「それじゃあ行ってくる。……多分帰りは夕方くらいになると思う」
「行ってらっしゃい、父さま」
 真央は笑顔で見送ってくれる。――が、その笑顔が微妙に怖く感じる。
「……なんなら、真央も一緒に来るか?」
 真央は首を振る。
「そ、そうか……」
 何となくばつが悪いものを感じて、月彦は真央に背を向けると足早に玄関を後にした。
 空を見上げ、はぁと息を吐く。空の青に対する雲の割合はせいぜい一割。家を出る前に確かめた天気予報では降水確率降雪確率共に0%。気温が十度に満たないことを除けば、絶好のお出かけ日和だと言える。
 ため息混じりに最寄り駅へと移動し、そこから電車で一駅。駅からさらにバスに乗車し、目当ての停留所で下車した後、徒歩で十数分。やがて記憶にも新しい隣町の商店街が見えてくると、月彦の足は僅かながら重くなった。
 が、足を止めてしまうわけにはいかない。商店街の中へと入り、しばらく歩くと目当ての建物――大きな狸の置物が目印と言わんばかりの古書店“分福堂”へとたどり着く。
 ちらりと、腕時計へと視線を落とす。時刻は八時二十分。まみと約束した時間は八時半であるから、若干早く着きすぎてしまったことになる。
(……まぁ、十分くらいいいだろう)
 遅いならともかく、早い分には構わないだろうと。月彦はまだシャッターが下りたままになっている正面を避け、裏口へと回る。分福堂の裏手、商店街に面していない側は一見するとただの民家のように見える。二階建て瓦葺きの普通の民家――にしか見えないその建物の二階部分の窓。転落防止の柵つきの窓を不意に見上げた瞬間。
「あーっ!」
 窓から半身を出すようにして見下ろしていた人物と、月彦は目が合ってしまった。
 バタンッ。シャー!――窓から半身を出していた人影は乱暴に窓を閉め、さらにカーテンを閉めると部屋の中へと引っ込んでしまった。そして丁度月彦が引き戸式の玄関の前に立つのと同じタイミングで、がちゃりと鍵を開ける音が聞こえた。
「おっっそぉぉーーーーーーーーい! もっと早く来なさいよバカ人間!」
 そしてカラカラと引き戸を開けるなり、ポンポコ娘のキンキン声が月彦の耳を劈く。
「よ、よぉ……珠裡……。……………遅いって、約束は八時半だろ?」
「ふんっ。これだからバカな人間の相手をするのはイヤなのよ。八時半に来いって言われたら、三十分前には来てるのが常識でしょ」
「……………………悪い。次からそうする」
 ぐぎぎと。この小生意気な子狸の両頬をむんずと掴んで、力一杯引っ張ってやりたい衝動を歯を食いしばって堪えながら、月彦は頭を下げる。
 何故なら今日だけは、この子狸の機嫌を損ねるわけにはいかないからだ。
「……とにかく、ちょっとそこで待ってなさいよね。急いで準備してくるから!」
 乱暴に引き戸を閉め、珠裡は家の奥へと引っ込んでしまう。人に遅いと言いつつ、自分はまだ準備も出来ていなかったのか――そんな詮無い事を考えながら、月彦はふぅぅと息を吐きながら空を見上げる。
(…………てか、準備もせずに窓から何を見てたんだ?)
 あの窓から何か面白いものでも見えるのだろうか――月彦はふと背後を見てみるが、閑散とした住宅街以外の何ものも見つけることが出来なかった。
 とすとすと、微かな足音が聞こえたのはその時だった。引き戸の曇りガラス越しに見覚えのある藤色の着物が見え、程なくカラカラと音を立てて開かれた。
「おはようさんどす」
「あっ、まみさん。おはようございます」
「時間通りどすな。今日はあんじょう頼みますえ」
「はぁ……一応、努力はしてみます」
 くすりとまみは笑い、着物の袖から封筒を一つ取り出した。
「これはお駄賃どす。人の世でも“遊び”はタダではできまへんやろ?」
「いえ、そんな……」
「あの子を遊びに連れて行って欲しい言うたんはうちどす。飲み食いする銭くらい出すんは当然どすえ」
 渋る月彦の手に、まみは無理矢理に封筒を握らせてくる。やむなく、月彦は封筒を上着のポケットへとしまった。
「すみません……余った分はお返しします」
「余計な気はまわさんでよろしおす。その代わり、あの子がなんぞ欲しがったら気前良う買うたってな」
「解りました。……このお金の範囲内で、ですよね?」
 にっこりと、まみが微笑む。その笑みが「この子に頼んだのは正解だった」と言っているようで、月彦もつい笑顔を返してしまう。
「ママー! さくらんぼの髪留めどこー!?」
「はいはい。今行きますえ」
 苦笑混じりに、まみは家の奥へと下がっていく。程なく入れ替わりに息を切らせた珠裡が玄関へと駆け足に戻って来た。
「待たせたわねバカ人間! さぁ出かけるわよ!」
 薄手の黒のセーターに、サスペンダーつきの灰色のミニスカート。焦げ茶色のフードつきジャケットに、黒と灰のシマシマニーソといった出で立ちのポンポコ娘の姿に、月彦はややげんなりと笑った。
(……………なんか、配色が偏ってないか)
 やはり元が狸だから、私服には本来の体色に近い色を選んでしまうのだろうか。真央にそういったところがないのは、半分が人間だからなのだろうか――珠裡の黒々とした格好に、月彦はついそんなことを考えてしまう。
(かと思えば、小物とかは派手な色を選ぶんだな)
 普段は内巻きのなんともまるっとしたショートカットなのだが、今日はさくらんぼの髪留めを使って左側にちょこんと、親指の先ほどの横ポニになっている。肩から提げているポシェットもピンク色となかなか派手なのだが、その側面に大きくプリントされているデフォルメされたカエルの顔には何故か大きくマジックでバッテンが描かれていた。
「……まぁいいか。……んじゃ行くか、珠裡」
「うん!」
 
 

 

 

 

 

『キツネツキ』

第四十九話

 

 

 

 

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

 

 ――話は、数日前に遡る。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


「菖蒲さん、待って!」
 教室から飛び出し、月彦は慌てて菖蒲の後を追った。幸い菖蒲は走り去った訳ではなく、普通に廊下を歩いていただけであった為、すぐに追いつく事が出来た。
「……月彦さま?」
「さっき落としたのを……………っと、その前にちょっとこっちに来て」
 まだ生徒の数が少ないとはいえ、これから加速度的に登校する人数は増える筈だ。そんな中、メイド服姿の菖蒲と一緒に居る所を見られるのはいろいろな意味でマズイ。月彦は菖蒲の手を引き、校舎の端の物陰へと移動する。
「ここならそうそう見つからないだろう……………で、話の続きだけど、さっき菖蒲さんが落とした黒いアレ、よく見せて欲しいんだ」
「アレ……でございますか?」
「とぼけないで! ほら、さっき教室から出る時に落としただろ!」
「ああ……」
 ぽむ、と。なんとも芝居がかった仕草で、菖蒲が手を叩く。なんとも情けない音しか鳴らないのは、菖蒲が両手に白手袋をつけている為だ。
「アレというのは、コレのことでございますか?」
 菖蒲はスカートのポケットを探り、にょきりと月彦の目の前に例のブツを取り出す。それはどう見てもいつぞや矢紗美が手にしていたレコーダーと同じものだった。
「そ、それだぁーーーーーーーーーーーーーー! 菖蒲さんごめん! それは俺のなんだ、返し――」
 言うが早いか、月彦は半ば奪い取るようにして菖蒲の手に握られたレコーダーへと手を伸ばす。が、その手はむなしく空を切った。
「お断り致します」
 ついと。菖蒲が音も無く後ろへと下がる。
「え……こ、断るって……いやだから、菖蒲さん……それは俺ので……」
「証拠がございません」
「へ……」
 この人は一体何を言ってるんだ?――月彦の頭は一気に混乱した。
(そりゃあ確かに……本当は俺のじゃなくて矢紗美さんのだけど……)
 しかしそんな事が菖蒲に解るわけがない。
(証拠っていうなら……いっそ“中身”を聞いてもらえば――)
 とそこまで考えて、月彦は慌てて首を振る。そんな事をしたら、いらぬ“弱み”を握られるだけではないか。
(待て、待て……おちつけ、落ち着くんだ、俺……慌ててもいいことなんて何も無いんだ……)
 すう、はあ。
 すう、はあ。
 月彦は深呼吸を繰り返し、気持ちを落ち着ける。探しに探し続けた物が今目の前に、手を伸ばせば届く場所にある――その状況に興奮するなという方が無理な話だが、ここはひとまず落ち着けと、己を宥めつける。
「ふぅぅ……………よし、菖蒲さん。順番に考えよう。……………菖蒲さんはそれ、一体どこで手に入れたの?」
「何処……」
 うーんと、菖蒲が難しい顔で指先で顎を摘む。
「前回月彦さまが学ばれておられる教室の掃除をさせていただいた時に拾ったという事は覚えているのですが、教室内の何処で拾ったのかまでは……恐らく月彦さまの机の近くであったとは思うのですが」
「……いや、菖蒲さん……俺はべつにセンチ単位でどこに落ちてたのかを断定してほしいワケじゃないから……………つまり、俺の教室の、俺の机の側に落ちてたのは間違いないんだね?」
 こくりと、菖蒲は頷く。
「てことはさ、やっぱり俺が落としたのを菖蒲さんが拾ったって考えるのが、一番妥当じゃないかな?」
「しかし、証拠がございません」
「いや、証拠もなにも……」
「確か……人の世の法では拾得物は“ケーサツ”に届けるというのが――」
 菖蒲の口上を聞きながら、一瞬月彦は思った。それならそれで、いち早く矢紗美に連絡して取り押さえてもらえば、難なく取り戻す事が出来るな――と。
 その考えが“顔”にまで出たのかどうかについては、月彦には解らない。
 解らないが――。
「……………いえ、ここはやはり学校内での拾得物ということで、学校の方に届けるのが筋のように思えます」
「な、ちょ……違うだろ! 落とし物は警察に届けないと!」
「いいえ、学校関係者の方に届けさせていただきます。是が非でも」
 にっこりと意味深に微笑む菖蒲の顔を見て、月彦は確信した。
(……間違いない。俺の顔色を見て、より俺が困る選択肢を選んだんだ!)
 そういえば――と。月彦は以前読んだ猫の行動に関する偉人達の残した言葉が纏められた本の内容を思い出していた。
 それによれば、飼い猫たちは自分たちが部屋のどこに寝ればより飼い主が困るのかを数学的に計算できるのだという。広げられた新聞の上に寝そべる猫、パソコンのキーボードやマウスの上に寝そべる猫たちは、居心地が良いからそこに居るわけではなく、そこに陣取れば飼い主が困るということを計算ずくでやっているそうなのだ。その狙いは自分たちの要求を押し通す事であり、それは時にはエサをねだる為であり、また時には飼い主にかまってもらうためなのだという。構ってくれないのなら、無理矢理にでも構わせる――それが猫のやり口なのだそうだ。
 その本の内容が真実かどうか、月彦は知らない。知らないが、菖蒲の行動を見る限り本に書かれていたことは正しいのではと思える。
(…………一体、どこまで知ってるのかはわからないけど……)
 機械音痴の菖蒲のことだ。あのレコーダーがどういう機能を備え、どういった用途に使われるものなのかまでは恐らく知らないだろう。しかし、どうやらそれが“主”の弱みらしいとということだけは、猫特有の観察力と嗅覚で察したに違いない。
(……仕方ない。“この手”は使いたくはなかったが)
 背に腹は代えられない。月彦は一時的に己の心を麻痺させることにした。
「菖蒲」
 出来るだけ冷徹に。感情のこもっていない声で、月彦は命じる。
「お前の主人は誰だ?」
 そう。“人間の道理”で責めるよりも、獣の理屈で問い詰める方がこの場合適切であると、月彦は判断したのだった。
 ただ、問題は――。
「……誰、と申されましても」
 菖蒲が媚びるでもなく、恐れるでもなく。むしろやんちゃな子供のいたずらに苦笑する保母が浮かべるような、困り顔で返してきたことだった。
「こうも構っていただけず、愛でてもいただけないのでは……」
 ジト目。もうお前に対する情愛も尽きかけている――そう遠回しに訴えるような目だった。月彦は、己の目論見が甘かった事を認めざるをえない。
「わ、わかった……じゃあ、それを渡してくれたら、今度こそ菖蒲が満足するまで――」
 月彦が再度手を伸ばす――が、またしてもひょいとかわされてしまう。
「口約束では信じられません」
「……どうしろっていうんだ?」
 菖蒲はレコーダーを両手のひらで挟むようにして頬に添え、媚びるように首を傾げる。
「では、“鈴”と交換というのはいかがでしょう?」
「鈴……」
「はい。以前約束していただいた筈の鈴でございます」
 以前約束していただいた筈の、の部分を強調するように、菖蒲は言う。
「……解った。鈴と交換ならいいんだな?」
 この際だ。今日の帰りにでも百円均一のショップに寄って適当な鈴を見繕って来よう――そんな“邪念”を見透かしたように、ムッと菖蒲が眉を寄せる。
「……月彦さまに限ってそんなことはないと信じてはおりますが……もし万が一、あまりにも粗末な鈴を差し出された場合、わたくし自身どういう行動をとってしまうのか、わたくし自身計りかねますので。……お気をつけ下さいまし」
「ちょっ……そんな……鈴なら何でも良いんじゃないのか!」
「はい、わたくしは月彦さまがご用意して下さった鈴であれば、どんなものでも不満はございません。……………………月彦さまの“お気持ち”さえ籠もっているのならば、でございますが」
「俺の気持ちって……」
「……………周りが大分騒がしくなって参りました。他の方の目に映る前に、わたくしは退散させていただきます。……………そうそう、こちらの“キカイの棒”についてでございますが、今日より数えてきっかり七日後に然るべき場所に提出させていただきますので、もし“交換”をお望みでしたら、それより早くにお願い申し上げます」
 では、失礼いたします――菖蒲は仰々しく辞儀をして、音も立てずに物陰から飛び出していく。廊下の方で微かな悲鳴や驚いたような声が響いていたが、月彦はもはや気にも留めなかった。


 事態が好転したのか、それとも悪転したのか。なんとも計りかねる所だった。
(……いや、好転っちゃ好転、だな……)
 どこの誰に拾われ、どう悪用されるかも解らなかった状況からは、少なくとも脱出出来たのだ。あとは菖蒲の手からレコーダーを取り返すだけ――少なくともそれでサドンデスな今の状況からは脱却することが出来る。
(……ある意味、一番いい人に拾ってもらえたんじゃないだろうか)
 もし真央や由梨子に拾われていたら――その可能性を考えるだけで背筋が凍りそうになる。あの優しく癒やしオーラ満点の由梨子とて、あのレコーダーの内容を聞いたが最後、二度と膝枕などしてくれなくなるだろう。
 ましてや真央に聞かれたら――。
「ううぅ……想像しただけで身震いが……」
 ぶるりと肩を抱き、誰かに見られなかったかと、月彦は辺りの廊下を見回す。HRはとうに終わり、教室前の廊下は帰宅する生徒達であふれかえっていた。
(……………とりあえず、今日からはあてもなく探し回ったりしなくて良くなったわけだ)
 久々に部室の方でも顔を出そうかと悩み、月彦の足は結局昇降口へと向かった。別段早くに帰りたいわけではなかったのだが、なんとなく――そう、本当に何となく、ラビと顔を合わせづらいと感じたのだった。
(…………月島さん、なんか俺を避けてるみたいなんだよなぁ)
 本来ならば、放課後になると七割強の確率で“今日は部室に行かないの?”オーラをむんむんに漲らせたラビが廊下の端や階段の影から疑似餌のごとき前髪をチラチラ覗かせているはずなのだが、ここのところラビの姿をとんと見かけないのだ。
 特に嫌われるような事をした覚えもないのだが、自覚が無いということがイコール何もしていないという事ではないことくらい、月彦とて知っている。故になんとなく顔を合わせにくいと思い、なんとなく足が昇降口に向かったに過ぎない。
(……しっかし、鈴……か。……考えてみりゃ、菖蒲さんが怒る(?)のも当然だな)
 靴を履きながら、月彦は思考を“本題”へと戻す。菖蒲の鈴ねだりは今に始まったことではない。遡れば、そもそもの発端は月彦自身が菖蒲の所持していた鈴を壊させた事に起因する。
(…………変なお香でハイになってたとはいえ……やりすぎたよなぁ)
 “あの夜”の事を思い出すと、奇声を上げながら頭を掻き毟りたくなる。唯一の救いは菖蒲自身がそのことについて別段責める様子はないということなのだが、鈴の弁償についてはまた別問題だと月彦は思っていた。
(……鈴、か。……それも安物じゃない、ちゃんとした鈴……)
 否、菖蒲の言葉を借りれば、安物でも別に構わないのだ。ただし、“気持ち”とやらが籠もっていなければならないという前提がある。
(……気持ちがこもってるかどうかなんて、どうやって判断つけるんだ?)
 たとえば、百円の鈴を片道三日かけて遠くの商店で購入してきたら気持ちがこもっていると判断してもらえるのだろうか。もしくは、時給10円のバイトを十時間やって100円の鈴を買ってくれば、気持ちがこもっていると見てもらえるのだろうか。
(…………“気持ち”って都合の良い言葉だな)
 ひょっとしたら、菖蒲はどんな鈴を持って行っても首を縦には振らないつもりではないのか――そんな気が、月彦にはするのだった。これはダメ、それもダメだと駄々をこね、なし崩し的に自分の立場を強めるのが目的なのではないかと。
(…………ありうる、のか……?)
 以前の――自分の腕の下で無力な子猫のように嬌声を上げていた菖蒲であれば、そんな事はないと断言できる。しかし先ほどの――「主人? 貴方が?」と鼻で笑うような冷笑を見せられては、さもありなんと思わざるをえない。
(…………菖蒲さんがぐうの音も出ないような、すっげぇ鈴が手に入ればいいんだが)
 そんなものが簡単に手に入るとも思えないし、そもそもそんなものが何処に行けば手に入るのかも解らない。
「どうしたもんかなぁ……」
 ため息をつきながらとぼとぼ歩いていた矢先。突然ドンと、“いやに弾力に富んだ壁”とぶつかり、月彦は無防備に尻餅をつく。
「いちち……す、すみません……俺ちょっとぼーっとしてて……」
 ぶつかったのは壁ではなく、人だと解るなり、月彦は慌てて謝罪した。幸い相手のほうは尻餅をつかずに済んだらしく、むしろ立ち上がろうとする月彦に手すらさしのべてくれていた。
「あ、ありがとうございます……」
 手を引かれて立ちあがる――その段階になって、始めて月彦は相手の顔を見た。
「くす。……あんさんとは奇妙な縁がありますな」
 藤色の壁――もとい、まみは静かに笑っていた。



 妖狸、まみ。真央の母真狐の因縁の相手にして、月彦としても因縁浅からぬ相手。特に、先だっての“娘すり替え事件”についてはまだ記憶も新しく、その姿を見るだけで全身に緊張が走る。
 ……――にもかかわらず、どういうわけか月彦はまみに対して、自分でも驚くほどに悪感情を持っていなかった。否、悪感情を持っていない――どころではない。親しみすら感じ始めていた。
 その理由について、月彦自身計りかねている。単純に敵の敵は味方理論によって、“あの女”と敵対している人=味方であると判断してしまっているだけなのかもしれない。もしくは、太って――もとい、ふくよかな人に悪い人はいないという、半ば先入観めいた俗論のせいなのかもしれない。
 とにもかくにも、道ばたで偶然まみと出くわした月彦は、どういうわけか「じゃあ、また」と別れる事も無く、まみに誘われるままなし崩しに近所の甘味処へと入ってしまったのだった。

「誘ったんはうちどす。好きな物注文してかまいまへんえ」
 まみはテーブル席につくなりそう言って月彦にメニュー表を差し出し、自分はメニューを見もせずに茶を持ってきた店員に間髪入れずにあんみつを注文する。
「すみません、ごちそうになります。……………この店にはよく来るんですか?」
 メニューを見ながら、月彦は辺りを見回す。こういった純粋な甘味処というのはいかにも敷居が高く思え、馴染みが無いが故に落ち着かないのだった。
「時々……十日のうち五、六くらいどすな。……数百年ぶりに人の世に来て一番驚かされたんは食べ物の旨さどす」
 言うが早いか、ほっかむりをつけた若い女性店員が半ば駆け足気味にガラス製の綺麗な器に盛られたあんみつを持ってきて、まみの前へと置く。あんこに白玉、さらに寒天は抹茶入りなのか、緑色をしており、彩りのアクセントとしてだろう。クコの実まで添えられている。
(……随分早いな)
 まみが注文してから二分と経っていない。店に入ってくるなり準備を始めていないと、このタイミングで出すのは不可能ではないのか。
「ありがとさん。……追加であんころもち4つと栗ぜんざいも頼んますえ」
「は、はい! ただちにお持ちします!」
 まみに話しかけられた女性店員は雷にでも打たれたように姿勢を正し、ダッシュで暖簾の向こうへと消えていく。
「……特に、こういう甘い物はあきまへん。甘いもんに限ってはなんぼうちらかて、人間には敵いまへんえ」
 忌々しそうに息巻きながらも木製のスプーン……というよりは木さじと言ったほうが正しそうなそれであんこをすくい上げ、ぱくりと口に含む。
「んん〜〜〜〜〜ぅ……たまりまへん、たまりまへんわぁ。このこしあんのどしりとした甘さ、たまりまへんえ。はぁぁ……甘露甘露……」
 うっとりと眼を細めながら、まみは白玉だんごを木さじで掬い、口に含む。
「このモチモチとした団子も美味しゅうおすえ……仄かに効いた塩味が憎らしゅうてたまりまへんわ」
 悔しい、でも食べちゃう――まさにそんな具合で、寒天に豆、さらに一緒に盛られているアイスクリームへと、木さじを握るまみの手は止まらない。
「中でもあいすくりぃむ言うんは邪道どす! こないなもん食わされたら……食わされたらもう……」
「あの……あんころもちと栗ぜんざい、お持ちしました!」
「ありがとさんどす。追加で抹茶ぱふぇとカリカリようかん頼んますえ」
「はい! 直ちに!」
 空になったあんみつの容器を盆の上へと移し、女性店員が奥へと引っ込んでいく。
「この店のあんころもちは絶品どすえ。…………月彦はんもはよ注文しはったらよろし。遠慮はあきまへんえ?」
「はは……そうですね……何にしようかな……」
 あんころもちというのは、ピンポン球程度の大きさのあんこに包まれたモチが二個小皿に乗せられて一品らしい。つまりまみの前には現在四皿、計八個のあんころもちが並んでおり、さらにその脇にはぜんざいまで控えている。
 あんころもち4つ、という注文を聞いてひょっとして半分は俺の分なのかなと思っていた月彦の予想は見事に裏切られ、計八コのおもちは全てまみの口の中へと誘われていった。
(……てか、見てるだけでもう、胸焼けが……)
 甘いものなど一口も食べていないのに、塩っ気のあるものを食べたくて食べたくてしかたがなかった。同様に思う客も多いのか――勿論そういう客は既に自身が甘い物を食べ過ぎて初めてそう感じるのだろうが――メニュー表には漬け物など塩っ気のあるメニューもいくつかはあるのだが、まみに対する遠慮から月彦はそれを選ぶ事が出来ない。
(……こういうお店に連れて来てもらって、いきなり漬け物とかアウト、だよなぁ……)
 いくらまみが好きなものを注文しろと言ったとはいえ、そこは空気を読むべきだと。そういう部分では、月彦は冒険の出来ない男だった。
「抹茶パフェとカリカリ羊羹お持ちしました!」
「ありがとさん。追加でくれえぷの“全のっけ”巻き三つも頼んますえ」
「はい!」
 なぜこの女性店員が軍隊顔負けの駆け足で料理をもって来、そして空になった器を下げるのか。徐々にではあるが、月彦は理解し始めていた。仮に自分が彼女の立場であってもそうなるだろうな――と。
 まず第一に、まみは前回の注文を受け取り、そして追加の注文が到着した時には、“前回の分”を食べ終えている。これは店員側としては「持ってくるのが遅い」という遠回しなメッセージに聞こえるのではないか。
 それでいて、十日のうち半分以上通っているというまみの話が本当だとすれば、店側としても絶対に他店に逃したくない上得意客であると言える。となれば、先ほどの女性店員――たぶんバイトだと、月彦は睨んだ――も恐らく店の奥に居るであろう店長あるいは経営者から、あの客の機嫌だけは損ねるなと厳重に言い含められている可能性は高い。
「ようかんはこの端っこのカリカリがたまりまへんわぁ」
 この店の店主はよく解ってる――そんな独り言を呟きながら、まみは小皿に四切れほど乗っている羊羹を松葉串で突き刺しては、巧そうに頬張っていく。その食べるペースはがっついてこそいないものの、舌休めというものが一切無く、結果的にかなりのハイペースとなっている。
「クレープ全のっけ巻き三つ、お持ちしました!」
「ありがとさん。追加で極上きんつば二つと葛桜三つ、あとこの新めにぅのもちもちモナカ言うんも持ってきておくれやす」
「はい! きんつばと……葛桜……モチモチ最中ですね、畏まりました!」
 店員は空いた器を下げ、早足に暖簾の向こうへと消える。テーブルの上に残された大皿の上に置かれた異様な物体に、月彦はぎょっと眉をひそめざるを得ない。
「…………甘味処なのにクレープなんてあるんですね」
 “全のっけ巻き”というのは、恐らく全てのトッピングが中に含まれているという事なのだろう。その太さはもはやクレープというよりロールケーキ、メニュー表に記載されている写真だとクレープは扇状になっているのだが、ここまで具を増やすともはや海苔巻き状にするしかなかったのであろう。そんな店側の苦悩が窺える一品だった。
「見た目はけったいな春巻きどすが、美味しゅうおすえ。月彦はんもはよ頼みなはれ?」
「……クレープじゃなくて本物の生春巻きもあるのか……。じゃあ、折角ですからこのブルーベリーヨーグルト生春巻っていうのいってみます」
 甘い物は胃が受け付けそうにないが、これならば酸味のおかげで楽に食えそうだと判断しての注文だった。
 まみの追加注文を持ってきた店員に、月彦は自らの注文を伝える。何故か女性店員はホッと安堵するような顔で注文をメモり、足早に暖簾の向こうへと消えていく。
 何故彼女が安堵のため息をついたのか、もちろん月彦には察しがついた。何故ならテーブルの上にはまだ前回の注文の“クレープ全のっけ巻き”が一本残っており、ロールケーキかと見まがうかのごとき太さのそれを、まるで子供が恵方巻きでも頬張るが如く堪能しているまみの姿を見る限り、“気分を害しているようではない”と確信できたに違いないからだ。


「はぁぁ……ようやっとひとごこちつきましたわ」
 ほう、と。まみは梅こぶ茶を啜り、お新香を箸先でちょいちょい摘みながら息をつく。来店からすでに一時間以上が経過しており、その殆どの時間を糖分の摂取に費やしていたまみも、漸くにして満足したらしい。
「月彦はんももっと頼んでよろしおすえ? 若いもんがあれっぽっちじゃ全然足りまへんやろ」
「いえ……十分です。お昼食べ過ぎちゃって、あまりお腹が減ってなかったんです」
 目は口ほどに物を食う――そんな諺は無かったはずだが、気分的にはまさにそんな感じだった。次から次にテーブルの上に並べられるいかにもこってりと甘そうなスウィーツの数々に、胸焼けすら覚えたのだから。
(……周りの客も明らかに引いてたしな)
 店内には四人掛けのお座敷席が二つ、テーブル席が二つあり、月彦とまみはテーブル席へと腰掛けているのだが、気づいた時には座敷席に居た女子大生風の二人連れとテーブル席に居たはずのサラリーマン風の男の姿が無くなっていた。否、気づいた時には――ではない。少なくともサラリーマン風の男は月彦達のテーブルへとチラチラ視線を送り、最後にはハンカチで口元を抑えながら席を立った所を確認済みだ。
「あ、店員はん。そろそろ締めのどら焼き持ってきておくれやす」
「ぶっ」
 まみ同様梅こぶ茶を啜っていた月彦は危うく咳き込み、鼻の方へと茶を送り込んでしまうところだった。
(……まだ食うのか)
 驚くべきは、量のことではなく甘さのことだ。月彦自身、些か限界を超えてヤりすぎてしまった後など、自分でもちょっとヤバいかもと思ってしまう量の食事をとってしまった経験はある。が、仮に“その状態”の自分であっても、まみの真似は無理だと確信する。
「どら焼き、お持ちしました!」
「ありがとさん。梅こぶ茶のおかわりも頼んますえ」
「はい!」
 でん、とテーブルの上に置かれた大皿の上には、ホカホカ焼きたてのどら焼きがざっと数えただけでも十個ほど積み上げられていた。さらに光の速度で店員は換えの梅こぶ茶を用意し、「ごゆっくりどうぞ」と辞儀をして暖簾の向こうへと下がっていく。
 まみは早速に湯気を立てるどら焼きの一つを手にとり、あむと食らいつく。
「はぁぁ……美味しゅうおすえ。外はアツアツふわふわであんこはしっとり甘くて、なんぼでも入りますわぁ」
 うま、うまとどら焼きを食べるまみの手は留まる事を知らず、瞬く間に数を減らしていく。
(……注文して準備したにしては早すぎる……“締めの”って言ってたし、多分毎度のことで店側も準備してたんだろうな)
 どら焼きを貪るように食べるタヌキ――まみの藤色の着物も相まって、その姿がもう某有名アニメのロボットにしか、月彦には見えなかった。
(……どら焼き……タヌキ……鈴……)
 はたと。そんな連想が月彦の頭の中で起こったのは果たして偶然か必然か。
「あの……まみさん」
「はいな。月彦はんもどら焼き食べとうなったんどすか?」
「いえ、どら焼きはいいです。…………実はちょっと、相談したいことがあるんですけど」
「…………?」



「ご来店、ありがとうございました! あのっ、お勘定はいつも通り――……」
「つけといておくれやす。月末、使いのもんにまとめて払いに来させますさかい」
「畏まりました。……それから、よろしければこちらを……」
 レジ台越しに、店員が大仰な紙袋をまみの方へと差し出す。
「いつもありがとさんどす。帰ってからゆっくり楽しませてもらいますえ」
 まみは紙袋を受け取り、引き戸を開けて店を後にする。
「まみさん、その紙袋は……?」
「“おみや”の大福どす。小腹が空いた時はこれに限りますえ」
 紙袋は見るからにズシリと重そうで、その数も十個や二十個ではなさそうだった。
「……重くないですか? 俺が持ちましょうか?」
「………………。」
 瞬間、奇妙な沈黙が流れた。
 月彦としては、ただの親切心。一応ながらも食事を馳走になった手前、少しでも恩を返そうと、やましい気持ちなど毛ほども無い百%善意の申し出だった。
「………………あんさんを信用しとらんわけやないんどすが……」
 困ったような笑顔――だが、その細められた眼の奥に、野生の獣のそれを、月彦は見た。
「大事なもんは人任せにせんと、自分の手の届く所に置いとくんがうちの信条なんどす」
「そ、そうですか……」
「…………大福はあの女狐の好物の一つどす。もし狙われたら、あんさんでは守りきれまへんやろ」
「ねら……われるんですか?」
「酒や食い物を持っとる者に気づかれんよう掠め取るんは、あの女の十八番どす。逃げ足も速うおすから、盗られた後に気づいても手遅れどすえ」
 たかが大福。されど大福。過剰とも思えるまみの執着だが、理由を聞けば納得の一言だった。
(…………多分、何度も何度も何度も何度も盗まれたんだろうな……)
 さもありなんと思える。別にあの女の身内でもなんでも無いはずなのだが、こうして被害にあった旨を耳にすると何故か代わりに謝らねばという気がしてくるから不思議だった。
「……そうだ、まみさん。さっきの話の続きなんですけど」
「鈴の件、どすな。百ぺん聞くより、一目見た方が話が早うおす。……着いて来なはれ」
 まみに誘われるままに、月彦はその後に続く。
 そう、先ほど店内で不意に“鈴”の話を持ちかけた時、まみはこう答えたのだ。
 心当たりがある――と。
(……正直、期待してたわけじゃないんだけど……)
 単純に、青いタヌキ、どら焼き、大きな鈴と頭が連想ゲームをしてしまい、それが口から漏れてしまったに過ぎない。もしまみが菖蒲のように、人の顔色から考えていることを察する力に長けていたら――もしくは、本当は持っているその能力を隠さず使っていたら――侮辱されたと激怒していたかもしれない。
 とにもかくにも、まみが心当たりがあると答えたことは月彦にとって嬉しい誤算だった。無論月彦も――妖猫、妖狸間のイザコザを鑑みて――事情をそのまま話しはしなかった。“友達”の鈴を誤って壊してしまい、弁償をしなければならない。壊してしまった鈴がそれなりに値を張るものらしく、弁償用の鈴もそれなりのものを用意しなければならないが、心当たりが無くて困っている――要約すれば、月彦がまみに伝えた“事情”はそういう事だった。
(で、心当たりがあるって事は……)
 まみ自身がそういう鈴を所持しているのか。はたまた売っている場所を知っているのか。とにもかくにもまみの後に続いて状況が悪化する事は無かろうと。月彦は黙って後に続いた。
 まみの後に続くに従って、“売っている場所を知っている”という線は徐々に消え、見覚えのある古書店の裏口へとまみが回ったところで百%否定された。まみはそのまま古書店の裏口――というより、裏口だと知らなければただの民家の玄関口にしか見えない――の引き戸をカラカラと開け、中へと入っていく。
「……おじゃま、します?」
 やや疑問系で言いながら、月彦も後に続く。民家の外見にそぐわず、引き戸の向こうは石敷きの上がり框となっていた。が、まみは上がらず、手に提げていた紙袋だけ玄関マットの上へと置くなり、踵を返して玄関から出てしまった。
「こっちどす」
 再度まみに導かれ、月彦は家の庭に隣接して建てられている倉庫――というよりどう見ても蔵にしか見えない――の入り口へとやってきた。
 両手開きの扉の前にぶらさがった年代物の南京錠へとまみが鍵を差し込み、解錠する。扉を開けると、強い埃臭を含んだ風が鼻腔をつく。
「本……ですか」
 蔵の中はすっかり色が変色した年代物の古書で埋め尽くされていた。表の売り場に出す前の古書の一時的な保管庫なのか、もしくは値段がつけられないほど希少な古書が分けて保管されているのか。前者よりは後者の色合いが強いかなと、月彦が思っていた矢先、一足先に蔵の中へと入ったまみの姿が唐突に視界から消えた。
「あれ……まみさん!?」
 慌てて月彦も後を追い、そして危うく“落ち”そうになる。まみは消えたのではなく、地下へと通じる階段を下りたのだった。まるでカタコンペかなにかのように闇を溜めたその奥のほうで、カチリという音と共に白熱電球の光が点る。
「月彦はん、こっちどすえ」
「はい、今行きます!」 
 肩掛け鞄をその場に置き、月彦もまみに続いて階段を降りる。蔵の地下空間は思いの外広く、天井までの高さは軽く二メートルを超え、横の広さについてはまみの家の敷地より広そうだった。
「これ、は……骨董品……?」
 幅一メートルほどの通路と、天井まで詰まった棚。それらが交互に織りなすその場所には、埃を被った壺やら鎧やら刀やらが所せましと並べられていた。
「ここに案内したんは、珠裡以外ではあんさんが初めてどす」
 声は聞こえるが、まみの姿は見えない。
「うちは古いもん集めるんが趣味どしてな。ここにあるんは半分は前の家主が残したもんどすが、残り半分は“本家”から持ってきたうちの私物どす」
 姿は見えない。が、声の調子でまみが徐々に近づいてくるのが解る。やがて白熱電球の光の届かない闇の向こうから、まみがゆっくりと姿を現した。
 月彦の眼は、そのまみの手にある小さな木箱へと釘付けになる。くすりと、微笑を一つ。まみは木箱を正体不明の葛籠の上へと一端置き、上で結ばれていた赤い紐をはらりと解いて蓋を取る。
 中に入っていたのは、白銀の輝きを放つ、赤子の拳ほどの大きさの鈴だった。木箱に厳重にしまわれ、紫色の毛氈にも似た生地の上に鎮座しているその鈴は、見るからにただの鈴ではないと、素人の月彦ですら解る。
「“村正鈴”どす」
 ムラマサスズ――まみの言葉を脳内で反芻し、月彦はんん?と首をひねる。
「村正って……あの刀とかの村正ですか?」
 まみは頷く。
「昔、行商に来た人間から買うたものどす。何でも村正いうんは偉い有名な刀鍛冶はんらしいどすな。それだけの技を持っとる者が造っただけあって、さすがに輝きからして違いますわ」
「村正が造った……鈴?」
 う、うさんくせぇえええ――という気持ちはおくびにも出さず、月彦は渇いた笑いで「本当ですね」と返す。
(妖刀伝説とかならいくらでも聞いた事あるけど、村正の鈴なんて話聞いたこともないぞ……)
 十中八九――否、九十九%の確率でまみは騙されてバッタモノを掴まされている。そうは思うが、大切そうに鈴を眺め、ナデナデしたりしているまみに対してそんな事は口が裂けても言えない。
(……でも、そういううさんくさい由来を気にしなければ、普通に綺麗な鈴に見えるんだよな)
 そう、その輝き自体は決して悪くない。村正ではなく、昔の名のある名工が造った一品だと聞かされれば、疑いもせず信じてしまうだけの独特の雰囲気を持った鈴であることは間違いない。
(相当古いモノっぽいのに、歪んでたり錆が浮いてたりもしないし、これなら……)
 表面の光沢など、独特の雰囲気があり、しっとりと濡れているようにすら見える。なるほど、確かに先ほどは村正が造ったというのはいかにも胡散臭いと感じたが、これはこれで妖しい風格――妖気と言い換えてもよさそうな――を備えた鈴のように見えないこともない。
「どないどす? これならその友達はんも納得しはりますやろか」
「……そう、ですね。……絶対に、とは言えませんけど……多分、これなら…………」
「あんさんさえ良ければ、この鈴持っていってもかまいまへんえ」
「え……いいんですか!? でもコレ……高いものなんじゃ……」
「買うた時にかかった銭の額なら、この鈴よりなんぼでも高いもんがここにはぎょうさんおます。大事なんはかかった銭より、うちが気に入ってるかどうかどすえ」
「……つまり、まみさんはこの鈴はそんなに気に入ってない、ってことですか?」
「そないなことあらしまへん。五指に入るお気に入りどす」
「そ、そんなに大事なものなら頂けません! 無理です!」
 くすりと、まみは小さく笑う。
「あんさんらには借りもありますさかい。この鈴一つであんさんの難儀が凌げるいうんなら、うちは気持ち良う進呈させてもらいますえ」
 ただ――と、まみは言葉を続ける。
「もしあんさんが気が引けるいうんどしたら、一つだけうちの頼みを聞いてくれまへんやろか」
「頼み……俺に出来ること、ですよね?」
 まみは微笑を浮かべたまま、小さく頷く。
「頼みいうんは、珠裡のことどす」


 こんな場所で立ち話も何だからと。まみに連れられて地下室を後にし、月彦は母屋の中――居間へと連れて来られた。八畳敷きの和室の中央に畳二畳分ほどはある木製の円テーブルがあり、月彦はその脇に用意された座布団へと腰を下ろす。
「お茶、飲みますやろ?」
「はい、いただきます」
 居間から障子戸を挟んだ先に廊下があり、その向こうが台所という造りだった。まみは盆の上に湯飲みを二つ、おしぼりも二つ、急須を一つ、そして大皿の上にまるで月見団子のようにこんもり盛られた大福をのせて、居間へと戻って来た。
 湯飲みの一つは月彦の前に、もう一つはその対面席である場所に。大福の盛られた大皿はテーブルの中央ではなく、対面席の脇へと置かれた。
(……ん? お茶請け……っていうわけじゃないのか)
 おしぼりで手をフキフキしながら、月彦は違和感を覚えていた。テーブルの横幅はそれなりのもので、その位置に皿を置かれた場合、仮に大福を手にしようとすれば、間違いなく腰を上げる必要があるのだった。
「……珠裡のことどすが」
 まみもまた――台所で一度手は洗ってはいたが――おしぼりで手をフキフキしながら、ややため息混じりに話を戻す。
「どうも学校にあんま馴染めとらんみたいなんどす」
「そう……なんですか?」
「…………娘はんからなんぞ聞いとりまへん?」
「いえ……特には……」
 そういえばと、月彦は不思議に思う。母親の仇敵の娘が同じクラスに転入してきたというわりには、真央からその件についてまったくと言っていいほどに話を聞いていないことに。
「……こないだの事どすが、あの子に持たせた弁当箱の中身が手つかずのまま流しに捨てられとりましてな」
「弁当の中身が……?」
「食べ物を粗末にしたらあかんーて叱ったら、あの子にしては珍しく反論もせんと黙って俯いとったんどす。その態度が気にかかって、残飯を調べたら砂やら小石やらがぎょうさん混じっとりましてな。改めて問いただしたら、あんさんの娘にやられたて、わんわん泣き出しましてなぁ……」
「ま、真央がそんな事を……!?」
 バカな、と思う。あの大人しい真央が、弁当箱の中に砂を混ぜるなんて陰湿な真似をするわけがない。
(真央はそんなことをしない……するわけがない…………と思う、けど……)
 脳裏を過ぎる、一抹の不安。それは真央もまた“あの女”の血を引いているということだった。父親である自分にはニコニコと純情そうな笑顔を向けていても、腹の底では心底珠裡を憎み、あの手この手で嫌がらせをしている可能性も――。
「すみません……そんな事があったなんて、全然知りませんでした。今日帰ったら早速真央に真相を聞いてみます」
「……勘違いせんといて欲しいんは、うちは別にあんさんを責めたいんやないんどす。うちがあの子を人間の学校に入れたんは、“そういう目”に遭わされても泣かんと自力で解決出来る様、あの子に強なって欲しい思たからなんどす」
「いやでも……食べ物に砂を混ぜるなんて……さすがにやり過ぎだと俺も思います。……何かの間違いだと思いたいんですが……本当にすみませんでした」
「あんさんが謝ることはあらしまへん。……大方、あの子が勝手に転んで弁当箱ひっくり返してしまったんをあんさんの娘のせいにしただけやと、うちは思てます」
 まみは茶を啜った後、大福をつかんであむりとかじりつく。大福の甘さに思わず真剣な顔も綻ぶ――が、その綻んだ顔からふぅと小さなため息が漏れる。
「……あの子が難儀な目に遭うんは、ゆくゆくはあの子の為になると、うちは思とります。……けど、日に日に口数が減って、元気無うなっていくあの子を見てると、さすがに不憫に見えてきましてなぁ」
 はむっ、と。まみは言葉の合間合間に大福をかじっては、ため息を漏らす。
「そ……う……なんですか? こないだ会った時は、普通に元気いっぱいって感じに見えましたけど」
「それはあんさんの前だからどすえ。最近は店の手伝いの時以外は、口もろくにきかんと部屋に籠もってばっかりなんどす。……さすがのうちも心配で心配で、食べ物がろくに喉を通らん有様どす」
「はぁ……食べ物が喉を……」
 大福の山は、いつのまにか1/3程にまで減ってしまっている。はて、口の奥にあるのは一体何という場所だったのだろう――月彦は軽い混乱に陥った。
「……もし、あんさんさえ良ければ、ちょいとあの子と遊んだって欲しいんどすえ。あんさんとなら、あの子もいい気晴らしになりますやろ」
 “それ”が頼みどす――まみは茶を啜り、ほう、と一息つく。
「なるほど、そういう事なら全然OKです。任せてください」
 おやすいご用ですと言わんばかりに、月彦は胸を張り、どんと叩く。
「早速今度の休みにでも、珠裡を誘って出かけてきますよ」
「そう言ってもらえたら、うちも助かりますえ。…………そうそう、月彦はん」
 もう一つだけ――と、まみはやや言いにくそうに“追加の条件”を切り出した。
「あんさんも知っての通り、あの子は気位ばかり高い難儀な子どす。……せやから、うちが頼んで連れて行ってもらうんやなしに、あんさんが請うてあの子と遊びに行くいう形でも構いまへんやろか」
「わかりました。……確かに“そういうこと”にしといたほうが良いかもしれないですね。俺は全然構わないですよ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

 ――そして、現在。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「にしても、随分おめかししてきたな、珠裡。見違えたぞ」
「べ、別におめかしなんかしてないし! こんなの全然普段着なんだから!」
「わかったわかった。とにかく出発するぞ? 遅れちまう」
 むきー!と暴れる珠裡をなだめすかし、月彦は一足先に歩き出す。
「あ、待ちなさいよ!…………ねえねえ、今日はどこにいくの?」
「ん? まみさんから何も聞いてないのか?」
「ママはただバ――……つ、ツキヒコが私と遊びに行きたいって言ってたって……それ以上聞いても教えてくれないし……」
「んー、まぁ当たらずとも遠からずだな。心配するな、別に皮を剥いて取って食おうってワケじゃない」
 珠裡の頭に手を乗せ、撫でるというよりは掴んで左右に振るような感じで弄ぶと、怒ったように手を撥ね除けられた。
「うぐぐ………………へ、ヘンな所連れて行ったりしたら速攻帰るんだから!」
 やれやれと。いやにハイテンションな珠裡を宥めながら、月彦は住宅街を抜け、駅へと向かう。
「……ねぇ、ツキヒコ」
「ん?」
「……手、繋ぎたい」
 ぷくーっと頬を膨らましたふくれっ面のまま、視線を斜め下に逸らしたまま、小声で珠裡が催促してくる。何とも年齢相応な申し出に苦笑しつつ、月彦はそっと珠裡の手を握ってやった。
(…………“妹”って、こんな感じなのかもしれないな)
 珠裡の身長の低さもあり、月彦はふとそんな事を思う。
「ねえ」
「ん?」
 突然珠裡が足を止め、ついと道を挟んだ先のタバコ屋の前に置かれている自動販売機を指さす。
「アレ飲みたい!」
「なんだ、喉でも渇いたのか?」
 こくこくと、珠裡は小刻みに頷く。
「まだ家を出て五分も経ってないぞ……しょうがないな」
 普段なら「あまったれんなー!」と一喝するところだが、まみに珠裡の現状について聞いてしまった手前、あまり厳しくするのもどうかと思ってしまう。
 ジュースくらいは良いかなと、月彦は珠裡を連れて車道を渡り、自動販売機の前へとやってきた。
「で、どれが飲みたいんだ?」
「うーんと…………うー…………」
 喉は渇いているが、具体的に何が飲みたいかまでは決まってなかったらしく、珠裡は指を泳がせながら唸り続ける。
「うーんと……うーんと…………」
「決まらないなら、また後でもいいんだぞ? 駅にだって自販機はあるんだから」
「うー…………じゃあ、コレがいい!」
 珠裡が指さしたのはメロンソーダだった。
「……これ冷たいぞ? この糞寒い中、冷たいのでいいのか?」
 念のため確認をとりつつ、それでも飲みたいという珠裡の意思を尊重して、月彦は小銭を投入。ボタンを押し込み、ガコンという音と共に取り出し口に瓶入りのメロンソーダが落ちてくる。
「ツキヒコ、これ開けて!」
 それを珠裡が拾い、差し出してくる。ジュースくらい自分で開けろという言葉をぐっと飲み込み、月彦は無言で栓を開け、珠裡に渡す。
「どうだ、美味いか?」
 珠裡は早速口をつける――が、その眉を毛虫のようにねじ曲げ、唇を尖らせ頬を膨らませたまま首を横に振る。
「……シュワシュワして喉がちかちかする」
「そりゃあ炭酸入ってるしな。……ん?」
 ずいと、月彦の胸に押しつけるように、珠裡が瓶を差し出してくる。
「もういい、要らない」
「…………そうか」
 無意識のうちに作ってしまっていた拳を開き、月彦は軽く深呼吸をしながらメロンソーダの瓶を受け取る。さすがにそのまま捨てるのは忍びず、やむなく飲み干すことにした。
(…………学校でもこんな調子なのかな。……周りは大変だぞこりゃあ……)
 今までさぞかしちやほやされて育てられたのだろう。その様子が目に見えるようだった。
(……そりゃあまみさんがどんどん苛めてもらって構わないって言うワケだ)
 そう、本来ならば珠裡のこういう甘ったれている部分をしかりつけるのが、珠裡の為にもなるのだろう。
(……しかしまぁ、厳しくするのは明日からってコトで、今日くらいは精一杯甘えさせてやるか)
 飴と鞭は使い分けてこそ価値がある。そこを弁えずに叱りつけたのでは、折角の“お出かけ”まで台無しになってしまう。
(…………それに、まみさんからお金まで渡されて遊びに出かけて、珠裡に気張らしさせてやれなかったら申し訳ないし、な)
 それでなくとも、まみのコレクションの一つである鈴を譲ってもらうのだ。せめて今日一日くらいは笑顔の絶えない日にしてやりたいと月彦は思っていた。
(フフフ……俺の周到な計画に驚くなよ? 珠裡)
 どうにかこうにか飲み終えたソーダの瓶を道中のゴミ箱へと放り、程なく駅へと到着する。
「あっ、先輩!」
「おお、由梨ちゃん。ごめん、待たせちゃったかな」
 駅前の階段状のところでぶんぶんと大きく手を振る由梨子に、月彦もまた手を振って返す。白のダッフルを着込み、片手に大きなバスケットを持った由梨子は息を切らせて駆け寄ってくる。
「…………え?」
 珠裡のその声は、随分と遅れていた。その手が、まるで脱力するように月彦の手から抜け落ちる。
「私もついさっき来た所ですから。…………真央さんは、やっぱり……?」
「うん。一応誘うことは誘ったんだけど…………“行きたくない”って……」
「そうですか……残念です」
「ねえ、ちょっと」
 身を寄せ合うようにして、由梨子と小声で話していた最中、唐突に珠裡が体ごと割って入ってくる。
「どういうことなの? なんでこの日陰女と待ち合わせなんかしてるの?」
「こら、珠裡! そういう言い方はダメだぞ。……由梨ちゃんは俺が誘ったんだ。今日珠裡と一緒に遊びに行こう、って」
「そうなんです、珠裡さん。今日はよろしくお願――っ……」
 握手を求めるように差し出された由梨子の手を、珠裡は力一杯払い飛ばした。
「こ、こら! 珠裡、何すんだ!」
「うっさいバーカバーカ! バカ人間! バーカバーカバーカ!」
 突然珠裡は狂ったように暴れ出し、宥めようとする月彦の臑――弁慶の泣き所を思い切り蹴りつける。
「いっ、だッ……」
「バーカバーカバーカ! ツキヒコなんかイノシシに蹴られて死んじゃえーーーー!」
「あっ、珠裡さん!」
 止めようとする由梨子の手をまたしても払いのけて、珠裡が一目散に走り出す。
「こ、こら珠裡……っく……」
 追おうとするも、珠裡に蹴られた足に激痛が走り、月彦は膝をついてしまう。
「先輩、大丈夫ですか?」
「ああ、なんとか……ちょっと休めばすぐ治ると思う」
「…………あの、先輩。もしかして……私や真央さんを誘ったこと、珠裡さんに言ってなかったんですか……?」
「いや……言う必要も無いと思ったんだけど……」
「……先輩、それは……」
 由梨子が怪訝な顔をする。その意図するところが理解できなくて、月彦は俄に混乱した。
「えっ、何かマズかった……のか?」
「……いえ、とにかく珠裡さんを追いかけましょう。駅の中の方に行きましたから、多分すぐに追いつけるはずです」


「ほ、ほら……電車来たし、乗るぞ、珠裡」
「珠裡さん、行きましょう」
「………………。」
 月彦と由梨子、二人で珠裡を挟むようにして、半ば強引に電車へと乗せる。
 駅の入り口での一悶着の後、どうにかこうにか駅構内に潜伏していた珠裡を捕まえはしたものの、その機嫌は極限と言っていいほどに悪かった。
「はぁぁ…………」
 月彦とも由梨子とも一切目を合わさず、ただただ世界の終わりのようなため息を繰り返すばかり。そんな珠裡の様子に、さすがの月彦も自分がミスをしたことを認めざるを得なかった。
(…………ちょっとしたサプライズのつもりだったんだが)
 二人だけで出かけると思わせておいて、実は珠裡の友達も誘っていたんだぞ、という月彦なりのサプライズ。そのために由梨子に頼み込んで豪勢な昼食まで作ってもらったのだが、この分ではそれが役に立つかどうかは甚だ怪しかった。
「……ごめん、由梨ちゃん。なんだか変なことになっちゃったみたいで……」
「いえ……私はいいんですけど……」
 電車に乗った後も、珠裡は開閉扉に張り付くようにして外を見続けている。テンションガタ落ち、まさにそんな具合に見える。
「……喜ぶと思ったんだけどなぁ」
「…………他にも声をかけているって、ちゃんと言っとかなかったのはかなりまずいと思います。………………私が珠裡さんの立場でも、多分……」
「いやでも、別にデートに誘ったわけじゃないんだし……」
「先輩……」
 由梨子にまで、哀れむような目を向けられ、月彦はぐぅと唸ってしまう。
「と、とにかく……過ぎたことを悔やんでも仕方ない。なんとか挽回していくから、由梨ちゃんもサポート頼む」
「そうですね……わかりました。任せてください」
 任せてください、とはいうものの、由梨子の顔は不安に満ちていた。きっと鏡があれば、同じく不安たっぷりな自分の顔が見れるのだろうなと、月彦は思った。


 二つほど駅を通り過ぎて、月彦一行は下車した。
「お昼までまだ時間あるから、バスケットは一端駅のロッカーに預けておこうか」
 由梨子からバスケットを受け取り、ワンコインロッカーへとしまう。
「先輩、この後はどこに行くんですか?」
「まぁまぁ、そう焦らないで。今日の為にとっておきの場所を友達に教えてもらったんだ」
 ピッ、と。月彦は意味ありげに一枚のカードを由梨子の前に提示する。勿論ただカードを見ただけでは一体何のカードなのか解るはずも無く、月彦なりの“先”への期待感を煽ったつもりだった。
「楽しみにしてます、先輩。……珠裡さん、行きましょう」
「ほら、珠裡。楽しい楽しい遊び場に行くぞー?」
 手を叩いて促すが、珠裡は駅のホームベンチに腰掛けたまま、人形のように脱力しきっていた。
「ほ、ほら……珠裡。来ないと置いていくぞー?」
「………………。」
 ゆっくりと、まるでゾンビのような緩慢な動きで珠裡はゆっくりと立ち上がり、二人の元へと歩み寄ってくる。
「よしよし、んじゃ行くか!」
 珠裡の手を取り、殆ど牽引するようにして、一行は駅構内を後にした。



「えーと……確かこの辺…………あった、ここだ!」
 駅から歩くこと十五分弱。月彦一行は漸くにして目的地へとたどり着いた。かかった時間はそれほどでもないはずなのに、体感ではその十倍近い距離を歩いた気がするのは、終始沈黙したままの珠裡のせいで会話が全く弾まないせいだった。
「ゲームセンター……ですか?」
「まあ有り体に言えば、ね。でも、ただのゲーセンじゃないんだなこれが」
 由梨子の言う通り、黒い半透明のガラスに覆われた三階建てのその建物は、どう見てもゲームセンターにしか見えない代物だ。その実、本当にゲームセンターなわけなのだが、月彦がわざわざ電車を使ってまでこのゲーセンを選んだのには理由があった。
 由梨子、珠裡を伴って店内へと入り、真っ先にカウンター脇に設置してある端末へと移動する。
「えーと……確かカードを通して……暗証番号が……4721……っと……きたきた!」
 液晶画面に“残高”が表示され、月彦はとりあえず500と入力し、OKボタンを押す。忽ちじゃらじゃらと凄まじい音と共に、端末の下の穴に設置されたカップの中にメダルが放出され始める。
 月彦は同じ操作をさらに二回繰り返し、五百枚のメダルが入ったカップを3つ、即ち三人分用意し、その一つを由梨子に、もう一つを珠裡に持たせる。
「どうだ、スゴいだろ! 今日はこのメダルを使って好き放題遊ぼうぜ!」
 カップを小脇に抱え、ぐっとガッツポーズまで繰り出す月彦。――だが、珠裡はもとより、由梨子も喜ぶというよりは呆気にとられたように固まっていた。
「あの……先輩……これ、もしかして……買ったんですか?」
「違う違う、そんなワケないって。友達にメダルゲームがすっげぇ得意な奴が居てさ。もう何万枚も店に預けてるから、もし使いたかったら好きなだけ使っていいってカード貸してくれたんだ。だからこのメダルは遠慮無く使いまくっていいんだよ」
 そう、これが月彦流サプライズ第二弾。夢にまで見たメダル使いまくり祭り――だったのだが。
(……あれ? あんまり喜んで……ない?)
 珠裡も、そして由梨子も。説明をして尚、唖然と固まっている。ひょっとしてサプライズ過ぎて、驚きを通り越して放心状態にまで行ってしまったのだろうか。
「こ、このゲーセンはさ、ほら……他の所よりメダルゲームの数も多いし、大きな筐体も多いだろ? 実はここ、レートがちょっと高くてさ。普通のゲーセンだと百円で十枚、安いところで二十枚とかだけど、ここはなんと百円で五枚なんだぜ! つまり、この五百枚で一万円分遊べるんだ!」
 ダメ押しの力説。……だが、二人ともぽかんと目を点にしたまま動く気配が無い。
「も、もちろんこの五百枚を使い切ったら終わりじゃないぞ! カードの持ち主から残り百枚くらいまでは好きに使っていいって言われたから、あと四万枚は自由に使えるんだ!」
 沈黙。さすがに“売り”の文句も尽き、月彦は全身にイヤな汗が滲むのを感じた。
「す――」
 おそらくは。フォローを入れなければ、入れなければと。必死に考えてはいたのであろう由梨子が、掠れた声で漸くに口を開いた。
「すごい……ですね。珠裡さん、良かったですね、今日はいっぱい遊べますよ!」
 由梨子なりの精一杯のフォロー……だったのだろう。だがしかし、そのなんともぎこちないフォローで、月彦は確信してしまった。
 ああ、俺は思いきりハズしてしまったのだな――と。


 ゲームセンターという場所に馴染みが深いかと問われれば、そんなことはないと自信を持って言える程度の馴染み具合。友達に誘われれば行くし、ちょっとした時間つぶしの時などに足を向けるが、特定のゲームに入れ込んだりするようなことは一度も無い――それが月彦とゲーセンとの付き合い方だった。。
 さらに言うなら、メダルゲームというものもプレイしたことはあるものの、クセになるほど面白いと感じたことは一度も無い。それでも「あぁ、もうちょっと遊びたかったなぁ」という気分を引きずりつつも、メダル切れで撤退した経験はあったから、四万枚ものメダルを好きに使って良いと言われた時は「これはイケる!」と、そう感じた。
 しかし、実際にやってみると、大きな考え違いをしていたことに月彦は気がつかざるを得なかった。
(…………なんだコレ、ムチャクチャつまんねぇ)
 月彦がやっているのは、段々畑のようになっている場所にメダルが散らばっており、ゴリラの拍手のとばっちりを食らった雨樋のような場所からメダルを投入することで、段々畑の上から溢れたメダルをせしめるというゲームだ。
 しかし、手元に既に何百枚というメダルがあるが故に、取り出し口にパラパラと二枚三枚落ちてきたところで嬉しくもなんともないのだった。
 ちなみにその筐体は六角形の形をしており、一辺にそれぞれ二カ所ずつ投入口があり、それを一つずつ使うことで同時に二人まで1つの段々畑でプレイできるのだが、見るからに慣れている風の者は一人で両方を使ってプレイしていた。一方月彦は由梨子と並んで座り、交互にメダルを投入しているのだが、由梨子の方もどう見ても楽しんでいる風には見えない。
「……ほ、他のやってみようか、由梨ちゃん」
「そ、そうですね」
 こんなに嬉しそうな由梨子の笑顔を見たのは久々だった。もっと早く切り出せばよかったと、月彦は慚愧に堪えない。かといってその他の筐体――ポーカーやブラックジャックなどはそもそも馴染みが無く、仮に勝って十枚二十枚のメダルを得たところで嬉しくも何ともない。500枚が520枚になったところで、大した差はないからだ。
(あぁ……なんか俺、悟っちゃったかも……)
 結局の所、こういったゲームは元手が限られているからこそ面白いのではないだろうか。最初、友人が「むしろメダルを大量に減らしてきて欲しい」と零していた時は何をバカなことを言っているんだと思ったものだが、今ならその気持ちが痛い程理解できる。
(メダルに限らず、お金とかもそうなのかもしれないな)
 財布に入っている額が少ないから、買い物も楽しいのではないだろうか。何でも買える魔法のクレジットカードのようなものを手に入れてしまったら、それこそ今の自分のように何を買っても楽しめなくなるのではないか――。
「…………あれ、そういえば珠裡はどこに行ったんだろう」
「さっき二階に上がっていくのは見ましたけど……」
「二階か、よし行ってみよう」
 由梨子と共に階段を上がり、二階フロアへと移動する。どうやら一階に比べてさらに大型の筐体が多数置かれているらしく、そのうちの一つに珠裡の姿を確認し、月彦は密かに安堵の息を吐く。こんな場所まで連れて来ておいて「見失って迷子にさせてしまいました」ではまみに対して顔向けが出来ないからだ。
「よっ、珠裡。何やってんだ? これは……競馬か?」
 それは競馬場を模した、フィギュアの馬の着順を当てるタイプのメダルゲームだった。
 珠裡は相変わらずぶすっと無表情のままだが、その脇には最初に持たせたカップとは別のカップが二つ、メダル山盛りの状態で置かれている。
「これ、珠裡が増やしたのか!? スゴいじゃないか!」
 ここぞとばかりに月彦は褒め、さりげなく珠裡の隣の席へと腰掛ける。
「すごいです、珠裡さん。私なんてもう百枚くらい減らしちゃいました」
 由梨子もまた、月彦とは逆の珠裡の隣へと腰掛ける。
「よぉーし、俺も増やすぞー! ……なぁ珠裡、次は何が一着に来ると思う?」
「珠裡さん、私にも教えてください。どこに賭ければいいんですか?」
 珠裡はちらりと、月彦と由梨子の顔を横目で一瞥するなり、凄まじい勢いでメダルを投入し始める。それも一枚一枚いれるのがもどかしいとばかりに、まるでATMの小銭投入口のような場所に、カップ一杯ひっくり返して一気にメダルをカウントさせ、そして全ての番号に九十九枚掛けを設定する。
「お、おい……珠裡……」
 程なくレースがスタートし、一位と二位の番号が発表される。全部九十九枚掛けをした珠裡は当然当たっていたが、その所持枚数は一気に減っていた。
 珠裡はさらにもう一度同じ事を繰り返し、その次もその次も全掛けを行い、最後に残った数枚を適当にかけて外すとそのまま無言で席を立ってしまった。
「……えーと……他の場所に行こうか、由梨ちゃん」
「……はい、その方がいいと思います」
 一体どうすれば挽回できるのだろうか。神に祈りたい月彦だった。


 ゲームセンターを出た後は、近場の河川敷沿いにある運動公園へと向かった。途中、駅に戻って由梨子のバスケットを回収したためやや遠回りにはなったが、腹ごなしと思えば丁度良い距離だった。
 もちろん運動公園に向かいはしても、目的は運動ではない。件のゲームセンターの近くで、野外でどこかのんびりと昼食をとれる場所はないかと、事前調査を行った結果その公園が距離的にもベストだと月彦は判断したのだった。
 ――が。
「さ、寒い……な」
「先輩……本当にここで食べるんですか?」
 一月という時期。河川敷沿いという地形は、運動公園の一角にあるベンチつきのテーブルに座っている三人に容赦なく寒風を吹き付けてくる。
「そ、そうだ……あそこなら少しは風が防げるんじゃないか?」
 月彦が指さしたのは雨天時用の休憩所のような場所だった。丸太組みの屋根と壁に囲まれ、中にはきちんと木のベンチとテーブルも設置されている。
「うん、風は来るけど……野ざらしよりはマシだな」
「そう……ですね。……早めに食べ終えれば、風邪を引かずにすみますね」
 由梨子の声はやや震えていた。そういえば、由梨子は寒がりだったのだ。今更ながらにそのことを思い出した月彦は、ダッシュで運動公園入り口の自販機まで走り、三人分の暖かい飲み物を抱えて戻って来た。
「ごめん、二人とも。これで少しでも暖まって」
「ありがとうございます、先輩」
 珠裡もやはり寒かったのか、ぶすっとした顔のまま飲み物を受け取り、手を温めるように缶を握る。
「って、アレ……由梨ちゃん、これ全部お昼用に持ってきたの!?」
「はい。……あの、私もちょっと多すぎかなとは思ったんですけど……」
 月彦が戻って来た時には、テーブルの上には三段重ねの重箱と、別途プラスチック制の二段重ねのタッパーウェア、そしてさらに袋状に包まれリボンまで結ばれた包装紙の固まりが置かれていた。
 まず、由梨子は重箱の蓋を開け、一段目と二段目を三段目の脇に並べる。
「おおぉ……」
 そんな声を、月彦は思わず漏らしてしまう。三段目に入っていたのは、三列に並んだおむすび。左はオーソドックスな白米と海苔のおにぎりで、中央は炊き込みご飯風おにぎり、右はわかめとしらすを混ぜたおにぎりのようだった。
 一段目、二段目はどちらもおかずが入っていた。卵焼き、焼いたウィンナー、肉巻きアスパラガス、エビフライにとんかつといった揚げ物があるかと思えば、肉じゃがや豚の角煮など、手の込んだ煮物まで入っていた。それらはしっかりと重箱内の仕切りによって区切られ、味が浸食しあうようなことは無く、そのまま売り物としても出せそうなほどの完成度に、月彦には見えた。
「す、げ……これ全部由梨ちゃんが作ったのか!?」
「えと……私じゃなくって……白耀さんが……」
「は、白耀が……か……」
 そういえば、今由梨子は白耀の屋敷に居候しているのだった。由梨子に頼むということは、必然的に白耀の手を借りるということなのだと、月彦は今更ながらに気がついた。
(ううう……しまった……軽率にお昼は由梨ちゃんが作った弁当が食べたいなんて言うんじゃなかった……)
 由梨子の手料理を食べたくないという意味ではなく、申し訳がなさすぎるという意味で、だ。それでなくとも白耀には八代かけても返しきれないほどの借りがあるのだというのに。
「先輩と出かけるからお弁当が必要だって言ったら、白耀さんものすごく張り切っちゃって……わ、私も一応手伝ったんですけど……」
「……てことは、こっちも白耀が?」
 重箱とは別にされている二段重ねのタッパーウェアをそれぞれ分け、月彦は蓋を開ける。
「わわっ、こっちはサンドイッチ……か……?」
「ああ、そっちはベーグルサンドです」
「べーぐるさんど?」
「はい。その……菖蒲さんという方が……先輩の為のお弁当なら自分も手伝いたいって……」
「…………菖蒲さんが焼いたベーグルか……」
 これまたなんとも意味深なものを感じて、月彦は一口も食べていないのに、胃の腑に重石を放り込まれたような気分になる。
「本当はベーグルをそのまま持ってくるはずだったんですけど……白耀さんの料理ばっかりなのも、ちょっと悔しくって……私が手を加えちゃったんです」
「なるほど、ただのベーグルを、由梨ちゃんがベーグルサンドにした、と」
「はい……すみません……」
 なにやら申し訳なさそうに、由梨子がしゅんと肩を縮こまらせる。
「や、別に謝るようなことじゃ……すっごく美味しそうだよ、ベーグルサンド…………で、最後のこれは……デザートかな?」
「あっ、それは全部私が作りました! …………その、いつもの……クッキーなんですけど……」
「おお、由梨ちゃんのクッキーか! そりゃ楽しみだ! 最後にとっておかないとな」
「あ、これ……おしぼりと、お皿とお箸です」
 由梨子がバスケットの中からピクニック用の紙皿と割り箸を取りだし、月彦、珠裡の前へと置き、最後に自分の前へと置く。
「あと、一応お茶も持ってきました」
 どん、と1,5リットルは入りそうな魔法瓶の水筒をバスケットから取り出し、テーブルの上に置く。どうやらこれで漸くバスケットの中は空になったらしい。
「お茶まで……由梨ちゃんホントごめん。重かったろ?」
 無論、由梨子と合流してからは、月彦のほうがバスケットを持っていたから、その重さは身をもって知っている。だが、男の感じる“重い”は、女性にとってその数倍“重い”に違いない。
「少し……でも大丈夫です。料亭の手伝いで、いっぱいお皿とか運んでますから」
「本当にごめん、由梨ちゃん。……今度、何か埋め合わせするよ」
「ふふ、期待してますね。……珠裡さんも、遠慮せずにいっぱい食べてくださいね」
「そうだな。ここで遠慮したら、由梨ちゃんと、そして白耀や菖蒲さんにも悪いってもんだ。ガッツリ食わせてもらうぜ!」
 月彦は早速とばかりにおにぎりを二つ、さらにとんかつを二きればかりと卵焼きを自分の皿へと取り、食らいつく。
「んんっ、美味い! 結構歩いて腹減ってたから尚更だ。いくらでも入りそうだ」
 瞬く間に皿にとった分を平らげ、今度はベーグルサンドの一つへと手を伸ばす。ベーグルというのは、いわば水分量を極端に減らしたパンの一種であり、通常のパンとは違い、独特の弾力があるのがその最大の特徴だ。
「ん、こりゃまた……普通のサンドイッチとは違う、新鮮な味だ。美味しいよ、由梨ちゃん」
 中に挟まれているのはレタスとベーコン、トマトだろうか。ベーグルの小気味のよい弾力と相まって、なんともどっしりとした食い応えがある。
「こっちのはささみカツとチーズ、おお、海苔まで挟まってるのか、これも美味そうだ」
「……珠裡さん?」
 一人餓鬼のようにがっついてる月彦とは対照的に、由梨子はまだ箸を手にしたまま何も食べていなかった。テーブルは円形、月彦、由梨子、珠裡はそれぞれそのテーブルを百二十度ずつ分割するような位置取りに座っている。
 そして由梨子には――離れてはいるが――地蔵のように座したまま箸を手に取ろうともしない珠裡が気になって仕方ないようだった。
「あっ、良かったら私が取りましょうか? 珠裡さん、卵焼きは好きですか?」
 由梨子は珠裡の前に置かれた割り箸を手に取り、紙鞘から抜いてパキリと割るや、さあなんでも注文してくれとばかりに皿を手に構える。
 ――が、珠裡は黙したままぴくりとも動かない。両手で月彦が買ってきたお茶缶を持ち、じっとその缶とにらめっこしたまま微動だにしない。
「ほら、珠裡。いい加減機嫌直せって。由梨ちゃんが持ってきた弁当すっげぇ美味そうだぞ?」
「いい、いらない」
 缶とにらめっこしたまま、珠裡は呟く。完全に拗ねた子供のような口調だった。
 が、しかし気分的なものと、肉体的な欲求というものは往々にして別物だ。きゅーっと。珠裡の腹が鳴り出すや、ぷふーっと月彦は吹き出した。
「なんだ、腹減ってるんじゃないか。ほらほら、ベーグルサンドだぞー? こんなの食べたことないだろ?」
 月彦はベーグルサンドの一つを手にとり、うりうりと珠裡の頬に押しつける。――キッ、と。珠裡が凄まじい形相で睨み付けてきたのはその時だ。
「いらない!」
 刹那、ベーグルを持っていた手が払われ、ベーグルサンドは無残にも地面へと落ち、その中身を散らす。
「こ、こら! 珠裡!」
 カッとなった月彦が右手を振り上げる。
「先輩! ダメです!」
 由梨子の制止は間に合わなかった。パァン――そんな音を立てて、月彦の右手が珠裡の頬を張り飛ばす。
「う……ぁぁぁ……」
 珠裡は俄に体を泳がせ、そして踏みとどまり、立ち上がる。
「うぁぁあ…………あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙ッ!」
 その両目に見る見るうちに大粒の涙が浮かび、ほろほろとあふれ出す。
「あ゙ぁ゙ーーーーーーーーーーーーーーーーーー!」
 そして雄叫びのような声を上げたかと思えば、唐突に外に向かって走り出した。
「あっ、こら珠裡!」
 慌てて月彦も後を追う。一瞬、月彦の脳裏を過ぎったのは、つい先だってのラビや都との追いかけっこの記憶だった。
 そのどちらにも月彦は追いつく事が出来なかった。故に、また追いつけないのでは――そんな直感から、月彦はいつになく本気で走った。
 が、結果的にそれは全くの無駄な労力だった。
「ひぶっ」
 そんな悲鳴を上げて、休憩所から二十メートルも離れないうちに珠裡が勝手に転んだのだ。どうやら地面から出ていた木の根に足をとられたらしい。
「お、おい……大丈夫か……?」
 駆け寄り、おそるおそる声をかける。珠裡は体は起こしたが立ち上がりはせず、その場で歯を食いしばって地面を睨み付けるようにしながらしゃくり上げていた。
「先輩……珠裡さん……」
 遅れて、由梨子が追いついてくる。が、由梨子もまた珠裡の様子に声をかけられないらしかった。
「…………先輩」
 不意に、由梨子が小声で耳打ちしてくる。
「えっ、でも……」
「“今”はそれが一番だと思います。………………珠裡さん、私、用事を思い出しましたから、今日はもう帰りますね」
 由梨子はしばし珠裡の様子を伺う――が、変化はない。困ったように笑って、由梨子は踵を返した。
「由梨ちゃん……」
 月彦が振り返ると、由梨子もまた振り返っていた。先輩、あとは頼みます――由梨子の寂しげな笑顔はそう物語っていた。
 珠裡と仲直りするためには、自分が居ない方が都合がいい――由梨子の判断を否定するだけの材料も、代案も月彦は用意出来なかった。
 月彦が珠裡の方を振り向くと、珠裡が慌てて視線を前へと戻した。
 やれやれと、苦笑がにじみ出るのを感じる。
「……ほら、珠裡。立てるか?」
 しゃがみ、手を差し出す。珠裡は渋々といった感じでその手を取り、立ち上がる。
「怪我は……してないな。足をくじいたりとかはしてないな?」
 膝小僧、手のひら、スカートについた土を払ってやり、そのまま休憩所まで手を引いて戻ってくる。
「……これで手を拭け」
 由梨子が用意していたおしぼりを持たせ、手を拭かせる。相変わらずぶすっとした顔だが、渋々ながらも指示したことだけはやるようになったのは、由梨子が居なくなったということで内心気をよくしているのだろうか。
(……そのことについては、今は伏せておこう)
 何故由梨ちゃんと仲良くしようとしないんだ――そう問い詰めることは簡単だが、それでは何の解決にならない。珠裡の中にあるであろう価値観を変えることは一朝一夕にはいかないのは明白だ。
 少しずつ、珠裡の考えも聞きながら、諭していくしかない。
「……腹も減ってるんだろ? おにぎり、食べるか?」
「………………うん」
 こくりと、珠裡は小さく頷き、月彦が差し出したオニギリを受け取り、かぶりつく。
 やれやれ――内心ため息をつきながら、月彦も食事を再開させた。


 珠裡は、よく食べた。どうやら由梨子本人は嫌っていても、その用意した食事については――本人が目の前に居なければ――割り切る事ができるらしい。
「もうお腹いっぱいになったか?」
「……うん」
「そっか。んじゃ残ったのはまとめとくか」
 余った食材を重箱の二段目と三段目にまとめ、広げられた食材をバスケットの中へと戻していく。クッキーについてはまったくの手つかずだが、これは後で小腹が空いた時にでも食べればいいだろう。
「さて、と。飯も食い終わったし、これからどうするかな。…………珠裡はどこか行きたい所はあるか?」
「………………。」
 珠裡は下を向き、黙り込む。さすがに、食事が済んだから心機一転――とはいかないらしい。
「…………の」
「うん?」
「…………さっきの、もっとやりたい」
「さっきの?……………………って、まさかメダルゲームの事か?」
 こくりと、珠裡は下を向いたまま頷く。
「なんだ、珠裡は気に入ってたのか。ずっとぶすっとしてたから全然解らなかったぞ」
 ぶぅ、と珠裡がますます不機嫌そうな顔をする。
「んじゃ、駅で荷物を預けてから、もっぺんさっきのゲーセン行くか」
 水筒もバスケットの中へとしまい、使った紙皿や紙コップ、そして珠裡が払ったせいで食べられなくなってしまったベーグルサンドも泣く泣く廃棄し、ゴミ袋へとまとめてくずかごへと捨てる。
「……来た時よりも美しく、ってな。珠裡、よく覚えておくんだぞ」
 これが人間の世界の常識なのだと、月彦は身をもって説明する。珠裡も渋々ながら、後半は後片付けを手伝い、月彦は内心よしよしとほくそ笑む。
「よし、行くか」
 珠裡と手を繋ぎ、運動公園を後にする。駅へと戻り、再度ロッカーに荷物を預け、ゲームセンターへと向かう頃になって、漸く珠裡が口を開き始めた。
「なんで、勝手に他の子誘ったの」
「ん? ……なんでって、遊びに行くなら人数多い方が楽しいと思ったからだ」
「楽しくない!」
 きーーーー!
 珠裡が歯を見せて否定する。
「……そっか。先に珠裡に聞くべきだったな。悪かった」
 ぽむぽむと優しく頭を撫でると、珠裡は忽ち表情を緩ませ――そして慌ててぶすっとした顔に戻し、ぷいとそっぽを向く。
 しばし歩き、ゲームセンターへと到着する。先ほど同様、カードに預けてあるメダルを引き出そうとすると、くいくいと珠裡がズボンの裾を引いてきた。
「ん? どうした、珠裡」
「あんまりいっぱいじゃなくていい」
「いやでも、無くなったからってまたすぐ引き出すのは面倒だろ?」
「無くならない。私が増やすから」
「……解った。んじゃ百枚、二人で五十枚ずつにするぞ?」
 それっぽっちでは十分と持たないだろうな――内心思いつつも、実際に珠裡の言う通りにやったらすぐにメダルが無くなってしまうことを解らせた方が教育になると、月彦は思った。
 カップ二つに五十枚ずつ。その一つを月彦は珠裡に手渡す。
「ほら、珠裡の分だ。頑張って増やせよ」
「…………こっち」
「ん?」
「馬のやつ。一緒にやりたい」
「馬の……ああ、競馬のやつか」
 月彦は珠裡に引かれるままに二階フロアへと上がり、ミニチュア競馬場の周りに設置された座席二つにそれぞれ座る。
「さてと、どれに賭けるかな」
 実際の競馬であれば、競走馬の体調や騎手によってある程度の推測もたつのだろう。だが、これはゲームだ。一応データとしては出走馬の体調、過去のレースの成績や血統まで見る事は出来るが、正直競馬に詳しくもない月彦にはさっぱりだった。
 解る事といえば、◎が多い馬ほど速く勝ちやすいが、その分オッズは低めで仮に当たっても配当はしょっぱいという事くらいだ。その分無印の馬などはオッズは高いが、それに賭けて当たるのなら苦労はない。
「うーーん………………珠裡はどれが来ると思う?」
 隣の席にいる珠裡に声をかける。が、珠裡はどういうわけか座席についているデータ画面にはまったく目をやらず、ミニチュア競馬場のスタートゲートに並んだ馬のフィギュア達とにらめっこをしていた。
「…………三番と五番がいい顔してる」
「いい顔?」
 言われて、月彦も見るが、プラスチック製の――恐らく同じ型で作られたであろうそのフィギュア達は番号がついていなければ全く見分けのつかない顔をしている。当然、表情が変わるようなギミックなどもなく、せいぜいレースの際足と首がぱかぱかと動くくらいだ。
「……三番は一番人気だけど、五番は▲すらついてないぞ」
 月彦は手元の画面の3−5のオッズを確認する。三番のみだと1,3倍にしかならないが、人気薄の五番と組み合わさることでそのオッズは23倍にまで上がっていた。
「んじゃ、とりあえず3−5に十枚くらいかけとくか」
 ゲームの良い所は、仮にここで3−5に99枚掛けをしたとしても、オッズが変わらない事だ。
「お、そろそろレースが始まるぞ。珠裡も賭けたか?」
「うん」
「何枚賭け……おっ、始まった」
 無駄に凝ったファンファーレが鳴り響き、スタートゲートが開くやフィギュアの馬たちが一斉にスタートする。ミニチュア競馬場の上にはさらに大画面液晶テレビが設置されており、そちらのほうではCGで作られたリアルな馬たちが熾烈な争いを繰り広げている。
(なるほど、実際にはこういう感じで走ってるんですよ、と言いたいわけだな)
 レースCGの出来はなかなか見事で、珠裡もそちらの画面に見入っているようだった。肝心の三番の馬は先頭集団のやや後方、そして五番の馬はなんと最下位を走っていた。
(あちゃ……まぁそうだよな……)
 レースに出頭している馬は十八頭。そのうちの一着と二着の馬を的確に当てる確率は一体どれほど低い確率になるのだろう。いくら一着と二着が逆でもいいとはいえ、それはそうそう当たるような確率でない事は間違いない。
「いけ、いけ、がんばれ!」
 珠裡が拳を握り、画面を見ながら応援していた。そこまで熱中してもらえるのなら、このゲームを作った制作者も浮かばれるというものだろう。
(ん? なんか順位が上がってきてないか)
 気がつくと、最下位を走っていた五番の馬はじりじりと順位を上げ、先頭集団の最後尾にまで上がってきていた。
(いやいや、レースももう終盤だ。さすがに届かないだろう)
 いわゆる第四コーナーを曲がり、各馬一斉に最後の直線へと突入する。この時点で先頭は三番の馬であり、二位の馬とは三馬身ほどの差が開いていた。その二位の馬も三位と四位の馬に挟まれる形で競り合っており、この分では二着の判定は縺れそうだった。その後ろから、大外を五番の馬が追い上げてくる。
「おいおい珠裡、これ来るかもしれないぞ」
 五番の馬はぐいぐいと二位集団に迫り、残り百メートルほどを残してほぼ並んだ。
「負けるなー! そこだー!」
 珠裡はとうとう席を立ち、大声を上げて応援を始める。近くでリズム系のゲームをやっていた男達が何事かと振り返った。
「こ、こら……珠裡……落ち着けって」
 慌てて珠裡を宥め、座らせる。そのせいで月彦は決定的瞬間を見逃した。ハッとしてミニチュア競馬場へと目をやると、既に全部の馬がゴールインした後だった。
「け、結果は……!?」
 画面を見上げる。画面には大きく“写 真 判 定”と表示されていた。数秒ほどたっぷり焦らされた後、ゴールの瞬間の写真がえらくもったいつけたスピードで表示される。
「おおっ!?」
 一着、三番。
 二着、五番。
「き、きたーーー!」
 手元の画面のクレジットの枚数が忽ち跳ね上がる。月彦は10枚掛けの23倍なので、一気に230枚を獲得した。
「すげぇ! 珠裡、なんで解ったんだ?」
「……三番も五番もすっごくいい顔してた」
 にんまりと、珠裡は今日一番のドヤ顔で腕組みをする。
「ていうか、結局珠裡は何枚賭けてたんだ? ……ん?」
 月彦は身を乗り出し、隣の珠裡の席のクレジットに表示された枚数を見る。
(115……てことは5枚ぽっちか)
 自信ありげだった割りには堅実なんだなと、月彦が納得しかけた時だった。珠裡が払い戻しボタンを押し、座席の下部から設置されたカップめがけてメダルの払い出しが始まる。
「って、まさか――」
 じゃらじゃらと出てくる枚数は、およそ100枚ぽっちではなかった。それもそのはず、月彦の位置からはクレジットの表示の一番右の数字が見えないだけだったのだ。
「5枚じゃなくて50枚全部賭けたのかーーーーーーー!」



 


 ゲームセンターで二時間ほど遊び、三時前には店を後にした。どうやら珠裡は競馬ゲームがかなり気に入ってしまったらしく、ゲームセンターに居る間はずっとあのゲームの前にかじりついていた。もし珠裡が小腹が減ったと言い出さなければ、夕方までずっとやりつづけていたかもしれない。
(……メダルもかなり増えたし、な)
 カードを貸してくれた友人からは、むしろ減らしてくれと頼まれていたにもかかわらず、結果的に貯蓄を二割ほど増して返却する羽目になってしまった。
(…………意外な才能を垣間見たな。……いや、才能っていうのか)
 最初の全賭けで1150枚は少々出来すぎとはいえ、その後も365歩のテーマのような感じで、珠裡は順々にメダルを増やしていった。毎回必ず当てるわけではないのだが、珠裡曰く“当たりが解らない”時は賭ける枚数を減らし、ぴーんと来た時に大きく張ることで収支をプラスにしていた。とはいえ、ぴーんと来た時でも外れる事はあり、その当たりハズレも含めて珠裡は楽しんでいたようだった。
 が、すっかりご満悦だった珠裡も、店を出る時にはふくれっ面に戻っていた。原因はメダルを店外に持ち出せない事だった。
「ママに見せたかったのに」
 こんなにいっぱいメダルを出したんだよ、と。まみに見せたかったらしいのだが、生憎とゲームセンターは原則としてメダルの持ち出しは厳禁。駄々をこねる珠裡をなんとか説き伏せ、店外へと連れ出したのだった。
(……珠裡が出した分は珠裡用の口座を作って入れてやるってのも一つの手ではあったんだが……)
 それをやるとなんだか怖い事になりそうで、月彦はあえて自重した。手足がのびきっていても四歳児。あとからまみに悪い遊びを教えるなと怒られるのは避けたいところだ。
「ツキヒコ、あれ!」
 駅へと向かう道すがら、珠裡が指さしたのは道沿いに立っているプレハブのような簡易型ファーストフード店の看板だった。
「アレたべたい!」
 珠裡に腕を引かれる形で店の側まで連れて来られ、立て看板に書かれたメニューの中から、珠裡がアメリカンドッグを指さす。
「……しょうがないな。……すみません、これ二本ください」
 ファーストフード店のカウンター越しに声をかけ、代金を払ってアメリカンドッグを受け取り、一本を珠裡に渡す。
「くんくん……天ぷらみたいな匂いがする」
「そりゃまあ、油で揚げてあるからな。……ん、アツアツで美味いな」
 かじりつくと、ケチャップの塩味と油の甘みが口いっぱいに広がり、絶妙なハーモニーを奏で始める。さらに中に入っているソーセージの旨さが加わり、食べ歩きは行儀が悪いと解っていてもついつい何度もかじりついてしまう。
「って……珠裡、口の周りがケチャップでべたべただぞ」
 またベタな食べ方を。苦笑しながら、月彦は紙ナプキンで珠裡の口の周りを拭いてやる。
「さて、と。とりあえず駅に戻ってきたけど……珠裡はどうしたい?」
 まさかまたゲーセンに戻りたいとは言うまい。事実、珠裡は迷っているようだった。
「…………に乗りたい」
「何に乗りたいって?」
「……ゴーゴー」
 ぷいと、珠裡は照れ気味に言う。
「ゴーゴー……」
 紺崎月彦、不詳十七才。この年まで生きてきて、そんな名前の“乗り物”はついぞ耳にした事がなかった。
「珠裡、ゴーゴーって何だ?」
「この間、ママと一緒にテレビを見てたら映ったの。ゴォーーー! ゴォーーーー!って」
「テレビに映る……ゴォー、ゴォーって音がする乗り物……」
 ううむと月彦は唸る。どうやらゴーゴーというのは正式名称ではなく、珠裡が勝手につけた名前らしい。
「…………なぁ、珠裡。それってもしかしてこう、二列に何人も座って、レールの上をものすごいスピードで走り回るやつか?」
「それ!」
 珠裡がぴょんと飛び跳ねる。
「珠裡、それはジェットコースターっていうんだ。…………遊園地にしかないものなんだ、基本的には」
「じゃあ遊園地に行きたい!」
「…………遊園地に行くにはちょっと時間が遅いかなぁ」
 月彦は腕時計に目をやる。時刻は三時過ぎ。遊園地に行ってジェットコースターに乗る事が可能か不可能かで言うならば、不可能ではない時間帯だ。
(ただ、めんどい……超絶面倒くさい)
 しかも、雪乃のように車が使えるならともかく、徒歩か公共交通機関かしか使えない現状、選択肢として有りうるのは、以前優巳と共に行った全国でも間違いなくワースト五指に入るあそこしかないというのが、月彦の面倒くささに拍車をかけていた。
(あと、金…………さすがに今月の小遣いも残り少ない。二人分のチケット代なんて……)
 そこではたと、月彦は思い出した。朝、出がけにまみから駄賃をもらっていたことを。
(……すっかり忘れてた。……まみさん一体いくらいれてくれてたんだろう)
 月彦は決めた。もしまみのくれた駄賃が二人分の交通費、入場チケットに十分な額であったならば、珠裡を遊園地に連れて行こうと。
 だがしかし。懐からまみにもらった封筒を取り出した瞬間、月彦は不吉な音を耳にした。
(ん? 小銭の音……?)
 ちゃりちゃりと、袋の中で音がするのだ。てっきりお札だとばかり思っていた月彦は、封筒の口を開け、逆さまにして中身を取り出して唖然とした。
(さんじぅ……えん?)
 出て来たのは、十円玉が三つ。当然紙幣などは欠片も入っていなかった。
「ツキヒコ、どうしたの?」
 怪訝そうな声を出す珠裡を尻目に、月彦は目を瞑り、天を仰いで思索に耽る。一体これはどういう事なのか。
(いやがらせ……とは思いたくない)
 相手があの性悪狐ならともかく。自分の娘を遊びに連れて行って欲しいと頼んでおいて、そのための駄賃を渡しておいて、中身が三十円とは一体どういう料簡なのか。
(まてよ、そういえば……)
 月彦ははたと。以前妙子の部屋で佐由や英理を交えて話をした時の事を思い出した。英理のバイト代は当初考えられない額であったが、英理が進言して適性な額になったのだという。
 それと同じ事ではないのか。
(……ひょっとして、まみさん……“こっち”の貨幣価値の事良く知らないんじゃ)
 それで経営者が勤まるのだろうか。そういえば、甘味処に行った時も“代理の者”が払うとツケにしていた。ひょっとすると経理に詳しい部下か知り合いが居て、普段は頼り切りなのかもしれない。
(……真相はどうあれ、珠裡を遊園地に連れて行く事は無理だな)
 月彦は改めて財布の中身を確認し、ギョッと目を剥いた。そんなに多く残っていない事は知っていたが、まさか千円切っているとは思っていなかったからだ。
(……残金870円。下手すると電車代でなくなるぞ)
 月彦自身は専用のカードに現金をチャージしている為、財布の中身は減らさずに電車に乗れるのだが、珠裡はそうはいかない。“行き”の際も、月彦が切符を買い、珠裡に持たせていた。当然帰りも同じ流れになるだろう。
「あー、珠裡。悪いが、ジェットコースターはまた今度にしよう」
「えぇーーーーーーーーーーーーーーーー! 乗りたい乗りたい乗りたーーーーいーーーーー!」
 ここぞとばかりに珠裡は地団駄を踏み、駄々をこねる。その姿、とても高校一年生には見えない。
「遊園地は遠いんだ。だからまた今度、暇なときに連れてってやるから」
「やだ! 今日乗りたい!」
「ごねてもダメなものはダメだ。………………その代わり、いいものに乗せてやる」
「いいもの?」
 珠裡が目を光らせ、地団駄を止める。
「ああ、ついてこい」



「………………。」
 ガコン、ガコンと体を揺さぶられながら、珠裡は実に渋い顔をしていた。口は完全に△の形になってしまっており、百人が見て百人とも不機嫌であると解る面構えだ。
「…………面白くないか? 珠裡」
 一縷の望みを託して尋ねるも、帰ってきた返事は小さな首肯。程なくガコガコという動きが止まり、珠裡はいやに緩慢な動作で“乗り物”から降り立った。
 月彦が珠裡を連れて向かった先は、百貨店の中にある“遊び場”だった。珠裡はジェットコースターに乗ってみたいと言うが、財布の中身がそれを許さない。せめて代わりにゴーカートにでも乗せてやれればよかったのだが、近場ではそれも心当たりがない。
 かくなる上はと、百貨店の遊技場に設置されている飛行機を模した乗り物に珠裡を座らせ、投入口から百円玉を投入。飛行機型の乗り物は一分ほどの間前後に動いたり左右に傾いたりを繰り返したが、時間が経てば経つほど珠裡の表情は渋いものに変わった。
「バカにすんなーーーーーーーーーーーーーー!」
 乗り物から降り立った珠裡の第一声は両手を力一杯握りしめての雄叫びだった。
「こんなのじゃなくて、私はジェットコースターに乗りたいの!」
「……? 似たようなものだろう」
「全然違う! あっちはもっとぐぉぉーって動いて、ぎゃーーーーってなってた!」
「珠裡、それはテレビの演出だ」
「演出?」
「特殊効果、CGってやつだ。もちろん珠裡も知ってるだろ?」
「え……あ、うん……しーじ……しーじね、……もちろん知ってるわよ」
「ジェットコースターも、現物はコレと大差ないんだ。違うのは一度にたくさん乗れるか、一人しか乗れないかの違いなんだ」
「そ、そうなの……?」
「うむ」
 月彦は自信満々に頷く。
「ほら、珠裡。もう一度乗ってみろ」
「え、でも……」
「いいか、コレを楽しむコツはな、頭の中で強くイメージすることだ。どこまでも広がる大空、音速を超えて飛び回る飛行機と、それを自由に操る自分を鮮明にイメージ出来るかどうかが勝負の分かれ目だ。……そうだ、いっそ目を瞑って乗ってみればいいんじゃないか?」
 ほら、乗った乗った――月彦は促し、珠裡をもう一度座席に座らせる。センサーでもついているのか、珠裡が着席した瞬間『おかねをいれてね♪』というアナウンスのリピート再生が始まる。
(……もう一押しが必要か)
 依然珠裡の顔は渋いままだった。騙しきるためにはもう一押しが必要だと、月彦は判断した。
「…………まぁ、このイメージで楽しむっていうのは難しいからな。前に真央を乗せてやったら、三回目でやっと出来てたしな。……まだ出来なくてもしょうがないか」
 ぴくりと、珠裡は大きく体を揺らして反応した。
「あのバ――……ま、真央が三回で出来たなら、私なら2回で出来るに決まってるじゃない!」
「そうか? 珠裡にはちょっと荷が重いんじゃないか?」
 苦笑を漏らしながら、月彦は百円玉を投入し、スタートボタンを押し、座席から離れる。
 珠裡は言われた通りに目を瞑り、がっこがっこと体を揺さぶられるままになっている。どうやら真央を引き合いに出す作戦はうまくいったらしく、体を揺さぶられながらも必死にイメージで楽しもうとしているようだった。
(……なんともチョロい…………けど、これで良かったんだろうか)
 少し離れたベンチに腰掛けながら、月彦はふと真顔になっている自分に気がつく。いくら金をかけずに珠裡を楽しませる為とはいえ、やはり嘘をつくというのは心が痛む。
 程なく一分が過ぎ、乗り物の動きが止まった。珠裡がゆっくりと瞼を開け、下りてくる。
「どうだ、珠裡。楽しかったか?」
「うん……すっごく……たのしかった……けど――」
「けど?」
「ばぎぞゔ……」
 見ると、珠裡は真っ青な顔で口元を押さえていた。
「ま、待て珠裡! ここはダメだ! すぐトイレに連れて行ってやるからな!」
 月彦は珠裡を抱え上げ、レストルームへと直行した。


 


「いやー、遊んだ遊んだ。……どうだ、珠裡。今日は楽しかったか?」
「うーん…………」
 屋上のベンチに腰掛け、ソフトクリームをぺろぺろ舐めながら、珠裡は複雑そうに唸る。先ほど吐いたばかりだというのに、甘い物ならすぐにでも食べられるというのが子供の特権ではないかと、月彦は思う。
 遠い山の端ではもう日が落ちようとしており、百貨店の屋上広場も人気が少なく、夕闇が徐々に濃くなりつつある。昼間は野外イベントでもやっていたのだろう。屋上広場にはヒーローショーかなにかの行われた後らしい設備がまるまる残されていた。まだ片付けが行われていないということは、明日もやる予定なのかもしれない。
「………………思ってた程じゃなかった」
 ぐさりと。珠裡の言葉が胸に突き刺さるのを感じる。
(え、遠慮がないな……)
 もちろん世辞で楽しかったと言われるよりは正直に言ってもらったほうが嬉しいのだが、とはいえはっきりと微妙だったと言われるのはそれなりにショックでもある。
「そ、そっか……まあ、次は遊園地に連れて行ってやるから、今日は勘弁してくれ」
「今度は、絶対に誰も呼ばないでね」
 むーっ、と。珠裡は睨み付けるように念を押してくる。月彦はうなずけず、困り顔で髪を掻く。
「…………他の子を誘うのは、そんなに嫌か?」
「イヤ。とくに真央と真央の友達だけは、絶対に遊びたくない」
「……なるほど」
 なかなか正直な意見だと、月彦は頷く。
(…………前に“お仕置き”をしたときに、真央とも仲良くしろーって言ったんだけどなぁ……)
 いや、あれはあくまで「真央に謝れ」だっただろうか。どちらにせよ、無理矢理従わせようとするのは良くない。珠裡がただの“敵”であった時ならばまだしも、こうして親交を深める相手となった以上、珠裡の気持ちも尊重してやらなければと思う。
「なぁ、珠裡。…………学校楽しいか?」
「………………。」
 珠裡は黙って、ぺろぺろとソフトクリームをなめ続ける。月彦としては、その反応だけで十分だった。
「狸である珠裡が、半分狐の真央の事を好きになりにくいっていうのはなんとなく解る。珠裡がどうしても仲良くしたくないっていうのなら、それもしょうがないと思う。……俺だって、こいつとは絶対に仲良く出来ないっていう相手は何人も居るし、そういう相手と仲良くしろって言われても無理だからな」
 だけど――月彦は言葉を続ける。
「真央とは無理でも、由梨ちゃんとなら仲良くできないか?」
「……だって、ユリコは真央の友達だもん」
「別に真央とも友達でもいいじゃないか。由梨ちゃんって、ほんっとすっごくいい子なんだぞ? 気が利くし、料理も出来るし…………由梨ちゃんと仲良くなったら、今日みたいな美味しい料理いっぱい食べさせてもらえるぞ?」
 言いながら、月彦は思い出した。由梨子が作ったクッキーが――バスケットそのものは駅のロッカーに預けてあるが、クッキーの入った袋は上着のポケットに移していた――まだ手つかずだった事を。
 珠裡がソフトクリームを食べ終わったのを見計らって、早速ポケットから取り出し、リボンを解いてクッキー用のポリ袋の口を開く。
「ほら、こういうお菓子も作れる子なんだ。美味そうだろ?」
 珠裡が目を輝かせ、クッキーを摘もうと手を伸ばしてくる。が、月彦はついと袋を持った手を引き、珠裡の手を避ける。
「これを食べるなら、俺と約束するんだ。由梨ちゃんと仲良くするって」
「ええーーーー!? ヤダ! じゃあいらない!」
「………………そんなに嫌がらなくてもいいだろ」
 逡巡すらしない珠裡に、月彦はアテが外れたことを実感せずにはいられない。
「……わかった。じゃあ仲良くはしなくていいから、もう二度と由梨ちゃんの事を“日陰女”なんて呼び方をするんじゃない。……これならどうだ?」
「………………。」
 珠裡は悩むように眉を寄せ、小さく頷いた。
「……約束だぞ?」
 月彦はクッキーの袋の口を珠裡の方へと向ける。なんとなく、サーカスで猛獣のしつけをする人というのはこういう気分なのだろうかと、そんな事を思った。



 百貨店を出ると、もう辺りはすっかり暗くなってしまっていた。時刻は六時前。頃合いか、と思う。
「よし、そろそろ帰るか」
「うー…………」
「珠裡……?」
 いざ駅へと歩き出そうとするも、珠裡はまるで根が生えたようにその場から動こうとしない。
「なんだ、もしかして眠いのか?」
 目をしょぼしょぼさせながら、立ったまま頭をフラフラさせている珠裡は、小さく頷いた。
「…………しょうがないな。ほら、おぶされ」
「うん……」
 月彦はしゃがみ、珠裡をおんぶする。
(やれやれ、完全に“お守り”だな)
 苦笑混じりに駅を目指して歩き出す。十分も歩いた頃には、珠裡はすっかり寝息を立て始めていた。
 駅のロッカーで由梨子のバスケットを回収し、電車に乗る。ちょっと小柄な女子高生に見えなくもない珠裡を背負っている姿はそれなりに一目を引いたが、完全に寝こけている顔を見た他の乗客達は何とも言えない微笑みを返してくれた。
(……さて、どうするかな。先にバスケットを返しに行くか、珠裡を送るか……)
 少し考え、月彦は決めた。“重い方”を先に片付けるべきだと。
 
「ほら、珠裡。もうすぐ家に着くぞ」
 電車を降り、商店街の方へと向かう。分福堂の表ではなく、裏口――民家側の入り口へとどうにかこうにか到着し、呼び鈴を鳴らすと、家の奥からまみの返事が聞こえた。
「はいはい、今出ますえ。……あら、月彦はんどすか」
「どうも、今帰りました。……途中で珠裡が寝ちゃって……」
 あらあらと、まみは苦笑する。
「昨晩はえらい興奮して、遅うまで起きとりましたからなぁ……」
 よっこらしょ、と。まみは月彦の背中から珠裡をうけとり、一端玄関の中へと入っていく。程なく戻って来た時には、その手に大きな紙袋を携えていた。
「今日はご苦労さんどす。珠裡も眠りこけるほど遊んでもろたなら、ええ気晴らしになりましたやろ。……約束の鈴どすえ」
 紙袋を受け取り、中を覗き込むと見覚えのある木箱が入っていた。
「ありがとうございます。……すみません、高いものなのに」
「惜しむくらいなら、最初から取引持ちかけたりしまへんえ。遠慮のう持って行っておくれやす」
「じゃあ、遠慮無く頂きます。…………あっ、これ……結局使わなかったんでお返しします」
 月彦は上着の懐から、朝まみにもらった封筒を取り出し、まみに渡そうとする。
 ――が
「ほな、駄賃代わりにとっといておくれやす。……またなんぞ珠裡のことであんさんに頼む事もあるかもしれまへんし」
「ははは……遊びに連れて行くくらいだったら、いつでも言ってください」
 苦笑を返して、月彦は封筒を懐にしまう。
(……たったの三十円じゃ今時チロノレチョコ一個買っておしまいなんだけど……さすがに言えない、よなぁ……)
 おそらくまみとしては、人間社会でいうところの一万円くらいのお金をぽーんと駄賃としてあげたつもりなのではないだろうか。その金銭感覚のズレを修正してあげるべきなのかもしれないが、ここまで手厚く扱われ、さらに高価な鈴までもらっている手前、まみに恥をかかせるようなことを口にすることが出来ない。
(……お店の人たちも居るんだし、いずれ誰かが言ってくれると期待しよう)
 最悪、英理に頼むのも手かもしれない。
「じゃあ、このバスケットも返しにいかなきゃいけないんで、これで失礼します」
 軽く頭を下げ、綿貫邸を後にする。門扉を越えて、さらに百メートルほど歩いたところで、月彦は立ち止まり、ふううと大きく息を吐いた。
 強ばっていた肩から意識的に力を抜く。目の前に詰まれた様々な難題――その難題の一つをクリアするために必要ないくつもの関門の一つに過ぎないが、確実に解決に向かっているという手応えに、月彦は軽い感動を覚えずにはいられない。
(あとはこれを菖蒲さんに渡して、引き替えにレコーダーを返してもらえば……)
 ここのところずっと頭を悩ませ続けた問題が解決するのだ。そうなればもう、何処の誰にあの録音データを聞かれるかもしれないという恐怖に苛まれることもない。
(一つずつ、一つずつ解決していくんだ)
 再び歩き出した月彦の歩みは、それまでよりも若干力強いものになっていた。



 バスケットを由梨子に返すに至って、月彦は一つの事実を見落としていた。否、事実を見落としたというより、考えが足りなかったと言うべきかもしれない。
「これはこれは月彦さま。どうぞお入り下さいまし」
「あ、菖蒲……さん!?」
 白耀邸裏門の呼び鈴を鳴らし、その戸を開けて顔を覗かせた菖蒲の姿に、月彦は凍り付いた。
 そう、今現在の由梨子の住居は真田邸。菖蒲の勤め先も真田邸と一体となっている料亭。そして今朝の由梨子の話から、菖蒲も弁当作りには参加している。ということは、まだ夕方と言えなくもないこの時間帯ならば菖蒲が屋敷に居ても何の不思議もないではないか。
「あぁ、いや……別に白耀に用があって来たわけじゃないんだ。俺はただ、このバスケットを返しに来ただけで……」
 菖蒲にバスケットを押しつけるようにして渡し、月彦はそそくさとその場を立ち去ろうとする――が。
「月彦さま」
 ぐっ、と。紙袋を手にしていない方の手が菖蒲に掴まれる。
「こちらは、今朝方由梨子さまが用意なさっていたお弁当の入れ物……でございますね。……実は僭越ながら、わたくしもお手伝いさせていただいたのですが」
「あぁ……由梨ちゃんから聞いたよ。確か……ベーグルを焼いてくれたんだよね。すごく美味しかったよ」
「喜んでいただけて嬉しゅうございます。……その、月彦さま?」
 ぐいと引かれ、無理矢理呼び止められたような体勢から、相対する形へと強引に移行させられる。
「な、何……? 菖蒲さん」
「……その、わたくしはもう本日の勤めは終了しておりまして……後は帰るだけなのですが……」
 もじもじと、照れるように身をよじりながら、菖蒲は上目遣いで続ける。
「もし差し支えなければ、月彦さまにマンションまで送っていただきたいのですが」
「えええっ!?」
「月彦さまもこれからお帰りになられるのですよね? でしたら、帰る方角は同じではございませんか?」
「確かに……そうだけど……」
「それに……夜道は物騒でございます。……月彦さまと一緒であれば、これほど心強いことはございません」
 それはもう見事なまでに弱々しい、触れただけで膝から崩れ落ちてしまいそうな乙女っぷりだ。
(………………俺よりよっぽど強いくせに……)
 しかし、菖蒲の本性――というより、その実力を知っている月彦はそういった様を見せられれば見せられるほどに逆にしらけたような気持ちでげんなりさせられるのだった。
(…………まあでも、いいか。予定が前倒しになったと思えば)
 遅かれ速かれ、菖蒲の元を尋ねて鈴を渡さねばならなかったのだ。それが今夜ではダメな理由など何処にも無い。強いて言うならば、まみにもらったままの木箱ではなく、別途ラッピングを施してよりプレゼントらしい形にしたかったのだが、それは必須条件ではない。
「…………わかった。一緒に帰ろうか、菖蒲さん」
「ありがとうございます、月彦さま。少しだけ待っていていただけますか? すぐに準備致しますので」
 びゅんと。つむじ風を残して、菖蒲の姿が屋敷の中へと消える。五分と立たず、いつものメイド服姿ではなく茶のコートに身を包んだ菖蒲が息を切らせて戻って来た。
「さぁ、参りましょう、月彦さま」


 出来る事ならば、由梨子に一言今日の顛末と弁当の礼を言いたかったのだが、早く早くと急かす菖蒲に押し切られる形で結局真田邸を後にしてしまった。電車を使わず――菖蒲が徒歩を希望した――歩きでマンションへと向かう道すがら、菖蒲はいやに上機嫌だった。
「…………♪」
 饒舌というわけではない。むしろ菖蒲の方から何かを話しかけてくるわけでもないのだが、その歩く様や腕の振り方などからうきうきとしたものを感じる。そして並んで歩きながら、不意に向けられる意味深な目配せ。菖蒲の意図がわからず、月彦は苦笑しか浮かべられない。
(……随分機嫌良さそうだな。何か良いことでもあったんだろうか)
 或いは今ならレコーダーを返して欲しいと頼めば返してくれるのではないか――そんな気さえするほどに。
「月彦さま」
 道のりも残り1/3ほどになった頃、不意に思い出したように菖蒲が足を止めた。
「少々寄り道をしたいのですが、よろしいですか?」
「寄り道?」
「はい。……その、まことに申し上げにくいのですが」
 菖蒲はやや目を伏せながら、本当に申し訳なさそうに続ける。
「食材の備蓄が心許ないのです。折角月彦さまをお迎えするからには、やはり最大限のもてなしをさせて頂きたいのです」
「いや、別にもてなしだなんて……俺はほんと菖蒲さんをマンションの前まで送ったらそのまま帰るつもりだったしさ」
 ついでに鈴を渡し、レコーダーを代わりに受け取る。完璧な作戦だ。――少なくとも、月彦はそう思っていた。
「それはいけません!」
 が、途端に菖蒲は眉をつり上げ、ずいと摘め寄ってくる。
「夜道を殿方に送って頂いたにもかかわらす、茶も出さずに帰したとあってはわたくしの面目が立ちません!」
「いやほら……そんなに気にしなくていいって。菖蒲さんにはベーグルを作ってもらった恩もあるしさ」
「……月彦さま?」
 ずいと。さらに菖蒲が間合いをつめてくる。
「…………前々からお聞きしたいと思っておりました。…………月彦さまは、わたくしの部屋のどこがお気に召されないのですか?」
「えぇ!? べ、別に……気に入らないところなんて無いけど……」
「でしたら、何故にわたくしの家を避けられるのですか? …………わたくしとしましては、月彦さまにはご自分の部屋よりも気楽に寛ぐことの出来る場所として楽しんで頂きたいと思っております。何かお気に召さない点があるのでしたら、忌憚なくお聞かせくださいまし」
「…………と言われてもなぁ」
 部屋の居心地が悪いのではなく、菖蒲の側が居心地が悪いのだと、遠回しに――そして菖蒲に不愉快な思いをさせずに――伝えるにはどうしたらいいのだろう。
(……実は俺、猫アレルギーなんだ…………とか、今更にも程があるな)
 かといって、下手なことを言えばそれこそ引っ越しをすると言いだしかねない。いつぞやの雪乃の車買い換えの時のように、これ以上負い目を感じるのはこりごりだった。
「…………菖蒲さんってさ、“従者”なのに結構押しが強いところがあるだろ? 強いているならそこが苦手かなぁ」
 うぐ。菖蒲がそんな具合に言葉を詰まらせる。
「そ、それは……月彦さまが………………いえ、確かに仰る通りかもしれません」
 肩を落とし、首を振る。
「月彦さまがわたくしの部屋を避けられるのは、わたくし自信が原因だったのですね」
「…………いや、まぁ…………そこまでイヤってわけじゃないんだけどね」
 レコーダーの件も持ち出すべきか、月彦は悩んだ。今ならば、ああいった高圧的ともとれる取引をさせないよう釘を刺すことが出来るかもしれないからだ。
(…………いやでも、レコーダーを大人しく渡すから、これで“次”からは気兼ねなく来て下さいって流れに持って行かれたら……)
 余計に困る事にはならないか。やはり下手な欲は出さない方が賢明だと、月彦は密かに頷く。
「とりあえず、そういうわけだから――」
「でしたら、尚のことその“誤解”を解いて頂きたく思います」
 月彦の言葉は、菖蒲の強い語気に潰された。
「今宵は誠心誠意、月彦さまのために尽くさせて頂きます。……二度と“押しの強い従者”などと言われぬ様、全身全霊を込めて」
「えっ、えっ……あ、あれ?」
 眼前で首を傾げるようににっこりと笑顔を零す菖蒲の姿とその口上に、月彦は混乱を禁じ得ない。
(…………どうしてそうなる?)
 唖然としている月彦の手を、手袋に包まれた菖蒲の手がそっと握り、そのまま引っ張るように歩き出した。
「そうと決まれば、斯様な場所で立ち話など論外でございます。さあ月彦さま、参りましょう」



 


 結局近所のスーパーで大量の食材を買い込み、二人とも両手に買い物袋を――もちろん“紙袋”も一緒に持っている――持ったまま、菖蒲のマンションの部屋の前までやってきた。
「……月彦さまのお手を煩わせてしまい、まことに申し訳ございません。……このお詫びは、わたくしの身をもって償わせていただきます」
 鍵を開け、部屋の中へと入り、リビングのテーブルの上に買い物袋を置くや、菖蒲は深々と頭を下げてくる。
「あぁ……いや、気にしなくていいよ。荷物を持つのは男として当然の事だから………………そうそう、実は今日は菖蒲さんに――」
 こうなったらさっさと“用件”を済ませて帰ろう――そんな思いから、月彦は紙袋から“木箱”を取り出そうとする。――その手が、そっと菖蒲の手に抑えられる形で止められる。
「月彦さま、わたくしは夕飯の支度がございますから、ひとまずあちらの居間にて寛がれてくださいまし」
「えっ、えっ……いや、ちょ……あ、菖蒲さん!?」
 ぐいぐいと背中を押される形で、月彦はリビングから追い出され、居間へと押し込まれる。そして菖蒲に肩を押さえつけられる形でソファへと座らされ、木箱を渡す間もなく菖蒲はコートを脱ぐと――下にはメイド服を着たままだった――リビングの方へと戻っていった。
「……いつのまにか……完全に晩飯を食う流れになってないか」
 最初は、茶を飲むだけの筈ではなかったか。――否、そもそも食材の買い出しの時点で晩飯への流れは示唆されてはいたのだが。
(…………“押し”が強くないことを証明したいんじゃなかったのか)
 押しの弱さの証明どころか、強さの証明しかされていない。目眩すら覚えて、月彦は目元を抑えるようにしてうなだれる。
(…………まずいな。この流れは非常にまずい)
 一事が万事菖蒲のペースではないか。そういえば前回もこんな感じで結局お泊まりすることになったのではなかったか。
(…………同じ轍は踏むべきじゃない)
 流され続けるのは良くない。確固たる意思で、やるべきことをやるべきだ。
 一念発起して、月彦は立ち上がる。紙袋から木箱を取り出し、リビングへ。
「菖蒲さん、話がある」
「……月彦さま?」
 菖蒲はちょうど流し前でジャガイモの皮を剥いているところだった。手には包丁が握られているが、臆してなどいられない。
 月彦は胸を張って歩き、どんとリビングのテーブルの上に木箱を置き、紐をはらりと解いて蓋を開ける。
「まぁ……」
 一瞬、室内が光に包まれたような錯覚を月彦は覚える。そういえば初めてまみに鈴を見せてもらったのは、薄暗い地下室の白熱電球の下だった。こうして蛍光灯の明かりの下で見る鈴は金色に輝き、それ自体が光を放っているようにすら見える。
「約束の鈴、だ。知人からもらったもので悪いんだけど、俺は結構いい鈴だと思うんだ。……これなら“交換”してもらえるかな?」
 菖蒲は包丁を置き、手を洗ってタオルで拭いてからテーブルのほうへと歩み寄ってくる。
「これは……もしや、“村正鈴”でございますか?」
「え……知ってるの?」
「はい。それはもう……わたくしどもの間では有名でございますから……あの、触ってもよろしゅうございますか?」
 月彦は頷く。心なしか菖蒲の声は震えているようだった。
「……月彦さまがどのような鈴を選ばれるのか、大変楽しみにしておりましたが……」
 菖蒲はまるで極めて殻の薄い卵でも触るような神妙な手つきで、鈴を手に取り、手のひらの上へと乗せる。
「まさか村正鈴を持ってきて頂けるとは夢にも思っておりませんでした」
 菖蒲は手のひらの上に載せた鈴を目線の高さまで掲げ、ほう、とため息にも似た吐息を漏らす。その目はうっとりと潤み、さながら一流の美術品を眺めるコレクターのそれのようだった。
「まだわたくしが春菜さまにお仕えしていた頃、一度だけ村正鈴を見せて頂いたことがございますが……この輝き、さすがと言わざるを得ません」
「………そんなにすごい鈴なの?」
 ギョッとするように、菖蒲が目を剥く。
「まさか、月彦さま……村正鈴の価値をご存じないのですか?」
 月彦は素直に頷いた。
「わたくしどもの故郷では、この鈴一つで城が建つと言われておりました。その音色ですら、金子(きんす)と同等の価値があるとも」
「し、城が建つって……鈴一つで!?」
「村正鈴には等級がございまして、特等、一等、二等、三等と別れてございます。城が建つほどの価値があるのは一等以上で、春菜さまが所持されていたのも一等村正でございました。ですが、一等に関しては数も少なく、現存するものは五指にも満たないと言われております。特等村正に関しては春菜さまですら所在が解らないと仰っておられました」
 菖蒲は指先で鈴をつまみ上げると、小さく振った。リンッ――冷たくも儚い音が、室内に響く。同時に、菖蒲はホッと安堵の息を漏らす。
「この鈴は恐らく二等村正……もしくは極めて質の良い三等だと思われます。一等品には劣るとはいえ、金子を山のように詰んででも欲しがる者は、升で掬える米の数よりも多く居ることでしょう」
「に、二等品でも……そんなにするの?」
「もちろん鈴の価値を知っている者にとっては、でございますが。…………月彦さまを疑うのは大変心苦しいのでございますが、本当に頂いたものなのでございますか?」
 菖蒲の目は「まさか盗品では?」――と物語っていた。しかしそれは盗んだことを責める目ではなく、価値を知らずに盗んでしまったのであれば本当に大変なことになりかねないと心配している目だった。
「だ、大丈夫……もらったっていうのは本当だから……そこだけは安心してもらっていい」
「左様でございますか……。相手が月彦さまでなければ、到底信じられない話でございます。……まさか、その相手というのは春菜さまでは……」
 春菜の名を呟くや、菖蒲はたちまち青ざめ、顔から色を無くす。月彦は慌てて否定した。
「ち、違う! 春菜さんじゃないよ。…………誰かは教えられないけど、とにかく菖蒲さんが心配するような相手じゃないから、そこだけは安心してもらっていい」
 菖蒲が妖狸を嫌っているのは以前聞いた。ここでまみからのもらい物だとバラすのは問題をややこしくするだけだ。
「……しっかし、そんなに高い鈴だったんだな。あまりにも気前良くポンってくれるから、そんなに価値があるとは思わなかったよ」
 月彦は心の中でまみに謝罪していた。そんなにも高い鈴であるのに、バッタモンだのうさんくさいだの――口には出していないが――けなしてしまった為だ。
「……で、どうかな。高い鈴だっていうのは解ったけど、菖蒲さんは気に入ってくれたのかな?」
「…………気に入るもなにもございません。月彦さまがわたくしの為に用意して下さった鈴なのですから、仮にどんな安物でも、わたくしの心は満足でございます」
 菖蒲は両手で鈴を握りしめ、胸の前へと寄せながら呟く。
「……………………その割りには、こないだは“あまりにも粗末なものを持ってきたら許さない”みたいな事言ってなかったっけ」
「あ、あれは……」
 菖蒲はハッと、慌てたように顔を赤くする。
「月彦さまが……いつまで経っても約束の鈴を用意して下さらないので……少し意地悪を申し上げたくなっただけでございます。……決して本意では……」
「本当に? 七日の期限を過ぎて俺が鈴を用意しなくても、何もしなかった?」
「それは…………いえ、そのようなことにはならないと、月彦さまを信じておりましたから」
「……………………。」
 “それは”の後がものすごく気にはなったが、月彦はあえて聞き流すことにした。
「ま、まぁ……気に入ってもらえたようでよかったよ。……とにかく、俺は約束を守ったんだから、菖蒲さんも約束を守ってもらえるかな?」
「は、はい……もちろんでございます。ですが……その……」
 菖蒲はちらりと流しの方へと目を向ける。
「…………わかった。じゃあ夕飯の後でいいよ」
 月彦の本音としては、さっさと鈴とレコーダーを交換してそのまま帰りたかった。事実、そのつもりで料理中の菖蒲に割り込みをかけた。
 しかし、さすがにそれは非情すぎる行動ではないかとも思う。思惑がどうあれ、菖蒲は心底自分の手料理を味わって欲しくて料理に勤しんでいるのだろう。それを知ったうえで「んじゃ、用済んだし俺もう帰るわ」というのはさすがにどうかと。
 例えそれがベストの行動だと解ってはいても、行動に起こすことが出来ない。紺崎月彦とはそういう人間だった。


「ごちそうさま。夕飯すっごく美味しかったよ」
「喜んで頂けてわたくしもうれしゅうございます」
「ポットパイ……っていうんだっけ、これ。パイは焼きたてサクサクで、中は濃厚なシチューみたいで、鶏肉も野菜もすっごく良い味出してるし、菖蒲さんってホント料理上手だね」
「もう少し時間を頂ければ、もっと良い料理もお出し出来たのですが……」
「いやいや、十分だって。昼飯もかなり豪華だったし、これくらいで丁度よかったよ。ごちそうさま」
 ポットパイという料理自体は知っていたが、せいぜいカップサイズのものしか口にしたことは無かった。しかし菖蒲が出してきたのはちょっとした鍋焼きうどんほどもあるサイズであり、被さっているパイはもちろんのこと、中のシチューもまるでカレーパンに入っているカレーのようにどろりと濃厚で、それに負けじとチキンや人参、タマネギにマッシュルーム、ジャガイモがひしめいており、食い応えも抜群だった。パイを突き崩し、その香ばしさに鼻を擽られながら、パイ生地をホワイトソースに絡め、スプーンでチキンを一緒に掬って口へと放り込んだ時の味はしばらく忘れられないであろう美味の記憶として脳裏に刻み込まれた。
「…………っと、そろそろ8時、か。あんまり遅くなると母さんが心配するからさ。そろそろ……例のものをもらいたいんだけど」
 いそいそと洗い物を台所へと運んでいる菖蒲の背に、月彦はそれとなーく促してみる。さすがに聞こえないフリは失礼とでも思ったのか、菖蒲が渋々そうに振り返った。
「……もう、帰られるのでございますか?」
「いや、俺ももう少しゆっくりしたいなぁとは思うんだけど……ほら、もう8時だし」
「湯船の支度も調っておりますが」
「そ、それもまたの機会ってことで……」
「左様で、ございますか」
 しゅーんと。見事なまでに猫耳は萎れ尻尾は地についてしまう。
「ああいや! 今日は本当に時間が無いからさ……今度また暇な時にでも、菖蒲さんの手料理ごちそうしてもらいに来るよ」
「……………………。」
 必死のフォローも空振ってしまったらしい。菖蒲はしゅーんと肩を落としたまま、洗い物をシンクに置くやいそいそと居間へと戻っていく。そして押し入れから見覚えのある黒いスティック状のものを取り出し、リビングへと戻ってきた。
 おお、と。思わず感嘆の声を漏らしそうになる。このバトンほどの機械のせいで一体どれほどの時間を無駄にしてしまったのか、考えるだけでも恐ろしい。しかしその悪夢のような日々も漸く終わるのだ。
「ありがとう、菖蒲さん」
 菖蒲の手からレコーダーを受け取ろうと、月彦は右手を伸ばす。が、すんでのところでついと、菖蒲が手を引いた。
「……最後に、一つだけお願いがございます」
「な、何?」
 まさか、今日は泊まっていけとかじゃないよな――月彦がどぎまぎしていると、菖蒲はしゅるりとスカートのポケットからリボンのようなものを取り出した。
「鈴を……月彦さまの手で、結んで頂けますか?」
「なんだ、そんなことか。……わかったよ、菖蒲さん」
 菖蒲の手からリボンを受け取る。菖蒲はそのままリビングの椅子へと腰掛け、ついと尻尾を上げるようにして月彦の方へと差し出してくる。
「ええと、先っぽの方でいいんだよね?」
「はい。よろしくお願い申し上げます」
 月彦は前に鈴が結びつけられていた辺りを思い出し、なるべくその状態を再現するように鈴の輪にリボンを通し、菖蒲の尾の先へと結びつける。
「んっ」
「あっ、強く締めすぎたかな。……もう少し緩めたほうがいい?」
「いえ、リボンが解けてしまわぬ様、もっとキツくお願いします。…………ンッ……」
「こんな感じ……かな」
 さすがにこれ以上は締めすぎだろうというくらい、きつくリボンを結び、月彦は手を離す。菖蒲がリボンの締まり具合を確かめるように、尻尾を軽く振った。
 りんっ……冷たい音が響いた――その刹那だった。
「……っ……!?」
 鈴の割れ目から、何か黒いモヤのようなものが顔を出したと思った時には、それがひゅるりと口の中へ侵入してきたのだ。
「ッ……げほっ……?」
 咄嗟に、“異物”を押しだそうと咳き込む。
 ――が。
「月彦さま!? いかがなさいました?」
「あっ、いや……あれ…………なんだろ、ホコリか何かだったのかな」
 咳き込もうにも、そもそも異物も何も感じない。モヤが見えたのも気のせいだったのか、もしくはただのホコリか何かだったのだろうか。
「…………月彦さま?」
 きょとんと、菖蒲が不安そうに首を傾げる。
「ごめん、なんでもないんだ。……とにかく今日はこれで帰――」
 ドクンッ。
 心臓が大きく跳ねるのを感じる。
「か、え……」
 “何か”が。体の内側から蔓延るのを感じる。どす黒いそれがは自らの体を触手の様に伸ばし、四肢の端々までを支配していく。

 そして月彦の意識は、そこで途切れた。


 どうやらほんの1,2秒ほど気を失っていたらしい。自分の体に奇妙な違和感を感じる――が、不思議と不快には感じなかった。それどころか、清々しくすらある。
(……何だったんだ?)
 首を捻りつつも、自分が今まさに帰ろうとしていたのだという事を思い出し、月彦は玄関口へと向けて歩き出す。「あっ」と声を出したのは菖蒲だ。
「……うん?」
 振り返る。距離にして三歩ほどの場所に立つ菖蒲。その顔は不安げというより寂しげであり、引き留めようと出しかけた手が胸の前で中途半端な形のまま固まっていた。
「…………。」
 そんな菖蒲の姿を見るなり、月彦は得体の知れない感情がわき起こるのを感じる。それは憐憫でも同情でもなく、どちらかといえば憤怒に属する感情だった。菖蒲の姿を見て、何故そのように感じてしまったのか、自分自身でも解らない。
「菖蒲、何か用でもあるのか?」
 驚くほどに攻撃的な口調になってしまった。それだけで、菖蒲はまるで叱責された猫のように耳を伏せ、俄に上体を引いた。
「いえ……」
 戸惑うように目を伏せる。りんっ――そんな音が聞こえたのは、菖蒲の尻尾がざわりと動いたからだ。
 そんな菖蒲の姿を見て、今度は面白いと感じる。
 もう少し、嬲ってやるかと。
「どうした、菖蒲。本当は俺に何かして欲しい事でもあるんじゃないのか?」
「……っ……」
 ハッとしたように、菖蒲が伏せていた目を上げ、視線を月彦の方へと向ける。今なお戸惑いが色濃く残るその瞳には、明らかに期待の光が混じっていた。
「あの……月彦さまは、もしや……」
「もしや、何だ?」
「…………ほ、本当に……わたくしの希望を……聞いて頂けるのでございますか?」
 躊躇い、躊躇い、三度躊躇い、その上で漸く切り出したような、そんな言葉。月彦は己の口が意地の悪い形に歪むのを止められない。
「内容を聞いてみないことには答えようがない。先に頷いてから“願い”を聞く馬鹿がどこにいる」
「あっ……」
 菖蒲が声を震わせ、背筋をピンと伸ばしながら、まるで自らの体を抱きしめるように両腕を抱く。微かだが、その頬は紅潮しているようだった。
「月彦さま……わたくしは…………わたくしは、月彦さま、に……」
「俺に?」
「その……め……愛でて、頂きたい……です」
「抽象的過ぎるな。……愛でるとは、頭でも撫でて欲しいのか?」
「いえ、その……あの……」
 さながら、初恋相手の男子を前にして今から告白しようとしている純情乙女のように、菖蒲は胸の前で意味も無く己の指を突き合わせる。
「月彦さまに……抱いて、いただければ…………と…………」
「つまり、抱きしめて欲しいと。それで菖蒲は満足なんだな?」
「……っっっっ…………こ――」
 菖蒲は大きく首を振り、何もかも諦めたような声で、続ける。
「交尾、を……して、いただきたいのです!」
 かああ――湯気が出そうな程に顔を真っ赤に染め、菖蒲は俯いてしまう。くつくつと、月彦はわざと菖蒲に聞こえるように笑う。
「ああ、なるほど。愛でて欲しいというのは、交尾をして欲しいという事だったのか。……察しが悪くてすまないな、菖蒲」
 もちろん菖蒲には、そんなことは百も承知であえて言わせた事など解っているだろう。しかし、こういった一手間が重要なのだ。
(……そうだ。折角だから……この際きちんと躾直しておくか)
 ただ嬲るだけではつまらない。“主”に対して二度と脅迫じみた要求など出来ぬ様、その体の髄の髄まで刻み込んでやるべきだ。
(そうだ。曲がりなりにも主に逆らうような猫の躾もせずに帰るなんて、俺の頭はどうかしてたんじゃないのか)
 このまま帰るなどとんでもない話だ。後顧の憂いを断つためにも、これは必要な行為なのだ――月彦は全身に得体の知れぬ力が漲るのを感じる。
「……可愛い従者の菖蒲が顔を真っ赤にしてまで希望を言ってくれたんだ、俺としてもその望みは叶えてやりたいが…………」
 “が”の部分がよほど引っかかったのか、ハッとしたように菖蒲が顔を上げる。
「そういえば、あの時……菖蒲は言っていたな。構ってももらえず愛でてももらえない相手では、もはや主とは認められないと」
「そ、それは……言葉の綾でございます……わたくしはあくまで月彦さまのしもべで――」
「それを決めるのはお前じゃない。……俺だ」
 月彦は菖蒲の側へと歩み寄り、その頭の上へと右手を乗せる。頭を撫で――そのまま頬へと撫でつける。
「……白耀はどうなのか知らんが、少なくとも俺は俺の従者があのような態度を取るというのが好きではない」
「ぁっ…………も、申し訳、ございません……もう二度と、出過ぎた真似は――」
「“アレ”は失敗だったな。構って欲しかったのならば、むしろ」
 月彦は頬まで撫でつけた手をさらに下げ、菖蒲の顎を捉えて、クイと。僅かに持ち上げる。
「あのような取引など持ちかけず、自ら届け出てポイントを稼ぐべきだったな。……そうすれば、菖蒲が求めた鈴も、そして“ご褒美”までもがもらえただろうに」
「……月彦、さまの……おっしゃる通りで、ございます………………菖蒲は、菖蒲は本当に至らない従者でございます……ですが――」
「どうした、菖蒲。随分息が荒いじゃないか。顔もまた少し赤くなってきているぞ、熱でもあるのか?」
 顎を捉えていた指を離すと、菖蒲はその濡れた唇から「あぁ……」と失望の声を漏らした。
「つ、月彦、さま……どうか、後生でございます…………お情けを……」
「菖蒲、俺は前に言った筈だぞ。……俺は、俺の従者にしか、情けをかけるつもりはないと」
 ついと、月彦は菖蒲と距離を開ける。ただそれだけで、菖蒲の目に絶望が影を落とす。
「……菖蒲、お前は俺の従者に戻りたいのか?」
「は、はい! お許しが頂けるのであれば、どのような償いでも致します!」
 絶望色の目をした菖蒲の前に、月彦はいたずらに希望をぶら下げ、つり上げる。その心はいつになく邪悪に満ち満ちている。
(……そんなに俺に抱いて欲しいのか。この交尾狂いのメス猫が)
 今すぐ頭を掴んで床に押し倒し、下着をはぎ取って犯してやればさぞかし良い声で鳴くのだろう。むずむずと、そうしてやりたい衝動に駆られるも、月彦はあえて自制する。
 何故なら、“もっと良い案”を思いついたからだ。
「どのような償いでも、か。…………その言葉、決して安くはないぞ、菖蒲」



 
 

「んはぁっ……んぷっ……んんっ……んぁっ……れろっ、れろっ……くぷっ……んんっ…………」
 薄暗い寝室に響く、くぐもった吐息。ぴちゃぴちゃと、堅くそそり立った肉の槍を舐め、しゃぶる水音。
「……前より巧いじゃないか。やはり根が淫乱だと覚えが早いな」
 月彦はベッドに腰掛けたまま、一心不乱に奉仕を続ける菖蒲の頭を撫でてやる。“償い”の第一段階として、まずは口での奉仕を命じたのがかれこれ三十分前のことだ。
「はぷっ……んんっ……はぁはぁ…………つきひこさまぁ…………んんっ……んんっ…………きもひいいへふは?」
「ああ、悪くはない」
「んぷっ……んぷっ……れろっ……うれひい……れふ…………もっほ、きもひよふらっへ……ふらはい……んぷっ、んぷっ……」
 ちゅぱっ、ちゅぷっ。
 れろれろれろっ。
 菖蒲は飽きもせず、奉仕に没頭している。「俺が止めろというまで続けろ」と命じたからなのだろうが、例えそう命じなくても、永遠にでも続けそうなほどに、この口での奉仕という行為そのものが気に入っているように見える。
「ふはぁっ……つきひこさまぁ……」
 そして時折思い出したように口を離しては、うっとりと目を細めながら剛直に頬ずりをする。そのせいで折角の綺麗な顔が自分の涎まみれになってしまっているのだが、当の菖蒲は全く気にしていないようだった。そんな菖蒲を、月彦は不覚にも愛しいと思ってしまう。
(……いかんいかん、この女は本来の恋人である白耀を裏切って、他の男に走るような色情狂のメス猫だ。それにふさわしい扱いをしてやらないと、な)
 そう、月彦にとって菖蒲はあくまで“他人の女”に過ぎない。そんな相手に剛直をしゃぶらせ、頬ずりまでさせている――そのこと自体が、フェラによる快楽よりも数倍月彦を興奮させる。
 それに加えて、妖猫族のザラザラとした舌は刺激的であり、通常のフェラでは得られない快楽に月彦は時折声が出そうになるのを堪えねばならなかった。
「……菖蒲、口でするのは好きか?」
「はい……ちゅっ……れろっ……わたくしの口で、直接月彦さまを喜ばせて差し上げられるのは……んくっ……んふっ、んんっ……らいふひ……れふっ……んっ……」
「……喋る時くらい、口に含むのは止めたらどうだ」
 苦笑混じりに言い、月彦は菖蒲の頭を撫でてやる。言葉の内容とは裏腹に、頭を撫でるのは「それでいい」という月彦の意思表示なのだった。菖蒲の舌が特に感じやすい場所を刺激した時、咥え方が巧いときなど、月彦はそうやって菖蒲に奉仕の仕方を教えていた。
菖蒲もすぐにその法則には気がついたらしく、言葉では咎めてはいてもそれでいいのだと、口に咥えたまま喋るのを止めようとしない。
「……これだけ出来るなら、白耀との“本番”も大丈夫だな」
 ぴたりと、たちまち菖蒲の動きが止まった。まるで、白耀の名を聞いた途端、冷水でも浴びせられたかのように。
「どうした、菖蒲。続けろ」
「は、はい……んっ……んふっ……んふっ……」
「…………随分控えめだな。さっきまではもっと派手に音を立てて吸ってたろ」
 口の端が歪む。白耀の名を出した途端、名うての娼婦が途端に奥手なお嬢様に変化してしまったかのように、菖蒲の動きがぎこちなくなるのが面白くてたまらないのだった。
「ほら、どうした。咥えろ」
「んぁっ……んふっ……んんっ……!」
 菖蒲の前髪を掴み、押しつけるようにして剛直の先端を咥えさせる。菖蒲はしばし戸惑った後、観念したように頭を前後させ始める。
「んふっ、んぷっ、んぷ、んっ、んっ、んっ」
 菖蒲の好きにさせてやると、次第に興が乗ってきたらしく、自発的に剛直に吸い付くようにして頭を振り始める。その目が完全にメスの目になった所を見計らって。
「……菖蒲、一つだけアドバイスをしてやる。白耀との“本番”の時は、もう少ししおらしくしたほうがいいぞ? じゃないと、“他の男”でたっぷり修練を積んだというのがバレてしまうからな」
 意地悪く言うと、忽ち菖蒲はハッとしたように剛直から唇を離してしまった。
「つ、月彦さま……」
「なんだ? 何か言いたい事でもあるのか?」
「その……い、今は……白耀さまの事は……」
「白耀のことは?」
「…………っ…………あの……これが、“罰”なのでございますか……」
 くつくつと、月彦は思わず笑ってしまう。主への無礼な振る舞いが“この程度の罰”で許してもらえると思っている菖蒲が、愚かしさを通り越して可愛くすら見えたのだ。
「そうか。恋人に隠れて他の男に尻を振るようなメス猫にも、一応は罪悪感というものがあるんだな」
「つ、月彦さま……」
 訴えるような目で、菖蒲が見上げてくる。そんな菖蒲の手元に、月彦は先ほど居間から寝室へと移動する際に回収しておいた物を放った。
「いくら機械音痴でも、“それ”の使い方くらいは解るだろう?」
 菖蒲の手へと放ったのは、電話機の子機だった。曲がりなりにも菖蒲の部屋にあったものだ、まさか使い方を知らないとは言わせないぞと、月彦はいつになく冷ややかな目に威圧を込める。
「まずは白耀に電話をかけろ。…………その上で、“仕置き”を開始する」



 
 “その電話”は入浴を終え、久しぶりに居間で本でも読もうかと足を向けかけた瞬間にかかってきた。先に入浴を終えていた由梨子もまた出ようとしていたらしく、廊下の途中に専用の台ごと設置されている電話機の前でかち合うなり白耀は手振りだけで自分が出るからと由梨子を制した。
「もしもし?」
『あっ……白耀さま、ですか?』
 えっ――と、微かな息と共に白耀はつい驚きの声を漏らしてしまった。横目でちらりと、先ほどまで由梨子が立っていた辺りの廊下を見てしまった事には、深い意味はない。単純に、予期せぬ相手からの電話に混乱したのだった。
「菖蒲……か。すまない、少々驚いた……一体どうしたんだ?」
 どこかぎこちない声になってしまうのは、最近菖蒲との仲がギクシャクしがちな為だ。長年連れ添った相手である筈なのに、どうにも距離感が掴みかね、どう接して良いのか戸惑う事が多いのだ。
『このような夜更けに……申し訳……んっ……』
「菖蒲?」
 どうやら、それは菖蒲の方も同じらしい。受話器から聞こえてくる菖蒲の声はいつもとは違い、辿々しいものだった。緊張でもしているのか、随分と受話器に口が近いらしい。はぁはぁと、荒い息づかいまでもが伝わってくる。
『も、申し訳ございません……実は、その……明日の仕込みの件で……どうしてもっ……ご、ご相談したい、事が……』
「明日の仕込み……?」
 菖蒲の言葉に、白耀は微かに落胆する。なんだ、仕事の話か――と、浮ついた心が一気に冷めるのを感じる。
「明日の分なら、全部花板の土方さん達に任せてあるから、君が気にかけることは何も無いだろう?」
『そう、なのですが……んんっ……』
「菖蒲?」
『すみまっ…………せっ……クシャミが…………っっ!!』
 ああ、クシャミかと。白耀は納得する。確かに、受話器ごしに口元を抑えながらも漏れるような声が聞こえたからだ。
『し……失礼、いたしました…………その、仕込みの件なのですが……』
「うん」
『わたくしにも……お手伝いを、させて頂きたいのです』
「君が? 一体全体どういう風の吹き回しで……」
『実は……明日お迎えする芹沢さまっ、にはっ……ぜ、前回………………〜〜〜〜〜っっっっ!』
「菖蒲?」
 またクシャミだろうか。受話器の向こうから、何かを堪えているような、唸りともつかない声が微かに聞こえる。
『…………っ……か、重ね重ね……申し訳ございません……どうやら、鼻風邪を引いてしまったようで……』
「菖蒲、それはいけない。明日の仕込みの手伝いなんかより、むしろ大事をとって明日は休んだ方がいい」
『で、ですが……っ……ゃっ…………ッ! …………っ!! ………………っ!!!』
「心配しなくてもいい。芹沢さまが来て下さるのは明日だけではない。ずっと贔屓にしてくださってる方だから、何か用事があるのならこの先いくらでも機会はあるさ。体調が優れないなら、まずは自分の体の方を大事にした方がいい」
『は、はいぃ…………は、白耀、さまっ、がっ……そう、仰るのならっっ……あ、明日はっ……休み、にっっ…………ッッッッッッッッッッッッッッッ――!!!』
 引きつったような声を上げたと思った瞬間、唐突にブツリと通話が切られた。
「……菖蒲?」
 問いかけても、ツーツーと不通音が聞こえるばかり。
 白耀は首をひねる。一体今の電話は何だったのか。体調が悪いと菖蒲は言っていたが、本当にそうだったのだろうか。否、そもそも本当に仕込みの件について菖蒲は尋ねたかったのだろうか。
「………………。」
 釈然としないものを感じる。気づいたときには、白耀は電話機のリダイヤルボタンを押していた。


「はぁっ、はぁっ……はぁっ…………つ、月彦さま……お戯れも、ほどほどになさってくださいまし…………このようなことを続けては……白耀さまに……バレてしまいます……」
 ベッドに横になったまま、通話の終了した受話器を握りしめながら、菖蒲は息も絶え絶え目尻に涙すら浮かべながら訴えてくる。が、そんな菖蒲を背後から抱きすくめるようにして手を這わせている月彦は悪魔のような笑みを絶やさない。
「確かに、お世辞にも名演技とは言えなかったな。…………アレじゃあ、ひょっとしたら白耀は気づいたかもしれないな」
 くつくつと笑いながら、月彦はベッドの上で菖蒲の体をまさぐり続ける。白耀に電話をかけさせ、ベッドの上へと上がらせた後、通話を強要しつつやれ胸を揉み下着の中に手を入れとやりたい放題やっていたのだった。その悪戯も徐々にエスカレートし、最後には秘裂へと指を埋没させ折り曲げながら猫耳を甘く噛んでやったところで、菖蒲は堪えかねたように通話を終了させてしまった。
「だがな、菖蒲。誰が通話を終わらせていいと言った?」
「で、ですが……こうしないと白耀さまに……」
 菖蒲が泣きそうな声で弁明をしはじめたその時だった。まるで赤子が泣き出すような勢いで、子機が甲高い電子音を響かせ始めたのだ。
 ぎょっとして、菖蒲が液晶画面に浮かんだ番号を見る。その番号から、一体誰がかけてきたのかを悟ったのだろう、その顔色は完全に蒼白となっていた。
「出ろ、菖蒲」
 菖蒲の体を背後から抱きしめながら、猫耳の裏に吐息を吹きかけるようにして囁く。
「ですが……月彦さま……」
「出ないと、余計に怪しまれるぞ。…………大丈夫だ、俺の言う通りにしろ」
「は、はい……」
 菖蒲は戸惑いながらも、通話ボタンを押す。
『もしもし、菖蒲?』
「はい、わたくしでございます。……白耀さま、先ほどは申し訳ありませんでした。……その、電話機の調子も悪い様で……」
『そうだったのか……不自然な切れ方をしたから、ひょっとしたら菖蒲に何かあったんじゃないかと心配だったんだ』
 やや心許ないが、白耀の声は月彦にも聞こえている。そしてその声の調子から、月彦は白耀が疑いを持っている事を悟った。
(……さすがに浮気までは疑ってないだろうが……この感じ、変に拗れさせると厄介だな)
 人の良さそうな顔をしていても、真央と同じ“あの女”の血を引いた男だ。なまじ普通の人間よりも疑り深いと見た方がいい。
(…………そうだな。折角だから……白耀にも少しいい目を見せてやるか)
 何事も独り占めはよくない。普段から何かと世話にもなっていることであるし、ここで一つ“恩返し”をしてやろうと――いつになく邪心に満ちている月彦はほくそ笑んだ。
「菖蒲、適当に話を続けながら……下着を脱げ」
 白耀には絶対に聞かれぬよう、小声で囁くと、菖蒲はハッと驚くように振り返った。
「二度は言わないぞ」
 と、月彦は視線だけで菖蒲に伝える。菖蒲は横になったまま、器用に体を折り曲げ、命じられたままに片手で下着に指をかけ、下ろしていく。やがて白のショーツがスカートの下から露わになり、菖蒲が片足を抜いたところで月彦は手を当ててその動きを制した。
「そのまま、子機をマクラの上に置いて、四つん這いになれ」
 菖蒲は躊躇いつつも、命令通りにする。そうだろうと、月彦はニヤニヤが止まらない。この女は早く抱かれたくてウズウズしているのだ。そんな菖蒲を焦らすように、月彦はスカートをまくし上げ、一端尻尾用の穴から尻尾を抜き、スカートを尾の付け根に引っかけるようにして菖蒲の尻を露わにする。
(……今夜は白のガーターベルトか……ヤラしいな)
 メイド服の濃紺と対照的な白に、余計にそそるものを感じる。月彦はちらりと、白々しい会話を続けている菖蒲を見下ろし、両手をその白い尻へと宛がい、円を描くようにもみ始める。
「ぁっ……つ、月彦さま……
 菖蒲が受話器に手を当てながら、小声で言う。それは電話中なのにそんな所を触らないで――というよりは、そんな事よりも早く“欲しい”というような、非難を含んだ声だった。
 ならば、その望みのままにしてやろうと――既に月彦は脱衣を終えている――先ほどたっぷりとしゃぶらせて唾液にヌラついている剛直を、物欲しげに涎すら垂らしている秘裂へと宛がい、ゆっくりと埋めていく。
「あくっ……あっ、つ、月彦、さまっ……あぁぁぁッ!!」
「おいおい菖蒲、もっと声を抑えないと……受話器を手で押さえても白耀に聞こえちまうぞ?」
「で、ですがっ…………ひぅぅっ……あぐっ……くっ……つ、月彦さまの、に……押し広げられて……はにゃぁぁぁぁぁ……」
 ぐっ、ぐっと剛直を埋めていくにつれて、菖蒲は全身から力が抜けてしまったかのようにぐたぁとベッドに伏せてしまう。ベッドに肘を突きながらも、必死に両手で受話器を押さえているのは最後の理性のなせる技なのだろう。
(……さて、そろそろ仕上げだな)
 よほど男に飢えていたのだろう。まるで肉襞全体が歓喜の歌でも奏でるように、ヒクヒクと絡みついてくるのを舌なめずりをしながら味わいながら、月彦は菖蒲に覆い被さり、その耳の裏へと唇を寄せる。
「菖蒲、白耀をデートに誘え」
 そして、囁きかける。
「えっ……で、でも……月彦さま…………あんっ!」
 反論は許さんとばかりに、月彦は軽く菖蒲の奥を小突く。
「いいか、白耀はお前の声の不審さを疑ってる。……だから、デートに誘え。……不自然だったのは、デートの誘いを切り出せなかったからなのだと、白耀に思わせろ」
 そのままぐり、ぐりと子宮口を押すように先端で刺激すると、菖蒲は全身を震わせながら声を上げる。
「っっっ……んぅぅぅぅ……わ、わかり……ました…………つ、月彦さまの……仰る通りに…………で、ですから……あ、あまり……」
「ああ、解った」
 ニヤリと笑い、月彦は腰の動きを止める。ホッと安堵の息を吐いて、菖蒲が受話器から手をどけた。
「白耀さま…………その…………実は、大変申し上げにくいことなのですが――」
 菖蒲が訥々と語り始める。実は先ほどは言い出せなかったが、本当は別の用事で電話をしたのだと。
(よくもまぁ、こんな白々しい声が出せるものだ)
 と、月彦は感心すらする。“他の男”に抱かれ、こうして子宮口に肉槍を突きつけられながら、平然と“恋人”にデートの申し込みをしているのだから。
 女というのは、なんと恐ろしい生き物なのだろうか。
「…………それで、もしよろしければ…………は、白耀さまと…………で、デートを……」
 しかし、さすがに“本題”を切り出すのは躊躇うのか、菖蒲の声がいつになく小さく、心細いものになる。子機を手にしたまま、ちらりと不安そうな顔で月彦の方を振り返ったのも――或いは演技なのかもしれないが――月彦的にはポイントが高かった。
『えっ……菖蒲……今、なんて……』
 子機から漏れる白耀の声は戸惑い、耳を疑っているように聞こえた。それはそうだろうと、月彦は思う。疎遠になってしまったと思っていた女からの、突然のデートの申し込み。疑いつつも、信じたいというのが男の性というものだ。
「ええと……その……は、白耀さまのお休みの日に……わたくしを、その……っ……」
 むぎゅっ。
 むぎゅっ、むぎゅっ。
 ほんの悪戯のつもりで、月彦はエプロンドレスの上から、菖蒲の両乳を揉みしだく。さらに、もどかしいとばかりに前をはだけさせ、ブラをはぎ取り、両手で直接に揉みこねる。やりたい放題にされながら、菖蒲が困ったように月彦の方を振り返りつつ、言葉を続ける。
「は、白耀さまとっ……二人きりで……っっっっっ――!」
 胸をもぎゅもぎゅと揉みながら、さらに腰を使う。菖蒲が慌てて口を押さえる。構わず、二度、三度と月彦は腰を使い、浮気猫の肉襞の感触を堪能する。
(……うねってやがる)
 菖蒲もまた、この状況に興奮しているのだろうか。肉襞がいつになく蠢き、剛直に絡みついてくるのを感じる。
つ、月彦さまっ……いけませんっ……今はっ…………あぁぁっ…………!」
 掠れた声で、菖蒲が悲鳴を上げる。くつくつと笑いながら、月彦は一端動きを止め、受話器から聞こえてくる白耀の言葉へと耳を傾ける。
『ま、待ってくれ! 菖蒲! …………その先は、男である僕に言わせてくれ。………………どうか、僕とデートをして欲しい。休みの日に、なんて言わない。いつでも、君の好きな日でいい。どんなお得意様の予約が入っている日でも構わない。君のために、僕は必ずその日は空ける』
「ぁっ……は、白耀、さま……っっっっ!!」
 白耀の言葉に、思わず感極まったような声を上げる菖蒲の腰を掴み、自分の方に引き寄せるようにして月彦は乱暴に突き上げる。ぱんっ、ぱんと尻を打つ音が、あわや拾われやしないかと内心胸を弾ませながら、このギリギリの快楽を楽しむかのように。
『……そうか、そういうことだったんだな。やっと解ったよ……さっきの電話は、それを言い出せなくて……あんなに不自然だったんだな。…………すまない、本当は僕のほうが君をリードしてあげなくてはならないのに』
「は……はくっ……ンンッ………………んんっ、んんっっ………………!!!」
 返事をしようとする菖蒲の腰を引き寄せ、ガン突きに突きまくる。菖蒲はもう白耀への返事を諦め、両手で受話器を押さえ、とにかくこちらの音と声が漏れぬようにしていた。
「あっ、あっ、あっ、あっ、あっ……あぁぁっ、あぁあっ、ああっ! あぁぁぁぁっ!!」
 髪を振り乱すように頭を振り、舌を突き出すように声を荒げる。完全に快楽に狂ったメス猫の喘ぎ声に、犯している月彦のほうも興奮をかきたてられる。
「……良い声だ、菖蒲。…………褒美に、中にたっぷりと出してやる」
 被さり、囁いてやると、「あぁぁぁ……」と、菖蒲は目を潤ませながら笑顔を零した。電話の子機からは依然白耀の反省めいた言葉が続いていたが、もはや全く耳には入っていないらしい。



「あっ、あっ、あっ! アッ、アッ、アッ、アッ! あぁっ、アァァッ……アァァッ……あーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーッ!!!!」
 ビクッ。
 ビクビクビクッ!
 菖蒲の体が、激しく痙攣する。それに合わせて、月彦は菖蒲の中へと剛直を深く尽き入れ、ギュッと背後から抱きしめるようにして、自らも達する。
「あひぃぃぃぃぃッ!!」
 どぷ、どぷと白濁汁を流し込んでやると、菖蒲は涎が縺れたような声で喘ぐ。尻を震わせながら、膣肉全体で剛直を搾るように締め付けながら、全身を痙攣させ、イく。
「あッ! あッ! あッ!」
 さらに射精を続ける。熱い白濁汁が子宮口へと注がれる度に、菖蒲は大きく体を跳ねさせ、声を荒げる。
「ふにゃぁぁぁぁ…………」
 そして漸く射精が終わるや、脱力するように伏せってしまった。
『――本当にすまなかった。菖蒲……今回の事の償いは、君とのデートの時にさせてもらうつもりだ。行き先や日程については、後日改めて話し合おう』
 ぜえはあ、ぜえはあと二人分の獣の息づかいが木霊する室内に、なんとも場違いな男の真剣な声が響く。
「……菖蒲、ほら……少しは白耀に返事をしてやったらどうだ?」
 ぐったりしてしまっている菖蒲の手の下から子機を拾い上げ、菖蒲の口元へと持っていく。絶頂の余韻が凄まじすぎたのか、しばし泥のような目をしていた菖蒲が、ハッとしたように体を起こし、子機を顔に当てる。
「い、いえ……白耀さま……こちらこそ、切り出し方が不得手で申し訳ございません…………白耀さまとのデート……楽しみにさせて頂きます……」
 やや舌をもつれさせながらも、菖蒲は普段通りの口調でそう取り繕った。
『……今日は電話をありがとう、菖蒲。……もし君さえ良かったら、これからもこうしてかけてくれると嬉しい。…………仕事場で顔を合わせるとはいえ、周りに一目があっては出来ない話も――』
「あ、あの……白耀さま……大変申し訳ないのですが……実は、体調が優れないというのは嘘ではなくて……」
 白耀の話をぶった切るようなタイミングで、菖蒲が切り出す。おやおやと、月彦は思わざるをえない。
『えっ……そ、そうだったのか……すまない。じゃあ、今日はもう休んだほうがいいな……おやすみ、菖蒲。明日は有給にしておくから、ゆっくり体を休めてくれ』
「はい……白耀さまもお体を大事にされてください。……おやすみなさいまし」
 菖蒲が通話ボタンに手をかけ、ちらりと月彦の方を振り返る。了承を求めているのだとすぐに察して、月彦は軽く頷くや、菖蒲はすぐにボタンを押した。
「……いやに強引に話を終わらせたじゃないか」
「そ、それは……あんっ……んふっ……んんっ……」
 指を2本。中指と薬指を菖蒲の口へと差し込み、しゃぶらせながら、さらに月彦は囁きかける。
「……“他の男”に抱かれながら白耀と話をするのは興奮しただろう?」
「んっ……んんっ!」
 菖蒲が否定するように首を振る。嘘をつけ、と言わんばかりに月彦は萎えしらずの剛直で、ドロドロの白濁にまみれた菖蒲の中を小突く。
「ンッ、ンンン!」
「その割りには、菖蒲のイキ方がいつもより凄かったけどな。そもそも、最初に下着の中に指を入れた時からもうドロドロのぐちょぐちょだったぞ?」
「んぁっ……そ、それは……月彦さまに……ご奉仕をしていたからで……ンンッ!」
「……まぁいい。ともかくこれで“仕置き”は終わりだ。……もしまた俺に逆らうような真似をしたら…………わかってるな?」
 ぬろりと、涎にまみれた指を引き抜く――半ば強引に咥えさせていたというのに、指を引き抜く際にはまるで惜しむように菖蒲は唇をすぼめて指をしゃぶってきた。
「んっ……ぁ…………で、では…………わたくしを……月彦さまの従者に戻していただけるのでございますか……?」
「あぁ、そうだな。……もし菖蒲がそれを望むのなら、俺の従者として、たっぷりと愛でてやる」
 意味深に、菖蒲の腹部へと手を這わし、撫でつける。ああぁ、と。菖蒲が感極まったような声で鳴いた。
「嬉しゅうございます…………菖蒲は……菖蒲はもっと、月彦さまに愛でて頂きたいです……」
「従者に戻してやった途端それか。……色狂いの欲張り猫め」
 冗談交じりの口調で呟きながら、月彦は体を起こす。
「望み通り、イき過ぎて気が狂うまで愛でてやる」



 
 

 ベッドの上で、後背位のまま二度、三度と抱き、四度目はベッドから出て壁に手を突かせ、背後から犯した。その辺りでメイド服を脱がし終え、白のガーターベルトのみの姿にしたところで、再びベッドの上へと戻った。
「月彦さま、月彦さま……ちゅっ……ちゅっ………」
 菖蒲は月彦の上に跨がり、淫らに腰をくねらせ時折被さってきては、顔中にキスの雨を降らせてくる。
「んぁっ……んっ……月彦さまぁっ……月彦さまぁっ…………」
 それは時にはキスではなく、ただ顔を舐めるだけのものだったが、月彦はあえて文句も言わず、菖蒲の好きにさせた。
「っ……いい、ぞ……菖蒲……前より、さらに巧くなった……」
 正確には、文句を言うだけのゆとりが無いのだった。それほどに菖蒲の腰使いは巧みで、気を抜けば即座に射精させられそうなほどに、肉襞全体で剛直を扱きあげてくるのだ。
「嬉しゅうございます……菖蒲は……きちんと月彦さまにご奉仕出来ているのでございますね…………んんっ……あぁぁっ……!」
 濡れた目を細めながら、菖蒲が心底嬉しそうに笑う。尾をくねらせ、先につけられた鈴がリンと鳴る。
「はぁぁ…………んっぁ……月彦さま、の……堅くて、逞しい……あんっ……太くてぇぇ……はぁぁん……」
 上体を後方へと反らし、腰をくいくいと前後させながら、菖蒲は悶え続ける。
「ああんっ、あぁぁあん!」
 そうしてひとしきり体を後方に反らしたまま動いた後は、再び被さるように体を前へと倒し、両手をベッドに突きながら腰をくねらせる。
「月彦さまっ、月彦さまっ」
 月彦も菖蒲の太ももを撫でるようにさすり、その付け根を押さえつけながら、軽く突き上げてやる。
「あンッ! つ、月彦さまぁっ……だめ、です……今、月彦さまに動かれては……あんっ、あんっ、あんっ!」
「従者のくせに主に指図か? 菖蒲。……俺は動きたいときに動く」
「あぅっ、くふぅ……も、申し訳、ございません……ですが……そのようにされると……菖蒲は……菖蒲はもう…………」
「まだだ、勝手にイくなよ。……もし勝手にイッたりしたら、今夜はここで終わりだ」
「あぁぁっ……そんなっ……ンッ! む、無理……で、ございます…………月彦さま、のが……良すぎ、て……あふっ……ぅんっ……ンンッ!!!」
「こら、菖蒲。勝手に腰を浮かそうとするんじゃない」
 そういうところは真央と一緒だな――内心苦笑しながら、月彦は菖蒲の両足の付け根を掴み、腰を上げさせまいとする。
「ひぅぅっ……はぁっ……はぁっ…………お、奥に……月彦さまのが、奥にグリグリって、当たってますぅ…………あぁぁぁっ……どうか、堪忍してくださいまし……菖蒲は、菖蒲はもう、本当に耐えられそうにっ……ぅン!」
「さて、どうするかな。…………そんなに俺の“許し”が欲しいのか?」
「は、はい! 主である月彦さまよりも、先にイッてしまう、ふしだらな従者の菖蒲に……どうか、お許しを……」
「ダメだ、許さん」
 希望をちらつかせておいて、月彦は笑みすら浮かべながら菖蒲の懇願を却下する。
「つ、月彦さまぁ…………」
「ほらほら、どうした菖蒲。俺は止めると言ったら本当に止めるからな? ちゃんと我慢しないと、今日はこれでおしまいだぞ」
 きし、きしとベッドを軋ませながら、月彦は菖蒲の腰を掴み、突き上げていく。
「アッ、アッ、アッ……アッ! つ、月彦、さまっ……本当に、本当に、もう…………後生で、ございます……お、お許しを…………」
 菖蒲は自分の腰を固定している月彦の手首を掴みながら、イヤイヤをするように首を振る。髪を振り乱しながらも声を荒げ、その声は徐々に甲高く、艶やかになる。
 密かに、月彦もまた己の快感を高めるべく、スパートをかけていく。必然的に、菖蒲の声はさらに感極まったものへと変化していく。
「あっ、あうっ……アゥゥッ……だ、だめっ……つ、月彦さま……申し訳、ございません……菖蒲は、菖蒲はもう………………い、イき、ます……イッ……イッて……しまいまッッ………………イクッ……イクッゥゥゥッ!!!」
 そして等々限界を迎えた菖蒲は叫ぶように言い、ビクンと体を反らし、痙攣するように震わせる。
「ッ……くっ…………」
 のたうつように激しく絶頂を迎えている菖蒲の中に、特濃の子種を吐き出し、注ぎ込む。単純な射精による快楽もさることながら、“人の女”を犯し、その体内に己の精液を注入するというその行為そのものに、月彦は激しい興奮を覚えていた。それは菖蒲とのセックスでしか得ることの出来ない、貴重な牡としての満足感だった。
「……菖蒲、勝手にイッたな?」
「ぁっ……ぁっ……も、申し訳……ござい、ません……」
 絶頂の余韻が凄まじく、息もまともに吸えないらしい菖蒲が辿々しく謝罪の言葉を口にする。
 くすりと、月彦は笑い、菖蒲の腕を引いて体を倒させ、抱きしめてやる。
「菖蒲、今回だけだ。今回だけは許してやる…………次は無いと思え?」
「ぇ…………ほ、本当でッ――ンンッ……」
 驚くように顔を上げた菖蒲の唇を奪い、そのまま舌を絡め合う。
「……最初から俺に許してもらうことを期待せずに、本気で我慢しようとしていたからな。……必死にイくのを我慢していた菖蒲はなかなか可愛かったぞ?」
「ぁ……つ、月彦さまぁぁ……」
 今度は、菖蒲の方から唇を重ねてきた。れろり、れろりと舌が絡み出す。
「んぁっ、んむっ……ぁむ…………」
 くちゅ、にちゅ、にちゅっ……舌と舌とを絡ませながら、同時に菖蒲の中で剛直を動かし、マーキングを行う。さらに右手は菖蒲の背骨に沿って南下し、尾の付け根を捉え、優しく扱く。
「ンンンッ!!!」
 菖蒲が喉奥で噎ぶが、キスを中断はさせない。そのままたっぷり十分以上もかけて、月彦は菖蒲という他人の彼女を征服したのだという余韻を楽しんだ。



「はぁーっ…………はぁーっ…………月彦さまぁっ……もっと、もっと菖蒲を愛でてくださいましぃ…………あぁあぁあんっ♪」
「やれやれ……本当に欲張りな従者だな」
 これで一体何度目だろうか。四つん這いになり、誘うように尾をくねらせ、催促でもしているようにりんりんと鈴を鳴らす菖蒲の腰を掴み、引き寄せるようにして剛直を突き入れていく。
「あはぁぁぁぁあっ…………月彦さまぁっ……菖蒲は、月彦さまにこうして貫かれる瞬間が好きですっ……月彦さまの逞しくて太い肉の槍で貫かれて、その形を刻み込まれるのがッ……ンァァッ!!」
「なるほど、こうやってナカを広げられるのが好きなのか、菖蒲は」
「は、はひぃぃっ……つ、月彦さま、の……堅すぎ、ですぅ…………菖蒲のナカ……ぐいぐい広げられて、歪められて、完全に月彦さまの形にされちゃってますぅ…………」
「でも、そうされるのが好きなんだろう?」
「はいっ……菖蒲は……心も、体も……全部月彦さまのモノでっ……あぁんっ!」
 月彦は被さり、菖蒲の両乳を揉みしだきながら、ぐりぐりと特に菖蒲が弱い場所を刺激する。
「…………なかなか可愛い事を言うじゃないか、菖蒲。……だんだんお前に褒美をやりたくなってきたぞ」
「ほ、褒美……で、ございますか?」
「ああ、そうだ。……こういうのはどうだ?」
 囁くや否や、月彦は菖蒲の猫耳をはむっと咥え、そしてギリッ……と軽く噛んだ。
「あッ」
 “それ”を全く予期していなかったのか。菖蒲は弾かれたように声を出した瞬間、息を詰まらせ、そして。
「アァァーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーッ!!!!!!!」
 甲高く声を上げ、忽ちイッた。
「……軽く噛んだだけでイッたのか。……本当に菖蒲は耳を噛まれるのが好きだな」
「はぁっ……はぁっ……つ、月彦さまぁ……ふ、不意打ちは……なさらないでくださいまし…………あ、危うく、気を失ってしまうところで、……っっっひぃッ!?」
 菖蒲の言葉を最後まで聞かずに、月彦ははむっ、と再度耳をくわえ込む――が、噛みはせずに、まるで絶頂に備えるように体を硬直させている菖蒲を嬲るように、れろり、れろりと舐め回す。
「つ、月彦さまぁ……」
 忽ち、菖蒲は息を乱し、はぁはぁとケダモノのように荒げる。
「は、早く……」
「それは催促か? 菖蒲」
「い、いえ……ですが……あぁぁ……」
 またしても、はむっ、と甘く唇だけで噛むだけで済ますと、菖蒲が失望したような声を出す。焦れったげに腰をくねらせ、肉襞までもが焦れるように剛直に絡みついてくる。
(おおおっ……コレはいいな)
 イくときのギュウううウッ、という締め付けも決して悪くないが、このぬちゃにちゃと舐めしゃぶるように肉襞が絡みついてくるのも思わず腰が浮きそうになるほどに気持ちが良く、月彦はすっかり気に入ってしまった。
「はぁっ……はぁっ………………月彦、さまっ…………後生で、ございます…………どうか………………な、嬲らないで、くださいまし……」
 褒美をくれるのではなかったのか――菖蒲の声は、暗にそう言っていた。なるほど、菖蒲の言い分ももっともだと、月彦は心の中で頷く。
 ぎりっ、と。それまで唇のみで噛んでいた耳を、やや強く、歯で押すように――噛む。
「あッッ………………あーーーーーーーーーーっ〜〜〜〜〜〜〜〜〜ッッッッ!!!!!!」
 ビクビクビクッ!
 ビクッ!
 ビクゥッ!!
 菖蒲がその体を大きく震わせ、イく。その体をギュッと抱きしめ、菖蒲の絶頂を全身で感じ取りながら――剛直に絡みつく肉襞の締まりに嘆息を漏らしながら――月彦はさらに、二度、三度と菖蒲の耳に歯を立てていく。
「あヒぁッ……ひぁうッ! あヒッ……あハァァァァッ!!!」
 ビクッ、ビクッ!――菖蒲は立て続けに襲ってくる絶頂の波に不自然に体を震わせながら、声にならない悲鳴を上げ続ける。
「……菖蒲、凄いな。熱い蜜が洪水みたいに溢れてきてるぞ?」
 まるで由梨ちゃんみたいだ――心の内で呟きながら、月彦は結合部から大量の恥蜜が溢れるように吹き出すのを感じ取っていた。
「はぁっ……はぁっ……はぁっ…………ンッ……あぁっ、あぁああっ、あぁんっ!!」
 息も絶え絶えに、ぐったりと上体を伏せてしまっている菖蒲から離れ、月彦は体を起こすや、ぱんっ、ぱんと尻肉が波打つほどに強く、剛直を打ち込んでいく。
「はひっ、あぁあっ……月彦、さまっ……あぁん! あぁっ!」
「菖蒲、さっさと体を起こせ。…………次は、ナカに出す時に一緒に噛んでやる」
「っ……! …………は、はいっ…………これで、よろしいですか? ……あんっ! あん!」
 まるで、缶詰を開ける音を聞いた猫のように、菖蒲は忽ち体を起こし――とはいえ、両腕に力が入らないのか、手は伸ばさずに肘をついた状態だが――尻尾を右に左に揺らしながら甘い声を上げる。
「あぁっ、あぁ! あぁっ、あんっ! あんっ! 月彦さまぁ……月彦さまぁっ……!」
 菖蒲はやはり、体位の中でも後背位が最も好きらしい。耳を噛まなくとも、その反応の良さは他の体位に比べて頭一つ抜けていた。
(……尤も、次に出す時は耳を噛みながらしてやる、って言ってやったからなのかもしれんが)
 “期待”によって、感度がいくらでも変化することは、真央とのそれでいやという程に学んでいる。菖蒲もまた、その瞬間を待ちわびるように喜悦の声を上げ続ける。
「……っ……いい、ぞ……菖蒲。…………そろそろ、だ」
「あっ、アッ……アァッ……! つ、月彦、さまぁ……ンンッ! ぁあっ! はぁはぁはぁっ……わたくしも、もうっっ…………ッ……!」
 菖蒲は自ら尻を押しつけるようにして、“奥”への射精をせがんでくる。月彦は再びその体に被さり、菖蒲の望み通り深く、深く挿入してやる。
「菖蒲っ……!」
「つきひこ、さまっ……ァァァアアアッ!!!!」
 ギュウウッ――その体を抱きしめながら、月彦は菖蒲の耳に強く歯を立ててやる。同時に、びゅぐり、びゅぐりと白濁汁を注ぎ込んでいく。
「アァーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーッッッッッッ!!!!!」
 菖蒲のそれは、まさに絶叫だった。鋭く尖った爪でベッドシーツを引き裂きながら、全身を激しく痙攣させながら、何度も何度ものたうつようにイき続ける。そんな菖蒲が愛しくすら思えて、月彦もまたいつになく射精が続くのを感じていた。
「ふにゃぁぁぁあ…………」
 永遠に続くかと思った程に凄まじい絶頂の波も、次第に落ち着き、やがては凪となる。菖蒲は蕩けるような声を出しながら、ぐったりと全身から力を抜いた。
「……菖蒲、満足したか?」
 互いに荒々しい呼吸を整えること数分、囁くように言ってやると、菖蒲は僅かに首を上下させた。
「…………そうか。……だが、悪いな。……俺はまだ、満足していない」
 ぐぐんと。中に収まったままの剛直を力強く反り返させると、忽ち菖蒲は――なんとも嬉しそうな――悲鳴を上げた。



「あんっ! あん! あンッ! ああああぁぁ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜っっっ!!!」
 菖蒲が背を反らせ、イく。たわわな乳房はそうして背を反らせる度にたゆんと首の方へと揺れ、ピンク色の先端はますます堅く尖る。その先端へと、月彦は唇をつけ、ちううと吸い上げる。
「アはぁあっ……つ、月彦さまぁ…………もう、堪忍してくださいましぃ…………ンンンッ!! あぁっ……あぁぁっ!!」
 生意気にも主に意見をする従者を懲らしめるべく、月彦は咥えた先端部へぎりりと歯を立てる。菖蒲は悲痛めいた声を漏らすが、しかしそれは決して痛みだけによるものではなかった。
「堪忍しろだと? 菖蒲、まさか本気で言っているわけじゃないよな?」
 先端から唇を離し、代わりに唾液に濡れたその場所を周りの白い果肉ごと力任せにこね回しながら、月彦は菖蒲の顔を見下ろす。
 瞳が濡れている――どころではない。何度も何度もイかせ、鳴かせ、或いは失神させたこともあったかもしれない。その両目は涙に濡れ、悲痛な声を聞けばいかにも本気で制止を懇願しているように見えなくも無い。
 くすりと、微笑を一つ。月彦は乳房を揉んでいた右手を菖蒲の頬に当て、親指だけを口の中へと入れ、引っかけるように無理矢理口の端をつり上げさせる。
「蕩けきったアヘ顔をしているクセに、堪忍しろも何も無いもんだ。…………“まだ全然足りません、もっとしてください”という風にしか聞こえないぞ?」
「ふぁっ……ふ、ふみまへっ…………ぁぁぁッ!!」
「……いい顔だ、菖蒲。ますます気に入ったぞ…………もっともっとイかせて、完全なメス顔にしてやる」
 親指を引き抜き、代わりに唇を重ねる。重ねながら、さらに腰を使う。
「ンひぃっ……んんっ……んふっ……ンンッ……ンンッ…………!!」
 ぬちょぬちょと舌を絡め合いながら、まるでその動きと連動するように腰をくねらせ、肉槍で菖蒲の中をかき回す。
(……それみたことか)
 と思ったのは、菖蒲が積極的に舌を絡めてきたことだった。本当に限界であり、心底制止をせがんでいるのならば、こんな舌使いはしない筈だ。そう、こんな――さらなる愛撫をねだるような、ねっとりとした舌使いは。
「んんっ……んはっ、んんっ……んんっ……んんっ……!」
 それどころか、菖蒲は自ら両手を月彦の背へと回し、肩に指を引っかけるようにしてしがみつきながら、腰までくねらせてくる。これにはさすがの月彦も脱帽だった。
(……あれだけイかせてやったのに、まだ足りないのか)
 この淫乱猫がッ!――そんな罵声を込めるように、荒々しく舌を使い、ぐりぐりと菖蒲の中を抉るように剛直で蹂躙する。
「ンンンッ!! ンンーーーーーーーーーーーーーーーーッ!!!! ッ………………ッ! …………………………ッッッ!!!」
 月彦に唇をふさがれたまま、菖蒲が体を跳ねさせ、イく。月彦はキスを中断し、いっそう蕩けてしまった菖蒲の顔を見下ろしながら、両手でゆっくりと乳房を揉みしだく。
「あぁぁぁっ……月彦、さまぁ……」
 トロリとした目で月彦を見上げながら、菖蒲は舌がもつれたような声で呟く。
「もっと……もっと……愛でてくださいまし…………菖蒲は、月彦さまに……もっと…………」
「……本音が出たな、菖蒲」
 くつくつと、月彦は笑いがこみ上げるのを止められない。同時にわき上がる、興奮。“人の女”が自分に組み敷かれながら、メス顔でよがり狂っている――男として興奮するなという方が無理な話だった。
 口の端が歪む。この淫乱メス猫従者を、トコトンまで落としてやろうという気になる。
「…………菖蒲、そろそろ白耀のことななんかどうでも良くなってきたんじゃないか?」
 菖蒲の頬に手を当て、溢れた涙の後を拭うように撫でながら、月彦はまるで悪魔のように囁いた。
 たちまち、菖蒲はトロけきっていた目を見開き、月彦から視線を逸らすように斜め下へと向ける。くすりと、微笑を一つ零して、月彦はずんと強く、菖蒲の中を小突き上げる。
「ぅんっ! あっ、あんっ……ンッ……」
「おや、どうした……菖蒲。急にしおらしくなったな……早く質問に答えないと、続きをしてやらないぞ?」
「つ、月彦さま……その、話は……ンッ……ぅ……ゥン!」
「どうした、答えられないのか?」
 先ほどまでとは打って変わって、声を上げることすら恥じらうような菖蒲の変貌が面白くてたまらず、月彦は嬉々としてその体を嬲り始める。乳をこね回しては、先端を強くつねり上げ、さらに菖蒲を俯せにさせては背後から激しく突き上げ、イかないギリギリのところまで声を上げさせる。
「菖蒲、良いことを聞かせてやろう」
 “後ろ”からひとしきり突いた後で、月彦は猫耳に囁きかける。
「良いこと……で、ございますか……?」
「ああ。……俺はな、菖蒲の返事次第じゃ、お前に俺の子を産ませてやってもいいと考えている」
 えっ――そんな、掠れたような声。くつくつと、月彦は性悪狐のように笑う。
「それくらい、俺は菖蒲の体が気に入ったってことだ。もちろん、子はあくまで菖蒲が望むのなら、の話だがな」
「月彦さまのお子を……わ、わたくしが…………」
 菖蒲の目が、再び潤む。それは快楽や期待というよりは、“感動”に近い潤み方だった。
「ああ、そうだ。……妖猫にも、発情期があるのだろう? その時が来たと菖蒲が教えてくれれば、特濃の子種をたっぷりと注ぎ込んで確実に孕ませてやる」
 “その時”の事を菖蒲に想像させるように、月彦は意味深に菖蒲の腹部をなで回す。
「ぁっ…………ぁっ…………そん、な…………そのような、事を言われたら…………わたくしは…………ぁぁぁ……」
 はぁはぁと息を乱しながら、菖蒲は混乱するように首を振る。
「但し、さっきも言ったように、孕ませてやるかどうかは菖蒲の返事次第だけどな。……言っておくが、俺は二心あるような従者に、俺の子を授けてやるほどお人好しではないぞ?」
「わたくしの……返事……」
 菖蒲の息はいつになく荒い。興奮、そして期待と罪の意識――様々なものがない交ぜに混ざり合い、鬩ぎ合っているのだろう。その視線は一つ所に留まること無く揺蕩い続け、ゴクリ、ゴクリと何度もつばを飲む音が響く。
「……菖蒲も、当然発情期くらいは経験しているだろう? 男が欲しくて欲しくて堪らなくなった時があるだろう? そうなったら、即座に俺が抱いてやると言っているんだ。発情期で全身敏感になってしまっている菖蒲の体をたっぷりと愛でてやる。白目を剥いて失神するまでイかせまくってやるぞ」
「ぁっ……や、止めて、下さいまし……つ、月彦さま…………そのような、誘惑、は……」
 菖蒲はかぶりをふり、パフンと猫耳を閉じてしまう。構わず、月彦は続ける。
「知ってるぞ? 発情期に中出しされると、普段の何倍も気持ちいいんだろう? それを味わわせてやろうと言ってるんだ。菖蒲が望むだけ、何度でも」
 月彦は菖蒲の体の前へと手を回し、再度その腹部をなで回す。
「っ……つ、月彦、さまぁ…………いけませんっ……そんなっ……子供まで、作ってしまっては……本当に、白耀さま、に……」
「……なに、どうとでも誤魔化しようはあるさ。なんなら、白耀の子だということにしてしまえばいい」
「そん、なっ……ンッ……ぁっ……あぁぁっ……!」
 あくまで渋る菖蒲に、月彦の方が焦れ、体を起こし――突き上げる。
「さあ、言え、菖蒲。白耀などどうでも良いと。俺の子が欲しいと言え」
「あっ、アッ! あぁっ、あっ! つ、月彦さまっ……それ、はっ……それだけはっ……あぁぁっ!!」
 腰のくびれを掴まれ、好き放題に突かれながらも、菖蒲は抵抗を続ける。そんな菖蒲の姿に、月彦はますます興奮を高め、剛直を反り返らせる。是が非でも、このメス猫を自分のモノにしてやる、孕ませてやる――そんな決意を表明するかのように。
「ひぃっ……つ、月彦さまのがっ……アァァァァァァァッ!!!!」
 より堅く、より鋭くせり出したエラ部分でごりごりと引っ掻くように刺激してやると、たちまち菖蒲は腰砕けになったように上半身を伏せさせ、泣きそうな声を上げる。
「悪いな、菖蒲。……菖蒲に俺の子を孕ませる事が出来るかもしれないと思ったら、興奮しすぎたようだ」
「はぁっ……はぁっ…………す、すご、い……ですぅ……こんなっ……こんな、に……ぁあっッ! あーーーッ!! あーーーーーッ!!!」
 そのいつになく堅く、反った剛直で、月彦は徐々にスパートをかけていく。
「菖蒲、俺はいつまでもは待たないぞ。子が欲しければ、俺が出すまでに答えろ」
「ひっ……ま、待って、くださいましっ…………ま、まだっ……あぁっ! あっ、あっあっ、あっぁっ、あっアッ! アッ! アッ! アッ!!」
「待たない。……さあ言え、菖蒲。……白耀のことなどどうでもいいと!」
「アッ! アッ! アッ! あぁぁぁぁっ!!! い、言いますっ…………言います、からぁっ…………はぁはぁはぁっ……菖蒲は、菖蒲は、月彦さまのお子が、欲しいです! は、白耀さまの、こと…………は、……ど、どうでもッッッッ――あっ、あーーーーーーーーーーーーーーーーーッッッ!!!!!!」
 コンマ一秒の差で、先に菖蒲がイく。絶頂にうねる膣内に、月彦は最後の一滴まで搾り尽くすように、白濁汁を注ぎ込んでいく。
(……おっと、忘れるところだった)
 射精を繰り返しながら、月彦はぎゅうと菖蒲の体を抱きしめ、そしてその猫耳に鼻先をすりつけるように顔を寄せ――。
「あヒッッ!? あッアァァーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーッッッ!!!!!」
 ぎりっ、と歯を立ててやる。菖蒲は目を白黒させながら、さらにイき、ボロボロになってしまったベッドシーツを引きちぎりながら、全身を痙攣させる。
「ふーっ…………ふーっ…………とうとう言ったな、菖蒲。さすがに俺も興奮したぞ……菖蒲が本当に、身も心も俺のモノになったって事にな。……約束通り、菖蒲に発情期が来たらすぐにやってきて、孕むまで中出ししてやる」
 呼吸を整え、先ほ噛みついた猫耳をいたわるように舐めながら囁いてやる。菖蒲もまた激しく息を乱しており、返事こそなかったが、代わりにとでもいうように二人の体で押しつぶされたようになってしまっている尻尾がモゾモゾと、いつになく活発にうごめいていた。


 ちゅぱっ、ちゅぷっ……ちゅっ……。
 寝室内に響く水音。月彦はベッドに腰掛け、自分の足の間に座り込み、奉仕を続けている従者の頭を優しく撫でていた。
(……なんだ、もう夜が明けてたのか)
 久しぶりに、時間を忘れてヤり続けてしまった。さすがに今夜はもう寝よう、という段になったところで、菖蒲が最後にどうしてもとせがんできて、このような形になってしまったのだった。
「んぷっ……んんっ……月彦、さまぁっ……♪ んっ、んっ…………月彦さまっ、月彦さまっ♪」
 菖蒲は時折竿部分を手でしごきあげながら、頬ずりをしながら、何度も何度も執拗なまでに舌を這わせてくる。お掃除フェラといえばお掃除フェラなのだろうが、それは剛直を綺麗にする為というよりは、“主従の証の儀式”というような意味合いの行為だった。
「……随分嬉しそうだな、菖蒲。……そんなに“良かった”のか?」
 あまりに嬉しそうな菖蒲の舐め方に、月彦はついそんな質問を投げかけてしまう。
「はいっ♪……菖蒲は、今日ほど月彦さまのしもべにして頂いた事を嬉しく思った日はございません……たくさん愛でて頂いたお礼に、精一杯ご奉仕させていただきます……んっ……ちゅっ♪」
「……やれやれ。俺よりも“それ”の方を主人と仰ぎたそうな顔だな」
 自分の分身に嫉妬するというのも妙な話で、月彦は苦笑混じりに言う。無論冗談なのだが、菖蒲にはそう聞こえなかったのか、忽ち恐れ入ったように唇を離し、手もはしてしまった。
「も、申し訳ございません……月彦さま……もし、お気に障ったのでしたら――」
「冗談だ、気にするな。菖蒲……それより」
「はい?」
「……とりあえずベッドに上がれ、寝るぞ」
 添い寝をしろと、月彦は言外に含める。菖蒲は忽ち笑顔を零し「にゃんっ♪」とふざけるように鳴きながら、ベッドの上へと飛び上がってくる。そんな菖蒲を抱き枕代わりに抱きしめながら、月彦は瞼を閉じる。
「……そうだ、菖蒲。言い忘れていた」
 鼻先を菖蒲の髪の中に埋め、甘酸っぱい牝の体臭に酔いしれながら、月彦は言葉を続ける。
「白耀とのデートの事だがな、キスまではしていいぞ」
 えっ、と。菖蒲が戸惑うように声を上げて、くるりと体の向きを変えて月彦の顔を見上げるように見据えてくる。
「あれはあれで良い奴だからな。それに、俺と菖蒲を引き合わせてくれたのも白耀だ。少しくらいはいい目を見せてやっても罰は当たらないだろう?」
「ですが……あの……本当に、よろしいのでございますか?」
「俺がキスまでは良いと言っている。……いや、むしろ菖蒲、お前の方からそこまでは仕向けろ。奥手の白耀に任せていたら、キス一つするのに何百年かかるか解らないからな」
 本来ならば、シャワーを浴びてベッドメイクをやり直してから寝るのが一番なのだろう。しかし極限に近い疲労はあらゆる些事を煩わしく思わせるものだ。月彦はそのまま菖蒲と身を寄せ、掛け布団を被る。
「いいな、菖蒲。次のデートで、お前の方からリードをして、キスまでもっていくんだ。万が一、白耀が“その先”をしようとしたら、その時は遠慮無く突っぱねろ。いいな?」
 抱きしめ髪を撫でてやりながら言い含めると、菖蒲ははいと大きく頷いた。
「全て、月彦さまの仰せの通りに致します。…………わたくしは、月彦さまのしもべでございますから」


 昼まで寝て、月彦は唐突に目を覚ました。むくりと体を起こし、すやすやと心地よさそうに添い寝をしている菖蒲を見る。ギュッと抱き込まれている腕を強引に抜いて、ベッドから出、寝室のカーテンを開けた。
「うっ」
 朝日――どころではない。もはや真っ昼間の日差しを浴びるなり、月彦はかつてないほどの脱力感を覚えて、その場に膝を突いた。
 何かが。
 体に巣くっていたモノが抜け出ていくのを感じる。同時に目眩を覚え――月彦の意識は、またしても途切れた。
 ………………。
 …………。
 ……。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 ……。
 …………。
 ………………。
「……あれ?」
 月彦が“正気”に戻った時、まずは自分が全裸である事に驚いた。次に、部屋。そこは自室ではなく菖蒲の寝室であり、まさかと思って振り返ると――。
「……月彦さま?」
 全裸の菖蒲がベッドから身を起こし、目を擦り擦りしている姿が目に入る。
「…………。」
 二度目は悲劇。三度目は喜劇というが、月彦はもう叫び声も出せなかった。


 順番にシャワーを浴び、着替えた後、月彦はリビングの食卓を囲んでいる椅子の一つに座っていた。シンクの方へと視線を向ければ、鼻歌交じりに調理をしているメイド服姿の菖蒲が目に入る。いつになく機嫌は良さそうで、動く度に尻尾がくねくねと蠢き、リンリンと楽しげに鈴の音を響かせている。
(…………一体、何がどうなってんだ……?)
 自分は、間違いなく帰るつもりだった。取引が終わり、これ以上長居をしてまたぞろろくでもない事になる前に帰宅しようとしていた。
 であるのに、これは一体全体どういう事なのだろうか。
「お待たせいたしました、月彦さま。どうぞ、お召し上がりくださいまし」
「あぁ……ありがとう、菖蒲さん」
 目の前に大皿が――薄焼き卵の膜に包まれたオムライスが置かれる。卵の表面にはケチャップで大きくハートが描かれており、月彦は半ば無意識的に添えられているスプーンを手にとり、食事を始める。
「……うん、美味しいよ、菖蒲さん」
 中に包まれているのはチキンライスらしい。塩加減といい、中に混じっている鶏肉やタマネギ、グリーンピースなどの火加減もほどよく、絶品の一言だった。
「……あれ、菖蒲さんは食べないの?」
 菖蒲もまた対面席へと座り、自分用のオムライスが目の前に置かれているのだが――月彦のものよりも一回り小さく、ハートもない――菖蒲はそれには一切手をつけず、変わりにいやに熱の入った視線を向けてくるのだった。
「……申し訳ございません。……つい、月彦さまのお姿に魅入ってしまって……」
 熱量すら感じる視線にいい加減日焼けしそうになった頃、菖蒲はやっとスプーンを手にとった。
「…………あの、さ。菖蒲さん」
 一足先に食事を終えた月彦は、ずっと蟠っていた疑問を口にしてみることにした。
「昨夜……さ。ひょっとして……俺に何かした?」
 この質問は、月彦にとって非常に勇気の要るものだった。昨夜の出来事について、全く覚えていないわけではなかった。むしろ、自分が菖蒲にしてしまった事、言ってしまったこと、その殆どは覚えていると言っていい。しかし、その殆どが――全てと言ってもいい――到底、正気の沙汰とは思えないような言動だったのだ。
 菖蒲はきょとんと、目を丸くしていた。
「まさか、月彦さま……昨夜のこと……覚えておられないのですか?」
「いや……覚えてるんだけど……」
 そう、覚えてはいる。覚えてはいるのだが、その行動を自分が自発的にやったとはどうしても信じられないのだ。言い換えれば、何かに操られていたのでではないかとすら疑っていた。
「……ほ、ほら……前の時みたいに……春菜さんのロウソクみたいなのを使ったとか、さ……」
 遠回しな言い方になってしまうのは、菖蒲が無実の可能性も大いにあるからだった。それに――月彦は認めたくは無いが――誰のせいでもなく完全に100%自分の欲望が暴走しただけの結果という可能性もありうるだけに、その語気はなんとも弱々しかった。
「……月彦さま……わたくしを、そのような目で見ておられたのですね……」
 食べかけのオムライスの脇にスプーンを置くや、菖蒲は忽ち両手で顔面を覆い、よよよと泣き始める。
「い、いやっ! 違う! なんか……昨夜の俺って変だったろ? 自分で思い出してもすっげーヤな奴だったと思うんだ! だから、ひょっとしたら何か変な薬でも口にしたんじゃないかなーって思ってさ」
「とんでもございません!」
 顔を手で覆っていた菖蒲が、突然ばむとテーブルに手をついて――どうやらただの泣き真似だったらしく、涙の一筋もこぼれてはいなかった――菖蒲が身を乗り出すようにして言葉を続ける。
「昨夜の月彦さまこそが、本当の月彦さまなのでございます! 少なくともわたくしはそう確信しております!」
「それは違う! あんなのは断じて俺じゃない! 俺は――!」
 第一、と。月彦の言葉は菖蒲の言葉に切られた。
「月彦さま、お忘れですか? そもそもあの鈴を用意なされたのは月彦さまでございます。わたくしが細工など出来る筈がございません」
「鈴……?」
 きょとんと、月彦は目を丸くする。
「ちょっと待って、菖蒲さん。……どうしてそこで鈴が出てくるの?」
「あっ……」
 しまった、という菖蒲の顔。
「い、いえ……どうしてと言われましても……」
「…………菖蒲さん」
 月彦は菖蒲の目を見据える。
「ちゃんと俺の目を見て答えてほしい。……あの鈴のことで何か知ってるの?」
 菖蒲の泣き真似を見て疑いは増し、さらに先ほどの失言で疑惑はほぼ確信へと変わりつつあった。
 見据えられた菖蒲は狼狽え、伏せ目がちに言った。
「…………その……あえて申し上げるようなことでもないと思ったのですが……」
「……俺の事を主だと思ってくれてるなら、知ってることを全部話して欲しい」
 やはり、“何か”原因があったのか――月彦は目眩を感じながらも、菖蒲を見据え続ける。
「……ですが、その……」
 よほど言いにくいことなのか、菖蒲はもごもごと口ごもる。
「大丈夫、怒ったりしないから、教えて」
「……はい。…………実は、昨夜月彦さまに頂いた鈴なのですが」
 やはり、鈴なのか――月彦もまた朧気ながら覚えていた。鈴の中から黒いモヤのようなものがあふれ出て、それから具合がおかしくなってしまった事を。
「わたくしも半信半疑だったのですが…………恐らく、この鈴は村正鈴ではございません」
「村正鈴じゃない……?」
「はい。昨夜ご説明しました通り、村正鈴というものは三等品であっても、とても値の張る代物でございます。それ故にニセモノも多く、中には“外道村正”と呼ばれる極めて質の低い品もあるのでございます」
「外道村正……」
「外道と呼ばれたのは理由がございまして、悪質な偽物の中には長く暗所に置いておくとその中に邪気を溜め込む性質のものがあるのでございます。鈴の大きさが大きさですから、邪気が溜まると申しましてもたかが知れたものなのですが……運悪くその邪気を吸い込んだりしてしまうと……」
「してしまうと……?」
「…………非常に攻撃的な性格に豹変してしまったりする場合がある……という話を、以前桜舜院さまから……」
「………………。」
「……申し訳ございません。最初に鈴を見せて頂いたときに、もしや……とは思ったのですが……」
 それを口にしてしまっては、鈴をくれたという“主の友人”の名誉を損なってしまうから言えなかった――菖蒲は口ごもりながらそう付け加えた。
「あっ、でも……“邪気”はごく少量でございますから……全身に陽光をきちんと浴びれば、後遺症などは……」
「……なるほど、そういうことだったのか。合点がいったよ」
 鈴から吸ってしまった、黒いモヤ。そして先ほど陽光を浴びるなり感じた脱力感。菖蒲の話は、事実と合致している。
(…………“鈴をくれた人”の名誉に傷がつくから、言い出せなかったっていうのも……一応筋は通ってる、か)
 いろいろと得心のいかないものは感じるが、かといって菖蒲を責めることも出来ない。もちろん、善意で鈴をくれたのであろうまみを責めるというのも筋違いだろう。
「……えと、菖蒲さん。その邪気っていうのがよくわからないんだけど……ひょっとして、この先また同じようなことが起きたりするの?」
 だとしたら、とても菖蒲の手にはゆだねてはおけない。なんとしても回収し、まみに正直に話して返品するしかない。
「暗所に置かなければ大丈夫でございます。心配でしたら、確か……年に一度、塩水に浸した後、さらに水洗いをしてからお日様にあてて渇かせば、邪気除けになると聞いた事がございます」
「……つまり、昨夜みたいなことはもう二度と起きない……そう思っていいの?」
「はい。……あっ、でも……もし月彦さまがお望みでしたら……」
「いや、望んでない! 望んでないから!」
 うっとりと、目を潤ませながら細める菖蒲に、月彦は大慌てで否定する。
「と、とにかく……昨日俺が言ったことは全部撤回! 無しってことで!」
「全部……で、ございますか?」
 菖蒲が、この世の終わりが来たような顔をする。そして、意味深にエプロンドレスの上から己の腹部を撫でさする。
「お子を頂けるという話もでございますか?」
「うぐ」
 そうだ、と言おうものなら、忽ち泣き崩れそうな――そんな切迫感すら感じる、菖蒲の目。
「そ、その件については……ぜ、善処……する。とりあえず……保留、ってことで」
「では……白耀さまとのデートの件については……」
「それは……そっちは問題ない。むしろ、しっかり楽しんできてくれ」
「はいっ」
 菖蒲は大きく頷き、屈託の無い笑顔を零す。
「では、何も変更はないという事でございますね」
「えっ、いや……………………まぁ、それでいっか」
 考えてもみれば、白耀とデートをさせるという事自体はそう悪い話でもない。そのまま菖蒲と白耀の仲が発展してくれれば、それこそ元鞘ではないか。
(……子供については……何とか忘れてくれることを祈ろう。最悪、こっちが避妊していれば妊娠には至らない筈だ)
 うむりと、月彦は頷く。白耀に電話をした件についても、デートの誘いということで巧くごまかせていた筈であるし、これはこれで事態は好転したと言えなくもないのではないか。
「あの、月彦さま?」
「な、なに? 菖蒲さん」
 気づくと、またしても熱量たっぷりの視線を菖蒲に向けられていて、月彦は正面を直視出来ない。
「その……昨夜の電話で、わたくしは体調を崩して本日のお勤めを休む手はずになっております。…………月彦さまは、この後どうなさるおつもりなのですか?」
「この後……とりあえず、家に電話、かなぁ」
「では、その後はいかがですか? もし、月彦さまさえよろしければ……」
「よ、よろしければ?」
「その……あの…………昨夜のように、愛でて頂けると………………」
 顔を朱に染め、もじもじと身をよじりながら言う菖蒲の姿は何とも可愛らしい。――が、月彦は残像が残るほどの速度で即座に首を振った。
「ご、ゴメン菖蒲さん! そうしたいのは山々だけど、今日はもう予定が入ってるんだ!」
「……左様で、ございますか…………」
 しゅーんと、菖蒲が猫耳を萎れさせる。そのあまりの落胆っぷりに、月彦は胸に痛みすら覚える。
(……昨日の夜、あんなにいっぱいシたのに……)
 行為に対する“飢え”は、雪乃以上――或いは、真央クラスかもしれないと。月彦は戦慄するのだった。


 家に電話を入れ、菖蒲が洗って渇かしてくれた昨夜着ていた洋服へと着替え、さあ帰ろうという段になって、月彦ははたと思い出した。
「そーだ、レコーダー!」
「…………?」
「ほら、菖蒲さんが拾った“キカイの棒”だよ! 危うく忘れるところだった! 鈴を結んであげたら、くれるって約束だったろ!?」
 ああ、と菖蒲も声を上げ、ぽむと手袋つきの手を叩く。
「直ちにお持ちいたします」
 そしていそいそと寝室へと引き返し、玄関マットの上に立つ月彦の元へと戻ってくる。
「わたくしもすっかり失念しておりました。本当に申し訳ございません」
 どうぞお受け取りくださいと、菖蒲が両手のひらに乗せてレコーダーを差し出してくる。今度という今度こそ、月彦はレコーダーを確かに受け取った。
「ありがとう、菖蒲さん。…………うん、何度見ても間違いない、これだ」
「……もしまた、何かを落とされたり、なくされたりされましたら、すぐにお知らせくださいまし。わたくしの命に代えても探し出してご覧にいれます」
「…………そんな事態にはならないようにしたいところだけど、その時は頼りにしてるよ。……じゃあね、菖蒲さん」
「はい、またのご来訪、心よりお待ち申し上げます」
 深々と辞儀をする菖蒲に見送られて、月彦は菖蒲の部屋を後にする。
「……やった! やったぞ! やった!」
 そしてドアを閉めるなり、思わず快哉を上げる。二度、三度と飛び上がるように跳ねながら、うきうきとマンションのエレベーターホールへと移動し、一階へと移動する。
「ああちくしょう、マジで嬉しいなぁ……くそ、こんにゃろめ! お前のせいでどれだけ苦労したと思ってんだ! このやろっ、このやろっ!」
 うれしさの余り、テンション爆上の月彦は独り言を呟きながら、こいつめ、こいつめとレコーダーをこづき回す。
 ピッ、となにやら不審な音が聞こえたのはその時だった。
「あ、やべっ……何かスイッチが入っちまった……止めるのはどれだ……?」
 うっかり“再生”でもされてはたまらない。月彦は慌ててレコーダーを止めようとして、はたと。その液晶画面に浮かんだ文字を見て、凍り付いた。
 液晶画面にはこう映し出されていた。

 “NO MEMORY”



「菖蒲さあああああああああああああああん!!」
 どんどんどん!
 下手をすれば不審者として、近隣の住人に通報されかねない勢いで、月彦はインターホンを連打し、ドアを叩く。
「つ、月彦さま!?」
 慌てたように菖蒲がドアを開ける。一度は去った主が戻ってきてくれたことが嬉しいのか、その顔はニヤけ顔を必死に引き締めようとしているような微妙なものであるのだが、当の月彦はそんな事には構ってはいられない。
「これ! これなんだけど! 菖蒲さん、何か弄らなかった!?」
「弄る……と、申されますと……?」
「これの中に、こう……さらにちっちゃな棒みたいなのが入ってたと思うんだけど、菖蒲さんがそれを抜いたんじゃないの?」
「いいえ、月彦さま。わたくしは……間違いなく、拾った時のまま月彦さまにお渡しいたしました。そのような細工など、桜舜院さまに誓ってしておりません」
「……そっか。解った……菖蒲さんを信じるよ。ごめん、疑って……それじゃ!」
「あっ、月彦さま!」
 追いすがる菖蒲の手を振り切り、月彦はダッシュで階段を駆け下りる。エレベーターなどまだるっこしいものに乗ってはいられない。
(どういうことだ……一体どうなってる!)
 レコーダーなど、買ったことはない。ましてや取り扱い説明書など読んだ事もないが、使い方くらいは解る。何より、以前矢紗美との会話で、このレコーダーはメモリースティックが無ければその機能が果たせないということを聞いている。
 NO MEMORY――つまり、このレコーダーにはメモリースティックが入っていない。菖蒲の拾ったままの状態から一切弄っていないという話が本当ならば、それは一体どういう事になるのか。
 推測はいくつか立つが、大きく二つに分けられる。
 まず、このレコーダーが正真正銘矢紗美のものである場合と、矢紗美のものではないという場合だ。
 後者の場合、メモリースティックが入っていないことは何の問題もない。たまたま同じ機種を持っている者がたまたま教室を訪れ、紛らわしいタイミングで落とし、それを菖蒲が拾っただけなのだろう。単純に、また1からレコーダー探しをしなければいけないだけだ。
 問題は前者の場合だ。これはさらにいくつかの可能性に分類される。
 このレコーダーが正真正銘矢紗美のものであった場合、中にメモリースティックが入っていないというのはどういった原因が考えられるか。
 一つ。菖蒲はああ言ったが、実は隠れてメモリースティックを抜いている。もしくは知らないうちに偶然的な動作によりメモリースティックが抜け落ち、行方不明となっている。
 二つ。矢紗美が落とした時点では間違いなくメモリースティックは入っていたが、何者かが一度レコーダーを拾い、メモリースティックだけを抜いて持ち去り、そのあとで菖蒲が拾った。
 三つ。メモリースティックは矢紗美の手によって抜かれ、空のレコーダーだけが落とされていた。
 四つ。そもそもメモリースティックは最初から刺さっておらず、あの録音行為自体、矢紗美の狂言であった。
 四つの可能性のうち、月彦は真っ先に一つめの可能性を打ち消した。これに関しては菖蒲を信用するしかないのだが、昨夜の菖蒲の姿を思い出すに、主である自分に隠し事をしているとは思えなかったのだ。そして偶発的にメモリースティックが抜け落ちた件についても、さすがに気がつくだろうと。
(残る可能性は……誰かがメモリースティックだけを持ち去った場合と、矢紗美さんが嘘をついている場合か)
 もちろん、このレコーダー自体が他人のものである可能性も消えたわけではない。が、そのことに関してはもはや考えたところで始まらない。
「……本人に直接聞くのが一番だ!」
 月彦は菖蒲のマンションを出るなり、真っ先に公衆電話を捜した。矢紗美のマンションを直接尋ねたい所だったが、留守の可能性もある上、財布の中身的にタクシーはおろかバスに乗れるかすら妖しかったのだ。
 記憶を頼りに、昔からあるタバコ屋の前の公衆電話へとたどり着き、小銭を放り込んで矢紗美の携帯の番号を押す。数回の呼び出し音の後――。
『はぁい、もしも――』
「矢紗美さん! 俺です! レコーダー見つけました! ちょっと話したいことがあるんですけど、今から会えませんか!」
 月彦は機関銃のようにまくし立てた。


 すぐに準備して迎えに行くから、二十分だけその場で待って欲しい――月彦の現在位置を尋ねるなり、矢紗美はそう手短に言って、通話を切った。
 月彦は言われた通りタバコ屋の前まで待ち、そろそろ二十分になるかという頃になって、見慣れた軽自動車が曲がり角の向こうからやってくるのに気がついた。
「矢紗美さん!」
「月彦くん、とりあえず乗って! ここ駐車できないから」
 はい!――月彦は慌てて助手席へと乗り込み、矢紗美も即座に車をスタートさせる。
「ごめんね、待たせちゃって」
「いえ、二十分かかってませんでしたよ。こっちこそすみません、寝てたんじゃないですか?」
「ちょーっとねー……昨日の夜雪乃の家で飲み明かして、自分の部屋に帰ったのが朝の九時くらいだったかしら。でもいいのよ? 紺崎クンからの呼び出しだったら、平日の朝三時とかでも大歓迎なんだから」
「ははは……さすがにそんな時間は……」
「あっ、とりあえず紺崎クン早いところシートベルトつけてね。私も一応婦警だし、何より危ないから」
「あ、はい。すみません」
 慌てて月彦はシートベルトをし、ついでにちらりと運転席の矢紗美の姿を見る。よほど慌てて出て来たのだろう。普段に比べて化粧なども薄く、ウェーブがかった髪には寝癖もちらほらと残っている。普段着らしいピンクのセーターに、下は珍しくスカートではなくジーンズを穿いていた。
(……矢紗美さんって、あんまりズボンとか穿かない印象だったけど……)
 ひょっとしたら、それはセックスアピールの一つだったのではと、月彦はそんな事を思う。
「で、どうしよっか。とりあえず落ち着いて話できる所のがいいよね。私の部屋でいい?」
「矢紗美さんさえ良ければ、俺は全然構わないです」
 矢紗美さえ良ければ――というのは、もし部屋が散らかっていて人を上げたくないとかで無ければ、という意味だったが、それはきちんと矢紗美にも伝わったらしい。
「私は雪乃と違って、部屋を散らかしたりなんかしないから、その辺は安心してて」
 苦笑混じりに言って、矢紗美は軽快にアクセルを踏み込んだ。


 矢紗美の部屋へと入るのはいつぶりだろうか。月彦は記憶を振り返って、“合宿”以来だと気がつく。いつものように掘りごたつへと案内され、さらに矢紗美がホットコーヒーをマグカップに二つ、携えて戻って来て、対面席へと入る。
「おまたせ。…………で、レコーダーが見つかったって本当?」
「はい。これです…………それで、矢紗美さんにいくつか確認したいことがあるんですけど」
 月彦は上着のポケットからレコーダーを取り出す、こたつのテーブルの上へと置く。矢紗美はそれを手にとり、矯めつ眇めつする。
「それ、本当に矢紗美さんのレコーダーですか?」
「…………と、思う。うん……名前書いてたわけじゃないから、絶対に私のとは断言できないけど……少なくとも機種は同じよ。一体どこに落ちてたの?」
「それについては、ちょっと説明すると長くなっちゃうんで聞かないで下さい。俺の机の側、とだけ」
「机の側?…………………………まぁいいわ。それで、聞きたいことっていうのは?」
「それ、メモリースティックが入ってないんです」
 えっ、と。矢紗美が動きを止める。メモリースティックが入っていない――その意味を、敏感に察したらしい。
「どういうこと? 紺崎クンが拾ったんじゃないの?」
「…………正確には、俺の知り合いの人が拾ったんです。だけど、その人はものすごい機械音痴で、その人がメモリースティックを抜いたとは考えられないんです。だから……残る可能性は……」
「……これが私のじゃないか。誰かが中身だけ抜いたか。最初から入ってなかったか……ってところかしら?」
 さすがです、と口にしかけて、月彦は言葉を飲む。さすがにそれを口にするのは不遜だろうと思ったのだ。
「たとえば、私が……最初から中身がカラのレコーダーで、録音するフリだけしてた可能性もある……って、紺崎クンは思ってるわけよね?」
「可能性の一つとして、ですが」
 矢紗美は微笑を漏らし、静かに首を振る。
「悪いけど、メモリースティックは間違いなく入ってた筈よ。部屋を出る前に確認して、わざわざ新品のに差し替えたんだもの。この私が、紺崎クンのアヘ声を録音するチャンスをみすみす逃すと思う?」
「あ、アヘ声なんて出してませんよ! 俺は!」
「ふふふ、どうだったかしら? …………でも確かに、スティックだけ見つからないっていうのは不審ね」
「……俺としては、矢紗美さんが最初からいれてなかったか、もしくはこっそりスティックだけ抜いて落としたフリをしてくれてた、っていうのが、一番嬉しいんですが……」
「もしそうだったら、レコーダー無くしたって、あんなに青い顔になったりしなかったわよ?」
「いえ、矢紗美さんのことですから……演技の可能性が……」
「それに。もし私の手元にあの録音データが残ってたら…………いつまでたっても雪乃と別れてくれない紺崎クンに焦れて、雪乃に聞かせてると思わない?」
「そ、それは…………いえ、俺も努力はしてるんですが…………」
「ホントに? 昨日雪乃にそれとなく探りを入れてみた感じじゃ、そんなことは言ってなかったけど?」
「あぐ…………」
「…………なんてね。本当は約束を破った紺崎クンを責めたいところだけど、あのデータ無くしちゃったのは本当だし、私も強くは出られないところがもどかしいのよね」
 ふう、と矢紗美はため息をつく。
「じゃ、じゃあ……本当に……矢紗美さんはメモリースティックを持ってないんですね?」
「残念だけど、ね。………………それに、紺崎クンはさっき、レコーダーは机の側で拾ったって言ってたけど……それはおかしいのよね」
「えっ……どういうととですか?」
「そんなところには落としてない筈なの。いくら慌ててたって言っても、ちゃんと上着のポケットに入れたのは覚えてるし、教室の堅い床の上に落としたなら、音で気づくと思うのよね」
「で、でも……現に机の側に……」
「……もちろん、教室の中で絶対落としてない……とは断言できないけど、でも多分……落としたとしたら学校から抜け出す時……だと思うのよね。ほらあの時、一階の窓の鍵を開けて、乗り越えて逃げたでしょ? あの時じゃないかなぁ、って」
「……つまり、矢紗美さんはこう言いたいんですね? “何者か”がレコーダーを拾い、恐らくは内容を聞いたうえでメモリースティックだけを抜き取り、何らかの意思を込めて俺の机の側に置いたと」
「しかも、紺崎クンを知ってる誰かが、ね。…………紺崎クンは心当たりはないの? 誰かに脅迫されてたりしない?」
「………………脅迫の心当たり、ですか……」
 強いて言うなら、脅迫の心当たりと聞いて真っ先に浮かぶのは雛森姉妹の顔なのだが、月彦はあえて言わないことにした。
(まさか……アイツが?)
 スティックだけを抜き取るような、悪質な嫌がらせをする相手に、月彦は一人だけ心当たりがあった。あったが、どうにもしっくりこない。
(……アイツだったら、もっとこう……絡んでくるんじゃないだろうか)
 レコーダーを捜して右往左往する自分の前にちらほらと姿を現し、あっちで似たものを見たこっちで持っているやつを見かけたと、言葉巧みに翻弄してくるのではないだろうか。そして探し疲れて精根尽き果て立つ力すら無くなったところで、見せびらかすように目の前に突き出し、そして高笑いを残して走り去っていく――あの女ならば、そういう使い方をするのではないか。
「……わからないです。もしかしたら、これから接触してくるのかもしれませんけど」
「そっか。……………でもさ、案外気楽に構えてても良いんじゃないかしら?」
「気楽?」
「そ。私もさ、アレ落としちゃった時はやっちゃったーってすんごいビビっちゃったりしたんだけどさ。これだけ時間が経って何事も起きないって事は、つまりそういうことなんじゃないかなーって」
「な、何言ってるんですか! あの中には……俺と矢紗美さんの……せ、先生の名前だって出て来てるんですよ!?」
「それはそうなんだけどさ。でも、今更じたばたしたってしょうがないじゃない?」
「俺は……俺はそんな風には考えられません。……もし誰かが何か理由があってあのスティックを抜き取ったんだとしたら、俺はなんとしても取り返したいです」
「気持ちはわかるけどね。私だって、どっかの誰かが私と紺崎クンのセックスをネタにしてオナってたりしたら絶対嫌だもん。でも、はっきり言って処置無し、打つ手無いのよね」
「……俺は、もう少し捜してみます。幸い、そういう方面に強い知り合いも何人か居ますから……最悪、その人達の力を借りるつもりです」
「私としても、見つかるものなら見つかってほしいから、もし何か出来る事があったらすぐに相談してね? 主要幹線道路の封鎖くらいだったら電話一本で出来るし、ある程度犯人が絞り込めたら、適当な容疑でっち上げて家宅捜索って手もあるから」
「……さらっと怖い事を言わないでください。……でも、いよいよとなったらお願いするかもしれません」
「うん、その時はまかせて」
 矢紗美はどんと胸を叩き、大きく頷く。
「……――で、話は変わるけどさ、紺崎クン」
「はい?」
「この後、何か予定あったりする?」
「ええと……」
 矢紗美の言葉の意図するところを敏感に察して、月彦はつい言葉を濁してしまう。そんな月彦を誘うように、掘りごたつの中で矢紗美の足先が、つつつと月彦の足へと這い、絡みついてくる。
「せっかく会ったんだし。……もしヒマなら……ひさしぶりに……ね?」
「ちょっ、や、矢紗美……さん……」
 矢紗美の足先が這うように足を辿ってきて、両足の付け根――股間の辺りを捉える。ズボンの上から、さすっ、さすと擦るように動かされて、月彦はそれだけで下半身を反応させてしまう。
(ううう……昨日、菖蒲さんとあんなにシたのに……)
 反応してしまう自分の体が憎たらしい。同時に、確かに久々に矢紗美の体を味わうのも悪くは無いと思ってしまっている自分がいる。
(……そうだ、昨日のは……アレは俺じゃなかった! だから本当の意味では性欲が解消されてないんだ、そうに決まってる!)
 月彦がそんな事を考えていると、いつの間にか対面の席から矢紗美の姿が消えていた。
「ってうわっ、何してるんですか矢紗美さん!」
 もぞりと、足の間に何かが忍び込むのを感じて、月彦は慌ててこたつ布団をまくり上げる。これ幸いにとばかりに、その隙間から矢紗美がにょきりと姿を現し、抱きついてくる。どうやら掘りごたつを潜ってきたらしい。
「ね……シよ?」
 妖艶に呟かれる、その言葉。月彦の目はもう、矢紗美のうすピンクの唇に釘付けになってしまっていた。
 ごくりと。生唾を飲みながら、月彦は答えた。
「……ゆ、夕方まで、なら……」


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 


 以下おまけ 読みたい方だけどうぞ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 それはなんとも奇妙な光景だった。使用人――桔梗は、主である春菜に命じられた作業を滞りなく終わらせ、ホッと一息をつきながらも、つい首を傾げてしまう。
 眼前には、今の今まで自分が従事していた作業の結果が広がっているのだが、自分でやっておきながらつい眉を寄せてしまう――それほどに見慣れない光景なのだ。
 そもそもの発端は、昨夜。就寝間際に春菜が呟いた一言だった。
「明日は良い天気になりそうだから、鈴の日干しをお願いね」
 春菜はそう言い、やり方が解らないでしょうからと。わざわざ手持ちの和紙にさらさらと作業の手順まで書いて渡してくれたのだった。使用人である桔梗は当然二つ返事で承諾し、作業手順の書かれた紙を受け取った。
 そして今日はその手順通りに朝から蔵へと向かい、しまわれていた大量の鈴を引っ張り出しては、春菜に言われた通り一度塩水に浸した後、真水で丁寧に洗い、ザルの上へと並べていった。円形のザル一つにつき鈴が二十ほど、ザル三つで約六十の鈴が天日の元に並び、心地よさそうに日を浴びているのだった。
 これが鈴ではなく、梅であったならば、思わず唾が沸く光景であったのかもしれない。しかし今現在、桔梗の目の前で干されているのは紛れもない鈴だ。こうして作業を終わらせた後でも、一体全体春菜が何故こんな命令を下したのか桔梗にはまったく理解できなかった。
 とにもかくにも、つつがなく作業を終わらせた事を春菜に報告しようと、桔梗は手を洗った後屋敷の中を練り歩く。濡れ縁のそこかしこで心地よさそうに昼寝をしている猫たちをうっかり踏んでしまわぬよう気をつけながら歩いていると、縁側に座っている春菜の姿が目に入った。
「春菜さま。ご命令通り、鈴を洗って干しておきました」
「ありがとう、桔梗。とっても助かったわ。後は日が暮れる前には蔵の方に戻しておいて頂戴ね」
「畏まりました。………………あの、春菜さま……一つ、伺っても良いでしょうか?」
「何かしら」
「何故、鈴を塩水に浸して干すのですか?」
 あら、と春菜は小首を傾げながら微笑を漏らす。
「……あれは、外道だから。定期的に消毒してお日様に当てないといけないの」
「ゲドウ?」
「外道村正。…………貴方も、村正鈴の事は聞いた事あるでしょう?」
「鈴の銘の一つ……ですよね。良いものになると、鈴一つで城が建つとか」
 春菜は微笑を浮かべたまま、ゆっくりと頷く。
「村正の鈴はとても良い音を出すのだけれど、それを真似て作られた粗悪品もたくさんあるの。“外道”というのは、その粗悪品の中でもタチの悪いものの総称よ」
「そのような粗悪品……捨ててしまったほうが良いのではないですか?」
 桔梗の素直な感想だった。春菜は、使用人のそういった“若さ”故のまっすぐな意見を楽しんでいるように、どこか嬉しそうな微笑を絶やさない。
「どんなものにも、使い道はあるものなの。……そうね、もし貴方にいい人が見つかって嫁入りをすることになったら、その時はお祝いにあの鈴と、その使い道を教えてあげるわね」
 言うなり、春菜は何かを思い出しでもしたのか。袖で口元を隠すようにしながら、くすくすと声を出して笑い出した。
「…………そういえば、随分前に“そういう手”もあるって、あの子に教えた事もあったかしら。まさか本当に実行するとは思わなかったけれど」
 でも、おかげで蔵にしまったままだった鈴の事を思い出した――小声で、春菜はそんな言葉を呟く。
「春菜さま?」
「……昔、今の貴方のように私の側に仕えてくれた子が居たの。引っ込み思案で、自分から殿方を誘うなんてとてもじゃないけど出来なそうな子だったから、いろいろと教えてあげたのだけれど……ふふふ、ちゃんと覚えていてくれたみたいで嬉しいわ」
 春菜が一体誰のことを言っているのか、桔梗には解らない。解らないが、どこか空恐ろしいものを感じた。恐らくは、自分に見えているものと、春菜に見えているものはまったく違うものなのではないか――そう感じる事は、もはや珍しくもなかった。
 “春菜様の耳は地獄耳”――それは妖猫族の子供達の間で流行っている、一種の囃し文句だ。しかしどういうわけか、彼ら彼女らは年を重ねるにつれその言葉を憚るようになるという。そんな妖猫族の大人達の気持ちが、桔梗にもなんとなくわかる気がした。
「……貴方も、あの子とは違った意味で殿方とは縁遠そうね」
 春菜の言葉に、桔梗はどういう言葉も返せず、苦笑するしかなかった。“男”が欲しいという感覚が、どうしても理解できないからだ。
「そうだわ。ねえ、桔梗?」
 春菜が手招きをして、自分の隣へと座るように促してくる。桔梗はやや気後れしつつも、固辞するだけの理由もなく、手招きされるままに春菜の隣へと座った。
「あなた……人間の学校に通ってみる気はない?」
「はっ……え?」
 不遜な返事になってしまったのは、それだけ春菜の話に驚いたからだった。くすりと、春菜は笑う。
「実はね、まみから手紙が来たの」
「まみ……?」
 聞き覚えの無い名前に、桔梗は首を傾げながら、オウム返しに呟いた。
「あら、聞いた事ないかしら? 妖狸のまみ。カムロの娘よ」
「ようり……えっ、妖狸のまみ……“数珠釜”のまみですか!?」
 てっきり、同族の名前だと思い込んでいた桔梗は、またしても素っ頓狂な声を上げて驚いた。カムロの娘のまみと言えば、憎き妖狸の中でも大物中の大物ではないか。
「数珠釜……懐かしい二つ名ね」
「は、春菜さま! 一体全体どういうことですか! 何故、妖狸から文など…………!」
「あら。私がまみと文を交わしているのがそんなに意外かしら?」
 意外どころの話では無いと、桔梗は思った。妖狸といえば、妖猫族にとって不倶戴天の仇。先の大戦時、妖猫族が一時滅亡の危機にまで瀕したのも、全ては妖狸の仕業なのだから。その怨みの度合いで言えば、妖狐など比較にもならない。
「……それは、貴方の考えではなくて、“周りの者”からそう吹き込まれただけでしょう?」
 ハッと、桔梗はたちまち青ざめた。頭で考えていただけのことに対して、何故春菜が反論してくるのか。もしや無意識のうちに口から出てしまっていたいのか――否、そんなことはないと、かぶりを振る。
 混乱する桔梗を余所に、春菜は微笑を浮かべる。桔梗は、己の主が“微笑”を使い分ける事を知っている。あるときは、相手に親しみを持たせる為。あるときは、相手を落ち着かせる為。
 そして今は、“穏やかな威圧”の笑みだ。
「桔梗、私はね。当事者はともかくとして、ただ見聞きしただけの者が、あまり激しい言葉を使うのは好きではないわ」
「…………申し訳ありません」
 確かに、桔梗自身、妖狸から何かの仕打ちを受けたわけではない。ただ、自分の周りに居る者達が口を揃えて妖狸は敵だ妖狸は許せないと零していたから、なんとなく自分も妖狸は許せないという気分になっていただけに過ぎない。
 それを指摘され、桔梗は途端に恥じ入るような気持ちになる。
 春菜が、微笑む。それは反省した子を褒める笑みだった。
「……それにね、桔梗。貴方には理解しにくいかもしれないけれど、“あの頃”を知っている者同士というのは、ただそれだけで“絆”が芽生えるものなの。…………例えそれがどれほど憎い相手でもね」
「………………。」
 春菜の話は、確かに桔梗には共感は抱けなかった。故にはいと答える事も、頷く事も出来なかった。そんな桔梗の正直な反応を褒めるように、春菜は小さく頷く。
「……話を戻すわね。まみからの手紙によると、彼女は今、末の娘と一緒に人界のほうに行っているみたいなの」
 けろりとした顔で言っているが、それは実は重大な軍事機密なのではないかと、桔梗は思った。カムロの娘まみが、今は国を空けている――それは妖狸の総戦力という意味では、二割減――下手をすると三割減の状態であると言っているに等しい。時期が時期であれば、これ幸いにと戦争が勃発するレベルの情報ではないか。
 が、しかし桔梗のそんなハラハラとした内心とは裏腹に、当の春菜はといえば純粋に古い知人から手紙が来たのが嬉しいと言わんばかりの笑顔で、話を続ける。
「もちろん、反対する声も多かったらしいんだけど、末の娘の子守役ということで強引に出奔しちゃったらしいの。この手紙によると、月彦さんや真央ちゃん達ともいっぱい遊んでるらしいのよ」
「月彦……ああ、あの足が三本ある男ですか」
 桔梗の表現がよほどツボをついたらしい。春菜の微笑が一瞬止まったかと思えば、慌てたように袖で顔を隠し、体を小刻みに震わせていた。それは“人に見せる為の笑顔”ではなく、単純に、純粋に面白可笑しくて笑いがこみ上げてしまったのを、必死に隠しているのだ。
 恐ろしい主の、そんな一面が可愛らしくて、桔梗は少しだけ肩の力が抜けるのを感じた。
「そ、それで……考えたのだけれど」
 震えた声を必死に元に戻しながら、春菜が袖の向こうで言い、コホンと咳払いを一つ。腕を下ろした後に残った春菜の顔は、いつも通りの笑顔を浮かべていた。
「桔梗、あなたも人間の学校に通ってみる気はないかしら?」
「……申し訳ありません、春菜さま。……話の流れが今ひとつわからないのですが」
「末の娘が人間の学校に通うから、まみはその子守としてついて行けたわけでしょう?」
「はい」
 桔梗は頷く。
「だから、貴方が人間の学校に通いたいと申し出れば、その目付役として――」
「あの、春菜さま」
 恐れながら、と。桔梗は恐る恐る申し出る。
「仮に私が人界への留学を希望して、それが春菜さまの認可を得て長老会の許可を得られたとしても、その目付役として春菜さまがついていくというのは不可能ではないかと……」
「………………不可能かしら」
「はい、残念ですが……」
 桔梗は静かに首を振り、続ける。
「理由は三つあります。一つ、私は春菜さまの使用人ではありますが、血の繋がりがあるわけではありません。よって私の留学に春菜さまがついていくという必要性も必然性も皆無であるといえます。二つ、妖狸のまみが居るとなれば、二種族間の摩擦を懸念する連中はその近くに春菜さまが行かれる事に絶対に反対します。三つ目、これが一番の理由ですが……」
 桔梗は一端言葉を切り、唾を飲んで、続ける。
「まみが居なくなっても、妖狸にはカムロという首領が居ますが、我々には春菜さましか居ません。春菜さまがここを留守にされては、何もかもが立ちゆかなくなってしまいます」
「…………確か、私が居なくても国が成り立つようにと、随分前に各地の代表を集めて長老会を発足させたのだけれど」
「あんなものは形骸に過ぎません。ご自分が毎日どれだけの書類に判子を突いているのかを思い出して下さい。春菜さまのご威光あっての長老会です、その代わりは誰にも務まりません」
 これが。
 強いて言うならば、これこそが、主――春菜の唯一の欠点ではないかと、桔梗は思う。
(……春菜さまは、ご自分の価値をわかってらっしゃらない)
 まみと春菜。恐らくは単純な個人の武力という点では互角に近いというのが、“当時”を知る者達から聞いた話から導き出される桔梗の判断だ。が、しかし春菜の価値はそのようないち兵士としての力量などではない。仮に戦士としての技量が同等だとして、司令官としての力量はどうだろうか。少なくとも桔梗自身は自分の主の本当の恐ろしさはその爪の鋭さなどではなく、政治的な手腕であると見ていた。
 まみが死んでも、妖狸の国は立ちゆくが、春菜の場合はそうはいかない。恐らくその日のうちから妖猫族全体が混乱に陥り、全てが破綻することだろう。
(……ほんの2,3日人間の男を屋敷に泊めて政務を怠っただけで……あの大混乱だ)
 ましてや、春菜が屋敷を空けるとなれば、妖猫族の前途を悲観して国を出て行く者すら出てくるのではないだろうか。それほどの一大事を、たかが使用人一人の留学ごときで承認されるわけがないと誰もが思うところなのだが、どういうわけか春菜本人だけが解っていないらしい。
「………………どうしても無理かしら」
 春菜は尚諦めきれないのか、まるで欲しいものを母親にねだるような声で、桔梗の顔をチラ見しながら呟く。
 もちろん、桔梗の返事は決まっている。
「無理……だと思います」
「(´・ω・`)」
「そんな顔をされても……」
「…………まみばっかり、狡いわ」
 ぽつりと、拗ねるように言って、春菜はそれきり留学の話をしなくなった。

 以降しばらくの間、春菜の周りの者達への対応が若干冷ややかになったのだという。――後に、春菜の鶴の一声で役立たずの長老会が撤廃され、強引に“後継者”が選ばれるのだが、それはまた別の話。

 

 


 

 

 

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