扉の前で、大きくため息を一つ。
 意を決して、インターホンへと手を伸ばし、ボタンを押し込む。
「月彦さま!」
 扉越しにその音が聞こえるかどうかの所で、早速がちゃりとドアが開き、満面の笑顔を浮かべた菖蒲に出迎えられて、月彦は咄嗟に苦笑いを返した。
「や、やぁ……菖蒲さん」
「どうぞ、お上がりになってくださいまし」
 さあ入れさあ入れと、半ば腕を引かれるような強引さで、月彦は部屋の中へと引っ張り込まれる。
「すぐにお食事の用意を致しますね。少々お時間頂けますか?」
「あぁ、家で母さんが夕食作ってくれてるから、ごはんはいいや」
「あら、左様でございますか……。ではお風呂の準備を」
「ふ、風呂も家で入るから大丈夫! お気遣い無く!」
 あら、と菖蒲が露骨に両耳をパフンと伏せ、不満そうな声を漏らす。
 コホン、と月彦は軽く咳をする。
「なんかテレビの調子が悪いって聞いたからさ。俺に直せるかどうかわからないけど、とりあえず様子見に来ただけだから、すぐ帰るよ」
 そう。母の言いつけが無ければ――どうやら、母葛葉と菖蒲の間には奇妙な交友があるらしい――このような虎穴になど近寄りたくもなかった。どうやら、先日自分が留守にした際菖蒲に留守番をしてもらった葛葉としては、極力便宜を図りたいらしく、テレビの具合を見てやって欲しいと言われては月彦にはもはや選択肢というものは存在しなかった。
「てなわけだからさ、早速テレビを見せてもらおうかな」
「……はい。こちらでございます」
 さながら、缶詰を開ける音で飛んでやってきた飼い猫が、ただの果物の缶詰だと知った時のような、露骨にテンションの落ちた菖蒲に連れられて居間へと通される。本来の菖蒲の飼い主である白耀の和風趣味とは打って変わった洋風趣味の部屋の一画にでんと陣取るワイド液晶テレビは、外見上は特に変わった点は見受けられなかった。
「見た目はどうもなってないみたいだけど、どこら辺が調子悪いの?」
「それが……こちらの“りもこん”を操作しても何も映らないのでございます」
「ふむ……本当だ。何でだろう……主電源……も入ってないな。…………あれ、コンセントが抜けてる」
 月彦はテレビから出ているコードをコンセントへと突き刺し、再度リモコンを操作する。今度は何の問題も無くテレビは映り、念のためチャンネルを切り替えたり音量の上げ下げなども支障なく行えた。
「……なんだ、本当にただコンセントが抜けてただけか」
 恐らくは、掃除機でもかけていてコンセントに引っかけて抜けてしまったのではないだろうか。このくらいの事は自分で気がついて欲しい――という思いを、菖蒲は機械に不慣れなのだから仕方がないと、月彦は好意的に解釈することにした。
「えーと、菖蒲さん。これはね、調子が悪かったんじゃな……く……て……」
 振り返り、状況を説明しようとした月彦は、いそいそと“お茶”の用意をしている菖蒲の姿に半ば固まってしまった。
「あ、菖蒲さん……一体何をしてるの?」
「…………?」
「いや、“?”じゃなくて、俺はテレビの具合を見たらすぐ帰るって言ったはずだけど……まぁいいか。とりあえずほら、テレビはちゃんと映るようになったからさ」
 不思議そうに首をかしげる菖蒲に、月彦は言いたい事をぐっと飲み込んで“不調”の原因を伝える。
「テレビもそうだけど、大抵の電化製品はこのコードをこういう穴に刺しておかないと動かないんだ。もしまたテレビが映らないようなことがあったら、まずはコードがちゃんと刺さってるかどうかを確かめるようにしてね」
「そういうカラクリだったのですか。理解致しました」
 菖蒲は頷き、そして茶菓子まで用意してぺたりとテーブルの前に鎮座する。やむなく月彦も対面席へと座り、渋々ティーカップを手にする。
(…………まさか、変な薬なんて入ってないよな?)
 菖蒲の育ての親が親なだけに、つい警戒心を働かせてしまう。が、もしそれならそれで、今後菖蒲が出す一切の飲食物を断るいいきっかけにもなるから、むしろどんと来いくらいの気持ちで月彦は躊躇わずに唇をつけた。
「……時に、月彦さま」
「な、なに? 菖蒲さん」
「その……例の件なのですが……進展はいかがですか?」
「例の件というと……」
「鈴の……」
 うっ、と。月彦は思わず胸を押さえた。
「…………勘違いなさらないでくださいまし。決して、決して催促をしているわけではないのですが……わたくしとしましても、鈴が無い状態は落ち着かないのでございます」
「わ、解ってる……解ってるんだけど……さ、最近ちょっと忙しかったからさ……なかなか……」
「…………妖狸共の件でございますか」
 ぽつりと。うっかり口に含んでしまった腐った肉でもはき出すように、菖蒲が憎々しげに呟く。
「あれ、菖蒲さんも知ってるの?」
「白耀さまからお聞きしました。…………全てが終わった後に」
 ジトリと、責めるような上目遣いで菖蒲が睨んでくる。
「月彦さま、狸共を征伐する前に、何故わたくしに助勢を求めて下さらなかったのでございますか?」
「ご、ごめん! ほら、あいつらなんか妙な術で結界張ってたらしくてさ。きっと菖蒲さんもその影響下にあるだろうから、無理なんじゃないかなって……」
「例えいかなる術の影響下にあったとしても、月彦さまがやれ、と命じられるならばわたくしは何者が相手でもこの爪を振るう所存でございます。…………ましてや、あの忌々しいタヌキ共が相手となれば、爪の切れ味もいっそう増すというものです」
「菖蒲さんは妖狸が嫌いなの?」
「無論です。……いえ、妖猫の里で育った者で妖狸に好意を持っている者など皆無でございます」
「そ、そんなに仲が悪いんだ」
 ただならぬ迫力に押されて、月彦はそれ以上の言葉を紡げなかった。確かにこれだけ憎んでいるのであれば、鶴交の陣とやらの影響下にあっても声をかけさえすれば手伝いはしてくれたかもしれないと思う。
(でもどうだろう。……菖蒲さんじゃまみさんには太刀打ち出来なかったんじゃないかな)
 いわゆる“格が違う”というやつではないかと月彦は思う。まみから感じるプレッシャーはそれこそ、いつぞや春菜に感じたそれに近かった。何より、あの白耀ですら子供扱いされたのだ。まぐれとはいえ、自分のような普通の人間でもかわすことが出来た菖蒲の爪と体術では正直相手が悪いと、月彦は思う。
「そうだ、菖蒲さん。ちょっと話は変わるんだけど」
「はい」
「ほら、菖蒲さんや春菜さんが時々使うアレ。なんていえばいいのか……ひゅんって……正確にはそういう音も聞こえないくらい、無音のまま一瞬で人の背後とったりするアレってさ、どうやってるの?」
「どう、と申されてましても……」
「ごめん、訊き方が悪かった。あれって何かの妖術なの?」
「妖術であるか、と言われれば……大別すればそうである、といえます。しかし正確には体術の一種ですので、何とも区分けが難しゅうございます」
「なんかややこしいな……じゃあ質問を変えるよ。アレって妖狐にも使えるの?」
「不可能ではないとは思いますが、わざわざ習得する者は居ないと思われます。妖狐にはお家芸の縮地がございますから」
「縮地か……真狐が使ってるっていうやつか」
「わたくし共が使っているのは“抜き足”と呼ばれるものですが、こちらはどちらかといえば無音での移動に重点を置いた高速移動術なのでございます。反面、妖狐の使う縮地は単純に長距離を高速移動するための移動術。どちらも一長一短ですが、両者の性質上妖狐が抜き足を、妖猫が縮地を使うという事はまずございません」
「……その抜き足っていうのも、やっぱり訓練しないと身に付かないものなの?」
「左様でございますね。わたくしも桜舜院さまの元で三十年ほどは修行致しました」
「三十年……」
「まず最初は、ただの畳の上や板の間の上で音を立てずに歩いたり走ったりするのでございます。これはさほど難しくはないのですが、徐々に土の上、砂利の上、枯れ葉の上と音を立てずに移動するのが難しい地形に慣れていくのでございます」
 懐かしいものでも思い出すように、菖蒲は遠い目をしながら語る。
「やがて水を撒いた土の上、ぬかるんだ土の上を経て、巨大な水たまりのように一面水浸しとなった場所での修行は大変苦労致しました」
「そりゃあ……そうだろうね。そんな場所で音を立てずに歩いたり走ったりなんて」
「そこからは徐々に水量を増して、最終的に臑まで水に浸かった状態で音を立てず、水面を波立たせずに走る事が出来れば一人前の使い手として認められるのです。勿論それ以上を目指す者も居ますが、ごく僅かでございますね」
「臑までって……」
「……わたくしの知る限り、最も達者な者は腰まで水に浸かった状態でも抜き足を使う事ができます。…………月彦さまもよくご存じのお方です」
「俺が知ってるって……まさか、春菜さん!?」
 こくりと、菖蒲はどこか誇らしげに頷く。
(…………言われてみれば……)
 いつぞや春菜の屋敷に泊まった際、そして露天風呂に浸かっていた時。湯に浸かったまま一瞬のうちに背後に回られた事があった。
 ゾクリと。今頃になって寒気を感じて、月彦はぶるりと身震いをする。
「腰までって……一体そんな状態でどうすりゃ動けるんだ……」
「さあ……もはやわたくしのような者には理解しようのない次元の話でございます。抜き足の上手だけが妖猫の位を決めるわけではないのですが、桜舜院さまが多くの者に恐れられている理由の一つでもあります」
「あぁ……うん、よくわかるよ。俺も今改めて怖いって思った」
 我ながら、よくもそんな人物と数日もの間寝食を共にしたものだと――そしてたった一つしかない命を失わずにすんだものだと――月彦は感心する思いだった。
「それはそうと、何故突然そのような事をお聞きになられたのですか?」
「……うん、ちょっとね」
 言葉を濁しながら、月彦は真央の言葉を思い出していた。


 

 

 

 

 

『キツネツキ』

第四十五話

 

 

 

 

 




「父さま、私強くなりたい!」
 夜。
 自室で机に向かい、宿題と予習などをやっていた月彦は、真央の突然の言葉に度肝を抜かれた。
(……聞き間違いかな?)
 真央のほうへと振り返りながら、月彦はそんな事を思う。湯上がりパジャマ姿、ほんのりピンク色に上気した愛娘の姿はいつも通りで、ただそのまなざしだけが真剣だった。
「……今、強くなりたいって言ったのか?」
「うん!」
 真央は大きく頷いてみせる。
 なるほど、どうやら聞き違いではなかったようだと、月彦も小さく頷いた。
(こないだのアレがきっかけか)
 と、すぐに解った。まみと、その娘珠裡によるいざこざ。恐らく真央は己の無力を嫌と言うほどに悟ったのだろう。
 それは理解できる。
「あー、真央? こういっちゃ何だが…………そんなに気にしなくてもいいんじゃないか?」
 首をかしげ、真央が不思議そうな顔をする。
「いやほら、結局こうして無事だったわけだし。また何か仕掛けて来てもどうせアイツがなんとかするだろう」
 そもそも、厄介事の種は決まってあの女なのだ。だからあの女にツケを回せばいいと、月彦は単純に考えていた。
「でもでも、もし母さまが側に居なかったらどうするの?」
「その時はその時だろう。第一、強くなりたいって……一体どうするつもりなんだ?」
 きょとん、と真央が目を丸くする。さながら「それを父さまに教えて欲しいのに」と言い足そうな目だった。
「…………体でも鍛えてみるか?」
 とりあえず口には出してみたものの、それはナンセンスだという気しかしない。そもそもまみや真狐の強さというのは、そういった肉体的なものではないからだ。
 真央も今ひとつピンと来ないのか、首をひねっていた。
「てゆーか、そういう事なら俺よりも真狐に聞いた方が早いんじゃないのか?」
「…………母さまに?」
「どう考えてもその方が早いだろ。もう普通に連絡は取れるんだろ?」
「うん……だけど……」
 どうやら気乗りしないらしく、真央はもごもごと口を動かす。
「……前にもね、母さまにお願いしたことあるの。もっといろんな術を教えてって。でも、危ないからって教えてくれなかったの」
「それはまだ真央が幼かったからじゃないのか?」
 とはいっても、見た目こそほぼ同年代であるが現在の真央も実年齢五才である事を考えると、幼かったから――というのもあまり理由にはならないように思える。
「……とにかく、そういう事に関しては俺は全く役に立てないと思うぞ。真央がどうしても……妖術……でいいのか? そういうのを身につけたいっていうのなら、真狐に相談するしかないだろう」
「…………うん、わかった」
 真央はどう見ても納得してなさそうな、がっくりと肩を落としながら勉強机に座ると、引き出しからいつもの用紙を広げる。
 何となく居たたまれなくなって、月彦は部屋を後にした。



「……月彦さま?」
「ああ、ごめん。菖蒲さん……ちょっとぼーっとしてて」
 記憶の中にある真央とのやりとり。そして結局真狐の返答は否――つまり、協力する気はないというものだった。
 それ以来微妙に元気がない真央の役に立ちたくて、つい菖蒲にそんな話題を振ってしまったわけなのだが……。
「あの……ひょっとして、何かお悩みなのですか?」
 うん、と月彦は大きく頷き返したかった。
(……つっても、悩みの度合いとしては真央の事よりも、菖蒲さんと白耀の事の方がダントツで大きいんだけど)
 さすがに本人を前にしては口に出来ない。真央の事も気がかりではあるのだが、菖蒲の件に関してはそれこそ考えるだけで胃の中にずっしりと重い岩の塊を放り込まれたような気分にさせられる。
「良かったら話して頂けませんか? 或いは、お力になれるかもしれません」
「……いや、ごめん。俺の方から話をふっておいてなんだけど、やっぱり止めとくよ…………親子の問題だからさ」
「真央さまの事でお悩みなのですか? でしたら、尚更わたくしに話して頂かないと困ります!」
 いや、だから何で?――そんな言葉をぐっと飲み込み、月彦は愛想笑いをしながら菖蒲が煎れてくれた珈琲を口にする。
「あっ、この珈琲美味しいね。なんて銘柄――」
「月彦さま?」
 月彦の発言は、菖蒲の言葉に遮られた。
「従者とは、主人の助けとなる為に存在しているのでございます。どうか月彦さまの重荷を菖蒲にも背負わせて下さいまし」
「わ、わかったよ……そこまで言うなら……」
 テーブルの上に身を乗り出すようにして詰め寄られ、月彦は根負けする形で渋々先だっての経緯を菖蒲に話した。
「…………強くなりたい、と……真央さまが……成る程、それが月彦さまの悩みだったのでございますね」
「いや、それはもういいんだ。なんとかなりそうな気がしなくもないところだから」
「月彦さま、水くさいことを仰らないでくださいまし!」
 ずい、と。またしてもテーブルの上に身を乗り出す形で菖蒲に詰め寄られ、月彦は言葉を無理矢理遮られる。
「月彦さまがやれ、と仰るのであれば、たとえどんな駄狐であろうとわたくしが一人前の淑女に仕上げてごらんにいれます!」
「いや、誰もやれなんて言ってないし……第一、真央は駄狐なんかじゃないぞ!」
「これは……失礼を申し上げました。しかし見たところ真央さまはあまり才気の方は……いえ、悪気があって申し上げているのではなく、客観的に見てという話でございますが」
 なにやらごにょごにょと、良いにくそうに言う菖蒲に、月彦はむしろ真央に対して申し訳なく思った。何故なら、真央が才能とよばれるものを些かも持ち合わせていないのだとしたら、それは間違いなく父親である自分のせいだからだ。
(すまん、真央……俺がもっと立派なやつだったら……せめて姉ちゃんの半分くらいマシな人間だったら……)
 詫びても仕方がない事ではあるが、それでも月彦は心中で詫びずにはいられなかった。
「とにかく、その件はわたくしに任せては頂けませんか?」
「……任せてって……何かいい案でもあるの?」
「少なくとも、その何とかという狸娘を圧倒出来る程度には、真央さまを鍛える自信はございます」
「…………あぁ、うん……わかったよ。じゃあ、一応真央に訊いてみて、真央がやりたいって言ったらお願いするよ」
「はい!」
 尤も、月彦としては真央に尋ねてみる気は毛頭無かった。これ以上菖蒲と関わり合うきっかけをただの一つでも増やしたくはなかったからだ。
「…………さてと、随分長居しちゃったし……そろそろ帰ろうかな」
 帰るにはこのタイミングしかないとばかりに、月彦はさりげなく腰を上げ、玄関へと向かう。その後ろを、見送るつもりなのか菖蒲がついてくる。
「月彦さま、もうお帰りになられるのですか?」
「あぁ、うん……ほら、家で母さんが夕食作って待ってるからさ」
「左様でございますか……あっ、でしたらこれを」
 菖蒲がぽむと手を叩き、なにやら台所の方へと赴くや、紙袋を手に戻ってくる。
「先日桜舜院さまに頂いた桃でございます。月彦さまにも是非と仰っておられましたので」
「桃……?」
 月彦は怪訝な声を上げながら紙袋を受け取り、中に入っていた桃の一つを掴みあげる。これまたまるまるとした、見事な桃だった。
「……桃…………」
 ふと思い出したのは、先だって後頭部を直撃した桃の一件だった。
(まさか菖蒲さんが?)
 一瞬考えてみて、月彦はその可能性を否定した。この桃が春菜から贈られたものだとすれば、菖蒲がそのような事に使う筈が無いからだ。
(だとすればまさか春菜さん本人が……?)
 いや、それもらしくないと月彦は思う。“あの人”ならそんな間怠っこしい真似をせず、直接声をかけてくるのではないか。
(いやまてよ、桃……桃……何か忘れてるような)
 はたと、月彦は不意に足下が消え失せたような、そんなヒヤリとした不安を感じた。桃に関する事で、何か重大な事を忘れてしまっているのではないか――。
(桃……桃…………うっ……!)
 微かに記憶をよぎったのは、いけ好かない女の笑い声と、途方もない徒労感、そして屈辱。目眩すら覚えて、月彦はふらりとその場に片膝をついた。
「月彦さま!?」
「あぁ、ごめん、菖蒲さん。ちょっと立ち眩みしただけだから。……桃ありがとう、母さんや真央と一緒に夕食の後にでもごちそうになるよ」
「お顔の色が優れませんが、本当に大丈夫なのでございますか? 少しお休みになられたほうが……」
「だ、大丈夫だから! じゃあ、またね、菖蒲さん」
「はい……あ、月彦さま!」
 靴を履き、ドアノブに手をかけたところで、再度菖蒲に呼び止められる。
「真央さまの件はわたくしが何とでも致しますから……その、鈴の件も、出来るだけ早くお願い申し上げます」
「……大丈夫、解ってるから」
 目眩に加えてきりきりとした胃の痛みまで感じて、月彦は愛想笑いをしながら手を振って、菖蒲の部屋を後にした。



 何となくノリと勢いで菖蒲に相談はしてしまったものの、やはり真央は今のままの方が良いのではないかと、月彦自身思い始めていた。
 真央に才能がないから――ではない。中途半端な強さはかえって危険が増すのではないかと思ったからだった。
 仮に、真央に白耀なみの――せめてその半分でも戦う力があったらどうだっただろうか。先だっての件も、まみにその気がなかったとはいえ、真央が全く無力ではなかったらひょっとしたら腕の一本くらいは折られていたかもしれない。まみから見て無害だからこそかすり傷一つ負う事は無かったのではないか。
(……実際、白耀は結構ズタボロにやられてたしな)
 強くなりたいという真央の気持ちも解る。が、真央は真央のままでいいという真狐の教育方針の方が正しく思える。
(それと……鈴……そして桃か)
 桃の件は、季節はずれに成った実が風に飛ばされてたまたま後頭部を直撃しただけだと――奇跡以上の確率だろうが――強引に思えなくもない。というより、桃について思考を巡らせているとあの女の嫌な笑い声が蘇ってきて、どうにも気分がむしゃくしゃしてくるのだった。
(まあそっちは気にしない事にしたとしても、“鈴”の方は無視はできないよなぁ……)
 曲がりなりにも壊してしまった以上――実際に潰したのは菖蒲であったとしても、唆したのは自分であるから――弁償するのは当然の義務なのだが、そもそもどういう鈴ならば良いのだろうか。
(さすがにその辺のデパートで買った鈴……とかじゃマズイよなぁ)
 かといって、白耀に前の鈴はどこで手に入れたものなのか等、尋ねるわけにもいかない。
(てか、白耀のやつはどう思ってるんだ? いくらなんでも菖蒲さんの尻尾から鈴が無くなってる事には気づいてる筈だと思うんだが)
 気にしていないのか、気にしているけど気づかないフリをしているだけなのか。
(…………白耀の所にもそのうち顔を出しに行かないとな)
 先日助けに来てくれた礼も、まだろくに出来ていない。きちんと土産の一つも持って礼を言いに行くのが筋というものだろう。

 そんな事をうだうだと考えながら授業を受け続け、気がつけば放課後になっていた。さて、今日は久々に部室の方に顔を出してみようかなと。教室を出るなりラビの姿を探していた月彦は、違う人物の人影を見て俄に足を止めた。
「あっ」
 と、どうやら向こうも月彦を探していたらしく、目が合うなり小走りに駆け寄ってきた。
「やっ、由梨ちゃん。どうしたの?」
「先輩……あのっ……今日、このあと……何か用事とかありますか?」
 はて、と月彦は返事に困ってしまった。部室に行こうとは思っていたが、それは用事というレベルでもない。
「んー……」
 月彦はぐるりと周囲を見回し、金色の触覚がどこにも見えていない事を確認してから、由梨子の方に向き直った。
「いや、特に何もないけど」
 と言いつつ、さりげなく由梨子の足下を確認してみたりする。残念ながら、と言うべきか。“シたいサイン”の黒タイツではなく、普通のニーソックスだった。
「あの、だったら……ちょっと……話したい事が……あるんですけど」
「話したいこと……それって……」
 そういえば以前「今はまだ言えない」というような事を由梨子が言っていたのを、月彦は思い出した。
「そっか、解った。じゃあどうしようか、とりあえず立ち話も何だから由梨ちゃんの家に――」
「あっ……う、うちは……今はダメなんです……だから、どこか喫茶店とかで……」
「ああ、親御さんが居るのかな? わかった、じゃあ良いところを知ってるからそこに行こう」
「はい」
 由梨子を伴って、月彦は昇降口へと移動する。同じクラスにもかかわらず、由梨子が真央と一緒ではなかったのは、自分一人に聞いて欲しいということなのだろうと、月彦は空気を読んだ。



 

 由梨子を連れて向かった先は、いつぞや白耀に紹介された珈琲の美味い喫茶店だった。奥の二人がけのテーブル席に陣取り、月彦はカフェラテを、由梨子はココアを注文し、それらが運ばれてくるのをきっかけに、ぽつりぽつりと由梨子は“話”を始めた。
「あの……驚かないで下さいね?」
 最初に由梨子にそう断られていなければ、途中で二,三度カフェラテを吹き出してしまっていたかもしれなかった。
 まず、由梨子の両親が離婚してしまったという事。自分はそのどちらにも引き取られていないという事。あの家にはもう住んでいないということ――そして、現在は白耀の世話になっているという事。そのどれもが耳を疑うような話だった。
「ちょ、ちょっと待って!」
 堪りかねるように月彦は口を挟み、由梨子の話を中断させた。
「由梨ちゃんが言うんだから、嘘でも冗談でもないっていうのはもちろん解るんだけど……お、親御さんがそういう風になっちゃったのはしょうがないと思うけど、白耀の屋敷に住んでるって……」
 一体全体何がどうなってそうなったのか、月彦には理解が出来なかった。由梨子と白耀が特別親しくしていたというのであれば話はわかる。が、月彦の知る限り由梨子と白耀は面識こそあるものの、決してそれ以上の関係ではない筈だった。
「……やっぱり、驚きます、よね。……本当に偶然だったんです。両親がそんな事になっちゃって、一人で散歩とかしてた時に……たまたま白耀さんと会って、なんとなく愚痴っちゃったんです。そしたら、そういう事になってしまって……」
「いやでも……」
 いくらなんでもそんな事はありうるだろうか?――そうは思うも、真田白耀という男の性格と人の良さについては、つい先日月彦自身も目の当たりにした手前、或いはあり得るかもしれないと思わされてしまう。
「父か、母か……どちらかが一緒に来てほしいって言ってくれてたら、白耀さんの申し出は受けなかったと思います。でも、父も母も口にこそ出さないまでも、こっちには来るなって……そういう態度でしたから………………そんな時に、白耀さんがうちに来ませんか、って……だから、私……」
「…………。」
 由梨子の気持ちは――想像の上でだが――月彦にも理解できた。両親が離婚することになり、そのどちらからも疎まれる中、自分の所に来て欲しいという者が現れたら、例え赤の他人であってもなびいてしまうのは仕方がないかもしれないと。
「父と、母。どちらについていっても、遠い場所に行かなければならないというのも、白耀さんの申し出を受けた理由の一つでした。先輩や真央さん……他の友達と離れずに、今まで通りの生活が出来るっていうのは、すごく魅力的に思えたんです」
「そ、っか……。でもさ、いくら白耀が自分が引き取るって言っても、よく由梨ちゃんの親御さん達はそのことを承諾してくれたね」
「その辺りの説得については、白耀さんが巧くやってくれたみたいです。“古くからの知人という事にして納得してもらいました”って、そんな事を言ってました」
「……化かした、って事かな」
 曲がりなりにも三本狐。自分を古くからの知人だと思いこませる事くらいは容易いことなのかもしれない。
「なるほど、由梨ちゃんの話はわかったよ。……最近いろいろ驚く事が多かったけど、その中でも一番驚かされたかもしれない。…………できれば、もうちょっと早く教えて欲しかったな」
「すみません……私も、なかなか言い出し辛くて」
「いや、ごめん。責めてるわけじゃないんだ。……白耀はすごくいい奴だし、頼った相手は間違ってないと思うし……最初に俺に相談されてても、何も出来なかったと思うし」
 或いは、これは軽い嫉妬なのかもしれないと、月彦は自分の内側に沸いたモヤモヤとしたものの認識を改めた。
 自分のあずかり知らない所で、好意を寄せている後輩が他の男と同居を始めていた――勿論由梨子と白耀の事であるから、その同居には一切のやましいものなど無いのは分かり切っているが、それでもやはり心中穏やかとはいかなかった。
「ぁ……や、やっぱり……ショック……ですよね。先に……先輩に相談するべきでした」
 そんなモヤモヤとしたものが、或いは顔ににじみ出てしまったのかもしれない。由梨子が肩を縮こまらせるのを見て、月彦は慌てて声を出した。
「やっ、だから違うって! いやそりゃ……少しだけショックなのはショックだったけどさ、でも白耀のおかげで由梨ちゃんが転校したりしなくて済んだんだろ? そっちの方が俺としては嬉しいよ」
「先輩……本当にすみませんでした」
 強がりだと、モロバレなのだろう。由梨子はますます身を縮め、小さく頭まで下げてくる。
(……参ったな、俺に由梨ちゃんを責める資格なんて無いのに)
 人目さえなければ――そして目の前に邪魔なテーブルさえ無ければ、由梨子の小さな体をそっと抱きしめてやりたい所だった。
(自分を責めすぎるクセは直した方がいいって言っても、やっぱり難しいんだろうなぁ……)
 体に染みついた習慣というのは、如何ともしがたいものであることを、月彦自身も理解している。
「あの……」
 体を縮こまらせたまま、由梨子が上目遣いに視線を向けてくる。
「今日、先輩にこの話を切り出したのは……その……先輩にお願いしたいことがあるからなんです」
 相手に対して不義理な真似をした上で、さらに頼み事をしなければならない――そんな由梨子の心苦しさが空気を通して伝わって来そうな程に、掠れた、苦しげな声だった。
「俺に頼み事? なになに、何でも言ってよ」
 そんな由梨子の苦しさを少しでも和らげてやりたくて、月彦はあえて軽い口調で答えた。
「大丈夫、何を頼まれたって、絶対に由梨ちゃんの事嫌いになったりなんかしないからさ。むしろ、由梨ちゃんがそんな風に大変だった時に何も出来なかった自分に腹が立ってるくらいだから、こっちから何かさせてくれってお願いしたい所だよ」
 ぁ、と由梨子が微かに声を漏らし、少しだけ安堵したように笑顔を零す。が、すぐにその表情は悲壮なものに変わり、キュッと唇を噛みしめる。
「ありがとうございます、先輩。…………あ、あの……誤解、しないでくださいね?」
「誤解?」
「先輩にお願いしたいのは……白耀さんの事なんです」
 ゆっくりと、由梨子はその内容を口にし始めた。


 喫茶店を後にし、由梨子を連れて電車に乗り、白耀の屋敷へと向かった。
「…………白耀のやつ、そんなに落ち込んでるの?」
「……はい」
 道中、由梨子とそんな話をしたのは、当然喫茶店での由梨子の頼み事を聞いてしまったからだった。
『白耀さんを励ましてあげてください』――由梨子の頼み事というのは、一言で言えばそういう事だった。

「……先週の日曜の夜、だったと思います。お店を開ける準備をしていたら、突然白耀さんが居なくなって……お店の他の人たちもてんやわんやになってしまって……結局、みんなでなんとか頑張って、お客さんの相手は問題なかったんですけど……」
「日曜の夜……」
 というと、まみと一戦交えたあの夜かと、月彦は密かに頷く。
「夜中になって戻ってきた白耀さんは凄く落ち込んでて……それからずっと元気がないみたいなんです。何があったのかも教えてくれなくて……お店の人たちも責めるに責められなくて、なんだかギクシャクしちゃってるんです」
「成る程……そういうことなら、俺が役に立てるかも知れない」
 
 と、簡単に引き受けたのはいいものの、白耀の屋敷に近づくに従ってそんなに簡単にいくものだろうかという疑念が沸々とわき上がってきたのだった。
(……落ち込んでる理由は多分……ていうか間違いなく、まみさんの一件だろうとは思うんだが……)
 白耀の事だ。颯爽と駆けつけたはいいものの、時間稼ぎしか出来なかった自分を悔いている可能性は充分にある。
(てか、そんな事を言ったら、俺なんかそれこそ何の役にも立たなかったんだが……)
 そう言って励ましてやるしかないなと、そんな事を思いながら、月彦は真田邸の門を叩こうとして――由梨子に止められた。
「あっ、先輩……私、鍵を貰ってますから……」
「……そっか。今は由梨ちゃんもここに住んでるんだもんな」
 由梨子が潜り戸の鍵を開け、中へと入る。月彦も後に続いた。
「さてと、白耀はどこにいるのかな」
「この時間なら多分……」
 由梨子がきょろきょろと周囲を見回し、とてとてと小走りに駆けていく。
(……時間帯ごとの白耀の居場所がわかるくらい、仲がいいのか)
 そのことに、少しだけ。ほんの少しだけジェラシーを感じつつ、月彦も由梨子の後に続く。
 やがて由梨子が足を止め、ちらりと月彦の方を振り返った。
(…………これまた、なんつーわかりやすい……)
 由梨子が足を止めた場所から五十メートルほど離れた庭木の根本で、漆黒のオーラを纏ったまま体育座りをしているのは紛れもない、真田白耀だった。
「先輩、あとはお願いします」
 小声で囁くように言って、由梨子は小走りにその場を走り去ってしまう。一人残された月彦は改めて白耀の方へと向き直った。
「……よ、よぉ、白耀!」
 ずーん、という擬音をつけるにふさわしいような重苦しい空気と共に虚空を見つめたままの白耀は、月彦の呼びかけには答えなかった。やむなく月彦はさらに歩み寄り、さらに大きめの声で白耀を呼んだ。
「おーい、は、く、よ、う! 大丈夫かー?」
「…………? …………ぁ…………つ、月彦さん!?」
 白耀はどろりと濁った目をたゆたわせ、月彦の方にゆっくり顔ごと向くや、しばし放心したように惚け、そして弾かれたように立ち上がった。
「ど、どうしてここに……」
「いやほら、久々にお前とじっくり話したいと思ってな。こんな所で何やってたんだ?」
「はは……お恥ずかしい所を……庭木の手入れをしていた筈だったのですが……疲れてそのまま居眠りしてしまっていたようです」
「そっか……とりあえず外は寒いから、中に入って話さないか?」
「そうですね。すぐに茶と火鉢を準備しますから、先に応接室の方に上がられて下さい」
「解った。……あ、あんまり気は使わなくていいからな?」


 いつもの応接室へと上がり、待つ事数分。なにやら申し訳なさそうな顔の白耀がやってきて、向かいのソファへと腰を下ろした。
「すみません、月彦さん。……その、僕がお茶を運ぶ筈だったんですが……」
「あぁ、いいっていいって。そんな気を遣わないでさ。……ていうか俺の方こそ土産もなにも持ってきてなくてすまん」
「いえそんな……月彦さんこそ気を遣われないでください。自分の家に帰ってくるようなつもりでくつろいで頂ければ、こちらとしても嬉しい限りです」
「…………いいのか? そんな事言ってるとどんどん甘えちまうぞ?」
 冗談めかして言うと、白耀もどうぞ、と笑みを漏らした。が、やはり由梨子の言った通り気分が沈んでいるのか、その笑顔にも力が無かった。
「……今日はさ、白耀に礼を言いにきたんだ」
「礼……ですか?」
 きょとんと、白耀はまるで心当たりがないとばかりに目を丸くする。
「いやほら……この間、妖狸と揉めた時に助けに来てくれただろ? 考えてみたら、まだちゃんと礼を言ってなかったからさ。…………ありがとう、本当に助かった」
「……いえ、そんな…………僕が勝手にやったことです。……それに結局、何の役にも立てませんでしたから」
 ずーんと、白耀がその身に無数の黒い縦線を入れながらがっくりと肩を落とす。
「そんなことないって! ていうかそれを言ったら、俺なんて真央と一緒に逃げ回ってただけなんだぞ! 白耀は充分過ぎるくらいかっこよかったし、頼もしかった! 少なくとも俺も真央もスゲー感謝してるって!」
「ははは……ありがとうございます」
 笑顔――だが、やはり力がない。
「そ……それともう一つ! 由梨ちゃんの件もありがとな。……俺、ついさっきまで全然知らなくてさ。てゆーか、白耀もそういう事になってるんなら一言くらい教えてくれよな!」
「…………月彦さんはご存じでなかったのですか?」
 これまた、白耀は目を丸くする。
「全然だって! 由梨ちゃんの両親が……その、あんなことになったのも、それで由梨ちゃんがお前に引き取られたっていうのもさっき聞いたばかりなんだよ」
「そう、だったのですか……。すみません、僕はてっきり月彦さんには事情は説明済みだとばかり……」
「ああいや、別に責めてるわけじゃなくって…………」
 ていうか、白耀も由梨子も反応がそっくりだなと、月彦は苦笑を漏らさざるを得ない。
(……困った似たもの同士だ)
 由梨子はともかく、白耀などは母親がアレなのだから、少しくらい底意地の悪さがあってもいいのにと。真央は母親に似ている部分が困りものなのだが、白耀は母親に似なかった部分が困りものなのが皮肉であると月彦は思う。
「ていうか、由梨ちゃんにそのことを聞いて俺も驚いたぞ。……そりゃあ、お前が良い奴ってのは知ってたけど、まさか他人の由梨ちゃんにそこまでしてやるなんてな」
 或いは、下心でもあったのではないか――相手が白耀でさえなかったら、そう邪推したくなる所だった。しかし、この男に限ってそういう事はありえないという事を、月彦は短い付き合いながらも熟知していた。
「そうですね……確かに、僕にとって由梨子さんは他人です。……ですが、お話を伺っているうちに、段々他人とは思えなくなってしまって……由梨子さんにしてみれば、失礼な事かもしれませんが」
「由梨ちゃんが……他人とは思えない……?」
「はい……。その、これは由梨子さんには内緒にしてくださると約束してもらえますか?」
「解った、由梨ちゃんには言わない。約束する」
 首肯して、白耀はそっと小声で話し始める。
「……由梨子さんも、ご両親のことで苦しんでおられました。……僕自身もその境遇には心当たりがありましたので……」
「あぁ……なるほどな」
 やはり、母親がアレというのは、白耀としてもそうとうなコンプレックスなのだろう。そういう白耀としては、両親の離婚の件で苦しんでいる由梨子が他人事とは思えなかったに違いない。
「……失礼します」
 不意に、そんな声がして、すっと障子戸が開けられる――やいなや、月彦はハッと息を呑んだ。
「遅くなって申し訳ありません。お茶をお持ち致しました」
「あぁ、ありがとう、由梨子さん」
 障子戸を開け、廊下に置いていた盆を手に立ち上がり、粛々といった足運びで応接室内へと入り、月彦の前と白耀の前へと湯飲みを置き、さらに中央に丁寧に茶菓子の漏られた皿を置いて、ぺこりと辞儀を一つ。
「失礼致しました。どうぞごゆっくり」
 そして再び障子戸の向こうへと由梨子の姿が消えるなり、月彦は漸く自分が呼吸すら忘れてその姿に見入ってしまっていた事に気がついた。
「は、ははははは白耀、今のは!」
「……月彦さん?」
「てゆーか何だあれは! ゆ、由梨ちゃんが……」
 そう、月彦が驚いたのは、部屋に入ってきた由梨子の姿だった。先ほどまでの制服姿ではない、割烹着――ともまた違う。小豆色の着物に白のフリルエプロンを身につけ、 髪留めでうなじを出したその姿は、月彦の知らない由梨子の姿だった。
「……そのことについては、なんと申し上げればいいのか」
 白耀は言葉につまるように苦笑いをする。
「僕としては、由梨子さんはあくまで大切なお客様の一人としてお迎えするつもりだったのですが……どうもそういう待遇は由梨子さんには心苦しいみたいで」
「……あぁ、うん……それは解る気がする」
 由梨子の性格からして、白耀に屋敷に住まわせてもらうことになり、そのうえさらに身の回りの事まで世話になる――というのは考えにくい。
「自分にも何かをさせて欲しい、家事や仕事の手伝いでもなんでもいいからやらせて欲しいと……由梨子さんにどうしてもとせがまれてしまいまして」
「それで……あの格好なのか?」
「最近ではお店の方も手伝ってもらったりしてますので、さすがに普段着のままではという事で……知り合いに特別に誂えてもらいました。…………由梨子さんも気に入って下さってるみたいで、学校から帰ってらした後はだいたいあのような姿で……」
「あ、あの格好で……料亭の方の手伝いを……?」
 ごくりと、月彦は思わず生唾を飲んでしまう。
 菖蒲のようなメイド服も決して悪くはないが、慎ましやかな着物エプロンというのが、万事控えめな由梨子に凶悪なまでに似合っているのだった。
「だ、大丈夫なのか? 変な客に体触られたり、舐めるような目で見られたりしてないんだろうな!?」
「月彦さん……そういうおかしな客はうちには来ませんから、安心なさって下さい。もし万が一いらっしゃったとしても、僕が丁重にお帰り願いますから」
「あ、あぁ……悪い……そうだよな……場末の飲み屋とかじゃないんだ……来るのはちゃんとした客だよな…………」
「月彦さんの心配は、僕にもよく解ります。……元々魅力的な女性だとは思っていましたが、それが二倍にも三倍にもなっているように思えます」
「同感だ…………ていうか似合いすぎだろ」
 仮に真央を同じ格好にさせても、隠しきれない胸元のふくらみなどにハァハァする事はあってもそこまで“可愛い”とは感じないのではないか。由梨子の身長、体格それら全てが絶妙な次元でマッチすることで成立する、いわば神の方程式のようなある種の奇跡ではないかとすら月彦には思える。
「最初は、僕の勝手で招いた由梨子さんをあのように働かせる事が大変心苦しかったのですが……とても気配りが利いていて、他のスタッフの評判も良く今では居なくては困る人材の一人になってしまってるんです。…………ここだけの話、由梨子さんを目当てにいらっしゃるお客様まで居るくらいでして」
「……ちょっと待て! 由梨ちゃんを目当てって!」
「い、いかがわしい意味ではなくて……その、やはり健気に働いている姿というのは人の目を引きつけるものなのではないでしょうか。お年寄りのお客様などもいらっしゃるのですが、みなさん由梨子さんの事を本当の孫のようにかわいがってらっしゃいますよ」
「…………そういう事か。すまん、どうも俺は邪推するクセがあるみたいでな……」
 勝手にネクタイ鉢巻きのベロベロに酔っぱらった中年連中にセクハラまがいの酌をさせられている由梨子の姿を想像してしまっていた月彦は、自らの不節操さを恥じ入る思いだった。
(てか、白耀の店はそういう店じゃねえってさっき言われたばかりだろうが! バカか俺は!)
 或いはこれも、白耀に対する嫉妬のなせる技なのかもしれないと、月彦は自己嫌悪に陥らざるを得なかった。
(…………白耀の所で由梨ちゃんが楽しく暮らしてるってのを……否定したいのかもしれないな)
 俺はなんて嫌な人間なのだろうと、白耀を励ましにきた筈が月彦の方が落ち込んでしまう始末だった。
「…………って、そーだ! 忘れる所だった!」
「はい?」
「白耀、お前大丈夫なのか?」
「大丈夫、とはどういう意味なのでしょう?」
「いや、なんつーか……最近お前が元気無いって、風の噂で聞いたんだが……」
「僕はいつも通りですが」
「いーや、いつも通りじゃないぞ! さっきだって庭木の根本で体育座りしてたじゃないか!」
 うっ、と。白耀が俄にその身を硬直させる。
「あ、あれはその……ちょっと考え事をしていただけです」
「お前の元気が無くなったのは、日曜の夜からだって話も聞いたぞ。……もしかして、俺たちと別れた後、何かあったんじゃないのか?」
「……………………何も、と言っても、信じてもらえなそうですね」
 白耀は湯飲みに手を伸ばし、微かに口をつける。
「……実はあの後、豚を連れて家に帰ろうとした矢先、あの人に絡まれてしまいまして」
「あの人つーと……真狐か?」
 はい、と。白耀はため息混じりに小さく頷く。
「何故僕があの場所に居たのか、真央さんがまみに絡まれていたのなら何故助けなかったのか、と詰問されて……助けようとはしたけど力及ばなかった、というような話をしたところ……」
「したところ……?」
「その……ボソクソにこき下ろされました。反論する隙もないほどに一方的に、ありとあらゆる表現で無能だと罵られました。よくもここまで口が回るものだと感心する一方で、言われても仕方がないだけの実力しか持っていない自分が情けなくて、正直少しだけ泣いてしまいました」
 ずーんと、折角払った筈の漆黒のオーラが再び白耀の全身を取り巻き始める。
「その中でも、最後の一言が一番堪えました。あまりのショックに茫然自失として、日付が変わるまで意識を失ってしまった程です」
「な、なんて言われたんだ?」
「“そんなんだから、好きな女も寝取られるのよ”――と」


 今度は、月彦の方が時の流れから置き去りにされる番だった。
「……月彦さん?」
 が、幸いにして側には白耀が居た為、硬直は長くは続かなかった。
「あ、あぁ……悪い、白耀。な、なるほどな……確かにそんな事を言われたら……し、ショックだよな」
 全身が震え、笑いが強ばる。そういった反応を見せてしまうことは非常にまずいと解ってはいても、自分を制御する事が出来ない。
「はい……相変わらず、タチの悪い人だと思いました。……冗談にしても悪ふざけが過ぎていると」
「ま、全くだな! あいつはほんっっとーにロクでもない事しかしないし、言わないやつだからな!」
 白耀に同意しつつも、本当にロクでもないのは果たしてどっちだろうと、月彦はさらなる自己嫌悪に苛まれる。
(く……ち、違う……寝取ったわけじゃ、寝取ったわけじゃないんだ! 命の危機を回避するために、やむを得なかっただけなんだ!)
 白耀のことだ。或いは、誠心誠意きちんと正直に説明すれば、許してくれるのかもしれない。悪意あっての事ではなかったと解ってもらえれば、そうなる可能性は決して低くはないように思える。
(でも……)
 恐らく、いや間違いなく自分はこの男の心に深い傷を負わせてしまうことになるだろう――その事を考えると、どうしても真相を告げる事が出来ない。
(本当にすまん、白耀……でも、菖蒲さんだってお前を見限ったわけじゃない筈なんだ!だから……!)
 もう少しだけ時間が欲しい――と。月彦は念じるように心の中で呟く。必ず元鞘に戻してみせるから待っていて欲しいと。
「と……とにかくあんな奴の戯言は気にしないほうがいいって! そうやって落ち込んだりしてたら、ますます調子にのってからかってくるようになるだけだぞ?」
「そう、ですよね。確かに月彦さんの仰る通り、あんな女の思惑通りになるのは癪です。一つ、気持ちを切り替えていく事にします」
「その意気だ。俺も応援してるからな! 俺に出来る事があったら何でも言ってくれよ!」
「そう言っていただけるだけで心救われる思いです。……今までうじうじと悩んでいたのがばからしく思えます。もっと早くに、月彦さんに相談すべきでした」
「あ、はは……まぁ、あんまり頼られても困るけどな」
「そうですね。あまり月彦さんを頼ってばかりでは、それこそ本当に菖蒲に見限られてしまいます。………………そうだ、月彦さん。この後は何かご予定が?」
「いや、今日はとりあえずお前の顔を見に来たようなものだから、あとは家に帰るだけだけど」
「折角です、今宵はうちで夕飯を食べていかれませんか? 腕によりをかけて僕がごちそうしますよ」
「いや、そりゃ悪い。元々俺の方が礼を言わなきゃいけない立場だったんだから、そんなに気を遣わないでくれ」
「いえ、ここは是非ごちそうさせてください。…………月彦さんが一緒のほうが由梨子さんもきっと喜んでくれると思いますので」
「……まいったな。そう言われたら、無碍には断れないか。じゃあ後で電話だけ貸してくれるか? 晩飯いらないって母さんには言っとかないと」
「解りました、電話は屋敷にあるものを好きに使ってください」
 では、僕は料理の下ごしらえがありますので――そう言い残して、白耀は応接室を後にした。
「…………………………くはぁぁぁぁぁ………………」
 部屋に一人きりになるなり、月彦は肺に溜まっていた息を吐き、俄に脱力した。


 恐らくは、これまた白耀が気を回してくれたのだろう。
「先輩」
 白耀が応接室を後にして五分と経たないうちに、仲居姿の由梨子が些か恥ずかしそうに応接室に入ってきた。
「や、由梨ちゃん。さっきはメチャクチャびっくりしたよ」
「先輩に見せたくて……私がお茶を持っていきますって、白耀さんに無理を言っちゃったんです。……あの、先輩はどう思いますか?」
 由梨子は照れながらも――しかし、自分では気に入っているのだろう――くるりとその場で回るようにして、小首をかしげてくる。
 その仕草だけで、月彦はもう「ぐはぁっ」と胸を貫かれる思いだった。先ほどまで散々渦巻いていた自己嫌悪やら罪悪感やらが一時的とはいえ消し飛び、穏やかな安らぎが胸中いっぱいを満たすのを感じる。
「……こう言っちゃなんだけど、由梨ちゃんはそういう格好はあんまりしないほうがいいと思うな」
 えっ――と、由梨子が俄に表情を暗くする。
 ――が。
「いやだって、似合いすぎてるからさ。…………白耀から、由梨ちゃん目当てで客が増えたって言われた時、正直ちょっと気が気じゃなかったよ」
「ぁ……す、すみません…………実は、その……自分でも、結構気に入ってて……だから、喜んでもらえると嬉しくって……」
「……まぁ、強いて言うなら……俺が一番最初に見たかった、っていうのはあるかな。こんなに可愛い由梨ちゃんを、俺の知らない所でたくさんの人が見てた、っていうのは……ちょっと嫉妬せざるをえない気がしなくもない」
「ぁぅ…………あの、もし、先輩がどうしても嫌なら――」
「あぁ、そんなに真面目に受け取らないで、ちょっと拗ねてみただけだから。…………ほんと、すげー可愛いよ。お客が増えるっていうのもすごく良く解る。俺も今日から通いたいくらいだ」
「…………〜〜〜〜っっっ……も、もぉ! 先輩! 責めるのか褒めるのかどっちかにしてくれないと、困ります!」
「責めてない責めてない、俺はずっと褒めてるだけだって。……ていうか、由梨ちゃん白耀の手伝いはしなくていいの?」
「あっ……忘れてました! 白耀さんに、先輩を電話の場所まで案内するようにって言われてたんです」
「なんだ、そういう事だったのか。じゃあ、早速由梨ちゃんに案内してもらおうかな」
 月彦はソファから腰を上げ、由梨子に案内されるままに固定電話の場所へと向かう。電話の場所くらい知ってはいたが、恐らくこれはきっと由梨子を手伝いから外すための口実だったのだろうなと、月彦は内心察していた。
 
 電話で帰りが遅くなる旨を告げると、いつものことながら葛葉は深くワケも聞かずに了承してくれた。受話器を置くと、傍らの由梨子はやや困った顔をしていた。
「由梨ちゃん、どうしたの?」
「えと……あの……」
「……?」
 由梨子は歯切れ悪く、やや頬を赤らめながらモゴモゴと口ごもる。
「白耀さんには、先輩を電話の所まで案内したら、その後は夕飯の時間まで好きにしてていいって言われてるんです。今日は夜のお店もお休みだから、料理の支度は自分だけでいいって」
「ふむふむ」
「でも、まだ四時過ぎですし……白耀さん、随分張り切って準備してましたから、多分どんなに早くても夕飯は七時以降になると思うんです」
「ふむ?」
 頷きながら、月彦は思わずにやけてしまいそうになる口元を隠すために、右手で覆った。
「そ、その間……どうしましょうか」
 指をモジモジさせながら、由梨子がちらりと。意味深に上目遣いをしてくる。そんな由梨子を思い切り抱きしめてやりたい衝動を歯を食いしばって堪えながら、月彦はあくまで惚けたような声でうーんと唸り、腕組みをする。
「約三時間も時間が空いちまうのか。どうするかな……一端家に帰って着替えてくるかな」
「えっ……」
 そんな声が由梨子の口から漏れて、由梨子自身も失言だと思ったのか慌てて口を覆っていた。
 くすりと、月彦は苦笑を一つ。
「……でも、それも面倒だな。………………そうだ、由梨ちゃんの部屋を見せてもらうってのはダメかな?」
「わ、私の部屋……ですか?」
 由梨子の顔に、笑みが――勿論、由梨子は隠そうとしているらしいが、あまり隠せていない――戻る。
「あの……一応、居候みたいなものですから……その……“私の部屋”っていう言い方は良くないのかもしれませんけど……それでも、白耀さんに借りているお部屋だったら……」
「そこがれっきとした由梨ちゃんの部屋なら、俺は構わないよ。……見せてもらってもいいかな?」
「はい……あっ、あんまり期待とかしないでくださいね? 前の部屋から持ってきたものばかりで……殆ど変わってませんから」
 今にも小躍りしそうなほどにソワソワと落ち着きのない足取りで、由梨子が先導を始める。そんな後輩の後ろ姿を微笑ましく見つめながら、月彦は後に続いた。



 新しい由梨子の部屋は、家具の配置こそ微妙に変わったものの、月彦の記憶の中にあるそれと大差のないものだった。恐らくは家具類などもそのまま前の部屋から持ってきたものが多いのだろう。その中でもベッドだけは元からあったものを使っているのか、月彦の記憶にあるものよりも一回り大きなサイズになっていた。
 そのベッドに月彦は腰掛け、そして由梨子もその隣へと座った。
「…………先輩と、こんな風に二人きりになるのって……すごく久しぶりな気がします」
 言われて、月彦も気がついた。由梨子とはずいぶんと“久しぶり”な事に。
(うー、いかん……時間に限りがあるのに……なんかめっちゃムラムラしてきたぞ……)
 桃の件や鈴の件はひとまず脇に置いといて、とりあえずは目の前の何とも可愛らしい子兎をどう食べようか――じゅるりと涎を滴らせんばかりに、月彦の頭はフル回転を始める。
「あの、先輩?」
「うん?」
 気がつくと、由梨子が身をよせるようにして、ジッと上目遣いに覗き込んでいた。
「その……今日は、時間が……あまりないですから……」
「うん、解ってる」
 月彦は微笑を零して、そっと右手を由梨子の腰に回して抱き寄せ、同時に左の指先で由梨子の顎先を捕らえて上を向かせ、唇を奪う。
「んっ……」
 由梨子は微かに喉を鳴らして、自ら両手を月彦の首にかけるようにして唇を重ねてきた。ちゅっ、ちゅっ……二度、三度と唇を重ねるうちに、むしろ由梨子の方が積極的にキスをしているような形になる。
(……寂しかった、のかな)
 いくら白耀が類い希な好人物とはいえ、やはり由梨子にとってはなじみの薄い他人である事には違いない。そんな他人の家に突然居候することになって、表面上は笑顔を見せていても、やはり寂しかったのではないかと月彦は思う。
(……ごめん、由梨ちゃん)
 そんな由梨子の心の動きに気づいてやれなかった自分の鈍感さを恨みながら、ならばせめてその寂しさを紛らわせてやらねばと。月彦は腰に回していた手をすすすと背筋に沿って上らせ、由梨子の後ろ髪を優しくなでつける。
「んぁ……先輩……んっ、ちゅっ……ちゅっ……」
 由梨子が微かに、譫言のような声で洩らし、さらにキスを続ける。続けながら、ぐいぐいと身を寄せ、我慢できないとばかりに月彦の両足をまたぐようにして抱きついてくる。
(……随分積極的だな)
 そんな由梨子の動きに驚きつつも、月彦も愛撫の手を止めない。髪を撫で背中を撫で太股を撫で胸元を撫で尻を撫で、由梨子がキスの合間合間に微かに喘ぐのを心地よく聞きながら、徐々に舌を使っていく。
 由梨子もまた応じるように舌を使い、ぬろぬろと相手の舌に唾液を塗りつけるようなキスを続ける事、十数分。
「ふぁ……っ……」
 蕩けるような声を上げて、俄に由梨子が唇を離した。顔は紅潮して、瞳はすっかり潤んでしまっていた。
「……キスはもういいのかな?」
「いえ、あの……えと……そうじゃ、なくて……こ、これ以上……続けたら……先輩のズボンにまで…………」
 ああ、と。月彦は苦笑混じりに、由梨子の言わんとする事に気がついた。途中で足をまたぐようにしてしがみついてきた由梨子が、いつのまにか膝を立てて腰を浮かすような姿勢になってしまっているのは、ひとえに由梨子の体質故の事だと。
「先輩……あの……我が儘、言っても……いいですか?」
 はぁ、はぁ――そんな湿った吐息を隠すように、口元に軽く握った手を当てながらの上目遣い。そんな目をされたら、例え命が欲しいと言われても頷いてしまいそうだと、月彦は思う。
「いいよ。何をしてほしい?」
 由梨子は俄に首を横に振る。
「……私に、させて欲しいんです。…………口で、その……先輩のを……」
 紅潮した顔をさらに朱に染めながら、消え入りそうな声で、由梨子はさらに続ける。
「すみません……自分でも、どうしてこんなに…………せ、先輩とキスすると……どうしても……その……したくなっちゃうんです……」
 お願いします――今にも涙がこぼれそうな程に瞳を潤ませながらも、その実我慢しきれないとばかりにズボンのふくらみをなでてくる由梨子に、月彦はもう苦笑しか出来なかった。



 由梨子の申し出を断る理由など、そもそもあろう筈がなかった。
 一つ下の後輩――それもとびきり可愛い十六才の女子高生から「口でさせて下さい」とお願いされるというシチュエーション。自分の置かれたその状況に、月彦は感涙に噎び泣きたいくらいだった。
「じゃ、じゃあ……先輩……始めますね?」
 由梨子が、自らベッドの下へと居り、その小さな体を月彦の足の間へと収める。そのまま鼻先をズボン前部に擦りつけるようにして、口でジッパーを開けたのは、ひとえに由梨子のサービスなのだろう。
「きゃっ」
 ジッパーを下ろすや、忽ちグンッ、と下着ごと持ち上がってきた剛直に、由梨子は悲鳴を漏らすも、すぐに愛しそうに頬ずりをする。さすがにトランクスをずり下ろす事だけは口だけでは難しいと感じたのか、トランクス前部のボタンを外し、剛直を露出させた。
「ぁ……先輩……もう、こんなに……」
 金属の芯でも入っているかのように力強くそそり立つ剛直に頬ずりするようにして、由梨子は早くも先端に滲んでいる蜜を舌先でちろりとなめ取ると、そのままちろちろと舌を這わせ始める。
「っ……いいよ、由梨ちゃん」
 由梨子の頭を撫でながら、月彦はさらなる奉仕を促す。それを受けて、由梨子も舌を這わせる――が、それはもどかしい域を出ない。
(前の時は……もっと……)
 黒タイツを間近で見せられながらしゃぶられた時の事を思い出して、月彦はますます焦れを感じざるを得ない。
「んっ、んっ……んっ……」
 由梨子は舌先だけでカリ首の下側をほじくるように舐めたかと思えば、再び先端部に滲んだ蜜をちろり、ちろりと丁寧に舐める。さながらミツバチが花に対して蜜を催促するような、そんな動きだった。
「ゆ、由梨ちゃん……」
 そんな事を十分近くも続けられ、さすがに月彦は我慢が効かなくなる。
「はい……? 先輩、どうかしましたか?」
 微かに湿っぽい吐息を漏らしながら、惚けたような無邪気な顔で由梨子が見上げてくる。本人は否定しているし、そんなそぶりもなかなか見せないが――その本性はSであると、月彦は見ていた。
「ええと、その……もう少し、激しくやって欲しいかな」
「激しく……先輩はどうして欲しいんですか?」
 手で剛直の竿部分を扱きながら、由梨子が小首をかしげてくる。
「いやほら……く、咥えたりとか……」
「咥える……だけでいいんですか?」
 こしゅ、こしゅ……由梨子が竿を擦る手を止め、亀頭部分を親指の腹で擦ってくる。
「っっ……ほ、他にも、吸ったりとか、い、色々……」
「色々じゃわかりません。どうして欲しいか……んっ、ちゅ……具体的に教えてください……ちゅっ、ちゅっ……」
 亀頭部分に啄むようなキスを加えながら、竿部分まで扱かれる。
「くはぁぁっ……」
 月彦が呻くような声を上げると、由梨子はさらに舌にたっぷりと唾液を絡めるようにして舐め、剛直全体にまぶすように手でしごきあげる。さながら、唾液をローションにするようにして、にゅり、にゅりと全体を扱きながら――咥える。
「くぁぁっ……」
 先端から半ばほどまで、由梨子の口腔内へと飲み込まれる。剛直ごしに由梨子の体温を感じ、月彦は思わず声を漏らして背を反らした。
(すっげぇ気持ちいい……美味い下手じゃなくて……っ……)
 ぐぷ、ぐぷとそのまま音を立てて由梨子が頭を前後させ、引かれるたびに強烈に吸い上げられ、声を出すまいとしてもつい洩らしてしまう。
「んふっ、んふっ……んふっ……」
 由梨子が頭を前後させるたびに、背筋がゾクリと震えるほどの快感に襲われ、月彦は由梨子の頭に乗せた手の指まで反らせてしまう。
「んぷぁ……ふぇんぱい……きもひいひれふは? んふっ……んぷっ……んぷっ……」
「あぁ……め、めちゃくちゃいいよ……よ、良すぎて……もう……」
 唇を噛み、月彦が天を仰いだ――その瞬間、突然ちゅぷりと由梨子の口が剛直から離れた。
「……先輩、ダメです」
 月彦が再び視線を落とすと、由梨子があからさまに演技で怒っていると言わんばかりにムッとした顔をしていた。
「ちゃんと、最後まで見ててください」
 そう言って、再び剛直に舌を這わせる。
「んふっ……んっ……先輩が……イくまで……んんっ……んくっ……ぁふっ……私が、先輩のをちゃんと受け止めて飲んじゃうまで、目をそらさないでください……んぷっ、んぷっ……」
 這わせて、咥える。由梨子もまた月彦を見上げながら、ぐぷぐぷと音を鳴らせて頭を前後させ、唐突に唇を離しては、焦らすように根本から先へとゆっくりと舌を這わせる。
「っ……はぁっ、はぁっ……ゆ、由梨ちゃん……えと、その……もう、結構マジでヤバくて……っ……」
「んぁっ……れろ、れろ……ちゅぷっ……んはぁ……いいですよ、先輩……いつでも、んぷっ……んんっ……」
 唾液まみれの手で竿を丁寧に扱きながら、先端部を舌を回すようにして全体を舐め、そして一際深く咥えて、頭をゆっくりと前後させる――その一連の動きは、最後の忍耐を削りきるのに十分すぎる量の刺激を月彦に与えた。
「っ……くっ……ゆ、由梨ちゃっ……」
 どくんっ、と。“反動”で体が揺れるほどの勢いで白濁が迸り、由梨子の口腔内を汚す。
「んんっ……んんっ……!」
 この勢いは想定していなかった――そう言いたげに由梨子が眉を寄せ、喉を鳴らす。
「んっ……んっ……!」
 やがて射精が治まっても、由梨子はなかなか唇を離そうとはしなかった。ちゅぱ、ちゅぱと剛直そのものの味でもしゃぶるかのように吸い付き、最後に舌先で鈴口をほじくるように撫でた後、漸くに唇を離した。
「んっ…………今日は、噎せずに飲めました」
 ちゃんと見ててくれましたか?――上目遣いに微笑む由梨子に、月彦の心臓はズキュンと射抜かれた。
(くっ……か、可愛い……)
 和服エプロンによって割り増しされているとはいえ、それを差し引いても十分すぎるかわいらしさに――元々萎えていたわけでもないが――剛直にグンとさらなる力が宿るのを月彦は感じた。
「きゃっ」
 それは、剛直を握りしめていた由梨子にも伝わったのか、まるで何かに怯えるように悲鳴を上げて、慌てて手を離していた。――が、すぐに天を仰ぎっぱなしの剛直と、月彦の顔を交互に見比べ、そして何かを決心したかのように由梨子は徐に立ち上がった。
「あ、あの……先輩?」
 おずおずと、由梨子は自らの着物の裾を掴み、持ち上げていく。白い太股が徐々に露わになり、やがてその付け根、ブルーの下着までもが露わになる。
「その……せ、先輩のを舐めてたら……こんなに、なっちゃったんですけど……」
 はぁはぁと、由梨子の吐息は既にフェラをしていた時よりも荒々しい。すっかり色が変わり、張り付くようになってしまっている下着と、それでも足りないとばかりに太股のあたりまで侵食し光沢を放つ蜜の甘酸っぱい香りに、視覚以上に嗅覚まで刺激される。
「せ、責任……とってくれますか?」
 言い終わるが早いか、月彦は忽ち由梨子の手を引き、ベッドへと押し倒していた。



 

「あっ、あの……先輩……服は……服だけは汚さないで下さいね?」
「わかってる、わかってるから」
 ハァハァと文字通りケダモノのように息を荒げながら、月彦は由梨子にのしかかり、押し倒す。あえて由梨子の背中側から押し倒したのは、“そういう気分だったから”に過ぎない。
(Sっぽい由梨ちゃんを、後ろから……)
 殆ど無意識に――というより、ケダモノの本能的に月彦は由梨子を背後から組み伏せるようにして押し倒し、着物の裾を捲し上げ、下着を膝上まで下ろす。
「せ、先輩……やっ、ちょ……ちょっと……怖っ……ンッ……やっ……!」
 微かに抵抗の色を見せる由梨子の両手首を掴み、ベッドへと押さえつけながら、猛りきった剛直を太股の間へと差し込み、蜜をぬりたくるように前後させる。
「フーッ……フーッ……ごめん、由梨ちゃん……ちょっと、いつもより苦しいかもしれないけど……大丈夫だよね?」
「え……? えっ? く、苦しいって……どういう意――ひっ……やっ、せ、先輩……!?」
 いつもは、まだ成長途中である由梨子の体を労って、“それなり”の大きさに留めるようリミッターをかけていた。が、限りなくお仕置きっぽいプレイに心が傾いている現状では、それは極めて難しかった。
「ぁ、ぁぎ……やっ、せ、先輩の、硬っ……だ、ダメ……です、さ、裂けちゃいます……」
 由梨子の悲鳴が嘘偽りでない事は、剛直から伝わってくる感触からも解る。当然月彦としてもそんな事にはならぬよう細心の注意を払い、小刻みに前後させるなどして、剛直を由梨子の体になじませることを忘れない。
(あぁ、でも……窮屈で……すっげぇ気持ちいい……この狭くて、キュッ、キュッって絡みついてくるのが由梨ちゃんの味だよなぁ……)
 壊れてしまわぬよう、一センチ進んだら五ミリ戻り、1,5センチ進んだら7ミリ戻りして、徐々に剛直を奥へ奥へとねじ込んでいく。
「ぁっ、ぁっ、……せ、せんぱい……も、無理、です……私の、中……先輩のでいっぱいになっちゃってます……」
「大丈夫だから、もっと体の力を抜いて。ほら……由梨ちゃん?」
 背中側から由梨子の体を抱きしめながら、小刻みに腰を前後させる。元々汁気の多い由梨子の中は剛直が動くたびにカリに掻き出されるようにして蜜が溢れ、トロリ、トロリと糸を引いて滴っていく。
「ぁぁ、ぁぁぁっ……せ、先輩……あぁぁ……!」
 口から漏れる声も、苦痛や悲鳴めいた声から、徐々に艶を帯びたものに変わる。ぎゅう、と由梨子がシーツを握りしめている理由が変わるのを、月彦も感じ取る。
(……少しずつ慣れてきたみたいだな)
 初めてというのならばともかく、それなりに経験もある由梨子の事だ。乱暴にさえしなければ、やがて苦痛より快感が勝るのは想像するまでもないことだった。
(出来れば胸とかも触りたいけど……時間の事を考えると、あまり脱がしたりとかはしないほうがいいか)
 そういう事は、もっと時間のある時にすればいいと思い直し、月彦は意識を下半身に集中させる。先ほどまで自分の分身を良いように弄び、主導権をとり続けた可愛くも小賢しい後輩の生膣の感触を骨の髄まで刻み込む為に。
(…………こっちだって随分情けない声を上げさせられたんだ。……由梨ちゃんにもその倍くらいは喘いでもらわないとな! 年上としての威厳を保つために!)
 自分は雪乃相手にいつも好き勝手にしている事は一端脇に置いて、月彦はゆっくりと腰の動きに前後運動以外のものを織り交ぜていく。
「あっ、あっ、ぁっ……ンッ……ぅっ……あっ、あっ……」
 剛直で肉襞を擦り上げるたびに、掠れたような声をあげながら、由梨子がビクッ、ビクッと痙攣するように体を揺らす。
「……すっげぇ濡れてきたね。由梨ちゃん、気持ちいい?」
 聞くまでもないコトだと解っていながら、月彦はあえて由梨子の耳元に囁いた。
「そ、それは……だ、だって……先輩が……」
「俺が?」
「そ、そうやって……ンッ……ず、ずっと私の中で……」
「あ、ほら……またジワァッて熱いのが……相変わらず凄い量だね」
「やっ、止めてください! か、勝手に……溢れちゃうんですから…………」
 由梨子が耳まで顔を赤くし、ぶんぶんとかぶりを振りながらマクラに顔を埋めてしまう。
(……まだまだ)
 俺だって恥ずかしい思いをさせられたんだから、こんなものじゃすませないとばかりに、月彦もまたドS笑みを浮かべながら、ぺろりと舌なめずりをする。
「由梨ちゃん、ちゃんと顔を上げて」
「……っ……」
「上げないなら、こっちに挿れちゃおうかな?」
 上体を起こし、着物の裾をさらにまくしあげて小振りな尻を露出させ、意味深にさわさわすると、たちまち由梨子はマクラから顔を上げた。
 そこを――大きく腰を引いて、突く。
「あぁん!」
 つんっ、と剛直の先端が由梨子の奥を小突いたのが月彦にも解った。そのまま二度、三度と突き上げ――
「あっ! あっ! あぁっ!」
 由梨子に声を上げさせる。
「…………声、少し抑えたほうがいいんじゃないかな」
 突きながら、ぽつりと。そんな言葉をささやきかける。
「ひょっとしたら、白耀に聞こえるかも」
「っっっ……! …………ンッ……ンンッ!!!」
 慌てて、由梨子が口元を抑える――が、月彦は突くのを止めない。
「ンンンッ! ンンッ……ンンンッ!!」
 由梨子が堪えかねるように身をよじって振り返り、涙のにじんだ目で何かを訴えかけてくる。
 ――が。
「……由梨ちゃん、何か言いたい事があるならきちんと言わなきゃ」
「せ、先輩……あぁぁっ!!」
 由梨子が口を開いた瞬間を狙って、ぐりっ……と強く肉襞を擦り上げる。由梨子は悲鳴めいた声をあげ、ビュッ……と潮でも吹くように結合部から勢いよく蜜が吹き出る。
「おや……由梨ちゃん、軽くイッちゃった?」
「やぅっ……せ、先輩……あ、あまり……激しくっ……し、しなっ……あぁぁ! ……だ、ダメッ、です……ほ、ホントに聞こえちゃっ……ンンンッ!」
 汁気たっぷりの膣内をにゅぐり、にゅぐりと剛直でほぐすように突きながら、月彦は無言で由梨子の右手首を掴み、口元から離させる。
「やっ……だめっ、だめっ……先輩……やっ……ンンッ……ンンッ!………………っっっっあぁぁぁあっ!! あぁぁぁっ!!」
 抑える手を失った由梨子は必死に口を閉じたままにしようとするが、与えられる快感がそれを許さないのか、次第に声が漏れ始める。
「うっ、わ……スゴッ……由梨ちゃんの中痙攣しっぱなしだよ。痛いくらい締め付けてきて……ビュッ、ビュッて潮吹きっぱなし」
「やっ、やぁぁ……い、言わなっ……は、恥ずかしっ……あぁぁぁぁ! あーーーーッ! あーーーーーッ!! あーーーーーーーッ!!!!」
 ビクンッ!
 ビクッ、ビクビクビクッ!
 ビクンッ! ビクッ、ビクンッ!
 叫ぶような声を上げて、由梨子が行く。絡みついてくる肉襞の感触に月彦は歯を食いしばり、耐える。
(……まだまだ!)
 ここで一緒にイくのは容易い――が、それでは気が晴れない。……否、別に怒っているわけではないのだが、やはり由梨子にたっぷりと奉仕をしてもらったからには、こちらもたっぷりと“お返し”をしなければならないのではないか。
 そう、これは復讐でも報復でもない。手紙を貰ったら、その返事を書くのと同じ類の、いわば一般常識の範疇であると。
「はーっ…………はーーっ…………せ、せんぱい……も、もう……あぁぁぁぁァァッ!!」
 息も絶え絶えにイヤイヤをするように首を振る由梨子の体を抱きしめ、その内側を剛直で抉る。
「だめっ……だめっっ……あぁぁっぁっ! ぁぁっぁぁぁ!」
 ビクッ、ビクッ――腕の中で震える由梨子の体を抱きしめながら、月彦もまたスパートをかける。
「せ、せんっ、ぱ……ンンッ……やっ……は、激しすぎっ……ますっ……」
「ごめん、でも……っ……もう少しだから」
 由梨子の“具合”を見ながら、極力同時にイけるように動きを調節しながら、月彦も高みへと上っていく。
「んっ、ぁっ……せ、先輩の、が……ひ、引っ掻くみたいに……強くっ……あぁぁ! ま、また……せ、先輩……一緒、一緒に……!」
「うん、解ってる……一緒にイこうか」
 月彦は体を起こし、由梨子の腰帯の辺りを掴んで遮二無二突き上げる。
「あぁぁっ、ぁぁっ! あぁぁぁッ! せんっ、ぱ……先輩っ……あぁっ、ぁぁぁっ……ンぁっ……あぁっ! も、もぅ…………わたっ、私っっ……らめっ……あっ、あぁァーーーーーーーーーーーーーッ!!!」
 絶叫。
 同時に襲ってくる収縮――月彦もまた歯を食いしばり、絶頂と同時に由梨子の中へと全てを解き放つ。
(く、ぁ……さっきより……)
 常識的に考えれば、二度目よりも一度目の方が量が多いものだが、それすら無視するように白濁の牡汁を由梨子の中へと注ぎ込み、汚していく。
「ぁっ、ぁっ……ぁ……ぁぁぁ…………な、中に……こんなにいっぱい……だ、ダメです……妊娠、しちゃいます………………ンンッ……!」
 ダメ、とはいいつつもまんざらでもないように呟いて、ぶるりと。由梨子が小さく体を震わせてイき、そのままくたぁとベッドに伏せてしまう。
 月彦もまたその後を追うように被さり、ギュウと抱きしめる。
「ふぅ……ふぅ…………由梨ちゃん、このまま二回目……いいかな?」
「ぇ……せ、先輩……待っ……あぅぅ!」
「ごめん、ダメだって言われても、ちょっと止まれそうにない……」
 たかだか一回や二回出したくらいで止まれるはずがないと、月彦は再度抽送を開始する。
「ま、待って……くださっ……じ、時間っ……もう、時間が……」
「時間……?」
 コンコンと、部屋のドアがノックされたのはまさにその時だった。


 腕を振るった――というのは、まさしく真実だったのだろう。
「どうぞ、由梨子さんも是非ご一緒に」
 白耀に連れられ、月彦と由梨子は先ほどまでいた応接室とは別の座敷へと通され、部屋の中央に陣取っているテーブルには見事なカニ鍋が用意されていた。
「う、わ……またずいぶんとデカいカニだな」
「はい、丁度たらばとズワイの良いものがありましたので」
 よく見ればその土鍋はテーブルの上に乗っているのではなく、部屋の中央に設置された火鉢の上に乗っており、その周りに中央に穴の空いたテーブルが居座っている形になっていた。火鉢も通常のものとは違うのか、本来の赤い光ではなく、どこか青白い光を迸らせていた。火力も強いらしく赤ん坊くらいなら入浴にも使えそうなほど大きな土鍋がぐつぐつと煮えたぎっていた。
「ってあれ、白耀……お前は食わないのか?」
「すみません、まだお出ししなければならない料理がいくつかありまして……どうぞ、遠慮なさらずお二人だけ先に初めてしまわれてください」
 申し訳なさそうな微笑を残して、白耀はそそくさと座敷から出て行く。月彦はつい由梨子と顔を見合わせてしまった。
「……そういう事らしいから、先に食べちゃおうか」
「はい……」
 どこか気乗りしなそうな――というより、居心地の悪そうな由梨子の様子は、月彦も何となく察してはいた。というのも、いざ今から二回戦というまさにその瞬間に白耀が部屋を尋ねてきて、慌てて身支度をした為、由梨子は膝下まで下ろしただけだった濡れたままの下着をそのまま履くはめになったのだった。
「……由梨ちゃん大丈夫? 寒くない?」
「それは……大丈夫なんですけど……それよりも、先輩のが……」
 太股のあたりをモジモジさせながら、由梨子が顔を赤らめる。
「……先にシャワー浴びて来ちゃったら? 白耀には俺が誤魔化しておくからさ」
「それが……このお屋敷のお風呂にはシャワーは無いんです。ですから、先にお風呂を沸かさないと……」
「じゃあ、せめて着替えだけでも――」
「お待たせしました」
 すっと障子戸を開けて戻ってきた白耀の手には、見事な装飾の施された大皿が握られていた。皿の上にはフグの刺身が丁度巨大な華を描くようにちりばめられており、さしてフグ好きというわけでもない月彦ですら、反射的に思わずごくりと喉を鳴らしてしまった。
「す、すげぇな……ふ、フグって高いんじゃないのか?」
「懇意にしている業者の方から特別に分けて頂いたものですので、気になさらないでください」
 では、と白耀はさらに席を立ち、座敷から出て行ってしまう。
「先輩、これ……たぶん、トラフグです」
「由梨ちゃん、解るの?」
「はい、料亭の方のお手伝いもさせてもらってますから……こんなにすごいのは初めて見ましたけど」
「……トラフグって、確か一番高いフグだよな」
 しかも、また席を外したということはさらになにがしかの料理が追加されるという事だろう。
 ずしりと。白耀の好意が逆に重しのように月彦の胃の中に居座り、食欲を減退させる。「と、とにかく由梨ちゃん、いまのうちに着替えを――」
 と、月彦がそこまで口にした刹那――まるで見計らったかのように、障子戸が開き、白耀が申し訳なさそうな顔を覗かせた。
「あの、すみません。少し下ごしらえに手間取ってしまって……もし良かったら由梨子さん手伝って頂けませんか?」
「あ、はい! すぐ行きます!」
 慌てて由梨子が腰を上げ、白耀と共に座敷を後にする。
「………………。」
 一人残された月彦は箸を手にとり、フグ刺しを一切れつまんで口へと運ぶ。
 最高級のトラフグの刺身――の筈が、月彦にはこの上なく苦く感じた。

 なんだかんだあっての三人での夕食はつつがなく終了し――結局由梨子は最後まで着替えるチャンスは無く、終始もどかしげに太股を摺り合わせていた――余った料理の一部を真央への土産として持たされて、月彦が真田邸を後にした時にはもう夜の九時を回っていた。
「…………はぁ。アイツ、良い奴過ぎだろ……」
 “ぐぅ聖”という言葉はまさに白耀の為にある言葉ではないかとすら、月彦は思っていた。
(そりゃあ俺だって……あんなことさえなかったら……)
 それこそ、和樹と同等かそれ以上の親友として巧くやれたのではないかという気はする。なんといっても、“同じトラウマ”を持つ者同士なのだ。男同士の友情を育むのにこれ以上の要素は無いのではないか。
(……アイツなら、本当に菖蒲さんとの事も許してくれるんじゃないだろうか)
 最近考えるのはその事だった。いっそ吐露してしまえば楽になれるのではないか。白耀ならばきっと解ってくれる、許してくれるのではないか――些か行き過ぎな接待を受けるたびに、そうしたほうが良い様な気がしてくるのだ。
(そんで何とか巧いこと白耀と菖蒲さんが元鞘になれば……難しいかな)
 というより、今日の様子を見る限り本来菖蒲が居るべきポジションに完全に由梨子が収まっているようにすら思えた。恐らく今日は菖蒲が休みであり、それ故たまたま料理の補助を由梨子に求めただけなのかもしれないが、月彦の目から見ても二人はお似合いと思えてならなかった。
(まさか……いやでも……)
 白耀が由梨子に手を出すとは思いにくい。が、白耀という男の器の大きさに由梨子が惹かれる事は十二分にあり得るのではないか。
(ぐぎぎ……で、でも……白耀なら…………)
 自分のような男に運悪く引っかかり、愛人のような関係を続けるよりは、白耀に無二の人として愛される方が由梨子も幸せなのではないか――そこまで考えて、月彦はあまりの胸の苦しさに思考を中断せざるを得なかった。
 そう、由梨子を白耀に取られるかもしれないと考えただけで、これほどに苦しいのだ。ましてや「既に寝ました」という話を聞かされたら――………………やはり白耀に真相を吐露するなど出来るわけがないと思わざるを得ない。
「はぁ…………どうすりゃいいんだろ…………」
 土産に持たされた紙袋がいやに重く、肩を落としながらとぼとぼと歩く――その歩みが、不意に止まった。
 顔を上げ、前方へと目をやる。人気はない――が、街頭に照らされた明かりの向こうに、何者かの気配を感じる。
 ぞくりと、体の表面にだけ悪寒が走る。姿は見えない……しかし、この感覚を月彦は知っていた。
 やがて向こうも月彦に察知された事に気づいたのか、ゆっくりと歩み、近づいてくる。。
「おばんどす」
「まみ……さん?」
 くすりと。人影――まみは口元に指を当て、妖しく微笑んだ。


 また近いうちに顔を見せに来る――とは言っていた。負け惜しみでも冗談でもなく、恐らく本当にそうなるだろうと予想もしていた。
 しかし、こんなに早いとは思ってはいなかった。
「夜遊び好きは血筋どすか。そないに身構えんでも、あんさんに危害を加える気はありまへんえ」
 少なくとも、今日の所は――まるで言外に含めるように、まみは笑う。
「い、一体何の用…………ですか」
 まみから発せられるプレッシャー故、月彦はつい下手に出てしまう。この肌がひりつく感じ、やはり珠裡とは比べものにならないと、月彦は思う。
「あんさん……やってくれましたな」
 極めて静かで、そして丁寧な口調ではあったが――微かに怒気のようなものを月彦は感じた。さながら、大切に育てていた花壇の中に花を踏みにじった足跡を見つけ、その犯人に向けるような――そんな声。
「や、やった……って……な、なんのことやら……ですか」
 ギクギクギクゥ!――身に覚えのありすぎる問いに、月彦は“状況証拠”として逮捕されてもおかしくないレベルで冷や汗をかきながら、ふいとまみから視線を逸らす。
「……ま、やってしまったものをどうこう言っても仕方ありまへん。…………但し、責任はとってもらいますえ?」
「せ、責任……!?」
 まさか、珠裡と結婚しろとでも言いにきたのか――冷や汗から脂汗へと変わるのを感じながら、月彦は全身を凍り付かせる。
「……その前に、あんさんに確認しとかなあかん事がおます。………………あんさん、珠裡の事はどう思ってはります?」
「珠裡の事を……?」
 月彦は、俄に逡巡した。嘘を言うか、本当の事を言うかで、だ。
(……珠裡のこと、か)
 身の安全を第一に考えるなら、当然珠裡の事が好きだと答えるのが良いのは間違いない。ただ妖狸への反撃手段の一環として処女を奪った等と言えば、今度こそまみの逆鱗に触れてしまうかもしれない。
(しかし……うーん……)
 下手に嘘をついて、狸のムコにされるのも困る。だが命は惜しい。
 月彦は悩み、悩んだ末――結局“本当の気持ち”を口にすることにした。
「珠裡の事は……恋人とはみれな……みれません」
 まみは眉一つ動かさず、月彦の次の言葉を促してくる。
「だけど、なんていうか……こましゃくれた所はあるけど、どこか憎めないっていうか……妹みたいな形でなら、仲良くできるかもしれないと思ってます」
「妹……どすか?」
 はい、と月彦は頷く。
「そしてこれは、真狐と仲が悪い貴方としては鼻で笑いたくなるような提案かもしれないけど、出来れば俺は珠裡には真央と仲良くして欲しいとも思ってます」
 ぴくりと、そこで初めてまみが眉を揺らした。
「うちの娘に、あんさんの娘――あの女の娘と仲良うしろ言うんどすか?」
「きょ、強制じゃないですよ! あくまで俺の希望っていうか……そうなってくれたらいいなぁっていうだけです!」
 やはり、無茶な提案だったか――月彦は俄に己の発言を後悔した。
(……そうなれば、俺は勿論真央も安全……だと思ったんだけど)
 真央が強くなる必要などない。そもそも敵自体いなくなるのだから。
「フフ……あッははははははははははは!!」
「……まみさん?」
 突然まみが声を上げて大笑いを始め、月彦はぎょっと二歩ほど後退りをした。
「フフフ……あんさん、面白いこと言いはりますな。…………気に入りましたえ」
「えっ……気に入……って……えぇ!?」
 それはまさか、珠裡のムコとして――という意味だろうか。それはそれで困ると、月彦が自分の発言を訂正するよりも早く。
「もし、あんさんがいけしゃあしゃあと珠裡を恋人にしたいとか、婚約したいとか言うてはったら、今度こそ息の根を止めるつもりどしたが……フフフ」
「いやそんな……質問の受け答えの上に勝手に人の命を乗せないでください」
 はからずも命の危機であったことに今更ながらに気がついて、月彦は出し尽くした筈の冷や汗をさらにかかねばならなかった。
「なんぼ不出来な子でも、うちから見れば可愛い末娘どす。…………それを手込めにして純潔を散らした男を八つ裂きにしたい思うんは当然の成り行きどすえ」
「て、手込めって……いや、最初はそれっぽかったけど……」
 最終的には珠裡もまんざらじゃなかった筈――というところまで説明したものか悩み、結局口には出来なかった。
「とにかく、あんさんの覚悟は解りましたえ。……そういう事なら、うちも珠裡の願いを聞いてやらなあきまへんなぁ」
「え? あのちょっとまみさん? 覚悟もなにも……ていうか珠裡の願いって……」
「あんさんも自分で選んだ道なら、なんぼ苦しゅうても耐えられますやろ。……フフフ、面白うなりそうどすなぁ」
「いや、苦しいって一体何をする気なんですか……ちょっと!」
 月彦が止めるのも聞かず、まみは意味深に笑うとその帯をしゅるりと伸ばし、まるで花がつぼみを作るようにその身を下から包み、帯が逆回し再生のように解かれた時にはもうその姿はどこにも無かった。
「何だ……また何かしてくる気なのか……勘弁してくれよ……」
 やっと妖狸関係のゴタゴタが落ち着いて、他のごたごたに取りかかれそうな所だったのに――月彦はがっくりとその場に膝を突き、うなだれる。
 ……その尻が、突然どかっ、と蹴り上げられた。
「どわっ! ……ってぇ、何すんだよ!」
 慌てて起きあがり、背後を振り返るとそこにはいつもの底意地の悪い笑み――ではなく、なんとも不機嫌な顔をした真狐が立っていた。
「ま、真狐!? なんでここに」
「…………いけ好かない女の気配を感じたから、様子見に来ただけよ」
 なるほどと、月彦は安易に納得した。
(……それで何で俺が蹴られなきゃならんのだ)
 プールの後の件といい、この女は俺を何だと思っているのか――そんな不満そうな顔をあざ笑うかのように、真狐が顎を持ち上げるようにしてふんと鼻で笑う。。
「何よその顔。あんた何か文句でもあんの?」
「ある……けど、今はいいや。なんかすっげぇ疲れたからこのまま帰る」
 月彦は地面に転がっていた紙袋とタッパーを拾い集め、とぼとぼと帰路につく。
「……そうそう。あんた。明日の夜は家に居なさいよ」
 そんな月彦の背に、まるで今思い出したと言わんばかりの口調で、真狐が言う。
 ゆらりと、月彦は両手を力無くぶら下げたまま、幽鬼のような仕草で振り返る。
「……なんでだよ」
「何でもよ。ちょっと話があるから」
「今じゃダメなのか」
「明日じゃないとダメ」
「そうか、解った。努力はするが期待はするなよ。俺はいつどこで誰に殺されるかわからないんだからな」
 投げ槍に言って、再び月彦は前へと向き直り、とぼとぼと歩く――その背が、どげしっ、と蹴りつけられる。
「ぶっ!……てめぇっ!」
「それから!」
 立ち上がり、振り向き様につかみかかろうとした月彦を、真狐の罵声が止めた。
「あのメタボ狸の娘と真央を仲良くさせるとか勝手なこと宣ってんじゃないわよ! あの子はね、あんたの娘じゃなくてあたしの娘なんだからね!」
「何だその理屈は……あっ、こら!」
 まみとは違い、真狐はぴょんと宙返りをするや黒い影としか視認出来ない速度でしゅたしゅたと走り去ってしまう。
「………………。」
 追う気力などあるはずもなく、月彦は再度地面に散らばってしまった紙袋とタッパーを集めようとして、そこで初めてごちそうのたっぷり詰まったタッパーを性悪狐に掠め取られてしまった事に気づいたが、後の祭りだった。


 野球に例えるならば、3得点10失点。昨日の出来事の感想としては、まさにそのような具合だった。
 折角の由梨子との癒しの逢瀬も、その後に二大巨頭と遭遇してしまっては、疲れの方が勝るというものだった。
 平日でさえなければ、一日部屋でゴロゴロして過ごしたい所ではあったが、悲しいかな学校を欠席する理由として“昨日ショックな事があったから”というものは基本的には通らない。少なくとも葛葉は認めてはくれないだろう。
 そんなこんなで寝ぼけ眼を擦り擦り、洗面台で歯を磨いていた時だった。
「父さま、あのね……」
「うん?」
 一足先に制服に着替えた真央が、物言いたげに脱衣所の入り口に立つ。
「今日、学校帰りに……私、兄さまの所に行くから」
「ん、そうか」
 口に水を含み、すすぐ。真央にとって、白耀は実の兄だ。その白耀の所に遊びに行くのに、口を挟む必要がどこにあるだろうか。
「だから、今日は帰り……遅くなっちゃうかも……」
「わかった。母さんには俺から言っとく」
 もう一度口に水を含み、すすぐ。
「も、もしかしたら……泊まる事になるかもしれないから……夜、帰らなくても……心配しなくていいから」
「え、待て……泊まるって……あっ、真央!」
 月彦が呼び止めるのも聞かず、真央は脱衣所の前から走り去ってしまう。慌てて後を追おうとすると、玄関のドアが閉まる音が聞こえた。
「……どうしたってんだ?」
 月彦は首を捻りつつ、リビングへと移動する。時間的に真央が朝食を食べられた筈はないのだが、食卓の上には月彦のものと葛葉のものと思われる食事の用意しかされていなかった。
「あれ、母さん……真央はもう朝飯食べたの?」
「今日は早く出なきゃいけないから、って。さっきパンと簡単なサラダを食べて急いで出ていっちゃったわよ?」
「……ふーん。……あ、母さん。真央は今日の帰り遅くなるかもってさ」
 あら、と。葛葉が洗い物を中断して困ったように首をかしげる。
「じゃあ、今夜は月彦一人になっちゃうのね」
「え……?」
 食卓につき箸を取りながら、月彦は母の言葉に反応する。
「私もこのあとすぐに出かけなきゃいけないの。帰りは多分明日になるから……真央ちゃんが居ないなら、また保科さんにお留守番を頼もうかしら」
 仮にみそ汁でも口に含んでいたら、間違いなく吹き出していた所だった。
「ちょっ、待って! 母さん! る、留守番って……俺が居るだろ!」
「でも……」
「いや、でもじゃなくて! 俺も一応高校生なんだから、一晩くらい一人で全然平気だって!」
 どんだけ俺は信用がないんだと、月彦は朝っぱらから泣きたくなった。
「本当に一人で大丈夫? 強がらなくていいのよ?」
 むしろ、そうやって憐憫のまなざしを向けられる事の方が辛いと、月彦は叫びたかった。
「とにかく! 俺は一人で大丈夫だから! ぜ、絶対に菖蒲さんは呼ばなくていいから! 向こうだって迷惑するだろうし!」
 葛葉の逡巡は長かった。が、辛うじて月彦の言い分を信じたのか、渋々一人での留守番を承諾した。
(どんだけなんだよ……)
 母の長すぎる逡巡が与えたダメージは計り知れず、しかし母を責めるには身に覚えがありすぎて、月彦はいつになく重い箸で朝食を摂るハメになった。

「そうそう、月彦。学校から帰ったらでいいから、一つお使いを頼んでもいいかしら?」
 準備を済ませ、いざ家を出ようという段になって、月彦は葛葉に呼び止められた。
「お使いって?」
 面倒な事なら断りたかったが、自分に対する母の信用が限りなくゼロに近い事を思い知った今となっては、どんなことでもやり遂げたい気分だった。
(…………まてよ。まさか母さん、その為に態と……?)
 なにやら前にも似たような流れで巧いことノせられたような気がするが、ここで断ろうものなら「やっぱりダメな子」の烙印を押されてしまいそうで、月彦としては選択肢は存在しなかった。
「霧亜の所に着替えを持っていってあげて欲しいの。そろそろ必要になる筈だから。それと……」
 葛葉はてきぱきとリビングのテーブルの上に、持っていく予定の霧亜の着替えを集めて紙袋へと詰めていく。下着類なども当然含まれているそれらをなんとなく見てはいけない気がして、月彦はあえて視線を逸らし続けた。
「ほら、この間モモを頂いたでしょう? あの子、モモ大好きだから、これも持っていってあげたら喜ぶと思うの」
「……わかった。学校から帰ったら、着替えと一緒に姉ちゃんの病室に持っていくよ」
 俺が持っていっても喜ばないと思うけど――そう心の中で付け加えながら、月彦は靴を履き、玄関を出た。



 何となくテンションの上がらない日というものは授業も気怠く感じるもので、それに拍車をかけたのが五時限目の英語の授業だった。残り時間十五分となったところで突然小テストをやると雪乃が言い出し、配られたプリントの問題文を見るなり、月彦は気分がさらに落ち込むのを感じた。
 What are your club activities?――いくつかの和訳問題に紛れて書かれたその一文は他の問題文の中で難易度という点で明らかに浮いており、間違いなく自分へのメッセージであると月彦は確信していた。さらに言うなら、プリントを配り終えた雪乃は何故か教室の後ろにパイプ椅子を設置して腰を下ろし、さながらカンニングを見張る試験管かのような鋭い視線を月彦の背中にだけ浴びせかけてくるのだから、もはや冷や汗どころではなかった。
 月彦はしばし悩み、本来の解答である『あなたの部活は何ですか?』ではなく『今日は入院している姉の見舞いに行かなければならないので、部活には参加できません。すみません』と回答欄に書き、授業の終わりと共に提出した。

 放課後、一度帰宅し、葛葉が用意しておいてくれた着替えと桃の入った紙袋を手に再度家を出た。自転車の籠に紙袋を乗せて、出発。ついついペダルを漕ぐ足に力が入ってしまうのは、久方ぶりに姉の顔を見に行く口実が出来たからだった。
 たとえ顔を合わせるなり舌打ちをされると解っていても、機嫌を少し損ねただけで――最悪、損ねなくても――殴打されると解っていても、そして後輩を泣かせるような真似をしたと解っても、自分は姉を嫌いにはなりきれないのだと痛感する。
 病院へと到着し、受付を済ませて今にも踊り出しそうな足を押さえながら霧亜の病室へと向かう。
「姉ちゃん、俺だ。入るぜ」
 コンコンとノックをして、ドアノブを握った――その時だった。
「入るな!」
 ビクゥッ!――姉の鋭い声に、月彦の中の“弟”が反応した。さながら、ドアノブからすさまじい電流が流れてきたかのような仕草で、月彦は慌てて手を離した。
「ね、姉ちゃん……?」
 心臓までがバクバクと波打ち、ドッと汗をかきながら月彦は恐る恐る呼びかける――が、返事はない。
 やむなく五分ほどその場で待ち、もう一度ノックをして「は、入ってもいい……?」と恐る恐る声をかけると、今度は霧亜からの返事は無かった。
 返事が無いということは少なくともダメではなくなったのだと、月彦は判断してそのまま中に入った。
「姉ちゃん……?」
 ドアの前に立てられた衝立からそっと顔を覗かせると、パジャマ姿の霧亜がベッドの上部のみを上げて背をもたれさせ、気怠そうに外を眺めているのが見えた。
「体を拭いていたから」
 霧亜は、月彦の顔を見ようともせず、独り言のように言った。
「な、なんだ……そうだったのか。…………あ、そうそうこれ……母さんに頼まれた着替え……と、桃」
「桃?」
 霧亜が、視線を窓から月彦の方へと向ける。
 怪訝そうに、眉を寄せて。
「知り合いからすっげー美味い桃を貰ったんだ。……ほら、姉ちゃん桃好きだったろ?」
「見せて」
 霧亜が右手を差し出してきたので、月彦は紙袋の中から桃を一つ取り出し、手のひらにのせた。
「…………。」
 まるで生まれて初めて桃という果物を見たかのように、霧亜は入念に矯めつ眇めつして最後には匂いまで嗅いでようやく得心がいったかのようにふんと鼻を鳴らした。
「本当にただの桃みたいね」
「な、何でそこを疑うんだよ! 家で俺も母さんも真央も食べたけど、普通に美味しい桃だったんだぞ!?」
「丁度少し喉が渇いてた所だったから、ありがたく頂くわ」
 月彦の言葉には一切反応せず、霧亜は体を伸ばしてベッドのそばの棚から新聞紙を一切れとって掛け布団の上に広げ、さらに小皿を二つと果物ナイフを引き出しから取り出した。
「あ、姉ちゃん桃を剥くなら俺が……」
 まだ片手が不自由だろうと月彦が気を利かせるが、霧亜はじろりとひと睨みしただけで月彦の動きを止める。
「あんたに剥かせたら、折角の美味しい桃の身の大半を皮と一緒にそぎ落としちゃうでしょ」
「そ、そこまで下手じゃねえよ!」
 とはいったものの、霧亜の手並みはさすがであり、桃は薄皮一枚だけそぎ落とされて綺麗にその身を露わにしていく。
(……はて?)
 と、月彦がその手並みに見とれながらも首をかしげたのは、霧亜が桃を切りながら何故か二つの皿に分けていくからだった。
(もしかして、この後誰か見舞いに来たりするのかな?)
 だったらその前に自分は帰った方が良いのかなと。月彦がソワソワしていると、唐突に――目の前に皿が突き出された。
「…………え?」
「え、じゃないわよ。さっさと受け取りなさい」
「あ、あぁ……」
 何が起きたのか理解できず、月彦は困惑しながらも小皿を受け取る。視線を落とすと、丁寧に切り分けられた桃の身がいくつかと、そのうちの一つにちょっと小じゃれた二股の槍のようなデザインのプラスチックの爪楊枝が刺さっていた。
 それがどう見ても自分のために用意された桃と楊枝にしか見えず、それ故に月彦は混乱してしまった。
「……いつまでも突っ立ってないで、座ればいいじゃない。その辺に椅子くらいあるでしょ」
 桃を切り終え、おしぼりで手を拭きながら霧亜は新聞紙を丸めて皮を捨てる。月彦もまた慌てて丸椅子を手にとり、ベッドの脇へと腰掛けた。
(なんだなんだなんだ……? どういうことなんだ?)
 異世界にでも迷い込んでしまったのだろうか。そうでなければ、目の前にいる霧亜は偽物なのだろうか。
(いやいや……そんなワケないだろ……)
 だとしたら、可能性としては――どうしてかはわからないが――かつてない程に霧亜の機嫌が良いという事しか考えられなかった。
(俺が桃を持ってきたから……?)
 はて、姉はそこまで桃が好きだっただろうか。もしそうなら、見舞いの度に籠いっぱいの桃を持ってくることも辞さないのだが。
「確かに美味しいわね」
 楊枝で桃の身の一つをつまみあげ、口に含みながら、霧亜が淡々とした口調で洩らす。いつもなら何を口にしてもうまいともまずいとも言わない姉がそのように素直に感想を述べる事自体、やはり上機嫌であると言わざるを得なかった。
「そ、そうか……良かった……姉ちゃんが喜んでくれて……」
「……あんた、なんで泣きそうな顔になってるのよ」
「いや、だって……」
 こんなにも優しい施しを――少なくとも月彦にはそう感じられた――姉から受けたのは何年ぶりだろうか。妖しげな真央の呪いで体が縮んでしまっていた時の事を考えなければ、それこそ十年近くはさかのぼらねばならないだろう。
「あんたのそういうところが気持ち悪い」
「ご、ごめん!」
 月彦は今にも溢れてしまいそうになる涙を拭い、爪楊枝をつまんで桃の身を口の中に放り込む。
(う、美味い……!)
 桃自体の味は、家でも食べているから既に知っているものの筈――だが、姉が剥いてくれたというだけで、そのうまさが十倍或いは百倍まで昇華されているように感じた。
(……どうしよう、もうあと3きれしかない!)
 瞬く間に4きれのうち一つを食べてしまい、月彦は激しい後悔に襲われた。こんな天上の甘露が如き味を楽しめるのもあと三回なのかと。
(いやまてまて、この三つの桃の身をさらに半分ずつに分ければ、倍楽しめるじゃないか!)
 さらに半分に切れば、さらに倍ではないか――月彦が楊枝の先で桃の身を限りなく寸断していると、
「食べ方が汚い」
 忽ち、霧亜の叱責が飛んだ。
「ごめん……なるべく長く楽しみたいって思ってさ」
「…………。」
 霧亜に、ひどく残念な生き物でも見るような目を向けられ、月彦は肩を萎縮させて視線を落とした。
(ううぅ……そんな目をされても、どうすりゃいいんだ)
 一体全体どのように振る舞えば霧亜を満足させることができるのかまったく解らず、月彦はただひたすらに恐縮しながら桃の身を食べ続ける。
(あぁ……もうあと一口二口で終わってしまう……!)
 小皿に残された小指の先ほどの桃の身を見ると、それだけで憂鬱な気分にさせられる。かといってこれ以上小分けにしたり、ちまちまと囓るような真似をすれば霧亜に何を言われるか解ったものではない。
「そういえば――」
 月彦が困り果てていると、不意に霧亜が窓の外へと目をやったまま、独り言のように口を開いた。
「あれから、どうなの」
「ど、どうなの……って?」
「あいつら。何かちょっかいだしてきたりはしてないの」
「あいつら……」
 その言葉が指す所は、月彦にもすぐに解った。
「ああ、大丈夫だよ。優巳姉も今のところ何もしてきてないし」
「…………。」
 霧亜は黙し、視線を月彦の方へと戻す。逆に月彦の方は霧亜の視線から逃げるように、その目を手元の皿へと落とした。
 その皿に注がれる視線を遮るように、霧亜の右手が差し出された。
「……姉ちゃん?」
「桃。まだ食べたいんでしょう」
「いや、俺は別に……」
「母さんの事だから、一個ってことはないんでしょ。まだあるなら剥いてあげるから出しなさい」
「い、いや……いいよ! これは姉ちゃんのためにって持ってきたものだし、俺が食っちまったら……」
「じゃあ私も半分食べるから、出しなさい」
 声の調子が、苛立ち混じりになるのを感じて、月彦は慌てて紙袋から追加の桃を取り出して霧亜に渡した。
 一度目よりは時間は短かったものの、霧亜はやはり桃を入念にチェックし、匂いまで嗅ぐ。まるで過去に毒殺されかけた経験があるかのような用心深さだと、月彦は思った。
「あっ、新聞紙使うんだろ? 俺が取るよ」
「いいから。あんたは座ってなさい」
「いいって。ベッドに寝たままじゃ結構大変だろ?」
「自分で取れるから」
 ベッドの反対側に回り込もうとする月彦の体を強引に押しのけ、霧亜が無理矢理に自分で戸棚の新聞紙を取ろうと手を伸ばす。
 その時だった。

 ドサッ。

 何かが落ちる音に、月彦も、霧亜もその動きを止めた。
「あれ……何か落ちた……?」
 見たところ戸棚からは何も落ちてはいないようだった。当たりを見回していると、掛け布団の下で何かを必死に探している霧亜の姿が目に入った。
「月彦」
 張りつめたような霧亜の声。
「今日はもう帰りなさい」
「いやでも……」
「帰れ、って言ってるのよ」
 先ほどまでの上機嫌はどこへやら、霧亜はベッド脇に立てかけられていた松葉杖の柄を掴むや、さながら金棒を構える鬼のごとく振り上げる。
「わ、解ったよ! すぐ帰――わぶっ」
 慌てて病室を後にしようと駆けだした矢先、何かひどく重いものに躓いて、月彦は病室の床に転がった。
「いちち……何かが床に……あれ、これって……」
 床に落ちていたその黒い影には見覚えがあった。無駄に大きく、表紙も重厚であり、漬け物石の代わりにも使えそうなその重さには、子供の頃から苦労させられたものだ。
「うちのアルバ――はぐっ!」
 その黒く重い本を手に取ろうとした矢先、容赦のない松葉杖の一閃が後頭部にヒットし、月彦は再度床に転がった。
「帰れ!」
「わわっ……ちょっ、姉ちゃっ……わ、解ったって!」
 全身に松葉杖の殴打を受けながら、這々の体で月彦は霧亜の病室を後にした。



 

 結局最後は松葉杖の殴打を浴びる羽目にはなってしまったが、そんなことよりも霧亜自らが剥いた桃を口に出来た事のほうが嬉しくて堪らなかった。
(人生、辛いことばかりは続かないものなんだよなぁ)
 帰り道、所々スキップまで交えながら月彦は帰路につく。頭の中で桃を剥く霧亜の姿を思い返すだけで顔がにやけてしまい、必死に引き締めるも――その桃の味を思い出すとまたしても顔がにやけてしまうのだから困ったものだった。
(桃をくれた菖蒲さんにちゃんと礼を言っとかなきゃな……ああでも、元々は春菜さんがくれたものだから、そっちにお礼の手紙とかを書いたほうがいいのかな?)
 しかし、あそこはいったいどういう住所になるのだろう――そんな事を考えているうちに、家へとたどり着く。
「ただいま――って、そういや真央も母さんも居ないんだっけか」
 既に日は落ち、紺崎邸の中も明かり一つなく、月彦は戸締まりをしながら一人呟いた。
「…………こんな事なら、姉ちゃんの見舞いの後、先生の家に行ってもいいですかって訊いときゃよかったな」
 最近部活に顔を出す機会が少なく、大分雪乃の不満が溜まっているであろう事は今日の授業の様子からも明らかだった。あまり放置して厄介な事になる前に手を打つ必要があるのだが……。
「…………先生だったら、今から電話しても多分……ああでも、真央も帰りが遅くなるだけで泊まり確定じゃあないんだっけか」
 夜遅くに真央が帰ってきたときに誰も家に居ないという状況は避けたい。となれば、ここは大人しく家で留守番をするのが吉というものだろう。
 今後の方針も決まり、とりあえず腹ごしらえでもするかと冷蔵庫を開ける。葛葉が家を空ける場合の慣例として、レンジで暖めるだけのおかず類が多種用意されている――筈だったのだが。
「……なんだこりゃ。殆ど何も無いじゃないか」
 見慣れたタッパーに入ったおかずどころか、買い置きのハムやら卵類までも無く、冷蔵庫に入っているのは殆ど飲料と調味料の類のみだった。
「……まぁ、母さんだってうっかりすることはあるか」
 このくらいで葛葉を恨むのは筋違いというもの。幸い流しの下にはいくつかのカップ麺があり、少なくとも空きっ腹を抱える心配だけは無くなった。
 湯をわかしつつ、ついでに風呂の準備も進めながら、そういえばまだ制服から着替えてもいない事に気がついて、二階の自室へと上がる。
「……ん、なんだこの音……」
 二階に上がるなり、なにやら唸るような音と妙になま暖かい空気が流れてくるのを感じる。音は聞き慣れたエアコンの室外機の音であり、風は明らかに暖房によるものだった。
「ヤベっ……俺、消し忘れてたか!?」
 慌てて自室に駆け込もうとして、ハッと冷静になったのは“前にも同じ事があった”からだった。
 冷蔵庫から食料が消え、部屋を出る際に止めたはずの暖房が使われている――それが示唆する事実は。
「真狐か!」
 ばむっ、と勢いよく自室のドアを開けて目に飛び込んできたのは、空になったタッパーの数々と、これまた空になった缶詰の類。その他卵の殻などがゴミ箱にうずたかく積み上がり、さらにそれらガレキの塔ならぬゴミの塔を作り上げた張本人が心地よさそうにベッドで毛布にくるまっているという光景だった。
「てめぇ、こら! 起きろ!」
「んぁ……ちょ、いたた……何だってのよ!」
 月彦はまず力任せに毛布をはぎ取り、その大きな狐耳を引っ張って無理矢理に体を起こさせる。
「何だじゃねえ! 人んち勝手に侵入して冷蔵庫の中身食い散らかした挙げ句気持ち良さそうに寝やがって! この性悪狐が、今日という今日は許さねーからな!」
「勝手にって、ちゃんと今日の夜行くって言っといたじゃない」
 ふあーあ、と大あくびをしながら、真狐は目元を擦る。
「…………そういや、昨日そんな事言ってた……っけ?」
 言われてみれば、確かに昨夜。そのような話を聞いた覚えはあった。
(…………完全に忘れてた)
 が、それとこれとは話が別だと、月彦はすぐに思い直した。
「あ、予め行くって言ったからって、勝手に食い物漁っていい事にはならねーんだぞ!」
「だったら冷蔵庫に鍵でもかけとけばいいじゃない。昔はそういう冷蔵庫多かったわよ」
「…………もういい。埒があかん。…………とにかく何か話があるんだろ、さっさと済ませてさっさと帰れ」
「話?」
「大事な話があるってお前が自分で言ったんだろうが!」
「ああ」
 惚けたような声を出しながら、真狐はベッドに腰掛け、自分の尻尾を膝の上に回してなにやらいじり始める。どうやら寝ている間に変な寝癖がついてしまい、それが気になって仕方がないらしく、ぺろぺろと指を舐めて唾液でそれを修正しようと試みる――が、巧くいかない。
「おい、さっさと話せって!」
「そんなに急かすんじゃないわよ。…………まぁいいわ。後でお風呂に入れば治るっしょ」
「……お前まさか、風呂まで入っていく気か!?」
 そうはさせんぞと、月彦は息巻く――が、真狐はにたりと。底意地の悪い笑みでそれを迎撃する。
「入っていく気もなにも、あたしの話を聞いたら、自然とそういう事になっちゃうのよねえ」
「どういう意味だ?」
「月彦。あんたは飛び上がって喜ぶべきなのよ。なんたってあたしはあんたに“ご褒美”をあげに来たんだから」
 は?――真狐の言葉が理解できず、月彦は露骨に眉を寄せる。
「ほんっと鈍い男ねぇ。………………今夜はヤらせてあげるって、そう言ってんのよ」



 
 人間の頭程度で理解できる事柄など、たかが知れている。そう考えると、世の中というのは理解不能なもので埋め尽くされていると言っていい。
 その中でも、眼前の女が放った一言は難解を極めるものだった。
「……ちょっと待て。頭を整理する」
 大事な話があるから、明日の夜行く、と真狐は言った。そしてその言葉の通りにやって来た――というか、いつのまにか侵入していた。
 その大事な話とは何かと尋ねると、喜べと言う。何を喜ぶのかというと、ヤらせてやると言う。
 ……やはり、理解ができない。
(……こいつは一体何を言ってるんだ? 新手の罠か?)
 この世に恐ろしいものは数あれど、不可解なものほど怖いものはないかもしれない。月彦は僅かに後ずさり、その背を壁につける。
「なーに? 疑ってんの? だから言ってるでしょ、ご褒美だって」
「……そんなものをお前に貰う理由がないんだが」
 そもそも、ご褒美が「ヤらせてあげる」という事自体どうかと思うが、とてもそこまではツッコミきれない。
「あの役立たずのボケ息子と違って、あんたはあんたなりに頑張ったっていう話を真央から聞いたわ。………………まみの術を自力で破ったそうじゃない」
「……破ったのかどうかは知らんが、真央の事を思い出したのは事実だな」
「それって、あたしたちの常識からしたらまずあり得ない――そうね、兎に亀がかけっこで勝つくらいあり得ない事なのよ」
「昔話で普通に負けてるじゃないか」
「あんたたちの常識に例えるなら、亀が空飛んで飛行機追い抜くくらいありえない、って言えばわかる?」
「……その例えってのはどうしても亀を使わないとダメなのか?」
 とにもかくにも、どうやら凄いことをやってしまったらしいという事は、月彦にも何となく理解はできた。
「少なくとも、あんたのせいでまみの計算は狂ったはずよ。あのメタボ狸に“そんなバカな!”ってほえ面かかせたんだから、大したものだわ」
 はて、ほえ面なんかかいてたっけ――月彦は記憶を辿るが、そんなにショックを受けていたような覚えはない。が、真狐の方はまみの計算を狂わせたことが余程愉快痛快らしく、上機嫌そうにニヤついている。
「とにかく、そういうワケだから。特別にヤらせてあげてもいいって言ってんの。いい加減理解した?」
「……一ついいか?」
 真狐は頷く。
「ご褒美って、普通相手が欲しいものを渡すものだよな?」
「そうね」
「俺、別にお前なんかとヤりたくないぞ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

「……な、なんだ、この“間”は!」
 時間にして一秒足らず――だが、まるで永遠の時を過ごしたような奇妙な間を感じて、月彦は思わず周囲を見回した。
「なーに、あんた。せっかくこのあたしがヤらせてあげるって言ってるのに、まさか嫌だとか言うつもりなの?」
「言うつもりとかじゃなくて、実際に言ってやる。そんな褒美なんか要らん! とっとと失せろ!」
 ぴくりと、真狐が眉を震わせる。不愉快そう――ではない。むしろ目を爛々と輝かせ、ぶぉん、ぶぉんと勢いよく尻尾を左右に二度振り、にぃぃと口元をつり上げる。
「へぇー……あんた、あたしとヤりたくないんだ?」
「当たり前だろ! お前、自分が俺に何をしたのか忘れたのか! このレイプ魔め! つーかなんだよ、なんでそんなに嬉しそうなんだよ!」
 お前なんかとヤるのは嫌だ――そう言われて気分を害すというのならばわかる。が、逆に上機嫌になる真狐に、月彦は恐れにも似た感情を抱いてしまう。
「さっき起きてからずーっとあたしのおっぱいガン見してるクセに、ヤりたくないとか言うんだ?」
「が、ガン見なんかしてねえよ! 自意識過剰も大概にしろ!」
 慌てて月彦は視線の先を真狐の胸元から外す――が、それも長くは続かない。まるでおっぱい自体が強烈な引力でも発しているかのごとく、視線が吸い寄せられてしまう。
「ほら、また見てる」
「う、うるさい! お前こそ……もうちょっと胸が隠れるような服を着ろよな! は、半分くらいはみ出てるじゃねえか!」
 真狐が着ているのはいつもの、肩を出した派手な着物だ。至極、白い胸元の上半分が常に露出状態にあり、見まい、見まいと思っても視線の先が吸い寄せられてしまう。悲しい男の性だった。
「ヤらせてあげる、っていうことは、つまりおっぱいも好きにしていいって意味だけど。それでもいらないって言うの?」
 真狐が、露骨に足を伸ばせて組み替える。両手をベッドについて胸を反らせ、着物に隠れている面積はさらに少なくなる。
「い、いらないつってんだろ……真央が帰ってくる前にさっさと帰れよ……」
「あら、真央なら今夜は帰らないけど?」
「なぬ!?」
「今夜はマシロの家に泊まれって言っといたから。あの子ったら何にも聞かずに、うんわかった、って」
「…………それでか!」
 朝の、歯に何かものが詰まったような真央の物言い、態度の理由がやっとわかって、月彦は愕然とした。
(真央の事だ……それだけで、全部察したんだろうな)
 或いは、両者とも合意の上で――と勝手に思い違いをしているかもしれない。
(ヤバい、そこだけは……そこだけは後で訂正しとかないと……)
 自分と真狐が相思相愛だなどという勘違いだけは、絶対にされるわけにはいかない。それは例えるなら同性愛者だと勘違いされるよりも――少なくとも月彦にとっては――辛いことだった。
「ねえ」
「わっ、こら!」
 思案をしている間に、いつのまにか目の前に真狐が詰め寄ってきていて、月彦は慌てて下がろうとするも――背壁に張り付くばかりで下がることができない。
「ほら、何照れてんのよ。本当はずっと触りたくて堪らなかったんでしょ?」
「や、止めろ! お、押しつけてくるなぁ!」
 ボウリングの球のようなたわわすぎる質量をぐに、ぐにと胸板に押しつけられて、月彦はうわずった声を上げる。
「やめろー!とか良いながら、目は釘付けじゃない。ほら、ほら。触ってもいいのよ?」
「や、やめろ……くっ……くそぉ……!」
 両手の指が引きつり、壁を引っ掻くように爪を立てるのはまさしく本能と理性のせめぎ合いによるものだった。
 そう、本能としては――男の性としては当然おっぱいに触れたい、もみくちゃにしたい。が、自分という男が“そこ”で止まれる人間ではないことも月彦は熟知していた。
(い、嫌だ……誰が、こんな女と……)
 おしおきという名目ならば、まだいい。この鼻持ちならない性悪狐を仕置きする為に、その手段の一つとして組み伏せ、犯すのならばこちらの矜持も保てる。
 だがしかし。「ヤらせてあげる」などと言われてその誘いに乗るのは我慢がならない。乗ったが最後、一生この女に見下されるのではないか。
(だ、だめだ……このままじゃ…………)
 本能の猛攻に、理性の壁がゴリゴリ削られていくのを感じる。
(む、胸が……おっぱいが…………く、首に息がぁ……!)
 月彦が理性を失いかけた、まさにその時だった。


 ピィィーーーーッ!!――そんな音が階下から響き、真狐の注意が部屋の出口の方にそれた。
「や、ヤバい! 薬缶を火にかけっぱなしだ!」
 止めないと――真狐の注意がそれた一瞬の隙をついて、月彦は転がるようにして乳プレスから脱し、そのまま部屋を後にする。
(ううう、ヤバかった……マジで終わったかと思った)
 階段を下りる足は震えていた。ちょっとばかり半泣きになりかけて、鼻をスンスン鳴らしながら、月彦は台所へ行くと火を止め、蓋を開けていたカップ麺へとお湯を注ぎ込む。
 その横に、スッ、と。蓋の開いたカップ麺が差し出される。
「あたしにもお湯ちょーだい」
「な、何でついてきてんだよ! 第一、お前は散々食ったんだろうが!」
「いいじゃない。お湯まだあるんでしょ?」
 お前にやるくらいなら捨ててやる!――いつもならばそう言って湯を捨ててやるところだった。が、先ほどの“誘惑”の残滓のせいか、月彦は不本意ながらも真狐のカップ麺に湯を注いでしまう。
「……そ、それを食い終わったら、今度こそ帰れよ!」
「んー……どうしよっかなぁ?」
 ニヤニヤと意地の悪い笑みを浮かべてカップ麺を手に食卓側の椅子に着席する真狐は、帰る気など毛ほどもないらしかった。
 やむなく月彦は真狐の存在を無視して食卓につき、カップ麺を啜る――が、対面席に座った真狐の胸元にどうしても視線が吸い寄せられてしまう。
「お、おい、真狐!」
「なによ」
「そ、その……だな。その食い方は止めろ!?」
「どの食い方?」
「だから……む、胸を……だなぁ……」
「胸を?」
 クスクスと意味深な笑みを浮かべられ、月彦は苦渋の顔で赤面する。
「て、テーブルに胸を乗せるな!って言ってんだよ!」
「えぇー……だって重たいし」
 真狐は胸の前からカップ麺をどかし、さらに体重をかけるようにしてぐにぃ、と歪めながら呟く。
「あたしが食べてる間、あんたが下から支えててくれるっていうのなら、乗せないけど?」
「ふざけんな!」
 一喝して、月彦はカップ麺を手にぷいとテーブルに背を向ける。最初からこうしていれば良かったのだと、やっと安堵の息をついて麺を啜っていると。
「熱っ」
 背後からそんな悲鳴が聞こえた。ここで振り向いてしまったら、真狐の思うツボだと、月彦は頑なに背を向けたまま麺を啜る。
「やんっ……おっぱいの上におつゆが落ちちゃった…………」
 不必要なまでに艶を帯びた声に、ぴくぴくと耳を震わせながら振り返りかけるも、ぐぎぎと首をきしませながら月彦は現在の姿勢を続ける。
「って、うわ!?」
 ふわりと。微かな風と共にその首元に柔らかいものが当てられ、堪らず月彦は悲鳴を上げた。見れば、いつのまにか背後に回った真狐が月彦の首に手を回し、さらに胸を頬につっつけるようにしてむぎぅと寄せてきていた。
「な、何すぷっ……」
「ほら、見てよ。ここ……おつゆが落ちて赤くなっちゃってるでしょ?」
 ぐに、ぐにと乳肉を押しつけながら、真狐が自分の胸の一カ所を指し示す。確かに、白い肌の一カ所だけがほんの少し赤みを帯びていた。
「そ、それが俺に何の関係が……」
「舐めて」
 色気タップリに耳元に囁かれて、月彦は思わず今まで食べたものをはき出しそうになる。
「な、舐めてって……」
「月彦が舐めてくれたら、治る気がするの」
 ふーっ、と耳元に息を吹きかけながらそんな事を言われ、思わず舌を伸ばしてしまいそうになるも、すんでの所で月彦は思いとどまった。
「で、出来るかぁ!」
 真狐のヘッドロックを力任せに強引に外し――そのせいでカップ麺もぶちまけてしまったが――テーブルを挟んで距離を取る。
「さ、さっきから……お前、何が狙いだ! 俺に何をさせようとしてんだ!」
「んー? べっつにぃ? あんたの反応が面白いから、からかってるだけだけど?」
「なんだとぉ……!?」
 けらけらと笑う真狐に対して憤ってみせるも、かといって何が出来るわけでもない。力ずくで出て行かせる事は難しく、帰れと言っても聞かないこの女に対して月彦が出来る事は限られていた。
(…………いっそ……)
 と、思うも、踏み切ることが出来ない。この鼻持ちならない女を逆に組み伏せ、どっちが上か白黒はっきりさせてやる事が出来れば、このような人を食った真似も出来なくなるのではないか。
(いや、そう簡単にはいかない。……俺は、こいつがどんだけ底なしかを知っている)
 過去、何度かリードをとれたことはある。が、そのどちらも真狐が極度の消耗状態にあり、本調子ではなかった事に救われた部分も大きいのではないかと月彦は見ていた。
 そして何よりも、“あの時の記憶”が月彦に軽々な決断をためらわせていた。
「ねえ、ところでさ。あっちは止めなくていいの?」
 むう、と思案に耽る月彦の傍らで、真狐がついと指を指す。
「……あっち?」
「お風呂。出しっぱなしじゃないの?」
「あああ!」
 声を上げて、月彦は大あわてで風呂場へと向かう。――その後ろを、性悪狐がニヤつきながら追った。


 大あわてで浴室に駆け込み、蛇口を捻る。既に湯船からは湯が溢れまくっており、それらを見下ろしながら、ため息を一つ――
「どーん!」
 ついた瞬間、月彦は背中を思い切り突き飛ばされ、頭から湯船に突っ伏した。
「ぶはぁっ、真狐っ、てめっ――わぶっ」
「ごめーん、足滑っちゃった」
 湯船の中でばしゃばしゃと暴れながら立ち上がろうとする月彦の上から、さらに真狐が飛び込んできて、浴室は一転修羅場の如き狂騒に包まれた。
 どうにかこうにか湯船から這い出すも、当然制服はびしょぬれ。そしてそれは着衣のままで暢気に湯に浸かってる真狐も同様だった。
「何考えてんだよ! これ明日も着るんだぞ!?」
「だから足が滑ったって言ってるでしょ?」
「とにかく! お前も湯船から出やがれ! ていうか浴室から、家から出て行け!」
「うわ、ひどっ。こんなずぶ濡れで外に出て、あたしに風邪ひけっていうの?」
「自業自得だろうが!」
 付き合ってられんとばかりに月彦は脱衣所に出て、びしょぬれになってしまった制服を脱いでいく。ぴょんと、真狐もその隣に飛び出してきて、いそいそと脱衣を始める。
「やん……月彦のせいで下着までビショビショになっちゃってる」
「紛らわしい言い方をすんな! ていうか俺のせいじゃなくて自分のせいだろうが!」
 ぶぇっくし!――早くも寒気を感じて、月彦はくしゃみをしながら上着以外を洗濯機の中に放り込んでいく。
「ああ、あたしは先に入って待ってるから。あんたも風邪ひかないうちに来なさいよー?」
「わっ、こら……お前は入るなって言ってんだろうが!」
「なぁーに? あんたまさか……あたしと一緒に風呂に入るのが怖いの?」
 既に一足先に脱衣を終え、飛び込むように浴室へと移動した真狐は曇りガラスの引き戸から肩口までを覗かせながら、にたりと笑う。
「こ、怖いって何だよ! 俺はただお前に風呂に入るなって言ってるだけだ!」
「そんな事言ってぇ、本当はあたしの魅力に負けて襲っちゃいそうになるのが怖いだけなんじゃないのぉ?」
「誰が負けるか! 真央の誘惑にも(そんなには)負けない俺の鋼の理性舐めんなよ!?」
「じゃあ証明してみなさいよ」
「なぬ……」
「くすくす……ま、自信がないなら逃げればいいんじゃない? あたしはどっちでもいいわよ?」
「ぐぬぬ……」
 安い徴発であるのは解っている――が、かといって逃げるわけにもいかず、月彦はやむなく最後に残った下着も洗濯機の中へと放り込み、浴室へと戻った。

「あら、なーに? 結局あんたも入るの?」
 一足先に湯船に浸かっていた真狐は、月彦の顔を見るなり勝ち誇ったような笑みを浮かべる。
「なんだかんだ言って、やっぱりあたしの裸が見たかったんだ?」
「……勝手に言ってろ。つか、湯船に浸かる前にせめて先に体を洗え!」
 この野生動物が!――そんな悪態をつきながら、月彦は風呂椅子へと腰を下ろし、洗面器で湯を掬ってさばぁと肩口から被る。
「ねー月彦。……背中流してあげよっか?」
 横で湯船に浸かっていた筈の女の姿がいつのまにか忽然と消え、背後に回っていたとしても、月彦はさして驚かなかった。
「いやいい」
「遠慮しなくたって良いのよ? 今日は真央のかわりにあたしがあんたの背中を洗ってあげる」
「いいって言って――……」
 にゅるりっ――突然背中に押し当てられた柔らかい感触に、月彦は思わずうわずった声を上げそうになる。
「こ、こら……真狐、お前……」
「なに驚いてんのよ。……あんたがいつも真央にさせてる事でしょ?」
 にゅるり、にゅるり――恐らくボディソープを塗りたくったであろうおっぱいを背中に押しつけられ、月彦は咄嗟に唇を噛みしめる。
「お、俺がさせてるわけじゃない! ま、真央が……か、勝手……に……」
 うひあっ――気を抜けば、そんな声を出してしまいそうだった。真央のおっぱい洗いもなかなかに強烈なのだが、真狐のそれは質量故かその数倍の破壊力にも感じられた。
「んっふふ……ねー月彦。気持ちいい?」
「っ……も、もう……いいから、止め……っ……」
「あたしは気持ちいいからどうか聞いてるんだけど?」
 にゅりっ、にゅりっ、にゅりっ。
 真狐に背後から抱きつかれるようにしてにゅるにゅるおっぱいを押しつけられては、質問に答えるどころではなかった。
「き、気持ちよくなんか……っ……」
 ハッと気がつくと、前に回っていた真狐の手が滑るようにして足の付け根――もう見事なまでにギンギンになってしまっている肉柱へとたどり着き、ぎゅっとそれを握りしめてくる。
「くすくす……お客さんの、もうこんなになっちゃってますよぉ?」
「う、うるさい! 誰がお客さんっ……だっ……や、やめろ! 触るな?」
 しかし真狐は手をどけるどころか、ボディソープまみれの手でにゅり、にゅりと扱くように擦ってくる。
「うっわー、すっごぉい。もうガッチガチじゃない。……そんなに気持ちよかった? あたしのおっぱい」
「ち、違う……これは……」
「何が違うの?」
 剛直を扱く手が強く、早くなる。くぁぁ――そんな悲鳴が、勝手に口から零れ出てしまう。
「ねー月彦。あんたのコレ、おっぱいで挟んであげよっか?」
「……っ!」
 迂闊にも体が反応してしまい、背後の狐が耳の裏側でくすくすと声を上げて笑う。
「このガッチガチに勃っちゃってるのを、おっぱいで挟んでにゅりっ、にゅりって擦ったら、すっごく気持ちいいと思うんだけど?」
「そ、れ、は…………」
 ごくりと、生唾を飲んでしまう。心の天秤がグラグラと大きく揺れ、真狐の言葉に傾くのを感じる。
「でも、タダじゃ嫌かなぁ?」
「な、何が望みだ?」
 つい尋ね返してしまって、真狐がまたくすりと笑う。
「そーねぇ……お腹もいっぱいだし。………………じゃあ、あんたのプライドを貰おうかしら」
「俺の……プライド?」
 くす――そんな笑みを残して、真狐が体を離す。そのまま浴槽の縁に腰掛けると、意味深に足を組んだ。
「あたしの足を舐められたら、あんたの望み通りおっぱいで挟んであげよっかなぁ?」
「なん……だと」
「あら、別に初めてする事じゃ無いでしょ?」
 くっ、と月彦は唇を噛み、赤面までしてしまう。
(こ、こいつ……どんだけ“知ってる”んだ)
 まさか、矢紗美に促されてやってしまったアレまで見られていたというのか――そのこと自体にはそこまで後悔はないのだが、この女に見られていたかと思うと、途端に恥ずかしくなってくるから不思議だった。
「へ? 冗談で言っただけだけど、まさか本当にしたことあるの?」
 そして次の瞬間、真狐に目を丸くされ、自分がただかまをかけられただけだと気づいて、二重に恥ずかしくなった。
「へぇー、あんたってそういう趣味あったんだ? 相手はだれかしら?」
「お、俺にそんな趣味はねえ! あっても、誰がお前の足なんか舐めるか!」
「舐めないなら挟んであげないわよ?」
「うぐっ……」
「こうやって挟んで……れろ、れろって舌で舐めてほしくない? おっぱいで両側からにゅりにゅりって擦って、最後はごっくんって全部飲んであげるわよ?」
「ううう……」
「それとも、顔にかけるほうが好み? どっちでもいいわよ? フフ……ほら、どうするの?」
 目の前で組んだ足先をプラプラされて、月彦は唸るような声を上げる。まさに本能と矜持のせめぎ合いだった。
 そしてその戦いに勝ったのは――
「な、舐めるだけで……いいんだな?」
 にぃと、真狐が口の端を歪める。
「しゃぶるわけじゃなく、ただひと舐めするだけでいいんだな?」
「フフ、それでもいいわよ?」
 勝ち誇ったような笑みを浮かべ、真狐が足先を伸ばしてくる。月彦はおずおずとその足先を掴み、ごくりと喉を鳴らした。
「だが断る!」
「えっ、きゃあ!」
 そして月彦が足を持ち上げると、真狐はたちまちバランスを崩し、悲鳴を上げながら後ろ向きに湯船の中へと転げ落ちた。
「うぇーはははは! ざまーみろ! 誰がお前の足なんか舐めるか!」
 ばたばたと湯船の中で藻掻いている真狐を指さしながら、月彦は高笑いを上げる。
「がほばほばほ」
「はははははははっ!」
「がぼほっ、がぼがぼ」
「はは…………?」
「がぼ……」
「お、おい……大丈夫か!?」
 いやに長く藻掻いていると思った矢先、とうとう藻掻く事すらもやめてしまった真狐を引き上げようと、月彦が湯船に身を乗り出した瞬間――
「ちぇすとぉ!」
「どわぶっ」
 突然後頭部が掴まれたかと思えば、今度は月彦が湯船へと沈められる。幻術?変わり身?――そんな単語が一瞬頭をかすめたが、すぐにかき消えた。
「がぼがぼがぼっ」
「よくもやってくれたじゃない。月彦のクセに!」
「がぼぼっ、うるせぇ! 元はといえばおまえがっがぼぼっ」
 月彦もまた真狐に掴みかかり、互いに相手を湯船に沈めようと上になったり下になったりの死闘を繰り広げること十数分。
「あーもーあったま来た! こうなったら意地でもあんたのプライドべっきべきのぼきぼきに叩き折ってやるわ!」
「出来るもんならやってみろ!」
 吠える真狐。迎え撃つ月彦。
 二人の夜は、まだまだ続く……。



「なぁ、真狐。一つ質問があるんだが」
「あんた質問多すぎよ」
「……何でこんなことになってんだ?」
 真狐を見上げながら、月彦は納得がいかないとばかりに眉を寄せる。その体は湯上がり――腰にタオルを巻いただけの状態であり、かたや月彦を見下ろす真狐も体にバスタオルを巻いただけの状態だった。
 互いにそんな状態で――月彦は何故か自室のベッドの上で仰向けになり、真狐に組み伏せられているのだった。
「そりゃあ、あたしがあんたのプライドをへし折る為に決まってるじゃない」
 はらりと、真狐がバスタオルを払いのけ、ベッドの外へと放る。たちまちスリムな体には不釣り合いすぎるわがままおっぱいが露わになり、それに反応するかのように剛直ががっちりと屹立し、腰に巻いていただけのタオルなど容易くはねとばしてしまう。
「あんたの唯一の取り柄なんでしょう?」
 “これ”――真狐が不適に笑い、剛直を押し倒すように、自らの秘部を擦りつけ体重をかけてくる。
「ひ、人を性獣みたいに言いやがって……お前だって似たようなもんだろうが!」
「なら、丁度良いじゃない。……どっちが上か解らせてあげる」
 真狐が、微かに息を乱しながら腰を前後させる。湿り気を帯びた微肉が竿部分と擦れ、次第に湿った音を立て始める。
「何だよ……なんのかんの言って結局こうなるのか……。ホントはただお前がヤりたかっただけじゃないのか?」
「別に、あんたが今すぐ負けを認めて這い蹲って泣きながら謝るなら、止めてあげるけど?」
「……上等だ。逆にヒィヒィ鳴かせて、ごめんなさいもう悪戯はしません盗み食いもしませんどうか許してくださいって言わせてやる。覚悟しろ」
 月彦が真狐の体に――そのたわわなおっぱいへと手を伸ばす――が、その手首が真狐に掴まれ、阻害される。
「ダメよ、まずはあたしが先」
「先ってなんだよ!」
「あんたは大人しくしてろ、って事……ンッ……」
 真狐が俄に腰を浮かせると同時に、押さえつけられていた剛直がぐんと天を仰ぐ。その先端部へと秘裂を合わせて、真狐がゆっくりと腰を落とし込んでくる。
「んっ、ぁっ……大きっ……あぁ!」
「っ……くっ……」
 ぬぬぬと飲み込まれていく感触に、月彦は背筋に冷たいものが走るのを感じる。そう、どれだけ記憶を封印しようとしても、体は覚えているものなのだ。
 即ち、“これ”はかつて自分を犯し食らった女のものであると。
「ふふ……こんなに硬くしちゃって……あんたこそ、本当はあたしとヤりたくてヤりたくて堪らなかったんでしょ?」
「トチ狂った事言ってないで、さっさと……っ……腰を落とせよ。て、手伝ってやってもいいんだぜ?」
 真狐の太股のあたりを撫でながら、月彦も精一杯に強がる。真狐もまた同様なのか、キッと月彦の睨むように見下ろすと。
「ンッ……ぁあっ!」
 ずん、と一気に腰を沈めてきた。
「くっ……」
 月彦自身も、根本まで飲み込まれたという事に言いしれぬ不安のようなものを感じてしまう。違う、あの時とは違うのだと必死に自分を言い聞かせながら――笑う。
「はぁぁっ……すっごぉい……あたしのナカでグンって反って……よくなじませてから動かないと……裂け、ちゃいそ……ンッ……」
 真狐が微かに息を乱しながら小刻みに前後左右に腰をくねらせる。
「ねえ、あんたまさか……真央とする時もこんなのでヤッてるの? さすがに違うでしょ?」
「さあ……どうかな」
 精一杯平静を装いながら、月彦は不敵に笑ってみせる。
 ――が、その実。
(やっ、べ……なんだ、これ……)
 余裕の笑みとは裏腹に、その心中は焦燥にまみれていた。
(熱くて……ぐにゅぐにゅって、柔らかい肉が絡みついてきて、吸い付いてきて……と、溶かされそうだ……)
 本来なら、真狐の都合など関係なしに下からガンガン突き上げ、そのまま主導権を奪ってやるつもりだった。が、下手に動けば暴発の危険があるほどに、月彦は早くも追いつめられていた。
「ふふ、ふ……イイでしょ? あたしのナカ。……ほら、イイって言いなさいよ」
「ど、どこがだ……ちょっと遊びすぎなんじゃないのか? なんかユルいし、真央とは比べものに――はぐぅっ」
「誰のがユルいって?」
 突然ギチッ、と剛直が締め上げられ、月彦は堪らず悲鳴を洩らしてしまう。
(ちょっ……つ、潰れるっ……!)
 “硬度”には自信があるつもりだった。しかしこの圧力は想定外であり、尿道のすき間すらツブされているのではないかというほどの締め上げに、月彦は呼吸すらも出来なくなる。
「ねえ、ほら。答えなさいよ。誰のがユルいって?」
「ゆ、ユルくない……全然緩くないです!」
 さながら、首まで絞められているのではないかと錯覚するような強烈な締め上げに、月彦は堪らず声を上げた。
「じゃあ、気持ちいい?」
 先ほどまでの怒りの混じった声とは一転、媚びるような声だった。だが月彦はこれには答えず、頑なに沈黙を貫く。
「ふふっ」
 そんな月彦を見下ろしながら、真狐が徐々に腰を使い始める。馴染ませる為の動きから――さながら暖機運転を終えたエンジンのように――本格的に腰をくねらせる。
「くっ、お……」
「イイならイイって言いなさいよ、ほらっ」
 ぐりん、ぐりんと真狐がロデオでもやっているように腰をくねらせる。その都度、月彦は出すまいと歯を食いしばっていても、嘆息せずにはいられない。
(ね、ねじれる……! ねじ切られる!)
 これほどの強烈な刺激は記憶に無かった。――否、正確にはこの女との営みの中で経験したはずではあったのだが、完全に記憶から消去されていた。
「ふ、ふ……すっごぉい……あんっ! カリのところが……引っ掻くみたいに擦れて……ぁはぁぁあっ!」
 腰を使いながら、真狐もまた嬌声を上げる。くねらせるだけの腰の動きから、今度は腰を持ち上げ、打ち下ろすような動きも交えてくる。
「くっ、はっ……」
 吸盤でもついているのではないかという程の吸い付き、絡みついてくる肉。真狐が腰を上げると、剛直ごと体を持ち上げられるような錯覚すら感じて、月彦は悲鳴じみた声まで上げてしまう。
「アハッ、なーに女みたいな声出してるのよ。…………そんなにイイの? あたしのナカが」
「う、うるさい……くっ……こ、こんなの……真央に比べたら……」
「真央のより、イイでしょ?」
 ぬぬぬっ!――真狐が一際深く腰を落としてきて、そのまま胸を押しつぶすように密着してくる。頬に真狐の吐息を感じて、月彦は咄嗟に顔を逸らした。
「ふふ、すっごい脂汗。なぁーに? まさかもうイきそうなの?」
 れろりっ、そんな舌の感触。
「ち、違う……」
「そうよね。あたしよりも遙かに気持ちいい真央ので鍛えてるんだもの。これくらいじゃイッたりなんかしないわよねぇ?」
 密着したまま――胸をおしつけたまま――キュン、キュンと締め付けてくる。
「ちょ、や、止めろ……!」
「止めろ? 何を止めるの?」
「だ、だから……そうやって、締めるのを……」
「締めて欲しいの?」
「ち、違っ……くぁぁぁぁぁっ!」
 ギュウゥゥ――強烈な締め付け――そして、真狐が僅かに腰を前後させた。
 それだけで。
「あんっ」
 びゅるっ、びゅっ、びゅ!
 月彦の必死の我慢もむなしく、臨界点を越えた白濁が打ち出されてしまう。
「あらあら……ちょっとぉ……月彦さん?」
 これ以上ないというほどの勝ち誇った笑みを浮かべた真狐の顔を直視できず、月彦はうううと唸りながら顔を背ける。背けながらも――親の心子知らずとはよくいったもので――白濁の噴出は容易には止まらず、月彦は体をビクつかせながら、真狐のナカへと子種を注ぎ込んでいく。
「これはいくらなんでも早すぎなんじゃないでしょーかぁ? 全然気持ちよくないんじゃなかったのぉ?」
「う、うるさい! 黙れ!」
「なぁーにぃ? 早漏のクセに、その態度。しかも嘘までバレちゃって、恥ずかしくないの?」
「早漏って言うなぁ!」
「うわっ、しかもまだ出してるし。びゅっ、びゅっって……口ではすっごい嫌がってたクセに、本当はあたしに襲われて嬉しかったんでしょ?」
「だ、黙れって言ってんだよ!」
 もう、ここしかない!――月彦は体を起こし、真狐の体を組み伏せ、一気に形勢逆転を計る――つもりだった。
 しかし体を起こすより先に、その両手首は三度真狐によって掴まれ、逆にベッドへと押しつけられる。
「ふふ、ダメよ。あんたはもう、ずっとあたしのオモチャ。夜が明けるまで、あたしの下で悶えてなさい」
「なん、だと……くぁぁっ……」
 月彦の言葉は、再び強烈な締め付けによって封じられた。くすりと、妖艶な笑みを一つのこして、真狐が腰の動きを再開させるが、月彦に出来た事はただただ喘ぐ事のみだった。


 ――数時間が、過ぎた。

「あぁぁっ、あぁっ、あぁんっ! あぁっ……あぁっ……!」
 濡れた髪を振り乱しながら、真狐が喘ぐ。
「あぁぁっ、あぁ! イイ、わぁ……ンッ……カリが、引っかかって……あぁぁ!」
 ぐちゅっ、ぐちゅっ、ちゅぶぶっ――!
 真狐が腰をくねらせるたびに結合部からくぐもった音と共に、白濁混じりに恥蜜が溢れてくる。
「はァーッ……はァーッ……ほらぁっ、胸もっ、触って……むぎゅ、むぎゅってぇ!」
 手首を掴まれ、真狐の胸元へと促され、片手では余るその質量をむぎゅうっ、と握りしめるように揉み捏ねる。
「あハァァ! いいぃ……奥にキュンって来るぅぅ!」
「くっ、あぁぁ……」
 真狐の言葉の通りに、剛直を締める媚肉の圧力が一層増し、月彦は悲鳴を上げる。
「はぁ……はぁっ……まだイくんじゃないわよ? もうちょっと……もうちょっとなんだからぁ……ンンッ!」
 真狐が両胸をもみしだかれながら、さらに腰を振る。尻を持ち上げ、音を立てて打ち下ろす。
「はァー……はァー……いいぃ……コレ、いイィ……! あぁぁぁぁっ……イくっ……イくぅぅぅッ!!!!」
 キュンッ! キュキュキュゥゥ!
 膣内が強烈に収縮し、剛直が締め上げられる――と同時に、月彦は精を放っていた。
(くっ、あ……す、吸われる……!)
 絶頂と同時に来る、強烈な疲労感。それは単純に射精による疲労ではなく、それ以上の“何か”を奪われているとしか思えなかった。
「ァはぁぁぁ……フフ……すっごぉい……まだ出るんだ? あんた、またあたしを孕ませる気?」
 まんざら嫌でもない――そんな風にも取れる笑みを浮かべながら、真狐が上体をかぶせてくる。
「や、止め――んぷっ」
「ん〜〜〜〜っ」
 唇が重なり、ぬろりと舌が口腔内へと侵入してくる。真狐の目的はキス――ではなかった。
 とろり、とろりと舌を伝って唾液が送り込まれてくる。それを飲ませる事が目的だった。
「んっ……」
 最初は、拒んだ。しかしいつしか射精の度に、まるで儀式のように繰り返され、そして強制され――もはや拒む事にも疲れ、月彦はこくり、こくりと喉を鳴らして送り込まれる唾液を飲み干していく。
「んふふっ……」
 そうして月彦が喉を鳴らす様を、真狐はなんとも嬉しそうに見下ろすのだった。興奮すら覚えているのか、ぶるりと身震いまでしながら。
(くっ、そ……)
 屈辱だった。鼻持ちならない――それこそ、地球上で最も毛嫌いしている女が満足を得る為の道具として使われている自分が悔しくて堪らなかった。
 自分を見る真狐の目は異性を見る目でも、ましてや恋人に向けるものでもない。ただ、自分が捕まえた獲物を見下ろす捕食者のそれだという事が、歯ぎしりをする程に屈辱的だった。
(何とか……反撃を……)
 何度そう思っただろうか。しかし絶頂を重ねるたびに逆らう気力は根こそぎ奪われ、体力も、精力までもが底を突きかけていた。
(真央とシてる時とにてる……けど、決定的に違う)
 確かに真央とシていると、時折“吸われている”と感じる事はある。が、それはさほど問題にならないレベルでの事であり、真狐とのそれはまさしく“足腰が立たなくなるレベル”でそう感じるのだった。
「ふふ……ねぇ、月彦……悔しい?」
 まるで、月彦の心中を見透かしたような笑み。
「あんたがコレを使って、今まで何人の女を好きにしてきたか知らないけど……相手が悪かったってそろそろ理解してる?」
 “コレ”の所で、それを指し示すかのようにキュッ、と真狐が締め上げてくる。
「っっ……く、そ……」
「あぁぁ……すっごくいい顔……“悔しい”ってにじみ出てる感じ。……ゾクゾクして来ちゃう」
 れろり、れろり――まるで大好物でも舐めるように、真狐は月彦の額やこめかみに滲んだ脂汗を舐め取っていく。
「実を言うとさー、“ご褒美”なんかどうでも良かったのよね。久しぶりにあのデブ狸とやりあって、なんか血が騒いでたっていうか、ムラムラしてたっていうか。ぶっちゃけ誰でもいいからガッツリ犯りたかっただけで、相手はあんたじゃなくても良かったんだけど」
「だ、ったら……何で、俺を……」
「あんたなら知ってるでしょ? あたし、人が嫌がることをするの大好きなの」
 つまり、一番嫌がりそうな相手として選ばれたという事か――月彦は鈍くなった思考力で、そんな諦観めいた事を考える。
(だから、さっき……お前なんかとヤりたくないって言った時……)
 両目を輝かせていたのはそのためだったのだ。この女にとって、嫌だ嫌だと逃げ回るような男こそが大好物という事なのだろう。
「でも、まだ全然足りないわ。……ほら、口を開けなさいよ」
「んぁっ……くっ……んぷぷ……」
 頬を両側から押され、強引に口を開けさせられて、再度キス。
「んふふっ……」
 唇を重ねたまま、真狐が喉で笑う。笑いながら、とろり、とろりと唾液を送り込んでくる。
(こいつ、どんだけ……)
 唾飲ませるの好きなんだと、月彦は呆れる思いだった。が、逆らう気力も既に無く、注がれるままに飲み干していく。
「んん〜〜っ……」
 キスは、まだまだ続く。今度は舌同士を絡め合う、通常のディープキスに似たものだった。どうやら“唾液飲ませ”で真狐はかなり機嫌を良くしているらしい、その肩越しに見える尻尾は喜ぶ犬のごとくふわさ、ふわさと左右に振られていた。
(何……だ……ピンク色のが……)
 尻尾が振られるたびに、何か桃色の粒子のようなものが辺りにまき散らされているように見えた。
「ふはぁ……もぉ……あんたのせいですっごいムラムラして来ちゃった……はぁぁ……ぁあん!」
 唇を離すや、真狐は熱っぽい吐息を漏らしながら腰を動かし始める。
「あっ、んっ……あぁっ、あっ、あっ……あぁっ、ああっ!」
 胸を反らし手をベッドにつきながら、腹の裏側を反った剛直の先端で擦るように動かしたかと思えば、膝を立てて上下のピストン運動を繰り返したりと、その様はまさしく色情狂と言わんばかりの激しさだった。
「あぁーーーっ! あぁーーーっ……いいっ……いいぃ……あぁぁーーー!!」
 ぱんっ、ぱんっ、ぱんっ!
 肉と肉がぶつかる音を響かせながら、真狐が腰を振る。開きっぱなしの口元からは涎を溢れさせ、ひっきりなしに愉悦の声を上げ続ける。
「ほらっ、あぁ……あんたも、下からっ……あぁん! もっとっ、あんっ! 突き上げ……あぁん!」
 言いなりになるのは癪だったが、気づいたときには体が動いていた。ベッドのスプリングを利用して、真狐のナカを突き上げるその行為が自分の意思によるものなのかどうか、もはや月彦自身にもわからなくなっていた。
「あぁぁぁぁぁ! あぁぁぁぁあっ! い、イきそ…………イくっ……イくぅぅ!!」
 感極まった声を上げながら、真狐が上体をかぶせ、密着してくる。
「抱いてっ、強くっ……抱いてェェ!」
 言われるままに、月彦は仕方なく真狐の背へと両手を回し、ぎゅっと抱きしめた。
「もっと、強く」
 がるるっ――まるで今にも噛みつきそうな剣幕で言われて、月彦は慌てて両手に力を込めた。
「あーーーーーーーーーーーーーーーーーッ!!!!」
 まるでその圧力によって絞り出されたような絶叫を上げて、真狐がイく。遅れて、月彦もそのナカへと精を放っていた。
「あぁぁぁぁ…………」
 ひくっ、ひくと痙攣するように下半身をヒクつかせながら、真狐がとろけたような声を上げる。
 そして。
「ん〜〜〜〜っ」
 ある程度呼吸を整えるや、キス。送り込まれる唾液を、月彦は無感動に飲み干していく。
「……んー……………………なんか、つまんない」
 五分ほどは、そうしていただろうか。キスが終わるや、真狐はとんでもない言葉を口にした。
「つ、つまんないって何だよ!」
「なんていうか、反応が面白くない。あんたが全身全霊嫌がってる所を無理矢理犯したいのに、なんかだんだんなげやりになってるし」
「あのな……」
 月彦は呆れのあまり絶句せざるを得なかった。
(この女、狐じゃなくて悪魔じゃないのか)
 これだけ好き勝手やっておいて、その言いぐさかと。月彦が呆れていると――突然真狐はにへらっ、と文字通り悪魔の笑みを浮かべた。
「……そーだ。いいこと思いついちゃった」
 この場合の良いことというのは、間違いなく自分にとって悪いことであると、月彦は即座に理解した。
 逃げようともした、が、ろくに体が動かなかった。第一、真狐に上に乗られているため、仮に動けたとしても逃げるのは難しかった。
「な、何する気だ!」
「怖がらなくていいわよ、すっごく気持ちいい事だから」
 意味深な笑みを浮かべながら、真狐が腰を浮かせて剛直を引き抜き、引き抜いた剛直を手で扱き始める。。
「やめろ、やめろ、何する気だ!」
「いいから、あたしに全部任せてあんたは天上のシミの数でも数えてなさいよ」
 右手が剛直をしごき、左手がその根本――否、さらにその下へと這う。
「ば、ばかっ、どこに手を」
「大サービスよ? 奥歯ガタガタ言わせながら喘いで、アヘアヘになるまでイかせてあげる」
 真狐の指が、決して破られてはいけない、男としての最後の矜持の門へと触れる。
「や、止め――アッーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!」



 自分の留守中に一体何が起きたのか、真央には想像するしかなかった。ただ、少なくとも父親にとって楽しい事ではなかったのだという事は、翌日の夕方帰宅した際――白耀邸に泊まった後、学校もそちらから行った為――の月彦の壊れっぷりを見れば一目瞭然だった。
 そう、“壊れている”――その表現こそが的を射ていると思えた。
「やっぱり、保科さんにお留守番を頼むべきだったかしら」
 義母である葛葉などは困ったように苦笑を浮かべながらそんなとんちんかんな事を口にしていた。どうやら月彦を一人で留守番をさせてしまったせいで――恐らくは寂しさのあまり――壊れてしまったとでも思っているらしかった。
 とはいえ、まさか自分の母親が原因みたいです、等と言えるわけもなく、なんとなく葛葉に話を合わせるしかないのが、居候の辛いところだった。

 二階へと上がり、自室のドアを開ける。
「父さま、具合はどう?」
 ベッドに横になっている月彦に言葉をかけるも、返事はない。その目は開かれているが、中空を見つめたまま焦点は合っておらず、真央が目の前で軽く手を振ってみせても何ら反応を返さない。
 その髪はたった一夜のうちに白髪と化し、頬はこけ目は落ちくぼみ、まるで別人のように様相が変わってしまっていた。真央は持って上がってきたおかゆの乗った盆を一端ベッドの脇に置き、同じく持ってきたハンカチで開きっぱなしの口の端から垂れている涎を拭う。
「父さま、義母さまがおかゆ作ってくれたから食べよ?」
 真央はそっと月彦の体を抱き起こし、ベッドの端に背をもたれさせるようにして座らせる。おかゆ皿を手にもち、月彦が火傷してしまわぬよう、スプーンで掬ったおかゆを入念に吹いてさましてから、その口元へと運ぶ。
 幸いなことに、このように壊れてしまっても食欲だけは完全に消え失せたわけではないらしい。口の中まで運んでやれば、あとはもごもごと自分で噛んで飲み込んでくれた。真央はただ、適度に冷まして、口に運ぶという作業を繰り返す。
 時折口の端から零れてしまうご飯粒をハンカチで拭いながら、三十分近くかけて食事を終え、月彦の体を寝かせ直す。
「父さま……」
 月彦の目は、相変わらず虚空を見たままだ。一体全体どういう目に遭わされれば、一夜にしてここまで変わり果ててしまうのだろうか。
 不思議と、母親を憎むような気持ちは沸かなかった。これをやったのが真狐以外の女であれば、それこそ殺しても飽き足らない程に憎んだかもしれないのだが。
「父さま……早く元気になって?」
 或いは――という思いから、真央はそっと掛け布団の下を探り、月彦の手を握るとそっと自分の方にたぐり寄せる。
 そう、或いは――“あの時”のように、“あの方法”で元気を取り戻してくれるのではないかと。
 真央は月彦の手を招き寄せながら、そっと制服の前のボタンを外す。下着を上へとずらし、自らの胸元へと月彦の手を押し当てる。
「ウ、ゥ、ァ」
 意外にも、月彦は即座に反応した――が、それはどう見ても介抱に向かうものではない。言うなれば、拒絶反応だった。
「ア゛ーーーーーーーーーーーーーーッ!!!! ア゛ァァーーーーーーーーーーーーーーーー!!!」
「と、父さま!?」
 突然狂ったように叫び声を上げ、暴れ出す月彦に真央は驚き、慌てて月彦の手を解放した。
 月彦はといえば、そのままベッドの隅――部屋の角で蹲ると頭をかかえるようにしてガタガタと震えていた。
「父さま……」
 真央は月彦の方へと伸ばしかけた手を途中で引き、盆を手に階下へと降りた。



「…………先輩、まだ良くならないんですか?」
「うん……おかゆは食べてくれるんだけど」
 月彦が廃人のようになってしまってから、既に3日が経過していた。当然その間学校も休み続けており、いち早く事情を説明した由梨子は毎朝顔を合わせるなりそう尋ねてくるのだった。
「……一体、真狐さんに何をされたんでしょうか」
 由梨子の疑問は尤もだった。真央自身、その疑問を堪えかねて、母に尋ねてみたりもした。帰ってきた答えは「軽く遊んでやっただけ」というものであり、その詳細については教えてもらえなかった。
「白耀さん――真央さんのお兄さんも、随分心配なさってました。近いうちに一度お見舞いに行きたいって……私も、出来れば一緒に…………その、何か助けになるわけじゃないと思うんですけど……」
「ううん、そんなことないよ。由梨ちゃんや兄さまが来てくれるだけで、父さまもきっと嬉しいと思うし……」
「だと、良いんですけど……」
 当然、由梨子の家庭の事情についても先日お泊まりした際に由梨子に教えてもらって知っていた。そんな由梨子に余計な気を遣わせたくないと思う反面、もし由梨子が見舞いに来た途端けろりと月彦が回復してしまったらどうしようという、謎の心配も相まって、真央はなんだかモヤモヤした気持ちになってしまう。
(父さまも……由梨ちゃんと一緒にいると癒されるって言ってたし……)
 或いは、本当に効果があるかもしれない。少なくとも、胸を触らせただけで奇声を上げて怯えさせてしまう自分よりは。
(…………母さまのおっぱいと勘違いしたのかな)
 真央の見たところ、大きさという点ではまだ遠く及ばないのだが、感触や肌の質感などは似ていたのかもしれない。母のそれに似ているという事が嬉しくもあり――今回に限っては――そのことで父親を苦しめてしまう事が悲しくもあった。
「……そういえば、真央さん。聞きましたか? 今日は転校生が来るそうですよ」
「転校生?」
「ええ、しかも女子だそうです。どんな子なんでしょうね」
「…………。」
 父親の件で沈みがちな気持ちを慮って、あえて強引に話題を変えてくれたのだろう。そういった気遣いができるのが、宮本由梨子という女の子なのだ。
 正直なところ、一体どうすれば父親を元に戻す事が出来るのかで頭がいっぱいで、転校生の事などどうでも良かったのだが、由梨子の気遣いを無碍にするわけにもいかず、適当に話を合わせていた所で――予鈴が鳴った。
 真央も由梨子も自分の席へと着席する。程なく担任が教室へと入ってきて、ホームルームが始まった。
「あー、コホン。今日はみんなに転校生を紹介する。……綿貫くん」
 呼ばれて、一人の女子が教室へと入り、教壇の上へと上がる。その姿を見た瞬間、真央は思わず「えっ……」と呟いていた。
 同時に、目が合った。どうやら転校生も真央の姿を探していたらしい。そして目が合うや、不敵にニヤリと笑った。
「綿貫珠裡です。……よろしく」


 
 


 

 

 

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