どうやら父親は何か大切なものを無くしてしまったらしい。真央は月彦の言動で、それを理解した。
「…………真央、もし学校の中か帰り道で変なものが落ちていたら、すぐに拾って俺に教えてくれ」
 そしてそれは、子細については口にするのを躊躇われる類いのものらしい。真央もそのことは鑑みて、深くは追求しないことにした。
 朝の登校時も、月彦の目線は自然と地面を這うように動いていた。真央もそれに倣って何か落ちていないかなと注意深く見るようになっていた。
「きゃっ」
 一人での下校途中。不意に体が何かに突き飛ばされ、真央は地面に尻餅をついた。下ばかり見て歩いていたため、前方への注意がおろそかになっていたのだ。
「ごめんなさい! 大丈夫ですか?」
 見れば、真央とぶつかった相手のほうも尻餅をついていた。否、尻餅どころではない。地面に盛大に大の字になってしまっていた。
「あの……」
 真央は改めて自分がぶつかった相手を見て、ぎょっと目を見開いた。頭には、つば付きの赤い帽子。デニム生地の上着の下は白のTシャツ、下半身は黒のスパッツのみという格好。およそ冬場に似つかわしくないその格好もさることながら、その全てがまるで10年着古したかのように色がくすみボロボロなのだった。帽子から溢れるように飛び出している前髪は鼻と口以外の顔のパーツを覆い隠し、そこだけでは性別すら定かではなく、辛うじて腰回りのラインから男性ではなく女性と想像がつく。
 女(?)は中身の詰まった巨大なリュックサックを背負っており、あっさりと倒れてしまったのはそのせいもあるらしかった。リュックの小山の上に大の字にねそべり、背中を反らしている女の履いているスニーカーもまたボロボロで、靴底の穴からくすんだ色の靴下の生地まで見えていた。
(……浮浪者さんだ)
 背中のリュックには生活用具一式でも詰まっているのだろうか。例えるならその姿は盛大に転んだリクガメだった。
「だ、大丈――」
 とにかくこのままにもしておけない。真央はその手をとり、起き上がらせようとした――が、その瞬間凄まじい悪臭が鼻を突き、慌てて手を離してしまう。
(何……この臭い……死体……?)
 真央は思わず鼻を覆わずには居られなかった。まだ、紺崎家に来る前。一人で山の中などを散策した際に嗅いだ、死肉の臭い。腐った肉と血、それらがこびりついた骨の臭いに、真央は倒れた女に近づく事が出来ない。
(……もういっそ、知らないフリをして逃げたほうが…………)
 関わるべきではない――そう思って、踵を返そうとして、足を止める。
 父親なら――月彦ならどうするだろうか。自分の不注意でぶつかり、転ばせてしまった相手が、ただ耐えがたいほどに臭いというだけで放置して逃げるだろうか。また、自分の娘がそういう心ない行動をとった事についてどう思うだろうか。
 意を決して、真央は浮浪者へと近づき、その手をとり、起き上がれるよう引っ張った。が、その体は予想以上に重く、また浮浪者自身に起き上がろうという意思が薄いのか、びくともしない。
「う〜〜〜〜〜ん…………」
 それでも渾身の力を込めて引き、何とか立ち上がらせる事に成功した。そのまま寄りかかられ、図らずも真央は肩を貸すような形になってしまう。
「わっ、とっ、と……」
 ずしりと、肩に掛かる重量に足下がフラつく。
 真央が雷鳴を耳にしたのはそのときだった。
「雨……?」
 思わず空を見上げる――が、再度真央の耳が拾った雷鳴は、隣に居る女の腹から聞こえてきた。
 まさか、これが腹の虫の音だとでもいうのか――真央はむしろ冬の雷よりもそのほうが信じられなかった。
「……お腹が減ってるの?」
 女は、微かに顎を上下させた。同時に、その胸元で何かが光るのを真央は見逃さなかった。
(…………琥珀?)
 黄色っぽい樹脂のような固まりに紐を通しただけの、簡素なペンダントだった。樹脂の中に見えるのは何かの動物の牙だろうか。それが、不意に首元からずり落ち――どうやら留め金が外れてしまったらしい――そのまま地面へと転がる。
「ア……」
 ペンダントを拾おうとしたのか、女が手を伸ばし――そのせいで真央までバランスを崩して転んでしまう。
「きゃっ」
 女はそのまま這うようにしてペンダントを拾い、強く手に握りしめる。同時に、前髪に殆ど隠れた女の頬に一筋の涙が這うのを、真央は見た。
「きらら……」
 女の呟きはそう聞こえた。よほど大事なものなのか、握りしめたペンダントをさらに両手で包み込むように覆い、胸元へと引き寄せる。まるで、地面に落としてしまったことを詫びるように。
「……あの、もし良かったら…………」
 お世辞にも清潔とはいえない女の身なりと、耐えがたい悪臭を放つ荷物には正直辟易とせざるを得ない。しかしそれでも、多少なりとも関わりを持ってしまった手前、何かをしてあげたいと真央は思い始めていた。
 それほどに、ペンダントを握りしめる女の仕草は、真央の胸を打ったのだった。
(…………もし、変な人を拾って来ちゃいけないって父さまに怒られたら……)
 “変わったもの”が落ちていたら拾うように言われたからだと、言い訳をすることにしよう。ちゃっかりそんな悪知恵も働かせながら、真央は再び女に肩を貸し、帰路につくのだった。
 

 

 

 

 

『キツネツキ』

第四十八話

 

 

 

 

 



 なんとか自宅に帰り着くも、買い物にでも行っているのか、葛葉は留守だった。月彦もまだ帰宅していないらしく、真央はこの汚い身なりの女をそのまま家に上げてよいものかどうかしばらく悩んだ。
 夏場であれば、庭の方で水洗いでもして家に上げるのが得策であったかもしれない。しかし今は冬だ。さすがにそんな扱いは忍びない。やむなく真央は最も臭いの酷いリュックを家の裏手へと置き、女はそのまま家に上がらせ、台所の椅子へと座らせた。
(…………くさい……)
 制服の袖に鼻を当て、くんくんと鳴らすと目の前の女と同じ匂いがした。リュックの臭いがあまりに酷いから気がつかなかったが、女の体臭自体もかなりのものだった。つーんと鼻の粘膜を突き刺す刺激臭に、真央は涙が出そうになる。
(……自分で臭いと思わないのかな)
 或いは、慣れてしまっているのだろうか。
 そのまま制服を着続ける事に生理的嫌悪を感じて、真央は真っ先にシャワーを浴びた。そして丁寧に体を洗って部屋着に着替えて脱衣所を出るなり――
「あーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーっ!!」
 叫び声を上げた。
「こらっ、勝手に食べちゃだめぇ!」
 先ほどまで自力では歩けないほどにぐったりしていた女が、食べ物の匂いでもかぎつけたのか、冷蔵庫の扉を開けて勝手に中のものをむさぼり食っていたのだ。その食べ方はまさに野獣の一言であり、ハムやチーズといったそのままでも食べられるものはもちろんの事、大根や生肉までそのまま囓っている。
「だめ! だめだったら! 勝手に食べちゃだめ!」
 まるで野良犬でも懲らしめるように、真央はぺしぺしと女の頭を叩くが、怯む様子はまったくなかった。やむなく羽交い締めにして冷蔵庫から引きはがそうとするも、凄まじい力で抵抗されてそれも敵わない。
 結局、冷蔵庫の中に入っていた食材の殆どは女に食べ尽くされることになった。満腹になったらしい女はそのままごろりと床の上に寝転がり、今度は寝息を立て始める。
 真央が途方に暮れていると、玄関のドアが開く音が聞こえた。しゃりしゃりとビニール袋が擦れる音で、真央はすぐに月彦ではなく葛葉が帰ってきたのだと知った。
「義母さま……あ、あの……ごめんなさい……私……」
「あらあら……どちら様かしら? 真央ちゃんのお友達?」
 食材のたっぷり詰まったビニール袋を台所のテーブルの上に置きながら、葛葉は特に驚いた風もなく床の上に寝転がる浮浪者に微笑を向ける。辺りにはさんざんに食い散らかされた食材の入れ物やら包み紙やらパックやらが散乱しているというのに、第一声がそれなのかと。
 いつもの事ながら、この義母の動じなさもすごい、と真央は思う。
「あら……ひょっとして……」
 そして女の顔を見るなり、はてなと葛葉は首を傾げる。そして顔のそばにかがみ込み、鼻の下まで伸びてしまっている前髪を避けるようにして女の顔を確認する。
「あらやだ、ひょっとして都ちゃん?」
「みやこ……?」
 聞き慣れない名に、今度は真央が首を傾げる番だった。にっこりと、葛葉が微笑み、その疑問に答えた。
「霧亜の友達よ」


 


「姉さまの友達……」
 それはなんとも聞き慣れない類いの単語だった。耳にするだけで心臓がザラリとしたもので撫でつけられるような、言いしれぬ不安をかきたてられる気さえする。
 確かに。
 確かに霧亜とて人間だ。友人の一人や二人居て当然ではある。
 が、同時に“あの姉さまに?”と真央は思ってしまう。それは霧亜の性格がどうとか、そういう問題ではない。そういった類いの悪感情は、真央は霧亜に対しては持ち合わせていない。
「姉さまの友達……」
 信じられないという思いから、真央はつい呟いてしまう。少なくとも、真央の目から見て、霧亜は同性愛者にしか見えなかった。本来ならば友人となり得るはずの同性がすべからく性の対象となるわけであり、そこには“友情”というものなどは存在しえないのではないかと。
 もちろんゼロではないだろう。たとえば男性にも“女友達”というものが出来る事があるらしいという事は聞いた事がある。だが、そこでまたしても思ってしまう。“あの姉さまに?”――と。
 そこで真央は気がついた。相手が男性か、女性かなどどうでもよかったのだ。“あの霧亜”が、“友達”と語らい、笑顔を浮かべながらファッションやテレビの話などをしている様子が全く想像できないから、こんなに得体の知れない不安をかきたてられるのだ。
「姉さまの友達……」
 三度真央は呟く。あの霧亜との間に友情を成立させられる相手なら、間違いなくただ者ではないはずだ。そういう意味では、女の身なりはある意味納得のいくものではある。
 真央はちらりと脱衣所の方へと視線を向ける。ひっきりなしに聞こえるシャワーの音は、葛葉が女を――都を洗っている音だ。満腹になって爆睡している都を連れて葛葉が浴室へと入っていったのがかれこれ三十分以上前。長引いているのは、それだけ垢を落とすのが大変ということだろうか。
「…………ただいまー」
 玄関から聞こえた声に、真央は思わず隠していたキツネ耳をピンと立てて反応してしまう。おそらくは、今自分が抱いている疑問の答えを――ひょっとしたら葛葉と霧亜本人を除けば唯一の――知っているであろう人物の帰宅に、浮き足立たずにはいられなかった。
「父さま! 姉さまに友達って居たの!?」
 口にした後で、真央は思った。月彦のとらえ方によっては、凄まじく酷い質問に聞こえ、気分を害させてしまったかもしれないと。
「急にどうしたんだ? 姉ちゃんに友達なんて居るわけないだろ」
 しかし、弟である月彦の返事の方がその数倍は酷かった。故に真央はある意味では安堵したのだが、ある意味では霧亜に対しての奇妙な申し訳なさも感じた。
「だいたい友達ってのは、対等な関係を言うもんだ。姉ちゃんに釣り合う女の子なんて居るわけがない」
 どこか自慢げに――否、実際に自慢しているのだろう。月彦はふふんと、目をきらきらさせながら誇らしげに続ける。
「姉ちゃんが部屋に女の子連れ込んだり、デートしたりしてるのは見た事あるけど、あれはどう見ても“友達”って感じじゃなかったしな」
 そこについては、真央も同感だった。それはさながら、肉食獣が獲物を捕獲し、巣穴に引きずり込んで食べるのに酷似していると。……実際に捕食された経験のある真央には、それがよく分かる。
 肉食獣にとって、草食獣は友達ではない。霧亜に友達がいないという事は、即ちそういうことなのだ。
(……じゃあ、義母さまの勘違いなのかな)
 前に霧亜が家に女性を引っ張り込んだ際、たまたま葛葉と鉢合わせして、深い意味もなく友達だと紹介しただけなのかもしれない。
「真央、勘違いするなよ? 姉ちゃんは友達が欲しいのに出来ないんじゃなくて、姉ちゃんと釣り合うだけの相手がいないから、友達が居ないだけなんだからな?」
 べつにぼっちなわけじゃないんだぞ、と言い残して、月彦は二階へと上がっていく。階段を上るその足が、半ばほどで不意に止まった。
「……父さま?」
「…………いや、なんか……今変な感じがした」
「変な感じ?」
「もやっとするっていうか、ザラっとするっていうか…………」
 月彦はとうとうその場にしゃがみ、階段に座り込んでしまう。
「…………何かを忘れているような……」
「あのね……父さま……今ね――」
 真央はおそるおそる、先ほど拾った浮浪者の事を月彦に話した。
 たちまち月彦は目を見開き、両手で真央の肩を掴んだ。
「…………みゃーこさんが!?」



 都はどうやら風呂場で葛葉に体を洗われて尚、目を覚まさなかったらしい。さすがに素っ裸のまま脱衣所から出すのは忍びないと思ったのか、真央が助っ人に呼ばれ、着替えも真央のものを――部屋着のトレーナーとハーフズボン――を着せるのを手伝った。
(鼻ちょうちん……)
 そうやって着替えをさせている間も、都は鼻提灯を膨らませては時々割り、割れたから目が覚めるのかと思えば覚まさず、くぅくぅと眠り続けた。
「この髪もなんとかしなきゃいけないわねぇ」
 一体何年延ばし放題にしていればこうなるのか。ホラー映画で井戸から出てくる女のような黒髪を見かねたように、葛葉は都を食卓に座らせると、どこからともなく家庭用のバリカンセットを持ち出してきた。
 てきぱきと都の首にケープを巻き、ちょきんちょきんと髪を切り始める。
「……俺も昔母さんに切ってもらってたなぁ」
 確かに葛葉の手並みはプロ級とはいかないまでも、実に手慣れたものだった。みるみるうちに都の素顔が露わになり、首回りもすっきりとしたものになっていく。
 三十分後、すっかりショートカットにされた都は掃除機で丁寧に体に付着した髪の毛を吸われ、月彦に抱えられて霧亜の部屋のベッドへと寝かされた。
(……肌が黒っぽかったのは、汚れてたからじゃなかったんだ)
 黒というよりは、褐色。垢にまみれていた時はなんとも汚らしかった都の外見だが、こうしてシャワーを済ませて髪をさっぱりとさせれば、実に健康的な小麦色の肌に見える。
「……父さま、あの人が姉さまの友達なの?」
 一段落して自室へと戻ってきた月彦に、真央は早速尋ねてみることにした。
「友達……なのかなぁ」
 月彦の答えは非常に渋い物だった。表情も苦渋に満ちていた。
「姉ちゃんの幼なじみで、同級生で知り合いなのは間違いないんだけど、友達なのかどうかは……いや……友達っていや友達なんだろうな」
 真央は思いきって、都との出会いの事も月彦に話した。浮浪者のような姿でいた事も。
「あぁ……うん。あの人なら……別に不思議なことじゃないな」
 しかし、月彦は全く驚かなかった。むしろ納得したという様子だった。
「みゃーこさんなら、浮浪者になってたとしても、どこかの国の大統領夫人になってたとしても、悪の秘密組織の首領になってたとしても不思議じゃない。あの人はそういう人だ」
 それは褒め言葉なのだろうか。少なくとも月彦の顔を見る限りでは、褒めているつもりはなさそうだと、真央は思った。


 夕飯を済ませ、お風呂も済ませた。時刻は十時過ぎ。真央は若干ソワソワしながら月彦の隣でベッドに座り、テレビを見ていた。お気に入りの牛柄パジャマに着替えてはいるが、当然のようにブラはつけていない。三十分ほど前から月彦の肘に胸を押しつけたりしてアピールはしているのだが、真央の気持ちを知ってか知らいでか、月彦はさして面白いとも思えないテレビの視聴に夢中だった。
 否、気づいていないはずはないのだ。気づいているくせに、気がつかないフリをしている。そうやって焦らされると、より体が熱く滾り、いざ行為に及んだ際の快感が高まると知った上で、知らないフリをしているのだ。
 ここで真央のとるべき道は二つ。その“焦らし”を甘んじて受け入れるか、さらにアピールをするかだ。こういう時、真央はどちらのほうが父親が喜ぶかを考える。
(……父さまは、多分……)
 この場合、正解は存在しないといっていい。月彦の気分によっては、焦らしを受け入れて我慢する方が正解の場合もあるし、そういう場合であっても月彦の予想を上回るアピールをすることで、結果的にその方が正解という事にもなりうるからだ。
 真央は月彦と共にテレビを見ている振りをしつつ、それとなく尻尾の先で月彦の背をなでつける。さわり、さわりと。さながら、手練手管に長けた悪女が男の背筋を指先で撫でて誘惑するかのように。
 同時に、脇を締めて腕を寄せ、胸元のボリュームを強調する。この場合角度にも気をつけなければならない。
(あっ、今……父さまが見た)
 ちらりと。テレビを視聴しながら、月彦の目が微かに動いたのを、真央は見逃さなかった。しかも、一度だけではない。ちらちらと、盗み見るように瞳が動いている。
(んっ……)
 ぞくりと、痺れるものが尾の付け根から頭へと走る。この瞬間が堪らないと、真央は思う。愛しい娘としてではなく、肉欲の対象として見られる瞬間。父親としての慈愛の目が、一匹の獣が獲物を見る目に変わる瞬間。
 自然と息が弾む。体温が上がり、肌が上気する。下腹が疼き、早くも男を受け入れる準備を、体が始める。無意識のうちに太ももをすりあわせるような動きをしてしまう。
「真央、どうした。寒いのか?」
 突然、月彦の左手が背中を回り、腰へと当てられ、ぐいと抱き寄せられる。突然の事に、真央は思わず悲鳴を漏らしてしまいそうになる。
「う、うん……ちょっと、寒い……かも……」
 はぁはぁと息を弾ませながら、真央は潤んだ瞳で月彦を見上げる。腰へと回った手の動きのなんといやらしいことか。さわさわと脇腹から尻の近くまでを撫でられ、それだけで真央は声を震わせてしまう。
「そうか。ちょっとエアコンの温度を上げた方がいいかな」
 あぁぁ――真央は喉を震わせ、漏れそうになる声を押し殺す。こうして惚けられるのが、意地悪をされるのが堪らない。今すぐにでも押し倒して、両胸をもみくちゃにして欲しいのに、それが分かっているくせに惚ける父親が、愛しくて堪らない。
 ベッドの上に放られたままになっているエアコンのリモコンに月彦が手を伸ばす――その手を、真央は反射的に掴んでいた。
「真央?」
「あ、あのね……」
 はぁはぁ、ふぅふぅ。
 もう、下着まで濡らしてしまっている。尾はうねうねとそれ自体が生き物のようにじれったげに揺れている。
「父さまに……おっぱい触られたら……寒くなくなる、かも……」
「ほう?」
 そのまま、月彦の手を自らの胸元へと誘導する。ブラをつけていない胸元は、すでに真央の興奮を露わにするように先端を硬くとがらせ、パジャマの生地の上にその形を作り出してしまっている。
「あ、んっ」
 月彦の手が、胸元に触れる。――否、寸前まで近づいた手に、真央が自ら胸を押しつけたというのが正しい。
「これで寒くなくなるのか?」
「んっ……もっと……強く……んっ……」
 もどかしい。全くといっていいほどに、月彦が指を動かしてくれないのだ。むぎゅむぎゅと、親の敵の魂が封じられたゴム鞠でも握りしめるように強く揉んで欲しいのに。
 それが叶わない。
「つ、強く……むぎゅうって……して……」
「強く、か」
 月彦の右手が、軽く指を開いた状態で胸の膨らみを捉え、唐突に。
 むぎぅ、と。
「あっ、あぁぁ……〜〜〜〜〜〜ッッ!」
 ゾクゾクゾクゥ!
 痛みすら感じるほどに強く掴まれた瞬間、真央は声を上げずにはいられなかった。尾の付け根から走る痺れに身もだえし、反射的にぎゅっと閉じていた太ももを開いてしまう。
 ――そう、男を受け入れることを、体が望むかのように。
「あっ、あっ、あっ」
 むぎゅ、むぎゅと立て続けに揉まれ、その都度足が開いてしまう。下着のさらに奥がヒクヒクと痙攣するように蠢き、下着に広がった染みがパジャマのズボンまで伝播する。
「こんな感じでいいのか? 真央」
「っ……ぁ……だ、だめ……」
 ぎゅうと月彦の手首を掴む。
「おっぱい……触ってぇ……」
「何を言ってるんだ。もう触ってるだろ?」
 真央は首を振る。
「パジャマ越しじゃいやぁ……ちゃんと、触って欲しいの……」
 パジャマのボタンを自ら外し、月彦の手をその内側へと招き入れる。
「あぁぁぁぁ……」
 月彦の指が、手のひらが直接肌に触れる。それだけで喉が震え、声が出てしまう。
「ッ……ひぅ!」
「……本当に寒いみたいだな。堅くなってる」
 突然。まさに唐突に先端をつままれ、コリコリと指先で転がすようにされて、真央はびくんと背筋を反らせる。
「ひっ……ぁ……ぁぁぁ……やぁぁ、父さまぁ……そこ、コリコリしたら……」
「ダメなのか?」
 あまりにもあっさりと“コリコリ”を止められる。たちまち、真央は体に火をつけられたかのようなすさまじい“焦れ”に襲われる。
「やっ……止め、ないでぇ…………もっと、コリコリってしてぇぇ……」
「……やれやれ。真央はワガママだな」
 苦笑。同時に、キュッと、強く。先端をつままれる。
「あっ、あぁーーーーーーッ!」
 そのままくい、くいと引っ張られる。背が反り、顎が浮く。天を仰ぎながら、真央は嬌声を上げる。
 あっ、と。真央はそのときになって気がついた。視界に天井があるのは、天を仰いだから……だけではなかった。月彦に肩を押され、ベッドに押し倒されたからだったのだ。
「あっ、あぁぁ……父さま……父さまぁぁ…………」
 先ほどまでのようなおざなりな愛撫ではない。獲物を捕獲し、捕食する――月彦の両手の指が、さながら肉食獣の牙のように真央の柔肉に食い込み、指の合間から白い盛り上がりを作り出す。
 あぁ、自分は食べられるのだ――死に瀕した草食獣のような気分に、真央は浸る。草食獣との違いは、命が潰えるわけではなく、むしろ至上の快楽を与えられる喜びに魂が打ち震えている点だ。
(あぁぁ……もっと、もっと真央を食べて、父さま……!)
 四肢から力を抜き、真央はされるがままになる。下着を脱がされる瞬間を夢見ながらキスをねだり、胸元に月彦の視線を感じるたびに、より興奮をかきたてられるように肩を抱き、ボリュームを強調することも忘れない。
「……悪い子だ」
 その月彦の呟きの前にはおそらく“そうまでして男を誘惑するなんて”とでもつくのだろうか。窘めるような口調だが、その口元には笑みが浮かんでいた。
「おしおきが必要だな」
 月彦の手が、パジャマのズボンごとショーツにかかる。ついに脱がされる――真央の興奮が最高潮に達しようとした時、突然月彦の手が止まった。
「父さま……?」
 月彦が何故手を止めたのか、真央にもすぐにわかった。
 壁を震わさんばかりの、凄まじい咆哮。否、慟哭ともいうべきその声に、月彦の手は止まったのだ。



 

「きららーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーッ!!!」
 月彦と真央が霧亜の部屋へと入るなり目にしたのは、ベッドの上でへたり込むように座ったまま子供のように大泣きしている都の姿だった。
「み、みゃーこさん!?」
 真っ先に月彦が駆け寄り、なだめにかかる。遅れて寝間着姿の葛葉がやってきて、入れ替わりに真央はそっと霧亜の部屋を抜け出た。
 都が霧亜とどういった関係で、どういう人物かわからない為、耳も尻尾も当然隠してはいるが、それよりなによりびしょぬれになってしまっている下着をなんとかせねばならなかったのだ。
 脱衣所で下着とパジャマを新しいものに代えて改めて霧亜の部屋に戻ると、早くも葛葉が宥めにかかっているところだった。
 ベッドに腰掛けた葛葉の膝の上に伏せるようにして頭を乗せ、くすんくすんと嗚咽を漏らす都は、まるで幼子のようだった。月彦から聞いた話では霧亜の同級生ということだから、二十歳か十九歳であるのは間違いないはずなのに、体つき以外はとてもそうは見えない。
 何より。
(……………………せっかく良いところだったのに)
 と、真央は思わざるを得ない。これから本番というところで寸止めをかけられ、真央はそれだけで都に対して敵愾心を抱き始めていた。
「よしよし……二人とも、部屋に戻って大丈夫よ。ここは私に任せて」
「……わかった。母さんあとはお願い。……真央、部屋に戻るぞ」
「うん……」
 月彦に連れられて、真央も部屋へと戻る。が、何となく気まずい空気になってしまっているのを、真央も。そして月彦も感じているようだった。
 結局その夜はそのまま寝ることとなり、故に真央は一晩中悶々とする羽目になった。

 朝。
 寝不足気味の目を擦り擦り階下へと降り、顔を洗ってリビングへと移動すると、一足先に見慣れない人物がパンをかじっていた。
「あっ……」
 目が合う。一瞬の記憶の混乱の後に、そういえば昨夜は“客”が一人泊まったのだという事を、真央は思い出した。
「おはようございまぁす」
 都はパンを置き、やや語尾が間延びするような声でぺこりと簡単な辞儀をする。その服装は昨夜貸した真央の部屋着のままだが、その首元には琥珀のペンダントがぶら下がっている。
「……おはようございます」
 真央もまた、ぺこりと小さく頭を下げて席に着く。遅れて、同じく顔を洗った月彦もリビングへとやってきた。
「あっ、みゃーこさんおはよう」
「おはよ…………?」
 都の頭から大きな?マークが出るのが、真央にも分かった。何故この人は自分の名前を知っているのだろう――そんな様子で、首を傾げる。
「あーーーーーーーっ!」
 そして、ぱぁっと。室内が明るくなるような眩しい笑顔を零して、都は月彦を指さした。
「もしかして、つっきー!?」
「…………そうッス」
 月彦は疲れるような口調で返事し、真央の隣へと座る。
「すっごぉい! つっきー大きくなったねーーーーー! はじめわかんなかったよーーーー!」
「はぁ…………まぁ…………えーと……何年ぶりだっけ」
「五年? 六年?」
 都もまたパンをかじりながら首を傾げる。
「えと……とにかくそれくらいだったかな」
 月彦とのやりとりを見ながら、真央はわずかばかりだが驚きを感じずにはいられなかった。昨夜までの様子では、もっとコミュニケーションに苦労する類の人物だと思っていたからだ。
「ていうか、みゃーこさん一体いままで何処に居たの? いきなり行方不明になって、姉ちゃんも心配してた…………と思うんだけど」
 ぴくりと。齧歯類小動物のようにパンをかじっていた都の動きが止まる。
「きらら……」
 みるみるうちに両目に涙が溜まり、あふれ出す。
「きららーーーーーーーーーーーーーーーー!」
「わわっ、ちょっ…………か、母さん!」
「あらあら……都ちゃんどうしたの?」
 朝食の準備を中断して、葛葉がぱたぱたとスリッパの音を響かせながら都に駆け寄り、よしよしと宥めにかかる。
「大丈夫よ、霧亜は入院してるけど、別に命が危ないわけじゃないんだから。…………都ちゃんはね、霧亜が入院してるって聞いて、慌てて駆けつけてくれたそうなのよ」
 そこではたと、真央は気がついた。“きらら”というのはもしや。
「ねえ、父さま」
 小声で、真央は月彦に尋ねた。
「“きらら”っていうのは、姉さまのことなの?」
「ん? あぁ……あだ名……っていうのかな。俺も詳しい話は知らないんだけど、みゃーこさんと姉ちゃんって幼稚園の頃からの付き合いらしくてな」
「幼稚園……」
 それは、真央には未知の場所だった。月彦はさらに話を続ける。
「んで、その頃のみゃーこさんは“きりあ”ってどうしても発音出来なかったらしくて、きらら、きららって呼んでたのがそのまま定着しちまったらしい」
「そうだったんだ……」
 なんとも可愛らしい理由だと、真央は思う。都に対して抱いていた敵愾心がほんの少し氷塊するのを感じた。
「あっ、ちなみにきららって呼んでも許されるのはみゃーこさんだけだからな? 間違ってもからかって呼んだりしちゃだめだぞ? 姉ちゃんマジギレするからな?」
 月彦の諭し方があまりに真に迫っていて、ひょっとして実際に怒られた経験があるのかもしれないと、真央は思った。
「月彦、ちょっといい?」
「うん?」
「今日、学校が終わったら、都ちゃんと一緒に霧亜のお見舞いに行ってあげてくれないかしら?」
「別に良いけど……学校が終わるまで待たなくても、見舞いくらいみゃーこさん一人で……」
「やっ。…………つっきーといっしょがいい」
 半泣きで葛葉にしがみついている都が、まるでだだっ子のように言う。
「数年ぶりに会うんだもの。都ちゃんも照れくさいのよ」
 よしよしと葛葉が頭を撫でると、都はこくりと頷きながら鼻先を葛葉のセーターの袖に擦りつける。
「……放課後はちょっと捜し物をしなきゃいけないんだけど………………まぁいっか」
 “放課後は”から“だけど”の間に目尻いっぱいの涙を溜められて、月彦は慌てて返事を変えた。
「…………父さま、大丈夫?」
「ん……まぁ、大丈夫だろう。みゃーこさんを姉ちゃんの病室に連れて行くだけだし」
 そうじゃなくて、と口にしかけて、唇を閉じる。
 真央の懸念は、そういう事ではなかった。
(……都さん……おっぱい大きかったし……)
 昨日、シャワーを浴びさせられて尚眠ったままの都の着替えを手伝わされた時に、真央は感じたのだった。
 これは、父親が好きなタイプのおっぱいだと。



 数年ぶりに突如姿を現した町村都に対して、月彦は尋ねたい事が山ほどあった。特に、都が姿を消す前後の事に関しては、自分でも不思議な程に思い出せなかったからだ。
(…………おかしいな。あれだけ姉ちゃんと仲良かったんだから、引っ越したにしろ何かしら覚えてて良さそうなものなのに)
 幼い頃、姉の側に都の姿があったという事は覚えている。そしてふと気づいた時にはもう都の姿は何処にも無く、姉に聞いてもまともな答えが返ってこなかった――そのまま存在を忘れていたところへの、突然の来訪。
 一体何があったのか。そして何故今戻ってきたのか。真央の話では、浮浪者の様な姿で徘徊していたのだという。その辺も含めて、しっかりと聞き出したかった。
(……けど、タイミングが悪すぎる)
 今、学校の中には爆弾が埋まっているのだ。それは紺崎月彦という矮小な存在を簡単に吹き飛ばせるほどの威力を秘めた爆弾だ。それを見つけ出し、回収することこそが、月彦の最優先事項だった。故に、月彦は都の事が気になりつつも、ついそちらのほうに気をとられてしまう。
(……でも、正直――)
 もう見つからないのではないのか――そんな風に気持ちが傾きつつあった。学校内はそれこそ随分と探した。あの夜、逃走に使ったルートは言わずもがな。誰かが知らずに蹴り飛ばした可能性も考え、茂みの中や側溝の中のドブさらいまでやった。挙げ句、蒐集癖のあるカラスでもいたのかもしれないと、学校とその周辺のカラスの巣の中まで覗き込んだ。
 しかし、見つからない。矢紗美が嘘をついていないとすれば、残る可能性はおよそ発見不可能な場所へと偶然ハマりこんでしまったか。或いは、すでに誰かが拾ってしまったか――だ。そしてそれは、月彦にとって最も最悪な事だった。
(……でも、学校関係者でなければ…………)
 どこかのカップルが悪ふざけで録ったものだとでも思ってもらえれば、これにまさる幸運は無い。――が、学校関係者であれば、よほど勘の悪い者で無ければピーンと来るのではないだろうか。
 アレには雪乃、紺崎といった名前や名字があからさまに入っていた。矢紗美の名も入っていたはずだ。たとえば雪乃の同僚の教師などが拾っていたら、そういえばと連想するのは当然の流れだ。
 雪乃に、矢紗美という名の姉が居ることくらい、ちょっと調べればすぐ分かるだろう。雪乃本人に尋ねてもいい。そして紺崎――生徒名簿を見れば、当然そこには合致する名前がある。
 その先どうなるかは、その人物の良心次第だ。
(…………もし、生徒だったら…………)
 雪乃という名と“雛森先生”を結びつけられるかが問題だ。もしくは、紺崎という名字の生徒を知っているかどうか。
(……やばいやばいやばい。考えれば考えるほどやばいぞこれは)
 自分はよくて停学――悪ければ退学だろうか。否、停学で済んだとしても、はたして停学明けに学校に行く勇気はあるだろうか。
 雪乃は間違いなく免職だろう。それは矢紗美にまで波及するかもしれない。そして下手をするとその親類まで累が及ぶのではないだろうか。
(ぁぁぁ……ヤバい……ヤバすぎる……見舞いになんて行ってる場合じゃないんだよ……本当なら)
 雪乃と関係を持ったときも、矢紗美と関係を持った時も。バレたらまずい事になるだろうなとは思いつつも、そうそうバレたりはしないだろうと。どこか楽観的に考えていた。
 しかし今は違う。自分の身が破滅するだけならばまだいい、歴とした社会人である女性二人を道連れにしてしまうかもしれないというリアルな恐怖に、月彦は怯えていた。
 事が公になった時、真央はどう思うだろうか。由梨子はどう思うだろうか。妙子は。千夏は。和樹は。
(ヤバいヤバいヤバいヤバいヤバいヤバいヤバい…………)
 考えれば考えるほどに怖くなり、探さずにはいられない。しかし、心当たりのある場所はもう探し尽くした。この先見つかるとは、到底思えない。
(無くしたのは俺じゃなくて矢紗美さんだけど、でもそんなのは言い訳にならない…………あぁぁ……どうすりゃいいんだ……)
 頭を抱える。もはや授業などまったく頭に入ってこなかった。はあとため息混じりに視線を窓の外に――月彦の席は窓際だった――向けた時だった。
「……ん?」
 眼下のグラウンドでは、先ほどまでどこかのクラスの体育の授業が行われていた。準備運動をした後、校門から出て行ったから恐らくマラソンの授業だったのだろう。そういう関係で今はグラウンドには誰もいない――はずだった。
 その誰も居ないはずの校庭で忙しなく動き回る影に、月彦は気がついてしまった。制服姿ではない。体育着でもない。完全な私服だった。青の上着に灰のキャスケット姿の女性が、まるでグラウンドの広さそのものを楽しむように走り回ったかと思えば突如側転、バク転を始め最後には伸身宙返りまで決めてしまった。謎の女性はぱむぱむと手についた土を落とすと、側転の際に落としてしまった帽子を拾い上げ、改めて被る。――その際、月彦にも女性の顔が見えてしまった。
(みゃーこさん!? が、学校で何してんだよ!)
 ギョッと、月彦は驚きのあまり身を竦めるようにして窓際から顔を離した。
(いやいや……見間違いかもしれない)
 そう思い直して、月彦はそーっとグラウンドへと視線を戻す。が、先ほど見かけた不審者は何処にも見当たらなかった。
(……見間違いだったのか?)
 或いは、心が清い者にしか見えない妖精さんだったのかもしれない。月彦が安易な結論づけで済ませようとした矢先。
(…………待てよ。さっき俺……目、合わなかったか……?)
 限りなく都に良く似た別人の方からも、こちらの顔を確認された可能性を見出して、月彦は嫌な予感を感じずにはいられなかった。
(いやいや、見られたからどうなるもんでもないだろ。まさかここまで来るわけが――)
 そっと、月彦は教室後方の廊下側へと通じる引き戸の方へと目をやるなり。
「なッ……!」
 危うく叫びそうになった。一体いつの間にやってきたのか、二センチほど開かれたその隙間から何者かの目が教室の中を覗き込んでいたのだ。
 再び、目が合った。今度こそ間違いなく月彦は確信した。都は、まるでそういう性質を持つ妖怪のように、月彦と目が合うなり隙間をさらに広げ、教室へと入って来ようと――
「せ、先生! ボクお腹が痛いんで保健室いってきます!」
 電光石火の勢いで月彦は挙手し宣言し起立して逃げるように教室を後にした。

 教室を飛び出した月彦はすかさず都の手を掴み、校舎の端の物陰へと連れ込んだ。
「みゃーこさん、何やってんだよ!」
 声を荒げる――わけにはいかなかった。内緒話として許される最大の音量で、月彦は都に詰め寄った。
「えへへー、退屈だったからつっきーの学校に遊びに来たの」
 なんというマイペース。そういえばこんな人だったと、月彦は懐かしさと同時に頭痛を覚える。
「退屈って……とにかく、今はまだ授業中だから――」
「つっきー! きららのお見舞い行こう!」
 月彦の声は、都の誘いに完全にぶったぎられた。
「いやだからね、みゃーこさん。俺はまだ授業があるの」
「今すぐ行きたい!」
「だったら……俺じゃなくて母さんと行くとかさ」
「さっきまでおばさんと一緒に買い物いってたのー。でも、買い物終わったら用事があるって一人で出かけちゃったの」
 母さん!――月彦は心の叫びを上げずにはいられなかった。
「おばさん、いっぱい服買ってくれた! 似合う?」
「似合う……けど、何で下はスパッツなの」
「えへへー、動きやすい!」
「……でも、寒いでしょ?」
「……………………動きやすい!」
 寒いのは否定しないんだな――月彦は話題を戻すことにした。
「とにかく、今すぐは無理だから。放課後まで待って」
「ええー…………どれくらい?」
「今はまだ午前中だから……あと六時間くらい」
「………六時間って……三十分くらい?」
「いや、六時間は六時間だから。三十分の12回分だよ」
「…………………………………………40分くらいー?」
「…………えーとね。うちの学校は授業や休み時間や掃除の区切りにチャイムが鳴るから………今は三時限目だから……9回、かな。あと9回チャイムが鳴ったら、裏門で合流して、一緒にお見舞いに行こう。それまではみゃーこさんなんとか時間潰してきてよ」
「うー…………今すぐ行きたい…………」
「今すぐは無理だからさ。みゃーこさん、聞き分けてよ」
「…………解った………………9回チャイムが鳴ったら学校の裏側の門に行けばいーのー?」
「そうそう。それまでは誰にも迷惑かけないように時間潰しててね。間違ってもさっきみたいにグラウンドで走り回ってたらダメだから」
「わかった! つっきーが来るまでかくれんぼしてる!」
「…………俺以外の誰にも見つかっちゃダメだからね。特に今うちの学校は不審者に風当たりきついと思うから」
 じゃあ、と月彦は都と別れ、宣言通り保健室へ行ったものかと悩み、結局教室へと戻った。


 どうやら、放課後まで都は無事隠れきったらしい。特に騒動になることもなく、月彦はHRが終わるなりダッシュで裏門へと向かった。
「つっきー! おーそーいー!」
「ごめん、みゃーこさん。………じゃあ、お見舞いに行こうか」
「うん! お見舞い行く!」
 私服の女性との待ち合わせなど、知り合いに見られるわけにはいかない。月彦は辺りに注意しつつ、都の手を引いて早足に学校から離れた。
 が、うきうきとスキップになりかけの浮ついた足取りの都とは裏腹に、月彦の足取りは重い。まるで両足に二キロの重しでもつけられているかのように、学校から離れるに従って次第に速度が落ちていく。こうして自分が学校を離れている間に、悪意のある人物にボイスレコーダーが拾われ、自分を含めた三人の人生がめちゃくちゃにされるのではないかという危惧に、胃を搾られるような痛みを感じる。
「おっみまいー、おっみまいー」
 数年ぶりに霧亜に会えるというのが、本当に嬉しいのだろう。都は両手をわきわきさせながらぐいぐい歩き、時折立ち止まっては月彦が追いついてくるのを足踏みしながら焦れったげに待つという事を繰り返していた。
「つっきー、もしかして元気ない?」
「うん……元気ない」
 この状況で元気いっぱいな人間が居たら、それはきっとストレスとプレッシャーに堪えかねて心が壊れてしまった人間だろうと、月彦は思う。
「もしかして都のせい?」
「……いや、みゃーこさんは関係ないよ。俺の問題」
 むー、と都は不満げに唸る。
「ていうかみゃーこさん、ホントにそのままでいいの? 一度家に帰って着替えてきてもいいよ?」
 月彦はさりげなく促すが、当の都は何故わざわざ着替える必要があるのだろうと言わんばかりに首を傾げている。
(………少なくとも、下はスパッツのみって寒すぎると思うんだけど)
 夏場ならともかく、今は一月だ。しかし、当の都は別段寒そうなそぶりは全く見せていなかった。無論月彦は、自分が帰ってくるよりも先に葛葉が処分した都の元々の格好も下はスパッツ一丁であったことを知らない為、ことさら違和感を感じるのだった。
(ていうか……こうして見ると……みゃーこさんも随分変わったな)
 昔はそれこそ元気いっぱいの少女――年下の月彦から見ても、“年上のお姉さん”というよりは同級生の悪戯っ子という認識だったが――という感じだったのだが、さすがに二十歳を迎えた今となっては、少なくとも体つきだけは歴とした大人の女性のそれだった。
(肌の色も小麦色でいかにも健康って感じだし、胸もけっこうあるし、足もなんつーか……むちっとしてて……エロいな)
 ただ肉付きがいいというだけではない。あれだけ走り回れる筋力があってこそのむちむちとした太ももなのだろう。言うなれば機能美の類いだ。
(みゃーこさんの脚なら、むしろ黒タイツよりスパッツのほうがエロいな……)
 さぞかし締まりのほうも――とゲスな考えが浮かびかけて、月彦は慌てて首を振る。
(何を考えてんだ。この人は姉ちゃんの友達だぞ)
 手を出したりしたら、一体全体どういう事になるか想像も出来ない。
「都の足、何かついてるー?」
「ああいや……あ、足長いなーって思って」
「………? そんなに長いー?」
 都も、自分の足を見下ろし、首を傾げる。
「……って、みゃーこさん。……なんか、ポケット膨らんでない?」
 気落ちしたまま歩いていたため、気づくのが遅れた。先ほど学校内で会った時に比べて、明らかにポケットが膨らんでいるのだ。
「にしし。これはねー、さっき学校の周りでかくれんぼしてた時に拾ったのだー」
「が、学校の周りで拾った!?」
 まさかという思いに、月彦は思わず都に詰め寄り、その肩を掴んだ。
「み、みゃーこさん! それちょっと見せてくれないか!」
「やっ、ちょ……つっきー痛い……見たいなら見せてあげるよぉ」
 月彦の手をふりほどくなり、何故か都はジャケットを脱ぎ、それを逆さにしてばむばむと振る。たちまち、ポケットの中に詰まっていたものが、ガラガラと音を立てて歩道の上に散らばった。
「な、な、な」
「ねー、いっぱい落ちてたんだよー。つっきーも欲しい? どれでも好きなの一個だけあげるよー?」
「い、要らない……ていうかこれは何……ほ、骨?」
「うん。動物の骨」
 都のジャケットのポケットから落ちたもの。それは大小様々な動物の骨だった。白っぽいものが大半だが、黄色がかったものや紫がかったものもある。都はジャケットを羽織ると、散らばった宝石でも集めるかのように、それらを拾ってポケットに戻していく。
「だ、ダメだよみゃーこさん! そんなもの拾っちゃ……」
「えぇー……どうしてぇ?」
「いやほら……汚いし……なんか気味が悪いじゃないか」
「汚くなんかないよー、可愛いよー?」
「いや、少なくとも可愛くは……」
「つっきーは骨嫌い?」
「…………好きじゃないかな」
「そっかぁ」
 都は心底残念そうに肩を落とし、残りの骨を拾い集めると再びとぼとぼと歩き出す。
「あ、みゃーこさん。姉ちゃんの病院はそっちじゃないよ。ここで曲がるんだ」
「ん」
 都はくるりと踵を返し、月彦が示した方角へと歩き出す。
 が、骨は嫌いだと言われたのが地味にショックなのか、先ほどまでの浮ついた歩き方ではなくなっていた。
(……ちょっと気を悪くしちゃったのかな)
 とはいえ、さすがに拾った動物の骨なんてもらいたくはなかった。ほんの一瞬とはいえ、ボイスレコーダーが見つかったのではと期待してしまっただけに、地味に月彦の方のショックも大きかったりする。
「……ハンバーグ食べたい!」
「へ?」
「つっきー! ハンバーグ食べよう!
 焦れったげに都が指さす先はチェーン店舗のファミレスだった。
「…………みゃーこさん、もしかしてお昼食べてないの?」
「うん! お腹ぺこぺこ!」
 ふんふんと鼻息を荒げながら、都はぐっと握りしめた両の拳を胸の前に持ってくる。
「………………ま、いっか」
 特に断る理由も無い。病院の面会時間の終了まではまだかなり余裕はある。ファミレスで一休みしても問題は無いだろう。
(……マイペースにも程がある………………)
 だからこそ、“あの姉”の友人なのかもしれない。



「そういえばさ、みゃーこさん。ずっと聞きたかったんだけど」
「んに?」
 超特大ハンバーグ(1080グラム、ライスなし)の二皿目をむしゃむしゃと食べながら、都は微かに首を傾げる。
「……気を悪くしたらごめん。昨日からずっと思い出そうとしてるんだけど、どうしても思い出せなくって…………みゃーこさんって一体いつ引っ越したんだっけ?」
「引っ越しー?」
「あれ、引っ越しじゃない?」
「んー……どっちかっていうと、家出?」
「え……い、家出だったの!? 六年間も!?」
「むー……いろいろとねー……事情があったんだよー……」
「その事情っていうのは?」
「むー…………」
 都が、ナイフとフォークを置く。
「あれはねー………………」
 そして、また手に持つ。
「………………。」
 そのまま食事を再開してしまった。
「みゃーこさん?」
「むー? どうしても言わなきゃだめぇ?」
「どうしてもってワケじゃないけど……」
「………………嫌なことがねー……いっぱいあったんだよー……どうにもならなかったの」
「……そ……っか」
 誰しも人に聞かれたくない事はある。本人が話したがらないのであれば、無理に聞き出すのは酷というものだ。人一倍“人に話せない事情”を抱えている月彦には、都の気持ちが痛い程に解った。
(……そうだよな。みゃーこさんにとって、俺はただの“友達の弟”なんだし。そんな込み入った話なんて、普通しないよな)
 月彦が都の心中を慮って黙ると、都もまた食事を再開した。
「………………ごめん、みゃーこさん。やっぱり一つだけ、どうしても教えてほしい」
「んゆ?」
「みゃーこさんが事情があってこの町を離れていたのは解ったよ。でも、今回戻ってきたっていうことは、何らかの“解決”があったってことなの?」
「………………きららがねー…………入院したって聞いたのー…………」
 そういえば、葛葉もそのような事を言っていた事を、月彦は思い出した。
「じゃあ、姉ちゃんに会うためだけに……?」
 こくりと、都は頷く。
「そっか。…………ありがとう、みゃーこさん。姉ちゃんもきっと喜ぶよ」
 勿論、月彦は都の言葉の裏にあるものを察していた。何らかの事情があって地元を離れ、そして霧亜の入院を風の噂に聞いて戻ってきた。
 即ち、都の事情とやらは何も解決していないのだと。
「…………都もねー」
「うん?」
「つっきーを見てると、なんだかすっごくモヤモヤするの。…………なんでかな?」
「え……モヤモヤ?」
 うん、と都が頷く。
「なんかねー……つっきーの事で忘れてることがある気がするの……」
「俺のことで……何だろう」
「うーん?」
 都はナイフとフォークを鉄板の脇に置き、両手の人差し指で目尻の辺りを抑えるようにして首をひねる。
「いいや。思い出せないってことはー、多分大事なことじゃないんだよー」
「…………俺はすっごく気になるんだけど」
「ねえねえ、つっきーはハンバーグ食べないの?」
「へ?」
 唐突な話題の変更。月彦は一瞬理解が追いつかなかった。
「……俺は昼ちゃんと食べたから」
「ハンバーグ美味しいよ?」
「お、美味しくても……お腹減ってないから」
 ホットコーヒーに口をつけながら、月彦はさりげなく都から視線を外す。
 都の相手は正直疲れる――が、今はそれくらいがいいのかもしれない。都に振り回されている間は、少なくとも“例の件”で頭を悩ませることもない。ただの逃避に過ぎないとわかっていても、月彦にはそれがありがたくもあった。
「……みゃーこさん?」
 ふと気がつくと、都はハンバーグを半分に切り、自分が食べた一皿目の鉄板の上へと移していた。そしてそれを、月彦の目の前にずいと押し出してくる。
「つっきー、食え!」
「いやだから……」
「つっきー元気ないから、ハンバーグ食べて元気だせ!」
「量もちょっと多すぎ……」
「ハンバーグ食べれば、元気出る!」
「………………そうだね」
 都なりに気を遣ってくれているのだろう。たかが空腹ではないという理由だけで、それを無碍にするのは忍びない。月彦もまたナイフとフォークを手にとり、ハンバーグを食べ始める。
「ん、確かに美味しいね」
「うん、ハンバーグは美味しい!」
 うまうまと、都もまた残りのハンバーグをほおばる。本当に、なんて美味そうに食べるのだろうと、月彦も思わざるを得ない。
(もし俺が彼氏とかだったら、毎日でも作って食べさせてやりたいって思える笑顔だな)
 そういえば、都には彼氏とかは居ないのだろうか。まさか失踪してからずっと一人で放浪していたのだろうか。
「……って、みゃーこさん…………今度はいったい何を……」
 食事を終えたと思ったら、今度は席を立って屈伸運動などを始めている都に、月彦は聞かずにはいられなかった。
「準備運動」
 短く言って、都は今度は伸脚を始める。
 まさか、と月彦は顔を青ざめさせる。
「だ、ダメだ! みゃーこさん、それは犯罪だから!」
「ほえ?」
「お金、無いんだろ? だったら俺が出すから!」


 これほど目の離せない成人女性が居るだろうか。先ほどは都と一緒にいると余計な事を考えなくて済むからありがたいと思ったものだが、月彦は早くも後悔していた。
(神様、俺は嘘をつきましたごめんなさい。みゃーこさんのお世話は俺には無理です)
 早く姉の元へと連れて行って引き継ぎを済ませなければと。月彦はファミレスを出てからはやや早足で霧亜の病室へと向かった。
 が、今度はどういうわけか都の足取りのほうが重く、なかなかペースが上がらない。
「みゃーこさん? どうしたの?」
 もしかして、腹でも痛いのだろうか。病院に近づくにつれ都の歩みは遅く、その顔は渋いものになっていくのだ。
「…………怖い…………」
「怖い?」
「…………きらら…………怒ってる?」
「姉ちゃんが? どうして?」
「…………怖い……」
 病院の入り口を前にして、とうとう都は脚を止めてしまい、その場にしゃがみ込んでしまう。
「ちょ、みゃーこさん?」
 あんなに霧亜に会いたがっていたのに、ここに来て何故足を止めてしまうのか。
「怖い……」
「大丈夫だって、姉ちゃんだってきっと会いたがってるから」
「…………つっきー、きららに聞いてきて」
「へ?」
「怒ってないか聞いてきて。怒ってなかったら、行く」
「そんな……ここまで来て……一緒に行こうよ、みゃーこさん」
「いーやー!」
 手を取り無理に立たせようとしても、都はテコでも動かなかった。
(…………だから俺を連れてきたのか)
 本当はすぐにでも病室に駆けつけたいに決まっているのに。そのためだけに戻ってきたくせに。最後の一歩を踏み出す勇気がないというのは皮肉な話だった。
「……分かったよ。じゃあ、先に行って聞いてくるから」
 都と別れ、月彦は一人病院の中へと入る。受付を済ませ、階段を上がって霧亜の病室へと向かう。こうして姉の見舞いに行くのは何度目だろうか。病室が近づくにつれて、全身が緊張に強ばる。手に汗が滲み、ドアをノックする前には深呼吸を一回、二回、三回。
「……姉ちゃん、俺だけど……今入っても大丈夫か?」
 こんこんとノックをした後、返事を待つ。今はダメだという返事が無いということは、留守か入ってもいいという事であるから、たっぷり間をとって、月彦は入室した。
「よ、よぉ……姉ちゃん」
 ベッドに座って雑誌を読んでいたらしい霧亜は、ちらりと視線を上げて侮蔑の目で月彦を見る。が、すぐに雑誌へと視線を戻し、読書を再開する。
「あのさ……実は今日、もう一人姉ちゃんを見舞いたいって人が来てるんだけど」
「帰れって伝えて」
 霧亜の返事は早かった。ぺらりと、ページをめくる。
「……みゃーこさんなんだけど」
 月彦の呟きに、霧亜は瞬時に反応し、顔を上げた。
「言っていい冗談と悪い冗談があるのよ」
「ほ、本当だって! さっき、入り口まで一緒に来て――」
 そこまで口にした時にはもう、霧亜は松葉杖を掴み、ベッドから立ち上がろうとしていた。が、しかしあまりに焦りすぎたのか。それとも怪我の治りがまだ歩けるほどに回復していないのか。派手な音を立てて霧亜は病室の床に転がった。
「ね、姉ちゃん!? 大丈夫か!」
「……ッ……連れて来なさい。今すぐ」
「ま、待ってくれ……みゃーこさんは、姉ちゃんが怒ってたら会いたくないって言ってて……だから……」
「いいから、早く連れて来い!」
「は、はい!」
 姉の、感情を剥き出しにした怒鳴り声を、月彦は久方ぶりに耳にした。
 姉に勝てる弟など存在しない。当然逆らえるわけもない。月彦は光の速度で病室から駆けだし、病院の入り口で体育座りをしていた都の元へと戻ってきた。
「ね、ねえちゃんが……」
 体の限界を超えた走りに、肺と心臓が悲鳴を上げていた。言うべき言葉が、呼吸に邪魔されてなかなか紡ぎ出せない。
「いますぐ……来い、って……」
「きらら、怒ってた?」
「……わからない」
 月彦には、そう見えた。しかしその怒りは都に対してのものなのか、使えない弟に対してのものなのかまでは、月彦には判断がつかない。
「でも、姉ちゃんはみゃーこさんに会いたがってる。それは間違いないよ」
「…………。」
 或いは都にしてみれば、霧亜が怒っているかどうかよりも、その答えの方が遙かに重要だったのかもしれない。
「つっきー、一緒に行ってくれる?」
「……もちろん」

 



 都を連れて病室へと戻る。都は終始、月彦の背に隠れるようについてきた。
「……姉ちゃん、入るよ」
 ノックをして、病室の中に入る。自力でベッドの上へと上がったらしい霧亜は、縁に腰掛ける形で待っていた。
「都……」
「ひっ」
 霧亜と目が合ったのか、背中から都の悲鳴が聞こえた。
「隠れてないで、こっちに来て座りなさい」
 霧亜に促されて、都はしぶしぶ月彦の影から出、来客用の丸椅子をベッドの側へと置いてそこに座った。
「今までどうしてたの」
「…………。」
「どうして急に居なくなったの」
「…………。」
「黙ってたら分からない」
「姉ちゃん……みゃーこさんだって事情があったんだろうし――」
 キッ、と。心臓を射貫くような視線だけで、月彦は黙らされた。
「…………とにかく、無事で良かったわ」
 ふう、と。ため息混じりに言って、霧亜が肩の力を抜く。
「……きららは、どうして怪我したの?」
「事故」
 それ以上は言う気は無いとばかりに、霧亜は短く、切るように言った。
「月彦」
「は、はい!」
「都に何か飲み物を買ってきてあげて」
「わかった、みゃーこさん、何がいい?」
「…………いちご牛乳」
「イチゴ牛乳か、わかった。ひとっ走り行ってくる」
 病室を後にしようとした時、不意に霧亜の声が飛んできた。
「病院内で買うんじゃないわよ」
「えっ……?」
 霧亜は一拍おいてから、理由を口にした。
「割高だから」
「……わかった」
 月彦は、霧亜が言わんとすることを察した。故に病室を出た後も特別急がず、のんびり歩いて病院の敷地外へと出た。
(…………数年ぶりに会ったんだ。二人きりで積もる話もあるよなぁ)
 いろいろ大変ではあったが、連れてきて良かった――そんなことをしんみり思いながら、月彦は病院の周りを散策して時間を潰すことにした。

「ん? あの髪は……」
 散策も一段落し、そろそろ飲み物を買って戻ろうかなと、たまたま目に入ったコンビニに足を向けた時だった。
 見覚えのある金髪が、店内から出てきたのだ。
「月島さーん!」
「……っ……!」
 手を振り、声をかける――が、どういうわけかラビは月彦と目が合うなり一目散に逃げ出した。
「え……あ、あれ? 月島さん?」
 後を追おうかと二,三歩踏み出したところで、月彦は意外なラビの足の速さに驚いた。
「足、速っ」
 脱兎の如くとはまさにこのことだった。その姿は瞬く間に小さくなり、月彦の視界から消えた。
「何だろう……何か見られたら困るようなものでも買ってたのかな」
 髪型はアレだが、ラビも一応は年頃の女の子だ。そしてコンビニには様々な趣味の本が販売されている。
(そっか、そういうことか)
 奇妙な納得をして、月彦もまたコンビニへと入る。さりげなく雑誌コーナーを横目で見ると、成年向け雑誌の中には確かに、女性向けらしい内容のものが混じっていた。
 少しばかり内容が気にはなったが、こんなものを手に病室に戻った日には焼き土下座は免れない。月彦は当初の目的通りにイチゴミルクのパックを購入して、病院へと戻った。



 月彦が病室へと戻ったのは、お使いを命じられてからたっぷり一時間以上が経過してからだった。
 さすがに一通り話も終わっているだろうと、ほくほく顔で戻ってきた月彦は、病室に入るなり危うく手に提げていたビニール袋を落としかけた。
(……なっ……)
 一瞬、月彦は自分がどこか異国の教会――大聖堂のような場所に迷い込んでしまったのかと思った。
 もはや慣れ親しんだはずの霧亜の病室。しかしそこに広がっていたのは、天使と見まがう程に穏やかな顔をした姉と、その姉に甘えるように膝の上に頭をのせている都という図式。それはさながら、教会に飾られている一枚絵のように神々しく、月彦に衝撃を与えた。
(…………っ……)
 本来ならば、そのような荘厳な光景を目の当たりにして、月彦は感動に打ち震えるはずだった。しかしどういうわけか、霧亜と都の二人の様子を見て月彦が感じたのは、感動とは真逆のもの――もっとどす黒い、ドロドロとした感情だった。
(……俺の、姉ちゃんなのに)
 今まで、霧亜が数多の女性達とデートを重ねても、自室に引っ張り込んでも、そのように感じることは殆ど無かった。しかし今この瞬間だけは違った。普段は決して見せない穏やかな表情をする霧亜――姉にそのような顔をさせる都という存在が、心の底から憎く思える。
「…………遅い。いつまで待たせるの」
 ぐぎぎと歯を鳴らしかけていた月彦は、霧亜の不機嫌そうな声でハッと我に返った。
「んぁ!? いちご牛乳!」
 霧亜の声で、半分寝ていたらしい都も目を覚ましたのか、飛び起きるなり月彦のビニール袋に手を伸ばしてくる。
「わーい、いちご牛乳だー! つっきーありがとー!」
「……遅くなってごめん、みゃーこさん」
 戸惑いながらも月彦は袋を都に渡す。都は早速にパックにストローを差し込み、うまうまと飲み始める。
「…………まぁいいわ。代金」
「わ、っと!」
 霧亜の右手が光ったと思った瞬間には、学生服のネクタイに何か堅いものが辺り、跳ね返って宙を舞った。それが五〇〇円玉だと気づくなり、月彦は慌ててキャッチする。
「おつりは好きにしなさい」
「あ、ありがと……」
 月彦は驚きを隠せなかった。あの姉が、霧亜が。“お使いの代金”をくれるなんて、空前絶後の出来事だったからだ。
(俺の財布で勝手に買い物をする姉ちゃんが…………)
 どういった心境の変化だろうか。
(……みゃーこさんと再会できたのが、それだけ嬉しいってことなのか)
 またしてもぐぎぎと、都に対して嫉妬の炎が燃え上がる。
「都、ちょっと外してもらえる? 私はこのバカと話があるから」
「え?」
 そこは遠回しに言って都に悟らせる所じゃないのか――そう思って、月彦は気がつく。
(……いや、遠回しに言ったら、みゃーこさん解らないか)
 そういう“察する”ということは苦手そうな都の為に、あえてストレートに言わざるをえなかったのではないか。
 都はといえば、ちううううう、とストローでイチゴミルクを吸い上げ、ごっくんと大きく喉を鳴らして漸く、唇を離した。
「きらら、つっきーはバカじゃないよ」
「は、え?」
 まさかの都の返事に、月彦はもはや無い肝を抜かれる思いだった。
「バカよ」
「バカじゃないよ」
「…………。」
「つっきーはバカじゃないよ」
「………………“弟”と話があるから、ちょっと外して」
「うん!」
 都は大きく頷いて、病室から出て行った。
(…………すげぇ、姉ちゃんが言い直した…………)
 生きてさえいれば、信じられないものも見れるのだ。先ほど都に対して嫉妬の炎を燃やしたばかりだというのに、今度は尊敬の眼差しを向ける。そんな節操の無い弟に――どこまで察しているのかは不明だが――霧亜は露骨にため息をついた。
「あんただけ残したのは、釘を刺すためよ」
「釘……?」
「…………だいたいの事情は本人に聞いたわ。とにかく、私の手の届く所に戻ってきた以上は、もう二度と浮浪者みたいな生活なんてさせたくないの」
「あぁ……うん……そりゃあ……」
 仮に、親友である和樹が都と同じような状態で発見されたとしたら、自分でも姉と同じように思うだろう。
「とりあえずの住居と、アルバイト先は知り合いのツテで探してみるけど、すぐには見つからないかもしれないわ。その間、勝手にどこかに行ってしまわないように、あんたがしっかり見張ってなさい」
「ちょ、ちょっと待ってくれ、姉ちゃん! まずはみゃーこさんの家族に連絡するのが先じゃないのか!?」
「都の家族は……そもそも一緒に暮らしてたのは本当の両親じゃなくて叔父夫妻だったけど、都の失踪のすぐ後に引っ越してるのよ。行方を追う事は出来るでしょうけど、連絡はしないでほしいって都にはっきりと言われたわ」
「だけど……みゃーこさんに言われたからって……」
「私はあの子の意思を尊重したいの。……それに多分、連絡をしたところであの子も会いたくないでしょうし、その前にきっとまた姿を消してしまうわ」
 苦いものでも噛んでいるような姉の物言いに、月彦はそれとなく察する事が出来た。都の言った「いやなことがいっぱい」「どうにもならなかった」という家出の理由は、家庭的な問題だったのだろうと。
「住居探しの方は、多分そんなにはかからないわ。近場で、あの子でも住めそうな所を出来るだけ早く見つけてみせるから、あんたの仕事はその間絶対にあの子を見失わない事。わかった?」
「えーと……俺も結構忙しくて……」
「わ、か、っ、た?」
「わわわわわわかりましたぁ!」
 雪乃や矢紗美の“押し”など比較にならない。魂ごと鷲づかみにされて、地面に押さえつけられるような強制力に、月彦は即座に承諾した。
「それと、もう一つ」
 まだあるのか――月彦はげんなりする、が顔には出さない。出せるわけがない。
「“あいつら”の事。絶対に都には気づかせないようにしなさい」
「あいつら…………優巳姉たちの事か」
 確かに伏せていた方がいいかもしれない。霧亜が入院したという話を聞いただけで、数年に及ぶ失踪生活にピリオドを打って駆けつけるほど心配した都だ。
 ましてや、それが――確固たる証拠はないとはいえ――人災であったと知れば、どういう行動に出るかわからない。
「……あの子は純粋だから」
 霧亜はふっと、窓の外へと視線を移す。
「……そう、だな。確かに、姉ちゃんの言う通りだ。絶対に優巳姉達とはかちあわないようにする」
「…………。」
 霧亜はもう、何も言わなかった。何となく空気を読んで、月彦は静かに病室を後にした。



 病室を後にし、外で待っていた都と合流して、月彦は帰路についた。
「……姉ちゃんがさ、住むところはなんとかするから、もう二度と勝手に居なくなるなって言ってたよ」
「えへへー……」
 照れるような、それでいてばつが悪そうに頭を抑えながら、都はぺろりと舌を出す。心なしか、病院に来る前よりも都の笑顔は輝きを増しているように見えた。
(……命に別状があるわけじゃないって聞かされてはいても、やっぱり実際に顔を見るまでは心配だったんだろうな)
 その気持ちは、月彦にもよくわかる。事実、最初の見舞いの際の自分もそうだったからだ。
「……きらら綺麗になったねえ」
 何を馬鹿なことをと、月彦はむっと眉を寄せる。
「姉ちゃんは昔から綺麗じゃないか」
「あっはー!」
 何が嬉しいのか、都はぴょんぴょんと跳ね回るようにして声を上げる。
「昔よりもずっと綺麗になったよぉー! きらきらしてたもん」
「……きらきら……してるかな」
 姉が美人である事には全く異論の余地はないのだが、きらきらしていると言われると同意しづらいものがある。
(ずっと入院してて、服は着たきりパジャマだし、化粧もしてないし……)
 髪にラメをつけているわけでもない。きらきらしているという表現だけは、月彦は頷く事が出来ない。
「それに、元気だった!」
「あぁ、そりゃあね。別に重病とか、そういうんじゃないから」
「よかったぁ……」
 都は天を仰ぐ。いつの間にか日は落ち、夜の帳には銀の粒のような星々が煌めいていた。
「じゃあ、そろそろ帰ろうか」
「帰る……?」
「とりあえずみゃーこさんの新しい家が決まるまでは、うちに居なよ。姉ちゃんもそう言ってたし、母さんも反対はしないと思う」
「………………。」
 病室を出てから初めて、都は表情を曇らせた。
「……もしかして、他に帰らなきゃいけない場所があるとか?」
 ふるふると、都は首を振る。
「じゃあ、うちに居なよ。みゃーこさんだって、姉ちゃんの側に居られるほうがいいんじゃない?」
「……でも…………」
「俺は、みゃーこさんの事情っていうのがよくわからないけど、大丈夫。どんな問題でも、姉ちゃんなら何とかしてくれるって!」
「うん……」
 気が進まないのか、都の返事は掠れたような声になっていた。
(……こりゃあ、姉ちゃんに言われた通り、目を離さないようにしないとダメかもしれないな)
 とはいえ、昼間学校に行っている間は監視のしようも無い。まさか学校まで連れて来てどこかに隠れさせるわけにもいかない。
(……母さんに頼むしかないか)
 霧亜に命じられたのは、住処を捜すまでの間の都の見張りだ。つまりそこから先は、都の件は月彦の手を離れるという事になる。
「なぁ、みゃーこさん」
「ねえ、つっきー」
 声がカブッた。どうぞ、と月彦は都に譲る。
「あの子はだあれ?」
「あの子?」
「朝、つっきーの隣に座ってた子」
 今それを聞くのかと、月彦は危うく転びそうになる。
「えーと……従姉妹だよ。事情があって、今一緒に暮らしてるんだ。名前は真央」
 はて、真央が半妖である事までバラしてしまっていいのだろうか。少し悩み、月彦は決断を保留した。
「ふぅーん」
「それでさ、みゃーこさん――」
「ハンバーグ食べたい!」
 月彦の言葉は、都の突然の言葉に完全にかき消された。
「は、ハンバーグ……?」
「うん!」
「……病院に来る前に食べたよね?」
「お腹減っちゃった」
 きゅうー、と鳴る腹をさすりながら、都は恥ずかしそうに舌を出す。
「……母さんが夕飯作ってくれてると思うから、家まで我慢しようよ」
「おばさん、ハンバーグ作る!?」
「いや、それはわからないけど」
「ハンバーグ食べたい!」
 拳を作った両手をぶんぶん振りながら鼻息荒く都は言う。そのあまりの大声に、月彦は周囲の視線が突き刺さるのを感じた。
「わ、わかったよ……とにかく帰ったら母さんに頼んでみるから……ね?」
 車道脇の歩道とはいえ、それなりに人目はある。月彦は慌てて都の手を引き、人気の無い路地裏へと逃げ込んだ。
「……みゃーこさんもさ、もう大人なんだから……あんまり外で叫んだりとか――」
 ため息混じりに背後を振り返る。が、そこには都の姿は無かった。
「って、みゃーこさん!?」
 路地の遙か先を曲がる都の姿がちらりと一瞬だけ見え、月彦は慌てて後を追った。

 都の足は速かった。月彦はあっという間にその姿を見失ってしまい、途方に暮れた。ラビに引き続き都にまで簡単に蒔かれてしまい、ひょっとして自分は足が遅いのだろうかと、けっこう深刻に落ち込んだ。
 やむなく、藁にも縋る思いでファミレスを巡り、客席を見て回る――が見つからない。
(ヤバい……このまま失踪されたら、姉ちゃんに殺される!)
 昨日の今日――どころではない。“さっきの今”でいきなり見失ったなどと報告しようものなら、さすがの霧亜でも憤死してしまうのではないだろうか。……とにもかくにも、これ以上使えない弟という烙印を重ね押しされるわけにはいかない。月彦はそれこそ必死に夜の街を走り回った。
 そして、ついに都の姿を発見した。
「――って、ハンバーグ食いたいんじゃなかったのかよ!」
「んに?」
 都が居たのは、高架橋下の屋台のラーメン屋だった。月彦の声に反応するように、どんぶりを手に持ちずぞぞと麺をすすり上げながらくるりと振り返る。
「なんでラーメン食ってんだよ! ラーメンでもいいなら別に普通の夕食でもいいだろ!?」
「つっきー、怒ってる?」
「怒ってるよ!」
「お腹減ってるから?」
「違うよ!」
「おじちゃん、豚骨ラーメン一つ」
「まだ食うのかよ!」
「違うよぉ、つっきーの分」
「俺は食べない! ほら、みゃーこさん帰るよ!」
「わわっ、ちょっと待って……準備運動しないとお腹痛くなっちゃう」
「だーーーーーっ、金は俺が払うから!」
 また無銭飲食しようとしてたのか。月彦は目眩を覚えながらもしぶしぶ財布を開き、代金を支払う。
「……たくもう、頼むから、いきなり消えるのは止めてくれよ……マジで心臓に悪いから」
「つっきーもついて来てると思ってた」
「ついて行こうとしたよ! だけどみゃーこさんの足が速すぎてついていけなかったんだよ!」
「あははー、ごめんね。じゃあ、次から少しゆっくり走るね」
「そういう問題じゃなくて! どこか行く時はせめて一声かけてからにしてくれって事を言ってるんだよ!」
「わかった! 忘れちゃわないように頑張る!」
「頼むから忘れないでくれよ……みゃーこさんがまた消えたら、俺が姉ちゃんに叱られるんだ」
 月彦はもう、縋るように頼み込んだ。都の手を強く握り、“お願い”する。
「それから! 無銭飲食も止めてくれ! お店で飲み食いしたらきちんとお金を払わないとダメだ!」
「……でも、都はお金もってないよ?」
「それは……その辺については、姉ちゃんが何とかしてくれるはずだから……とにかく今夜はもう帰ろう。さんざん走り回ってもうくたくたなんだ……」
 踵を返して、月彦は帰路につく。ちらりと腕時計に視線を落とすと、いつのまにか八時を回っていた。
「……つっきー、まだ怒ってる?」
 とぼとぼと歩く月彦の横に、都が並び、うつむき気味の顔を覗き込んでくる。
「…………怒ってないよ。疲れてるだけ」
「つっきー、ごめんね」
「怒ってないってば」
「お詫びにおんぶしたげよーか?」
「おんぶって……」
 月彦が絶句していると、突然都の姿が消えた。――と思った次の瞬間には、両足が宙に浮いていた。
「うわっ、ととととぉ」
 股を何かが潜ったと思った時にはもう、都に肩車をされていた。危うく背後に倒れ込んでしまいそうになるのを、両手をばたつかせて何とか重心を前へと戻そうと試みる。
「ちょっ、みゃーこさっ……あぶなっ……それにこれ、おんぶじゃなくて肩車……」
 悲鳴を上げる月彦をよそに、都は凄まじい速度で走り出す。もはやこれは肩車ですらなかった。月彦は都に両足首を掴まれた状態で肩に担がれ、さながら風にたなびくマントのように、両手万歳の状態からどうすることも出来ない。
「ちょ、ちょぉぉ……し、死ぬっ……死ぬるぅぅぅl!」
 忍者は、足腰の鍛錬の為に腰に長い布を巻き、それが地面に着かないように走るのだという。――その腰に巻かれる布の気分というのは、こんな感じなのかなと。
 普段とは上下逆になった景色が凄まじい速度で流れていくのを見ながら、月彦は思った。


 都の件が一段落するまでは、テープレコーダー探しなど夢のまた夢だということを、月彦は思い知らねばならなかった。
「だーーーーーー! 姉ちゃんの机の上に拾った骨なんか置くなーーーーーーーーーーー!」
 翌日の夕方。学校から帰るなり――本当はレコーダー探しをしたかったのだが、何となく留守番をしている都の事が気になって、直帰した――月彦は都が寝泊まりしている霧亜の部屋を覗くなり一括した。
「ふえぁ!? つっきーおかえりー」
「おかえりーじゃない! しかも微妙に元の骨格を再現するような置き方をして……」
「あーん! つっきー弄っちゃだめー!」
 さすがにいきなり捨てるのは忍びず、適当なビニール袋に移そうとするとたちまち都は月彦のズボンにすがりつき、イヤイヤをする。
「…………悪いけど、姉ちゃんの部屋にこんなものがあるのは、生理的に許せないんだ」
 心を鬼にして月彦は動物の骨を片付け、ビニール袋に詰めて口を閉じる。
「…………ていうか、この部屋……なんか臭うような……」
 初めは、机の上に置かれた動物の骨に乾燥した屍肉でもこびりついていて、それが臭っているのかと思った。しかし、こうしてビニール詰めにして口を閉じて尚、その異臭は途絶えていない。
「……これ、か……?」
 部屋の隅に、見慣れないリュックサックが置かれていた。だいぶ年期の入ったカーキ色の超特大リュックサックはパンパンに膨らんでおり、少し近づいただけで異臭の元はそれであると解る。
「まさか……みゃーこさんの私物?」
 こくこくと、都は二度頷く。
「開けてみてもいい?」
「えーーーー………………特別だよ?」
 都はやや恥ずかしそうに頬を染め、リュックの隣に膝立ちになると、金具を外して上部に覆い被さっていた部分をぺらりとめくる。さらに口を縛っていた紐を緩め、ジッパーを開くと――。
「うわーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!」
 月彦はたちまち悲鳴を上げて、部屋の壁に張り付いた。リュックから最初に顔を覗かせたのは、文字通り顔――頭蓋骨だったのだ。
「みゃ、みゃーこさん……それは……一体何の……」
「牛さんだよー? こっちが馬さん、豚さん」
 都は動物の頭蓋骨を順番に取り出しては、絨毯の上に並べていく。
「ほ、骨ばっかり……まさかそれ全部骨なの!?」
「全部じゃないよぉ……ほら!」
 と、都は握り拳大の革袋を取り出し、その口を開いて中身をサラサラと、手のひらに乗せる。
「えっ……みゃーこさんそれは……」
「にしし。キレイな砂ー」
「砂っていうかそれ……砂金なんじゃ……」
「磁石にくっつくー?」
「それは砂鉄。金は磁石にはつかないよ。ていうかこれどうしたの?」
「川の中でねー、キラキラしてたから頑張って集めたの! つっきー欲しいならあげるよ?」
「…………いや、これはみゃーこさんが持ってなよ。貴重な財産だよ」
「財産?」
「お金になるってことだよ」
「お金……ハンバーグ食べられる!」
 都は拳を握りしめ、鼻息を荒くする。
「つっきー! これはこれは? これはお金になるー?」
 がさごそと、都はリュックの中から古びたビニール袋を取り出し、月彦の前にどんと置く。
「これは……」
「貝殻!」
「…………お金にはならないかな。ていうか臭っ……さっきの骨もだけど、みゃーこさん拾う前にせめて洗いなよ」
 ビニール袋の中には、大小様々な貝殻が入っていた。二枚貝に限らず、巻き貝などもあるが、金銭的価値としてはせいぜい海辺の土産物屋でキロ100円あたりで買い取られるのが関の山ではないだろうか。
「……いや、待てよ……この底の方にあるのはまさか……」
 月彦は異臭を放つビニール袋に鼻をひくつかせながらも手をいれ、袋の底の方でキラリと輝きを放つ粒をつまみあげる。
「真珠だ。これは売れるかも」
 袋の底には、まだいくつもあるようだった。月彦は一度階下へと降り、古新聞をいくつか手に霧亜の部屋へと戻る。絨毯の上に新聞紙を広げ、その上に貝殻の入っていたビニール袋をぶちまけ、真珠だけを拾い上げていく。
「50コくらいはあるか……でも真珠ってモノによってピンキリだった気がするんだよなぁ……」
 とはいえ、ただの貝殻より価値があるのは間違いない。月彦は古新聞と一緒に取ってきたビニール袋に真珠だけをより分け、封をする。
「って、だから部屋の中で組み立てるなぁあああ!」
 ふと、後ろを振り返った月彦は突如出現した不気味な骨像に叫ばずにはいられなかった。
「あぁーーーー! つっきーひどいよぉ!」
 どんがらがっしゃーん!
 まるで立体パズルのように組み立てられていた不気味なオブジェを、月彦は無慈悲に崩した。たちまち都が悲鳴を上げ、掴みかかってくる。
「ひどいひどいひどいよつっきー!」
「酷くない! 姉ちゃんの部屋の中でこんなもの作っちゃダメだ!」
「ひどいひどいひどいーーーーー!」
「…………いやだから」
「つっきーのバカぁーーーー!」
「…………せ、せめて……ちゃんと洗ってからにしようか。俺も洗うの手伝うからさ」
 月彦は妥協し、結局その日は夜中まで都の私物の整理――骨洗いは途中から真央も手伝った――に費やされた。

 

 


「てなワケで、みゃーこさんの私物の中で、一応換金できそうなものだけリストアップして書いてきた」
「…………。」
 翌日の夕方、月彦は再び霧亜の病室を尋ねた。都の今後の身の振り方を考えるにあたって、どうしてもある程度の資金が必要になるはずだと思ったからだ。幸い、都のリュックの中身は八割ほどは骨や貝殻などで埋め尽くされていたが、残りは砂金や真珠、そして宝石の原石らしいものが混じっていたのだ。
 それらを換金すれば、ある程度まとまった額になるのではないか。となれば、都の“新生活”の準備を進める霧亜の苦労も軽減されるのではないかと、月彦は考えたのだった。
「……あの子らしいと言えばらしいけど…………ちゃんと同意は得ているの?」
「骨以外ならいいってさ」
「真珠はともかく、砂金はそれなりの金額になるかもしれないわね。…………宝石の原石なんて一体何処で拾ってきたのかしら。……とにかく、近いうちに知り合いの宝石商に引き取りに行かせるわ」
「姉ちゃんの“知り合い”なら、相場の三割増しくらいで買い取ってくれるかな?」
「五割増しって言っておくわ」
 この手の冗談を嫌うはずの霧亜が、珍しく乗ってくる。月彦が作成したリストを掛け布団の上へと放り、ふぅとため息混じりに目を瞑る。
「何にせよ、良かったわ。…………これでもう少しまともな住居を探してあげられるもの」
「…………本当は、“叔父さん”に知らせるのが一番なんだろうけど…………姉ちゃん、本当に黙ったままでいいのか?」
「…………都は伝えないで欲しいって言っていたわ。私は、あの子の意思を尊重する」
 霧亜の返事は以前とまったく変わらなかった。
「………………わかったよ、俺も余計な事は言わない」
 当事者である都が望み、親友である霧亜までもが黙っているべきだと判断しているのだ。部外者である自分にはそもそも口を出す権利などない。
 なのに。
(……なんか、モヤモヤするな)
 自分は、都にとってただの“友達の弟”に過ぎない事は百も承知だ。同様に、月彦にとっても都はただの“姉の友達”に過ぎないはずだった。しかし、こうして生活の面倒を見るための使い走りのような真似をさせられ、肝心なところでは「あんたは部外者だから」と頭ごなしに押さえつけられるのは、正直不満を感じざるを得ない。
(……いや、違うな)
 月彦自身、“モヤモヤ”の正体は薄々解っていた。それはのけ者にされる不満などではない。単純に、純粋に。姉と特別な絆で繋がっているらしい都に嫉妬しているのだ。
 俺の姉ちゃんなのに――霧亜が都の事を愛しそうに語る度に、ぐぎぎと歯ぎしりをしたくなる。これではまるで恋人の口から語られる他の男の話に苛立っている、嫉妬深い彼氏ではないか――。
(……くそ、落ち着け、俺…………みゃーこさんは姉ちゃんの彼氏でもなんでもない、ただの友達なんだから)
 そう、嫉妬などするに値しないはず――なのだ。頭ではそうだと解っているのに、狂おしくて堪らない。
(…………“友達”でこんなに胸が苦しいなんて…………もし姉ちゃんが彼氏なんか作ったら……)
 ストレスで発狂死するのではないか――そんな想像に、月彦はゾッと肝を冷やす。つくづく霧亜が女性趣味で良かったと痛感する瞬間だった。
「あの子……」
 詮無い妄想が、霧亜の一言で中断された。
「様子はどんな感じかしら」
「みゃーこさんの様子? 良くも悪くもマイペースって感じかな」
「今日の午前中、あの子が一人で見舞いに来たんだけど、その時は私も同じ印象を受けたわ」
「…………?」
 姉の言っていることが、月彦には理解出来なかった。昼間に自分も会っていて、特に問題は無いという印象を受けておきながら、何故気にかけるのか。
「いつも通りなのが、何か問題なのか?」
「……六年前、あの子が居なくなった時もそうだったのよ」
「あっ……」
「…………ううん、違うわ。今にして思えば、予兆はあったのよ。だけど――」
 そこでハッと、霧亜は口を閉じる。らしくないまでに、慌てて口元を手で覆いまでした。
「予兆があった……? 姉ちゃんはみゃーこさんの様子が変だって気づいてたのか?」
「………………そうね、全く何も気づいてなかったと言ったら嘘になるわ」
「なんだよそれ……じゃあ、みゃーこさんが家出したのって、半分は姉ちゃんのせいじゃないか」
「………………。」
「姉ちゃんがみゃーこさんの様子が変だってちゃんと気づいて相談に乗ってやったりしてたら、みゃーこさんだって……」
「………………。」
 霧亜は黙り込んだまま、何も言い返してこなかった。ただ、その目の光だけがどこか悲しげに、物言いたげに月彦の姿を写す事を避けるように伏せられる。
「…………とにかく、姉ちゃんの気持ちはよくわかった。みゃーこさんがまたどこかに行っちまうんじゃないかっていう心配も解る。できる限り目を光らせておくよ」
 沈痛めいた顔で黙り込んでいる姉を見ているのが辛くて、月彦は早口に言って足早に病室を後にした。


 病室を出た後で、月彦はふと、一つの疑問を抱いた。否――正確には、思い出した。
(…………みゃーこさんが失踪する前、姉ちゃんは様子がおかしかったって言ってた。でも、どうして俺は覚えてないんだ)
 勿論、霧亜としても“今にして思えば変だった”と言える程度の違和感だったのかもしれない。だとしたら、自分がその違和感に気がつかなかったのは当然だとも言える。
 しかし、月彦が不思議なのはそのことではなかった。失踪前の都に違和感があったかどうか以前の問題――“失踪した時”の事を、何故自分が覚えていないのか。
 仮にも姉の友達だった人物だ。それがいきなり蒸発したとなれば、周りは当然騒ぐであろうし、そういった騒動があったとしたら記憶に残らないはずは無い。であるのに、どれほど思い出そうとしてもそんな騒動は思い出すことが出来ない。
(……戻って姉ちゃんに聞いて見るか)
 病院の入り口ではたと足を止め、月彦は悩んだ。
(…………やっぱり母さんに聞こう)
 そんなのはあんたの記憶力が悪いだけの問題だと言われそうな気がして、月彦は――たとえ同じ事を言われるにしても――せめて優しい口調で教えてくれそうな母を選ぶことにした。
 やや急ぎ足で自宅へと帰ると、玄関を開ける前から夕飯の支度らしい香りが漂っていた。
「ただいまー」
「あら、おかえりなさい。ご飯もうすぐできるわよ」
「りょーかい。んじゃ俺も手伝うよ、母さん」
 月彦は鞄と上着を階段の途中に放り出し、カッターシャツの袖をまくって洗面台で入念に手を洗い、葛葉の元へと戻る。
「あらあら……お小遣いが足りないのかしら」
 息子の気まぐれに、葛葉はくすくすと微笑を浮かべる。
「違うよ。俺だってたまには手伝いくらいするって。……真央とみゃーこさんは?」
「二人とも部屋じゃないかしら」
「そっか。……えーと、洗い物をすればいい?」
「お願い。すごく助かるわ」
 調理に使ったらしいボールやらすり鉢やらすりこ木やらが流し台に置きっぱなしになっており、ひとまず月彦はそれらを洗うことにした。
「…………そういえばさ、母さん」
 そしてさりげなく、葛葉に話題を振る。
「…………みゃーこさんが居なくなった時の事って、覚えてる?」
「あのときは大騒ぎだったわねぇ」
 葛葉はジャガイモの皮をてきぱきと向きながら、少し遠い目で呟く。
「そ、そんなに大騒ぎだったの?」
「中学生の女の子が居なくなったんですもの。ご近所さんみんなで捜したりもしたわね」
「………………俺、全然覚えてないんだけど」
「………………?」
 どういうわけか、葛葉はぽかんと。呆れたような顔をしていた。
(う……まずい…………呆れられたか)
 やはり、純粋に記憶力が足りないだけだったのか。月彦がしょぼーんと落ち込みかけた、その時だった。
「あなたは居なかったでしょう?」
 あまりにも予想外過ぎる葛葉の言葉に、月彦は一瞬母親が何を言っているのか理解出来なかった。
「…………え?」
「五年前……もう六年前になるかしら。もう一人、行方不明になった中学生の男の子が居たでしょう?」
「あっ……あーーーーーーーーーーーーーーーーーーっ!!!」


「霧亜先輩の……友達?」
 耳を疑うような由梨子の呟きに、真央は共感せずにはいられない。何故なら、数日前都と初めて出会った際、自分も全く同じ印象を受けたからだ。
「うん。少し前からうちに泊まってるの。ずっと行方不明だったんだって」
「行方不明……」
 由梨子はどういう顔をすれば解らないと言いたげに、視線を膝の上の弁当箱へと落とす。今日は日差しが暖かいということで、外――体育館脇の小さな階段状のコンクリートに座って――で昼食をとることにしたのだった。
「えっと……どういう感じの人なんですか?」
「いい人だよ。ちょっと変わってるけど……」
 そう、“悪い人”ではない。少なくとも、以前家に泊まった父親の従姉妹に比べれば、間違いなく“いい人”だ。
「ずっと行方不明だったから、家とかも無くって……だから今、姉さまと父さまが頑張って新しいお家を探してるみたいなの」
「……だから先輩、最近すごく忙しそうにしてるんですね」
「姉さまの友達だけど…………やっぱり、なるべく早く出て行って欲しいみたい」
 その呟きには、少なからず真央の本音も混じっていた。すでに何度、月彦とのイチャイチャを邪魔されたか知れない。
「……でも、霧亜先輩にも……ちゃんと友達って呼べる相手が居たんですね。意外ですけど、なんだかホッとしました」
「あっ……それは……」
 霧亜が自分で「この子は私の友達」だと宣言したわけではないから、厳密には違うかもしれない――真央はそう言いかけて口ごもる。あの霧亜の事だ、例え本当に友達であったとしても、自分の口からは決してそのような事は言わないのではないか。
(由梨ちゃんは……姉さまのこと…………恨んだりしてないのかな)
 霧亜にも友達が居て安心した――少なくとも真央には、由梨子の言葉は嫌味などではなく本音に聞こえた。一体、由梨子は今、霧亜に対してどのような感情を持っているのか確かめたいと思う反面、親友としてそれだけは口にしてはいけないとも思う。
「私も……私なんかと一緒にはされたくないって、霧亜先輩は言うかもしれませんけど…………友達とか作るの凄く苦手なんです。親友って呼べるような友達なんて……真央さんの他にはたった一人しか――」
 そこまで口にしかけて、由梨子は静かに首を振る。
「母から家事を任されっきりで、学校が終わったらすぐ帰らなきゃいけないから……だから自分にはちゃんとした友達が出来ないんだって。作る暇がないからしょうがないんだって。ずっとそんな風に言い訳をしてました。……高校に入って、テニス部に入ったのはそんな自分を変えたかったっていうのもありました。……結果的には、失敗しちゃいましたけど」
 由梨子はふと、視線を空へと向ける。
「私も……“こっち”に来るまでは、由梨ちゃんと会うまでは友達なんて一人も居なかったよ。由梨ちゃんが初めての――」
 そこまで口にしたところで、不意に真央は“影”が差すのを感じた。
「あーあーやだやだ。二人っきりでコソコソ何キモい話してるの?」
「……珠裡、さん」
「珠裡ちゃん……」
 由梨子も真央も慌てて、手元の弁当箱から顔を上げる。腕組みのまま仁王立ちしている珠裡はふんと、まるで汚物でも見るように見下ろしてくる。
「そこはね、私のお気に入りの場所なの。どいてくれる?」
 見れば、珠裡もまた弁当包みを手にしていた。なんとも古風な、唐草模様の弁当包みだった。
「じゃあ、私たちが横に詰めますから、珠裡さんも座って一緒に食べませんか?」
 真央達が腰掛けているのは、体育館の脇にある、数段ほどしかないコンクリートの階段だ。その横幅はお世辞にも広いとは言えないが、少し詰めれば女子生徒三人が並んで昼食を取るには十分のスペースがある。
「い、や、よ。どうして私がバカギツネと陰気女の日陰コンビなんかと一緒にお弁当食べなきゃいけないのよ。折角のお弁当がマズくなるからとっとと消えなさいよ」
 あんた達には日陰がお似合いよと。まるで野良犬でも追い払うようにシッ、シッ、と珠裡が手を振る。
「あっ、珠裡ちゃん。そこ」
 真央はついと珠裡の足下を指さす。
「ほら、そこ。珠裡ちゃんの足下、カエルさんが居るよ」
「ひぇあ!? か、カエル!? カエルどこ!?」
 たちまち、珠裡はその場から飛び退こうとして、慌て過ぎたのかそのままバランスを崩して渡り廊下の上に尻餅をついてしまう。
「真央さん、意地悪しちゃダメですよ。珠裡さんはカエルが苦手なんですから」
 意地悪しちゃダメ、と言いつつ、由梨子もくすくすと笑っている。うー!とうなり声を上げたのは、転んで縞模様パンツを盛大に晒してしまっている珠裡だ。
「だ、騙したなぁ! バカギツネのくせにぃ!」
「バカっていうのは、騙される方の事をいうんだよ」
「ま、真央さん! 珠裡さんも…………ケンカはそれくらいにして、一緒にお昼にしましょう。そーだ! 珠裡さんのお弁当ってどんなお弁当ですか?」
「うるさいバーカ! バーカバーカ! 私がどんなお弁当食べようがお前達には関係ないだろ!」
 珠裡は喚き散らし、側に転がっていた弁当包みを手に立ち上がる。――が、その持ち方が悪かったのか。はたまた包み方が悪かったのか。弁当包みからずるりと漆塗りの黒い弁当箱が顔を覗かせたと思った時にはもう遅かった。。
「あっ……」
 ジャムを塗った食パンを絨毯の上に落としたとき、ジャムを塗った面が下になって落ちる確率は絨毯の値段の高さに比例するのだという。それはさておき、珠裡の弁当箱は地面へと落ち――しかもそれは重箱の一段目だけを取り外したような弁当箱で、プラスチックの留め金のようなものは一切ついておらず、蓋を固定するバンドのようなものも無かった――ワンバウンドした後にぐしゃあとその中身を盛大に散らしてしまった。
「あーーーーーっ! 私のお弁当−−−−−−−っ!」
 目の前で起きた思いもよらぬ惨劇に、由梨子も、真央も言葉を失った。
 がっくりと、珠裡は膝から崩れ落ちる。その両目には、溢れんばかりの涙が溜まっていた。
「うわーーーーーーん! バカギツネが私のお弁当ぐしゃぐしゃにしたーーーーーーーーーーーーーーーッ!!」
 えっ?――珠裡の叫びに、真央は一瞬軽い混乱に陥った。
(私の……せい?)
 確かに、珠裡の態度が腹に据えかねて、カエルが居るとからかって転ばせた。しかしそれと弁当の件は関係が無いのでは。
「えと……今のは……」
 由梨子も同様のことを思ったのか、言葉に詰まりながら珠裡と真央の方を交互に見る。珠裡はと言えば、えぐえぐと嗚咽を漏らしながら、土の上に散らばった白米やらおかずやらを弁当箱の中に詰め直していた。
「あっ……珠裡さん、良かったら私のお弁当――」
 由梨子が立ち上がり、珠裡に自分の弁当箱を差し出そうとする――そんな由梨子のほうを見ようともせず、珠裡は力任せに由梨子の弁当箱を撥ね除ける。
「私に近寄るな!」
 あっ、と思った時には、由梨子の弁当もまた地面の上に転がっていた。不幸中の幸いは、きちんと蓋がしまっていてその留め金も落下の衝撃に十分堪えきったことだった。
 珠裡は、そんな由梨子の弁当箱など見向きもせず、自分の弁当箱の処理を終えるや、弁当包みで包み直し、その場を後にする。
「珠裡ちゃん……」
 ごめんなさい――そう口にしかけて、真央は止まる。悪いのは自分ではないという思いと、自分の方が年上なのだから譲歩しなければという思いが鬩ぎ合い、結果的に金縛りとなっていた。
 そんな真央の隣に、弁当箱を拾った由梨子が戻り、腰をおちつける。
「……表面に少し土がつきましたけど、中は無事みたいです」
「……良かったね、由梨ちゃん」
「珠裡さんには、悪いことしちゃいましたね」
 由梨子の言葉に、真央は苦笑しか返せない。悪いことを“した”という程に何もしてないのではないかと思うからだった。真央の判断基準では、先ほどのはただの珠裡の自爆なのだが、それですら自分たちが悪いという事になるのだろうか。
「今は何を言っても無駄だと思いますから…………あとで、少し時間を空けてから、一緒に謝りに行きましょう」
「……うん」
 正直、あまり気は進まない。が、由梨子がそうしようと言うのならば、真央としては断れなかった。
「…………仲良くなるいいきっかけだと思ったんですけど、残念です」
「……由梨ちゃんがそのつもりでも、珠裡ちゃんにその気がなかったら無理だよ」
 そして由梨子とは違い、真央には由梨子ほどには積極的に珠裡と距離を縮めたいという気持ちは無かった。珠裡自身を好きになれないということも勿論だが、やはり“狸と仲良くする”という事自体に強い抵抗を覚えるのだ。
「……最近、珠裡さん……いつも一人ですよね」
 由梨子に言われて、真央も気づく。そういえば、以前一緒に居た取り巻き達とは、いつのまにか行動を別にしている事に。
「クラスのみんなとも、だんだん話が合わなくなってきてるみたいなんです。いきなり常識外れな事を言ったりして、周りを引かせたりする事もありますし……。……私と真央さんは、“事情”を知ってますから、ある程度は仕方ないって思えますけど……」
 確かに、珠裡がクラスの中で浮きつつあるのは、真央も感じていた。そもそも“準備不足”だったのだと、真央は思う。
(私だって、姉さまがいろいろ教えてくれなかったら……)
 或いは、珠裡以上に浮いた存在になってたかもしれない。
(…………今度は、私が教える番……なのかな)
 しかし、肝心の珠裡がああいう態度ではそれも難しいと、真央は思うのだった。



 今日はバイトの日ということで、学校が終わるなり由梨子は足早に帰ってしまった。学校に一人残る理由もなく、真央もまた帰路につく。
(……やっぱり、仲直り出来なかった)
 五時限目の後、由梨子と共に珠裡に謝ったのだが、口すら利いてもらえなかった。元々謝る気が薄かった真央としては、許してくれないのならしょうがないという程度の問題でしかなかった。
 むしろ何の関係も無いはずの由梨子のほうが随分気に病んでいる様子だったのが、真央には辛かった。珠裡は昼食を抜いたらしく――そして成長期な為か――午後の授業中はひっきりなしに腹の虫を響かせていた。珠裡自身、顔を赤くしていたから堪えようとはしているのだろうが、まるで教師の発言に合いの手を入れるような腹の音に、クラスメイトからは失笑が耐えなかった。
(……お腹が減ってるなら、パンとか買って食べればいいのに)
 さすがに真央は笑わなかったが、そんな事を思った。パンを買うお金がないのか、或いは珠裡なりの意地だったのかもしれない。
(さっきはごめんね、って……パンをあげたら仲直りできたのかな)
 一瞬考えて、真央はすぐに首を振った。由梨子が差し出した弁当のように、撥ね除けられる未來しか見えなかったからだ。
(…………珠裡ちゃん、学校に来てて楽しいのかな)
 初めは物珍しさもあって構っていたクラスメイト達も、急速に離れていきつつある。珠裡も当然演技はしているのだろうが、その裏に見え隠れする自分たちを見下す態度を、クラスメイト達は敏感に感じ取っているようだった。
 放っておけば、遠からず珠裡はドロップアウトしてしまう事だろう。そのことを月彦に告げれば、何とかしてやれと言われるのは目に見えている。――故に、真央は珠裡の事については、極力月彦に何も言いたくないのだった。
(せめて、珠裡ちゃんが“本当の妹”だったら……)
 同族とまでは言わない。せめて狸ではなく人間であったならば。血のつながった妹であったならば。どれほど我が儘を言われようと、きちんと面倒を見るのに――そんな詮無い事を考えているうちに、いつのまにか自宅の前までたどり着いてしまっていた。
「ただいま……」
「あーっ、マオマオおっかえりー! 待ってたよーーー」
 ブルーな気分にあまりに似つかわしくないハイテンションな声に出迎えられて、真央はずしりと両肩に重しでも乗せられたような気分になる。
「……ただいま、都さん」
 おそらくは、一人で留守番をしていて退屈しきっていたらしい。その姿はまさに飼い主の帰宅を待ちわびていた飼い犬のそれだった。最初の夜は真央のパジャマを着替えとして着ていた都だが、翌朝には何着かの服を葛葉に買ってもらったらしく、今着ている部屋着も真央の見覚えのないものだった。
(……義母さま、一体何処で買ってきたんだろう)
 白の薄手のパーカー型の上着はまだいいとして、問題はその下だった。上は水着の代用にも出来そうな、黄のスポーツブラのみ。そして下は紺のホットパンツというのは、いかに部屋着とはいえ冬場の服装ではないのではないか。
(……おへそ丸出しだし……)
 都はパーカーの前を一切閉じて居らず、健康的なヘソが丸出しになってしまっている。堂々としている本人とは裏腹に、真央のほうが何故か恥ずかしくなり、直視出来ずに目線を逸らしてしまう。
「ねえねえ、つっきーは? 今日も帰り遅い?」
「とうさ――……先輩なら、もう少し遅くなると思う」
 視線を逸らしたまま、真央は答えた。勿論それは霧亜の病室に寄らなければの話だった。寄れば、さらに遅くなるだろう。
「そっかー……マオマオ、二階におやつあるよ! 一緒に食べよう!」
 都に背を押される形で、真央は二階――霧亜の部屋へと連れ込まれる。
「ま、待って……着替えさせて」
 が、すんでの所で都の手を振り切り、いったん月彦の部屋に入って部屋着へと着替える。トレーナーにデニムパンツという色気の欠片もない格好だが、月彦に見せるのでなければ特にこだわりは無かった。
「マオマオ〜……まだぁ?」
 都も、一応プライバシーというものはわかっているらしい。着替える、と言えばむやみに部屋に入ってくるようなことはせず、きちんと部屋の前で待っているのがその証拠だ。
「えっへへー……マオマオー……かーわいい」
 着替えを済ませて部屋から出るなり、頭をナデナデされる。年こそ離れているものの、身長差はさほどではなく、自分と大して目線の変わらない相手から、まるで小動物でも可愛がるような手つきで撫でられると、うれしさ半分困惑半分だったりする。
「ねえねえ、尻尾触らせて!」
 そして霧亜の部屋へと連れ込まれ、折りたたみ式のテーブルの上に広げられたお菓子をつまみながらの、そんなおねだり。
「えと……その……尻尾、触られるの……実はあんまり好きじゃなくて……」
「えぇぇー……ダメ?」
「……はい」
「どうしてもだめ?」
「…………。」
「尻尾! マオマオの尻尾、触りたいー!」
「…………少し、だけなら……」
 根負けして、渋々真央はしゅるりと耳と尻尾を露わにする。……実は月彦と相談の上で都に正体を明かしはしたのだが、意外にも都はさほどの驚きを見せなかった。それよりも、触らせて触らせてとそればかりをねだられ、結局こうして毎日弄られることになってしまった。
「あはっ! しっぽー! マオマオの尻尾ふっさふさー!」
「ううぅ……」
 真央は都に背を向ける形で、ゾゾゾと尾の付け根からわき上がってくるものから必死に気を逸らし続ける。幸いなことは、都は純粋に、ただ尻尾の手触りを楽しみたいだけであり、それ以外の邪な目的などは一切無いらしいという事だった。
「マオマオ、キレイキレイしてあげるねー」
「んっ……」
 都に背を向けている為、何をされているのか真央は“触感”から察するしかない。どうやら櫛でも使われているようだった。尾の付け根のほうから、先端の方へ。断続的に何かが這うような感触。
 それが途絶えたと思ったら、今度はなにやら生暖かく湿ったものが尻尾に触れ、真央は何事かと背後を振り返った。
「やっ……ちょ、都さん! 何、して……」
「クンクンクン……マオマオの尻尾いーにおいー……」
 見れば、都は尻尾に鼻を押しつけるようにして、スーハスーハと匂いを嗅いでいた。さすがに恥ずかしくて、真央は四つん這いのまま体を逃がす。
「あっ、マオマオ逃げないでー! えいやっ」
「きゃあっ!」
 むぎゅ、と都にしがみつかれる形で、真央は絨毯の上に転がる。
「あははー! マオマオのお腹ぷにぷにー!」
「止めて、ください……お腹、くすぐっ……ひゃん!」
 体を拘束する都の手がトレーナーとその下に着ているシャツをまくし上げ、露出した腹部をつまみ始める。それがあまりにくすぐったくて、真央は笑い声を上げてしまう。
「えいっ、えいっ、マオマオのぷにぷにお腹ー!」
「ぷにぷにって言わな……っ……ひゃあああ!」
 こちょこちょと脇腹を本格的に擽られ、真央は目尻に涙を浮かべながら笑い転げてしまう。
「はーっ…………はーっ…………」
 そのまま5分ほどは擽られ続けただろうか。漸くにして都のくすぐり攻撃が終了し、真央が慣れぬ刺激にぐったりと横になったまま呼吸を整えていると、今度は都の方が真央の手をとり、自分の腹部へと押しつけてきた。
「ほらほらー、都のお腹はかちかちだよー?」
 確かに、都の腹部は見た目こそ普通の引き締まった腹部だが、薄い脂肪の層の下にはしっかりと発達した筋肉が隠されているようだった。
「マオマオのお腹はーぷーにぷにー」
「や、止めてください! もうっ、都さんだって脇腹弱いじゃないですかぁ!」
 これはもう反撃するしかない。真央は怒ったような声を上げて、反対に都を押し倒し――都の方も、これは遊びの一環だと解っているようで、さしたる抵抗もせずに簡単に押し倒された――その脇腹をつんつんと突く。
「はひゃぁっ! やんっ、マオマオ、そこはダメだってぇ!」
「さ、先に触ったのは都さんじゃないですか」
 今度は都もやりかえしてきて、壮絶なくすぐり合いが始まった。
(…………姉さまの友達なのに)
 擽り合いながら、真央は意外だと感じざるを得ない。“あの霧亜の友達”ということで、出会った当初は体を触られることを警戒していた真央だったが、都の手つきにはそういった邪心は微塵も感じられないのだった。
「えーい、マオマオのおっぱいー! うわっはー!」
「み、都さん……」
 絨毯の上に押し倒され、トレーナーの上から顔をぐりぐりと押しつけるように埋められて尚、真央は都の行為には何ら邪なものを感じることが出来ない。さながら、子供がふざけて母親のおっぱいに甘えるような、そんな印象しか受けないのだ。
「マオマオの都のおっぱい触るー? おっぱいはカチカチじゃないけど」
「……じゃあ、少しだけ……」
 別に触りたくはなかったが、断ると都に悪いような気がして、真央は渋々手を伸ばして都の胸元に触れる。
「もっとぎゅーって触っていいよー?」
「じゃあ……」
 真央はスポーツブラの上から、ぎゅううとやや強めに都の乳房を掴む。掴みながら、無意識のうちにその大きさの程を頭の中で計算する。
(88……くらいかな)
 おまけして90くらいだろうか。世間一般的には、十分“巨乳”と言えるレベルなのは間違いない。
(…………父さま、大丈夫かな)
 小麦色の肌。普段着でヘソだしホットパンツ。冬場でもスパッツで下半身ムチムチ。おまけに巨乳ときたものだ。そのくせ本人は自分の肉体が他人にどう映るのかを全く自覚していないようで、こうやって平気で抱きついたり、自分の体を触らせようとしてくる。
 危うい――と、真央は思う。
「あっ」
 ぴょこんと、唐突に都が身を起こし、玄関のドアの方角へと顔を向ける。時を同じくして、真央の耳も玄関ドアの開閉する音を聞いた。
 噂をすればなんとやら……。
「父さまが帰ってきた!」


「父さま、おかえりなさい!」
「つっきーおかえりー!」
 霧亜の部屋を出て、階下まで月彦を迎えに行くと、何故か都までついてきた。
「ただいま、真央。みゃーこさん。……あれ、母さんは留守、か」
「おばさん、今夜は帰れないかもーって言ってたよー。ごはんは冷蔵庫の中にあるのを食べてーって」
「そっか。……そういやみゃーこさん、“準備”のほうは終わったの?」
「準備……?」
 と首を傾げたのは真央だった。
「みゃーこさんの住む部屋がやっと決まったんだ。今週の土曜から……つまり明日から早速入れるらしい」
「あっ……」
 真央はつい喜びの声を漏らしてしまう。これでやっと邪魔者が――そこまで露骨に嫌いというほどでも無かったが――居なくなるのだ。
「……? どうしたの、みゃーこさん。昼間電話でちゃんと伝えたって姉ちゃん言ってたけど」
「……うん」
 しかし、一番喜ぶべきはずの都はお世辞にも笑顔とは言えない顔で、むしろ気まずそうに月彦から視線を逸らしていた。
「だいじょうぶ……準備はちゃんと出来てるよ……」
「ならいいんだけど……明日は土曜で学校も休みだからさ、俺も掃除とかいろいろ手伝うよ。……真央はどうする?」
「私は……」
 ちらりと、真央は都と月彦の様子を交互に見る。
「私も手伝うよ、都さん」
「うん……ありがとう、マオマオ……」
 やはり、都の表情は晴れない。
(……ていうか、父さまも……なんだか……)
 機嫌が悪い――という程では無い。しかし良くもないようだ。そんな微妙な雰囲気の二人に挟まれる形で、真央は戸惑いを隠せない。
 まるで、真央のそんな戸惑いを察したかのように。月彦がふっ、と笑顔を零した。
「……ま、そういうワケだから。みゃーこさんの居候も今夜が最後だ。折角だから、今夜はみゃーこさんの大好物のハンバーグを自分たちで作るか」
「ハンバーグ! つっきー作れるの?」
「まぁな。母さんの手伝いをやったことも何度もあるし、真央も手伝ってくれるだろ?」
「うん。私もハンバーグ大好き!」
「つっきー! みゃあも手伝うよー!」
「ありがとう、みゃーこさん。……じゃあ、まずは買い物に行かないとな」
 鞄を置いてくる――そう言って、月彦が階段を上がっていく。真央もまた、外に出かけるのならば着替えようと、月彦の後に続いた。


 ひょっとしたら、葛葉はわざと家を空けたのではないか。三人での買い物に、三人での調理。そして、三人での夕食。そこにはかつて無い一体感があり、あれほど都のことを疎ましく感じていた真央ですら、夕食の終わり際には都との別れが辛く感じられるほどにまでなっていた。
 仮に葛葉が家に居て、普通に葛葉がハンバーグを作って振る舞っただけでは、このような一体感は生まれなかっただろう。霧亜の代わりというわけではないのだが、都ならば仮にこのまま紺崎家の一因として組み込まれても、楽しくやっていけそうな気すらするのだった。
「うーん……お腹いっぱい…………しあわせぇぇぇ…………」
 お腹をさすりながら――驚くことに、都は材料の買い出しの際ですら、ヘソ出しルックのまま出かけた――都はぺろりと口の周りを舐める。
「…………多めに作って正解だったよ。真央も今夜は随分食べたな」
「うん。……だって、ホントに美味しかったんだもん」
 単純に味そのものでいうならば、恐らく葛葉が作ったもののほうが美味しいのだろう。しかし、自分たちできちんとタマネギを刻んで炒め、合い挽き肉を捏ねパン粉を混ぜ――と苦労して作った分、一際美味しく感じられたのだった。
「後片付けは俺がやっとくからさ、みゃーこさん先にお風呂入ってきなよ」
「んー……今はまだ動きたくなぁい…………」
「……しょうがないなぁ」
 苦笑混じりに、月彦はてきぱきと洗い物を纏めては流しへと運んでいく。真央も手伝いたいのだが、都同様張り切って食べ過ぎてしまった為、あまり動きたくなかったりする。
「ねー、マオマオ」
「なぁに、都さん」
「一緒にお風呂入ろう!」
 ずるりと、真央は突然の都の言葉に椅子からずり落ちそうになる。たった今動きたくないと、月彦に言ったばかりではないのか。
「お腹苦しいけど、マオマオと一緒なら今すぐ入る!」
「えと……」
 どうしよう――真央は悩み、助言を求めるように洗い物をしている月彦の方へと視線を向ける。月彦は都の誘いが聞こえていないのか、聞こえていてあえて聞こえていないフリをしているのか、特に賛成も反対もするそぶりはなかった。
「……いいよ、一緒に入ろう、都さん」
 結局、真央は今の自分の気持ちに素直に従った。

「かっわのじ、かっわのじー!」
「じゃあ、電気を消すよ、みゃーこさん。真央もいいか?」
「うん、大丈夫だよ、父さま」
 月彦が電気を消し、掛け布団を肩まで被る。同時に、真央はぎゅうう、と体を抱き寄せられる。
 今夜は三人一緒に寝ようと言い出したのは都だった。そして都の希望のままに、月彦のベッドに三人川の字になって寝ることになったのだが。
(ちょっと……狭い……)
 真ん中に寝ている都が、ぎゅーっと抱き寄せてくるから、なおさらそう感じるのかもしれなかった。恐らく月彦の方も都に抱き寄せられているのではないだろうか。
(……ちょっと、変な感じ)
 都は紛れもない成人した女性だ。その都が、今自分を差し置いて月彦の隣に寝ているというのに、不思議と嫌な感じがしないのだ。無論まったくのゼロではないのだが、たとえば由梨子や母真狐が同じ事をしたとしたら、こうも心穏やかでは居られないだろうと真央は思う。
「えへへー、狭いけどぬっくぬくぅー」
「……確かに狭い……やっぱり俺だけ下で寝ようか?」
「やーっ! 三人いっしょがいいー!」
「……みゃーこさんがそう言うなら」
 渋々納得するような、月彦の呟き。これはもう、自分も割り切って一晩我慢するしかないなと、真央は腹をくくった。
(でも……)
 事ここに至って、真央は奇妙な違和感を感じていた。確かに、都の居候は今夜が最後になるかもしれない。しかし、紺崎家を出るにしても霧亜が見つけたアパートというのはそんなにも遠い場所なのだろうか。
 そう、真央が感じる違和感はそこだった。都とは今夜が今生の別れとなる――というのならば、解る。もしくは、数年は会えないような場所に旅立つというのなら、それも解る。しかし実際には、さほど遠くでも無い近所に引っ越すだけであり、それは恐らく会おうと思えばいくらでも会える距離のはずなのだ。――少なくとも、そのはずだと、真央は思う。
(……考えすぎ、なのかな)
 或いは本当に“遠く”なのかもしれない。理由は、近場には安くて良いアパートが無く、やむを得ず遠い場所になってしまったという事も考えられる。しかし霧亜が――あの霧亜が、数年ぶりに再会した友人の為に住処を探そうとして、そんな結果で納得するだろうか。
(………………。)
 眠気が増すと共に、自分が考えていることがひどくくだらない、どうでも良い事のように思えてくる。そう、別に今考えなくとも、明日になれば解ることではないのだろうか。
(……そうだ……都さんが居なくなったら……珠裡ちゃんの事……父さまに相談、しなきゃ……)
 都の件が片付けば、最近はいつも忙しそうな父親にも多少の余暇が生まれることだろう。その頃合いを見計らって相談してみよう――そんな事を考えながら、真央の意識はゆっくりと深淵の底へと沈んでいく……。


 


 翌朝。普通に目覚めた真央は月彦、都と共に朝食を取り、準備をして霧亜の知り合いが居るという不動産屋へと向かった。
(……何か変だなって、思ってたけど)
 昨夜のあのお別れムードはどこへやら。都はいつもの都であり、月彦も別段変わった様子もなく見える。
「手続きとかそういうのは全部姉ちゃんが済ませてくれたらしいからさ、後は不動産屋に行けば現地まで案内してくれるらしい」
「父さま、都さんの新しいお家って遠いの?」
「いや、遠くは無い……かな。うちからなら歩いて三十分くらい、姉ちゃんの病院からなら十分くらいだ」
「そうなんだ。……良かったね、都さん」
 その距離なら、気軽に霧亜にも会いにいけることだろう。しかし、都から帰ってきたのは無理矢理作ったような微笑だけだった。
 そのまま、月彦に連れられる形で、都と真央は駅前の不動産屋へとやってきた。
「町村様ですね。おまちしておりました」
 中へと入り、用件を伝えるなりグレーのスーツを着たいかにも秘書といった風体の女性が対応に出て来て、そのまま女性の車で現地へと向かう事となった。全てのやりとりは月彦が矢面となって行い、契約の当事者であるはずの都がまるで借りてきた猫のように大人しくなってしまっているのが、真央には印象的だった。
「都さん……大丈夫?」
 否、借りてきた猫のように――どころではない。その顔は青ざめているようにすら真央には見えた。助手席に座っている月彦には都の顔色までは見えていないのか、先ほどからしきりに入居予定の建物や、周囲にある施設についての質問を投げかけている。
「…………ちょっと、酔ったかも」
「え、酔ったの!?」
 蚊の泣くような声だったが、月彦には聞こえたらしかった。運転席の女性も驚き困り顔になるが。
「もう、すぐそこですから」
 と、強行した。事実、車は五百メートルほどいったところで停車し、そこはもうアパートの目の前だった。
「大丈夫? 都さん」
 真央が肩を貸す形で、都は車から降りる。
「大丈夫……だいぶ楽になったから」
「みゃーこさん、そんなに車に弱かったのか……」
「運転が荒かったのでしょうか……申し訳ありません」
 都の体調を鑑み、引き渡しの手続きは数分の休憩を挟んで行われた。とはいえ、注意事項などについては殆ど月彦が聞き――都も一緒に聞いてはいたが、その顔を見る限り理解しているかどうかは怪しいと真央は見ていた――都がしたことといえば、最後に月彦に言われるままに契約書に署名したことくらいだった。
「……父さま、父さま」
「ん?」
 真央はちょいちょいと月彦の腕を引き、物陰へと連れ込む。
「父さま、本当にこれでいいの?」
「いいって……何がだ?」
「だって……都さんが住むお部屋なんでしょ?」
「そうだな」
「なのに、父さまと姉さまが勝手に決めちゃっていいの?」
「俺が……っていうか、姉ちゃんが、だな」
「……ちゃんと都さんの意見とか、聞いてあげたほうがいいんじゃないかなぁ……」
 真央が見る限り、都はどう見てもこの契約に乗り気ではないようだった。先ほどの体調不良にしても、車に酔ったというよりは自分のあずかり知らないところで物事が進められていることへのストレスではないのかと思えるほどに。
「……仕方ないんだ。都さんは俺に事情を教えてくれないし、事情を知らない俺には、姉ちゃんの言う通りにするのが一番都さんの為になるように思える」
 だから、俺は問題はないと思ってる――そう言って、月彦は都の代わりに女性から鍵を受け取る。
「では、以上で手続きの方は終了となります。何かご不明な点がありましたら、先ほどの名刺の番号までご連絡ください」
 では、と女性は車に乗り込み、去って行く。
「……さて、じゃあ早速部屋の中見てみようか。みゃーこさんの部屋は二階の一番奥らしいよ」
 車のトランクから下ろした都のリュック――異臭を放っていたので、洗濯済み――を月彦が肩に引っかけ、アパートの階段を上っていく。真央はそこで初めて、都が住むこととなるアパートをまじまじと見た。
 いたってこれといった特徴のない、三階建ての鉄筋コンクリート製のアパートだった。建物の色は元は純白だったのだろうが、雨風に晒された結果若干黒ずんで見える。築10年ほどは経過しているようだった。
「都さん、私たちも行こ?」
 月彦の背が見えなくなって尚、歩き出そうとしない都の背を軽く叩いて促す。そのまま二人一緒に、二階の奥部屋の前で待っている月彦の元へと合流した。
「あれ、鍵が開いてる……?」
 ドアノブに鍵を差し込んだ月彦がはてなと首を傾げ、ドアノブを開けるなり――
「あああぁ!」
 驚きの声を上げた。慌てて真央と、そして都も中を覗き、声を上げた。



 1LDKの間取りに、八畳の和室。台所部分には二畳分の立ちスペースがあり、その流し台にもたれかかるように、パジャマ姿に上着を羽織っただけの霧亜が立っていた。
「ね、姉ちゃん何してるんだよ! 入院中だろ!?」
「外出の許可は取ったわ。付き添いもいるし」
 霧亜はちらりと、奥の和室の方へと視線を向ける。看護服の上から紺のカーディガンを着た女性が、若干申し訳なさそうに微笑を浮かべ、ぺこりと辞儀をする。
「…………どうしても自分の目で一度見ておきたかったの。……安い割にいい部屋じゃない。シャワーの出が若干弱いみたいだけど、そのくらいは我慢しなさいね」
 一人では満足に出歩けない体なのに、そんなところまで調べたのか――真央が思った事を、どうやら月彦と都も同様に思ったらしい。皆言葉を失ったように、その場に立ち尽くしていた。
「それから、いくつかの家具についても知り合いに頼んで揃えさせておいたわ。料金はその口座から引かせてもらったけど、大した額にはなってないはずよ」
 そう言って、霧亜は上着のポケットから一冊の預金通帳を取り出し、都へと差し出す。
「きらら……このお金は?」
「砂金とかいろいろを売った金じゃないのか?…………げっ、ゼロがいっぱい」
 通帳を覗き込んだ月彦が眉を引きつらせる。くつくつと笑ったのは霧亜だ。
「五割増しどころか、五十割増しくらいで引き取ってくれたみたい。…………最近あまり構ってあげてなかったから、張り切らせちゃったみたい。……それだけあれば、当座の生活費には十分でしょ?」
「五十割増しって……そ、相場の五倍!?」
 月彦が絶句する。通帳を見ていない真央には想像するしかないが、そんな金額で引き取ったりしたら、間違いなく利益などは出ないだろう。
(…………やっぱり姉さま……スゴい)
 つまりは“知り合い”の宝石商とやらにとっては、霧亜に可愛がられるということはその金額以上の価値があるという事なのだ。
(だけど……)
 逆に霧亜にしてみれば、その女性にはそういった価値しか無いのだろう。有事の際に体よく利用する為だけの価値しか。
(……どうして、都さんだけ特別なんだろう)
 真央は不思議に思わざるを得ない。何故都だけが――と。見た目の問題だろうか。それとも相性の問題だろうか。
「都」
 霧亜がちょいちょいと、手招きをする。本当は自分から近づきたいのかもしれないが、霧亜の足はまだ歩けるほどに回復していないらしい。今も傍らに松葉杖を抱えたままだ。
 招かれるままに、都は霧亜の前へと歩む。その体を、そっと――霧亜が包み込むように抱きしめる。
「……また居なくなるんじゃないかって、随分心配したわ」
「きらら……」
「もう二度と、私の目の届かないところになんか行っちゃダメよ」
「……うん」
「何か困った事があったら、すぐに私に言うのよ」
「……うん」
「もう絶対に、黙って居なくなったりしないこと……なんて居るわけがないんだから、いいわね?」
 “……”の部分は、真央にも聞き取れなかった。霧亜が意図的に小声にしたようだった。都には恐らく聞こえたのだろうが、「うん」という返事は今までで一番遅れた。
「……いい子」
 霧亜が抱擁を解き、二人の体が離れる。
「それじゃあ私は病院に戻るけど、労働力が足りなかったらいくらでも“コレ”を使っていいから。…………真央ちゃんも、もし良かったら都を助けてあげてね」
 “コレ”のところで月彦を指さし、霧亜は付き添いの看護婦(ややふくれ面気味)に肩を貸される形で部屋を出て行った。
「…………。」
「…………。」
「…………。」
 霧亜が出て行ってしばらくは、誰一人言葉も発さず身動きも出来なかった。この場に霧亜が居たというインパクトは、それほど強いものだった。
「……と、とにかく部屋の中をチェックしてみるか!」
 そして五分ほど固まった後の月彦の言葉に、誰も異は唱えなかった。


 和室用の絨毯に、居間用ガラステーブルにシングルベッドにマクラ、掛け布団、毛布一式。クッションが二つに、テレビ台と薄型三十二インチの液晶テレビ。上着用ハンガーラックに衣装タンス。掃除機に室内用洗濯機と乾燥機。電子レンジにトースター、電気ストーブ、フライパンや鍋、食器類その他もろもろ、およそ一人暮らしに必要とされる最低限のものは大体揃っていた。
「すっげぇ……むしろ俺がここで暮らしたいよ。こんだけいろいろ揃ってて通帳から引かれてるのがたった三万円!? どんな夢の国で買い物してきたんだよ!」
 エアコンとIH式コンロについてはもともとついているものらしいからいいとして、電化製品を除いてもとても3万円では収まりきらないだろうと、謎の憤慨をしている月彦を尻目に、真央と都は室内のチェックを続ける。
「わぁ……都さん、服もいっぱい入ってるよ!」
 ハンガーラックの半分ほどが新品の服で埋まっているのはすでに確認済みだが、押し入れの中の衣装タンスにまで新品の衣類、下着類がぎっしりだった。
「きらら……こんなの履けないよぉぉ……」
 下着のいくつかを取り出し、ぴらりと開いてみるとなんと穴空きのものまであり、都は顔を真っ赤にしてその場にへたり込んでしまう。
「都さん都さん、靴もいっぱい! 靴箱の中にいっぱい入ってるよ!」
「うおすっげぇ、冷蔵庫の中もぎっしりだ」
「ううぅーーーー…………………………きららーーーーーーーっ!!」
 雄叫びのような声を都が上げる。感極まってのものなのだろうが、大別すればそれは喜怒哀楽の“喜”に属するものに、真央には聞こえた。
(……良かった、少し持ち直してくれたみたい)
 部屋に入る前の、まるで死刑場へ連行される囚人のような陰鬱そうな都の顔に真央は密かに胸を痛めていた。それだけに――些かやり過ぎだとは思うものの――霧亜のもてなしが嬉しかった。
(……でも、何か足りないような……)
 一人暮らしをスタートする部屋としては、恵まれすぎる程に揃いすぎている家具類だが、肝心な何かが足りない気がして、真央は首をひねる。ひょっとしたら、月彦も同じ疑問を感じたのかもしれない。全く同じタイミングで首をひねってしまい、真央も月彦も吹き出してしまった。
「……てか、引っ越しの手伝いするつもりで来たけど、考えて見たらみゃーこさんの私物ってこのリュックと少しの着替えと、あとは骨とかだけだから、手なんか要らないな……」
「お掃除もちゃんとしてあるみたい」
 真央は徐に窓枠に指を這わせてみるが、埃一つとれなかった。
「……よし、こうなったらせめて飯くらいは俺が――」
 と、月彦が意気込もうとした刹那だった。ぴんぽーんとインターホンが鳴ったのは。

「……姉ちゃん気を回しすぎだろ。俺の出る幕が完全にねえじゃねーか!」
 はぐはぐと宅配されたピザ――料金は支払い済みだった――をほおばりながら、月彦は尚文句を垂れる。
「だいたい、引っ越しなのにピザは無いだろ! 普通引っ越しっていったら蕎麦とか寿司とか……」
「都はピザ好きだよー? つっきーは嫌い?」
「いや俺も好きだけどさ」
「私も……ピザ好きだよ、父さま」
「……くそ、何も問題は無いじゃないか。チクショウ……辛い。姉ちゃんが完璧超人過ぎて辛い」
 人によってはノロケだととられそうな文句を言いながら、月彦はピザをほおばり続ける。
「…………きらら…………昔から凄かったよー……何でも最初から解ってたみたいに出来ちゃうんだもん…………」
 月彦に負けじとピザを囓っていた都がはたと、まるで惚けるように遠くを見ながら呟く。
「…………すごいよねぇ…………眩しすぎるよね」
「……都さん?」
 都の呟きに、はたと。真央は食事の手を止めた。
「あはっ、何でもないよー……マオマオ、食べないなら都が全部食べちゃうぞー?」
 都は十六等分されたピザを三枚重ね、いっきにかぶりつく。
「くそー、負けないぞみゃーこさん! 俺だって、体格の割りに良く食べるって言われた事もあるんだからな!」
 一体全体何がどうなってそうなったのか。突如として発生したピザの大食い大会に乗り遅れた形の真央は、一歩下がって見守るしかなかった。何より、月彦はともかく都に関しては、“何か”を忘れたくてヤケ食いしているようにしか見えず、真央にはそれが気がかりでならなかった。



 結局、手伝うような事は何も無く、ピザを食べた後は腹ごなしもかねて三人で辺りの散策を行う事になった。
「あったあった、ここだよ。みゃーこさん。アパートから一番近いスーパー」
「わぁー、つっきーすごい! なんでここにあるって知ってたの!?」
「いや……さっき不動産屋の人にもらった地図に載ってるから……」
「でも、歩いて二十分くらいかかったから、ちょっと遠いかも」
「途中ちょっと迷っちまったしな。まっすぐ来ればそうでもないさ」
「うぅー……覚えられるかなぁ」
「大丈夫だよ。アパートの前の道に出たら右に進んで、一つ目の信号を右折して、しばらくまっすぐ行って二つ目の信号を右に曲がればいけるはずだ。さっきは最初に左に行ったから遠回りになっちまったんだ」
「えーと……アパートの前から右に進んで、二つ目の信号を……左?」
「一つ目の信号を右だよ、みゃーこさん」
「うぅぅーー……むずかしい……」
「頭で考えるより、直接歩いて覚えた方が早いよ」
 月彦の言葉に、真央も頷く。都は頭で小難しく考えるよりも、体で覚えた方が早いタイプに見えるからだ。
「散歩がてらに、何度か一緒に往復してみようか。……みゃーこさん、明日からはみゃーこさん一人で買い物に行ったりしなきゃいけないんだから、しっかり覚えようね」
「…………うん、がんばっておぼえる」
 ふしゅー、と早くも頭から煙を噴く都の腕を引きながら、三人でアパートからスーパーへの道を往復する。その甲斐あってか、三度目の時には都が先頭で、しかもほぼノーヒントでスーパーへとたどり着くことが出来た。
「やったね、みゃーこさん! これでもうばっちりだよ!」
「うん、ばっちり! 一人で買い物来れる!」
「よかったね、都さん」
 やいのやいのと、騒いでいた三人の耳に――正確には真央の耳に、いぶかしげな呟きが聞こえたのはそんな時だった。
「…………都?」
 声に反応するように、真央は背後を振り返る。脱色した長い髪に濃い赤のマフラー、茶のダッフルコートを着た目つきの悪い長身の女が、買い物袋片手に立ち尽くしていた。
「……もしかして、町村都?」
 女の声に、月彦と都も反応した。あっ、という顔を、都がする。
「ウッソー!? ホントに都じゃん! あんた生きてたの?」
「ん? もしかしてみゃーこさんの知り合い?」
 女と都を交互に見比べながら、月彦が言う。都はといえば、女を視界から外すように視線を伏せ、黙り込んでいた。
「なんだなんだ、何騒いでんだ?」
 そこへ、さらにもう一人。いやに声の低い――背も低く、トレーナーに赤いジャージズボンという出で立ちの坊主頭の男がこれまた買い物袋片手に近寄ってくる。年は三十前後だろうか、背が低いわりにがっしりとした体格だった。
「りょーちん、見てみて、ほらっ、この子! 前に話したじゃん、ほら!」
「あん?」
 どうやら、りょーちんと呼ばれた男は女の彼氏かなにからしい。寄り添うように身を寄せると、男の身長は女よりもさらに頭一つ分低かった。
「中学の同級生で0点連発してた異次元レベルの馬鹿が居たって話したじゃん! その本人!」
「は? お前そいつ死んだって言ってなかったか?」
「死んだんじゃなくて行方不明! 現に生きてんじゃん」
「……おい、あんた」
 どきりと、心臓を跳ねさせたのは真央だ。“父親”の怖い声に、無条件に体が萎縮してしまう。
「みゃーこさんの昔の知り合いなんだろうけど、ちょっと感じ悪すぎだぜ」
「はぁ? つーかあんた誰よ。まさか、都の彼氏? うっそ、ありえなーいwww」
「おい」
 声を上げて笑う女を、男が肘で脇腹を突いて止める。
「つまんねーコトでもめ事起こすな。お前の昔の知り合いとか、俺に関係ねーし」
「ちょっとちょっとちょっとぉ、あんたどっちの味方なのよぉ」
「異次元バカっつっても、養護学校行くほどじゃねえんだろ? ガキの連れも居るみてーだし、あんま恥かかせちゃ可愛そうじゃねーか」
 くっくっくと含み笑いを漏らしながら、男は女と腕を組み、駐車場の方へと歩き出す。
「……ッ……あいつら!」
「つっきー、だめ!」
 拳を握り、走り出そうとした月彦を止めたのは都だった。
「大丈夫だよ、都は気にしないから」
「……みゃーこさん…………くそっ……」
「都さん。本当に気にしないほうがいいよ」
 “もめ事”の空気に、完全に足がすくんでしまっていた真央には、そうとしか言えなかった。
「だいじょぶ! 慣れっこだから! 気にしない!」
 都は両手で拳を握り、脇を引き締めるように胸の前に構えてにっ、と笑う。気にしないとは言ったが、都のテンションは明らかに落ちていた。
 その後、スーパーで簡単な買い物を済ませてアパートへと戻る際も、都は殆ど口を利かなかった。


「…………じゃあ、日も暮れそうだし、俺たちは帰るよ。またね、みゃーこさん」
「うん、またね。つっきー、マオマオ」
 スーパーでの一悶着は、やはり都にとって看過できないことだったのだろう。アパートに戻っても今ひとつ元気が無く、会話も弾まず、月彦も真央もなんとか都を元気づけようと試みたが、結果全てが失敗に終わってしまった。
(………………時間に解決してもらうしか、ないかもしれない)
 最終的に月彦はそう結論づけた。或いは霧亜ならば巧く元気づけてやれるのかもしれないが、今回の件で月彦は姉の力を借りる気は無かった。あの姉ならば、揉めた相手がかつての同級生だと解れば、個人を特定するのは容易だろう。それなりの制裁も行うかも知れない。……そんな告げ口のような真似を、月彦はしたくなかった。
(……みゃーこさんがそれを望むなら、話は別なんだろうけど)
 少なくとも都自身にはその気はないようだった。ならば、部外者である自分たちが必要以上に騒ぎ立てるのはおかしいのではないか。――たとえ、心ない二人組のせいではらわたが煮えくりかえっていても、一番傷ついているはずの都が気にしないと言っているのだから、耐えねばなるまい。
 月彦はちらりと、隣を歩いている真央の様子を見る。真央もまた、先ほどの悶着の事を考えているのか、口数が少なかった。母親と違って、ああいった修羅場にはお世辞にも強いタイプとは言えない真央を巻き込まずに済んだ点については、都に感謝せねばならないかもしれない。
「そういや、真央もいつの間にかみゃーこさんと仲良くなったんだな」
 とりあえず、月彦は当たり障りの無い話を振ってみることにした。
「学校からもそんなに遠くないし、たまには遊びに行ってみるのもいいんじゃないか?」
「……うん。そうだね、父さま」
 真央は漸く笑顔を見せた。しかしそれも、すぐに曇る。
「ねえ、父さま……都さん……大丈夫かな?」
「大丈夫……って、何がだ?」
「都さん、本当はあそこに住むの嫌なんじゃないのかな」
「…………うーん」
 何故、昼間の話をまたむしかえすのか――思っても、月彦は口にはしなかった。何故なら、真央の抱いている懸念と同じものを、月彦も抱いているからだ。
「だが真央、仮にみゃーこさんが嫌がってたとして、他にいい方法なんかあるか?」
「それは……だけど……」
「みゃーこさんの事は姉ちゃんに任せておけば大丈夫だ」
「でも、姉さま入院中だし…………さっきみたいなこともあるし……」
「…………ああいう連中は何処にでもいるもんだ。……みゃーこさんだって解ってるさ」 とはいえ、気がかりなのも事実。折角都にとっての新しい生活が始まろうとしていた矢先の出来事だけに、月彦はあの心ない二人組が心底憎たらしくて仕方なかった。
(……いくら勉強が出来なかったからって、それだけで人間の価値が決まるわけじゃねえだろ)
 お前だって姉ちゃんに相手にもされなかったレベルのブスのくせに――もう少し口論が長引いていたら、きっとそんな言葉が口から飛び出していた事だろう。
「……父さま。やっぱり戻った方がいいと思う」
「……? 何言ってんだ真央。今から戻ったって、何にもならないだろ?」
「ねえ父さま。都さんはどうして六年間も家出したままだったの?」
「それは……わからない。多分、みゃーこさんも姉ちゃんにしか話してないだろうし」
「事情がわからなくても、都さんが戻ってきたのは姉さまの見舞いをするためだったんだよね? だったらもう……都さん……いつまた家出しちゃってもおかしくないってことにならないかな」
「まさか……そんな……」
 否定しかけて、その言葉が止まる。或いは、真央の言うことは事実ではないのだろうか。
 六年前、何らかの事情があって都は家出した。そして今回、霧亜の見舞いをするために戻って来た。
 それはつまり、“事情”とやらが解決したわけではないという事にはならないか。そして同時に、都がこの地に留まり続ける理由も無く、むしろあのような口さがない連中が居る町から早く逃げ出したいと思うのではないか。
「父さま、私……都さんに居なくなってほしくない」
 真央の言葉に、月彦は少なからず衝撃を受けた。
「都さんは、私がお家に連れて来たの。最初は……家に都さんが居るのがすっごく嫌で、早く居なくなって欲しいって思ってたけど……だけど、都さん。すっごくいい人で……だから、居なくなったりして欲しくないの」
「真央……」
「お願い父さま。都さんの所に行ってあげて。……父さまになら、きっと都さんも本当の事を話してくれると思うから」
「………………解った。真央がそこまで言うなら……都さんの部屋に戻るか」
 月彦は踵を返しがてら、真央の手を取ろうとした。――が、その手は空を切る。
「…………父さま一人の方が、都さんも話しやすいと思う。私は一人で帰れるから」
「……そうか」
 あの真央が。
 女と見れば見境無く睨み付け、デレた顔でもしようものなら容赦なくつま先を踏みつけてきた真央が、まだ知り合って間もない女性の心配をするなんて。
 月彦は感極まり、深く考えもせずにその場を走り出した。今の真央が言うことならば、例え噴火口でバンジージャンプをしてほしいと言われても、月彦は二つ返事で了解するだろう。
 愛娘の言葉は、月彦にとってそれほどの衝撃だった。
「わかった! みゃーこさんの事は俺にまかせとけ!」
 月彦は踵を返し、都のアパート目指して全力で駆け出した。

「……電気が消えてるな」
 ダッシュで都のアパートに戻った時には、もうすっかり夜の帳が下りきっていた。部屋の明かりはついておらず、月彦は微かな不安を胸にインターホンを押した。
 しかし、反応が無い。
「みゃーこさん? 居ないの?」
 ひょっとしたら寝ているのだろうか――にしては時間が早すぎる。一人で辺りの散策にでも行ったにしては、逆に時間帯が遅すぎる。
 ざわりと、胸の中で黒いモヤモヤが質量を増す。何より、あの真央が危惧していたという事実が、余計に月彦の焦りを書き立てる。
(……! …………鍵がかかってない)
 月彦は迷わずドアを開け、中へと入った。昼間の記憶を頼りに手探りでスイッチを捜し、照明をつける。
「みゃーこさん!?」
 叫ぶ――が、返事は無い。靴を脱ぎ、居間へと入る。都の姿は無い。続いて浴室、トイレ、最後に押し入れまで捜すが、何処にも都の姿は無かった。
「……何処に行ったんだ……みゃーこさん…………ッ! ……これは、通帳じゃないか」
 ふとテーブルの上に視線を落とすと、そこには昼間霧亜から渡された預金通帳が無造作に置かれていた。
「こんな大事なものを出しっぱなしにして、鍵もかけずに……」
 通帳を手にとる――その時、何かがはらりと絨毯の上におちた。それは一枚のメモ用紙で、どうやら通帳に挟まれていたものらしかった。
 月彦は膝を落とし、メモ用紙を拾い上げる。
「……ッ……みゃーこさん!」
 メモ用紙には、クセのあるひらがなでこう書かれていた。

 “みゃこはげんきです。だいじょうぶなのでさがさないでください。”


 

 夜の町を、月彦は走った。部屋からは都のリュックも消えていた。恐らくもう戻る気はいのだろう。
 姉に知らせるべきか――月彦は一瞬悩んで、首を振った。知らせたところでどうなるものでもない。
(……まだ、そう遠くには行ってないはずだ)
 都の預金通帳は手つかずだった。手持ちの金もそう多くはないはずだ。即ち、徒歩で移動している可能性が高い。あの抜群の脚力で逃げられていたら追いつくことはまず不可能だが、それはないだろうと月彦は見ていた。
「何でだよ……みゃーこさん……“これから”だろ!」
 新しい住処が出来て、これから新しい生活が始まる所ではないか。
「……ちくしょう……こうなったらもう意地でも見つけ出して、“事情”ってやつを聞き出してやる!」
 月彦は半ばヤケになって、夜の町を走り続けた。

 都を見つける事が出来たのは、単純に運が良かった――とは言い切れないだろう。ひょっとしたら、都自身まだ迷いがあり、あわよくば見つけてほしい、止めてほしいという思いがあったのかもしれない。そうでなければ、闇雲に捜して見つかるような場所に居るわけがないのだ。
 駅前からやや離れた、寂れた繁華街の片隅。シャッターの下りた店だらけの中、まるで誘蛾灯のように明かりの点ったおでん屋の屋台、その暖簾越しに見覚えのあるリュックを見つけたときの感動は言い表しようのないものだった。走り続けた疲れも忘れて、月彦は全力で駆け寄る。
「はぁっ……はぁっ…………捜したよ、みゃーこさん」
「つっきー……?」
 都は串こんにゃくを咥えたまま、くるりと振り返る。
「……すみません、水もらえますか」
 月彦もまた、都の隣に座る。おでん鍋の向こうで忙しなく動いているのは、スキンヘッドにねじりはちまきをつけた男だった。年齢は五十代前半くらいだろうか。コップに水を注ぎ、差し出しながらニカッと笑う。なかなか逞しい顎の持ち主だった。
「ったく……お金ないくせにおでんなんか食べて…………すみません、俺が払いますから、全部でいくらですか」
「あぁ、嬢ちゃんのはいいんだよ。俺が食えって呼んだんだから」
「へ……?」
「このクソ寒い中、そんな格好ででっかいリュック持って立ち尽くしてりゃ、ワケアリなんだって事くらい解るってモンよ。悪いことは言わねぇから、腹一杯食ったら家に帰ぇんな、って話してたトコさ」
「そんな格好……」
 言われて、月彦は気づいた。都は上着こそ着ているものの、前は開きっぱなしで上はスポーツブラのみ、下はスパッツのみだった。
「み、みゃーこさん……寒くないの?」
「あははー、じっとしてるとちょっと寒いかも」
「さすがに服は分けてやれねぇからなぁ……あんちゃん、嬢ちゃんの彼氏かい?」
「いえ……彼氏とかじゃなくて……友達です」
「そうかい。何にせよ丁度良かった。嬢ちゃんの腹ァ一杯になったら、家まで送って行ってやんな」
「はい、そのつもりです」
「良い返事だ」
 こいつぁ俺のオゴリだと、男は小皿にタマゴと大根、がんもどきを取り、月彦の前へと置く。
「……いいんですか?」
「食わないなら犬のエサにしちまうぜ?」
「……すみません、いただきます」
「おっちゃん! はんぺんとこんにゃくー!」
「ちょ、ちょ……みゃーこさん! タダにしてくれるとは言ってるけど、そこは慎もうよ!」
 月彦と都のやりとりを見て、男はガッハッハと大笑いをする。結局これも食えあれも食えと次から次におでんを勧められて、都だけでなく月彦の方まで腹がいっぱいになってしまった。
「はー……つっきー、おでん美味しかったねぇ」
「…………うん、確かに美味しかった、おでんは」
 親切なおでん屋に何度も何度も礼を言って、月彦は帰路につく。その隣には、当然都も居た。
「……ていうかみゃーこさん、タダ食いはダメだってあれほど言ったのに……」
「違うよぉ……都はね、つっきーがダメって言ったから、お腹が空いても我慢してたんだよ? そしたらおっちゃんがお腹が空いてるならこっちに来て食えーって」
「…………どうせ、物欲しそうな目でじっと見てたんじゃないの?」
「でもでも、都はちゃんと我慢してたんだよ?」
「…………まぁ、最初から無銭飲食する気で食べなかったことは偉いよ、みゃーこさん」
 月彦は苦笑混じりに、都の頭を撫でる。
「えへへー、つっきーに褒められた!」
「…………で、みゃーこさん。ちょっと真面目に話したいことがあるんだけど」
「……つっきー怖いよぉ。そんなに怖い顔されたら逃げ出したくなっちゃうよ」
「…………怖い顔はしないから、もう逃げないでくれ。頼むから……」
 はぁ、と月彦はため息をつく。同時に、くちゅんっ、と都がくしゃみをする。
「……とにかく、みゃーこさんの部屋に戻ろう。今夜は特に冷えるから、いくらみゃーこさんでもそんな格好じゃ風邪引いちゃうよ」

 


 

 

 


 都の部屋に戻った時には、すでに九時を過ぎていた。とりあえず心配しているであろう真央に一報を入れようとして――月彦ははたと気がついた。
「みゃーこさん、そういえば電話はどこ!?」
「でんわー?」
「………………携帯とか、持ってないよね? 念のため聞くけど」
 ふるふると都は首を振る。
「…………そうか。何かが足りないと思ったら電話が足りなかったのか……」
 最初に室内を見回したときに感じていた違和感の正体はそれだったのだ。今の今までそのことに気がつかなかった月彦には、同様に電話の事を失念していたらしい姉を責める事は出来なかった。
「……まぁいいや。そのことは今は置いとくとして…………みゃーこさん!」
「ひうっ!?」
「……ごめん、大きな音を出したかったわけじゃないんだ」
 意気込み的な意味だったんだ――テーブルに叩きつけた右手の拳をさすりさすりしながら、月彦はコホンと咳をつく。
「で、改めて聞くけど………………みゃーこさん、どうしてまた家出しようとしてたの?」
「…………。」
「この書き置き。もうここには戻って来ないっていう意味だったんだろ? しかも預金通帳まで置いていくなんて…………これはみゃーこさんの私物を売って作ったお金なんだから、みゃーこさんのものなんだよ?」
「うー…………」
「うーじゃ解らないよ。……今までは、みゃーこさんの“事情”ってやつは無理に聞かない方がいいと思って、あえてそのままにしてきたけど。その事情のせいでみゃーこさんが今でも困ってるのなら見過ごせない」
「…………。」
「みゃーこさんが話してくれるまで、俺は帰らないよ」
 それは月彦なりの脅しだった。決意を露わにしたと言い換えてもいい。
 しかし、都は月彦の予想とは真逆の反応をした。
「つっきー、ずっと居てくれるの?」
「え……いや、そういう事じゃ……」
 目をきらきらさせてテーブルの上に身を乗り出してくる都に、月彦は逆に上体を引いて“逃げ”る。
「つっきー、都のこと嫌い?」
「そ、そんなわけないだろ!」
「えへーっ、都もつっきーのこと好きだよー」
「みゃーこさん! 誤魔化さないで!」
 そんな話をしに来たわけではない。都が姿を隠そうとする理由を突き止めに来たのだと、月彦はむしろ挫けそうになる己の意思を奮い立たせねばならなかった。
「俺は真剣に聞いてるんだ。みゃーこさんは話したくないかもしれないけど、それがどんな内容でも、俺は絶対他の人に漏らしたりしない。約束する。手伝えそうなことなら、何だって力にもなるから」
「…………………………無理だよ」
「無理?」
「…………つっきーやきららみたいな……ちゃんとしてる人には、都の気持ちなんて絶対わからないよ」
「ごめん、みゃーこさん。何か勘違いしてるかもしれないけど、姉ちゃんはともかく俺はちゃんとなんかしてないし、どっちかっていうとダメダメで――」
「……つっきーと一緒に、ね」
 月彦の言葉は、都のそれに遮られた。
「きららのお見舞い、行ったよね」
「うん」
「つっきーはすぐジュース買いに居なくなっちゃったけど」
「あれは……姉ちゃんと二人きりで話したい事もあるだろうと思って……」
「あはは、そうだったんだ」
「……もしかして、そのとき姉ちゃんに何か言われた……とか?」
 都の表情が曇る。それが答えだった。
「……どうして居なくなったのか教えてーって、きららが言うの……答えたくないって言っても、言いなさいーって」
「そりゃあ……」
 あの姉ならば、問い詰めもするだろう。行方不明になっていた友人がやっと見つかったのだ。その原因を探らずにはいられない、霧亜の気持ちは月彦にもよくわかる。
「…………都はねー、きららみたいになりたかったの」
「え……それが家出の理由?」
 うん、と。都はあっさりと頷いた。
「都はね、ちょっとおつむが足りないの。学校の成績なんてしっちゃかめっちゃかで、家に帰るといっつも怒られてたよ。みんなが当たり前に出来る事が全然できなくって、どうしてちゃんとできないのって毎日ぶたれてた」
 都の口調は淡々としていて、まるで感情を感じさせない語り口だった。
「怒られるのは嫌だから、都もちゃんとしようとしたよ? だけどどうしてもだめだったの。怒られて怒られて、叩かれてベランダに出されて、押し入れに閉じ込められて死にそうなくらいお腹が減っても、熱いお湯をかけられても、たばこの火を押しつけられても、都はちゃんと出来なかったの」
「みゃーこさん……それは……」
 虐待なのでは――本人を前にしてさすがに口に出来ず、月彦は手のひらで口を覆った。
「きららだけが、都のことバカって言わなかったの。だから、都はきららの事大好き。つっきーも、マオマオも、葛葉おばさんもみんな好きだよ」
「……みゃーこさん。みゃーこさんが家を出た理由は……そうしたくなった理由はわかったよ。だけどそれだけじゃ俺は納得できない。だってもう、みゃーこさんに嫌な事をする人たちは居ないだろ?」
 きょとんと、都は目を丸くする。そして申し訳なさそうに、ぺろりと舌を出した。
「ごめんね、つっきー」
「……? どうして謝るの?」
「都は頭が悪いから、説明がヘタクソなの。つっきーが勘違いしちゃったのは、都の言い方が悪いせい」
「みゃーこさん、そんな風に言っちゃだめだ。勘違いしてるのは、俺の理解力が足りないせいもあるに決まってるんだからさ」
「都が家を出たのは、いやなことをされるからじゃないの。……きららみたいになりたかったからなの」
「……そういや、最初にそう言ってたね。でも――」
 話がイマイチ繋がらない。折角都が話そうとしてくれているのに、それを理解することが出来ない自分に、月彦は憤りを感じずにはいられない。
(……姉ちゃんだったら……)
 たとえ都の説明に不十分な点があったとしても、たちどころに頭の中でそれらの情報を組み替え、正確に理解することが出来るのだろう。姉と同じ事が出来ない不出来な自分が、恨めしかった。
「つっきー、ちょっと待っててね」
 都は絨毯の上を這うように四つん這いになってリュックの側へと移動し、サイドポケットの一つを開けて中から黒ずんだ四角い板のようなものを取り出した。それを月彦の目の前――テーブルの上へと置く。
「これは……」
 それは、板などではなかった。長い年月で黒ずみ、四隅はすり切れてしまっているが紛れもない本――絵本だった。
「……“まほうつかいとにじいろのねこ”」
 刹那。月彦は己の心臓が大きく揺れるのを感じた。



「……この絵本……もしかして……」
 心臓が不思議なリズムで鼓動するせいか、手が震えて本を巧く持てない。しかしそれでも、この絵本が印刷物ではない、絵も文字も全て手書きで作られたものだという事は解る。
「……作者は……“星宮キララ”?」
「うん、きららだよー」
「いやそりゃあ……キララさんなんだろうけど」
 裏表紙の隅に、まるで署名でもするように小さく名が書かれているから、都に教えてもらうまでもない。
 ――が、月彦はまたしてもどくんと心臓が大きく跳ねるのを感じた。
(……なんだ……この感じ……俺、この字知ってるぞ……)
 そう、確かに見覚えはある。――しかし、思い出すことを体が拒否しているような、そんな不思議な感覚だった。
 ヤメロ、キヅクナ――全身の細胞が、そう警告する。
「……みゃーこさん、もしかしてこの絵本描いたのって……俺の知ってる人だったりする?」
「だから、きららだよ?」
「きらら…………って、まさか……」
 全身から冷たい汗が噴き出す。震える手で表紙をめくる。水彩タッチの可愛らしい絵柄に、ひらがなを多めに使った文字。絵はともかく、文字の方は紛れもない“姉の字”だった。
「こ、これ……」
 どろりとした、異様なほど質量のある、それでいて消化も吸収もできない液体をなみなみと飲まされたような、そんな奇妙な感覚。不快というよりは不安を感じるような、喜怒哀楽のどれにも属さない感情に、月彦は全身から汗が噴き出すのを感じた。
「……みゃーこさん……ひとつ聞くけど……この絵本、姉ちゃんにもらったの?」
「うん。都の誕生日にきららがくれたの」
「……………………もしかしてさ、その時に絶対誰にも言うなとか、誰にも見せるなとか、そういう事言われなかった?」
 こくこくと都は何度も頷く。月彦は頭痛を覚えて軽く目頭を押さえた。
「じゃあ俺にも見せちゃダメじゃないか!」
「……………………………あぁっ!」
 自分のしでかした事に立った今気づいたと言わんばかりに、都は口に手のひらを当てるようにして声を上げた。
「ど、どうしよう、つっきー! きららにバレたら絶対怒られる!」
「みゃーこさんは怒られるだけで済むかもしれないけど、俺は下手したら殺されるよ……」
 断言出来る。これはあの姉にとって、絶対に秘密にしておきたい事の一つだ。何故なら、二十年近く同じ屋根の下で暮らしてきた自分でさえ、姉にそういった趣味がある事など知らなかったのだから。
「くっそぉぉ……忘れろ! 忘れろ俺! 記憶を消去しろーーーーー!!」
「つ、つっきー!?」
 月彦は意を決し、いちかばちか思い切り木の柱に額を打ち付ける。そのまま二度、三度と頭を柱に打ち付けるも、その程度でこの衝撃的な事実を忘れること等出来なかった。ただ、痛みが増すばかりだ。
「つっきー……だいじょうぶ?」
「ううぅ……知りたくなかった……ていうか、知っちゃいけなかったんだ…………」
「わわ、つっきーちょっとたんこぶになっちゃってるよ、いたいのいたいのとんでけー!」
 都は月彦が柱へとぶつけた場所を優しく撫で、痛みそのものをつまんで捨てるような仕草を呪文と共に繰り返す。
「……ありがとう、みゃーこさん。こうなったらもう、しらばっくれるしかない。俺はみゃーこさんが姉ちゃんに手書きの絵本をもらったことなんて知らないし、みゃーこさんもそのことを俺には教えてない。それで通そう」
「でもでも、つっきーになら、きららもひょっとしたら怒らない……かも?」
「いいや怒る。鬼みたいな顔になって怒鳴り散らすよ。みゃーこさんだって姉ちゃんに怒られるのは怖いだろ?」
 こくこくこく――都は残像が見えるほどに高速で頷き続ける。
「じゃあ、黙ってなきゃ。……………あれ?」
 はたと、月彦は首を傾げる。そもそも、何故都が絵本を見せてきたのか――そこを考えて、最初の議題を思い出す。
「……………待って、みゃーこさん。ひょっとして……この絵本が関係してるの?」
 そもそもは、何故都が家出をしたのか――という話だったはずだ。しかし巧く説明が出来ず、やむなしに都は絵本を出してきた。
 ということは、少なくとも絵本に真相を知るヒントがあるはずではないか。
(……ダメだ……なんか、恐れ多くてまともに読めねぇ……)
 絵本の内容を読めばきっと都の心中を理解できるのだろう――が、月彦にはどうしても姉の手書きの絵本というそれを手に取り、内容に目を通すことが出来ない。
「……ちなみに、どういう話なの?」
 やむなく、月彦は都に尋ねることにした。
「まほうつかいとねー、にじいろのねこの話だよー」
 魔法使いと虹色の猫――どこかで聞き覚えのある組み合わせに、モヤモヤとしたものを感じる。が、どうしても思い出す事が出来ない。
(……なんだこの感じ……もしかして、この本……俺も読んだことあるのか……?)
 そして単純に忘れてしまっているだけなのだろうか。気になる――が、それ以上に本の内容を知るのが怖いと感じる。その理由が、単純に姉の描いた絵本であるという理由だけではない事に、月彦は薄々気がついていた。
「落ちこぼれの“まほうつかい”が、“にじいろのねこ”を捜して旅をするの! にじいろのねこはね、見つけたらなんでも願い事を叶えてくれるんだよ!」
 ふんふんと、鼻息荒く都は力説する。その様子だけで、都がどれだけこの絵本を気に入っているかがありありと解るほどに。
「…………だからね、都も落ちこぼれだから捜そうと思ったんだよ。虹色の猫を見つけたら、都もきららみたいになれると思って」
「……………ん?」
 都の言葉はあまりにあっさりとしていて、月彦は危うく聞き逃しそうになった。
「……まさか、みゃーこさんが六年間も帰ってこなかった理由って……」
「…………………えへへ」
 都は恥ずかしそうに頬を掻きながら、照れ笑いを浮かべる。
「……きららに言ったら、怒られちゃった」
「それは……」
 姉の気持ちも解る気がした。六年にも及ぶ友人の失踪の理由が、おとぎ話の登場人物――正確には人物ではないが――を捜す為だったと知った時の霧亜の衝撃はいかほどだっただろうか。
 ましてや、その絵本を描いたのが自分となれば、責任を感じずにはいられないだろう。
(……姉ちゃんが、みゃーこさんの為に部屋を捜したり世話をやくのは……そういう理由もあったのか)
 いくら行方不明の友人が数年ぶりに戻ってきたとはいえ、些かやりすぎなのではと月彦は思っていた。しかし事情を知ってしまえば、そうしたくなる霧亜の気持ちは痛い程に理解出来る。
「ぺしーんって、ほっぺた叩かれたの。……でもね、その後いっぱいいっぱい慰めてくれたよ」
 それがあのとき――病室に戻ってきた時の“絵”だったのだろう。
「……きららはね、虹色の猫なんて本当にいるわけないって、いもしないものを捜すのはあきらめなさいって……」
 淡々としていた都の声が、突然乱れた。それはまるで堰を切ったように、止めどなく涙声へと変化していく。
「折角きららとつっきーがお家まで用意してくれたんだもん……都もね、虹色の猫の事は諦めようと思ったんだよ……?」
 だけど――そこで都の声が掠れる。
「やっぱり、都はここには居られないよ……。都はね、都がバカにされるのはもう慣れっこだからいいの。でも、都のせいでつっきーやマオマオやきららまで嫌な思いしたりするのは絶対に嫌なの……」
「みゃーこさん……」
 やはり、夕方の一件を気にしていたのか。月彦はテーブルの下で握り拳を作る。
「都は虹色の猫を見つけなきゃいけないの。虹色の猫を見つけて、いろんなことがちゃんとできるようになったら、その時やっときららの隣に居てもいいことになるの」
「………………それは違うよ、みゃーこさん。それは間違ってる」
 優しく、しかしはっきりと月彦は否定する。
「姉ちゃんはみゃーこさんにそんな事求めてないよ。……よく思い出して。今日、姉ちゃんとの別れ際に、姉ちゃんがなんて言ってたか」
「きららが言ってたこと……?」
 都は首を傾げ、うーんと唸る。そして思い出したのか、あっ……という声と共に目を見開いた。
「きらら、何処にも行くなって言ってた!」
「そう。姉ちゃんが都さんに望んでいるのは、頭が良くなることでも、ちゃんとすることでもない。ただ近くに居て欲しいって事だけなんだよ」
「でもでも……都がちゃんとしないと……きららが迷惑する……」
「迷惑かけられることも承知の上で、姉ちゃんは側に居ろって言ってるんだと思うよ。…………だいたい、みゃーこさんは“友達”のくせに、姉ちゃんの事を知らなすぎるよ」
「…………?」
「姉ちゃんは、少しでも嫌いな人間にはメチャクチャ容赦ないんだから。もし姉ちゃんが少しでもみゃーこさんの事嫌いだったり、側に居るのが迷惑だって思ってたら、こんな風に部屋を用意したりなんてしないし、そもそも何処にも行くななんて絶対言わないよ」
 むしろ、と。月彦はやや声を低く、脅かすように続ける。
「もう二度と黙って消えたりするなって言ったのに、みゃーこさんがまた家出なんかしたら、その時こそ姉ちゃんはみゃーこさんの事嫌いになるんじゃないかな。……たとえその猫を見つけてみゃーこさんが“ちゃんとした人”になっても、姉ちゃんは絶対みゃーこさんの事を許さないと思うよ」
「ひっ……」
 霧亜に嫌われる――その未來を心底怖がるように、都は身を竦める。
「それでも、みゃーこさんは家出したい?」
 ふるふるふるっ、都は凄まじい勢いで首を振る。
「きららには嫌われたくない……」
「だったら、姉ちゃんが嫌がることはしちゃだめだよ。そんな猫なんて捜さなくていいんだ、みゃーこさんはみゃーこさんのままで要るのが一番なんだから。無理に変わる必要なんかないんだよ」
「……つっきーも……都がいたほうが……嬉しい?」
「もちろん」
「マオマオは?」
「真央も、みゃーこさんには何処にも行って欲しくないって言ってたよ。母さんだって、みゃーこさんが戻ってきてくれて嬉しいはずさ」
「…………えへへ」
 都は涙を拭い、照れるように笑う。
「じゃあ、都どこにも行かない!」
「本当? ちゃんと約束出来る?」
「できる!」
「じゃあ、指切り。約束破ったら、一生ハンバーグ抜き」
「えーーーーーーーーーーーーーっ!」
「その代わり、みゃーこさんが約束を守ってる間はずっと、週に一回はハンバーグをごちそうするよ。それならどう?」
「約束する!」
 都は迷わず右手の小指を差し出してくる。月彦はその小指に自分の小指を絡め、上下に揺さぶるようにしながら“ハンバーグ条約”を締結した。



 

 そもそもの元凶は何だったのだろうか。
 六年前、都は自分を取り囲む状況に耐えかね、霧亜の描いた絵本に唯一の救いを見出し、家出をした。が、当然そんなおとぎ話が現実になるはずは無く、結果都は六年もの間放浪生活をすることになってしまった。
 絵本を描いた霧亜が悪かったのか。絵本を信じた都が悪かったのか。――否、悪いのは都の“個性”を認めなかった家族、そして周りの人間達だと、月彦は思う。
 都とて、自分を引き取って育ててくれたその叔父夫妻に望んで嫌われたかったはずはない。しかし都が都らしく振る舞うにはその家庭環境は常識的でありすぎたのだろう。このままではいけないと、都なりに一生懸命努力しても尚、都には家族や周りの人間が求める“普通”が解らず、それ故に“普通”に振る舞うことができない。嫌われない方法が解らないまま、加速度的に状況が悪化していく恐怖はいかほどだったことだろう。
 おとぎ話なんか真に受けて――“普通”ならば、そう鼻で笑う所だ。しかし都にとって普通は普通ではなかった。追い詰められた都が、おそらくは唯一の親友である霧亜の描いた絵本に一縷の望みを見出したのは、ある意味では仕方が無かったのかもしれない。
(……そういや、あのときも)
 月彦はふと、病室での霧亜とのやりとりを思い出していた。弟をバカだと言った霧亜に対して、都は頑固なまでに食い下がっていた。
(……そっか、そういう事だったんだ)
 他者にバカだと罵られる辛さを、心の痛みを都は誰よりも知っているのだ。だからこそ、あれほど慕っている霧亜相手ですら食い下がり、一歩も譲らなかったのだろう。
「…………。」
 都の部屋で、ベッドを背にする形で絨毯に座り、都も隣に座って何となくまったりしている現状。
 “自白”するなら今しかないかもしれない――月彦は意を決して口を開いた。
「……みゃーこさん。俺、みゃーこさんに謝らなきゃいけない事があるんだ」
「んゆ?」
「六年前……みゃーこさんが家出する時……さ。……みゃーこさん、ひょっとしたら姉ちゃんに相談しようとしたけど、出来なかったんじゃない?」
「んー……」
 都は天井を見るように視線を上に向け、顎に指をあてるようにして唸る。必死に当時の記憶を呼び起こそうとしているらしい。
「きらら、居なかった! お家に行ったけど、ずっと留守だった!」
「…………それ、多分俺のせいなんだ」
「つっきーのせい? どうして?」
「えと……その時俺……林間学校で遭難しちゃってさ。母さんが言うには、俺を捜して姉ちゃん家を空けてたらしくて……」
「…………………………あーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーっ!!!!」
 突如、都が大声を上げる。
「み、みゃーこさん!?」
「思い出した! つっきー無事だったんだね!」
 そして、都は月彦の両手を掴んで、ぶんぶんと振る。まるで、命からがら生還した友を讃えるかのように。
「つっきーを見てモヤモヤしてたのは、つっきーがあのとき行方不明になってたからだったんだよ!」
「……そういや、ファミレスでそんな事言ってたっけ」
 つまり、行方不明になった相手が、そうなったという事を忘れた状態で再会してしまった為、“なんかモヤモヤする”状態だったということか。
「ごめんね、つっきー……都もね、つっきーのことは心配だったんだよ。……だけどね、都……あの時はもういっぱいいっぱいで自分のことしか考えられなくて……」
「……それはしょうがないよ。俺なんかよりみゃーこさんのほうがずっとずっと大変だったんだから」
 俺は俺でそれなりに大変ではあったんだけど――苦笑混じりに、月彦はその言葉を飲み込む。
(…………とにかくこれで一件落着、かな)
 さすがにもう、黙って居なくなったりはしないだろう。後は帰って真央に都はもう大丈夫だと報告するだけだ。
 さりげなく立ち上がろうとして――月彦ははたと。違和感を感じて自分の左手を見た。左手は、月彦の隣に座っている都の右手に握られていた。
「みゃーこさん?」
 片手を握られたままでは、立ち上がるのは地味に難しかった。不可能ではないが、都が手を離してくれればもっと楽に立てるのだが、どういうわけか都は右手の握力を緩めてくれないのだ。
「あのさ……俺、そろそろ帰らないと」
「…………うん」
「いや、うんじゃなくてさ、みゃーこさん」
「…………。」
「みゃーこさん?」
 さりげなく視線を向けると、都はややうつむき加減に深刻そうな顔をしていた。
(……まさか、まだ何か気がかりな事があるのか?)
 だとすれば、放置して帰るわけにはいかない。なんとしても聞き出さなければと、月彦が問い詰めようとした矢先。
「……つっきー……帰っちゃ、や」
 ぎゅうと、一際強く手が握り返された。


 あれ……? なんか変な流れだな――痛みを感じるほどに強く、都に手を握られながら、月彦はそんな事を思った。
「は……はは……」
 空笑いを浮かべながら、さりげなく都の手を振り払おうと試みる――が、都の力は意外にも強かった。
「どうしたの? みゃーこさん。一人になるのが寂しいとかじゃないよね」
 仮にも、一人きりで何年も放浪していた都がそんな弱音を吐くはずがない。つまり、帰って欲しくないというのは何か他に理由があるはずなのだが、どういうわけか月彦はその理由についてあまり深く考えたくはなかった。
「……あのね、つっきー。……………つっきーは、ちゅーしたことある?」
「ちゅ、ちゅー?」
 予期せぬ問いに、月彦の声は思い切り裏返った。
「ある、けど……」
「あるの!? つっきースゴい!」
 尊敬の光すら籠もった目で、都がにじり寄ってくる。そして、不意に――照れるように視線を逸らした。
「都はねー……まだしたことないんだよねー……」
「へ、へぇー……ま、まぁ別にそんなの気にしなくていいんじゃないかな?」
 月彦はすっとぼけながら、半ば強引に立ち上がり都の手をふりほどこうとした――が、逆にぐいと強く引かれ、バランスを崩す形で都の隣へと倒れ込むような形になる。
「……………都もね、ちゅーしてみたいなぁ」
 じっ。
 泳ぐ目を射貫くように見据えられて、月彦は慌てて視線を逸らした。
「つっきー、都とちゅーするの、イヤ?」
 そして視線を逸らすなり、そんな言葉が耳に飛び込んでくる。
 その質問は卑怯だ、と。月彦は思った。
「ま、待って。みゃーこさん。一端落ち着こう」
 そもそも何故こんな話に、流れになったのか。気持ちをニュートラルに戻そう、と。月彦は都に手を離させて正座させ、自分も向かい合う形で正座をする。
「はいまずは深呼吸をして……1回、2回、3回……………みゃーこさん、落ち着いた?」
「うん、落ち着いた」
「よろしい。じゃあ俺は帰るから――……どわっ」
 今度は立ち上がり際、両足をラグビーのタックルのような形で捕まえられ、月彦は盛大に絨毯の上に倒れ込んだ。
「つっきー、帰っちゃだめ」
 そのまま、倒れた体をヘビが這い上るように、都が被さってくる。熱っぽい湿った吐息が耳の裏にかかるのを感じて、月彦が真っ先に覚えたのは――“恐怖”だった。
「つっきー、ちゅーしよ?」
「まままままままってみゃーこさん! ちゅーはね、そんなに簡単にしちゃダメなんだよ!」
「……………?」
「そういうことは、みゃーこさんにちゃんと好きな人が出来て、その人と付き合うようになったときにするものだから、一時の気分とかでやっちゃだめ!」
「……都、つっきーのこと大好きだよ?」
「いやだから、そういう“好き”とは違った“好き”なわけで……と、とにかくダメ! みゃーこさんとキスなんかしたってバレたら、俺が姉ちゃんにぶっ殺される!」
「……きららが、怒る?」
「そ、そう! 姉ちゃんが怒るからダメなんだ!」
 霧亜が怒る――その言葉は効果覿面だった。まるで巨大なスッポンの口にでも咥えられているかのように、がっしりと体をホールドされていたのがたちまちほどけ、月彦は都と向かい合う形で座り直した。
 ――そして、ぎょっと身をすくませた。
「え、あれ……みゃーこさん?」
 そこには、決壊寸前のダムのように涙を溜めた都が居たからだ。
「ちょ、えっ……なんで……」
 忽ち月彦はあわわあわわ状態に陥る。今にも泣きそうな女性の顔――それほど月彦の心を揺さぶるものは無いからだ。
「だって……ちゅーしたら、きららが怒るって……」
「え、と……それはね……ああもう……どうすりゃいいんだ」
 もしかして。
 もしかして“ちゅーしたい”という都の言葉は、自分が考えているよりも遙かに重いものなのではないか――月彦は漸くにしてそのことを考え始めた。
「……………………わかったよ、みゃーこさん。……一回だけ……一回だけならいいよ。その代わり、姉ちゃんには絶対内緒だよ?」
「……いいの?」
「本当はダメなんだけど……今日だけ、一回こっきりってコトで……ははは――ってうわ!」
「つっきー! 大好き!」
 茂みに伏せていたチーターが獲物に飛びかかるような――それを“草食獣視点”で見たような――形で、月彦は都に押し倒され、そのまま唇を奪われた。
 唇を押しつけられるだけの、ただのキス。それは五秒ほどであっさりと終わった。
「……えへへ、つっきーとちゅーしちゃった」
 唇を離すなり、都は頬を染めて照れ笑いを浮かべる。目尻に溜まりっぱなしだった涙を拭いながらのその笑顔に、月彦はきゅんと胸の奥がときめくのを感じた。
(うわ……みゃーこさん、可愛いなぁ……)
 普段が可愛くないという意味ではなく、その一瞬の煌めきが取り分けてズバ抜けていたという意味で、月彦は胸を弾ませてしまったのだった。
「…………。」
「…………。」
 沈黙。都に押し倒される形で仰向けに寝ている月彦は動けず、そんな月彦の体を跨ぐ形でマウントポジションを取っている都もまた動く気配が無い。
「……つっきー……」
「な、なぁに? みゃーこさん」
「……………あのね、都ね……もっと……ちゅーしたい……………」
 うずうずと、まるで体の疼きを抑えかねるように、都が肩を揺らす。その仕草が一瞬――“溜まりに溜まっている”状態の真央とダブってしまい、月彦は瞬きを繰り返した。
「だ、ダメだよ! 一回だけって約束したろ!?」
「うー……」
「唸ってもダメだよ、みゃーこさん。約束は守ろう、ね?」
「……ちゅーしたい」
「だ、ダメだって」
「ちゅーしたい」
 都の上体が、少しずつ被さってくる。
「ちゅー、しよ?」
「ちょ、みゃーこさん……」
 吐息が顔にかかるほどに接近され、月彦は声をうわずらせる。“本気”で逃げようと思えば、逃げることは不可能ではなかった。それをしないということは、消極的ながら都の提案を受け入れているということだ。
 都がそこまで考えているかは定かでは無い。が、結果的に月彦は都と二度目のキスをすることとなった。



 二度あることは三度ある。そんな陳腐な格言通りに、ことは進んだ。
「んっ……んっ……」
 三度目のそれはもう、ただの“唇の押し付け合い”ではなかった。舌を使った、互いの唾液をかき回すようなものへと変化していた。
 月彦が教えたわけではない。都が知っていたとも思えない。ただ、動物的な本能の赴くままに、互いの体を密着させ、本能の命じるままに舌を絡め合う。
 都のキスは、まさにそれだった。
「だ――」
 キス初心者というにはあまりに情熱的な都の“口撃”を受けながらも、月彦はすんでの所で理性を取り戻した。
「だ、めっ……だよ、みゃーこさん……ちょっ……」
「んふっ……んっ……つっきー……好き……………んちゅ……」
 月彦が身をよじり首をひねり、なんとか逃れようとしても都はそれを許さない。両手で動きを封じ、執拗にキスを続けてくる。
「だ、ダメだって……ね、姉ちゃんに言いつけるよ!?」
 なんとも情けない言葉だが、やはり都には効果絶大だった。びくりと震えるように身を硬直させるなりキスを中断し、僅かながら上体を引いた。
 ――が、次の瞬間の都の行動は、月彦の度肝を抜くものだった。
「……きららに、怒られてもいい」
 瞼がやや下がった、トロンとした目。譫言のような呟きを残して、都は再び被さってくるとキスを続行したのだった。
「ちょっ、みゃーこさっ……………んんんっ」
「んふっ、んんっ……んんっ……んんっ……はぁぁ……つっきー……………んんっ……………んっ……………」
 霧亜に怒られてもいい――まるでその呟きによって、リミッターが解除されたかのように、今までで一番激しいキスだった。
(っっ……や、ばっ……………)
 定石もテクニックもなにもない。ただ、本能のままのキス。それが月彦の中の本能を、“牡”をダイレクトに刺激する。慌てて膝を立てて腰を引くような体勢を取ったのは、意に反して膨張を始めた愚息を都に悟らせないようにするためだ。
「ふぁぁ…………つっきーとちゅーすると……すっごく気持ちいい……………どーして……?」
 疑問系ではあるが、それは月彦に対してではなく、自分自身に問いかけるような口調だった。
「と、とりあえず落ち着こう、ね? みゃーこさん……ほ、ほら……しんこきゅ――んんんっ!!」
 再び、キス。さすがにこれ以上はマズい――月彦は意を決し、“本気”での脱出を試みた。
 そして、次の瞬間に不可解な絶望に包まれた。
(えっ……お、押しのけ……られない?)
 両腕が都によって絨毯に押さえつけられ、ぴくりとも浮かすことが出来ないのだ。そんなバカなと、再度力を込めるが、やはり動かすことが出来ない。
(う、嘘……冗談、だろ?)
 相手は年上とはいえ女性――女の子だ。確かに姿勢的に苦しい状況ではあるが、それでも全力で抵抗しても押しのけることが出来ないというのは、男としてショックを隠しきれなかった。
「ふぁぁ……」
 しかし、“その状況”も長くは続かなかった。都がまるでため息にも似た吐息を漏らし、キスを中断した瞬間、両腕が解放されたのだ。
 “逃げる”ならば絶好の機会――であるのに、月彦は動く事が出来なかった。
 何故なら。
「……暑い……」
 呟き、まずは上着を脱ぎ捨てる。そしてすぐにスポーツブラへと手をかけ、すぽーんとあっさり脱ぎ捨ててしまったのだ。きらりと光ったのは、都がいつも首から提げている琥珀の首飾り。しかし月彦の目が捉えたのはそれではなく、ツンと尖った二つの突起と、その膨らみだった。
(う、わ……み、みゃーこさんの……おっぱい……)
 意外に大きい――最初に抱いた感想がそれだった。“逃げる”ならば絶好の機会のはずなのに、突然目の前に出現したおっぱいに月彦は完全に目と思考を奪われていた。
(ぴ、ピンク色で……ツンって……大きいのに張りがあって……)
 真央や真狐の牛乳プリンのようなそれとは違う。健康的な褐色肌のそれは強いて言うならばコーヒー牛乳プリンのような膨らみに、月彦は思わずゴクリと喉を鳴らしてしまう。
 カチリと。何かのスイッチが切り替わる音を、月彦は聞いた。
「つっきー……?」
 そんな月彦の血走った視線を感じたのか、都が肩を抱くようにして胸元を隠してしまう。
「ダメだ、みゃーこさん」
 そんな都の手首を、月彦は瞬時に掴む。
「隠さないで」
「ぁぅ」
「みゃーこさんのおっぱい、もっと見たい」
 そして、都の手を開かせる。忽ち露わになる、二つの健康おっぱい。――心拍数が跳ね上がるのを、月彦は感じた。
「や、やぁ……つっきー……そんなに見ないで……………」
「服脱いだのはみゃーこさんだろ? それなのに見ないで、ってのはおかしいんじゃないかな」
「で、でも……つっきーに見られてると……」
「俺に見られてると?」
「へ、へんな感じに、なる、の……………」
「変な感じって?」
 質問しながらも、月彦の両目は完全に都の胸元にロックオンされている。しかし触りはしない。まだその段階では無いからだ。
「ぁぅぅ……………じゅわぁって……熱いのが……溢れてくる、感じ……………」
「へぇ」
 月彦の右手が、都の左手首から離れる。そのまま吸い込まれるように――都の左乳房へと宛がわれる。
「あっ……」
 手のひらと、指先までをいっぱいに使って、都の乳房を包み込むようにしながら、ゆっくりと持ち上げる。その質量を計るかのように。
「んんっ……つ、つっきー……?」
「みゃーこさん、触ってもいい?」
 明らかにおかしな質問だった。月彦は既に触れているのだし、都もそれを止めてはいない。であるのに、月彦はあえて問うた。
 そして。
「……うん」
 都もこくりと頷く。――ぐっ、と。月彦の右手が強く都の胸を掴んだのはそのときだ。
「あっ、あっ」
 一体いつのまに動いたのか。左手までもが都の右乳房を掴み、右手と連動して円を描くように愛撫を始める。
「あっ、あっ、あっ」
 円を描く愛撫に合わせるように、都が肩を揺らしながら息を吐き、声を漏らす。無論月彦も“おっぱい初心者”である都に対し、真央や真狐にするような“痛いくらいの”をするつもりはない。
 指先にはまだろくに力すら込めず、ただやんわりと円を描き続けるだけ。“楽しむ”前にまずは都に慣れさせる必要があるからだ。
「あっ、あっ……つ、つっきー………やっ……だ、だめぇぇ……!」
 突然、都が強引に月彦の両手を払った。そして、まるで尿意でも我慢しているかのようにスパッツの上から股間の辺りを押さえつける。
「都のからだ……変なのぉ……………つっきーに触られると……お、……おしっこ、漏れちゃいそうになるの……」
 顔を耳まで真っ赤にしながら、消え入りそうな声で都が言う。
 くすりと。月彦は都を安心させるように、小さく笑みを浮かべた。
「……大丈夫だよ、みゃーこさん。それはおしっこが漏れそうなんじゃなくて、女の人が気持ち良くなると出ちゃうもので、ごくごく当たり前のものなんだから、恥ずかしがらなくていいんだ」
 二十歳の女性ならば、当然性教育かもしくは経験から知っているはずのコトなのだが、都にはそういった常識は当てはまらない。故に月彦はあくまでソフトに、“現状”を説明する。間違っても都が“自分の体は普通とは違う”等とは思わないように。
「都のからだ……へんじゃないの?」
「全然変じゃない。そういう風になるのがあたりまえなんだから」
 再度、都の胸元へと手を這わせる。今度はやや乱暴に、“揉む”。
「あぁっ」
「こうすると、痛い?」
 ふるふると、都は首を振る。
「じゃあ、これは?」
 キュッと、月彦は堅く勃起している先端をつまみ、ついと引く。
「アッ……」
 都はやや高い声を上げ、体を硬直させる。
「び、びりびりって……電気みたいなの、走った……」
「びりびりするの、みゃーこさんは嫌い?」
 ふるふると、再度首を振る。
「じゃあ、もっとするよ?」
「んっ……ぁふ……ぁっ……」
 もっとする、とはいいつつ、月彦はやんわりと“揉む”だけにとどめる。都の目に浮かぶ明らかな困惑。しかし月彦は気づかぬふりをしつつ、やんわり揉みを続ける。
「はぁ……はぁ……んんっ……はぁぁ……………つ、つっきぃ……………」
「どうしたの、みゃーこさん」
「あのね……さ、さっきの……」
「さっきの?」
「びりびりってするの……あ、アレ……して、欲しい……………」
 かぁぁと顔を赤くしながらの、都のおねだり。月彦はやんわり揉みを続けながら、堅く尖った先端部分を親指と人差し指とで優しくつまむ。
「んっ」
 まだ引かない。都が“その瞬間”に備えるように身を固くしているうちは引かない。親指の腹と人差し指の関節部分で転がすようにして弄ぶにとどめるだけだ。
「つ、つっきぃ……………」
 切なげな都の声。もう少し焦らしたものか月彦は悩み、“初心者”である都にあまり意地悪をするのもどうかな、という結論に達した。
「あンっ!」
 キュッ、と摘んで、強く引く。都は忽ち壁が震えるほどの甲高い声を上げ、背を反らせた。
「あっ、あっ、あっ……だ、だめ……つっきぃ……………あっ、あっ、あっ……!」
 勿論それで手を止めたりはしない。ぐにぐにと強めに揉んでは先端部を指で弾き、扱くように擦り、何度も何度も都に声を上げさせていく。
「ふぁぁ……………つっきーに触られると……都のからだ……どんどんヘンになっちゃうよぉぉ……………」
 恥ずかしげに呟きながら、都はそーっと、スパッツの方へと右手を這わせる。そして生地を触るなり、さらに顔を赤くする。
「び、びしょびしょになっちゃってる……どうしよう、つっきー」
「……………脱いじゃえばいいんじゃないかな」
 それはそれは眩しい笑顔で、月彦はさらりと言ってのけた。


 

 さすがに都も異性の前で全裸になってしまうことに対しては抵抗を感じたらしく、上着やスポーツブラのようにすぱーんとはいかなかった。そんな都の初々しさが、月彦の頭を少しだけ冷静にさせた。
「みゃーこさん……一応、念のため聞くけど」
「……?」
「男の人と付き合ったりとか……友達以上の関係になったことってある?」
 都は首を振る。
「てことは……当然キスをしたこととかも……」
「“男の子”とこんなにいっぱいお話したのは、つっきーだけだよ。ちゅーしたのも、つっきーだけ」
 にっ、とはにかむような笑顔を零されて、月彦の方が赤面してしまった。
(き、キスが初めてってことは……“それ以上”もまだってことだよな……)
 ゴクリと、反射的につばを飲み込んでしまう。処女、生娘――言い方はいろいろあるが、それらに惹かれるのはある種の男の性と言える。
(いいや、ダメだダメだダメだ! みゃーこさんに手を出したりしたら姉ちゃんに殺される!)
 もし、都が“経験済み”であるならば、このままヤッてしまうのも一つの選択肢としてアリであったかもしれない。しかしさすがに“初めて”となると二の足を踏まざるを得ない。如何に本人がそれを望んでいようとも、姉にそれがバレたが最後、“限りなく死刑に近い何か”の刑に処されるのは明らかではないか。
(でも……処女……)
 その単語に、ぐらりと理性が揺れる。とりあえずヤるだけヤってしまって、その後の事はその時に考えればいいのではないか――そんな“囁き”が耳元で絶え間なく聞こえる。
 さながら、森の中にぽつんと放置された半開きの檻の中に置かれた極上の生肉を見つけた獣のような気分だった。食らいつけば間違いなく檻の扉が閉まり、掴まることがわかりきっているのに、全身の毛が引っ張られているような凄まじい引力を感じる。
 食べたい。食べてしまいたい。
 例え一つしかない命が対価だとしても――月彦はぐぎぎと歯を食いしばる。
「つっきー? ……どうしたの?」
「……ごめん、みゃーこさん。ノリノリでおっぱいまで触っちゃってアレなんだけど……早く服を着て……その格好は、いろいろヤバい」
 100のうち99まで、月彦の理性は浸食された。しかしのこり1の理性がギリギリのところで、相撲で言うところの徳俵的なもので踏みとどまった。
 都に服を着せるというのは、そのギリッギリの理性を挫けさせない為に必要な作業だった。ただでさえ上半身裸、下半身スパッツのみという組み合わせは死人が出てもおかしくない、まさに殺人的なコンボだ。すでに月彦の意思に反して怒張し始めている愚息をなんとか都に気づかれまいと必死に腰を引きながら、月彦は都が脱ぎ捨てたスポーツブラへと手を伸ばし、差し出す。
「??? ……なにがヤバい?」
「や、ヤバいっていうか……お、俺が我慢できなくなっちゃうから! お願いだから早くこれを……」
「つっきー、何か我慢してるの?」
 しかし、都は受け取ってくれない。むしろ月彦の顔色でも覗き込むように前屈みになってくる。
(ぐはあっ…………お、おっぱいが……おっぱいが近づいてくる……!)
 真央ほど大きいというわけではない。とはいえ、世間一般的に見れば十二分に巨乳と評することができるその質量が、両腕に挟まれむにぃっ、と形を変える様から、月彦は目を離す事ができない。
(耐えろ、耐えろ、耐えろ……耐えるんだ俺! 一体何度おっぱいで失敗する気だ! “そっちの道”に行ったらあとで泣く羽目になるっていい加減学習しろ!)
 ぐぎぎと歯を食いしばりながら、月彦は必死に小麦色おっぱいから目を逸らそうとする。首に血管が浮くほどに、渾身の力を込めて顔の向きを変え、なんとか視界の外へとおっぱいを追い出す事に成功した。
 否、した筈だった。
「あっ」
 驚いたような、都の声。月彦もまた、同じく目を見開き驚いていた。何故なら、都が驚いたのは、二つの手が自分の胸元を捉え、激しく揉みまくっているからなのだ。
「ちょっ……えっ、あれ……? お、俺の、手?!」
 都の胸を捉えもみくちゃにしているのは紛れもない自分の手だった。先ほどまでのように、触ろうとして触っているわけではない。触るまいとしているのに勝手に動くのだから、月彦の混乱は深まる一方だった。
「あっ、あっ……だ、ダメだよぉ……つっきぃ……………そんな風にされたら、もっとびしょびしょになっちゃう……ぁっ、ぁっ……」
「お、俺も……止めようとはしてるんだけど……」
 止まらない。都の胸は今まで触ったどの女性のものよりも弾力に富んでいるように感じる。そのほどよい弾力がなんとも新鮮で、もっと触りたい、揉みたいという欲求を月彦は徐々に抑えられなくなる。
「あっ、あっ、あっ……」
 五分もした頃には、姉に対する恐怖心も何処へやら。折角冷えかけた頭も再度ヒートアップし、月彦は完全に自らの意思で都の小麦色おっぱいに没頭する。
「み、みゃーこさん!」
「きゃっ……、つ、つっきー!?」
 あれほど。あれほど頑張っても都の下から脱出できなかったというのに。今度は容易く都の体を押し返し、逆に月彦が押し倒すような形へと変化する。
 そしてそのまま――
「あッ……やンっ……!」
 つん、と先を尖らせた小麦色おっぱいに舌を這わせ、しゃぶる。
「あふっ……ぁぁぁぁぁ……………」
 都は蕩けたような声を出しながら、月彦の後頭部をかきむしるように指を這わせてくる。ぶるりと体を震わせながら、背を仰け反らせるのが月彦にも解った。
「つ、つっきぃ……はぁはぁ……そ、それ、だめぇ……」
 口だけの拒絶。むしろ都の体は恐らく生まれて初めて与えられる快楽に喜んでいるかのように月彦の愛撫を容易く受け入れる。
「あっ、あっ、あっ…………だ、だめ……つ、つっきぃ…………やっ……も、漏れちゃう…………」
 キュッ、と何かを我慢するように都が太ももを閉じる。それをさせじと、月彦は都の足の間に膝を入れ、一端愛撫を中断して顔を上げる。
「……大丈夫、みゃーこさん。さっきも言ったろ? それは“お漏らし”じゃないんだ」
「でも……でもでも……どんどん溢れてきて、止まらない……………」
「……それは、女の人が興奮したり、エッチしたくなったりするとなる生理現象みたいなものだから、恥ずかしがらなくていいんだよ、みゃーこさん」
「……都の体……えっちしたいって思ってるの?」
「そ、そういう事になる……かな」
「……つっきーと、えっち……したい?」
 不思議な疑問系になってしまっているのは、都自身自分の体の状態を把握しかねているからなのだろう。
「みゃーこさんは、今までそういう風に思ったことないの?」
「そういうふう……?」
「えと……男の人とエッチしたいーーって、思ったことない?」
「……………………」
 都からの返事は沈黙だった。しかし、その沈黙の間みるみる顔が赤くなるのを、月彦は見た。
「あの、ね……つっきー……都ね、そういうのよく解らないから……違ってるかもしれないけど」
「うん?」
「つっきーと一緒に居るとね……ぎゅーって抱きついたり、いっぱいちゅーしたいって、思ったことは……ある……よ」
「……今は?」
「いま……?」
「そう、今。……今はどんな風に感じてる?」
「……つっきーに……いっぱい……触って欲しい……」
「触る、だけ?」
 ぶんぶんと、すさまじい勢いで都が首を振る。そんな都の体の背中側へと手を回し、最初はそっと、そして徐々に力を込め、“ぎゅううう”と抱きしめる。
「つっきぃ……ンンッ……」
 都は戸惑い、そしてやや遅れて月彦の背へと手を回し、自らもぎゅうとしがみついてくる。
「つ、つっきぃ……ちゅー……したい……」
 そんな都の言葉に返事を返す間もなく、月彦は唇を奪う。月彦が舌を差し込み、都が舌でそれを受け、互いに唾液を絡め合うようにして、くちくちと水音を鳴らす。
 抱擁は、いつの間にか解かれていた。互いの両手が抱きしめる為ではなく、互いの体をまさぐり合う為に動き出したからだ。
「あっ、んぅ……つっきぃ…………あはぁ……んっ……はぁんっ……」
 心なしか、都の喘ぎ声が前にも増して艶を帯びたように感じる。
「つっきぃ……つっきぃ……………もっと、もっと都のからだ……触ってぇ……」
「触ると……みゃーこさんは気持ちいい?」
「うん……つっきーに触られると……からだがふわぁって浮いちゃいそうになるの……あぁん! んぅっ……んっ……」
 都の胸をこね回しながら、再度唇を重ねる。ぐにぐにと、指の間から肉が盛り上がるほどに、やや強めに。
「んんっ……んんぅ……!」
 喉から聞こえる都の噎びは、切なさを帯びたものになっていた。じっとりと熱と湿り気を帯びたスパッツに覆われた都の腰回りが、焦れったげにくねり、時折クイクイと刺激をほしがるように前後するのを横目で見ながら、月彦はあえて触れずに置く。
「……んんっ!?」
 その瞬間、月彦は天地が逆転するのを感じた。
 油断をしていなかった――と言えば、嘘になる。“こういう事”にかけては自分の方が明らかに巧者であり、初心者である都を完璧にコントロール下に置いている自身もあった。
 しかし月彦は失念していた。初心者であるが故に、セオリー通りにはいかないこともあるという事を。
「んちゅっ、んんっ……んっ……」
 それは丁度“最初の形”だった。都に押し倒され、マウントポジションをとられた形。
「……つっきーも、脱いで」
「えっ」
「つっきーにも……いっぱい触りたい……」
 息を荒げながら、都が力任せに衣類を脱がしにかかる。月彦は戸惑い、混乱の隙を突かれる形で、万歳をするようにしてセーターを脱がされ、その下に着ていたシャツやら下着やらも脱がされ、上半身裸にさせられる。
(……みゃーこさん……意外に積極的……?)
 そして、“いっぱい触りたい”の言葉通りに月彦の胸板をなで回してくる。頭で考えての行動ではなく、文字通り本能のままに男の体に触れるような手つき。
 さながら、今まで無意識下に抑圧されていた性欲に翻弄されるように、都は息を乱しながら月彦の腕を、胸板を、首を撫でつける。
「…………つっきーの体……あんまり柔らくない……」
「……一応男だから」
 まるで胸を揉もうとするかのように、都は胸板のあたりを掴み、猫が時折毛布にするようにモミモミ運動をするが、当然女性のそれのように柔らかいわけがない。
「つっきー……ぺろぺろしてもいい?」
「ぺろぺろ? …………っ……」
 都が月彦の足のほうに体をずらし、上体を伏せるように重ねたかと思えば、胸板の辺りをぺろぺろと舐め始める。
「つっきー……つっきぃ……」
 まるで恋人の名でも呼ぶような、愛しげな声を漏らしながら、都はぺろぺろと胸を、乳首まわりを舐め続ける。
(…………そっか、みゃーこさんは……)
 まるで、動物同士のグルーミングのような都の愛撫。少し性知識のある女性ならば、ペニスへの愛撫が最も男を喜ばせられると知っているのだろうが、どうやら都にはそういった知識は欠けているようだった。どうすれば良いのかわからない者が最初にすること――それは他人の“真似”だ。
「つっきー……きもちい?」
「……うん、すごくいいよ」
 本当はくすぐったいだけだったが、月彦は頷き、都の髪を撫でてやる。
「えへへー……もっとする!」
 ぺろぺろと、胸元だけではなく、ヘソの辺りまで舐めたかと思えば、今度は首筋へと上ってきて、ちゅっ、ちゅっ、と吸い付くようなキスをしてくる。
「つっきぃ…………んんぅぅ……ちゅはっ、ちゅっ……んんっ……んんっ……」
 合間合間に“息継ぎ”をしながらも、都は貪欲にキスを求めてくる。ぴったりと体を密着させてのキスのため、胸板にダイレクトに小麦色おっぱいの弾力に富んだ感触が伝わり、月彦としても己の興奮度合いをキスを通じて都に伝えずにはいられない。
「ふぁぁ……つっきぃ……………」
 唾液の糸を引きながら、都がゆっくりと顔を上げる。ぜえぜえと息を切らしているのは、それだけ呼吸を止めてキスに没頭していたということなのだろう。
「あのね……都ね……もっと……つっきーと一緒に……気持ちいいこと、シたい……………」
 でも、どうすればいいのか解らない――都の目は、そう語っていた。
「つっきぃ……都に……いっぱいえっちのコト……教えて?」
「……みゃーこ、さん」
 不安げに、上目遣いに“おねだり”をする都の姿が、月彦の胸を衝撃と共に刺し貫く。
 姉の友達であるとか、彼氏彼女の関係ではないとか、そういった一切のしがらみを頭の隅へと追いやって。
 月彦は、ケダモノになった。



 壁に凭れるようにして座り、都の体を背後から抱きながら、月彦はその体に手を這わせる。たわわな胸元、引き締まった腹部、そしてムチムチの太ももへと。
「つっきーに触られると……すっごくどきどきする……」
 事実、肌をただ触っているだけで、都ははぁはぁと息を荒げていた。もちろん、月彦もいつまでもただ触っているだけではない。その指先を、徐々に太ももから足の付け根へと動かしていく。
「ぁっ……やぅ……」
 びくりと、都が怯えるような声を出し、たちまち足を閉じてしまう。月彦の右手は太ももにがっちり挟まれ、ぴくりとも動かせなくなる。
「みゃーこさん?」
「……そこ……だめぇ…………びしょびしょになっちゃってるからぁ……」
「でも、ここを触らないとエッチは出来ないよ?」
 あうう――そんな泣きそうな声を上げ、都がおそるおそる足を広げ、月彦の右手を解放する。くすりと、微笑を一つ。月彦はそのまま都の太ももを撫でるように南下し、スパッツの上から都の最も敏感な場所を刺激する。
「あッ」
 都はまるで電撃でも受けたかのように体を震わせる。
「あッ、あッ、あッ……やっ……だめぇぇ……つ、つっきぃ……それ、……びりびりって来るっぅ……」
 スパッツの上から秘裂に指をあて、人差し指と中指だけで軽く円を描くように揉んだだけで、都は再び足を閉じ、体を硬直させる。
「……じゃあ、もう止める?」
 意地悪く囁きかけると、都は目尻に涙を浮かべながら月彦を見返し、小さく首を振った。
 都の意向通り、月彦は愛撫を再開させた。今度はやや強めに、スパッツ越しにうっすらと浮かび上がっている筋に反って中指を擦りつけるように動かす。
「あァァ……ふぁ……あぁぁぁ…………」
 月彦の右手を両腕で抱き込むようにしながら、都が声を上げる。それを受けて、月彦は愛撫を続行する。
「あぁっ……あぁっ…………あぁぁ……」
 ぐいとスパッツを引き上げ、くっきりと“形”を浮きだたせた上で、スリットに中指を埋めるようにして刺激する。強く、振動を送るようにすると、都は堪りかねたように声を荒げた。
「ふぁぁぁぁぁっ……つ、つっきぃ……やぁぁ……都、またびしょびしょになっちゃうよぉぉ……」
 事実、スパッツはもうびしょ濡れになってしまっていた。もう脱がしてしまってもいいのだが、月彦はあえてそうせず、今度はスパッツの下、さらに下着の下へと手を差し入れる。
「ひゃあっ!? だ、ダメぇぇ……そんなっ……っっ…………」
 スパッツの下に潜り込む手の感触に、都はハッとしたように月彦の手を押さえつけてくる。
「……俺は直接みゃーこさんに触りたい」
 囁いて、月彦は強行する。元々、手を押さえつける都の力もさほど強くはなかった。指先に感じる恥毛の感触――やがてその向こうにあるものを、月彦の指が取られる。
「あ、ンッ……あっ、あぁぁっ……あぁぁっぁぁぁぁ!」
 くちゅ、にちゅっ。
 にちゃっ、ぬちゅっ。
 壺に入ったたっぷりのハチミツをかき回すような音を立てながら、優しく丹念に愛撫する。
「あっ、あっ、あぁっ、つ、つっきぃ………びりびりって来るよぉぉ……」
 びくびくと腰を震わせながら、都が喘ぐ。褐色肌の為わかりにくいが、その体はすっかり上気し、火照りきっているようだった。
「……びりびりするの、みゃーこさんは嫌?」
 ふるふると、先ほどよりも力強く都は首を振る。
「気持ちいいのぉ…………気持ち、良すぎて……痺れちゃうのぉ……」
「そっか、良かった」
 左手で都の顎先を捉え、上を向かせ――唇を奪う。舌を絡めあいながら、その動きと連動するように、右手の指先で都の秘部を愛でる。
「ンンんぅっ……んっ、ちゅはっ……んふっ……んんっ……んーーーーーーーーッ!!」
 クチュクチュと蜜壺を浅くかき回す指の動き似合わせて、都が腰をうねうねと動かし始める。
 そろそろか――月彦は数多の経験から、“その時”を悟った。
「みゃーこさん……そろそろいいかな?」
「ふぇ……?」
 惚けたようになってしまっている都の体の向きを変えさせ、月彦はすでにジーンズを突き破らんばかりに怒張しきっているそれを見せる。
「わわっ」
 テントのように盛り上がっているその様を見ただけで、都は目を丸くした。さらにベルトを外し、ジッパーを下げ、ご神体そのものを露わにするや
「ひぃっ」
 と、悲鳴まで上げた。
「みゃーこさんに挿れたい」
「い、入れる……?」
「そのために、びしょびしょになるんだよ、みゃーこさん」
 月彦流超実践的な性教育だった。都は自分の秘部と、剛直とを交互に見る。
「…………つっきー……これ痛くないの?」
 都の言葉の意味が、月彦にはわからなかった。
「…………腫れてる」
「腫れてるんじゃないよ。みゃーこさんの中に入りたいって、やる気を出してるだけなんだ」
「つっきー、都とエッチしたいから、こんな風になっちゃうの?」
「……まぁ、そういう事になるね」
 なかなか、性教育というのも照れくさいものだと、月彦は身をもって実感していた。
「……触ってもいーい?」
 月彦は頷く。都がおそるおそるといった手つきで剛直の竿部分に触れ、握りしめてくる。
「すごく……熱い……堅い……」
 上下にさするようにしながら、都は呟く。そのまま――まるで本能に導かれるように、唇を寄せ――。
「み、みゃーこさん!?」
 ちゅっ、と。剛直の先端にキスをしたかと思えば、そのままぺろぺろとアイスクリームでも舐めるように舌を這わせ始める。
「ちょっ……だ、ダメだよ……みゃーこさん……っ……」
「んっ……つっきー……こうすると気持ちいい?」
「気持ちいいけど……はうぅぅ……」
 また、ぺろぺろと舐められる。フェラとは明らかに違うただのアイスクリーム舐めなのだが、それが意外なほどに効き、月彦は戸惑っていた。
「だ、ダメだって……みゃーこさん…………そういう事をされると……我慢が効かなくなる、から……」
 今でさえ、本当ならば無理矢理に都を押し倒し、剛直をねじ込み、子種を注ぎ込んでやりたいところを必死に堪え、紳士ぶっているだけなのだ。都の行為は、そんな月彦に最後に残されたほんの数パーセントほどの理性をごりごりと削る危ういものだった。
「きゃっ」
 その悲鳴は、ひどく遠くから聞こえたような気がした。気づいた時には、月彦の両手は都の両肩を掴んで押し倒してしまっていた。
「あっ……」
 ハッと月彦は我に返った。都もまた、驚いたように目を丸くしていた。だが、次の瞬間には都は頬を赤らめ――そして目を伏せるようにしてこくりと頷いた。
「みゃーこさん……」
 いいの?――その言葉は掠れてしまって続かなかった。だが、都は察したように、小さくこくりと頷いた。
 女性から向けられる“OK”のサイン。これほど男をやる気にさせるものはあるだろうか。
「……じゃあ、いくよ。みゃーこさん」



 最終的な都の同意を得、あとはヤるだけ――なのだが、事ここに至って、月彦は重大でなおかつ切実な問題に直面していた。
 即ち、“脱がす”か“破くか”の問題だ。
(……個人的には、スパッツはそのままで、最低限破いて……ヤりたい)
 が、都的にはどうだろうか。初体験で衣類を破られたという事実が、トラウマになったりはしないだろうか。
(……ぐぎぎ……ここは、やっぱり……)
 己の欲望よりも、都の気持ちを優先すべきだろう。月彦は心を鬼にして、スパッツと、その下の下着を脱がすことにした。
「あんっ……やだ、つっきー……そんなにじろじろ見られたら恥ずかしいよぉ……」
 下着を取り去られ、もはや身を隠すものは何も無くなった都が手で秘部を隠すような仕草をする――が、月彦はその手を掴み、強引に秘部を晒させる。
「ダメだよ、みゃーこさん。ちゃんと見せて」
「で、でもぉ……」
「足、開いて」
 うう、とうなり声を漏らしながら、都は渋々足を開く。ことこういうことに限っては、いやに押しの強い月彦だったりする。
 ずいと開かれた足の間へと身を乗り出し、まじまじと観察する。キレイに生えそろった恥毛は濃くもなく薄くも無く。てらてらと光沢を放っているのは、溢れた蜜が下着とスパッツとに行き渡り、濡らしていたからなのだろう。
「やっ……そ、そんなトコ見ちゃだめぇぇ!」
 静止を懇願する都を無視して、月彦は秘部へと手を這わせ、ぐいと割り開き、さらに覗き込むように顔を近づける。まだ男を知らない、ピンク色の媚肉が戸惑うようにヒクついている様に、月彦の興奮は最高潮に達した。
「みゃーこさん、いくよ」
 剛直に手を添え、狙いを定めるように都の秘部へとあてがう。先端部が“入り口”へと触れた瞬間、都が身を強ばらせるのが解った。
「みゃーこさん、もっと力を抜いて」
「う、うん……」
「大丈夫、怖くないから。……ちょっとだけ痛いかもしれないけど、最初だけだから」
 ゆっくりと、媚肉を割り開きながら先端部を埋没させていく。一度はリラックスさせて脱力させたのもつかの間、剛直が進むにつれて再度都の体が強ばっていくのが解る。
「みゃーこさん、大丈夫だから……力を入れると余計に痛いよ」
 正確には、それは自分で経験した事ではないのだから“痛いらしいよ”と言うのが正しい所なのだが、月彦はあえて言い切った。
(……これ、が……みゃーこさんの……)
 剛直の先端に“抵抗”を感じる。疑っていたわけではないが、都が紛れもない処女だと解るとますます剛直に血が集まるのを感じる。
「っっ……つ、つっきぃ……」
「……みゃーこさん。一気にいくよ」
 なまじじわじわとやるよりも、一気呵成に貫いた方が良いはず――月彦は一気に腰を進め、処女膜を突き破った。
「あゥッ……!」
 悲鳴。都はシーツをかきむしり、痛みに耐えるように全身を強ばらせる。その間も、月彦はゆっくりと剛直を推し進めていく。
 自分は今、一度も男を迎え入れた事のない場所を蹂躙しているのだと。純真無垢な聖域を自分の色に染める恍惚、快感――征服感に酔いしれながら。
「みゃーこさん、大丈夫?」
 剛直の動きを止め、その痛みが少しでも和らぐように都の髪を優しく撫でる。
「……う、ん……だいじょぶ…………お、思ってた程じゃ……ない、かも……」
 目尻に涙を浮かべたまま、都はにぃと笑顔を返してくる。月彦もまた笑顔を返す――が、それは都のそれよりも引きつり、脂汗を浮かせたものだった。
(くっ……この締まり……ただ事じゃないぞ)
 ぎゅっ。ではない。ぎちっ、とした締まりに、月彦は感動に近いものを感じていた。
(いや、処女はキツいっていうけど、そういうんじゃない……)
 月彦は思い出す。都の脚力――鍛えられた、カモシカのような筋肉を。それらが相まって、このある種麻薬的とも言えるキツさを作り上げているのではないか。
(……や、べ……これ、クセになっちまったら……)
 間違いなく、自分は都の虜になってしまうことだろう。都とセックスをする為ならば他のものは何でも犠牲にしてしまうようなセックス奴隷に堕とされかねない――そんな中毒性の片鱗を感じて、月彦は脂汗をかかずにはいられない。
「つっきー……?」
「ごめん……みゃーこさん……俺、動きたい……動くよ?」
 もはや、都の返事など待ってられなかった。ゆっくりとではあるが、抽送を開始する。
「あっ、あっ……つ、つっきぃぃ…………!」
 まだ痛むのか、都の声は嬌声ではなく、悲痛めいた声だった。幸いにしてその声が幾分か月彦の頭の霧を晴らした。
(……っ……ていうか、摩擦が、スゴくて……)
 十分に潤っているからこそ、辛うじて動く事は出来る。しかしそれは強烈な摩擦を生みだし、加速度的に限界が近くなるのを感じる。
(矢紗美さんも……キツい方、だけど……)
 ここまでではなかった――仮に矢紗美に“これ”で責められていたら、或いは最初に出会った日の夜のうちに虜にされていたかもしれない。
「つっきー……どこか痛い? 苦しそう……」
「いや……違うよ、みゃーこさん」
 よほど厳しい顔をしていたのだろう。月彦はふっと体の力を抜き、笑顔を零す。
「えと、その……なんていいうか……みゃーこさんの中が……気持ちよすぎて……」
「気持ちいいのに、くるしいの?」
「苦しいっていうか……す、すぐイッちゃいそうになるから」
「イッちゃう……???」
 都の性知識の偏りも如何ともしがたいと、月彦は思った。
(……処女とか、そういうのは知ってるのに、イくっていうのは知らないのか)
 きちんと説明すべきかどうか、月彦はしばしの間悩まなければならなかった。
「と、とにかく……すぐイッちゃうっていうのは、それは男として恥ずかしいことなんだよ、みゃーこさん」
「……都のせいで、つっきー苦しいの?」
「いやそうじゃない……そうじゃなくて、みゃーこさんは悪くないんだけど……」
「……???」
「…………えーと……」
 言葉に詰まる。どう言えばいいのか。
(そもそもイく、っていうのを、みゃーこさんが理解できるんだろうか)
 まずは、それを経験させるのが先ではないだろうか。
「……解った。まずはみゃーこさんに“イく”っていうのを経験してもらうことにするよ」
「ふぇあ!? ……あんっ、やっ、つっきぃ……ンンッ……!」
 腰は動かさず、剛直を埋没させたまま――胸元を揉みしだく。優しく、円を描くようにしながら、同時に都の唇を奪う。
(…………っっ……締ま、るっ…………)
 全く動かしていないというのに、締まりの良さだけで背が反りそうになる。まるで愛撫に反応するように、剛直周りの肉襞がヒクヒクと震え、絡みついてくるのが解る。
(……ッ……だめだ……動き、たい……)
 ウズウズと腰の辺りに疼きにも似たものを感じて、月彦は抽送を再開させてしまう。
「ッアぁッ…………あっ、あぁっ!」
 たちまち敏感に都が反応し、キスを中断して仰け反りながら声を荒げる。
「あっ、あぅっ……ンッ……ぁっ……つ、つっきーのが……動いてるぅぅ…………」
「みゃーこさん、痛かったら言ってね」
「だい、じょぶ……痛み、は……あぁんっ! あンッ……ンンッ……」
「……みゃーこさん?」
 見ると、都は右手で口を覆うようにして声を押し殺していた。月彦は微笑を一つ零して、都の右手をそっと口元からどかせる。
「ダメだよ、みゃーこさん。声抑えたりなんかしちゃ」
「やっ……だ、だってぇ……つっきーが動くと……ンンッ……か、勝手に、声……あんっ、でちゃ……ぅンッ……ンンッ……」
「ダメだよ、ほら……口を開けて」
 指を這わせ、強引に都の唇へと差し込む。歯を開かせ、人差し指と中指をしゃぶらせるように抜き差しする。
「ふぁっ……ンンッ……あっ、んぅっ……あぁっ、ぁぁアッ! あァッ……あんっ!」
 腰を使いながら徐々に、声を出すことになれさせながら少しずつ指を抜く。
 性経験の乏しい都をイかせるというのは容易いことではない。培った知識、技術を総動員し、都がより感じられるよう、月彦は試行錯誤を繰り返す。
 挿入の角度を小刻みに変え、ペースを変えながら都の反応を伺いながら、月彦自身も徐々に高みへと登っていく。
「あっ……あっ、あっ……つ、つっきぃぃ…………は、恥ずかしい、よぉぉ……つっきぃが動くと……ゾワゾワって来て……声が、出ちゃっ………あんっ、あっあんっ!」
「俺は嬉しいよ。みゃーこさんが気持ちよくなってる声がいっぱい聞けて」
「でもっ…………あっ、あっ……やぁっ……つっきぃ…………だめっ、だめぇっ……気持ち、良くてぇ……へ、変な声、いっぱい出ちゃう……ああンッ! あっ、あっ、あぁぁァァッ!」
「大丈夫……それが普通なんだから。全然変じゃないよ、みゃーこさん…………むしろ、女の子のそういう声を聞くと、男は興奮するんだ」
「興奮……つっきーも……? ンンッ……やっ……つっきーの……都の中で、むくむくっておっきく……あッ、あッ……!」
「“興奮”してるからね。…………みゃーこさんの中、すっげぇ気持ちいいよ」
 耳元で囁く様に言うと、都はぶるりと身を震わせ感極まったように両手で抱きついてくる。
「つっきぃ……つっきぃ……はぁはぁ……ンンッ……はぁはぁ……あっ、アンッ!……はぁはぁ……き、気持ちいいよぉ……つっきぃのが、いっぱい擦れてぇぇ……びりびりって来るぅ……!」
「ちょっ……みゃーこさん……締めすぎ……」
 ギチッ、ギュゥゥゥゥ!
 まるで剛直の挿入を拒むように収縮する膣内を、月彦は無理矢理押し進み、強引に広げていく。
「あっ、あぁぁぁぁっ!」
 ビクビクビクッ――!
 収縮した膣内を強引に広げられ、都が声を上げながら体を痙攣させる――が、月彦は敏感に感じ取った。
 絶頂ではない――と。
「はぁっ……はぁっ……はぁっ…………ひ、火花が散ったよぉぉ……ひぁっ……つ、つっきー……やっ、もっ……止めっ……」
「止めてほしいの? みゃーこさん」
「あっ、あっ、あっ……ダメッ……だめ、なのぉ…………何か、変なのが、来るっ……来そう、来る……やあぁ……」
「…………どうすると、“変なの”が来そうになるの?」
 一端抽送を止め、優しく語りかける。はぁはぁと、都はしばし肩で息をし、胸を弾ませるようにしながら呼吸を整える。
「つ、つっきーに……ぐいぐいって広げるみたいにされると……いっぱいびりびりって来て、変な感じに、なるぅ……」
「へぇ……」
 当然都は、自らの弱点をバラした自覚など無いのだろう。それを聞いた悪魔が、目の前でぺろりと舌なめずりをしたことも、気がついていなかった。
「……ところで、みゃーこさんってもしかして脇腹とか弱い?」
「ふぇ……? ひゃん!」
 指先でちょん、と都の脇腹を突くと、たちまち都は素っ頓狂な声を上げて体をビクつかせる。
「やっぱりね。……さっき突くとき、腰のくびれのところ掴もうとしたらすぐ手でどけようとしたから、もしかしてと思ったんだ」
「つ、つっきぃ……? やっ……すっごく意地悪な顔してる……」
「とんでもない。……これでやっとみゃーこさんに“イく”っていうのを解ってもらえるって、安心してるんだよ」
 天使の笑顔を浮かべながら、月彦はモゾモゾと都の脇腹の辺りを撫でさする。
「ひゃうっ!?」
 都がビクンと体を揺らす――その瞬間を狙って、剛直を突き入れる。
「イひぁッ!」
 ビクンッ――今度は都が腰を跳ね上げさせる。ギチッ、ギチギチッ――痛いほどに剛直が締め上げられるが、それは歯を食いしばって耐える。
「やっ……つ、つっきぃ……それ、だ、だめっ……ひゃうぅッ! あひっ、はひぃぃっ!」
 先ほどまでとは明らかに都の反応は変わった。サワサワと脇腹を触ると、ギュッと収縮する→そこをこじ開けるように突くのコンビは、たちまち都から余裕を奪い去った。
「はひっ……はひぃぃっ……ひあっっ……はひゃぁっ……ンぁぁぁっ、あぁぁっ、あぁっ、あぃぃっ!!」
 ビクビクッ、ビクッ、ビクッ!!
 都は涙目でイヤイヤをするように首を振りながら、脇腹を触る月彦の手を引きはがそうとするように力一杯掴んでくる。――が、動じる月彦ではなかった。
「あぁぁァァッ……あぁぁぁぁッ……!」
 月彦の手首を掴んでいる都の手が、その指が離れ、反り返る。
「ひぅぅっぅぅううッ!」
 歯を食いしばり、腰を不自然に痙攣させたかと思えば、両手を月彦の背に、両足を月彦の腰へと絡め。
「あっ、あぃぃぃぃぃぃいいいいいィィィッッ………………………………〜〜〜〜〜〜〜〜っっっっっっ!!!!」
 絶叫するような声を上げ、全身を痙攣させながら、都はイく。――月彦は“それ”を都とふれあっている全ての場所で感じ取りながら、己の“我慢”の限界を悟った。
「……っ……」
 さすがに中出しだけはまずい――ギリギリの理性を総動員して、月彦は剛直を引き抜く。忽ちその先端から断続的に白濁汁が迸り、都の褐色の肌を白く汚していく。
「ふぁぁぁ…………つっきぃぃ…………」
 都は体を痙攣するように跳ねさせながら、ぐったりと四肢を投げ出していた。絶頂の余韻に酔いしれるというよりは、初めての絶頂の混乱から立ち直れていないというのが正しいように見える。
「つっきー……何か、出てる……」
「ああ、これは……ええと、精液っていって……男が気持ち良くなると出ちゃうもので……」
「せーえき! 知ってる! 赤ちゃんのもとになるやつ!」
 ああ、そこは知ってるんだ――相変わらず都の性知識は偏ってると思わざるを得ない。
「これを外に出さずに、みゃーこさんの中に出したら赤ちゃんが出来るんだけど……さすがにそれはまずいから」
 今の都が自身の安全日などを把握しているとは到底思えない。たまたま今日が危険日で、一発でストライクでした――では、都に対しても申し訳がなさ過ぎる。
「……つっきーとみゃこの赤ちゃんができるの?」
「中に出したら、ね。外に出したから大丈夫だよ」
 厳密には避妊に絶対などというものはないのだが、そこまでの説明はいたずらに都を不安にさせるだけだろう。
「つっきーは……赤ちゃん……欲しい?」
「ほ……欲しいけど……さすがにまだ早すぎるよ」
 この話題を長く続けると非常にマズイ流れになる気がして、月彦は誤魔化すように都に被さり、その唇を奪う。
「んちゅっ……んっ……」
 都もキスは嫌いではないらしい。やや辿々しいながらも、絶頂の余韻を噛み締めるように舌を絡ませてくる。
(……折を見て、きちんと性知識を学ばせた方が良いかもしれない)
 月彦が唇を離せば、都が食らいつき、都が唇を離せば、月彦が再度くらいつき――そんな余韻のキスは五分以上にもわたって続いた。
「…………と、とりあえず……これで“イく”っていうのが、どういうことか解ったろ?」
「う、うん…………スゴかったよぉ…………死んじゃうかと思った」
「もしかして、嫌だった?」
 都の返事は遅かった。なにやらばつが悪そうに目を泳がせ、たっぷりの沈黙の後。
「………………嫌じゃ、ない、かも」
 恥ずかしそうにそう答えた。
「……大丈夫、すぐにクセになるよ」
「く、クセになっちゃうのは困るよぉ…………あんっ」
 困り顔の都が可愛い過ぎて、月彦は早くも我慢が出来なくなり、ぎゅううと強く、強く抱きしめる。
「ごめん、みゃーこさん…………みゃーこさんともう一回シたい……いい?」
 早くも締まりの良さにハマりかけている月彦だった。



「はぁっ……はぁっ……みゃーこさんっ……」
「あんっ、あんっ……つっきぃぃ……は、激しすぎだよぉぉ…………!」
 都の腰のくびれを掴み、手前に引き寄せるようにして突き上げる。肉付きのよい尻がパァン、と小気味の良い音を立ててたわわに揺れ、ふるふると震える。
「もぉダメ……立ってられないよぉぉ……あひぃっ、あぁん!」
 がくがくと足を震わせ、今にも崩れ落ちそうになる都を壁に押しつけるようにしながら、月彦は突く。
(ヤバい……思った通りだ…………みゃーこさんのナカ……クセになる……)
 これで何回目だろうか。最初こそ初々しくベッドの上で正常位で済ませたが、その後は全て後背位だった。しかもベッドの上ではもの足りず、都を立たせ壁に手を突かせて二度、三度とその尻と背中に白濁の跡をつけて尚、満足する事が出来ない。
「ヤバいよ……みゃーこさん……俺、止まらない……止まれない」
「あうぅ……ゴメンね……つっきー……都のせいで……」
「いや、みゃーこさんは悪くない……みゃーこさんが悪いんじゃなくて、逆なんだ、全くの……はぁはぁ……」
 そう、“良すぎて”困っているのだ。
(この、眺めも……たまんねぇ……)
 眼下に見下ろす、都の背中と、尻。ひょっとしたら――と、月彦は思う。自分が、こうまで都の体に惹きつけられるのは、単純に締まりが良いというだけではないのではないかという事に。
(……考えてみたら、再会した時からずっとみゃーこさんの体にムラムラしてたんだよな)
 考えられる可能性として最も有力なのは、なんとも健康的そうなその体つきだった。無駄な肉をそぎ落とし、なおかつむちむちとした下半身はいかにも安産型で、たくさんの子を産めそうではないか。
 そう、子孫を残す事が生物としての最終目標であるならば、都はまさにうってつけではないだろうか。いわゆる“孕ませたくなるタイプ”という意味で、月彦は無性に惹きつけられる自分を自覚せざるを得ない。
(この、尻も……)
 こうして見下ろしているだけで、萎え知らずの剛直がさらにギンギンにそそり立ってしまう。可能ならば“後ろ”の方も犯し尽くしてやりたいが、初めての都にさすがにそれは出来なかった。
「はぁはぁ……みゃーこさん……!」
 月彦は被さるように都に抱きつき、たわわな胸元をもっぎゅもっぎゅと揉みしだく。
「つ、つっきぃ…………やんっ……ま、また大きくなってるよぉ……」
「ごめん、みゃーこさん……もう少し、だから……」
 月彦は再び体を起こし、都のくびれを掴んで、腰を打ち付けるように――突き上げる。
「あぁんっ!」
 何度も、何度も。
「あンッ、あぁんっ! あっ、あぁんっ!」
 時には剛直が抜け落ちるギリギリまで引いて――
「あぁぁぁ…………ひぅぅううううっっ!」
 一気に尽き入れる。
「あっ、あっ、ぁっ、ぁっ、あンッ、あっぁっ、あっ……つ、つっきぃ……も、もぉ、だめ……こ、壊れるっ……壊れちゃうぅぅ……!」
「みゃーこさん……もう少しだけ、もう少しだけ頑張って……」
 ぜえぜえ、はあはあ。
 全身汗だくになりながら、月彦は遮二無二突き上げる。剛直に絡みついてくる極上の肉襞の感触に全神経を集中しながら、極みへと上り詰めていく。
「あンッ、あんっ、あンッ、あっ、あっあっ、やっ、らめっ、あんっ、やっ……あん! あんあんあんッ! やっ、く、くるっ……またっ、くるぅぅ!」
「みゃーこさん、イきそう? だったら……っ……一緒、にっ…………くはっ……」
 背後から被り、そのまま中に出してやりたい衝動を歯を食いしばって堪え、寸前で剛直を引き抜く。
「あっ……あァァァァ……………………!!!」
 がくがくと両足を震わせながら、都もまた感極まった声を上げながら崩れ落ちる。
 ビュルッ、ビュッ……ビュゥッ!
 立て続けに、三度剛直が震え、飛び散った白濁汁が崩れ落ちた都の頬を、髪を、背中を汚す。小麦色の肌に白濁の白はよく映え、見下ろしているだけで月彦は興奮を禁じ得ない。
(……もっと、全身にかけてやりたい……みゃーこさんを、完全に俺色に染めてやりたい……)
 ウズウズと、そんな欲望を抱く月彦をよそに、都は力尽きたようにその場にしゃがみ込んだまま、ぜぇぜぇと肩で呼吸をしていた。
 ハッと、月彦は俄に我に返る。
「……みゃーこさん、大丈夫?」
「あは、は……ごめん、つっきー……ちょっと……もう、くたくた……」
「……ごめん、ちょっと張り切りすぎちゃったかな」
 まだまだ全然犯り足りない――しかし、“初めて”の都にこれ以上求めるわけにもいかず、月彦は悶々としながらも矛を収めるのだった。


 都の部屋の風呂はお世辞にも広いとは言えないユニットバスで、一人ならばともかく二人同時に浸かるのは不可能だった。そのため“一緒にお風呂を”という流れになっても、二人同時に湯船に入るわけにはいかず、体を洗った後は都が湯船、月彦はシャワーという何とも変則的な形になってしまった。
「つっきー、無理すれば一緒に入れそうだよー」
「いや、無理だってみゃーこさん」
「ほらほら、こうやって都が仰向けになって、つっきーがその上に跨がる感じで入れば……」
「…………無理じゃないだろうけど、それだと俺上半身ほとんどお湯から出ちゃうんじゃないかな」
「ぎゅーって抱き合えばだいじょぶ!」
「…………とりあえず、試してみようか」
 苦笑混じりに、都が言うとおりに月彦も湯船へと入る。
「やっぱりちょい厳しい……ていうかこれ、俺が下になったほうがいいような」
「じゃあやってみよう!」
 今度は月彦が下になり、その腹の上に跨がるような形で都が入る。
「うぐっ……なんとか……」
「きゅうくつー……でもつっきーと一緒!」
 首から下と膝の先っちょ以外は全て水面下の月彦に対して、体の背中半分は殆ど湯から出てしまっている都という図式だった。
(……ていうか、この入り方だと……みゃーこさんのおっぱいがモロに……)
 ぎゅう、と押しつけられる二つの固まりに剛直がつい反応してしまう。幸いなのは、都が跨がっているのは腹の上であるため、下手に動かなければ勃起には気づかれない点だった。
「えへへー……つっきー……大好き」
 そんな月彦の焦りやら葛藤やらはつゆ知らず、都は子供が親に甘えるように無邪気に頬ずりまでしてくる。
「……都とつっきー、えっちした!」
「そ、そうだね……みゃーこさん」
「いっぱい、した!」
 いっぱいではないかな――月彦は心の中だけで意義を唱える。
「えへへー」
 自分で言って照れたのか、都ははにかむように笑いながら、ごつん、ごつんと今度は軽く頭突きをしてくる。
「きらら、喜んでくれるかなー?」
「ブフッ!」
 予想だにしなかった都の呟きに、月彦はずるりと体を滑らせ、髪の毛の先まで湯の中へと沈んでしまった。
「つ、つっきー!? だいじょぶ?」
「だ、だいじょうぶ……げほっ……がはげほっ…………そ、それよりみゃーこさん」
「んに?」
「まさかとは思うけど……今日のこと姉ちゃんに言う気なの?」
「……だめ?」
「絶対に止めて欲しい!」
「どうして……?」
 都は首を傾げる。どうやら本気で解らないらしかった。
「…………簡単に言うとね、みゃーこさんが今日の事を姉ちゃんに言っちゃうと、体の首から上だけ、しゅぱーんってどこかに跳んで行っちゃうんだ」
「くびからうえだけ…………つっきー死んじゃう!?」
「詳しくは説明できないけど、そういうことになっちゃうんだ。だから、姉ちゃんには絶対に内緒にしてほしい。絶対に」
「…………つっきーとえっちしたって言ったら、きらら怒る?」
「……ブチ切れると思う」
「………………きらら、怒ると怖い…………」
 たちまち、都はガクブルと震え始める。
「そ、そういうわけだから……内緒。内緒だよ、みゃーこさん」
「わかった! きららには内緒!」
「マジで頼むよ、みゃーこさん……ホントのホントにお願いだから」
「内緒にするから、ハンバーグ!」
「え、ハンバーグ?」
「つっきーのハンバーグ、また食べたい!」
「…………ちゃっかりしてるなぁ。……わかった、また今度作って持ってくるよ」


 

 湯船では元気そうに見えて、実際はそうとうに疲れていたらしい都をそっとベッドに寝かせて、月彦は帰路についた。そのまま一緒に寝てしまってもよかったのだが、中途半端なところで止めてしまった為、どうにも消化不良で眠れる気がしなかったのだった。
 外はまだ暗く、腕時計の文字盤は午前四時過ぎを指していた。
(…………真央、心配してるだろうなぁ)
 普段の無断外泊とはまた事情が違う。都の事が心配だから行ってあげてと言われ、その結果の無断外泊だ。
(…………ヤッたって……バレるかなぁ)
 くん、と体の臭いを嗅いでみる。さすがに都の匂いがするということはないが、それでもなんとなフローラルな香りに包まれているのは隠しようが無い。いつぞやのように一度どぶ川にでも身を沈めればそれもとれるのだろうが、季節が季節なだけにさすがに躊躇われるのだった。
(…………でも、最近は真央もだいぶおちついてきたし……)
 うすうすは気づいていても、何も言わないのではないか――そんな淡い希望を胸に、月彦はあえて何の策も労さずに帰宅することにした。
「……ただいまぁ」
 玄関の鍵を開け、小声で囁くようにいいながらドアを開ける。当然のことながら、家の中は暗くシンと静まりかえっていた。
 月彦は抜き足差し足忍び足で二階へと上がり、そっと自室のドアを開ける。
「真央……」
 蹲るようにベッドで丸くなっている愛娘の姿に、月彦は胸が痛むのを感じた。起こすのも忍びなく、そっとその隣に――眠れそうな気分ではなかったが――潜り込み、瞼を閉じる。
「……父さま?」
 が、すぐに隣で真央の声が聞こえ、月彦は瞼を開けた。
「真央……悪い、起こしちまったか」
「ううん、ずっと起きてたから……ちょっと、うとうとしてただけ」
「…………悪い。もっと早く連絡出来たら良かったんだけど、みゃーこさんちって電話が無くって」
「……都さん、大丈夫だった?」
「……真央の言う通り、戻って良かったよ。あのままだったら、多分……いや間違いなく、みゃーこさんは居なくなってた」
「……じゃあ、もう大丈夫になったんだね、よかったぁ」
「真央……すまん」
 月彦は布団の中で、真央の体を抱きしめずにはいられなかった。
「あれ、パジャマじゃないのか」
「うん……父さまが帰ってきてから、一緒にお風呂入ろうと思ってたから」
 さわさわと、布団の中で真央の体をまさぐってみる。どうやら部屋着らしく、上はトレーナー、下はスカートのままだった。
「あっ……と、父さまぁ…………」
 悪気があったわけではなく、ついいつものクセで真央の体をまさぐり、その指先がスカートの下へと潜り込んだ時、はたと。月彦は奇妙な錯覚に陥った。
「あれ、真央……もしかして」
「……?」
「スパッツ、穿いてるか?」
 こくりと、真央はやや顔を赤らめながら頷き、自ら掛け布団を取り去ってベッドの上にぺたりと座る。そして部屋着のスカートの先をつまんで持ち上げ――その下に穿いているスパッツを露わにする。
「な、なんでまた……」
「…………。」
 真央は照れるように目をナナメ下に伏せていたが、ちらりと。一瞬だけ月彦の方を見て、また逸らす。
「…………父さま、いつも……都さんのスパッツ見てた、から」
「うっ」
「父さま、スパッツ好きなのかなぁ、って……」
「…………す、好きか嫌いかって言われると、好きなほう、だけど……」
「…………都さんじゃないと、似合わない、かな」
「そ、そんな事はない! 真央のも……なんていうか……すごく、グッドだ」
 月彦は親指を立ててみせる。まだ夜明け前、照明もつけていない室内だからはっきりとは解らない。が、そこは想像力でいくらでも補える。
 都の小麦肌むちむちスパッツも確かに魅力的だが、母譲りの色白肌に都とは違った意味でむちむちな太もも持ちの真央が穿いたスパッツも十二分に魅力的といえた。何より、色白に黒スパッツというその対照的な色合いがまた堪らない。
「あの、ね、父さま?」
「な、何だ?」
「これ、ちゃんとお小遣いで買ったのだから……だから……」
「だから?」
「もし……父さまが、破きたかったら……破いても……」
 ごにょごにょと、真央はそれ以上は恥ずかしくて口に出来ないとばかりに口ごもる。
 そう、何故真央が都の真似などして、季節外れのスパッツなどを穿いたのか、理由は一つしかないではなかった。
「真央…………真央ォォオオオオオオオオオッ!!」
「きゃっ……と、父さま!?」
 ただでさえ欲求不満気味だった月彦にとって、愛娘の“お誘い”は破壊力がありすぎた。
 こうしてスパッツを穿いた子狐は、怖い怖い狼に美味しく頂かれましたとさ。


 明けて月曜日の朝。月彦は先週よりも若干晴れ晴れとした気分で家を出た。隣に真央の姿が無いのは、日直の為普段よりも早めの登校であるからだ。
(……みゃーこさんもいいけど、やっぱり一番は真央だなぁ……)
 朝の光を浴びながら、ホンワカとそんな事を考えてしまう。結局あの後、日曜日はほとんど一日中ヤり続けて、久方ぶりに骨の髄まで愛娘の体を堪能した月彦はこれ以上無い満足感に酔いしれていた。
(……いやでも、機会があればみゃーこさんとももう一度……)
 むしろ機会が無くてももう一度お願いしたいと、月彦は思わざるを得ない。ただの一度きりで終わらせるにはあまりに惜しく思える。何より、都が初めてということでやりたいことの1/10も出来ていないのだ。
(…………みゃーこさんなら、頼み込めばまたやらせてくれそうだし)
 ゲスな考えが浮かんだ瞬間、同時に月彦は姉の事を思い出し、冷水を浴びせられたように冷静さを取り戻した。
(いやいやいや……ダメだダメだダメだ……みゃーこさんは姉ちゃんの友達なんだぞ! あのときはみゃーこさんを落ち着かせるために不可抗力だったとしても、これ以上はさすがに言い訳のしようがない!)
 確かに都は、頼めばやらせてくれそうな、そんな緩さはある。が、裏を返せばそれは知識の未熟な子供を騙して性的悪戯をする犯罪者と同じではないのか。
(…………みゃーこさん、本当に姉ちゃんに黙っててくれるかな)
 それが一番の不安だった。都自身その気がなくとも、あの姉のことだ。微妙な雰囲気の違いから見抜く事は十分に考えられる。
「……………………。」
 もし、都と寝たことが霧亜にバレたら――その想像に、月彦が震えが止まらなくなる。良くて去勢、悪くて死刑――霧亜の都への溺愛っぷりを考えれば、そんな所だろうか。
「………………俺、またやっちまった、のか」
 晴れ晴れとした気分は何処へやら。今更ながらに自分がとんでもない事をしたのではないかという実感が沸いてきて、月彦はその場に頭をかかえたまましゃがみ込んだ。
 が、幸い復活も早かった。
(…………今更悩んでもしょうがない。なるようになるだろう)
 大体、都とのことにしても無理矢理犯したわけではないのだ。そういう意味では、菖蒲との事に比べればまだ弁明の余地はある。
(…………そういや菖蒲さん……最近絡んでこないな)
 ひょっとして、飽きてくれたのだろうか。だとすればこんなに嬉しいことは無い。菖蒲と白耀の仲が元通りになってくれるなら、片腕の一本くらい無くしても惜しくは無い程に、月彦は責任を感じていた。
(…………“白耀の恋人”でさえなけりゃ…………菖蒲さんも決して悪くはないんだけどな……)
 初めはなんとも無愛想で鼻っ柱の強かったメス猫を力ずくでねじ伏せ、屈服させるその快感。四つん這いにさせて尾を掴み、好き放題に突いて子種を注ぎ込む瞬間の恍惚など、思い出すだけで四肢に痺れが走るほどだ。
 自分が絶対的な支配者であるかのように錯覚するほどの満足感が得られる菖蒲との交尾は、月彦にとっても確かに忘れがたいものだった。――人の道を外れてしまうという業さえなければ、それこそ菖蒲が望むままにいくらでも抱いてやりたいというのが、月彦の本音でもある。
「……えっ?」
 そんな事を考えていたから――それが果たして関係あるのかどうかは、月彦には解らない。校庭には朝練中の部活動の生徒がちらほら、それ以外の通常登校の生徒はまだまばら。人気の少ない校舎の中、いつものように階段を上がって自分の教室の引き戸を開けた瞬間、月彦はあり得ない光景に固まってしまった。
「あ、菖蒲……さん?」
「……おはようございます、月彦さま」
 まだ他のクラスメイトは誰一人登校しておらず、閑散としている教室の中。その場所にはあまりに不似合いなネコミミメイドが、箒を手にぺこりと辞儀をしてくる。
「ど、どどどどどどーして菖蒲さんが学校に!?」
「……月彦さまが通われておられる場所ですから」
 菖蒲はゆっくりと教室内を見渡す。
「どういった場所なのかと。時折こっそりと見学しておりました所、あまりに目に余る場所が多かったものですから。僭越ながら清掃のお手伝いをさせて頂いております」
「……もしかして、今日が初めてじゃなくて……前にも?」
「掃除をさせていただくのは、今回で五度目になります」
「……そういうことだったのか」
 最近妙に教室内が整理整頓されていたなと、月彦は思い出した。黒板が綺麗だったり、展示物が揃えられていたり、ロッカーの中が整理されていたり。一部では学校七不思議の一つではないかと騒がれていた怪奇現象の正体がまさか目の前の猫だったとは。
「…………ご迷惑だったでしょうか」
「い、いや……掃除してくれてたのはありがたいんだけど……うちの学校、最近いろいろあってさ。特に“不審者”にはすっごく敏感に――」
「不審者……」
 しゅーんと、菖蒲がネコミミをしおれさせ、下を向いてしまう。
「あああああ! ふ、不審者っていうか……外部の人! 学校関係者じゃない人が勝手に入ってると、いろいろマズい事になるんだ!」
「…………左様で、ございますか」
 しかし、しゅーんと垂れた耳はそのまま。菖蒲はしょぼくれるように呟く。
「………………少しでも、月彦さまのお役に立ちたいと……わたくしなりに精一杯考えてのご奉仕だったのですが…………ご迷惑だったのですね」
「迷惑じゃない! 迷惑じゃないんだけど…………」
「月彦さまの仰りたいことは理解いたしました。……他の方々に見つかって“不審者”呼ばわりされる前に、菖蒲は退散することに致します」
 いそいそと、箒を掃除用具入れへと終い、肩を落としたまま菖蒲が教室を出て行く。
「あ、菖蒲さん……」
 その背を月彦が追いかけた刹那だった。果たしてそれは菖蒲の手から滑り落ちたのか、はたまたスカートのポケットに穴でも空いていたのか。
 ゴトリと。何か黒いものが菖蒲の足下に落ち、転がった。
「おや……」
 菖蒲は特に驚いた様子も無く、“それ”を拾い上げ、ぱむぱむと埃を払うように叩き、スカートのポケットにしまう。
「失礼致しました」
 そして月彦の方を振り返って、ぺこりと辞儀をし、再度踵を返して教室を出て行く。
「ちょ――」
 月彦は固まっていた。ちらりと一瞬しか見えなかったが、菖蒲の足下に落ちた黒い物体――それはあの夜、矢紗美が手にしていたものと同じものだったからだ。
「ちょっと待って菖蒲さん! それをよく見せてくれぇえええ!」

 


 

 

 

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