのかな……大器晩成型――っていうのとはまた違うか。えーと……ごめん、うまく言えないけど…………と、とにかく俺は菖蒲さんの事はそんなに嫌いじゃないよ!」
「…………………………………………“そんなに”でございますか」
「ああ、いや! す、好き、だよ! うん! ただそれはほら、ええと……男女の仲的な意味で好きってことじゃなくって、どっちかっていうと友達として好きって意味で……」
「………………友達…………………………………………」
 とうとう菖蒲は目尻いっぱいに溜めた涙をほろり、ほろりと零し始めてしまい、月彦は慌てて膝立ちになり、菖蒲の側へと身を寄せる。
「あああっ、と、友達じゃなくって…………菖蒲さんのことは…………ええと、メイドさんってことですっごく気に入ってる! ぶっちゃけ白耀とのことが無かったら絶対口説いてる! む、むしろ無理矢理にでも俺のモノにしたいくらい好きだよ!」
 ある意味では、雪乃より面倒くさいかもしれない――そうは思いながらも、目の前で泣かれるくらいならと。月彦は心にもないこと――でもないが――を次から次へと並べ立て、なんとか菖蒲を宥めようと試みる。
「………………………………。」
 なら、言葉では無く行動で示して欲しい――菖蒲にそう切り替えされるのが怖くて、月彦は恐々としながら次の言葉を待った。しかし菖蒲は、両手で顔を覆いよよよと今にもすすり泣きを始めんばかりの空気を保ったまま――しかしその実、月彦の必死の“説得”が効いたのか、絨毯に寝かせた尾の先っちょだけをぴょこぴょこさせて鈴の音をちりちり響かせていた。
「………………ありがとうございます。月彦さまのそのお言葉だけでわたくしは満足でございます。例え側に置いて頂けなくとも、年に1,2度しか愛でていただけなくとも、わたくしの心は月彦さまだけのモノでございます」
「ううぅ……いや、だから……」
 “そういうところ”が嫌われる要因なんじゃないのかなーと、喉まで出かかるが、口には出来なかった。
「……と、とにかく! 真央とのことは長期戦で考えていくしかないと思うな! むしろもう真央のことは気にせず、さっさと白耀とくっついちゃうのが一番だと思うよ!」
 ぴくりと、両手で顔を覆ったままの菖蒲が尾の動きを止め、そのままそっと両手を膝の上へと戻した。
「…………それは、ご命令でございますか?」
「えっ……?」
「その、以前のように……白耀さまとデートをしてくるように、というような……そういった意味のお言葉でございますか?」
「えっ、やっ……違うっ! そうじゃ、なくて…………」
 普通に白耀と恋仲になって、そのまま仲むつまじく暮らして欲しい――そう言えば、今度はそれ自体が“命令”と解釈される気がして、月彦は先ほどとは違った理由で言葉を飲み込まねばならなかった。
(えーと……どうすりゃいいんだ……)
 なにやら、“まずい流れ”であると感じる。恐らくは菖蒲の方も、意図的にそちらへと誘導をしているのではないか。
「月彦さま……」
 ぽう、と。菖蒲が微かに肌を上気させ、どこか虚ろな瞳で見上げてくる。明らかに熱を帯びたその視線には覚えがある。ハッと気がつくと、膝の上に置いていた右手に菖蒲の左手が重なっていて、月彦は慌てて振り払いながら菖蒲から距離を取る。
「ちょ、ちょっと菖蒲さん……!?」
「は、はい! あぁっ……いえ…………違うのでございます…………その…………!」
 菖蒲もまた、己の熱視線に気がついたのか、慌てて両手でぺちんと頬を叩く。
「先ほどから、なにやら体が…………こ、これはもしや…………ああいえ……その、なんと申し上げたら良いのか…………」
 見れば、菖蒲は微かに息を弾ませ、発汗もしているようだった。それでいて尾も忙しなくざわめき、猫耳も落ち着き無くぱふんぱふんと立ったり伏せたりを繰り返している。
「……その、大変申し上げにくいのでございますが………………たった今……“アレ”が始まってしまった様で……」
「アレ?」
 はい――菖蒲はかつて見た事が無いほどに赤面し、消え入りそうな声と共に頷く。
「あぁっ、アレって、ひょっとして――」
 いわゆる、“女の子の日”という奴かと、月彦が納得しかけた、その時だった。
「……はい。…………………………は、発情期、で…………ございます」
 菖蒲の答えに、月彦の精神は月の彼方まで吹っ飛ばされた。


「えっ……発情…………って、えぇええ!?」
…………っっっ……あの、月彦さま…………その、あまり……大きなお声でっっ…………
 どうやら、菖蒲の常識的には――あるいは、妖猫族の常識的には――発情期というものは、あまりおおっぴらにすることではないらしい。それもそうかと納得し、月彦はつい必要以上に声のボリュームを落としてしまった。
「…………いや、ていうかそれっていきなり始まっちゃうモノなの?」
「それは……時と場合によるとしか…………ンッ…………い、一応……周期がございまして…………わたくしの場合は、もう少し先の筈だったのでございますが…………ンくっ…………」
 喋りながらも、菖蒲は時折苦しげに、喘ぐように唾を飲み込む。
「つ、通常よりも早く始まってしまったのは…………その、恐らく月彦さまが側に居られるからではないかと……」
「お、俺のせい!?」
「…………その、わたくしの体が……月彦さまに愛でて頂いたことを覚えていて……月彦さまが帰られてしまう前にと…………その、発情を前倒しにしたのではないかと…………」
「い、や……そんなことを前倒しにされても困るんだけど…………」
「わ、わたくしも……困り、ます…………フゥ、フゥ……………………いつもは……始まるにしても、もう少し、緩やか、に…………………………いきなり、こんなッ…………ン…………」
 ギュッ。菖蒲はスカートの上から両手を太ももで挟み込むようにして、もじもじと体をくねらせる。
「だ、ダメだよ、菖蒲さん! 先に言っておくけど、俺は絶対にヤらないから!」
 発情期にヤれば、高確率で子を成してしまう――それは確認するまでもない自然の摂理だ。恋人同士というならともかく――学生という身分では、それもアウトだが――ましてや、“他人の女”を孕ませるなど、八つ裂きにされて死体を犬に食わされても仕方が無いほどの大罪だ。
「あっ……ッ……ンっ…………つ、月彦、さまぁ………………」
 じっとりと湿り気を帯びた――見られただけで、透明な粘液を塗りつけられているかのような――目で見られ、敏感に危機を察した月彦は、さらに距離をとるべく菖蒲の側から飛び退がろうとした。が、それよりも早く、右手を菖蒲にしっかりと掴まれ、逆に引き寄せられる。
「ちょっ……ダメだって、菖蒲さん!」
「月彦さまぁ…………どうか、どうか菖蒲を愛でてくださいまし…………どうか、月彦さまの子種を………………」
 そのままのしかかるように押し倒されかけて――或いは、このまま欲望のままにヤッてしまおうかと心が砕けそうになるのを、白耀への義理を必死に呼び起こして――すんでのところで菖蒲を突き飛ばし、その下から脱出する。
「ご、ごめん! 菖蒲さん! さすがに、それは……それだけは……!」
 月彦はそのまま菖蒲の部屋を脱出し、脱兎の如く自宅へと逃げ帰った。


 這々の体で自宅へと逃げ帰った月彦だが、実はその頭の中にはいくつかの選択肢があった。
 一つは、真央に事情を話し、菖蒲の為に“発情抑制剤”を用意させてそっと差し入れるべきではないかというものだ。ただし吟味の結果、これは危ういと月彦は却下した。もちろん事情を説明すれば、さすがの真央も“発情抑制剤(という名の発情促進剤)”なんてモノを用意したりはしないだろうが、素で調合を間違えてしまう可能性がゼロではないという考えに至ったのだ。
 結果、薬の差し入れは断念したが、かといって菖蒲をあのまま放置するというのも少々人情に欠ける配慮だと言わざるを得ない。ならばと、月彦の頭になんとも鬼畜じみた、黒い稲光の如き考えが閃いたのはその時だ。
(…………今、白耀を菖蒲さんの部屋に行かせれば、万事解決するんじゃないのか)
 かつての女体恐怖症の白耀ならばいざ知らず、今の白耀ならば。発情期を迎えてハァハァ状態の菖蒲を見れば容易く一線を越えてしまうのではないか。そしてそのまま、真央の兄らしい――さすが真狐の血だと言い換えてもいい――男気を発揮すれば、必ずや二人の関係は元鞘になるのではないか。
(いや、待て! なんで俺が菖蒲さんが発情状態なのかを知ってるんだって話になったら、説明が出来ないぞ!)
 或いは、その部分だけならばごまかすことが出来るかもしれない。が、問題は菖蒲の方だ。発情期に入り、半ば前後不覚、酩酊にも近いあの状態で、余計なことを口走ったりしないとは言い切れない。白耀に抱かれながら、“別の主人”に抱かれていると勘違いし、うっかり「月彦さま、いつものように子種をたっぷりと下さいまし」などといったことを口走らないとも限らないではないか。
(実際、“初めて”の時も俺と白耀を間違えて押し倒したんだし……あり得ないとは言い切れない……)
 確かに、成功すれば菖蒲に関する全ての憂いは消えてしまうだけに、非常に魅力的な賭けであると言わざるを得ない。それでいて、成功率も決して低くは無い――が、その代わり失敗すれば即、肉体的あるいは社会的死。失敗の確率が5%なのか1%なのかは分からないが、引いてしまったら確実に死が待っていると思えば、やはり軽々に踏み切ることは出来ない。
 結果、月彦はこの案も断念してしまった。ならばせめて、自分が直接赴かずに遠隔的に菖蒲の苦しみを和らげる方法はないだろうかと模索して――結局、その方法を思いつけないまま月彦は朝を迎えてしまったのだった。


 翌朝、なんとなくばつの悪い思いをしながらの登校。やはり発情を抑える薬だけでも手に入らないものか真央に尋ねようかとも思ったが、それにはやっぱり菖蒲の状態も説明しなければならないだろう。菖蒲を嫌っているらしい真央が菖蒲の為に骨を折るとも思えず、むしろどうしてそこまで世話をやくのかとジト目を向けられる可能性すらあるではないか。
(…………まぁ、もしかしたら菖蒲さんだって自前の薬を持ってるかもしれないし…………考えすぎないほうがいいかもしれないな)
 そう、考えてみればそれこそ100年単位で白耀におあずけを食らってきたのだ。当然何十回と発情期を迎えているだろう。対処法くらい用意していると考えるべきだ。
 とはいえ、やはり気がかりであることは変わりなく、かといって何が出来るというわけもなく。昼休みに図書室に行っては猫の発情期について調べたりして、自分の行為が何の役にも立たないことに気づいて密かに凹みつつ図書室を出たところで。
「あっ、由梨ちゃん!」
 図書室の前から伸びた廊下の突き当たりを横切る由梨子の姿を見つけて、月彦は軽く手を振った。
 ――が。
「……あれ?」
 一瞬、由梨子がこちらを見たと思ったのは気のせいだっただろうか。由梨子はそのまま廊下を横切って行ってしまい、月彦は慌てて後を追った。
「やっ、由梨ちゃん!」
 小走りに追いつき、ぽんと肩を叩くと、由梨子は驚いたように声を上げた。
「あっ……先輩……すみません、気がつきませんでした」
「ん? あぁ……べつに気にしてないよ」
 実際、昼休みの喧噪は大したものだ。気づかなかったとしても仕方がない。
「………………あの、何か用……ですか?」
「えっ……用……っていうか、最近あんまり喋ってなかったからさ」
 微笑を零す。が、何か釈然としないものを月彦は感じていた。由梨子の態度、ぎこちない笑み、言葉の端々に奇妙な違和感を覚えるのだ。
「そう……ですね。確かに……最近は、先輩とはあまり……」
「……由梨ちゃん、大丈夫? なんか随分元気ないみたいだけど……」
「そんなことは…………」
 苦笑混じりに言って、由梨子が視線を逸らす。――否、そもそも由梨子は一度たりとも月彦の方を見て喋ってはいなかった。まるで、意図的に視界から外そうとしているかのように。
(あれ……? 俺、何か由梨ちゃんを怒らせるようなことしたかな………………)
 ざわりと。事ここに至って漸く、月彦は危機感を覚えた。由梨子のこの様子はただ事ではない、なにかとんでもないことが起きているのではないか――。
「そ…………そーだ! 今度の土曜さ、よかったら一緒にどこか出掛けない?」
「えっ……今度の土曜日、ですか?」
 いつもならば、ぱっと笑顔を見せてくれる筈のやりとり――だが、今日この時に至っては、由梨子の顔は笑顔といよりもむしろ戸惑いや狼狽が色濃く出ていた。
「…………すみません、先輩。……土曜日は先約があって…………」
「えっ……そ――うなんだ。約束が入ってるなら、仕方ない、ね」
 ざわ……。
 正体不明の不安が、徐々に体積を増していくのを感じる。半ば弾かれるように、月彦は言葉を続けていた。
「じゃ、じゃあ……日曜ならどうかな?」
「日曜日……ですか。多分、大丈夫だと思います」
 多分――思わずそう呟いてしまいそうになるのを、辛くも口を閉じる。
「じゃあ、日曜日で……そうだな、久々に映画でも見に行こうか! 俺が誘ったから、チケット代も俺がもつよ! 何が観たいかは由梨ちゃんに任せるから、日曜までに決めておいてね!」
「……はい。わかりました」
 それが、今できる精一杯の笑顔――そうはっきりと分かる分なんとも痛々しい笑顔を浮かべる由梨子に、月彦はますます不安を掻き立てられる。
(……ヤバいな。こいつぁただ事じゃないぞ)
 拗ねているのとも、怒っているのとも違う。具合が悪いわけでもなさそうだ。ならば一体――危ぶむ月彦の耳に「あの!」と劈くような声が飛び込んでくる。
「先輩……私、先輩のこと……好きですから……!」
「えっ、ちょ……ゆ、由梨ちゃん!?」
 突然何を言い出すのかと、月彦は周囲を見回しながら狼狽する。幸い、辺りに人影はないようだが、仮に人が居たとしても構わない剣幕で、由梨子が続ける。
「土曜日、は……本当に用事があるんです……だから……!」
「わ、わかってるって! とにかく落ち着いて」
 由梨子を宥めようと伸ばした手が、痛いほどの勢いで弾かれる。
「あっ……」
 由梨子自身、そんな自分の反応に驚いているような、そんな目だった。
「……大丈夫、です。先輩……日曜日、楽しみにしてます、から」
「あっ……うん。俺も……楽しみにしてるよ」
 月彦に言えたのは、そんなありふれた相づちだけだった。



 後になって考えてみれば、多少強引にでも由梨子の部屋を訪ね、一体何で悩んでいるのかを問いただすべきだったのかもしれない。しかし実際には、気にはなりつつも月彦は行動らしい行動を起こさなかった。一つは、いくら心配とはいえ由梨子からはっきりと助けを求められたわけでもないのに、強引に“力になろうとする”というのが逆に迷惑になるのではないかという危惧だ。そしてもう一つは、どうせ日曜日には二人きりの時間がとれるのだから、そこではっきりと何が問題なのかを訊けばいいと判断してしまったことだった。さらに付け加えるならば、真央から伝え聞く由梨子の様子が、緊急を要するほど劇的なものではないというのも、油断――と言っていいのかどうかはわからないが――となったのかもしれない。
 とにもかくにも、月彦は由梨子の件については日曜日に対応すればいいものだと考えていて、土曜日はその準備に使う日くらいの認識でしかなかった。唐突に服を買いに行こうと思い立ったのも、たまたま真央と共にゴロ寝しながら見ていたテレビのCMに触発されたからだし、一緒に来るか?と誘った真央がただ服を買いに行くだけならと首を振ったのも、昨夜たっぷりと、文字通り腰が抜けて立てなくなるくらいに可愛がってやったからだろうと、軽く考えていた。
「じゃあ、行ってくる。2時間くらいで帰ると思う」
 気怠そうにしている真央に手を振り、月彦は一人家を出る。自転車に跨がり、春物セールのCMを流していたチェーン店へと向かった。
「うわ」
 と、思わず口に出してしまったのは、目当てのチェーン店ウニクロの混雑っぷりが予想を遙かに超えていたからだった。月彦の経験では服屋というものが混雑しているという状況は極めて希――というより初めての経験であり、それ故に行列に並ばねば店の中に入れないという状況はあまりにショッキングだった。
「……なんだこりゃ。まさか全員CMに釣られて来たのか?」
 確かにあのCMは魅力的ではあった。春物シャツが3つセットで2500円だの、靴下が同じく3足セットで480円だのと、重い腰を上げるには十分過ぎるインパクトであった。自身も安さに釣られて来ただけに「なんて浅ましい……」と顔を覆って伏せ泣くことも出来ず、月彦は渋々行列の最後尾に並んだ。
 が。
(…………でも、こんだけ並んでたら例え入れたとしてもろくな服残ってないんじゃなかろうか)
 ただでさえ、質より量というイメージの強いチェーン店。だからこそ安く、“そこそこの服が手軽に手に入る”という利点を恃みにしているという部分もあるのだが、質より量が売りの店なのにその量が無くなってしまうのでは、はたして行列に並んでまで買い物をする価値はあるのだろうか。
 否、と決断するのに、月彦は数分を要した。
(…………仕方ない。ちょっと遠いけど、デパートの中の服屋でもいってみるか)
 春物を買うのはまた今度でいいや――という発想には、不思議と至らなかった。それはひょっとしたら、無意識のうちに由梨子の心が自分から離れつつあるのではという不安があったからなのかもしれないが、もちろん無意識故に、月彦には自覚はなかった。


 人間万事塞翁が馬――そう言ったのは、はたして誰であっただろうか。手近な量販店が大混雑で、仕方なく自転車で片道一時間以上かけて向かったデパートの服屋では安くはないものの、値段の割りに気に入る服が多数手に入り、結果的に月彦は大満足だった。
「いやー、たまには違う店に来てみるもんだな」
 デパートのフードコートで昼食をとりながら、月彦はホクホク顔だった。
「俺一人で来たってのも大きかったな。真央と一緒だったら、多分ここまでは来なかっただろうし」
 一人だから自転車で出掛けたわけであるし、自転車であったから――駅から向かうには遠すぎる――デパートにも来たわけであり、量販店の混雑もさることながら、何か一つでも食い違っていたらこれらの洋服は手に入らなかったのだと。月彦は己の運の良さと判断の良さに満足していた。
(“流れ”って、やっぱりあるよな、うん。今日は良い流れが来ている……気がする!)
 いっそ宝くじでも買って帰ろうか――そんなことを考えながらホットドッグをかじっていた月彦の視界の端を、不意に何かが横切った。
「ん……?」
 フードコートは売り場の端に設置されてはいるが、売り場との仕切りは無いに等しい。だから、売り場を行き交う客達が視界に入るのは至極当然のことであり、それ自体は別に驚くようなことでも興味を引かれるようなことでもない。
 ただ、それが“知り合いに似た人物”であれば、話は別だ。
(あれ……今、チラッと見えたのは……ひょっとして……)
 視界の端を横切り、すぐに雑踏の中に消えたのが由梨子であったような気がして、月彦はしばし思考停止状態に陥った。が、すぐに復旧した。
(いや、由梨ちゃん土曜日は用事があるって言ってたし、ひょっとしたら買い物に来てるのかもしれないじゃないか)
 あれが本物の由梨子であったとしても、何の不思議も無いではないか。そう思い直して、月彦は大急ぎでホットドッグとジンジャエール、そしてポテトを口の中へと収めていく。
 そう、由梨子が居るのは、別にありえないことではないし、知り合いだからといって食事を強引に終わらせてまで後を追い、声をかけなければならないというものでもない。であるのに、月彦は大急ぎで食事を終えるや、油のついた指先を紙ナプキンで拭い、服屋のロゴ入りの紙袋を手に大急ぎで後を追ったのには勿論理由があった。
(いや、違う。きっと見間違いだ)
 視界の端をチラッと横切っただけであるし、何より一瞬の出来事だった。そんな一瞬で、正しい認識が出来るはずがない。だから、由梨子が“男連れ”であるように見えたのも、きっとただの見間違いに違いない。
 違いない――のだが、例えようのない不安に掻き立てられて、月彦は由梨子らしき影の後を追った。


「いえ、本当にもう……お礼なんて……私の方こそ白耀さんにはお世話になりっぱなしで……」
「そう仰らず、どうか気兼ね無く買い物をされて下さい。由梨子さんの折角の休日まで使わせてしまったんですから」
「でも……」
 白耀の厚意は嬉しい――が、いかがです?と勧められる服がどれもこれも目眩がするような値札をつけているのだから堪らない。
(私が……うっかり明日は先輩とのデートだって言っちゃったから……)
 菖蒲に贈る為のコート選びに付き合って欲しい――白耀に頼まれ、快く了承した由梨子だったが、個人的な都合で由梨子の時間を奪い続けているというのが、白耀にはかなり心苦しいことだったらしい。今朝出掛ける際なども見ていて心が痛むほどだった。
 だから、少しでも白耀の重荷が軽くなればと、口にしてしまったのだ。「明日、先輩とデートですから、丁度私も新しい服を買いたいと思っていたんです」――と。
「これなんかも、由梨子さんにとってもよく似合うと思いますよ。いかがですか?」
 最初は、間違い無く馴染みの深い――といっても、デパートの婦人服売り場など縁が無かったのだが――値段の衣類が揃っているコーナーで選んでいた。しかしあれはどうだこれはどうだと白耀に勧められているうちに、気がつけば高級ブランド品ばかりの売り場へと来てしまっていた。見ればハンカチ一枚とっても普段由梨子が身につけている下着よりも高いという異世界に唐突に放り込まれ、由梨子は0が三つも四つも並んだ値札の海で目眩すら感じていた。
「私の服よりも、まずは保科さんに贈るコートを選びませんか?」
「む……しかし――」
「私は自分の服を選ぶだけですから簡単ですけど……他の人に贈る服を選ぶのってすごく難しいんですよ。きっと時間もかかっちゃうと思いますから」
「確かに……由梨子さんの仰る通りかもしれません」
 尤もだと思ったのか、白耀は頷き、由梨子の提案に乗った。ホッと息をついたのもつかの間、今度は人に贈るコートを選ぶという大任に、別の意味で目眩を起こしてしまいそうになる。
(…………本当なら、こういうのはもっと……大人の人の方が……)
 一介の女子高生に過ぎない自分には荷が勝ちすぎる役目だとは思うし、そのことは最初に白耀に同行を頼まれた際にも言ったことだった。事実、料亭で働いている者の中には妙齢の女性も少なくはなく、むしろその人たちに同行を頼んだ方がいいのではないかという話もした。
 が、白耀は白耀は静かに首を振ったのだ。
「由梨子さんは悩みを相談するときに、身近な友人と殆ど関わりはないけれどその道のスペシャリストと、どちらに相談されますか?」
 そう返された時、由梨子もまた白耀の心が分かる気がした。確かに白耀の言う通りではあるのだ。どうしようかと悩んでいる時にまず相談するのは身近な相手であり、見ず知らずの他人ではない。仮にその他人の方がより正解に近い答えをくれそうだと分かっていても――少なくとも自分は――身近な相手を優先して選んでしまうだろう。
(……多分、白耀さんにとって…………)
 “職場の人”はあくまで仕事場のスタッフという認識であり、そこにプライベートなものを持ち込んだりはしたくないのではないか。ましてや、つい最近まで女性が苦手でろくに話すこともままならなかったらしいとなれば、女手が必要だから雇いはしたものの、面識は無いに等しいのかもしれない。
(…………でも、裏を返せば……)
 “こういう相談”をされるということは、即ち白耀に“身近な相手”だと思われているということではないか。少なくとも、十年来の――或いはもっとかもしれないが――スタッフよりも、よほど近しい距離に置いてもらえているという認識は、家族にすら疎まれ続けた由梨子にとって思わず踊り出しそうになるほどに嬉しい真実だった。

 その後、二時間以上かけて慎重に慎重を重ねて一着のコートを選び終えた時には、由梨子は心身共にへとへとになっていた。時刻は昼十二時を大きく過ぎ、空腹であるというのも疲れの倍増に一足買っていたが、それよりなにより“他人が着る服”を“一切妥協せずに真剣に選ぶ”というのが、途方も無く疲れる難事業だったというのが一番の理由だった。
 フードコートに移動し、遅めの昼食を何にしようかという段で意外なほど時間を食ってしまったのは、ひとえに由梨子も白耀も“相手が食べたいものに会わせる派”であったからだった。十五分以上にも及ぶ譲り合いの結果、由梨子が折れる形で――それとも譲ったのか、もはや判断がつかない――じゃあファーストフードでと、ポテトとハンバーガー、そして飲み物のセットに決まり、席についた後で、ハッと。白耀が図らずも美食に携わる仕事に就いている相手だと気づいて、由梨子は肝を冷やした。
 ――が。
「実は僕はこういうものを食べるのは初めてなんです。これは芋を油であげてあるんでしょうか?」
 しかし、まるで由梨子のそんな杞憂をあざ笑うかのように、白耀は初めて食べるファーストフードに興味津々で、少なくとも端で見ている分には機嫌を損ねているようには見えなかった。
 白耀のそんな様子に、由梨子もやっと肩の強ばりがとれ――それを見て、白耀の方がホッと安堵の息をついたのだが、由梨子は気づかなかった――やっと自分の分の食事に手をつける事が出来た。
「……そういえば、白耀さん。そのコート、いつプレゼントするんですか?」
「そうですね。善は急げと言いますから――」
 白耀は思案するように天井へと目を向けてから。
「………………今年中には、渡そうと思います」
「今年中って……」
 確かに賞味期限があるようなものではないのだから、そんなに急ぐことではないとも言える。しかしモノがコートでは、今を逃せば少なくとも半年は渡す機会が伸びてしまうのも事実だ。
「なるべく急いだ方がいいと思いますけど……」
「ええ、それは……僕も分かってはいるんですが…………」
 ばつが悪そうに、白耀が視線を逸らしてしまう。こういうところがもどかしいと、由梨子は思う。端から見れば相思相愛、100%成功するとわかりきっている告白であるのに、告白する本人だけは一か八かのギャンブルのような認識らしい。
「…………明日、というのはどうですか?」
 ならば、多少厳しかろうとも、無理矢理にでも焚きつけるのが白耀の為になるのではないか。
「あっ……明日、ですか!? いくらなんでもそんな! こ、心の準備が……」
「白耀さんはそう感じるかもしれませんけど……」
 そう、“これ”は白耀の為なのだ。
「実はちょっと、気になることがあって……」
「気になること、ですか?」
 聞き捨てならないとばかりに、白耀が身を乗り出してくる。由梨子の言葉を微塵も疑っていないらしい白耀を騙そうとしていることに、微かな胸の痛みを感じながらも、続ける。
「その、保科さんと話をしたときに感じたことなんですけど……」
「菖蒲が、何か言ってたんですか?」
「いえ、はっきりとは…………ただ、ちょっと“待ち疲れている”というようなニュアンスの事を言っていたような……」
「待ち……疲れている……?」
 見えない衝撃でも受けたかのように、白耀が大きく体を起こす。
「…………言われてみれば、月彦さんからもそのような話をされたような覚えがあります。……確かに、僕は随分と菖蒲を待たせてしまいました。…………ひょっとして、それで菖蒲は…………」
 何か心当たりでもあるのか、口元を覆うように手を宛がい、白耀は思案を続ける。もう一押しだと、由梨子は覚悟を決める。
「もういっそ、他の男性を捜した方がいいかもしれないって……その、そういう風に受け取れなくもないような言葉も…………」
「なっ………………!」
「で、ですから……なるべく急いだほうがいいと思います」
「………………わかりました。明日……いえ、今夜にでも!」
「こ、今夜……ですか?」
「ええ、善は急げですから。たった一日の差で、菖蒲の心が他の男の所に行ってしまったとなれば、僕は悔やんでも悔やみきれません」
「ええと、それは――」
 今更、焚きつける為の口から出任せだったとは言えず、由梨子は二の句が継げない。
「さ、さすがにそこまで焦らなくてもいいと思います。確かに早い方がいいとは思いますけど、焦りすぎて失敗しちゃったら目も当てられませんから」
「なるほど……確かに、由梨子さんの仰る通りです。急いては事をし損じるという言葉もありましたね。では今夜は入念に計画を練って、明日実行という形にしようかと思うのですが」
「そう、ですね。それなら……」
 菖蒲と白耀の為にも、多少焚きつけたほうが良いだろうという考えは、ひょっとしたら誤りだったかもしれない――白耀の過剰すぎる反応に、由梨子はそんな事を思う。
「………………本当に、保科さんのことが大事なんですね」
 無意識に口から出た言葉に由梨子自身驚き、慌てて口元を手で覆った。或いは、その呟きには僅かに羨望が混じっていたかもしれない。
「………………はい」
 白耀も些か驚いたように目を丸くし、そして優しい笑みと共に頷いた。
「菖蒲は僕の半身も同然です。菖蒲が僕の側から居なくなるようなことがあったら、とても生きてはいられないでしょう」
 そこまで――今度は、声にはならなかった。白耀の想いの強さに由梨子はどうしようもないほどに胸の奥が苦しくなる。
「……思えば、菖蒲には随分と苦労をかけました。なんと頼りない主人なのかと、きっと臍を噛む事も多かったでしょうに、嫌な顔一つせずに――ああいえ、たまにはしてたような気がしますが、とにもかくにも、ずっと心の支えとなってくれたんです」
 それはきっと、菖蒲も白耀のことが好きだからなのだろう――由梨子はそう思ったが、あえて口にはしなかった。ここで下手に白耀を安心させるよりも、ひょっとしたら失敗するかもしれないと思っていた告白の答えがOKだった時のほうが喜びも何倍も大きいだろうと思ったからだ。
「……大丈夫です。きっと、月彦さんも僕と同じくらい、或いは僕以上に由梨子さんのことを大事にされてると思いますよ」
 そんなことを考えていたから、白耀の言葉の意味を理解するのに由梨子は十数秒の時間を要した。
「……え?」
 遅れて、赤面する。何故、ここで月彦の話が出てくるのか。それも白耀の口から。
「ち、ちがっ……白耀さっ……何言って…………私は、そんな、別に…………せ、先輩には……真央さんが…………」
「恐らくですが、真央さんとはあくまで“家族として”仲良くされてるだけではないでしょうか。…………きっと、月彦さんの“一番”は由梨子さんですよ」
「…………っっっ…………そん、なっっ…………」
 違う――そう言わねばならないのに、由梨子の舌は巧く言葉を紡ぎ出すことが出来ない。
 分かっている。白耀はただ気を遣ってくれただけなのだ。そうだといいんですけど――そんな感じにお茶を濁せば、それで済むだけの話だ。
 なのに。
(…………本当は私、白耀さんと先輩の両方を…………)
 白耀に対して抱き始めた、恩人という関係を越えた感情が由梨子の羞恥を何倍にも高め、さらに複雑なエッセンスを加えていた。
 同時に、由梨子は気づかされた。白耀のことが好きになり始めている自分に気づいた時、それを看過する理由として“月彦も真央と二股をかけている”という考えがゼロではなかったことに。
「今日選んだ服はきっと月彦さんも喜んで下さると思いますよ」
 由梨子が自己嫌悪の海に沈んでいることなどつゆ知らず、白耀はいつも通りの涼風のような笑顔を浮かべるのだった。


 食事が終わっても、白耀との話は続いた。菖蒲とのなれそめ――桜舜院某という人物の紹介で小間使いとして手元に置くことにはなったものの、眉をひそめるほどに愛想が悪く最初の数年は声を聞くことすら出来なかったこと。その間ずっと、“代わり”が見つかったらすぐに放逐しようと考えていたこと。
 食べ物の好みが全く合わず、何度か口論になりかけたこと。服装の趣味も合わず、和装にしろと何度命じても頑として受け付けず、腹立たしく思っていた時期があったこと。それでも、出会ってから百年も経った頃には、側に居るのが当たり前だと思うようになっていたこと。
 そしていつのまにか、かけがえのない存在になっていたこと……。
「菖蒲は、普段こそいつも不機嫌そうにしてますけど、人目が無いところではよく笑うんですよ」
 それは正直に言えば、自分を罰したいという気持ちが無ければとても聞いていられないような、すさまじい濃度のノロケ話だった。まるで、舌が痺れるほどに甘い、濃厚なハチミツをビールジョッキで無理矢理飲まされているかのような――白耀自身もじつに照れくさそうに話すのだが、聞いているこっちが恥ずかしくて顔から火が出そうな話を延々と続けられるのはちょっとした拷問のようだった。
「あっ…………す、すみません! 僕ばっかり喋ってしまって………………」
「い、いえ…………大丈夫、です。白耀さんが保科さんのことが好きなんだって、すごくよくわかりました」
 そして、その間には自分が入る隙など微塵もないのだということも。
「折角ですから、由梨子さんの話も聞かせてください」
 年の差十倍どころではない程に年上だというのに、白耀はまるで人生の先輩に教えを請うかのように下手に申し出てくる。
 が。
「そんな! 白耀さんに言えるようなことなんて…………」
「由梨子さんの“経験”をお聞きしたいんです。是非!」
「け、経験って……」
 そんな、人に語って聞かせられるような経験は何もしていない――由梨子は首を振る。月彦との付き合い(めいたモノ)だって、まだ半年にも満たないほどの期間しかないのだ。ましてや、“その前のこと”なんて、白耀には絶対に言えない。
「ええと……」
 さすがにこれ以上請うのは失礼だと思ったのか、白耀は何も言わない。言わないが、その目が雄弁に語っていた。「僕は恥ずかしいのを我慢して菖蒲のことを話したのに、由梨子さんは教えてくれないんですね」――と。
 白耀のその目に限ってならば由梨子も反論はあったのだが、白耀のノロケを聞きながら、多少なりとも自分にもという気持ちがあったのかもしれない。無自覚ではあったが、それがあったからこそ、由梨子も僅かに口を開く気になった。
「…………ええと……先輩とのきっかけは……」
 由梨子は思い出す。白耀への気持ちを断ち切る為にも。月彦への想いを強める為にも。
「…………ちょっと、ショックなことがあって、ご飯が食べられなくなって……入院してた時期があったんですけど――」
 白耀の表情がやや険しいものになる。何か言ったほうがいいのかと迷い、しかし言葉を挟むのも失礼だと断念、そんなやりとりが、微細な表情の変化で由梨子にも伝わった。
「そんな時、先輩が何度かお見舞いにきてくれて…………ある時、いきなり病室の窓を全開にされて……」
「月彦さんが……? どうしてそんなことを……」
「ちゃんと理由があったんです。肩を抱いて震えるくらい寒くなったところで、はいっ、……て先輩に肉まんを差し出されて……」
 図らずも、由梨子は破顔する。そして思い出す。あの時、月彦は真剣に宮本由梨子の病状を心配し、なんとか力になれないかと考えに考え抜いた末にとったのがあの行動だったのだろう。それに対して、自分はなんと冷たい反応を返したのだろう――。
「先輩は……その、寒くなったら、きっと暖かい肉まんが欲しくなるだろうって……そう思って……でも、私……その時、は……」
「成る程……そのおかげで、由梨子さんも快復されたんですね」
「劇的に、というわけじゃないですけど……でも、先輩とのことがきっかけだったのは間違いないです」
「………………さすが、というべきでしょうか。僕には到底思いつかない奇想天外……いや、天衣無縫な方法です。由梨子さんや真央さん、複数の女性に愛される男性というのは、やはりそういったものを兼ね備えているものなのですね」
「あ、愛っっ…………」
 恐らくは特に深い意味ではなかったのであろう白耀の一言に、由梨子は赤面したまま絶句してしまう。
「…………なるほど。ヒントが見えた気がします」
「ひ、ヒント……ですか?」
「はい。実は……その、このコートなのですが……どう渡したものか悩んでまして……」
「どういうことですか?」
「なんと言えばいいのか……その、ただ面と向かってプレゼントだと言って渡すというのも、気恥ずかしいというか滑稽に見える気がしてしまって……なんとか一工夫できないものかと考えていたのですが……」
「工夫……ですか」
 まさか、菖蒲の部屋を訪ね、窓を開け放ち、寒いだろうからコートをあげよう――そんな渡し方をするつもりでは。不安を表情に滲ませた由梨子に気がついて、白耀はあわてて右手を振った。
「い、いえ! 違います! 月彦さんの真似はしません! ですが、やはり何かこう……菖蒲が驚くような方法で渡せればと思うんですが…………由梨子さんはどう思われますか?」
「…………確かに、サプライズで渡された方が普通に渡されるよりも何倍も嬉しいということはありますけど…………」
 しかし、相手はあの菖蒲だ。少なくとも由梨子にはそんな方法など到底思いつかなかった。
(ひょっとしたら、先輩なら……)
 肉まんの時同様、何か良い手を思いつくのだろうか。月彦に相談するように、白耀に勧めたほうがいいのだろうか……。
 悩む由梨子の耳に、不意に話し声が飛び込んでくる。ヒソヒソと、何かは喋っているようだが何を喋っているのかはわからない――そんな声に誘われて周囲を見回して、由梨子はギョッと思わず身を竦ませた。フードコートには由梨子と白耀を除いて、八組の客が居た。うち1組の家族連れを除いて、全ての客達が由梨子の方を見ていたのだ。
 ハッとして、由梨子は真っ先に自分の身なりをチェックする。或いは寝癖、或いはゴミでも付着しているのではないかと思ったが、そのどれも当てはまらなかった。そして気づく。
 チラ見しているのは全て若い――といっても、中には三十台くらいに見える者も混じっているが――の女性で、その視線の先に居るのは自分ではなく、白耀だということに。
(…………白耀さんが、目立ってる……?)
 最初は白耀が一人和装であるからかと思った。しかし違った。和装か洋装かに限らず、単純にその美貌が人目を集めているのだ。何故なら盗み見ている女性達が皆「えっ、あの和服のイケメン誰? 芸能人?」とでも言いたげな顔をしているのだ。
(…………っ……)
 まるで極寒の冷水を頭から浴びせられたかのように、浮かれ気分が体温ごと冷やされるのを感じた。先ほど白耀と“ノロケ暴露大会”をしていた時も、そして“告白の相談”をしていた時の様子も、ああやってチラチラと見られていたに違いない。ひょっとしたら――白耀にとっても不名誉なことだろうが――デート中だと勘違いされ、「何あの子。全然釣り合ってないんですけどwwww」と密かにあざ笑われていたかもしれないと思えば、もう顔を上げてなどいられなかった。
(…………気づかなかっただけで、多分、服を選んでた時とかも……)
 周りでヒソヒソ言われていたのだろう。地味な女が不相応な男を連れて、浮かれ顔で不相応な服を買おうとしていると、後ろ指を指されていたに違いない。
 楽しい時間が、たちまち胃を搾られるような苦痛を伴う空間へと変わっていく。このまま身を縮こまらせて消え去ってしまいたい――由梨子がそう思い始めた瞬間、ふわりと。
 透明な膜のようなものに包まれる気配を感じた。
「えっ…………?」
 ハッと気がつくと、先ほどまで由梨子らの方をチラ見していた他の客達が皆、我関せずとばかりにそっぽを向いていた。もしやと思って対面の席へと目をやると、微笑を浮かべたまま白耀は微かに顎を上下させた。
「…………少々居心地が悪い場所になってましたから、少しだけ“目立たない様”にしました」
「ぁ…………ありがとう、ございます。私……あんまり人に見られるのとか、好きじゃなくて……」
「わかります。…………僕もそうですから」
 白耀の同意は、ただの相づちではなく本心からのものであると、由梨子には分かった。長らく女性が苦手であった白耀にとって、文字通り女性達から――それも、見知らぬ相手ならば尚更――の好奇の視線はむしろ嫌悪、恐怖の類いであったであろうからだ。
(…………白耀、さん)
 白耀への共感が、心の距離をさらに縮めていく。同時にわき起こる、ガラスのように繊細なその心ごと抱きしめてあげたいという母性。
 ――否、それは果たして本当に母性故になのか、由梨子にはもはや判断がつかなくなりはじめていた。
(…………ダメ、これ以上……白耀さんのこと好きになっちゃったら…………)
 胸が苦しい。こうして白耀の側に居るだけで、キュンと胸の奥が疼き、それが月彦に対する申し訳なさを呼ぶ。心の中で、無意識に白耀と月彦を天秤にかけてしまっている自分に気づいて、由梨子はまたもや自己嫌悪の海に沈みそうになる。
(…………こんな気持ちのままじゃ、先輩に会っても、また……)
 先日のように、苦い汁でも含んでいるかのような顔しか出来ないのでは、月彦に対してあまりにも申し訳ないではないか。
(………………明日、先輩に会ったら、ちゃんと謝らないと――)
 それとも、いっそはっきりと言ってしまったほうがいいだろうか。白耀のことが好きだと。しかしそれはあくまで男性として、恩人として好きという意味で“異性として”ではないと。
 月彦の前でそうはっきりと宣言すれば、自分の中でも踏ん切りがつくに違いない。そして改めて病院での件の礼と、その時の自分の態度についての謝罪をしよう――。
「あっ……」
 バッグから、微かな振動を感じたのはその時だった。そっと携帯を取り出し、画面を見てみると公衆電話からの着信だった。
 瞬間、まるで背中に羽でも生えたように、心が浮つくのを感じた。
「す、すみません……ちょっと……」
 公衆電話――それだけで、殆ど相手が誰か分かったようなものだ。由梨子は大急ぎで席を立ち、フードコートを出て売り場の隅、人気の無い階段の辺りへと移動して、通話ボタンを押した。
「もしもし、先輩ですか?」
 しかし由梨子の予想に反して、月彦の声は聞こえなかった。あっ、と思って画面を見直すと、新しい留守電が入っている旨が示されていた。
(取るのに時間かかっちゃったから……)
 留守電に切り替わってしまったのだろう。かといって公衆電話ではこちらからかけ直すわけにもいかない。
 やむなく由梨子は携帯を操作し、月彦が残したかもしれない留守電を聞こうと携帯を耳に宛がった。
「……………………えっ…………?」


 電話ボックスを出た後は前後不覚のまま歩き続け、気づいた時には見知らぬマンションの前の植え込みに腰を下ろしていた。“何か”を考える余裕を月彦が取り戻したのは、それからさらに一時間以上も経ってからだった。
(……考えてみたら)
 確かに、“前兆”はあった。先だっての由梨子のよそよそしい態度もそうだ。その時は単純に何か悩みでもあるのだろうと思ったが、まさかその悩みの根源が“紺崎月彦との関係をどう解消するか”であるなどとは夢にも思わなかった。
(……いや、待て。まだそうだと決まったわけじゃ……)
 由梨子にはそんなつもりはなく、“先ほどのアレ”はただたんに白耀と共に買い物をしていただけという可能性もある。家族と離ればなれになった由梨子にとって、今や真田白耀こそが唯一の家族と言っても差し支えない。その白耀と共に服を買いに出掛ける――十分ありうることではないか。
「………………。」
 しかし、月彦は首を振る。
 もし由梨子が単純に、それこそ何の後ろめたさもなく白耀と共に買い物に行くのであれば“明日は用事がある”などという曖昧な言葉は使わないのではないか。後ろめたさがないのなら、それこそ白耀と“何もない”のであれば「明日は白耀さんと買い物に行くことになってて……」と、後々いらぬ誤解を招かぬようにはっきりと伝えてくれるべきではないのか。
 もちろん由梨子が深く考えずに、たんに説明を省いたという可能性も無くは無い。が、あの時の由梨子のよそよそしい態度は“あえて伏せた”と判断するには十分すぎた。
 否、それだけならば。由梨子と白耀が二人だけで服を買いにでかけたと、後日第三者の口から聞いただけならば、そういうこともあるかもしれないとしか思わなかったかもしれない。
 月彦が最もショックを受けたのは、白耀と話す由梨子の顔だ。一度ならず体を重ねた自分だから分かる、あれは演技や愛想の類いではない。宮本由梨子が本心から好意を抱いている相手にしか、決して見せない笑顔だ。
 月彦は思い出す。洋服売り場でまるで恋人のように見つめ合う二人を。白耀が手にしていた上着を由梨子の方に差し出し、由梨子が戸惑いながら遠慮するように半歩下がる。白耀が追い、強引に由梨子の手にハンガーごと上着を握らせる。押し負けた形で由梨子が上着を受け取り、肩を合わせ、顎を引いた上目遣いに白耀を見る。
『どうですか? 似合いますか?』
『うん。凄く似合ってますよ、由梨子さん』
 二人の表情を見ているだけで、そんなやりとりまで聞こえて来そうだった。それはもう、どの瞬間でも切り取って額縁に入れれば“愛し合う二人”というタイトルの絵画が出来上がってしまうような、月彦にしてみれば吐き気を催すような光景だった。
『あっ……先輩……すみません、気がつきませんでした』
『………………あの、何か用……ですか?』
『日曜日……ですか。多分、大丈夫だと思います』
 同時に、脳裏に蘇る先日の由梨子とのやりとり。まるで“由梨子の表情を比べろ”とでもいうかのように。そして事実、その差異は決定的なものだった。
『先輩……私、先輩のこと……好きですから……!』
 それはむしろ、“もう好きじゃない時”にしか出て来ない言葉ではないのか。ぐらぐらと足下が崩れ落ちるような喪失感に、月彦は座っていることすらも難しいほどの目眩を覚える。
(…………そう、だよな。考えてみたら、俺なんかより――)
 不思議と、由梨子に裏切られたという気持ちは湧かなかった。或いは、“自分にはそう感じる資格がそもそも無い”と自覚していたからかもしれない。
 故に、由梨子と白耀の密会を目撃した際、月彦が最初に自覚したものは怒りでも嫉妬でもなく“納得”だった。
(……男として、俺が一つでも白耀に勝てる所なんて………………)
 家族が離散し、ひとりぼっちになってしまった所を非の打ち所の無いイケメンに保護され、好意を抱かない者など居るだろうか。もちろん月彦は由梨子が義理堅く思慮深い女の子であることは知っているし、信じてもいる。だが、そのことを考慮して尚「白耀相手なら仕方ない」と思えてしまうのだ。
(親御さんの元から離れて、しばらくは一緒に暮らしてたんだし……今でもバイトとかでしょっちゅう一緒に居るわけだし……)
 ひょっとしたら、既に共に過ごした時間は自分よりも長いのではないかとすら思える。あんな完璧超人なイケメンとそれだけの時間を共に過ごして、好意を抱くなという方がむしろ無理な話だ。ましてや、ただでさえ由梨子には普段から愛人のような立場を強いてしまっていたのだ。そんな扱いをされていた由梨子が他の男に靡いてしまったとしても、一体どうして責められようか。
(………………そう、だな……。由梨ちゃんがその方がいいっていうんなら……)
 一度は体を重ねた男として、由梨子の新しい恋を祝福してやらなければならないだろう。例え由梨子が他の男と仲むつまじくしている光景が心が引き裂かれるほどに苦痛であったとしても、由梨子を恨むのは――ましてや怒りを覚えるのは筋違いだ。
(………………由梨ちゃんは、優しいから)
 普段からも、きっと言いたいけど口に出来ない不満が溜まっていたのだろう。思い返せば思い返す程に、由梨子に対して自分が先輩らしいことを何一つ出来ていなかった事に気がつく。逆に白耀の方が、恐らく家族と離ればなれになって心細いであろう由梨子の側に絶えず寄り添い、由梨子の心が欲していたであろう安らぎを補填し続けてくれたのではないか。
(…………これで、良かったんだ。これで……)
 由梨子の心が白耀に傾いている以上、未練がましくつきまとっても鬱陶しがられるだけだ。デートの誘いを持ちかけた時の由梨子の気乗りしなそうな表情がまさにそうだったではないか。
 もう思い悩むな。気持ちを切り替えろ――月彦はがしがしと頭を掻き毟るが、どうしても思考を切り替えることができない。
 そう、これは由梨子にとっては喜ぶべきこと……であるのに。どうしてこんなにも心がザワつくのか。大丈夫、これでよかったんだと。ヒビだらけの心を塗り固めたそばからさらにヒビが広がり、極度の目眩から危うく意識を失いそうにすらなる。
(ダメだ、違う。由梨ちゃんは悪くない。当然のこと……なるようになっただけ、だ)
 何故白耀の元へ――そう思うのは傲慢だ。由梨子を恨むのは筋違い、ましてや憎むなど論外だ。
 そう、頭では分かっている。由梨子はかけがえのない後輩であり、一度ならず体も重ねた相手だ。それほどに好きな相手だからこそ、幸せを祝福してやるべきなのだ。
「………………っ……!」
 頭では、分かっている。しかし、心の奥底からどす黒いものがあふれ出てくるのを止められない。自分にはそんな資格はないと分かっていても、白耀に対して「よくも由梨ちゃんを……!」と吐きかけたくて堪らなくなる。
(……そもそも、白耀の方はどういうつもりなんだ?)
 由梨子が白耀に好意を抱いているのは間違いないとして、白耀の方はどうなのか。やはり生活の面倒を見るくらいだから、少なくとも好意に近いものは抱いているだろう。
(まさか……白耀のやつ、菖蒲さんの事は諦めた……のか?)
 そんなはずは無いと思う反面、ありえなくもないと思える。いくらなんでも、菖蒲の態度が昔と変わって来ていることくらいは気づいているだろう。ひょっとしたら白耀自身、自覚の無いまま由梨子への恋心を育んでいる最中であるという可能性も、絶対に無いとは言い切れない。まさか、あのお人好し過ぎる男に限って、意図的に二股がけを狙っているはずもなく、やはりそこには純粋な好意しかないのだろうと月彦は推測した。
(……ははっ、だとしたら由梨ちゃんに助けられた形になるのかな、俺は……)
 図らずも菖蒲と関係を持ってしまい、いつバレるかと恐々とする毎日から抜け出すことが出来る――由梨子を失うことで得られる思わぬ平穏に、月彦は皮肉な笑みを浮かべてしまう。
 もちろん、“得をした”などとは微塵も思わない。由梨子を失うことは、平穏の代償としてもあまりに重すぎるからだ。
(…………っ……由梨ちゃん……!)
 由梨子が、他の男のモノになってしまう――それはもはや、相手がどうとか、自分がどうとかの問題ではなかった。由梨子が白耀に抱かれる様を想像するだけで、発狂しそうな程の吐き気と頭痛に襲われる。
「ああくそっ……なんでもっとスカッと切り替えられないんだ……!」
 自分で自分が嫌になるというのはこのことだ。分かっているのに、どうにもならないのがもどかしくて堪らない。
(…………いや、あっさりと切り替えられる方が……むしろダメだろ)
 それは心の痛みに耐えかねた末の、ただの弱音だったのかもしれない。しかし、この吐き気を催すほどの痛みこそ、由梨子のことが本気で好きだった証拠であると、月彦には思えるのだった。
(…………笑って、あっさりと二人の仲を祝福するなんて、本当は絶対に嫌だ)
 出来る事なら、今すぐ由梨子の所に飛んでいき、その腕を掴んででも何故白耀なんだと問い詰めたい。もはや完全に心は離れてしまっているのか、それともまだ望みはあるのか。それだけでも確かめたい。
 しかし、そんな自分の行動が途方も無く愚かしくて、由梨子の目には正視に耐えない程に見苦しく映るのでは無いかという危惧が強固な楔となって月彦の両足を縫い止めていた。
「く、そ……なんで、こんな……」
 何故自分は服など買いに行ってしまったのだろう。最初の店が混んでいた時点で諦めて帰らなかったのだろう。由梨子らしき人影を見ても、気にせず帰らなかったのだろう――。
 過ぎたことに囚われ、もはやどうにもならないことに囚われ、腰を上げることも出来ない。いつしか日も落ち、いい加減この場から移動しなくては帰る帰らないの前に不審者扱いされかねない。辛くも立ち上がり、殆ど足を引きずるようにマンションの前から移動する最中、はたと。行きに使った自転車が何処にも見当たらないことに気がつく。それどころか、洋服の入った紙袋すらも行方不明だった。
(…………なんかもう、どうでもいい、な)
 自転車はデパートの駐輪場に停めっぱなしだろう。洋服の方はデパートの中か電話ボックスの中なのだろうが、それを探しに行くことすらも億劫だった。
(………………帰る、か)
 峠を越えたのか、或いは負の感情の過負荷に一時的にブレーカーが落ちたような状態になっているだけか。少なくとも誰でも良いから八つ当たりをしたいというような、最低最悪の気分状態にはなっていないようだった。
(…………そう、だな。考えてみたら、今夜は母さんがちゃんと家に居るし、変なことにはならないだろう)
 大体良からぬことが起きるのは、たいてい葛葉が留守の時だと、苦笑混じりに帰路についたのもつかの間。
「あっ――」
 その遭遇は偶然か、或いは仕組まれたものだったのか。家までの道程の丁度半分にさしかかった辺りで、月彦は出会ってしまった。
「つ、月彦さま……」
 丁度曲がり角を曲ったところで、もう一歩どちらかが前に進んでいたら危うく体をぶつけていたかもしれないという距離で足を止める。どうやら買い物帰りらしい菖蒲は黒のコート姿で、手にはビニール袋を提げていた。その表情には喜びよりも困惑が、愛想よりも羞恥が色濃く滲み出ていた。
「あの……先日は、大変お見苦しい所を……」
 菖蒲はきょろきょろと、まるで足下に落ちた指輪でも捜しているかのように落ち着き無く目線を動かしながら、もごもごと言いにくそうに呟く。これが演技だとしたら大した物だが、少なくとも月彦にはこの遭遇は完全に偶発的なもののように思えた。
「……やあ、菖蒲さん。体の調子はどう?」
 自分でも驚く程にさわやかな声だった。“体の調子”という言葉に、菖蒲が微かに悲鳴にも似た声を漏らすのが分かった。
「は、はい……。今は薬を飲んでおります、から……」
「へぇ、やっぱり持ってたんだ。発情を抑える薬だよね?」
 はい――菖蒲の返事は、蟻の足音にすらかき消されそうな程に小さかった。発情中であることを相手に知られているということが、少なくとも平静を保てないほどの羞恥を菖蒲に与え続けているらしい。
「そっか、良かった。ひょっとしたら今も菖蒲さんが苦しみながら悶えてるんじゃないかって、ちょっと心配してたんだ」
「……っ…………本当に、お見苦しいところを…………」
 かああと、夜道でも分かるほどに菖蒲が顔を真っ赤にするのが珍しいやら面白いやらで、月彦はつい笑顔を零してしまう。
「まあ、とにかく大丈夫ならよかったよ。じゃあ、俺は帰るから菖蒲さんも気をつけて帰ってね」
「ぁっ………………はい、月彦、さまも……」
 何かを言いたげに口ごもる菖蒲の脇をすり抜け、家路を辿る。菖蒲とすれ違い、さらに五メートルほど歩いた先で。
「あっ、あの!」
 およそ菖蒲の口から出たとは思えぬほどの大声で、月彦は呼び止められた。
「……びっくりした……どうしたの、菖蒲さん」
 さながら、限界まで引かれたバリスタから放たれた巨大な矢のような一声に驚きながらも月彦は振り返る。
「も、申し訳ございません……あの、実は……先日大変珍しい果物を頂きまして……」
 辿々しく言いながらも、一歩。また一歩と、菖蒲が徐々に距離を詰めてくる。
「もしよろしければ、月彦さまにもお裾分けをと……」
「果物かぁ……美味しいの?」
「は、はい! それはもう……天上の果実が如き美味を保証致します!」
「そんなに美味しいんだ。ありがとう、菖蒲さん」
 手を差し出し、早速とばかりに受け取ろうとすると「あっ」と菖蒲が声を出した。
「申し訳ございません、月彦さま。その……これはわたくしの私物でして……頂いた果物の方はまだわたくしの部屋に……」
「ああ、そっか」
 菖蒲としても、買い物帰りの夜道でたまたま遭遇しただけなのだろう。であるのに、わざわざもらい物の果物を携行しているという方が不自然極まりない。
「…………もし、ご足労でなければ…………その……わたくしの部屋まで…………」
 はぁはぁと、まるで高熱に魘されているかのように、菖蒲の言葉は辿々しく息切れ混じり。月彦はもう笑いを堪えるのが精一杯だった。
(…………さてさて。本当に“もらい物の果物”なんてあるのかな)
 菖蒲の部屋までついていったが最後、文字通りケダモノとなった菖蒲に襲われるのではないか。いつもならば断固として忌避すべきケースだが、今日ばかりはそれも悪く無いかな……などと思ってしまう。
「…………悪いけど、今日は早く帰らないといけないからさ。またそのうち寄らせてもらうこともあるかもしれないから、その時にまだ残ってたら貰うよ」
「ぁっ……」
 再び菖蒲に背を向け、歩き出そうとした矢先、クイと袖が掴まれた。振り向くと、そこには今にも泣き出しそうなほどに切羽詰まった菖蒲の顔があった。
「月彦さま……後生でございます……どうか………………」
「……………………。」
 なら、望み通りにしてやろう――とは思わなかった。今の気分を考えれば、そう判断しても不思議ではなかっただけに、むしろ月彦は今尚正気を保っている自分に驚いていた。
「……そーだ、菖蒲さん。明日は暇?」
「ぇ……あ、明日……で、ございますか?」
 とろんと、瞳をとろけさせていた菖蒲はぱちくりと瞬きを繰り返す。
「うん。実は明日予定があったんだけど、急に暇になっちゃってさ」
「そ……それでしたら……!」
「悪いけど、“今夜”は予定があるんだ」
 もはや菖蒲の頭の中には“そのこと”しかないのかと、思わず苦笑を浮かべてしまいそうになる。
(…………それとも、“発情期”ってヤツは、それくらいキツいんだろうか)
 薬とやらを飲んで尚この状態なのだとすれば、あまり嬲るのも酷と言えるかもしれない。
「明日は…………その、夜、は……わたくしは……」
「都合が悪い?」
「で、ですが……! あのっ……! は、白耀さまっ、に……お休みを、頂きます、から……!」
 そんなにぽんぽんと休みをとって大丈夫なのだろうか。恐らく大丈夫ではないのだろうが、惚れた弱み。菖蒲に頼まれれば、恐らく白耀もダメとは言えないのだろう。
「そっか。じゃあ、決まりだ。明日デートしようよ」
「デー……ト…………で、ございますか?」
「うん。朝九時過ぎくらいに迎えに行くからさ。準備して待っててよ」
 さあこれでいいだろうとばかりに、袖を掴んでいた菖蒲の手を離させる。
「……そうそう。ちゃんと“薬”は飲むようにね。“間違い”が起きるといけないからさ」
「……ぁっ………………」
 月彦の言葉を“含み”であると思ったのか、菖蒲が期待に両目を潤ませながら肩を抱く。そんな菖蒲の状態には気づかないふりをして、月彦は静かにきびすを返して帰路につく。
(…………さてさて。俺は一体どうしたいのかな)
 自分でも、自分の行動が理解できない。くっ、と口の端を歪めながら、月彦は一人、夜空を見上げながら歩くのだった。


 考えてみたら、別に由梨子とのデートが無しになったからといって、何も菖蒲とデートをすることもなかったということに、後々になって月彦は気がついた。
(…………まぁ、そこはそこ。なんとなくというか、偶然というか、早い者勝ちというか……)
 もし菖蒲と夜道で偶然出会わなければ真央と出かけていただろうし、真央も行きたがらなければ久しぶりに都の部屋にでも遊びに行っていたかもしれない。
 つまるところ、このデートに深い意味はない。単なる気晴らしだと月彦は判断していた。
 
 結果的には、買った洋服をどこかに忘れてきたというのがそのまま朝出掛ける用事になった。折角買った洋服と自転車を帰り道に寄った友達の家に忘れてきた――そう言って、月彦は8時過ぎに家を出、そのまま菖蒲のマンションへと向かった。
「やっ、菖蒲さん」
 インターホンを押し、ひょっとしたらドアの前で待っていたのではという早さでドアを開けた菖蒲に、月彦は朗らかに挨拶をする。
「ぁ…………お、おはようございます、月彦さま」
「あれ、どうしたの、菖蒲さん。なんか随分具合悪そうだけど」
「い、いえ! そのような、ことは…………」
 菖蒲は否定するが、目はどことなく虚ろで、息も荒い。普段は色白な肌もどことなく赤みを帯び、まるで熱でもあるかの様に見える。
「ひょっとして、ちゃんと“薬”を飲んでないとか?」
「……ええと……それは……」
 菖蒲が口ごもる。それでいてチラチラと、何かをねだるような上目遣い。月彦は苦笑を零す。
「ダメだよ、菖蒲さん。今日は一緒に出掛けようってちゃんと言ったろ? 外に出ても大丈夫なように、ちゃんと薬を飲んでくれなきゃ」
「で、ですが……わたくしは……」
「……………………まぁ、菖蒲さんが出掛けるのはどうしても嫌だって言うんなら、俺も帰って真央と出かけ直すけど」
「……っ……月彦さまの、仰せのままに……致します」
 漸く観念したのか、菖蒲は渋々部屋の奥へと引っ込んだ。そして数分後、黒のケープコートとロングスカート姿で現れた菖蒲は、いつも通りとはいかないまでも先ほどまでとは比べるべくもないほどに落ち着いていた。
「あの……それで、月彦さま。今日は一体どちらに……?」
「うん、そうだな…………菖蒲さんは普段、一人でどこか出掛けたりとかしてるの?」
「わたくしは……あまり…………人が多い場所や騒がしい場所は苦手なもので」
「そっか。じゃあ、適当にぶらぶらと、人気の少ない場所でも回ってみようか」
 この後に及んで、月彦自身なぜ菖蒲を連れてデートなどしようとしているのか分からなかった。或いは実際にデートをしてみれば、理由が分かるかも知れない――特に考えもせず、月彦は菖蒲を伴い、そしてマンションを後にした。



 月彦が自分の不可思議な行動を把握しかねている以上に、菖蒲の方も月彦の意図が分からずに困惑しているようだった。とりあえず言われるままについてはきているものの、一体何故連れ出されたのか。そして何の為に連れ出されたのかが理解出来ないと顔に書いてあった。
(うーん、なんだろうこのちぐはぐな感じ……)
 例えるなら、猫の首輪にリードをつけて犬のように散歩をさせようとして、猫の方も何故自分がこんな茶番に付き合わされているのか困惑しつつも仕方なしについてきている――そんな感じなのだ。
(多分、“恋人”じゃないからなんだろうな)
 恋人同士ではなく、あくまで主と従者――少なくとも菖蒲の中ではそう定義されているのではないだろうか。それだけに、ただデートに行こうと言われても戸惑ってしまうのかもしれない。
(…………だったら、無理に連れ出さなくても良さそうなものなのに、俺もバカだな)
 そう、菖蒲がデートに乗り気ではないのは明らかだ。であるのに、何故こうして連れ回しているのか、月彦は自分で自分の行動が理解できない。馬鹿なことをしているという自覚はあるのに、それを止めようとしても出来ないのは、さらに愚かしいことだと分かっていても、やはり止めることが出来ない。
「……そーだ。折角だし、映画でも見に行く?」
「映画……で、ございますか?」
 菖蒲が、ますます困惑の色を濃くする。
「うん。菖蒲さんは普段どういうのを見る?」
「いえ、わたくしは……てれびじょんの類いはあまり……白耀さまに連れられて何度か観たことはあるのですが……」
 楽しめたわけではなかったと、菖蒲は暗に表情を暗くする。
「そ……っか……白耀と…………でも、たまたまつまらない内容だっただけかもしれないしさ。試しにもう一度だけ観てみようよ」
「左様で、ございますね。月彦さまがそう仰るのでしたら……」
 やはり乗り気ではないらしい菖蒲の手を強引に引きながら、月彦は最寄りの映画館へと向かう。
(…………変だな。どうしてこんなに“映画”に拘るんだろう)
 月彦自身、特別映画好きというわけでもない。であるのに、渋る菖蒲の手を引いてまで、何故――。

 映画館で上映されている映画は八つ。うち三つが子供向けのアニメ映画で、残りの五つのうち二つが邦画、残りが洋画だった。さすがにアニメは無いということで真っ先に除外し、さらに邦画二つもテレビドラマの劇場版ということで排除。残った洋画は一つが恋愛もの、一つがアクションもの、そしてもう一つがパニックものであり、月彦は熟慮の結果パニックものを選んだ。
(恋愛ものは人間同士のじゃ菖蒲さんが共感できなそうだし、アクションものも何がすごいのかわからないって思われそうだし、な)
「よし、じゃあチケットを買ってく――る……?」
 受付に行こうとして、はたと。月彦は一枚のポスターを興味津々に見つめる菖蒲の姿に気づいた。
「…………菖蒲さん、ひょっとしてそれを観たいの?」
「ああ、いえ……そういうわけではないのですが……」
 菖蒲が見ていたのは、最初に除外した子供向けアニメ映画の一つ『かぎしっぽのクロとシロ』だった。
「月彦さま、これはひょっとして……猫が主人公の映画でございますか?」
「んー……多分そうみたいだね。CMなら何度か見たことあるよ。確か監督がサンマ大戦の人とかで、結構話題になってた気がする」
「サンマ大戦、でございますか?」
 ぴくりと、驚く程に菖蒲が過敏に反応する。ああそういえば菖蒲は秋刀魚の腸が大好きなんだったと、月彦は思い出す。
「じゃあ、興味があるならそれにしよっか」
「は、はい! あの……ちなみにその“サンマ大戦”というのはどちらに……」
「いや、あれは3年くらい前の映画だからレンタルとかで借りて見るしかないよ」
 恐らく菖蒲の中では秋刀魚同士が銃を撃ち合い、腸が飛び散るような映画を想像しているのではないだろうか。
(………………昼飯は、秋刀魚が食べられるところにすれば、菖蒲さんも喜んでくれるかな)
 苦笑混じりに『かぎしっぽのクロとシロ』のチケットを買いながら、月彦ははたと思う。
(………………由梨ちゃんだったら、どの映画が見たいって言ったかなぁ)
 恋愛モノの洋画だろうか。或いはパニック映画だろうか。由梨子の好み的にアクションはまず選ばないだろう。ひょっとしたら菖蒲と同じものを選んだ可能性も無くは無い。
(…………ほんとバカだな。“由梨ちゃんだったら”なんて考えるだけ無駄なのに)
 ちくりと、胸の奥が痛むのは、由梨子を失った悲しみ故か。詮無い事だと、月彦は小さく首を振る。
「そういえば、さっき白耀とも観たって言ってたけど……その時はどんな映画を見たの?」
 愛嬌のある白猫、黒猫の立て看板の前で興味津々な菖蒲に買ったチケットを渡しながら、月彦はふと疑問を口にした。
「ええと……確か……幕末、と言うのでしょうか。“サムライ”が出てくるお話でございました」
「へぇ……新撰組とかそういうのかな?」
「何でも白耀さまが実際に関わりのあった人物が主題の映画ということで、ずいぶんと感慨深そうにしておられたのを記憶しております」
「白耀が関わった人物……」
 映画の主題にされるくらいであるから、恐らくは歴史の教科書にも載っているような人物なのだろう。
「…………すごく気になるんだけど、名前とか分かる?」
「それが……お恥ずかしい話でございますが……わたくしは途中で寝入ってしまって……内容を殆ど覚えていないのです」
「…………そっか」
 確かに興味の無い映画――それも時代劇では尚更眠気を誘うかもしれない。
「おっと、そろそろ時間だ。中に入ろう」
「あっ……月彦さま、その……少しだけお時間を頂いてもよろしいでしょうか」
 ちらりと、菖蒲が目配せをしたのはレストルームがある方角だった。
「そっか。じゃあついでだし、俺も行ってくるよ」
 ………………。
 …………。
 ……。

 

 

 

 

 

 

 


 映画を見終わった後は繁華街をぶらぶらと歩き、和食――それも魚に主力を置いている店を探し、そこで昼食を摂ることにした。
「腑に落ちない点を上げればそれこそキリがございません」
 注文を済ませ、料理が運ばれてくるまでの間。菖蒲にしては珍しく“自分から”映画の感想を語った。
「いくら新入りの猫とはいえ、理由も無しに寄ってかかって排除しようとするのはありえないことでございます。そもそも猫にとっての縄張りというものは――」
 菖蒲の語る“猫論”を聞きながら、何故か月彦は全く逆のことを思い出していた。
「そもそもわたくし共は必要に迫られるか、或いは自身がそう望まない限り群れるということはございません。ましてや、あのような暴力と脅迫しか能が無い木偶を首領としてあがめ奉ること自体ありえないことでございます」
 そう、妙子と犬に関する映画を観た後もこんな感じだったなぁと。どこかほっこりした気分で、月彦は菖蒲の言葉に耳を傾けていた。
(……犬猫両方出る映画について妙子と同席させたらどうなるだろうか)
 まるきり水と油になるか、或いは逆に息が合うのではないだろうか。
「ましてや、その無能の手下を手に入れることに何の意味がありましょう。そういう意味では、なぜクロがああもボスの座を手に入れることに固執し、唯一の家族であるシロと仲違いをしてまでその座を守ろうとしたのか……首を捻る流れでございました」
「うーん、その辺は生まれついての性格っていうか、自由奔放な生き方のシロと、仲間を集めてボスになりたいってクロの立ち位置がはっきりしてて、物語的には良かったと思うけどな」
 菖蒲の言うことは分かるが、主人公であるシロクロ二匹とも平和主義事なかれ主義、自分本位でまわりの猫達も同様では何も物語は生まれない。やはりそこにはなにがしかの“問題”があり、それが“解決”しなければ、物語として成り立たないからだ。
「……左様でございますね。月彦さまの仰るとおりでございます。わたくしも、作り物の話だとは分かっていても、危地に陥ったシロを、それまで仲違いしていたにもかかわらず新しく手に入れたボスの座を捨ててクロが助けに行く所は、正直涙を禁じ得ませんでした」
「…………………………。」
 しかし一転。ころりと意見を変え、まるで世紀の名作に感動しているかのようにそっとハンカチで目元を拭う仕草をする菖蒲に、月彦は続ける言葉を失ってしまった。
(……何だろう。これはこれですごくモヤっとする)
 ひょっとしたら、菖蒲的には「何だ、俺が誘った映画に文句でもあるのか?」という風に聞こえたのかもしれない。
「ま、まぁ……とりあえず途中で寝ちゃうようなことはなかったみたいだし、そこそこ楽しめたんじゃないかな」
「それは…………はい。ですが、その……」
「うん?」
「…………やはり、月彦さまが隣に居て下さったからこそ、楽しめたのではないかと……」
 微かに頬を赤らめながら、うつむき加減上目遣いに言う菖蒲に、月彦はつい苦笑を漏らしてしまう。世辞も世辞、媚びようとしているのが見え見えではあるのだが、それを分かってはいても、正直嬉しくないと言えば嘘になる。
(……可愛い……よな。うん、やっぱり……)
 普段が普段であるだけに、いざ感情を表に出されると、そのギャップにくらりと来ざるをえない。……尤も、最近では逆に“無表情な菖蒲”の方を見る機会が少ないのが逆に寂しいとすら思える。
「……ぁっ……申し訳ございません、月彦さま。その……少々席を外しても……」
「ん? あぁ、俺は別に構わないけど……」
「それでは、失礼致します」
 申し訳無さそうに、菖蒲はそそくさと店の奥――レストルームの方へと入っていく。数分もしないうちに菖蒲は戻って来たが、その時にはもう注文した料理――二人前の秋刀魚定食が並べられていた。
 が。
「…………月彦さま、この秋刀魚は頂けません。これでは台無しでございます」
「えっ……ダメなの?」
 菖蒲に合わせて同じ秋刀魚定食を注文した月彦だったが、少なくとも味におかしな点は見受けられなかった。
「…………腸が……」
「あぁ……」
 確かに菖蒲の言う通り、出された秋刀魚は丁寧に腸が処理されていた。もちろん店側の配慮なのだろうが、腸が大好物な菖蒲にしてみればカツ丼をカツ抜きにして出されたようなものなのだろう。
「仕方ない。お店の人に言って取り替えてもらおうか」
「…………いえ、大丈夫でございます。食べられないわけではございませんし……」
 それに“そういう客”の対応が店側としてどれほど面倒くさいかは身をもって知っていると零しながら、菖蒲は渋々ワタ抜きの秋刀魚を食していく。
(……そっか。考えてみたら、白耀の店がそもそも高級食材を扱う料亭なんだし、そこの味に慣れてる菖蒲さんを普通の和食の店に連れて来ても、美味しいなんて思えない、か……)
 口にはしないが、恐らくこの秋刀魚自体菖蒲の口には合わないのではないだろうか。そう考えると、無性に申し訳ない気分にさせられる。
(…………今日のデートだって、殆ど俺のワガママで無理矢理付き合わされてるようなものなのに、な)
 認めたくはなかった。薄々気づいてはいても、絶対に認めたくはなかった。しかしもう、認めざるを得なかった。
 本当は、由梨子とこうして楽しくデートをしたかったのだ。その“代わり”を、菖蒲に求めたに過ぎない。
(…………ヤバいな。最高に格好悪いな、俺……)
 これ以上無い程に、気分が沈む。薄々解ってはいても目を背け続けたのは、ひとえに格好悪い自分を自覚させられるからだ。
(畜生……由梨ちゃん……どうして…………)
 考えてはいけないと分かっていても、どうにもならない。目を瞑れば、由梨子の笑顔が。照れ混じりの上目遣いが。腕の中で息を弾ませ切なげに声を上げるその様までもが、瞼の裏に克明に映し出される。
 しかし、そのどれも二度と見ることは出来ない。そう、永遠に失われてしまったのだ……。
「……月彦さま?」
「ん……ああ、ごめん。ちょっと考え事をしてたんだ」
 慌てて箸をとり、塩焼きにされたさんまとご飯を掻き込んでいく。先ほど口に入れた時よりも塩気を感じるのは、単純に塩の振り方にムラがあるだけだと思いたかった。


 
 


 昼食の後は、菖蒲を伴ってゲームセンターへと足を運んだ。これもまた由梨子とのデートの定番だったと後から思い出してずずんと自己嫌悪の海に沈んだが、だからといって他に良い場所も思いつかなかった。
「…………菖蒲さん、ひょっとしてわざと俺を勝たせようとしてない?」
「とんでもございません! わたくしは真剣でございます!」
 そんなやりとりをしたのは、ハイパー卓球三連戦が全てギリギリの接戦の後、最後は月彦の勝利で終わった為だ。
「…………じゃあ、もし次菖蒲さんが5点差つけて勝ったら、何でも言うこと一つだけ聞いてあげるよ」
「なんでも……で、ございますか?」
 菖蒲の目が一瞬。まるで獲物を見つけた鷹のようにきらりと光るのを月彦は見逃さなかった。
「……あの、月彦さま……本当に…………」
「…………ごめん。やっぱり今の無しで」
 次やれば、必ず負ける。それを察知して、月彦はあっさりと前言を取り下げた。たちまちしゅんと――もちろん耳も尻尾も隠しているのだが、それが萎れるのがはっきりと分かるほどに――菖蒲は肩を落とした。
(…………いい加減、不憫になってきたな)
 身勝手なデートに付き合わせて、一日を潰してしまった。そろそろその埋め合わせをする頃合いかもしれない。
「……菖蒲さん」
「……っ!? つ、月彦さま!?」
 ついと。月彦は忍者のような身のこなしでしょぼくれている菖蒲の側へと身を寄せるや、するりとその腰に手を回す。
「ぁっ」
 指先に力を込め、僅かに菖蒲の体を抱き寄せるや、それだけで菖蒲は短く息を吐いた。
「…………ここで遊ぶのも飽きたし、そろそろ違う所に行こうかと思うんだけど、どこか希望はある?」
「……つ、月彦さま……あの、な、何故……ち、近っ…………ンンッ……!」
 おろおろと狼狽しながらも、菖蒲は唐突にぶるりと体を震わせる。
「も、申し訳ございません、月彦さま…………あの、お手をお離しになってくださいまし……」
「どうして?」
「っっ…………た、大変申し上げにくいのでございますが……その…………お、お手洗いに…………」
「あれ、映画を見る前にも行って、ご飯を食べる前にも行って、そして確かここに来てすぐにも一回行ったよね?」
 いくらなんでも多すぎると、月彦は言外ににおわせる。
「ううぅ……そ、それは…………」
「分かってる。“薬”を飲みたいんだろ?」
 もはや推理と呼ぶのも馬鹿馬鹿しい。菖蒲の様子を見ていれば一目瞭然だった。
「……月彦さま……何故それを…………ああぁ……!」
 さす、さすと腰に回した手でそのまま尻を撫でると、それだけで菖蒲は声を震わせ、その場に崩れ落ちそうになる。
「間隔が短くなってきてるのは、だんだん薬が効かなくなってきてるってことなのかな?」
「は、はい…………普段は、こんな、ことは…………ですが、月彦さまの側に居ると………………体が、疼いて…………」
「少なくとも、菖蒲さんの“体”には、種付け相手として認められてるってことかな」
「つ、月彦さま……あの、本当にもうっ…………は、早くお手を離して下さいまし…………!」
 菖蒲はきょろきょろと周囲を見渡しながら声を裏返らせる。喧噪に包まれたゲームセンター内には客は多く、もちろん人目も多い。個室に二人きりというのであれば菖蒲もこうまで焦らないのだろうが、さすがにこの場でやっていいことと悪いことの判断くらいはつくのだろう。
「そういえば――」
 くんと、鼻を鳴らす。薬で発情の衝動自体は押さえ込めても、発情自体が治まるわけではないらしい。微かに感じる菖蒲の体臭には、男を求めるフェロモンが多量に含まれている。真央の“それ”と比べて違いがあるなと、吟味をしながら、月彦は言葉を続ける。
「何か、珍しい果物をもらった、って言ってなかったっけ?」
「ぇ……? ぁ、はい…………」
 それが何か――瞳をとろんとさせながら、菖蒲が呟く。息が荒い。月彦も菖蒲の尻を撫でる手を止めない。
「どう珍しいのか興味あるな。今から菖蒲さんの部屋に行ってもいい?」
「つ、月彦さま……! それは……あの、それはつまり…………!」
 とろけていた目を見開いて、まるで喜びのあまり飛び跳ねようとする体を無理矢理押さえつけたような、そんな身震いと共に菖蒲が目を覗き込んでくる。
「……俺はただ珍しい果物に興味があるって言っただけなんだけどな。………………それとも、“違う意味”に聞こえたか?」
 “菖蒲”、と。人のそれを模している耳元へと唇を寄せ、囁いてやる。ぞくんっ――そんな寒気にも似たものが菖蒲の体を奔るのが、抱き寄せている腕を通して月彦の方にまで伝わった。
「つ、月彦、さま…………」
 はあ、はあ。
 ぜえ、ぜえ。
 濡れた唇を震わせながら喘ぐ菖蒲の、今すぐにでも押し倒してきそうな“焦れ”を感じながら、くすりと。
 月彦は小さく笑みを零した。
「部屋に行こうか」



「ほら、菖蒲さん。着いたよ」
 大通りでタクシーを拾い、そのまま菖蒲のマンションへと直行し、ほとんど肩を貸すようにして菖蒲をタクシーから降ろし、やっとのことで部屋の前へとやってきた。事情を知らない者が見れば、単純に具合が悪いようにしか見えないだろうが、脱力しきっているように見えてその実、菖蒲の右手は絶対に逃がさないとばかりに月彦の腕を力一杯握りしめたままだったりする。
「月彦さまぁ……わたくしは……わたくしは、もう…………」
「ほら、菖蒲さん。もう部屋の前まで来てるよ。鍵を出して」
 もう、自分がどこに居るのかもわからないのか、菖蒲は譫言の様に繰り返す。そんな菖蒲のポケットをまさぐって鍵を取り出し、鍵穴へと差し込む。
 ドアを開け、部屋の中へと入り、靴を脱ぐ――まだ灯りのついていない薄暗い玄関口で、菖蒲の両目は爛々と妖しい光を放つ。或いはこのまま襲いかかってくるのかと思いきや、意外にも菖蒲は自制した。
「つきひこ、さまぁ…………んくっ…………はぁ、はぁ…………ふぅ、ふぅ…………」
 何度も身じろぎをしながら、唾を飲み込みながら。それでも自分から押し倒すのは菖蒲の中の何かに抵触するのか、あくまで“主から”を待っている様だった。
(偶然を装って一服盛るような真似したりするのはアリなのに、そこは守るんだな)
 変なところで律儀な菖蒲に苦笑しつつ、月彦はあえて何もせずに悠然とリビングに移動し、食卓の椅子へと腰掛ける。
「じゃあ早速、その珍しい果物ってのを見せてもらおうかな」
 本当にそんなモノがあるのならの話だが――そんなことを思いながら、すっかり出来上がってしまっている菖蒲の方へと視線を向ける。
「菖蒲さん?」
「はぁ、はぁ……ふぅ……ふぅ…………はい、何でございますか?」
 どうやら完全に頭がゆだってしまっているらしい。焦らすのは面白いが、事を始める前に既に前後不覚というのも面白くない。
「仕方ないな、菖蒲さん。薬を飲んで」
「くす、り……?」
「発情を抑える薬。まだあるんだろ?」
「です、が……」
「“主”の言うことが聞けないのか?」
 そこまで言えば、さすがに口答えはしなかった。が、しかし渋々というのは所作の遅さに現れていて、菖蒲はなんとももたついた動きで薬を飲み、数分後には早くも落ち着きを取り戻した。
「落ち着いた? じゃあ早速、その珍しい果物とやらを見せてくれないかな」
「……はい。畏まりました」
 菖蒲はコートを脱いで掛け、いつものメイド姿になるやてきぱきと準備を始める。てっきり狼狽えて言い訳を始めるものだとばかり思っていた月彦は、迷わず準備を始めた菖蒲に些か面食らった。
(ん……? まさか、本当にあったのか)
 程なく、大きなガラス製の平皿に盛りつけられた奇妙な果物が月彦の前へと運ばれてきた。それは言うなれば、サクランボと苺を掛け合わせたような、奇天烈な果物だった。
「菖蒲さん、これは……?」
「はい。これは“イチヤメオト”と呼ばれる、苺の一種でございます」
 荒い呼吸を押し殺しながら、できうる限り平生を装いながら、いつもの機械人形じみた所作だが、月彦は見逃さなかった。
 説明を終えた後の一瞬、ほんの一瞬だけ、菖蒲が口元に妖しい笑みを浮かべたのを。


「イチヤメオト……ねえ。見た目にはただの変な形してる苺にしか見えないけど」
 月彦はしげしげと観察する。苺は丁度サクランボのように、小ぶりなものが2つずつ鈴なりに成っており、どういうわけか片方が赤色もう片方が黄緑色をしていた。もしや熟し切っていないのではと思ったが、他も全てそうなっていることからどうも赤と黄緑色のものがセットで結実するものらしい。
「……これ、このまま食べても大丈夫なの?」
「はい。先ほどわたくしが責任をもって水洗い致しましたので、そのまま召し上がられてくださいまし」
 そういえば、むしろ俺の方が手を洗ってないなと月彦が思った瞬間、まるで心を読まれたようなタイミングで菖蒲がおしぼりを差し出してきた。おしぼりで丁寧に手を拭き、まずはと月彦は赤色の方の実を摘み上げる。
(…………どうせ)
 “これ”も何か仕掛けがあるのだろう。二度目、三度目ともなれば、予想もつくというものだ。しかし今日に限っては、むしろそれでもいいかなという気分だった。
 自嘲気味に赤い実を囓った、次の瞬間。
「…………酸っぱ!」
 脳天を突き抜けるあまりの酸っぱさに月彦は思わず椅子を蹴って席を立ち、大きく仰け反って天を仰いだ。例えるなら、一万個の梅干しを絞って汁を抽出して、煮詰めて煮詰めてほんの小瓶程度まで凝縮したそれを舐めたような。
 思わず口の先を窄めてしまうほどのすさまじい酸味だった。
「あ、菖蒲さん! これめちゃくちゃ酸っぱいんだけど!」
 席には座らず、月彦の脇に立ったままの菖蒲はあくまで落ち着き払った様子で「では黄緑の方を召し上がられてくださいまし」と微笑んだ。
「……………………。」
 やや警戒しながら、今度は黄緑の実を口に含む。
「苦っ!」
 まるでコンクリートと油粘土の煮汁でも飲んだような圧倒的な苦さに、思わずうげえと舌を出してしまう。
(なんだこれ……どっちも食えたもんじゃないぞ……)
 或いは、苦いモノが大好きという菖蒲だからこその好物なのだろうか――疑惑の目を向けると、菖蒲は小さく頷き、微笑んだ。
「では月彦さま。今度は“二色一緒”に召し上がって下さいまし」
「2つ同時に……?」
 先ほど感じた酸味と苦味のすさまじさを思い出し、月彦は二の足を踏んだ。もしあの凄まじい味を同時に味わってしまったら、或いは失神してしまうのではないかと危ぶんだからだ。
(ええい……ままよ!)
 しかしここで憶しては男が廃る。月彦は意を決し、2つの実がついている茎ごとつまみあげ、赤黄緑両方の実を同時に口の中へと放り込んだ。
「ふおあああっっ…………!」
 予想していた味とのあまりの落差に、月彦は思わず声を漏らした。
(な、なんじゃこりゃ……甘い……甘すぎる、けど……いや、甘すぎるけど……甘すぎない!)
 天上の甘露とでも言うべきか。身も心もトロトロに蕩けてしまいそうなほどの究極の甘味に、月彦は魂を失ってしまったかの様に、ただただ法悦するばかりだった。
「…………いかがでございますか?」
 菖蒲の声が聞こえたときにはもう新たな房を取り、口に含んでしまっていた。
 二度目だから、だろうか。一度目の時のように衝撃のあまり茫然自失とすることこそなかったが、それでも筆舌に尽くしがたい旨さに身震いが止まらない。
「うまっ……美味いよ菖蒲さん! こんな美味い苺食べたの初めてだよ!」
 手が止まらない。月彦は瞬く間に皿に盛られたイチヤメオトの半分ほどを平らげてしまった。
「ご満足いただけたようでなによりでございます。…………ですが月彦さま、イチヤメオトには実は……もう一つ、違う召し上がり方があるのでございます」
「もう一つの食べ方……?」
 機械人形のような、いつもの菖蒲に見えるが、その目が妖しい輝きを放っていることに月彦は気づいた。発情も治まったわけではなく、あくまで自制しているだけ。その証拠に、言葉を発する際の唇の動きすらも艶めかしく見える。
「はい。ですがそれは“ある理由”から禁忌とされているものなのでございます。“普通の召し上がり方”でも十二分に美味なイチヤメオトを、あえて邪道な方法で召し上がる必要は無いかと思われます」
「意地悪だな、菖蒲さん。そこまで言っといて、禁忌な理由も食べ方も教えないってのは酷すぎるよ」
 もちろん菖蒲も、そう返されることを見越して話を振ったのだろう。月彦はもう、顔がニヤけるのを止められない。
「……ですが、月彦さま。本当に後悔なさいませんか?」
「後悔するかどうかは聞いてみないとわからないよ。……それにどうせ、“その食べ方”のほうが美味しいんだろ?」
「それはもう」
 菖蒲は頷く。
「比べものにならないと聞いております」
「聞いている、ってことは菖蒲さんもその食べ方を試したことはないってこと?」
「はい。といいますのも、実はその召し上がり方というのが……味が増す代わりに副作用が伴うのでございます」
「へえ……?」
 味が増す代わりの副作用――そう聞いただけでもう、月彦にはその副作用というのがどういったものなのか想像出来る気がした。
 菖蒲はテーブルに近づき、イチヤメオトへと手を伸ばす。そして房を一つ手に取ると、赤い実のみを茎から切り離し、そしてさらに別の房を手にとり、今度は黄緑の実を切り離した。
「このように、それぞれ“違う房の実”を組み合わせることで、イチヤメオトはさらに美味となるのでございますが――」
「その代わり、極度の興奮作用があったり、理性が無くなったり、性欲が増したりする……とかかな?」
「ご明察の通りでございます」
 何が明察なものか――思わずそう口にしそうになる。
「なるほどね。だから“イチヤメオト”なわけだ」
 菖蒲が、無言で頷く。
「“どうか私と一夜限りの夫婦に”――古より不倫の誘いに用いられ、イチヤメオトという名もそこからつけられたと聞いております。故に、既婚の女性あるいは男性にイチヤメオトを贈る行為自体が非常識とされ、月彦さまもご賞味された通り、天上の蜜が如き美味であるにも関わらず、その存在自体あまり公にはされておりません」
 確かに不倫の誘いに使われ、またその果物自体も不倫を助長するような効果があるとすれば、他の果物同様に広く親しまれるというわけにはいかないだろう。
「……で、その“不倫の誘いに使う果物”を、菖蒲さんは一体誰から貰ったのかな。俺はそれが気になるんだけど」
「そ、それは………………」
 その質問は想定していなかったのか、それまで機械仕掛けのように凛としていた菖蒲が突如狼狽し、あたふたと両手をばたつかせる。
「………………申し訳ございません。実は頂いたというのは誤りでございまして……」
「……ひょっとして、盗んだ?」
 冗談のつもりで訪ねると、菖蒲はますます狼狽の度を強めた。
「いえ、あの、その……じ、実は……白耀さまが特別に仕入れられたものを…………その……少量であればお気づきにならないのではないかと思い……」
「白耀が仕入れた…………?」
 どうやら菖蒲は、白耀が仕入れたイチヤメオトをこっそり無断で拝借してきたらしい。菖蒲の手癖の悪さも問題だが――そもそも少量と呼ぶには数が多すぎる――それよりなによりも白耀が何故こんな妖しげな代物を仕入れたのか、むしろ月彦にはその方が気になった。
(ひょっとして、菖蒲さんに一服盛るつもりで仕入れた……?)
 しかしだとすれば、仕入れたことを菖蒲に悟られないようにするのではないだろうか。それとも、面と向かってプロポーズがてら“誘い”を持ちかけるつもりだったのだろうか。
「……その、これはわたくしの推測でございますが、恐らく由梨子さまの為ではないかと思われます」
「へ……? 由梨ちゃんの為って……一体どういう……」
「それは、わたくしにも…………ただ、ここの所ずいぶんと親しげにされている様ですので…………」
「……っ………………」
 伏撃。よもやの方角から投げつけられた刃物に、月彦は胸奥深くを貫かれた。
(…………やっぱり、そういうことなのか)
 “アレ”を見たのが自分だけならば、まだ勘違いという可能性はゼロではなかった。十中八九由梨子と白耀はデキているだろうが、ただそう見えただけであり、由梨子にも白耀にもそのつもりは全く無いという可能性も残されていた。
 しかし、菖蒲の目にもそう見えたということは、それはもう僅かな可能性すらも消え失せたということではないか。
(白耀が、イチヤメオトで由梨ちゃんに“不倫”を持ちかけた? いや、さすがにそれは無いか……)
 あの誠実が服を着ている様な男がそんなマネをする筈が無いと思う反面、白耀にも“あの女の血”が入っているのだと考えれば、絶対に無いとも言い切れなかった。
(だとすれば、由梨ちゃんはイチヤメオトで手込めに? ……いや)
 月彦は思い出す。デパートで見た、白耀と楽しげに話す由梨子の横顔を。何度も体を重ね、その都度心も通わせたからこそわかる。あれは体は屈しても心は屈していない者が見せる笑顔ではない。
 純粋な、混じりっ気なしの好意を抱いていなければ、見せられない笑顔だ。それに関してだけは、月彦には確信があった。
「あの、わたくしの言い方が月彦さまを誤解させてしまったかもしれません。白耀さまは恐らく、単純に“珍しい果物を見せたい”というようなお気持ちで、由梨子さまに贈られただけでではないかと思われます。……その、月彦さまが危惧されているような使い方は――」
「…………いや、大丈夫だから。ありがとう菖蒲さん、気を遣ってくれなくても俺は大丈夫だから」
 菖蒲も、紺崎月彦と宮本由梨子の関係は知っているのだろう。そしてそれが今、どのように変化しつつあるのかも。
「…………てことはアレかな。ひょっとして俺はもう、白耀に遠慮とかしなくていいってことなのかな」
 呟く。もちろん独り言であるから、菖蒲が返事をするはずもない。だが、まるで高鳴る鼓動を抑えるように、菖蒲が己の胸元に爪を立てるような仕草をするのが、視界の端で見えた。
「もし白耀が由梨ちゃんとくっつくなら、俺が“菖蒲”を自分のモノにしても、誰にも文句を言われないわけだ?」
「……っ…………つ、月彦さま……? あの…………」
 怯え、狼狽えたように、菖蒲が半歩後退る。白々しいとはこのことだ。イチヤメオトを出したのも、それにまつわる話をしたのも、由梨子の話題を出したのも、全ては計画通りの癖に。
(……くそっ。また……)
 さながら、一面の枯れ草に火のついたマッチ棒を放り投げたかのような。心の奥底で、めらめらと黒い炎のような衝動が熾り、瞬く間に全身を支配するのを感じる。先に手を出したのは自分だという自制も、由梨子だけを見てやれなかったが故の自業自得だというも全てかき消されて、ただただ“由梨子を盗られた”という怒りばかりが止めどなく大きくなる。
 一度は抑えたそれが、菖蒲に話をふられたことで再燃する。月彦にしてみれば寝た子を起こされたようなものだった。
(……いや、もういっそ…………)
 “我慢”などする必要はないのかもしれない。結果的にみれば、白耀にその気がなかったにせよ由梨子を盗られたことは変わりは無い。“そんな気はなかった”という意味で言うならば、それは自分も同じではないか。
 そう、つまり――先ほど、自分で言った通り――これから菖蒲に何をしようとも、白耀に対して引け目や負い目を感じる必要は一切無いということではないか。
「………………。」
 月彦は大皿へと手を伸ばし、菖蒲に言われた通り、違う房の赤い実と黄緑の実を摘み、同時に口に含む。
「ンぐ…………これは、確かに」
 “同じ房”のものを食べるよりも、数段旨みが増すというのは偽りではないらしい。月彦はさらに立て続けに二度、三度と口の中に放り込んでいく。イチヤメオトに含まれる成分がそうさせるのだろうか。心に宿る黒い炎が、さながら油かガソリンでも注ぎ込まれているかのように激しさを増し、同時に下半身に血が集中するのを感じる。血が滾り、マグマのように熱くなった血液が全身を火照らせる。
 “女”が欲しい。それも、特に今宵は――“彼氏持ちの女”が食いたいと、切に感じる。
「……菖蒲」
 声をかけただけで、菖蒲はまるで虐待に怯える子供のように体を震わせた。或いは、“今の自分”はそこまで怯えられる程に怖い目つきをしているのだろうか、月彦には判断がつかない。
 月彦は無言で、視線だけで側に来るように促す。菖蒲は怯えながらも促されるままに月彦の側に立つ。手を伸ばせば容易く触れられる距離だ。
 改めて、見る。普段はツンと取り澄ました、それこそ機械人形のように感情を感じさせない無機質なメイドである菖蒲が、今はその内側に熱い肉欲を隠しに隠し、その上で怯えて見せている。本当は襲われたくてウズウズしているくせに、それをひた隠しにしている様がもう可愛くて堪らない。
(そういう意味では、真央と近いっちゃ近いか)
 ただ、必要ならば自ら手を出してくる真央と、あくまで“主”に手を出させる菖蒲という違いはある。ただ、“手を出させる為”なら手段を選ばないという点において、そこはかとなく春菜の教育の跡が見え隠れするのは気のせいだろうか。
(…………どうしてやるかな)
 自分の我が儘で、菖蒲の半日を潰してしまった。菖蒲にしてみれば、体の疼きを堪えながら由梨子の代替にされるようなデートに興じるのは苦行以外の何物でもなかったことだろう。自分には、“その分”菖蒲を愉しませてやる責務がある――月彦は菖蒲の全身を舐めるように観察しながら、ぺろりと舌なめずりをする。
「ふむ……」
 イチヤメオトの赤と黄緑を摘み上げ、口の中へと放り込む。舌で転がすようにして噛みつぶすと、溢れた果汁が須臾の苦味と酸味を経て天上の甘味へと変化する。まるで、果汁自体が不貞を勧めるように、その思考はどす黒く染まっていく。
「菖蒲、白耀のことは好きか?」
「……月彦さま?」
 月彦の質問の意味を計りかねたのか、菖蒲が耳を疑うかのように聞き返してくる。先ほど“薬”を飲んでからまだ一時間と経っていないが、どこか熱に浮かされた様な目は既に理性の火が消えかかっているように見える。
「白耀のことは好きかと訊いている」
「は、白耀さまの、ことは…………」
 菖蒲は言葉に詰まりながらも、顎を引いて上目気味に月彦の顔色を覗き込んでくる。従者としての経験をフル動員させて、主の言わんとするところを全力で探る――そんな目だ。
「…………はい。白耀さまはわたくしの……無二の主でございます」
「ほう……?」
 月彦はなんとも楽しげな声で、菖蒲に“正解”だと教えてやる。礼儀正しくスカートの前で重ねられた白い手袋が小さく、ほんの僅かに動くのが見えた。――そう、まるで快哉を叫ぼうとして、慌てて止めたかのような動きだった。
「俺の聞き違いかな。白耀が無二の主だと言ったように聞こえたが」
「お聞き間違えではございません。わたくしにとって、白耀さまこそが主。これはわたくしの本心でございます」
 “正解”が分かったことで調子づいたのか、なんとも優雅な、芝居がかった調子で菖蒲は答える。
「その言葉に嘘、偽りはないな?」
「もちろんでございます」
 凛とした顔で、菖蒲は大きく頷く。一瞬「そっか。じゃあ白耀と仲良くやってくれ」と部屋を辞したらどんな顔をして追ってくるかなと、意地の悪い考えが頭に浮かぶ。
(興味はある……が、今まで散々期待させて落胆させちまったからな)
 これまで無下に扱った分の贖罪も兼ねて、菖蒲を可愛がってやりたい――月彦は無言で席を立ち、菖蒲に詰め寄る。
「……っ……」
 一瞬、後退りしかけて、無理矢理足を止めた――そんな風に、菖蒲が体を揺らす。月彦を見上げるその目には不安が滲み、頑ななまでに閉じられた唇からは押し殺した荒々しい息使いが聞こえてくるかのようだ。
「な――……」
 舌がもつれたのか、言葉を詰まらせ、菖蒲が半歩退き、睨むように鋭い視線を向けてくる。
「何を、なさるおつもりですか。わたくしに触れて良いのは……あ、主である……白耀さま、だけで…………」
 それはもう、思わず顔がニヤけてしまいそうな程の大根芝居だった。苦笑を噛み殺しながら、月彦は菖蒲へと右手を伸ばし、その顎先を捉える。
「あっ……」
 クイと、僅かに上を向かせ、そのまま左の頬を撫でつける。声と共に開かれた薄桃色の唇は光沢を帯び、それが今の月彦にはなんとも美味そうに見える。
(……そうだ。“菖蒲”はただの女じゃない)
 白耀に絶対の忠誠を誓う従者であり、その恋人なのだと。普段ならば極力頭の中から排除する情報を、月彦は意図的に喚起し、頭の中で咀嚼するように舐る。――そう、まさに“彼氏持ちの女”に手を出すこと自体を愉しむかのように。
(……なるほど、これがイチヤメオトの力か)
 普段ならば心苦しく、興奮など出来るはずもないことすらも、興奮に変える。なるほど確かにこれは危険だと、月彦は納得する。何故なら――そう。菖蒲が白耀の女であるということを意識すればするほどに、菖蒲の体が欲しくて堪らなくなるからだ。
「つ、つきひこさま…………」
 もはや完全に薬が切れてしまったのか。そこに立っているのは機械人形と見まがうような無機質な従者でも、無感情という仮面を被った無愛想なメイドでもなかった。
 苦笑混じりに親指で唇をなぞると、菖蒲の吐く熱く湿った吐息がくすぐったいほどに感じられる。右手で今すぐ菖蒲の頭を掴んで押さえつけ、跪かせて奉仕をさせてやりたい衝動を堪えるのには、驚く程の精神力を要した。
「菖蒲、もう一度答えろ。…………白耀のことは好きか?」
「……はい。何度問われても、この答えは変わりません」
「そうか」
 くっ、と。口の端が歪む。贅沢を言えば、もっと敵意を込めて睨み付けて欲しかったが、そこまで求めるというのは酷というものだ。
(そうだな。出来れば“本気”で嫌がる菖蒲さんを手込めにしてやりたかったが――)
 そう感じるのも、イチヤメオトの力なのだろうか。それとも、由梨子をとられた腹いせを菖蒲にぶつけたいだけなのか。
 月彦はもう、その判断すらつかないほどに、理性を失いかけている自分に気がついた。
「よく分かった。菖蒲、その言葉を忘れるな。……いいな、絶対だぞ?」



 菖蒲の頬に宛がっている右手の親指を、そっと唇の内側へと割り入れる。菖蒲が一瞬、侵入を拒むかのように体を逃がそうとしたが、もちろん月彦は許さない。
「んふっ……んふぁっ……!」
 強引に押し込んだ親指で、頬肉の内側を撫でつける。そのまま何度か抜き差しをした後、今度は人差し指と中指を差し入れる。
「んんっ……ンンンッ!」
 菖蒲が苦しげに呻き、首を振って指から逃れようとするような――そんな仕草をする。が、実際に指が抜けるほどの動きはせず、それはただの“嫌がっているフリ”に過ぎなかった。
「んふぁっ……ぁあっ……ぁふっ……!」
 指に唾液を絡めるようにゆっくりと抜き差しすると、菖蒲は徐々に目を細め、うっとりと濡らし始める。次第にねっとりと舌を絡めてくるようになり、抜き差しの度に溢れた唾液が唇を濡らし、はしたなくも糸を引いてメイド服のリボンを、エプロンを汚していく。
「ひはぁっ……はへええふははっっ……んはぁっ……!」
 くちゅ、くちゅ、ちゅぽっっ――卑猥な音を立てながら、じっくりと時間をかけて抜き差しを続けると、菖蒲が堪えかねたような声を上げた。制止をせがむように両手を肩の高さまで上げて、月彦の手を掴もうとするようなそぶりを見せながらも、しかし実際に掴んで動きを止めることはしない。
(……逃げればいいだろうに)
 くつくつと、笑いがこみ上げてくるのを抑えきれない。そう、嫌ならその場に立ち尽くさず、さっさと逃げればいいのだ。
「……どうした、菖蒲。そんなに涎を溢れさせてはしたないにも程があるぞ。見ろ、エプロンが菖蒲の涎でべとべとじゃないか」
「ンぁぁ……それ、は……月彦、さまがっっ…………はぁう!」
 指を抜き、菖蒲に“反論”をさせてから、今度はその背に回る。左腕を腰に回し、抱き寄せながら。今度は背後から右手を回し、指をしゃぶらせる。
「あぁぁ……そんな……、また…………んんゥ……!」
 月彦の腕の中で菖蒲はじれったそうに身じろぎをしながらも、今度は積極的に指をしゃぶってくる。
「ほら、どうした菖蒲。嫌なら噛め。噛めば今すぐ止めてやるぞ?」
 猫耳に生えている産毛を擽るような甘い声で囁いてやる。菖蒲は喉奥をゴロゴロと心地良さそうに慣らして反応し、まるで月彦の言葉の機微を察したかのように甘く、甘く指を噛んでくる。
「そうか、やっぱり嫌か」
 唇から指を抜く。とろりと、白い糸を引いて引き抜かれたその指で菖蒲の顎先を捉え、振り向かせる。はあはあと荒い呼吸を繰り返す菖蒲はとろけた目で、熱烈に訴えかけてくる。
 “欲しい”――と。
「どうした。何か言いたいことでもあるのか?」
 問いながら、さらに月彦は菖蒲の腰へと回している左手で、そっと腹部を撫でつける。
「……っ! つ、月彦さま…………!」
 予感は当たった。菖蒲は月彦の愛撫に瞬く間に反応し、今度は左手首を直接掴み、引きはがそうとすらしてくる。
(……発情中なら、こういうのも効くんじゃないかと思ったら、ドンピシャだったか)
 菖蒲の蕩けきった目を見ていて、ふと雪乃の事を思い出したのがきっかけだった。胸でも、尻でも、秘部でもなく。腹部――その奥、子宮へと意識が向くように撫でてやると、雪乃はたちまち厳粛な教師の仮面を脱ぎ捨て、受精のことしか考えられない一匹のケモノに変じてしまうのだ。
「やぁっ……どうしっっ…………あぁぁぁぁ………………!」
 菖蒲自身、何故そんな場所を刺激されて“こうなる”のかが理解できてないのだろう。自分の身に起きる不可解な現象に演技ではなく“素”で狼狽えながら、半ば本気で月彦の手を引きはがしにかかる。
 が、もちろんそんな事は許さない。むしろ撫でるだけではなく、エプロン越しに強く揉むように刺激を続ける。
「あぁぁぁぁっ……ぁぁぁぁぁァァ……!」
 菖蒲は声を上げながらイヤイヤをするように首を振る。息使いは目に見えて荒くなり、殆ど倒れ込むように体重を預けてくる。
「やっぁ…………もうっっ…………もうっっ…………耐えられません……!」
 もぞもぞと、何かが股間を這い回る感触。見れば、菖蒲の手袋に包まれた手がズボンの上から強張りを撫でつけていた。
「これを……どうか……後生でございます、月彦さまァァ……」
「やれやれだな。……そんなに欲しいのか?」
「は、はいっ! 菖蒲はもう、月彦さまに抱かれることしか考えられません! どうかお情けを……!」
「“早すぎる”ぞ、菖蒲。せめてもう少し白耀に義理立てをして、俺を愉しませて欲しいもんだ」
 菖蒲の背を突き飛ばすようにして体から離し、そのまま壁に手を着かせる。
「そのまま尻を突き出せ。そして自分でスカートをまくし上げろ」
「は……はい……!」
 菖蒲は月彦の方に尻を向け、差し出すようにしながらロングスカートをまくし上げ、尻尾に引っかけるようにして下半身を晒す。すっかり色の変わった白の下着と、同じく白のガーダーベルトストッキングに、月彦は人知れず生唾を飲む。
(毎度のことながら、メイド服の下にガーダーベルトって……エロすぎだよな)
 しかも、スカートの黒に対してガーダーベルトの白が映えること。慎ましやかな色気が股間を直撃し、月彦はむらむらと性欲が増すのを感じる。
(それに……なんて言うか……“濃い”な)
 むらむらさせられるのは、ガーダーももちろんだが“それ以外”の要因も明白だった。スカートの下で濃縮されていた発情期特有のフェロモンがまくし上げられた拍子に拡散し、その甘酸っぱい香りがいやでも鼻腔を突く。じっとりと湿り気を帯びたそれは月彦の脳を痺れさせ、ベルトの金具が軋むほどに下半身を猛らせる。
「これ、で……よろしいでしょうか」
 自分の下半身がどうなっているか等、菖蒲自身が一番よく分かっている筈だ。それを灯りの下に晒すことを強要され、さらに差し出すように突き出すように命じられ、その顔は羞恥の赤に染まりきっていた。
「あぁぁっ……月彦さま!」
 気がついたときにはもう、右手を伸ばして菖蒲の尻肉を鷲づかみにしていた。触りたいと思うよりも、触ろうと思うよりも先に、本能が勝手に体を動かしたのだった。
「あぁっ! あっ、あっ、ぁ!」
 好き勝手に揉み捏ねると、それに連動してりんりんと鈴の音が鳴り響く。色の変わった下着の下から、目に見えて蜜が溢れ出し、ストッキングの色を変えていく。
「……まるで涎だな」
 嘲るように呟くと、菖蒲はまるで恥じ入るように耳を伏せ、月彦の視線から逃げるように顔を壁の方へと向ける。
「まったく……」
 苛立ちにも似た衝動のままに、月彦は大きく手を振り上げるや、そのまま思い切り菖蒲の尻へと叩きつけた。
「ひィン!」
 シンと静まりかえっていた室内に、耳が痛いほどの音が響いた。手のひらに感じる痺れにも似た感覚は、相応の痛みを菖蒲に与えたことを物語っていた。
「……交尾狂いのメス猫が。口を開けばその催促ばかり……お前の頭にはそのことしか無いのか」
 月彦は再び振りかぶり、菖蒲の尻を引っぱたく。
「つ、月彦さまぁぁ……お、お許し、を……ひん!」
「許しを請う前に、少しは反省したらどうだ。躾のなってない犬が涎を溢れさせているのと変わらないぞ」
 さらに二度、三度と尻を打つ。菖蒲に罵声を浴びせ、尻を打つ――その好意に、月彦は自分でも驚くほどに興奮していた。
「ふーっ…………ふーっ…………」
 荒々しい息使いが自分のものだと気づいたのは、手のひらに痛みを覚えるほどに打ち据えた後だった。ごくりと生唾を飲み、怯えるようにただただ尻を差し出す菖蒲の姿に、むらむらと堪えがたい欲情を感じる。下着に手をかけ、そのまま一気に膝下までずり下ろすや、鼻腔を突くフェロモンの濃度が一気に高まった。
「あぁンッ……! 月彦さまぁぁ……!」
 下着を下ろされたことで、菖蒲の興奮も最高潮に達したのか。足踏みをするようにして尻を振り、鈴の音を響かせながら尾をくねらせる。とろり、とろりと溢れた蜜が糸を引いて滴り、膝まで下ろした下着へと染みていく。
 指が、まるで吸い込まれるようにヒクつく割れ目へと伸びる。そのままにゅぱぁと開くや、菖蒲は小尻を震わせながら声を上げた。
「……すごいな、菖蒲。“これ”が発情期か」
「つ、月彦さま……? あぁぁ、そんな……あぁぁ……お止め、くださいまし…………」
 割り開いた秘裂を、鼻が触れそうな距離で凝視されていると気づいた菖蒲が、慌てて手で隠そうとする――が、もちろん月彦が許すわけがない。
「ヒクヒク、ヒクヒクって痙攣しっぱなしで、まるでおいでおいでをしてるみたいだぞ。“匂い”も強いし、何より……」
 月彦は指を差し込み、そのままにゅぐりっ、とねじ込むように動かす。
「あヒィッ……! ぁっ、あぁんっ……!」
「火傷しそうなくらい熱くて、ドロッドロだ。ちょっとかき回しただけで――」
 月彦はわざと卑猥な音を立てながら秘部をかき回し、そして指に絡みついた白く、泡だったそれをわざわざ菖蒲の眼前に突きつける。
「月彦、さま……んぷぁっ…………ぁふっっ…………」
「“自分の味”はどうだ、菖蒲」
 顔を背けようとする菖蒲の唇に指をねじ込み、無理矢理にしゃぶらせる。始めは顔を背けようとした菖蒲だったが、次第に自ら舌を絡め、吸い付き始めるや、月彦はあっさりと指を抜いてしまう。
「ぁ、ふ……月彦さまァァ……」
「あぁ、分かってる。散々焦らして悪かったな」
 月彦もまた、下半身を解放する。勢いよく天を仰いだそれが、びたーんと痛いほどに腹を打つ。
「ひぁっ……つ、月彦さま…………そ、それ、は…………」
「あぁ、気づいたか。菖蒲のせいだぞ? 発情フェロモンで散々俺を誘惑して、興奮させ続けたせいで“こう”なっちまったんだからな。……まぁ、さすがに裂けることはないだろ」
 月彦は剛直を菖蒲の秘裂へと宛がい、割り開いた粘膜部分に先端部を擦りつける。それだけで、今から自分が挿入されるものの質量を感じ取ったのか、菖蒲がひぃと、混じりっけ無しの悲鳴を漏らした。
 そのまま、一気に挿入――しようとして、止める。
「…………月彦、さま?」
「考えてみたら――」
 はたと。月彦は考え事でもするように菖蒲から視線を逸らし、さらに体まで離してしまう。
「今日って、日曜日なんだよな」
「あ……あの、月彦さま…………早く…………あの!」
 待ちきれないとばかりに尻を振りながら菖蒲が声を上げる。が、月彦は菖蒲の存在など目に映らないとばかりに“独り言”を続ける。
「参ったな……日曜日か…………」
「月彦さまっっ……月彦さまっ……!」
 菖蒲はとうとう月彦の足下にしゃがみ込み、まるで幼子が玩具をねだるようにその足に縋り付くようにして懇願してくる。
「こーら、菖蒲。だれが手を離していいと言った?」
「で、ですが……」
「ほら、立て」
 菖蒲を立たせ、さらに背後からその体を抱きしめる。スカート越しに、熱く滾った剛直を押し当て、菖蒲にその存在を強く意識させる。
「菖蒲、困ったことになったんだ」
 その上で、囁く。
「つ、月彦さま……? あぁ……!」
 囁きながら、菖蒲の体をまさぐる。服の上から胸元を揉みしだく。
「折角だから、たっぷりと夜通し菖蒲の体を愛でてやろうと思ったんだけどな。明日が“月曜日”じゃちょっと都合が悪い。どんなに遅くまで粘っても、朝には帰らないといけないからな」
「そん、な……あぁぁ……!」
 腰のくびれを、首を。頬を。撫でるように触る。発情した体はそんな愛撫でも堪らなく感じるのか、菖蒲は可愛いまでに声を荒げる。
「何とかならないかな?」
「ど、どういう意味で……ございますか?」
「菖蒲は、確か母さんと知り合いだったよな?」
 くっと、口元が歪む。“こういう発想”が出るのも、イチヤメオトのせいなのだろうか。或いは、由梨子を失ったが故の――。
「巧く言い訳できないか?」
「く……葛葉さまに……?」
「そう。俺の手がどうしても必要だからって。母さんを巧いこと説得できるなら、時間を気にせずたっぷりと菖蒲を可愛がってやれるぞ?」
「わたくしが…………葛葉さまに…………」
 はあ、はあ。
 ふう、ふう。
 呟いたときにはもう、菖蒲の目は受話器の子機の方へと流れていた。
「そうだ。ちゃんと“バレない嘘”を頼むぞ、菖蒲?」


 

 

 

 

 

 

 

 

 ……。
 …………。
 ………………。
  暗く、狭い――立ち上がることすら出来ない空間で、真田白耀は己の膝を抱えるようにして蹲っていた。一瞬、何故自分はこんな場所で、しかもこんな窮屈な姿勢で居るのかと疑問に思い、記憶を辿ること数分。程なく白耀はこの場所に至る経緯を思い出した。
(ああ、そうだ。僕は――)

 白耀は思い出す。昨日の由梨子とのやりとりを。菖蒲に贈るコートを選んで貰い、さらにその“渡し方”についても由梨子の“思い出”からヒントを得た。が、そこから先の発想を得るのは、白耀が思っていた以上に難しいことだった。
 時間は無いに等しかった。由梨子から聞いた話では、菖蒲はもう待ち疲れているのだという。身に覚えがあるだけに、白耀は尋常では無い程に焦りを覚えた。
 菖蒲を他の男に取られる――想像しただけで、全身が燃えるような激しい感情がわき起こる。それが嫉妬とよばれるものだということも、男が抱くことは見苦しいと言われていることも当然知っていたが、だからといってどうにかなるものでもない。
 出来れば、デパートから帰ってすぐにでも菖蒲の元を訪れ、プロポーズをしたかった。しかしいくらなんでもそれは性急すぎると由梨子に止められ、ならば翌日にはと。白耀は意気地の無い己を奮い立たせる為にも厳格にリミットを設け、そしてそれまでに“菖蒲が驚くような渡し方”を考えるのだと、己に課した。
 しかし、思いつけなかった。母親を恨んだことはそれこそ全ての尻尾の毛の数を全て足しても足りないくらいだが、この時ほど強烈に恨んだことはなかった。女のような顔よりも、白い肌よりも、あの狡猾な頭脳が欲しかったと、白耀はそれこそ柱に頭を打ち付けるほどに恨んだ。
 一体どうすれば菖蒲が目を見開いて驚き、そして優しく微笑んでくれるような――そんな渡し方が出来るというのか。白耀はただひたすらにそれのみを考え、考えて、考えて、考え抜いた。
 それは言うなれば、自分が何故妖狐の輪から外れ、人の中に紛れて暮らすようになったのかを追憶するにも似た作業だった。結局の所、真田白耀という妖狐は――“その頃”はまだマシロという名だったが――他者の裏をかく、人を陥れる、騙すといったことに対して決定的なまでに才能が無かったのだと。
 夜通し考え続けて、結局名案と呼ぶにはほど遠いものすら浮かべることが出来なかった。いっそ、恥を忍んで月彦に相談しようかとも思ったが、先だって菖蒲を通して持ちかけられた鍋の誘いを断ってしまったという負い目が、白耀にそれをさせなかった。もちろん、仕事が忙しくてどうしても抜けられなかったという事情はあるが、恩人でもある月彦の誘いを蹴ってしまったことには変わりは無い。
 結局、何の策も思いつかぬまま――徹夜で考え続けて、憔悴しきった顔を隠す為に薄化粧までして――身支度を調え、菖蒲のマンションへと向かったのは昼過ぎのことだった。
 すう、はあ――深呼吸を繰り返し、いざインターホンを押そうとした瞬間、白耀の脳裏にある光景が蘇った。そう、それは昨日夜のこと。他ならぬ菖蒲本人からの電話だった。。
(そうだ、菖蒲は今――)
 昨夜、電話口で明日はどうしても出掛けなければならない用事が出来たから休みが欲しいと言っていた。“画期的なプロポーズの方法”を考えることにテンパっていたところに、まさかの本人からの電話。嬉しさと、気恥ずかしさと、そして何よりも焦りを感じて、白耀は己が何と返事をしたのかすら殆ど覚えてはいなかった。恐らくは、ダメだとは言わなかった筈だ。
 ということはつまり、今、菖蒲は留守ということではないか。何故家を出る前にそのことに気がつけなかったのか。それよりもなによりも、まず電話口で何時に用事が終わるのかを尋ねるべきではなかったか――己の頭の鈍さと迂闊さに、白耀はがっくりとその場に膝を突いた。丁寧に包装してもらったコートの紙袋まで落とさなかったのは、不幸中の幸いだった。
(菖蒲は留守…………それなら、いっそ――)
 こうなったらもう、破れかぶれだ。徹夜明けで正常な判断力も失っていたのかもしれない。
 白耀は土壇場で、とんでもない奇行に奔った――。


 そして今、白耀は菖蒲の部屋、そのクローゼットの中に身を潜めていた。もちろん鍵など持っていないから、己の身を霧状に変えて侵入した。そう、予め部屋に潜み、菖蒲が帰って来た瞬間躍り出て驚かせる為に、だ。
  最初は浴室に潜もうかと思って、予想外に冷えることと、もし菖蒲が帰宅後すぐに入浴するつもりで一糸まとわずに入ってきたら最悪だと思い、断念した。 ならばトイレか。しかしこれは最悪変態のレッテルを貼られるかもしれない。いっそ堂々とリビングで仁王立ちか。絡め手でベランダというのはどうだろう――白耀の頭の中を様々なシミュレーションが駆け抜け、そのどれもが妙案とは思えず、そして徹夜の疲れもあって半ば吸い込まれるようにクローゼットの中に収まってしまったのだった。
 ひょっとして、これは名案どころかとんでもない愚策ではないのだろうかと白耀が気づき始めたのは、ひと眠りをして頭がすこしばかり冷静になってからだった。なるほど、確かにクローゼットの中に潜んでいれば、菖蒲は驚くだろう。しかしそこからプレゼントを渡して、果たして菖蒲は喜ぶだろうか?
 これは一端出直すべきではないか――白耀が脱出を考え始めた時、“それ”は聞こえてきた。
(これは……もしや、菖蒲の声!?)
 ゾッ……と背筋が冷えた。どうやら居眠りをしていた間に、既に菖蒲は帰宅していたらしい。ただ、寝室ではなくリビングのほうに居て、声の感じからなにやら電話をかけている様だった。
(どうする……一端脱出するか、それとも今行くか、或いは――)
 菖蒲が寝室に入ってきた時にするべきか。悩みに悩む白耀の耳に、菖蒲の声ではない――別の人間の声が飛び込んできたのはその時だった。
「えっ……?」
 それも聞き覚えのある声。まさか、菖蒲は誰かを連れて帰宅したというのか。白耀は人のそれよりも大きく、鋭敏な耳を。文字通り声のする方へと傾けた……。

 


 発情衝動に身もだえしながら。下半身からは涎のように蜜を溢れさせながら。それでも菖蒲は平生そのものといった声で、葛葉に電話をかけていた。
(おやおや……)
 そう思ったのは、菖蒲の“バレない嘘”の内容だった。どうしても男手が必要な作業があり、しかも月彦以外に頼れる相手が居らず、ひょっとしたら作業が長引いて明日までかかってしまうかもしれない――そう説明する菖蒲に、月彦は些か感心する思いだった。
(しかも、嘘は言ってないしな)
 交尾がしたくて堪らず、相手が紺崎月彦しかいない。いつまでかかるかわからない――その事実をうまく暈かした菖蒲の言い方に、月彦は苦笑が止まらない。
「……本当にもうしわけございません、葛葉さま。…………或いは、明日中でも終わらないかもしれません」
 チラチラと、濡れた目で月彦の方を盗み見ながらそう付け加えた時などはもう、苦笑を通り越して噴き出してしまった。
(……どんだけ欲張りなんだ)
 思わず、媚薬を飲んだ真央でももう少し控えめだぞと、口から出そうになる。
「はっ……い、いえ! 大丈夫でございます! 葛葉さまのお手を煩わせるわけには…………はい、はい……月彦さまだけで……はい…………よろしくお願い致します…………はい、では、失礼致します」
 菖蒲が受話器を置く――やいなや、月彦は再びその体を抱きしめていた。
「あんっ……月彦さまぁ……♪」
 巧く出来ました――媚びるような笑顔を浮かべる菖蒲の体を力一杯抱きしめ、頬ずりをしてやる。
「まあ、80点、ってところか。結構危なかったんじゃないのか?」
「は、はい……そんなに大変な作業なら、自分も手伝いにいったほうがいいかと、葛葉さまが仰られて…………あぁん!」
「ま。とにかくこれで……時間を気にせずたっぷりと可愛がってやれるわけだ」
「あぁぁ……!」
 菖蒲が感極まったような声を上げる菖蒲の手を引き、寝室へと連れ込む。菖蒲も全てを察したように、自らクローゼットへと手をつき、スカートをまくし上げ、尻を月彦の方へと向け、差し出してくる。
「月彦さまぁっ……♪ これでよろしゅうございますか?」
 自らスカートをまくしあげて高々と上げた尾にひっかけ、さらに尾をフリフリさせながら、菖蒲が誘う。
「……まったく」
 苦笑混じりに、月彦は菖蒲の尻を追いかけ、いい加減我慢も限界にきていた剛直を、喘ぐようにヒクついている秘裂へと押し当てる。
 そのまま、ゆっくりと。
「ああァ……!」
 男を求めて止まない菖蒲の体を愉しむように。
「つ、月彦さまっ……ァァ…………ひぃっ……ンッ……ひ、広げられてっっ……あッ………………!」
「っ……う、ぉ…………これ、が…………菖蒲のっ……発情期の、ナカ……か」
 剛直から伝わってくる感触に身震いしながら、月彦は満足げに息を吐く。
(……やべっ……なんだこれ、めちゃくちゃ吸い付いてきて、ぬろぉって擦れて……!)
 まるで襞の一つ一つが吸着してくるかのような、圧倒的な密着感。そして、その摩擦が生む、筆舌に尽くしがたい快感。
「あぁっ……あぁっ……そん、な……まだ、奥っ、にっ……ひぃっっ…………あっ、あァッ……! やぁっ……つ、月彦さまっ……も、もうそれ以上、はぁァッ……!」
 先端が子宮口へとたどり着いて尚余る剛直の尺をもてあますように、月彦はさらにグイグイと強引に押し込み、その都度菖蒲が悲鳴を上げる。
「ふーっ…………ふーっ…………菖蒲、なんだこれは…………全然入りきらないぞ。発情期になると狭くなるのか?」
「も、申し訳ござっ……ま…………ンッ! つ、月彦さま、のが…………いつもより…………あぁぁぁあっ……!」
 確かに、いつもより興奮しているかもしれない――それは月彦も認めるところだった。或いはイチヤメオトによる“副作用”もあるかもしれない。
 が、なによりも。
 “由梨子を盗った白耀の女”を“発情期に犯し、孕ませる”というこの行為自体に、全身の血が滾るほどの興奮を覚えるのだった。
「……仕方ない。このまま動くぞ、菖蒲」
「は、い……はぁはぁ……ンッ……ンンンッ……はぁはぁはぁ…………つ、月彦さまっ……あんっ……ああぁ……!」
 抽送にいつもより力が必要なのは、それだけ絡みついてきているということだ。気を抜けば自分のほうが“喘ぎ”を漏らしてしまいそうな快感に、月彦は歯を食いしばりながら腰を引き、打ち付ける。
(う、あ……ほんと……すげっ…………腰がとろけそうだ)
 これが発情期セックスか――頭の芯まで痺れる途方も無い快楽に、月彦は早くも限界を感じていた。肉襞の絡み方が、いつもより粘度の高い恥蜜が、汗に含まれるフェロモンが。喘ぎ声が。
 菖蒲の全てが“孕みたい”と全力でアピールしてくるのだから堪らない。
「あぁんっ! あぁんっ! 月彦さまっ……はぁはぁっ……これ……す、凄い、れすぅ…………! あぁぁあっッ……ひっ……あっ……あーーーーーーッ!!!!」
 徐々に動き早めていくと、菖蒲の反応も目に見えて激しくなる。先端まで挿入する度に、まるで子宮口に熱烈ディープキスでもされているかのように吸い付いて来て。
「も、もうしわけございまへっ…………い、イキ……ますっ…………菖蒲は、もうっ…………あーーーーーッ!!! あーーーーーーッ!!! あーーーーーッ!!!」
 文字通りケモノのようなサカリ声を上げながら、菖蒲が体を大きく跳ねさせる。それに伴い剛直の質量を半分以下にするような勢いで強烈に締め付けられ、月彦は不意の暴発を避けるために血が滲むほどに唇を噛まねばならなかった。
「……そんなに“良い”のか」
 クローゼットの折れ戸に手をつき、がっくりと項垂れたままなんとか足だけは踏ん張っている菖蒲の姿を見下ろしながら、自身の息の荒さは悟られまいとするかのように、月彦は低く抑えた声で呟いた。
(“白耀の女”のくせに)
 心の中で、蔑むように呟く。白桃のような尻を無防備に差し出し、種付けを希っている女はあの白耀のメイドなのだ――そうやって菖蒲を貶めることが、今の月彦には甘い蜜でも舐めているかのように心地よく感じられる。
(………………そう、だよな。てことは、いつか、由梨ちゃんも…………)
 そして、はたと思う。由梨子も当然――あのまま白耀が距離を詰めていけば、いつかこうして由梨子も抱かれるのだ。
 否、ひょっとしたらもう既に――“その想像”がむらむらと怒りにも似た衝動となり、月彦の中に黒い炎を立ち上らせる。
「菖蒲」
 声をかける。が、菖蒲は応えない。やむなく一度腰を引き、尻肉が鳴るほどに強く、突き上げる。
「あッ……ひぃぃぃッ!!!」
 菖蒲が漏らしたそれは、完全に悲鳴だった。月彦はさらに立て続けに二度、三度と突き上げ、菖蒲に声を上げさせる。
「返事はどうした、菖蒲」
「は、はひっ……もうひあへごらいまへ……あひぃぃぃいいいッ!!!」
 さらに突き上げ、蜜壺をかき回すように角度をかえて乱暴に突き、何度も、何度も、何度も、何度も菖蒲をイかせ、声を上げさせる。
「それが“主”に使う言葉か。しっかりと喋れ」
「も…………もうしわへ…………ご、ざいま、せん…………その、あのっ……」
 はあはあ、ぜえぜえ。
 目尻からは涙を、口からは涎を。鼻水すら垂らしながら、菖蒲はそれでも縺れる舌を懸命に動かし“きちんと”喋ろうとしていた。それは月彦にも分かった。
 ――が。
「なんだ。意見があるならはっきりと言え」
「つ――……つきひこ、さま、のが……その……あまりに、良すぎて…………何度か、意識が…………」
「俺が悪いと言いたいのか?」
「と、とんでもございまッッ………………ンンッ!! あァッ……! やっ……ま、待ッッ…………またっっっ……イッ……〜〜〜〜〜〜〜っっ!!!!」
 菖蒲の体を折れ戸に押しつけるようにしながら、月彦は突き上げる。数回、或いは1,2回突いてやっただけで簡単に達してしまう菖蒲をあざ笑うように、口元に笑みを浮かべながら。
「なんだ、またイッたのか。そんなに“良い”のか?」
「は、はひぃぃ……きもち、いい……れすぅっ………………よ、良すぎ、て……あん! す、すぐにぃっっ……あっ、あん! あんっ……い、イき、ます……ま、またっっ……あぁん!!」
「クク、確かに“いつも”と比べても段違いの感度だな。そうか、そんなに良いのか。発情期の生セックスが」
「あっ、あっ、あっアッッアッ! つ、月彦さまっっ……アッァッアアッ! い、イクッ……あーーーーーーッ!!!!!!」
「はは、いくらなんでも安すぎだぞ、菖蒲。ほら、イけっ。ほらっ、ほらっ、ほらっ!」
「あぁぁん! あンッ! あンッ! あンッ!! つ、月彦さまぁぁっっ……太くて硬いのが、ごちゅんっ、ごちゅんってぇえっ、奥っ……奥っ、にぃぃぃッ……! あん! あんっ! あんっ! あぁぁぁっ……! アッ……はァァッ……♪……これ、きもひぃっ……れすぅぅっ……あぁぁぁぁッ!!! きもひぃっ……ンぁぁぁぁあッ……♪」
 菖蒲は月彦と折れ戸に挟まれながら、体を震わせ、イく。ふぁぁ、と法悦の息を漏らす菖蒲を、まるで蜘蛛かなにかが獲物でもとらえるような手つきで、月彦の両手が抱きしめる。
「そのイき易さは発情期のせいだけとは思えないな。……まぁ、今までたっぷりと開発してやったから、当然っちゃ当然か」
「は、はいぃ…………菖蒲の体は、月彦さまにいっぱいいっぱい開発されて……いやらしくされてしまいましたぁ……♪」
 度重なる絶頂と、征服される喜びに打ち震えているような、歓喜の声。
「最初はあんなに嫌がって、白耀に操を立てようとしてたのにな。変われば変わるもんだ。……ほら、菖蒲。ここ擦られるの好きだろ?」
「はっ、はひぃぃいっっ! あぁぁあっ! す、好きっ……れすっっ……ああっ、ァァ! いっ、イクッ……また、イき、ますっ……! いっ……イクッ……ゥゥウウッ♪」
「はは、すっげぇ。ビクンビクンって震えて、キスするみたいに吸い付いてくるぞ。ホント、最高だな、菖蒲のナカは。……たまんねぇ」
 法悦の息を吐きながら、月彦はやんわりと菖蒲の尻肉をなで回す。
「クク……今の菖蒲を白耀のヤツが見たらショックで悶死するかもな。何百年もかけて、やっとキスまでたどり着けた初恋相手が、実は俺に処女を奪われた挙げ句、発情期に避妊もせずに生セックスしてるんだからな」
「あんっ……つ、月彦さま…………白耀さまのことは…………」
「なんだ、後ろめたいのか? 別にいいだろ」
 あいつには由梨ちゃんがいるんだし――口の中だけで呟いて、乱暴に菖蒲を突き上げる。
(…………っ…………!)
 体の内側で渦巻くように燃えさかる、漆黒の炎。怒りとも、苛立ちとも違うそれに翻弄されるように、月彦はやり場の無い想いをぶつけるように、菖蒲の体を蹂躙する。
「あっ、あんっ! つ、月彦さまぁっ……ンッ……あぁあああッ!!!! つ、強すぎ、ですぅ…………ああぁあんっ!」
「別にいいだろ。菖蒲はもう俺のモノなんだから、好きに犯らせろ」
 菖蒲の腰を掴み、文字通り好き勝手に突き上げる。相手の体の事などまったく考慮しない、ただただ自分が気持ちよくなることを優先させるような、下品な腰使いだ。
「あーーーーッ! あーーーーーッ!!!」
 しかし、そんな身勝手な抽送ですら、今の菖蒲には堪らないらしい。舌を突き出すようにサカり声を上げながら足をピンと伸ばし、尻肉を震わせながら、イく。
「っ……くっ、はぁっ……すっげぇ締まるッ……」
 何度も、何度も。菖蒲がイき、さらにイき、痙攣して収縮する肉襞をさらに擦りあげながら突き、尾の毛を逆立てながらピンと立てるのを苦笑混じりに見下ろしながら、月彦はさらに突き上げる。
「あぁぁっ……たまんねっ…………具合良すぎだろ…………ほら、イけよ淫乱メイド、イけっ、イけ!」
「あぁんっ! あんっ、あんっ! あーーーーーーーッ!!! つ、月彦、さまぁァ……す、少し……休ませ…………あーーーーーーッ!!!」
「こんなにギュウギュウ締め付けて、気持ちいいーーーって絡みつけておいて、よくもまぁ“休ませて”なんて言えるな。本当は突いて欲しくてたまらないクセに」
「あッ! アッ! あッーーーーーーッ!!!」
 月彦の言葉を証明するように、菖蒲は甲高い声を上げ、イく。くつくつと嗤いながら月彦は被さり、菖蒲の胸元に手を這わせ、エプロンドレスの上から揉みまくりながら、さらに突き上げる。
「…………菖蒲の体の抱き心地は最高だな。胸もけっこうあるし、肉付きも悪くない。なにより――」
 くっと、月彦は口の端を歪めながら、菖蒲に覆い被さり、小声だがわざと聞こえるように、呟く。
「“元・白耀の女”っていうのが良い。そういう菖蒲の体を開発して、自分好みに変えるのは最高に興奮する」
「つ、月彦さま……? あぁん!」
「ほら、菖蒲。聞かせてくれ。白耀のことが好きだと言っていたその口で、同じ声で。今の菖蒲の主は誰だ?」
「は、はいっ……わたくしの、主は……月彦さま、ですぅっ……! 月彦さまに、抱かれるのが、わたくしの……一番のっっ喜びっっ……ぁぁああンッ!!」
「クク……そんなに俺に抱かれるのが好きなのか?」
「はいっ……はいっっ……あっッあーーーーーーッ!!! 月彦さまァァッ…………!」
「“抱かれる”なんて上品な言い方、菖蒲には似合わないな。……菖蒲が好きなのはただの“交尾”だろ?」
「あぁぁ……そんなっ……月彦さまっ……ひぅっ……!」
「ほら、上品ぶらずに言ってみろ。交尾が好きだと。ほらっ、言えっ!」
「あヒィィッ! はぁっ……はぁっ……はぁっ…………わ、わたくし、は……月彦さまと……こ………………交尾、を…………する、のが……大好き、です…………」
「なるほど、なるほど。つまり、菖蒲が大好きな交尾をしてくれないから、白耀から俺に乗り換えたわけだな?」
「つ、月彦さま…………もう…………」
 どうやら“交尾”という言葉を用いられるのは菖蒲にとってはよほどの恥辱らしい。
「気にするな、菖蒲。俺も菖蒲と同じで大好きだぞ? 交尾が」
 気取るな、と。言外に含めるように剛直を振るい、突き上げる。その一突き一突きが次第に菖蒲の理性を突き崩し、あられもない声を上げさせる。
「あンッ! あンッ! 月彦さまぁァアッ! あンッ! あぁぁっ、良い、ですぅ……もっと、もっとぉっ……こう、び……気持ちいひっ……れすぅっ……あぁぁぁあァァ!!」
「だんだん本性が出て来たな。…………いいぞ、菖蒲っ…………気取った従者も悪くないが、自分の欲望に素直な従者も俺は嫌いじゃないぞ」
「あぁぁっ……月彦さまっ……もっとっ……もっと、わたくしを……もっと、月彦さまの色にっっ…………あぁぁあッ!!!」
「あぁ、分かってる。“俺好み”にしてやる……菖蒲っ、菖蒲っ、菖蒲っ……!」
 腰の辺りに、徐々に痺れにもにたものが溜まるのを感じる。このまま動き続ければ、長くは持たない――そんな貧乏性にも似た心の動きから、月彦は次第に腰の動きを緩めていく。
「あぁっ、ンッ…………月彦、さま?」
「……悪いな、菖蒲。今日は“こっち”の気分なんだ」
 恐らく後背位が大好きな菖蒲は、このまま獣のように犯され続けることを望んでいるだろう。月彦も最初はそうしてやろうと思った。
 しかし、土壇場で気が変わった。
「菖蒲、こっちを向け」
 剛直を引き抜き、菖蒲を振り向かせる。両手を首に引っかけさせ、そして片足を抱え上げるようにして――再び挿入する。
「あぁあんっ! つ、月彦さま……どうして…………ンンぅっ……!」
「悪いな、菖蒲。…………今日は、菖蒲の顔をしっかりと見ながらシたい気分なんだ」
「つきひこ、さま……!」
 柄にも無く照れたのだろうか。菖蒲が瞬く間に顔を赤くし、月彦の視線から逃げるようにそっぽを向く。そんな菖蒲の顎先を捉え、強引に正面を向かせて――唇を重ねる。
「……考えてみたら、菖蒲とはあんまりキスをしたことが無かったな」
 呟いて、再びキス。合わせて、ゆっくりと腰をくねらせる。そう、先ほどまでの乱雑な動きではなく、菖蒲の体を労るように。
 ――由梨子にする時のように、優しく。
「ンンっ……ンンッ……んァっ……月彦、さま、ぁぁ……!」
「良かった。菖蒲もキスは嫌いじゃないみたいだな」
「はいっ……月彦さまとなら……ンンッ…………! ンンッッ…………ンーーーーーーッ!!!!」
 ぎゅぬ、ぎゅっ、ぎゅーーーーーーっ!激しく収縮する肉襞に剛直が締め上げられ、月彦は思わず唇を噛んでしまう。
「…………菖蒲、しばらくイくのを我慢しろ」
 キスを中断するや、ほとんど弱音のように月彦は言った。
「は、はい……月彦さまが、そう仰る、なら…………で、ですが…………あまり激しくされると…………」
「俺も、そろそろだ。次は一緒にイきたい。……我慢できるな?」
 一瞬、菖蒲は惚けたように目を丸くし、そして言葉の意味に気づくやみるみるうちに顔を真っ赤に染めた。
「つ……月彦さま……それは……その、あの…………つまり…………」
「うん?」
「あ、あのっ……わ、わたくしに……月彦さまのお子を頂けるという意味でございますか?」
「ああ……………………もちろんそうだ」
 菖蒲が一体何を狼狽えているのか、月彦の方も理解が遅れた。月彦が頷くや菖蒲は感極まったようにあぁ、と声を上げた。
「なんだ、最後は外に出されるとでも思ってたのか? 前に言っただろ。俺は菖蒲のことが気に入っている。それこそ、孕ませてやってもいいくらいに、ってな」
「月彦、さま…………あぁぁ、そんな…………も、もう……それ以上は何も仰らなっっ…………お、お言葉だけで……菖蒲は、菖蒲は…………あぁぁぁぁ…………!!」
「なんだ、そんなに嬉しいのか。……だったら、何度でも言ってやる」
 月彦は身を寄せ、ぎしりと。菖蒲が背を預けている折れ度が軋むほどに体重をかけながら、その耳元に唇を寄せる。
「俺の子を産め、菖蒲」
「……っ……つ、月彦、さま……!」
「今更嫌だなんて言うなよ。菖蒲が嫌がっても、俺は絶対に孕ませるからな」
「あぁぁぁぁ……いけません、月彦さま……もう、もうそれ以上は…………堪忍してくださいましぃ……!」
 菖蒲はぱふんと伏せた猫耳をさらに両手で押さえつけて、イヤイヤと首を振る。
「……ほら、どうした。今度は菖蒲の番だぞ?」
「わ、わたくしの……??」
「俺にばかり言わせて、自分は何も言わないつもりか?」
 月彦は苦笑し、耳を押さえていた手をそっと退け、改めて囁きかける。
「子が欲しいと言え」
「ぁっ……」
「はっきりと、声に出して言うんだ。ほら、菖蒲?」
「は、はい…………わたくしは……保科菖蒲は、月彦さまのお子が、欲しいです」
「いいぞ、菖蒲。もっと言ってくれ……興奮、する」
 子種を望まれる――それはある意味、男として最大の栄誉だ。菖蒲は頷き、さらに言葉を重ねる。
「お願いでございます。どうか、月彦さまのお子を……子種を、わたくしに下さいまし」
「いいぞ、菖蒲……もっとだ」
「は、はいっ……ンッ!」
 興奮のあまり、自然と腰が動き出す。菖蒲もまた喘ぎ混じりに、言葉を続ける。
「あぁっ、あぁぁっ……! 月彦さま……菖蒲を、菖蒲を孕ませてくださいましぃ……! 月彦さまの子種でっ……あぁぁあっ!!」
「ふーっ……ふーっ……菖蒲っ、菖蒲っ……孕ませる……絶対、妊娠させてやるっ…………はぁはぁっ……!」
 孕ませ、はっきりと分かるほどに腹が膨らんだら、さすがの菖蒲も白耀の元を去るだろうか。ならばその際、腹のふくれた菖蒲を連れて白耀に“挨拶”をしにいくのも悪くない。長年恋煩った相手が、実は他の男に孕まされたと知った時、あの男が一体どんな顔をするのか――。
 ガタガタと折れ戸が音を立てるほどに、激しく。
 月彦は攻め続ける。
「っ……くっ、ぁっ…………あや、めっ………………!」
「あぁぁっ……月彦さまッッッ…………あッ………………ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーッッッ!!!!」
 菖蒲の絶叫に鼓膜を震わせながら、月彦もまた果てた。どぷどぷと、特濃の子種汁を注ぎ込み、身震いするほどの征服感に酔いしれながら、月彦ははたと考えた。
(…………そうだ。いっそ、由梨ちゃんも……)
 由梨子も孕ませてしまえば、白耀の手から取り戻せるのではないか。仮に由梨子から蛇蝎の如く憎まれることになったとしても、他の男のモノになっていくのを指をくわえて見ているよりはマシなのではないか――。
「ぁぁぁぁぁ…………アァァ……! 濃くって……熱いのが、こんなにっっ……はぁぁぁぁぁぁっぁっっっ……♪ つきひこ、さまぁぁ………………本当に、子種を…………嬉しゅうございます……あんっ……ァッ……まだ、入って……あんっ♪」
 そんな暗い考えが、子種を注がれながら甘えるように声を上げる菖蒲の姿に驚く程あっさりと吹き飛ばされる。
「あぁん……月彦さまぁぁ……♪」
 菖蒲は甘えるように月彦の首に腕をかけ、そのままキスをねだってくる。あむあむと、唇で唇を食むような甘い、甘いキスが終わった頃にはもう、菖蒲に“次”を注ぎ込みたくて堪らなくなっていた。
「…………菖蒲、もちろんこれで終わりだなんて思ってないよな?」
 陶然としていた顔を、今度は照れ混じりの笑顔に変えて、菖蒲はこくりと頷いた。
「月彦さま。どうか、次はわたくしにご奉仕をさせてくださいまし。今のわたくしの気持ちを月彦さまにお伝えするために、是非とも」
「可愛いことを言う。……わかった、好きにしろ」
 本音を言えば、まだまだ菖蒲の体を抱き足りなかった。「従者のくせに主に意見か?」と、強引に菖蒲を抱くことも考えたが、月彦はあえて菖蒲の提案に乗った。
(…………何だろう。これが情が移るってやつなのかな)
 気晴らしになれば……自分さえ満足できればそれでいい――どこかそう思っていた心が、菖蒲の愛くるしい笑顔によって絆されていくのを感じる。或いは発情期という、十中八九子を成してしまうであろう時期に自分の子種を受け入れてくれた菖蒲に対して、好意以上の感情が芽生え始めたのかもしれない。
 “それ”を鬱陶しいと感じながらも、悪くないと思えるようになってきている自分に、月彦は漸くにして気づき始めていた。



 奉仕といっても、それぞれ個性が出る――月彦はそんなことを考えていた。たとえば真央はより深く咥えることに執心するし、由梨子は咥えることよりも舐めることを重視していた。矢紗美はこちらの顔を観察し反応を見ながら舐めるのが好きみたいだし、雪乃はまだ照れがあるのか全体的にぎこちないというように、それぞれ個性がある。
 ベッドに腰掛けた月彦はとりあえず菖蒲の好きなようにやらせてみることにしたのだが――
「あぷぁっ……んぷっ……はぁぁぁっ…………素敵ですぅっ……月彦さまぁぁ…………コレが……先ほどまで、わたくしの、中にっ……はむっ、ちゅっ……ンンッ……!」
 手袋越しに剛直を摩り、なで回し、れろれろと舐め回したかと思えば、ザラ舌でれろぉぉぉ、と唾液を塗りつけるように根元から先端までを舐め、先端を刺激し、溢れた先走り汁をさらに美味しそうに舐め、さらにとぷとぷと溢れてくるそれを愛しむように、剛直全体へと頬ずりし、結果菖蒲の頬や額、さらには前髪までぬらぬらと光沢を放つ液体にまみれていた。
(……これ、アレだな)
 月彦の脳裏を過ぎったのは、ミルクが大好物なんだけど舐め方が下手すぎて、顔中ミルクまみれにしてしまってる間抜けな猫の図だったりする。――尤も、菖蒲のやり方が気に入らないかといえばそんなことはなく。
(いや、むしろこれはこれで……)
 剛直を舐める、奉仕するという行為に熱中するあまりの行動ということで、可愛いと想いこそすれ疎ましいとは感じない。菖蒲は菖蒲で、自分のやり方が普通とは違うなどとは夢にも思っていないのだろう。
 リンリンと鈴の音を響かせ尻尾を踊るようにくねらせながら、菖蒲は奉仕を続ける。
「はむっ、ちゅっ、ンンッ……れろぉっ、れろっ、ちゅっ……んんっ、んっ、ちゅっ……ちゅぽっ、ちゅっ……んちゅっ……!」
 それこそ“主を喜ばせる為のご奉仕”というより“それ、ただ単に自分がそうしたいからそうしてるだけなんじゃないのか?”と首を傾げたくなるほどに、楽しそうに舐め、楽しそうに頬張り、楽しそうに吸い、楽しそうに頬ずりをしてくるのだから、月彦としても見ていて微笑ましいことこの上なかったりする。
「あぁぁっ……これぇっ……これ、好き、ですぅ…………月彦さま、のっ……トロトロって出てくるおつゆ……んちゅっ……はぁぁあっっ…………ほんのり苦くて、大変美味しゅうございます……れろっ、ちゅっ……チュッ…………♪」
 唾液と先走り汁ですっかりぬろぬろのぐちゅぐちゅになってしまった白手袋を脱ぎ捨て、菖蒲が素手で剛直をなで回し、頬ずりし、先走り汁を吸ってくる。
「……いいぞ、菖蒲。そこまで嬉しそうにされると、こっちまでなんだか楽しい気分になってくる」
「ちゅっ……ちゅっ……あン……むっ…………んんっ……んくっ、んくっ、んくっ…………はぁあっ…………♪ ご奉仕、らいふひっ……れふっ…………んふっ、んふっ……んんっ……♪」
 やれやれ、本当に楽しそうだな――そんな言葉を飲み込みながら、月彦は痺れるような快楽に身を委ねる。
 そのまま三十分ほど、菖蒲の好きにさせ――。
「…………菖蒲、咥えろ」
 限界を迎えると共に、菖蒲の頭を掴み、無理矢理深く咥えさせる。菖蒲は一瞬驚くように体を強ばらせたが、言われるままに剛直を受け入れ――。
「ンンンンンッッ………………♪」
 喉奥で白濁の奔流を受け止めながら、全身を喜びに打ち振るわせた。
「っ……くぁっ……出る、なぁ…………これもイチヤメオトが精力剤かなにかになってんのか……」
 どぷどぷと菖蒲の喉奥にたっぷりと注ぎ込みながら、月彦はふううと息を吐く。射精を完全に終えてから右手の力を緩めると、菖蒲はゆっくりと首を持ち上げた。
「っふっ…………んぷっ……ふぁっっ………………」
 閉じていた瞼を持ち上げ、とろんと瞳をとろけさせながら身震いをする。ぺろりと。唇についていたゲル状の白濁を舐め取り、さらに身震い。“喉”で男の絶頂を感じ、さらにその特濃の子種の味に恍惚とする――それがはっきりと見て取れるような、陶然とした顔だった。
「つ、月彦さま…………ンッ……ご満足頂けましたでしょうか……?」
「ああ、菖蒲。…………すごく良かったぞ」
 膝立ちになっている菖蒲の体を抱きかかえるようにして、その耳元にそっと“良かった”と囁いてやるや、抱いている腕を通して菖蒲の身震いが伝わってきた。
「あぁぁ……! 嬉しゅうございます……月彦さま、菖蒲にもっと、もっとご奉仕をさせてくださいまし……!」
「待て、待て、菖蒲。確かに口でされるのも嫌いじゃないけどな?」
 今は、“菖蒲の体”が欲しい気分だ――言葉ではなく、目で。体を撫でる手つきで、伝える。
「あっ……」
 と、察しの良い従者はすぐに主の機微を悟り、体の力を抜く。
「…………わたくしの体をお求めなのでございますね。…………嬉しゅうございます」
 ぽっ、と赤面し、そして伏せ目がちに。
「…………その、実は……わたくしも…………ご奉仕の間ずっと………………この辺りが疼いて…………さ、先ほど子種を頂いたばかりなのでございますが……」
「あぁ、分かってる。淫乱で交尾狂いの菖蒲が、しかも発情期に一回中出しをされたくらいで満足するわけないもんな」
「つ、月彦さま……! ……ぁっ……」
 菖蒲の体を抱き上げ、そのままベッドへと押し倒す。
「……安心しろ、菖蒲。菖蒲が一番好きな“後ろから”はメインディッシュだ」
 囁いて、月彦はそのままごろーんと仰向けに寝そべってしまう。
「ほら、どうした。“奉仕”がしたいんだろ?」
「ぁっ…………は、はい!」
 本当に“こういう察し”だけは良い従者だと、月彦は苦笑を滲ませる。菖蒲はすぐさま膝立ちになるや、スカートをまくし上げながら月彦の上に跨がり――。
「で、では……し、失礼……ンッ……しま、す……」
「そうだ。ちゃんと自分で挿れるんだぞ?」
 月彦はあえて一切手を貸さず、全てを菖蒲にやらせる。
「は、ぁんっ……つ、月彦さまっっ……こ、これ……太すぎ、ですぅっ…………はぁはぁはぁ…………こ、擦れ……ンンッ……!」
「文句を言うな。ほら、さっさと尻を落とせ」
 ぺちぺちと、菖蒲の太ももを叩いて催促をする。
「は、はい……っ……ンッ……ぁ、ぁっぁああああっ!」
「っ……ぅおっ…………やっぱり、熱い、な、菖蒲のナカは。発情期だからか?」
 熱く、ねっとりとしていて、いつもより絡みついてくる――肉襞の動きに、月彦は思わず声を掠れさせる。
「わ、わたくしには……違いがわかりません……ただ、月彦さまのが……いつもよりもはっきりと…………ンッ……!」
「それだけ、菖蒲のが絡みついてきてるってことじゃないのか? スゴいぞ? こりゃあクセになりそうだ」
「喜んでいただけて……わたくしも嬉しゅうございます……あぁぁ……ほ、ホントに太くて……ンンッ…………」
「…………菖蒲、さっきから太い、太いと言ってるが、一体誰のと比べてるんだ? まさか白耀のとか?」
「め、滅相もございません! ただ、本当に月彦さまのは大きく感じられて……」
 わたくしは“月彦さまの”しか知りませんから、と。菖蒲は今にも消えそうな声で付け加える。
「…………まあ、いい。菖蒲を信じることにするか。とりあえず、そろそろ動け」
「は、はい! んっっ……!」
 菖蒲がゆっくりと腰を前後させ始める。最初はぎこちなかったその動きが、興が乗ってくるや次第に大胆に、ベッドを軋ませるほどのものへと変化する。
「あンっ、あンっ♪ 月彦、さまぁっ……い、いかがですか……?」
「あぁ、良いぞ、菖蒲。巧すぎて、教えることがなさ過ぎてつまらんくらいだ」
 苦笑混じりに言うと、菖蒲は照れ気味に笑い、さらに腰をくねらせる。
「あぁっ、あ! あぁ〜〜〜〜〜〜〜っっっ!!!」
「なんだ、もうイッたのか。今日は本当に早いな」
 粘膜越しに、菖蒲の全身を駆け巡る快感が伝播してくるかの様。射精を堪える為に、月彦もまた唇を噛んだ。
「はぁっ……はぁっ……も、もうしわけ、ございません…………いつもの、なんばいも……はぁああああンッ!!!」
「いつもの何倍も……何だ?」
 スカートの上から太ももを固定し、大きく突き上げるや、菖蒲は弾かれたように仰け反り、声を荒げだす。
「あヒんっ! あひあっ! ああああっ! ひあぁぁぁ! つ、月彦さまぁぁぁっ……あっ、あっ、あーーーーーーーッ!!!!!」
「は、は……そんなに“良い”のか? すごいな、電気ショックでも受けてるみたいだ」
 かつて無いほどにイき続ける菖蒲の姿に興奮をかきたてられ、月彦もまた射精の時が近いのを悟る。それを懸命に堪えながら、突く。
「つ、月彦さまぁぁぁぁっ……も、もうっ……止めっっ…………い、イき過ぎて……い、息がっっ…………後生で、ございますっっ…………」
「ダメだ。俺がイくまで続ける」
「あぁぁぁ……そん、な…………あぁっ、ぁっ……! つ、月彦さまぁぁっ…………!」
 そんな、とはいいつつなんとも嬉しそうな悲鳴。苦しげな息使いとは裏腹に、うねる媚肉ははやく子種をよこせと脅迫まがいに絡みついてくる。
「あぁぁっ……あぁぁぁっ……月彦さまっ……月彦さまぁぁっっ…………!」
 菖蒲の様子に変化を感じたのはその時だった。先ほどまで絶頂を繰り返し、苦しげに息を吐いていた菖蒲が、陶然としたまま腰を振り始めたのだ。
「菖蒲……?」
「子種をっっ……月彦さまの子種をっっ……わたくしに…………」
 はあはあと息を荒げながら、菖蒲は一心不乱に腰をくねらせる。
「……なんだ。そんなに“欲しい”のか」
 “これ”も発情期のなせる技なのだろう。もはや菖蒲の頭の中には主の子種を受けとる以外の事柄は一切消え失せているに違いない。
(あの“菖蒲さん”が、な)
 月彦は改めて、菖蒲の全身へと目をやる。メイド服に包まれたその姿は、多少の涎やらなにやらの汚れは目立つものの、基本的に露出はゼロに等しい。月彦は記憶の中にある――まだ出会ったばかりの頃の、白耀の斜め後ろに陣取り、精巧な人形のように微動だにせず、ツンととりすまして立っている菖蒲の姿と、今の菖蒲の姿を重ね合わせる。
「あぁぁっっ! 月彦さまぁぁっ……子種をっっ……わたくしにっっ…………あーーーーっ!! あーーーーっ! 月彦さまっっ月彦さまっっ月彦さまァァッ!!!」
 その菖蒲が、開きっぱなしの口から涎を零しながら腰を振っている。子種が欲しいと喘ぎ混じりに連呼している。恐らくは何度も達しているのだろう。体を幾度となく痙攣させながら、それでも子種を得る為に腰を振り続けているのだ。
(あぁぁ……ギャップ、ヤバいな)
 普段が貞淑であればあるほどに、乱れて腰を振る様は興奮をかきたてる。気づいた時には菖蒲の腰を両手で掴み、ぐりゅっ――と先端を擦りつけるようにして射精していた。
「あッッ……………………ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーッッッ!!!!!」
 菖蒲が大きく仰け反り、息を詰まらせ、掠れた声で叫び、体を痙攣させる。
「っっ……はぁぁっ……やっべ、すっげー出るっっ…………!」
 ゾッと背筋が冷えるほどに、菖蒲の中へと白濁汁が注ぎ込まれていく。射精のたびに、剛直が脈打つ度に、菖蒲は小さく喘ぎ、ぶるりと体を震わせる。
「ァ……………………ァ……………………………………ハァァ…………ァ……♪」
 びくんっ。
 びくっ、びくっ。
 射精が終わって尚、菖蒲は体を震わせ、数分経って漸く脱力する。はぁぁ、とため息のように大きく息を吐きながら被さってきて、そのまま月彦の胸板へと頬ずりをする。
「こんなに……いっぱい………………んふっ…………あんっ……♪」
「……菖蒲の乱れ方がエロ過ぎたからだ」
 一体何に対する“照れ”か、月彦は菖蒲の後ろ髪の辺りをポンポンしながら憮然とする。
「あぁんっ……お腹の奥が、月彦さまのミルクが濃くって美味しいって喜んでますぅ……」
 菖蒲はさらに、月彦の体を這い上るように、その耳へと唇を近づけてくる。
「……もっと、飲ませてくださいまし」
 親の心子知らず。強欲なメイドの淫靡な囁きに、挿入されたままの剛直が何よりも過敏に反応する。
「…………全く、白耀とくっついててもそうやって催促するつもりだったのか?」
 とんだ淫乱メイドだと毒づきながらも、同時に“でも可愛いから許す”と月彦はついつい甘やかしてしまうのだった。


 


「あぁぁンッ! あぁっ、あーーーーーッ!! つ、月彦さまぁぁぁっ…………ああぁぁーーーーッ!!!」
「…………相変わらず、いい声で鳴くじゃないか。……いいぞ、もっと聞かせろ」
 菖蒲の腰を掴み、手前に引き寄せながら自らも腰を前へと突き出す。肌と肌がぶつかる、派手な音に遅れて、菖蒲が舌を突き出すようにしながら声を上げる。
「あーーーーーーッ!!! はぁはぁっ……はぁはぁはぁ……月彦さまァァ……あんっ! あんっ! あんっ!!」
 さらに、突く。エプロンドレスを脱ぎ捨て、白のガーダーベルトとストッキングのみとなった菖蒲を見下ろしながら。
 まるで腹立たしさでもぶつけるように、乱暴に突き上げる。
(……実際、エロすぎ、だろ)
 はて、自分はこうもガーダーベルトが好きだっただろうか。思わず小首を傾げそうになるほどにむらむらと欲情を掻き立てられる。
(…………いや、たんに菖蒲さんに似合ってるだけ、だな)
 たとえば真央に同じものを履かせても、ここまでむらむらさせられたりはしないだろう。或いは雪乃ならば似合うかもしれないが、どうしてか雪乃には白よりも黒のほうが似合うという確信があった。
「月彦さまァァ……!」
「……ああ、分かってる。“休むな”ってことだろ?」
 尻尾をフリフリして、もっと突いてほしいとおねだりをしてくる菖蒲に苦笑しながら、月彦は剛直を突き立て、菖蒲に声を上げさせる。
「あっ! あっ! あっ!」
 乱暴に突き上げてやると、菖蒲はなんとも嬉しげに声を上げ、尻尾をくねくねさせてリンリンと鈴を鳴らす。やはり、他の体位に比べて頭一つ抜けて菖蒲の反応が良いと言わざるを得ない。
(…………本当はもっと、いろいろ愉しみたいけど)
 菖蒲がそこまで好きならばと。月彦もあえて後背位に固執し、そして時折被さっては――。
「ぁっ……つ、月彦さまっ……!」
 剛直を挿入したまま菖蒲に被さり、両手で抱きしめるようにして身を寄せる。それだけで、菖蒲が“何か”を期待するように胸を高鳴らせるのが伝わってくるようだった。
 もちろん、月彦はそう簡単に“菖蒲の望み”を聞き入れてやったりはしない。
「ぁぁぁぁ…………っ……」
 れろり、れろりと菖蒲の猫耳をしゃぶり、舌を這わせるや切なげな、落胆したような声。違う、そうじゃじゃないと喉まで出かかっているのに、口にするのはさすがに憚るというように、ちらちらと視線を送ってくる菖蒲がなんとも可愛らしく、尚更焦らしてやりたくなる。
「……ぁくっ……つ、月彦、さま……」
 そのまま腰の動きを止め、菖蒲の後ろ髪に鼻を擦りつけて匂いを嗅いだり、はたまた蠅でも追い払うようにぴんっ、ぴんと跳ねる猫耳を舌で弄んだりしていると、さすがに堪えかねたように菖蒲が声を出した。
「あのっ…………そ、そろそろ……“アレ”を……」
「アレ?」
「み、耳を…………いつものように…………」
「ああ、“アレ”か。……そんなにして欲しいのか?」
「は、はい! どうか……あんっ!」
 しかし、ついと月彦は体を起こすや、止めていた腰の動きを再開させる。
「あぁぁっ……月彦、さまぁぁ…………んんんっ……」
「まあ、そう焦るな、菖蒲。“アレ”はとっておきだ。……その前に、俺はもっと菖蒲の体を愉しみたい」
「月彦、さまぁぁ…………!」
 もどかしげな声を出す菖蒲の背を見下ろしながら、月彦はくつくつと笑う。そのまま両手を菖蒲の体へと這わせ、玉のような汗の浮いた背を、腰のくびれを、胸元を。時には撫で時には揉み、それこそ“隅々まで味わう”様に、たっぷりと焦らす。
「ぁっ、ぁっ、ぁっ……月彦さま……どうか、後生でございます…………どうか…………」
 長らく腰の動きを止めていると、疼きを堪えかねたように菖蒲が自ら腰を動かし始める。そんな菖蒲の尾の付け根の辺りへと手を這わせ、指先で擦るように刺激してやると、たちまち菖蒲は甲高い声を上げて鳴き始める。
「きゃぅンッ! ぁっ、ぁぁぁぁぁっ……つ、月彦さまっっ……そ、ソコはぁぁっ………………!」
「“ココ”も気持ちいいだろ? ほら、菖蒲……もっと鳴け」
 尾の付け根を擦り、さらに尾そのものも扱き上げながら、小刻みに突き上げる。
「アッ、アッ、アッ……アぁっ、ぁっ……! ぁぁぁっ、あっ、あっ……!」
「あからさまに“音”が違ってきたな。やっぱり菖蒲も尻尾は弱いか」
 堅くそそり立った肉棒で粘り気たっぷりの蜜壺をかき回しながら、月彦はたっぷりと菖蒲を鳴かせ、小刻みにイかせ続ける。溢れたみつが太ももを伝い、シーツに大きなシミを残すほどにそれを続け、いい加減“限界”を感じ始めたところで。
「あッッ……ヒァッ……あァァァッッ!!?」
 唐突に、さながら肉食獣が獲物にかぶりつくような俊敏な動きで菖蒲に多き被さり、その耳に歯を立て、ギリッ……と噛む。
「っっっ…………! 〜〜〜〜〜〜〜〜っっっっっ…………!!!!」
 月彦の腕の中で、菖蒲が言葉にならない声を上げ、全身を激しく痙攣させる。“耳噛み”の快感に打ち震え、強烈に締め上げてくるその圧力を押し返すように。
「っ……あや、めっ……!」
 月彦もまた、菖蒲の中へと撃ち放つ。
「つっ……きひこ、さまッ…………ッッ………………ッッ! ッッ…………!」
 剛直が脈打ち、白濁汁が撃ち出される都度、菖蒲はさらに体を震わせる。それはさながら、運動後、喉の渇きを覚えたスポーツ選手がゴクゴクと凄まじい勢いで清涼飲料水を飲み干しているような――そんな姿を彷彿とさせる動きだった。
「ァァ……ァ……熱っ……ンッ……月彦さまァァ…………こんなに、たくさん……嬉しゅうございます…………」
 とぷっ、こぽっ。
 行き場を無くすほどに注ぎ込まれた白濁汁が、結合部から飛び散るように溢れ出す。月彦がさらに“マーキング”を行い、発情期の――男に飢えきった粘膜にすり込むように腰を動かすと、菖蒲は喉の奥をゴロゴロと鳴らしながら喜悦の声を上げる。
「ふにゃぁぁぁっ……♪ あンッ……月彦さまっ…………月彦さまぁっ……もっと、もっと菖蒲に……月彦さまの“匂い”を……アンッ……菖蒲を、月彦さまのモノに……月彦さまの色に染めてくださいましぃ……♪」
「言われなくてもそうするさ。菖蒲は……俺のモノだからな」
「あンッ……あンッ……! 月彦さまァ……もっと、もっと耳を……噛んでくださいましぃ……あっ、あァーーーーーーーーーッ!!!」
「……“催促”の多いメイドだ。これで満足か?」
「ぁぁアンッ……! 月彦、さまっ……もっと…………もっとくださいまし…………もっと……あッーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーッッッ!!!」
 さらに噛んで菖蒲を活かせ、ぐりぐりと擦りつけるようにマーキングを行う。噛んだあとは労るように優しく舐め、そして噛む。何度か繰り返すうちに菖蒲はすっかり全身を脱力させ、掠れた声しか出さなくなった。
「クク、すっかりご満悦だな、菖蒲。…………だがな、俺はまだ満足してないぞ」
 四肢が萎えてしまったらしい菖蒲の体を仰向けにし、月彦は今尚たっぷりと余力を残している剛直で突き上げる。
「あヒンッ……! あぁ……そんな、月彦さま……まだ……」
「“まだ?”俺としては“もうへばったのか?”って感じだけどな。……どうした、菖蒲。発情期ってのは、もっともっとスゴいんじゃなかったのか?」
「そんな……月彦さまは勘違いをなさっておいでです……その……発情期、だからこそ――」
 何をされても普段よりも体が過敏に反応してしまい、体力の消耗も激しいのだと。菖蒲は顔を赤らめながら、言葉少なに説明する。
「そう言われてもな。じゃあ、“発情期の菖蒲を満足させてやらなきゃ”って、普段よりもやる気になってる“コレ”の相手は一体誰にさせればいいんだ?」
 ググンと。菖蒲のナカに治まったままの剛直をさらに屹立させる。菖蒲の体ごと持ち上げようとするかのような圧倒的な硬度に、唾液に濡れた唇から小さく悲鳴が漏れる。
「月彦さまが……わたくしのために…………」
 が、その目には期待の光が満ち、たちまち菖蒲は歓喜に身震いすらする。くつくつと、笑ったのは月彦だ。
「ほら、菖蒲。体を起こして、俺に抱きつくようにしろ」
 菖蒲の両手を自分の体へと引っかけさせ、さらに足を腰へと回させる。
「ンぅっ……つ、月彦さま…………この、姿勢は…………ッ……お、奥まで……突き上げられて…………っ……」
「苦しいか? まぁ、そのうち慣れるだろ。…………菖蒲は“後ろから”が好きだろうが、俺は“コレ”が好きなんだ。俺の従者なら、主の好みも覚えないとな?」
「月彦さまが……? ああぁ……♪」
 主の喜びは従者の喜びとでも言うかのように、菖蒲がひしっ、と。両手でしがみついてくる。
「なんだ、まだまだ力が入るじゃないか。……さては、“へばったフリ”をしてたな?」
「めっ……滅相もございません! わたくしは、もう…………ですが、月彦さまがしたいと仰るなら……お相手を務めるのも……しもべであるわたくしの使命でございますから…………」
「クク……ハァハァ言いながら、しかも痛いくらいに締め付けつけておいてよくもまぁ白々しく…………気に入ったぞ、菖蒲」
 意地でもお前の化けの皮を剥いでやる――そう耳元に囁いて、月彦は菖蒲の尻肉を掴み、上下に揺さぶるようにして突き上げる。
「あっ! あっ! あっ! あンッ! あっ、あっ、あっ、あっ、あっあっあっあっあっあっ……!」
「あぁ……菖蒲の体はほんと抱き心地が良いな。こんなに具合の良い体をもし何も知らずに白耀に渡してたらと思うとゾッとするぞ」
「あぁんっ! あんっ! きっ……気に入っていただけて……嬉しっ……ンッ! あぁっ、ぁっ……つ、月彦さま、のも……さ、先ほどよりも……硬っ……ンンッ!! あぁぁっ……け、削り取られるみたい、に……あぁぁっっ……!」
「硬い? ……あぁ、興奮してるせいかな。“後ろから”も嫌いじゃないが、どっちかっていうともっと“反抗的”な相手の時の方が興奮するからな。菖蒲みたいに可愛い相手だと、“こっち”のほうがしっくりくる」
「月彦、さま……」
 面と向かって、それも息がかかるほどの距離で“可愛い”と言われたのが意外なほどに効いたらしい。菖蒲はたちまち顔を赤らめ、俯いてしまう。
「どうした、菖蒲。ちゃんと俺の方を見ろ」
「で、ですが……ぁぅぅ…………」
「“命令”だぞ、菖蒲。ちゃんと顔を見せろ……そうだ」
 菖蒲と目を合わせてから、月彦は――動く。
「あんっ……! つ、月彦、さまっっ……は、恥ずかしゅうございます……」
「何を今更……別に今初めて、面と向かってするわけじゃないだろうに」
「で、ですが…………か、可愛い等と、面と向かって仰られると……どうしても、月彦さまの視線を意識してしまって……………………」
「そう言われると、意地でも恥ずかしがる菖蒲の顔を見続けてやりたくなるじゃないか。………………そうか。分かったぞ、菖蒲。“後ろから”が好きなのは、面と向かってだと恥ずかしいからってのもあったんだな?」
「そ、れは……ぁっ! ンっ! やっ……つ、月彦さまァァッ……!!」
「クク……良いぞ、菖蒲。ほら、もっと声を上げろ。菖蒲が恥ずかしがりながら感じてる姿を間近で見るのは……凄く、興奮する」
「あァァッ……つ、月彦さまァァッ…………そん、なっっ…………見なっっ…………………………っっっ…………」
「こーら。顔を背けるな。次視線を外したら“終わり”にするぞ?」
「……は、はい………………ぅぅ………………」
 菖蒲は目尻に涙をにじませながらも、言われた通りに視線を月彦の方へと戻す。
「そうだ、よしよし。大丈夫だ、菖蒲は可愛い。気に入ってるから、こうして側で見ながら抱きたいんだ」
 恥ずかしがらせるのは確かに興奮するが、とはいえ泣くほど追い詰めるというのもさすがに菖蒲に悪い気がして、気づくと幼子をあやすような声になってしまっていた。
「よし、動くぞ、菖蒲。……………………本当に、どうしても恥ずかしくて無理だと思ったら、顔を背けてもいいからな?」
 はい――消え入りそうな声で言う菖蒲の体を優しく持ち上げ、落とす。
「んっ」
 さらに持ち上げ、落とす。
「あっ」
 徐々に、上下に揺さぶりながら、前後左右の動きも加えていく。
「あっ、あっ、あんっ! あっ、あっ、あっ……!」
「菖蒲……ほらっ」
 目だけで促すと、菖蒲はすぐに察し、唇を重ねてきた。
「んうっ」
 ぐりんっ。菖蒲の体を揺さぶりながら、剛直を捻るように腰をくねらせる。
「ンンッんはっ……れろっ、ちゅっ……はぁっ……んんんんんんんっ!!!」
 舌を絡ませながら、同時に腰の動きもシンクロさせる。肩に引っかかっていただけだった菖蒲の両手がもどかしげに後頭部へと張ってくる。
「ンンッ……んはぁっ……ちゅきひっこっ……はまっ……ァ……れろっ、ちゅっ……ンンッ…………!」
 菖蒲が、うねうねと自ら腰をくねらせ始める。結合部から漏れる音がより淫靡に、ちゅぐちゅぐと耳障りなほどに激しくなる。
「っっ…………ああァァァッ!!!!」
 そして、唐突に――菖蒲は両手を月彦の首に引っかけたまま弾かれたように声を上げながら大きく仰け反った。
「ああああああッ!! あああああっ……! 月彦さまっ……月彦さまっ、月彦さまァァッ!!」
 先ほどまでの恥ずかしがり様が嘘のように、菖蒲は自ら腰を振りながら声を荒げる。おやおやと思ったのは月彦だ。
(…………なんだ、さっきのはやっぱり“フリ”だったのか?)
 間近で顔を合わせての対面座位など、恥ずかしくて無理――そんな従者を主が愛しいと思うであろうことを見越して、そう装っていただけだったのか。しかしその仮面も徐々に剥がれ、快感に負けて一匹のケモノと化してしまったのか。
 或いは、本当に恥ずかしかったが――やはり快感に負けて一匹のケモノと化してしまったのか。
(……どっちでも、いい)
 菖蒲を可愛いと思うのは事実であるし、そういった“裏の部分”も含めて愛しいと思う。猫か犬かで問われれば猫派な紺崎月彦は、猫のそういった利己的な部分を知ったうえで、やっぱり猫のほうが好きだと感じるからだ。
「はぁっ、はぁっ、ンッ……はぁっ、はぁっ…………あんっ、あんっ……あんっ……!」
「……だいぶ良くなってきたようだな。菖蒲?」
 随分と気持ちよさそうじゃないか――天を仰ぎ、ぱくぱくと口を大きく開閉させながらよがり声を上げ続ける菖蒲に、そっと囁きかける。とろんと、快感に浸りきっていた菖蒲が慌てて月彦へと視線戻すが、もちろん“視線を外していたこと”については月彦は不問に付した。
「も、もうしわけございません……その……ほ、本当に……あんっ……よ、良すぎて……もう、何も考えられなく……あぁぁんっ……!」
「わかるぞ、菖蒲。俺も同じだ………………菖蒲のナカが良すぎて、菖蒲に種付けをすることしか考えられなくなる」
「月彦さま……あぁぁっ、月彦さまァァ……!」
「っ……なんだ、嬉しいのか? 菖蒲は褒めるとすぐそうやって締め付けてくるからモロバレだぞ……っ……ほら、またッ…………く…………っ…………」
「ぁぁっ……も、もうしわけ、ございませんっ……その、か、勝手に……あぁあっ……い、今動かれては…………アッ……!」
「締め付けてくるのはわざとじゃないって言いたいのか? だったら、そうやってギューッて菖蒲が締め付けてくるのを、無理矢理こじ開けて突くのもわざとじゃないからな?」
「あっ、あっ……月彦、さまぁぁぁっ……ぁぁああッ……!」
「ん? なんだ……“分かった”のか? さすがだな、菖蒲」
「月彦さま、の、が……ピクピクって……わたくしの、中で…………」
「あぁ。もうすぐ出そう、だ。…………賢い菖蒲は、自分が従者としてどうすればいいか分かるよな?」
 身を寄せ、囁く。菖蒲は俄に頬を染めながら、顎を引きながら小さく頷いた。
「我慢、致します…………月彦さまと、一緒、に……ンぅ……………………」
 それまで、殆ど断続的に迎えていた小さな絶頂すらも菖蒲は堪え、“その時”に備える。そうだ、良く分かってるじゃないか――月彦は言葉ではなく、“動き”で菖蒲を褒めてやる。
 そう、もちろん“菖蒲を先にイかせるような動き”によって、だ。
「あっ、あっ、アッ、アッ! つ、月彦さまっっ……そんな、っ……そのような、ご無体を…………あぁぁぁぁぁッ……!!!」
「クク……ほら、菖蒲。先にイくなよ? イッたらおしおきだからな。俺のしもべなら、今回はちゃんと我慢してみせろ」
「は、いっ……ンッ……我慢、致します………アッ……!…菖蒲は、菖蒲は月彦さまの、しもべで、ございます、から……ひぁっ……ンンッ! はぁはぁはぁっ……我慢っ……がまっ……ンンッ! あぁぁっ……つ、月彦さまァッ……もうっっ……もうっっ………あぁぁぁぁッ……!」
「はぁはぁ……いいぞ……すごくいい。菖蒲が必死に我慢してる顔も、それでも我慢しきれなくてイきそうになってる顔も、その声も、めちゃくちゃ興奮……する……ッ…………!……はぁはぁはぁっ……出す、ぞ……菖蒲っ……お前の中にっ…………孕めッ……!」
「はいっ……はいっっ! 孕み、ます……保科菖蒲は……月彦さまの、お子をっっ……あっ、あっアッ……あああァァッッ!!!!!!」
 月彦がイき、同時に菖蒲もイく。その爪が肩に、そして首へと食い込むのを感じながらも、月彦は射精を続ける。
「アッ、アッ、アッ……っ……! ッ……!!…………ッッ!!!」
 眼前で、菖蒲が大きく腰を跳ねさせる。肉襞が精液を搾り取ろうとするように絡みついてきて、事実月彦はその刺激によって射精の回数を数回は増やされた。
「ふにゃあああ…………♪」
 射精が治まるや、菖蒲はとろけきった声を上げながら脱力し、月彦の胸元へと体を預け、そのまますりすりと、甘えるように頭を擦りつけてくる。
「菖蒲?」
 声をかけると、菖蒲は身を寄せたまま、媚びるように見上げてくる。じぃと、物言いたげな目を見ているだけで、月彦は全てを察した。
「………………わかった。“次は後ろから”だな?」
 やはり、“発情期”は侮れない――再認識する月彦だった。



 文字通り、出し尽くしたと言いきれるほどに、月彦は菖蒲の体を求め、菖蒲もまたそれに応えた。休憩がてらの愛撫を挟まない、ガチの本気セックスを明け方近くまで続けた後は泥のように眠り、もうやがて昼だという頃合いになって漸く、月彦は目を覚ました。
「ううん……」
 全身が重い。まるで筋肉の代わりに粘土でも詰められたかのように身動きが出来ず、寝返り一つろくに打つ事ができない。意識の覚醒と共に、寝返りが打てないのは疲れているからではなく――無論それもあるだろうが――ひしっ、と。何者かにしがみつかれているからだと理解する。
「ううぅ……こら、真央……そんなにひっつくなって」
 気持ちいいけど寝苦しいだろ?――ニヤけ顔でそんなことを呟いて――ハッと。唐突に意識が覚醒する。“この感触”は、真央の胸ではないと。
 目を見開き、下方――掛け布団の下の闇を覗き込む。そこにあるのは爛々と輝く猫の瞳。もぞりと、菖蒲は自らも掛け布団から顔を出すや、特に機嫌を害した風もなくにっこりと微笑んだ。
「おはようございます、月彦さま」
「あ……あぁ、おはよう、菖蒲さん」
 
 どうやら体力という体力を根こそぎ使い果たしてしまったらしい。下手をすればベッドから出ようとした瞬間、がくりと膝をついてしまうのではないかという程に体には力が入らない。喉は渇き、腹も減り、さらに言えば全然寝足りないくらいに疲労の極地であるのに。
「うふふっ、月彦さまっ」
 頬ずり、頬ずり。一体なにがそんなに嬉しいのか。菖蒲は布団の中で月彦にしがみつくように寄り添ったまま、しきりに頬ずりをしてくる。頬に限らず、時には頭だったり胸だったりと、まるで自分の匂いでもつけようとしているかのように、菖蒲は離れたがらなかった。
「月彦さまっ、月彦さまっ」
 さらに体を擦りつけるだけでは飽き足らず、やれ月彦の首を舐めたり、肩の辺りを甘噛みしたり。三十分ほどもそんなことを続けられ、月彦にもようやくこれが菖蒲なりの甘え方なのだと分かってきた。
「ご、ご機嫌だね……菖蒲さん」
「はい。それはもう」
 菖蒲は頬を染めながら月彦の顔を見上げる。
「月彦さまにあんなにも愛でて頂いて、菖蒲は果報者でございます」
 あんなにも、という菖蒲の言葉に、ただならぬ熱意を感じる。たった五文字のひらがなに、十数時間にも及ぶ濃密な性行為の全てが凝縮されたかのような、とにもかくにもなんとも情報量の多い五文字だった。
「月彦さまに注いで頂いた子種が、まだ熱を帯びているようにすら感じます……。夢では、ないのでございますね?」
「ははは……もちろん、夢なんかじゃないよ」
「あぁん! 月彦さまぁっ!」
「わぷっ、ちょっ……あやめさっ……苦しっ……!」
 突然のだいちゅきアタックに、月彦は菖蒲の胸の谷間に鼻と口を埋められ、そのままぎゅうーーーーーっと圧迫される。
 紺崎月彦、享年17才。死因――女性の胸部脂肪による窒息死――そんな文言が第一面にでかでかと書かれた新聞が頭を過ぎるが、すんでのところで菖蒲のヘッドロックを引きはがすことに成功した。
 が。
「にゃんっ♪ にゃにゃっ、にゃあんっ♪」
「ちょっ、菖蒲さん! いたたたっ……爪、爪出てるって!」
 にゃあにゃあと声を上げながらじゃれてくる菖蒲に軽く引っかかれたり、舐められたり、舐められたり、ごつごつと殆ど頭突きのように頭をすり当てられたり。そして引っかかれたり、ぐりぐりと頭を擦りつけられたり、引っかかれたり。
(ちょっ…………い、いつもと違いすぎだろ……どんだけ……)
 嬉しかったんだ――半ば呆れ混じりに笑いながらも、月彦はどうにかこうにか菖蒲のちゅきちゅきアタックをいなし続ける。
「こーら。いいかげんにしないか、菖蒲」
 めっ、と。いつまでも悪ふざけを止めない菖蒲の体を逆に押し倒し、キスで唇を塞ぐや、たちまち菖蒲は大人しくなった。
「んぁっ……」
 とろんと、目を蕩けさせる菖蒲にうずうずと下半身に血が集まりそうになるが、さしもの相棒も昨夜の激戦の疲労が色濃く、使用に耐えるほどにはならなかった。代わりに月彦は菖蒲の胸元へと手を這わせ、もみゅもみゅとこね回す。
「あぁんっ♪ 月彦さまぁっ……くすぐったいです……あんっ」
 そういえばと。昨夜は菖蒲の体を――中出しを優先するあまり、胸元への愛撫はほとんどしていなかった。性欲は発散されたが、おっぱいに対する飢えは解消されておらず、月彦はほとんど無心になって菖蒲の胸を揉み、舐め、吸いまくった。
「つ、月彦さまァァ……」
 見られた場所が暑く火照りだしそうなほどに熱量を帯びた菖蒲の視線に、うぐと月彦は胸を弄ぶ手と口を止める。
「…………さ、さすがに腹が減ったな。シャワーも浴びたいし……“その後”でもいいか?」
 菖蒲が、みるみるうちに満面の笑顔を浮かべる。
「はいっ! すぐにご用意致します! 何か希望はございますか?」
「そうだな……美味しくて、消化が良くて、精がつくのがいいな。…………後でたっぷりと菖蒲を可愛がってやれるように、な」
 腰へと手を回し、優しく摩りながら囁いてやると、菖蒲はみるみるうちに白い肌を朱に染め「あぁ……」と感極まった声を出した。
「か………………畏まり、ました…………すぐにっ、ご用意を……!」
 もぞもぞと、四つん這いにベッドを這い出ていく菖蒲を見守りながら、月彦はやれやれと小さくため息をつく。
(……本当にすごいな。あれだけシて、まだシ足りないのか)
 その性欲もさることながら、体力の方もすさまじいと言わざるをえない。同じくエロいことにかけては底抜けに貪欲で疲れ知らずの真央ですら、あそこまで濃密に絡んだ翌日は殆ど魂が抜けたようになってしまうというのに。
「あうっ」
 が、どうやらそれは菖蒲も同じ――というよりは、菖蒲も所詮一人の、一匹の“女”であったらしい。ベッドから出るや、こてんと寝室の絨毯の上に座り込んでしまったのだ。
「あ、足に……力が……」
 そしてどう頑張っても立ち上がれず、それどころかベッドに戻ることも出来ず。狼狽しきって今にも泣きそうな顔で月彦の方を振り返る。
「…………しょうがないな」
 やれやれと、月彦もまたベッドから出る。がくがくと今にも震え出しそうな足を必死に踏ん張って菖蒲に手をさしのべ、その体を抱き上げる。
「も、申し訳ございません……月彦さまのお手を…………」
「気にするな。昨夜あれだけシまくって、平気で動き回れるほうがおかしいんだ」
 菖蒲の体を抱きかかえたままさも自分は平気という顔をしているが、月彦の両足はもうガックガクだったりする。
「とりあえず、一緒に風呂にでものんびり浸かって、飯はその後にするか」
 はいと、菖蒲は足腰が立たないのがよほど申し訳ないと思ってるのか、今にも消え入りそうな声で応え、そのくせ甘えるようにきゅうっと両手でしがみついてくる。
(……あぁ、ヤバいな。菖蒲さんが可愛い過ぎて、俺のほうまでムラムラしてきちまったぞ……)
 性欲など枯れ果てるほどにたっぷりと注ぎ込んだ筈なのに。体力も底をつき、歩くことすらままならないというのに。
 両手に菖蒲の体重を感じながら、股間だけはギン立ちというなんとも不名誉な姿勢のまま。やれやれと月彦はため息混じりに首を振るのだった。


 大きな湯船にゆったりと二人、抱き合うようにして浸かった。互いに一矢纏わぬ姿。それでなくとも昨夜は互いの体を余すところ無く舐め合うような、濃密なセックスを終えたばかりである。
「つ、月彦さま……いけません……、そんな……あぁぁっ……!」
「いけませんじゃないだろ。そんなふうにぎゅうぎゅうおっぱいをすり当てて来て、誘ってるのと同じだぞ?」
「で、ですが……ンンッ……あ、あまり激しくされては……お、お食事をご用意することが……出来なくなってしまいます…………ああんっ……!」
「分かってる。一回だけ、一回だけだ。俺ももうハラペコで、そんなにガッツリやる体力は無いから安心しろ」
 被さるように抱きついてきている菖蒲の体を肉の槍で刺し貫き、いつになく優しく、ゆっくりと、小刻みに突き上げながら、動き同様の優しい口調で囁きかける。
「あんっ……あんっ……つ、月彦さまぁぁ…………」
「気持ちいいか? 菖蒲」
「は、はいぃ…………月彦さまの、で……優しく、擦られて……とろけてしまいそうです……あぁっ……ああぁぁっ……!」
「良かった。菖蒲はどうも発情したケモノ同士みたいな激しいのが好きみたいだからな。こういう半分愛撫みたいなのは気に入らないんじゃないかと心配したぞ」
「そっ……そのような、ことは………月彦さまが激しく求められるから、わたくしはそれに応じてるだけでございます」
「嘘つけ! やれ後ろからがいいだの、耳を噛みながらがいいだの、しょっちゅう注文つけてくるのは誰だ! 昨夜だって、俺がちょっと一息いれようかと思う度にハァハァ言いながら跨がってきて、グイグイ腰を振りまくっっむがが」
「つ、月彦さま! それ以上は堪忍してくださいまし」
 顔を真っ赤にした菖蒲に両手で口を塞がれ、月彦は強引に言葉を飲み込まされる。
(…………まったく。一端スイッチが入るととことんエロエロなくせに)
 そのくせ、普段はあくまで貞淑な従者ぶっているのがなんとも腹立たしく、それ以上に可愛いと感じる。
「……まぁいい。そういう菖蒲の我が儘な部分も含めて、俺は気に入ってる。シて欲しいことがあったらどんどん言って構わないからな?」
 ちゃぷちゃぷと、湯に半分ほど浸かっている菖蒲の背を撫で、そのまま尻肉をやんわりと揉む。そんな愛撫に心地良さそうに菖蒲は喉を鳴らし、甘えるように「にゃあん♪」と鳴いた。


 入浴7割、セックス2割、イチャイチャ1割のそれを終えた頃には、多少なりとも手足の萎えは解消していた。菖蒲もどうにか立ち仕事が出来る程度には回復したらしく、てきぱきと食事の支度を調えたかと思えばその足で寝室のベッドメイキングまでやり始めた。
「あれ……菖蒲さんは食べないの?」
「申し訳ございません。わたくしは寝室のほうを先に整えておきますので、月彦さまはどうぞ先に召し上がられてくださいまし」
 びしっ、とメイド服に身を包んだ菖蒲はもう、完全にいつものねじ巻き式メイドさんそのものだった。菖蒲がそうしたいならと、月彦は無理に同席を勧めず、なによりも自身ハラペコの極みであったこともあり、先に朝食兼昼食を済ませることにした。
(…………確かに消化が良くて精がつきそうなものが食べたいとは言ったけど……)
 テーブルに並んだ品々を見渡しながら、月彦は思わずうへえと呆れそうになる。山芋のとろろ汁やニラレバ炒めはまだ分かるとして、小さめの専門店であれば一日賄えるほどの量のウナギの蒲焼きなどは一体全体どこから用意したというのだろう。まさか、今日この日この時を見越して冷蔵庫に備蓄してあったとでもいうのだろうか。
(そしてこれは……すっぽん、だよなぁ、やっぱり)
 恐らくはすっぽんのスープなのだが、スープというにはすっぽんの身が多すぎはしないか。そしてさりげなく添えられた赤い液体に満たされたグラス。最初はトマトジュースかと思ったが、匂いが明らかに違う。恐らくはマムシの生き血かなにかなのだろう。
(…………いやまぁ、死にそうなくらい腹が減ってるから、食べるっちゃ食べるんだけど)
 生き血については味を確かめてみないことには如何ともしがたいが、そこは菖蒲の調理の腕を信じるしかない。とりあえずウナギの蒲焼きへと箸を伸ばし、あむぐと口に入れるや否や――月彦の主観時間は瞬く間に“食後”へと飛んだ。
「……は!」
 っと気づいた時には、テーブルの上に並べられていた皿は殆ど片付けられており、さらに残されていたいくつかの皿に残って居る残骸も、どれも見覚えのないものばかり。どうやら我を忘れるほどに食らい、それでも足りずに何かしら菖蒲に催促をして作らせたらしい。
「あ、菖蒲……さん! 俺、そんなに食べた、の?」
 背後のキッチンで洗い物をしている菖蒲の方を振り返り、自信なさげに訪ねると、菖蒲はくすくすと母親のような笑みを零しながらはいと頷いた。
「それはもう、たくさん召し上がって頂きましたが…………覚えてらっしゃらないのですか?」
「いや、覚えてないっていうか…………」
 確かに腹は満ちている。それこそ、腹八分どころか腹十二分と言っても良いほどに。凄まじい勢いで消化吸収された栄養素がみるみるうちに全身に行き渡り、失われた体力がもどりつつあるのを感じる。
「ご、ごめん……俺、ホントに腹減ってたみたいで…………菖蒲さんもちゃんと食べれた?」
 まさか、菖蒲の分まで平らげはしなかっただろうか。月彦はそれが一番の不安だった。
「はい。……月彦さまの隣で、ご一緒に食事をさせて頂いたのですが、それも覚えてらっしゃらないのですか?」
 それは少し残念とばかりに、菖蒲が表情を曇らせる。
「あぁ、いや……まったく覚えてないわけじゃないっていうか…………」
「ひょっとして、“食後のデザート”を所望されたこともでございますか?」
「えっ……デザート……?」
 そこではたと、月彦は気づく。水道の蛇口を捻ってばしゃばしゃと何かをやっているから、てっきり洗い物をしているのだと思っていた。しかし菖蒲は食器ではなく、正確には果物を洗っていたのだ。
 そして洗い終えたそれの水気を切り、ガラスの器へと盛って月彦の前へと運んでくる。
 そう、思い出深き二色の苺。禁忌の果物、イチヤメオトを。
「こ、これ……まだ残ってたのか」
「はい。果物としては足の速いほうでございますから、残さず召し上がっていただければ幸いでございます」
「そりゃあ……美味しいし、食べたいけど…………でも、これを食べたら、また………………」
 月彦は思い出す。イチヤメオトを食し、至上の美味と引き替えに引き起こされる種々の副作用。菖蒲という“他の男の恋人”にこれ以上ないほどに興奮し、欲情し、孕ませたくて堪らなくなる――あの黒い衝動は、例え果実によって引き起こされたものだと分かってはいてもうすら寒くなるものだった。
(……たまーに、それこそ真央とか相手に愉しむ分にはアリなのかもしれないけど…………正直菖蒲さん相手じゃあ洒落にならないっていうか……)
 一回きりにしておきたい――そんな気持ちを胸に、月彦はなんともばつ悪げに、イチヤメオトと菖蒲の顔を交互に見る。
「…………あぁ、そっか! “普通の食べ方”をすればいいのか!」
 月彦は思い出す。イチヤメオトには二種類の食べ方があり、正規のそれであれば、単純に美味であるだけであったと。つまり、あえて他の茎のものと同時に食べるというようなことをしなければ、少なくとも“副作用”に悩まされることはない筈だ。
「…………あぁ、そうでございました」
 イチヤメオトを前に、逡巡の海に溺れる月彦を不審そうに見つめていた菖蒲が、何かを思いだしたとばかりにぽむと――手を拭いたあと、手袋を装着したあらしい――手を叩いた。
「申し訳ございません、月彦さま。…………わたくしは、嘘を申し上げました」
「へ……? 嘘……?」
「はい。本当に申し訳ございません」
 菖蒲は深々と頭を下げてくる。
「いや、謝られても一体何が嘘なのか分からないと…………」
「イチヤメオトの件でございます。………………その、実は――」
 体を起こした菖蒲は、躊躇い、躊躇い、三度躊躇い。月彦の顔色を窺うように顎を引きながら――しかしそのくせ、どこか嬉々と目を輝かせて、“自白”する。
「イチヤメオトには、副作用など無いのでございます」
「………………へ?」
「そもそも、違う茎のものと一緒に食しても、味も変わりません」
「………………えええええ!?」
 重ね重ね申し訳ございませんと、菖蒲は再度頭を下げてくる。
「ど、どういうこと……? 副作用が無いって…………だって、現に俺は…………」
「その……大変申し上げにくいのですが………………」
 申し上げにくい――そう言う菖蒲の口元はにんまりとした微笑みを無理矢理噛み殺したようなものになっている。りんりんと、鈴の音までもが楽しそうだ。
「月彦さまは正気で、正気のままで…………わたくしをお求めになったということではないかと…………」
「い、や……確かに、菖蒲さんとシたいとは思った……けど…………」
 菖蒲が白耀の女であるということに興奮したり。
 そんな菖蒲を安い娼婦でも抱くように乱暴に扱ったり。
 避妊無しの生セックスを、それどころか孕ませようと躍起になったり。
 それらは全て、イチヤメオトの“副作用”のせいだとばかり思っていたのに。
「ちょ、ちょっと待ってくれ…………あ、菖蒲さんそれはズルい! だって、本当に……! う、嘘なんだろ? “副作用なんか無い”ってのが、嘘なんだろ? 嘘だと言ってくれ!」
「いいえ、月彦さま。イチヤメオトは本当にただの美味しい苺でございます。月彦さまがおっしゃられているような“あやしげな効能”など微塵もございません」
 にっこにこと、菖蒲はもう満面の笑顔を隠そうともしていなかった。
「う、嘘だ…………俺は…………俺は…………」
 まさか、あの鼻持ちならない性悪狐ではなく、菖蒲にハメられるなんて!――ぐらりと視界が高速回転するような激しい目眩に、月彦は椅子から転げ落ちそうになる。が、すんでのところで菖蒲が体を支え、そのまま腕を絡め取られ、オマケにこてんと。肩に頭まで乗せられる。
「うふっ。………………これで月彦さまも、わたくしと“同じ穴の狢”でございますね?」
 菖蒲の言葉に、ただただ絶句する月彦だった。



 以前、月彦は言った。酒の勢いで始まった事故のようなものだと。一時の火遊びを続けるのはよくないと。
 或いは、菖蒲はその時のことを根に持っていたのではないだろうか。“同じ遊び”に興じておきながら、月彦だけは聖人君子面をしていることを、少なからず狡いと思っていたのではないだろうか。
 猫を殺せば七代祟ると言われるほどに、猫は執念深い動物だ。菖蒲も恨むほどではないにしろ、なにがしかの意趣返しはしたいと――虎視眈々ならぬ猫視眈々と狙っていたのではないだろうか。
(……それとも、俺の考えすぎか)
 一つだけはっきりしたことは、菖蒲の化けの皮を剥いでいるつもりで、その実化けの皮を剥がれたのは自分の方だったということだ。寝取りなど、ましてや親友の恋人に手を出すなど論外という顔をしておきながら、一度“言い訳”が出来るや容易く禁忌の遊びに興じてしまう。
 紺崎月彦という男とは、そういうふしだらな男だったのだ。
(…………いいや、違う! いくら俺でも、由梨ちゃんのことが無かったら……!)
 月彦は頭を振る。由梨子を、白耀に取られた――その想いがあってこその暴走だ。とはいえ、たとえそうだとしても、やはり褒められたことではない。少なくとも菖蒲にばかり火遊びが好きだな等と言えなくなったことは事実だった。
「月彦さま、洗い物が完了致しました」
「ん……あぁ、ありがとう、菖蒲さん。とっても美味しかったよ」
 側に立つ菖蒲の顔をまともに見れず、月彦はばつのわるい笑顔で返す。視界の外で菖蒲が嗤っているように感じるのは、負い目故だろうか。
「それと……寝室の方の準備も万端でございます」
 微かに焦れるような声で言い、椅子に座したままの月彦の両肩に、そっと菖蒲が白い手を乗せてくる。真央風に言えば「ねぇ、父さま……ベッドいこ?」といったところか。正直、人をまんまと騙しておいてよくもまぁぬけぬけとという気持ちが全く無いと言えば嘘になる。
(…………でも、別に菖蒲さんが悪いわけじゃない)
 確かに菖蒲は嘘をついた。しかし紺崎月彦に本当にそういう趣味嗜好が無ければ、全く何の問題も無かったはずなのだ。だから、菖蒲を恨むのは筋違い――それは月彦にも分かる。
「月彦さま……あの、寝室のご用意の方も――」
「だーーーーっ! ショックを受けてヘコんでるんだからせめてもうちょっとそっとしといてくれよ!」
 聞こえなかったとでも思われたのか、ゆさゆさと体まで揺さぶられて、月彦は思わず叫んでしまった。
(これだから、猫って生き物は……!)
 あくまで自分の都合が最優先。相手がヘコんでいようがおかまいなしに、自分が撫でてもらいたいと思えばひょいと膝に上がってくる。それが猫なのだ。
「も、もうしわけございません……ですが、その……お時間のほうも限られておりますし…………さすがに今宵は、月彦さまもご自宅に帰られるのでございますよね?」
「今宵は……って………………あああッ!」
 菖蒲の言葉に、月彦は今日が月曜日であることを思い出した。
(そ、そういや……昨日、菖蒲さんに電話させたんだった! すっかり忘れてた!)
 冷静に考えれば、時間を気にせず菖蒲とヤりたいから嘘をつかせて学校までサボる――それはあり得ない事だと、今ならば分かる。ましてやそれが、前後不覚状態でもなんでもない、正気からの発想となれば。
 ……月彦は自己嫌悪のどん底から、さらに数百メートルほど体が地面にめり込むのを感じた。
「か、帰らなきゃ! 今更だけど、帰って母さんに謝らなきゃ!」
 もはや昼を過ぎている。今から帰宅し、学校に行くというのは不可能に近い。ならばせめて、葛葉に嘘をついた謝罪だけでもしなければ――。
「………………帰られるので、ございますか?」
 きょとんと、菖蒲が目を丸くする。
「あ、当たり前だろ! 今日は本当なら学校行かなきゃいけなかったんだから! それなのに……あぁ……俺はなんてことを……」
「恐れながら申し上げます。……今から葛葉さまに“真実”を打ち明けられるのは、下策かと存じます」
「そりゃあ……も、もちろん本当の事は言わないけど……だけど……」
「月彦さま、どうかご賢察なさってくださいまし。月彦さまは葛葉さまに、一体なんとご説明さしあげるおつもりですか?」
「そりゃあ………………………………」
 月彦は絶句する。“彼氏持ちの女”を陵辱するのが楽しくて、つい嘘をついてしまいました――などと、言えるわけがない。
「いやでも……」
「わたくしは、確かに月彦さまの手助けを必要としていて、月彦さまはそれを手伝って下さり、その結果どうしても時間が足りず、今日までかかってしまった――その説明で何ら不備はないと、わたくしは判断致します」
「うぐ……」
「…………それとも、月彦さまはわたくしが昨夜の出来事を包み隠さず、葛葉さまにご報告申し上げることをお望みですか?」
「あ、菖蒲……さん……それは、まさか――」
 脅しか?――その言葉を、月彦は唾と共に飲み込む。
(……確かに、手遅れっちゃ手遅れなんだよな)
 せめて朝であれば。遅刻はするが学校には行ける時間帯であれば、謝り甲斐もあったことだろう。しかし今から帰宅し、学校に急いだところで六時間目の授業に間に合うかどうかというところだ。
「…………わかった。菖蒲、の言う通りにする」
「それがよろしいかと存じます。………………月彦さま?」
 しれっと、傍らに寄り添い、こてんと首を傾けてくる菖蒲。話が終わったならすることがあるだろうと言いたげなその目に、月彦は苦笑を通り越してため息をつく。
(…………ちょっと、調子にのってるな)
 或いは、単純に浮かれているのかもしれない。かといってこのまま、簡単にコントロールされる主だと思われるのは癪だ。
(…………少し、灸を据えてやるか)
 このメス猫の減らず口を閉じさせるには、それこそ足腰立たなくなるまで鳴かせてやるしかない――月彦はそう判断し、菖蒲の望み通り寝室へと足を向ける。その後ろをりんりんと尻尾の鈴を鳴らしながら菖蒲がついてきて――はたと。
「……菖蒲?」
 不審そうに足を止めた菖蒲に習って、月彦もまた足を止める。
「……気のせいかと思っておりましたが………………やはり、匂います」
「匂う?」
 月彦は鼻を鳴らしてみる。ほんのりと香水のような香りがするのは、普段菖蒲が身につけているものの残り香だろう。きちんと代えられたシーツや掛け布団も、“昨夜の匂い”が残っているようにも思えない。ましてや、換気不十分で匂いが籠もっているというわけでもない。
「何か……酸っぱいような匂いが致しませんか?」
「……いや、俺には何も……」
「先ほど寝室の片付けをしていた時にも感じたのですが、匂いの元が分からなかったのでございます」
 くん、くんと菖蒲は鼻を鳴らしながら、微かに匂うその発生源を辿ろうとしているようだった。やがてその足が徐々に、クローゼットの方へと近づいていく。
「…………どうやらこの中のようでございます」
 衣類しかしまっていないはずなのにと、菖蒲は独り言のように呟き、クローゼットの取ってへと手をかける。
「ま、待って! 菖蒲、…………さん!」
「月彦さま?」
「あぁ、いや……ごめん。なんていうか……一瞬、そこを開けたらとんでもないことになるような気がして……」
「そうは申されましても……ひょっとしたら食べ物か何かが紛れ込んで腐っているかもしれませんし……確かめないわけには参りません」
「た、確かに……ごめん、菖蒲さん。開けてみて」
「はい」
 菖蒲は取っ手に指をかけ、躊躇いも無く一息にクローゼットを開いた。


「…………何も無い?」
 菖蒲が開けたクローゼットの中を覗き込み、月彦は小首を傾げる。正確にはそこには菖蒲の衣服がずらりとかけられており“何も無い”というわけではないのだが、少なくともそのどれもが菖蒲の言うような“酸っぱいような匂い”を出しているようには見えない。
「いえ、確かにここから匂います。これは……吐瀉物の匂い、でしょうか。でも……」
 菖蒲は不審そうに眉を寄せながら、丁寧に“匂いの元”を探る。
「これは“残り香”でございますね。匂いが籠もっていただけで、ここに何かがあるわけではないようでございます」
「わからないな。ネズミかなにかが腐った食べ物を運んで来て、ここで食べてまたどこかに逃げたとか、そういうことかな?」
「無くは無い――とは思いますが、小憎い鼠族共の侵入に気づかなかったとは思いたくはないところでございます。……とにもかくにも、“今”は何の異常も無いようでございますね」
 菖蒲は静かにクローゼットを閉じ、そしてコホンと小さく咳をつく。
「月彦さまァァ♪」
 ――や否や、人が変わったかのような甘い声とともに、唐突に月彦の胸へと飛びついてきた。
「どわっ」
 菖蒲の不意打ちを捌ききれず、月彦は菖蒲に押し倒される形でベッドの上へと吹っ飛ばされる。
「あぁぁんっ、月彦さまっ、月彦さまァァ♪」
「ちょっ……そんな、い、いきなりテンション変わり過ぎ…………」
 突然のだいちゅきアタックに月彦の方が呆気にとられた。真央ですら、ここまで急には変わらないぞと思う矢先に菖蒲からキスの雨を降らされ、さらに部屋着を脱がされ、焦れったげな手つきで股間まで撫でられる。
「あぁんっ……月彦さま……どうか、お願いでございます……はからずも月彦さまを謀った罪深い従者である菖蒲に、罪を償う機会をお与え下さいまし。わたくしの全身全霊を込めて月彦さまを喜ばせて差し上げたく存じます」
 はぁはぁと息を荒げながら、菖蒲はすでに月彦の下着まで下ろしそそり立つ剛直を扱くように撫でながら、うっとりと頬まで擦りつけている。
「…………いい加減にしろ、菖蒲」
 従者のくせに主に指図するな――言外に含めるように、菖蒲の前髪を掴み、乱暴に剛直から引きはがすや、ベッドに伏せさせるように放り投げる。
「きゃんっ」
 という悲鳴すらどこか嬉しげで、それが月彦に苛立ちを――正確には、苛立ちにも似た“欲情”だが――を募らせる。この主を主とも思わない交尾狂いのメス猫に、立場の差というものをいい加減分からせてやらねばと、剛直にさらなる力がこもる。
「……菖蒲、尻を差し出せ」
 言うが早いか、月彦は菖蒲の尾をつかみ、強引に膝立ちの状態にさせる。
「つ、月彦さまぁぁ…………やんっ……!」
 怯え、竦み、震い上がって身動きすらろくにとれない――そんな“フリ”をする菖蒲のスカートをまくり上げ、下着を膝下まで一気に下ろす。
(おやおや……)
 思わず顔に歪んだ笑みが浮かぶ。下着は既に絞れそうなほどにぐっちょりと濡れ、ぐいと指で割り開けば滴り落ちそうなほどだ。“ベッドに入ってから”にしてはあまりに潤沢すぎる。つまり、したり顔でクローゼットの中を調べながら、その実。体の方は抱かれたくて抱かれたくてウズウズしていたという、何よりの証左だ。
「なんだ、菖蒲。あれだけ抱いて、たっぷりと子種を注いでやったのに、まだ発情が治まってなかったのか?」
 それとも、根っからの淫乱なのか?――蔑むように言い、菖蒲が何事かを反論しようとした矢先に、思い切り尻を平手打ちし、黙らせる。
「うるさい。従者なら言い訳などせず、黙って体だけ差し出せ」
「……は、い…………菖蒲は、菖蒲の体は……月彦さまのモノでございます…………どうか、ご自由にお使いくださ――…………んぃぃいいいいッ!!!」
 言われるまでもない――猛り狂った肉の槍を生意気な従者の粘膜に突き立てながら、月彦は熱を帯びた息を吐く。
「いいか、菖蒲。昨夜のように優しくしてもらえると思うなよ?」
 これからするのは、ただの交尾だ――その一言が、むしろ菖蒲を喜ばせ興奮させると分かっていてあえて、月彦は囁き、そして陵辱を開始した。



 ふにゃあ、と満足げに脱力し、もぞり、もぞりと尻尾をくねらせる菖蒲を寝室に残して、月彦はシャワーを浴び、マンションを後にした。
(もう夕方、か……)
 まだ、というべきだろうか。絡んでいる時は或いは真央以上ではないかとすら危ぶんだ菖蒲だが、その実体力は回復しきっていなかったのか、或いはやせ我慢でもしていたのか。限界は意外に早く訪れ、そこからは殆ど身動きの取れない菖蒲を「治まるまでは相手をしてもらうぞ」とばかりに一方的に陵辱し続けたのだった。
(…………まぁ、なんだかんだで……気晴らしにはなった、のかな)
 由梨子のことでうじうじと悩みながら週末を過ごすよりは、遙かに有意義だったかもしれない。菖蒲に謀られ、己の意外な一面を確認させられたのは些かショックではあったが、それも白耀と由梨子とのことがあったからだと、月彦は前向きに解釈することにした。
(……それに、騙したのは菖蒲さんだけじゃないしな)
 ある意味おあいこだと、月彦はほくそ笑みながらポケットに手に入れ、小瓶を取り出す。中身は空だが、元々そこには“別の瓶”から移した黒い丸薬が入れられていたのだ。
 そう、クリスマスに真狐にもらった丸薬だ。
(さすがに、な。いくらなんでもそうそう気軽に子作りなんか出来ないよ、菖蒲さん)
 とりあえず散々焦らした分は愉しんでもらえた事だろう。実際に妊娠はしなくとも、これで義理は果たせた筈だ。
(…………問題は由梨ちゃん、だよな)
 この先、やはり一度も顔を合わせないというわけにはいかないだろう。その時、一体どんな顔をすればいいのか――そして、同じようなことを由梨子も考えているのではと思うと、それだけで舌を噛み切りたくなる。
(………………フラれるって、きっついな)
 ため息をつき、大きく肩を落としながら。
 我が家へと続く暮れなずむ道を、月彦はとぼとぼと辿るのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


以下おまけ
絶 対 に読まないで下さい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


『……ごめん、由梨ちゃん。日曜日行けなくなっちまった。俺から誘ったのに悪いんだけど……』
 ピーッ。
 留守電の再生終了を告げる音に続いて、録音されたメッセージを消去するか否かの問い。由梨子は何ら操作をせずに、そのまま携帯を放り出し、ごろりと寝返りを打つ。
 一体何故。
 急にどうして。
 月彦からの留守電を聞いてからというもの、由梨子の頭をその二つがぐるぐると回り続けていた。
 自分には、物事を悪い方へ悪い方へと考える悪癖がある。そのことを由梨子は自覚している。だから“これ”も考えすぎなだけだ――何度もそう思い込もうとして、しかしことごとく失敗した。
 デートの約束が流れたこと自体は、今回が初めてというわけではない。むしろ、由梨子の記憶が正しければ“約束”が約束通りに履行されることのほうが少なく、そのこと自体は確かにショックではあるが、耐えがたい程というわけでもない。当日何の連絡もなしに二時間三時間と待たされた挙げ句、数日経ってから「ごめん由梨ちゃん! 実はあの日は――」と後から事情を聞かされるよりは、事前に断りをもらっただけまだマシだとも言える。
 なのに。
(どうして……)
 こんなにも、不吉な予感がするのだろう。月彦がいつも通りの声、いつも通りの調子で吹き込んだ音声から、目眩がするほどの不安を感じるのだろう。
 否、それは“いつも通り”ではあるが、“いつも通り”ではないからだと気づく。普段の声、普段の調子であるというのが、そもそもおかしいのだ。思い返せば、デートの約束が反故になった時は由梨子が怒る気を無くすほどに、それこそ必要ならば自らの心臓を差し出すことも厭わないとばかりに平身低頭で謝罪してくる月彦が、このようにサラッと「ごめん、行けなくなった」と留守電に吹き込むことがおかしいのだ。
 むくりと体を起こす。室内が暗い。デパートから帰ってから灯りもつけずにそのままベッドに倒れ込んだことを思い出す。
 灯りをつけて壁掛け時計へと目をやる――時刻は五時を過ぎた辺り。五時にしては暗いと首を捻って漸く、“日曜日の午後五時”ではなく、“月曜日の午前五時”だと知って愕然とする。
 つまり、ほぼ一日半もの間。半死人のようにベッドに横たわり、録音されたメッセージを――途中で一度携帯が電池切れを起こし、その際に充電器とは繋いだ――を聞き続けていたことになる。もちろん、その合間合間に意識が途切れるように眠り、あるいはトイレにも立ったかもしれない。しかし時間の間隔が半日分もズレる程に、前後不覚の状態に陥っていたという事実に、由梨子は驚きと衝撃を隠しきれなかった。
(……携帯には……真央さんからのメール……いつのまにか返信までしてる)
 着信日時は日曜の午前十時ごろ。昨日デパートで買った服を友達の家に忘れたから取りに行ってくると言ったきり、月彦が戻ってこなくて暇だから遊ぼうという内容だった。どうやら夢うつつの時に見て、返信をしたらしく自分がなんと返したか由梨子は全く覚えていなかった。送信済みフォルダを確認すると、今日は体調が優れないので遠慮させてください、と書かれたメールが残っていた。
「………………。」
 ということは、少なくとも真央とのデートを優先するために反故にされたわけではないということだ。もちろん、“そう思わせる為”に真央が偽のメールを飛ばしたという可能性も無くはないのだが。
「………………。」
 由梨子は首を振って、こてんと横になる。いくらなんでも、それは邪推のしすぎだ。それに万が一その通りであったところで、一体誰に対して怒る権利があるだろうか。
 目を閉じる。過ぎたことをいつまでも悩んでいても仕方ない。月彦とのデートが流れたとはいえ、これきりというわけではないのだ。メッセージに違和感を覚えたのも、ひょっとしたら月彦自身時間に追われていて、やむなく簡単なメッセージしか残せなかっただけなのかもしれない。
 由梨子は布団をかぶり、そのまま蹲るように身を縮める。室内だというのに、布団を被っているというのに、いやに寒さが身に染みる。体の芯まで凍てつくようだった。
 ………………。
 ………………。
 不安。
 そう、不安が急速に膨れあがるのを感じて、由梨子は再び体を起こした。上着の白トレンチだけを羽織り――上着以外は土曜日帰宅したときのまま、着替えてすらいなかった――そのまま何かに追い立てられるように玄関を飛び出した。
 由梨子は覚えている。前にもこうして、居ても立ってもいられずに家を飛び出したことがあった。あの時は雪が降っていた。それでも、夜の街を走らずにはいられなかった。
 まだ夜明け前の街を走り、いつかの夜同様、由梨子は紺崎家の前までやってきた。部屋の窓に明かりはついていない。否、ついていたとして、訪ねることが出来る時間帯ではない。にも関わらず何故来てしまったのか。
「先輩……」
 まるで心臓が脈打つ度に、病巣のように巣くった不安が加速度的に肥大していくかの様。息をするのも苦しくなるほどの不安の種となっているもの、それは真央からのメールの内容だった。
(ひょっとして、先輩に……見られた……?)
 由梨子は思い出す。真央からのメールには月彦は昨日デパートで買った服を友達の家に忘れた、とあった。それはつまり、月彦もまた土曜日にデパートを訪れていたということではないか。
 もちろんデパートと一口に言っても、由梨子と白耀が訪れた場所と同じであるとは限らない。だが、同様に絶対に違うとも言い切れない。
(う、そ……そんな…………)
 さぁっ……と血の気が引き、同時に体温まで下がるのを感じる。全ては推測の域を出ない。が、もしそうだとすれば、あのタイミングで唐突にデートの破棄が申し渡された理由にも説明がつくではないか。そして、あの淡泊な“事前連絡”となった理由も。
 考えれば考えるほどに、そうだとしか思えなくなる。だとしたら、何という悪い偶然だろうか。もしあの場に月彦が居たのだとすれば、間違い無く目撃した筈だ。白耀との二人きりの買い物に舞い上がり、でれでれと締まりのない顔をしていた、宮本由梨子の姿を。
(違う…………違うんです、先輩!)
 弁明しなくては。疑いを晴らさなくては。ことは宮本由梨子だけではなく、真田白耀の名誉にも関わることだ。目が紺崎家のインターホンのボタンを捉える。が、由梨子はすぐに首を振った。
 いくらなんでも、こんな時刻に鳴らすのはありえない。しかし月彦は携帯を持っていない。真央の携帯にかけて、月彦だけを呼んで貰うという手も無くは無いが、失礼という意味ではいきなり夜中にインターホンを鳴らされるのと大差ないだろう。
 第一、と由梨子はコートのポケットに手をいれる。衝動のままに飛び出して来た結果、携帯を持たずに来てしまった。その気のあるなしに関わらず、真央を橋渡しにという手は使えないのだ。
(…………なんて、身勝手……)
 寝ている相手をたたき起こしてまで弁明をして、それが一体何になるというのか。それはもはや弁明でもなんでもなく、ただの自己満足ではないか。
(それに…………)
 白耀に対して抑えがたい気持ちを抱いていたのは事実だ。
 白耀と二人きりで、まるでデートのようだと舞い上がっていたのも事実だ。
 月彦も真央と二股をかけているのだから、自分だって――そういう気持ちがゼロではなかったのも、事実だ。
(………………。)
 由梨子は悟る。自分には弁明を――「誤解なんです」と口にする資格がないことを。何より、白耀の前で締まりの無い顔をしている宮本由梨子の様子を見て「ああ、そういうことなのか」と月彦が判断したのだとすれば、弁明をしたところで何も変わらないのではないか。
(…………そんなに“嬉しそう”に見えましたか? 先輩……)
 それとも、気持ちが通じ合っていると思っていたのは自分だけで、月彦の方はさほどでも無かったのだろうか。それどころか、あの優しい笑顔の裏側で、早くこの邪魔な後輩と縁を切りたいと思われていた可能性すら考えて、由梨子は寒さとは違った意味で体を震わせ、爪を立てるように肩を抱く。
(こんなに、簡単に…………)
 終わってしまうものなのか。愕然としながらも、由梨子は空を見上げる。星々が煌めき、うっすらと紫がかったこの空を、自分は一生忘れないだろう。そして夜空を見上げる度に今の気持ちを思い出すに違いない。
「…………っ……」
 唇を噛み、そしてハッと。由梨子はあることを思い出し、縋るような気持ちで背後を振り返った。が、そこにはぽつねんと電柱が立ち尽くしているのみであり、“期待した人物”の姿は無かった。
「……フフッ……アハハッ……」
 この期に及んで、まだ月彦との復縁を望んでいた自分の浅ましさに、思わず変な笑い声がこみ上げる。いっそこのまま家の塀から屋根へと上がり、月彦の部屋に強引に侵入してもう一度チャンスを下さいと泣きながら土下座でもしてみようか。呆気にとられている真央の前でやれば、さぞかし良い見世物になることだろう。
「アハッ……アははハハ……!」
 変な笑いが後から後からこみ上げてきて止まらない。涙を溢れさせ、しゃくり上げるように笑い声を押し殺しながら。
 由梨子は月彦への未練を断ち切るように踵を返し、静かに帰路についた。


 紺崎家に背を向け歩き出した後は次第に早歩きになり、気がつくと走り出していた。まるで後ろから追ってくる罪悪感や後悔、自己嫌悪といったものを必死に振り払おうとするかのように由梨子は走り、走りながら大声で喚き散らした。
 息も絶え絶えに漸く足が止まり、その場に膝をついた時にはもう遠い山の端から朝日が顔を出し始めていた。溢れた涙の中で陽光が乱反射し、まともに前を見ることも出来ない。由梨子はすっかり濡れそぼっている袖口で涙を拭い、そして漸く自分がとんでもない場所へ来てしまったことに気がついた。
(どうして――)
 そこは白耀の紹介で住めることになったアパートでもなく。ましてやかつて家族と暮らしていた旧宮本家(現空き屋)でもなく。真田白耀その人の――私宅へと通じる――裏門の真正面だった。ことここに及んで由梨子は再び変な笑いがこみ上げそうになって、慌てて両手で口元を覆った。
 月彦に捨てられたから、今度は白耀に縋る気なのか。白耀に保科菖蒲という唯一無二の恋人が居ることを知った上で、今度はその“二番”を狙うつもりなのかと。耳を覆いたくなるような罵詈雑言が頭の中で反響する。
(…………もう、それでもいいのかもしれない)
 尤も、由梨子には決定権など無く、全ては白耀次第とも言える。“そんな宮本由梨子”でも側に置いてくれるかどうかだ。
(………………白耀さんは、優しいから)
 全てをかなぐり捨てて縋れば、首を横には振らないのではないか――そんな汚れた発想をする自分に、由梨子は呆れるばかりだった。もう自己嫌悪を続けるのも疲れたとばかりに、由梨子は力なく立ち上がる。
(……帰って学校に行く準備をしなきゃ)
 そもそも、白耀は昨日一生に一度のプロポーズをして――そしてそれはほぼ確実に成功が約束されていて――ひょっとしたら今頃は菖蒲と共に布団の中か、或いは菖蒲の部屋の方で一緒かもしれない。由梨子にも覚えがある、それは人生で最も幸福な時間の一つだ。
「……っ……」
 月彦には真央が居て、白耀にも菖蒲がいる。しかし自分の側には誰も居ない。まるで世界中の不幸を一人で背負わされたような気分になりながらも、由梨子は凍える体ごと肩を抱きしめ、今度こそと帰路につく。――“何事”もなければ、或いはそのまま自宅へと帰り、学校でばつの悪い思いをしながら真央と顔を合わせていたかもしれない。
「えっ……」
 微かに感じたその匂いに、由梨子は改めてくん、と鼻を鳴らす。やはり、勘違いではない。この焦げ臭さは、間違い無く何かが燃えている匂いだ。
 咄嗟に辺りを見回す。屋敷の前の道には人通りも、車の通りもなく、ましてや匂いの元になりそうな焚き火など一切見当たらない。周囲の民家の庭先も同様だ。ひょっとしたらと、由梨子の目が屋敷の門を捉える。その頭の中には、既に最悪の想像が始まっていた。
 一も二も無く、由梨子はポケットに手を突っ込み、家の鍵と一緒にキーホルダーにくくりつけてある――白耀と同居していた頃に渡され、アパートに住まうようになった時にもそのまま持っていて構わないと言われた――門の鍵を取り出し、中へと入った。一段と増した焦げ臭さに、由梨子は自分の想像が悪い意味で当たっていたことを知る。
 朝日はさらに登り、薄暗いものの視界が効かないということはない。ましてや、勝手知ったるなんとやら。由梨子は飛び石に躓かぬよう気をつけながら火元を捜し――そして、あっさりとたどり着いた。
 “それ”を見た瞬間の衝撃を表現する術を、由梨子は持たなかった。屋敷の庭は広く、それこそ幼稚園や保育園規模の運動会がやれるくらいの広さはある。その片隅で赤々と燃える小さな焚き火があり、さらに傍らには見覚えのある人影があった。
「はく……よう……さん?」
 数メートルの距離まで歩み寄り、人影が間違い無く白耀だと確信してから、恐る恐る声をかける。が、反応が無い。聞こえなかったのだろうかと、もう一度声をかけようと口を開こうとした時。
 由梨子は、白耀の足下で燃えているものの正体に気づいた。
(あれ、は……)
 燃え残りの包装紙の柄には見覚えがあった。ほんの一日前、白耀と共に選びに選び抜いて、そして菖蒲はそういう柄が好きだからと柄にまで拘り抜いた。
 そのコートが今、無惨に燃やされている。
(白耀、さん……そんな…………どうして…………)
 それだけでもう、由梨子には全ての察しがついてしまった。見えない手が心臓を握りしめ、一滴残らず絞ろうとしているかのような、そんな苦しさに由梨子は嗚咽めいた声を出してしまう。
 由梨子の“その声”に反応したのか。くるりと白耀が振り返った。
「……ひっ…………!」
 絞り出すような嗚咽が、そのまま悲鳴になった。
 由梨子は知っている。真田白耀の静かな立ち振る舞い、その優雅な身のこなしを。それだけに、眼前に立っている相手が同一人物であるとはとても信じられなかった。
 いつもの柔和な眼差しは見るかげもなく、この世の地獄でも見てきたかのように赤黒く血走ったまま見開き、しかも左右の目がそれぞれ明後日の方角を向いていてまるで焦点が合っていなかった。由梨子が初めて見る――恐らくは、白耀の“正装”と思われる――羽織り袴は吐瀉物のような汚れがびっしりと付着し、ぼさぼさに逆立った髪も相まってもはや狂人の様相と化していた。
 そして何よりも由梨子が怯えたのは、その涙の後だった。どす黒い、まるで出血の痕のようにしか見えないそれは、紛れもない。
 そう、血の涙の跡だ。
「はく……よ…………っ……」
 あまりの変貌に、声が言葉にならない。プロポーズに失敗しただけで、ここまで変わってしまうものなのか。絶句する由梨子の前で、剥製のように固まっていた白耀の目が蠢き、ゆっくりと由梨子を捉える。
「……やあ、由梨子さん」
 別人だと思い込みたくなるほどに変わり果てているというのに、声だけは夏の木陰から吹く涼風のように爽やかだった。その不合理さがむしろ由梨子には恐ろしく、歯の根が止まらない。
「丁度良かった。今から貴方を探しに行こうと思ってたんです」
「私、を……?」
「はい」
 死人のように白い肌に一筋、まるで透明なナイフで切りつけたかのように、真っ赤な唇が笑みを作る。それはさながら、嬉々として亡者に審判を下す冥府の王――そんな愉悦の笑みを浮かべて、白耀は大きく頷いた。
「月彦さんの“一番”である、貴方をです」
 


ヒトコト感想フォーム

ご感想をひとことどうぞ。作者にメールで送られます。


ヒトコト

Information

現在の位置