人生には変化が必要だ。もし誰かに動機を尋ねられたら、そう答えるだろう。
「ぐやじいーーーーーー! ほんっっっっっっっっっっっとぐやじい! 首締めてやりたい!」
「はいはい、災難だったわね」
 テーブルをだんだん叩きながら喚き散らしている友人をおざなりに宥めながら、雪乃はグラスに口をつける。
 そう、人生には変化が必要だ。とはいえ、やはり“これ”は誤りだったのではないかという気が早くもしていた。
「もう絶対男なんて好きにならない! 一生独身で過ごしてやる!」
「そうね。それも気楽でいいかもしれないわね」
 一体何度似たようなやりとりをしたことだろうか。同い年とは思えないほどに厚化粧をしたその顔は涙でデロデロに崩れており、正視に耐えない。が、本人は全く気にしていないのか、泣きながら喚き散らしてはヤケ酒を煽り続けている。
 やはり、断るべきだった――雪乃はうんざりとした気持ちで、自分が選択肢を誤ったことを認めた。数年ぶりに携帯の液晶画面に表示された“野口佳恋(携帯)”の文字を見た瞬間、そもそも嫌な予感はしたのだ。高三の頃に同じクラスではあったもののさして仲が良かったわけではなく。携帯に佳恋の名と番号が登録されていたこと自体、雪乃はその瞬間に知ったくらいだった。恐らくは、別の友人と連絡先交換をした際などに何かの間違いで一緒に登録されたのではないか――そんな推測をしながら、雪乃は通話に出てしまった。
 それが間違いの始まりだった。
「信じられる? 三股かけられてたのよ!? 二股じゃないのよ? 三股よ?」
「何度も聞いたわよ。災難だったわね」
 久しぶりに会って話したいから今夜飲みに行こう――簡単に言えば、そういった用件だった。もう何年も会ってない相手からの誘い――何故急にと思わなくもなかった。大学の友人から似たような形で、かつてのクラスメイトに怪しげな教材を売りつけられようとした話を聞いたこともあったから、尚更雪乃は危ぶんだ。
 危ぶんだが、結局雪乃は了承してしまった。理由はやはり、人生には変化が必要だと感じていたということ。というより、ここのところ飲む相手が実姉ばかりであり、たまには他の相手と一緒に飲むのも悪くは無いかと思ったのだ。
「“ボクは真面目だけが取り柄です”なんて言ってたクセに! いかにも草食系って顔してたクセに、しかも他の二人とつきあい始めたのは私とつきあい始めた後とかありえない!」
「そうね、ありえないわね」
 数年ぶりに会ったかつてのクラスメイトは悪い意味で変わっていた。当時から身長が低いのを気にしていたのは覚えているが、今尚それがコンプレックスなのか、待ち合わせに現れた時にはほとんど背伸びをするような踵の高いショートブーツを履いていた。一体どこで服を買っているのか原色系で固めたジャケットやらミニスカートやらは直視していると目が痛くなるほどであり、明らかに金メッキなネックレスやブレスレットをちゃらちゃら言わせながら歩く姿は滑稽を通り越して痛々しい程だった。
 それだけ着飾って(?)いるくせに、髪型はこだわりでもあるのか高校時代とほぼ変わらない脱色したゆるふわセミロングのままで、殆ど描いただけの眉とどぎつい色合いのマスカラ、紫に塗られた唇だけが高校時代との違いだった。
(香水も使い過ぎよ。頭痛くなってくるわ)
 巧い具合に嗅覚を麻痺させておかなければ、吐き気を催しかねないくらいだ。事実、雪乃はこの歩くラフレシアを連れて馴染みの飲み屋に入って出禁になることを恐れ、あえて行ったことのない飲み屋を選んだほどだ。
 そして外見が”そんな”であっても、まだ中身が良い方に変化していればマシではあったのだが、これが見事なまでに変わっていなかった。変わっていないのだということを、顔を合わせるなり放たれた『雪乃ってば相変わらずデカいから、100メートル離れててもすぐ解った』という無慈悲な一言で思い知った。
「なによ、もう! もっとちゃんと慰めてよ!」
 おざなりな言葉がさすがに気に障ったのだろう。とうとうその怒りの矛先が雪乃の方へと向く。
「わたし、本当に傷ついてるんだから! 優しくしてくれないと死んじゃうんだから!」
 今更ながらに、雪乃は何故佳恋がさして交流の無かった自分などに電話をかけてきたのか、その理由がわかった気がした。恐らくは、何度も何度も似たような感じで友人達に彼の愚痴を零してはウザがられ、やがて誰からも相手をされなくなったのではないだろうか。それでも誰かに愚痴を聞いて欲しくて慰めてほしくて、細い糸を辿って電話をかけてきたのではないだろうか。
「とにかく、いやなことは早く忘れた方がいいんじゃない? 次はもっといい彼氏が見つかるといいわね」
「何よそれ! 他人事みたいに言わないでよ! 」
 この女は一体何を言ってるんだろう――雪乃は心底疑問に思った。
「私がどれだけ傷ついてるかも知らないくせに! どれだけ彼のことが好きだったかも知らないくせに! 適当なこと言わないでよ!」
 喚きながら、佳恋はまだ三分の一ほど生ビールが入っているジョッキをだむとテーブルに叩きつける。勢いでビールがテーブルの上に飛び散り、雪乃は無言でおしぼりを広げ、飛沫を拭く。
「ああもう、雪乃なんかに声かけるんじゃなかった! ホント最悪……どうして誰も私のこと解ってくれないのよ……男も女もみんなバカばっかり!」
 酒の勢い――もあるのだろう。ほとんどヒステリーのように喚きながら、佳恋はわんわん泣き散らす。周囲の客達があからさまに迷惑だという空気を出し始めているのを、雪乃は形見の狭い思いをしながら感じていた。
「……ちょっと、佳恋。周りに迷惑だから」
「何よ、自分だけいい子ぶろうっていうの? 言っとくけど、笑ってられるのもいまのうちだからね?」
「はぁ……?」
「雪乃、今男いるでしょ? 私そういうのには敏感なの。だから解るのよ。雪乃に彼氏が居るっていうことも。でもね、幸せなのは今だけ。その彼氏もすぐ浮気するわよ。私には解るんだから」
「ちょっと、いい加減にしないと怒るわよ?」
「雪乃、綺麗になったもんね。スタイルもいいし、男なんて捕まえ放題なんでしょ? でもね、そういう女に寄ってくる男なんて、体目当てのクズばっかりなんだから。本当の恋愛なんて絶対出来ないんだから」
「……もういい。これ、私が払っておくから」
 付き合ってられないと、雪乃は伝票を手に席を立つ。
「あ、図星だから逃げるの? ホントは心当たりあるんでしょ。あれ、何か変だな……って思ったことあるんでしょ。だったらもう確定よ。絶対浮気してる、間違いないわよ」
「……っっっ……」
 雪乃は拳を握りしめ、歯を食いしばりながらレジへと向かう。かつて、これほど不愉快な酒を飲んだことがあっただろうか。大嫌いな姉との飲みですら、ここまで苛立たされたことはなかった。
(……紺崎くんが、私を裏切るわけないじゃない)
 憤然としながら会計を済ませ、店を出る。タクシーを捕まえてマンションの自宅へと帰る道すがら、雪乃は真っ先に佳恋の番号を着信拒否設定にした。


 
 

 

 

 

 

『キツネツキ』

第五十一話

 

 

 

 

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 


 4限目の授業の終了。それは学生にとって、ある種の幸福の瞬間であるといえる。教室内に椅子を引く音が響きわたり、どやどやとそこかしこで話し声が聞こえる。
 そんな最中。月彦は先ほどまで教壇に立っていた教師が教室内でうごめくクラスメイト達を縫う様にして、自分の机へと一直線に接近してくるのに気がついた。
 教師――雪乃は教壇から月彦の机の脇を抜け、そのまま教室の後ろの戸から廊下へと出て行った。端から見れば、ただたんに教室内を抜けて職員室へと戻っていった――そう見えるはずだ。
 しかし月彦にとってはそれだけではなかった。授業が終わり、教室を出る際に机の脇を通り、とんとんと軽く指先で二度机を叩くのは「今日は必ず部室に顔を出すように」という合図だからだ。
(…………先生のことは、嫌いじゃない筈なんだけど)
 放課後、顔を合わせなければならない――そう思うだけで、僅かに気が重くなる。一体今度はどんな要求をされるのだろうと、体が身構えてしまうのだ。
(……最近、月島さんも全然顔見せないしなぁ……)
 部室が、徐々に雪乃にとって理想の状況になりつつあるといえる。それ故の強制出頭命令なのかもしれない。
(…………月島さん、本当にどうしたんだろう)
 以前は、ラビのことが気がかりになりつつも、そのことで気を揉むゆとりがなかった。が、レコーダーの件が一段落し――実際には何一つ解決などしていないのだが――心に余裕が生まれると、人間というものは今まで気にならなかったことが気になり始めるらしかった。
 まさか――信じたくはないが――雪乃が遠回しに手を回したのではないだろうか。もう部活に来るなと、直接ではないにしてもそう臭わせたのではないか。
(……先生を疑いたくはないけど)
 折角の機会だから、その辺を尋ねてみようかと。そんなことを考えながら机の上に広げていた教材を仕舞い、弁当包みを取り出そうと鞄を机の上に置いた。
 その時だった。
「……――そういやさ雛森って男居るらしいぜ」
 不意に教室の外――廊下の方から、そんな言葉が耳に飛び込んできて、月彦はぴくりと手を止めた。
「別に普通じゃね? つかなんでわかったんだよ」
「うちの顧問が飯に誘って、先約があるからってフラれたらしい。部活のときすっげー凹んでた」
「それただ単に口実として使っただけじゃね?」
「いやでも男居るっぽいのはマジらしい。うちの顧問も愚痴ってた。ずっと狙ってたのにーって」
「お前んとこの顧問ってあの若ハゲだろ? どう考えても釣り合わねーよ」
 どきどきと、心臓が跳ねるのを感じる。勿論表面上はそれとわからない様ポーカーフェイスを装いながら、月彦は全神経を教室の外で談笑しているらしい男子数人の会話に集中させていた。
「まあ彼氏くらい居るだろ。あの体だぜ?」
 やや下卑た声での言葉に続いて、決して上品とは言えない笑い声が続く。
「やっべーよな、アレ。廊下歩く時なんてケツ振りすぎだっての。誘ってんのかってレベルだわ」
「こないだなんてすげーミニ穿いてたじゃん。アレなら階段でパンツ見えんじゃね?」
「何々、誰の話してんの?」
「雛森。英語の」
「あー、確かに」
「俺一回だけ見たことある。ミニのとき何か落として、それ拾う時にちらっと見えた」
「マジかよ! 色は!?」
「いや、一瞬でそこまではわかんなかった。たぶん白か肌色だったと思う」
 どうやら声の主は違うクラスの男子らしい。少なくとも聞き覚えのない声だった。
「おーい、月彦。屋上行こうぜ」
「あ、カズ……。悪い、ちょっと先行っててくれ」
「ん? ああ……わかった」
 不思議そうに首をひねりながら、和樹が教室を出て行く。月彦は意味も無く机の中の整理などをする振りをしつつ、さらに耳を傾ける。
「つかさ、別にパンチラなんか見えなくても、スカートに下着の線浮かんでる時点でヤバくね?」
「えまじ、いつ出てた!?」
「いや、いつかまではわかんねーけど。たまに出てる事がある」
「お前どんだけケツ見てんだよ! だから英語の成績わりーんだよ」
 げらげらと、笑い声が響き渡る。
(……下着の線とか、確かに気づきもしなかった)
 もし本当だとしたら、雪乃に注意したほうがいいかもしれない。声の主である男子生徒達からは恨まれるかもしれないが。
「雛森って、マジで彼氏居んのかな?」
「フツー居るだろ。俺が職場の同僚だったらゼッテー口説いてるわ」
「でも相手の男って、うちの教師じゃないんだろ?」
「なんか大学の後輩って聞いたことある」
「年下かよ! …………彼氏アリってことは、やっぱヤッてんのかなぁ」
「そりゃヤるだろ」
「ヤるな」
「ヤってなかったら相手の男はホモだろ」
 一様に頷いているのが、気配で解る。月彦はもう、冷や汗が止まらなかった。
(……大学の後輩って……確か、先生が矢紗美さんに俺を紹介するときに、そんなコトを言っていたような……)
 てことは、噂の出所は矢紗美だろうか。或いは、雪乃自身が漏らしているのかもしれない。
 どちらにしろ、月彦としては生きた心地がしなかった。
「想像しただけで勃ってきた……やっべ……」
「お前どんだけだよ、学校来るまえにしっかりヌイとけよ」
「いやでも、彼氏持ちってことは、あの体を好きに出来る男が居るってコトなんだろ? やっべ、そいつ殺してぇ」
「想像力逞しすぎだろ」
「気持ちはわかるけどな。なまじ生で見る機会がある分、その辺のグラドルとかよりエロいし」
「スタイルもモデル並だしな。マジなんで教師になった?って感じ」
「雛森の水着写真とか誰か持ってねーかな?」
「俺五千円までなら出せるわ」
「お前そんな金あるなら先月貸した三千円返せよ」
 どっと笑い声が起こる。四人とも、まさかすぐ側に“殺したい相手”が居るとは夢にも思わないのか、その口から漏れる願望欲望はさらにエスカレートしていく。
「あー、雛森とヤりてー。壁に手ぇつかせて、立ちバックで突きまくってやりてぇ」
「だめぇ、教室でこんなコト!……ってか?」
「いや、やっぱフェラだろ。夜の教室で女教師にフェラしてもらうとか、すっげー興奮しねぇ?」
「俺は夜の教室より、昼のトイレの方がいいな。授業サボってこっそりトイレの個室で……のほうがよくね?」
「雛森にフェラしてもらえるなら場所なんてどこでもいいわ」
「実際、昼間はああやって学校来て授業とかやってっけどさ、夜は彼氏と会って、チンポしゃぶったり挿れられたりしてんだろ? やべー、やべーよ」
「お前の想像力がやべーよ。教師だって人間なんだから、セックスくらいするだろ」
「つか、雛森の授業があった日は必ず女教師モノのAVでヌいてんのは俺だけ?」
「俺は逆に無理だわ。雛森だと思い込めるレベルの女優に心当たりがねー」
「バッカ、そこは巧く自分を騙してだな……」
「だったらまだ雛森のケツのラインを目に焼き付けて、それをオカズにしたほうがいいわ」
「どんだけケツに執心なんだよ」
「ケツの良さがわからねーやつに、雛森でヌく資格はねぇ!」
「ケツの良さはわからねーけど、俺はもう雛森で100回以上ヌいたわ」
「回数は忘れたけど、間違いなく一リットル以上は搾り取られてる」
「おまえら……その熱意と行動力を何か別のことに活かせよ」
 再び、笑いが起こる。ほどなく、一人の男子がいい加減腹が減ったと言いだしたのをきっかけに、声の主達は月彦の聴力限界域外へと離脱していった。
(……先生、やっぱ男子には人気(?)あるんだな)
 きわどい思いはしたが、どうやら致命的なことまではバレてはいないらしい。ホッと息をつきながら、はたと。思い出したように月彦は壁掛け時計へと目をやった。
「って、あぁぁあ!」
 気がつくと、既に昼休みは三十分近く経過していた。月彦は慌てて弁当包みを手に、教室を後にした。



 放課後、月彦はいつになく周囲の視線を気にしながら部室棟へと向かった。鍵を開け、部室へと入る――が、室内に人の気配はない。
(時間的に先生はもうちょっとかかるよな……)
 明かりをつけ、部屋の中央にでんと居座っているテーブルの上に鞄を置き、暖房のスイッチを入れて傍らのソファにどっかりと腰をおちつける。
(…………こうしてみると、なんだかんだでちょこちょこ物が増えてるよーな)
 部屋の片隅の棚の上に置かれているコーヒーメーカーも、部室を使い始めた頃には無かったはずだ。ラビが持ってきたとも思えないから、恐らくは雪乃が調達したのだろう。
(……天文部らしい部活動なんて何もやってないけど、大丈夫なんだろうか)
 はたと不安に襲われる――が、そもそも廃部になったところで何一つデメリットなどないことに気がつく。尤も、あの雪乃のことだからその前に何かしらの手は打ちそうではあるが。
 一人、部室で惚けて待つこと三十分。部室前の通路をかつこつと明らかに生徒用の靴ではない足音が近づいてくるのを感じて、月彦は漸くにして待ち人が到来したことを知った。
「ごめんね、紺崎くん。遅くなっちゃって」
 がちゃりとドアを開けて入ってきた雪乃は、教室で教鞭を手にしているときとは明らかに違う、ほどけた笑みを浮かべていた。
「いえ、仕方ないですよ。俺も適当に寛いでましたから」
「コーヒー淹れるけど、紺崎くんも飲む?」
「えーと……じゃあ、頂きます」
 別段飲みたいとも思わなかったが、何となく雪乃がそんな答えを望んでいる気がして、月彦はその直感に従った。
「お砂糖とミルクはどうする?」
「砂糖なしで、ミルクありでお願いします」
「わかったわ」
 雪乃は笑顔で頷き、程なく二人分のマグカップをテーブルの上へと置き、月彦の隣へと腰掛けた。
「せ、先生……となりは、ちょっとマズいんじゃないでしょうか」
「どうして? あっ、そっか」
 雪乃は思い出したとばかりに立ち上がり、小走りに部室の入り口へと駆けて、がちゃりと鍵をかけるや、すぐに月彦の隣へと戻ってきた。
「これで大丈夫」
 心配の種は何も無くなったとばかりに、雪乃はマグカップそっちのけで体重をかけてくる。
「だ、大丈夫って言われても……」
 何となく、雪乃は腰に手を回されることを望んでいるような気配は感じるが、さすがにそこまでは出来ず、月彦は雪乃の体重がかかっていない左手でマグカップを手にとり、恐る恐る口をつける。
(ヤバい……なんか、いつになく先生を意識しちまう……)
 間違いなく、昼休みに聞いた会話のせいだった。勿論月彦としても、雪乃の肉体的な魅力については百も承知なつもりだった。しかし、改めて他人の口から聞かされると、自分の認識は甘かったのではという気にさせられる。
(考えてみたら……スゴいことだよな。なんだかんだあって、こんなコトになってるけど……本当だったら俺なんて到底手が出ないような美人なんだよな……)
 思わず、ゴクリと喉が鳴る。そっと横目で様子を伺うと、雪乃はまるで恋人にでも甘えるように目を閉じ、リラックスしきっているようだった。もちろんその胸元のブラウスはしっかりとボタンがとめられたままであり、どこかの淫乱狐のように露骨に胸元をはだけさせて誘惑してくるというようなことはない。
 ないが、それでもやはりスーツの下にしまわれたむっちりボディを想像せずにはいられない。何よりも、それはただの想像ではなく、しっかりとした肉の記憶として全身に刻まれているからだ。
(今、手を伸ばせば……)
 胸でも尻でも、触られたからといって雪乃は冗談っぽく文句を言いこそすれ、怒りはしないだろう。ひょっとしたら、裸が見たいと言っても許してくれるかもしれない。
(……ッ……ダメだ。なんか、毒されてる)
 雪乃は確かに魅力的な女性だ。しかし今、そういったことを望むのは雪乃に失礼だという気がしてならない。あの顔も知らない男子達にとって高嶺の花である女教師の体を自分は好きに出来るということを実証し、悦に入ろうとしているだけではないのか。
「そ、そういえば……先生。何か話があったんじゃないんですか?」
 “誘惑”から気を逸らす為にも、月彦は問うた。月彦自身、自分が雪乃の肉体的魅力に泣きたくなるほどに弱い事実は理解している。長引けば、一体どう心が傾くか解らない。
 故に、多少強引にでも気を逸らさねばならなかった。
「んー……話ってほどのことじゃないんだけど」
 ゆっくりと、雪乃が瞼を開ける。
「ちょっと、ヤなことがあったから、紺崎くんに癒やされたいなぁ〜って」
「ヤなこと……ですか?」
「うん。昨日、高校の頃の友達に誘われて一緒に飲みにいったんだけどさ、その子がもーほんとありえないっていうくらいカラミ酒で、私ひさびさにひっぱたきたくなっちゃった」
「それは……災難でしたね」
「元々そんなに仲良かったわけじゃなくて、共通の友達がいるから時々一緒に出掛けたりしたくらいで、二人きりで会ったことなんて一度もないような相手だったの。……魔が差したって言うのかしら。丁度暇だったし、たまにはこういうのもいっか、って思っちゃったんだけど、見事に裏目。帰り道のタクシーで速攻着拒してやったわ」
「そこまで……ですか。でもその人、仲がいいわけでもないのにどうして先生に連絡してきたんですか?」
「さぁ? すっごい性格の悪い子だから、他に一緒に飲みに行ってくれる相手が居なかったんじゃないかしら。実際、私ももう二度とゴメンだし。そりゃあ彼氏にも捨てられるって納得したわよ」
「あぁ、彼氏さんにフラれて、その愚痴を言うために先生に声をかけたってわけなんですね」
「そうみたい。三股されてたんだってさ」
「へ、へぇー……三股、ですか」
 微かに、口の中が渇くのを感じる。“こっち”はマズイ、会話の方向を修正せねば――月彦は頭をフル回転させる。
「あの子が言うには、真面目さだけが取り柄みたいな草食系な彼氏だったんだって」
 しかし、月彦が二の句を継ぐ前に、雪乃がしゃべり出す。
「それで油断して安心してたら、見事に三股されてたんだってさ。バカな子だと思わない?」
「いやぁー……何せ俺は会ったコトがない人ですから、一概にそうとは……」
「浮気されるなんて、男を見る目が無い証拠よ。騙される方が悪いとまでは言わないけど、見る目の無さと女性としての魅力の無さを棚に上げて男の方ばかり非難するのはどうかしら」
「ううぅ……」
 この話題はまずい。早く切り替えなければ――。。
「挙げ句、自分が三股かけられたからって、私の彼氏――紺崎くんまで浮気してるに違いなんて言ってくるんだから。同じ女として、ああはなりたくないって、昨日は心底思わされたわ」
「は、はは……自分がそうだったからって、他人もそうに違いないって、決めつけるのはよくないですよね」
 ポケットからハンカチを取り出し、脂汗をフキフキしつつ、月彦は震える声色を必死に抑えながら、普段通りの声を絞り出す。
「そ、そういえば、最近月島さん来ませんね。先生は何か聞いてませんか?」
 場の空気に耐えかねて、月彦は殆ど悲鳴を上げるようにそう切り出した。きょとんと、雪乃が目を丸くしているのを見て、さすがに強引すぎたかと肝を冷やす。
「…………月島さんなら、少し前にしばらく部活を休むって連絡があったけど」
「えっ、本当ですか!? なんで教えてくれなかったんですか!?」
「月島さんが部活を休むって、どうして紺崎くんに伝える必要があるの?」
「そ、それは……い、一応……同じ部活に所属する仲間、ですし……」
「本当にそれだけ?」
「それだけですよ! 月島さんとは本当に何も……先生が疑うようなことなんてないですから!」
「ふぅーん?」
 じぃぃーーーーーー。
 雪乃にあからさまな疑いの眼差しで見られる。が、人間何も後ろ暗いことが無い時にはいくらでも強気に出られるものだ。
 月彦は毅然とした態度で、雪乃の疑いの眼差しを迎え撃った。
「ぷっ」
 すると、雪乃が唐突に噴き出した。
「紺崎くんったら、そんなにムキにならないでよ。本気で疑ってるわけじゃないんだから、冗談よ、冗談」
「……冗談でしたか。先生も人が悪いですね」
 ハハハと、月彦も合わせて笑う。ラビとの件に関しては、何ら後ろ暗いコトは無い。が、その笑いは湿り気の全く無い、乾ききった笑いだった。
「最初は、私と紺崎くんの二人きりの空間を邪魔しにきた厄介者って感じだったけど……感じっていうか、事実そうだったけど……悪気があってそうなったわけじゃないみたいだし、なんだかんだでいい子だし、あんまり敵視するのも悪いかなって。そう思うことにしたの」
「なるほど……」
 それはひょっとしたら、ラビが部活に来なくなったことで雪乃の中でのラビの評価が急上昇した――というだけではないのかと。
「でも本当に月島さんどうしちゃったんでしょうね。何か理由とかは聞かなかったんですか?」
「なんにも。とにかくしばらく休むって」
「そう、ですか」
 一体どうしたというのだろうか。気にはなる――が、これ以上雪乃から情報が引き出せるとは思えない。
(……やっぱり、月島さんから直に話を聞くしかないか)
 しかし、あの逃げ足の速いラビを捕まえて話を聞くのは骨が折れそうだ――むううと唸りながら、月彦はマグカップに口をつける。
「……コーヒー美味しい? 紺崎くん」
「ええ、美味しいですよ」
 先生が淹れてくれたコーヒーですから、とでも続ければ、きっと雪乃は喜んでくれたかもしれない。しかし、さすがにそこまで“理想の彼氏”には徹しきれず、月彦は微笑でお茶を濁した。
「…………私も、飲もうか、な」
 意味深な雪乃の呟き。ちらりと、雪乃の視線が月彦のマグカップを捉える。
(えっ……まさか……)
 雪乃用のマグカップはまったくの手つかずでテーブルの上に乗ったままだ。であるのに、月彦が手にしているマグカップへ視線を走らせたということは。
「……飲みますか?」
 同じマグカップで飲みたいということだろう。月彦はそっと雪乃の口元へとマグカップを寄せると、雪乃は途端にムッと表情を曇らせた。
「そうじゃなくて」
「そうじゃなくて?」
「だから」
 みなまで言わせる気かと言いたげな顔。漸くにして月彦は雪乃が言わんとすることを察した。
「先生……もしかして……」
 月彦は人差し指で自分の唇と、雪乃の唇を交互に指さす。たちまち雪乃はにっこりと、照れるような笑顔を浮かべる。
「……あの、先生……一つ問題が……」
「問題?」
「ホットコーヒーでそんなことしたら、火傷しませんか」
「……しばらく外気に晒して冷やす、とか」
 本気で言っているのだろうか――月彦は苦笑を滲ませる。
(……本気っぽいな)
 雪乃が無茶な要求をしてくるのはある意味ではいつものこと。そもそもそういった“イチャイチャ”がしたいのなら、最初からマグカップは一つだけ用意し、しかもホットではなくアイスにするべきではないのだろうか。
(……その場の流れ、雰囲気、思いつきなんだろうなぁ)
 最初から全て計算ずく――というわけではなく。話をしていたら、そういうことをしたくなった――というだけなのだろう。
「……じゃあ、えっと……とりあえず暖房を消して、窓をあけますか?」
「…………うーん……」
 雪乃は唸り、しばらく唸ってから「やっぱりいい」と呟いて、自分のマグカップに手を伸ばした。自分でも、何となく“機”を逃したと察したのかもしれない。
「……ごめんね、紺崎くん」
「…………? 何がですか?」
「いろいろ。……もっと巧くリードしてあげられるといいんだけど」
 はぁ、と小さなため息。ひょっとしたら雪乃は年上の自分が巧くリードしてあげなければと、プレッシャーを感じているのかもしれない。
「紺崎くんも、二人きりのときは遠慮しなくていいのよ? 思い切り甘えてくれていいんだから」
「いえ……さすがに学校内じゃ……」
「ちゃんと鍵かけてあるし、そりゃあ“どんなお願いでも”ってワケにはいかないけど。……おっぱい触りたいとかだったら、遠慮なんかしなくていいのよ?」
 思わず「本当ですか?」と口にしかけて、月彦は我慢する。ただでさえ口さがない男子達のせいでムラムラさせられているというのに、生乳など触ってしまったら確実に理性が消し飛んでしまうからだ。
「……魅力的な提案ですけど、それは今度先生の部屋に遊びに行った時の為にとっておきます」
「むー」
 雪乃が不満そうな唸り声を上げる。それじゃあ代わりに、とでもいうかのように雪乃は自分用のマグカップを手にとり、両手で大事そうに月彦の顔の前まで持ってくる。
「じゃあ、はい。……ふーふーして?」
 私がふーふーしてあげるという発想にたどり着かないあたりが、良くも悪くも雪乃であると苦笑しながら、月彦は雪乃の望み通りにするのだった。


 お持ち帰りこそ出来なかったものの、それなりに濃密な時間を過ごせて雪乃は上機嫌だった。日が落ちたとはいえ、どこに誰の目があるともしれないからと、あえてバラバラに学校を出る。本音を言えば、その後さらにどこかで合流して一緒に晩ご飯でも――と行きたかったが、そこは我慢することにした。
(……誰かさんみたいに、ウザい女だって思われるのも嫌だし)
 月彦の側から誘われるのならばともかく、自分の側からは控えるようにしようと。雪乃は先日の佳恋との飲み会を反面教師として活かすことにした。
(紺崎くんがもっと甘えてくれればいいのよね……)
 月彦の方からぐいぐいと迫られれば、いろいろとやりようはあるのにと。雪乃はそこが歯がゆくてたまらない。
(もう、紺崎くん……学校じゃダメって言ったでしょ? どうしてもシたいなら今夜私の部屋で……ね?――とか、そういう流れだって!)
 部室で二人きりになるなり迫ってくる月彦を諭しながらも焦らし、さながら小ぶりな独楽を手のひらの上で転がすようにコントロールすることだって出来るのではないか。
(性欲が無い……わけじゃないのよね)
 ただ、あるときとないときの差がすさまじいだけだということは、身をもって知っている。故に、普段の月彦相手だと思うように迫ってこないことにモヤモヤさせられ、夜の月彦相手だと年下とは思えない圧倒的な責めにドキドキさせられるわけなのだが。
(今日はいい雰囲気だったし、明日もこの調子なら……今週末は久しぶりにデートも……ふふふ……)
 思わず顔がにやけそうになるのを必死に噛み殺しながら、雪乃は帰り道にあるコンビニの駐車場へと車を止める。ストックがきれかかっていた晩酌用の氷を買うだけのつもりだったのだが、はたと。その足が雑誌コーナーの前で止まった。
「……ふぅん」
 何の気なしに目をやり、すぐに視線を戻す――はずだった。しかし雪乃の目は、ある雑誌の表紙を捉えて外さなかった。それは女性を主な読者としているであろう週刊誌であり、普段であれば一瞥こそすれ目を留めるなどということはありえないものだった。
 しかし、その表紙に書かれた“5万人に聞きました! 男が年上の彼女に言われたい夢の言葉集計結果ついに発表!”の文字が、雪乃の心を掴んで離さなかった。
(……こういうのって、だいたい役に立たないのよね)
 そんなに簡単にいくのなら苦労はないと、雪乃は鼻で笑い飛ばす。笑いながら、雑誌へと手を伸ばし、ぱらぱらとめくる。が、問題の記事が書かれたページが一向に見つからない。
 よくよく見ると、どうやらその記事の部分は袋とじになっているらしかった。馬鹿馬鹿しいと笑って一度は棚へと戻し、その場を去りかけて。
「…………。」
 くるりと、雪乃は再び雑誌棚の方へと向き直り、半ば乱暴に件の雑誌を手にとると買い物籠へと放り込む。さらに1,2冊ほど適当に雑誌を放り込み、早足に会計を済ませて店を出た。
「あっ……」
 出た後で、そもそも氷を買う為に来たことを思い出して愕然とする。また店内に入って氷だけ買うのが億劫に思えて、雪乃はそのまま帰ることに決めた。
 別に一日くらい飲まなくても死にはしない――心の中でそんな言い訳をしながら、マンションの地下駐車場へと車を止め、エレベーターへと乗り込む。
「………………なにかしら」
 ゆっくりと上昇するエレベーターの中で、雪乃は妙な胸騒ぎを覚えた。虫の知らせ、嫌な予感と言い換えてもいいそれは、自宅のドアを開けた瞬間見事に的中した。
「あら、おかえり雪乃。今日は遅かったのね」
「おねえちゃん…………どうして……」
 ドアを開けるなりとびこんできたのは、見たくもない実姉の顔。どうやら料理中だったらしい矢紗美は一瞬ひょっこりと顔を覗かせたかと思えば、すぐさま台所の方へと戻っていく。
「ああもう!」
 雪乃は憤然としながら靴を脱ぎ捨て、ガス代の前でフライパンを振るっている矢紗美の隣へと詰め寄る。
「今日という今日は言わせてもらうわ、お姉ちゃん! 帰りに待ち伏せたり、勝手に部屋に入ったりするのは金輪際止めて!」
「いいじゃない別に」
 あっけらかんと言いながら、矢紗美は手際よくフライパンを振るい、ピーナッツを宙に舞わせる。恐らくは酒の肴にするつもりのバターピーナッツなのだろう。姉の作るバタピーの絶品さは雪乃も知っているが故に、つい目でその動きを追ってしまう。
「……って、全然良くない! そもそもどうやって入ったのよ!」
「そりゃあ、私は婦警さんだし? 姉妹なんですけど、開けてくれませんかーって、管理人さんにダメ元で手帳見せて頼んだら割と簡単に……よっと」
「…………来るなら来るでせめて一日前にはメールくらい入れておいてよ。私にだってお姉ちゃんに見られたくないものくらいあるんだから」
「見られたくないものって、たとえばそのコンビニ袋の中身とか?」
「なっ……!」
 雪乃は咄嗟にビニール袋を自分の後ろへと隠す――それが、徒になった。
「え、なに。まさか本当に持ってたの?」
「も、持ってないわよ! ほら、見ての通りただの雑誌なんだから!」
 雪乃は3冊買った雑誌のうち、一番当たり障りのないものを取り出し、表紙を矢紗美の前につきつける。
「てことは、そっちの袋に残ってるのが見られたくない方かしら」
 じゃらん、じゃらんとピーナッツを炒りながら、矢紗美はにまっ、と笑う。あぁだめだ、こういうことには怖い程に鼻が利くのだ、この姉は。
「…………言っとくけど、おつまみなんか作ったって――」
「ああそうそう。冷凍庫のロックアイス無くなりかけてたわよ。気を利かせて買ってきてあげたんだから、有り難く思いなさいよね」
「……………………。」
 もはや出てくるのはため息だけ。がっくりと肩を落とす雪乃の前で、矢紗美は得意げにフライパンを振るい、ピーナッツを宙に舞わせるのだった。


「で、最近どうなの? 紺崎クンとは巧くやってる?」
「別に……なんで紺崎くんとのことをお姉ちゃんにいちいち報告しなきゃいけないのよ」
 リビングのソファを挟んで座り、矢紗美が買ってきたピザで腹ごしらえをしながらの晩酌。ウイスキーグラスにちびりちびりと唇をつけながら、雪乃は不機嫌を隠そうともせずに言う。時折手を伸ばしてはピザを、またはバターピーナッツを摘み上げて口の中へと放り込む。……悔しいが、やはり絶品だと言わざるを得ない。
「機嫌が悪いってコトは、巧くいってないのかなー?」
「機嫌が悪いのはお姉ちゃんのせいだし。今日だって、放課後たっぷりイチャイチャして帰ってきたし」
「イチャイチャしたって思ってるのは、あんただけだったりして」
「はぁ?」
「紺崎クンの方は“あー、やっと解放された”って思ってたりして」
「なぁに、お姉ちゃん。ケンカを売りに来たの?」
 先日の佳恋に引き続いて、何故また不愉快な酒を飲まねばならないのか。雪乃は威嚇するように睨み付ける。
「どうせ、その“イチャイチャ”っていうのも、紺崎クンにあんたが一方的に甘えてるだけなんじゃないの?」
「……知った風に言わないでよ。紺崎くんはその辺のがっついた男子と違って奥ゆかしいんだから。年上の私がリードしてあげないといけないの」
「紺崎クンが奥ゆかしい……?」
 ふふっ、と矢紗美が意味深に笑う。何とも神経を逆なでする――気に障る笑い方だった。
「なるほどねぇ。だからこんな雑誌なんか買っちゃったのね」
「あっ、ちょっと! 勝手に見ないでよ!」
 一体いつの間に取られたのか、矢紗美がグラス片手に開こうとしているのは紛れもない“例の雑誌”だった。取り返そうと雪乃が手を伸ばす――が、矢紗美が雑誌をひょいと持ち上げてかわされる。
「えーと何々……男が年上の女性に言われたいセリフ特集――ぷぷぷっ……ねえ雪乃、あんたこれ買うの恥ずかしく無かったの?」
 目尻に涙を溜めて笑いを堪えながら言われ、雪乃はカッと顔が熱くなるのを感じた。
「ち、違うの! 私は毎週買ってて、たまたま今週号が……」
「じゃあ、先週号持ってきてみなさいよ。ほら」
「先週号は……よ、読んだらすぐ捨てちゃったから……」
「はいはい、そういうコトにしておいてあげるから、早くカッターか鋏持ってきて。早くしないと手で破って袋とじ開けちゃうわよ?」
「だから、どうしてお姉ちゃんが読むの! 私が買ったんだから返してよ!」
「いいじゃない。私も丁度年下の彼氏居るしぃ? 後学のために読んでおきたいし」
「だったら帰りに自分で買えばいいじゃない!」
「あ、ムリムリ。こんな本自分でレジ持っていくなんて絶対できない。こんな本買うくらいなら、まだ下着姿で買い物したほうがマシなくらいよ」
「〜〜〜〜〜っっっ!!」
「あーもう、面倒だから適当にカードとかで開けちゃうわよ?」
 いつまでも席を立たない雪乃に焦れたように、矢紗美は財布の中からクレジットカードを取り出し、袋とじを開け始める。
「えーと、何々……男が年上の彼女から言われたい言葉……“五位 あなたには絶対寝顔は見せないわ”だって、ぎゃははははははははは!!!」
 ソファをばんばん叩きながら、矢紗美が腹を抱えて笑い出す。
「よ、良かったじゃない、雪乃……明日紺崎クンに言ってあげれば? あ、あなたには絶対寝顔は見せないわ、って……ぷくくくくっ」
「そ……それは極端な例でしょ? 他はもう少しまともなんじゃないの?」
「ちょっと待って……あー苦しい……ええと、4位は……“ダメ、まだ子ども達が起きてるかもしれない”だって! 年上関係なさすぎーーーーーーーーーー!」
 たちまち、矢紗美が狂ったように笑い出す。
「ちょっと貸して!」
 矢紗美の手からひったくるように雑誌を奪い、雪乃も袋とじへと目を通す。どうやらベスト100のうち、100位から6位までは一覧形式で小さく書かれており、1位から5位までがそれぞれ1ページを使って紹介されているらしい。矢紗美がいきなり5位を読み上げたのはそのためだろうと推測しながら、雪乃は袋とじのページをめくり、3位へと目を通す。
「三位……“今夜は泊まっていくんでしょ?”」
「ひぃ……ひぃ……そ、それも……年上とか年下とか関係なくない? あー苦しっ……お酒戻しちゃうかと思った……」
 涙を拭いながら、矢紗美は深呼吸を繰り返していた。
「ていうかさ、なんか全体的にセンスが古いわよその本。20代前後の男性5万人から集計とったとか絶対嘘だから」
「………………。」
 確かに、と。姉の言葉に雪乃自身も頷いてしまいそうになる。
(……元々そんなに期待はしてなかったけど)
 やはり、雑誌の特集記事などこんなものか、と思わざるを得ない。
「ねえ雪乃、その本もし要らないならくれない?」
「どうして?」
「だってその本超笑えるんだもん。明日職場に持っていって同僚に見せて回りたいの。“うちの妹がこんな本買ってたんだけど〜”って」
「〜〜〜〜〜〜っっっ! 絶対あげない! 欲しいなら自分で買えば?」
 バンと乱暴に雑誌を閉じ、そのまま無造作に後方へと放り投げる。
「はーっ……いい酒の肴になったわぁ。やっぱり雪乃とのお酒が一番楽しいわ。……うん、男と飲む酒の次に楽しい!」
「それ全然一番じゃないじゃない。私はお姉ちゃんと飲むお酒が二番目に楽しくないわ」
「あれ、一番じゃないんだ? じゃあ一番は?」
「…………嫌いな友達と一緒に飲むお酒」
「なになに、何かあったの? 詳しく聞かせて」
「別に。ただの付き合いよ」
 つーんと、雪乃はそっぽを向き、ぐびりとウイスキーを呷り、バタピーを掴んで口の中へと放り込む。
「あっ、そーだ」
 不意に、ぽんと矢紗美が手を叩いた。
「ねえ雪乃、猫ちゃんは元気してる?」
「ノンのことなら元気よ」
「でも、今日は一度も姿見てないんだけど……まさか、ベランダに閉め出してるとかじゃないわよね?」
「そんな可愛そうなことしないわよ。“嫌いな人”がいるから隠れてるだけでしょ」
「……私、猫には好かれる体質なんだけどなぁ」
 矢紗美はグラスを片手に立ち上がると、ノンの名を呼びながらそこかしこを歩き回る。が、ノンは姿を見せるどころか返事も返さない。
「無駄よ、ノンは私にしか懐かないんだから」
 誇らしげに、雪乃は口元に笑みを浮かべる。正確には、私と紺崎くんだけだけど、と心の中で付け足しながら。
「あんたも昔は猫嫌いだったのにねー。……ま、そんだけ懐いてるなら、万が一紺崎くんにフラれても寂しくないか」
「…………何よ、さっきから。人がフラれて当たり前みたいに言わないでくれる?」
「あはっ、ごめんごめん。でもさ、人生何が起きるかわからないんだから。その時の覚悟だけはしておいたほうがいいかもしれないわよ?」
「しない! そんな覚悟なんて要らないから!」
 雪乃は憤然と言い放ち、グラスに残っていたウイスキーを一気に飲み干した。


 

 矢紗美は十一時過ぎになって漸く帰った。聞けば、翌日は非番なのだという。
(……お姉ちゃん、ちゃんと働いてるのかしら)
 いくらなんでも非番が多すぎるのでは無いか。なんだか姉の倍は働いているような錯覚に陥りながら、雪乃は晩酌の後片付けをし、シャワーを浴びる。
「はぁ…………もうっ……お姉ちゃんじゃなくて紺崎くんに来てほしいのに」
 つい、独り言を呟いてしまう。折角合い鍵を渡した恋人のほうはまったく来てはくれず、合い鍵を渡していない実姉のほうが頻繁にやってくるというのは何の皮肉か。
 シャワーを浴び終え、ドライヤーで髪を乾かしていると、不意に脱衣所の扉の外からにゃあ、と声が聞こえた。
「あら、ノン。どこに隠れてたの?」
 ドライヤーを棚に戻し、脱衣所から出る。ちりんと首の鈴を鳴らしながら、ノンが小さな体を愛しげに雪乃の足へと擦りつけてくる。
「わかってるわよ? お姉ちゃんが嫌いだから隠れてたのよね」
 いいこ、いいこと雪乃はかいぐりかいぐりする。別に矢紗美に慣れて欲しくないわけではないのだが、ノンのこういうところがいじらしいと雪乃は思うのだった。
(私と好みが同じなのよね。紺崎くんにも懐いてるし)
 反対に、家に上がる他の女性に対しては敵意すら剥き出しにする辺りも、ペットとしては決して褒められたことではないが、雪乃は好感を持っていた。
「お腹空いてるでしょ? すぐ準備するからね」
 雪乃は台所へと移動し、缶詰を開けて餌皿に中身を移し、水も新しいものに変える。
「あ、こら! ノン、それは食べ物じゃないのよ」
 待ちきれないのか、ノンがコンビニ袋をしゃりしゃりと引っ掻き始める。雪乃はノンの体をそっと持ち上げ、餌と水が用意された皿の前へと優しく下ろす。たちまちノンははぐはぐと勢いよくキャットフードを食べ始めた。
「遅くなってごめんね」
 その背を撫でると、ノンは一度だけ顔を上げてにゃあと鳴いた。あまり食事の邪魔をするのも悪いと思い、雪乃はコンビニ袋を手に立ち上がると寝室へと戻った。中に入っているのはついでに買った知らない雑誌だったが、さすがに読まずに捨てるのももったいない。
(……ま、つまらないならつまらないで、寝る前だから丁度いいし)
 ごろりとベッドに寝転がりながら、雪乃はビニール袋から雑誌を取り出し、ぱらぱらと目を通す。が、元々欲しくて買ったわけでもない本がそうそう興味を引くはずもなく。雪乃の狙い通り、徐々に眠気が増していく。
「ふぁ……」
 雑誌を放り出し、掛け布団の下へと潜り込む。明かりを消して瞼を閉じると、不意に月彦の姿が浮かんだ。
(紺崎くん……)
 とくん、とくんと静かに心臓が高鳴るのを感じる。明日もまた部室で一緒に過ごせるだろうか。週末は一緒に過ごせるだろうか。
 そんなことを夢想しながら――もちろん興奮しすぎて眠れなくならない程度に――雪乃は今日、月彦と触れあった時のコトを思い出していた。
「………………。」
 “それ”は、或いは普段であれば気にもならなかったかもしれない。しかし、一度目は佳恋に、そして先ほどは矢紗美に煽られた不安の種が、心の隙間をめざとく見つけて根を張るように、雪乃の心を知らず知らずのうちに浸食していた。
 それでも、雪乃は己の“モヤモヤ”の元となっているのが一体何であるのか解らなかった。微かな、本当に微かな手がかりを辿るように、雪乃は今日の出来事を思い返していく。
(そういえば……あのとき……)
 ひょっとして、ラビとデキているのではないか――そう冗談めかして言ったときの、月彦の言葉。『月島さんとは本当に何も……先生が疑うようなことなんてないですから!』――その瞬間、雪乃はぱちりと、瞼を開いた。
「月島さん……“とは”?」



 朝、月彦は一つの決意を固めていた。
(月島さんと、ちゃんと話をしてみよう)
 事情はわからないが、なにやら避けられているらしいということは間違いない。これが身に覚えがあれば納得もするのだが、どれだけ考えても心当たりがない。
 ひょっとしたら、何か致命的な誤解でもされているのかもしれない。だとすればそれは自分にとっても、ラビにとっても良いことにはならないのではないか。
 とにもかくにも、ラビと話をする場を設けなければ文字通り話にならない。幸いなことに、ラビとは同じ高校に通っており、所属するクラスも解っている。月彦は朝学校へと来るなり、自分の教室に鞄を置き、ラビの教室の方へと足を向けた。
「えーと……居ない……かな」
 さすがに違うクラスの教室に堂々と入っていくのは躊躇われ、月彦はそれとなく教室前の廊下を往復しながら中の様子を伺う。が、ラビがみつからない。もし中に居さえすれば、あの特徴的な金髪を見逃す筈はないのだが、それが見えないということはまだ登校していないということだろうか。
「……ヒコ?」
 そんなときだった。背後から聞き覚えのある声がして、月彦は振り返った。
「おっ、千夏か。どうしたんだ?」
 口にした後で、月彦は思い出した。
(あ、そうか。月島さんと千夏は――)
 同じクラスだったということを。
「ヒコこそ、うちのクラスに何しに来たん?」
「ああ、えと……用っていうか……」
 月彦は迷った。ここで千夏に本当のことを言うべきか否かを。
(隠すような事じゃあない気がするけど……)
 だからといって喋っても大丈夫なのだろうか。相手が相手なだけに、月彦は慎重にならざるをえない。
「ああ、そうそう! 千夏を捜してたんだ! 今日、数学の教科書忘れちまってさ、二限目だからそっちとはかぶらないだろ? 貸してくれないか?」
「…………………………。」
 じぃーーーーーーーーーーーー。
 胃が痛くなるような疑いの目を向けられ、冬の朝だというのに月彦の前身は冷や汗に濡れた。
「…………わかった。じつはちょっと、月島さんっていう女子に話があって捜してるんだ」
「月島さん……ああ、あの――」
 ハッとしたように、千夏がそこで口を噤む。
「あの?」
「えと、月島さんならいつも教室くるのはギリギリやで。伝言とかなら、うちが代わりに聞いとこか?」
「……いや、いいや。昼休みにでも出直すことにする」
 軽く手を振って千夏と別れ、踵を返す――そのまま自分の教室まで歩こうとして、月彦はギョッと足を止めた。
「今の子……」
 一体いつからそこに立っていたのだろうか。廊下の壁に設置された非常ベルのすぐ横で壁にもたれるように腕を組んでいた雪乃が、まるで独り言のように続けた。
「たしか、前に紺崎くんが入院した時におみまいに来た子……よね?」
「せ、先生!? いつからそこに居たんですか……声くらいかけてくださいよ、びっくりするじゃないですか!」
「びっくりする……? もしかして、私に知られたくない関係なのかしら?」
「へ……?」
 空笑いが止まる。そして気がつく。いつになく雪乃の顔がマジだということに。
「朝っぱらから何を言ってるんですか。千夏とはただの幼なじみですよ」
 言いながら、月彦はちらりと背後を振り返る。幸い、千夏はあのまま教室の中へと入ったらしく、その姿は見えない。もし今この会話を聞かれでもしていたら、大変なことになるところだった――かもしれない。
「さっきの子が気になるの?」
「えっ」
「私と一緒に居るところを見られたくない?」
「ちょ……先生、何を言ってるんですか」
 一体全体どうしたというのか。昨夜はあんなにも、さも恋人同士のようにイチャイチャしてそのまま上機嫌で帰宅したではないか。
 それなのに何故、朝っぱらからこんなことになっているのか。
「……なんちゃって」
 月彦が完全に固まっていると、雪乃が突然ぺろりと舌を出した。
「ごめんね、紺崎くん。紺崎くんが女子と話してるのが見えたから、冗談でちょっとからかってみただけ。悪気はなかったの」
「え……あ……冗談、ですか」
 全身を包んでいた緊張が、フッと弛緩する。思わずその場に膝から崩れそうになるのを、辛くも耐える。
「せ、先生! 冗談も時と場所を考えてくださいよ! こんな所じゃ、いつ誰に見られるか――」
 月彦は周囲を見回す。幸い、朝の登校のエアポケットのような時間帯なのか、廊下には殆ど人影はなかった。
「ごめんね。……だけど、紺崎くんも、もうちょっと堂々としてくれないと……さっきの反応、まるで本当に浮気してるみたいだったわよ?」
「………………っ……!」
「じゃあ、私はもう行くから。……放課後、部室で待ってるからね?」
 雪乃はくるりと背を向け、グラマラスなお尻をぷりんぷりん振りながら職員室の方へと去って行く。月彦はいつになくその尻を凝視してしまい、下着の線が浮かんでないかを無意識のうちにチェックしてしまいそうになって――慌ててかぶりを振った。


 もしかすると、雪乃は浮気を疑っているのだろうか――午前中の授業を受けながら、月彦はぼんやりとその可能性を考えていた。
(でもどうして……)
 突然疑われ始めたのだろうか。月彦は昨日の、雪乃とのやりとりを思い出す。
(ええと、確か……先生が昔の友達とお酒を飲んだって話をして……)
 そこから三股がどうという話になり、ラビの話へと変わった。まさか、あの強引な話題転換で雪乃に疑われたのだろうか。
(でも、だったら昨日の時点で問い詰められてる筈だよな)
 それとも、その時の疑念に加えて“女子生徒との会話”という状況証拠が合わせ技となり、雪乃の中で疑惑となってしまったのだろうか。
(…………でも、女子と会話したらアウトってのは、さすがに……)
 トリガーとして弱すぎると思える。やはり、昨夜雪乃が帰った後で何かがあったと考えるのが妥当ではないだろうか。
(まさか、矢紗美さんがバラした……とか……)
 可能性の一つとして考えるも、月彦は首を振る。もしそうだとすれば、“この程度”で済んでいるのがおかしい。
(……わからない、本当に冗談なんだろうか)
 本当に疑っていないのか、それとも本当は疑っているのか。この判断を間違うと大変なことになりそうで、月彦はまったく授業に身が入らなかった。

「おーい、月彦。屋上行こうぜ」
「あ、あぁ……悪い。その前にちょっと寄るところがあるから、先にいっててくれ」
「またか? まぁいいけど」
 四時限目が終わるなり、待ちかねたとばかりに席を立ち促してくる親友とそんなやりとりをして、月彦は教室を出た。行き先はもちろん、千夏のクラスだ。
(……でも、いいのかな)
 しかし、頭には迷いがあった。こういった行動は、今は危険ではないのだろうか。
(……月島さんと話をしてるところを、また先生に見られたら……)
 またぞろ、雪乃の中で浮気の疑念が増すのではないか。今は波風を立てず、大人しくしているべきではないのか――。
(……いや、構うことはない)
 迷いを振り切るように、月彦はそう決断する。この行動に限っては、何らやましいことはない。もし仮にラビと話をしているところを雪乃に見られ、誤解をされたとしても何を恐れることがあるだろうか。
(もしそれで、先生に愛想を尽かされるなら、それは仕方が無いことだ)
 そうだと割り切ってしまえば、自然と足の歩みも早くなる。
「おっ、千夏!」
 目指すクラスの前の廊下に、数人の女子と話をしているらしい千夏の姿を見るなり、月彦は手を上げて声をかけた。
「あっ、ヒコ! 月島さんならまだ教室に居るで−」
「そっか、サンキュ。和樹は先に屋上行ってるから。俺も用が済んだらすぐ行く」
 千夏の脇を抜け、教室の後ろ側の戸の隙間からそっと中を覗き込む。
(……居た!)
 ベランダ側の一番後ろの席に、見慣れた金髪娘が座っているのを見て、月彦は早すぎるとは解っていてもホッと安堵の息をつく。
(さあ、ここからが肝心だ)
 見れば、ラビはまだ授業の片付けが終わっていないのか、なんとももたついた手つきで机の上のノートやら教科書やらを机の中にしまったり鞄の中にしまったりしていた。ここで詰めを誤るわけにはいかない。月彦は体を戸の隙間から教室内へと滑り込ませ、出来るだけ気配を消しながらラビの机の側へと忍び寄る。
「月島さん」
 そして、ここまで来たらもう逃がしっこないという距離まで接近してから、そっと声をかける。――瞬間、びくりと。ラビがまるで電撃でも受けたように体を硬直させ、周囲をキョロキョロと見回す。
「やっ」
 手を振り、笑顔を返す。
「!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!」
 目が合った――瞬間、ラビは顔を真っ赤に染め、がたりと席を立つ。そしてそのまま駆け出し――
(甘い……!)
 その反応は読んでいたとばかりに、月彦はラビの前に立ちふさがるように体をスライドさせながら、さらにその手を掴もうと手を伸ばす。
 が。
「なっ……!?」
 捉えたと思った瞬間、月彦の右手は空を切った。それもそのはず、ラビは月彦が予想した進路とは真逆の方へと瞬時に体を切り返し、軽々と抜き去ったのだから。まるで、世界屈指のバスケットプレイヤーが絶妙なフェイントでディフェンスを抜き去ったような、そんな神がかった動きだった。
「ちょっ、待って! 月島さん!」
 振り返りざまに声をあげた時にはもう、ラビの姿は教室の戸の向こう側だった。慌てて後を追うも、廊下に出た時にはもうその後ろ姿はどこにも見えなかった。
「嘘だろ……」



 

「あれ、ヒコ? 月島さんとの話は終わったん?」
 肩を落としながら屋上へといくと、囓りかけのパンを手にした千夏が嬉々として歩み寄ってきた。
「いや……ダメだった。……逃げられちまった」
 言いながら、月彦はがっくりと腰を落とし、コンクリートの壁にもたれ掛かるように座り、弁当包みを開く。
「月島さん……って、誰だ?」
「ウチのクラスの女子。ほら、ハーフの子がおるやん?」
「ああ、あの金髪の……なんでまたその子の尻なんて追いかけてんだ?」
「別に尻を追いかけてるわけじゃない」
 ムッとした声で返すと、和樹はおどけた顔で肩をすくめた。
「なんだなんだ、妙子とケンカでもしたのか?」
「なんでそこで妙子が出てくるんだ」
「いやだって……月彦が追いかけるくらいだから、どうせその子もおっぱいスゲーんだろ?」
 ちらりと、和樹が同意を求めるように千夏を見る。千夏は一瞬不愉快そうに眉根を寄せるが、伏せ目がちに頷いた。
「ちょっと待て、お前らは俺をどういう目で見てるんだ!」
 まるでおっぱいの大きな女子が居れば手当たり次第に手をつけているような言いぐさに、さしもの月彦も声を荒げた。
「じゃあ、このこと妙子にチクってもいいよな? “最近、月彦がハーフの金髪巨乳の女子に声かけまくってる”って」
「……カズ、何が望みだ?」
「おいおい、止めてくれよ。それじゃあまるで俺が脅してるみたいじゃねーか」
 といいつつ、和樹は今にも涎を垂らさんばかりに月彦の弁当を凝視してくる。その手には既に食べ終わったらしいパンの包みがいくつも握られているというのに、たくましいことだと月彦は思う。
「……ほらよ」
 月彦は無言で一口カツを摘み、隣に座っている親友の方へと放り投げた。和樹は器用にそれを口でキャッチし、むぐむぐと咀嚼する。
「でもヒコ、月島さんに用事て、一体何なん?」
「……前に模試の時に勉強教えてもらったんだ。すげー解りやすい教え方だったから、また教えてもらいたいだけだ」
「そんなん別に月島さん頼らんでも、妙ちゃんとかに教えてもろたらええやん」
「…………妙子はダメだ。あいつは勉強は出来るかもしれんが、人に教えるのは向いてない」
 月彦は首を振る。
「でも、月島さんはヒコから逃げるんやろ?」
「そうなんだ。でもなんで逃げられるのか解らないから、直接会って話をしたいんだ」
「むぐ、むぐ……どうせアレだろ。お前のことだから、勉強教えてもらってる時にうっかり胸を揉んだとか、そんなんだろ」
「むしろそういう理由なら、尋ねるまでもなく自分で解るだろうが!」
「ヒコは時々無意識装って悪さするからなぁー」
「千夏まで何言ってんだ! 俺は変質者か!」
「ん? 何なら被害者に今電話かけてみよか?」
 千夏が携帯の液晶に“白石妙子(携帯)”を表示させ発信ボタンに手をかけたまま「ん?」と笑顔で迫ってくる。
「待て、待て。妙子と他の女子を一緒にするな。妙子はほら、結構合意っぽい雰囲気で触らせてくれるけど、他の女子だとそうはいかないだろ。さすがにそこは洒落にならんっつーか――」
「あ、もしもし? 妙ちゃん? あんな、ヒコが妙ちゃんは合意でおっぱい触らせてくれるて――」
「やめろおおおおおおおおおおおおお!」
 月彦は弁当箱を脇に置くなり、飛びかかるようにして千夏から携帯を取り上げる。
「嘘や嘘。そんなんでいちいち妙ちゃんに電話するわけないやん」
「くっ……ったく、二人そろって俺をダシに楽しみやがって。だったら二人とも月島さんを捕まえるのに協力してくれよな! 特に千夏、お前の足なら月島さんが逃げても捕まえられるだろ?」
「うちが? 無理に決まっとるやん」
「へ? 何言ってんだ。お前、足速いだろ?」
「でも、去年のスポーツテストじゃ学年3位やで。二位は陸上部の短距離走のエースで、一位はヒコが捕まえろー言うてる相手」
「つ、月島さん……学年で一番足速いのか!?」
 千夏は何をいまさらという顔をする。
「あと、垂直跳びとかも一番やで? むしろヒコが知らんかったのが驚きや」
「……まったく知らなかった。ていうか、まったくそういう風に見えない」
 ラビといえば、どちらかといえばおっとり――のんびりともいえる――した感じで、悪くいえばトロ臭そうな印象のある女子だ。
(……でも、足が速いってのは目の前で見せつけられたからな)
 それでなければ、とても信じられない話だった。
「…………てか、陸上部のエースより速いって……それスカウトとかされなかったのか?」
「されてたで? でも首ぶんぶん振って嫌がるから、さすがに無理強いはできんみたいや」
「……まあ確かに、運動部って感じじゃないしなぁ」
 本人の素質と、本人がやりたい事はまったく別という典型例なのかもしれない。
「つーかよ、別に無理に逃げるのを捕まえなくても、千夏がその女子との橋渡しすりゃーいいんじゃねーのか? 同じクラスなんだし、それくらい出来るだろ」
「いや……月島さんって、結構人見知りなところあるみたいだから。できれば第三者を混ぜずに二人だけで話をしたいんだ」
「うちもあの子苦手や。会話が成り立たへんもん」
「そういうもんなのか。まあ俺は会った事もねーからわかんねーけど」
 和樹はビニール袋から新たに菓子パンを取り出し、はぐはぐと食べ始める。まだパンを持ってたのに人の弁当のオカズを狙っていたのかと、月彦は密かに呆れた。
「んじゃ他に、その子と仲いい女子とかいねーのか?」
「んー、少なくともうちは知らんなー」
「……ん? てことは……月島さんって、もしかして同じクラスに友達居ないのか?」
 月彦は想像する。四十人近くがひしめくクラスの中で、ひとりぼっちのラビの姿を。
「言うとくけど、うちらが意図的に仲間はずれにしとるとか、そういうのは無いで? あの子も一人が好きみたいやし、休み時間とかも一人で変なカード並べて遊んどる所しか見たことないわ」
「変なカードを並べて……」
 タロット占いでもしてるのだろうか。そういえば、以前妹のレミからもラビの趣味は占いだと聞いたことを、月彦は思い出した。
「……なんか、暗そうな女子だな。そりゃ千夏とは話あわねーだろうな」
「別に暗い子じゃないぞ。妙子に比べたら全然明るい子だ」
「その言い方やと、妙ちゃんはネクラって聞こえるで?」
「……まぁ確かに、あんまり朗らかじゃあねーな」
 苦笑混じりに、和樹が言う。
「でも妙子はちゃんとあっちの友達居るからなぁ。……月島さん、クラスでいつも一人なのか……」
 好きで一人で居るのならば、問題は無い。しかし月彦の経験上、ラビは孤独を好むタイプではないように思える。
(むしろ……)
 天文部に居るときのラビは、人と話をしたくて堪らないといった風に見えた。あれは、クラスでは話し相手が居ないが故の反動だったのではないだろうか。
(かといって、千夏に話し相手になってやってくれ、って頼むのもおかしな話、か)
 “なってやってくれ”と頼むこと自体、まるでラビを下に見ているような不遜な言い方に感じられるではないか。そもそも千夏はラビが苦手だとはっきり言っている。苦手としている相手から無理に話しかけられても、ラビは嬉しくないのではないか。
(……どうしたもんか)
 いつになく食事の手が遅い月彦だった。



 放課後、月彦はもう一度だけ、ダメ元で千夏のクラスを訪れ、ラビに話しかけようと試みた。しかしまたしてもラビに逃げられ、側で一部始終を見ていた千夏にやれやれという顔までされてしまった。
「ヒコ、やっぱり何かしたんと違う?」
 ラビのあまりに見事な逃げっぷりに、にへら顔でそんな事を言われる始末だった。
「俺は断じて何もしてない!」
 断言して、月彦は自分のクラスへと戻り、鞄を手に教室を出る。そのまま帰ろうとしかけて、はたと。雪乃の言葉を思い出した。
(そういや、朝……部室で待ってるって言ってたっけ)
 しかし今日はいつになく気が進まない。ラビのことが気がかりというのも勿論あるが、雪乃の態度が少しおかしかったことも、部室棟へと赴く月彦の足を鈍くしていた。
 結局「用事があるので、今日は帰ります」という伝言をルーズリーフに書いて残し、大人しく帰ることにした。
(うーん、でも一体どうしたものか……)
 とにかく、ラビと話をしないことには始まらないのだが、自力では捕まえられる気がしない。無論、強引にという方向で煮詰めていけば、何かしらラビを捕まえる方法はあるのだろうが、あまり手荒な方法を用いたくもない。
(うーん……)
 和樹の言う通り、ラビと親しい女子がいれば、その子を橋渡しにしてもらうことも出来ただろう。しかし千夏の言葉によると、そんな女子は居ないらしい。となればやはり何とかしてラビの逃亡を防ぎ、無理矢理にでも問い詰めるしかなさそうだが、そもそもラビを捕まえることが困難だ。
(……千夏も無理だって、はっきり言ってたしな)
 そもそも、そうやって無理矢理ラビを捕まえることが解決に繋がるのだろうか。ラビの逃げっぷりを見ていると、明らかに何かに怯えているように見える。強引な手段は、ラビの中にある恐怖を増大させてしまうだけではないのだろうか。
(でも、だったらどうする?)
 強引に捕獲するのがダメであれば、他にどういう手が考えられるか。
(ようは月島さんの逃げ足が問題なわけだから、真央に頼んで弱めの痺れ薬でも作ってもらって、んで千夏経由でそれを混ぜたジュースを飲ませれば……)
 途中まで考えて、月彦は激しく首を振った。
(いやいやいや! ダメに決まってるだろそんなの! 下手したら先生の時の二の舞だ!)
 ものが真央が作った薬である以上、どれだけ「今度は絶対大丈夫だよ、父さま!」と真央に念を押されたとしても、失敗する未来しか想像することができない。
(……待てよ、何か忘れてることがあるような……)
 ふと、そんな疑念が浮かぶ。自分は、“この件”を解決するのに最も適した人物を知っているのではないか――そんな漠然とした感覚。
(先生……? いやちがう、矢紗美さん……? 違う。でも、何か近いような……)
 ひょっとしたら、第六感的なものでは“答え”が解っていたのかもしれない。そうでなければ、いくら考え事に夢中だったからといって、慣れ親しんだ家路を外れて別の道へと迷い込んだりするだろうか。
 ましてや、
「あれ、ぶちょーさん?」
 その“答え”である人物と偶然にも鉢合わせることなど、あるはずがない。
「その声は――」
 キッ、と聞こえたのは、自転車のブレーキ音。振り返ると、そこにはラビよりも一回り小柄な、制服姿の金髪女子中学生が丁度自転車から降り立つ所だった。
「レミちゃん!」



「レミちゃん! そうだ、レミちゃんが居たんだ! 良かった、会えて嬉しいよ!」
「えっ、えっ? ぶちょーさん一体どうしたの?」
 突然手を握られるなりぶんぶん振られ、レミは目を丸くしていた。
「ああ、ごめん。興奮してつい……でも、本当に良かった。…………考えてみたら、レミちゃんに橋渡ししてもらえば一発だったんだよな、うん」
「橋渡し……???」
 レミがきょとんと首をかしげる。ラビを一回り小さくしたような、金髪ショートヘアの碧眼っ子は帰宅途中なのか制服姿で、恐らく通学用と思われる自転車の籠には買い物袋が入れられていた。
「ああっと、ごめん。とにかく立ち話も何だから、どこか落ち着いて話せる場所に行こうか。……って、その前に、レミちゃん時間とか大丈夫? もしこの後予定とかがあるなら……」
「今日はもう帰るだけだけど……」
 言って、レミは買い物袋の中を覗き込む。
「すぐに冷凍庫にしまわなきゃいけないようなものもないし、一時間くらいだったら大丈夫だよ、ぶちょーさん」
「そっか、じゃあ……近くの公園でいいかな?」
 逸る気を抑えながら、月彦はレミを伴って近場の公園へと移動した。

 一足先にレミを公園のベンチに座らせ、月彦は自動販売機へとひとっ走りし、二人分の飲み物を手に戻って来た。暖かいコンポタと、暖かいココアを見せると、レミは迷わずコンポタの方を指さした。
「熱いから気をつけてね」
「うん! ありがと、ぶちょーさん!」
「……で、早速だけど、レミちゃんに聞きたいことがあるんだ」
「お姉ちゃんのこと?」
 けろりとした顔で聞き返され、逆に月彦のほうが言葉を詰まらせてしまった。
「あれ? ごめん。違ってた?」
「いや、レミちゃんの言う通りだよ。ドンピシャすぎて、言葉が出なかった」
 苦笑混じりに、ココア缶の栓を開け、口をつける。
「だって、ぶちょーさんが私に会いたくなる理由って、おねーちゃんに関わることくらいしか想像つかないんだもん」
 確かに、言われてみればその通りだった。このくらいのことを明察と言っては、かえってレミに失礼かもしれない。
「それで、ぶちょーさんは私に、おねーちゃんの何を聞きたいの?」
 レミが、小悪魔のような笑みを浮かべる。
「3サイズ? それとも好きな男の子のタイプ? あっ、その前に今彼氏いるかどうかとか?」
「いや……えーと………………月島さんから、俺のことで何か聞いてないかな?」
「ぶちょーさんのことを? おねーちゃんから?」
 ひとりでにテンション爆上げしていたレミが、きょとんと目を丸くする。
「んー…………そういえば、ここのところおねーちゃんからぶちょーさんの話って聞いてないかも。前はしょっちゅう聞かされたんだけど」
「えっ……前は……って、たとえばどんな話?」
「えーと……これ言っちゃっていいのかなぁ…………後でおねーちゃんにバレたらひどいことになりそうなんだけど……」
「あー……月島さんが怒りそうな内容なら、無理に言わなくてもいいよ」
「そう? あっ、でも悪口とかじゃないから、そこは安心していいよ?」
 笑顔を零して、レミはコンポタに口をつける。
「ええと、話を戻そうか。前は俺の話をしてたけど、でも最近はしなくなった……それは間違いないんだよね?」
「うん。私もぶちょーさんに聞かれるまで気にしてなかったけど。………………ぶちょーさん、ひょっとしておねーちゃんと何かあったの?」
「あった……のかもしれないんだ。レミちゃんに聞けば、それが解るかと思ったんだけど」
「???」
「実は最近、月島さんに避けられてるみたいなんだ。部活にも来てくれないし、話しかけようとするとものすごいスピードで逃げちゃうんだ。だけど、どうして月島さんに避けられるのか、俺には心当たりが無いんだ」
「おねーちゃんが、逃げる……?」
「うん。そりゃーもう、脱兎の如くって感じで」
「でも、ぶちょーさんには心当たりがない?」
「少なくとも、月島さんが傷つくような事を言ったりとか、暴力を振るったりとか、そういうことは絶対無い……と思う」
「うーーーーーーーーーーん…………」
 レミはベンチの上に缶を置き、腕組みをして唸る。 
「……ねえ、ぶちょーさん。この後時間ある?」
「俺は大丈夫だよ」
「じゃあさ、うちにおいでよ!」
 えっ――固まる月彦の手を、レミが握る。
「ぶちょーさんがうちに来ちゃえば、おねーちゃんも逃げようがないよ。そんで、気が済むまでおねーちゃんに理由を聞けばいいよ! 私も手伝ってあげる!」
「いや、でも……」
「大丈夫だから、レミに任せて!」
 どんと、自信満々に胸を叩くレミを、月彦は頼もしく感じ始めていた。



 


 公園の入り口に止めていた自転車を回収し、レミと共に月島邸へと向かった。ついでに、途中の公衆電話で葛葉に帰宅が遅くなる旨も伝えた。
(……そういえば、月島さんちに行くのは初めてか)
 レミの自転車がもう少し大きければ、或いは二人乗りでということも可能だったかもしれない。が、そこはあくまで女子中学生の通学用の自転車である。月彦が漕ぎ手となるには小さすぎ、ましてや後輪の軸に足を引っかけて立ち乗りをするなどもってのほかなサイズだった。
「……あのね、ぶちょーさん。うちにおいでーって、自分から言っておいてアレなんだけど……うち狭いから、そこだけは覚悟しててね」
 至極、レミが自転車を押しながら、二人とも歩きという形にならざるをえない。そうして日の暮れた家路を辿りつつ、レミが言い辛そうに付け加えた。
「大丈夫、そういうのは気にしないたちだから」
「でもでも、多分ぶちょーさんの想像の三倍くらいボロっちいと思うから、そこだけは本当の本当に覚悟しててね?」
「はは……大丈夫だって」
 レミの大げさな言い方に苦笑を返すが、頭の奥ではちらりと。大げさではなかった場合に備えて、それとなく覚悟は決めた。
 そしてそれは、無駄にはならなかった。

「えーと、ここが私んちです」
「……へ、へぇー……なかなかいいおうちだね……」
 覚悟はしていた。が、月彦は思わず声がうわずるのを隠しきれなかった。
(あばら屋……って言ったら、さすがに失礼……か)
 所々穴の空いた板塀に囲まれた一軒家。その家自体も木造であり、外から見た限りでは「燃えない素材は一切使っておりません!(キリッ」とばかりに、瓦も雨樋も見当たらない。一応窓や縁側にはガラスが使われてはいるが、どこもかしこも補修の後ばかりで見るに堪えない。
 買い物袋を手に玄関の引き戸の前に立つと、板塀と家とに挟まれた庭には家庭菜園が見てとれる。どうやらこじんまりとした家とは対照的に、庭のほうは広いらしく、せり出した縁側と物干し竿を置くスペースを確保して尚、結構な広さの家庭菜園が作られていた。
(なんか、今にもマムシか何かが這い出してきそうな……)
 冬場はともかく、夏場などは蛇の2,3匹は住み着いていそうな庭だった。レミはスカートのポケットから鈴のキーホルダーつきの鍵を取り出し、鍵穴へと差し込む。
「…………。」
 案の定、というべきだろうか。解錠された玄関の引き戸は、月彦の期待にそぐわず、立て付けが悪かった。慣れているのだろう、レミは熟練の手つきで戸を少しだけ押し込み、尚且つ斜めに傾けるようにして、ガタガタと揺さぶりながら開けていく。
「どうぞ、ぶちょーさん」
 レミに促されて、玄関の中へと入る。玄関マットから右側に板敷きの横二畳ほどのスペースがあり、冷蔵庫とガス台に挟まれたそこは人一人が立つのがやっとという狭さの台所だった。その板間――というほどのスペースもないが――の向こうには畳敷きの四畳半と木のテーブルが見えた。どうやら居間らしい。
「レミ……ごはん――」
 その居間の向こうに見える襖戸が開き、のそりとジャージ姿のラビが顔を覗かせた。
 瞬間。
「あっ、月島さ――」
「びゃああああああああああああ!」
 ラビは突然意味不明な叫び声を上げ、びたーん!と派手な音を立てて襖戸を締めてしまった。
「あっ、ちょっ」
「ぶちょーさん、早く上がって。ここ狭いから」
「ご、ごめん、レミちゃん」
 月彦は一足先に買い物袋を手に玄関マットの上へと上がり、レミは苦労して引き戸を閉め、施錠する。
「ふう。あれ、さっきおねーちゃんの声しなかった?」
「声っていうか、さっきそこに月島さんが居たんだけど、すぐ逃げちゃって……」
「だいじょーぶ、すぐにまた出てくるよ。あっ、折角だしぶちょーさんも晩ご飯食べていくでしょ? すぐ準備するからそこで待ってて」
 レミは小柄な体を活かして、成人男子であれば体の向きを変えるのも苦労しそうな狭さの台所へと体を滑り込ませる。そのまま、慣れた手つきで買い物袋の中身を冷蔵庫へと移していく。
「……おじゃまします」
 作業中のレミの横を抜け、月彦は正面にある居間へと移動する。四畳半の居間は角に置かれたテレビとその台、そして壁に背をつけるように設置された戸棚のせいで思ったよりも狭かった。月彦はなんとかテーブルと壁の隙間に体をねじ込んで座る。
 座った後で、月彦は気がついた。部屋の隅に置かれている年代物のテレビ。上に虫の触角のようなアンテナが立ち、チャンネルつまみらしきものがついているそれは、どうみてもリモコンが付随していないタイプだ。
(……このテレビ、地デジ対応してるのか……?)
 訝しげに見ていると、台所に入るレミがひょっこりと顔を出した。
「あっ、ごめんねぶちょーさん。テレビ今映らないの、暇だったらラジオでも聴いてて」
「ラジオ……はどこにあるの?」
「あれ、無い? 無いならおねーちゃんが部屋に持って行っちゃってるかも」
「そ……っか。それならいいや」
 レミ抜きでラビとコミュニケーションをとれる自信がなく、月彦は大人しく部屋の隅で置物になる道を選んだ。

 


「おねーちゃーん、ごはんできたよー!」
 レミが配膳を終え、エプロンを外しながら声を上げる。テーブルの上には三人分の晩ご飯。茶碗に盛られた白米と漬け物と味噌汁、豚肉のショウガ焼きとスライスされたトマト、千切りキャベツの乗った皿が二人分と、それとは別に野菜炒めが盛られた皿が一人分。さらに木製のサラダ皿に盛られたポテトサラダが三人分。そして麦茶の入った水差しに、三人分のコップがぎゅうぎゅう詰めになっていた。
(……確か、月島さんがお肉ダメだった筈だから)
 この野菜炒めはラビ用のおかずだろう。
「おねーちゃん! ごはんー!」
 レミがテーブル前に座りながら再度声を上げると、ほんの数ミリだけ襖が開く。が、すぐに締まった。
「……やっぱり、俺が居るから出てこれないんじゃないかな」
「むむぅー……あのおねーちゃんがご飯時に出て来ないなんて」
 ちらりと、レミが月彦の方へと視線を向けてくる。謝ったほうがいいのかなと、月彦が考えていると、レミは再度声を上げた。
「おねーちゃん! 早く来ないとおねーちゃんの分も食べちゃうよ!?」
 少し怒気を孕んだレミの声に、渋々といった具合に襖が開いた。
「………………ぅぅぅ…………」
 顔を真っ赤にしたラビが低く唸りながらうつむき加減に現れ、そのままテーブルの前に――否、もはやちゃぶ台と呼んだほうが適切なそれの前へと着席する。
「……きゅ、急に押しかけちゃってごめんね、月島さん」
 或いはラビが気分を害しているかもしれないと思って咄嗟に誤るも、ラビからの返事はなかった。依然、ラビは顔を赤くしたまま俯いたままだ。
「ま、いーや。とにかく食べちゃお、もうお腹ぺこぺこ! いただきます!」
「……いただきます」
………………いただきます
 月彦にとっては何とも箸の重い夕飯は、こうして開始された。
「お味はどーお? ぶちょーさん」
「うん、すごく美味しいよ。特にこのショウガ焼きなんて、ショウガのきき具合が絶妙だね。ご飯何杯でもいけそうだよ」
「良かったぁ、お肉つかった料理はおねーちゃん食べられないから、自分の舌だけじゃ不安だったの。おかわりのご飯あんまり無いけど、お茶碗一杯分くらいはあるから、欲しかったらいつでも言ってね!」
「あっ、いや……ええと……」
 ご飯何杯でもいけるくらい美味しいと言った手前、お代わりをしないのは不自然――しかし、一杯分しかおかわり用のご飯がないのはもしや経済的な理由ではと思うと、とてもおかわりなど出来ない。
 そんなジレンマに、月彦は完全にフリーズしてしまった。
「………………。」
 救いを求めるように、ついラビの方へと目を向けてしまう。が、視線を向けるとラビは咄嗟にぷいと顔を背けてしまった。助け船などは絶対だしてくれなさそうだと、月彦はラビからの救援を諦めた。
 そのまましばし、レミと当たり障りの無い話を続け、夕飯もそろそろ終わりにさしかかった頃だった。
「――で、おねーちゃん。一体どうしてぶちょーさんを避けてるの?」
 それはさながら、夜道で突然死角から切りつけられたような、そんな不意打ちにも似た切り出しだった。それまでの話題とは何の関連性も無い、ラビにしてみればまさしく不意打ちそのものだったことだろう。
 そして同時に、月彦が最もラビに尋ねたいことでもあった。自然と、視線をラビの方へと向けてしまう。ラビはといえば、野菜炒めへと伸ばしかけた箸を空中で止めたまま、微動だにしない。
 否、徐々にではあるが、箸を持つ手を引っ込め始めていた。やがて完全に箸を置き、まるで正座でもするかのように――足を崩してはいるが――ジャージの太ももの上へと手を置いてしまった。
「ぶちょーさん、おねーちゃんとケンカしたの?」
 レミの次の質問は、月彦に向けられたものだった。
「いや、してない……と、思う」
 少なくとも、その自覚は無いと、心の内で付け足しておく。
「おねーちゃん、ぶちょーさんはこう言ってるよ?」
 しかし、ラビの返事は無い。
「おねーちゃん、ちゃんと言わないと解らないでしょ? どうしてぶちょーさんを避けてるの?」
 金髪姉妹を前にして、まるでレミのほうが姉のような錯覚すら感じる。この二人は生まれる順番を間違えたのではないかとすら。
「おねーちゃんが理由も言わないで逃げるから、ぶちょーさんだって困ってるんだよ? 今日だって、自分がおねーちゃんに何かしちゃったんじゃないかって心配して来てくれたんだよ?」
「れ、レミちゃん……そのくらいで……月島さんだって、急にそんなにいろいろ言われたら、さ……」
「むーーーっ…………わっかんないなぁ。おねーちゃん、ぶちょーさんの事スキだって言ってたじゃん、なのにどうして避けたりするの?」
「っっっっ……!!!!!」
 ずっと俯いていたラビが、掠れた悲鳴とともに顔を上げた。
「レ、レミ…………!」
「今更慌てなくっても、おねーちゃんがぶちょーさんの事スキなのなんてバレバレなんだから。ねー、ぶちょーさん」
「えっ……いや、えーと…………ほ、本当にそうなら嬉しいけど……」
 瞬時に脳内を駆け巡る、何人もの女性の顔に怯えながら、月彦はついそんな当たり障りの無い答えを返してしまう。
「聞いた? おねーちゃん。ぶちょーさんはオッケーだって、よかったねー」
「ちょ、ちょっとちょっとちょっと! レミちゃん、話それてるって!」
 ラビが避ける理由を聞きに来たはずが、気がつくと家族公認のカップルにされかかっていて、月彦は慌てて会話の方向性を修正せねばならなかった。
「あっ、ぶちょーさんも照れ屋なんだ。二人とも素直になっちゃえばいいのに、ぶちょーさんもおねーちゃんの事スキなんでしょ?」
「そりゃあ、好きか嫌いかでいうなら、断然好きな方だけどさ。今はそれよりも――」
「聞いた? おねーちゃん、ぶちょーさんもおねーちゃんの事スキだって! よかったねー」
「はうぅぅぅぅぅぅぅぅぅうぅぅぅ!!!!!」
 声を裏返らせるような悲鳴と共に、ラビが立ち上がったのはその時だった。そのままむんずとレミの首根っこを掴むや、襖戸の向こうへとレミを引きずっていってしまう。
「ちょっと、ちょっと、月島さん!?」
 後を追おうとした月彦の目の前で、びたーんと襖戸が閉められる。
「なによぉ、おねーちゃんが自分で言わないから…………え、なに?」
 襖戸の向こうで、二人の話し声が聞こえた。が、はっきりと聞こえるのはレミの声ばかりで、ラビの方は何かを喋っているということしか解らない。
「だって、ぶちょーさんが困ってたから…………そもそもおねーちゃんがぶちょーさんを困らせるから……」
 どうやら、今は口を挟まない方が良さそうだと判断して、月彦は大人しく襖戸の前で待つことにした。
 そして十分ほどぼしょぼしょと二人での会話を終えた後、不意に襖が開き、レミだけが戻って来た。
「待たせちゃってごめんね、ぶちょーさん。おねーちゃんが要領得ないことばかり言うから、時間かかっちゃって」
「もしかして、解ったの? 月島さんがどうして俺を避けるのか」
「うん、ばっちり!」
 ぐっと、レミが親指を立てる。
「でぇ、最初に聞きたいんだけど、ぶちょーさん今度の週末何か予定ある?」
「週末……うーん、今のところは特に何も無かったと思うけど」
「ホント!? よかったぁ…………あのね、ぶちょーさん。おねーちゃんが、今度の土曜日にぶちょーさんとデートしたいって――」
 その瞬間、月彦は聞いた。獣の慟哭のような、けたたましい叫びを。同時に、どったーん!と派手な音を立てて襖とが開け放たれ、ラビのクロスチョップがレミののど元へと突き刺さっていた。
「つ、月島さん!?」
 どんがらがっしゃーん!――ちゃぶ台とその上に乗っていたものを派手にまき散らしながら、金髪姉妹がさながらプロレスのようにもみ合い始める。
「ちょっと、ちょっと! ダメだって! 月島さん、首締めるのはやりすぎだって!」
 鬼のような顔をしてレミの首を絞めるラビをさすがに見ていられなくなり、月彦は羽交い締めにする。
 ――が。
「うひぁああ!」
 決して、決して故意ではなく。羽交い締めにしようとした際、誤って両手がラビの両胸を捉えてしまい、たちまちラビが声をうわずらせてレミから飛び退いた。
「わわっ、ご、ごめん!」
 月彦も慌ててラビから飛び退き、結果狭い室内で三すくみのようにそれぞれ距離を取る形になった。月彦は丁度痴漢の疑いをかけられた男が無罪を主張するように両手を挙げたまま壁へと張り付き、ラビは力一杯掴まれた両胸を庇うように両手を脇に挟むように抱きしめて壁へと張り付き、レミは噎せながらむくりと体を起こした。
「あーもう、おねーちゃんってば加減を知らないんだから……ぶちょーさんが止めてくれなかったらホントに死……痛い痛いっ、おねーちゃん痛いってば!」
 体を起こしたレミを、今度はだだっ子のような手つきでラビがぽかぽかと叩く。
「もぉ! だったらどうしたいか自分で言えばいいでしょ!? おねーちゃんが自分で言わないから、私が気を利かせてあげようとしたのに! もうおねーちゃんなんか知らない!」
 やがてレミは堪忍袋の緒が切れたとばかりにラビの手を振り払って立ち上がり、プンスカと煙を出しながら居間から出て、そのまま台所とは逆側の廊下の奥へと消えていってしまった。
「ぁっ…………レ、レミ……待って……!」
 そんなレミの背にラビが追いすがる――が、レミは振り返りもしなかった。そしてそのまま、散らかった居間に月彦と、ラビだけが残された。


 沈黙。
 部屋の壁に張り付いたままの月彦と、座り込んだままのラビ。コッチ、コッチと音を立てる壁掛け時計の音だけが響くその沈黙を破ったのは月彦だった。
「と……とりあえず、片付けようか」
 それとなく声をかけて、散らばった茶碗や皿などをテーブルの上へと戻していく。幸い、割れたり欠けたりしているものは無く、ラビと手分けして食器を洗い、畳の上に散ってしまった食材を片付け、飛び散った汁などを台ふきで丁寧に拭いた。
 しかし、片付けが終わり互いにやることが無くなってしまうと、途端に居心地の悪い空間が復活してしまった。ラビと二人、綺麗になったテーブルを挟んで座りはしているものの、互いに目を合わさないまま、ただただ時間だけが過ぎていく。
(…………今日はもう帰ろうかな)
 唯一橋渡しをしてくれそうなレミが怒って退室してしまった以上、このままここに居ても事態の好転は見込めないのではないか。ちらりと腕時計に目をやると、時刻はやがて八時を回ろうとしている。
 もう遅いし、今日は帰るね――そう口に出そうと、口を開きかけた時だった。
「つっ………………つきひこ、くん!」
 弾かれたように、ラビが唐突に言葉を発した。
「な、なに? 月島さん」
 まさかラビのほうから話しかけられるとは思わず、ギョッとしつつも月彦は続きの言葉を待った。ラビは依然顔を赤らめたままで――よくも赤面状態を保てるものだともはや感心せざるをえない――次に口に出す言葉が決まらないのか、嗚咽のような声を漏らし続けていた。
「つきひこくん、はっ……」
「俺、は?」
「つきひこくんはっ……ひっ……」
「ひ?」
「ひっ………………ひっ………………」
「狒々?」
 まさか、狒々に似ているとでも言いたいのだろうか。今までただの一度もそんな事は言われたことがないだけに意外でもあり、そして本当にそうだとしたらショックを隠しきれない事案だった。
「ひっ……ひなっ、もり……せんせい……と……」
「ひな……雛森先生!?」
 何故、ここで雪乃が出てくるのか。月彦は一気に全身を強ばらせる。
「ひな、もり……先生っ、と……つきひこ、くんはっ……」
「月島さん、落ち着いて。ほら、深呼吸して……」
 過呼吸気味のラビをおちつかせながら、月彦は次の言葉に恐々としていた。が、極力そんな様はおくびにもださないよう、平生を装う。
「つきひこくん、は……つき、彦くんは……」
 深呼吸気味に呼吸を整えながら、ラビは呟き続ける。そして、ごくりと大きく唾を飲み込み。
「つ――」
「つ……?」
「つき……」
「つき……?」
「………………っっっっ……」
「月島さん?」
 言葉がうまく出て来ないのか、ラビはしばらく唸るような声を上げ続ける。
「…………………………つき、ひこ、くんは……雛森、せんせっ……の、こと……好き?」
「ええぇっ!?」
「好き?」
「いや、好きって……聞かれても…………」
 なんと答えればいいのだろうか。
(いや、そもそもなんでそんな事を……?)
 まさか、雪乃との関係に感づいたのか――とは、考えたくはなかった。少なくともラビの前でその関係を臭わせるようなヘマはした覚えはない。
「ええと……教師として好きかっていうことなら、好きだよ。いい先生だし、合宿をやってくれたり、面倒見もいいしね」
 結果、月彦は優等生的解答に逃げることにした。
「じゃ、じゃあ……」
「うん?」
「やざみさん、は……?」
「矢紗美さんのことが好きかってこと? そりゃあ、嫌いじゃあないよ。こないだの合宿だって、矢紗美さんが保護者役買ってでてくれたから出来たようなものだしね」
「で、でも……」
「でも……?」
「でも……つきひこ、くんは…………」
「??? 月島さん?」
「あーーーーーーーーーーーーーーーっ! もぉ、じれっったぁーーーーーい!!!!!!!!」
 突如、耳を劈く叫びと共に、レミが転がり出て来た。
「もうちょっとハキハキ言わないと、ぶちょーさんも要領得なくて困っちゃうでしょ! おねーちゃんは結局どうしたいの?」
「レミちゃん、待って……俺なら平気だから……」
「あのね、ぶちょーさん」
 ばん、とちゃぶ台を叩き、レミがずいと。顔を寄せてくる。
「もうバレバレだけど、おねーちゃんはぶちょーさんの事が好きなの! ぶちょーさんとデートとかいろいろしたいって思ってるの! だけど、ぶちょーさんが雛森先生や矢紗美さんと仲がいいから、言い出せなくて困ってるの! つまりそういうことなの!」
「えっ、えっ……」
「えっ、じゃないの! ここで聞こえないフリとか、理解出来ないフリとかは卑怯だよぶちょーさん」
 まさか中学生に逃げ道を塞がれるとは思わず、月彦はうぐと唸る。
「レ、レミ……もう、いい……止めて……」
「元はといえば、おねーちゃんがはっきりしないからダメなんでしょ? 思わせぶりにぶちょーさんのことを避けたりして、自分から近づく勇気がないからぶちょーさんに追いかけてほしかったんでしょ?」
「ち、違う……違う……」
 レミの制服のスカートを握りしめながら、ラビは必死にぶんぶんと首を振る。
「違うなら、どうしてぶちょーさんのこと避けたりしたの?」
「それ、は……」
 ラビが黙り込んでしまう。ふぅ、とレミが大きく肩を落とし、ため息をつく。
「わっかんないなぁ。一体全体どうしちゃったの? 合宿の時は普通にぶちょーさんともお話ししてたのに」
 レミの言う通りだと、月彦も思う。少なくともあの頃は、今ほど避けられたりはしなかった。
「ねえ、ぶちょーさん。ホントのホントに心当たりないの?」
「ホントのホントに無いんだ。……月島さん、俺も理由を教えて欲しい。はっきり言うのが無理なら、せめてヒントだけでも言えないかな?」
「…………っっっ……」
 ラビは目を伏せ、小さく首を振る。
「……おねーちゃんって、変な所で強情なんだから。…………じゃあもう、あの手しかないかな」
「あの手?」
「うん。……ぶちょーさん、おねーちゃんとデートしてあげて」
「え………………えええええええ!?」
「ええええええええええええっ!?」
 二人分のうわずった声が見事にハモった。レミだけが、笑顔で頷く。
「ちょっと待って、レミちゃん。どうしてそうなるの!?」
「さっき言ったでしょ? おねーちゃんはぶちょーさんのことが好きなの。だから、ぶちょーさんとデートするのは、おねーちゃんへの“報酬”なの」
 前払いの――と、レミは付け加える。
「だから、その代わりおねーちゃんはデートが終わったら、どうしてぶちょーさんを避けてたのか、正直に言うの。どう?」
「ど、どうって……言われても……そんなので本当に……」
 ラビが話してくれるのか。そもそもそれは取引として成り立つのだろうか。
「ぶちょーさんはどうなの? おねーちゃんとデートしたくない?」
「そ、そんなことは……ただ、月島さんが――」
「じゃあ、おねーちゃんがそれでいいなら、ぶちょーさんも文句はない?」
「うぅ……まぁ、月島さんが、それで話してくれるのなら……」
 レミの迫力に押される形で、月彦は頷いてしまう。頷いた後で、本当に頷いてしまって良かったのだろうかと、一抹の不安を覚える。
「次、おねーちゃん! ぶちょーさんはおねーちゃんがそれでいいならいいって言ってるよ? おねーちゃんはどうするの?」
「あうぅぅぅ……」
「あうーじゃないの! おねーちゃんさえ正直に話すって約束するなら、ぶちょーさんとデート出来るんだよ? おねーちゃんはデートしたくないの?」
「で、でも……!」
「したくないの?」
「ぅぅぅぅ…………」
 ふしゅう、とラビは湯気がでそうなほどに顔を赤くして俯いてしまう。そう、月彦は“俯いた”と解釈したが、それを全く違う解釈をした人物が居た。
「良かったね、ぶちょーさん。おねーちゃんもOKだって」
「ふぇ!?」
「だって今、おねーちゃん“頷いた”じゃない。OKってことでしょ?」
 ぶんぶんとラビが必死に首を振るが、レミは結論を変えなかった。
「レミちゃん、凄く嫌がってるように見えるんだけど……」
「だいじょーぶ、お姉ちゃんのコレはただの照れ隠しだから」
 違う、違うとアピールするように、ラビはレミの制服をぎゅうぎゅう掴みながら、ごつごつとその背中に頭突きを繰り返していた。が、レミは意地でもラビの要求は無視する気なのか、激しく体を揺さぶられながらも笑顔を崩さない。
「じゃあ、とにかくそういうコトで。…………ぶちょーさん、おねーちゃんをよろしくね!」



「……さてと。それじゃあそろそろ帰るよ、レミちゃん。晩ご飯ごちそうさま、凄く美味しかったよ」
「はーい、またいつでも来てねー。ぶちょーさんなら大歓迎だよー」
 月島家の玄関先でレミに見送られながら、月彦は靴を履く。そのレミの後ろには、ラビの姿は無い。先ほど恥ずかしさに耐えかねるように居間の向こうの部屋に引きこもってしまったまま出て来ないのだった。
「……レミちゃん、今更かもしれないけど、あんな風に強引に決めちゃってよかったの?」
 ふと不安にかられて、月彦はレミに耳打ちをする。
「…………ぶちょーさん、ちょっと外に出よっか」
 靴を履き終えた月彦が一足先に玄関の外へと出、サンダル履きでレミが続く。玄関のドアを閉めてから、レミは口を開いた。
「ぶちょーさん、私……おねーちゃんの将来が心配なの!」
 それはラビに聞こえてしまうことを恐れてか、かなり控えめな声ではあったが、紛れもない“本気の訴え”であった。
「口べたで、要領も悪くて、しゃべってても全然話が進まないし、何が言いたいのかよくわかんないし、不器用で料理は勿論家事だって出来ないし、はっきり言って“普通の男の人”と一緒になるのは絶望的だと思うの!」
「そんなこと……ないよ。月島さんみたいにおちついた子が好きだっていう人だって……」
「少なくとも私はぶちょーさん意外にそんな奇特な男の人に会ったことないの!」
 奇特と言われてしまった――月彦は少しだけショックを受けた。
「はっきり言って、ぶちょーさんと一緒になれなかったら、おねーちゃんは一生一人だと思うの! ううん、おねーちゃん不器用だから一人暮らしなんて絶対できないから、私が一生面倒見ることになっちゃうに決まってる!」
「レミちゃん、レミちゃん落ち着いて……悪く考えすぎだって」
「あのね、ぶちょーさん。私は別におねーちゃんが邪魔だから、ぶちょーさんに押しつけたいんじゃないの! ぶちょーさんにだって都合があるし、おねーちゃんみたいな地雷とは一緒にはなりたくないっていうのも解るの」
「じ、地雷って……」
 実の姉をそこまで言うのか。
(…………きっと、普段からよっぽど苦労させられてるんだろうな……)
 レミの口が悪いのでは無く、そこまで言わせるほどにラビが手をかけているのだろうと、月彦は好意的に解釈した。
「だからね、ぶちょーさん。私は別におねーちゃんと結婚して欲しいって言ってるんじゃないの。ううん、ぶちょーさんさえ良ければそれが一番いいんだけど…………それが出来ないなら、せめておねーちゃんが人並みに男の人と話せるように特訓してあげてほしいの!」
「な、なるほど……レミちゃんがどうしていきなりデートとか言い出したのか……その理由はよくわかったよ。でも、月島さん嫌がってたみたいだし、巧くいくかどうかは……」
「大丈夫! おねーちゃんも本当は行きたい筈なの。さっきのは絶対に照れてるだけだから、そこは大丈夫、絶対に」
「だと良いんだけど……」
「あ、デートの日とか時間とかは全部ぶちょーさんが決めちゃっていいよ。どうせおねーちゃんに行きたい所聞いても、まともな返事なんて返ってこないんだから。おねーちゃんも休みの日の予定なんて無いに等しいし、いっつも家に居てタロット占いするか、庭いじりするか散歩するかくらいしかしてないし」
「りょ、了解……」
「そうそう、一応おねーちゃんが好きそうな場所としては、遊園地とか……あとは動物園とかかな。映画とかはあんまり好きじゃないかも。買い物に行くならアンティークショップとか、古くさいものが置いてあるような場所がオススメだよ。あとあと、人が多いところに行く時は、絶対の絶対のぜーーーーったいに手を繋いで離さないでね? おねーちゃんすぐ迷子になっちゃうから」
「わかった、肝に銘じるよ」
「あと、最後に!」
「最後に?」
「…………もし、ぶちょーさんが“いける!”って思ったら、遠慮なんてしなくていいよ! いけるところまでいっちゃって!」
「………………ごめん、レミちゃん。レミちゃんが何を言ってるのかよくわからない」
「門限とか、一切気にしなくていいから。うちはおかーさん居ないし、おとーさんも今仕事で遠くに出てて当分帰ってこないから。あっ、もし“手頃な場所”が無かったりしたら、うちの裏庭におとーさんが仕事場に使ってるプレハブがあるから、そこに行くといいよ。寝泊まりも出来るようにベッドもあるから、ぶちょーさんが好きなように使っていいよ!」
「ちょっとちょっと、レミちゃん?」
「むしろ、ちょっとくらい無理矢理なほうがおねーちゃん好きかもしれないよ? おねーちゃんの性格だと、自分から誘うなんて絶対出来ないし、ぶちょーさんの方から迫れば、アッサリ落ちちゃうかも?」
「…………いや、そんなこと言われても、俺は絶対に強引に迫ったりなんてしないから」
「とにかく、ぶちょーさんとおねーちゃんが“そういう関係”になっても、私は全然構わないから、だから安心して“キセージジツ”作ってね!」
「作らないから! 何を期待してるのかわからないけど、俺はあくまで月島さんとデート……って呼べなくも無いお出かけをして、避けてた理由を聞きたいだけだから!」
 もし万が一ラビとそのようなことになってしまえばたちまちレミに迫られ、強引に婚姻届に捺印させられかねない。ラビのことは決して嫌いではないが、さすがにそのような形での婚約はラビにとっても不幸ではないだろうか。
(…………だから、もし………………もし、万が一、盲亀の浮木のような常識では考えられない偶然が重なって、“そういうこと”になってしまったとしても――)
 レミにだけは、その事実を知られるわけにはいかない。
(…………まぁ、そもそもそんな偶然起こりえないわけだが)
 だから、その心配も無用な筈だ――鼻息粗く、姉を襲えと唆してくるレミに別れを告げて、月彦は帰路についた。



「今回はね、ちょっと冒険してみたの」
 弁当包みを解きながら、雪乃が説明を続ける。
「今まで、お肉や野菜を使った料理はいろいろやってきたけど、魚だけは自分で捌く自信がなくって、ついつい敬遠しちゃってたの。食べるだけなら大好きだったんだけどね」
 苦笑混じりに、雪乃はおせちに使うような、漆塗りの三段重箱の蓋を開け、さらに一段目、二段目を展開させていく。
「だから、今回は思い切って、魚介づくしにしてみたの。あっ、魚介づくしっていっても、魚だけしか使ってないわけじゃないわよ? 魚の身肉で野菜を巻いて揚げてみたり、ひたひた煮にしてみたり、思い切って蒲焼きにしてみたり、いろいろトライしてみたつもり」
 そう、今日は週に一度の“一緒に弁当を食べる日”なのだった。
「ちなみにこれが豆腐といわしのハンバーグでしょ? こっちが鯖の竜田揚げで、これは鰤の照り焼き。照り焼きは、よく行くお店がすっごく美味しい鰤の照り焼きを出すから、その味を頑張って再現してみたわ」
「へぇー、どれも美味しそうですね」
「こっちは子持ちシシャモの塩焼き。シシャモはやっぱり塩焼きが一番だと思うの。そうそう、こっちの二段目は貝でまとめてみたわ。これが牡蠣フライでしょ、そしてこっちがホタテ貝のバター焼きで――」
「へ、へぇー……」
 いつになく気合いの入った弁当箱だと言わざるを得ない。手間もさることながら、材料費だけで一体いくらかかったのだろうか。
「――でね、思い切ってちらし寿司も作ってみたの。お酢の匂いで他のおかずの風味がおかしなことになっちゃうといけないから、ちゃんとタッパウェアに入れてきたのよ?」
「なっ、先生! いくらなんでも作りすぎですよ!」
「あとあと、サラダ的なものもあったほうがいいと思って。こっちはイカそうめんと数の子とイクラと水で戻した海草を和えて作ったサラダよあっ! 忘れるところだったわ!」
 ぱん、と手を叩き、雪乃がさらに手提げ袋からタッパーを取り出し、蓋をあける。
「これこれ、これが今日の一番の目玉なの。カラスミとウニと生クリームを使った冷製パスタ! はっきり言ってほっぺた落ちちゃうくらい美味しいんだから!」
「いや……先生、量が多すぎです。二人じゃ絶対食べきれませんよ」
「別に全部食べなくてもいいのよ? 何なら、余った分はタッパーにいれて持って帰ればいいんじゃないかしら。夏場じゃないんだし、家に帰るまでくらい腐ったりしないと思うけど?」
「そりゃあ、腐ったりはしないかもしれませんけど……」
 学校から大量の総菜を持ち帰る息子を、葛葉はどう思うだろうか。さすがに家庭科の調理実習で――と言うには量があまりに多すぎる。或いはいつも餓鬼のように食い物に群がってくる友人達に振る舞えば嬉々として食べ尽くしてくれるのかもしれないが、出所を聞かれるのも困る上に、それは雪乃の想いを裏切ることになるのではないだろうか。
 そう、雪乃の熱意は嬉しい。料理も、思いの外真面目に勉強し、回を増すごとに確実に調理の腕前は上がっているようだ。ただ、問題は料理の腕前が上がるのに比例して、量も増えているのが辛いところだった。
(母さんに頼み込んで、今日はパンにするからって、自分の弁当は持ってきてないからある程度は食えるとは思うけど……)
 それにしても多すぎる。せめて重箱だけであれば、なんとかなったかもしれないのだが。
「……先生、ものは相談なんですけど」
「なぁに? 紺崎くん」
「月島さんを呼んで、一緒に三人で食べる……っていうのはダメですか?」
「えっ……?」
 雪乃の表情が固まった。が、月彦は続ける。
「すみません、先生がその……二人だけの時間を大事にしたいって思ってるのは……わかってるんですけど……でも――」
「でも……?」
「その……月島さん、お昼を一緒に食べる友達とか居ないみたいで……時々でも、ここに呼んで一緒に過ごすことが出来たらなって…………だめですか?」
「月島さんを……ここに……」
 やはり、容易には受け入れづらいことなのか、雪乃は眉根を寄せてうーんと唸る。
「ま、毎回じゃなくていいんです。時々……そう、今日みたいに、二人じゃ食べきれないくらい作っちゃった時だけ、でも……」
「……………………わかったわ。紺崎くんがそうしたいなら、私は反対しない」
 渋々……なのだろう。雪乃はややため息混じりに肩を落としながら言った。
「本当ですか!? じゃあ俺、早速呼んできます!」
 パイプ椅子から立ち上がり、月彦はダッシュで生徒指導室を飛び出した。
(……って、勢いよく飛び出したのはいいけど)
 ハッと、月彦は我に返った。そう、昨日までのラビの逃げっぷりを思い出したからだ。
(……一応、昨日少し話はしたけど……結局どうして逃げるかは解らないままなんだよな)
 つまり、今日顔を合わせるなり逃げられる可能性も十二分にありうるわけだ。
(……そうなったらそうなったで、仕方ない……か)
 祈るような気持ちで、月彦はラビのクラスを目指した。人もまばらな廊下側からそっと顔を覗かせると、中には二十人ほどの男女がそれぞれグループを作って昼食をとっているのが見えた。
(居た、月島さんだ)
 そんな中で、ラビは一人教室の片隅の自分の席で弁当箱を広げていた。他に教室に残っている男女はそれぞれ勝手に机と椅子を動かし、仲の良い者同士で固まっているのに対し、ラビだけがまるで孤島にでも残されたかのように孤立しているのは、見ていて胸が苦しくなる光景だった。
 決して、一人で居ることを好んでいるわけではない証拠に、比較的近くの女子グループがキャッキャと笑い声を上げる度に、話に加わりたそうにあからさまにソワソワしていた。しかし、自ら歩み寄る勇気がないのだろう。ほどなくラビは視線を再び弁当箱へと落とし、ちまちまと食事を再開させる。
(……よし、行くか!)
 意を決して、月彦は教室内へと入る。クラス内に居た何人かは突然の他クラスからの侵入者にギョッと目を向けるが、それだけだった。
「月島さん」
 近くまで歩み寄り、声をかけるや、ラビはギョッとしたように身をすくませ、月彦の方を見た。
「あっ……あぅあぅあ……っっっ……ひこ、くん…………?」
 しかし、幸いなことにラビは逃げなかった。顔を真っ赤にはしているが、逃げない。月彦はホッと安堵の息をつく。
「食事中にごめんね。……えと、実はさ……雛森先生がちょっと部活のことで打ち合わせをしたいらしいんだけど、良かったら月島さんも来ない?」
「えっ…………えっ…………でもっ……」
「お弁当も持ったままでいいからさ。…………俺も先生も一緒に食べながら打ち合わせする予定だし。…………どうかな?」
「でもっ…………でもっ…………………………………………行って、いい……の?」
「ダメなら、そもそも誘いにこないよ」
 苦笑混じりに言うと、ラビはたちまち箸を箸入れにしまい、弁当箱に蓋をし、弁当包みで包んだ。
「い、行く!」
「良かった。……じゃあ、俺についてきて」
 月彦はラビを伴い、悠然と教室を後にした。


 


 方便として打ち合わせだとは言ったものの、その実打ち合わせるようなことなど何もない。しかし、仮にそうだとしてもラビにしてみればただ教室に居るよりはマシだったのだろう。
 少なくとも、生徒指導室で過ごすラビは教室に居た頃よりも笑顔になっていた。
「月島さん、久しぶり。……そろそろ部活に出てこられるかしら?」
「ぁと……ぇと…………は、はい……がんばり、ます……」
「無理はしなくてもいいのよ? 部活動なんて、強制されてやるものじゃないんだから。来たくないのに、無理に来る必要は全く無いから、月島さんが来たいときだけ来てくれれば良いからね?」
「あっ、あの…………わた、し……部室、行く、の……嫌じゃ、ない、です!」
 そこだけは誤解しないでほしいと言わんばかりに、ラビは――ラビにしては――大声で叫ぶように言った。
(…………ともあれ、少なくとも顔を合わせるなり逃げられる状況からは脱却できたか)
 むしろ、ラビが今まで通りにしてくれるのであれば、無理に“何故逃げていたか”を知る必要もないように思えてくる。
(…………それでも、俺は月島さんをデートに誘わないとダメなんだろうか)
 必要性はない――ように感じる。しかし、同時に夕べのレミの言葉が脳裏に蘇る。
(付き合わなくてもいいから、男子とまともに話せるように特訓して欲しいって言ってたよな……)
 そういう意味では、“休日に男子と二人でお出かけ”というのは、格好のリハビリになると思えなくもない。
(……月島さんには模試の時に助けてもらった借りもあるし)
 何も、本当に彼氏彼女になるわけではない。あくまでラビが“人慣れ”するための手伝いならば、誰それに気兼ねをすることもない。
「――っていうわけで、ちょっと作りすぎちゃったの。だから月島さんも遠慮せず食べてね」
「は、はい……! いただき、ます……!」
「……そっか、月島さんお肉ダメだけど、魚介はいけるんだっけ。丁度良かったね」
「うん! ひなもり、せんせっ……凄く、美味しい、です!」
 遠慮がちながらも、ラビは重箱へと箸を伸ばしてはやれホタテ貝を摘み、やれイカリングを摘みと、美味そうに平らげていく。
「……本当に美味しそうに食べるのね。紺崎くんの言う通り、呼んで良かったわ」
「月島さんの食べっぷりを見てると、俺もかなり腹が減ってきちゃいました。……先生、頂きます」
「どうぞどうぞ、いっぱいあるからじゃんじゃん食べていいわよ? あっ、さっきも言ったけど、パスタが一番のオススメよ?」
「じゃあ、最初にそれを頂きます。あっ、小皿とかありますか?」
「もちろん、持ってきてるわよ。ピクニック用の紙皿だけど、十分でしょ?」
「十分ですね、じゃあ最初に三人分に分けちゃいますね」
 未使用の割り箸をつかって、冷製パスタを三つの小皿へと分ける。それぞれ雪乃の前、ラビの前へと置き、月彦は早速と箸をつける。
「…………!………………先生、これは美味いですよ!」
「でしょでしょ? 一番の自信作なんだから」
 二人の会話を見て触発されたらしいラビも、冷製パスタへと箸を伸ばす。
「……ほん、と……美味しい! これっ、一番、好き!」
「月島さんも気に入ってくれたのね。もっといっぱい作って来れば良かったかしら」
「いやホント、マジでこれ美味いですよ。店とかだったら、一人前1500円は出せる味ですって!」
 からすみの独特の風味と塩辛さが生クリームのおかげでマイルドに抑えられ、さらにウニの濃厚な味がねっとりと冷製パスタに絡まり、口の中で絶妙なハーモニーを奏で続ける。一口食べれば二口目が欲しくなり、二口食べれば三口目が食べたくなる――そんな調子で、月彦は瞬く間に小皿を平らげてしまった。同じくラビも美味しい美味しいと呟きながら、ぺろりと食べてしまう。
 そんな調子で、結局雪乃が用意した総菜の殆どは三人の口の中へと消えていった。その味は世辞抜きで美味の一言であり、月彦は雪乃の女子力を見直さざるを得なかった。
(そして……)
 意外だったのが、ラビの食欲だった。元々自分の弁当を持ってきていなかった月彦とは違い、ラビは小ぶりながらも自分の弁当箱を持ってきていた。にも関わらず、下手をすれば三人の中で一番食べたのではないかという程の食いっぷりだったのだ。
「…………月島さんがそんなに食べる子だなんて知らなかったわ」
 雪乃の言葉は嫌味などではなく、純粋に驚きから出たものだった。しかしラビは己の食欲を恥じ入る様に顔を赤くし、慌てて箸を置いた。
「ぁぅ…………レミの、おべんと…………いつも、少ない……から…………」
 そして、消え入りそうな声で“言い訳”をした。
「あ、あと……先生の……お総菜……すごく、美味しくて……だから…………ご、ごめんなさい!」
「別に謝ることはないのよ、月島さん。作る方としては、残されるより全部食べてもらったほうが全然嬉しいんだから」
「先生……」
 雪乃の言葉に、今度は月彦が軽い感銘を受ける番だった。依然ならば、あからさまにラビを敵視し、廃そうとしていた雪乃が、こうまで変わるものなのかと。
(……いや、それを言ったら、そもそも月島さんを呼ぼうって話をしたときに……前の先生だったら……)
 にべもなく却下されていただろう。仮にそれが“嫉妬深い女だと思われたくない”という打算に基づいたものだとしても、雪乃を見る目を見直さずにはいられなかった。


 昼休みに引き続いて放課後も、ラビと雪乃と三人で部室に集まった。が、活動らしい活動をしたかといえばそういうこともなく。結局いつもの調子で世間話をするだけになってしまった。
(……まあ、それでも……月島さんが“人慣れ”をする練習になったと思えば……)
 一見無駄のように思える時間も無駄ではないと思える。
「あっ」
 談笑を遮るように、突然童謡“うさぎ”のメロディが流れ始める。びくんと、ラビが立ち上がり、スカートのポケットから携帯電話を取りだし、部室の隅へと移動する。
「……もし、もし……? レミ?」
「あー……そっか。もうこんな時間か」
 腕時計に目を落とし、月彦は呟く。話に夢中で気がつかなかったが、もう七時を回ろうとしていた。久しぶりということもあり、随分話し込んでしまったと思う。
「あっ、あのっ……つきひこくん! レミが……」
「えっ、俺?」
 一瞬、ラビと雪乃の顔を見比べてから、月彦はラビの携帯を受け取り、ラビと入れ違いに部室の隅へと移動する。
『もしもし、ぶちょーさん?』
「うん、電話代わったよ。どうしたの?」
『あのね、おねーちゃんとのデートのことなんだけど、今度の土曜日でどうかな?』
「今度の土曜日!?」
『うん。実はね、お料理クラブの友達のおにーちゃんが、近くの動物園で働いてるらしいの。ほら、下りの電車の終点にあるあそこ! ぶちょーさんも知ってるでしょ?』
「えーと……燈豊動物公園……だっけ?」
『そう、そこ! で、話を戻すけど、その友達がおにーちゃんから聞いた話だと、丁度今度の土曜日がその動物園の創立記念日らしいの。で、その日だけ入場料半額になるんだって!』
「へぇー、半額は大きいね」
『でしょでしょ? じゃあもう決まりでいいよね? 今度の土曜日、時間は朝八時半くらいでいいかな? 電車で終点までいかなきゃいけないし、少し早めがいいよね?』
「そうだね。俺の方は大丈夫だよ」
『ごめんね、デートのことはぶちょーさんに任せるって言っちゃったのに、私が勝手に決めちゃって。でも、おねーちゃん動物園好きだし、丁度いいって思ったから』
「そんなの気にしなくていいって。いい情報ありがとう、レミちゃん」
『えへへ、ぶちょーさんは優しいね。私もスキになっちゃいそーだよ! じゃあ、おねーちゃんには私のほうから言っておくから。ばいばーい』
 ぶつん、と通話が切られる。振り返ると、会話の内容が気になるらしいラビがソワソワしながら立っていた。
「携帯ありがとう。月島さんには帰ってからレミちゃんが説明するってさ」
 ラビに携帯を返した――その時だった。
「そういえば――」
 ソファに座ったまま。さも今思い出したとでもいうかのような、他意悪意など全く無いとでもいうように、雪乃が呟く。
「燈豊動物公園って、確か毎年創立記念日は入場料半額だったんだっけ。…………てことは、さっきの電話、ひょっとしてデートの打ち合わせかなにかかしら?」
「えっ……いや、その……」
 しまった、と。月彦は背筋が凍り付くような悪寒を感じた。側に雪乃が居た事を完全に失念していたのだ。
(……本当のデートじゃないって割り切ってたから、うっかりしてた!)
 考えてもみれば、自分がそうではないと思っていても、雪乃にそう思われたらアウトではないか。ゾッとしながら、月彦は慎重に雪乃の機嫌を伺うようにその表情を盗み見るが、ラビの前だからか。目立った変化は見受けられなかった。
「さて、と。…………そろそろ時間も遅いし、お開きにしましょうか。折角だし、二人とも私の車で送ってあげる」
 にっこりと、満面の笑顔での申し出を断ることなど、月彦には出来なかった。



 三人、職員用の駐車場へと移動し、ラビと共に雪乃の車の後部座席へと乗り込んだ。
「二人とも、家がどの辺か教えてくれるかしら?」
 尋ねながら、雪乃がエンジンをスタートさせる。以前家まで送ってもらったこともあるから、少なくとも雪乃は紺崎家の場所は知っているはずだが、ラビの手前あえて“二人とも”と言ったのだろう。
「ええと、俺は――」
 月彦にも、それくらいは解る。白々しく住所を言い、続けてラビがいつもの調子で辿々しく住所を言う。
 が。
「あのっ、あのっ……ち、近くで、いい、です……近くで、下ろして、下さい……!」
 住所を告げた後、ラビは繰り返し何度もそう訴えた。
「別に遠慮なんかしなくてもいいのよ? そんなに遠くもないんだし、家の前まで送ってあげる」
「ち、近くで……家の、前まで、じゃなくてもっっ……あの、お願い、します!」
 しかし珍しくラビは食い下がる。不思議そうな顔をする雪乃に、月彦はそっと口を出した。
「先生、何か事情があるみたいですし、月島さんがここまで言うんですから、近くまでいって下ろしてあげればいいと思います」
「うーん……確かに。じゃあ、手頃な場所まで来たら教えてね?」
 程なく、雪乃が車を発進させる。月彦は、ラビが家までの送迎を嫌がった理由が何となく察しがついた。
(…………多分、家を見られるのが……恥ずかしいんだろうな)
 今にして思えば申し訳ないと思うが、確かに初見のときはなんとボロっちい家だと目を剥いてしまった。多分、雪乃も同じような感想を持つのではないだろうか。
「あっ、のっ……もう、ここでいい、です!」
 ほとんど悲鳴のようにラビが言って、雪乃が車を止めるなり外へと飛び出してしまった。
「あっ、あっ、あ……ありがとっ、ございました!」
 そしてぺこりと雪乃に辞儀をするや、びゅんと消えるように走り去ってしまった。ラビの背中を見送って、ほどなく雪乃が車を発進させる。
「紺崎くんはお家の前でいいかしら?」
「は、はい……大丈夫です」
 声がうわずりそうになる。雪乃が何も聞いてこないのが、返って恐ろしかった。
「あの、先生」
「なぁに?」
「その、正直に言いますけど、今度の土曜日にちょっと、月島さんと出掛けることになったんです」
「動物園に?」
「はい。でも、これはデートとかそういうんじゃなくて、なんて言ったらいいか――」
「大丈夫、紺崎くん。ちゃんと解ってるから」
「いえ、でも本当に――」
「解ってるって言ってるでしょ?」
 キッ、と交差点の手前で車が止まる。赤信号の光が、いつになく不気味に輝いているように見えた。
「紺崎くん自分で言ってたじゃない。月島さん“とは”そういう関係じゃないって」
 気のせいか、“とは”のところだけ、微かにアクセントが強調されたように感じた。
「今度のことも、事情があるんでしょ? それだけ解ってれば大丈夫。私は別に、紺崎くんを束縛したいわけじゃないんだから。同級生の女の子と休日に出かけるくらいで、目くじら立てたりなんかしないから安心して」
「……です、か……先生が解ってくれてるんなら……いいんですけど……」
 言葉とは裏腹に、月彦は不安で仕方が無かった。何かがおかしい。雪乃の態度からは、一辺の悪意も敵意も感じ取れない。それが逆に恐ろしく感じる。
「…………そ、そうそう! 先生、今日のお弁当本当に美味しかったですよ! 特にあのスパゲッティ、最高でした。もし良かったら、次に先生の部屋に遊びにいったときにまた作ってくれませんか?」
「ありがとう、紺崎くん。そんなに気に入ってくれたなら、是非ともごちそうしてあげる」
 ルームミラー越しに笑顔を見せながら、雪乃が返してくる――が、やはりおかしいと月彦は思う。
(……いつもの先生なら、“じゃあ、いつ来る?”って、強引に日取りまで決めようとする、はず……)
 そう、いつもの雪乃であれば、ぐいぐいと押してくるはず――なのに、押されない。それはさながら、突き出し一辺倒だがそれが売りの脳筋力士が突如、土俵際で棒立ちしたまま微笑み混じりに相手の出方をうかがうスタイルに変化したような、そんな不気味さだった。 
 やがて、車は紺崎家の前へと停車する。月彦は雪乃に礼を言い、車から降りた。
「じゃあ、また明日ね。紺崎くん」
「はい。先生も気をつけてください」
 顧問教師と、生徒のテンプレートのような会話を交わして、雪乃が車を発進させる。そのテールランプが見えなくなるまで見送ってから、月彦はその場を後にした。



 土曜日。
 天気は快晴、降水確率0%。まさに絶好のお出かけ日和だった。月彦は万全の準備をして、家を出る。行く先は最寄り駅――ラビとの待ち合わせ場所だ。
(…………まさか、月島さんとデート……じゃない、“お出かけ”をすることになるとは思わなかったけど)
 これも人助けだと割り切れば、悪い気もしない。幸い、真央も今日は由梨子とどこかへ遊びに行く予定らしく、無言の“デートしたい”オーラに悩まされることもなかった。
 微かに逸る気持ちを抑えつつも駅前へ向かい、到着したのが八時十分。ラビとの待ち合わせは八時半であるから、早すぎるということはないだろう。駅前の植え込みの周りに張り巡らされた柵へと腰掛け、人の流れを見ながらのんびりと待つことにした。
「――らっ、……さん待ってるよ」
 雑踏と雑音に紛れて、微かに知った声が聞こえたのは、待ち合わせの時間まで五分を切った頃だった。声の主を捜して当たりを見回すと、人混みの中で異彩を放っている金髪姉妹がすぐに見つかった。
「おっ、月島さん、レミちゃん! ここだよ!」
 手を振り、二人の元へ歩み寄ろうとすると、どういうわけかラビは路地裏へと隠れてしまい、後に残されたレミだけがあちゃー、という顔をした。
「…………もう、おねーちゃんが早く出て行かないから見つかっちゃったじゃない。……ごめんねぶちょーさん、私はついてくる予定なかったんだけど、おねーちゃんがどうしても一人じゃ行けないっていうから……」
 レミはため息混じりに路地裏へと入ると、そのままラビの袖を掴んでぐいぐいと強引に引っ張り出す。
「……やっ、月島さん」
「ぁっ……つきひこ、くん……おはよ……」
 フード付きの薄いピンクのパーカーに、フワフワの耳当て。キャメルカラーのロングパンツといった出で立ちのラビが顔を赤くしながら現れ、ぺこりと辞儀をする。一方レミは、部屋着のまま仕方なくついてきたといった風で、どう見ても体育用のジャージの上から上着だけを羽織ったという格好だった。
 先日のラビもそうだったことから考えるに、もしかすると月島家の部屋着というのは学校のジャージがデフォルトなのかもしれない。
「もぉ、往生際が悪いんだから。……ぶちょーさんとのデート、おねーちゃんが一番楽しみにしてたクセに……じゃあ、私はもう帰るよ?」
「ぁっ……ま、待って」
 踵を返すレミの服を掴み、ラビはぐっと足を踏ん張る。
「待ってもしょうがないでしょ? それともなーに? おねーちゃんはデートの時まで私についてこいって言いたいの?」
「ううぅぅ……」
「うーっ、じゃないの! おねーちゃんの為に、ぶちょーさんはわざわざ時間作ってくれたんだよ? ほら、手を離して」
 服を掴んでいるラビの手を、レミがぺちぺちと叩く。程なく、観念したかのようにラビが手を離した。
「じゃあ、ぶちょーさん。おねーちゃんの世話は大変だと思うけど、一日よろしくね! 帰りは、駅についた時に連絡してくれたらすぐ迎えにくるよ!」
「ありがとう、レミちゃん。……じゃあ、月島さん、そろそろ行こうか」
「あっ、ぶちょーさん! 手! 手!」
「手?」
「電車に乗るんでしょ? ここら辺なら一人でも大丈夫だけど、知らないところに行くとおねーちゃんすぐ迷子になっちゃうから、絶対に手を繋いで離さないで」
「な、なるほど……じゃあ、月島さん」
「……ぁっ……」
 手をとろうと伸ばすと、ラビが避けるように手を後ろに回してしまう。
「こーら、おねーちゃん?」
「だ、だって……手の、ひら……汗、びっしょりだから……」
「そんなの、ハンカチで拭けばいいでしょ?」
 全くもうこれだから――レミはぶつぶつ良いながら、ラビの背中側へと回る。
(……あのリュックは……)
 今までは正面を向いていたから気がつかなかったが、ラビはいつぞやの合宿時につけていたニンジン型のリュックを背負っていた。レミがリュックの中からハンカチを取りだし、ラビに手渡す。
「……じゃあ、改めて。行こうか、月島さん」
「………………ぅん……」
 ラビの手をとる。異様なほど手が冷たいのは心が温かいから――ではなく、極度に緊張しているからなのかもしれない。
「……うーん、待って、ぶちょーさん。………………念のために持ってきたコレ、やっぱりあげる」
「うん?」
 レミが深刻な顔で差し出したのは、折りたたまれたノートの切れ端だった。
(……なんだこれ、“おねーちゃんの飼い方”って!)
 そこには、ラビとコミュニケーションをとる上で注意すべき点などがいくつも箇条書きにされていた。
(……黙ってもじもじしてたり、チラチラよそ見をするときは、トイレを我慢してる可能性があります。早めに連れて行ってあげてください……って)
 他にも、突然しゃがみ込んで動かなくなってしまった時。突然泣き出してしまった時。ショーウインドウに張り付いてどうしても動こうとしない時。駄々をこねて言う事を聞かないときetcと、まるで緊急時対策マニュアルばりに書き連ねてあった。
(……これ、ひょっとしてボケかなにかなのかな。“幼児かよ!”って突っ込んだ方がいいのか?)
 月彦は切れ端から目を上げ、レミを見る――が、どう見てもふざけている顔ではない。むしろ、生まれて初めて保育園に子どもを預ける母親のような不安の滲んだ顔をしていた。
「……? ……?」
 ただ一人、状況を理解していないラビだけが二人の顔を見比べ、不思議そうに首を傾げていた。やがて好奇心に負けたのか、月彦の持つノートの切れ端を覗き込もうとしたところで、月彦は慌てて切れ端を畳み、ポケットへとしまった。
「と、とりあえず……参考にさせてもらうよ、レミちゃん」
「うん。何かあったらすぐに携帯に連絡してね。……あっ、念のためぶちょーさんの番号教えて欲しいな」
「あー…………ごめん、俺携帯持ってないんだ」
「えっ……ぶちょーさん携帯ないの!? …………そういえば、この間も……」
「うん、公衆電話で家にかけてたろ? ちょっと事情があってさ、携帯は持たないことにしてるんだ」
「そっか、それじゃあしょうがないね。…………じゃあ、おねーちゃんの携帯でいっか。おねーちゃん、絶対無くしたり落としたりしちゃダメだよ?」
 こくこくと、ラビが頷く。が、レミは尚不安なのか、小さくため息をついた。
「ごめんね、ぶちょーさん。折角のデートなのに雰囲気ぶちこわしちゃって。じゃあ、今度こそ私は帰るから、おねーちゃんのことお願いします」
 レミが足をそろえ、深々と頭を下げる。
「レミちゃん、そんな……頭なんて下げなくても大丈夫だから。…………とにかく、今日はめいっぱい楽しもう、月島さん」
 頬を染めながらこくりと頷くラビの手をとって、月彦は駅のホームへと向かうのだった。


 改札を抜ける時も、ホームで電車を待つ間も、そして電車に乗っている間も、ラビとは手を繋ぎっぱなしだった。周りからは、さぞかし仲の良いカップルに見えたかもしれない。
(…………違う、違うんだ。そういうんじゃないんだ)
 と、可能ならば月彦は言い訳をしたかった。レミに頼まれた以上、万が一にもラビを迷子にさせてしまうわけにはいかなかった。同時に、まるで命綱のようにラビがぎゅうーーーーーーーーっと意地でも離すまいと握りしめてくるから、仮に離そうとしても離せなかったのだ。
「そういえば、俺動物園は何度か行ったことあるけど、燈豊動物公園は初めてだ。月島さんは行った事ある?」
 目当ての動物公園は終点の駅と隣接している。電車一本でいけるとはいえ、移動には片道一時間以上かかってしまう。
「わたし、も……はじめて……」
「そっか。楽しいところだといいね」
 こくりと、ラビが嬉しそうに頷く。ちろちろと、童謡“うさぎ”のメロディが流れ始めたのは、そんな時だった。
「つ、月島さん! 携帯、マナーモードにしとかないと!」
 携帯を持っていなくても、さすがに乗車中はそうするのがマナーだということくらいは知っている。ラビも慌てて携帯を操作し、設定をしていた。
「……レミからの、着信、だった」
「レミちゃんから? どうしたんだろ、急用なのかな」
 先ほど駅前でレミと別れてから、まだ三十分と経っていない。このタイミングでの電話というのは、よほどのことが起きたのではないだろうか。
「仕方ない、もうすぐ次の駅だから、一端降りて電話してみよう」
 メールを打つという手段もあるが、そもそも電車の中で携帯を操作すること自体非常識の目で見られる気がして――自分が持っていない、使っていないから、周りの視線が怖いということもあり――月彦は一端下車する方法を選んだ。
 程なく電車が次の駅に到着し、ラビと共に降りる。ホームの隅へと移動し、ラビに電話をかけさせる。
「もしもし……レミ?」
 もしかすると、第三者には聞かれたくない話かもしれない。ラビの声が聞こえない程度に距離をとりつつ――同時にラビを見失ったりしないように横目で姿は確認しつつ――月彦は次の電車の時間などをチェックする。
「つきひこ、くん! レミが……」
「えっ……?」
 ラビにまだ通話中の携帯を差し出され、月彦は受け取るなり、耳へと当てる。
『もしもし、ぶちょーさん?』
「うん、電話代わったよ。どうしたの?」
『大丈夫? おねーちゃん、泣いたりしてない?』
「はは、大丈夫だよ。レミちゃんは心配性だね、普通に電車に乗ってた所だよ」
『そうなんだ……ごめんね、ぶちょーさん。私、邪魔しちゃったかな……』
「全然大丈夫だよ、心配なのはしょうがないよね。俺も似たような経験あるから、気持ちはよくわかるよ」
 とにかく、何も心配する必要はないとレミに言い聞かせて、月彦は通話を切った。
「お待たせ。月島さ――ん?」
 そして、気がついた。見渡す限り人で溢れている駅のホームのどこにも、特徴的な金色の触角の持ち主が見当たらないことに。



 ラビは、駅から少しだけ離れた線路脇で見つかった。下手をすれば列車を止めてしまいかねない場所だっただけに、月彦は問答無用でラビの体を抱え上げ、大急ぎでホームの上へと戻らねばならなかった。
「月島さん、線路に降りたりしちゃ危ないじゃないか!」
「ごめん……なさい……」
 しゅーんと、ラビは肩を縮こまらせ、消え入りそうな声で呟く。
「電車にはねられるかもしれないし、そうじゃなくても電車を止めちゃったら何千万ってお金を払わなきゃいけなくなることもあるんだから。次から絶対降りたりしちゃダメだよ?」
 こくこくと、ラビは半泣きになりながら何度も頷いてみせる。
「…………とにかく、無事でよかったよ。……でも、一体どうして線路に降りたりしたの?」
「ねこ、が……居た、から……」
「猫……野良猫かな」
「あそ、こ! まだ、いる!」
 ラビが指さした先には、明らかに野良という顔つきをしたサビ猫が線路の枕木の上で顔を洗っていた。
「電車が、来るっ! あぶない!」
「ちょっ、月島さんダメだって! 猫なら電車が来たらちゃんと逃げるから!」
 またしてもホームから降りようとするラビを羽交い締めにして動きを封じる。野良猫は枕木の振動から列車が来るのを悟ったのか、我関せずといった顔でひょいと逃げていった。
「ほらね? 野良猫は見た目よりも逞しいから大丈夫だよ」
 ラビを解放しながら、月彦はハッと思い出して、レミから渡されたメモを盗み見る。
(“おねーちゃんは猫が好きです。猫を見かけると興奮して追いかけていってしまうので、注意してください”…………レミちゃんのメモにちゃんと書いてあるじゃないか)
 どうやら、このメモはもっと注意深く読み込み、記憶したほうがよさそうだと、月彦は肝に銘じねばならなかった。

 鈍行でのんびりと移動し、終点駅に到着したのは十時過ぎだった。目当ての動物公園は駅と隣接していて――正確には、駅を出て道路一つ挟んだ先だが――道に迷うということもなかった。
「うわぁ……さすがに人が多いね」
 ラビの手をしっかり握ったまま、月彦はつい口に出してしまう。電車が混んでいるとは思ったが、その乗客の殆どが動物公園目当てだったらしく、駅前は人で溢れかえっていた。
(そうか、入場料半額ってことはこういうことなのか)
 道路を渡り、入場ゲートの前には長蛇の列が出来ていた。ラビと共にその列に並ぶも遅々として進まず、どうにかこうにか中に入った時にはもう十一時を回っていた。
「ぷはぁっ……やっと抜けたぁ……入るだけで一苦労だったね、月島さん」
「う、ん……人、いっぱい、いる!」
 人の多さそのものに興奮しているのか、ラビは目を爛々と輝かせ、ふんふんと鼻息を荒くしていた。
「動物、も、いっぱい!」
「そうだね。……まずは何を見に行こうか」
 ゲートを潜ってすぐのところに巨大な園内マップが設置されており、月彦はとりあえずそれを見て決めようと前までやってきた。
「へぇー、結構広いんだな。月島さんは何を見たい?」
「え……と…………」
 ラビはマップを見て、さらにゲートの受付でもらったパンフレットを広げ、何度も何度も交互に見比べていた。ラビが決めるのを待つ間、月彦はそれとなく周囲へと視線を走らせる。カップル連れや家族連れが同じように園内マップの前で足を止めては、ああだこうだと意見を口にしていた。
(…………そうだ、次は真央と来るのもいいかもしれないな)
 小さな子どもを連れた家族のやりとりを見て、ふとそんな気持ちになり、月彦はほっこりする。
「つき、ひこくん」
 ちょんちょんとラビに肩を突かれ、月彦は慌てて家族連れから視線をラビへと戻した。
「決まった? 月島さん」
 ふるふると、ラビは首を振る。
「つきひこ、くんが、決めて」
「俺は月島さんが行きたいところでいいよ」
「…………き、決められ、ない、から」
「そっか……じゃあ、そうだなぁ……」
 月彦はパンフレットの内容と、園内マップを見比べる。
「ふむふむ……多分このホワイトタイガーっていうのが一番の目玉っぽいね。じゃあ、まずそれを見に行って、その後はぶらぶらと時計回りに見て回る感じでいってみようか」
「うん!」


 最大の懸念であった“混み具合”は、一度中に入ってしまえばさほど気にはならなかった。施設のキャパシティが予想を超えて遙かに大きかったのも理由の一つだが、どうやら入場者の目当ては“動物園”ではなく、それと隣接している“遊園地”のほうだったらしいというのが、最大の理由の様だった。
(……そっか、アトラクションも全部半額なんだ)
 パンフレットの全体マップ――入場ゲート前のそれに比べれば、かなり簡略されている――を見るに、敷地の半分は動物園ではなく遊園地になっているようだった。つまり、折角アトラクションを格安で回れる日に、のんびり動物など見ているのはもったいないと考える人たちが大半ということなのだろう。
「どうしよう、午後は俺たちも遊園地の方回ってみる?」
 ラビと二人、緩やかな傾斜のついた芝生の上へと腰を下ろしての一休み。公園内にある芝生の丘は学校の校庭ほどの広さがあり、ちらほらとシートを広げて寛いでいる家族連れの姿もあった。パンフレットによれば園内にはフードコーナーもあるが、このスペースに限り弁当などの持ち込みも可となっていた。もちろん、ゴミなどは持ち帰りが鉄則だ。
「つき、ひこくんは……どっちが、いい?」
「うーん……俺はどっちでもいいよ。月島さんが好きなほうで」
「わたし、は……どうぶつ園の、ほうが……いい……かな」
「じゃあ、午後ももう少し動物見て回ろうか。……その前に、お昼はどうする? 月島さんは何が食べたい?」
「あっ……お、ひるっ……はっ……」
 ラビがもぞもぞとリュックから腕を抜き、胸の前へと持ってくる。巨大な人参型のリュックのジッパーを開け、中から籐籠編みのバスケットを二つ取り出した。
「レミが、おべんとっ、作って、くれた、から」
「おお、レミちゃんの弁当か!」
「これ、つきひこくんの、分」
 ラビが、バスケットの片方を手渡してくる。蓋を開けると、中にはさらにタッパーが一つとおしぼり、そしてピンク色の包装紙を巾着状にリボンで結んだものが入っていた。タッパーの中身はサンドイッチが入っていて、包装紙の方の中身はどうやらクッキーのようだった。
「へぇー、美味そうだ。後でレミちゃんいお礼言っとかなきゃ」
 あぐらをかき、足の上にバスケットを置いておしぼりで手を拭く。見ると、ラビも女座りに足を崩して、おしぼりで手を拭いていた。
「じゃあ、まずはサンドイッチから…………んん!?」
 ほんのり赤いジャムのような具が見えていたサンドイッチを摘み、はむっ、と口に含むや、予想外の味に月彦は眉を寄せた。
「なんだこれ……この味……人参!?」
「うん、にんじん、ジャム……レミの、手作り」
 ラビもまたサンドイッチをはむはむしながら、笑顔で頷く。
「へぇー、人参でジャムって作れるんだ。最初はビックリしたけど、意外と合うねこれ……うん、美味しいよ」
 てっきり普通のイチゴのジャムだと思っていたから最初は驚いてしまったが、正体が分かればこれはこれで味わい深い。
「てことは、こっちの黄色いのも……何かのジャムなのかな」
 人参ジャムサンドを食べ終え、わくわくと気を逸らせながら月彦は次のサンドイッチを手にとり、はむっ、と口に含む。
「んんんっ、これは…………トウモロコシ……ジャムか! トウモロコシもジャムになるのか!」
「うんっ、トウモロコシ、だい、すき!」
 ラビは満面の笑みだ。
「てことは……次のこれは、シーチキンジャムか!」
 ちらりと見えている具はどう見てもシーチキンだった。月彦は覚悟を決めてかぶりつく――が。
「……普通のシーチキンとマヨネーズの味だ」
 二つ甘い味が続いた後だけに、塩辛いシーチキンマヨネーズの味がことさら美味しく感じる。が、やるせないガッカリ感を月彦は味わっていた。
「残念だ。レミちゃんにはもっと冒険して欲しかったのに」
「つきひこくん、はいっ」
「あっ……、ありがとう、月島さん」
 どうやら、リュックには水筒も入っていたらしい。湯気が立つほどに熱い紅茶が注がれた紙コップを受け取ると、ラビも水筒の蓋をコップ代わりに注ぎ始める。
「月島さん、水筒もあるなら言ってくれたら俺が持ったのに」
 サンドイッチとはいえ弁当二つと、水筒。結構な重さだったはずだ。
「へい、き」
 ラビはふるふると首を振って、ぽっと笑顔を零した。そして照れるように両手でコップを持ち、お茶に口をつける。月彦も、サンドイッチ三つに奪われた水分を取り戻すように、紙コップに口をつけた。
(うーん、いいなぁ、この雰囲気)
 和みとは、こういうことを言うのだろう。月彦はさらに次のサンドイッチを――粉砕したゆで卵にマヨネーズとバジルを和えた具だった――手に取り、かぶりつく。
(……欲を言えば……)
 もうちょっとボリュームのある弁当であれば、言う事はなかったのだが。レミの好意で作ってくれたものであるから、不満など言えようはずも無い。
(そういや、月島さんもレミちゃんのお弁当少ないって零してたな)
 レミ自身が小食なのだろうか。うーんと唸っていると、なにやらラビの方から“気配”がした。
「うん? どうしたの、月島さん」
 正確には、“何か言いたそうな時にラビが出す、声とも呻きとも区別がつかない独特の息使い”が気配の正体だった。
「え……と…………つきひこ、くん……きょ、今日、は……ごめん、ね」
「ごめん……って、急にどうしたの?」
 もしかすると、うーんと唸っているのを勘違いされたのかもしれない。慌てて月彦は笑顔を零す――が、後の祭りだった。
「レ……レミ、が……無理矢理、決め、ちゃって……」
「あぁ、そんなの気にしなくていいよ。俺だって、本当に嫌なら引き受けたりしないしさ」
「で、も……つきひこ、くんは……」
「大丈夫だって。月島さんもいろいろ気になることはあるんだろうけど、俺が相手のときはなーんにも気にしなくていいからさ」
 しかし、ラビは尚も浮かない顔のままだ。月彦は思い切って、話題を切り替えることにした。
「そういやさ、さっき見たホワイトタイガー可愛かったね」
 ぴょこんと。ラビが俯き気味だった顔を上げるなり、触角のように飛び出している前髪が跳ね上がった。
「虎っていうから、もっと威圧感あるのかと思ってたら、完全に大きな猫になってたね。ガラスで仕切られた檻のなかで、多分暖房とか効いてるからでれーん、ってしてたんだろうけど」
「……ほわいと、たいが…………可愛い、かった……うん……」
 同意するように、ラビが頷く。
「あとさ、ヒグマもちゃんと立って、餌くれー餌くれーっておねだりするのが可愛かったね。ああいうのって、芸として仕込まれたんじゃなくって、自発的にやってるのかな」
「ふっ……触れあい、広場、の……か、カメ、も、可愛かった……ね」
「あぁ……そうだね」
 思い出して、月彦ははにかみ気味に同意する。屋内に設置された触れあい広場コーナーではその名の通り、動物との触れあいが出来るのが売りなのだが、本来そこに居るはずのウサギやモルモットなどが一匹も居らず、何故だか大量のミシシッピアカミミガメが放し飼いにされていたのだった。
(……触ってたのは月島さんだけだったけど)
 もしカメラ付き携帯などを持っていたら嬉しそうにカメを抱く図をぱしゃりと撮影し、レミにでも“ウサギとカメ”の題名を添えてウケをとりにいったことだろう。
「んじゃ午後はまずペンギン館にいって、その後は適当にぶらぶらする感じでいこうか」
「う、ん! ペンギン、たのしみ……!」
 どうやら、うまい具合に気分の切り替えができたらしい。ラビが笑顔でサンドイッチを頬張るのを横目で見ながら、月彦は包装紙袋のリボンを解く。
「おっ、こっちは手作りクッキーか。レミちゃんのことだからまた仕掛けがあるのかな?」
 以前ラビにもらったクッキーを作ったのはレミだということを思い出して、月彦は神妙な手つきでクッキーをつまみあげる。焼く前に卵黄を塗ったのだろう、まん丸満月型のクッキーは表面がつやつやと光沢を放っており、ふわりと香る焦げたバターの芳香に否が応にも食欲をそそられる。
「うん、美味しい! ……中には何も入ってないか」
 恐る恐る口をつけて、中に何も仕込まれていないことを確認してからの二口目。ほどよい甘さについ口元がほころんでしまう。
「何だろう、ハーブでも入ってるのかな」
 甘さの影に、微かにミントのような不思議な風味を感じる。時折紅茶を挟むことでよりいっそう旨みが増す、黄金の組み合わせだった。見ると、ラビもサンドイッチを食べ終え、クッキーの袋を開けたところだった。
「おい、しい……!」
 右手でクッキーをつまみ、左手でほっぺたが垂れてしまわないように押さえながら、ラビはご満悦だった。が、不意に小首を傾ける。
「けど、ちょっと……味が、変?」



 午後も一通り動物を見て回り、日が傾きかけた頃に漸く入場ゲートの側まで戻って来た。
「さすがに今から遊園地の方は……また今度でいいかな」
 腕時計に目をやると、午後四時を過ぎていた。ラビが望むのであればそれもいいかとも思ったのだが、どうもラビは遊園地の方を避けている節があった為、月彦もあえて切り出しはしなかった。
「あっ、売店があるけど何か買っていく?」
 お土産とか――さりげなく振ると、ラビはびくりと体を震わせて立ち止まった。
「お、みやげ……?」
「うん。折角だから、レミちゃんに何かお土産とかいいんじゃないかな」
 てっきり、二つ返事で乗って来るものだと思っていた。しかし、意外にもラビは迷っているようだった。
「おみやげ……」
「まぁ、気に入ったのがあれば買えばいいし、無かったら無理に買わなくてもいいしさ。とりあえず見るだけ見に行ってみようよ」
「う、うん……」
 ラビの手を握り、売店の中へと入っていく。ごった返した人の波をかき分けながら、ラビの手だけは決して離すまいと強く、強く握る。
「さすが動物園のお土産だけあって、ぬいぐるみばっかりだな……おっ、ホワイトタイガーのぬいぐるみがあるよ。これなんかいいんじゃないかな?」
 月彦は所狭しと並べられた、赤子のホワイトタイガーのぬいぐるみの一つを手にとり、ラビの方へと差し出す。ラビは無言で受け取り、まるで縫い目でも捜すかのようにジッと凝視する。
(……あれ、月島さんってこういうの好きだと思ったんだけどな)
 我を忘れて野良猫を追いかけるほど猫好きのラビならば、虎の赤ちゃんのぬいぐるみも気に入るのではという予想は、見事に外れたらしい。
(あっ、そっか。月島さんが気に入っても、レミちゃんがそういうの好きとは限らないか)
 ひょっとしたら、肉食獣なんて見るのも嫌なのかもしれない。
「うーん、じゃあ、こっちはどうかな?」
 次に月彦が手にとったのは、カメのぬいぐるみだった。サイズはほぼ実物大、可愛らしくデフォルメされた緑色のぬいぐるみは、少なくとも実物よりは数倍可愛らしいものだった。
 が、ラビはカメのぬいぐるみも気に入らなかったらしい。ジッと見つめたまま、いいとも悪いとも言わなかった。
(……だめか。人に勧めるって難しいな)
 頭を掻きながら、月彦ははたと。雪乃とのデートのことを思い出していた。あの時は確か雪乃の方がこれはどうかあれはどうかと勧めてきていた。あの時の雪乃も、ひょっとしたら同じような気持ちだったのかもしれない。
(ならいっそ、食べ物とかのほうがいいかな?)
 そう思い、やれクッキーやらサブレやらバームクーヘンやらタルトやら、様々なものを勧めてみるが、そのどれにもラビは難色を示していた。せめて何が悪いのかを教えてくれればいいのだが、ラビは困ったような目を向けてくるばかりで要領を得ない。
(あっ、そうだ……こんな時の為のレミちゃんのメモだ!)
 ポケットからメモを取り出す――が、さすがにラビの目の前で読むことは出来ない。やむなく、それとなくラビから距離をとり尚且つ視界からラビの姿を絶対に見失わないようにしながら、月彦はメモへと目を通していく。
(えーと……お土産を選んでる時……のパターンは書いてないな)
 さすがにレミの予想の範疇外のことらしい。月彦はメモ用紙をポケットへとしまう。
 結局、どれも気に入るものは無かったらしく、ラビは何も買わなかった。月彦も自分の分は買わず、レミへの弁当のお礼にと、チーズタルトを一つ買っただけだった。
「さてと、じゃあそろそろ帰ろうか」
 なにぶん電車の移動だけで一時間以上かかってしまう。今すぐ動物公園を出て電車に乗っても、最寄り駅へと着く頃には六時を過ぎているだろう。
 ラビは少しだけ未練が残るような顔をしたが、表だって反対はしなかった。動物公園を出て駅へと移動し、電車の時間から大凡の到着時刻を割り出し、ラビにメールでレミへと伝えてもらう。返事は帰ってこなかったが、いざとなれば自分が家まで送っていけばいいと、月彦は思っていた。
 電車は行きよりも帰りのほうが混んでいた。月彦は圧力からラビを守るように盾となりながら踏ん張り続け、最寄り駅へと到着したころにはフラフラになっていた。
 改札口を出たところでラビが携帯を取り出し、耳に当てる。マナーモードにしているため月彦には解らなかったが、どうやら着信があったらしい。
「うん、いま、駅についた」
 立ち止まっていては人の流れの邪魔になる。月彦はラビの後ろからそっと肩を掴み、優しく押すようにして駅から出、ロータリー前まで移動する。
「つきひこ、くん、レミが……」
「了解、もしもし、レミちゃん? 電話代わったよ」
『もしもし、ぶちょーさん!? ごめんね、メール気づかなくって、もう駅まで帰ってきちゃったの?』
「うん、レミちゃんまだ迎えにこれないなら、俺が送っていってもいいけど」
 レミからの返事は無かった。無視ではなく、何かを考えているような、そんな間だった。
『あのね、ぶちょーさん。変なコト聞くけど…………お昼食べたのっていつ?』
「お昼? んーと、入場に結構手間取って、見て回るのが遅れたから……一時過ぎか二時くらいだったと思うけど」
 あちゃー、と。そんな声が、受話器の向こうから聞こえた。
『……ぶちょーさん、もう駅まで帰ってきちゃったんだよね?』
「うん」
『…………えーと……』
「……?」
『…………ぶちょーさん、もうちょっとだけ、おねーちゃんとデート続けてくれないかな?』
「ええっ!?」
『おねがいっ、ぶちょーさん! 今どうしても手が離せないの! もうちょっとだけおねーちゃんの面倒見てあげて!』
「いや、でも……」
 月彦はちらりとラビの方へと視線を向ける。一日中人の多い場所に居たせいか、ラビは見るからに疲れているようだった。ここからさらにどこかに出掛けようと切り出すのは、空気を読まない発言であるように、月彦には思えるのだった。
「月島さん、結構疲れてるみたいだからさ。出来ればもうお家に返してあげたいんだけど」
 口元に手を当て、ラビには聞こえないように配慮しつつレミに伝える。うーんと、電話口の向こうでレミが唸る声がした。
『じゃあさ、うちでしばらく二人でお留守番しててくれないかな! 私が帰るまでの間、おねーちゃんの面倒見ててあげて欲しいの!』
「レミちゃんが帰るまで……って、レミちゃん、一体こんな時間に何処に居るの?」
『そ、それは……友達の家、だけど……』
 嘘だな、と。月彦は直感した。
「レミちゃん、そうやって無理して俺と月島さんを仲良くさせようとしても無駄だよ?」 苦笑。そういえば、レミはやたらとラビとくっつけたがっていたことを、月彦は思い出した。
「それに、俺もこのあとちょっと予定があるしさ。だからどっちみち二人きりで留守番っていうのは無理だよ」
 嘘には嘘――というわけではないが、具体的な予定があるというのは真実ではない。強いて言うならば“家に帰る予定がある”程度の予定であるが、少なくともレミの策略にのって無理矢理に二人きりで夜を過ごすのは避けたかった。
(…………万が一ってこともあるしな)
 ラビとはそういう関係では無い――とは思うものの、密室に男女二人では何が起きてもおかしくない。それこそ、普段は人見知りする子ウサギのように大人しいラビが突如鼻息荒く襲いかかってくる可能性だって無くは無いのだから。
『ぶちょーさん予定あるの? じゃあしょうがないか……』
「ごめんね、レミちゃん。じゃあ、とにかく月島さん送っていくからさ」
『…………えーと、実はねぶちょーさん。すぐ近くまで来てたりするんだよね』
 プツ、と通話が切れる。そして一分と経たず、背後で「ぶちょーさん!」とレミの声がした。
「やっ、レミちゃん。お迎えありがとう」
「……もーっ、ぶちょーさん。女の子とのデートの後に予定を入れるなんてサイテーだよ? ちゃんと一日空けておいてくれないと困るよ!」
「ははは、どのみち夕方には月島さんを家まで送る予定だったよ。ほら、月島さん」
 よほど疲れているのか、柵に腰を下ろしたままうとうとと船をこぎ始めているラビの肩をぽんと叩くと、忽ちラビはピンとバネ仕掛けのように立ち上がった。
「お疲れ様、おねーちゃん。…………ぶちょーさん、おねーちゃん迷惑かけたりしなかった?」
「全然。迷子にもならなかったし、一日いい子にしてたよ」
 言いながら、とても同級生の女の子とのデートの感想ではないなと、月彦は苦笑を禁じ得ない。
(ていうか、迷子になったのも最初だけだったしな。……まぁ、ほとんど手を繋いで一緒に居たからなのかもしれないけど)
 少なくとも、レミがメモまで書いて渡さなければならないほどの厄介さは感じなかった。むしろ月彦はレミのほうが心配性過ぎ、そして過保護過ぎるのではないかという気すらし始めていた。
「むーっ…………いい子……じゃダメじゃない、おねーちゃん! もっとぶちょーさんにアタックしないと!」
「えっ……えっ……?」
 何故怒られているのかわからないといった様子で、半分寝ぼけまなこのラビが小首を傾げる。
 きゅーっ、と。雑踏の音に混じってなんとも気の抜ける音がしたのはその時だった。
「あっ……」
 と、ラビが顔を赤らめ、お腹を押さえる。
「……おねーちゃんってば…………しょうがないなぁ。……じゃあ、帰って晩ご飯にしよっか」
「それがいいよ。……そうそう、レミちゃん。お昼ごちそうさま、サンドイッチもクッキーもすごく美味しかったよ」
「ありがとう、ぶちょーさん。でも、出来ればもうちょっと早く食べて欲しかったな」
「もうちょっと早く……? 別に痛んで無かったと思うけど」
「…………えーとね……うん、まぁ……お腹痛くなったりはしないと思うから」
 レミはなにやら言葉を濁しながら、ラビの手を握る。
「ばいばい、ぶちょーさん。気が向いたら、また遊びに来てね! ぶちょーさんならいつでも大歓迎だよ!」
「ばいばい、レミちゃん。月島さんも、今日は凄く楽しかったよ」
「ぁっ……つき、ひこ、くん! わたし、も……すご、く、楽し、かった! よ!」
 レビに手を引かれながらも、逆の手をぶんぶんと力強く振るラビは、やはり“お姉ちゃん”には見えない。むしろ体の大きな妹といった感じだ。
 あっ、と。いざ別れの段になって、月彦は自分の右手にある紙袋の存在に、今更ながらに気がついた。
「そうそう、忘れる所だった。レミちゃん、これ……サンドイッチのお礼ってことで」
「お土産? ありがとー、ぶちょーさん! なんだろ、お菓子かな?後でおねーちゃんと一緒に食べるね!」
「お、かし……?」
 きゅーっ、とまたラビの腹が鳴り、月彦とラビが同時に噴き出してしまう。
「はは、じゃあ、レミちゃん、月島さん。気をつけて帰ってね」
 改めて、月島姉妹と別れを交わす。手をしっかりと繋いだまま仲良く遠ざかって行くその後ろ姿はやはり、小柄な姉に連れられた妹――という図式にしか見えない。
(体の大きな妹……か)
 月島姉妹を見送りながらふと、雛森姉妹のことが頭を過ぎる。そういえば、雪乃は今日の“お出かけ”のことは知っているはずだ。土曜日という、お泊まりつきのデートをするにはうってつけの日を、雪乃は一体どういう気持ちで過ごしたのだろうか。
(…………先生に、フォロー入れといたほうがいいかな)
 一人寂しく過ごしたであろう雪乃のことを考えると、ズキリと胸が痛んだ。ラビとの“お出かけ”の件を知って尚、恨み言の一言も言わず、あくまで大人の対応を見せた雪乃のことが普段以上に気になっていた――というのもあったかもしれない。
(…………まさか、本当に“予定”が出来るなんて)
 三度苦笑して、月彦は駅前の公衆電話ボックスへと移動した。


『はい、もしもし。雛森です』
「あっ、先生ですか? 俺です」
 公衆電話の良い所は、話し声を周囲に聞かれる心配をしなくても良いことだ。もちろんこれはボックスで区切られた場所だから言えることであり、そうでなければ周りの喧噪次第ではろくに話も出来ないということもあるのだが。
『えっ……本当に紺崎くん!?』
「本当にって、どういう意味ですか……」
 まさか、紺崎月彦を名乗る偽者からの電話でも受けたことがあるのだろうか――そんな不安にかられていると、雪乃が言葉を付け足した。
『あっ、うん……公衆電話からの着信ってなってた時点で、もしかしたら紺崎くんかなぁって期待はしてたんだけど、本当に紺崎くんからだとは思ってなかったから……』
「俺じゃないかと期待したけど、俺だとは思ってなかったんですか」
 雪乃の言葉に矛盾があることなど珍しいことではないから、月彦は適当に流すことにした。
「っと、それはいいんです。…………先生、今暇ですか?」
『暇……っていうか、暇だけど……何? 紺崎くん、今日は月島さんとデートだったんじゃないの?』
「いえ、デートじゃないです。ただの“お出かけ”です。出来ればその辺も詳しく先生に事情を説明したいんですけど……今から行っても大丈夫ですか?」
『えっ、えっ……ま、待って』
 がちゃん、がちゃんと何かが落ちる音が聞こえる。
『それって、今からうちに来るってこと?』
「はい。もちろん先生の都合が良ければ、ですけど」
『都合はいいけど…………』
 “けど”の部分が気になって、月彦は雪乃の次の句を待った。が、雪乃の沈黙は長く、たっぷり二分は黙っていた。
『……………………ねえ、紺崎くん』
「はい」
『晩ご飯、もう食べちゃった?』
「いえ、まだです」
『そう。…………私もまだで、丁度今から食べに出ようかと思ってた所だったの。良かったら一緒にどうかしら?』
「外食ですか? 俺はいいですけど……」
『じゃあ……えーと……紺崎くん、今どこに居るの?』
「駅前です」
『解ったわ。じゃあ、裏口の方にコンビニあったでしょ? そこで待っててもらえる? 準備にちょっと時間かかるから、三十分くらいかかっちゃうけど』
「解りました。駅裏のコンビニに三十分後、ですね」
 受話器を置き、テレホンカードを回収する。ボックスを出て、雪乃との待ち合わせ予定のコンビニへと向かった。徒歩でも五分とかからない距離な為、到着後は適当に立ち読みをしながら雪乃を待つことにした。
(……あっ、そういえば結局月島さんがどうして俺を避けてたのか聞いてないな)
 今更ながらにそのことを思い出す。理由は何であれ、これからラビが避けたりしないのであれば、別に気にする必要はないかと、月彦は楽観的に考えることにした。
(……にしても、……腹減ったなぁ……)
 ラビではないが、ぐうと腹が鳴ってしまう。時間が時間なのもあるが、そもそも昼食がサンドイッチとクッキーのみというのが大きい。雪乃を待ちきれずにコンビニで何か買ってしまおうかと、そんな誘惑と戦いながら、月彦はひたすらに待ち続けた。
 やがて見覚えのある軽自動車が駐車場に止まるなり、月彦は立ち読みしていた雑誌を棚へと戻し、店外へと出た。
「ごめん、お待たせ、紺崎くん」
「いえ、こっちこそ急な電話ですみません」
 何処で誰に見られているとも限らない。月彦は迅速に助手席のドアを開け、滑り込む。シートベルトをつけ終わるや、雪乃は忽ち車を発進させた。
「…………初めて見る上着ね」
 コンビニの駐車場から出るなり、ぽつりと雪乃が呟いた。何のことかと思って、月彦は自分の服のことだと気がついた。
「ああ、この上着ですか? なんかバーゲンで安かったとかで、一昨日くらいに母が買ってきたんですよ」
 白のタートルネックニットに、黒のジーンズ。そして雪乃が指摘した黒のチェスターコート。確かに上着だけは今日着るのが初めてであり、当然雪乃に見せるのも初めてのものだ。
(えっ……まさか、月島さんとのデートの為にわざわざ新調したって……そんな風に思われてたりしない……よな?)
 だとしたらなんとしてもその誤解を解きたいが、あえてそのことを説明すること自体が嘘くさく、雪乃の中にあるのかどうかも解らない疑惑の種をますます育てることになるのではないかという気がしてくる。
(ていうか……服とか見てるんだな。…………俺は、先生の服って、どれくらい覚えてるかな)
 ちらりと、月彦は雪乃の格好を盗み見る。胸元から黒のシャツを覗かせた、グレーのパンツスーツだった。少なくとも初めて見る格好ではないが、前回いつ着ているのを見たかと言われると解らない――そんな記憶具合だった。
「え……っと、それで……何処に食べに行くんですか?」
「そうねぇ、紺崎くんは何か食べたいものある?」
「食べたいものですか……実はものすごく腹が減ってて、ボリュームのあるものをガッツリ食べられれば何でもいいって感じです」
「抽象的ね」
 ハンドルを切りながら、雪乃が呟く。
「ちなみにお昼は何を食べたのかしら」
「昼ですか? サンドイッチ……とクッキーですけど」
「なんだか喉が渇きそうな組み合わせね」
 雪乃がアクセルを踏み込む。グンと車体が加速するのを感じる――が、次の交差点の赤信号が見えるなりすぐにブレーキ。体が前へと泳ぎ、シートベルトが食い込む。
「その二つだったら、お昼と同じものになっちゃう可能性は考えなくて良さそうね」
「ええ……さすがに夜にサンドイッチは……無いですよね」
「夜だからサンドイッチを食べちゃいけないってことは無いと思うけど」
 青信号になるなり、雪乃が車を発進させる。が、前が詰まっており、すぐに減速しなければならなかった。
「あの……先生?」
「なぁに? 紺崎くん」
「その……ひょっとして……怒ってますか?」
「怒ってる? どうして?」
「いや、その……なんかいつもと雰囲気違うなぁ、って」
「そうかしら」
 怒ってなんかいないと証明するかのように、雪乃はちらりと助手席に向けて微笑む。
「怒ってたら、一緒に晩ご飯食べに行こうなんて誘わないと思うけど」
「そ……そう、ですよね。……ははっ、すみません」
 野暮な質問だったと、月彦が空笑いを浮かべ、話題を変えようとした――その時だった。
「それとも――」
 ブレーキングからの急ハンドル。思わず頭をぶつけてしまいそうになるのを、月彦は辛くも踏ん張って堪えた。
「紺崎くんは、何か私に怒られるような心当たりでもあるのかしら」
「せ、先生が怒るような心当たり……ですか?」
 無い――とは、即答できなかった。何故ならそれは嘘であるからだ。
「って、あれ……先生、どこに向かってるんですか?」
 夜ではなく昼であれば、もっと早くに気がついていただろう。一体今どこの道を走っているのか、見覚えのある景色からその終着点を予想することも出来ただろう。
「どこ、って」
 苦笑混じりに、雪乃が交差点を直進する。
「晩ご飯、食べに行くんでしょ?」
「で、でも……なんか、どんどん閑散とした方にいってません? 飲食店なら、もっと市街の方にいかないと」
 “この道”は過去に何度も通ったことがある。同時に、このまま向かうのは危険だと本能的に感じる。
 はたして恐怖ゆえか、緊張ゆえか。
 ドキドキと、いつになく心拍数が高まっていく。
「どうしたの、紺崎くん。なんだかすごく焦ってるみたい」
「別に、焦ってなんか……ただ、この道って確か…………や、矢紗美さんの、マンションに行く道じゃないですか?」
「すごい記憶力ね。一度しか連れて行ってあげたことないのに」
 感嘆するような声だったが、褒められている気はまったくしなかった。クスッ、と。雪乃は笑みを盛らす。
「白状するとね、今日はちょっと……お姉ちゃんに仕返ししてやろうかと思って」
「仕返し……ですか?」
「うん。お姉ちゃんってばしょっちゅう私の部屋に潜り込んで、勝手にご飯食べたり、お酒飲んだりってやりたい放題なのよ。……だから、たまにはこっちが勝手にやってやろうかな、って」
「そんな……ハムラビ法典みたいなこと……」
 雪乃がそうしたいと思ってするのは勝手だが、俺を巻き込まないで欲しい――前回もそうだったが、何故この姉妹は姉妹の喧嘩に第三者を巻き込むのだろうか。
「だからお姉ちゃんが留守だったら、二人で好き勝手に冷蔵庫の中身食べちゃいましょ。大丈夫、どんなあり合わせの材料だって、紺崎くんが満足するだけのものは作ってあげられると思うから」
「そ、うですか……楽しみに、してます」
 はははと笑いながら、月彦には一つ懸念があった。それは雪乃が“お姉ちゃんが留守だったら”と言ったからだ。それはつまり、矢紗美が在宅の可能性もあるということではないのか。
(何だろう、先生が何を考えてるのかマジで解らない)
 不安に駆られて、何の気なしに腕時計へと視線を落とす。時計の短針は八時を指し示そうとしていた。


 近場の有料駐車場に車を止め、徒歩で矢紗美のマンションへと向かう。矢紗美のマンションは雪乃のそれとは違い、オートロックではない為、直接部屋の前まで行くことが出来るのだが。
(……なんだろう、なんか……動悸が止まらない)
 ドキドキと、雪乃と連れ立って歩いているだけで鼓動が高鳴るのを感じる。初めは、単純に緊張しているのかと思っていたが、どうもそれだけではないような気がしはじめていた。
(……こんな時、だってのに)
 雪乃と共にエレベーターに乗る時など、ついその後ろ姿を凝視してしまう。パンツスーツの生地越しに浮き出た女性らしい体のラインを目で追ってしまう。ごくりと、生唾を飲んでしまう。
(何だろ……先生って、こんなに綺麗だったっけ……?)
 エレベーターが上昇し、踵に体重がかかるのを感じながら、月彦は雪乃の横顔を見つめていた。綺麗に手入れのされた眉、強い意志を感じさせる瞳、つい手を伸ばして、感触を確かめたくなるほどに柔らかそうな唇。薄く紅の入ったその唇を見ているだけで、月彦はまたしても喉を鳴らしてしまう。
「……? どうしたの、紺崎くん」
 私の顔に何かついてる?――月彦の視線に気づいた雪乃が、微笑み混じりに振り返る。瞬間、どきんと、心臓が跳ねた。
「い、いえ……何でもないです……」
 月彦は慌てて視線を逸らす。雪乃は不思議そうに首を傾げながら、視線を順繰りに点灯する階層表示板へと戻す。そんな雪乃の後ろ姿へと、月彦は再び視線を戻す。女性にしては高い身長と、ほどよい肩幅。スーツの上着のせいではっきりとは解らないが、その腰はキュッとくびれ、逆に尻のほうはスーツ越しでも肉付きの良さがはっきり解るほどにラインが浮き出てしまっている。
 タイトミニではなく、ズボンで良かったと思う。理由はわからないが、これほどに雪乃にドキドキさせられている状況で、あんな扇情的な格好をされたら、見境無く襲いかかっていたかもしれない。
(なんだ、俺……本当にどうしたんだ……?)
 さすがにここまでくると、月彦は自覚せずにはいられなかった。かつて無いほどに、雪乃が欲しいと感じている自分を、だ。可能ならば、このままとんぼ返りをして雪乃の部屋に直行したいくらいだった。
 或いは――と。月彦は居間の自分の体調、気分の変化をどこか冷静に分析もしていた。そう、或いは――自分は今、生命の危機に直面しているのではないかと。そのことを、本能だけがその第六感で鋭敏に感じていて、生命の危機故に、子種を残さねばとサカっているのではないかと。
(……そんなバカな。先生と一緒に、矢紗美さんの部屋に遊びにいくだけじゃないか)
 その行為のどこに命の危険があるんだと、鼻で笑いたくなる。雪乃も言っていたではないか。いつもいつも勝手に上がり込む姉に仕返しをするために、今度はこっちが勝手に上がり込んで好き勝手にするんだと。
(様子が変なのも、多分……矢紗美さんに腹を立ててるから、だろう、うん)
 半ば強引に、月彦はそう思い込もうとしていた。


「あら、お姉ちゃん居るみたい」
 エレベーターを降りて部屋の前に行くなり、雪乃は別段落胆したという風でもなく、むしろ当たり前のことのように呟いた。確かに雪乃の言う通り、廊下に面した格子入りのガラス戸ごしに部屋の明かりが見え、在宅であることは月彦にも容易に解った。
「えっ、矢紗美さんの留守を確認してから来たんじゃなかったんですか?」
「だって、あのお姉ちゃんのことだもの。下手に“今日は出掛けてるの?”なんて聞いちゃったら、何かされるって感づかれちゃうかもしれないじゃない。土曜の夜だし、出掛けてるんじゃないかなーって思ってたんだけど、アテが外れちゃった」
「そう、ですか……。じゃあ、留守中に悪戯大作戦は失敗ですね。また今度出直し――」
 月彦が喋り終わるのを待たずに、雪乃がインターホンのボタンを押し込んだ。
「ちょっ、先生!?」
 雪乃はさらに二度、三度とインターホンを鳴らす。
「おねーちゃーん、居るんでしょ?」
 コンコンと、雪乃はさらにノックを続ける。やや強引にすら思えるその仕草に、月彦は奇妙な錯覚を覚えていた。
 そう、これはまるでドラマなどで見た事がある――夫の浮気相手の家に押しかける正妻(怒り120%)のようではないかと。
 程なく、がちゃりと鍵の外れる音がした。
「何よ……来るなら来るで前もって――」
 ノブが回り、ドアが開く。のそりと顔を出した矢紗美と、月彦は目が合った。
「へ?」
 という顔を矢紗美はした。矢紗美から見れば、自分も同じ顔になっていたのではないかと、月彦は思った。そして矢紗美の手が急速に動き、ドアを閉めようとする――が、その時には雪乃が靴のつま先をねじ込んでいた。
「ちょ、ちょっ……何よ、雪乃! 足、邪魔!」
 珍しく矢紗美は慌てていた。何とか雪乃の足をどかして強引にドアを閉めようとするが、雪乃も譲らない。恐らくは――否、間違いなく。矢紗美は雪乃以外の来訪者など全く予想していなかったのだろう。
 その髪は寝起きのままとでもいうかのようにぼさぼさと寝癖にささくれ立っており、鼻に毛穴パックをつけた顔も見るからにすっぴん。極めつけはその格好――月彦が見た事もないような、まるで異性を意識したことがない中学生が着るような色のあせたダブルガーゼのピンクのパジャマ。トドメと言わんばかりに、胸元にはパンダの顔のアップリケまでついていた。
「急に来ちゃってごめんね、お姉ちゃん。ドライブしてたら近くまで来ちゃって、ついでだから何か晩ご飯食べさせてよ」
 体格的な意味で、矢紗美が雪乃に力で敵うはずはなかった。必死の抵抗むなしく、軽々と雪乃にドアを開け放たれ、堪りかねたように矢紗美は顔を真っ赤にして脱衣所の方へと逃げ込んでしまった。
「あら、引っ込んじゃった。じゃあ、上がろっか、紺崎くん」
「……えと、お邪魔、します」
 靴を脱ぎ、雪乃の後に続く。脱衣所へと通じる引き戸の前を通るとき、「ぁぁぁぁ……」と奥から噎び泣くような声が聞こえたが、月彦はあえて聞かなかったことにした。
(……まあそりゃあ……二十四時間いつでも人に見せられる格好で居る人なんて……)
 だらしのない格好を見てしまったとはいえ、それで矢紗美の評価が下げようなどとは思わない。むしろ、“あの”矢紗美も、休日一人で寛いでいるときはああなのだと思えば、微笑ましく思えこそすれ、幻滅などしようはずも無い。
「あーあー、お姉ちゃんってば、こんなに散らかしちゃって」
 居間に足を踏み入れるなり、雪乃は腰に手を当てて大きくため息をつく。コタツの上には棒ネットに入ったみかんと、皮だけになったみかんがいくつか。さらに栓の開いた缶ビールが三本、ナッツ詰め合わせその他のおつまみが数種。また矢紗美が入っていたと思われる場所の脇には開いたままの女性週刊誌があり、その上には伏せた手鏡と毛抜きが置きっぱなしになっていた。
「ごめんね、紺崎くん。すぐ片付けるから」
 まるで母親のような口調で言って、雪乃はてきぱきと後片付けを始める。何となく見てはいけないものを見てしまったような気がして、月彦はつけっぱなしのテレビの方へと視線を固定させた。ちなみにサッカー中継をやっていたが、その内容はまったく頭に入らなかった。
 雪乃は最後にコタツ布団をまくりあげて掃除機までかけて「さあどうぞ」と月彦を掘りごたつへと案内した。が、自分は入らずに上着だけを脱いでハンガーに掛け、腕まくりをする。
「あれ、先生どこに……?」
「紺崎くんお腹空いてるんでしょ? お姉ちゃん脱衣所から出てこないし、代わりに私が何か作ってあげる」
「あっ、じゃあ俺も何か手伝――」
「いいから、紺崎くんは座ってテレビでも見てて。月島さんと一日デートして疲れてるでしょ?」
「いえ、あの……はい……」
 雪乃に両肩を掴まれ、半ば強引に座らされる。
(……デートじゃ、ないんだけどな)
 そう反論したかった。しかし、雪乃の中では、完全にデートだったのかもしれない。機を見て謝ろう――そんなことを考えながら、月彦は呆然とサッカー中継を見るのだった。


 これが雪乃のやりたかったことなのだろうか。掘りごたつに入っている月彦の前には唐揚げやら麻婆豆腐やらマカロニサラダやら肉じゃがやらがごじゃんと並べられていた。
「なかなかいい味出してるじゃない。これなら合格点あげられるわ」
 唐揚げを一つつまんでは缶ビールに口をつけ、一つつまんでは口をつけ。月彦の向かいの席に座している矢紗美は鼻で笑うように言った。その笑みにはあからさまに「良い味は出してるけど、まだ私の方が断然上」という響きがあった。
 一度は脱衣所に籠もってしまった矢紗美だが、シャワーを浴びナチュラルメイクしたその姿は月彦の知るいつもの矢紗美に戻っていた。毛玉のついた部屋着を脱ぎ捨て、白い生地に黒のボーダーが横に入ったモールパーカーに、同じ柄のボトムスへと着替え、今や何事もなかったかのように場に溶け込んでいる。
「お姉ちゃんの為に作ったんじゃなくて、紺崎くんの為に作ったんだけど……紺崎くんはお腹いっぱいになってくれた?」
「ええ、そりゃもう。すごく美味しかったですよ」
 こたつの上の料理はすでに七割方無くなってしまっていて、殆ど雪乃だけが食べている状況だった。言わずもがな、雪乃が料理していたからそうなってしまったのだが、矢紗美だけが酒のつまみ代わりに、時折唐揚げやら豚キム炒めやらに箸を伸ばしている。
「てゆーか、雪乃。あんたはお酒いいの? 飲みたかったら好きなの持ってきていいのよ」
「今日は飲まないの。帰れなくなっちゃうじゃない」
「そんなの、代行呼べばいいじゃない」
「いいったらいいの」
 絡むな酔っ払い、とでも言いたげに雪乃はガラスのコップに麦茶を注ぐと、一息に飲み干した。そんな雪乃の仕草を、月彦はつい目で追ってしまう。
「……? どうしたの、紺崎くん」
「あっ、いえ……」
 慌てて雪乃から視線を逸らす。
(ヤバいな……なんか、腹いっぱいになったらますます……)
 雪乃のことが気になって仕方が無い。その衝動はむしろそのことを自覚したエレベーターの中の時よりも、数倍強まっていると言っても過言では無かった。
(何だろう……何か“ロックオンされてる感じ”だ)
 手当たり次第に誰でもいいからヤりたいわけではなく。あくまで雪乃とシたいと感じている自分に、月彦は気がついていた。
(何でだ……確かに最近先生とはシてなかったけど……)
 そういう意味では矢紗美も似たようなものであり、雪乃に意識がロックオンされる理由が月彦にはわからない。。
(先生の……唇…………)
 かつて、これほど雪乃の唇が“美味しそう”だと感じたことがあっただろうか。少しでも気を抜けば、うっかり指を伸ばしてしまいそうで、月彦はこたつ布団の下に両手を隠すように仕舞って悶々としていた。
 そうして月彦が借りてきた猫のように大人しく、一人悶々としている最中も雪乃と矢紗美はやれ仕事の愚痴やら同僚の愚痴やらを零しては、それはあんたが悪いだのそれはお姉ちゃんの方が悪いだのと言い合っていた。
(……早く、帰ろうって言ってくれないかな)
 二人の会話など右から左。月彦はとにかく、雪乃のその一言を待ちわびていた。酒好きの雪乃が一切酒を口にしないということは、泊まる気はない証拠だ。雪乃さえ帰ると言ってくれれば、その後は――。
「そういえば――さ」
 そんな月彦の内心など、恐らく微塵も伝わっていないのだろう。不意に、雪乃が話題を変えた。
「前に言ってた、お姉ちゃんの“彼氏”って、私まだ顔見た事ないかも」
「……矢紗美さんの彼氏……?」
 聞き流しモードに入っていた月彦も、その単語にだけは鋭敏に反応した。うつむき加減だった顔を少しだけ上げると、正面の席に入っている矢紗美は、缶ビールを手にもったまま驚くように目を丸くしていた。
「……あぁ、えと……そうだったっけ?」
「折角だし、見てみたいなぁ。お姉ちゃん、写真とか持ってないの?」
 一体なにが“折角”なのか、月彦にはまったく解らなかった。そしてそれは矢紗美も同じらしく、不思議そうに眉を寄せていた。
「どうしたの、雪乃。今まで一度もそんなこと言わなかったじゃない」
「別に、ただ何となく、酒の肴に丁度良いかなーって」
「あんた酒なんか飲んでないじゃない」
 うっ、と。雪乃が俄に言葉を詰まらせた。
「いいから、見せてよ。それともなに? 見せられない理由でもあるの?」
 気のせいか、ちらりと。ほんの一瞬だけ雪乃に見られた気がして、月彦は俄に震え上がった。
 まさか。
 もしや。
 雪乃は、疑っているのか。
 そのことを――さんざんに目を向けないようにしてきたにも関わらず――月彦はいい加減認めざるをえなくなっていた。
「そりゃあ、写メくらいはあるけど、別に雪乃に見せる義理はないわね」
 ふふんと、妹の申し出を鼻で笑いながら、矢紗美はぐびりと缶ビールを呷る。そして空になっちゃった、と呟くや台所へとおもむき、新しい一本を手に戻ってくる。
「変ね、いつも自分から男の自慢話してくるお姉ちゃんが、どうして写真一枚にそんなに渋るのかしら」
「別に何から何まで話す必要なんて無いでしょ? こっそり胸の中に仕舞っておきたいことだってあるんだから」
「他の人が言うならともかく、お姉ちゃんが言うんじゃ説得力ゼロね。…………ねえ、紺崎くんはどう思う?」
「えっ、お、俺、ですか!?」
「お姉ちゃんの新しい彼氏って、どんな人だと思う? 紺崎くんは気にならない?」
「いや……ははっ……確かに矢紗美さんには合宿の時とかいろいろお世話になりましたけど」
 さすがに彼氏の顔まで知りたいとは思わない――そう言外に含めながら、月彦は雪乃の視線から逃げるようにコップに手を伸ばし、麦茶に口をつける。視線を逸らしたのは、無論雪乃の目をまともに見れないからなのだが、その理由の半分は矢紗美とのことがバレる不安ではなく、下半身に悶々と蟠っている熱故だった。
(バカッ……今はそういう時じゃないだろ! 弁えろ!)
 心中で叱りつけるも、そもそもそうやって叱ったくらいでしょぼくれる下半身ではなかった。月彦はただただ、我関せずという演技を続けることしかできない。
「……そうそう、そういえばお姉ちゃんのその“年下の彼氏”って、確か彼女持ちだったのを寝取ったんだっけ。今日はその変の話も詳しく聞きたいわぁ」
 雪乃の独り言めいた呟きに、月彦は思わず麦茶を吹いてしまいそうになる。
(ちょっ……矢紗美さん、先生にそんなこと言ってたんですか!)
 抗議の視線をちらりと向けると、矢紗美はどこ吹く風。ここで変に狼狽えたり、態度を変えたりすることが一番マズいと解っているらしい。
「雪乃こそ、そういう男がらみの自慢話なんて聞きたくないんじゃなかったかしら?」
「いつもはね。でも、今日はそういう話が聞きたい気分なの」
「話して欲しいっていうんなら話してもいいけど。……でも、紺崎クンの前でそういう話をするのはどうかしら?」
「どうして紺崎くんの前じゃ出来ないの?」
「そりゃあ、仮にも大人の男と女の話だもの。生々しいし、刺激も強いし。それに、折角紺崎クンの前では“優しいお姉さん”で通してるのに、もしかすると引かれちゃったりするかもしれないじゃない」
「別に関係ないでしょ。お姉ちゃんと紺崎くんは何の関係もないんだから」
 雪乃の言葉に、初めて敵意のようなものが混じったように、月彦は感じた。やはり、雪乃は疑っている――そう感じた。それもラビとではない、矢紗美との浮気を、だ。
(何でだ……俺、何か矢紗美さんとの関係を臭わせるようなことしちまったのか……?)
 ラビとの浮気を疑われるならば、わかる。実際、デートと言われても仕方が無いようなことまでしているから、それならば納得出来る。しかし矢紗美とは――少なくとも、雪乃の態度がいつも通りであった月曜日以降は――顔を合わせてすらいない。雪乃が疑いを抱くきっかけなど、あるはずがないのだ。
(……でも、ひょっとしたら――)
 自分では無く、矢紗美の方が何かしら仄めかしてしまったのではないだろうか。もしそうだとすれば、それは“ミス”ではなく、故意だろうと月彦は思う。何故なら以前、雪乃と別れると約束をしていこう、自分はその約束を未だに果たせないままだからだ。
 焦れた矢紗美が、なにがしかの行動を起こすことは、容易に想像できることだ。
「ふーっ………………わかったわよ。一体全体どういう風の吹き回しかわからないけど、そこまで見たいっていうんなら見せてあげようじゃない」
 矢紗美は缶ビールを炬燵テーブルの上に置くや、ぐでーんと大の字に仰向けに寝そべる。そのままごろりと寝返りをうって俯せになり、体をめいっぱいに伸ばして部屋の隅に寄っていたハンドバッグを引き寄せ、中から携帯電話を取りだした。
「んーと……はい。これで満足?」
 液晶画面を雪乃の方に向けて、矢紗美が得意げに携帯を差し出した。――瞬間、雪乃の、そして月彦の動きが、一斉に止まった。



 液晶に映し出されているのは、制服姿の矢紗美と、そして見た事も無い若い警察官だった。年は恐らく二十代前半、線は細いがほどよく日焼けした肌の100人中95人はイケメンだと口を揃えるような甘いマスクの持ち主だった。
 誰かに撮影してもらったのか、二人は照れ混じりに身を寄せつつも、矢紗美の方だけが男の背中側から肩へと手を回している。見ようによっては恋人同士のスナップにも見えなくもない一枚だった。
「え…………この人、が……お姉ちゃんの、彼氏……?」
 固まっていた雪乃が、信じられないとでもいうかのように漏らした。
「信じられないっていうの? 何なら、ベッドで一緒に撮ったやつとかも見る?」
 矢紗美が不満そうに携帯を手元に戻し、操作を始める。雪乃は慌てて「もういい」と手を振った。
「何よ、自分から見たいって言ったくせに」
「そう、だけど……で、でも! 写真くらい、じゃ……その人が、本当にお姉ちゃんの彼氏かどうかなんて解らないじゃない!」
「…………あんたが写メ見せろって言ったんでしょ?」
 呆れるような、矢紗美の言葉。そしてため息。
「んじゃ、電話でもかけて確認してみる? 何ならこの場に呼ぼっか?」
 あぐ……と雪乃が唇を噛む。
「なーに、雪乃。あんたまさか……私の彼氏が紺崎クンじゃないかって疑ってたの?」
「なっっ…………何言ってるのよ! そんなワケないでしょ!?」
 ばんっ。雪乃は膝立ちになりながらテーブルに両手をつき、大声で否定する。が、矢紗美に言わせればその大仰なリアクションが自白も同然といった様子だ。
「いきなり紺崎クン連れてくれば、私が焦ってボロを出すとでも思ったのかしら?」
「だ、だから違うって言ってるでしょ!? こ、紺崎くん……本当に違うからね?」
 あたふたと顔を真っ赤にしながら、雪乃が必死に弁明を続ける。――が、その実、月彦はその言葉の半分も耳にしていなかった。
(えーと……さっきの写メに映ってたのは矢紗美さんで、矢紗美さんの隣に居たのは後輩っぽい警察官の人で……)
 会話が既にその先の先まで進んでいるにもかかわらず、月彦の頭ではまだ矢紗美の写メールの内容という情報の処理が終わってはいなかった。それはひとえに得体の知れない何かに脳のメモリを食いつぶされているからであったのだが、月彦自身その知れない得体の正体には半ば気がつき始めていた。
「だいたい雪乃ってば、昔からそうなのよね。何かあるとすぐ私を疑うんだもの。高校の頃だって――」
 写真については、恐らく矢紗美が“こういうとき”の為に準備しておいたということで説明がつく。或いは、本当にあの男性が本命の彼氏であり、自分もまた他の数多の男同様遊ばれていただけ――という可能性も無くは無いが、そんなことまで考えたところで埒があかない。
(ええと、今一番考えなければならないのは――)
 まるで熱でもあるかのように頭が働かない。とにもかくにも今日、自分がここに連れてこられたのは、どうやら矢紗美に揺さぶりをかけるためらしいということは、漠然と理解していた。そして同時にそれは、雪乃自身確固たる証拠があって矢紗美を問い詰めにきたわけではないということの裏返しということにならないか。
「それは今は関係ないでしょ! それに、半分以上は本当にお姉ちゃんが犯人だったじゃない!」
 躍起になって弁明を続ける雪乃。よほど焦っているのか、その横顔には余裕の欠片も無い。先ほど料理をする際に上着を脱ぎ、今は黒のシャツのみとなっている。雪乃がテーブルを叩いて弁明をする度に、そのたわわな膨らみがこれでもかと揺れ、月彦の両目を幻惑する。
「半分だなんて、せいぜい五分の一くらいでしょ。それに、あんたがそれを言うならこっちだって――」
 二人の会話が、まるでガラス越しかなにかのように遠く聞こえる。反対に鼓動の音は耳障りなほどに大きく、ドクドクといつになく濃い血が全身を駆け巡るのがわかる。
(先生と、シたい……)
 そう。“それ”こそが、月彦の思考力を奪っているものの正体だった。いつになく強く感じるその衝動が、刻一刻と抑えがたくなる。もはや、いい年した女性二人の口げんかなどに耳を傾けている場合ではなかった。
「食べ物と男の怨みを一緒にしないでよ! だいたいお姉ちゃんは――」
 キャンキャンと喚き立てるその口をキスで塞ぎ、艶やかな喘ぎ声に変えてやりたい。およそ教師という職業にふさわしくないたわわな胸元をスーツの上から揉みしだき、丸いラインを描くヒップの上からら剛直を擦りつけてやりたい。後ろ髪に鼻を擦りつけ、胸一杯に成熟した女の匂いを吸い込みながら体をまさぐってやりたい。壁に手を突かせ、立ったまま下着を脱がし、剛直を根元までねじ込んでやりたい。腰のくびれをしっかりと掴み、さんざんに突いてやりたい。学校では澄ました英語教師ぶっているその顔を、淫らなメス顔に変えてやりたい――
「妹のお下がりを着せられる屈辱が解るっていうの!? しかも、趣味の悪い服ばっかりお母さんにねだって、それを後で着せられる身にも――」
 雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりた雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりた雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい。雪乃とヤりたい――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ちょっと、紺崎クンも黙ってないで何か言ってやってよ。この子が言ってることもうむちゃくちゃでしょ? 紺崎クンはどう思う?」
「へ……」
 悶々とピンク色の妄想で頭がいっぱいになっていた月彦は、突然の質問に軽くパニックに陥った。
「お姉ちゃんが言ってることのほうがムチャクチャよね? そうでしょ? 紺崎くん」
 ずずい、と姉妹二人が身を乗り出してくる。
「あ、えと……」
 正直、二人の話などまったく耳に入っていなかった。それどころか、今何故自分がこんな所に居るのかすら、月彦は把握していなかった。それほどに、頭の中は妄想一色に塗られていた。
 それでも僅かな思考力を総動員して考えた。二人はどうやら、何かを尋ねているらしい。それも、どう思うかというようなニュアンスのことだと辛うじて理解するなり、月彦は二人の迫力に負けるように、ストレートに口に出した。
「お、俺は…………先生と、エッチが……したい、です」


 唖然とした二人の顔が、月彦の頭に冷水を浴びせた。そしてそれは、口論にヒートアップしていた二人も同じだったのだろう。
(あっ、やべっ……)
 自分がとんでもない事を口走ってしまったと気づくも、後の祭り。引きつった笑いを浮かべることしかできない月彦に向かって、最初に口を開いたのは雪乃だった。
「な――」
 雪乃もまた、月彦の言葉がよほど予想外だったのか。舌をもつれさせていた。
「何、言って……そ、そういうことを聞いてるんじゃないでしょ、今は!」
 顔を真っ赤にしながら、ガーッと吠えるように言う。一見怒っているように見えなくもないが、それは誰がどう見ても照れ隠しの咆哮だった。
「す、すみません……あの、ずっと考え事してて……話、聞いてなくって……」
「だからって…………か、考え事って……もしかして……」
 雪乃が頬を赤らめたまま、言外に尋ねてくる。月彦は小さく頷いた。
「そん、な……………………ど、どうしよ……お姉ちゃん……」
「どうしよ、って……」
 先ほどまで掴みかからんばかりの大げんかをしていた二人とは思えないほどに、神妙なやりとりだった。雪乃はもとより、矢紗美の方もその顔からは余裕の笑みが消え、引きつったものに変わっていた。
「……嫌なら、嫌だって、言えばいいじゃない」
 そしてどこかぶっきらぼうに、私の知ったことかと言わんばかりのアドバイス。うぐ、と雪乃が口ごもり、矢紗美と月彦の顔を交互に見る。
「嫌なわけ………………………………………………」
 膝立ちから、正座へ。ほんの十数秒前まで、矢紗美に噛みつかんばかりの勢いでまくし立てていたのが、憑き物が落ちたようだった。
「………………………………………………そんなに、したいの?」
 そして小声。まるで半泣きの子どもに「どうしたの?」と尋ねるような、優しい声だった。
「……ええと……………………………………はい」
 神妙に、月彦は頷く。
「…………………………じゃあ……………………………………今日はもう帰る、から……お姉ちゃん、後片付け、お願い……」
 まるで、日本語を覚えたばかりのネイティブアメリカンのような不自然な口調で言って、雪乃が炬燵から立ち上がる。そのまま、雲でも踏んでいるかのような頼りない足取りで、フラフラと玄関の方へと向かう。
「あっ、じゃあ俺も……先生、上着忘れてます!」
 月彦もまた立ち上がり、雪乃の上着を手に後を追う。
「紺崎クン、待って……」
 その背に、矢紗美の声がかかる。が、その過細い声は月彦の耳へは届かなかった。


 月彦は小走りに雪乃の後を追い、すぐに追いついた。忘れていた上着を渡すと、雪乃は短く礼の言葉を言って羽織り、そのままフラフラと夢遊病者のような足取りでエレベータへと乗り込んだ。心ここにあらずという言葉そのままにマンションを出、車を止めた有料駐車場へと移動する。
 雪乃が再び口を開いたのは、運転席に座ってからだった。
「えっ……と……私の部屋……で、いいかしら」
 月彦に語りかけているというよりは、まるで自分の中に居る誰かに向けているような、そんな声だった。
「はい」
 としか、月彦は答えられない。雪乃も月彦の方を見ようとはせず「そう」とだけ返した。
「……あ、もし……我慢できそうにない、なら……どこか近くのホテルとかでもいいんだけど……」
「いえ、さすがにそこまで切羽詰まってるわけじゃ……」
「そう、なんだ……じゃあ、部屋でいいわね」
 雪乃が車を発進させる。夜も大分更けているからか、それとも単純に市街地から外れているからか、道は驚くほどに空いていた。それを奇貨とするかのように雪乃は常識を疑うようなスピードで走り続け、あっという間にマンションの地下駐車場へとたどり着いた。
「あっ……そ、っか」
「……? 先生?」
 シートベルトを外そうとしていると、雪乃がハッとしたように声を上げる。
「…………人気の無いところに車を止めて……っていう手もあったなぁ、って……も、勿論、紺崎くんが我慢できそうにないなら、の話よ?」
 後半早口にまくし立てながら、雪乃はシートベルトを外して車から降りてしまう。まるで、雪乃の方が我慢できそうにないみたいな言い方だと思いながら、月彦もまた車を降りる。
 雪乃と共にエレベーターへと乗り込み、上昇が始まると否が応にも鼓動が早くなるのを感じる。もう少し、もう少しだと、全身の細胞がザワついているかのようだった。
(まだだ、まだ早い……!)
 気を抜けば、ムズムズとズボンの奥から寝た子が顔を出しそうで、月彦は懸命に制御しなければならなかった。今そんなことになれば歩くことなど到底出来なくなる、全ては水の泡なんだぞと窘めながら、目のほうでは舐めるように雪乃の後ろ姿を見ていた。
 雪乃の方もどうやら自分がそういう目で見られていることは薄々感じている節があった。ほんのりと頬を染めたまま、ゆるやかに上昇するエレベーターの速度をもどかしげに、こつこつと指で操作盤を弾いていた。
 エレベーターを降り、部屋の前まで移動するや、雪乃がポケットから鍵を取り出し――お手玉をするように落としてしまう。
「ご、ごめんね……すぐ、開けるから」
 慌てて拾い、鍵を鍵穴へと入れようとするが、巧くいかない。まるで、背後から不審者に迫られて大急ぎで家の中に逃げ込もうとしているような――そんな手つきだった。
 結局、普段の何倍も時間をかけて鍵を差し込み、漸くにしてドアが開かれる。
「先、入って……紺崎くん」
 熱に浮かされたような声。雪乃に促されるままに先に玄関へと入る。遅れて雪乃が玄関へと入り、ドアを閉める。かちゃん、とドアが閉まる音が鳴った瞬間にはもう、雪乃に襲いかかっていた。



「やっ、待って……!」
 意外にも、雪乃は抵抗をした。といっても、抱きしめた腕の中で藻掻く程度の、極めて弱いものだったが。
「ノンに、水と餌をあげないと……」
 過細い声を絞り出すように言う雪乃の体の柔らかさを全身で確かめるように、強く、強く抱きしめる。
「夕方、家を出るときにあげてなかったんですか?」
 強く抱きしめたまま囁きかけると、雪乃は瞳を蕩けさせたまま「あっ」という顔をした。
「じゃあ、このまま続けても何の問題も無いですね」
「んっ……で、でも……ここじゃ……ンッ……!」
 抱きしめた手を徐々に滑らせ、スーツの生地越しに尻肉を揉む。肩の上で、雪乃がはぁぁと声を震わせる。
「だ、めっ……ベッド、に……」
 はっ、はっ、と短く切るように息をする雪乃の耳を舌で舐ると、忽ち声を震わせてよがり始める。そのまま甘く噛むようにしながら、両手の指と手のひらで、弾力に富んだ尻肉の感触を堪能する。
(先生の……尻……っ……)
 男子生徒の9割――否、10割がムラムラと欲望をかきたてられる極上の尻を今、自分は揉みしだいているのだと。噛み締めながら、月彦は揉みつづける。自然と呼吸も荒く、揉む手つきも荒々しくなる。
「んっ…………んっ……!」
 雪乃は、基本的にはされるがままだった。両手を月彦の背へと回し、上着の生地をギュッと掴んだまま、つま先立ちのまま尻を揉まれるがままになっている。そんな雪乃を玄関脇の壁に押しつけるようにして、月彦はさらにその足の間へと、膝を曲げて割り込ませる。
「やっ……だ、ダメッ……」
 壁へと膝を押し当て、それは丁度雪乃が月彦の太ももに跨がるような格好になる。しかもつま先立ち。雪乃にしてみれば、壁に貼り付けにされたような気分だったかもしれない。
「先生?」
 ふっ、と耳に息を吐きかけ、雪乃の両手から力を抜かせる。体を少しだけ離すや、今度はその唇を奪う。
「んっ、はっ……ンッ……!」
 いつになく柔らかそうに見えたその唇。舌で、自分の唇で、貪欲に味わう。雪乃も遅れて舌を使い始め、次第にぴちゃぴちゃと犬が水を舐めるような音が響き始める。
「紺崎、くん……」
 息継ぎのように口を離すや、雪乃が愛しげに名を呼んだ。いつのまにかその両手は月彦の後頭部を捉えており、すぐさま雪乃の方へと引き戻される。
「んちゅっ、んっ……ちゅはっ……んっ……!」
 今度は雪乃の方が積極的だった。ゾゾゾと、思わず股間に血が集まるほどに艶めかしい舌使いに、図らずも月彦の方が腰砕けにされる。
「はぁぁっ……紺崎くん……紺崎くんっ……ちゅっ……」
 気がつくと、責める筈が完全に受け手にされてしまっていた。雪乃のペースでキスと息継ぎが繰り返され、このままではマズイとばかりに、月彦は膝を立てて以降遊んでいた右手を、雪乃の胸元へと宛がった。
「んんっ……んふっ……」
 そのまま、揉む。シャツ越し、ブラ越しではその本来の柔らかさの半分も伝わらない。しかし、その邪魔者の向こうにあるたわわな質量を弄ぶように、やんわりと揉み捏ねる。
「だめっ……」
 胸を揉み続けながらのキスを数分続けた頃、雪乃が根を上げるように唇を離した。
「服が、汚れちゃう……」
 脱ぎたい、脱がせて――雪乃の目はそう言っていた。そしてそれは月彦にとっても利がある提案であり、どう考えても反対する理由は無かった。
 ――が。
「先生、“お願い”があるんですけど」
「ぇっ……あんっ……!」
 戸惑う雪乃の耳元へと、月彦は“お願い”を囁きかける。えっ、と雪乃が目を丸くして、月彦の方を見た。
「こ、紺崎くん……それ、本気で――……んぅ……!」
「はい。……聞いてくれますか? 俺の“我が儘”」
「紺崎くんの……我が儘……」
 呟くなり、とろんと雪乃が瞳を潤ませる。その理由を無論月彦は解らない。解らないが、自分の要求を雪乃が受け入れたということだけは理解した。
「じゃあ、お願いします。先生」
 言って、月彦は雪乃の体を解放した。



 

「どう、かしら……これでいいの? 紺崎くん」
 胸を躍らせながらリビングで待つ事数分。寝室から現れた雪乃の姿を見るなり、月彦はミシリと。ベルトの留め金が軋む音を聞いた。
 右の手のひらで左の肘を押さえるようなポーズで、頬を染めて立つ雪乃。その姿は一見なんの真新しさもない、普段学校で目の当たりにしているタイトミニ姿。だが、これこそれが月彦がリクエストしたコスチュームだった。
 ごくりと、喉が鳴る。後はもう、頭の中に残された二つの選択肢のうち、どちらを選ぶかだけだった。
 即ち。このままリビングで犯るか、寝室で犯るか――だ。
「先生、こっちへ」
 そして、月彦は決めた。この格好は、寝室にはふさわしくないと。欲を言えばリビングなどでは無く、それこそ教室や部室が最高なのだが、この際贅沢は言えない。
 歩み寄ってきた雪乃の手をとり、そのまま引き寄せながら抱きしめる。さながら、海草に擬態しているイソギンチャクの仲間が、何も知らない小魚を絡め取るように。
「あ、んっ……」
 先ほどよりも強く、雪乃の体を抱きしめる。“コレ”は、俺のものだと自分自身に言い聞かせるように。
「紺崎くん……ちょっと、苦しっ……」
「すみません、先生。……もう少しだけ、我慢してください」
 我慢して、と言いつつも抱擁は緩め、代わりに胸元へと鼻面を当て、すう、はあと大きく深呼吸をする。微かな香水の香りと、汗の香り。その汗の香りの中に微かに感じる、発情したメス特有のフェロモンに、みしりと。金属が軋む音が響く。
「……紺崎くんは……やっぱり……その……こういうのが、好き、なのかしら……?」
「こういうの……?」
「ええと……その……教師と生徒、っていうか……あっ、別にそういうのが悪いっていうわけじゃないのよ?」
「…………そうですね。今まで自覚はしたこと無かったですけど、もしかすると先生のせいで、そういう風になってしまったのかもしれません」
「わ、私の……せい……? やンっ……」
 サワサワと、雪乃の体をまさぐる。目で、鼻で、そして全身で。目の前に立つのはあの――英語教師、雛森雪乃であると確かめるかのように。
「こ、紺崎くん……?」
 雪乃が戸惑うのも無理はなかった。先ほどまでの肉欲まるだしの手つきとは違う、まるで盲人が目の前にあるものの形を探っているような手つきだからだ。豊満な胸元は言わずもがな、キュッと締まったウエスト、肉付きのよい尻――それら全てを、手のひら全体で味わっていく。
「…………先生、俺……バカでした」
「え……?」
「なんていうか……自分がどれだけ恵まれてるのか、まったく解ってませんでした。こうして先生の体に触れるっていうのが、どれだけ凄いことなのか、人に言われるまで解らなかったんですから……」
「人に……って……こ、紺崎くん……? やっ……」
「聞きたいなら、後で話します。今は……先生を感じさせてください」
 雪乃の背をリビングの壁へと預け、月彦はその足下へと膝を突く。足を開かせ、その間に体をねじ込み、タイトミニの中へと顔を潜り込ませる。
「ちょっ……ちょっと、ちょっと……やだっ……紺崎くん……ぁっ…………」
 雪乃が慌てたように、タイトミニの上から頭を押さえつけようとしてくる。が、本気で嫌がっているわけではないらしく、その抑えは全力ではなかった。ならば遠慮する必要はないとばかりに、下着のスリットのごしに鼻先を擦りつける。
「……先生、下着……代えました?」
「っっ…………だ、だって……さっきまでのは……」
「でも、これももう大分……」
 鼻先に感じる湿り気に、月彦は苦笑する。恐らくは勝負下着なのだろう、黒の、小さくフリルのついたいかにも高そうなシルク製のそれを愛しむように、指先で優しくスリットをなぞる。
「やっ、だ……はンッ…………んんっ……」
 ただなぞっているだけなのに、見る見るうちに下着が湿り気を帯びていく。こんなスカートの暗がりの下などではなく、歴とした明かりの下で、下着だけを身につけた雪乃の体を心ゆくまで堪能したいという衝動を堪えるのは、簡単なことではなかった。
(でも、今日は……)
 意を決して、月彦は指をかけるや、一気にヒザ下までズリ下ろした。
「こ、こんざきくん!?」
「先生、片足を抜いてください。転びますよ」
 声を裏返らせる雪乃に冷静にアドバイスし、片足を抜かせる。さらに足を開かせ、ムッとするほど濃厚な熱気に包まれた秘裂へと顔を近づける。
 思わず喉が鳴る。かつてこれほどまでに、女性のそれを舐めたいと――その蜜で喉を潤したいと感じたことがあっただろうか。
(……帰ったら、真央を問い詰めてやるか……)
 何かまた変な薬でも盛られたに違いないと決めつけながら、月彦はぐっと両手の親指で秘裂を割り開く。スカート越しに雪乃の悲鳴が聞こえた気がしたが、気にせずにれろりと。露わになった媚肉へと舌を這わせる。
「あっ、ァ……! ダメッ……シャワーも浴びてない、のに……!」
 雪乃が喘ぎ、太ももを震わせる。さらに、れろり、れろりと舌を動かし、雪乃の“味”を堪能する。
「こ、紺崎くん……どうしたの? い、いつもと……違う…………」
 確かに、と月彦は同意せざるをえない。“いつも”であれば、それこそ真っ先に胸元の衣類をはぎ取り、一にも二にもおっぱいを弄るところだ。それは間違いない。
「ちゃんと言ったじゃないですか。…………今日は、凄く先生としたい気分なんだって」
「っっっ…………」
 おやと、月彦は舌先に感じる蜜の量の変化を感じた。それはにじみ出るというよりは、溢れるといった表現がしっくりくる程に、明らかな変化だった。
「先生……?」
 興奮したんですか?――あえて言葉にはせず、舌使いだけで雪乃に尋ねる。くしゃっ、と、タイトミニ越しに髪に爪を立てられるのを感じた。
「だ、って……紺崎くんに、そんな風に、言われたら…………」
 見なくても、顔を真っ赤にして羞恥に耐えている雪乃の姿が目に浮かぶようだった。
(……そんな先生に“お礼”です)
 小陰唇の辺りをれろり、れろりと舐め回すだった舌先を、唐突にその上――ぷっくりと勃起している突起へと伸ばす。
「はゥンッ!」
 てろん、と優しく舐めると、まるで雷にでも打たれたように雪乃が全身をビクつかせた。ぎゅううと太ももで頭を締め付けられながら、さらに月彦はてろ、てろと舌先で舐め続ける。
「だめっ、だめっ……そこ、だめっ……あぁぁぁぁぁぁぁぁ……!」
 雪乃の体がくの字に折れ曲がり、頭を抑える手に力が込められる。
「先生、ちょっと窮屈です。もうちょっと体を起こしてください」
「……っ……こ、紺崎くん……私、もう…………」
「体を起こしてください」
 有無を言わさず“お願い”をすると、雪乃は観念したように体を起こした。腰砕けになっていた両足を伸ばした隙をつき、月彦は両手で太もも抱え上げるように抱きながら、今度は唇全体でクリトリスを包み込み、チュッと吸い上げる。
「ヒッ…………ぁッ!」
 ビクビクビクッ!――密着している箇所から、雪乃が全身を痙攣させるのが伝わってくる。まるで雷にでも打たれているようなその反応が嬉しくて、月彦はさらに続けてちゅっ、ちゅっとクリフェラを続ける。
「やッ……ァ! うっ……ンッ……! ッッッ……はァッ………………!」
 腰回りを激しく跳ねさせながら、雪乃が悶え続ける。月彦はさらに気を良くして、ヒクヒクと蠢きながら涎を垂れっぱなしの秘裂へと、右手の指を二本、ねじ込んだ。
「ンンンンッ! やっ……も、もう…………ゆるひっ、てぇ…………」
 とうとう雪乃が泣きを入れてくるが、勿論許しなどはしない。クリフェラを続けながら、たっぷりと指を出し入れしてやる。時折中で指を折り曲げ、引っ掻くようにしながら雪乃を追い詰めていく。
「あぁぁっ……ァァ…………あぁぁッ……!」
 切なげに声を荒げながら、スカート越しに雪乃が焦れったそうに頭を撫でつけてくる。さすがにそろそろ気がついただろうか。クリフェラも、指でも愛撫も、雪乃がイきそうになるやたちまち寸止めをしていることに。
「こんざき、くぅん……」
 ほとんど泣くような声で雪乃が呟いたのを機に、月彦はミニスカートの下から頭を抜いた。忽ち雪乃は膝から崩れ落ち、自らが滴らせた蜜たまりに尻をつけてしまう。
「あらら……先生……折角のスーツが汚れちゃいますよ」
 手を差し出し、雪乃を立たせる。その手応えはずしりと重く、それだけ足に力が入らなくなっているということらしかった。
「お願い……もう……」
 立つや否や、雪乃は月彦にもたれ掛かるように、両手を背中へと回してくる。
「ベッドいこ? ね……?」
 まるで足踏みでもするように、焦れったげにお尻をくねくねさせながらの囁き。思わずうんと頷いてしまいそうになるのを辛うじて堪えることが出来たのは、勿論確固たる目的があるからだった。
「もちろんベッドには行きます。でも、その前に――」
 月彦は唇を舐め、雪乃の耳元へと寄せる。ばきんと、興奮が最高潮に達し、ベルトの金具ごと、ズボンの留め金がはじけ飛ぶ。
「ここで、立ったまま先生とシたいです。――壁に手をついて、お尻をこっちに向けてもらえますか?」



 今こそ月彦は認めざるを得なかった。面識もない男子生徒達の会話が、自分の中のある部分を刺激していたということを。そうでなければ、あえて雪乃に勤務中の格好をさせ、さらには立ちバックというスタイルを選択したことの説明がつかなかった。
「紺崎くん……本当に、ここで……するの……?」
 壁に手をついたまま、雪乃が不安げに視線を向けてくる。ここでというのが、明るすぎるという意味なのか、それとも玄関マットのすぐ側ということを指しているのか。どちらにしろ、月彦はわざわざ移動するつもりは毛頭無かった。
 雪乃の問いかけを無視して、タイトミニをまくしあげる。眼下に現れる、肉付きの良い白桃のような尻。これが、数多の男子生徒を悩ませ、狂おしい夜を過ごさせている元凶なのだと思えば思う程に不思議な感慨と、訳のわからぬ怒りにも似た感情がわき起こる。
「んっ」
 手始めに、揉む。両手で、指の合間から肉が盛り上がるほどに強く。が、すぐにそれだけでは満足できなくなる。既にベルトの金具ごとズボンの留め具まで破砕した分身が、俺にも味見をさせろといきり立っているのだ。
「こ、紺崎くん……」
 艶やかな声での呟き。雪乃も既に、尻を揉む程度の快楽では我慢出来ない様子だ。その尻に尻尾が生えていれば、紛れもなく淫らにうねうねと揺らめき、その先端で誘うように月彦の顎を撫でつけることだろう。
 雪乃の唇が、僅かに動いた。声にならないその動きは「はやく」と言っているようだった。月彦はあえて、尻を掴んだまま親指だけで秘裂を捉え、割り開く。
「んぁっ……!」
 甘い声と共に、どろりとした濃い蜜が糸を引いて滴り落ち、フローリングの上に蜜だまりを作る。その指で開かれた、ピンク色のヒクつく肉の狭間へと、剛直の先端を密着させる。
「ぁっ……ふっ……」
 “先端”が接触した瞬間、雪乃もまた息を乱した。挿入の瞬間を待ちわびているように体を強ばらせている。そんな雪乃が可愛くて、つい焦らしたくなってしまう。
「んんっ……やっ……ンッ……!」
 雪乃の緊張を解きほぐすように、その背中を、脇から腰回り、尻にかけてをやさしく手のひらで愛撫する。そうして雪乃をリラックスさせながら、徐々に腰を進めていく。
「ぁっ……アッ……ァッ……!」
 いつになく雪乃の体に飢えていた――からだろうか。その媚肉の絡みつき具合も、いつになくねっとりとしたものに感じられる。
「やっ、ちょっ…………ふ、太っ……」
 雪乃が壁にツメを立て、体を前へと逃がすように腰を引く――が、月彦は腰のくびれを掴み、その体を固定しながら剛直を挿入させていく。
「だめっ、だめっ……ァッ……ァ……!」
 雪乃が頭を振り、両足の踵を外へと向ける。
「ヒッ……ァ……だめっ……奥っ……来るっ……ぅぅ……!」
 先端に、子宮口を感じる。はて、雪乃の中はこんなにも狭かっただろうか――そんな違和感に首を傾げそうになる。或いは、いつになく興奮していることで体積と硬度も若干ながらも増しているのかもしれない。
「先生、もうちょっとだけ……挿れますね」
「ま、待っ…………んんんぅぅぅ!」
 雪乃の体を壁に押しつけるようにしながら、月彦は入りきってなかった部分をキッチリ、根元まで押し込む。「かひっ」――そんな声にならない声が雪乃の口から漏れる。
「ぅぅぅッ…………はぁァ……だめっ、これ……奥、押されっぱなし、で……」
 苦しげに浅い呼吸を繰り返す雪乃の体を抱きしめたまま、月彦はあえて腰を引かずに待機する。久しぶりに味わう、雪乃の中のナマの感触を楽しむ為にだ。
(ぎゅぬっ、ぎゅぬって締まって、トロトロで熱くって、柔らかくて窮屈で……くはぁぁぁっ……)
 ヒクッ、ヒクッと痙攣するように短く締め付けてくるのが何とも心地よく、月彦はいっそこのまま動かなくてもいいのではないかという気すらし始めていた。
「こ……紺崎、くん……ね、ねぇ……まだ……」
 動かないの?――雪乃が息使いと、チラ見の視線で促してくる。
(動きたいのは山々なんですけど……)
 心の中で言い訳をしながらも、月彦は雪乃の前へと回した両手でその体をまさぐり続けていた。本来ならば胸元をはだけさせ、ナマ乳を直揉みしたいところなのだが、今この時に限ってはそれは避けるべくあくまで服の上からまさぐるに留めていた。
 そう、可能な限り――“学校で見るまま”の雪乃を味わいたいのだ。
「ね、ねぇ……お願い……焦らさないで……」
 気のせいか、雪乃の体をまさぐるほどに、剛直を包み込んでいる媚肉の温度が上がっているような気がした。それはイコール雪乃の体温が上昇しているということであり、その体温の上昇こそが、雪乃の焦燥の証であるようだった。
「……わかりました」
 耳元で小さく囁いて、月彦は体を起こす。そして雪乃の腰のくびれを掴み、一端剛直を引き抜くや、尻肉が波打つほどに強く突き入れる。
「あヒァッ! ひン! ンッ! ぁン!」
 さらに立て続けに二度、三度と突き入れる。腰と尻肉がぶつかる度に肉の弾ける音が鳴り響き、雪乃は悲鳴じみた甘い声を上げ続ける。
(くはぁぁぁっ…………“先生”と……立ったまま……)
 抱いているのは雛森雪乃――同時に、英語教師雛森雪乃なのだと。脳裏に授業中の雪乃の姿を思い浮かべながら、月彦は剛直を突き入れる。
「あっ、ぁあンッ! ひぅっ……やっ……グンって、反っっ……ンンンッ!!!」
 興奮を現すかのように、剛直の硬度がさらに増す。比例して、雪乃の中での抵抗が増したように感じる。肉の槍の先端はまるで返し針のようにエラが張り、腰を引く際には強烈に雪乃の中を引っ掻き、甘い声を上げさせる。
「だ、だめっ……こんなの、すぐにっ…………ンンッ…………!」
 事実、雪乃はいつになく感じているようだった。それは太ももを伝う恥蜜の量からも明らかなことであり、さらに肉と肉がぶつかる際には溢れた恥蜜が飛沫となって辺りに飛び散っていた。
「先生、すごい濡れ方ですね。……まだ、始めたばかりなのに」
「だ、だって……さっきまで、紺崎くんがっ……あんなにっ……ンンッ!」
 タップリと舐め回した効果という事なのだろうか。ひょっとすると、矢紗美同様姉妹揃ってクンニに弱いのかもしれない。
「ンンッ、ぁっ、あんっ! ンッ……だめっ、こっ、ざきくっ……わ、私……イッちゃう…………イきそ…………イくっ……!」
「先生、ちょっと早すぎますよ。もう少しだけ我慢できませんか?」
 少し突くペースを落としながら、月彦はものでもねだるような口調で言う。が、雪乃はぶんぶんと大きく首を振った。
「無理ッ……むりぃ…………はぁはぁ……も、ホントにギリギリ、で……ンンッ……はぁはぁはぁ……」
 確かに、雪乃の息使い。声の上げ方。そして何よりも剛直に絡みついてくる肉襞の震え方から、雪乃の限界は近いようだった。ここからさらに焦らすというのは、さすがに雪乃に悪いと月彦は思う。
「解りました。……じゃあ、一足先に先生が可愛くイく所、見せてください」
 月彦は落としていたペースを元に戻し、さらに浅いところを出入りするのではなく、深く、奥まで突き入れるような動きへと変える。
 忽ち、雪乃が瞳に火花を散らした。
「ンぃぃッ!? やっ……だッ……めっっ…………〜〜〜〜〜〜〜〜〜っっっっっっっっ!!!!!」
 既にギリギリまで我慢していたのか。それとも、それほど“奥突き”が良かったのか。雪乃はあっさりと絶頂を迎え、掠れた声を上げながら、背を丸めるようにビクビクと体を痙攣させる。
「ッッッ………………〜〜〜〜っっっはぁっ……はぁはぁはぁっ…………はぁはぁはぁ…………」
 たっぷり一分ほどは呼吸が止まっていた雪乃は、絶頂の波が引くなりゼエゼエと呼吸を再開させる。今にも崩れ落ちそうなほどに脱力してしまっているその体を、月彦は活でも挿れるようにトンッ、と軽く小突く。
「アッ! やっ……ま、まだ……」
 たちまち、雪乃はビクンと体を震わせ、その足にピンと力が戻る。しかし上半身は尚力が入らないのか、壁に手をつくというよりは壁にもたれ掛かっているような状況。
 しかし構わず、月彦は剛直を突き入れる。
「ぁっ、あんっ! ま、待っ……やんっ! はぁはぁ……ま、まだ……息がッ……はぁはぁはぁ……だ、ダメッ……お、奥っ……突かなッッ……あぁぁぁ!!」
 一度は、嘆願を聞いた。我慢できないという雪乃の言葉を受け入れ、先にイかせた。しかし二度目は無い。今度は自分がイくまで容赦はしない――“動き”で伝えるように、月彦は雪乃の腰を掴んだままガン突きする。
「だめっ、だめっ、だめっ……ちょっ……おねがっ……だめっ、だめっ……!」
 雪乃が必死にかぶりをふり、なりふり構わず右手で月彦の右手を掴み、引きはがそうとする。両手を使えないのは、そんなことをすればバランスを崩して壁に頭をぶつけてしまうからだが、仮に両手であったとしても、引きはがすのは不可能だった。
「ダメッ、ダメッ……ダメッ……やぁっ……はぁはぁ……ま、またっっ…………!」
 ダメ、の理由が変わる。それを、月彦は剛直に絡みつく粘膜の動きで悟った。ヒクヒクと、絶頂を堪えている時特有の動き。特にナマでの経験回数が多い雪乃のそれは、手に取るように解る。
「あっ、ぁっ、あっ、あっ、あぁっ、あっ、あぁっ、あんっ!」
 手を掴んでいた雪乃の手が離れ、壁へと戻る。快感を受け入れ、体を支えながら、子種が注がれる瞬間を今か今かと待ち望む――“女教師”のそんな姿に、月彦の興奮も最高潮に達した。
「っ……先生っ……!」
 一際深く突き入れ、雪乃の体を抱きしめる。どくんと、“反動”で体が揺れるほどの
勢いで、子種が打ち出されるのを感じる。、
「あっ、あっ、あっ、あっッッッ、こ、ん、ざき、くっ………………ンッ…………ンン……あっ、あァァーーーーーーーーーッ!!!!!!!!!」
 貯まりに貯まっていたものが、身が溶けるほどの快楽を伴って雪乃の中へと打ち出されていく。
「っっっ……くひっ……やっ……こんなっっ……熱っ……ンッ……、だ、め……濃いぃ…………はぁぁぁぁぁあっ…………」
 びゅるっ、びゅっ、びゅっ――いつまでも、果てが無いように続く射精に、怯えたように雪乃が暴れる。が、月彦は両手で抱きしめたまま決して離さず、最後の一滴まで注ぎ込んでいく。
「はーーーーーーっ………………はーーーーーーーっ…………ンンッ……まだ、出て…………はぁはぁ…………すご、い…………お腹に、ズシって……来てるぅ……」
 両腕に、雪乃の体重を感じる。どうやら完全に脱力してしまっているらしい。手を離せば、雪乃は忽ち足くだけになってしまうだろう。
 それは、月彦の本意ではなかった。
「先生……」
 囁き、ドロドロに蕩けきっている雪乃の中を、ぐりゅんと剛直でかき混ぜる。
「ひっ――!? あふっ……ンッ……!」
 ピンと。まるで尾の付け根を刺激されたメス猫のように、雪乃が両足を踏ん張り、尻を持ち上げる。
「やっ……ぅっ……だ、だめぇっ……そんなっ……か、かき混ぜ、ないでぇ……!」
 さらに、ぐりゅぐりゅと剛直で捻るように雪乃の中を刺激する。タップリと出した白濁汁を肉襞に塗りつけるマーキング――それより何より、このくらいで腰砕けになるなという、月彦の主張でもあった。
「やっ……だ、めぇっ…………また、したくなっちゃう……」
 顔を赤らめながらも、およそ平時では口にしない言葉が口から漏れるのは、雪乃自身興奮の極地にある証といえた。むしろその一言が聞きたかったとばかりに、月彦は口元を歪める。
「それでいいんですよ、先生」
 雪乃の手をとり、ちゃんと壁に手をつけと言わんばかりに壁へと添え、月彦は体を起こす。
「俺も、まだまだ全然シ足りないんですから」
 腰のくびれを力強く掴む。それが、第二ラウンドの合図だった。



 射精の際に出る精液の量が、そのままイコール想いの強さなどとは勘違いも甚だしい暴論だと、雪乃は思っていた。思っていたが、もし仮にそうならば、かつてこれほどまでに“想われている”ことは無かった。
「もうっ、無理っ……い……もう、入らなっ……ホントに無理、だからっ……止めて、紺崎くっ……あぁぁぁぁあ!!」
 どびゅるっ――膣奥まで挿入された剛直から、熱い塊が迸り、雪乃の中を牡色に汚す。
「くひぃぃぃ……!」
 壁に爪を立てる。熱く、そしていつになく濃い牡液がこれでもかと注ぎ込まれ、体の内側から強い圧迫感を感じる。ズシリと、重さすら感じるほどに濃密な熱い塊は、それ自身が意思を持っているかのように、雪乃の快楽中枢を刺激してくる。
「パンク……しちゃう……」
 もう無理、これ以上注がれても受け止めきれない――何度声を枯らして叫んだことか。しかしそれらの嘆願は一切聞き入れられず、月彦は狂人のように腰を振り続け、遮二無二射精を繰り返してくる。
「っっっ……はぁぁっ……」
 ぶるりと体が震える。受け止めきれなかった分の白濁液が結合部からごぽりと漏れ出し、糸を引きながら滴り落ちる。もったいない――頭の片隅で、そう感じる。あのひと塊すらも、余すこと無く受け止めたいと。
「ふーっ…………ふーっ…………先生っ……!」
 グンと。剛直に力が籠もり、反り返るのを感じる。あぁ、まだ満足してはいないのだと、粘膜を通じて感じ取る。
 ――また、体が震える。
「こ、紺崎くん……どうして、こんなに……」
 雪乃は、今こそ痛感していた。月彦が「したい」と口にするということは、即ちこういうことなのだと。いつになく強烈に求められ、その激しすぎる想いがそのまま迸るかのような白濁汁を注ぎ込まれながら、雪乃は女としての幸せを感じずにはいられない。
 一体何が月彦をそこまで焚きつけたのだろうか。雪乃には心当たりがない――が、強いて言うならば、この格好に関係があるのではないかと。やはり月彦は“女教師と”というシチュエーションが好きなのではないかと。
 痺れた頭の片隅で、雪乃が考えた時だった。
「…………すみません、先生」
 唐突に、月彦が謝罪した。
「好き勝手やっちゃって……でも、漸くひと心地つきました」
「えっ……」
 ひと心地?――その単語に違和感を覚える。それは果たして、子宮が張る程に射精を繰り返した後で言うような言葉なのだろうかと。
「きゃっ」
 と、まるで少女のような声を漏らしてしまったのは、唐突に体を抱え上げられたからだった。それも、膝裏と背中を両手で抱え上げる――“お姫様だっこ”だ。
(ぁ……)
 月彦の横顔を下から見上げながら、雪乃は忽ち顔を赤らめてしまう。体格的には、およそそういった扱いをうけられるような、少女じみたものではないことなど百も承知だ。しかしそれを踏まえた上で、恐らく決して軽くはないであろうことを知った上で、あえてこの抱き上げ方をしてくれる月彦に、雪乃は改めて惚れ直してしまう。
 今ならば、仮に「一緒に死んで欲しい」と言われても、二つ返事でOKしてしまうことだろう。
「続きはベッドで。……いいですか?」
 手足の爪の先までシビれきってしまっている雪乃は、月彦の言葉に危うく白目を向きそうになってしまった。先ほどまでさんざんに愛でられた粘膜が早くも男の刺激を欲するようにヒクヒクと疼き、下腹部を中心に走る甘い痺れの波に、早くもイきそうになる。
(だめ……このままベッドになんか連れて行かれたら……!)
 間違いなく、理性などゼロになってしまう。狂った獣のように求めてしまう――その未来を想像して、雪乃は恐怖した。既に教師という立場にありながら生徒である月彦を受け入れ、しかも避妊の是非すら無しに中出しセックスをしたあとで危惧することではないのだが、その矛盾にすら気がつかないほどに、雪乃は判断力を無くしていた。
 当然、そこまで判断力を無くしている雪乃が快楽に抗うことなど出来る筈も無く、まるでうぶな少女のように顔を赤らめながら小さく頷いたときには、その体は宙を舞うようにして寝室へと向かっていた。
「あっ」
 暗い寝室。ベッドへ尻と背中が着地するなり、雪乃はそんな声を漏らした。リビングの方から微かに漏れる光が、被さる月彦の背で遮られている――その光景に、ゾクリと背筋が震え、雪乃は反射的に足を僅かに開いた。雪乃のその仕草が、月彦にはどう映っただろうか、少なくとも拒絶されたとは思われなかったらしい。ぎしりとベッドを軋ませ、月彦の形をした黒い影が雪乃の上へと被さってくる。
「紺崎、くんっ……」
 雪乃は両手を伸ばし、月彦の頭を絡め取るように唇を重ねた。先ほどまでは、したくても出来なかったキス。その鬱憤を晴らすように、何度も、何度も執拗に月彦の唇を求めた。
「好き」
 言って、キス。
「好きっ」
 再び、キス。
「好きっ……好きっ……あっ、ぁぁぁ〜〜〜〜〜〜〜っっ!!」
 右足を抱え上げられ、挿入される。粘膜を引きずるように侵入してくる極太の肉槍に、雪乃は背を反らしながら声を上げる。
「だめっ、だめっ……もっと、ンッ……もっと、キスっ、して、からぁっ……あンッッ!!」
 動かないでとばかりに、雪乃は両手でしっかりと月彦の頭を固定し、唇を重ねる。
「んちゅっ……ンンッ……ンッ……んはっ……ンッ……!」
 まるで、負債の返済を要求するような荒々しいキス。雪乃の望みを察したように月彦も動きを止め、その背に手を回して優しく抱きしめながら、キスに応じてくる。
「んぁっ……んっ……ちゅっ……ちゅっ…………」
 舌を絡め合うようなディープなキスではなく、唇で唇を甘く食むような、恋人同士がじゃれ合うようなキスを、雪乃は望んだ。月彦はすぐにそれを察し、さらに“おまけ”までつけてくれた。
「あっ……んっ……ンンッ…………えへへっ……」
 思わず、或いはうっかり。雪乃は自分の年も忘れて、幼女のように微笑んでしまう。というのも、キスをしながら月彦に優しく頭を撫でられた為だ。いいこ、いいことでも言いたげに撫でるその手つきに、つい頬が緩んでしまう。
「ぁっ、やん!」
 そうしてほっこりしていると、唐突に頬にキスをされる。そのままちゅ、ちゅと顔中にキスの雨を降らされ、雪乃はそのたびに小さく悲鳴を上げた。
「もぉっ、子ども扱いしてぇ!」
 普通逆でしょと言わんばかりに雪乃が大口を開けた瞬間、まるで狙い澄ましたように――コンッ、と。
「ぁっ……ぅンッ!」
 剛直が蠢き、膣奥が優しく小突かれる。
「やっ、だめっ……もうちょっと……あんっ、あんっ」
「もうちょっとキスしたい……ですか?」
 こくりと、雪乃は頷く。コンッ、とまた奥が小突かれる。
「ぁっっ……あんっ! ンッ……ちゅっ、んっ……ンンッ、ンッ!」
 唇を重ねたまま、月彦が動く。こん、こんと奥を小突かれる度に雪乃は喉奥で噎ぶように喘ぎ、眉根を寄せる。
「ンはぁっ! はぁはぁ……あっ、ンッ! あんっ……あっ、あっ、あっ……はぁはぁはぁ……」
 トロンと、瞳が蕩けているのが、自分でも解る。キスで全身から力が抜けたところを、剛直でコツンと突き上げられるだけで全身に甘い痺れが走り、勝手に声が出てしまう。まるで、自分がそういう楽器にされたような錯覚すら、雪乃は感じ始めていた。
「あンッ……あっ、あンっ……あぁぁっ……ンンッ……ああぁっ……!」
 ゆっくり。ゆっくりと前後される剛直に、雪乃は声を震わせて喘ぎ続ける。先ほど、部屋に入ってすぐの場所でひたすら獣のように襲いかかってきた相手と同じとは思えないほどに、優しい抽送だった。
(やっ、これ……すごくイイ……!)
 ぶるりと、腰が震える。まさに、雪乃にとって最適な速度だった。蜜に濡れた粘膜がやんわりと肉のエラに割り開かれ、引っかかれる感触が痺れるほどに気持ち良く、知らず知らずのうちに背を反らしてしまう。
「あァァァァ……アァァ…………だめっ、紺崎くっ……これ、イイ…………はぁはぁっ……ゆっくり、イイぃ…………!」
「先生、ゆっくり好きですよね。……じゃあ、ゆっくりシながらキスしたら、もっと感じてくれますか?」
「やっ、待っ…………〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜っっっっっ!!!!!!!!!」
 月彦に被さられ、唇を奪われた瞬間――視界に火花が散った。引きつるように反った指でシーツを掻き毟りながら、雪乃の全身はたちまち絶頂の波に翻弄された。
「ンンンッ、ンンッ、ンンーーーーーーーーーー!!!」
 腰が跳ねる。下腹部が痙攣するようにうねり、堅い肉の塊を締め上げる。
(やだっ……紺崎くんの……凄く堅い……)
 どれほど締め上げても、まるで形が歪まない。それ故に、締め付ければ締め付けるほどに月彦の形がはっきり解るようで、かつて無い一体感に雪乃は達しながらさらなる幸福感に包まれていた。
「ンッ、ンッ、ンッ……」
 ゆっくりと腰をくねらせながら、雪乃は絶頂の余韻を楽しむように舌を絡ませる。れろれろと、舌で互いの唾液を塗りつけあうようなキスをたっぷり十分は続けたあと、漸くに唇を離した。
「ふぁ……ぁん!」
 まるで、唇を離すのを待っていたかのようなタイミングで、コンッ……と突き上げられる。
「あっ、あっ、あっ!」
 リズミカルに突き上げられ、顎を浮かしながら雪乃は喘ぐ。たっぷりと“ゆっくり責め”されたこともあり、早くもイきそうになったところを――
「先生、今度は我慢して下さいね? 俺も一緒にイきたいですから」
「ぁっ……ぅんっ……が、まん……するっぅ……あハァァァ!」
 腹部を突き出すように体を跳ねさせながら、一際高い声で雪乃は喘ぐ。一緒にイきたいといいつつ、本当にその気があるのかと問いただしたいほどに、月彦の責めが加速度的に激しくなる。
「ちょっ……紺崎くっ……ンンッ! だめっ、だめっ……そん、なにっ……あんっ! い、いっぱっ――ぅんっ! やっ、つ、突かないでぇ……イッちゃう……また、イくっ……イクゥ……!」
「もうですか?」
 苦笑、しかし呆れるような笑み。うううと、雪乃は恥じ入るように唇を噛み締める。
(だって、紺崎くんとするの……ホントに気持ちいいんだから…………)
 だから、しょうがない――とはいえ、一人だけ何度もイかされ続けることは、年上としての矜恃が許さない。もとい、許したくはなかった。
「先生の方が年上なんですから、少しは我慢してください」
「が、我慢、なんて……ぁ……」
 月彦の手が伸びる。今まで殆ど手つかずだった胸元を這い、シャツのボタンを外していく。先ほど着替えたばかりの黒のブラが露出し、それもすぐにホックが外され、上へとずらされる。
「本当は、もっと後……“デザート”に取っておきたかったんですけど」
「ぅっ……ンッ……ぁっ……ンッ……!」
 はだけたシャツの合間から零れ出たバストを、月彦の両手が捉える。
「あっ、ぁっ……ぁっ……」
 むぎゅ、むぎゅっ――軽く痛みすら感じるほどに揉み捏ねられながら、雪乃は小さく声を上げる。胸を揉まれて気持ち良いから――ではない。快感がゼロなわけではないが、それよりなにより、そうやって胸を触ることで下腹部に収まりっぱなしの剛直がムクムクと肥大するから声を上げてしまうのだ。
「ンンッ……!」
 握りしめるように揉まれ、尖った先端を口に含まれる。れろり、れろりと舐め回される感触に、雪乃は思わず緩く握った右手を口元に当てて指を噛む。
「あぁぁぁっ……!」
 声が震える。今度のは掛け値無しに、胸への愛撫による声だった。呼吸が乱れ、腰が勝手にうねる。
(紺崎、くん……)
 かつては“こう”ではなかった。胸など、触られたところでくすぐったいばかりで、少なくとも声を上げてしまうというようなことはなかった。いったいいつからだっただろうか。こうして夢中になって胸を吸われるだけで、この上なく幸せな気分になってしまうようになったのは。
(ぁぅ……また……)
 胸への愛撫は、恐らく月彦なりのインターバルなのだろうと、雪乃は解釈していた。同時にイく為に、快感のゲージを落ち着かせるために動きを止めてくれているのだと。しかし今、別の理由で雪乃は達しそうになってしまっていた。
「あぁぁ……あぁ……!」
 くに、くにと優しく噛まれる度に、電撃のような快感が胸の頂から迸る。その痺れは体中で反射を繰り返し、最終的に下腹部へと集まっていく。徐々に、徐々に、腰を動かしたくて堪らなくなっていく。
「こ、紺崎くぅん……」
 もどかしげに、雪乃は乳を吸い続ける月彦の髪をかきむしる。それだけで、月彦には伝わったらしい。ゆっくり、しかし確実に、剛直が引かれ、そしてズンと突き上げてくる。
「ぅンッ! あぁぁ……はンッ! あんっ!」
 ちぅぅぅぅぅ………………っぱッ――痛烈に吸い上げられ、漸くに月彦が唇を離した。そのまま両手を雪乃の腰へと当て、しっかりと掴み――
「ああァァ! あァァッ! あァァッ!!!!」
 本格的な抽送が始まった。そのあまりの激しさに、雪乃は堪らず月彦の手首を掴む――が、無論ふりほどく事など出来ない。
「ダメッ、ぇえっ! は、激し、すっっっ…………〜〜〜〜ッッッ!!!」
 インターバルとは何だったのか。たちまち雪乃はイかされ、腰を跳ねさせる。
「ッッッ……ァはぁッ! やっ、ちょっ……突かなっっ……あぁぁぁあっ!!!」
 しかし、イッても尚、抽送が止まらない。髪を振り乱すように暴れながら、懸命に月彦の手をふりほどこうとするが、まるで万力のような力でしっかりと掴まれ、どうしてもふりほどく事が出来なかった。
「こ、こんざき、くんっっ…………」
 火花の散る視界で、月彦を見る。月彦は、雪乃を見てはいなかった。否、正確には、雪乃の顔を見てはいなかった。突く度に、たゆたゆと揺れる胸の動きを食い入るように見つめながら、むしろ幻惑されていると言ってもいいほどに釘付けにされながら、一心不乱に腰を震っていた。
「やっ、ちょっ……っと、どんだけっ……ンッ!………………もぅ……」
 これが他の女のバストであれば、怒ることも出来ただろう。しかし、他ならぬ自分の胸となれば、嬉しさ半分可愛さ半分、怒る気など起きるはずも無い。
 雪乃は、体から余計な力が抜けるのを感じ、同時に快感を受け入れる覚悟を固めた。
(いいわ、好きなだけ見て、紺崎くん)
 月彦の視線を意識すると、それだけで見られている部分が熱を帯びるかのようだった。
「あっ、あっ、あっ、あんっ、あんっ、あんっ……!」
 月彦のペースに呼吸を合わせる。不思議なことに、最初は激しすぎると感じた責めすら、徐々に丁度良いと感じ始めていた。
「あんっ、あんっ、あんっ!」
 肉と肉のぶつかる音。雪乃はさらに体を浮かせ、殆ど腰上げ正常位の形へともっていく。そうすることで、より“良い”場所へと当たるのだ。
「あァッ! あァッ! あァァッ!」
 受ける快感の量に比例して、声もまた大きくなる。出そうとして出る声ではなく、剛直で奥を小突かれることで、弾かれるようにして出る声。それがますます月彦を猛らせている自覚は、雪乃には無い。
 無いが、声を上げる度に月彦が胸元から目を離し、顔の方へと視線を移してくれるのが嬉しく、無意識のうちにより甘美な声をと意識し始めていた。
「あっ、あっ、アッ……そこっ、イイッ……あぁっ、あっ……そこっ……あーーーーーッ…………!!!」
 ビクビクビクッ――まるで陸に打ち上げられた魚のように、激しく腰が跳ねる。絶頂が近い――でも、まだイきたくない。雪乃は懸命に堪える、全ては月彦に合わせる為に。
「先生っ……俺も、もう…………」
 ぜえぜえ。半死人のような声で月彦が呟く。いつでもいいよと、雪乃は目で訴える。一瞬、ホッとしたように、月彦が表情を綻ばせた。
(あっ……これ……紺崎くんがイくときの……!)
 剛直がぶるっっと、微かに震える。その前兆を粘膜越しに敏感に感じ取った雪乃は、心を浮つかせながら次の瞬間を待ちわびる。
 そう、射精の前の一際深い、最後の一突きを――。
(ぁっ……き、来ッ――……ッッッッ!!!!)
 ごちゅんっ。一際深い突きを受けた瞬間、雪乃は体を大きく跳ねさせながら、イッた。
「ッッッーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーっっっっ!!!!!!!」
 自分が一体どんな声を上げているのか、それすらもあまりの絶頂の波で解らない。ただただ、体の奥に注ぎ込まれる熱の塊にだけ意識を集中する。
(だ、めっ……意識、トんじゃう……!)
 さながら、乳白色の途方も無い洪水に全身が流されているかの様。雪乃は遮二無二手を出し、体が流されて仕舞わないように必死にしがみついた。
「せ、先生……!?」
 驚いたような月彦の声が、月彦の声であると理解することが出来たのは、実際に耳にしてから一分以上は経過した後だった。
「ッ………………ッ……………………ッッッはーーーーーーーっ……………………はーーーーーーーっ……………………はーーーーっ………………」
 自我を取り戻した雪乃が最初に耳にしたのは、耳障りな程に荒々しい、自分の息使いだった。そして同時に、自分が目を白黒させている間、月彦が優しく髪を撫でてくれたことにも気がついた。
「先生、大丈夫ですか?」
「……う、うん……ちょっと、意識トびそうになった、だけ……」
 大丈夫だろうか。変な顔になってなかっただろうか――雪乃は顔を赤らめながら、月彦にしがみついていた手にさらに力を込め、ギュッと抱き寄せる。照れ隠しのつもりだったその行動が、月彦には誤解されたらしい。
「あっ、ん……ちゅっ……」
 唇が重なる。くちくちと甘い、甘いキスを交わしている二人がさらなる快感を求めるのは、もはや自明の理だった。



「ン……」
 目を指すような鮮やかな光を瞼越しに感じて、月彦は目を覚ました。
「朝……か」
 体を起こそう――として、失敗する。見れば、左腕を抱き込むようにして、雪乃がスヤスヤと寝息をたてていた。
「………………。」
 驚きはしない。別に前後不覚なまま雪乃を襲ったわけではない。はっきりと、自分が雪乃の体を求めていることを自覚したうえで、自分の意思で雪乃を抱いた。それは間違いない――のだが。
(…………なんだろう。それにしても、ちょっと異常だった気がする)
 そもそも、何故あそこまで雪乃が欲しいと思ったのだろうか。月彦は思い出す、少なくとも雪乃に電話をかけた時点では、そんな下心など殆どなかった。“全く”ではないのは、色気ムンムンの女教師に声をかける以上、どんな聖人であろうとも1ナノパーセントほどはそういった心を抱いて当然であるからそれは仕方ない。
 そう、それは仕方ないのだが。
(…………いくらなんでも、矢紗美さんの前であの発言は……ヤバいよなぁ)
 あの失言こそ、平常心ではなかった証ではないだろうか。あのやりとりの後、部屋に一人残された矢紗美の気持ちを考えるだけで、胸の奥が鋭く痛む。
(……確かに、先生は魅力的だし、出来るならいつだってシたいけど)
 だからといって、あそこまで強引に雪乃を連れ出してまでとはおかしい。やはり、昨夜の自分は精神の均衡を失っていたのではないか。一時は真央に一服盛られたのではとすら疑ったが、よくよく考えればいくらなんでもこんなタイミングで盛るのはおかしい。となれば、やはり昨夜の自分は真実いつもの自分だったのか――。
「ううん……紺崎くん?」
「あっ、おはようございます、先生」
「ん……おはよ」
 ぐいと、雪乃に腕を引かれる形で起こしかけていた上半身を倒される。
「んーっ」
 雪乃はそのまま心地良さそうに喉を鳴らしながら、ごろにゃーんと添い寝をしてくる。
「手、肩に回して欲しいな」
 そして、甘えるような声で言った。月彦は照れつつも、雪乃の要望通りに絡め取られていた左手を抜き、背中に手を回し、雪乃の左腕を掴んで抱くように引き寄せる。
「うん、うんっ」
 雪乃は満面の笑みで頷きながら、月彦の胸板に頭を乗せてくる。上機嫌の極み、かつてこれほど機嫌のよい雪乃は見た事がないかもしれない。
「……幸せ」
 心地良さそうに目を閉じたまま、雪乃がしみじみと呟く。その時初めて、月彦は自分は当然のこととして、雪乃もまた全裸であることに気がついた。
(……あれだけスーツ姿に拘ってたのに、結局全部脱がせちまったのか)
 前半のことはよく覚えているが、後半――とくに、ベッドに入ってからの記憶は朧気だった。脱がせた覚えはないが、雪乃が着ていない以上、やはり脱がせてしまったのだろう。
(……だから、そんなに密着されると……)
 否が応にも雪乃の柔らかい体を意識させられてしまう。雪乃が気づかないように、そっと体を斜めに傾けながら、月彦もまた枕に頭を預け、瞼を閉じる。
 そのまま幸せ気分を味わいつつ二度寝――とはならなかった。五分と経たないうちに雪乃に体を揺さぶられ、揺り起こされたからだ。
「先生……?」
 目を開けるなり、ちゅっ……と頬にキスをされた。
「おはようのキス、まだだったから」
 自分でやっておいて恥ずかしいのか、語尾に行くほどに声が小さくなった。そのくせお返しを求めるように、意味深に雪乃はそっぽを向く。やむなく、月彦は雪乃の頬にお返しのキスをした。
「……やっぱり、こっち」
 しかし何が不満だったのか、雪乃は月彦の方を向き直り、唇へのやり直しを求めてくる。断る理由もなく、月彦は雪乃の唇へとキスをした。触れるだけの、フレンチキスだったが、雪乃は満足したらしく、ニヤニヤしながら再び月彦の胸板へと頭を横たえた。
「んふふーっ」
 やはり、機嫌がいいらしい。んふんふと息を漏らしながら、雪乃はさらに身を乗り出してきて、殆ど月彦の胸板におっぱいを乗せる形で顔を近づけてくる。
「ちょっ……せ、先生……!?」
 雪乃の狙いが解らず、狼狽える月彦の頬に、またしてもキス。エヘヘと照れながらの添い寝。おっぱいは依然体に密着したままであり、月彦は平生を装いつつも、その部分へと意識が集中するのを感じていた。
「あの、ね、紺崎くん」
「は、はい……!?」
 おっぱいを押しつけたまま、時折月彦の胸元へと手を伸ばしては意味も無くなで回したり。かとおもえば髪の毛に触ってきたり、肩に触れたり、首に触れたりと。意図を計りかねる行動を繰り返しながら、雪乃はぽつりと呟いた。
「……すごく、良かった、よ」
「へ……?」
だから、その……き、昨日……の……
 かぁぁと、雪乃がみるみる顔を赤くする。
……すごく、感じちゃった
「……っ……先生……」
 ビビンと、つい下半身が反応する。恥じらいながらも褒めてくれる雪乃があまりに可愛くて、反射的に血が集まってしまったのだ。
「えっと……それを言うなら、俺も……」
 ハハハと、照れ混じりに視線を逸らしながら呟く。さすがに「先生の体、最高でした」とは口が裂けても言えず、言外に臭わすことしか出来ない。が、雪乃はそれがやや不満だったらしく、さらに大胆に体を寄せてくる。
(わわっ、ちょっ……おっぱいが……おっぱいが……!)
 ひょっとして、知ってて誘惑しているのだろうか――そう思いたくなるほどに、雪乃は無防備に乳を押しつけてくる。これが真央であれば即座に「悪いコだ」とお仕置きをしてやるところだが、雪乃相手では(主に年齢差と学校での立場差的に)それがやりにくかった。
「それと、ね。もう一つ」
「も、もうひとつ……?」
 まずい、声がうわずってしまった――しかし、雪乃はまったく気にした様子もなく、言葉を続ける。
「“したい”って、はっきり言ってくれたの、すっごく嬉しかった」
「そ――う……なんですか?」
「うん。だって、紺崎くん全然言ってくれないんだもの」
「そ、そうですっけ?」
「うん。言ってくれない」
 そこだけは譲らないとばかりに、雪乃は真面目な顔で頷く。
「紺崎くんがそんなだから……私、すっごくモヤモヤしちゃうんだからね?」
「モヤモヤ……ですか」
「うん。……でもね、もう大丈夫。貯まってたモヤモヤ、全部吹っ飛んじゃった」
「それは、良かったです。……でも、矢紗美さんには悪いことをしちゃいましたから、今度謝らないと……」
「どうして? いい気味じゃない」
「いやでも……さすがに昨日のあれは……」
「いいの。とにかく紺崎くんはお姉ちゃんと勝手に会うの禁止! いいわね?」
「………………どうして矢紗美さんはダメなんですか?」
「………………とにかく、お姉ちゃんだけはダメ。月島さんとのデートは許せても、お姉ちゃんとのデートは絶対に許さない」
 どきりと、思わず心臓が跳ねる。肌を重ねたままの雪乃に或いは伝わったのではないかと、月彦はヒヤヒヤした。
「え……っと、先生……月島さんとのアレは本当にデートじゃなくって……昨日はそもそもその辺の弁明をしたくて、先生に声をかけたわけで……」
「…………わかってるわ。紺崎くんは勿論浮気のつもりなんて少しもなくって、本当に月島さんのことが心配で、一緒にお出かけしただけなんでしょ? それは解ってるの。解ってるけど、やっぱり休日に女の子と二人で出かけるのは、デートなんじゃないかしら?」
「う……」
「だけど、それはいいの。紺崎くんがそういう優しい男の子だっていうことは解ってるし、きっとフォローもしてくれるって信じてるから。……でも、ごめんね。頭では解ってても、目の前でデートの打ち合わせをされたり、紺崎くんの為に作って来たお弁当を分けられたりしたら、さすがに平気じゃ居られなかった」
「すみません……確かに、俺が無神経でした」
 その件に関しては弁明もしようもない。月彦が平謝りに謝ると、雪乃は黙って首を振った。
「言ったでしょ? そういうモヤモヤは全部吹き飛んじゃったって。…………ほんと言うとね、紺崎くんがお姉ちゃんと浮気してるんじゃないかって、ほんのちょっぴりだけど疑ってたの。でも、それも私の考えすぎだったみたい。もし、お姉ちゃんと浮気なんかしてたら、お姉ちゃんの前であんなこと、絶対言えないもの」
「あ、あんなこと……っていうと……」
 うんと、雪乃が添い寝をしたまま、笑顔で頷く。
「お姉ちゃんああ見えて……っていうか、見たまんまだけど、プライドすっごい高いから。もし“自分の男”が目の前で他の女に靡いたりしたら、冗談抜きで殺しちゃうんじゃないかしら」
「は、はは……こ、殺しちゃう……んですか」
「あっ、そーだ! ねえ、紺崎くん…………お願いがあるんだけど、いいかしら?」
 乾いた笑みを浮かべる月彦に、ジッ……と。雪乃が上目遣いを向けてくる。
「お願い……ですか? とりあえず、聞いてみないことにはなんとも……」
「ほら、お姉ちゃんが彼氏の写真見せる時に言ってたじゃない。“ベッドで一緒に撮ったやつ”もあるって」
「あぁ、言ってましたね」
 雪乃の事を考えて悶々としまくっていたせいか、その辺の記憶はうろ覚えだった。が、微かにそんな話を聞いたような覚えはあった。
「…………私たちも、そういうの撮らない?」
「ええええ!?」
「あっ、勘違いしないでね? オールヌードの写真を撮ろうっていみじゃないの。その、なんていうか……一緒に朝を迎えた記念っていうか……」
「ちょっと待ってください、そういうのって後で流出とかしちゃって、ヤバいことになったりする気が……」
「大丈夫、絶対誰にも見せたりしないから! ……ね? お願い、携帯のカメラで1枚だけでいいから」
「いやでも……」
 月彦の脳裏に浮かんだのは、矢紗美が落としたレコーダーだった。あの件で一体どれほどの心労を重ねたことか。
(…………“そういうの”を欲しがる辺り、やっぱり姉妹って事なんだろうか)
 矢紗美の時も、絶対に大丈夫だからと約束されたにも関わらずあのていたらくだ。あんな想いは二度としたくないと考えるのが、当然の流れだった。
「先生には悪いですけど、俺はそういうのは残したくないです」
「お願い、紺崎くん! 一枚だけ、ね?」
 しかし、雪乃はよほど記念の一枚が欲しいのか、いつになく食い下がってくる。が、どれほど食い下がられても、月彦の決意は揺るがない。
「先生がどれだけ大丈夫って言っても、うっかり携帯を落としたりすることだってあるじゃないですか。そうなったら、俺も先生も終わりなんですよ? そんなリスクは冒せません」
「絶対に、ぜーーーーったいに落としたりなんかしないから! ううん、携帯にパスワードかけて、落としたりしても絶対誰にも見られないようにするから、お願い、紺崎くぅん」
「媚びるような声で言ってもダメです!」
 めっ、と。月彦は叱りつけるような口調で言うが、雪乃もまた譲らなかった。むーっと眉を寄せたまま、徐に月彦の右手を取るや、
「……えいっ」
 自分の胸元へと押し当てる。
「…………何の真似ですか?」
「おっぱい触らせてあげるから。…………1枚だけ、いいでしょ?」
「俺をあまり見くびらないでください! おっぱい触らせたくらいで、何でも言うことを聞くとでも思ってるんですか!」
 まったく、とんでもない話だと月彦は憤慨し、右手を引こうとする――が、離れない。
「おっぱいを揉みながら言っても、説得力ないと思うけど?」
「いや、ええと……これは……」
「あンっ……ほらぁ、嫌なら手を……ンッ……これ以上触るなら、同意したってみなすわよ?」
「ど、同意なんかしません! こ、こらっ、いい加減離れろ!」
 左手でペシペシと叩きつけ、引きはがすようにして漸く雪乃の乳から引きはがす。
「もぅっ、……わかったわ。紺崎くんがそこまで言うなら、私も譲歩するわ。1枚だけ撮って、撮ったあとすぐ消してデータが残らないようにするから、それならいいでしょ?」
「撮ってすぐ消すって……それじゃあ何の意味もないじゃないですか」
「とにかく、私は紺崎くんとの記念の1枚が欲しいの! 本当は残しておきたいけど、紺崎くんがどうしても嫌だっていうから、仕方なく消すの! それでもダメだって言うの?」
 私は紺崎くんの我が儘を聞いてあげたのに、と。雪乃は口にはしないが、言外にそう言われているようで、さすがに言葉が詰まった。
「わかり……ました。1枚だけ……撮ったら、すぐに消してくれるんですよね? 本当ですよね?」
「うんうん、ちゃんと消すから。……じゃあ、ちょっと待っててね」
 雪乃がモゾモゾと腰まで掛け布団に埋まったままベッドの周りを探し回る。どうやら着替えの際に置いたハンドバッグを捜しているらしい。ほどなくバッグから携帯を取り出し、月彦の隣へと戻ってくる。
「じゃあ、はい。もっとぎゅーって身を寄せて? そうそう、手を回して……ンッ……もっと強く抱いて……そうそう、じゃあ、撮るわよ? ほら、ちゃんと笑って?」
 雪乃に言われるままに身を寄せ、携帯のカメラレンズに向かって引きつった笑顔を向ける。もちろん携帯のカメラ用の三脚などあるはずも無いから、雪乃が手を伸ばして自画撮り調に撮るしかないわけで、程なく盗撮防止用と思われるほどに大きなシャッター音を響かせ、撮影が終了する。
「ちゃんと撮れたかしら。どきどき……」
 俯せに寝返りを打ち、携帯の画面を食い入るように見つめる雪乃に身を寄せ、月彦もまた液晶画面を覗き込む。そこに表示されたのは紛れもなく自分と雪乃の姿。ベッドの上で肩口辺りまで肌を露出させて親密そうに身を寄せるその姿は誰がどう見ても「一発ヤった後です」と思わせるだけの説得力のある画像に仕上がっていた。
(こ、こんなもの……学校関係者に見られた日には、俺も先生も人生が終わっちまう!)
 引きつった笑顔を浮かべている月彦はともかくとして、身を寄せる雪乃などは頬を染めて完全にゾッコンですと言わんばかりの笑顔だ。こんな画像を見て尚「この二人はあくまで一般的な教師と生徒の関係を逸脱していません」と言える人物が居たら、間違いなく入院を勧められるに違いない。
「…………ねえ、紺崎くん。ホントに消さなきゃダメ?」
「ダメに決まってるじゃないですか! そういう約束でしたよね!?」
「ぶーっ。……わかったわよ、約束だし……ちゃんと消すわよ」
 甚だ不本意そうに、雪乃がぷいとそっぽを向き、ぽちぽちと携帯を弄る。
「はい、ちゃんと消したでしょ?」
 そして、画像フォルダの一覧が表示された画面を月彦の目の前へと突きつけてくる。よほど写真を消したことが不本意なのか、雪乃自身はそっぽを向いたままだった。
「……確かに、消してある……みたいですね」
 携帯のことはよく解らない。が、パソコンなどと違ってゴミ箱に移した画像をもう一度拾ってくる――というのは出来ないのではないだろうか。
(……他の画像フォルダに移したわけでもないみたいだし。ちゃんと消してくれたのか)
 ホッと安堵のため息。少なくともこれで、レコーダーの時のように事の発覚を恐れて東奔西走する羽目になることはないだろう。
「先生……?」
 一方雪乃はといえば、携帯を枕元に置いたきり、ぷいと月彦に背中を向けていた。あからさまに「私は拗ねています」と言わんばかりの露骨な態度に、不安よりも心配よりも、やれやれという気持ちしか湧かない。
(……拗ねられても、こればっかりは譲れない)
 仮にレコーダーの件が無ければ、或いは雪乃のワガママを聞いてやったかもしれない。もちろん雪乃が厳重に保管することを条件に、1枚くらいなら――と。しかし、本人がどれほど気をつけていても不測の事態は起きるのだということを身をもって知った以上、やはり軽々に許容するわけにはいかなかった。
「怒っちゃったんですか?」
 が、見るからに拗ねている雪乃を前に、放っておくわけにもいかない。月彦は背後からそっと、その体を抱きしめ、囁きかける。
「怒ってない」
 と、これまたぶっきらぼうな声。月彦はもう、ニヤニヤが止まらない。
 今まで幾度となく雪乃のワガママに付き合ってきたし、雪乃がどういったことを好み、どういったことを望むのかなど知り尽くしていると言ってもいい。そんな月彦にとって、これはいわば初級問題と言ってもいいものだった。
「……本当に怒ってないんですか?」
 囁きながら、さわさわと両手を動かし、雪乃の胸元をまさぐる。
「ぁっ、やんっ」
 もにゅ、もにゅと優しく両胸をこね回すと、雪乃はあっさりと甘い声を上げた。月彦はさらに調子にのり、指先でくりくりと、堅くなり始めている先端をほぐすように弄ると、雪乃は徐々に身じろぎをしながら悶え始める。
「ダメ……ぁんっ……ぅんっ……」
 肩越しに、雪乃の吐息が甘く切ないものに変わったことを感じる。そろそろか――と、思う。
「先生、困ったことが」
「こ、こまったこと……?」
 オウム返しに尋ね返す雪乃に、月彦ははいと神妙に返す。
「先生のおっぱいを触ってたら……その、また……したくなっちゃって」
 恥ずかしげもなく言いながら、月彦は怒張した肉の塊をぐいと。雪乃の尻の辺りへと押しつける。
「っ……ンッ…………また、したくなっちゃったの…………?」
 剛直を押しつけた途端、雪乃はぶるりと体を震わせ、目に見えて息を乱した。両胸を揉みながら抱いている腕の中で、雪乃の体温が急上昇するのを感じながら、月彦ははいと、囁きかける。
「そ、う……じゃあ――」
 しよっか――そんな言葉が、恐らくは続いたに違いない。しかし、意外な第三者の声に、雪乃の言葉は遮られた。
「ニャア」
 第三者はそんな声を上げながら、ベッドの上へとよじ登り、そして月彦と雪乃の間に割り込むように、その毛だらけの体をすりつけてくる。
「ぷっ」
 と、二人同時に噴き出すように笑い出した。ノンもまた、ニャアと合わせて鳴く。お腹が減ったよー、と訴えるようなその鳴き声には、一時的ながらも高まった性欲を吹き飛ばしてしまう威力があった。
「先生、続きはシャワーを浴びて朝ご飯を食べて、そしてノンちゃんにもご飯をあげてからにしましょうか」
「そうね。ノン、すぐにご飯あげるからね」
 体を起こし、雪乃はノンの小さな体を抱き上げ、優しく撫でる。頭を、そして顎の下を撫でられて、ノンは大きくニャアと鳴いた。



「そういえば――」
 シャワーを浴びて。朝食を食べて。ノンの為に猫缶をあけてやって。水も替えて。寝室のベッドメイキングもやり直して。
 仕切直しと言わんばかりにベッドの中でイチャついている最中、不意に思い出したように雪乃が呟いた。
「そういえば……?」
「昨日、ほら、紺崎くん……気になること言ってたじゃない?」
 シャワーの後は一応部屋着には着替えたものの、ベッドに入った時にはもう、互いに下着姿だった。さらに言えば、雪乃のブラはもう外されたも同然であり、背中側から抱きすくめるようにもみくちゃにしながらのピロートーク。
「何か……言ってましたっけ……?」
 記憶を探りながらも、おっぱいを触る手は止めない。むしろ、目の前におっぱいがあるのに触らないのは失礼だと言わんばかりに、月彦はもにゅもにゅと揉み続ける。
「ンッ……ほ、ほら……自分はバカだったーとか、人に言われるまで気がつかなかった、とか……ぁんっ……」
「ああ」
 両手がふさがっていなければ、ぽんと手を叩く所だった。
「そのことですか。…………実は先日、他のクラスの男子達が先生の話をしてるのを聞いちゃいまして」
「どんな、話?」
「ええと……実は先生はかなりモテモテだって話です」
 少しだけ。ほんの少しだけ――嫉妬を込めるように、キュッと。胸の頂を摘み上げる。
「ぁンッ…………どういうこと? 言っとくけど、私は、浮気、なんて……」
「解ってます。先生、ちゃんと断ってくれてるんですよね? その男子達が話してました。部活の顧問の先生とかが飲みに誘っても、絶対OKしてくれないって愚痴ってたって」
 嬉しかったです――その気持ちを込めるように、今度はやんわりと。大事なものでも扱うように、丁寧に揉む。
「ぁぅンッ……ンッ……だ、だって……そんなの当たり前…………じゃない……あんっ……私には、紺崎くんが……ぅンッ……」
「…………ひょっとしたら、先生と凄くしたいって思い始めたのは、その話を聞いたからなのかもしれません。俺の知らないところで、そんな風に他の先生達の誘いを断ってたなんて全く知らなくって……自分はなんてバカだったんだろう、って反省しました」
 男子生徒達が、雪乃のパンチラや、下着のラインについて話をしていたことは、あえて伏せた。さすがにそんな話までは、雪乃も聞きたいとは思わないであろうからだ。
 ましてや、妄想の中で自分がどんな扱いをされているかなどは。
「紺崎くん……」
 じぃんと、感じ入っているような、そんな雪乃の呟き。その手が、そっと胸を触る月彦の手に被さった。
「……ごめんね、ちょっとだけ、いい?」
「先生?」
 胸を触る手を引きはがされ、月彦の腕の中でくるりと雪乃が寝返りを打ち、体の向きを変える。そして両手を月彦の首へと絡めてくるなり、唇を奪われた。
「んんっ……!?」
「んっ……ちゅっ………………好きよ、紺崎くん」
 触れるだけのキス。そしてこつんと、今度は額をぶつけてくる。
「紺崎くんは知ってるでしょ? 私は、紺崎くんとするまで、他の誰ともしたことなかったの。それはこれからも同じ、手も足も、唇もお尻も、そしておっぱいも。全部紺崎くん以外の男になんて触らせない。……全部、紺崎くんだけのモノよ?」
「せ、先生……」
 胸キュン――とでも言えばいいのか。額を合わせ、間近で瞳をかわした状態での「私はあなただけのモノ」発言は、文字通り月彦のハートを鷲づかみにした。
 それは月彦の中で“めんどくさいけどいい先生”という位置づけから脱するに十分過ぎるトキメキだった。
「お、俺っ――」
 矢も立ても貯まらず、雪乃が“欲しく”なり、手を伸ばす――が、その手が雪乃自身に掴まれ、月彦は両手首をベッドへと押しつけられた。
「待って、紺崎くん。今度は、私にさせて?」
 雪乃が、恥じらいの笑みを浮かべながら、月彦の上へと跨がってくる。既に濡れている秘裂で、ガチガチの剛直を押し倒すようにしながら、にゅり、にゅりと。裏筋に恥蜜を塗りつけるように、辿々しく腰を前後させてくる。
「昨日は、ほとんどずっと紺崎くんにされっぱなしだったでしょ? だから、今度は私が……紺崎くんにいっぱい、いーーっぱいシてあげる」
 まるで、精一杯娼婦のフリをしているものの、フリであることがバレバレな強がりの処女のようなぎこちない笑み。しかし雪乃なりの、精一杯の“お姉さんがサービスしてあげる”プレイなのだろう。
「紺崎くんはじっとしてて。勝手に動いちゃダメよ?」
 雪乃自身、自分がリードするというシチュエーションに興奮しているような、そんな震えた声で囁いて、雪乃は体を月彦の足の方へとずらしていく。やがてその全身が完全に掛け布団の中へと隠れ――
「先生……っ……ぁっ……」
 そして、月彦は雪乃の言葉通り。日が暮れるまでたっぷりと、腰砕けになるほどにヌかれ続けた。

 

 

 

 

 

 

 

 


 

 

 

 

 

 


 ――翌日。

「遅くなってごめんね、紺崎クン。待たせちゃった?」
「いえ、俺もさっき来たところですから」
 矢紗美は小走りに気味に側まで来るや、向かい席へと腰掛ける。掃きだめにツルではないが、こうして美人が一人客としてやってきただけで、陰気な喫茶店が一角だけとはいえ華やいだ気さえする。程なく無愛想なマスターが注文を取りにやってきて、矢紗美はメニューを見もせずにホットコーヒーとだけ言った。
 マスターは無言のまま、注文の確認すらとらずにカウンターの向こうへと引っ込んでいく。その無愛想な対応に、さすが寂れているだけのことはあると、月彦は納得した。
 二人きりで会って話がしたい――下校中、まだ勤務中らしくパトカーに乗ったままの矢紗美に声をかけられたのほんの数時間前のことだ。月彦としても出来るだけ早く矢紗美に謝罪をしておきたかった為、矢紗美の勤務時間が終わるなり落ち合う約束をして、大急ぎで着替えてこの待ち合わせ場所の喫茶店へとやってきたのだった。
「……なるべく人目の無い所がいいと思ったんだけど、ちょっと極端過ぎたかしら」
 薄暗い店内を見回しながら、矢紗美がぽつりと呟く。確かに極端かもしれないと、月彦も思う。故障なのか何なのか、天上に設置されているシーリングファンも回っておらず、そのせいか空気が淀んでいる気さえする。同じコーヒー主体の喫茶店でも、以前白耀に連れて行かれた店とは大違いだった。場末の喫茶店という表現が正しいのかどうかは解らないが、もし正しいのだとすればまさしくこの店こそふさわしいだろう。
「えーと……」
 しかし、いつまでもそうして店の悪口ばかり並べていても仕方が無い。月彦は本題に入ることにした。
「矢紗美さん、この間はすみませんでした!」
 ごつんっ――テーブルに頭をぶつけることも辞さず、月彦は頭を下げる。「あら、私は全然気にしてないから、そんなに謝らないでいいのよ?」――そんな軽い声が聞ける事を少しだけ期待していたが、矢紗美は無言のままだった。
「…………あの、矢紗美さん……?」
 恐る恐る顔を上げ、矢紗美の顔を見る。矢紗美は「なぁに?」とでも言いたげに、微笑を浮かべていた。
「っっほんとにすみませんでした!」
 ごつん。再び頭をテーブルにぶつける。先ほどよりも強く、今度こそ矢紗美から“お許し”が出ることを期待して。
 しかし、矢紗美は何も言わない。それが矢紗美の怒りの度合いを如実に現しているようで、月彦は震え上がった。
(…………っ……当然っちゃ、当然か)
 矢紗美にしてみれば、さんざん「先生より好きです」と言っていた男が、目の前で裏切ったのだ。腸が煮えくりかえっているのは当然といえる。
「大昔から――」
 頭を下げ続けている月彦は、不意にそんな矢紗美の言葉を聞いた。
「言われ続けてる、有名な言葉があるわよね。もちろん紺崎クンも知ってると思うけど」
 恐る恐る、月彦は顔を上げる。やはり、矢紗美は微笑を浮かべたままだ。
「“ゴメンで済んだら警察は要らない”。…………けだし名言だと思わない?」
「あ、ぅ、ぐ……」
 もはや、すみませんと謝ることすら許されない気がして、月彦は何も言葉を発する事が出来なかった。そんな膠着状態とも言える所に、無愛想なマスターがホッとコーヒーを置き、これまた無愛想に去って行く。矢紗美はそっとコーヒーカップを持ち、口をつける――「意外と美味しいわね」と、独り言のように言った。
「ねえ、紺崎クン……想像して? あの時、私がどんな気持ちだったと思う?」
「うぅぅ…………す、すみませんでした……」
「勘違いしないでね。別に謝って欲しいわけじゃないの。ただ、私がどんな気持ちだったのかを想像して?」
「ぐ、うぅ……」
 言われた通りに、月彦は想像する。こういう場合、自分に置き換えると想像しやすいことを月彦は知っている。矢紗美を自分に、雪乃を白耀に、そして紺崎月彦を真央に置き換えて――あの夜の出来事をシナリオ通りに再生させる。
「ぐはっ……!」
 あくまで想像しただけであるから、実際に吐血はしない――が、もしそれが“現実”であったならば。自分は間違いなく血を吐き、悲しみと嫉妬の海に沈んだであろうと、月彦は思い知った。
「ねえ、紺崎クン。……私を置き去りにしての雪乃とのセックスは良かった?」
 矢紗美の言葉が、痛みを伴って体に突き刺さる。
「あのあと、いっぱいシたんでしょ? ねえ、気持ち良かった?」
「い、え……じ、じつは……あのあと、先生とはすぐに別れて……帰って、寝ちゃったんですよ……ははは……」
「そうなの?」
 矢紗美の声は、いつになく嬉しげだった。或いは、少しだけ機嫌を良くしてくれたのかもしれない。
 そんな淡い期待を抱く月彦の前で、矢紗美は徐に携帯電話を取り出すと、なにやら操作をして、意味深にテーブルの上へと置く。そして、月彦の方へと滑らせるように放った。
「何……ですか?」
 矢紗美は答えない。画面を見ろということだと察して、月彦は液晶画面を見た。
「なっ」
 そして、絶句した。
「こ、これ…………」
 そこには、一通のメールが表示されていた。

 

 送信元:雛森雪乃
 件名:あのあと
 本文:めちゃくちゃセックスしました。ご飯食べたらまたします。

 

 そして何よりも極めつけと言わんばかりに、メールに添付された画像は――。
(け、消したんじゃなかったのか!)
 否、恐らく消したのは本当なのだろう。但し、その前に矢紗美に送ったのだ。実の姉である矢紗美宛てのメールでわざわざ敬語を使っているのは、より煽り効果を高める為なのだろう。
(ちょっ……いくらなんでも……)
 月彦はもう、怖くて矢紗美の方を見ることが出来なかった。矢紗美のレコーダーの時もそうだったが、雪乃のこのメールも大概だ。雛森姉妹の互いの煽り方は常軌を逸していると言わざるを得ない。
「雪乃は――さ」
 コーヒーカップの取っ手を摘んだまま、持ち上げるでもなく。矢紗美が昔話でも語るような、懐かしげな口調で続ける。
「今までずっとまともな彼氏出来なかったから、だから本当は紺崎クンのこと、知り合いみんなに自慢して回りたいのよね」
 事実、そうなのだろうと月彦は思う。雪乃には確かに、そういった節がある。
「だけど、紺崎クンとの関係はおおっぴらに出来ることじゃないから。だから、唯一紺崎クンとの関係を知ってる私に、こうやって自慢することで見栄を張ってるんだと思うわ」
「す、すみ、ません……先生に、どうしても撮りたいってお願いされて…………すぐ消すって言うから……仕方なく……撮ったんです、けど……」
 あわわ、あわわと。月彦はずっとまともに顔を上げることが出来ない。矢紗美の顔を、正確には目を見ることが出来ない。そして月彦が見ることが出来る範囲では、矢紗美の鼻から下を見る限りでは、矢紗美は微笑を讃えたままだ。
 それが怖い。
「“カッとなって、つい”――人が人を殺す理由としては、ひどく陳腐なものよね。だけど、殺人罪を犯した人も、きっと罪を犯す前はそんな風に鼻で笑ってたんじゃないかしら」
「さ、殺人って……」
「ふふっ、冗談よ、冗談。そんなこと、実際に出来るわけないじゃない。そんな、“現役婦警、実妹の英語教師を拳銃で射殺。実妹の教え子の男子生徒を取り合っての痴情のもつれが原因か!?”だなんて、間違いなく全国ニュースになっちゃうし」
「で、ですよね……」
「でもね、紺崎クン。……私、“次”はもう、我慢出来ないかもしれない」
 つぎ――月彦は掠れた声で呟いた。
「もし、また次……こんな事があったら、私きっと爆発しちゃう。だから、いい加減態度をはっきりさせて欲しいの」
「……っ……」
 月彦は萎縮するように、肩を竦める。態度をはっきりさせろという矢紗美の言葉には、そうさせるだけの威力があった。
「ねえ紺崎クン。確かにレコーダーの件は私が悪かったわ。でも、それで雪乃と別れるっていう約束まで反故になったわけじゃないでしょう? 一体いつになったら雪乃と別れてくれるの?」
 私もう今みたいな関係耐えられない――さすがに口にはしないが、矢紗美が言っているのはそういう事だった。
 月彦は、膝の上でギュッと拳を握りしめる。
「きょ――」
 舌が張り付く。月彦はお冷やを口にし――矢紗美が来る前に注文したアイスコーヒーは既に飲み終えている――仕切り直す。
「今日、は……その件でも、矢紗美さんに……話をしようと、思ってたんです」
「話をするのは私じゃなくて雪乃に、でしょう?」
 間違えないで――そう付け加えた矢紗美の声には、明らかな苛立ちが籠もっていた。いいえと、月彦は神妙に首を振る。
「矢紗美さんで合ってます。……………………もう、終わりにしましょう」
 意を決して、月彦は顔を上げ、矢紗美の目を見る。矢紗美はぽかんと、惚けたように目を丸くしていた。
「今まで、さんざん優柔不断な態度をとって、本当にすみませんでした。……だけど俺、やっぱり先生のことが好きみたいです」
「……………………え?」
「この間、そのことを再認識しました。先生と別れるなんて……無理です。………………だから、ごめんなさい」
 場に居たたまれない。月彦は早口に、しかし矢紗美にしっかりと伝わるよう、はっきりと発音し、そして殆ど逃げるように伝票をむしり取り、席を立つ。
「おつりはいいですから」
 伝票と共に二千円をカウンターのテーブルに置き、店を後にする。そのまま、一目散に――まるで怪物か何かから逃げるかのように。月彦は自宅に向かって走り出した。

 故に、月彦は知らなかった。またしても一人で残されることになった矢紗美が、ぽかんと十数分にわたって惚けた後、漆黒の気炎を立ち上らせながら、何を呟いたのか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


………………ユルサナイ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 


 
 


 

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