好きな男性と一緒に過ごす時間が幸福であるのは当然だが、好きな男性の為に努力をする時間もまた幸福ではないか。自分に酔っているわけではなく、雛森雪乃は本気でそう信じ始めていた。
「うーん、ちょっと薄味過ぎるかしら」
 オタマで掬ったスープを小皿にのせ、ぺろりと味見しては調味料を付け足していく。傍らに置かれている料理本へと視線を落とし、内容を読みながらガスの火を調節しつつ、また味見。
「……今度は濃すぎるかしら」
 コップに水を入れ、鍋に足す。ひと煮立ちさせて味見をすると、今度は薄味過ぎると感じてしまう。
 こんなことをかれこれ二時間ほど繰り返しては、スープの分量ばかりが増していく。最初は片手鍋で作っていたものが容積が足りなくなり、両手鍋へと移し替えたのだが、それもすでになみなみと溢れそうになっていた。
「やっぱりちゃんとしたハカリや計量カップを買わないとダメかしら……」
 目分量での味の調整に限界を感じながら、雪乃はやむなくガスの火を止め、調理を断念する。
「だいたいこの本もこの本よ! なーにが“一品添えるだけで食事の満足度が上がる簡単小料理レシピ100”よ! 一番最初のメニューくらい誰でも簡単に作れるものにしときなさいよね」
 見開きになっているページ――“超かんたん! 一分で作れるオニオンスープ!”の写真をぱんぱんと叩きながら、雪乃は毒づく。タマネギを薄くスライスし、コンソメで味を調えるだけの簡単な料理――のはずだったのだが。
 ナァ、と媚びたような泣き声が聞こえたのはそんな時だった。あっ、と。雪乃はたちまちおたまを放り出し、屈むと愛猫ノンの体を優しく抱き上げた。
「ごめんねぇ、ノン。そういえばまだ晩ご飯あげてなかったわね」
 もう9時過ぎだというのに、自分の食事もまだだった。それもそのはず、帰りがけに買ってきた総菜や弁当と一緒に飲むオニオンスープがまだ出来ていないのだから。
 雪乃は大慌てでノン用のエサ皿に猫缶の中身をよくほぐしていれ、さらに水を新しいものに代える。ナァ、とまるで礼でもいうようにノンは嬉しそうに鳴き、はぐはぐとまぐろフレークを凄まじい勢いで平らげていく。
「すごい食欲……やっぱり成長期なのねぇ」
 朝、出していくエサの量を少し増やした方がいいのかもしれない――ノンの背中を優しく撫でながら、雪乃はそんなことを思う。
 雪乃もまた自分用の弁当を電子レンジで暖め、遅めの夕食を摂った。大鍋になみなみと作られているオニオンスープは味見の結果、食用には適さないという結論に達し、泣く泣く流しに捨てることにした。
「はぁー……こんなんじゃ紺崎くんにお弁当作ってあげるなんて夢のまた夢じゃない……」
 週に一度、月彦のために弁当を作る――そう決めたのはいいものの、今のままでは自分はともかくとして、人に食べさせられる水準の料理を作れないというのが悲しい所だった。
(いっそお姉ちゃんに教え…………ううん、やっぱりそれはダメ!)
 確かにあの姉に教われば――教えてくれるかはともかくとして――自分だけでやるよりは間違いなく上達は早まるだろう。だがしかし、今回ばかりは矢紗美の手を借りたくないと雪乃は思っていた。
(お姉ちゃんに料理を教わるってことは、お姉ちゃんの味付けの料理を紺崎くんに食べさせるってことになっちゃうし)
 それを言い出したら、料理本を参考にするのも本を書いた料理人の真似に過ぎないという見方になるのだが、雪乃はその点については考えないことにしていた。
(とにかく、紺崎くんが絶対おいしいって言うくらいスゴい料理作れるようになってみせるんだから)
 漫画やドラマの中に登場するような、殺人的な味の料理を笑顔で差し出し、男の命を縮めなおかつ賛辞と笑顔を強要するような料理だけは作るまいと。そのための努力は惜しまないつもりだった。
 ただ、悲しいかなこうして独学で勉強をすればするほどに、自分には料理の才能は皆無らしいと痛感するのも事実だった。そもそも食事について雪乃が考えるのは“ほどほどの味であれば、あとは量のほうが大事”と考え続けてきたというのも大きかった。最も、その考えはダイエットと同時にほとんど捨てたようなものだが、それでもやはり“料理なんて食べるのが苦にならない程度の味であればそれでいい”と思わないと言えば嘘になる。
 しかし、それはあくまで雪乃個人の考えであり、その考えを他人にまで押しつけるわけにはいかない。将来伴侶となるべき相手がおいしいものを食べたいと思うのならば、それを叶えるのが妻となる自分の役割ではないか。この点については、雪乃は多少ながら自分の境遇に酔いしれていた。


 物思いに耽りながら夕食を食べ終え、風呂を済ませた後はソファに体を預けながらドラマ観賞というのが、最近の雪乃の生活スタイルだった。見るのは、最近ハマっているドラマ“冬の五月雨“の第三期。
「ほら、ノンおいでー」
 パジャマの上から太ももを叩くと、キャットタワーの中段あたりで横になっていたノンがぴょんとソファの上へと飛び降りてくる。そのままよちよち気味にあるいて雪乃の太ももの上へと陣取ると、そこでくるりと尻尾を巻いて丸くなる。その背や首元をやさしく撫でながら、雪乃はリモコンの再生開始ボタンを押す。
 冬の五月雨というドラマは、戦後の日本から現代まで、親子三代にわたる長編のドラマだった。最も、本来はそのような構成になる予定は無かったらしく、一期があまりに人気のままそれを惜しまれつつ終了したため半ば無理矢理続きが作られたというのが正しい。
 ただ、無理矢理続きが作られたとはいえ、その内容が面白いことには変わりは無く、すでにテレビ放映が終了した三期の後は劇場版を挟んで四期の制作が決まっているとの事だった。
 実のところ、雪乃が突如料理に傾倒し始めたのはこのドラマが原因ではあるのだが、ドラマ自体はそれほどに料理に拘った内容――というわけではなかった。一期はあくまで戦後日本における名家の没落を生々しく描いたものであり、その時点では雪乃も単純に面白いという以上の感想を持たなかった。
 しかし、二期の冒頭。主人公である没落名家の一人娘が、嫁ぎ先で姑にいびられる姿を見て、文字通り肝が震えた。“生々しく、リアルに”というのが、おそらく監督の信念なのだろう。ドラマの中で繰り広げられるその光景は、“まともな家事も出来ない女が嫁に行くと、こんなに屈辱的で悲惨な目に遭う”という見本のような内容だった。料理や家事なんて出来なくてもただ側に居てくれるだけでいい――夫である男はそう言うが、夫の家族はそうは思ってはくれない。特に姑による嫁いびりが凄まじく、しかもその内容が決して理不尽なものではない、ごく正当な理由に基づくものであるから主人公にはますます立つ瀬が無くなってしまうのだ。
 主人公の女性は最初こそ当然のように反発するが、紆余曲折を経て考えを変え、花嫁修業に勤しむようになる。その過程で、視聴者は主人公の女性が単純にワガママや怠慢で料理や家事をやらなかったわけではなく、生まれつきの持病でやりたくても出来なかったといった事を知ることとなる。そのことを知って尚甘えるなとばかりに厳しく辛く当たる姑に反感を抱かせたところで今度は姑が病に倒れ、実はその厳しさも自分の命が長くない事を知って、死ぬ前に少しでも多くの事を伝えたかった故であったということが明らかとなる。その死に目において尚、姑に対して不遜な態度を改めなかった主人公が、最終話の墓参りのシーンで初めて涙するのはシリーズ通して最高の名シーンだと言われており、それは当該シーンでほろりと来てしまった雪乃も認める所だった。
 ドラマとしての出来が良かったから、料理をしようと思った――わけではない。自分の身に将来起こりうる出来事を見せつけられて震えたから――というのも、理由のうちの二割ほどに過ぎない。やはり、料理の勉強を始めた一番の理由は、“好きな男性に自分の手料理を食べてもらいたい”という女としてごく当たり前で当然の理由からだった。強いて言うなら、ドラマで感動したことは行動を起こす“きっかけ”に過ぎない。
(でも、紺崎くんってああみえて結構自分で料理したりするのよねぇ……)
 以前月彦に海鮮グラタンを作ってもらった時の衝撃も、雪乃は忘れられない。料理が出来る男なんて、それこそ希少動物並に数が少なく、自分の周りにそうそう都合良く居たりはしないものだとばかり思っていた。それだけに、雪乃は不安にもなったのだった。料理が出来る男である月彦から見た自分は――料理が出来ない女である雛森雪乃は、一体どのように映っているのだろうと……。
「うーん……三期はちょっとイマイチかしら」
 考え事をしながら見始めたせいか、一期や二期ほど面白いとは思えず、夜も遅いことも相まって、結局一話と二話の冒頭まで見たところで雪乃は眠気に抗えなくなった。すでに寝息を立てているノンの体をそっと寝床に横たえ、自分も寝ようかと寝室に向かったところで――ふいに携帯が鳴った。
「……? こんな時間に誰かしら」
 すでに寝ていたという事にして無視してしまおうか――そんな誘惑に屈することができなかったのは、携帯から聞こえる着信音だった。それは、学校関係者からの通話着信である時にのみ流れるように設定している曲だった。
 さすがに無視出来ず、雪乃は携帯を手にとり、通話ボタンを押した。
「はい、もしもし……雛森です。………………えっ?」



 通話の相手は学年主任だった。今夜、学校に不審者が侵入した――電話の内容は、一言で言えばそういうことであり、詳しい話は明日の早朝、職員会議でするから、通常よりも一時間ほど早く出勤してほしいとの事だった。雪乃は動揺しつつも了承した旨を告げ、通話を切った。
「不審者……」
 泥棒でも入ったのだろうか。何にせよ一時間も早く出勤せねばならないとは良い迷惑だと、雪乃はこの件についてその程度の認識しかしていなかった。

 翌朝。
 連絡があった通りに一時間早く雪乃は出勤した。他の同僚の教師達も同じような通達を受けたのか、生あくび混じりに迷惑な話だと口々に漏らしていた。
 会議の冒頭受けた説明によると、事件のあらましは次のようなものになるらしい。昨夜遅く、男女二名が学校内に侵入し、教室内にてみだらな行為を行っていた。騒ぎを聞きつけた宿直の教師が注意しようとした際、男女のうち女の方が抵抗し、教師を投げ飛ばした後逃走。現場には唯一学校のものではない指し棒だけが残されていたという。
(……教室内でみだらな行為って……)
 説明を受けて、雪乃は内心動揺を隠せなかった。自身、教室ではないにしろ、部室棟で似たような事をやった経験があるために、何となく人ごととは思えないのだった。
(そう、よね。そういうのって、バレちゃったらこんな風に大事になっちゃうのよね)
 きっと忍び込んだ二人組は、ほんの軽い気持ちで悪気も特に無かったのだろう。学年主任は盗まれた備品が無いかを厳重にチェックするようにとの通達を出しているが、おそらくそういった心配は無用ではないかと、雪乃は思った。
(………………私も、気をつけなきゃ)
 望んでしようとは思わない。思わないが、もし仮に放課後の教室内で月彦に求められたりしたら、断り切る自信がないことも事実だった。月彦がそれを望むのならと、常識や良識すべてをかなぐり捨てて体を開いてしまうかもしれない。
 物思いに耽っていた雪乃を現実へと引き戻したのは、事情を説明していた教頭の慌てふためいた声だった。宿直を担当していた教師――白髪交じりの国語教師だ――を叱責するような金切り声を上げている。やりとりから察するに、教頭(と多分校長も)は穏便に内々のうちに処理を済ませようとしていたのに対し、宿直をしていた教師がいち早く警察に連絡をしてしまい、そのことについて配慮が足りないと喚き散らしているようだった。
 結果、昼前には警察関係者が事情聴取にやってくる事になったらしい。生徒側や保護者への通達についてはその際の警察の指示に従って、という事になった。
 雪乃を含む一般の教師陣については「あくまで、いつも通りに」といった通達がなされ、だったら一時間も早く出勤させないでよと。そう言いたくなるのをぐっと飲み込んで、早朝の緊急会議は終了した。



「………………っていう事があってさ、もうホント参っちゃうわ」
「はぁ……それは、大変でしたね」
 昼休み。昨日同様、雪乃は月彦を生徒指導室へと引っ張り込み、一緒に昼食をとりながら愚痴を零していた。
「あっ、言っとくけどこれ一応秘密事項らしいから、友達とかにも絶対漏らしちゃダメだからね?」
「分かってます。…………それで、他には何か分かったんですか?」
「他にって?」
「だから、その……忍び込んだ二人組について」
「私は若い男女だったとしか聞いてないけど」
「そうですか……」
 落胆したような、安堵したような、なんとも微妙な顔で、月彦がため息をつく。
(……ちょっと、意外)
 と、雪乃は思った。月彦はあまりこういったゴシップ的な出来事には興味がなさそうに見えたからだ。
(さすがに自分の学校が“事件”の舞台ともなると、紺崎くんも興味があるっていう事なのかしら)
 そういえば、いつになく簡単に誘いに乗ってくれたというのも気になるといえば気になる。いつもは、誘いを持ちかけるにしてもあれこれと理由をつけて断ろうとしてくるというのに。
(うーん……そんなに興味があるなら紺崎くんに教えちゃおうかしら)
 実のところ、学校に侵入した若い男女のうち、女の方には雪乃は心当たりがあるのだった。
 というのも――


 遡る事数時間前。授業を終えて職員室へと戻る際、雪乃はたまたま職員用玄関口でばったりと“姉”に遭遇したのだった。
「げっ、雪乃……」
「お、お姉ちゃん!?」
 どうしてこんな所に――と思うと同時に、答えは出た。昼前には警察関係者が事情聴取に来る、と言っていた。そして姉は一応ながらも婦警だ。ならば一応は何もおかしいところはない。
「事情聴取に来る警察官って、お姉ちゃんだったの。…………ていうか、人の顔を見るなり“げっ”って失礼すぎない? それにどうしたの、そのマスク。風邪でもひいたの?」
「悪いけど、今仕事中だから」
 モゴモゴと、妙に聞き取りにくい声でそれだけを言い残して、矢紗美はぷいと雪乃に背を向けて職員室へと消えていく。こういうとき、ピンと来るのは姉妹だからだろうか。腑に落ちないものを感じて、雪乃もまた職員室へと入る。どうせ次の時間は授業が無いのだ。もし取り調べが職員室内で行われるのなら盗み聞きしてやろうと、雪乃は思った。
 取り調べは、雪乃の予想通り職員室内で行われた。とはいえ、一応はその片隅、カーテン状の仕切りで遮られたほとんど個室のような一角で、だ。どうも矢紗美は個室で、事件関係者である宿直の教師と二人だけで行いたかったらしいが、教頭らがそれを許さず、自分達もここで同席すると譲らなかったのだ。
 仕切りがあり、ほとんど個室状態とはいえ、その仕切りの側まで行けば中での会話は聞く事が出来る。雪乃はさりげなく立ち用があるフリをして盗み聞きをすることにした。
「――じゃあ、不審者の顔なんかは覚えてらっしゃらないんですね?」
「はい……すみません。なにぶん暗かったもので……」
「服装などはどうですか?」
「それも……すみません。……あっ、でも……女の方の背丈は、丁度婦警さんと同じくらいだったと思います」
「女性の身長は154cm程度、と。他に何か覚えてる事はありませんか?」
「他に、ですか……うーん……なにぶん一瞬で投げ飛ばされましたので」
「投げ飛ばされた……侵入した男性は格闘技経験者かもしれませんね」
「ああいや、婦警さん。私を投げたのは男ではなく女の方です」
「……本当に女性の方でしたか?」
「あの、どういう意味でしょうか」
「いえ、こういった事はよくあるんです。事件に直面したショックで軽い記憶の錯乱を起こしてしまうという事が。本当は男性のほうに投げ飛ばされたのに、混乱して女性のほうに投げられたと思い込んでしまっているのではないですか?」
「で、でも確かに……」
「絶対に、女性のほうであったと断言出来ますか? これは捜査の初動にかかわる極めて大事な情報ですので、間違いの無いようお願いしたいのですが」
「…………えーと………………だ、男性の方、だったかもしれません」
「侵入者は格闘技経験のある男性の可能性がある、と」
 メモでも取っているのか、しばしの間が空く。
「声とか、話していた内容とかは?」
「はぁ……それなんですが……結構な大声で何かを言っていたのは分かるんですけど……生憎見回りに行く際に補聴器を宿直室に忘れてしまいまして……内容までは……」
「普段は補聴器をつけておられるんですね。しかし、見回りの時はつけてらっしゃらなかったと」
 そういえば、昨夜の宿直を行っていた国語教師は難聴を煩い、補聴器を普段からつけていた。補聴器なしでは、例え大声で自分の名を呼ばれてもそれが自分の名だと分かることはまずないと、以前困り顔で話していたことを、雪乃は思い出した。
「あっ、でも会話の内容は分かりませんけど、声の方は覚えてますから、直に聞けば分かるとは思います」
「直に声を聞けばわかる、と」
 ごにょごにょと、矢紗美が急に声のトーンを落とす。まるで、マスクの外側には声を漏らすまいとするかのように。
「何か盗られたものとかはありましたか?」
「それは……おそらく無い、と思います」
 少し返事に間が空いたのは、他の教師達とアイコンタクトをしたからだろう。
「盗られたものはない、と。………………不審者の遺留品とかはありませんでしたか?」
「それでしたら、これが現場に落ちてました」
「これは……指し棒ですね」
「我が校で使っているものではありませんので、不審者が残していったものだと思うのですが」
「金属製の伸縮式指し棒ですね」
「あ、あの……素手で触っていいんですか? その……指紋とかは……」
「失礼。私の指紋がついてしまいましたけど……まぁ、問題はないでしょう。鑑識の結果、私以外の指紋が出たら、一応お知らせしますね」
 お預かりします、となにやら衣擦れのような音。
「…………他に現場に落ちていたものはありませんでしたか?」
「他に……ですか。……多分ない……と思います」
「そうですか。もしなにか不審なものを見つけたら、極力触れずに私に連絡してもらえますか? これ、連絡先です」
「わかりました。何か見つかったら、すぐに連絡させていただきます」
「では、他に何か不明な点はありますか。もしなければこれで――」
「あ、あの……これってやはり、事件として扱われるのでしょうか?」
 学年主任の声だった。
「窃盗は無かったにしろ、敷地内に無断で侵入した時点で事件として取り扱う事は可能ですし、そちらの方が不審者に投げ飛ばされたとなれば、暴行事件としても十分成り立ちます。学校側が是が非でも犯人を捕まえて欲しい、と仰るのであれば、こちらとしても捜査をせざるをえない所ではあります」
 それに対する矢紗美の返答は、妙に含んだ言い方だった。
「ただ、事件ともなればマスコミも動くでしょうし、不審者の侵入を許した学校の管理体制についても何らかの言及を受ける可能性は大いにあります」
「そ、それは困ります! なんとか穏便に……」
「その判断をするのはこちら側ではないんです」
 あとは、わかりますね?――そう言い含めるように、にっこり笑っている姉の姿が雪乃には目に映るようだった。
 では、と。席を立つ音がして、程なくカーテン状の仕切りがシャーッと開けられる。矢紗美は仕切りの側に立っていた雪乃には特に声をかけるでもなく、そのまますたすたと早足に職員室を出て行った。
 後に残された教師達は口々に「昨今の事情聴取は刑事ではなく婦警が一人で来るものなのか?」と疑問を口にしていたが、当然雪乃がその疑問に答えられるわけもなかった。

「………………あのね、紺崎くん。これは絶対、ぜーーーーーったい誰にも言っちゃダメな事だけど…………昨夜学校に侵入したのって、お姉ちゃんかもしれないわ」
 ぶふっ、と月彦が茶を吹き出し、盛大に噎せ始める。
「そ、そんなに驚かなくてもいいじゃない! ……大丈夫?」
「げほっ、げほっ…………そ、そういう……証拠でも、出たんですか?」
 二人してぼっしぼっしとティッシュをむしり取り、テーブルの上に散ったお茶の飛沫をフキフキする。
「……証拠はないみたい。だけどいろいろ変なのよね。そもそも事情聴取って、こっちから警察に行って向こうでとるものじゃないのかしら」
「さ、さぁ……現場の方に警察が来るパターンもあるんじゃないでしょうか」
「だとしてもよ、やっぱり一人で来るなんて変よ。ドラマとかじゃ、だいたい三人は来るじゃない。しかも来るのは警官じゃなくて刑事でしょ? 普通は」
「つまり、先生はこう言いたいんですか? 矢紗美さんが隠蔽工作のために一人で来た、と」
「考えすぎかもしれないけどね。……でも、宿直していた先生も、不審者の女の方の身長はお姉ちゃんと同じくらいだったって言ってたし。マスクつけてたのも声でバレないようにするためじゃないのかしら」
「で、でも……あの先生もう年で目も随分悪かったみたいですし……一瞬で投げ飛ばされたのに、身長を覚えてるってのも変な話じゃないですか?」
「確かに福島先生は目も耳も悪かったみたいだけど…………あれ? 私紺崎くんに現国の福島先生が不審者に投げ飛ばされたって言ったっけ?」
「い、言いましたよ! やだなー……先生自分で言ったこと忘れないでくださいよ!」
「そうだっけ? ……福島先生も最初は自分を投げ飛ばしたのは女の方だった、って言ってたのよね。でも、なんだかお姉ちゃんにごり押しされて証言を覆してたし」
「ごり押し…………か、考えすぎじゃないですか?」
「そうかしら……」
 確かに月彦の言う通り、考えすぎなのかもしれない。姉がマスクをしていたのも、単純に風邪気味だっただけかもしれない。事情聴取に来たのが婦警一人であったのも、何かしらの事情があっただけなのかもしれない。
(そうよね、だいいちお姉ちゃんだったとして、どうして夜の学校に侵入する必要があるっていうのよ)
 親の目を盗んで不純異性交遊に耽るような年頃でもない。仕事を持ち、一人暮らしまでしている歴とした社会人だ。ホテル代をケチらなければいけないほど懐が寒いわけでもないだろうし、だとしても自分のマンションで好きなだけヤればいいだけの話だ。何を好きこのんで夜の学校になど侵入する必要があるというのか。
「それで、ええと……この後ってどうなるんでしょうか?」
「この後?」
「ですから、本格的に調べたりとかするんでしょうか。現場の指紋とったりとか……」
「しないんじゃないかしら? 何か物が盗られたりしてたとかなら話は別なんでしょうけど、特に無くなったものも無いみたいだし。第一、現場の教室を封鎖するわけにもいかなかったから、何か残ってたとしても後の祭りじゃないのかしら」
 そういえば――と、雪乃はそこではたと思う。
(不審者が侵入した教室って、確か……紺崎くんの教室なのよね)
 偶然なのだろうが、それにしては妙だとも思う。単に夜の教室でヤりたかっただけのカップルならば、侵入口に一番近い一階の教室でも良いのではないか。
(まさか、ね)
 そんなはずは無い。ありえない――雪乃はかぶりを振るようにして、胸の内に沸いた不安の種の影を打ち消した。
「あ、そうそう! 紺崎くん、“冬の五月雨”ってドラマ知ってる?」
「名前は聞いたことありますけど、見た事はないです。面白いんですか?」
「すっごく面白いの! 先週、一期のダイジェスト版が二夜連続でやっててさ、それ見て面白そうだなーって思って、レンタルしてきてまとめて見ちゃったんだけど、もーすっかりハマっちゃって」
「へぇ……どんな話なんですか?」
「んとね、一期は戦後日本の名家がいろいろあって没落しちゃう話で、二期がその没落名家の一人娘が普通の中流家庭に嫁いじゃう話ね。今、三期借りてきて見てるところなんだけど」
「へぇ、面白そうですね。…………そうだ、もし良かったら、今日の放課後にでも一緒に見せてもらってもいいですか?」
「へ?」
 突然の申し出に、雪乃は軽く思考停止に陥った。月彦の申し出は、完全に雪乃の想像の範疇外であり、例えるならお正月のお年玉袋の中から一億円の小切手が出てきたような、なんとも現実味の無い出来事だった。
「あっ、もし先生の都合が悪ければ別の日でもいいんですけど……」
「えっ、都合って……え? こ、紺崎くん……今夜、私の家に……来るって……そういう意味?」
「ええ……先生さえ良ければ――」
「ぜんぜんOK! じゃあ紺崎くんは今夜うちに来るのね!?」
 思わず、両手をテーブルに叩きつけるようにして立ち上がってしまう。ドラマの話をふったのは、単純に話題を変えたかっただけであり、それ以上の目論見など何も無かった。まさか、そこまで“釣れる”なんて夢にも思っていなかった。
「では、お邪魔します。………………ちょっと、大事な話もしたいですし」
 有頂天に浮かれていた雪乃は、月彦が目を伏せるように付け足した言葉を完全に聞き逃した。



 
(紺崎くんが来る! 紺崎くんが来る!)
 その楽しみな未來が待ち遠しくて、雪乃はうずうずと踊り出したいのを我慢しながら午後を過ごした。
(どうしよう……折角紺崎くんが来るんだもの……やっぱり晩ご飯は私が作るべきよね……ああでもでも、まだそんな、紺崎くんに食べさせられるようなものなんて……)
 来てくれるのは嬉しい。が、しかし早すぎる。
(……ドラマを見に来るって事は、やっぱりそれなりに長居するつもりなわけよね。てことはやっぱり晩ご飯は食べることになるわけで……)
 月彦にドラマを見せている間に、調理に勤しむ――というのも手ではある。これならば多少長引いてもごまかしは効くだろう。だがしかし、ソファに並んで座ってイチャイチャする時間が無くなってしまうというデメリットもある。そして雪乃にとってそのデメリットは耐えがたいものだった。
(明日も学校があるから、お泊まりは無理として……ううん、朝早く起きればお泊まりだって……)
 お泊まり――それが意味する所を想像して、雪乃は顔から湯気が出そうになってしまう。最後にシたのはいつだったか――確か、ノンを飼い始めた頃だ。それほど前というわけでもないというのに、全身の細胞一つ一つに至るまでもが、月彦を求めて止まない。さながら、丸一日炎天下の砂漠をさまよい歩いた後、体が水分を欲するが如く、それは雪乃にとって堪えがたい衝動だった。
(ダメ! ダメよ! 紺崎くんにその気があるかどうかなんて分からないんだから……その気がないのに無理矢理襲っちゃうなんて…………ああでも、でも……)
 実際に密室に二人きりになって、手を伸ばせばいくらでも触れられる距離になって、はたして我慢出来るだろうか。狂わずに、獣にならずにいられるだろうか。
 その点について、雪乃は甚だ自信が無かった。
(ていうかここはやっぱり、この前のお返しってことで、私がグラタンを作ってあげるべきかしら!?)
 そして、アツアツのグラタンをフォークですくい、ふうふうと冷ましてあげながら口元に運んであげるべきなのではないか。
 しかし、グラタンなど、素人が簡単に作れるものなのだろうか。経験が無いが故に、雪乃にはその判断がつかない。
(お姉ちゃんに聞――)
 携帯を取り出しかけて、はたと止まる。そんな事を相談しようものなら、あの姉はまた邪魔をしにくるのではないか。
 それでなくとも、何となく今日は顔を合わせたくない気分でもある。もちろん雪乃は――学校に侵入したのは四割ほどは姉ではないかと疑いつつも、あの姉でもさすがにそんなことはしないのではないかと信じたい気持ちもある。
「あっ、あの!」
 気がつくと、授業を終えて職員室へと戻る途中の廊下で立ち止まって物思いに耽ってしまっていたらしい。背後から声をかけられてはじめてそのことに気がついた雪乃は、取り繕いの笑顔を浮かべながら振り返る。
「あら、月島さん。どうかしたの?」
 珍しいこともあるものだと思う。なんとなく、懐かれているらしい雰囲気は雪乃も感じてはいたが、部活中以外にラビに話しかけられたのは初めてだったからだ。
「ひ、な……雛森、せんせい……は……あのっ、その……」
「ごめんなさいね、今からすぐに職員室に戻らなきゃいけないの。……ああそれから、今日の部活は私も紺崎くんも用事があるから無しって事でお願いね」
「あっ、待っ――」
 強引に話を切って、雪乃は踵を返す。ラビには悪いと思うが、すぐに戻らなければならないというのは本当だった。時間のあるうちに少しでも雑務を終わらせ、出来れば定時になるなり即座に帰宅したいのだ。早く帰れば帰るほど、月彦とのイチャイチャタイムを長くとることが出来るからだ。


 結局、夕飯はグラタンに決めた。矢紗美には頼らなかったが、同僚の教師――雪乃よりさらに二十ほど年上で、二児の母でもある――にさりげなく話をふった結果、そんなに難しいものでもないという事が分かったからだ。
 雪乃としては定時に帰れればそれがベストだったが、そうは問屋が、学校側が下ろしてくれなかった。昨夜の不審者の侵入について、やはり何も対応をとらないというわけにはいかなかったらしい。当分の間は学校内の施錠確認の徹底化および見回りの強化。しばらくは宿直も二人に増やすことが決まった。とはいえ、宿直として学校に泊まり込むのは基本的には男性と決まっているから、雪乃にそのおはちが回ってくる事はなかった。
 イライラを表面に出さないように、辛抱して会議を終えるなり、雪乃は車に飛び乗るようにして家路を急いだ。もちろん、途中のスーパーで材料を買うことも忘れない。本来ならば出来るだけ手間をかけて作りたいところではあったが、ここはアドバイスをくれた同僚の教師に従って“グラタンの素”なるもので妥協することにした。何もかも自分でやろうとして大失敗するよりは、その方が遙かにマシなはずだ。

「あれ、紺崎くん……中に入って待っててくれてよかったのに」
 マンションへと帰り着き、買い物袋を片手に駆け足で自宅前までやってきた雪乃は、ドアの前で待つ月彦の姿にそんな声を上げた。
「そうしようかとも思ったんですけど……なんとなく、入りづらくって」
「もぅ……遠慮なんかしなくっていいのに。これじゃあ何のために合い鍵を渡してるかわからないじゃない」
 第一、人に見られたらどうするつもりなのか――最も、近所づきあいなどは皆無に近いから、仮に見られたところで誰も何とも思わないだろうが。
「とにかく入って。すぐに着替えて晩ご飯の用意するから、紺崎くんはのんびりくつろいでていいから」
「あっ、晩ご飯作るなら俺も手伝――」
「いいからいいから、紺崎くんはノンと遊んでて」
 月彦の背を押すようにして今のソファへと座らせ、雪乃は寝室で部屋着へと着替えエプロンをつける。一瞬、裸エプロン姿で居間に戻ったら月彦がどんな反応をするだろうかと――そんな悪戯心が沸くが、考えるだけでさすがに実行には移さない。
「ノンちゃん久しぶり。ちょっと重くなったかな?」
 居間へと戻ると、ノンが月彦の膝の上で顎の下を撫でられてゴロゴロと喉を鳴らしている所だった。
(そういえばこの子も紺崎くんにはよく懐いてるのよね)
 ノンを飼い始めてから一度だけ、大学時代の友達が部屋に遊びに来たのだが、そのときは隠れて出て来ず、無理に捕まえて抱かせようとしたら別人ならぬ別猫のように牙を剥きだしてツメをふるったことを雪乃は思い出した。
(月島さんにもお姉ちゃんにも全然懐かなかったし……私と好みが似てるのかしら)
 心の中でノンへの愛情ポイントを密かに加算しながら、雪乃はいそいそとキッチンへと向かうのだった。



「…………どうかしら? は、初めてにしては巧く出来てると思わない?」
「いえ、先生。これは“初めてにしては”を抜きにしても、十分おいしいですよ」
 雪乃が用意したグラタンをフォークで突きながら、月彦は笑顔で返す。市販の“グラタンの素”をベースに、具はマカロニに鶏肉、ジャガイモ、タマネギ、マッシュルーム等々。オーブンで焼く前にのせた輪切りにしたゆで卵とチーズは良い感じの焦げ目がつき、その出来ばえは十分お客様に出せる代物といえる。
「そ、そう? 箱に書いてあった作り方通りにしただけだから、おいしくてもそれは私の手柄じゃないんだけど……」
「そんな事ないですよ。書いてある通りに作るのだって、案外難しかったりするものですから」
 フォークでグラタンをすくい上げ、ふうふうと冷ましてから口へと運ぶ。――そう、おいしいはずなのだ。おいしいはずなのに、まるでドロの固まりでも口の中に放り込んでいるかのように何の味もしないのは、ひとえに“この後”の事で気が重くなっているからだった。
(……でも、言わないわけにはいかない。もしここで引き下がったら……)
 昨夜の、夜の校舎での事を思い出す。もしまた心変わりを起こして別れ話を切り出せなかった場合の保険として、矢紗美のテープレコーダーに録音された音声記録。あれを雪乃に聞かれる事になるのだ。
(……矢紗美さんの事だ。やるといったらやるだろう)
 あんなものを雪乃に聞かれた日には、一体何が起きるのか想像するのも恐ろしい。だったらまだ自分の口で、オブラートに包んで切り出したほうがマシというものだ。
(問題はどう切り出すかだけど……)
 うーむと月彦が唸っていると、突然何かが左腕に絡みついてきた。
「ってうわっ、せ、先生!?」
「紺崎くん、あーん」
 いつのまにか食卓の隣の座席へと移動してきた雪乃に左腕を絡め取られ、さらにフォークで掬ったホワイトソース漬けのジャガイモとタマネギを口元につきつけられ、仕方なく月彦は口を開いてそれらを受け入れる。
「おいしい?」
「ええ、すっごく」
「じゃあ、次は紺崎くんの番ね」
「えと……じゃ、じゃあ……いきますよ?」
「待って、やけどしちゃうから、ちゃんとふーふーってして?」
 言われるままに、ふうふうと冷まし、雪乃の口元へと運ぶ。
「あーん、あむっ。んふふーっ、おいしっ」
 頬に手を当てながら、雪乃が微笑む。その微笑を見ているだけで、月彦の心はさらに重苦しくなる。
(…………こんなに楽しそうで、嬉しそうな先生に、今から別れ話を切り出さなきゃいけないのか)
 折れそうになる心を、必死に支えながら、月彦は切り出し方を考える。実のところ、今日は昼休み雪乃と話をしてから、そのことばかりを考えていた。
(食事が終わってから……なんて思ってたらダメだな。そんな風に先延ばしにしてたら、ずるずるとまた失敗しちまう)
 今しかない。今を逃したらもう後がないのだと、月彦は自分に思い込ませる。
(ううむ……まずは、牽制から……)
 いきなりド直球では、何が起こるかわからない。それとなく、雪乃にこちらが何を言わんとしているか悟らせる方向でいくことに、月彦は決めた。
「あ、あのですね……先生?」
「なぁに? 紺崎くん」
「先生は……プロ野球とか……見たりします?」
「ううん、まったく見ないけど。どうして?」
「そ、そうですか……」
 ここまでは、想定の範囲内の反応だ。
「俺も普段はまったく興味ないんですけど……ただ、野球に詳しい友達が居て、これはその友達から聞いた話なんですが……なんでも、去年のドラフト一位だった投手をとったのが、球界で一番弱いって言われてるチームらしいんですよ」
「ふぅん……それがどうかしたの?」
 明らかに、興味をそそられていないという、雪乃の反応。これも想定の範囲内。
「……なんかもったいないって思いません?」
「どうして?」
「いやほら……折角一番期待されてる投手なのに、とったのは一番弱いチームなんですよ? そんなチームにはもったいないって思いませんか?」
「そう言われても……野球のことなんて全然詳しくないし……」
 いや、この話に野球の知識は必要ないでしょうと、月彦は胸の内で呟く。
「えーと……じゃあ、話を変えます。街を歩いてる時とかに、明らかにバランスの悪いカップルとか見たことありませんか?」
「バランスが悪い……」
「ほら、女性の方はすっごい美人なのに、男の方が冴えなかったり。もしくはその逆だったり」
「そりゃあ、そういうカップルを見たことくらいはあるけど」
「そういうのを見た時に、もったいないなぁ、って思いません? もっと自分に釣り合う相手を選べばいいのに、って」
「うーん。少しくらいは思うかもしれないけど、でも紺崎くん。そもそもそういう考え方は間違ってるんじゃないかしら」
「ま、間違ってる?」
「見た目の釣り合いがとれてないからって、そこに愛が成立しないとは限らないでしょ? 人間、相手のどこが気に入るかなんて誰にもわからないんだから。たとえ見た目が悪くても、その人の中に惹きつけられるものを感じるなら、釣り合いなんて関係ないんじゃないかしら?」
「えーと……俺が言いたいのはですね……」
 ヤバい。遠回しにそれとなく悟らせようとしているのに、なにやらお説教じみた話の流れになりつつあるではないか。
「わ、わかりました! じゃあまた話を変えます! すっごく美人で、性格も良くて、誰からも好かれそうな女性が、見た目もダメで、性格も最悪な男と付き合っていて、しかもそのままじゃ間違いなく女性の方も不幸になるとわかりきってたら、そして先生がその女性の友達だったら、付き合うのを止めるように忠告しますよね?」
「その友達が、不幸になる事を覚悟した上で付き合ってるのなら止めないと思うけど」
「…………そうですか」
 なかなか雪乃の口から欲しい答えが導き出せず、月彦は軽い頭痛を覚えてしまう。
「紺崎くんってば、いったいどうしたの? さっきからよく分からない話ばっかりして」
「えーと……それはですね…………実は、先生に一つ提案したいことがありまして……」
「なになに? 紺崎くんが私にして欲しいことがあるってコト?」
 それまでのつまらなそうな顔から一転、目をきらきらさせながら雪乃が詰め寄ってくる。
(ぐうう……お、押される……ダメだ、ここで負けるわけには……)
 ここで切り出さなければ、或いは永遠にチャンスなど巡ってこないかもしれない。月彦は歯を食いしばり、血を吐くような思いで、言葉を紡ぎ出した。
「…………実は、その…………わ、別れてくれいないかなー…………なんて、思っちゃったりしてるわけでして……」


 言った! 
 ついに言ってしまった!
 心臓はバクバク、冷や汗はダラダラ。
 次の瞬間に何が起きても、即座に防御行動がとれるよう、月彦は全身を強ばらせながら、雪乃の反応を待った。
「…………。」
 しかし、雪乃はきょとんと目を丸くしたまま、なかなか返事らしい返事を返してこなかった。
「あっ、そっか。このままじゃ食べにくいってコト?」
 そして、漸く合点がいったとばかりに雪乃が呟いて、そっと月彦の左手を解放する。
「ほえ……?」
「んもう、紺崎くんったら。日本語は正しく使わないとダメよ? こういう場合は“別れてほしい”じゃなくって“離れてほしい”でしょ?」
 ぶー、とやや不満そうな雪乃。どうやらとぼけているわけではなく、素で月彦が言葉を選び間違えたと思っているらしかった。
「…………あの、先生。言いにくいんですけど、言い間違いじゃないんです」
「………………?」
「つまり、その……こうやって放課後に二人きりで会ったり、休日にデートしたりする関係を止めよう、という意味で“別れてほしい”と…………い、言ってるわけ、でして……」
 語尾になるほど、辿々しく、そして小声になってしまうのは、ひとえに雪乃の反応が怖いからだった。
「……紺崎くん?」
 しかし、月彦の予想とは裏腹に、雪乃の反応は至ってまともだった。決して目をつり上げて怒鳴り散らすわけでも、突然号泣するでもない。心底不思議そうに首を傾げながら、熱でもあるのかと言いたげに顔を覗き込んでくる。
「あのね、紺崎くんがどういうつもりか知らないけど、たとえ冗談でもあんまりそういうことを軽々しく言わないほうがいいわよ?」
「……いえ、冗談じゃないんです。いくらなんでも冗談でこんなコト言いません」
「…………。」
 どうやら、事ここに至って漸く、雪乃の方にも今自分がどういう状況にあるのか自覚が芽生えてきたらしい。
「な……」
 と、掠れた声で呟き、手にしていたフォークをカタリと落とす。そして震える手で、落としたフォークを拾い上げる。
「ちょっと待って」
 フォークを拾い、フローリングの床についてしまったホワイトソースをティッシュで拭き取り、再び席に座る。
「え、何……どういうこと?」
 月彦の方を見るその目は、やや焦点が怪しいものだった。
「えと、ですから……別れてほしいなぁ……と……」
「どうして」
 絞り出したような雪乃の声は震えていた。
「どうして……ううん、本当にどうしたの? 紺崎くん。私が作ったグラタン、そんなにおいしくなかった?」
「いえ、グラタンはとても美味しかったです」
「じゃあどうして……」
「それは――」
 やはり、理由もなしに――というわけにはいかないだろう。それでは雪乃も納得はすまい。
(……他に好きな人が出来たから――は、まずいよな)
 別れを告げる理由としては最もポピュラーであり、その後に予想される雪乃からの追撃をかわしやすいという意味では、或いはそれが一番かもしれない。
(ただ、問題は……“相手は誰?”って詰め寄られた時なんだよな)
 相手の名を聞くまでは納得しないと雪乃にゴネられた時が問題だった。当然矢紗美の名など出せるわけがない。またあの姉に取られるくらいなら――と、冗談抜きで心中に付き合わされかねない。
 かといって、たとえば真央や由梨子の名を上げるのもよろしくない。下手をすると雪乃との関係が真央や由梨子にバレてしまう危険性がある。
 シミュレーションを重ねた結果、雪乃と関係を清算できたとしてもかなりの痛手を負うであろう事が予想される。――故に、月彦は練りに練ったあの作戦でいかざるをえない。
「…………先生とこういう関係でいる事が怖くなったんです」
「怖いって……?」
「今日、先生言ってたじゃないですか。昨夜、学校に不審者が侵入したって」
「言ったけど……それが何の関係があるの?」
「侵入したのは男女二人で……教室の中で……シてたんですよね?」
「そ、そうらしい……けど……」
「ヤバいじゃないですか!」
「だから、どうして不審者が夜の学校に入ってエッチしてたから別れようって話になるの!」
「……前に、俺と先生も同じ事しましたよね?」
「な、何言ってるのよ! 教室の中でなんて……」
「教室で、じゃなくて“学校で”で思い出してください。…………前にシましたよね?」
「う……それは……だけど……でも……」
「先生から侵入者の話を聞いたとき、俺は真っ先にそのときの事を思い出して、そしてゾッとしたんです。……俺と先生だって、見つかってもおかしくなかったってことですよね?」
「あ、あの時は……部室の中だったし……ちゃんと声とかも抑えてたし……」
「確かに、あのときは大丈夫でした。……でも、この先も大丈夫かどうかは分からないですよね」
「こ、この先って……」
「…………絶対シちゃうと思うんです。なんだかんだ言って、先生は魅力的ですから……ふとした拍子に我慢が出来なくなって押し倒しちゃったりとか」
「う…………確かに……もし紺崎くんに強引に迫られたら………………流されちゃう、かも……」
 例え学校の中でも――と、雪乃は小声で付け加える。
「だから、このままじゃヤバいと思うんです! もしそんな所を誰かに見られたら、俺も先生も一巻の終わりじゃないですか! だから――」
「でも待って! 紺崎くん……忘れたの? “その話”なら前にも一度して、もう結論が出たはずでしょ?」
 そう、確かに以前にも雪乃とこの手の話はした。そのときは、生徒と教師という関係に耐えられないという事を理由に雪乃に関係の清算を迫り、それに対して雪乃は関係を清算するくらいなら教師を辞めたほうがマシだといい、結果的に関係は続行される形となった。
 もちろん月彦は同じ轍を踏むわけにはいかない。
「ええ、ですから……別れるといっても、一時的なものです」
「一時的……?」
「そうです。俺が卒業して、表向きには先生とは何の関係も無くなるまでです」
「紺崎くんが卒業するまで……って…………まだ一年以上もあるじゃない!」
 ややオーバーとも取れる大声で、雪乃が声を荒げる。耳を疑う、とでも言いたげなその言葉の裏に、微かな安堵の影があるのを月彦は見逃さなかった。
 訪問販売などで、最初に高い値段を言われた後、今だけ半額なんですと料金を割り引くと、本当は最初からその値段で販売していたにもかかわらず、相手は買わなければ損だという回路が働いてしまうのだという。
 初めに別れようと持ちかけ、その実期限付きで少し距離を置くだけだと安心させることで、雪乃が納得しやすい状況を作る――これが、月彦が必死に考えた作戦の流れだった。
「先生、“一年以上も”じゃないです。“たったの一年”ですよ」
「たったの、って……」
「……もしかして、先生は賛成してくれないんですか?」
 心底意外そうに、月彦は言ってのける。さも、二つ返事でOKしてくれるものだと思っていたとばかりに。
「う……だ、だって……一年よ? 一年って365日もあるんだから……」
「それくらい、“お互い真剣”なら十分我慢出来る時間じゃないですか?」
 うっ、と雪乃が声を詰まらせる。もう少しだ――と、月彦は軽く拳を握る。
「ただの遊びで、たとえば体だけが目当ての関係とかだったら、一年も我慢するなんて絶対不可能だと思いますけど。お互いの事を本気で大切に想ってるなら、一年他人の振りをするくらい簡単じゃないですか?」
「せ、せめて……月1でデートとか……」
「先生。赤の他人同士がデートなんかしますか?」
「よ、ようはバレなきゃいいんでしょ? だったら、朝の四時とかに出発して、うんと遠いところにでかければ……」
「バレなければOK、ですか。…………きっと、昨夜忍び込んだカップルも同じように考えたんじゃないでしょうか」
 うっ、と。またしても雪乃が言葉を詰まらせる。
「…………それとも、もしかして……先生は俺の体だけが目当てで……」
「な」
 ばむっ、と雪乃がテーブルに両手を叩きつけるようにして立ち上がる。
「何言ってるのよ! 私はちゃんと……紺崎くんと一緒になった後の事まで考えて……だから、お料理だって……」
「……分かってます。だからこそ、今はしっかり我慢して距離をとるべきだと俺も思ったんです」
 お互い本気だからこそ、距離をとる。距離をとるのは卒業までであり、“本気”ならばそれくらいは我慢出来るはずだ――こういった理由であれば、前回の時のように雪乃が教師を辞めると言い出すこともない。その一年の間に雪乃の心が自然と離れ、新しい彼氏を見つけてくれればよし。もしそうならなくても、学校という嫌でも顔を合わせなければならない場所を離れた後ならば、どうとでも逃げ切れるのではないか。
(……そして、先生はこの提案を拒むわけにはいかないはずだ)
 本気なら一年くらい待てるはず――その提案に異を唱えるということは、自分は本気ではないと主張するようなものだ。ならば雪乃としては、遊びでは無いと証明するために例え不本意でも同意せざるをえないはずだ。
(……完璧だ。これで誰に迷惑をかける事もなく先生と別れられて、そして先生もきちんとした彼氏を捕まえて幸せになれる……はずだ)
 練りに練った作戦が見事にハマり、月彦は外見はともかく、内心はちょっとばかり浮かれていた。これで矢紗美にあのデータを公開されなくて済む――そんな安堵もあったかもしれない。
 だから。
「…………紺崎くん、一つだけ……聞いてもいい?」
「何ですか?」
「一年間……デートも無しで他人の振りをするなんて……紺崎くんは本当に出来ると思ってるの?」
「出来るに決まってるじゃないですか」
 自分が、最後の最後に詰めを誤ってしまった事にも、当然気がつかなかった。



 寝耳に水とは、まさにこのことだった。雪乃にとって嬉しすぎるサプライズである、平日のお泊まりチャンスがまさかまさかの別れ話。事態を把握するに従って、全身から血の気が引いていくのを感じ、一時は目眩すらも覚えた。
 だから、別れるのは一時的なものだという月彦の話を聞いた時は、飛び上がりそうな程にホッとした。――が、それもつかの間だった。
(一年は……さすがに長すぎるんじゃないかしら)
 月彦の言わんとする事も確かに分からなくはない。昨夜の事件で、雪乃も同じように肝を冷やしたのだから。しかし同時に、それとこれとは話が別なのではないかとも思う。
(もっと注意して……絶対誰にもバレないようにするとか……他にも方法はあるんじゃないかしら……)
 そう思うのは、やはり月彦と距離を取りたくない故だろうか。
 確かに。
 確かに月彦の意見が正論であり、もっとも確実で安全な道である事は雪乃にも理解は出来る。
 本気でお互いを将来のパートナーにと考えているのなら、一年くらい待てないはずはないというのも、同意できる。
 しかし。
(………………一年なんて…………)
 頭では、月彦が言わんとする事は理解できるし、同意できる。しかし体の欲求までは頭では割り切れない。
(一年どころか、一週間だって待ちきれないのに……)
 月彦がこんな話さえ振らなければ、グラタンを食べながらでもキスをして、そのまま床の上に押し倒してしまいたいほどに“溜まっている”のだ。
(……やだ……私……頭じゃなくて子宮で考えちゃってる…………)
 頭では分かる、しかし体が納得しない――今の状況は、そうとしか言えず、そのことを少なからず雪乃は恥じていた。が、それも月彦のことが本気で好きだからなのだと思い込むことで、仕方が無い事なのだとも思っていた。
(………ぅぅぅ……シたい……早く……紺崎くんとエッチして……紺崎くんの精子……欲しい………………)
 体が渇く――それはどれほど上等な酒でも、ましてや水でも潤すことの出来ない、女の体特有の渇望だった。
(………………男の子が下半身で物事を考える生き物だなんて、絶対嘘だわ)
 そうして己が渇きを覚えれば覚えるほどに、雪乃は頑なまでにそう信じて止まない。何故なら、巷で騒がれる程に男子高校生が性欲の権化であるならば――それが女性などよりも遙かに凄まじい性欲の持ち主ならば――自分はとっくに押し倒されていなければおかしいからだ。
(……私が、こんなにシたくてシたくて堪らなくなってるのに……)
 “これ”よりも凄まじい衝動に、人間が耐えられるわけがない。耐えられるのなら、それはもう人間ではない。
 だから、雪乃は頭では月彦の話に同意し、そうすべきであると思いながらも、問わずにはいられなかった。
「…………紺崎くん、一つだけ……聞いてもいい?」
「何ですか?」
「一年間……デートも無しで他人の振りをするなんて……紺崎くんは本当に出来ると思ってるの?」
「出来るに決まってるじゃないですか」
 即答だった。
 さらりと。まるで「夏の次に来る季節って何だっけ?」という問いに対して「秋です」と答えるような。決まり切った答えを即答するような、そんな口調だった。
 仮に一秒、或いはほんの一瞬でも、月彦がためらいを見せていれば、雪乃は引き下がる道を選んだかもしれない。自分も辛いが、月彦も辛いのだと。苦渋の思いで提案を受け入れたかもしれない。
 しかしこのときは、月彦のあまりの即答ぶりに、どういうわけかカチンと来てしまったのだった。
(…………そんなに、私には魅力がないって……言いたいの?)
 これは一年間デートをしなくても、体を重ねなくても平気だと言われたのと同義ではないだろうか。
 本気だから、真剣だから我慢出来る――ということなのかもしれない。
 しかし、だとしても。
 躊躇うそぶりすら見せない月彦の態度に、雪乃は怒りにも似たものを感じた。
「…………分かったわ」
「分かってくれましたか」
 嬉しげな月彦の声。それがまた腹が立つ。まるで頭の悪い女を体よく騙してしめしめと舌を出している――そんなサギ師の声のように、今の雪乃には聞こえた。
 触らぬ神に祟りなし――まるで、修羅場の空気を察するかのように。夕飯を食べ終えたノンがそれとなく気配を消して、よじよじとキャットタワーを上っていくのが、視界の端でチラリと見えた。
「勘違いしないでね。紺崎くんの言い分は分かった、って言ったの。提案を受け入れるとは一言も言ってないから」
「え……あの、先生?」
 意識せずとも、言葉に棘が出る。月彦もそれを感じ取ったのだろう、その声には戸惑いが混じっていた。
「すみません……ひょっとして、怒ってます?」
 少しね――そう言いたかったが、雪乃は黙った。黙ったまま席を立ち、無言でキッチンへと移動し、てきぱきとグラスに氷を放り込み、流しの下からウィスキーを取り出し、水割りを作る。
 別に酒が飲みたくなったわけではなかった。ただ、少しばかり月彦を無視して暗に自分は怒っていると悟らせたかった。その間の適当な暇つぶしとして、黙って酒をあおるという手段を用いたにすぎない。
「あ、あの……せ……せんせい?」
 腫れ物に触れるような月彦の声に、雪乃は思わず吹き出してしまいそうになり、慌てて背を向けねばならなかった。確かに月彦に対して怒りは覚えたが、そこまで畏まられる程でもなかった。強いて言うなら“ちょっとムッとする”程度の怒りであり、ものの数分で収まる程度のものだ。
 が。
(…………もうちょっと怖がらせちゃおうかしら)
 そんな悪戯心が、雪乃の中に沸く。先ほど突然別れ話など始められ、心底震えさせられた仕返しがしたかった――というのも多少はある。
 雪乃はさらに水割りを造り、一息にあおる。さらに作ってはグラスを空にする――そんな事を四,五度ほど繰り返すと、さすがにぼう、と。体が熱を帯びたように火照るのを感じた。
 くるりと。不意に体を月彦の方へと向ける。
「あっ」
 と、月彦がそれだけで姿勢を正すのが分かった。悪くない――なんとなくそんな事を思う。一体何がどう悪くないのか、雪乃自身にも分からない。
「紺崎くん」
「は、はい!」
「……さっき、一年間他人のフリをするのなんて平気って言ったわよね?」
「…………あぁ…………っと……い、今考えてみたら、平気じゃない、かもしれません」
 何を今更――月彦の言葉を鼻で笑いながら、雪乃は水割りを流しに置き、月彦の方へと歩み寄る。
「せ、先生……?」
 狼狽える月彦の肩に手を置き、両の太ももを跨ぐ形で雪乃は座る。何故“そこ”に座ったのかは、雪乃自身分からない。
「さっき平気って言ったわよね?」
「い、いえ……正確には“出来るに決まってる”とは答えましたけど、平気とは……」
「口答えするの?」
「す、すみません!……って……先生、もしかして酔っ払ってるんですか?」
 ふふんと、雪乃はまたしても鼻で笑いたくなった。たかだか水割りの四杯や五杯で酔っ払うわけがないではないか。
(……でも、“酔っ払ってる”ってコトにして、紺崎くんをからかうのは悪くないかも)
 仮に何かやらかしてしまったとしても“酔ってたから”と言い訳が出来る、これは美味しいかもしれないと、雪乃はそんなコトを思う。
(…………そうよ。私と一年も離れることなんて出来ないって、紺崎くんに教えてあげなきゃ)
 何故、教えてやらねばならないのか。もちろん雪乃には分からない。下腹部から突き上げる狂おしいばかりの欲求を満たすためには、目を瞑った方が都合の良いコトの方が多いからだ。
「紺崎くん、さっきの提案だけど」
「は、はい……」
「条件付きでなら、受け入れてあげてもいいわ」
「条件……ですか?」
「そ。……紺崎くんが、ちゃんと我慢出来る子だってコトを証明してくれたら、私も我慢して一年待ってあげる」



 後の祭りとは、まさにこのことだった。
(……最後の最後でしくじっちまった)
 勝手に、雪乃はもう同意するものだと決めつけた。それ故に、最後の最後で詰めを誤ってしまったことを、月彦は雪乃の態度の変化から敏感に感じ取った。感じ取ったが、それはもはや修正不可能のように思えた。
「……その証明って、どうすればいいんですか?」
 一体全体、何がどうなってこうなってしまったのか、月彦には全く話の流れが見えなかった。自分の配慮の欠けた即答によって雪乃が気分を害してしまったであろう事は容易に想像がつく。が、その後何故酒をあおったのか、何故今跨がられているのかについては、月彦には全く分からなかった。
(ただ、ものすごく嫌な予感はだけは……する)
 些細なミスから、主導権は失われた。もはや、一方的に雪乃の要求を聞くしかない状況であることを、月彦は誰よりも悟っていた。
「そうね、たとえばこういうのはどうかしら?」
 酒気帯びの為か、普段より三割増しで色っぽい雪乃の微笑み。月彦を見下ろすその目は、矢紗美のそれにそっくりだった。
(……まがりなりにも姉妹、か)
 そんなことを考えていた矢先、突然何かが首に絡みついてくるのを感じた。
「う、ぁ……!?」
 同時に感じる、にゅむりとした柔らかい感触。雪乃が体を密着させ、抱きついてきたのだと、遅れて理解する。
(う、あ……柔らかい……)
 大人の女性――それも、抜群のスタイルの持ち主だからこそ感じる事が出来る、絶妙な肉感。ふわりと鼻を擽るのは、香水の香りだけではない。妙齢の女性特有の香しい体臭――それは月彦の中の“牡”をダイレクトに刺激する。
「手は後ろ」
 ぽつりと、肩の後ろあたりから雪乃の呟きが聞こえる。
「聞こえなかったの? 手は背中の後ろ。勝手に触っちゃダメよ?」
「ぁ……」
 気づいた時には、月彦の両手は雪乃の尻をタイトミニの上からがっちりと掴み、その肉付きを楽しむようになで回していた。
 慌てて両手を離し、雪乃に言われた通りに背中と――丁度後ろ手を縛られているかのように――椅子の背もたれとの間へと挟む。
「……いい子」
 呟いて、雪乃が俄に上体を起こす――と同時に、今度は唇を奪われていた。
「んんんっ!?」
 雪乃主導にしては些か荒々しいキス――いきなり下唇を噛むように歯を立てられて、月彦はぎょっと全身を硬直させた。そんな月彦の反応すら楽しむように、雪乃の舌がれろり、れろりと唇を舐め、舐めながら月彦の舌へと絡みついてくる。
(せ、先生……こんなキス……できたのか)
 口腔内に広がる、微かな酒の香りも気にならないほど、キスに夢中になりかけていた。こんなねっとりとしたキスを雪乃がするという事自体意外で、月彦は完全に受け身に回ってしまった。そうしてキスを続けながらも、雪乃の手が肩から胸元へと這い回り、ブレザーが脱がされ、さらに制服のネクタイが外される。カッターシャツのボタンが上から順番に外され、前がはだけると今度はTシャツ越しに胸板をなで回される。
(こ、こっちも……)
 されるがままというのは性に合わない、こちらも触りまくってやろうと月彦が背もたれから背を浮かそうとした時だった。
「……手は後ろ、でしょ?」
 唐突にキスが中断され、雪乃の呟きと共に肩を掴まれ、力任せに背もたれへと背中が押しつけられる。
「せ、先生……まさか……」
「一年我慢できるんだもの。…………だったら、一晩くらい何でもないわよね?」
「ま、待って下さい! それは時と場合によります! こんな状況じゃ……」
「“本気”なら、たとえどんな状況でも我慢できるんじゃないかしら?」
「そ、それは……」
 完全に揚げ足を取られ、月彦は二の句が接げない。言葉を失っている月彦を尻目に、雪乃はさらに挑発するように自らのスーツのボタンを外していく。
「う、あ……」
 錯覚――と思いたい。が、そうやって雪乃がスーツの上着を脱ぎ、下に来ていたシャツのボタンを外す度に、段階を追って男を狂わせる現役女教師特有の悩殺フェロモンがまき散らされるように思えてならない。
(ヤバい……これは、ヤバい……)
 呼吸をする度、否が応にもフェロモンが肺に紛れ込み、頭をしびれさせる。困り果てる月彦を尻目に、雪乃はあえてスーツの下に着ていたシャツは脱がず、その下に着けていたブラのみを外し、はらりと。丁度カップ部分が月彦の鼻を覆うように乗せてくる。
(ふぉぉぉ……!?)
 カップから伝わってくる雪乃の体温と、香水の香りに混じった、仄かな体臭。吸ってはいけない、吸ったらまずいと思いながらも、月彦は頭が痺れるその香りを吸わずにはいられない。
(こうなったら……いっそ、もう……)
 前言を撤回して、欲望のままに暴れてやろうか――何度そう思った事か。しかし、今の月彦にはそう出来ない理由があった。
(……矢紗美さんに録られたアレが……)
 そう、今度ばかりは失敗するわけにはいかないのだ。雪乃との関係を清算できなければ、それこそ悲惨な事になってしまう。“それ”さえなければ、とっくのとうに雪乃の誘惑に屈していたことだろう。
(…………矢紗美さんは、やるといったらやる人だ)
 目的の為に、それが必要な手段であるのならば、おそらく手を汚す事もいとわない。昨夜、見回りに来た教師に見つかった瞬間、月彦は完全に固まっていた。どうしよう、どうしようと狼狽えるばかりで、何も出来なかった。矢紗美が電光石火で飛びかかり、教師を投げ飛ばして脱出の機会を作らなければ、今頃は完全に人生が終わっていた事だろう。
 いざというときは、本当に頼りになる人――月彦の中で、さらに矢紗美の株は上がった。同時に、矢紗美を裏切るような真似だけはすまいとも思った。それはきっと――否、確実に不幸な未來を招くに決まっているからだ。
(……耐える、しかない。いくら先生だって、こんなこと、ずっとは続けられないはずだ)
 朝になれば、学校だってある。どんなに長くても一晩。それだけ耐えれば、今度はこっちが主導権を握る事が出来る。「ほら、きちんと耐えましたよ。“本気”なら我慢出来るって分かってもらえましたか?」――そう言えば、雪乃ももはや嫌とは言えないはずだ。
(ていうか、家に連絡…………まぁ、母さんなら分かってくれるか)
 無断外泊も今回が初めてではない。雪乃の様子からして、おそらく家に連絡させて欲しいと切り出しても、納得してくれるかは怪しい。最悪、実の母親に電話をしている最中に体をまさぐられるという謎の羞恥プレイに発展する可能性すらある。
(ああ、でも、これは……なかなか……)
 そうして考えている合間も、雪乃の手が肩を、首をと這い回り、顔中にはキスの嵐。くねくねと雪乃が腰をくねらせる度に二人分の体重に椅子がきしみ、太ももの柔らかさが嫌でも伝わってくる。
「ふぅん……まだ我慢するんだ?」
 普段の雪乃からは想像しにくい、悪女の戯れ言のような口調。雪乃は胸元をはだけさせ、月彦の頭を抱き込むようにして、膨らみの間へと埋没させる。
「うぷっ……」
 両の頬と、鼻先を圧迫する、圧倒的な乳圧。後頭部に回された手で、うりうりと顔を乳に擦りつけるように動かされて、月彦は息苦しさも相まって危うく正気を失いかけるところだった。
(くっ……こ、これしき……いつも同じ手でやられてたまるか……!)
 過去の経験から、“こうすれば、紺崎くんは簡単にオチる”と雪乃も学んでいるだろう。そうはいくかと、月彦は気力を振り絞り、耐える。
(俺だけの問題じゃない…………先生の為にも、絶対にあんなものを聞かせるわけには……)
 時刻はまだ八時前。月彦にとって、長い長い夜はまだまだ続く……。



 雪乃は、当然覚えていた。月彦に対して“やりすぎる”と、どういうことになるのかを――である。
 ただ、今回の場合別にそれでも良いと思っていた。月彦が“そう”なるということは、それはすなわち自分の勝ちであり、もはや(一時的とはいえ)別れたいなどとは言わせないからだ。
 そして雪乃の基準では、すでに月彦がいつものようにケダモノ化してもおかしくないだけの挑発をしたはずだった。少なくとも、過去の経験から鑑みれば、自分はとっくのとうに押し倒されるか、ベッドにご案内されているはずであるのに、どういうわけか月彦は大人しいままなのだ。
 それはそれで不思議ではあるが、同時に雪乃はこうも思った。
 このシチュエーションは“美味しい”と。
(……紺崎くんに一方的に悪戯出来るなんて)
 いつもいつも。
 いつもいつもいつも年下の月彦にいいようにされるばかりだった。
 自分の方が年上なのに。まるで熟練手管のAV男優に、処女が手ほどきを受けるかのようにリードをとられ続けてきた。
 その力関係が、やっと覆ろうとしているのだ。
(スゴい……紺崎くん、本気で我慢しようとしてる…………可愛い…………)
 自分の一挙手一投足にいちいち体を硬直させたり、震わせたりして反応しつつも、誘惑に屈するものかと歯を食いしばり、強い目の光を放ち続ける月彦が可愛く見えてならない。
 それは、雪乃の知らない類いの興奮をかきたて、ますますその行為を大胆なものにしていく。
(……お姉ちゃんの気持ちが、ちょっと分かる……かも)
 年下の男の子を誘惑し、いたぶり、無理矢理その気にさせる――こんなに楽しい遊びは無いのではないかとすら思う。ましてや、その相手が自分の恋人であればなおさらだった。――そう、幸か不幸か、雪乃はまだ“その先”がある事には気がついていなかった。
 即ち。“自分の恋人”よりも、“他人の恋人”を誘惑し、その気にさせるほうが、さらに禁忌で甘美な快楽が得られるという事に。
「……紺崎くん、汗びっしょりになってる。我慢は体に毒よ?」
 我慢をさせているのは雪乃本人なわけなのだが、無論そんな事はどうでもよかった。ただただ本能の赴くままに、月彦の額や首筋に浮いた汗を舌先で舐め取っては、その甘美な味に酔いしれる。
「はは、は……こんなに密着されたら、汗もかきますよ。先生こそ、いい加減諦めてお風呂でも入ってきたらどうですか?」
 あぁぁ!――下腹から突き上げてくる快楽に、雪乃はつい声を上げそうになる。誘惑が効いていないわけはないのに、それでも反抗的な目で、反抗的な口調で反撃してくる。そんな月彦の折れない心が、身震いするほどの興奮をかきたてる。
(やだ……何これ……すっごく楽しい…………もっともっと……紺崎くんをいぢめたい……)
 抑えようとしても、平生を装うとしても、息が弾むのを止められない。全身が熱く火照り、手のひらで月彦の体に触れるだけで、声が出そうな程に感じてしまう。
(どう……しよう……どうすれば、もっと……)
 悲しいのは、肝心な知識が雪乃には備わっていないことだった。一体どうすればより月彦を追い詰める事が出来るのか。もっともっと月彦を追い詰め、弱音を吐かせてみたいのに、どうすればいいのかが分からない。
(どう……すれば……)
 雪乃は考える。もっともっと月彦を追い詰めて、我慢なんか出来ないと言わせたい。そのためにはどうすればいいのかを。
「…………そうね。ちょっと休憩してお風呂に入るのも悪くないかも」
 ああそうだ。そういう意味では風呂は決して悪くないと、雪乃は気がついた。
「こんなに汗かいちゃってるんだもの。紺崎くんも当然一緒に入るわよね?」



「紺崎くんは座ってじっとしてて。私が背中流してあげる」
 浴室に入るなり、有無を言わさず月彦を風呂椅子に座らせる。あらかじめ湯を張っていたわけではないから、同時進行で湯船にお湯を注ぎ込みつつ、洗面器に湯をくんでは月彦の背へとかける。
(あぁ……裸……紺崎くんの裸……!)
 気を抜けば、ふらふらと吸い寄せられるように抱きついてしまいそうになるのを我慢しながら、雪乃は湯をくんでは、月彦の頭に、背中にかけていく。同時に、自らの体にも湯をかける。
 まだ湯が張られていない浴室は本来ならば凍えそうなほどに寒いはずなのだが、全身が火照りきっている雪乃としてはむしろ心地よい寒さだった。
(紺崎くんったら……服を脱ぐときも平然としてたけど……)
 その股間はがっちんがっちんであるのを、当然雪乃は見逃さなかった。
「先生。先に言っておきますけど、何をされても俺には効きませんから」
 椅子に座ったまま、憮然と月彦が言い放つ。――そう、月彦とて、一緒に風呂に入ろうという雪乃の意図は当然見透かしているだろう。何をされるのかも、ある程度は予想しているかもしれない。
(……でも、気のせいかしら。ただの強がりにしか聞こえないのよね)
 弱い犬ほどなんとやら――という表現は、さすがに月彦には失礼だろうか。しかし雪乃には、今にも崩れ落ちてしまいそうな己の心を叱咤するために、口にせずにはいられなかった強がりにしか聞こえないのだった。
(……じゃあ、本当に効かないのか試してみなきゃ)
 効かないなら効かないでも構わないと、雪乃は思っていた。月彦が最終的に屈するかどうかに関わらず、もはや手段そのものが雪乃の楽しみの一つでもあるからだ。
 雪乃は徐にスポンジを手に取り、それにボディソープを含ませ、泡立てる。このままスポンジで背中を流したのでは、誘惑にはならない。かといって、“体で洗う”というのも、当然月彦は予測しているだろう。それでは弱い――と、雪乃は思う。
 だから、雪乃はあえてスポンジを使って月彦の背中を流した。
「えっ……?」
 と、声こそ出さないまでも、やはり“体で洗う”のを予想していたらしい月彦の戸惑いが、背中を通して伝わってくる。雪乃としてもそうしたいのは山々だったのだが、後の伏線の為に、ここはあえて普通にせざるをえなかった。
「どうしたの? 紺崎くん。……ひょっとして、“何か”を期待してたのかしら?」
「いえ、べつに……」
 本当は期待してたんじゃないの?――うっかりそう挑発しかけて、雪乃は口をつぐむ。黙ったまま、あくまで事務的に、体を洗う以外なんの他意もないと言いたげに、ただただスポンジで月彦の体を磨き上げていく。
 最後にざばぁと湯で泡を落としたところで、第一段階は終了。
「じゃあ、次は紺崎くんの番ね」
「……分かりました」
 スポンジを手渡し、ポジションを入れ替える。今度はしゃこしゃこと月彦が事務的に雪乃の背中を流す番だった。先ほど雪乃がしたように、邪な心など一切ない。その道一筋六〇年の職人が、それこそ背中流しマシーンと化して作業に従事する――そんな手つきだった。
(いつもだったら、手が滑ったーとか言て、おっぱいとかお尻とか触ってくるクセに)
 もちろん今そんなことをしようものなら、たちまち雪乃は月彦の手首を掴んで「紺崎くんの負けね?」と敗北を認めさせるつもりだった。が、さすがに月彦もそんな見え透いた罠にはかからない。
 作業はあくまで事務的に進み、最後に湯で泡を流されることで、“背中流し”は終了した。
「終わりました、先生」
「ありがとう。紺崎くん。…………じゃあ、次は“前”ね」
「え……前?」
「そ。前」
 本当は、下にマットかなにかを敷くべきなのだろうが、生憎そんなものはない。やむなく雪乃はタイルの上に月彦を仰向けに寝そべらせ、自分の体にボディソープを塗って、にゅるりと月彦の体へと被さりながら擦りつける。
「うっ、わ……ちょ、先生!?」
「ンッ……どうしたの? 紺崎くん……声がうわずってるわよ?」
「い、いや……ちょっ……これは……さすがに……」
「ンッ……ぅ……ダメよ、動かないで……じっとして。ほら、動いたら頭打ち付けちゃうわよ?」
 いくら浴室が広いとはいえ、身長180を越える月彦が横になっては、頭の側にも足の側にもそう余裕は無い。さらに雪乃は月彦が体を逃がせないように肩口を押さえつけながら、にゅりにゅりと全身を月彦の体に擦りつけていく。
(っ……これ……紺崎くん、のが……お腹に擦れて……)
 体ごと持ち上げられそうなほどにガッチガチになっているものを押さえつけねばならず、それは思ったよりも遙かに大変だった。
 何より。
(ダメ……意識しちゃう……)
 月彦を挑発し、追い詰めるためにしていることのはずなのに。腹部をぐいぐい押し上げてくる剛直の堅さ、熱さを嫌でも意識させられる。
「せ、先生……ま……まだ、続けるんですか……?」
 それだけ腹部におしつけられるということは、月彦の方にもそれだけ刺激がいっているという事でもあるのだろう。その声は、雪乃が思っていた以上に切羽詰まったもので、切なげだった。
「あら、どうしたの? 紺崎くん。もう我慢できないのかしら?」
 このまま体をすりつけていたら、自分の方が我慢出来なくなる――そう判断した雪乃は、体を擦りつけるのを一時中断し、手でしごき上げる方針に切り替えた。
(……中指と親指の先がつかないし……もう、紺崎くんったら……どんだけ……)
 その直径にはもはや唖然とする他無い。こんな太いものをいつも自分は入れられていたのかと呆れる思いだった。
「っ……いえ、まだまだまだ全然いけますよ。先生こそ諦めたほうがいいんじゃないですか?」
 月彦の声には、先ほどより余裕があった。どうやら手だけの刺激では、体全体を擦りつけるのには遙かに及ばないらしい。
「……じゃあ、紺崎くん。ちょっと立ってもらえるかしら?」
「まだ……続けるんですか」
 渋々、月彦は立ち上がる。
「そのまま浴槽の縁に腰掛けて。……後ろにひっくり返らないように注意してね?」
 雪乃は膝立ちになり、月彦の足の間へと体を入れ、そのたっぷりな胸元でにゅむりと、剛直を挟み込む。
「っ……先生!」
「なぁに? 紺崎くん」
「そ、それは……卑怯じゃないですか?」
「何が卑怯なの?」
 にゅり、にゅり。体を上下に揺するようにして、乳の間で剛直をシゴキ上げる。
「ひ、卑怯です! 誰がなんと言おうと卑怯です!」
「ほら、目を逸らしちゃダメ。……ちゃんと見て?」
 月彦がたぐいまれなるおっぱいスキーであることも、そして乳を使った奉仕に弱いことも、さらに言うならそれをきちんと見せられることに弱いことも、雪乃は過去の経験から熟知していた。
(あぁ……紺崎くんが必死に我慢してる顔…イイかも……)
 下唇を噛むようにしながら、浴室の縁にかけた指を引きつらせながら、必死に快感と興奮に耐える月彦の姿に、雪乃もまた興奮を禁じ得ない。
「先生……だ、ダメです……それは…………もう、俺の意思がどうこうって問題じゃなくって……とにかくダメです!」
「ふふ……すっごぉい……紺崎くんの、おっぱいの間でビクッ、ビクッって震えっぱなしよ?」
 まるで、体の中に心臓が二つあるかの様。胸の合間から伝わってくる“二つ目の脈拍”に、雪乃もまた息を荒げ、にゅりにゅりと乳掏りのスピードを速めていく。
「ちょっ……先生、マジでヤバッ……………………」
「きゃっ」
 びくんっ――乳の合間で剛直が大きく脈動したと思った時にはもう、その先端から熱い固まりが迸っていた。
「あ、ンっ……熱っぅ……」
 堰を切ったようにあふれ出す白濁の奔流はたちまち雪乃の髪を、顔を、そして乳を白く染め上げていく。
「っ……先生、これはただ外部からの刺激に体が反応しただけですから! お、俺が自分で手を出したわけじゃないからノーカンですよ!」
 月彦の言い訳はこれ以上ないという程に早かった。
「……それはどうかしら?」
 白濁から伝わってくる熱――月彦の体温にうっとりと瞳を潤ませながらも、雪乃は呟く。
「私的には、やっぱり“出しちゃった”っていうのは、決定的だと思うんだけど?」
「で、でもそれは先生が勝手に……」
「抵抗、できたよね? 紺崎くん。……でもしなかったでしょ?」
「うっ……で、でも……」
「でも……何?」
 ううぅ……と月彦がうなだれる。くすりと、雪乃は微笑を一つ。立ち上がって、浴室の縁に腰掛けている月彦の上に、再度跨がる。
「せ、先生……?」
「……紺崎くんのコトだもの。これくらいじゃ全然満足なんか出来ないでしょ?」
 尚ギンギンな剛直を尻の下に敷く形で、雪乃は少しだけ腰を前後させる。顔と乳にかけられた白濁はあえて拭わない。その方が――白濁に汚れた姿のほうが――より月彦を興奮させられると、頭では無く本能で察したからだ。
「……セックス、シたいでしょ?」
「ぐぎぎ……で、でも……」
「シたくないの?」
「し、したい……です……だけど……」
 どうやら、月彦の心はまだ折れないらしい。一回出させてしまえば、ころりと態度を変えるものだと思っていた雪乃にとって、やや予想外な展開だった。
(でも、もう一押し……かな?)
 折れてはいない――が、やはり無理矢理とはいえ、射精してしまったというのは、月彦にとって相当な負い目になっているのだろう。あと一押し、もう一押しで、オチる――肌を触れあわせているだけで、雪乃にはそれが分かる。
「ほら……本当はずっと触りたかったんでしょ?」
 甘い囁き。月彦の手を取り、自らの胸元へと誘導する。手のひらを乳房に触れさせ、指を埋めさせる。
「う、ぁ……せ、先生……止めて、下さい……ほ、本当に俺……もう、ヤバくて……」
 指が不自然な形に反っているのを見れば、月彦の言葉が嘘偽りでないのは分かる。――だからこそ、オトしたいと思う。これはもう理屈ではない。自分の女としての魅力を確かめる作業に他ならないと、雪乃は思う。
「紺崎くんはよく頑張ったわ。……もう楽になっていいのよ?」
 再び、甘い――否、悪魔の囁き。月彦の後ろ髪を撫で、首を撫で、顎を撫で――優しくキス。
 ただ唇が触れるだけのそれは、すぐに終わった。
「ほ、本当に……良いんですか?」
「良いって……何がかしら?」
「……あ、後で……どんなコトになっても……恨まないって、約束……してくれますか?」
 あらあらと、雪乃はさながら悪戯っ子を見守る保母のような気持ちになる。
(……そんなにスゴいコトを私にするつもりなの? 紺崎くん)
 これだけ挑発したのだ。その反動は確かにものすごいかもしれない。いつぞやのように失神するほど責められることかもしれない。
(…………でも、それはそれで)
 悪くないと、思ってしまう。否、むしろ今夜はそれくらい激しく責められたいとも思う。立ち消えになったとはいえ、別れ話をされた不安は並大抵のコトでは拭いきれない。
「……分かったわ、約束してあげる」
「ほ、本当ですね? どんなコトになっても、怒ったり、泣きわめいたり、暴れたりしないって誓ってくれるんですね?」
 一体、どんなプレイをするつもりなのだろうか。さすがに雪乃は少しばかり不安になるが、そこはそこ。月彦の常識と良識を信じることにして、大きく頷いてみせた。
「その代わり、紺崎くんも。ちゃんとはっきりとどうしたいのか言って?」
「せ、先生と……したい……です」
「それじゃだーめ。…………何をしたいの?」
 はぁはぁと、自然と息が荒くなるのを感じる。これは雪乃にとって、いわば必要な儀式の一つだった。
 どうしたいのか、きちんと月彦に言わせる――それが一つのスイッチなのだ。
「先生と……セックスがしたい、です」
「ンっ……そんなに、私としたいの?」
「あ、当たり前じゃないですか……」
「っ……もっと言って……」
 私を求める言葉を、もっと聞かせて――月彦の腕を掴み、強く、強く握りしめる。
「先生と、セックスしたくてしたくて、もう我慢出来ないんです。……先生にも、とっくに伝わってますよね? 俺がどれくらいシたいか、って」
 伝わっている。とっくに伝わっている。体を持ち上げんばかりの勢いで屹立しようとする剛直の感触。その力強さの根源は生殖衝動に他ならない。
 即ち、それほどまでに――求められている。
「あっ」
 ダメ、来ちゃう!――雪乃は咄嗟に身を屈め、“それ”に耐える。
(あぁぁぁ……だめ、子宮にキュンキュン来るっ、ぅ…………)
 求められれば、反応してしまう。何度も抱かれ、特濃の精液を注ぎ込まれることで、そのように変えられてしまった。
「っ……は、ぁ……」
 熱っぽい息を漏らしながら、雪乃は月彦の肩を掴み、ゆっくりと体を持ち上げる。“重し”が消えたことで、たちまち剛直がグンと天を仰いだ。その先端へと、雪乃は徐々に体を落とし、しとどに蜜を蓄えた秘裂がギリギリ触れないところで、体を止める。
「私、も……欲しい……」
 とろり、とろり。
 溢れた蜜が滴り、まるでホットケーキのうえにかけられるハチミツのように、剛直をデコレイトしていく。
「紺崎くんの……精子……すっごく欲しいの」
 月彦の意思を確認するわけではない。私は、この瞬間から女ではなく、ただのメスに成り下がりますと宣言するだけの、ただの自己満足の儀式。
「あっ……」
 己の欲求のままに、雪乃は腰を落とす。ちゅくりと。蜜がはじけるような音は――
「あっ、あぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁあぁぁぁ!!!」
 その後に雪乃が上げた、サカったメス声によって完全にかき消された。


「ちょっ……紺崎くん……これ……キツい…………」
 腰を完全に落とすことが出来ない。尻肉が月彦の腰に触れてはいるのだが、“中のつっぱり棒”のせいで、しっかりと腰を落ち着けることが出来ないのだ。
「……すみません、先生にいろいろされまくったせいで……ちょっと……ご立腹みたいです」
 照れるように月彦が笑う。笑いながらも、雪乃の尻を掴み、ぐりんっ、と。
「あァ!」
 月彦が腰を回すだけで、剛直の先端が子宮口を刺激し、雪乃は弾かれるように甘い声を漏らしてしまう。
「だ、ダメ……そこ、すっごく敏感なんだから……乱暴にしないで……」
「ああ、そういえば先生……奧好きでしたね」
「やっ、あんっ! あんっ! あぁん!」
 立て続けに二度、三度と突き上げられる。その都度、雪乃は大げさに体を揺らし、浴室に嬌声を響かせる。
「だ、ダメ……そこ、ダメ……あっ、あっ! あんっ、あん! ちょ、ちょっと、待っ……あっ、あぁぁぁぁぁ〜〜〜〜っっ!!」
 今度は、小刻みな“振動”で刺激されて、雪乃は思わず背を仰け反らせ、声を荒げる。かつては、性行為の最中ですら声を上げることをためらい、押し殺していたのが嘘のように。次から次に甘い、牡を誘う声が止めどなく溢れてくる。
「……どうやら、先生も誘惑しながら、だいぶ興奮しちゃってたみたいですね」
「そんなの……当たり前、じゃない……んぅ……」
 漸くに腰の動きが止まり、インターバルだと言わんばかりに、むっぎゅむっぎゅと両方の乳がこねられる。不思議なもので、腰を動かされている間はあれほど“強すぎる”と感じていた快感が、動きを止められた途端欲しくて欲しくて堪らなくなるのを感じる。
(あぁん、もぉ……どうせわざとなんだから……紺崎くんの意地悪……)
 こんな肉の槍のような男根を子宮口に押し当てられたまま、動きもせず乳ばかりを捏ね、時にはしゃぶるだけなんてそうに決まってる。
(…………ううん、紺崎くんのコトだから……本当にただおっぱいに夢中なだけっていう可能性も……)
 腰の動き自体はとまっていても、そうして乳を捏ねているだけで、剛直がビクビクッと興奮するように震えるのを感じる。そういえば、胸で挟んでいた時も、やはり剛直が反応していたと、雪乃は思い出す。
(……紺崎くんを誘惑するときは、もっとおっぱいを露骨に使った方がいいってことかしら)
 そうすれば、例え学校でも容易く月彦を誘えるのではないか――そもそも何故今回このような騒動になったのかも忘れて――雪乃はそんな物騒なコトを考える。
(って、まだ……触ってる……)
 むっぎゅむっぎゅとこね回したかと思えば、ピンと立った先端をてろてろと舐め回される。
「んぅぅぅ…………ぁぁぁっ……」
 かと思えば、ちぅぅと吸われ、くにくにと歯で優しく噛まれる。
「あっ、ぁんっ……!」
 噛まれるのは、ちょっとイイかも――そんなコトを思っていると、再びむっぎゅむぎゅと捏ねられる。
「ぁ……紺崎くん、あのね?」
「はい?」
「か、噛まれるの……ちょっと、イイかも……」
 月彦が、再び先端を口に含む。そして、カリ……と。
「あッ……」
「確かに、今……キュって締まりましたね」
 呟いて、再度噛まれる。
「んぅっ……も、もうちょっと……強く噛んでも……あっ、あっ……そ、それくらい……あっ……い、いぃ……」
 月彦の頭を抱きしめるようにしながら、はぁはぁと雪乃は悶える。自然と、腰までくねらせていた。
「前は、噛んでもそんなこと言ってませんでしたよね。……こういうのを“開発された”って言うんでしょうか」
「こ、紺崎くんが……エッチの度におっぱいばっかり弄るから……」
 月彦に自覚がないのが、雪乃には腹立たしかった。男性経験など皆無だった自分が変わったのだとしたら、変えられてしまったのだとしたら、それは100パーセント月彦のせいだというのに。
(子宮がこんなにウズいちゃうのだって……紺崎くんがいつもいつも……な、中にばっかり出す、から……)
 何度か、避妊具つきのセックスも試しはした。が、その都度まるで窒息するような息苦しさに辟易し、結局生でのセックスとなってしまった。
(そうよ……全部、紺崎くんのせいなんだから……)
 乳首を噛まれて感じてしまうのも。生でのセックスでなければダメな体になってしまったのも。時折キスがしたくてしたくて堪らなくなってしまうのも。授業中に以前のセックス時の事を思い出してムラムラしてしまうのも。
(お、オナニーだって……紺崎くんとエッチするまでは……ほとんどしたことなかったんだから……)
 快楽というものの味を、これでもかと月彦に覚え込まされなければ、そもそも自慰など一生無縁だったかもしれない。
(…………だから、紺崎くんは……責任をとって……私と結婚しなきゃダメなんだからね?)
 むーっ、と。雪乃は月彦を睨むような目で見る。が、月彦はといえば、さすがに乳に執着しすぎだという抗議とでも受け取ったのか、慌てて乳を吸う口を離した。
「し、仕方ないじゃないですか! 先生のおっぱいが魅力的過ぎて……どうしても触りたくなるんですから」
「それは……別にいいんだけど……」
 今更、月彦の重度すぎるおっぱい病を治せるとは、雪乃も思ってはいなかった。ただ、おっぱいが本体で、雛森雪乃がその付属品のように扱われるのが不満なのだった。
(もうおっぱいなんかどうでもいい、ただ先生が側に居てくれるだけでいい……とか、そういうセリフを紺崎くんに言わせるのは無理なのかしら)
 少し考えて、無理だという結論に達した。もしそんな言葉を口にしたとしても、それは紺崎月彦ではなく、紺崎月彦の形をした別の何かに違いない。
(……キスの回数より、おっぱいに口をつける回数のほうが圧倒的に多いんだもの)
 不満では有るが、そこはあえて口にはせず、徐々に徐々に矯正していけばいい。
 雪乃は何も言わず、ただ上体を被せてそっと唇を重ねる。こっちも忘れないで、と。暗に訴えるように。
「んっ、んっ」
 ちゅくちゅくと舌を絡め唾液を啜りながら、徐々に腰の動きを連動させる。
「んっ、ぅ……んちゅっ、んっ……」
 月彦の両肩に手を置き、さらにその手を巻き込むように後頭部に回し、キスを続ける。にちゃにちゃと音がするのは、結合部から溢れた蜜が互いの肌に潰されて糸を引いているからだ。
「ん!?……んんぅぅぅ……!」
 不意に、受け身一辺倒だった月彦が攻勢に出て、雪乃は目を見開いた。雪乃の尻を掴み、ぐりんぐりんと腰をくねらせながら、体が浮くほどに突き上げてくる。
「んっ、んっ、んっ、んっ」
 パンパンと弾けるような音が浴室内に響く。同時に脊髄から脳を貫く、蕩けるような快感。生涯のパートナーとみとめた相手に抱きしめられ、突き上げられることの至福。
(あっ、あっ、あっ……紺崎くん……紺崎くん……!)
 ぎゅぅぅぅぅ!――雪乃は月彦にしがみつく手をさらに強め、剛直を締め上げる。
「くはっ……せ、先生……そう、来ますか」
 キスを中断して、月彦が呻く。
「分かりました……じゃあ、こっちはいつものアレ……いっちゃいますよ?」
「いつものアレ?……きゃ!」
 突然、月彦が立ち上がる。雪乃は両膝の裏を月彦の腕で抱え上げられ、慌てて両手で月彦の首からぶら下がる形になる。
(ぁ……この形、は……)
 どきりと、心臓が跳ねる。そう、“これ”は以前失神させられたアレだと、体が覚えていた。
「ま、待って……紺崎くん……あァァ!」
 ぱぁんっ!――大きく体を浮かされて、剛直が抜けるギリギリまで引きぬかれての、一気に奥まで突き上げられる、その衝撃に雪乃は背を弓なりに反らし、舌を突き出すようにして喘ぐ。
「だ、だめ……あヒッ! あぁっ! くひっ……ひぃぃ!!」
 ぱぁん! ぱぁん! ぱぁん!
 反動をつけられ、立て続けに三度突き上げられる。視界に火花が散るほどの快楽に、雪乃は声にならない悲鳴を上げることしかできない。
「…………いい反応です。先生、ホントこれ好きですよね?」
「す、好き、じゃ……いヒィ! んくっ……あぁぁあ! だ、めっ……あぁぁっ! あぁぁぁぁ!!」
 ビクビクビクゥ! ビクゥ!
 腹部が不自然に跳ね、痙攣したように手足の先が反り返る。許容量を遙かに超える快楽信号に、幾度となく意識が飛びそうになる。
「うわ……すっげ……先生、電気ショックでもされてるみたいにびくんびくんって……エロすぎです」
「はぁ……はぁ……ちょっ、ホントに、ダメ……これ……お、おかしくな――ンンンン!! はぁはぁ……だ、だめって……言……ひぅぅぅッ!!!」
 体が、跳ねる。電気ショック――そう、まさに電気ショックでもされているようなものだった。
「だ、めぇ……こんなの、こんなの続けられたら……すぐ、イッちゃう……」
「へぇ、奇遇ですね。……俺も、先生がびくんってなる度に、メチャクチャ締め付けてくるから……もう結構限界近いんですよ」
「だ、だったら……普通に……」
「普通? 普通っていうと……こんな感じですか?」
「えっ、やだちょ……あっあっ、あっあっ、あっあぁ、あぁぁぁぁぁぁぁぁぁ〜〜〜〜っっ!!!」
 先ほどまでの大きなストロークではない。背を浴室の壁へと押しつけられ、さらに剛直の先端と子宮口を密着させたまま、体を小刻みに揺さぶられて、雪乃は堪らず爪を立ててイくのを堪えねばならなかった。
「ま、待って……待ってぇ…………だめっ、まだだめっ……だめなのぉ……」
「頑張りますね、先生……何がダメなんですか?」
「きょ、今日は……中はダメな日、なの……だから……外……に……」
 おやおや――今度は月彦の方がそう言いたげな微笑を浮かべる。雪乃もそれに気づき、頬を染めながら思わず顔を逸らしてしまう。
「へぇ、今日は中出しはダメなんですか?」
「だ、ダメよ……絶対ダメ……危険日、なんだから……」
 自分で言ってて、吹き出しそうになってしまう。当然月彦も、これが茶番である事などは百も承知だろう。
「本当に? どうしても、絶対に中はダメなんですか?」
「あうっ、くぅぅ……だ、だめぇ……ぜ、絶対に……に、妊娠、しちゃう……」
 まるで欲しいものでもねだるように、ぐりぐりと剛直の先端がほじくるように動いてくる。その“催促”が堪らないと、雪乃は思う。
「こんなに先生のコトが好きで、中に出したくて出したくて堪らないのに、我慢しろって言うんですか?」
「あぅ……く……」
 紺崎くんは分かってる――そう痛感する。茶番だと分かった上で、ちゃんとそれに乗ってくれるのが、雪乃には身震いするほどに嬉しかった。
「そ、そんなに……私の中に……出したい、の?」
「はい」
 思わず惚れ直してしまいそうな、無駄に男らしい返事だった。
「ぁ……んく……」
 生唾を飲んでしまう。子宮の渇きはもはや最高潮といっていい。“お許し”さえ出せば、すぐにでも“飲む”事ができるのだ。
「だ、だったら……」
「だったら?」
「ちゃんと、いつもみたいに……言って……」
「先生の中に、精子出したくて出したくてもう我慢出来ないんです」
「うっ……っ……」
 ぶるりと、体が震える。もう、その一言だけで十分なはず――だが、雪乃は事ここに至って欲を出した。
「……そ、それだけじゃ……ダメ…………もう、絶対別れようなんて言わないって、約束してくれなきゃ、中出しさせてあげない」
 本当は、月彦以上に“それ”を望んでいるというのに。そしておそらくそのことを月彦自身察しているであろうことを分かった上で、雪乃は“甘え”る。
「……………………………………分かりました。二度と……言いません」
 誓うなり、月彦が動きを再開させる。
「あっ、やんっ! ま、待って……ほ、ホントのホントに……約束、よ? も、もし破ったら……あんっ!」
「すみません……先生……もう、マジでヤバいんです……っ……誓えというなら何でも誓いますから……出させて下さい……」
 はぁはぁ、ぜぇぜぇ。
 瀕死の病人のように息を荒げながら、月彦は雪乃の体を揺さぶり、同時に自らも突き上げてくる。
「ぇ……な、何でも……? あぁあん! ま、待って……ダメッ、ダメッ……紺崎くん、だめぇっ!」
 雪乃は必死に静止を懇願する――が、月彦は全く止まる気配がない。雪乃の体を壁に押しつけるようにして、獣のように突き上げてくる。
「やぁぁっ……そんなっ……ゆ、揺すられ……あん! だめっ……だめぇぇ……奥っ、奥、ばっかりぃ……あぁっ、ぁっ……あっ、あっ、あっそ、ソコだめぇぇえ! あっぁっぁっ、あぁぁっぁぁぁぁぁぁぁぁ〜〜〜〜〜〜ッッッ……待って……ギュって……ぎゅうって……」
 自らの限界を感じるのと、月彦の限界を感じ取ったのは同時だった。雪乃の片足は月彦の腕からずり落ち、右足で立ちながら左足を月彦の肩に引っかけるような不安定の姿勢で――
「あ、ぁ、ぁ、あァァーーーーーーーーーーーーッッッッ!!!!!」
 月彦の右手で体を抱かれながら、左手は手のひらを併せて握りしめ合いながら。
「っ……先生ッ……」
 特濃の牡液をたっぷりと注ぎ込まれながら、雪乃は達した。


 どうやら、見た目以上に雪乃は溜まっていたらしい。あのまま浴室で二回、さらに風呂を出た後脱衣所でも我慢できなくて一回、リビングで立ったまま二回、寝室に移動してから上になったり下になったり……
(いやこれ……普通にスゴいぞ……)
 自分の意思の弱さとか、誘惑耐性の無さとか、今後どうするのかとかはとりあえず脇に置いといて、雪乃を満足させる事だけに専念しようとするも、油断すれば逆に圧倒されかねない程に、雪乃が求めてくるのだ。
「はぁーー…………はぁー…………んっ、んっ…………ぁはぁぁぁ……」
 ベッドの上で月彦に跨がり、自ら腰をくねらせる。
「はぁーー…………はぁぁぁ……紺崎くん……紺崎くぅん……」
 愛しげに、しかしもどかしげに雪乃は月彦の名を呼び続ける。月彦は雪乃の腰の辺りを掴んで固定し、ベッドのスプリングを利用して、突き上げる。
「あっ! あっ! あっ!」
 雪乃の体が浮くほどに、激しく。
「あーっ! あーっ! あーっ!!」
 髪を振り乱し、のたうつようにして雪乃は声を上げる。
「あっ、あっ……あぁぁぁぁぁ…………………………!!!!」
 キュキュキュッ、キュキュキュゥ!
 断続的に剛直を締め付けられ、月彦は奥歯を噛み締めて、その刺激に耐える。雪乃はといえば、一緒に月彦がイかなかった事に不満そうな息を微かに漏らしたかと思えば。
「んっ……ぁぁ……!」
 ベッドに手を突き、自らの尻を重たげに持ち上げて、ぬろりと剛直を引き抜く。ヒクつきっぱなしの秘裂から、逆さにした酒瓶から栓を抜いたかのように、どろりと白濁汁があふれ出す。
「はぁー…………はぁー………………」
 肩で息をしながら、雪乃はよたよたと月彦の足の間へと体を後退させるや、今度は好物の骨にむしゃぶりつく犬のように剛直へと食らいつく。
「んふっ、んふっ、んふっ……」
 かつては、あれほどフェラに抵抗を示していたのが嘘のようだった。先端を咥え舐め回したかと思えば、今度は根元からゾゾゾと舌を這わせ、かと思えば先端部分だけを丹念に舐め回し、そのフェラテクは月彦に唇を噛ませるには十分な技量に達していた。
「せ、先生……その、胸も……使ってもらえますか?」
 剛直を咥えたまま、雪乃はこくりと頷いてベッドから下りる。寝そべったままではやりにくいという事だろう――月彦は察して、ベッドの端へと移動し、腰掛ける。
「……こんな感じでどうかしら、紺崎くん」
「ええ……すごく、いいです」
 むぎぅ、と雪乃の両乳に剛直を挟み込まれ、その光景を見下ろしているだけで興奮をかきたてられる。
(……ほんと卑怯だよな、これ)
 こんな事をされて、こんなものを見せられて我慢など出来るわけがないではないか。出来る男が居たとしたら、ホモか不能のどちらかに違いない。
(あぁっ……おっぱいが……おっぱいがぐにぐにって歪んで……挟まれて……あぁぁ……)
 雪乃が動く度に、なんとも柔らかそうな白い果肉が歪み、剛直を先端近くまで隠しては、再び露出させる。
(もういっそ……先生に寝そべってもらって、俺が動いた方が……)
 同じパイズリでも、その姿勢のほうがより“犯してる”感があり、興奮できるのだが。しかしさすがにソコまでやるのは、雪乃に失礼な気がしなくもない。
(…………先生がそれをされて気持ちいいわけじゃ、ないしな)
 あくまで、オシオキの一環。真央のように自らそれを望むのならばともかく、そうでない場合は自分の体の一部をまるで道具のように扱ってみせることで、相手に屈辱を与えるような状況でなければ、さすがの月彦でも気が進まない。
(……そう、たとえばあの性悪狐とか)
 真狐相手ならば、それこそ何のためらいも無く、むしろうすら笑みすら浮かべながらしてやれるのだが。雪乃相手では、雪乃に対する愛しさ自体が邪魔をして、それがやりにくかったりする。
「んっ、んっ……紺崎くんの……ビクッ、ビクって震えて…………ぁんっ……!」
「ふ、震えているのは……先生の胸が気持ちいいからで…………っ……」
 先ほどイきそびれた分、限界は早く訪れた。
「あんっ! やっ……だめぇ……せーし……んぷっ……ふぇーひ……ほんらひふんほ……ふぇーひ…………んくっ……んくっ……」
 白濁が溢れた瞬間、雪乃は慌ててその先端部に唇をつけ、しゃぶるようにして口腔内で受け止める。
「んふ……んふっ……んん〜〜〜〜!」
 射精が終わった後も、もっと欲しいと言わんばかりに尿道をすぼめた舌でほじくられ、最後にちぅぅと吸い上げられてから、雪乃は漸くに口を離した。
「はぁぁ……だめ……紺崎くんの精子……もっと欲しいぃぃ……」
「せ、先生!?」
 まるで亡者のような手つきで、雪乃が月彦の体を這い上がり、押し倒してくる。
「ま、まだシたりないんですか!?」
「足りない……うん……足りないの……疼くのぉ…………」
「待って下さい! 俺の気のせいじゃなけりゃ……窓の外が明るくなってきてる気がするんですけど……」
 そう、気のせい――なはずがなかった。事実、寝室のカーテンの向こうからは光が漏れてきている。
「えっ……やだ、嘘……今……何時……?」
「ええと……確かこっちの方に時計が…………し、七時ジャスト、です」
「えええええええーーーーーーーーーーーーーーー!?」
 耳を劈くような雪乃の叫びに、月彦は思わず耳を押さえた。
「そんな……だって、えぇぇぇ……嘘って……嘘って言ってぇ!」
「嘘じゃ無いです、ガチでもう朝です」
 月彦は手を伸ばして目覚まし時計を手にとり、雪乃に見せる。
「学校……」
 目覚まし時計に表示された時刻を見るなり、雪乃がぽつりと呟く。
「……一緒に休んじゃおっか」
「そ、それはヤバいですって! それをやったら人として終わってしまう気がします! 俺はともかく先生は休んじゃダメですって!」
 ううぅーーーーと雪乃が子供のように唸り、体をもじもじさせる。
(……どんだけシたいんですか)
 一晩中雪乃の相手をしてきた月彦は呆れる思いだった。普段あまり構う事が出来ず、週1か十日に1回程度しか時間をとれないからある程度はしょうがないとはいえ、さすがに“溜めすぎ”ではないかと。
「うぅぅ……なんで、こうなっちゃうの……? 確か、前に学校でシたときも……」
 紺崎くんと一緒に居る時の時間の流れはおかしいと、雪乃はどうにもならない愚痴を零し続ける。
「じゃあ、最後に一回だけ……一回だけシよ?」
「な、何言ってるんですか! もう七時回ってるんですよ!? 急いでシャワー浴びて帰って準備しないと……」
「お願い、もう一回だけ……ね? 紺崎くんちまで車で送ってあげるから」
「ちょ……先生、ダメですって……う、ぁ……」
 もう一回だけ、もう一回だけと。呪文のように呟く雪乃に強引に押し倒され、剛直が雪乃の中へと飲み込まれていく。
「お願い、紺崎くん……このままじゃ、学校に行っても絶対授業に集中出来ないから……」
「お願いも何も……」
 勝手に挿入して、腰まで動かし初めておいて、お願いもなにもないものだと、月彦は思う。
(……ほ、本当にもう時間がないのに……)
 雪乃の方が年上なはずなのに。社会的立場もあって、守らねばならないものも多いはずなのに。教師なら、いち生徒なんかよりも常識も良識もあってしかるべきなのに。
「ね、紺崎くん……お願い……最後に“アレ”……シて? ほら……今日、お風呂場でしたアレ……ね? お願いぃ……」
 発情した獣のようにハァハァと息を荒げながら、自ら男の上に跨がり、時間が無いにもかかわらず自分の好きなプレイをねだる雪乃が、めんどくささが一週して逆に可愛いとすら思えてしまう。
「…………分かりました。……どうなっても知りませんからね?」

 そして雪乃はギリギリ間に合い、月彦は遅刻した。


 週末の放課後、月彦は重い足を引きずるようにしながら、帰り道からだいぶ外れたコンビニへと向かっていた。
 ここ数日、様々な事柄が頭を巡っては月彦は激しく自己嫌悪に駆られ、時折無意味な奇声を上げては頭を抱えて座り込むという事が続いていた。原因は言わずもがな、矢紗美から課せられたミッションを達成出来なかった事だ。
(……俺は頑張った……頑張ったんだ……)
 事実、あと一歩の所までいけたはずだ。ただ、詰めを誤っただけ――99パーセント成功したも同然なのだ。
 だがしかし、その後の事を考えると、これまた月彦は死にたくなるのだった。あの時点ではまだ望みはあったはずなのだ。――雪乃の誘惑さえはねのけていたら。
(……そうなんだよな……先生が何をしかけてこようが、冷たく突っぱねてさっさと帰っちまえばよかったんだ)
 何も、馬鹿正直にマグロになっている必然性などなかった。つまり、雪乃の元から逃げなかった時点で、内々のうちに関係の続行を黙認していたようなものだ。
(……確かに、あのおっぱいは捨てがたい)
 目の前に持ってこられると、鉄の意志すら揺らぐその破壊力。それはもう卑怯の一言だ。
(……一応、どうなっても恨んだり怒ったりしないって、先生の言質はとったけど……)
 “あの場”はそれでなんとかなるかもしれないと思った。しかし、雪乃の部屋から帰って冷静になればなるほど、なんとかなるわけがないと月彦は震えた。あんな録音データを聞かされて頭に血が上らない女性など居るはずがないではないか。
(……もはや残る可能性は、矢紗美さんが冗談で済ませてくれることだけか)
 あくまで発破をかけるために準備しただけであり、実際には使わない。そう、あれは抑止力としてのみ存在を許される核兵器のようなものではなかろうか。使ってしまえば、もはや最終戦争は免れない。録音を聞き、頭に血が上った雪乃は文字通り何をするか月彦には全く読めなかった。最悪、その場で矢紗美を刺殺してしまうのではなかろうか。
(……さすがに矢紗美さんもそんなことは望んでない……と思いたい)
 が、矢紗美の雪乃に対する拘り様、煽り様を見ていると、やりかねないと思えるのだった。
「はぁぁぁぁぁ…………」
 ため息が出る。足が重いのは、矢紗美との待ち合わせ場所に向かっているからだ。今日会う事は、あの夜――学校に忍び込んで辛くも逃げおおせた後、別れ際に決めた事であり、月彦はまだ事の成否を矢紗美に報告していない。
(矢紗美さん……怒るかな……それとも呆れるのかな)
 一度ならず二度も失敗したとあっては、呆れられても無理は無い。例え本当に矢紗美があのデータを雪乃に聞かせたとしても、自分には矢紗美を責める権利はない。何故なら、失敗し約束を守れなかったのは自分なのだから。
(……それでも、ダメ元で頼んでみよう)
 代わりに何かのプレイを要求されたら、甘んじて受けよう。あのデータを葬ってもらえるなら、それだけのことをする価値は十分ある。

 待ち合わせ場所のコンビニの駐車場に、矢紗美はやや遅れて現れた。月彦はすかさず助手席に乗り込み、簡単な挨拶混じりのやりとりのあと、矢紗美が車を出発させる。
(……あれ?)
 と思ったのは、矢紗美の様子がおかしかったからだ。元気が無いと言うべきか、口数が妙に少ないのだ。
(……もしかして)
 矢紗美の事だ。独自に雪乃に接触して、すでに事の成否を確かめているのかもしれない。別れる事に失敗したと知っているからこそ、テンションが低いのではないか。
「…………ちょっと、ファミレスにでも入ろうか。紺崎くんもお腹空いてるでしょ?」
「ええ……俺は構いませんけど」
 やはり、声に張りが無い。これは十中八九バレてるなと、月彦は覚悟した。

 ファミレスに入り、矢紗美はホットコーヒーを。月彦はオレンジジュースを注文した。実のところ、雪乃と別れられなかった事が気がかりすぎて食欲など微塵も無かった。
「………………。」
「………………。」
 ホットコーヒーが運ばれてきても、矢紗美は黙ったまま口をつけようとしなかった。月彦もまたその沈黙が怖くて、ストローに口をつけるのを憚っていた。
(…………どうしよう、やっぱり先に謝るべきだろうか)
 否。べきなのだろうか――ではない。謝るべきなのだ。例え矢紗美が結果を知っているにせよ、自分の口から報告するのが筋ではないか。
 それは分かっている。分かっているのだが――。
(……何か、引っかかるんだよな)
 いつもと違う矢紗美の様子が、月彦に二の足を踏ませるのだった。
(…………待てよ、まさか――)
 すでに雪乃にデータを渡したのではないか――その可能性を考えて、月彦は青ざめた。独自に雪乃に問い合わせ、またしても失敗した事をしった矢紗美はカッとなって、衝動的に録音データを雪乃に手渡したのではないか。矢紗美が待ち合わせ場所に遅れたのは、先に雪乃に会っていた為であり、そして渡した後でさすがにアレは無かったと後悔しているのでは。
「……えーと」
 自らの考え出した想像に心底震えていた月彦の耳に、不意に矢紗美の声が届いた。
「……どう言ったらいいのかしら」
「…………?」
「紺崎クン……プロ野球とか、見たりする?」
「プロ野球……ですか? 全く見ませんけど……」
 何故突然野球の話をふられたのか。予期せぬ話題に、月彦は軽い混乱に陥った。
「んとね……私も全然詳しくはないんだけど……一応あの人達って野球やってお金もらってるわけじゃない?」
「ええ、プロっていうくらいですから……それが仕事ですし」
「でもさ、プロでも試合中に失敗したりするじゃない?」
「失敗……ていうか、エラーはしますね」
「そう、人間である以上、失敗はどうしてもしちゃうのよね。……つまり、失敗することこそ、人間らしさとも言えるんじゃないかしら」
 これまたずいぶんな極論だと、月彦は思う。
(……まてよ、なんだ……この既視感は)
 以前にも、コレに似たような話をした事が無かったか。しかもそんなに昔でもない。ごくごく最近に。
「つまりね……私が言いたいのは…………ほら! この間紺崎クンも言ってたじゃない? 雪乃と別れるつもりだけど、不測の事態が起きるかもしれないって…………」
「言いましたけど……」
「…………実際に起きることがあるんだなぁ、って。身をもって痛感してるところなのよね……本当に怖いわ、不測の事態って」
「……すみません、矢紗美さん。話が全く見えないんですけど」
 どうやら、矢紗美にとって何か不測の事態が起きてしまったという事はわかる。が、さすがにそれだけでは抽象的過ぎて何もわからない。
「……………………この間、学校に忍び込んで、危うくばれそうになっちゃったじゃない?」
「ええ……あのときはヤバかったですね」
「あのとき……私もさすがに慌ててたみたいでさ。……教室に指し棒忘れちゃってたし」
「でも、それは回収したんじゃないんですか?」
「指し棒は、ね」
 引っかかる言い方だった。
「指し棒は、って……まさか……他にも……」
 これ以上ないというくらいに、気まずそうな微笑を浮かべて、矢紗美が頷く。
「お、怒らないで聞いてね?………………教室を出るときには、ちゃんとポケットに入れたはずなんだけど……帰って見てみたら……レコーダーがどこにも無かったの……どこかに落としちゃったみたい……」
「はぁーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!?」


 

 

 

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