雛森雪乃は考えていた。その内容の大半は“いつものアレ”―― 一体どのようにすれば、紺崎月彦と幸福な時間をより多く、そして長く過ごせるだろうかというもの――だった。
 前回の“お泊まり”では、雪乃は頭の奥が痺れるほどに幸せな時間を味わうことが出来た。“それ”をもっともっと味わいたいと考えるのは、人として当然の流れとも言える。
(………………確かに、紺崎くんの言い分も解るのよね)
 月彦は言う。たまにしか一緒になれないからこそ、二人きりの時間が珠玉なのだと。それは雪乃にも解る。事実、月彦の言う通り、二人きりで過ごす時間は雪乃にとって何物にも代えがたいほどの濃密で幸せな時間になっているのだから。
(だけど……なんていうか…………もう少しくらい……)
 と、考えてしまう自分は欲深なのだろうかと、時折悩んだりもする。そもそも月彦の方は平気なのだろうか。普通ならば――雪乃が見聞きしている、普通の男子高校生の風評ならば――それこそ、野獣のように異性を求めまくるものではないのか。
(……確かに、紺崎くんも野獣っぽいといえば野獣なんだけど……)
 否、野獣というよりもケダモノか。なんだかんだで、ジキル博士とハイド氏並に豹変する月彦の表と裏の性格にも慣れつつある自分に、雪乃は苦笑を禁じ得ない。理想としては、普段の月彦がもう少し積極的になり、裏の月彦がもう少し甘えてくれればいいのだが、そこまで求めるのは我が儘というものかもしれない。
(…………せめて、紺崎くんと共通の趣味でもあればいいんだけど)
 一体何度、そう思ったことだろうか。時折昼食を共にするようになって雪乃が思うのは、共通の話題の少なさだった。ほとんどが学校でのこと、見たテレビの話など、その内容がなんともありふれていて、雪乃はそれを次第に不満に感じ始めたのだった。
(……紺崎くんって、一体何が趣味なのかしら)
 はたと、思う。月彦から、自分の趣味の話など聞いたことも無かったからだ。そういえば過去にも同様のことを思い、機会があったら尋ねてみようと思いはしたものの、結局その機会が訪れずそのまま忘れてしまった。今度こそ、食事の際にでも聞いて見よう――そんなことを考えながら、雪乃は教材を手に次の授業がある教室へと向かう。そのルートは自然と、月彦の教室の前を経由するようなルートとなり、教室の前を通る時などはさりげなく視線を向けて月彦の姿を捜してしまう。
 もちろん、そこに月彦が居たからといって何がどうなるものでもない。ましてや、目が合うなり「先生、会いたかったです」とばかりに席を立ち、駆け寄ってきてそのまま熱い抱擁をかわせるなどとは夢にも思わない。そもそもそんなことを衆目の前で出来るわけもなく、見たところで何も起きないと解っていても、雪乃は月彦の姿を捜さずにはいられない。
 月彦は、居た。自分の席に座り、何かの雑誌を机の上に広げてそれを読んでいるようだった。明らかに教科書ではないそれを、教師という立場上咎めるべきなのかもしれない。無論、これが月彦以外の男子生徒であれば、悩みもせずに見て見ぬ振りをするところだが。
(……そうだわ“没収”して、預かっておくから後で取りにきなさいって流れはアリかも……)
 その後のピンクピンクした妄想まで考えて、しかし雪乃は首を振る。厳格な校則に縛られた私立進学校ならばいざ知らず、校則のゆるい公立高校でそこまでやるのはさすがに度が過ぎている。見ている周りの生徒も何事かと思うことだろう。
(……でも、一体何の本を読んでるのかしら)
 雪乃は好奇心を抑えきれず、足を止めてつい紙面を凝視してしまう。別にこれがゲーム雑誌でもファッション誌でも驚かないが、女性の水着写真集とかであったならば、後々月彦を問いたださねばなるまい。
 しかし、雪乃の危惧は外れた。そこに載っているのはどう見ても女性の裸体などではなく――


 


 
 

 

 

 

 

『キツネツキ』

第五十五話

 

 

 

 

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 





 ――ゾクゾクゾクゥ!

 全身を貫く凄まじい悪寒に、月彦は堪らず顔を上げ、“悪寒の元凶”を捜して辺りを見回した。そしてその目が、吸い寄せられるように雪乃のそれとかち合った。
 雪乃は口元に笑みを浮かべ、ふいと背を向けて廊下を歩き去って行く。が、その踵を返す直前、月彦は確かに見た。声にこそ出さないが、雪乃の唇の動きは明らかに「ふうん、紺崎くん、そういう本読むんだ」――と。
 月彦は改めて、自分が読んでいた雑誌へと視線を落とす。誌面には、様々な中古の原付が写真つきで売りに出されている。クラスメイトの一人から、兄がバイク好きだという話を聞き、自分も原付を購入しようか悩んでいるから、もしそれ関係の雑誌などを持ってたら参考までに一冊欲しいと頼んだのが昨日のこと。そして今日、早速とばかりに休み時間に眺めていただけ――なのだが。
(なんだなんだ……さっきの悪寒…………ただ事じゃ無いぞ)
 そう、例えるなら――自営業に失敗し、金の無心をしにきた親戚を鼻にもかけずに追い返した翌日、浮気相手とホテルから出て来たばかりの所を、偶然その親戚に見られて戦慄するかのような。絶対に見られてはいけないものを、絶対に見られてはいけない相手に見られた時に感じる悪寒、恐怖――雪乃に感じたものは、まさにそれだった。
(………………そういや、先生って……結構派手な車乗ってたんだっけ……)
 今でこそ乗り心地を重視したような軽自動車に乗っているが、そもそもは峠の走り屋を彷彿とさせるような赤いスポーツカーを乗り回していた。その上、エンジン音が五月蠅いからと苦情がきても、車を買い換えるよりも住まいを変える方を選ぶくらい、その車に愛着があったのだ。
(……車と、バイクの違いはあるけど……)
 或いは、雪乃はこう思ったのではないだろうか。二人の間に、共通の趣味を見つけた――と。
(………………やばい。これは…………面倒くさいことになる気がするぞ)
 しかし意外にも、面倒くさいことになりそうだという月彦の予感は外れた。
  何故なら、“想像以上に面倒くさい”ことになったからだ。


「んもぅ、紺崎くんったら。どうして今まで言ってくれなかったの? 一言相談してくれたら、いくらでもアドバイスしてあげられたのに」
「いや、その……待ってください、先生、アレは――」
 昼休み。本来ならば共に昼食を過ごす日ではなかったのだが、授業が終わるなり月彦はわざわざ教室までやってきた雪乃に「今後の部活動のことで、大事な話がある」と天文部顧問の強権をふるわれ、殆ど拉致されるように進路指導室まで連れてこられたのだった。
「こう見えて、そっち方面にはかなり知り合いが多いの。何か欲しいバイクがあるなら、知り合いのバイク屋に頼んで半額以下にしてあげる。ううん、もういっそ紺崎くんが欲しいバイクなら私が買ってあげちゃう!」
「ま、待って下さい……俺は別にバイクが欲しいわけじゃ――」
「あっ、そっか。その前にまず免許取らなきゃいけないわよね。だったら毎日教習所まで送り迎えしてあげる。もちろん学校には黙っててあげるし、時間がとれないなら部活で学校外にどうしても出なきゃいけないってことにして、公欠扱いにしてあげる」
「ちょっと、先生、俺の話を聞いてくださ――」
「そうだわ! いっそ、私も紺崎くんと一緒に教習所に通っちゃおうかしら。実はね、私も前から二輪は興味があったんだけど、一人じゃなかなか踏ん切りがつかなかったの。紺崎くんが一緒なら教習所に行くのもデートみたいなものだし、ああん、今から楽しみ!」
「せ、先生……」
「ていうか、本当はね、二輪には乗りたかったんだけど、自分で運転するんじゃなくって、彼氏の背中でキャーーー!ってやりたかったの! 紺崎くんが二輪の免許とってくれるなんてホント夢みたい……連休になったら、一緒にツーリングしたり、紺崎くんのバイクで遠出してお泊まりしたり出来るわね。友達に早速ツーリング向けのスポットとか聞いとかなきゃ!」
 月彦はもう、雪乃を止めることに疲れ、ただただ曖昧な笑みを浮かべて生返事を繰り返すことしか出来ない。
(やばい……先生が暴走機関車みたいになっちまった……)
 そして、勝手に話がどんどん進められ、どうにも止めることが出来ない。
(俺はただ、倉場さんみたいに二人乗りの原付に乗るにはどういった免許が必要で、原付自体はいくらするのかを調べようとしただけなのに……)
 どうしてこうなった――天を仰いでそう呟きたい気分だった。
「それで、紺崎くんはどれがいいの?」
「……へ?」
「ほらぁ、この雑誌。欲しいバイクがあったから見てたんでしょ?」
 月彦としては、まるで手品でも見ているような気分だった。一体何故、雪乃の手に先ほど自分が見ていた雑誌と同じものがあるのか。
(……いや、これ……俺がもらった雑誌そのものじゃないか)
 表紙の折れ曲がり具合や皺のより方。全てが同じだった。どうやら雪乃は教室に乗り込んできたどさくさに紛れて勝手に雑誌まで持って来たらしい。
「ほらほらぁ、紺崎くん、ここ座って!」
 雪乃に手招きされ、進路指導室の折りたたみ式の長机の前に椅子を並べ、二人肩をくっつけるようにして雑誌を読むことを強要される。
「ね、ね、どれが欲しいの? ていうか、紺崎くん的には、どれがカッコイイと思う?」
 スポーティな大型バイクの写真ばかりが並ぶページを開き、両目を輝かせながら雪乃が問う。それはバイクの善し悪し云々の前に、紺崎月彦という人間の好みが知りたいというような意図を感じさせる質問だった。きらきらと、夢見る少女のように両目を輝かせる雪乃を前に、まさか「いえ、こんな大型バイクなんて絶対乗りたくないです」等とは口が裂けても言えない月彦は、またしても曖昧な笑みを浮かべながら紡錘型の風防が特徴的な真紅の大型バイクの写真へと人差し指を添える。
「ふぅん、カキザワのMOS808かぁ。悪く無いけど、これだったらキダのGBXのほうがいいんじゃないかしら。キダのGBシリーズは名機揃いなんだけど、中でもとりわけ人気が高いのが初代のGBUなのね。初代なのになんでUがついてるのかっていうと――」
 ぺらぺらと、機関銃の弾のように飛び出してくるバイク話に、月彦はただただ面食らうばかりだった。
「でね、バイクを買う時に気をつけなきゃいけないのがこの最大トルクなの。あっ、紺崎くんトルクって解る?」
「いえ……」
「トルクっていうのはね、エンジンのパワーっていうか、タイヤを回す為の力のことなの。自転車に例えるなら、ペダルを踏む力のことね。でね、トルクと同じくらい大事なのが――」
 月彦は考える。一体どうすれば、雪乃を失望させず、尚且つ円滑にこの流れを断ち切ることが出来るだろうかと。
「で、話を戻すけど、その名機って言われた初代GBUの正当後継機って言われてるのが、このGBXなの。ほら、ここ! GBXはこのカウルの形がシビれちゃうのよねぇ……あまりに人気がありすぎて、他社でマネされちゃったりもしたけど、やっぱり全体の調和っていうか、このカウルはGBシリーズのデザインにしかマッチしないのよねぇ」
「先生は……このGBナントカってバイクが好きなんですね」
「うーん、好きか嫌いかって言われるとそりゃ好きだけど、でもね、私が一番好きなのはミズキのVR900かなぁ。どこか載ってないかしら」
 ぱらぱらと雑誌をめくる――が、お目当ての写真は見つからないらしい。
「まぁ、古いバイクだし、世間的にはあまり人気がない車種だしね。そうねぇ、強いていうならこれとこれとこれを足して3で割ったようなデザインかしら」
 と、雪乃は3つの写真を指さすが、勿論月彦には想像もつかない。
「ははは……ま、まぁ……大型バイクも確かにカッコイイと思うんですけど、俺的にはやっぱり最初はもっとこう初心者向けというか、原付とかから慣らしていった方がいいんじゃないかなーって思うんですよね」
「大丈夫、紺崎くんさえその気なら、凄腕のインストラクターを紹介してあげる。ちょっとスパルタだけど、紺崎くんなら一ヶ月もあればジャックナイフくらいは余裕で出来るようになるわ」
 俺にはその気がないんです、とは、言えない。こんなに嬉しそうな雪乃の頭から冷水を浴びせるようなマネが出来るのは、人外鬼畜だけだ。
 が、さすがに雪乃も月彦が引き気味であるのには気がついたらしい。「あっ」と声を上げ、ぺろりと舌を出した。
「ごめんね、一人で喋っちゃって。紺崎くんと共通の趣味があるって思ったら嬉しくって」
「いえ……気持ちはわかりますから」
「とにかく、この件については二人でじっくり話合いましょ。バイクは楽しいけど、事故だけは絶対起こさないようにしないとね」
「そう、ですね。大型バイクはパワーもありそうですし、事故とか考えるとやっぱり原付のほうが――」
「そうね。確かにこの本に載ってるのはイモバイクばっかりだわ。明日、もっといいカタログ持って来てあげる。紺崎くんが思わず飛びつきたくなるくらい、カッコイイバイクがいっぱい載ってるやつを持って来るから、楽しみにしててね」
「はあ……期待してます」
 どうしよう、このままでは本当に大型バイクに跨がる羽目になる――月彦は己の前途に暗澹たる思いだった。


 翌日には、ダンボールひと箱分ものカタログが部室へと運び込まれ、放課後部室を訪れた月彦は目眩を起こしながらもそれらを眺める羽目になってしまった。そんな雪乃に対して、月彦が出来た防御策は――
「つき、ひこ、くん……バ、バイク、乗る、の?」
 部室のテーブルの上に広げられた山ほどのバイクのカタログを見て、月島ラビは目を丸くしているようだった。そう、雪乃の暴走を少しでも和らげることが出来ればと――ひょっとしたら初めて――月彦は自らラビを誘い、部室へとやってきたのだった。
「ま、まぁ……乗るかどうかはまだ解らないけど、とりあえずどんなのがあるのかくらいは知っておこうかと思って」
「………………。」
 雪乃の無言の視線から逃げるように顔を逸らしながら、月彦は言う。雪乃はといえば、ラビの姿を見るなり腕を組んだままカタログが積まれたテーブル越しに立ち、じーっと月彦に視線の圧力を浴びせかけてくる。
 が、そのジト目が唐突に緩んだ。
「月島さんも、折角だから色々見てみたらどうかしら。女の子向けの原付を紹介してるページとかも、たしかあったはずよ」
 一転、雪乃は優しく微笑みながらラビへと話しかける。猫なで声としか言い様が無いその声に、月彦はむしろ寒気を覚えた。
 そう――まるでラビに優しくすること自体を“貸し”にされているかのような居心地の悪さなのだ。
(ヤバい……ひょっとして、月島さんを連れてきたのは逆効果だったのか……?)
 少なくとも、有効打には全くならなかったようだった。雪乃はラビと月彦、両者に分け隔て無く接するように装いながらも、時折距離を詰めてきては月彦が見ているページを確認してくる。その為月彦はたとえ興味が無くとも、恐らく雪乃が見て欲しいであろう大型バイクのコーナーを熱心に見る振りをし続けなくてはならなかった。

 結局その日の“部活”は全員でカタログを眺めただけで終わってしまった。帰り際、もう日が落ちて物騒だからと、わざわざ雪乃が車でラビだけを送って行った時等は怖気が走ったものだ。いつもの雪乃ならば、二人とも送って行くと言いだし、そしてラビだけを先に送り届けた後、狼へと変貌した筈だ。
 “それ”をしない雪乃に、月彦は違和感を通り越して恐怖を感じる。それは雪乃が狙っているもの、求めているものが途方も無く巨大であることの証拠に他ならない。放課後のイチャイチャや、一夜だけのイチャイチャなどとは比較にならないものを、雪乃は求めているに違いないのだ。
(困った……もう、大型なんて乗りませんってはっきり言うべきなんだろうか……)
 それはそれで、愕然とした雪乃のケアに途方も無い労力を必要としそうで、月彦はなんとも気が進まない。とはいえ、このまま雪乃の暴走に身を任せるわけにもいかない。
(ううぅ……たった一冊の雑誌のせいで、なんでこんな面倒なことに……)
 帰路の途中、月彦は思わず頭をかかえてその場にかがみ込んでしまう。が、そんなことをしても周囲から奇異の視線を向けられるだけであり、もちろん問題の解決などには繋がらない。
(……よし、言うぞ! 明日、きっぱりと、俺は先生の希望には沿えませんって言うぞ!)
 月彦は、決心した。というより、もはやそれしか手がないと気がついた。のらりくらりと先送りにしても、結局いつかは言わなければいけないことであり、それが出来ないのであれば雪乃と共に2ケツで走り回る未来しか無くなるからだ。
 雪乃はショックを受けるだろう。しかしこの先、もっともっと雪乃の期待は膨らんでいく筈だ。その果てに事実を知らされるよりは、今のほうがまだダメージは少ない筈だ。
(明日、言うぞ……絶対!)
 ぐごごと、やる気の炎を纏いながら月彦は再び歩き出す。

 そして、月彦が珍しく前向きな決断をした、そのきっかり24時間後。
 月彦は地獄にたたき落とされることになるのだった。
 



 翌朝、決意を新たに学校へと赴いた月彦だったが、まるで肩すかしのように雪乃と二人きりで話をする機会を得られなかった。結局、雪乃と二人きりになれたのは昼休みであり、それも――
「あの、先生……ちょっと大事な話が――」
「ごめんね、紺崎くん。ちょっとだけ待ってて」
 もはや密談室だの逢い引き室だの言われても仕方ないような使い方しかされない進路指導室の前で、雪乃はそう言うや月彦一人を占め出して自分だけが部屋の中へと入ってしまった。
 仕方なく待つ事数分、中から「入っていいわよー」という声が聞こえてくるなり、月彦はうしっ、と気合いを入れてドアノブを回した。
「先生、バイクの件なんですけ――」
 ドアを開けるなり、月彦は早速に用件を切り出そうとした――が、その唇の動きは途中で硬直してしまった。
 何故なら、すぐ目の前に立っていた雪乃がライダースーツ姿に着替えていたからだ。
「どうかしら? 二十歳くらいの頃に衝動買いしたまましまってたのを引っ張り出してきたんだけど……ちょっとキツすぎるかも……」
 つやつやと輝く、黒のライダースーツは雪乃の首から下を余すところなくぴっちりと包み込み、肉感のあるボディラインをくっきりと浮かび上がらせている。――否、首から下を余すところ無くというのは、少々語弊がある。
 何故かといえば――
「うーん、これ以上、どうしてもファスナーが上がらないのよね……やっぱり買い直さないとダメかしら」
 うんしょ、うんしょと雪乃は体の正中線に沿って走っているファスナーを懸命に首元まで上げようとするのだが、胸の辺りでどうしてもつっかえてしまうらしい。
 結果、ムチムチのライダースーツに身を包みつつも、胸元だけははだけているという、何とも殺人的な立ち姿になってしまっているのだった。
 そしてそれは、何が何でも雪乃に断りを入れるぞという月彦の決意を打ち砕き思考停止状態にするには、十分過ぎる破壊力を秘めていた。
「……いちおう、感想を待ってるんだけど…………やっぱり似合わない?」
 ファスナーを上げることを諦めた雪乃が、やや神妙そうに声を落として尋ねてくる。月彦は即座に首を横に高速振動させた。
「どうしたの? 紺崎くん……急に黙っちゃって。あっ、そういえば何か大事な話があるって言ってなかったっけ?」
「大事な話……」
 はて、何だっただろうか。月彦は思い出そうとして、自分の脳内が完全に眼前のおっぱいのことで埋め尽くされていることに気がついた。
(ヤバい……ライダースーツって、こんなにもエロいもんだったのか)
 雪乃が窮屈なスーツを着ているから――というのもあるのだろう。ただでさえ男子高校生を魅了し、眠れぬ夜を過ごさせる罪作りな体が、よりくっきりと浮き彫りにされているだけでも卑怯千万であるのに。
(胸が……胸が……あわわ…………)
 むちぃっ、と下からのファスナーで圧迫され、今にも白い果肉が飛び出さんばかりに強調されたその谷間がもう、月彦の目を釘付けにして離さない。
「ん……?」
 と、雪乃も漸くにして、月彦の視線の先が己の胸元に注がれているのに気づいたようだった。徐に体を右に左と捻り、それに合わせて月彦の顔がまるで連動しているように動く事を確認するや、「ははーん」とばかりに口元に笑みを浮かべる。
「意外。紺崎くん、こういうの好きなんだ?」
「はい」
 思わず即答してしまい、あっ――と、慌てて月彦は首を振る。
「いえ……決してそういうわけじゃ――」
 否定する。が、そんな戯言を雪乃が信じるはずも無い。
「そうなの?」
 それは、“年上のお姉さん”が“年下の男の子”をからかう声色の典型のような声だった。雪乃の手が、再びファスナーへと伸び、掴む。
「じゃあ――紺崎くんの為に、もうちょっとだけファスナー下ろしちゃおうかな?」
「是非!……あっ、違っ……」
 ヤバい、発声を司る神経と繋がってはいけない線が繋がってしまっている――月彦はそのことを自覚するが、かといって止める方法も解らない。
「本当に違うの?」
 つつと。雪乃の手が焦らすように動き、ほんの2ミリほどファスナーが下ろされる。からかわれているのは百も承知なのに、月彦はその動きを生唾を飲みながら凝視してしまう。
「せ、先生……」
「なぁに?」
「あの、ええと……その……」
 触りたい――そう言えば、触らせてくれるだろうか。普段の雪乃であれば、ちょっと照れ混じりに怒るようなフリをした後「しょうがないわねぇ……今日だけ、特別よ?」とかなんとか言って触らせてくれるのだろうが、今この場に至ってはどうか解らない。或いは、普段はなかなか思い通りにならない年下男のコントローラでも握っているような、そんな全能感に浸っているっぽい雪乃ならば、トコトンまで焦らしてくるかもしれない。
「……おっぱい、触りたい?」
「はい!」
 即答だった。思いも寄らぬ雪乃側からの誘いに、月彦は矢も立ても堪らず歩み出て、雪乃の胸元へと手を伸ばす。
「あンッ……もうっ、紺崎くんったら……」
 雪乃は逃げも、抵抗もしなかった。ぐわしと月彦の両手に胸元を鷲づかみにされ、もみくちゃにされながら、長机にもたれかかるように腰をおちつける。
「せ、先生……これっ……」
「あっ、バレちゃった? ちょっとね、あまりに窮屈だったから、これの下は下着しか履いてないの」
 見れば、長机の上には先ほどまで雪乃が着用していたスーツやらシャツやらが丁寧に折りたたまれている。
(つ、つまり……この下は……ノーブラ!)
 ピーーーーーッ!――どこかでそんな、沸騰した薬缶のような音が聞こえた。それは月彦にしか聞こえない、つまるところ興奮が最高潮に達したことを次げる音だった。堪らず、月彦の手はライダースーツのファスナーへと伸びる。
 が。
「だーめ、ここまで」
 はぁ、と。耳元への艶めかしい吐息と共に、ファスナーを下ろそうとした手が止められる。雪乃が許したのは、ほんの3センチほどの降下だった。しかしそれにより、白い谷間は格段に広がり、白桃のようなおっぱいもその先端部近くまで覘こうしていた。
「触るのはOKよ?」
 言われるが速いか、月彦の手は蛇のようにライダースーツとおっぱいの狭間へと潜り込み、もっぎゅもっぎゅとこね始める。
「あンッ……ンッ……もう……ちょっとは迷ったりとか……躊躇とか……」
 呆れるように呟きながらも、雪乃もまんざらではないように顔を紅潮させていた。その濡れた唇から、徐々に喘ぎのような声が漏れ始める。
「せ、先生っ……!」
 もうこれはイくしかない!――月彦は脳内のギアをトップへと入れ、欲望のペダルを思い切り踏み込む。そのまま雪乃を押し倒そうとして――
「すとっぷ。…………この先は“おあずけ”よ、紺崎くん」
 雪乃はいつものように、容易く押し倒されはしなかった。むしろ頑健に月彦の手を押し返し、その腕の中からするりと体をかわしてしまう。
「えっ……せ、先生!?」
「続きは、大型の免許取ってからにしましょ。……その方が、紺崎くんもモチベ上がるでしょ?」
「そんな……先生!」
「大丈夫。紺崎くんのおっぱい好きは筋金入りだもの。きっと最短期間で一発合格できるわ。きちんと免許を取ることができたら、その時はおっぱいも、それ以上も、全部紺崎くんの好きにさせてあげる。何なら、紺崎くんがシたいって言うなら、このライダースーツを着たままでもいいわよ?」
「ま、待ってください! 何でも先生の言う通りにしますから! だからせめてもうちょっとだけ、もうちょっとだけおっぱいを!」
 さながら、薬物中毒患者がドラッグを求めるように、月彦は再度雪乃に迫り、両手を伸ばす――が、またしても雪乃はするりと。軽やかなステップでその突撃をかわす。
「だーめ。…………わかって、紺崎くん。条件は私も同じなのよ? …………私だって、紺崎くんとするのを我慢することになるんだから」
「あうぐ……せ、先生ぇ……」
 尚も未練がましくわさわさと指を蠢かす月彦の手を、雪乃の両手がしっかりと握りしめる。
「とにかく、そういうワケだから、一緒に頑張りましょ、紺崎くん」


 まさかの寸止めを雪乃に食らい、悶々としながら午後の授業を送っていた月彦は
「――はっ、違う!」
 突如、正気に戻った。
「……紺崎?」
「あっ、いえ……すみません」
 生徒の突然の奇声に怪訝そうな顔をしている数学教師に月彦は謝罪し、教科書へと視線を落とす。同時に、がっくりと肩まで落としていた。
(いやいやいや……ちょっと、なんていうか……おかしいだろ!)
 ほんの数時間前の自分の行動を振り返って、月彦はツッコミを入れつつ自己嫌悪に陥る。バイクの件をはっきりと断る筈が、気がつけば一緒に頑張ると雪乃と約束までしてしまっているのだから、我が事ながら目眩を起こしそうになる。
(おっぱいに惑わされすぎだろ……)
 確かに、雪乃のそれは月彦の知る限り人類最強。あのハレンチ極まりない性悪狐のそれや、麗らかな未亡人猫や、淑やかな乳牛妻さんには及ばないまでも、大きさや形、質感や色全てにおいて一級を超えた特級であることは間違いない。そんなものを目の前にチラつかされては、我を忘れて無理難題を承諾してしまうのも無理は――
(いやいやいやいや、違うだろ! 無理なくない! 全然無理は無くないだろ!)
 単純に、意志薄弱なだけだ――月彦は己の拳で、己の頭をぽかぽかと殴りつける。その光景は再度数学教師から言葉を失わせ、さらには周囲のクラスメイト達の目を引いたが、本人がそのことに気がつかなければどうということはなかった。
(……でも、どうすりゃいいんだ……先生の所に行って、今更やっぱり頑張りませんなんて言えるわけが……)
 仮に言ったとして、雪乃が納得するだろうか。――するはずがない。その上、またしてもおっぱいを餌に再度努力を誓わされる未来しか見えない。
(……いっそ、先生と会う時は目隠しをするか)
 それも無駄だろうという気がする。既に、紺崎月彦はおっぱいに弱いということは学習されてしまっているはずだ。否、弱いどころではない。それはもはやチョロいと言い換えて差し支えないレベルだ。視覚を封じたところで、雪乃に手をとられむぎゅりと胸へと押し当てられれば、それだけで理性が吹っ飛びかねない。
(……ああ、そうか……そういうことなのか)
 月彦は、悟った。男というものは、どれだけ抗ってもおっぱいには勝てないのだと。町中のキャッチセールスで何百万円もする教材やら羽毛布団やらを買わされる男達の気持ちが、月彦には手に取るように解った。恐らく皆、さぞかし極上の巨乳を持つ美女に口説かれたのだろう――と。

 朝の意気込みも何処へやら。すっかり男としての――というより人間としての――自信を無くした月彦は、HRが終わるなり即座に昇降口へと向かった。迂闊に部活に顔を出して、またぞろ雪乃に無理な約束をさせられないとも限らないからだ。
(今日は……大人しく帰ろう。帰って、真央と一緒に遊ぼう)
 決して雪乃の代わりに真央のおっぱいを触ろうとか、そういう邪な意味ではなく。純粋に愛娘との癒やしのひとときを満喫しよう。ただ、もし真央が触って欲しそうにしていたら、そのときは触るのもやぶさかではないと、そんなことを考えながら帰路につく。しかしどうにも足が進まず、途中公園のベンチなどで呆然と人類とおっぱいの歴史について思案を巡らせたりをして、漸く日が落ちかけたところでため息混じりに我が家の玄関先へと戻って来た月彦は、玄関のドアを開けようとして不意に全身を硬直させた。
「えっ……」
 ドアには、見慣れない張り紙がされていた。そこには、様々な紙媒体から切り取ってきたと思われる活字を貼り合わせた文章で、こう書かれていた。


“英語教師 雛森雪乃 は 男子生徒 TK と 肉体関係 に ある”



 “これ”は一体どういうことなのか。正体不明の怪文書を前に、月彦の精神は文字通り硬直していた。
「一体、誰が……」
 そう、“誰か”の仕業なのだ。そしてそれはごく限られる――耳を劈く凄まじい音が辺りに轟いたのはその時だった。
 カン高い、否が応にも警戒心を煽られるその音――パトカーのサイレン音は、まるで自身の存在を誇張するかのように鳴り響き、そして次第に遠ざかって行く。
「まさか――」
 偶然とは思えない。となれば、怪文書の“犯人”は――。

「父さま、どうしたの?」
「ああ、いや……なんでもない」
 自室に入るなり、月彦は鞄を置いてそのまま机に向かい、着替えもせずに思案に暮れていた。玄関先に張られていた怪文書についてはもちろん真っ先に剥がし、念入りに細かく破ってトイレに流した。
(どういうことなんだ……)
 どうやら怪文書が張られていたのは紺崎家の玄関先のみで、お隣さんの玄関先などには張られていないらしかった。ひょっとしたら張られていたものが、住人によって剥がされた後だったのかもしれないが、そのセンは薄いと月彦は見ていた。
(先に帰っていた真央の様子もいつも通りだし……多分、俺が帰ってくる直前に張られたものだったんだろう)
 もし僅かでもタイミングがずれ、真央が目にしていたらと思うだけで背筋が凍る。そういう意味では不幸中の幸いだったのかもしれない。                
(でも、なんでこんなものを……)
 解らないのはその意図するところだ。もし怪文書に書かれていた内容を本気で世に知らしめようと思っているのならば、当事者の家の玄関先になど張るわけがない。それこそ、学校の校門にでも貼り付けておけばいいのだ。それをやらなかったということは、怪文書の主の望みは紺崎月彦の破滅ではないということになる。
(…………わからない。そもそも、ちゃんと別れた……よな?)
 月彦は記憶を振り返り――そしてひやりと背筋が冷える。次にむぎゅうと柔らかいものが首の付け根の辺りに押し当てられるのを感じる。
「父さま……遊ぼ?」
 退屈しきっているような真央の声。艶を帯びた声が耳元にかかり、さながら缶詰を開ける音を聞いた飼い猫の如く、欲望が首を擡げそうになる。
「悪い、真央……ちょっと考え事をしないといけないんだ」
 その柔らかくも扇情的な感触に体を疼かせながらも、月彦は優しく真央の体を押しのけ、前へと向き直る。
(えーと……あの時は確か――)
 そう、月彦は思い出す。終わりにしましょうとは言ったが、返事は聞いていない。というより、殆ど逃げ帰ってしまったのだ。
 或いは、矢紗美は怒り――いや、もはや恨んでいるのかもしれない。というより、そうで無ければこんな真似はしないだろう。
(だからって――)
 月彦は怪文書の文面を思い出し、戦慄する。その文章内容もさることながら、新聞や雑誌などから切り取ってきたであろう文字を貼り付ける手間を考えるともう、怖くて堪らない。なまなかの怒りでは、そこまではしないだろう。
(ブチ切れてる……間違いなく)
 うつろな目をした矢紗美が、ろくに明かりもついていない部屋で裁ちばさみで雑誌やら新聞紙やらを切り刻んでいる姿を想像し、月彦は三度体を震わせる。もはや、バイクの免許がどうという問題ではない。
 一刻も早く、矢紗美に会い、そして謝罪をしなければ――。
「ちょ、ちょっと出掛けてくる!」
 月彦は椅子から立ち上がり、ハンガーにかけてあった上着を掴んで階下へと降りる。ちらりと横目で見た真央はなにやらより露出の多い部屋着へと着替えようとしていたようだったが、今日に限っては構っていられなかった。
 月彦は念のため自宅から徒歩で20分ほどは離れたコンビにへと移動し、公衆電話から矢紗美の携帯へとかける。呼び出し音が一回、二回、三回――。
「あっ、もしもし! 矢紗美さんですか!? 俺です!」
 呼び出し音が途切れるや、月彦は祈るような声で言った。が、返事はない。ひょっとして留守電かと思えば、案内用の声がするわけでもない。かといって切られたわけでもない証拠に、公衆電話にねじ込んだテレカが戻ってくるでもない。
「矢紗美さん……聞こえてますか?」
 再度、呼びかける――が、やはり返事は無い。月彦は耳を澄ませる。微かだが、息使いのようなものだけが聞こえる気がする。受話器を耳に当ててはいるのだと確信する。
「あの、矢紗美さ――」
 ぶつっ、と通話が切られる音が聞こえたのはその時だった。月彦は再度カードを差し込み、番号をプッシュする。今度は呼び出し音が鳴る間も無く通話状態になった。
「あの、矢紗美さん! ちょっと、会って話をした――」
 ぶつっ。さながら、ギロチンの刃にでも切られるように、通話が無慈悲に断ち切られる。再度かけようという気にはなれなかった。
(ヤバい……ヤバいぞ…………こうなったらもう、直接会いにいくしか……)
 腕時計に目を落とす。既に七時を回り、日が落ちきっている。だが、そんなことを気にしている余裕は無い。矢紗美の真意を測らねば、明日には本当に校門前に張り出されるかもしれないからだ。
「ええと……矢紗美さんちに行くには……」
 月彦は、即座に走り出した。


 月彦はタクシーを捕まえ、矢紗美のマンションへと急行した。そしていざ部屋の前まで来て、俄にたじろぐ。通路に面した曇りガラス越しに、部屋の明かりが漏れているからだ。
 つまり、矢紗美は在宅しているのだ。
(…………怒ってる、んだろうなぁ)
 それも、尋常ではないほどに。月彦は思い出す。妹の雪乃を怒らせてしまった時のことを。
(…………あの時もスゲー大変だったし、矢紗美さんが手伝ってくれなかったらいつまで長引いてたことか)
 しかし、今回は雪乃の手を借りるわけには、当然いかない。自分一人の力で矢紗美の怒りを鎮めなければならないのだ。
(…………怖いなぁ)
 なんといっても年上。そして矢紗美は体術の心得もあれば、最悪拳銃を突きつけられる危険性すらある。ドアを前にぶるりと身震いをするも、意を決して月彦はインターホンを押し込む。
『はーい、今出まーす』
 月彦の危惧とは裏腹に、なんとも日常会話的な声がドア越しに聞こえる。程なく、チェーンロックが外される音、そして、ドアが開かれる。
「あれ、紺崎クン……どうしたの? こんな時間に」
「あっ……と……」
 ピンクの毛糸セーターに、黒のミニ。そんな部屋着姿の矢紗美はこうして見る限り、普段通りだった。少なくとも、怒っているようには見えない。
(あれ……ひょっとして、俺の早とちりなのか……?)
 怪文書の主は別に居たということだろうか。しかし、だとすればさっきの電話は――。
「んー、立ち話も何だし、とりあえずあがる?」
「……はい」
 困惑しつつも、月彦は頷いた。


「お茶淹れるから、先に炬燵に入ってて」
「あっ、おかまいなく――」
 という月彦の言葉を振り切って、矢紗美は台所へと行ってしまう。やむなく月彦は肩を萎縮させながら掘りごたつへと入る。どうやら、矢紗美はテレビを見ながら寛いでいたところらしい。月彦が入った側と丁度反対側に食べかけのミカンが残っており、テレビの方はバラエティ番組がつけっぱなしにされていた。
(……普通、だな。やっぱり早とちり――)
 そう思いかけた矢先、ぎょっと体が硬直する。炬燵の上、食べかけのミカンの傍らにやたら大仰な裁ちばさみが置かれていたからだ。
(いやいや、ハサミなんてどの家にもあるし……)
 たまたま、何か切らなければならないものがあって、そのまましまい忘れたのだろう。そう思おうとするも、目がハサミへと釘付けになったまま離れない。その気になれば、人間の指くらいならば容易く落としてしまいそうな、その凶暴なフォルムには、不吉な予感しかしないからだ。
「おまたせ。お茶きらしてたからコーヒーにしたけど、別に嫌いじゃなかったよね?」
「ええ……ありがとうございます」
 矢紗美からマグカップを受け取り、目の前に置く。矢紗美もまた月彦の対面へと座ろうとして
「あっ」
 と声を上げ、一度マグカップを置いてから、裁ちばさみを手に寝室へと消えた。どうやらハサミをしまってきただけらしい矢紗美はそのまま炬燵へと入り、にこりと微笑んだ。
「それで、今日は何の用かしら」
「え……っと……そのこと、なんですけど……」
 切り出しを躊躇う。月彦の中では九分九厘、怪文書の主は矢紗美だという確信があるのだが、ひょっとしたらという思いもまた、僅かながら残っている。前回の仕打ちに引き続き、さらに濡れ衣まで着せてしまった場合、一体全体矢紗美がどういう行動に出るのか全く予想が出来ないということも、月彦を躊躇わせる要因の一つだった。
「実は……その……今日、帰ったら、ですね」
「うん」
「玄関のドアの前に……変な張り紙がしてあって……」
「あー」
 ぽん、と矢紗美が手を叩く。
「それ、あれじゃない? 紺崎クンと雪乃がエッチしてるーみたいな内容のやつ」
「そ、そうです! てことは、やっぱり矢紗美さんが……」
「うんうん。ビックリした?」
 は?――思わず、そう口から出そうになるところだった。矢紗美が、まるで悪戯がバレた子供のような、屈託の無い笑みを見せたからだ。
「そ、そりゃビックリしましたよ! ていうか、洒落になりませんよ! あんなの、もし俺以外に見られでもしたら――」
「ごめんごめん、別に悪気があったわけじゃないの。ちょっと紺崎クンをビックリさせてあげようと思っただけ」
「いくらなんでもタチが悪すぎます! 正直、心臓が止まるかと思いましたよ!」
「あははー、そんなに驚いてくれたんだ。でもね、紺崎クン」
 ぴたりと、矢紗美が笑顔を止め、真顔になる。

「先にタチの悪い冗談を言ったのは、紺崎クンの方よね?」

 まるで、室温が一気に氷点下まで下がったような――そんな寒気を、月彦は感じた。
「え……じょうだ……え?」
「冗談だったんでしょ?」
 小首を傾げながら、矢紗美が再度問うてくる。その質問が意図するところを計りかねて、月彦はただただ言葉を詰まらせる。
(まさか――)
 矢紗美は、“別れ話”を“たちの悪い冗談”だと言っているのか。いくら何でもそれは強引すぎる解釈だと否定しかけて、月彦は再度言葉を詰まらせる。
(待てよ、もし冗談じゃないなんて言ったら――)
 即ちそれは、矢紗美もまた“冗談”では済まさないということではないのか。あの怪文書が、それこそそこら中にばらまかれることになるのではないか。
(いやまさか、いくらなんでもそんな真似――)
 するはずがない――そう思い込もうとする月彦の脳裏に、先ほど見たばかりの怪文書が浮かぶ。そう、矢紗美は実際に怪文書を制作し、張る所まではやってのけたのだ。そこまでやった人間が、それ以上はやらないと何故言えるのか――。
「んー?」
 返事を促すように、矢紗美が再度小首を傾げる。口元には微笑が浮かんでいるが、肝心の目が全く笑っていない。その漆黒の光の奧には、狂気の輝きすら感じられる。
「は、はは……は……」
 気がつくと、月彦は空笑いを浮かべていた。
「そ、そうなんです…………実は、俺も……矢紗美さんをビックリさせようと思って…………」
 忽ち、矢紗美が真夏のひまわりのように笑顔を零した。
「もー、紺崎クンったら。そういう冗談は本当にタチが悪いゾ?」
「ははは……すみません……」
 なんだこの茶番は――空笑いを浮かべながら、月彦は恐怖していた。そう、別れ話を強引に“無かったこと”にする、雛森家長女の力業と、その執念に。



 茶番は、矢紗美の「そういえば、紺崎クン晩ご飯食べた?」の一言で一端打ち切られ、月彦はそのまま矢紗美と夕食を共にすることになった。矢紗美は腕を振るって五目焼きそばを作ってくれたが、実のところ月彦には食欲など欠片も無かった。
(……折角の手料理だけど……今日は、なんか怖い)
 今夜の矢紗美ならば、“冗談”の一言で五目の具の中にカミソリの刃くらい平気で忍ばせるのではないか。半ば以上恐々としながら、月彦は慎重に箸をつけ、それでいて残したりしたら矢紗美の怒りを買ってしまうかもしれないという恐怖から、殆ど口の中に捨てるように食べ続ける。さながら、妻に浮気がバレたものの、笑顔で許してもらった後の夫のような――そんな心境だった。
「ごちそう、さまでした」
 箸を置き、ちらりと視線を皿から矢紗美のほうへと上げる。
「ごめんね、紺崎クン。ひょっとして、焼きそば嫌いだった?」
 一足先に食べ終わった矢紗美にそのように問われ、月彦は勿論即座に否定した。
「いえ……ちょっと今日は食欲が無くて……」
 食欲を消し飛ばしたのは主に――というか7:3で矢紗美なのだが、恐らく自覚はないだろう。もちろん3は妹の雪乃だ。
「あら、ひょっとして……雪乃とケンカでもしてるのかしら」
 からかうような口調だが、矢紗美の口から“雪乃”という単語が出ただけで、月彦はビクゥ!と背筋を伸ばしてしまう。そんな月彦を見て、矢紗美はふふふと笑い声を零す。
「ね、聞かせて聞かせて。今度はどんな無理難題を雪乃に言われたの?」
 やはり、姉妹――と言うべきか。雪乃のことで食欲がないと知っただけで――本当は矢紗美のほうが主な原因なのだが――無理難題を押しつけられたのだろうと察したらしい。
「無理難題っていうか……」
 言葉を濁しながら、月彦は考える。これは、矢紗美に話しても大丈夫な事柄なのかどうか。怒りは買わないか。或いは回り回って雪乃を怒らせることにはならないか。
「先生に……一緒にバイクの免許取りに行こう……みたいなことを言われてまして……」
 吟味の結果、大丈夫だろうと判断して、月彦は話すことにした。むしろこの話題によって前回の話を蒸し返されることを防ぐ方がメリットがあると。
「バイク??? どうしてまた……」
「それが……話せば長くなるんですけど……」
 月彦は、原付の購入を検討していることから、雪乃にバイク雑誌を読んでいる所を見られたこと、そしてそのせいで誤解を与えてしまったらしいということまで、順番に矢紗美に説明した。
「ふんふん、なるほどねー。あの子らしいっちゃらしいけど、自分の趣味を押しつけちゃいけないわよねえ」
「はは……先生にはその自覚は無いんじゃないですかね。多分、俺もバイクに乗りたくてたまらないっていう風に勘違いしちゃってるんだと思います」
「紺崎クンも大変ねえ。そんな面倒くさい女早く別れちゃえばいいのに」
 ギクギクギクゥ!
 園芸用のショベルで胸の肉を抉られるかのような痛みに、月彦はうぐと胸元をかきむしる。が、矢紗美はそんな月彦には気がついていないとばかりに、ニコニコと微笑を絶やさない。
(おかしい……なんでこんなことになったんだ……)
 月彦は過去を振り返る。考えてみれば、そもそも矢紗美とて一度は自分から「もう終わりにしよう」とは言ってなかっただろうか。勿論そこで強引に関係の継続を試みたのは他ならぬ自分ではあるものの、月彦は何か釈然としないものを感じるのだった。
(あの時、そうですね、終わりにしましょう――って、言うべきだったんだろうか)
 後悔先に立たず。目先の欲望に囚われた結果がこのていたらく。一体何度同じ目に遭えば身に染みるのだろう。
「ところでさ、紺崎クン?」
「は、はい……?」
「今度の土曜日、雪乃をデートに誘ってみてくれない?」
「へ……?」
 一瞬、混乱する。或いは、矢紗美が主語を間違えたのかと。
「先生を誘うんですか?」
 自分を誘え、というのならば、解る。しかし矢紗美は首を縦に振った。
「そ。あっ、それとも、もう既にデートの予定入っちゃってたりする?」
「いえ……そんなことは…………で、でも……どうして、ですか?」
「どうして?」
「いや、だって……」
 月彦は言葉を濁す。怪しい――と、はっきり口に出すことが出来なかった。口に出すことは出来ないが、矢紗美の言う通りにすれば、およそろくでもないことになるのではという予感がある。
「べつに、紺崎クンと雪乃は付き合ってるんだから、週末にデートに誘うくらい普通のことでしょ?」
「それは……そうなんですけど……」
 月彦はちらりと、上目遣いに矢紗美を見る。そうやってデートの予定を入れさせておいて、何かちょっかいを出してくる気じゃないんですか、という抗議を、視線に込めて。
「あれ……?」
 その抗議は、矢紗美の虚無色の目にむなしく吸い込まれた。
「紺崎クン、ひょっとして何か勘違いしてない?」
「か、勘違い……ですか?」
 コオォォ――室内だというのに、謎の微風によって矢紗美の髪はたなびき、さながら怨みを残して死んだ幽鬼の如く色を失った顔色は虚無色の瞳と相まり、月彦は堪らず声を上ずらせてしまう。そんなメッセ顔の矢紗美はさらに、およそ感情のこもっていない声で続ける。
「私、まだこの前の仕打ちを忘れたわけでも、ましてや許したわけでもないんだけど」
「す、すみません! 何から何まですみませんでした! だ、だから――」
「ちゃんと言う通りにする?」
 はい、としか、月彦は言えなかった。
「矢紗美さんの言う通り……先生を、土曜日のデートに誘います……」


 矢紗美の狙いは解らない。しかし絶対ろくでもないことになると確信しながらも、その指令を反故にしてさらなる怨みを買うことを恐れ、月彦は翌朝にはデートの件を雪乃へと切り出した。
「………………ふぅーん。いつもは滅多に誘ってくれないのに」
 密談室で長机にお尻を預けるようにして腕組みをしている雪乃は、下心を見透かしきったような侮蔑の視線を向けてくる。
「いくらなんでも、昨日の今日で“それ”は無いんじゃないかしら。そりゃあ、紺崎くんにそういう対象として見られてるのは嬉しいけど、いくらなんでもちょっと露骨過ぎるんじゃない?」
「いや……えーと……その……」
 勘違いしないでください――そう言ったが最後、じゃあどういうことなのかと質問攻めに遭いそうで、月彦は言葉を濁すことしか出来ない。
(そりゃあ、確かに……ライダースーツ姿の先生はヤバいくらいエロかったけど……)
 或いは矢紗美の件が無ければ、鼻息荒く“お泊まり”を所望したかもしれない。しかし、さすがに背筋に刃物の冷たさすら感じるほどの苦境においては、色ボケをするような余裕など在るはずも無い。
「だいたい、ちゃんと免許取るまではエッチはお預けって約束したでしょ? たった一晩でもう我慢出来なくなっちゃったの?」
 叱責するような口調――だが、ニヤけそうになるのを無理矢理噛みつぶしたその顔には、およそ怒りというものは感じられない。
「まったくもう……こんなの、普通なら絶対軽蔑して見損なってる所なんだから。……私は、紺崎くんがそういう我慢があんまり出来ない男の子だって知ってるから、今更見損なったりはしないけど…………」
 まるで雪乃自身、体の疼きを堪えているかのようにソワソワしながら、熱を帯びた目で舐めるように視線を這わせてくる。性別が逆であれば、十二分に視姦に値するような、そんなねちっこい視線。
「………………ダメ。紺崎くんのお願いだから、叶えてあげたいけど、やっぱり一度決めたことだから、エッチはダメ。絶対ダメよ」
 雪乃自身、迷いを断ち切るように首を振る。そんな雪乃に、月彦は空笑いしか返せない。
(…………俺はただデートに誘っただけで、先生とシたいなんて一言も言ってないんだけどな…………)
 しかし、空笑いを返しながら、月彦はどこかホッとしていた。とにもかくにも、これで矢紗美に対して言い訳が立つからだ。
 そう。デートに誘いはしたが、断られた――と。
(矢紗美さんが何を企んでるかはわからないけど、これで大丈夫なはずだ)
 雪乃が断ってくれて、本当に良かった――そう月彦が安堵しかけた時だった。
「だから、週末にするのはあくまで普通のデートよ。折角だし、知り合いがやってるバイクショップに紺崎くんを連れて行ってあげる」
「へ?」
 雪乃の言葉に、月彦は耳を疑った。そう、雪乃が断ったのは、あくまでデートにかこつけた性行為であって、デート自体ではなかったのだ。
(…………これじゃ、先生のことを笑えない……)
 一瞬の安堵から一転、愕然とする月彦に気づいた風も無く、雪乃はさらに言葉を続ける。
「それとも、サーキット場の方がいいかしら。さすがに試乗はさせてあげられないけど、バイク持ってる後輩何人か呼び出して、後ろに乗せてあげることくらいなら出来ると思うわ。そうやって感覚を掴んでおけば、いざ免許取りに行くっていう時にも、きっと有利な筈よ」
「ま、待って下さい、先生……俺はそんな……サーキット場なんて――」
「大丈夫、紺崎くんは何も心配しなくていいから。お金がかかることは全部私が出してあげるし、凄腕のインストラクターだって紹介してあげる。紺崎くんが無事免許とれるまで、土日祝日はずっとバイク漬けの毎日にしてあげる」
「ちょっ、先生何言ってるんですか! ずっとバイク漬けって――」
「もちろん、私も紺崎くんとずっと一緒よ。免許とれたらすぐに新車を買ってツーリングに行きましょ。ううん、それとも先に“ご褒美”かしら」
「せ、先生――」
 ダメだ、“このモード”に入った雪乃は何を言っても無駄だと、月彦は既に悟っている。さながら、雪乃が運転する暴走機関車の最後尾に縄でくくりつけられ、線路の上を引きずられているような、そんな気分だった。
(先生といい、矢紗美さんといい、どんだけマイペースなんだ……)
 否、これをマイペースなどという可愛げのある言葉で済ませていいのだろうか。一体親にどんな教育を施されれば、これほど凶悪な姉妹が育つのか。
(……そうだ、問題は先生だけじゃない。先生とデートの約束をしろって言った矢紗美さんだって、何を企んでるか解ったものじゃない)
 矢紗美が何を企んでいるのかは全く解らない。解らないが、一つだけはっきりしていることもある。それは、絶対にろくでもない目に遭うということだ。
(……どうして、こんなコトに……)
 自分はこのまま、雛森姉妹という名の石臼の間で跡形も無くすりつぶされてしまうのではないだろうか――そんな暗澹たる思いを必死で隠しながらも、月彦は笑顔を浮かべる。
「とにかく、二人の将来に関わることだもの。じっくり時間をかけて、一緒に煮詰めていきましょ」
 二人の将来――雪乃の言葉が、そのまま重石となって両肩にずしりとのしかかってくる。
(……まさか、バイク雑誌一つで、こんな目に遭うなんて……)
 もはや月彦に出来ることは、目眩を起こしつつも最後まで笑顔で雪乃の“将来設計”に耳を傾け続けることだけだった。



 捨てる神在れば拾う神あり――否、そんな可愛げのあるものではない。捨てる神あれば踏みつける神あり――下校途中、乗用車運転中の矢紗美に声をかけられた時の月彦の気分は、まさにそれだった。
「はぁい、紺崎クン。ちょっとドライブでもしない?」
「矢紗美さん……」
 反射的に、びくりと身構えてしまう。虚無色の瞳をした矢紗美に静かに見つめられる恐怖はまだ記憶にも新しく、月彦の中には矢紗美からの誘いを断るという選択肢は存在しなかった。
 即座に周囲を確認、顔見知りが居ないことを確認して、月彦は迅速に助手席へと乗り込んだ。
「とりあえず、学校から離れるわね」
 シートベルトを締めるのを確認して、矢紗美が車を発進させる。月彦はそれとなく横目で様子を伺うが、少なくとも横顔を見る限りでは矢紗美はそれほど機嫌が悪そうには見えなかった。
「……私服、ですね」
 運転しているのが乗用車なのだから、当然と言えば当然の切り出しだった。
「今日はこれから夜勤なの。だから、ドライブっていっても、本当に軽くその辺を回るだけね」
 なるほど、それなら被害も少なく済むだろう。月彦が安堵の笑みを浮かべると、運転席の矢紗美がくすくす笑い出す。
「……ねえ、紺崎クン、気づいてる?」
「何がですか?」
「さっきと、そして車にのってからずっと。まるでこの世の終わりを見てきたような顔してたわよ?」
「……どんな顔ですかそれは」
 苦笑。しかしさもありなんと思う。平穏無事な日常生活が、その辺にありふれた雑誌一つでこうまで豹変してしまう様を味わってしまったのだ。今更ながらに自分の立ち位置を思い知って、顔つきが多少変わるのも当然のことかもしれない。
「ひょっとして、雪乃にデートを断られたのかしら?」
「いえ……それなんですけど……どうも週末デートするとかしないとか、そういう話じゃなくなってるみたいで……」
 雪乃の中ではもう、週末はバイク免許取得の為に捧げて当然のような流れになってしまっていると、月彦が辿々しく説明するや、矢紗美は忽ち噴き出すように笑った。
「あの子ったら、結構近視眼的っていうか、一度こうと思い込んだら他のコトに気が回らなくなっちゃう所があるのよねえ。そう、たとえば――紺崎クンに惚れちゃったみたいに」
 惚れられた――のだろうか。月彦はうーんと渋い顔になる。
(好きだの嫌いだのの前に、ヤッちゃったからには結婚しなきゃ的な感じだったよーな……)
 雪乃とのなれそめを思い出そうとすると、極上おっぱいのたわわな感触や肉付きの良い尻の手応え、そして甘く鼻腔を擽る濃厚牝フェロモン入りの汗の香りといった下半身にまつわる記憶ばかりが呼び起こされる。そしてそれはなれそめだけではなく、雪乃との思いでの大半を占めていたりするからもはや苦笑するしかなかった。
「でもま、良いんじゃない? 紺崎クンだって、雪乃のそういうところひっくるめて好きなんだろうし。週末もずっと一緒に居られるなんて、普通は喜ぶんじゃないかしら」
「ま、待ってください! そもそも俺はバイクの免許なんて……いや、興味はありましたけど、でも先生が取らせようとしてる大型なんて全然取るつもりないんです!」
「でも、全然聞いてもらえない、と。わかるわかる、私にも経験あるわぁ」
 うんうんと、矢紗美は感慨深そうに大きく頷く。
「でも、仕方ないわよね。紺崎クンは雪乃のほうが良いんだし。そうやって雪乃に束縛されるのが内心嬉しくて堪らないんでしょ?」
「うぐ……」
 いつになく棘の在る物言いに、月彦は言葉を詰まらせる。
(……やっぱり、許してくれてないのか。……当然っちゃ当然か)
 そう、矢紗美に恨まれているのは解るし、当然だと思う。解らないのは、恨んでいて何故こうして絡んでくるのかということだ。
「それとも、束縛されるのは嫌だけど、それを補って余りあるくらい雪乃とのエッチが“良い”のかしら。考えてみたら、紺崎クンにしてみれば雪乃は学校の先生でもあるわけだし、そういった“教師と生徒の禁断の関係”っていうのが紺崎クンのツボだったり? そういえば、こないだ教室でエッチした時も、紺崎クン“女教師と生徒”ってシチュにノリノリだったわね。やっぱり、“そういうの”が好きなんでしょ?」
「…………あんまり苛めないで下さい、矢紗美さん…………ただでさえ、泣きそうなくらい参ってるんですから」
「でも、雪乃がいいって言ったのは紺崎クンだし。………………私も、さすがに目の前で先生と今すぐエッチしたいーとか言われてお持ち帰りされて一人残された時は、泣きそうなくらい辛かったなぁ」
「……………………あの時は、すみません、でした」
「ま、今更謝られても、絶対許したりなんかしないんだけどね」
 笑顔を浮かべた相手に唐突に胸を刺された――そんな鋭い痛みだった。
「少なくとも、私が味わった以上の屈辱を雪乃に味わわせるまでは、絶対に許してあげない」
「や、矢紗美さん……」
 ハンドルを握ったまま、前を見据えたまま。まるで独り言のように呟かれた矢紗美の言葉に、月彦は背筋を凍らせる。何故なら、その言葉は冗談でも何でも無い、断固たる決意がそのまま口から飛び出してきたとしか思えなかったからだ。
「――なんてね、嘘々。冗談だってば、紺崎クンそんな青い顔しないでよ」
 しかし矢紗美は、赤信号で止まるなり、にぱっ、と助手席に向けて零れるような笑顔で己の言葉を取り消した。
「そもそも、紺崎クンと雪乃が付き合ってたのが先なわけだし、紺崎クンが私より雪乃を優先させるのは当然のことなのよね。大丈夫、ちゃんと解ってるから」
「…………。」
 月彦には、返す言葉が無かった。矢紗美は嘘だと言ったが、俄には信じられなかった。本当に“解ってる”のならば、そもそも怪文書を作ったりはしないのではないか――。
「……ねえ、紺崎クン。ハラハラさせちゃったお詫びに、雪乃のコト、なんとかしてあげよっか?」
「……え?」
「紺崎クン、大型の免許なんて本当は取りたくないんでしょ? でも、雪乃があんまりに嬉しそうだから断るに断れなくて困ってるんでしょ? だから、“それ”私が解決してあげてもいいわよ?」
「で、出来るんですか……?」
「簡単簡単。そんなの、私が一言言えばそれで終わりよ?」
「あの……修羅場とか、そういうことになったりしませんか?」
「あははー、本当にそういうんじゃないって。ちゃんと紺崎クンの望み通り、穏便に済ませてあげるから。そこは私を信用して欲しいなぁ」
 “この前”の時だって巧くいったでしょ?――ウインクを交えてそう言われ、月彦は納得せざるを得なかった。
(……確かに、先生との仲直りの時は、矢紗美さんに手伝ってもらったおかげで巧くいったけど……)
 果たして今回も巧くいくのだろうか。そもそも、矢紗美は本当にもう恨んでいないのだろうか。
「別に、紺崎クンが嫌なら、私もわざわざ雪乃に嫌われるようなことするつもりは無いんだけど」
「あっ…………い、いえ……その、是非……おねがい、します……」
 嫌なら止めるよ?という矢紗美の言葉に、月彦は反射的に頭を下げていた。確かに、雪乃の暴走を止めることは急務であり、かつ自分一人では為し得ない難業だ。もちろん、根気強く反対の意を示し続ければ雪乃といえど耳を傾けてくれるかもしれないが、あれだけ楽しみにしていることを潰すのだから、相当にヘソを曲げられることは想像に難くない。それらのケアにかかるであろう面倒くさいやりとりから解放されるのであれば、泣いて伏してでも頼みたいところだった。
「先生を、止めてください。お願いします、矢紗美さん」
「りょーかい。……じゃあ、貸し一つよ、紺崎クン?」
 貸し一つ――さも軽やかに言われた矢紗美の言葉は、ずしりと。月彦の胸に重く残り続けるのだった。

 


 どうやら、今から夜勤という矢紗美の言葉にも嘘は無かったらしい。そのまま部屋にお持ち帰り――などということもなく、本当にその辺をドライブしただけで月彦は自宅前へと送り届けられた。
(…………杞憂、ってことなのかな)
 怪文書のことも、あくまで関係を終わらせたくないが故の苦肉の策であったのかもしれない。怒っているように見えたのもあくまでフリだけで、本当は切れそうになる糸を繋ぎ止める為に必死だっただけなのかもしれない――。
(………………良い人――なんだよなぁ)
 雪乃同様強引だと感じることもあるが、それも慣れてしまえばさして苦にならない程度だと思える。むしろ、嫌でも毎日顔を合わせる雪乃とは違い、生活上の接点が皆無である矢紗美にしてみれば、そうして強引にでも距離を詰めなければ話すら出来ないのかもしれない。
(……巧くいけばいいけど)
 矢紗美の言う通り、本当に簡単に終わる話であれば、貸しの一つや二つ安いものだと思える。雪乃に悪い気はするが、さすがに余暇を全てバイクに賭けてもらうという雪乃の方針には同意は出来ない。矢紗美の手を借りることで穏便に話が終わるのならば、それが一番だ。
(……………………大丈夫、だよな?)
 今頃になって、矢紗美の手を借りたのは失策だったのではという危惧が湧く。たとえ雪乃に拗ねられても、ねちねちとしつこく嫌味を言われても、自分の口からはっきり嫌だと言うべきだったのではないかと。その危惧の根底にあるのは、ひとえに矢紗美に対する不安だ。
 矢紗美は、本当に許してくれたのか。心底善意で、代わりに雪乃を止めると言ってくれたのか。本当は“自分を捨てようとした男”と、“その男の彼女”に痛打を加える良い好機だと思ったのではないか――。

 そんなモヤモヤとした疑問を抱えながらの日々。矢紗美は「一言言えば簡単に止められる」と言ったが、翌日も雪乃は相変わらずであり、目をハート型にしながらわざわざパソコンで作ってきたらしい“今後の予定表”を差し出してくる始末。そこに記された次の土日デートの分刻みスケジュール(そして何故か、夜半のスケジュールだけが妙に曖昧)を見るなり、月彦は殆ど祈るような気持ちで矢紗美の助けを待ち続けた。
 が、木曜になっても、そして金曜日になっても、雪乃からデートの中止も、予定の変更も告げられなかった。

 そして、月彦は土曜日の朝を迎えることとなった。


 或いは“これ”こそが、矢紗美の復讐なのではないか。
 
 土曜日の朝、殆ど妻に隠れてこっそりゴルフにでも出掛けるような、そんな足取りで自宅を抜け出した月彦は、待ち合わせ場所である雪乃のマンション近くのコンビニへと向かう道すがら、そんなことを考えていた。
(救いの手をさしのべて、もう安心、大丈夫だと思わせて――蹴落とす。確かに効果的だ)
 ひょっとしたら、逆に影で雪乃を煽ったりしているのかもしれない。そう考えれば、あの雪乃の暴走っぷりも納得するというものだ。裏で矢紗美に「年下の男は強引な年上の女性に弱い」だの「口では渋っていても、心はもうメロメロ」だの「いやよいやよも好きのうち」だの吹き込まれたのだろう。きっとそうに違いない。
(……見損なった。そんな人だとは思わなかった)
 かくなる上はもはや、自分の口で雪乃に断りを入れるしかない。むしろ、他人を介入させずに最初からそうすべきだった。今度ばかりは、どれだけ乳や尻や太ももで誘惑されても決心は揺るがないぞと、決意の炎を滾らせながら待ち合わせ場所へと向かう――その背を、ビッと短く警告音が叩いた。
「あぁ、良かったぁ。絶対この道だと思ったの」
「え……矢紗美、さん?」
 デジャヴ――とならなかったのは、車は同じでも運転している矢紗美が制服姿だったからだろうか。勤務中なのか、はたまた出勤途中なのかは解らないが、とにもかくにも矢紗美は速度を落としながら、歩道を歩く月彦の横へと車を止める。
「話は後、紺崎クンすぐに乗って!」
「え、でも俺今から……」
「早く! 説明は後でするから!」
 ただならぬ矢紗美の急かし方に、月彦はやむなく助手席へと乗り込む。
「しっかりシートベルト締めててね」
「は、はいっ」
 言われるままにシートベルトを締めるや、たちまち矢紗美がアクセルを踏み込む。急発進の反動で背中がシートに押しつけられるのを感じながら、月彦は恐る恐る口を開いた。
「あ、あの……矢紗美さん、一体どういう――」
「話は後って言ったでしょ。大丈夫、ちゃんと雪乃とのデートには間に合うようにするから」
 言いながら、矢紗美はギリギリ黄色信号の交差点へと突っ込み、そのまま右折する。あれ、この道は――と、月彦が思ったその刹那。
「とりあえず、先に謝っとくね、紺崎クン。雪乃の件、まだ切り出せてないの。最近仕事が忙しくって」
「あっ…………そ、そうだったんですか…………別にそんな、急ぐようなコトじゃないですから」
 実は、疑ってました――などとは、おくびにも出さない。今度は左折、やっぱりと思う。
「あの、矢紗美さん。この道って――」
「ごめんね、ちょっと忘れ物。一度家に寄るから」
「忘れ物、ですか」
 ならばしょうがないと思っていると、程なく矢紗美のマンションの地下駐車場へと到着する。
「重ね重ね悪いんだけど、ちょっと荷物が多いから手伝ってもらえると嬉しいんだけど」
「解りました。そういうことなら任せて下さい」
「ごめんね、事情は後でちゃんと説明するから」
 本当に切羽詰まっているのだろう。言うや否やエレベーターへと駆けだしていく矢紗美の背を、同じく月彦も走って追いかける。運良く駐車場へと降りていたエレベーターに乗り込んだ時には、既に矢紗美は閉ボタンへと指を宛がっていた。
「す、すみません!」
 月彦がエレベーターへと滑り込むや、すぐに扉が閉められる。そして、緩やかな上昇。体重が僅かに増加したかのような感覚を味わいながら、月彦は傍らに立つ矢紗美へと目をやる。
「……何か変?」
「いえ、その……ちゃんと制服着てる矢紗美さん見るの久しぶりだな、って思って」
「そりゃあ、今は勤務中だもの。……似合ってない?」
「そんなことないですって。むしろ、どこからどう見ても完全に婦警さんにしか見えないから、逆にそれが違和感たっぷりです」
 普段、私服の矢紗美を見慣れているが故だろう。それらしい格好をすれば中高生にも化けられそうな体格の矢紗美だが、そんな矢紗美でもきちんと婦警に見えるのだから制服の持つ力は絶大だ。
 やがてエレベーターが目当ての階層に到着。扉が開くやまたしても走り出した矢紗美の背を追って、月彦も走り出す。走りながら矢紗美は部屋の鍵を取り出し、ドアの前につくや鍵を差し込み、開ける。
「紺崎クン」
 矢紗美がドアの向こうへと体を滑り込ませながら手招きをする。中に入ってこいという意味だと察して、月彦もまた玄関へと入り、大急ぎで靴を脱いでリビングへとやってきた。
「えっと……とりあえず紺崎クンはここに座って」
「え、座るんですか?」
「そう。あぁん、もぉほら、時間がないから急いで!」
「は、はい!」
 月彦は言われるままに、リビングの椅子へと腰を下ろす。
「ちゃんと背筋伸ばして」
「はい。これでいいですか?」
「うんうん、手は後ろ。背もたれの裏に回して」
「はい」
 言われるままに手を回すと、がちゃりと、何かが手首にかけられた。ん?と首を傾げている間に、今度はがちゃりと、足首に何かがかけられる。見ると、なにやら手錠らしきもので足首と椅子の脚がそれぞれ固定されていた。
「あの、矢紗美さん……これは――」
 一体どういう――恐らくは、きょとんとしているであろう目で、目の前に立つ矢紗美を見上げる。
「ごめんね、紺崎クン。忘れ物があるっていうのも、勤務中っていうのも、全部嘘なの」「………………え?」
 先ほどまで、あれほど焦りに焦り、切羽詰まっていた矢紗美は、今や余裕の表情。むしろ、愉悦とも言うべきものを口の端に滲ませながら、言った。
「雪乃に話をつけるっていうのも嘘。紺崎クンを許したっていうのも勿論嘘。………………言ったでしょ? 雪乃には、私が味わった以上の屈辱を味わわせるって」
「ま、待って下さい……矢紗美さん……一体何を――」
 月彦は椅子の背側に回った手を前へと戻そうと試みる。しかし手首同士が手錠で繋がれているのか、その望みは全く持って叶わない。同時に両足も、椅子の脚へと繋がれて動かすことが出来ない。
「“何を”? ふふ、知りたい? なら教えてあげる。紺崎クンはね、今から私に監禁されるの」
「か、監禁!?」
 矢紗美は、月彦のリアクションに満足するかのように大きく頷き、肩を抱いたままぶるりと体を震わせた。



「ま…………待って下さい、矢紗美さん! 監禁って、一体どういうことですか! またたちの悪い冗談なら止めてください!」
「もちろん、冗談なんかじゃないわよ? 私は本気。本気で紺崎クンを監禁して、再教育してあげるの」
「さい……きょういく?」
「そ。紺崎クンが二度と雪乃の誘惑に負けたりしない様、私しか目に映らない様、再教育するの」
 矢紗美が、情欲に濡れた目をうっとりと細める。その潤んだ膜の向こうに見える瞳の色はいつぞや見た虚無色と同じ。
 そう、つまり。紺崎月彦は、全然――全くもって、許されてはいなかったということだ。
「もし、紺崎クンが好きになったのが他の女の子――雪乃以外の子だったら、黙って見送ったかもしれない。でもね、雪乃はダメ。あの子に負けるくらいなら、無理矢理にでも振り向かせる。それが出来ないなら、いっそ――」
 壊す――矢紗美は口の形だけで、そう示唆する。
「……矢紗美さん……なんでそんなに……」
 雪乃に対抗意識を燃やすのか。矢紗美が、雪乃の身長やスタイルを羨んでいるという話は前に聞いたが、それにしても度が過ぎているように月彦には思える。
(……いや、それは先生も同じだ。先生も、矢紗美さんには絶対負けたくないって思ってるはず……)
 実の姉妹の筈なのに、何故そうまで対抗するのか。月彦には理解出来ない。少なくとも、霧亜と張り合おうなどと思ったことは一度も無いし、そもそも張り合えるとも思っていない。
(それとも、姉と弟だから……なのか? これが兄と弟ないし、姉と妹だったら――)
 張り合おうという気になるのだろうか。そんな月彦の心中を尻目に、矢紗美はただただ、狂気の笑みを口元に浮かべている。
「ま……待って下さい、矢紗美さん! 俺が考えていた以上に矢紗美さんを傷つけてしまったというのは解りましたけど、だけど……監禁だなんて、そんなのは間違ってます! 償いなら、ちゃんとしますから――」
「もうそういうのはいいから。贖罪も、謝罪もなにもいらない。ただ、私を楽しませてくれればそれでいいの。……むしろ、そうやって私を楽しませてくれることが、一番の償いよ、紺崎クン?」
「矢紗美さんを……楽しませる……?」
「そ。私はね、……紺崎クンのあの目……“絶対に、貴方なんかに屈したりしません”ってギラギラ光るあの目が恥辱にまみれて屈服する瞬間が見たいの。そして、紺崎クンが完全に屈服して、私の下でアヘってる所をばっちり録画して、雪乃に見せつけてやるの。……あんなメールまで送って人を煽ったんだもの。それくらいされる覚悟はあって当然よね?」
 “妄想”を口にすることで、愉悦を追体験しているように、矢紗美が身震いしながら自分の体を抱きしめる。
「や……矢紗美、さん……」
 屈折している――プライドの高い女が、許容量を遙かに超える屈辱を味わわされたが故のことなのか。単純に雛森矢紗美という女の趣味嗜好から生まれた発想なのかは解らない。
 解らないが、一つだけ確実なことはある。それは、矢紗美は本気だということ。“たちの悪い冗談”などではないということ。
(ヤバい……いつものピンチとは次元が違うぞ)
 単純に、発情した雪乃に押し倒され、上に跨がられたまま主導権を握ることが出来ない――などといった窮地とはまったく違う。紺崎月彦という人格の危機にさすがに顔が引きつるのを感じる。そして、月彦のそんな反応こそが、矢紗美が見たくて見たくてたまらないものなのだ。
「………………矢紗美さん、無駄です」
「無駄?」
 月彦は体の力を抜き、まるで諭すような口調で続ける。
「こんなことをされても、俺は絶対に矢紗美さんの思い通りになんかなりません。だから、今すぐ止めてください。決定的なコトをされて、矢紗美さんを嫌いになってしまう前に」
 矢紗美がおよそ許容出来ない怒りをもって蛮行に走ってしまった経緯はよくわかった。そして原因は間違いなく自分にあることも理解している。しかし、だからといって監禁&人格矯正まで受け入れるわけにはいかない。
 月彦は静かに、矢紗美の説得を試みる。
「矢紗美さん、よく考えてみてください。そもそも監禁なんて無理があると思いませんか。俺が天涯孤独、居なくなっても誰も捜す人が居ない人間っていうならともかく、俺にはちゃんと家族だって居ますし、そもそも今日は先生とデートをする予定でした。今頃、待ち合わせ場所に現れない俺にやきもきして、家に連絡をしているかもしれません。デートに行く途中で不自然に俺が消えたことに先生が不安を覚えて、大騒ぎになるかもしれないじゃないですか」
 雪乃が家に連絡を入れて大騒ぎ――それは、月彦としても避けたいことではある。が、今はそうなるに決まっているという顔で、矢紗美を説得するしかない。
「矢紗美さんなら解っていると思いますが、ちょっとやそっと監禁されたくらいで、俺は絶対に折れたりなんかしません。先生がここを突き止めて、助けてくれるまで意地でも耐えてみせます。そしてそれはそんなに遠い未来ではない筈です。……つまり、矢紗美さんがやろうとしているのは全くもって無駄なことなんです」
 真摯な説得――のつもりだった。少なくとも、月彦としては最大限矢紗美の不安を煽り、その行為の愚かさ、見返りの少なさを指摘したつもりだった。が、月彦は矢紗美の顔を見て思わず凍り付いた。
 矢紗美は迷っている風でもなく。かといって怒りを露わにするでもなく。まるで、子供が「昨日ハワイに行ってきた!」と嘘をつくのを、笑顔で聞き流す友人の母親のような微笑を浮かべていたからだ。
「言いたい事は言い終わったかしら? じゃあ、今から一つずつ、紺崎クンの“希望”を潰してあげるわね」
 矢紗美もまた、静かに語り出す。
「まず第一に、今日は雪乃とデートの予定だったわね? てことは、当然“お泊まり”するって家族にも言ってあるんでしょう? つまり、少なく見ても土日のうちは紺崎クンが帰らなくても家族は心配しないってことよね?」
「それは……でも、その前に先生が――」
「雪乃が連絡いれる? そうかもしれない。でも、紺崎クン――よく考えてみて。“二度目”でしょう?」
「うぐ…………」
「“一度目”でさえあんなに怒った雪乃が、果たして二度目も律儀に家に連絡を入れたりするかしら? 私は、待ち合わせ場所に現れない紺崎クンに怒りつつも、二時間くらいイライラしながら待ち続けて、それでも来ないって解った瞬間、キレて帰っちゃうと思うわ。もちろん、未練がましく家に連絡入れるってことも無くは無いかもしれないけど、それだってどうせ“今日デートの約束してたんですけど”なんて言えないわよね? せいぜい部活の顧問って立場を使って紺崎クンが在宅してるかどうか確かめるくらいじゃないかしら?」
 つまり――と、矢紗美が一息挟む。
「紺崎クンは捜されない。少なくとも、土日の間はね」
 確かに――そう頷いてしまいそうになる。矢紗美は微笑を浮かべながら、さらに話を続ける。
「そう、“助け”が来るのは紺崎クンが思ってるよりも遙かに遅いの。それに考えてみて? 仮に雪乃や紺崎クンの家族が心配して、捜索願が出されたとして、それを受理するのは一体どこかしら?」
「それは……警察――」
 ハッと、月彦は戦慄する。くふくふと、矢紗美が愉悦の笑みを浮かべる。さながら、蟻地獄の巣に落ちたアリが這い上がろうとするのを、棒で突いて遊ぶ幼子のように、無邪気で残酷な笑みを。
「勿論“握りつぶす”わよ? 一ヶ月や二ヶ月、巧くいけば半年や一年は“捜してるフリ”だけして、実際には何も進展してないってコトだって可能かもしれない。確かに紺崎クンは普通の子より折れにくいかもしれないけど、それだけの期間耐えられると思う?」
 半年、悪くすれば一年は助けが来ない――現実性を帯びた矢紗美の言葉に、月彦は絶望を実感する。視界が、まるで漆黒に染まるように暗く感じる。
「それにね、紺崎クン。監禁されるっていうことは、単純にここから出られなくなるってコトじゃないのよ? 食事も、睡眠も、排泄も、全てを相手にコントロールされるっていうことなのよ? 紺崎クンに食事を与えるのも、飢えさせるのも私の自由。それがどんなに危険なことで、正気を保ちにくいことかちゃんと解ってるかしら?」
 食事も、排泄も全て――矢紗美の言葉に、月彦は戦慄する。そう、矢紗美はただ単純に紺崎月彦を自宅内に監禁するだけではない。その体を拘束し、ありとあらゆる尊厳を奪おうとしているのだと、今更ながらに理解する。
「そうねぇ、まずは一週間くらい絶食してもらおうかしら。若いんだし、水さえ与えておけば、死にはしないわよね。そうやって自力ではまともに動けないくらいに弱ったら、拘束は解いてあげる。その代わりに――」
 じゃらりと。矢紗美はその背に隠していた物――鎖つきの首輪を月彦の前へと突き出す。
「コレをつけてあげる。服なんて着せてあげない。立つのもダメ。常に四つん這いで生活をしてもらうわ。食事も、排泄も、私が許可を出さない限りダメ。破ったらお仕置き。私が仕事で家を空ける時は、正座でお留守番。これが守れなかったら、やっぱりお仕置き」
 矢紗美の語るそれはおよそ、人間の扱いではない。犬――ペット以下の扱いだった。
「オナニーなんて以ての外。紺崎クンの射精は私が厳重に管理するわ。我慢出来ずに勝手にオナニーしちゃったら、一番キツい罰を与えるから、覚悟してね」
「や、矢紗美……さん?」
 ここにきて、月彦ははっきりと恐怖を覚えた。今まではまだ、気心の知れた相手ということでまだ余裕があった。「監禁だなんて言ってるけど、本気ではなくてビビらせるだけのつもり」だと、勝手に解釈していた。しかし、矢紗美が首輪を取り出した瞬間、そんな楽観は吹き飛んだ。
 ひょっとしたら、矢紗美は本気なのではないか。本気の本気で監禁、そして調教をするつもりなのではないか。本気で絶食をさせて弱らせ、首輪をつけ、犬のように飼うつもりなのではないか――それは、体が震えるには十分すぎる恐怖だった。
「……も、もちろん……冗談、なんですよね? 本気のフリをして、俺をびびらせて懲らしめる――だけ、なんですよね? はは、まさかそんな……本気で監禁だなんて……」
「どうしたの、紺崎クン。怖いの? ちょっとやそっと監禁されたくらいじゃ何も変わらないってさっき言ってたじゃない。まだ一時間も経ってないのに、もう心折れちゃったの?」
「心が折れるとか、折れないとか、そういう問題じゃないです! 矢紗美さん、これは犯罪ですよ! お願いですから止めてください!」
「最初は無駄だから止めろ、で今度は犯罪だから止めろ? それってつまり、“無駄じゃない”って紺崎クン自身が認めたと解釈していいのかしら」
「矢紗美さん……」
 ダメだ、本気だ――月彦はあまりの絶望に目眩すら覚える。
「いい目……やっと自分の立場を理解できたみたいね。でも、まだ折れたりしちゃ嫌よ? もっともっと、最低でも一月くらいはもってくれないと、私が味わった屈辱には釣り合わないんだから」
 厳粛な青い制服とは正反対の狂気の笑みに、月彦はただただ戦慄するのだった。



「ふふっ……まずは何をしようかしら。いきなり“何でも出来る”ってなっちゃうと迷っちゃうわね。宝くじに当たって、100億円とか手元に来ちゃった気分って、きっとこんな感じね」
「100億円……ですか」
 それは随分と高く買われたものだと、月彦は自嘲気味に笑う。もちろんただの比喩だと解ってはいるが、少なくとも矢紗美にとって、そんな言葉が口から出るくらいの高揚は感じているらしい。
「絶食させて弱らせる間、ただ待つっていうのも退屈だし。……ねえ、紺崎クンはどうして欲しい?」
「じゃあ、そうですね……先生に電話するっていうのはどうですか?」
「雪乃に?」
 怪訝そうに矢紗美が眉を寄せる。
「はい。正直な話、俺は矢紗美さんをナメてました。このまま監禁を受けてまで先生のことを想い続ける自信もありません。だから、この場で、矢紗美さんの目の前で先生に別れ話をして、それで今回の件は終わりにするっていうのはダメですか?」
 矢紗美が、さらに険しい顔をする。“それ”は恐らく、矢紗美にとってあまり“楽しい話”ではないのだろう。矢紗美としてはあくまで「俺は先生のことが好きです」と言い張る紺崎月彦をいたぶり続けたいに違いないのだから。
「何それ。紺崎クンの雪乃への想いって、そんなあっさりしたものだったの?」
「あっさりなんかしてません。俺だって、先生と別れたくありません。でも、そうしないと矢紗美さんが俺を監禁するって言うから、仕方なく諦めるんです」
「…………………………。」
 矢紗美が、不機嫌を露わにする。そんな展開は望んでいない――そう露骨に語る目が、不意に喜悦に染まった。
「……ふぅん、そんな演技で私を騙す気?」
「演技じゃありません。嘘だと思うなら、俺に電話をさせてください。…………矢紗美さんの携帯電話で」
「へえ?」
 楽しげに、矢紗美が眉を上げる。矢紗美のことだ、すぐに月彦の言わんとすることを察したのだろう。
「矢紗美さんの携帯の番号から電話がかかってきて、相手は俺で、しかも内容は別れ話――これってもう、“決定打”ですよね?」
「仮に、あとから“あれは急場を凌ぐ為の演技だった”って説明しても、雪乃は私との関係を疑うわね、間違いなく。そもそも、雪乃に黙って私と会ってる時点でほぼアウトだもの」
 うんうんと、矢紗美が頷く。
「そういうことです。同時に、先生を悔しがらせたいっていう矢紗美さんの目的も達成されることになります」
「それはどうかしら。雪乃は怒りはするだろうけど、悔しくはないんじゃない?」
「先生は或いは矢紗美さん以上に、矢紗美さんに対抗心を燃やしてますから。俺が矢紗美さんと……少なくともこっそり家を訪れるくらいには仲が良いって解ったら、絶対悔しがると思います」
「ふぅん?」
 なるほど、悪く無い――そう言い足そうな、矢紗美の声。もう一息だと、月彦は身を引き締める。
「言っとくけど、そんな話を鵜呑みにして、紺崎クンの両手を自由にしたりなんかしないわよ? 油断ならない男の子だってコトはよーく知ってるんだから」
「解ってます。電話をかけるのも、持つのも矢紗美さんでいいです。ただ、俺の口元に持って来てくれさえすれば」
「どうかしら。…………ねえ紺崎クン、何か企んでるんじゃない?」
 ぎくり――などとはおくびにも出さない。あくまで、平生を装う。
「矢紗美さんこそ、どうしてそんなに疑うんですか。先生と別れなきゃ監禁されるって決まってるのに、俺が矢紗美さんに嘘をつくわけないじゃないですか」
「ふふっ……それもそうね。じゃあ、紺崎クンの話に乗ってあげる。面白そうだし」
 矢紗美は携帯を取り出し、操作する。そして、月彦の耳元へと近づけてくる。
(ここだ……ここが正念場だ!)
 なるほど確かに、“別れ話”であれば、雪乃との関係の復旧は不可能だろう。例え急場を凌ぐ為だったとしても、雪乃の中に疑惑は残る。しかし単純にSOSならば。携帯を握っている矢紗美の手が通話を断ち切る前に“助けて”の一言さえ言えれば、全ては丸く収まる。
(先生との待ち合わせ場所に向かう途中、俺は矢紗美さんに拉致された。そのままなし崩し的に部屋まで連れ込まれ、拘束された! 先生には後でそう説明する!)
 そしてそれは嘘でも何でも無い。雪乃に疑いは残るかもしれないが、このまま人格矯正を受け入れるよりは遙かにマシだ。
(あとは、問題は――)
 内容が別れ話などでは無いと矢紗美が判断し、通話を打ち切るまでに、SOSが出せるかということだ。しかしそれについては、月彦は十二分に勝算があると踏んでいた。仮に“助けて”の“たす”だけで通話が打ち切られたとしても、その不自然な切られ方からして雪乃がSOSであると判断するには十分だ。そしてかけてきたのが矢紗美の番号なのだから、真っ先にここへと駆けつけてくるだろう。
 つまり、声を聞かせることさえ出来れば、月彦の勝利――だが、矢紗美は疑っている。或いは、“最初は様子見”の可能性もあると踏んでいた。
(きちんと、電話の相手が先生だって解るまでは、先走っちゃいけない)
 通話を切られる前に声は聞かせなければならない。しかし焦ってはいけない――そのことを肝に銘じながら、月彦は己の耳に意識を集中する。
『……もしもし、お姉ちゃん?』
 雪乃の声を聞いて、これほど嬉しかったことがあっただろうか。今ならガチで雪乃が救いの女神のように見えるに違いない。
「助けて下さい!」
 叫んで、月彦はちらりと矢紗美の方へと目をやる。てっきり、即座に通話を打ち切られるかと思いきや、矢紗美は目を丸くしたまま固まっていた。どうやら余りに予想外過ぎて、思考停止状態に陥っているらしい。
 ならばと、月彦はさらに言葉を続ける。
「俺です、先生! 今、矢紗美さんの部屋に監禁されています! すぐに来てください!」
 これだけ言えば、雪乃ならば光の速度で助けに来てくれることだろう。月彦は安堵し――そして、次の瞬間。
『あれ、もしもーし。お姉ちゃん? こっち仕事終わったけど』
「へ……? あの、先生……?」
 俺の声が聞こえてますか?――そう尋ねかけた瞬間、月彦は見た。矢紗美が、今にも噴き出しそうなほどに、頬を膨らませているのを。
『とにかく、先にお店行ってるから。じゃね』
 ぶつりと、通話が切られる音。
『このメッセージを消去するには――』
 続いて流れてきた音声に、月彦は目眩を覚えた。違う、今のは声こそ雪乃のそれだが、通話ではない。
 これはただの留守電メッセージの再生――。
「アハハハハハハハハハッ!!! ごめんごめん、紺崎クン。雪乃に電話かけるつもりが、間違えて留守電再生しちゃったみたい」
 てへぺろをする矢紗美。今度は月彦が目を丸くして固まる番だった。
「そう、その顔! その顔が見たかったの! 紺崎クンが嘘ついて雪乃にSOSだそうとしてるってすぐ解ったけど、その顔が見たかったから騙されたフリしてあげたの。……んもう、もうちょっと巧くやってくれないと、途中で噴き出しそうだったんだから」
 しかも、最初からバレていた。その上で、ハメられた。
「ふふっ……いいわぁ、すっごく良い! 最初、本気で雪乃と別れるつもりなのかと思ってちょっと焦っちゃったけど、仮にも私の誘いを蹴ってまで雪乃を選んだんだもの。そんなに簡単に諦められるわけないわよねえ?」
「くっ……だったら――」
 こうなったらもう、力ずくで脱出するしかない――月彦は四肢に渾身の力を込め、拘束を脱そうと試みる。
「力ずくで、ってコト? 無理無理、紺崎クン……自分が座ってる椅子を見て、何か気づかない?」
「椅子……?」
 月彦は徐に、リビングにある他の椅子と、自分の椅子とを見比べる。
「えっ……ちょ……なんですかこの椅子……」
 リビングにある他の椅子は木製。それこそ、どこの家庭にもありそうなありふれた背もたれつきの椅子だ。しかし今月彦が座っているそれは金属製。作りからして明らかに他のものと違う。足も太く、およそ少々暴れたくらいで壊れるようなものには見えない。
「そういうコトは座る前に気づかなくっちゃ。観察眼が足りないゾ、紺崎クン?」
「な、なんでこんなゴツい椅子があるんですか!」
「もちろん、紺崎クンを捕まえておく為よ。通販ですっごく高かったのよ、それ」
 そして――と、矢紗美はじゃらりと、今度は黒い手錠を取り出し、ぶらぶらと弄ぶように揺らす。
「今紺崎クンを拘束してるのはコレ。いつかの玩具とは違う、本物よ。いくら紺崎クンでも“ソレ”は引きちぎれないでしょう?」
「本物の……手錠……」
 どれだけ力を込めても、びくともしない。矢紗美の言う通り、“いつかの玩具”とは雲泥の耐久力だった。
「…………私に飼われるしかないっていう現実を、そろそろ理解したかしら?」
 矢紗美が、再び背中側に回る。その手が、椅子の背もたれを掴み、月彦は徐々に背中側へと体を傾けられる。傾斜は途中で止まり、次は前へ、後ろ、前とまるで揺り椅子のように揺らされた後、唐突に横向きに倒される。
「んがっ……」
 がたんと大きな音を立てて、椅子ごと床に転がされる。その月彦の目の前で、矢紗美は再び食卓にもたれ掛かり、そしてまるでその白い脚を見せびらかすように、ストッキングを脱ぐ。
「楽しませてくれたご褒美よ。……ほら、舐めなさい」



 

 月彦は困惑する。楽しませてくれたからご褒美――というのは、解る。しかしそのご褒美というのが“脚を舐める”というのは何故なのか。
 椅子ごと横倒しにされたまま、月彦は矢紗美を見上げる。白く長い素足の上、青い制服を着た矢紗美は、唇を触るように人差し指を宛がったまま愉悦の笑みを浮かべている。
「ほら、どうしたの? ご褒美に脚を舐めさせてあげるって言ってるんだけど?」
 眼前に突き出された脚。その爪には丁寧にマニキュアまで塗られている。確かに、以前矢紗美を喜ばせる為に脚を舐めたことはある。が、決して月彦自身、女性の脚を舐めるという行為が好きなわけではない。むしろ、必要がなければ避けたいとすら思っているくらいだ。
「……嫌、です」
 故に、月彦は拒絶した。矢紗美がまた、嬉しそうに顔を歪めるのが解った。
「“これから先”のことを考えれば、極力私の機嫌は損ねない方が良いんじゃ無いかしら?」
「確かにそうかもしれません。…………でも、嫌です」
 そう、これは理屈ではない。例え将来的に損をすると解っていても、男を食い物を見るような目で見る女の言には断固抵抗する。
 それが、紺崎月彦という人間の根幹なのだ。
「ふふっ……そんなに嫌?」
 嫌だと答える前に、頭を、顔を踏みつけられる。
「屈辱でしょう? 床に転がされて、こんな風に頭を踏みつけられるなんて、一度も経験したことないんじゃない?」
 “痛み”は、さほどはない。しかし矢紗美の言う通り、確かにこれは屈辱だ。月彦は奥歯を噛み締め、耐える。
「あぁっ……ンッ……もぉ……そんなに睨みつけないでよ……………………ますます楽しくなっちゃうじゃない」
 肩を抱き、ぶるりと身を震わせる矢紗美の尻を、月彦は思わず確認する。よもや、尻尾でも生えているのではないかと。しかし、勿論尻尾など生えている筈もない。
「イイわぁ……素直に脚を舐められるより、そうやって睨む紺崎クンを踏みつけるほうが何倍も楽しい…………ホント、紺崎クンって最高」
 はあ、と熱っぽい吐息を吐くや、矢紗美は足先で転がすようにして、椅子ごと月彦を仰向けにする。何をする気なのかと警戒していると、ぱちりという音と共に突如、両足が“伸び”た。
「面白いでしょう、この椅子。……ホント、高かったのよ?」
 どうやら、椅子の側面の留め金か何かを操作すると、背もたれから椅子の脚までが一直線に伸びる仕組みになっているらしい。とはいえ、相変わらず両足首は椅子の脚と手錠で――足錠と言うべきか――拘束されていることは変わらない。背もたれが若干反るように角度がついている為、仰向けにされて椅子の背の下敷きにされても手首が圧迫されないのも恐らく偶然ではないのだろう。
「……矢紗美さん、パンツ丸見えですよ」
「この期に及んでまだそんな軽口が利けるなんて、さすが紺崎クンね。……一体どうすれば、紺崎クンの心を折れるのかしら」
「この拘束を解いてくれたら教えますよ」
 軽口――無駄だと解っていても、むしろ矢紗美を楽しませるだけだと解っていても、叩かずにはいられない。そうでもして心を奮い立たせなければ、本当に心を折られてしまいかねない。
「………………紺崎クンを屈服させるには、やっぱり“こっち”かしら」
「ッ……!」
 “急所”をぐりぐりと踏みつけられ、月彦は奥歯を噛み締める。成る程、“そのため”にわざわざ椅子のギミックを披露してまで仰向けにさせたのか。
「ふふふ、もう大きくなってきた。相変わらず元気ね。それとも、雪乃とのデートに備えて禁欲してたのかしら」
 矢紗美に踏みつけられて勃起してしまうのは屈辱ではあったが、それは単純に刺激を受けて反応をしているだけで、踏まれて興奮したとか、そういうわけではない。絶対に違うと、月彦は心の中で否定を続ける。
「ほら、ほら、気持ちいいんでしょう? 拘束されて、チンポ踏みつけられて興奮するなんてとんでもない変態ね。ほらっ、ほらっ、ほらっ」
「ッ……違ッ……くっ……」
「あははっ、違わないでしょ? ほら、ほらっ、このままみっともなく射精しちゃってもいいのよ?」
 誰がッ――月彦は心の内で、そう吐き捨てる。矢紗美も、そのうち飽きるだろう。それまで耐えれば良いだけの話だ。
「…………そのうち飽きるだろう、って顔ね。残念だけど、飽きないわよ、紺崎クン?」
 矢紗美が器用に、足の指でジッパーを摘み、下げていく。最初に数センチ下げた後は、行き場を無くして膨張した剛直自身が飛び出し、ジッパーは限界まで開かれる。矢紗美はさらに、バナナの皮でも剥くように下着の小窓のボタンを外し、ギンギンにそそり立った剛直を露出させる。
「わぁ、相変わらずスゴいわね、紺崎クンのコレ。……こうやって見てるだけで、じゅんって来ちゃう」
 快哉を上げながら、矢紗美が今度は素足で直接、剛直を踏みつけてくる。
「あはぁっ、すっごぉい! 思い切り踏みつけてるのに、グイグイ押し返してくるぅっ……あぁんっ……もぉ、このチンポヤバすぎ……堅いし、火傷しちゃいそうなくらい熱いし……」
 不満そうに、しかし嬉しそうに、矢紗美は踏みつけ、さらに足の裏で擦るように前後してくる。ズボン越しとは比較にならない刺激に、月彦はただただ、奥歯をかみ続ける。
「ホント節操のないチンポなんだから。私じゃなくても、誰に踏まれてもすぐこうなっちゃうんでしょう? 雪乃の性格にうんざりしてても離れられないのは紺崎クンの意思じゃなくって、このダメチンポのせいなんでしょう?」
 もはや、憎しみすら込めるように、矢紗美はぐりぐりと踏みつけてくる。
「いい機会だから、私が躾けてあげる。紺崎クンのチョロ過ぎダメチンポを“ご主人様”相手でしか使えないようにしてあげる。射精させて下さい、お願いしますって、私の足をぺろぺろ舐める従順なペットに調教してあげる」
 貯まりに貯まっていた鬱憤を晴らすかのような快哉。こんなに活き活きとした矢紗美を見るのは、初めてかもしれない。
「あぁん、もぉ……紺崎クンカウパー出し過ぎ。どんだけ貯まってるの? それとも踏まれるのが本当に好きなの? 何とか言ってみなさいよ、ほらっ、ほらっ、ほら!」
 腰に手を当て、顔を覗き込むように前屈みになりながら踏みつけてくる。そんな矢紗美を、月彦はありったけの敵意を込めてにらみ返す。
 途端、矢紗美がびくんと上体を持ち上げ、そのまま弓なりに反らした。
「…………やッ…………っっっ〜〜〜〜〜ッ………………ンッ!!」
 肩を抱いたまま、ぶるりと体を震わせる。そのまま、小刻みに尻を揺らすように、腰回りを痙攣させる。
「……ダメっ……今の紺崎クンの目、ヤバい…………睨まれただけで、軽くイッちゃった……」
「…………睨まれてイくなんて、変態は矢紗美さんの方じゃないですか」
 上ずりそうになる声を抑えて、平生を装う。しかし意外にも、矢紗美は否定をしなかった。
「だって、本当のことなんだもの。……すっごく胸がどきどきしてる。今まで何人もこうやって踏みつけたり、中には睨んでくる男も居たけど、こんなに興奮したのは初めて」
 見て――そう言って、矢紗美は己の太ももを指し示す。
「もう、ぐちょぐちょ……下着を通して、ここまで垂れてきちゃった」
 矢紗美の指の先には、確かに透明な雫が、太ももを伝って膝近くへと到達しようとしていた。見れば、いつしか矢紗美は肩で息をしている。顔は紅潮し、まるで熱でもあるかの様。
「……ダメだわ、このままじゃブレーキ効かなくなっちゃう。残念だけど、目隠しをさせてもらうわ」
「目隠し……?」
 問う間もなく、矢紗美はどこからともなく革製のアイマスクを取り出す。
「ちょっ、どんだけ用意周到なんですか!」
「ほらぁ、暴れないの。こうしないと、すぐイかされちゃうからしょうがないじゃない」
 一体何がしょうがないのか――藻掻きもむなしく、月彦はアイマスクを装着され、視界が闇に閉ざされる。
「これで良し、っと。……んふっ、それじゃあ、思う存分踏みつけてあげる。紺崎クンの年下生意気チンポぐりぐり扱いて、あへあへ言わせてあげる」
 ぐりっ、と再び素足で剛直を踏みつけられる。不意打ち気味の刺激に、月彦は堪らず女のような声を上げた。



 果たして今、雪乃は何を考えているだろうか。待ち合わせ時間はとうに過ぎ、まさか来ない彼氏が、実姉の部屋で拘束され足コキされている等とは夢にも思っていないに違いない。
「しぶといわね。ほら、早くイッちゃいなさい」
「い、や、です! 誰がッ……絶対ッ……くっ……」
 意地でも足でイかせたいのだろう。矢紗美はしつこく足だけでの刺激を繰り返してくる。単純な踏みつけから、上下に擦ったり、指で挟んで扱き上げたり。右足が疲れたら左足、左足が疲れたら右足――その刺激は、少なくとも一時間以上に及んだ。
 睨まれると興奮する、場合によってはそれが極まってイくという矢紗美の言葉は真実なのだろう。アイマスクをされてからは、少なくとも“興奮してイく”ということは無かった。尤も、視界をふさがれている月彦は、人知れず矢紗美が達していても察する術は無いのだが。
「ハァハァ……もぉ、ほんっとしぶといんだから。私が下手な筈無いのに」
 そうだろうと、月彦は内心同意する。事実、危ない瞬間は何度もあった。が、そのことごとくを月彦は凌いだ。ひとえに、“こんな女の思い通りにされてたまるか”という思い故だ。
(…………“こんな女”っていう呼び方は、矢紗美さんにはちょっと失礼だけど)
 そう、こんな目に遭わされても、月彦は矢紗美を嫌いきれていなかった。いきなり陵辱されかけた初対面時とは違い、今は矢紗美と過ごした様々な思い出が、離れそうになる心を繋ぎ止める。
「……わかったわ。そんなに足コキでイかされるのが嫌なら、もう無理に射精させたりなんかしない」
 ため息混じりの声。やっと諦めたかと、安堵の息を漏らしたのもつかの間。すぐ側に矢紗美がしゃがみ込んだ気配がした時には、次の攻撃が始まっていた。
「なっ、ちょっ……矢紗美さん!?」
「んー? なぁに?」
 惚けるような声。しかし、その手は剛直の付け根――房のようになっている陰嚢を掴んだまま、放さない。否、放さないだけではない、ぐにぐにと、まるで揉むように動いているのだ。
「な、なんで……そんな所を……」
「マッサージしてあげてるの」
「だから、なんでそんな所を……っ……」
「紺崎クンが射精したくないって言うから」
 答えになってない――月彦の声は、掠れて消えた。それほどに、矢紗美のマッサージは巧みだった。
「んふふ、きもちいーでしょ? 紺崎クン、こっちへの刺激はあんまりされてないんじゃない? 雪乃って、そういうコトしてくれなそうだし」
 強く握られれば、痛いでは済まされないその場所への刺激が、まさかこんなにも耐えがたいものになるとは思ってもいなかった。そして、同時にムズムズとしたものがこみ上げてくるのを、月彦は感じていた。
「嘘か本当か、陰嚢へのマッサージは精子の増産を促進する働きがあるんだって。雪乃とのエッチに備えてただでさえ“貯まってる”紺崎クンががさらに“貯まっちゃった”らどうなるのかしら?」
「そんなの、デタラメ……ッ……」
「別に、デタラメでもなんでも私は構わないんだけど。あっ、そーだ、折角だし氷も使ってあげる」
「こ、氷!?」
「そ。陰嚢はね、冷やした方がいいらしいわよ? ちょっと待っててね」
 矢紗美が立ち上がる気配。冷蔵庫が開閉する音。そして、再び傍らに気配。次の瞬間――
「ひゃっ!?」
 押し当てられたもののあまりの冷たさに、月彦は思わず声を裏返らせる。闇の中で、まるでどこぞの性悪狐のように意地の悪い笑い声が聞こえる。
「モミモミしながら、冷やしてあげる。ついでにこっちも……」
「ひっ……ちょっ、矢紗美さっ……氷はマジで止めてくだっ……っ……」
「だーめ、止めてあげない」
 今度は剛直の方にまで押し当てられ、月彦は快感よりも寒気に身を震わせる。
「ふふ、目隠ししてるから、“次”に“どっち”が来るか解らないでしょ?」
 矢紗美の言う通りだった。モミモミとマッサージをされていたかと思えば、唐突に氷を押し当てられ、上ずった声を上げさせられる。陰嚢への刺激を警戒していれば、まるでキスでもするように剛直の先端へと氷が押し当てられる。
「あっは、いい反応! ついでだし、こっちもナメナメしてあげる」
 服をまくし上げられる感触。そして次に氷が押し当てられたのは――
「ちょ、やざみさっ……ひっ……!」
 氷を押し当てられ、冷やされた乳首を今度は暖かい舌に舐められる。冷やされ、舐められ、冷やされ、舐められ――そんなことを繰り返される内に、徐々に呼吸が荒くなるのを、月彦は感じていた。
「ふふ、意外。紺崎クン、ここ弱いんだ?」
「そ、ういうわけじゃ……」
 ない――それは断言出来る。現に真央や由梨子相手の時ですら、そこを刺激されたことはある。が、別段どうということもなかった。
(目隠しと、氷が効いてるのか……?)
 そうとしか思えない。そしてひょっとしたら、陰嚢へのマッサージも。
「じゃあ、これはどうかしら? んっ……」
「矢紗美さん……?」
 不意に、声が途絶える。そのまま一分ほどの沈黙。そして、次の瞬間――
「うひぁ!」
 月彦はたまらず声を上げていた。冷たい氷でも、暖かい舌でもない。“冷たい舌”で乳首を舐められたのだ。
「いい声……もっとシてあげる」
 れろり、れろり。
 れろぉ、れろぉ……。
 丁寧に舐られ、月彦は思わず背筋を伸ばして喘いでしまう。矢紗美は恐らく氷を口に含み、冷やしてから舐めているのだろう。故に時折愛撫が途絶える瞬間があり、その都度月彦は「早く続きを」という言葉を飲み込まねばならなかった。
「ふふっ……雪乃はこんな事シてくれないでしょう?」
 はい――思わずそう返事してしまいそうになる。勿論、頼めばしてくれるかもしれないが、自発的には絶対してはくれないだろう。
「んっ……こっちも、モミモミしてあげる」
 乳首を舐られながら、今度は“冷たい手”で陰嚢をマッサージ。成る程、冷やした方が陰嚢の機能が促進されるという話は本当かもしれない。その証拠にとでもいうかのように、冷やされた手で触れられると、先ほどとは比較にならない快感に襲われるのだ。
「や、矢紗美さん……!」
「なぁに?」
「あ、あの……もう……」
 我慢出来ません――そう言いかけて、月彦は感じ取る。厚い皮に遮られた闇の向こう、矢紗美がニヤついているのを。
「もう……何かしら?」
 “その先”をよほど聞きたいのだろう。矢紗美が嬉々として促してくる。ほら、早く言えとでも言うかのように、冷えた手で陰嚢をまさぐりながら。
「……くっ…………」
「ほらほら、我慢は体に良くないわよ?」
 ダメだ、言ったら――それは“負け”だ。矢紗美に屈してしまうきっかけ、その第一歩になりかねない。
「言えないなら、言いたくなるようにしてあげる」
 矢紗美は、間違いなく“鳴かぬなら、鳴かしてやろうホトトギス”派なのだろう。今度は氷を含んで冷やした舌でれろり、れろりと陰嚢を舐め、さらに口に含むようにしゃぶってくる。
 うひあ、と思わず声を上ずらせながら、それでも月彦は耐える。耐える。耐える。耐え続ける――。
「はぁっ……はぁっ……ちょ、もう……くっ…………」
 しかし、限界は来る。永遠に籠城し続けられる城など存在しないように。意思の力ではどうにもならない限界を感じて、月彦は心を折られる瞬間が来たことを痛感する。
「……何か言いたいコトがあるなら、聞いてあげるわよ?」
 言わなければ、絶対にイかせない。矢紗美の言葉には、そう確信させるだけの響きがあった。
 ごくりと、月彦は唾を飲む。ギブアップ――そういったニュアンスの言葉を紡ぎ出そうと、唇を動かす。
 しかし、月彦の“意思”に、“体”は抗った。
「矢紗美、さんは――」
「うんうん、私は?」
「何歳くらいから、先生のお下がりを着せられてたんですか?」
 びきっ。
 そんな音を立てて、空間にヒビが入ったのが、月彦にも解った。



 “あのときの屈辱”を、頭は忘れても、体は覚えていた。或いは、“魂”が忘れていなかったのか。
 気がつくと、矢紗美に降参を申し入れようとした月彦の唇は、降参どころか矢紗美を逆上させかねない言葉を紡ぎ出していた。
「あっ、いや……違っ……そんなことを言いたかったワケじゃなくて……」
 肌がヒリつくほどの寒気。漆黒の闇の中、空気を通じて矢紗美が怒りに震えているのが解る。この期に及んでさらに雪乃絡みの煽り文句を突きつけられ、矢紗美が一体どのような行動に出るか、月彦には予想もつかなかった。
(や、ばい……ヤバイヤバイヤバイちょっと洒落にならないくらいヤバい……!)
 いくらなんでも“アレ”は無かった。恐らくは矢紗美のトラウマを刺激したであろう己の一言に、月彦は心底怯えた。今すぐにでも矢紗美の両手が首へと絡みついてきて、渾身の力で気道を圧迫されるかもしれないのだから。
「や、矢紗美……さん?」
 衣擦れの音。胸板の辺りに、矢紗美の体重を感じる。
「ひっ」
 次の瞬間、まるで死人の手かと思うほどに、冷え切った手が首へと絡んでくる。そのまま、きつく締め上げ――られはしなかった。
「紺崎クン……」
 矢紗美の声が近い。恐らくはアイマスクのすぐ向こう、殆ど唇が触れそうな距離にまで詰め寄られている。冷たい手が顎を這い上がり、頬へと添えられる。
「今、私がどんな顔してるか、想像できる?」
「え、と……怒って、る……顔……ですか?」
「見せてあげる」
 刹那、アイマスクが乱暴にはぎ取られる。突然の光に眩む視界の向こうに見える矢紗美の表情は――
「えっ……笑って……」
「嬉しい……紺崎クンって、私を喜ばせる天才よ? あそこまで追い詰められて、まだ私を煽れるなんて……もう驚きを通り越して尊敬しちゃう!」
 両目を爛々と輝かせながら、矢紗美は辛抱堪らないとばかりに唇を重ねてくる。
「んふっ、んっ……」
 これまで経験したことが無い程に、情熱的なキス。昂る胸の内を、全てぶつけてくるようなキスに、月彦はただただ圧倒される。
「はぁ、むっ……んっ……んく……んんっ……はぁぁ……勝負は、私の負け……んっ……チュッ……だって、私の方が先に、紺崎クンのが欲しくて欲しくて我慢出来なくなっちゃったんだもの」
 矢紗美は体をずらし、下着越しに恥蜜を塗りつけるように、ぐりぐりと腰を落としてくる。
「ね、頂戴? 紺崎クンの堅ぁくて大っきぃ麻薬チンポ。……ね、頂戴?」
 ぎゅう、と両手で巻き込むようにハグしながら、耳元に吐息を吹きかけ囁いてくる。渋る――というより呆気にとられている月彦に、さらに催促するように矢紗美は「頂戴?」を繰り返してくる。
「ちょ、頂戴も何も……俺は身動きが取れないわけで……」
「あ、そっか。……じゃあ、私が勝手に食べちゃう」
 拘束していることを、本当に忘れていた――そうとしか思えないような呟きを残して、矢紗美は腰を浮かすと、器用に体を折り曲げて下着を脱ぎ捨てる。ぴちゃりと、音を立てて床の上に落とされた下着に一瞬意識を奪われた瞬間――
「う、わっ――」
 剛直は、ドロドロに熱く滑った肉の間へと、飲み込まれていた。
「あッ……あぁぁーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーッ!!!!」
 剛直を根元まで飲み込みながら、矢紗美が嬌声を上げる。
「あぁぁぁ……イイぃ……紺崎クンの麻薬チンポ良いィ……あぁんっ……気持ち良すぎて、体に力入らなくなっちゃう……」
 言葉の通り、矢紗美はくてぇ、と脱力しきってしまう。そのくせ、剛直を包む媚肉だけは痛いほどに締め付け、舐めるように蠢いてくるのだから、月彦は堪らない。
「ちょっ……矢紗美さっ……俺、さっきまで散々焦らされて、結構ヤバくって……」
 これでは、いつ射精させられてもおかしくない。その際「早い」などと言われない様、月彦は予防線を張る――が。
「ダメ、まだ出しちゃ」
 ぜえはあ、肩で息をしながら矢紗美がゆっくりと体を擡げる。
「だ、ダメって言われても……」
「ダメって言ったらダメ。それより、早く突いて?」
「つ、突いてって言われても……だから、俺は全然動けないんですって!」
 月彦は試しに腰を浮かそうと試みる。が、角度のついた背もたれのせいで、ただでさえ弓なりに体を反らしているような体になっている。そこからさらに腰を持ち上げろと言われても、無理では無いにしろ難しい話だった。
「…………矢紗美さんがこの拘束を解いてくれたら、いくらでも言う通りに出来るんですけど」
 或いは、“今”ならば。矢紗美はあっさり拘束を解いてくれるのではないか――そんな淡い期待を込めて、月彦はさりげなく口にする。
「………………だーめ。そんなコトしたら、紺崎クン絶対雪乃の所に行っちゃうもの。私がいっぱい、いーーーっぱいマッサージして貯めてあげたドロドロの精液、全部雪乃に取られるなんて、絶対嫌」
「せ、先生の所になんて行きません! 第一、時間が! 待ち合わせ時間もとっくに過ぎてますから! 先生怒って帰っちゃってますって!」
「それでも、すぐ仲直りしちゃうんでしょ? どんだけ怒ってても、紺崎クンが心底エッチしたいーって迫れば、雪乃は応じてくれるんでしょ?」
「そん、な、コトは……くぁっ……」
「とにかく、だーめ、絶対、逃がさない」
 首に、キス。さながら、肉食獣が獲物ののど笛にかぶりつくかの様。矢紗美はさらに体を起こし、少しずつ腰を使い始める。
「く、ぁ……だ、だから……もう、ホントに限界――」
「ダメよ、紺崎クン。勝手にイッたりしたら、許さないんだから」
「あ、あれもダメこれもダメって……くはぁぁぁっ……」
 ぐりん、ぐりん――矢紗美に腰を回すように刺激され、月彦は忽ち追い詰められる。
「ンッ……ふぅ……びく、びくって、震えてる……ふふ、一生懸命我慢してるんだ? 可愛い……」
 ちゅっ――優しいキス。それとは裏腹に、腰使いは一層容赦のないものに変わる。ぎしぎしと下敷きになっている椅子が軋む程に、矢紗美は体ごと揺するように腰を前後させ、剛直を扱き上げてくる。
「む、無理っ……です、もう、ホントにヤバ……っっっ……」
 矢紗美のキスから逃れるように、月彦は“弱音”を吐く――が、すぐに矢紗美の手によって正面を向かされ、再度キス。
 次の瞬間、月彦の視界は、白く染まった。

 ――否、白く染まったのは、視界ではなく、恐らく思考そのものだった。
「ンンンンッッ!!!!!」
 唇を重ねたまま、矢紗美が噎ぶ。びく、びくとその体が震え、腰回りが痙攣するようにうねっていた。
 同時に、腰回りに暖かいものが溢れる感触。遠い昔に味わった、“おねしょ”の感覚にも近いそれの正体は、途方も無い量打ち出された精液そのものだった。
(やべ…………超気持ちいい…………)
 或いは本当にマッサージの効果はあったのかもしれない。凄まじい勢いで打ち出されていく白濁液は、その量と勢いに比例した快感と疲労を月彦へと刻みつけていく。
「ッッ……はッ…………うっ……やだっ……ちょっ…………こんなの、知らない…………アッ……!!」
 ぎりっ――後頭部の辺りに、爪を立てられる。その痛みなど気にならないほどの快楽。
「うっ………くぅぅ………スゴ、いぃ………どばどば出てッ……ンッ………やっ………私、もッ………」
 ぎゅうぅぅぅぅ!
 締め殺されるかと思うほどに、痛烈に抱きしめられ、それはいつになく長い射精が終わって尚、一分近く続いた。
「……ッッッ………………はぁっ…………はぁはぁはぁっ………………何、今の………すっごい量出なかった?」
 脱力。矢紗美の体重をいつになく重く感じながら、月彦もまたいつにない気怠さに呆然としていた。
「……ねえ、紺崎クン、気づいてる? いつも、全然萎えないのに……ほら、一回出しただけで」
 矢紗美の言わんとすることに、月彦は即座に気がついた。そう、僅かながら――萎えているのだ。さながら、強力すぎる砲弾を撃ち放った砲自身が壊れ、或いは損壊したかのように。
「いっぱい我慢した分、いっぱい出ちゃったってコトかしら。…………紺崎クンも、すっごく気持ち良かったでしょ?」
 月彦は逡巡し、渋々小さく頷いた。ふふ、と矢紗美が笑う。
「雪乃相手じゃ、こんなに気持ち良くしてもらえないんじゃない?」
 これには、頷かない。ふふと、また笑う声。
「まだ認めないんだ。私たち、相性ばっちりだってコト」
 気怠げに、体を起こす。本来ならば畏怖され萎縮されるべき青い制服が、たっぷりと男女の汗を吸って着崩れ、なんとも淫らな装いとなってしまっている。
「“早すぎ”」
 芝居がかった声で、矢紗美はさらに続ける。
「“早漏”」
 罵る言葉に、月彦は沸々とわき上がるものを感じる。例え、矢紗美がわざと――“そのために”言っているのだと解っていても、“それ”は止められない。
「あンッ……ほら、もうおっきくなった」
 もう一回シよ?――甘えるようにキスをねだってくる矢紗美に抵抗する術を、月彦は持たない。
(……だって、拘束されているから)
 だから、キスをねだられても防ぎようが無い。決して、矢紗美の掌の上で転がされているわけではない――そう己に言い聞かされながら、月彦はさらなる快楽に溺れていくのだった。



 


「あぁぁぁーーーーッ! イイッッ………良いィ………紺崎クンの極太麻薬チンポ最高っ………あっ、イクッ………またイッちゃう!」
 ぎし、ぎしと変形した椅子の軋む音を轟かせながら、矢紗美が腰を使い続ける。
「イクッ、イクッ………あンッ………イクッ………………………!」
 背を逸らし、矢紗美が達する。ぎち、ぎちと剛直を締め上げられ、月彦もまた歯を食いしばる。
「あっ……ッア………あぁぁ〜〜〜〜〜ッ!!」
 硬直、痙攣、そして脱力。くにゃりと体を重ねてきて、そのままちゅっ、ちゅっ、と甘えるようなキスをしてくるまでがワンセット。それがもう、十度は繰り返されただろうか。
「はぁはぁ………ダメ………これ、止まんない………イッてもイッてもすぐまたシたくなっちゃう………」
 呟きながら、矢紗美は早くも腰を前後し始める。そんな矢紗美を、月彦はあざ笑う。まるで、滑稽な生き物でも見るかのように。
「……それは、ただイくだけじゃ矢紗美さんが満足できてないからですよ」
「私が……満足出来てない?」
 怪訝そうな声に、月彦は頷く。
「矢紗美さんだって、本当は解ってるんじゃないですか?」
「…………何言ってるの。変な言いがかりつけて、拘束を解こうとしたって無駄よ?」
「あくまで言いがかりだと言い張るなら、別にそれでもいいですけど」
 月彦は苦笑する。
「ただ、“今のまま”じゃ、たとえ百回イッても、矢紗美さんは満足できないと思いますよ」
「紺崎クンが何を言おうと、だーめ。私は、私がシたいようにするって決めたの」
 矢紗美は体を起こし、ぐりぐりと腰を回し始める。
「ふふっ、ほぉら……紺崎クンだって“良い”んでしょ? さっきからずっとガチガチだもの」
「確かに、気持ちいいのは認めます」
「……今、雪乃は何をしてるかしら?」
 そして腰を動かしながら、矢紗美は意地の悪い笑みと共に呟く。
「待ち合わせの時間……九時だったかしら? 今はお昼過ぎだから、さすがに帰ってるかしら。それとも、案外待ってたりして?」
「罪悪感を煽ろうとしてるなら無駄です。俺は先生を裏切ってここに来たわけじゃありませんから」
「そう?」
 ぐりんと、矢紗美が腰を回す。
「“これ”って、立派な裏切りだと思うけど?」
「それは……」
「雪乃っていう歴とした彼女が居るのに、他の女にチンポガチガチにしてる時点で、彼氏失格よね?」
 矢紗美の言葉に言い返せず、月彦はただただ奥歯を噛み締める。気持ちが、押される。
「ンッ……いいわぁ……紺崎クンの困った顔、大好き」
 はあ、と矢紗美が熱っぽい息を吐く。腰の動きが、よりねちっこいものになる。
「私、本当は紺崎クンのことものすごく嫌いなのかもしれない。紺崎クンを苛めると楽しくて堪らないもの」
「それは残念です。……俺は、こんなことされても、矢紗美さんを好きだって気持ちは変わらないですよ」
「嘘。雪乃の方が好きなくせに」
 ぎりっ。胸板の上に置かれた矢紗美の手が、引っ掻くように爪を立ててくる。
「もう騙されないんだから」
「騙したワケ、じゃ……ッ………」
 まるで責めるかのように、ぎちぎちと剛直が圧迫され、そのまま上下に扱かれる。
「くぁぁ……」
「許さない。絶対、ンッ……許さなっ……ぁンッ………許さないんだからっ……」
 腰を使いながら、矢紗美が上体を倒してくる。
「はぁはぁ……雪乃に負けるなんて認めない……はぁはぁはぁ……」
 息がかかるほどの距離。矢紗美は喘ぐように言いながら、腰を回すことを止めない。
「や、矢紗美……さっ……くっ……」
 咄嗟に、矢紗美の尻を掴んで動きを抑制しようと仕掛けて――がちりと。両手の動きが手錠に阻まれる。
「ダメよ。言ったでしょ、勝手に射精するのは禁止」
 喘ぎながら、矢紗美は笑みを浮かべる。
「もし次、勝手に射精したら――」
「したら……?」
「………………………………雪乃より私の方が良いって、紺崎クンが認めたって解釈するから」
「矢紗美さん、それはちょっと卑怯――……くぁぁっ……」
 言ってることは“瞬きをしたらイエスと解釈する”と同じではないか――そんな抗議の言葉を唱える間もなく、矢紗美はさらに腰をくねらせてくる。
「はぁはぁ……ほら、早く出しちゃいなさいよ……私の方が“良い”って、チンポで認めるのよ」
「くっ……」
 決して、雪乃に対しての義理立てではない。雛森姉妹の――他人の月彦から見れば、無意味とすら思える――意地の張り合いに巻き込まれてまで、雪乃を庇う義理はない。義理はない――筈だが、しかし仮にも体を重ねた相手。そして、厄介な性格を差し引いて尚惹きつけられるわがままボディの魅力をあっさりと否定することを体が拒否しているかのように、月彦は超人的な忍耐力で矢紗美の責めに耐え続ける。
「はぁ……はぁっ……ほらっ、早くっ…………早くぅっ…………はぁはぁはぁ……」
 やがて、責める矢紗美のほうが腰砕けになってくる。得意げであった表情にも弱気が走り、眉の角度が八へと近づきつつある。遠からず、矢紗美にも限界が訪れる――そう思った瞬間、僅かに気が緩んだ。
「お願い……イッて………………」
 殆ど懇願するような声で不意に呟かれた声は、恐らくは発した矢紗美自身考えもしなかった程に月彦の心を打った。さながら、堅牢な鎧の隙間を細く鋭い針が刺し貫くような一撃は、縦横無尽に亀裂の走ったダムの壁を破壊するには十分な威力だった。
「あッ……え、ちょっ………あァーーーーーーーーーーーーーーーーッ!!!!」
 背が浮き、矢紗美の体ごと持ち上げながらの射精。突然のことに、眼前に迫った矢紗美の目が白黒するのが、月彦にも解った。
「やッ………いきなっ…………ンンッ……だめ、イクッ…………〜〜〜〜〜〜〜〜〜ッッッッ!」
 矢紗美の方も絶頂を堪えていたのだろう。喜悦の声を上げ身を震わせる様を見るに、それまでの十数度とは比較にならない快感の波に翻弄されているのは明らかだった。
「ダメっ……ダメッ……イクッ……またイクッ……あンっ……!」
 びくん、びくんと腰を跳ねさせながら、矢紗美は何度も声を上げる。その都度ぎゅうぎゅうと剛直を締め上げられ、殆ど搾り取られるような形で、月彦もまた射精を繰り返す。
「あはァァ…………ふぁぁ……………………」
 そして、脱力。矢紗美の体重を体の前面いっぱいに感じながら、月彦もまた脱力し、息を整える。
 そんな月彦の体を、不意に矢紗美が抱きしめてくる。――否、しがみつくと言ってもいい。
「……私の勝ち」
 さらに一呼吸おいて、もう一度。
「私の勝ち」
 矢紗美自身、噛み締めているかのように呟く。
「…………矢紗美さん、最後の一言は卑怯ですよ。いくらなんでもアレは狡いです」
「最後の一言?」
 僅かに体を持ち上げ、覗き込んでくる矢紗美の目は惚けているわけではなく、心底心当たりがないということを物語っていた。
 やむなく、月彦は小さくため息をつく。
「………………そろそろ、“気が済んだ”んじゃないですか?」
 そして、諭すように言った。
「いい加減手とかいろんな所が痛くなってきましたし、これを解いて欲しいんですけど」
 矢紗美からの返事は無い。ぷいと顔を背け、そのまま胸板に耳を当てるように体を重ねたまま、聞こえないフリを続けている。
「矢紗美さんだって、まさか本当に監禁するつもりだったわけじゃないですよね? 先生とのデートも潰したし、もういいんじゃないですか?」
 矢紗美は動かない。やむなく、月彦は“とっておき”を口にする。
「………………矢紗美さんと“普通のエッチ”がシたいんですけど、ダメですか?」
 矢紗美が顔を上げ、チラ見してくる。やれやれという気持ちを抑えながら、月彦は続きの言葉を口にする。
「こんな一方的に責められるんじゃなくって、矢紗美さんのおっぱいに触ったりお尻に触ったり、キスしたり髪を撫でたりいろいろしたいんですけど、ダメですか?」
 矢紗美はじーっと、猫のような目で見つめてくる。さながら、初めて接する人間に餌をちらつかされ、疑いつつも誘惑を感じている野良猫のように。
「………………解いても、逃げない?」
「逃げません、約束します」
「…………………………………………。」
 矢紗美が沈黙した時間は、たっぷり三分はあった。しかし結局は誘惑が勝ったらしく、渋々ながらも月彦の拘束は解かれた。
「ありがとうございます、矢紗美さん」
 体を起こし、軽く解すように腕や足を回す。そうしている間にも、矢紗美は焦れるように足をすり合わせながら「早くベッドに」という目で見上げてくる。そういう目で見られていることが解っているからこそ、月彦はあえて焦らすようにゆっくりとした動作で体を解す。
「さて、と。それじゃあ矢紗美さん、早速向こうを向いてもらえますか?」
「えっ……ここで、するの?」
 食卓の方を指し示した月彦に、矢紗美が意外そうに声を上げる。が、別に不満が在るわけではないのか、さしたる抵抗も無く背を見せ、そのまま食卓に手をつく。
 どうやらそのままバックで――と読んだらしい。
(…………そんなわけないじゃないですか)
 疑いもなく背を見せる矢紗美を微笑ましく見ながら、月彦は床の上に転がっていた手錠を音もなく拾い、矢紗美に接近する。
「すみません、ちょっと手を」
「えっ……手……?」
 戸惑う矢紗美の手を強引に引き、後ろ手に手錠で拘束する。そう、丁度先ほど自分がそうされたように。
「えっ、えっ……?」
「すみません、矢紗美さん。“普通にエッチしたい”っていうのは、嘘です」
「ちょっ……何言って――」
「騙してすみません。でも、矢紗美さんもいっぱい嘘ついたからおあいこですよね。でも安心してください。“エッチしたい”っていうのは本当ですから」
 このまま雪乃の元へ行ったりはしない――月彦は言外にそう臭わせる。
「矢紗美さんのことは好きですし、今回みたいなことをされるのも自業自得だとは解ってるんですけど…………正直、足で踏みつけられるのは結構痛かったし、屈辱的でした。だから、その借りだけは返させてもらいますね」


「ンぁっ、ひぃっ、あぁっ、嫌っ……ぁああっ!!!」
 リビングに響くのは、矢紗美の悲鳴。その合間に入る手拍子にも似た音。
「嫌じゃないですよね? 矢紗美さんの中、すっごいうねって、吸い付いてきてますよ?」
 後ろ手に拘束された矢紗美を食卓へと押し倒し、さらにその両足を食卓の足へとそれぞれ拘束し、強引に開かせた状態で、月彦は容赦なく腰をうちつける。青の制服はあえて脱がさず、スカートのみまくし上げ、白い尻だけを露出させている。
「……なかなかいい眺めですよ、矢紗美さん」
 まるで、企画もののAVのような光景。さながら、犯罪者が婦警を返り討ちにし、強姦しているような――そんな錯覚が、月彦にある種の興奮を呼び起こす。
「うるっ、さッ……あんっ!」
 もちろん月彦は矢紗美の言葉になど耳を貸さず、しっかりと腰を掴んだまま、まるでラヴドールでも抱いているかのような容赦の無い動きで、矢紗美を蹂躙する。
「嘘っ、つきぃっ……もぉあったま来た! 絶対許さなっ……ンッ……あぁッ!」
「嘘つきに嘘つきって言われるのは心外です。本当は、矢紗美さんがしたみたいに、顔を踏みつけても良かったんですよ?」
 しかし、さすがにそれはどうだろうと思い直して、こういう形の“お仕置き”にしたというのに、怒られるのは心外だと、月彦は一層腰の動きを早めていく。
「あッ、ァッ、ァッ! やっ、早っっあっ、アッ、アッ!」
 矢紗美の悲鳴じみた喘ぎが、なんとも耳に心地よい。或いは、先ほどまでの矢紗美もそうだったのだろうか。
(……睨まれて興奮する、っていうのも、正直解らなくはない)
 顔の見えにくい後背位ではなく、正常位にすべきだったかもしれない。そんなことを考えながら、月彦は突く角度を変え、時には腰をくねらせ、矢紗美を喘がせていく。
「随分“良さそう”ですね。矢紗美さん、ひょっとしてこんな風に一方的に責められるの好きですか?」
「くっ……ぅっ……ひぃ、う……こんな、の……全然っ……ぁあッ! き、気持ち良く、なんて……あぁぁぁあっ!!」
「へえ?」
 突く度に喘ぎながら。無様に痙攣までさせながら。溢れた蜜が太ももどころか足首まで伝って、リビングの床に蜜だまりまで出来ているというのに。
「嘘つきにはお仕置きです」
 月彦は不意に右手を振り上げ、矢紗美の白い尻肉めがけて打ち下ろす。
「ひぃん!」
 尻を震わせて悲鳴を上げる矢紗美に、さらに二度、三度と手を打ち下ろす。
「うわ、すっごい締まった。…………矢紗美さんって、ホント変態ですね」
「ぅぅっ…………許さない…………絶対、許さない……………………」
 ゾクゾクゾクゥ――!
 もはや呪詛じみた矢紗美の呟きを聞くや、月彦は背筋に稲妻のような快楽が走るのを感じた。
(やべ……なんだこれ……超楽しい……)
 Mっ気のある真央を嬲るのとはわけがちがう。気が強くプライドも高い矢紗美が相手だからこそ感じる興奮なのだろうか。
(……って、いかんいかん! それじゃあ矢紗美さんと同じじゃないか!)
 首を振って、興奮を冷まそうと試みる。が、そんな月彦の目にあるものが映る。
 そう、それは――赤い皮の、鎖つきの首輪だった。
 ゾクッ――それを目にした瞬間、月彦の中にとてつもない発想が快感と共に浮かぶ。
「…………じゃあ、もっと許せなくしてあげます」
 ダメだ、それは人として最後の一線を越える行為だ――そんな警鐘を鳴らす理性の声を無視して、月彦は徐に首輪を手に取る。
 そして。
「えっ……やだっ……ちょっ……止めて!」
 背を向けているものの、首に触れたものの感触で自分が何をされるか解ったのだろう。矢紗美は、尋常ではないほどに暴れ出した。
「嫌ッ! それだけは嫌っ!」
「矢紗美さん、それは通りませんよ。もともと矢紗美さんが俺につけようと用意したものなんですから。…………人につけるのは良くて、自分がつけられるのは嫌だなんて、そんな理屈は通りませんよね?」
 髪を巻き込まないように注意しながら、月彦は矢紗美の細い首に首輪を巻き、金具でしっかりと固定する。もちろん、首が絞まらぬよう間に指が数本入るほどの余裕は空けて。
(……う、わ……)
 拘束され、背後から突かれるままになっている婦警。さらに長い髪の合間から見える赤い首輪。あまりの光景に興奮が極まり、剛直が肥大するのを感じる。
(……ダメだ、“これ”に病みつきになっちゃ……)
 人に首輪をつけ、支配する興奮。それは天上の蜜のように甘く、堕落の危険を孕んだものだ。この快楽に興じてはいけない――解ってはいるのに、月彦は興奮を抑えきれない。
「やっ……あっ、あぁああ!!!」
 矢紗美の悲鳴によって我に返った時にはもう、欲望のままに腰をふるっていた。あまりの手加減の無さに、突くたびに食卓が移動し、終いには食器棚へと張り付いてしまう。
「あッ、アッ、あァッ……イヤッ、嫌ッ……嫌ぁぁあああ!!」
 かぶりを振って嫌がる矢紗美を、容赦なく犯す。時折鎖を引いて息を詰まらせ、喘ぎを途絶えさせさえしながら、突き上げる。最高潮に達した興奮が、射精を堪えられる時間は、決して長くは無かった。
「あっ、ア、あァァーーーーーーーーーーーーーーッ!!!!!」
 矢紗美が声を上げた瞬間、月彦もまた肉欲の限りをドロドロの粘液に変えて撃ち放っていた。


 

 
「んむっ……んっ……ちゅっ……ぺろっ、ちゅぷっ……」
 食卓脇の椅子に腰を下ろし、剛直の先端から伝わってくるむず痒い快楽に法悦の息を吐きながら、月彦は眼下の光景に酔いしれていた。
「凄く良いですよ、矢紗美さん。やっぱり、この首輪は俺なんかより、矢紗美さんみたいに気が強くてプライドの高い女性のほうが似合いますね」
 キッと、矢紗美が目尻に涙の浮かんだ目で睨み上げてくる。あぁっ――矢紗美の視線を受けて、思わずそんな声を上げてしまう。
(普通に口でしてもらうより、何倍も……ッ……)
 気を抜けば、矢紗美のひと睨みだけで射精してしまいそうだった。慌てて気を落ち着かせながら、月彦は改めて眼下に跪く矢紗美の姿へと目をやる。既に両足の拘束は解いているが、後ろ手はそのままに、その代わり制服のスカートだけは脱がした。折角の制服は極力脱がしたくはなかったが、その方が“より無様に見える”と判断したからだ。
 事実、首輪をつけられ、制服のスカートと下着だけを脱がされた状態で跪く矢紗美の姿はこれ以上無く月彦の興奮を煽った。さらに言うなら、強姦の証とでも言うべき白濁汁が秘部から漏れ出し、太ももから膝を伝って床を汚している様も非常に良いスパイスと言える。
「ほら、ちゃんと言う通りにしないと、首輪も拘束も解いてあげませんよ?」
 矢紗美の頭を押さえ、剛直を口に含ませる。そのまま噛むコトも出来るだろうが、矢紗美は素直に舌を這わせてくる。だからこそ、月彦も必要以上の暴力は振るわない。
「んむっ、んくっ……ちゅぷっ、んふっ、んふっ……」
 そう、素直にしゃぶりはするが、しかし心までは屈したわけではない。そう示すかのように、矢紗美は隙あらば月彦を睨み付けることを止めない。眉尻を跳ね上げ、涙の浮かんだ目で睨みながら舌を這わせてくる。
 それが、堪らないほどに心地良い。
「ヤバッ……矢紗美さんっ……もう…………飲んで下さい」
 矢紗美の頭を押さえつけ、深く咥えさせる。先端に喉が当たるのを感じながら、月彦は欲望のままに白濁汁を撃ち放つ。
「ンンンーーーーーーーーーーーーーッ!!!!!」
 矢紗美が噎びながら、喉を鳴らして白濁汁を飲む。が、不意に体を捻り、剛直から唇を離した。
「げほっ、けほっ……かはっ……」
 咳を繰り返すその口から、月彦自身呆れるほどの白濁液がこぼれ落ちる。が、月彦は容赦をしない。
「ダメじゃないですか、ちゃんと飲んでくれないと」
「だっ……待っ……多すぎッ…………やっ……!」
 前髪を掴み、まだ射精の続いている剛直の先端を矢紗美の顔へと擦りつける。そのまま剛直を上下し、溢れる白濁汁をさながら化粧水か何かのように矢紗美の顔へと塗りつけていく。
「うううううぅ……!」
 矢紗美が、屈辱に耐えるように下唇を噛み締める。その様がさらなる興奮を呼び、びゅるりと最後の一射が盛大に髪へとふりかかる。見れば、青い制服にも所々べっとりと白濁色の粘液が張り付いている。そんな様に、ムラムラと剛直がいきり立つ。
「矢紗美さん、立ってください」
「待っ……けほっ……先に、これ外っ……」
「早く!」
 未だ噎せている矢紗美を、鎖を引いて無理矢理に立たせる。そのまま食卓に座らせるようにして、今度は仰向けに寝かせる。
「やっ……口でしたら外すって約束――」
「ちゃんと飲めなかったから、その約束は無しです」
 そんな、と絶句する矢紗美の足を開かせ、萎え知らずの剛直をねじ込む。
「やっ、あああああッ!!!」
 挿入しただけで、矢紗美は腰を浮かせ、びくん、びくんと痙攣を繰り返す。おやおやと、月彦は口元を歪める。
「口でシながら矢紗美さんも興奮してたんですか? 全然“嫌ぁ”じゃないですよね?」
 たちまち、矢紗美がキッと睨み付けてくる。
「もう嫌っ……こんな屈辱、耐えられない……こんなの、死んだ方がマシよ!」
 いっそ殺せとでも言うかのような視線。月彦からの返答は、もちろん――。
「あぁッあんっ! やっ……くっ…………ぅぅ!!」
 矢紗美は唇を噛み、喘ぎを押し殺しながら、それでも視線だけは切らすまいと睨み付けてくる。
 それが、剛直をますます堅く、猛らせる。
「矢紗美さん……最高です。……今なら、自信をもって言えます。…………先生より、矢紗美さんの方が“良い”です」
「……っ!」
 一瞬、ほんの一瞬だけ、矢紗美の目が喜悦に緩んだ。しかし、すぐに手綱を締め直すように睨み返してくる。
「嘘」
「嘘じゃありません。……わかりませんか? 俺が今、完全に矢紗美さんに夢中になってるってコト」
 腰を使いながら、月彦はもどかしげに手を這わせ、制服の前をはだけさせる。ブラをずらし、妹には及ばないまでも十分に巨乳だと胸を張れるサイズの乳肉を露出させ、こね回す。
「い、今更っ……そんなっ…………」
 ニヤけそうになる顔を、無理矢理噛みつぶして、それでも尚睨もうとしている矢紗美がもう可愛くすら見える。
「絶対、許さないんだから」
 そしてやっとのことで“ニヤけ”を消し去り、矢紗美は怒りを前面に押し出し、再度睨み付けてくる。
 そんな矢紗美の“奧”を、月彦は優しく突き上げる。
「ンぁあッ! うっ……あんっ……許さないっ……絶対、許さないっっ……はぁはぁ……」
 ヒクヒクッ。
 キュッ、キュッ――言葉とは裏腹に、甘えるように絡みついてくる肉襞に苦笑しそうになりながらも、月彦はさらに強く、時には優しく、矢紗美を攻める。
「嫌ッ……イヤッ……こんなの、全然気持ち良くなんかない…………はぁはぁ……気持ちよくなんか……ッ……」
「俺は凄く気持ちいいですよ。……だから」
 息を荒げながら、月彦もまたペースを上げる。途端、まるで思い出したように矢紗美が暴れ出した。
「ま、待って……やっ……な、中は、止めてぇ!」
 何を今更と、月彦は噴き出しそうになる。今まで散々ナマで、そして中出しをしたのに。今回に限ってダメだという理屈があるだろうかと。
「嫌ッ、嫌っ、膣内だけは絶対にイヤァッ!」
 或いは、矢紗美は既にシチュエーションを楽しんでいるのだろうか。狂ったように暴れ出す矢紗美を押さえつけ、月彦は容赦なく剛直を根元まで挿入する。
「ダメです。矢紗美さんには、俺の子供を孕んでもらいます」
 ならばと。月彦もまた悪のりをしながら、先端を子宮口へと押しつける。
「嫌ァアアアアアアアアアアアアアッ!!!」
 恐るべきは矢紗美の演技力だ。射精を受け、喉が裂けるような悲鳴を上げながら、ほろりと目尻から涙までこぼす。そのくせ、体は絶頂に歓び震え、もっともっとと白濁汁をねだるように吸い付いてくる。
「う、う……い、やぁ……紺崎クンの、どくどくってぇ……入って、来てるぅ……」
 絶対許さない――矢紗美は呟く。それは中出しのことを言っているのか、首輪の件を言っているのか、それとも矢紗美の前で雪乃を選んだことを言っているのか。
「やっ……動かなっ……ンンッ!」
「でも、“気持ち良くなんかない”んですよね?」
 返事の代わりに、矢紗美は睨み付けてくる。が、その光も弱い。折れかけているのだ。
「気持ちいいわけ……ない、でしょ……こんな、レイプ、され、て……無理矢理、で……ナカに、まで……っ……」
 口上は無視して、両手を乳肉へと伸ばす。こね回しながら、腰を使う。
「や、めっ…………何され、ても……気持ち良く、なんか…………はぁはぁ…………気持ち良くなんか、ない…………」
 まるで、自分に暗示をかけているような、そんな呟き。睨む目が、徐々に媚びるような目に。焦れったげに腰を自らくねらせながら。矢紗美は甘い声を上げ続ける。
「気持ちよくなんか……はぁはぁ……き、きもち………………………………いい…………はぁはぁはぁ…………いいっ…………いいぃぃ……!」
「……気持ちいいんですか?」
 もう認めちゃうんですか?――そんな呟きを込めて、こつんと。矢紗美の奧を小突く。
「あぁん! 気持ちいいっ……! 紺崎クンの極太麻薬チンポ気持ちいいのぉっ」
 一度折れれば、あとは下り坂を転げ落ちるように早かった。
「ゼリーみたいに濃い精液ぐりぐりって塗りつけられるの、たまんないのぉ……拘束レイプされてるのに、無理矢理イかされるくらい気持ちいいのぉ………!」
「じゃあ、許してくれますか?」
 矢紗美はたちまち、ムッとしたように黙り込む。
「絶、対、許さない」
 そしてすぐに、付け加えた。
「でも、手を自由にしてくれたら、条件付きで全部許してあげる」
「………………………自由にしても、復讐とか仕返しとかしませんか?」
「自分の胸に訊いてみたら?」
「………………………自由にしないほうが良さそうですね」
 苦笑混じりに言いながらも、月彦は先ほど矢紗美から奪い取った手錠の鍵で、矢紗美の両手を解放する。たちまち、ぎゅうっ、と抱きしめられた。
「それで、許す条件っていうのは」
「ごめんなさいって百万回言ったら、許してあげる」
「百万回、ですか」
 一日10回言ったとして、一体何日かかるだろうか――そんな計算を月彦が終えるよりも早く。
「キスしてくれたら、1000回で許してあげる」
 間髪置かずに、月彦は唇を重ねる。
「もう一回。そしたら100回」
 唇を重ねる。今度は先ほどよりも長く。軽く舌で唇を舐めてから、放す。
「もっと」
 拗ねるような声で催促され、月彦は苦笑まじりに唇を重ねる。
「んくっ、ちゅっ、んんっ………んんっ、んふっ、んっ………」
れろり、れろりと舌を絡め合いながら、長く、長くキスをする。互いに背中へと手を回し、腰をすり合わせるように動かし、やがて喘ぎにキスが中断されるようになってから。
「……何か言うことは?」
「ごめんなさい」
 これ以上ないというほど真剣に、月彦は謝った。
 ――が、矢紗美は怒り顔のまま。明らかに“そうじゃない”と顔に滲ませている。慌てて、月彦は言い直した。
「ベッドに行きましょうか」
「よし、許してあげる」
 それはもう、零れるような眩しい笑顔だった。


 

 

 

 

 


 ……。
 …………。
 ………………。
 暗い室内に、斜めに光の帯が走っている。一体いつから目を開けていたのか、月彦は己が意識は覚醒していても思考するほどには目覚めていなかったのだということを、遅れて理解した。
(日曜日の朝……か)
 薄ぼんやりと考える。土曜日の朝、矢紗美に拘束され、散々に嬲られやっと拘束を外してもらえたのが昼過ぎくらいだっただろうか。少なくとも“仲直り”をして寝室へと移動した時にはもう日は暮れていた。
「………………。」
 ベッドの中――両腕の中に、矢紗美の体温を感じる。まだ目覚めていないのか、心地良さそうに寝息を立てている。掛け布団を持ち上げて、その寝顔を拝見しようと覗き込んだ瞬間、矢紗美もまたぱちりと目を開けた。
「……ん、おはよ」
 気怠そうに言って、矢紗美は体を揺するような動きでより密着してくる。互いに裸、否が応にも矢紗美の柔らかい体を意識させられる。
「あ、もう大っきくなった」
 意地の悪い声で言われ、月彦は苦笑しか返せない。
「んっふふー、じゃあ寝起きの一発頂いちゃおうかなー?」
 剛直が握られ、擦るように上下される。
「……矢紗美さん、元気ですね。俺はもうへとへとですよ」
 昨夜だけで、一体何時間セックスに興じたか解らない。ましてや、射精回数は間違いなく二桁を越える。
「それは私の台詞。あんなにシたのに、もうギンギンになってるなんて信じられない」
「いやそれは矢紗美さんが――」
 月彦の言葉は、盛大な腹の音にかき消された。途端、矢紗美が噴き出すように笑う。
「私もお腹ぺこぺこ。……じゃあ、続きはご飯食べて――ううん、その前にまずお風呂入ろっか」
 もちろん一緒に――上機嫌極まりない矢紗美の笑顔は、そう言外に次げていた。

 意外にも、というべきか。矢紗美と一緒の入浴は、本番無しの至って健全なものだった。代わりにやれ髪を洗ってだの、体をマッサージしろだのと、何かと月彦はこき使われることになった。
「ダメよ? 本番はダメ。ゆっくりお風呂に入ってリフレッシュして、きちんとご飯を食べて、一休みしてから」
 胸を触るのはOK。キスもOK。但しそれ以上の行為に及ぼうとすると、すかさず手の甲を抓り上げられ、ストップをかけられた。
 そんなこんなで、ゆるい愛撫だけがOKのなんとももどかしい入浴が小一時間続き、何故か用意されていた部屋着に着替えていると
「朝ご飯作ってくるから、紺崎クンはゆっくりしてて」
 なんと裸エプロンならぬ下着エプロン姿になった矢紗美が踊るようなステップで一足先に台所へと消えていった。どうやら風呂に行く前に暖房をつけておいたらしく、なるほどその格好でも寒くはないらしい。
(…………今日の所は、矢紗美さんの言葉に甘えよう)
 入浴によって残されていた体力も限りなく消耗した月彦は矢紗美の言葉の通りゆっくりしようと再び寝室へと戻った。そのままこてんと横になろうとして、思っていた以上にベッドシーツが汚れていることに――汚したのは自分たちだが――気がついて、まずはきちんとベッドメイクをやり直すことから始めねばならなかった。
(…………慣れてしまっているのが、なんだか悲しい)
 清潔なシーツを皺一つなく張り終え、月彦はようやくのことで腰を落ち着け、そのままこてんと横になる。
(……………………結局の所、拗ねてただけ…………なのかなぁ)
 うとうとと微睡みながら。キッチンから漂ってくる芳香に腹の音を響かせながら、月彦は思う。
 そう、結局矢紗美には本気で監禁する気などはなく、自分の目の前で雪乃を選んだ紺崎月彦に一矢報いてやりたいという思いが高じて蛮行に及んでしまっただけなのだろうと。
(そうだよな。いくらなんでも人一人監禁するとか、しかも人格矯正するとか非現実的過ぎる)
 精一杯あやしてやれば良かっただけなのだ。現に、“仲直り”をした後の矢紗美は実に素直であり、そういったギャップも相まって昨夜はついつい頑張りすぎてしまったというのもある。
(…………俺としたことが、結構マジでビビっちまった。さぞかし矢紗美さんも楽しかったろうな)
 “アレ”が演技で出来るのだから女は怖いと思う。それとも、矢紗美だけが特異なのだろうか。
(……そういや、前に教室でシた時も――)
 或いは矢紗美は婦警ではなく、女優こそ天職だったのではないだろうか。そんなことを考えながらまったりしていた月彦の目が、不意に寝室の隅を捉える。
「ん……?」
 そこにあったのは、山積みにされた本。すぐ隣には見慣れない三段ほどの小さな本棚もあり、少なくとも前回寝室にお邪魔した際には本もその本棚も無かったはずだ。月彦は腰を上げ、薄暗い室内でも本の背表紙が見える距離にまで接近して――硬直した。
「なんだ……“洗脳と心理学”?」
 真っ先に飛び込んできたのは、なんとも不吉なタイトルの本だった。他にも“ぼくとご主人様の58ヶ月”だの“人体からのサイン〜極限状況編〜”だの、ドキュメンタリーなんだか小説なんだか解らないものまで、山と積まれているのだ。ただ、それらの背表紙の殆どは“洗脳”か“監禁”のどちらか或いはそれらを連想させるような単語が並んでいて、矢紗美が一体どのような目的でこれらの書物を収集したのかは明らかだった。
 そして本棚へと目をやれば、どう見ても市販のものではない、どこかの倉庫から引っ張り出してきたような色あせたファイルがずらりと並んでいる。どのファイルの背表紙にも意味深に“七三一”とだけ銘打たれていて、月彦はもう中身を確認する気も起きなかった。
「こっちのこれは……不動産情報誌……?」
 そんな中、異彩を放っていた雑誌を手に取り、月彦はさらに戦慄した。それは人里離れた別荘ばかりを特集したものであり、いくつかのページには付箋までつけられていた。その中の一つ、一番近い民家まで車で数時間かかり、さらに地下室つきの物件の所には赤ペンで印までつけられていた。
「が……ガチだ…………ガチでヤバかったんだ…………」
 拗ねてただけなどとんでもない。一歩間違えば、これらの本に書かれていることが真実なのか己の肉体で検証することになっていたのだ。寝室の暖房はついてはいなかったが、月彦の全身を襲う震えは決して寒さによるものではなかった。



「あっ……」
 と、矢紗美が思い出したような声を上げたのは、朝食が終わりに近づいた頃だった。
「ゴメンね、紺崎クン。ちょっと急ぎの仕事思い出しちゃったから、ご飯の片付けだけお願いしてもいいかしら。すぐ済ませてくるから」
「はい……それは、大丈夫ですけど……」
 矢紗美は大急ぎで四分の一ほど残っていたトーストを口の中に入れるや、寝室の方へと入っていってしまう。続いてがさごそがたんごとんと物音が響いてくる。矢紗美が何をしているのか、月彦にはなんとなく察しがついた。故に、月彦は何も知らないフリをしながら食事を続ける。
 程なく月彦も食事を終え、流しへと運んだ食器を食器乾燥機へと並べたところで、寝室のドアが開いた。
「おまたせ。後片付けさせちゃってホントごめんね」
 ついでに着替えたのだろう。胸元がV字に開いた、ブルーのワンピース型のセーターを着た矢紗美が手刀を切りながら顔を覘かせていた。或いはそれは元からワンピース型なのではなく、サイズ違いのものをそういう用途にしているだけなのかもしれない。昨夜、あれほどシたばっかりだというのに。付け根近くまで見えた矢紗美の生足が、月彦には眩しくて仕方なく、思わず生唾すら飲んでしまう。
 くすりと、矢紗美が口元だけで笑う。月彦の視線の先がどこに注がれていたのか気づいたのだろう。
「……どっちでする?」
 甘えるような声。寝室か、リビングか、或いは炬燵のある居間という選択肢もある。
(…………本当なら、今すぐ先生の所に飛んでいってフライング土下座したほうがいいんだろうけど)
 悲しいほどに、矢紗美に背を向ける気が起きない。もちろんここで回れ右をして元の木阿弥になるのが怖いというわけでもない。
「……じゃあ、寝室で」
 月彦の答えを聞くや、矢紗美は音もなく後ずさりし、ドアの隙間の闇の向こうへと消える。当然月彦も追い、そしてちらりと横目で部屋の隅を見やる。やはり、と思ったのは、先ほどまで間違いなくそこにあった筈のものが跡形もなく消え失せているからだ。
「あれ、矢紗美さん?」
 後ろ手にドアを閉め、視線を前へと戻して気がつく。そこに居るはずの矢紗美の姿が無いのだ。朝、目覚めた時には隙間があったカーテンはしっかりと閉められ、その下方にだけ光を漏らしているに過ぎない。闇に強い月彦の目をもってしてもすぐには矢紗美の姿が見つけられず、照明のスイッチへと伸ばしかけた手が、“何者か”に掴まれた。
「えいっ」
 子供がふざけているような声と共に、月彦の視界は闇の中で一回転する。悲鳴を上げる間もなく、月彦は背中からベッドの上へと投げ飛ばされていた。そして、すかさずその上に――さながら、猫科の獣がじゃれて飛びついてくるように――矢紗美が飛び乗ってくる。
「びっくりした?」 
「か、かなり……舌を噛みそうになっちゃいましたよ」
 てっきり、矢紗美は一足先にベッドに入っているものだとばかり思っていた。そういう意味では、虚を突かれたと言っても差し支えない。
「こうでもしないと、紺崎クンに押し倒されちゃったら、そのまま体格差でいいようにされちゃうから」
 矢紗美が寄り添うように体を重ねてきて、そのまま足を絡めてくる。月彦もまた応じるように、矢紗美の細い腰へと手を回す。
「あンッ」
 甘い声を上げながら、矢紗美がますます体を寄せてくる。否、それはもう押しつけてくると言ってもさしつかえない。セーターの下はノーブラなのだろう。二つの、男を狂わせる柔らかな感触に、月彦は早くも理性という名のヒューズが飛びそうになる。
「んふふー…………雪乃も、きっとこうしたかったんだろうなー?」
「…………ここで先生の名を出しますか」
「うん。だって、その方が興奮するもの」
 矢紗美は悪びれもせず笑顔で続ける。
「“略奪してる”って実感できるから。ううん、“寝取ってる”って言い換えたほうが正確かしら」
 “その方が興奮する”というのは本音なのだろう。実際、矢紗美は息を荒げながら、焦れったそうな手つきで部屋着のトレーナーの下へと手を差し入れてくる。
「それに、紺崎クンだって……セックスの最中に雪乃の名前出しても、そんなに嫌がらないみたいだし」
「そ、それは……っ……」
「嫌なの?」
 指先で乳首を転がすように弄ばれながらの詰問。答えに窮し、月彦は黙ることしか出来ない。
「本当に紺崎クンが雪乃一筋なら、どんなことされたって我慢出来ると思うんだけどなー?」
「そ……その手には乗りませんよ、矢紗美さん。そうやって誘導して、一方的に攻める気なんでしょう?」
 雪乃が好きなら耐えられるはず――そう言って精神的優位に立ち、防戦一方に追い込む気だろうと。しかし、それが解っていても、月彦は矢紗美の下から抜け出すことが出来ない。
(ちょ、これっ……寝返り打てない!?)
 最初はただの甘えだとばかり思っていた“足の絡み”のせいで、月彦は寝返りを打ち矢紗美の上になることが出来ない。月彦のそんな“藻掻き”に気づいたのか、矢紗美がぺろりと唇を舐める。
「だーめ、まずはお姉さんに任せなさい。………………いーっぱい気持ち良くしてあげる」
 実のところ、両手は自由なのだから矢紗美を引きはがそうと思えば不可能ではない。が、その必要を感じず、月彦はあえて矢紗美の好きにやらせることにした。



 キス混じりの愛撫が一時間は続いただろうか。いい加減我慢出来なくなって上を取ろうとする度に、巧みに矢紗美に制され、ギンギンにそそり立った剛直を焦らすように撫でられる。
「うふふ……ビクッ、ビクッって震えてる。……ねぇ、紺崎クン……挿れたい?」
「そりゃもう」
 即答だった。月彦の答えに満足するように、矢紗美が身もだえする。
「“雪乃より好き”って言ってくれたら、挿れさせてあげる」
「矢紗美さん、そういうのは――」
 止めにしませんか?――そう続けることが出来なかった。唇が奪われ、ぬろり、ぬろりと舌を絡ませられる。
「……言わなきゃ、挿れさせてあげない」
 はあ、と湿った息を吐きかけながら、矢紗美はさらに続ける。
「紺崎クンなら解るでしょ? “いつもの”をシたいの。ね?」
 いつもの――矢紗美の言葉に、月彦はしばし考える。記憶を巡って、すぐに心当たりへとたどり着く。
(つまり……“シチュエーションプレイ”か)
 以前、教室で“婚約者が居る女教師と生徒プレイ”をしたように。本当は雪乃が一番でも構わないから、“プレイ中”だけは役割を演じろと言いたいのか。
 月彦の逡巡は、短かった。その終わり際には、再度矢紗美の背へと手を回し、さらに後頭部を、髪を撫でるように優しく撫でつけていた。
「矢紗美さん……好きです」
 先生より――矢紗美の要望通り、付け加える。自分でも思いの外演技が巧くいったのは、或いは演技ではなかったかもしれない。
「……ンッ……本当……?」
 自分からシチュエーションプレイを望んでおきながら、“本当?”もなにもないものだと苦笑しそうになるのを噛みつぶして、今度は自分から唇を重ねる。
「本当です。矢紗美さんの方が……先生より、魅力的です」
「ンッ……ァ……っ……っふっ……ンンッ……!」
 ゾクゾクゾクッ――矢紗美が身震いしているのが、密着している肌を通して伝わってくる。
(そんなに……“良い”んですか)
 思わずそう問いかけそうになる。“雪乃より”という言葉が、それほどまでに興奮を呼ぶのかと。
「やっ……“これ”……思ってたより………………っ……凄っ……キュンって、来るっ……ぅ……」
 気がつくと、矢紗美は脱力するように被さってきていた。さらに言うなら“足絡み”も解けてしまっていて、その気になればいつでも“上”をとれる状況になっていた。そんな矢紗美の背を、腰回りを、今度は月彦が焦らすように撫でつける。
「ァァァ……ア……だ、ダメっ……」
「何がダメなんです?」
「やっ……うっ…………」
 矢紗美は言葉を詰まらせ、顔を伏せたまま首を振る。苦笑を一つ残して、月彦はあっさりと寝返りをうつようにして“上”を取る。
「あ、やっ……!」
「“嫌”じゃないです。矢紗美さんが攻めたいって言うから、俺は下になってたのに、てんで動かなくなっちゃうんですから」
 今度は、俺が攻めます――そこは口には出さず、代わりに矢紗美のセーターを首元までまくし上げ、既にピンと立ってしまっている桜色の突起へと、舌を這わせる。
「ああンッ!」
 やや激しすぎるようにも見える矢紗美の反応。月彦はさらに舌で先端を舐りながら、開いている乳房を左手でこね回す。
「アッ……アッ……アッ……」
 衣擦れの音を立てながら、矢紗美が悶え続ける。ついと舌をしまって顔を上げると、なるほど。既に両目は今にも涙が零れそうなほどに濡れきっていて、切れ切れの呼吸の合間に辛うじて言葉らしきものの断片が漏れ出していた。
「矢紗美さん?」
 愛撫の手を止め、言葉を促す。矢紗美は三十秒ほど、呼吸を落ち着けた後、すっかりトロけた目で月彦を見上げながら、呟いた。
「……欲しい、の」
「欲しい?」
 先ほど焦らされた仕返しとでも言うかのように首を傾げると、矢紗美はうーっ、と唇を噛んだ。そして半ばヤケクソ気味に体を屈めると自ら濡れそぼった下着を脱ぎ捨て、両足を広げ、膝を折り曲げる。
「ちんぽ、欲しいの……」
 肩で息をしながら。右手の人差し指と中指で、秘裂を割り開きながら。
「…………矢紗美さん、もうちょっと“我慢”を覚えたほうがいいんじゃないですか?」
 つい、そんな軽口が飛び出してしまう。矢紗美のプライドの高さは知っているし、それを傷つけた場合どのようなことになるのかも身に染みて知っている。しかし、それだけプライドの高い矢紗美ですら、シチュエーションさえ揃えば自ら下着を脱ぎ捨て足を開き、指でくぱぁしながら、生意気な年下男に哀願すらするのだ。
「う、うるさい…………いい、から……早く…………」
 月彦の指摘が、よほど効いたのだろう。矢紗美はみるみるうちに顔を赤らめ、しかし“おねだり”は止められないのか、腰回りをうずうずさせながら哀願を続ける。
「この、私が……こ、ここまで……してる、のよ? ……もう、いいでしょ? ああもう……ニヤニヤするな、ばかぁ……!」
 哀願から、睨むような目に。この状況で焦らし続けるのは堪らなく愉快ではあるのだが、やりすぎれば再び矢紗美から親の敵のように憎まれるのは必至だ。断腸の思いで、月彦は“ほどほど”にすることにした。
「……確かに。プライドの高い矢紗美さんにそこまでされたら、男として引くに引けませんね」
 最初は“お姉さんがいーっぱい気持ち良くしてあげる”だった筈だが、いつのまにやらこんなことになってしまっている。その皮肉に苦笑しながらも、月彦は矢紗美に被さり、剛直を“入り口”へと宛がう。
「ぁ、ァ……来た来た……そこっ、あーーーーーッ! そこっ、ソコぉっ……来たぁっ、紺崎クンの極太麻薬チンポっ……あっ、あっ……広がる、グイグイって広げられっ……あァァーーーーーーーーーーーーーーーッ!!!!」
「ちょっ、や、矢紗美さっ……」
 よほど待ち焦がれていたのか。挿入を開始するや、極上の肉襞がうねうね絡みついてきて、矢紗美自身もまたほとんどしがみつくように両手を背へと回してくる。
(う、わっ……中、めっちゃうねって……)
 キュキュキュキュッ、キュウッ!――まるで、肉の襞が熱烈にキスでもしてくるかのような強烈な締め付けに、月彦は思わず腰を引きそうになる。
「やぁっ……だめぇっ、抜いちゃやぁ!」
 が、それは叶わない。矢紗美の両手が背から腰回りへと移ってきて、殆ど強制的に根元までの挿入を余儀なくされる。
「あぁぁぁーーーーッぐいって来てるぅぅっ……はぁぁぁ……コレ良いぃ……あンッ、あンッ……まだ、奧、来るっ、ぅ……この麻薬チンポ最高ォ……」
「だ、だから……物騒な単語をくっつけないで下さいと……」
 矢紗美の中も最高だと、それこそ矢紗美のように下品な言葉で叫んでやろうか――すんでの所まで思って、辛うじて足を止める。
「雪乃っていう彼女いるのに、簡単に他の女とエッチしちゃうダメクズ男のくせに、チンポだけは最高なんだから……はぁはぁ……もぉ、ほんっとムカつく……こんなの、雪乃じゃなくってもオチちゃうに決まってる……チンポ挿れられたら負け確定なんて、ズルい、ありえない」
「……えっと、俺……悪口言われてるんですよね?」
 矢紗美の顔を見る限りでは、喜んでいるようにも見えるし、怒っているようにも見える。その目も睨んでいるようで、哀願しているようにも見えるから困ったものだった。
「あンッ……やっ、だめっ……まだ動くなぁっ……あンッ、あンッ……やっ、こちゅ、こちゅって……子宮口にキス、されてるぅ……はぁはぁ……き、気持ちいぃぃ……」
「……動くなって言われても、無理です。……矢紗美さんの中だって、“相当”ですよ?」
 腰を優しく動かしながら囁くように言うと、忽ち矢紗美はきらりと目を光らせた。
「……雪乃より?」
 その質問を予想していた月彦は、半ば噴き出しそうになりながらも頷いた。
「ダメ、ちゃんと口で言って」
「……先生より、“良い”です」
「ンぅっ……! ……もっと」
 怒るような声で、矢紗美はさらに促してくる。呼吸はさらに荒く、体中をピンク色に上気させながら。
「先生より、良いです。すごく、気持ちいい。こんなの、我慢なんて出来ません」
「あぁぁっ……! もっと、もっと言ってぇ……雪乃より良い、って……はぁはぁ……」
「何度でも。矢紗美さんが聞きたいだけ」
 月彦は体を被せ、矢紗美の耳元に唇を寄せるようにして“囁く”。矢紗美が聞きたいであろう言葉を、矢紗美が望むままに。
「あっ、アッ、あァァーーーーーーーーーーーーーーーーッ!! もっと……もっとぉ……こちゅんこちゅんって、ちんぽで突きながら言ってぇ! あンッ……あンッ! あぁぁ……そこっ、イイッ……あぁぁーーーーッ! ダメ、イくっ……イッちゃう、イクッ……!」
 いつもより明らかに早い矢紗美の絶頂に合わせることが出来たのは、恐らく矢紗美の乱れる様に月彦自身興奮していたからだった。
「……矢紗美さん、綺麗です」
 “美”というものからは、明らかにかけ離れた様。しかし、淫らな言葉を口にしながら剛直で突かれるままに喘ぎ続けるその様を月彦は素直にそう感じた。
「中に、出します、ね」
 意識してのことではない。たまたま矢紗美の耳の側に唇があり、“雪乃より”と囁くついでに宣言したくなっただけのことだった。こみ上げてくる射精感に、月彦は矢紗美の体を強く抱きしめる。
「あああァ……ッ!」
 掠れたような声を上げながら、矢紗美もまたみっちりと剛直を肉襞で多い、食いちぎらんばかりに締め上げてくる。
「出し、てェ……ぁ、っっっっっーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーッ!!!!!!」
 耳を劈く、獣のような声。月彦もまた、矢紗美の中に全てを解き放っていた。


「はーっ…………はーーーーっ………………ンッ……ンンッ……!」
 ぱちゅんぱちゅんと肉と肉がぶつかる音を響かせながら、時折思い出したように唇を重ねる。月彦はベッドの端に腰掛け、矢紗美がその太ももを跨ぐように腰を下ろす。時間を忘れて理性も無くして、それこそ獣のように互いの体を求め合った末、行き着いた形がそれだった。
 或いは――矢紗美は当然知るわけもないが――もはや体に染みつくほどに重ねた真央との行為の中で、尤も“しっくり来る形”だからなのかもしれない。
「あぁーーーー……良いぃ……すっごくイイ…………完璧ハマっちゃった……麻薬チンポセックスから抜けられなくなっちゃった」
 上半身は月彦に凭れるように脱力しながら、しかし腰だけは動かしながら。矢紗美が諦めるような口調で言う。
「もぉダメ。このちんぽ抜きの生活なんて絶対戻れない。紺崎クンがやれって命令するなら、私なんでもしちゃう。ちんぽで釣られたら人殺しだってやっちゃう」
「……俺はそんなこと絶対頼みませんから、安心してください」
 矢紗美の発想はいちいち物騒だと苦笑する。その間にも、矢紗美は腰の動きを止めない。“完璧ハマった”というのは、本当なのかもしれない。
「もう、ね……ずーっとイキっぱなしみたいになってるの……エンドルフィンとかいろいろどばどば出っぱなし。誇張じゃなく脳みそ薬漬けされちゃってるの……」
 どこか虚ろな目で。敵意すら込めながら、矢紗美が見上げてくる。もちろん腰は動かしながら。
「イイなぁ……“コレ”。毎日仕事で疲れて帰って来て、ゆっくりお風呂入った後とかに食べられたら最高なんだけどなぁ」
「た、食べるって……俺を、ですか?」
「ううん、ちんぽの方」
 非道い言いぐさだった。
「ゴメンね、折れない紺崎クンも十分魅力的なのよ? だけど……ンッ……ちんぽが良すぎて……比べられないの……」
「はぁ……」
 言いしれぬ虚無感に襲われるのは何故なのだろう。或いはこれが、女を誰かに寝取られた時の気分なのだろうか。
 寝取ったのが自分の体の一部というのが非道い話ではあるが。
「ねー、もうさ、雪乃じゃなくって私とくっついちゃおうよ。紺崎クンも相性ばっちりだって思うでしょ?」
 ねっとりと腰を回しながら、矢紗美が甘えるような声で続ける。
「私は雪乃みたいに束縛しないし、ぶっちゃけ相手が雪乃でさえないなら、愛人の一人や二人許しちゃうよ? ね、一緒に住も?」
「こ、心が動く誘いであることは……間違いない、んですが……」
 一人や二人なら許しても、それが三人四人となればどうだろうか。矢紗美に尋ねること事態自分の身を危うくすることだと判断して、月彦は口を噤む。
「……やっぱり、“正式な彼女”は雪乃がいいの?」 
 声のトーンが落ちる。しかし腰は止めない。むしろ、キュン、キュンと攻めるように強く締め上げてくる。
「私じゃダメ? ねえ、雪乃のどこがそんなにイイの?」
「それ、は――」
 言えば、矢紗美は怒るだろう。或いは絶望するかもしれない。何より、“それ”は矢紗美自信自覚していることではないのか。
 故に、月彦は“理由”をズラした。
「…………矢紗美さんは、俺の“一部分”しか好きじゃないみたいですけど、先生は俺全部を好きだって言ってくれますから」
 うっ、と。今度は矢紗美が黙る番だった。しかし幸い、沈黙は長くはなかった。
「……ちんぽを含めた紺崎クンのコトが好きって言い直しても、ダメ?」
「ダメです」
「………………わかった。ちんぽより紺崎クンの方を好きになるように努力するから……ね?」
「今すぐ腰の動きを止めてくれたら“努力”を認めますよ」
 苦笑混じりに言う。“これ”はもう、ただのピロートークだ。矢紗美もそのつもりなのだろう。その証拠に、腰の動きを止める気配すらない。
「ダメ……やっぱり、ちんぽの方が好き」
「それでこそ矢紗美さんです」
 月彦も、矢紗美も。ニヤけそうになる顔を互いに噛みつぶすように唇を重ねる。同時に、月彦は矢紗美の背から、尻へと手を宛がい、掴む。
「ンぁっ……ダメっ……今、丁度良いトコロなんだから……」
「緩く動かれるだけだと、なんだかずっと焦らされてる気分なんです」
 矢紗美の体を持ち上げ、揺さぶる。「ンぁア!」――そんな声を、矢紗美が天を仰ぎながら上げる。
「あっ、あっ、あっ……あっ、あっ、あっっ……アッ、アッ、アッ!」
 キュッ、キュッ、キュッ……キュキュキュ!
 あまりにもあっさりと、矢紗美が達し、ビクンと背を逸らす。
「やっ……ダメッ、ダメッ……今、本当にイき易くなってッ……ダメッ……やっ……!」
「ホント、すぐイッちゃうんですね。可愛いですよ、矢紗美さん」
 唇ではなく、あえて頬にキス。
「折角ですから、一時間で何回イけるか数えてみますか?」
「バカッ、ぁ……何が、折角……あんっ……やっ、またっ…………ッッッ!!」
 ビクンッ、ビクッ!
 痙攣する矢紗美の体を愛しげに抱きしめ、絶頂の波が収まるのを待ってから、再度突き上げる。
「ああンッ! あっ、アッ……っ……ぁひっ……ンッ……あっ、アァッ!!」
 声を上げながら、矢紗美はさらに月彦の肩へと手を当て、押し倒してくる。
(おやおや……)
 そう思ってしまう。この後に及んで、まだ騎乗位を楽しむ余裕があるのが矢紗美の凄さかもしれない。
「あっ、あっ、アッ、アッ……いいっ……ちんぽいいいぃ……!」
 ぎっしぎっしとベッドを軋ませながら、矢紗美は前後左右、時には時計回り逆時計回りに腰をくねらせながら体を弾ませる。
「イイッ、イイッ、イイッ……良イイ!!!」
 玉のように浮いた汗を飛ばしながら、矢紗美は淫らにダンスを続ける。月彦はあえて動かず、ただ矢紗美の体が浮きすぎて抜けてしまわぬようにだけ手を宛がい、その魅力的すぎる姿を堪能する。
「イイッ……ちんぽいい……いいっ、イイッ……イッ………………〜〜〜〜〜〜〜ッ!!!!」
 そして、絶頂。弓なりに反れた背が、脱力と共に倒れ込んでくる。さすがにリタイアかと思った月彦は、己の早計を恥じねばならなかった。
「……ねぇ、紺崎クン」
 アレ、シて?――その甘えるような声があまりに愛娘のそれに似ていて、思わずギョッとしてしまう。
「クリ弄られながら、紺崎クンの極太麻薬チンポでごちゅごちゅされたいの。……ダメ?」
 勿論、ダメな筈がなかった。



 再びベッドに腰掛ける形。但し、矢紗美の体の向きは逆。月彦に背を向ける形で――
「ああああ−−−−−−−−−−ッ!!!」
 矢紗美の要望通りに、背後から抱きすくめるようにしてクリへと指を伸ばしながら、突き上げる。
「アッ! アァッ!! ァァあッ!!!!!」
 これまでとは比較にならない程の痙攣。月彦の腕の中で、矢紗美はまるで電気ショックでも浴びせられているかのように暴れ、そしてよがり狂う。
「……矢紗美さん、ほんっとクリ弄られるの好きですね」
「うん……好き。だぁーい好き」
 ぜえぜえと肩で息をする矢紗美に囁きかけると、まるで子供のような口調で言い、頬にキスまで返してくる。
「紺崎クンだって、チンポ弄られたら気持ちいいでしょ? それと同じ」
 矢紗美の手がクリを弄る月彦の手首を掴み、さらなる愛撫を促してくる。
「優しく皮を剥いて……ンッ……そう……強くすると痛いから……あンッ……そ、そう……そんな感じっ…………ぁあっ……あああっ、ああッ!!」
「そして、“こっちも”ですよね?」
「あヒィッ! あっっ、アッ……ぃぃいっっ!!!」
 ぐりん、ぐりんと剛直の先端で抉るように刺激すると、忽ち矢紗美は叫ぶように喘ぎ出す。
「……ちなみに矢紗美さん、“どっちか片方”なら、どっちが良いですか?」
「ぇ……やだ……そんなの、選べない…………」
「ダメです」
 言って、月彦はクリから指を放し、さらに矢紗美の膝裏を抱えるようにして、剛直も抜こうとするや、たちまち矢紗美が暴れ出した。
「やぁっ、イヤイヤ……抜いちゃやぁっ!」
「わかりました。“こっち”ですね?」
 ならばと。剛直はそのままに、今度は一切のクリへの愛撫を遮断する。もちろん、剛直での突き上げもゆるやかに。矢紗美が決して満足出来ないであろうレベルにまで。
「はぁっ……はぁっ……こ、紺崎クン……こっち、もぉ……」
 一分と経たず、矢紗美は焦れったそうに腰をくねらせ、月彦の手を取って自分の股間へと導いてくる。が、月彦は一切指は動かさない。
「どっちか片方、です。矢紗美さん」
「やぁっ…………お願い、意地悪……しないでぇ……」
 矢紗美の泣き声――ひょっとしたら、自分は無意識にこれを聞きたいが為に意地悪をしたのではないか。思わずそう感じてしまう程に、扇情的な声だった。
 途端、ギギンと。剛直の体積と硬度が1,2倍に膨れあがる。
「やンッ……くひっ…………何、コレ…………苦しっ……」
「解りました。“両方”ですね?」
 もはや、月彦の方にも喋る余裕は無かった。気が強くプライドが高く、そのくせ快楽に弱くて必要とあれば泣き声すら出してくる矢紗美に――例えそれが男を魅了する為の演技であるとしても――己の遺伝子を刻みつけたくて堪らなくなる。
「や、ダメッ……あッンッ! だめっ、だめっ……やっ、クリ摘んじゃだめぇっ……あッ、アッ、アッ、だめっ、だめっ……あンッ、あンッ、あンッアンッ!」
「フーッ……フーッ……矢紗美さん、矢紗美さんっ……!」
 クリを愛でながら。剛直で突き上げながら、月彦は矢紗美の体を抱きしめる。イきっ放しの体を、さらに極みへと押し上げる為に。矢紗美を、本当の意味で堕として、自分無しでは生きられない“牝”にする為に。
「矢紗美、さん……」
 もう、我慢出来ない――頭の芯が痺れるような快楽に侵された刹那。月彦はほとんど食らいつくように矢紗美の唇を求めていた。矢紗美もまた、さながら水面下から新鮮な酸素を求めて水上へと顔を出すような。そんな切羽詰まった動きで唇を重ねてくる。
「ンッッ…………ンッッーーーーーーーーーーーーーーーーーッッッ!」
 喉の奥で矢紗美が噎ぶのを聞きながら、月彦は己の魂すら注ぎ込もうとするかのように。
 すべてを、矢紗美の中へと解き放った。

 

 

 その後も、体位を変えながら何度も交わり、絶頂の余韻を味わいながら抱きしめ合い、唇を重ねた。
「ねえ」
 闇の中、快楽に痺れた頭で、月彦は矢紗美の声を聞いた。
「ひょっとして、紺崎クン……年の離れたお兄さんとか居ない?」
「いえ……」
 呼吸を整えながら、月彦は舌がもつれないように注意しつつ答えた。
「姉なら、居ますけど」
「そっか」
 変なコト聞いてゴメンね――そう言って、矢紗美は甘えるように月彦の胸に頭を預けてくる。本当に変な事を聞くものだと思うも、それを口にするには月彦は疲れ過ぎていた。


 


 
 


 いつにも増して気怠い月曜日の朝。危うく監禁されかけたにも関わらず、日曜日の夜にいつも通りの出迎えをしてくれた家族に「俺、時々無断で泊まってくるけど、あんまり戻ってこないようなら捜して欲しい」と言うべきか否か。今後のことを考えると言ったほうがいいような気がしなくもないが、言う資格はないんじゃないかと思い直して結局いつも通りに過ごしての、月曜日の朝。
 気怠い理由はもちろん、雪乃と顔を合わせたくないからだった。
(……やっぱり、日曜日のうちに電話で一言だけでも謝っておくべきだっただろうか)
 面倒なことを後回しにし続けた結果、利息がついてより面倒くさいことになるのだと解っていても、行動を起こせなかった。自分から持ちかけたデートの誘いを、何の連絡もなしにすっぽかしたのだ。そういう意味では前回よりも罪が重く、ましてや二度目となれば、仮に雪乃が菩薩の如く広い心を持っていたとしても極刑は免れないだろう。
(……確かに、言い訳は……ある。けど、言うわけには……)
 貴方の姉に監禁されてたんです!――そう口に出来たらどんなに楽か。しかしそれは万引きのアリバイを証明する為に放火の自白をするようなものだ。自殺願望でも無い限り有効な手段とは言いがたい。
(…………先生があんまりにも怒ってるようだったら、いっそそのまま……)
 “三度目の正直”とするのもやむを得ないかもしれない――そんなことを考えながらの登校。いつになく足は重く、そのくせ学校は近く感じる。教室への道すがら、いつどこで怒りゲージMAXの雪乃とエンカウントするとも知れず、気分はさながらリアル青鬼をプレイしているかの様。
 無事教室にたどり着くも、本日の授業一覧を見てため息が漏れる。雪乃の担当する英語は六時限目。どうせなら一時限目に雪乃と顔を合わせ、たとえ互いに教師と生徒という仮面を被ったうえでも、雪乃の怒り具合を観察できれば少しは今後の対策も練れたというのに。
(いや、解ってる。ブチ切れてるのは間違いない。それは覚悟してるんだけど……)
 ほんの1%……否、コンマ以下の僅かな可能性かもしれないが、絶対に起こりえないはずの奇蹟が起きている可能性も無くはないのだ。そう、雪乃もまた、外すに外せない用事が唐突に発生してしまい、待ち合わせ場所に行けなかったという可能性が。
(…………実際、俺だって不可抗力で待ち合わせ場所に行けなかったんだから、先生が同じことになってても――)
 虫の良いことを考え、自分の気持ちを落ち着けようとした――まるでその罰だとでもいうかのように。机に鞄を置き、椅子に座り、持って来た教材を机の中に移そうとした月彦は、“それ”を発見した。
 恐らくはプリンター用だと思われる、A4の用紙。机の中に入れられていたそれには、極太のマジック文字でこう書かれていた。


“放課後 部室”


 まるで、両手で心臓を握られ、ぎゅうと搾られたような、そんな声が口から漏れた。やはり、奇蹟を願ってはいけなかったのだ。否、願っても、それはやはり起きなかったのだ。
(……すっぽかそうかな)
 まだ一日は始まったばかりだというのに、全身が鉛にでもなってしまったかのように体が重い。教室を包むクラスメイト達の喧噪も、いつになく遠く――まるで別世界の出来事のように、彼方に聞こえた。


 部室の前には、ご丁寧に『本日の活動は無し』と張り紙がされていた。もちろんこれは、“ラビ避け”の張り紙だろう。いっそこれを鵜呑みにして回れ右してしまおうか――そんな逃避に走りそうになるも、辛うじて踏みとどまる。
「……失礼します」
 そっとドアノブを捻り、中の様子を伺う。まだ雪乃は来ていないのか、部室の中は暗く人影もない。月彦は中へと入り、明かりをつけて――そしてソファには腰掛けずに、丁度入り口と正面向かいになる様に床に正座をし、雪乃を待った。
 或いは、雪乃はすっぽかすつもりかもしれない――そんな危惧と闘いながらの正座を三十分ほど続けた頃、月彦の耳は聞き覚えのある足音が部室の入り口へと近づいてくるのを聞いた。
 ほどなく、ドアノブが回り。
「紺崎くん、もう来て――」
「すみませんっっしたぁ!!!」
 雪乃の顔を視認するや否や、月彦は床に手を突き、そのまま頭突きをする勢いで頭を下げる。
「……なーに? ずっとそうやって待ってたの?」 
 呆れるような、困ったような声。少なくとも怒ってはいないように聞こえる声。まだまだ安心は出来ない。月彦は頭を下げ続ける。
「顔を上げて。ほら」
 恐る恐る、月彦は顔を上げる。眼前には、膝に手をついてかがみ込んだ雪乃の笑顔。笑っている、やはり怒っているようには見えない。
「とりあえず、座りましょ。ちょっと話さなきゃいけないこともあるから」
「話……?」
 ゾクッ――背筋に寒気が走ったのは、もちろん気のせいなどではない。体が覚えているのだ。雪乃が持ってくる話とやらが、およそ不利益しかもたらさないということを。
 とはいえ、雪乃に負い目がある以上逆らうこともできない。月彦は促されるままに、テーブルを挟んで雪乃とソファに腰掛ける形になる。
「えーと…………その……なんて言ったらいいか…………」
 話とやらは、どうやら雪乃としても切り出しにくいものらしい。罰が悪そうに、雪乃は頬をかき目線を天井の隅へと逃がしたりしながら、すぅぅと大きく息を吸い込む。
 次の瞬間、雪乃の口から発せられた言葉は、月彦の想像を遙かに超えていた。
「とにかく、最初に謝っておくわね。…………ごめんなさい!」
「は……え……?」
 雪乃の言葉に、月彦は困惑の渦へと突き落とされた。絶句し、今し方聞いた言葉を丹念に吟味するが、その意味がどうしてもわからなかった。
「ごめんなさいって……え?」
 こちらが謝るのならば、解る。しかしなぜ雪乃が謝るのか。見れば、雪乃は両手を合わせ、頭まで下げている。どうやら冗談や煽りではなく、本気で謝っているらしい。
「……………………バイク、買ってあげられなくなっちゃった」
「ばい……く……?」
 数秒後れて、月彦は思い出した。そういえば、免許を取ったらバイクを買ってあげる――そんな話を、雪乃がしていたような気がする、と。
「ほんっっっとごめんなさい! 紺崎くんが折角楽しみにしてくれてたのに」
「……え?」
 一体いつ俺がバイクの新車をねだって、そして楽しみにしていたんですか?――そう口にしかけて、ぐっと飲み込む。
 そう、ひょっとしたらこれは――チャンスなのではないか。
「どういうことですか、先生。どうして急に」
 月彦は、装う。さも、本気で楽しみにしていたのに、水を差されて怒りを抑えかねているかのような――フリを。
「私もちゃんと約束をまもるつもりだったのよ? だけど、ちょっと……予想外な事になっちゃって……」
「予想外なこと?」
 うん、と雪乃は頷く。そして、半ば忌々しそうに呟いた。
「…………バイク買おうとしてることとか、免許とろうとしてることとか、お姉ちゃんにバレちゃって……」
「へ……?」
「……本当、どうしてバレたのかしら…………私、お姉ちゃんにだけは絶対情報がいかないように、後輩達にも堅く堅く口止めしといたのに」
「ちょっと待ってください。どうして矢紗美さんにバレたらまずいんですか?」
 キョドりそうになるのを必死に堪える。何故なら、絶対に矢紗美に漏らしてはいけない情報を漏らした人物に、心当たりがあるからだ。
「…………ほら、私……車買い換えたでしょ? あの時、お姉ちゃんに借金しちゃってるの」
「そういえば……前にそんな話してましたね」
「それなのに、どういうわけかお姉ちゃんにばれちゃって……そんなお金があるなら先にこっちに返しなさい、って……」
「いや、それは……矢紗美さんが正しいと思いますけど……」
 というより、雪乃は借金があるような状況でバイクの、それも新車を買おうとしていたのか。しかも、恐らくは自身の分も含めて二台分。それも大型となれば、下手をすると普通乗用車を買うよりも高くつくのではないだろうか。
(…………意外と計画性のない人なのかな)
 というより、単純に金遣いが荒いのかもしれない。
(……………………そういえば、猫を飼うことになった時も、ずいぶんな散財を……)
 もっとも、“アレ”に関しては全て必要なもので一品たりとも欠かすことはできなかったのだから、少なくとも無駄使いではない。が、それでも雪乃の財布を圧迫したことは間違いない。
(……もしかして、矢紗美さんが言ってたのはこのことだったのか)
 そんなの、私が一言言えば止められる――バイクの件を話した時、矢紗美はそんなことを言っていた。となれば、この横槍は矢紗美からの援護射撃ということなのだろう。
「バイクのお金も、夏のボーナスまで繋げればローンでギリギリなんとかなるって思ってたの。だけど、お姉ちゃんにバレちゃったらやっぱりそっちを優先させなきゃいけないから………………だけどね、もし紺崎くんがどうしても欲しいっていうなら別口から――」
「いえ、そこはちゃんと矢紗美さんを優先して返済してください」
 “別口”から一体何をする気なのか、月彦は口にさせたくなくて、切るように言った。「バイクのことは残念ですが、そういう事情なら仕方ないですね。……まぁ、どうしても欲しくなったら、自分でお金貯めて買いますよ」
 しかし、バイクが手に入らなかったことは残念だ――そう臭わせる。本当は微塵も欲しくなど無かったが、そう臭わせることで雪乃に負い目を被せられるなら。
「…………本当にごめんね、紺崎くん」
 しゅんと、雪乃が肩を縮ませる。月彦は、笑顔で言った。
「そんなに謝らないで下さい。大丈夫、そんなことで先生のことを嫌いになったりしませんから」
「本当? ……………………許してくれる?」
「もちろん。というより、許すも許さないもないですよ」
 大丈夫、俺は気にしません。そう微笑みながらも、月彦は目で訴えかける。俺は笑って許した、だから先生も許してくれますよね?――と。
「そっか。…………良かった」
 その“良かった”を、一体どう解釈するのが正しいのだろう。これで胸のつかえがとれた――そうも取れるし、“これで心置きなく”という前振りにも聞こえた。
「ところで紺崎くん。…………土曜日の件だけど」
 声のトーンが明らかに変わった。まるで何か、邪なモノが取り憑きでもしたかのように。鋭利な、そして恐ろしく冷たい刃物を首筋に宛がわれたような気分だった。
「あの、その件ですけど、先生?」
「なぁに?」
「その……俺は、許しましたよね?」
 バイクの件を。そう、視線に込める。
 が。
「そうね。でも、それとこれとは話が別じゃないかしら」
 雪乃はけろりとした声で言う。微笑を称えたまま、その冷ややかな視線が月彦の体から体温を奪い続ける。
「もちろん、解ってるわよ? 何か事情があったんでしょ?」
「そ、そうなんです! 実は――」
 言葉は、雪乃が出した掌によって制された。
「待って。ここじゃ落ち着いて話も出来ないから、ちょっと場所を変えましょ」
「へ……? 別に場所なんか変えなくても……」
 月彦は周りを見回す。天文部部室、校長室からのお下がりであるソファは座り心地抜群であり、その気になれば飲み物も用意することが出来る。今日に限っては恐らくラビも来ないであろうし、二人きりでとことん話をするという意味では十分すぎる条件を備えている。
(……そもそも、落ち着いて話をする為に、俺をここに呼び出したんじゃ……)
 なのに、今更場所を変えるというのはどういうわけか。首を傾げる月彦をよそに、雪乃は顎に指を当ててうーんと唸り続ける。
「んー、って言っても、ファミレスや喫茶店だと誰に見られるかわからないし」
 雪乃はちらりと腕時計に目を落とし、あらと大げさに声を荒げる。
「もう時間も遅いし、いつまでも明かりつけてたら宿直の先生が様子見に来ちゃうかもしれないわ」
「時間が遅いって、まだ四時過ぎなんですけど……」
「というわけで、続きは私の部屋でしましょうか」
「いやちょっ……話なら別にここで――」
 唐突に、右手首が掴まれる。ぎりっ、と。女性のものとは思えない握力で握られ、月彦は言葉を詰まらせる。
「続きは、私の部屋で、聞いてあげる」
「あ、あの……先生?」
 やはり、雪乃の様子がおかしい。単純に怒っているのとも違う――言うならば“余裕が無い”とでも言うべきか。
「ど、土曜日のことは……本当にすみませんでした! でも、とりあえず今日のところは一端解散という形には出来ませんか?」
 今日の雪乃は怖い――本能でそう感じる。掴まれた腕をさりげなく引き戻そうとするが、ぴくりとも動かない。
 まるで「逃がさない」とでも言うかのように。
「続きは、部屋で聞いてあげる」
 そして雪乃は再度、言った。さらに小さく。
「………………ずっと、我慢してたんだから」
 辛うじて聞き取れる声で、そう呟いた。

 その後、雪乃の部屋へと連行された月彦は性心精意射精謝罪を続け、漸くのことで許してもらえたのは明け方のことだったそうな。
 めでたしめでたし。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――数日後。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『ま、待って……やっ……な、中は、止めてぇ!…………嫌ッ、嫌っ、膣内だけは絶対にイヤァッ!』
 “その動画”を、月彦はあんぐりと口を開けた間抜け面のまま視聴していた。その傍らには、にこにこと上機嫌の笑みを浮かべた矢紗美。
「どーお? “よく撮れてる”でしょ?」
「…………ええ……“よく出来て”ますね」
 下校中、部屋に来ないかと矢紗美に声をかけられた。“前回”のことがあるから無論月彦は警戒したが、しかし一応は雪乃の暴挙を止めてくれた恩もあるからと、渋々矢紗美の誘いにのり、部屋へと招かれた。飲み物を出され、一緒に炬燵へと入った後、そういえば面白い動画があるのと矢紗美が一枚のDVDをデッキに入れた。
『ダメです。矢紗美さんには、俺の子供を孕んでもらいます』
 恐らく隠し撮りされたものらしいその動画の中では、見覚えのある男が見覚えのある婦警を強姦していた。――正確には違うのだが、どこからどう見てもそうとしか見えないように“編集”されていた。
『嫌ァアアアアアアアアアアアアアッ!!!』
 部屋中に、矢紗美の絶叫が響き渡る。その悲鳴を上げた本人は、始終にこにこと笑みを絶やさない。
 月彦は頭を抱えた。
(………………“流れ”が妙だとは思ったんだ)
 何故ここにきて嫌がるフリなどするのかと。或いは矢紗美が好きなシチュエーションプレイの一貫だとばかり思っていた。
「………………最初から“このつもり”だったんですか、矢紗美さん」
「さあ、どうかしら?」
 意地の悪い笑みの向こう、矢紗美の本心が見えない。最初は監禁されると本気で焦った。しかし本当は拗ねていただけで、監禁はフリだけだと思った。ところが寝室に詰まれていた書物は矢紗美がガチで監禁する気であった証拠であり、自分が助かったのはひとえに運によるものだと肝を冷やした。
 しかし、“こんな準備”までしていたのなら、やはり監禁の方がフェイクだったのだろうか。それとも、隠しカメラは紺崎月彦の痴態を撮影するためのもので、強姦の様子が撮れたのはたまたまだったのか――。
(……いったいどこからどこまでが演技で、どこからが本気なんだ……)
 それは、妹の雪乃に対して抱いたものとはまったく別種の恐怖だった。懐柔し、主導権を握った筈が実は、手玉にとられていたのは自分の方だった――さながら、釈迦の掌で弄ばれた孫悟空の気分だった。
 程なく、“強姦の証拠動画”が終了し、月彦は大きくため息をついた。
「…………“これ”をどうする気ですか」
「別に、どうもしないけど」
 そんなはずは無い。矢紗美に自分が強姦される様を録画して楽しむ趣味などは無いはずだ。
「雪乃と無事仲直りしちゃった紺崎クンに、ささやかな嫌がらせがしたかっただけだから」
「ささやか、ですか」
 その気になれば、いつでも破局させられるんだぞと言われている気分だった。抑止力としての核というのは、即ちこういうものなのかもしれない。
(ていうか……ひょっとして、先生また矢紗美さんを“煽った”のか……)
 でなければ、雪乃と仲直りしたかどうかなど矢紗美に伝わるわけもない。犬猿のように仲が悪いかと思えば、連絡は頻繁にとっているらしい雛森姉妹の距離感が、月彦には解らない。
「……もし、紺崎クンが今日、このまま何もしないで帰っちゃったりしたら、“ささやか”じゃ無くなっちゃうかもしれないけど」
「…………今日はどこに隠しカメラを仕込んでるんですか、矢紗美さん」
「私、“駆け引き”に使えそうにないものは撮る趣味はないの」
 壁の方に視線を外しながら、ちょん、ちょんと炬燵の中で、矢紗美の足が甘えるように突いてくる。
「紺崎クンとの、甘ぁいイチャラブセックスを撮影して雪乃に見せつけるってのも、それはそれで面白そうだけど。今日は何も準備してないから」
 つつと、足の指先が臑の辺りを撫でてくる。
「ね、いいでしょ? “シてから三日目”くらいがいちばん禁断症状キツいの。紺崎クンの麻薬チンポ欲しくて欲しくて仕事も何も手につかなくなっちゃうの……」
「でも、また撮影されてたら嫌ですから」
「だーかーら、今日はしてないって言ってるでしょ! ね? 紺崎クンが嫌っていうなら、隠し撮りなんか二度としないからぁ」
「帰りますね」
 微笑を残して、月彦は炬燵から出る。立って、背を向けるなり。
「………………雪乃に見せるわよ」
 刺すぞ、とでも言うかのような低く冷たい声に、月彦はため息を禁じ得ない。
(……なんだこの元鞘感……)
 そう。“逃げ”を封じられた月彦のとる道はもう、一つしか無いのだった。


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