気が重いという状態は、肉体のほうは具体的にどのような状態になっているのだろう――月彦はふとそんな事を思う。
 気が重い――まさに今の心境がそれなのだが、体の中心の辺りがずしりと重量を増し、手を動かすのも足を動かすのもなんとなく気が進まない。そんな自分の状況を鑑みて、一体全体どういった仕組みでそんな風になっているのだろうか。
 ……詮無い事だとは分かっている。気分転換がてらに一人で出かけ、そういえば白髪染めを買わなければとホームセンターによってみたのはいいものの、全くといっていい程に気分転換が出来ていないことに気がつく。こうして商品陳列棚を眺めていても、頭をよぎるのは昨日矢紗美とかわした約束の件ばかり。
(…………ちょっと、早まったかな)
 少し考えさせて欲しい――そう言うべきだったかもしれない。しかし考えたからといって、はたして答えが変わるだろうか。
 何のことは無い、ただ問題を先送りにするだけだ。ならば決断は早い方がいいに決まっている。
 あとは、“それ”を実行できるかどうかにかかっているのだ。
 はあ、とため息混じりにホームセンター内を練り歩いていた時だった。
「やあ、紺崎君じゃないか」
 聞き覚えはある、がしかし誰のものかは分からない声に、月彦はくるりと振り返った。
「あっ、……えーと…………倉場さん、だっけ?」
 自信なさげに挨拶を返している間に、倉場佐由はたたたと小走りに駆け寄ってくる。黒のスタジャンにデニム生地のズボンという出で立ちは、女性にしては高めの身長も相まってそうだと知らなければ男性にしか見えない。
「こんな所で会うなんて奇遇だね。何か捜し物かい?」
 “こんな所”と佐由は言ったのはおそらく、ホームセンターの中の、それも女性ものの商品が置いてあるコーナーで出会ったからなのだろう。逆を言えば、メンズコーナーで佐由に出会っていたら、月彦もこんなところで会うなんて、と思ったかもしれない。
「……ちょっと白髪染めを買いに来たんだけど見つからなくて」
「白髪染め、か」
 ちらりと、佐由の視線を頭に――ニット帽を被ってはいるのだが――ささるのを感じる。ほとんど黒髪に戻ったとはいえ、未だ前髪の一部が白髪のままであり、さすがにちょっと目を引いてしまう故の苦肉の帽子だった。
「それなら、確か二つ向こうの棚ではなかったかな」
「本当!? 早速探してみるよ」
 月彦は佐由に手を振ってさりげなく別れを告げ、二つ隣の棚の前へと移動する。
「……なんか、思ったよりもいっぱいあるな。まぁいいや、どれも似たようなものだろう」
 どうせどれも髪を染めるという点では大差は無いだろう。とりあえず値段が下から三番目くらいのものであれば大失敗は無かろうと、月彦は特に考えもなしに選んでは買い物かごへと放り込む。
「見つかったかい?」
「ああ、うん。ありがとう、倉場さん」
 先ほどのやりとりで佐由とは別れたつもりだった月彦はやや戸惑いながら、再度佐由の方へと振り返る。
「ときに」
 佐由が、くいとメガネを指で押し上げながら切り出してくる。
「紺崎君は、この後何か予定はあるのかな?」
「この後の予定……特に何もない、かな」
 嘘でも“ある”と言って帰った方がいいのではないかと、月彦は一瞬悩んだ。悩んだが、何となく佐由には嘘が通じないような気がして、つい正直に答えてしまった。
「もし良かったら、少し付き合って欲しい所があるのだが」


 

 

 

 

 

『キツネツキ』

第四十七話

 

 

 

 

 



「実は英理――ほら、この間一緒にカラオケに行った、ちょっとぽっちゃりした子が居ただろう? あの子がバイトをする事になってね」
 ホームセンターから出、駐輪場へと向かうがてら、佐由が事情を説明する。。
「古書店のバイトらしいのだが、なかなか面白い本が揃ってるらしくてね。買い物ついでに少し顔を出してみようと思ったわけなんだ」
「成る程。そういえば倉場さんは何を買いに来てたの?」
「あの店は毎週日曜にサプリメントの安売りをするからね。あとはインスタントコーヒーとナプキンかな」
 わざわざ一つずつ買い物袋から取り出して中身を見せられて、月彦は苦笑いしか返せない。
「って、原付!?」
 さも自然な流れで佐由がホームセンターの駐輪場に止めてあった赤色の原付に鍵を差し込み、座席部分を開けて中からヘルメットを取り出すのを見て、月彦はつい素っ頓狂な声を上げてしまう。
「うん? 何か問題でもあるのかい?」
 どうやら、佐由はいつもヘルメット2つを常備しているらしい。同じように取り出した二つ目のヘルメットを月彦へと手渡しながら、不思議そうに首を傾げてくる。
「いや、えーと……原付って確か二人乗りってダメなんじゃなかったっけ……」
「見た目は小さいがね、一応黄色ナンバーさ。むしろ不安要素は英理用のヘルメットが君に入るかの方だが」
「……これ、あの子用のなのか」
 佐由がつけているブルーのヘルメットに対して、月彦に渡されたのはピンクのヘルメットだった。性別的には逆でお願いしたい所だったりする。
「……ちょっとキツいけど、帽子を脱げばなんとか顎紐は止められそうだ」
 やはり女の子が使うものだからなのだろう。被ろうとした際、ふわりと女物のシャンプーの香りがして、月彦はどきりとしてしまう。
「紺崎君、その手荷物も一緒にしまってしまおう。掴まるのに邪魔になるだろう?」
「じゃあお願いするよ、倉場さん」
 佐由が買い物袋をヘルメットが収まっていたスペースへと入れ、月彦の買い物袋も同様にしまい、シートで蓋をする。
「さて、それじゃあ出発しようか」
「……えと、よろしくお願いします」
 佐由が原付に跨がり、エンジンをかける。その後ろに月彦も跨がり、はたとそこで硬直する。
(……えーと、どう掴まればいいんだろう)
 考えてみれば、バイクの類いに跨がる事が初めてならば、当然二人乗りも初めての経験だった。相手が男友達であればどうとでも好きなように掴まればいいだけなのだが、女友達――しかもまだ出会って二度目の相手では、肩につかまったものかそれとも腹に手を回したものかなんとも難しい所だった。
「脇腹だけは避けてもらえると助かる。人並み外れて過敏なものでね」
 まるで月彦の逡巡を見透かしたように、佐由がくすりと微笑み混じりに呟く。
「りょ、了解……こんな感じなら大丈夫?」
 月彦はしっかりと、佐由の腹部に手を回し、体を固定する。
「…………。」
「…………倉場さん?」
「……いや、何でもない。兄が運転する原付の後ろには何度も乗ったが、そういえば異性を後ろに乗せるのは初めてだと思ってね」
 自分も女性が運転する自動二輪の後ろに乗るのは初めてです、と月彦は心の中で付け足した。
「成る程、これはこれで悪くないものだ」
 月彦の頭では真意を測りかねる呟きを残して、佐由は原付を発進させた。


 てっきり、原付でそのまま英理のバイト先までいくものだと月彦は思っていた。しかしたどり着いた先はどう見ても普通の家であり――大きさという意味では、一般的な住宅のそれよりもやや大きめではあったが――佐由が何の迷いもなく駐車場に原付を止めた事から、月彦にはすぐにそこが佐由の自宅であると分かった。
「倉場さん、小曽根さんのバイト先に行くんじゃなかったの?」
「荷物を置いたら向かうさ。徒歩でね」
「ここから近いんだ」
「いや、バスを使う。原付に三人は乗れないからね」
「…………?」
「すまない、荷物を置いてくるから少しだけ待っていてくれるかい」 
 月彦からヘルメットを受け取り――代わりに買い物袋を返し――元通り原付へとしまうや、佐由は小走りに家の中へと消えていく。そして五分と立たずに戻ってきて、
「では出発しようか。時間的にも丁度良いはずだ」
 ここまで来て、反対するはずもない。月彦は佐由が案内するままにバスにのり、隣町の商店街へとやってきた。アーケードつきの商店街はそれほど活気に溢れているというわけでもなく、三件に一件の割合でシャッターが閉まっているという、なかなかの世知辛さを垣間見せてくれる構成になっていた。
 その中でも一際異彩を放つ――わけでもない、むしろくすんだ印象を受ける古ぼけた外見の古書店の前で、佐由は足を止めた。
「分福堂……ここだ」
「ぶんぶく堂……」 
 古びた店の外観とは裏腹に、入り口の上に掲げられた巨大な木製の看板とそこに書かれた“堂福分”の文字はいやでも目を引く。が、それよりもさらに目を引くのが、入り口脇に置かれた巨大な信楽焼のタヌキの置物だった。
「………………。」
 別に信楽焼のタヌキの置物自体はそれほど珍しいものでもない。月彦自身、今まで行った様々な場所の様々な店先で何度か見かけた経験がある。
 だがしかし、眼前にあるタヌキの置物はそのどれとも異質なものに見えてならない。まるで今にも動き出しそうな程に瑞々しくすら見え、もしやという思いと共に手を伸ばして触れてみるも、陶製らしいそれは堅く冷たい手触りしか返してこない。
「あーーーーーっ! さゆりん!……と、ピコりん!」
 自分の身長の八割ほどもあるタヌキの置物を矯めつ眇めつしていた月彦の耳に、そんな声が飛び込んでくる。
「やあ、英理。なかなか似合ってるじゃないか」
「えへへー」
 見ると、私服(さすがに今日はフリルつきのワンピースではなく、動きやすいジーンズにセーターという組み合わせだったが)の上からカーキ色のエプロン(店のロゴ入り)をつけた英理がハタキ(パタパタとも呼ばれるアレ)を片手に店の中から顔を覗かせていた。
「こんにちは、小曽根さん」
「二人、一緒に来たにゃり?」
 不思議そうに首を傾げる英理に、佐由は微笑みながら頷いた。
「うむ。実はデートの途中でね」
「ぶっ」
 と、勢い余って月彦は置物タヌキに頭突きをしてしまった。
「冗談だよ、紺崎君。英理だって分かってるさ」
「あ、あはは……そ、そうだよね……倉場さんとは、さっきたまたま会って、それで誘われただけなんだ」
「ふぅーん……たゆりんは一緒じゃないにゃり?」
 きょろきょろと、英理は周囲を見回す。が、もちろん居るはずが無い。
「ああ、折角だから黒ポメ……白石くんも誘うべきだったか」
 うっかりしていた、と言わんばかりの呟きだったが、その横顔に月彦はどこか確信犯的なものを感じた。
「それはさておき、英理。そろそろ交代の時間じゃないのか?」
「にゃー。まだ後三十分くらいは残ってるにゃりよ」
「少し早く来すぎたか。仕方ない、店内で時間を潰すことにするよ」
 言って、佐由は一足先に店の中へと消えていく。その後を追うように英理も仕事に戻り、一人残された月彦もやむなく店の中へと入ることにした。
(うーん、見れば見るほど…………普通の古本屋だ)
 否、“普通の”ではないなと、月彦はすぐに気がついた。何故なら、店内をどれほど探しても、普通の古書店で売っているような漫画の類が一切置かれていないからだ。それ自体が鈍器として扱えそうな分厚い医学書やら史書やらが整理されているのかされていないのか分からない状態で置かれ、試しに一冊手にとって開いてみるも、びっしりとならんだ意味不明な文字列にたちまち眠気を感じて、月彦はそっと本を本棚に戻した。
「ふむ、これは確かに興味深い。……私もここで働きたくなってきたぞ」
 しかし、佐由の方はむしろ興味をかきたてられるらしく、目を爛々と輝かせながら鼻息荒く分厚い本を手にとってはぱらぱらとめくっていた。
 人の興味はそれぞれ違う。蓼食う虫も好き好きだなぁ――そんな事を考えながら、月彦は比較的興味を引かれそうなジャンルを探し求めて店内をさまよい歩く。
「おっ、この辺なら……」
 と思ったのは、民話や伝承などに関する本が集められているコーナーだった。ほとんどは小難しそうな民俗学を扱った本ばかりなのだが、中にはいくつか聞き覚えのあるタイトルを掲げた本も混じっていた。
(……いや待て、なんか微妙に違うぞ)
 月彦は身を屈め、気になるタイトルの本をいくつか手に取ってみる。
 “実録! カチカチ山の真実! 〜タヌキは本当に悪者だったのか?〜”
 “しょうじきタヌキといじわるキツネ”
 “性悪狐と三匹の子狸”
 “うさぎと亀とたぬき”
 “三年狸寝入り太郎”

 それらの本を手にとり、ぱらぱらとめくってみる。子供向けの絵本風のものもあれば、印刷ではなく筆で書かれた古文書風のものまであった。
(なになに……こっちは“稲荷信仰による狸への悪質な風評被害について”か……)
 軽く目を通してみた限りでは、なるほどこういったとらえ方もあるのかとうなずけなくも無いものだった。
(……ん、こっちは……“害獣キツネ 絶滅させるべき百の理由”か。なかなか過激なタイトルだな)
 他にも“毛皮の剥ぎ方〜キツネ編〜”に始まり、キツネの被害に遭った農家の証言をまとめたドキュメンタリー本やら、北海道や東北で実際に使われているキツネ用の罠の紹介やらが纏められた本があるかと思えば、まるで当てつけのようにすぐ隣に可愛い子狸の写真集が置かれていたりする。
「うーん……」
 なにやらモヤモヤするものを感じながら、月彦はそっとその場から離れた。そのまま店内をぶらついていると、わずかに居る客に混じって忙しなく働いている中年の女性が目に映る。先ほど英理がつけていたものと同じカーキ色のエプロンを身につけていることから、店員であるのは間違いないだろう。背は低めで、見事な小太り体型だが、見た目とは裏腹にその動きはキビキビとしている。ただ、やはりその皮下脂肪の量は尋常ではないのか、暖房が効いているわけでもないのに――ましてや、店と外は扉で区切られているわけでもないのに――首から提げたタオルでしきりに汗を拭っていた。
(そういえば小曽根さんも……)
 太っているという程では無いが、ややぽっちゃり気味な英理の姿を思い浮かべて、もしやという思いがこみ上げる。
「あーーーーーー! バカ人間!」
 頭にキンキンと響く甲高い声が聞こえたのは、そんな時だった。
「その声は……珠裡か」
 声がした方を振り返ると、ねずみ色のトレーナーに赤銅色のミニ、黒のタイツといった出で立ちのポンポコ娘が駆け寄ってくる所だった。
「うちに何しに来たのよ! バカギツネは? 真央は一緒じゃないの?」
 うー!と郵便配達員に吠えかかる子犬のように唸りながら、珠裡はきょろきょろと周囲を見回す。
「生憎俺一人だ。そういや、真央のクラスに転校してきたんだってな」
「ふ、ふん! 別に好きでバカギツネと同じクラスに入ったわけじゃないんだから! …………私は……と一緒が良いって言ったのに、ママが勝手に……
「まみさんにはまみさんの考えがあるんだろう。…………てことは、やっぱりここは珠裡の家なのか」
 月彦は、店に入る前に見た外観を思い出す。アーケードに遮られて店の二階部分は半分ほどしか見えなかったが、造りは普通の民家のそれに近いように見えた。おそらくは一階部分が店、二階部分が住居という造りになっているのではないだろうか。
「そういやまみさんは? 奧にいるのか?」
「今日はママは留守。ママはバカギツネのバカママと違って偉いんだから、忙しいの!」
 えへん、と珠裡が胸を反らした、そのときだった。
「あーー! たまりん! 探したにゃりよ」
 英理のなんとも間延びした、力が抜けるような声が聞こえた。
「はい、エプロン。引き継ぎよろしくにゃり〜」
「むきー! たまりんって呼ぶなっていつも言ってるだろばかーーーー!」
「あれ、二人は知り合い?」
 呟いて、愚問だったと月彦は後悔した。バイトとして働いている英理と、そのバイト先の経営者(?)の娘なのだ。面識があって当然ではないか。
「にゃ。もうすっかり仲良しこよしにゃりよ〜」
「全然仲良しなんかじゃない! き、きやすく頭をなでるなぁあ!」
 珠裡はエプロンを受け取りながらぷんすかと煙を噴いて地団駄を踏む。そんな珠裡を、英理はにこにこ笑いながらいいこいいこするように頭を撫でる。
「引き継ぎ、ってことは……珠裡も働いてるのか。偉いじゃないか」
「ふ、ふん……ママがいつも言ってるんだから! 働く者食うべからずって」
「働かざる者、だろ。働く者には食わせてやれよ……まあ、何にせよ偉いぞ、珠裡」
 月彦も英理を倣って、いいこいいこと頭を撫でる。
「きぃーーーーーーーーーーー! バカにするなーーーーーーー!」
 しかしそれを侮辱と受け取ったのか、珠裡は叫び声を上げながら店の奥へと駆けていってしまった。
「……難しい年頃にゃり」
「……難しい年頃だなぁ」


 偶然とはいえ、まみと珠裡の住居もわかり、佐由も無事英理と合流できたという事で月彦としてはキリがいい所だった。
「じゃあ、そろそろ俺は帰るよ」
 と、月彦はさりげなく別れを告げた。この場に妙子が居るのならまだしも、さすがに“友達の友達”とさしたる用事もないのに一緒に居続けるのはなんだかなぁと思ったのだった。
 ――が。
「待ちたまえ、紺崎君」
 さりげなく店を出ようとした矢先、佐由に引き留められた。
「今帰られるのは非常に困る。付き合って欲しいところがあると言っただろう?」
「え……だから小曽根さんのアルバイト先には一緒に来たじゃないか」
「にゃ?」
 一人、あまり事情が飲み込めていないらしい英理が(ちなみに店の奥で着替えてきたのか、その格好はバイト時の格好とは違う、フリルつきのワンピース姿になっていた)両者の顔を交互に見比べるようにきょろきょろする。
「誤解を招くような言い方をしてしまったのは申し訳ない。では改めて頼みたい、ちょっと行きたいところがあるから付き合って欲しいのだが」
「さゆりん、どこに行きたいにゃり?」
 うむ、と大仰に頷き、佐由が“その場所”を口にするや、なるほどと。月彦もまた大きく頷いた。
「なんだ、そういう事だったのか。だったら最初から言ってくれれば良いのに」
 むしろ、自分も“その場所”に用事があったことを月彦は思い出した。
「ただ、行く前にちょっとうちによってもいいかな? 返さなきゃいけないものがあるんだ」



 基本的にはオカルトは信用しない。それが白石妙子のスタイルだった。基本的には、と断ったのは、全面的に信用しないわけではないという事でもある。
 たとえば、おみくじの類。あんなもので人間の未來を占うという事はばかげていると思うが、“思い込む”ことで本当に未來が変わる事は有りうるのではないだろうか。まさしく“病は気から”の現象であり、そういった意味では占いやおみくじの類いにも存在価値はあると妙子は見ていた。
 つまり、“悪い予感”などというものはただの気のせいであり、“悪い予感がした”と思い込む事で自ら不幸を招き入れてしまっているだけなのだ。だから、朝コーヒーを炒れようとしてお気に入りのマグカップを割ってしまい、やむなく別のマグカップに炒れようとお湯を沸かした後でインスタントの粉を切らしていた事に気がつき、仕方なくコーヒーではなくココアに切り替えるや、台所から居間へと移動する途中でマグカップの取っ手が根元からポキリと折れて大惨事となってしまっても、単純に自分が不注意だったと思うだけだ。
 違う、これは予兆などではないと。妙子は念じるように思い込む。一度シャワーでも浴びて気分転換しよう。そういえば昨日はお風呂に入る前に眠ってしまったんだった――そんな事を思い出しながらシャワーを浴びてバスタオルで体を拭き、下着を身につける段になって――妙子は戦慄した。
「…………っ……」
 舌打ちをする。なんとか無理矢理にでも装着しようと試みるが――無理矢理金具をとめる事は出来なくもないが、そのキツさはもはやキツいというのを通り越して“痛い”と表現できるレベルだった。
 そう、ブラがつけられないのである。
(そんな……また?)
 これで一体いくつめだろうか。我が事ながら思わず呆れてしまう。確かにキツい、キツいとは思っていたが、それはきっと不摂生な生活が祟って、余計な贅肉がついたせいだと思い込んでいた。それ故に、最近は食事の量を減らし、努めて体を動かすようにしていた。
 それなのに。
(またワンサイズ大きくしなきゃいけないっていうの?)
 お気に入りのマグカップを割ってしまった時の十数倍、妙子はヘコんだ。一応体重計にも乗ってみたが、節制を始める前より1,5キロ減っていた。つまり体重自体は減っているのに、胸元だけが体積を増した計算になる。
(……痩せる時は胸から痩せるんじゃなかったの?)
 ダイエットをすると、最初に胸の脂肪が減り、一番減らしたい腹回りの脂肪は一番最後に落ちる――何かの本にそう書いてあったのを妙子は覚えている。しかしそれは真っ赤な嘘ではないのか。
(……もしかしたら…………)
 シャワーの後で、肌が水を吸って膨張しているから、キツく感じるだけなのではないか――そんな淡い期待に縋るように、妙子は入念に体を拭いて乾かしてから、改めてブラを装着した。――否、装着“しようとした”。
「くっ……うううう……!」
 ぎしぎしと金具がきしむ。カップ部分から不自然に肉が盛り上がり、生地が肌に食い込んで痛くて堪らない。それでも無理矢理金具を留めて服を着た。昔の軍人は軍服に体を合わせるのが常であったという話が不意に頭をよぎる。そうだ、人間の体には環境に適応する能力があるのだ。現に中世のコルセットなども腰をキツく締め付ける事で実際に細い腰を作り出す事に成功していたではないか。
 つまり、今はキツくても、このキツさに耐え続ければ――。
『バツンッ!』
 そんな音と共に、妙子の淡い希望はブラジャーの金具と共にはじけ飛んだ。
「………………。」
 がっくりと、その場に膝から崩れ落ちる。どうしてかはわからない。わからないが、何故か“あの男”の高笑いが聞こえた気がした。
「こ――」
 唇を噛み締めながら、妙子は床に拳をたたきつける。
「鋼鉄製のブラを、買いに行かなきゃ……」
 これはもはや笑い話で澄まされるコトではない。ブラのサイズを泣く泣く変える度に「さすがにこれ以上は大きくならないだろう」と安易に考えてきた結果がこの有様だ。
 妙子は手持ちのブラの中で最も大きなものを装着し直し――それでもかなりキツかったが――出かける準備をして、玄関のドアノブに手をかけた。
 ぴんぽーん、とインターホンが鳴ったのはそんな時だった。
 ドアノブにかけていた手を引いて、妙子はそっとのぞき窓から外を見る。別に出かける準備を済ませた後なのだからすぐにドアを開けても良かったのだが、出かける前だからこそ――それも一大決心をした――面倒くさそうな新聞や宗教の勧誘であったら居留守を使いたかった。
 が、予想に反してドアの向こうに立っていたのは記憶に新しい間抜け面だった。
「…………。」
 ドアの前に立つ月彦の姿を、妙子はつぶさに観察する。その手がぶら下げているバスケットには見覚えがあった。前回、あの男が子犬を飼うことになったからと、貸し与えた飼い犬用具一式だ。
 おそらくは、それを返しに来たのだろう。ならば、居留守を使うわけにもいかないかと、妙子は渋々ドアを開けた。
「よ、よう……妙子」
「…………なんか用?」
 用などはわかりきっているのだが、妙子はあえて聞いた。なんともテンションの低い声に、月彦の方も気圧されたように上体を引く。
「いやほら、前に借りてたコレ返しに来たんだ」
「ああ、そう。わざわざありがとう。…………子犬はどう、元気にしてる?」
「いやぁ……それが、やっぱりうちで買うのは可愛そうだと思ってな。知り合いの愛犬家に引き取ってもらったんだ」
「ふーん………………まぁ、それが無難かもね」
 相変わらず無責任な男だとは思うが、捨てたりせずにきちんと飼い主を探した点だけは評価してやるかと。そんな事を考えながら、妙子はバスケットを受け取る。
「で、他にもまだ用はある?」
 つい、尖った声になってしまうのは、現在自分が抱えている一番の問題の一因がこの男にあるのではないかと思っているからだった。
 胸は揉めば大きくなるという俗説は、無論妙子も知っている。。
「いや……俺は用は無いんだけど……」
「“俺は”?」
 引っかかる言い方だと、妙子が訝しんだその時だった。拳二つ分ほどしか開けていなかったドアの隙間の左右から、にょきりと。見知った顔が現れたのは。
「ひっ」
 冗談抜きで、妙子はそんな声を漏らした。
「やぁ、白石くん」
「にゃー!」
「ああああああんたたち! どーして!」
 慌ててドアを閉めようとするも、締まらない。見ると、佐由がブーツの先をねじ込んできていた。
「いやぁ、倉場さんに妙子んちがわからないから教えてほしいって言われてさ」
「お前が連れてきたのかぁ!!!」
 激昂。悪びれもせず笑う間抜け面に、妙子は渾身の正拳突きを食らわせるのだった。



 決して嫌いというわけではない。話をしていて楽しいと感じる事も少なくないし、一緒に居る事で時折感じる孤独感が紛れることもある。自分のようなコミュ障女に飽きもせず絡んでくれる二人には感謝する面も、あるにはある。
 しかし、実際問題として。現実に、今妙子は絶望していた。
「ほう……これが白石君の部屋か。らしいと言えばらしいが、らしすぎて少々面白みには欠けるな」
「わー、こたつにゃりー!」
「お、おじゃましまーす……」
「………………。」
 妙子から時計回りに佐由、英理、月彦の順でこたつに入る。
「これがピンク色の家具で統一されてたり、ぬいぐるみで溢れてたり、本棚が薄い本で埋まってたりすると、“学校では真面目な白石君が家ではなんと……”といいギャップになったのだが……」
「がっかりにゃりねぇ……」
 ため息混じりに勝手なことを言う二人に、妙子は鼻息荒く言葉を返す。
「……言っとくけど、うちに四人分もコップなんて無いから」
 本来ならば、茶の一つも振る舞うのが礼儀なのだろう。が、妙子としてはこの招かれざる客達を歓迎する気は毛頭無く、また実際にマグカップは自分用と来客用(実質千夏専用)の二つしか用意していなかった。
「お構いなく。そのくらいは予測済みだよ」
 佐由は脇に置いていた買い物袋からプラスチックのコップとジュース、さらにスナック菓子の口を開けてそれらをテーブルの上に広げる。
「……で、何の用? 私丁度出かける所だったんだけど」
「いやなに、ちょっと近くまで来たついでに、折角だから白石君の顔を見たいと思ってね」
「……用がないなら早めに帰りなさいよね。私、買い物に行かなきゃいけないんだから」
「たゆりん、買い物って何を買いに行くにゃり?」
「それは……食材とか……いろいろ……」
 下着を買いに行くなどと言おうものなら、この二人は嬉々としてついてくるに決まっている。
(……さすがに鋼鉄製はありえないけど)
 せめて革製、最悪サラシでもいいとすら、妙子は思っていた。思いながら、どうして自分がこんな目にと思わざるを得ない。
(…………遺伝、じゃないはずなのに)
 妙子は幼い頃に母を亡くしている。母の記憶はほとんど無いが、写真でその姿を見た事はる。が、その姿はお世辞にも胸元が豊かとは――巨乳という表現が、妙子は嫌いだった――言えないものだった。父方の祖母も、母方の祖母もそうではなかったという事は知っている。だから、遺伝ではないはずなのだ。
「なんだか今日はご機嫌斜めみたいだね。悩み事なら相談にのるよ?」
 冗談じゃない、と妙子は思う。こんな話、千夏にすら出来ない。ましてやこの二人――しかも、この男まで居ては、口に出来るはずが無い。
「…………てゆーか、なんであんたと佐由達が一緒なのよ」
「いや……ちょっと買い物に行ったら偶然会っちゃって」
 いつになく肩を縮こまらせている月彦は、いつもより控えめなトーンでぽつりと答えた。先ほどのパンチですっかり萎縮してしまっているのかもしれない。
 考え無しに佐由達を連れて来た事には怒りを覚えたが、だからといって殴るほどの事ではなかった――妙子はすでに反省し、後悔していたが、謝罪するきっかけがつかめない。
(……さっきは殴ったりしてごめん、って……)
 ただ一言口に出すのがこれほど難しいなんて。或いは佐由達が居るから難易度が上がってしまっているのだろうか。
 否、単純に自分の問題だと、妙子は思う。
「ああそうだ、白石君。一言言わせてもらうが、どんな事情があったにせよ、ほとんど出会い頭にいきなり殴りつけるのは人としてどうかと思うよ」
「う、うるさいわね……言われなくても分かってるわよ!」
「分かっていれば殴らないだろう? 分かっているけどつい手が出てしまったというのは、それは分かっているとは――理解しているとは言わないんじゃないか」
 うっ、と。今度は妙子が肩を縮こまらせる番だった。
「君は少し紺崎君に甘えすぎなのではないか?」
 またしても妙子は閉口する。それは妙子自身、多少ながらも自覚している事だったからだ。それを佐由に指摘されたという事は、他人からもそう見えるという事であり、妙子は頬に熱を感じる。
「く、倉場さん! 俺は別に気にしてないから」
「優しいのは結構な事だがね。何事も度を超すと害悪だよ、紺崎君」
 ちらりと、佐由が意味深に月彦の方を見る。そこではたと、妙子は気がついた。普段おしゃれなどほとんどしないこの男が、今日に限って妙に小粋なニット帽などを被っていることに。
「特に、体に変調を来す程にストレスを感じているのなら、その原因は是正されるべきだと私は思うよ」
「体に変調……?」
 いぶかしげに、妙子は月彦の方を見る。はっとしたように月彦がニット帽を深く被る――が、それでも妙子は気がついた。ニット帽からはみ出ている部分だけでも、十分過ぎる程に――いつもより明らかに――白髪交じりなその髪に。
(何よ……私が与えたストレスのせいで白髪が増えたって言いたいわけ?)
 そこまで月彦を抑圧した自覚は、妙子には無かった。無かったが――ひょっとしたらと思えるだけの事を過去にやった記憶は無くも無かった。
「待ってよ倉場さん! 別にこれは……その……妙子のせいとかじゃ……」
「白石君。紺崎君はこれほどまでにストレスを受けているのに、それを隠すために白髪染めまで使っているのだよ。健気な話じゃないか」
「倉場さん! 本当に違うんだって!」
「違うも何も、今日実際に買っていたじゃないか。私はこの目で見ていたよ」
「だから、それは……」
「………………そんなに嫌なら、来なければいいじゃない」
 ああ、やってしまった――我が事ながら、妙子はげんなりしてしまう。悪いのは明らかに自分で、謝ればすべてが丸く収まると分かっているのに。それが出来ない。
(ううん、違う……それも佐由に言わせれば……)
 本当の意味では分かっていないから、出来ないのだろう。
「妙子! 違うんだって! これは……えと、ストレスっていやそうなんだけど……最近いろいろあって……とにかくお前のせいとかじゃないから!」
「…………あんたにとっては私の存在がストレスなのかもしれないけど、でもそれを言うならあんたの存在だって…………」
 だめだ、これは八つ当たりだ。
 胸の事はこの男とは――全くではないのだろうが――関係が無い。
「はーいそこまでー。さゆりん、そんなにばしばし責めたらたゆりんだって謝るに謝れないにゃりよ」
 それまで黙々とスナック菓子をつまんでいた英理が唐突に口を挟んできて、少なくとも妙子は安堵した。この流れでは間違いなく喧嘩になると思っていたからだ。
「正論だけじゃ人は動かせないし変えられないにゃり。そのくらいさゆりんなら分かってるはずにゃりよ。ムキになるなんて、らしくないにゃり」
「…………すまない。確かに少々頭に血が上っていたようだ。言い方がまずかったのは認めるよ」
 すまなかった――そう言って、佐由がぺこりと頭を下げてくる。他人に非を指摘されて、すぐにきちんと謝罪が出来る佐由を、妙子は羨望の眼差しで見ざるを得ない。
 でも――と、ふと妙子は疑問にも思う。
(……頭に血が上ってた? 佐由が?)
 そうは見えなかった。少なくとも、先ほどまでは。佐由に言われて初めて、そういえば確かにいつもの佐由より些か言い様が攻撃的だったような気がするという程度の違いだ。
(…………どうして?)
 倉場佐由とて人間だ。いつも冷静沈着とはいかないだろう。頭に血が上る事もあるだろう。
 ただ、“これ”は佐由が頭に血を上らせる程の事なのだろうか――なんとなく、妙子は納得がいかないものを感じる。。
「とりあえず、これだけは言わせてほしい。この髪は妙子とは全く関係はないから!」
 月彦の言葉は真実だ――と、少なくとも妙子は思いたかった。いくら相手がこの男とはいえ、体に変調を来すほどストレスを与えてしまったとは認めたくはなかった。
(……もしそうだったとしても)
 この男のことだ。ストレスはストレスでも“胸を触れないストレス”とかではないのか。
(でも、それで白髪が増えるって……………………どんだけなのよ)
 ただの推測にもかかわらず、妙子はその様子をうっかり想像してしまって、つい吹き出しそうになってしまう。この男がどれほど女性の胸に執着し、それに触れる事に命を燃やしてきたのかを身をもって知っているだけに、さもありなんと思えるのだった。
(…………まさか、胸の成長が止まらないのはその執念のせい……とかじゃないわよね?)
 妙子はオカルトを信じない。基本的には。
 しかし“この男ならそのくらいやりかねない”――そう感じてしまう。
「…………っ……」
 馬鹿な考えだと、自分でも分かっている。分かっては居るが――妙子は胸元をかばうように、隠すように、肩を抱いた。


 場に沈黙が流れていた。重苦しいという程ではないのだが、誰一人口を開かない為、月彦もそれ以上の事が何も言えないのだ。
 否、表現には若干の訂正が必要だった。“誰一人口を開かない”というのは間違いだ。英理だけは、断続的にジュースとお菓子に口を続けており、それ故沈黙は流れているが口を開いている者が居るというのが正しい。
(…………にしても、意外だ)
 英理が、である。
(もっとこう、ぽややんとしている子ってイメージだったんだけど)
 少なくとも、前回のカラオケの時点での印象はそうだった。佐由を窘めたりするような子には見えなかっただけに、先ほどの英理の発言には月彦は心底驚いたのだった。
 同時に、助かったとも思った。佐由と妙子の口論じみたやりとりには、月彦自身危機感を覚えていた。何より、その話の核にあるのが他ならぬ自分のことであり、しかもそれが誤解となれば、冷や汗も止まらないというものだ。
(…………本当の本当に妙子は関係ないんだよなぁ)
 認めたくはない。認めたくはないが、自分に“髪の色が変わるほどのショック”を与えたのは“あの女”であり、妙子ではないのだ。
 しかしどういうわけか佐由はそれが妙子の仕業だと思い込んでいるようだった。
(…………倉場さんには、前にも“アレ”を見られているからな)
 血を吐くほどのストレスを妙子から受けていると、佐由はアレをそう見たはずだ。そして今回の白髪の件、原因は同じく妙子だと思い込んだのも無理は無いと思える。
(…………きっと、根は凄く優しい子なんだろうな)
 普段の言動はそれこそ冷静沈着、あまり人間味を感じさせない理知的なものだが、ああやってかばってもらえると、例え誤解にせよ悪い気はしない。
(…………本当に妙子は関係ないんだけど、さっきので納得してもらえたのかな)
 月彦はちらりと、佐由の方へ視線を走らせる。佐由は佐由で、先ほど英理に窘められた事で自省しているのか、なにやら目を閉じたまま神妙な顔をして黙り込んでいる。
 次に、妙子の方へと視線を走らせる。縦に模様の入ったブルーのセーターはいつぞやのそれとは違い、生地が薄く素肌が透けて見える――といった事はない。先ほど玄関口で会った時にはいつもの白のダウンジャケットを着ていたから、おそらく出かける所だったというのは本当なのだろう。
(……にしても)
 周りの視線からガードしているつもりなのか。妙子は両手で肩を抱くようにして胸元を隠しているが、それがかえって一目を引く事になるという事には気づいていないようだ。
(…………また大きくなったんじゃないか?)
 言うまでも無く、月彦は巨乳が好きだ。しかし、巨乳には大きく分けて二種類あるのだ。
 それは“本人が恥ずかしいと思っている巨乳”と、“本人が誇らしいと思っている巨乳”だ。真狐などは典型的な後者であり、真央は怪しいがどちらかといえば後者に属するだろう。雪乃もおそらく後者であろうし、他にも月彦が触れてきたおよそ胸の大きい女性は後者に属すると言っていい。
 が、妙子だけは違う。妙子は典型的な前者なのだ。そして実のところ――同じ巨乳でも、月彦は後者の巨乳より前者の巨乳のほうが好きだったりするのだ。
(なんつーか、この……“隠さなきゃ”って感じがたまらないんだよな)
 こうして両手で胸元を隠されると、すぐにでも飛びかかって両手首を掴んで無理矢理にでも手をどけさせたくなる。恥ずかしがってイヤイヤと首をするのも構わずにその胸元をガン見してやりたくなるのだ。
 相手が妙子であり、そんなことはやりたくても出来ないからこそ、逆にそそるし燃えるわけなのだが、実際の所月彦はそんな心中はおくびにも出さず、それこそ借りてきた猫のように神妙にこたつの一辺に収まっていた。
(妙子の存在がストレスだなんてとんでもない。こうして同じこたつに入って、服の上からちらちら盗み見てるだけで俺は幸せなんだ)
 ましてや、明日――月曜日に一大決戦が控えているとなればなおさらだった。決戦前の最後の団らん――出兵する兵士が最後に家族と過ごす時間のような貴重なひとときを、月彦は文字通り噛み締めていた。
「……あ、お菓子がなくなっちゃったにゃり」
 場の沈黙を破ったのは、そんな英理の一言だった。
「無くなった? 確か三袋は買ってきていただろう」
 英理の一言に、固まり気味だった佐由も動き出した。身をひねって、小脇に置いていた買い物袋をがさごそと漁る。
「無い。全部一人で食べたのか」
「にゃー……」
 照れるような、申し訳なさそうな声を漏らしながら、英理はてへぺろする。
「バイトのせいでお腹ぺこぺこだったにゃりよ」
「バイト?」
 と声を上げたのは妙子だ。
「あれ、妙子知らなかったのか?」
「にゃー、まださゆりんにしか言ってなかったにゃり」
「古書店のバイトだよ。なかなか興味深い本が揃ってる店でね、私も働こうかと検討している所さ」
「ふぅん……何か欲しいものでもあるの?」
 ふるふると、英理が首を振る。
「この前商店街歩いてたら、なんか紫色の着物着た人にいきなり声かけられたにゃりよ。で、スカウトされたにゃり」
 まみさんだ――と、月彦は密かに頷いた。
「スカウト……なんで英理を?」
 という妙子の言葉に、月彦は悪いとは思いつつ同意せざるを得ない。本質はともかく、外見的には英理はあまり利発そうには見えず、またキビキビ働きそうな類いにも見えない。これがメイドカフェのスカウトとかであれば、普段のフリフリ趣味が活きてくるのであろうが、古書店で働いていた時の英理の格好を見る限り、それはありえない。
(だけど……)
 実のところ、月彦は英理がスカウトされた理由にすでに心当たりがあった。あったが、それを口にすることは英理と、そしてこの場にいないある人物の機嫌を著しく損ねる危険性がある為、月彦は憚ることに決めた。
「まあ、まだ開店して日が浅い店のようだ。とにかく店員の頭数を揃えたかった、という事情もあるのかもしれないね」
「にゃー、条件も凄く良かったにゃりよ。時給7500円って言われなかったら多分やらなかったにゃり」
「「「時給7500円!?」」」
 三人の声が完全にシンクロした。
「ほんとびっくりしたにゃりよ。でも、時給7500円だったのは最初の三日間だけだったにゃり。てんちょーがケタ一つ間違えてただけだったにゃりよ」
「成る程、ミスを装って高額時給で人を集めたというわけか」
「んーん、多分ガチで間違えてたにゃり。着物着てるけど、多分外国暮らしが長かった人にゃりよ。時給の件も指摘しなかったら多分ずーっとそのまんまだったにゃり」
「気づかないフリをせずに、変だと指摘するのが英理らしいな。そういう意味では、その店長とやらのスカウトもあながち間違いではなかったか」
「そういえば、たまりんとピコりんが知り合いだったのはびっくりしたにゃり。どうして知ってたにゃり?」
「ああ、それは……ええと、俺の後輩のクラスメイトで、時々顔合わせたりするからだよ。むしろ俺も小曽根さんが珠裡の家でバイトしてるって聞いてびっくりしたよ」
「たまりん、ちょっと変わってるけどすごくいい子にゃりよ。この間も一緒にラーメン食べに行ったりしたにゃり」
「へぇ、それはよかった。あの子、越してきたばっかりでまだまだ友達少ないと思うからさ、仲良くしてくれると俺も嬉しいよ」
「紺崎君は本当に優しいな。恋人の白石君だけでなく、後輩の友達まで気にかけているのか」
 心身を病むわけだ、と佐由は一人納得するように頷く。
「って、ちょっと、佐由! しれっととんでもない事言ってるんじゃないわよ! 誰がこいつの恋人なのよ!」
「違うのかい?」
「違うに決まってるでしょ! 誰がこんな奴と……!」
「ちょ、ちょっと倉場さん」
 また雲行きが怪しくなるのを感じて、月彦は慌てて止めに入りつつ、ちらりと横目で英理の方を見る。さりげなく、今回も英理の仲裁を期待したのだが、どうやら今回は止める気はないらしく、むしろその目は好奇心に爛々と輝いていた。
「では白石君にとって、紺崎君はどういったポジションになるのかな?」
「それは……」
 妙子が口ごもる。二人のやりとりを止めなければと思う反面、月彦もまた妙子の答えが気になって、期待に満ちた目でその顔を見てしまう。
「ただの幼なじみ……それだけよ」
「成る程。つまり恋人同士でも、彼氏彼女の関係でもないとそう言いたいんだね?」
「当たり前でしょ!」
「じゃあ仮に――」
 そこまで口にしたところで、はたと佐由の動きが止まった。同時に流れる、何かのアニソンらしき着メロ。
「む」
「にゃ」
 と、佐由と英理が同時にズボンのポケットとスカートのポケットを探り、携帯を取り出す。どうやら二人同時に着信を受けたらしかった。
 携帯の液晶画面を見るなり、佐由がぽつりと呟いた。
「……姫からのメールだ」



 
「すまない、急用が出来た」
「にゃー、私も帰るにゃりー」
 メールの内容を見るなり、二人は慌ただしく帰り支度を始める。
「あっ、じゃあ俺も」
 月彦もまたそれに倣い、帰り支度をする。本当ならば妙子と二人きりになるチャンス!と喜びたい所だが、生憎と出かける予定である事をすでに聞いてしまっている。このまま長居するのは妙子の不興を買うに違いない。
「……じゃあ、私も一緒に出るわ」
 妙子もまた上着を着込み、四人揃って外に出る。
「バスでは時間がかかりすぎる、タクシーを呼ぼう」
「にゃー! 割り勘割り勘!」
「タクシーって……そこまで急いで一体何処に行くのよ」
「白石君も良かったら途中まで一緒にどうだい?」
「…………いいわ。私はそんなに急ぎじゃないから」
 少し悩んで、妙子は断った。
「そうか。では紺崎君、慌ただしい別れになってしまったが……また機会があればそのときはよろしく頼むよ」
「ばいばーい! たまりんによろしくにゃり」
「ばいばい、小曽根さん、倉場さん」
 アパートの前の曲がり角で佐由らと別れ、月彦はかるく手を振って二人の後ろ姿を見送った。
「…………“姫”って誰なんだ?」
「変わり者の先輩って事しか私も知らないわ」
 少なくとも、あの二人にとって“姫”なる人物からのメールはタクシーを使って駆けつけるだけの価値があることなのだろう。
「……私も、バス停こっちだから」
「そっか。またな、妙子」
 二人の姿が見えなくなってから、妙子もまた同じ方向へと歩き出す。たとえ途中まででも一緒に行こうとしないあたりが妙子らしいなと、月彦は思う。
 同じように見送り、さて自分も帰るかと体の向きを変えかけたところで
「ねえ」
 妙子に声をかけられた。見ると、妙子は立ち止まり、月彦の方へと振り返っていた。
「今日……本当にたまたま佐由達と会ったの?」
「へ?」
 妙子の質問の意味が分からなくて、月彦は一瞬思考停止状態になった。
「偶然……だと思うけど」
 が、幸いにしてその時間は短かった。
「……そう。ごめん、変な事聞いた」
 自分でも、どうしてそんな質問をしたのか分からない――そんな風に首を振りながら、妙子が踵を返した。
 今度は、月彦が呼び止める番だった。
「どうしたんだよ、何か気になる事でもあるのか?」
「別に……」
 妙子が足を止める。気づいた時には、月彦は小走りにその側に駆け寄っていた。
「…………一つ、言っとくけどな。本当の本当のほんとーーーーーーーーーーーーーーーに、この髪はお前とは関係ないからな?」
「…………そうだ、思い出したわ。あんた……最近学校休んでたんでしょ」
 う、と月彦は返事につまる。何故知っている――とは思わない。どうせ千夏経由で知ったのだろう。
「ひょっとして、そのことと関係あるんじゃないの?」
「……無くはない」
 としか、月彦は答えられなかった。はあ、と妙子が大きくため息をつく。
「深くは聞くつもりはないけど、学校休む時くらい千夏達には一言言っときなさいよ。家に見舞いに行っても会ってあげなかったらしいじゃない」
「見舞いに……来てたのか」
 ということは、葛葉に追い返されたということだろうか。
(母さん……そんな事は一言も言ってなかったのに)
 これは帰る前に二人の家を訪ねて、顔くらい見せておいたほうがいいかもしれない。人としてそうすべきだと、月彦は思った。
「……すまん。二人には、これから謝りに行っとく」
「いい加減あんたも携帯持てばいいじゃない。携帯があれば、よほどの事が無い限り連絡は取れるでしょ」
「いやぁ……そうなんだけどな……あれば便利だってのは分かってるんだが……」
「持ちたくないっていうのなら、無理に持たなくてはいいとは思うけど。そのことを不便だって感じる人も居るんだからね」
「……おっしゃる通りです」
 何故だか真っ先に浮かんだのが、雪乃の顔だった。おそらく――否、間違いなく最も多く携帯を持つことを勧めてくる相手だからだろう。
 ぺしんと、柏手のような音が聞こえたのはそのときだった。見ると、何故か妙子は自分の手で自分の頬を叩いていた。
「………………妙子?」
 蚊でも居たのだろうか。こんな季節に。
「…………こういうところがダメなのよね。分かってるのに……ううん、分かってるつもりなのに」
「なんだ、さっきの倉場さんの話を気にしてるのか?」
「……ただの言いがかりなら、気にもしないんだけど………………心当たりが無くもないから、そりゃあ気にするわよ」
「あのな、妙子?」
 ぐいと。右手を妙子の腰に回して、力強く抱き寄せる。……ようなつもりで、月彦は数歩の距離を保ったまま、言葉を続ける。
「俺はそんな多大なストレスを与えてくるような相手の所に、こんなにちょこちょこ通ったりはしないぞ?」
 何故か、また雪乃の顔が浮かんでしまった。今度はさすがに少し申し訳ないような気分になる。
「前にも言っただろ。殴られるのが本当に嫌なら、かわすなりよけるなりするって。お前に殴られることもスキンシップの一環だって俺自信納得してる部分もあるから、そのことについてお前が気に病んだりする必要は一切無い」
「だけど……」
「多分、倉場さんは誤解してるんだ。殴ったりするのだって、お前がちゃんと手加減してるって知らないんだよ」
「………………。」
 妙子は、なにやら気まずそうに黙り込む。
「……ごめん、あんまりしてないかも……手加減」
「……そ、そーか…………まあ、それならそれで……」
 そういえば、こないだ手を腫らしたりしてたなぁと、月彦自身納得する。
「と、とにかく気にするなって! ほら、俺を見ろよ。そんな細かい事で悩んで体を壊したりするような繊細な男に見えるか?」
…………あんたがそうやって甘やかすから……
「ん?」
「何でもないわよ! バカ!」
「あっ、おい!」
 叫ぶなり、逃げるように妙子は駆けだしていってしまう。
「…………まぁいっか」
 そういえば買い物に行くと言っていた。いつまでも引き留め続けるのも酷というものだろう。
 月彦もまた静かにその場を後にした。



 妙子の部屋からの帰り道、月彦は千夏、和樹両名の家を訪ね、見舞いの際に会えなかった事を正直に謝った。和樹も千夏も別段怒っている風もなく――むしろ同情の目さえ向けてくれたのは、ニット帽でも隠しきれない白髪まじりの髪のせいだったのかもしれない。
「とにかく、明日は学校行けるから」
 と、月彦自身ばつが悪いのもあって早めに二人の家を辞した。家に帰り着く頃にはもう日は暮れ、日曜日という最後の休息日の終わりが近づいている事を嫌でも実感する。
(……明日になったら)
 “あの話”を切り出さなければならない。そういう約束だ。なんという重く、そして痛みを伴う作業だろうか。
(……でも、矢紗美さんと約束しちゃったしな)
 そう、あれは昨日。矢紗美から電話がかかって来た時の事だ。

「あれ……もしかして…………矢紗美さん、ですか?」
『ごめんね、雪乃だと思った?』
「ええ、そりゃあ……“雛森先生”から電話があったって母から聞いてましたから」
『……そうでも言わないと、紺崎クンはともかく、家族の人に不審がられるかと思って。……ぬか喜びさせちゃったかな』
「いえ、そんなことは……」
 むしろ矢紗美さんだと知って嬉しかったです――その一言を付け加えたものか月彦は悩み、結果いろんなことを鑑みて言葉を飲み込むことにした。
『………………あのね、紺崎クン……病み上がりのところ悪いんだけど、ちょっと今から会えない、かな』
「えっ、今からですか?」
 月彦は受話器を手で押さえながら、ちらりと台所の方に目をやる。
「……えと、ちょっと出るくらいなら大丈夫……とは思いますけど……どうしたんですか?」
『うん……電話じゃちょっと、ね。……どうしても直接会って話したいの』
「わかりました。俺は何処に行けばいいですか?」
『ほら……前に待ち合わせしたコンビニの駐車場でどうかしら? 今から一時間後くらいに、車で迎えに行くから』
「了解です。準備してすぐ出ますね」
 電話を切るなり、葛葉に出かける旨を告げて月彦は慌ただしく着替え、家を飛び出した。“一時間後”と矢紗美が言っていたにもかかわらず即座に飛び出してしまったのは、ひとえに久しぶりに矢紗美に会えるといううれしさからだった。

 待ち合わせ場所であるコンビニの駐車場へと猛ダッシュで駆けつけ、立ち読みをしながら待つこと約三十分。見知った軽自動車が駐車場に入るのを見るなり、月彦は即座に店から飛び出し、その助手席へと乗り込んでいた。
「こんばんは、紺崎クン。急な話でゴメンね」
「いえ、全然大丈夫です。話って何ですか?」
「うん……それなんだけど……折角だし、ちょっと場所変えようか。紺崎クンはもうお昼ご飯食べた?」
「いえ……まだです」
 矢紗美に電話をかけたのが、丁度昼食の準備をしている最中だった。故に、家を出る際に昼飯はいらないと、すでに葛葉に言付けてあった。
「じゃあ、ついでにご飯も食べに行っちゃおうか」
「はい。俺もそのつもり――……ってあぁぁ!」
「どうしたの?」
「…………すみません、財布忘れちゃったんで、ちょっと家に寄ってもらってもいいですか?」
「大丈夫よ。それくらいお姉さんが出してあげるから」
「いやでも……」
「いいから、紺崎クンの快気祝いってコトで。おごらせて?」
 言って、矢紗美は車を発進させる。ひょっとしたら、このまま矢紗美の部屋まで拉致られてしまうのでは――という月彦の危惧は、程なく車が焼肉屋の駐車場へと入った事で杞憂に終わった。
「や、矢紗美さん……お昼ここで食べるんですか?」
「あれ、紺崎クンお肉だめだったっけ?」
「いえ、そうじゃなくて……」
 こういう所は高いのでは――と、財布を持ってきていない身としては、どうしても尻込みせざるをえなかったりする。
「大丈夫、このお店九十分食べ放題のお店だから。紺崎クンいっぱい食べるから、こういう所の方がいいんじゃないかと思って」
 そこまで言って、ハッとしたように矢紗美が言葉を止める。
「……あっ、そっか……病み上がりだったんだよね。一応サラダバーもあるんだけど……」
「……いや、えーと……すみません。そっちのほうは全然大丈夫なんですけど」
「そうなの? じゃあ、何も問題ないじゃない」
 あっけらかんと言って、矢紗美は月彦の手を引くようにして店の中へと入ってしまう。
(……まぁいいか。あんまりそういうのを気にしたり、臆したりするのはかえって失礼だ)
 他ならぬ矢紗美が誘いを持ちかけてきて、矢紗美が選んだ店なのだ。値段の事など百も承知だろう。
 店員に四人掛けのテーブルへと案内され、鉄板つきのテーブルを挟む形で腰掛ける。
「あっ、紺崎クンもしお酒も飲みたかったら飲んじゃっていいからね? 勤務時間外だし、現行犯逮捕したりなんてしないから」
 メニュー表を見ながら、矢紗美がそんな冗談を口にする。ざっと見た所、サラダバーや野菜はセルフ、それ以外の肉類は店員に言って持ってきてもらう仕組みらしかった。矢紗美は早速にテーブルに備え付けられているボタンを押して店員を呼び、てきぱきと骨付きカルビやら牛タンやらを注文する。
「紺崎クンも食べたいものがあったらどんどん頼んじゃってね」
「わ、分かりました」
 月彦も矢紗美に倣い、肉類を注文する。実を言うと、真央との一戦を終えたばかりで極限に近いほどに腹が減っていたりする。
「それで、あの……矢紗美さん、“話”の事なんですけど」
「あっ、サラダも取ってこなきゃ! 紺崎クンも一緒にどう?」
 露骨に無視するようなタイミングで矢紗美が切り出してきて、月彦はそれ以上何も聞けなかった。



 


 自分から“焼き肉食べ放題”に誘った割には、矢紗美はほとんどと言っていい程に食べなかった。矢紗美が注文した肉類もほとんど月彦が平らげ、運転手故に酒も飲めない矢紗美は中盤以降はただただがむしゃらに肉をほおばる月彦を眺めるばかりだった。
「お腹いっぱいになった? 紺崎クン」
「はい……ごちそうさまでした」
 食い放題というシステムであるから、月彦はそれこそ遠慮無く満腹になるまで食べる事が出来た。むしろ矢紗美が食べない分、その分も自分が食べねばという変な使命感から、限界すら超えた気がする程に。
「スゴい勢いで食べてたよね。ほんと、見てて気持ちいいくらい。二十人前くらいは食べちゃったんじゃない?」
 お店の人涙目になってたりして――店を出て、車へと戻りながら、矢紗美が冗談交じりに言う。
「それで、その……矢紗美さん。電話で言ってた“話”の事なんですけど」
 車へと戻り、シートベルトを締めながら、月彦はそっと話を切り出す――が。
「そ、そーいえば! 紺崎クンその髪どうしたの?」
「髪……ああ、この白髪の事ですか?」
「そうそう。ずっと気になってたんだけど……学校休んでた事と関係あるの?」
「無くは無い……んですけど、なんていうか……体がどうこうっていうんじゃなくて、どっちかっていうと心因性のもので、ストレスとかが原因なんだと思います。明日にでも白髪染めを買ってきて染めようとは思ってるんですけど」
「……ストレスでそんな風になっちゃうの?」
「たぶん……そうなんじゃないかと」
「一体どんなストレスで――」
「矢紗美さん」
 今度は、月彦が矢紗美の言葉を切った。
「話を逸らすのも、そろそろ止めにしませんか。……電話で言ってた、直接会ってしたい“話”って何ですか?」
「…………ぇと…………それは……」
 矢紗美が、顔を伏せる。そのまま、車の外――月彦から視線を逸らすように、そっぽを向く。
 しばしの沈黙。それを破ったのは――
「……そ、そうそう! 今日はね、お祝いをしようと思ってたの!」
 ぱっと。振り返った矢紗美はこれ以上無いという程に笑顔だった。
「お祝い?」
「うん、雪乃から聞いたわよ? 紺崎クン、雪乃にプロポーズしたんでしょ?」
 月彦は、固まった。
 たっぷり三十秒ほどは固まって。
「……………………え?」
 やっと口を出たのは、そんな一字だった。
(プロポーズ? プロポーズってどんな意味だったっけ?)
 月彦の頭の辞書では、プロポーズというのは結婚を申し込むといったような意味合いの行為のはずだった。
 しかし、それとは別にひょっとしたら「助言をする」とか「体の一部を褒める」といったような意味合いがあるのかもしれない。英単語というものはえてして一つだけではなく、違った意味も持っているものではないか。
 雪乃は英語教師だ。自分の知らないプロポーズの異訳を知っていてもおかしくない、と。
「……矢紗美さん。一応確認なんですけど、そのプロポーズってどのプロポーズですか

「どのって……どういう意味?」
「いやですから……俺は英単語にそんなに詳しくないんですけど、プロポーズにも多分いろんな意味があると思うんですよ」
「ちょっと待って、紺崎クンは何を言ってるの? 雪乃にプロポーズしたんじゃないの?」
「求婚って意味のプロポーズならしてないはずなんですけど、もしかしたらプロポーズって他の意味もあるんじゃないかなーと……ほら、先生は英語教師ですから、俺がやった何かの行動がプロポーズの別の意味に偶然当てはまったのではないかと……」
 言いながら、月彦自身自分が何を言っていうのか分からなくなる。冷静に考えてみれば、そんな勘違いなど起こりうるはずがないではないか。
 雪乃の性格を考えればおそらく――いや間違いなく、何かを求婚の言葉だと勘違いして、それを矢紗美に漏らしたと考えるのが一番妥当ではないだろうか。
「よく分からないんだけど……つまり、雪乃にプロポーズしたっていうのは嘘なの?」
「……或いは先生の勘違いだと思います。少なくとも俺はそんな事は言ってない……と思います」
 勘違いであればとんでもない勘違いであるし、嘘だとすればなんとタチの悪い嘘であるかと、思わざるを得ない。
(…………まさか、矢紗美さんに見栄を張りたかっただけ……とかじゃないよな)
 雪乃が矢紗美に並々ならぬ対抗心を燃やしているのは月彦も知っている。それ故につい大げさに言ってしまった……という可能性も十分考えられる。
「って、あれ……矢紗美さん?」
 気がつくと、矢紗美はやや屈むようして両手で顔を覆っていた。その見えない目元からほろりと滴ったものが一つ、二つとスカートに丸い染みを作る。
「……良かった……嘘だったんだ…………」
「い、いや……嘘かどうかは……勘違いかも…………あの、矢紗美さん?」
 どうして泣いてるのだろう――何か泣かせるような事を言ってしまったのだろうか。月彦が助手席であたふたしていると、不意に矢紗美が笑い出した。
「アハハ、ご、ごめんね……ちょっと、ホッとしたら涙でちゃって…………そっかぁ、雪乃の嘘だったんだ。……なーんでそんなのも分からないかなぁ、私」
 ハンカチを出して涙を拭いながら、矢紗美が照れ笑いを浮かべる。
「そうだよね、いくらなんでも紺崎クンまだ高校生なんだし。そんなプロポーズなんてするわけないよね。テンパってそんなことも分からないなんて、私どうかしてた! うん、バカだった!」
 こつん、と矢紗美は自分の頭をこづくような仕草をして、ぺろりと舌を出す。
「あーよかったぁ…………ホントはこっそり黙って異動願い出そうと思ってたの。でも、どうしても紺崎クンの口からはっきり聞くまでは決心つかなくって……雪乃の振りして何度も電話しちゃったりして……」
「え? ちょ、ちょっと待ってください……て、異動願いってどういう事ですか!?」
「異動願いっていうのは、勤務地を変えてくださいーってお願いすることよ」
「それくらいは知ってます! 俺が先生にプロポーズしたからってどうして矢紗美さんが転勤するんですか!」
「だって……」
 矢紗美がやや表情を曇らせ、声のトーンを落とす。
「………………完全に雪乃のモノになっちゃった紺崎クンなんて、見たくなかったし……」
「な、何言ってるんですか! そもそも矢紗美さん、前に俺が先生と結婚したら自分を愛人にしてほしいとか、そんな事言ってたじゃないですか!」
「そうね。…………あの頃はそれでいいと思ってたけど…………」
「けど、今は違う……?」
「しらばっくれちゃって。…………“そういう風”に変えたのは紺崎クンのクセに」
「いや俺は――」
「それとも、自分で思ってたより、私が欲深だったのかしら。……とにかく今は、雪乃の口から紺崎クンの話を聞くだけで胸がムカムカするのよね」
「あ、あはは…………ひ、人のノロケ話なんて、大体そういうものじゃないですか? 矢紗美さんだけじゃないと思いますよ」
「誤魔化さないで」
 空笑いが、矢紗美の言葉で一閃される。気がついた時には、右手の甲の上から、そっと矢紗美の左手が指を絡めるように握りしめてきていた。
「ねえ、紺崎クン。……私ね、もう今みたいな関係堪えられないの」
「ど、どういう……意味……ですか?」
「…………紺崎クンが雪乃と別れてくれないなら、私はもう二度と紺崎クンとは会わないっていう意味」
 えっ――その声は、声にならなかった。
「や、矢紗美……さん…………本気、ですか?」
「うん、私は本気よ。紺崎クン」
 即答だった。気づかぬうちに、月彦は全身に冷や汗を掻いていた。
「紺崎クンと別れるのは辛いけど、雪乃のモノになっていく紺崎クンを側で見ているのはもっと辛いの。…………だから、紺崎クンが私を選んでくれないなら、もう紺崎クンとは会わない」
 ふいと、矢紗美が車の外へと顔を背ける。その仕草だけで、月彦はキュウと心臓を握りしめられるようだった。
(先生と別れないと……矢紗美さんとはもう会えない……?)
 今まで矢紗美と過ごした数々の思い出が走馬燈のように脳裏を駆け巡る。出会い方こそ最悪に近い印象を抱いたものの、その後の矢紗美と過ごした時間はなんとも捨てがたい、月彦にとって無碍には出来ない甘美な記憶だった。
 “その楽しさ”だけで判断するならば、雪乃とは比べるべくもない。月彦自身、同じ年上の女性で何故こうも違うのだろうと不思議な程に。
(…………考えてみたら)
 矢紗美に条件として提示されるまでもなく、前にも雪乃との離別を決意した事はあった。そのときは雪乃の説得(?)で思い直しはしたが、別れなければ矢紗美とは会えないとなれば――。
(先生の事は嫌いじゃ無い……けど……)
 今の関係に無理を感じていたのも事実。ならばもう、自分の気持ちに素直になるしかないのではないか。
「…………先生と別れたら……今までみたいに、会ってくれるんです、よね」
 ぴくりと、そっぽを向いたままの矢紗美の体が、少しだけ揺れた。
「…………分かりました。先生とは……別れます」


 そういえば、かつて矢紗美と出会ったばかりの頃にも、雪乃と別れろと要求された事があった。或いは今回もその時と同じ――“妹”と付き合う男の覚悟を見極める為の矢紗美の芝居なのではないかと、月彦は雪乃と別れると口にした後で、その事を思い出して肝を冷やした。
 ――しかし、それもまた杞憂であったと、すぐに分かった。
「…………いつ?」
 矢紗美は月彦から顔を背けたまま、それだけを尋ねてきた。
「いつ、雪乃に話してくれるの?」
「それは……な、なるべく早いうちに……」
「明日」
「あ、明日は……いくらなんでも……」
「じゃあ明後日まで。丁度月曜日だし、放課後にでも雪乃を呼び出して、そこできっちり関係を清算して」
「げ、月曜日……ですか。さすがにいくらなんでも早すぎ――」
「ねえ、紺崎クン」
 くるりと。そこでやっと、矢紗美は振り返った。意外にも真面目な、真剣な顔をしていた。
「長引かせれば長引かせるほど、辛い思いをするのは雪乃よ?」
「う……」
「わかる? 紺崎クン。少しでも早く別れてあげることが、あの子の為にもなるの」
「……たし、かに……」
 性格こそややアレだが、外見的には雪乃は十分過ぎるほどに美人だ。それこそ、自分のような男にはもったいなすぎると本気で思えるほどに。雪乃がその気になりさえすれば、いくらでも自分好みの男を捕まえる事は可能だろう。
(……そう、だよな。その方が……先生もきっと幸せに……)
 雪乃の為を思えばこそ、ここは心を鬼にして別れ話を切り出すべきではないのか。
「……分かりました。明後日……月曜日に、先生と別れます」
 とは言ったものの、月彦の心はまだ不安定に揺れていた。まるで、その心を押し固めるかのように――ぎゅっと。右手の上から矢紗美の左手が、強く握りしめてくる。
「ごめんね、紺崎クン。……一応、最後に確認させて。本当に……本当にそれでいいの? 後悔しない?」
「大丈夫です。俺もちゃんと考えて、先生より…………矢紗美さんの方が大事だって、そう思えたから……先生と別れるって決めたんです」
「紺崎クン……」
 矢紗美が、感極まったように両目を潤ませる。
「もう一度、もう一度聞かせて。……雪乃より、私の方が好き?」
「はい。…………先生より、矢紗美さんの方が………………好き、です」
 さすがに、はっきりと断言するのには抵抗を感じる。雪乃の事も、決して嫌いではないのだ。
「ぁっ……」
 ぶるりと。矢紗美が肩を抱いて身を震わせ、まるで腹痛でも我慢しているように身を縮める。
「やだ……嘘……すっごいキュンって来ちゃった」
 はあはあと悶えながら、矢紗美が太ももを擦り合わせる。
「ぅ……ン……ね、ねえ……紺崎クン……この後私の部屋に――」
 そこまで口にして、ハッと。矢紗美は我に返ったように言葉を止めた。
「……やっぱりダメ。すっごくシたいけど……月曜日の夜まで我慢する」
「げ、月曜の夜……?」
「うん。紺崎クン、雪乃と別れたら、今日みたいにコンビニで待ってて。私も仕事終わったらすぐに行くから」
「ま、待って下さい! 月曜って……次の日も学校なんですけど」
「そんなの関係ない」
 矢紗美は首を振る。
「紺崎クンが嫌だって言っても、無理矢理拉致っちゃう。朝まで離してあげないんだから」
 矢紗美が、再度――まるで逃がさないという意思表示のように――月彦の右手首を掴んでくる。その手のひらはじっとりと汗ばんでいて、まるで矢紗美の執念が体温となって伝わってくるかのようだった。
「雪乃と別れて、キレイな体になった紺崎クンを完全に私色に染めるの。……すっごい事いっぱいシてあげるから、楽しみにしてて」
「す、すっごいコトを……いっぱい、ですか……」
 ごくりと、反射的に生唾を飲んでしまう。雪乃に別れ話を切り出すのは――例え雪乃の為とはいえ――正直気が進まないのだが、その後にそういうご褒美が控えていると思えば、多少ながら気が楽になるというものだった。
「いーい? 紺崎クン。そういうことだから、絶対のぜーったいに、雪乃と別れてきてね。約束よ?」

 月曜日。月彦はかつてないほどの決心を持って家を出発した。雪乃に別れ話を切り出すのは二度目であるということも、月彦がことさら決心を固めた理由の一つだった。
(…………生半可な覚悟じゃ、先生に押し負ける……気がする)
 あの雪乃のことだ。別れようと言ってうんいいよ、とすんなり行くとは思えない。断固たる決意で、こちらの意思を伝える必要がある。
 さながら、その決戦前の戦国武将のごときオーラを、真央も感じ取ったのだろう。あの真央にして昨夜は何も手を出してこなかったのだから。
(髪もばっちり染めた。気力体力も十分、あとは矢紗美さんとの約束を守るだけだ)
 見事関係を清算できれば、今夜は“すっごいコト”をしてくれるらしいのだが――不思議な程に、その事自体は月彦の心を沸かせなかった。否、矢紗美とするのに心が躍らないという意味ではない。そのご褒美と引き替えに雪乃と別れるという考え方に、抵抗を感じるのだ。
(……俺は、先生の事が嫌いだから別れるんじゃない。先生の事が好きだから、幸せになって欲しいだけなんだ)
 元々“間違い”から始まった関係だ。いつまでも雪乃を束縛するのは酷というもの。たとえ泥を被ってでも雪乃を呪縛から解き放ってやるべきではないか。
 月彦なりに、“一日の流れ”を事前に考え、計画を立てた。まずは朝、職員室を訪ねて雪乃に会い、放課後会う算段をつける。そんな事をしなくても、“部室”に顔を出しさえすれば雪乃と話をする機会はあるのだろうが、万が一という事がある。ひょっとしたら雪乃の方に何か用事があり、部活に顔を出せない可能性もある。もしそうならば、多少予定を繰り上げ、昼休みないし最悪休み時間にでも切り出すしかない。
(問題は月島さん……だよな)
 部室で雪乃と会うとなると、間違いなくその場にはラビもいることになる。さすがに第三者が居る場所で別れ話というのは不可能だ。
(だから、放課後……部室じゃなくて他の場所で二人きりになりたいって言えば……)
 進路相談室なり、生徒指導室なり、どこかしら密室を雪乃が用意してくれるだろう。そこから先どうなるかは、そのときになってみなければ分からない。


 学校へと到着するなり、まずは教室に鞄を置く。一週間顔を合わせていないクラスメイト達との積もる話をほどほどに振り切って、月彦は職員室へと向かった。
「失礼します……あの、雛森先生……」
 自分の机で忙しなそうに書類やらテキストやらの整理をしている雪乃に声をかけると、たちまちその顔に笑みが満ちた。
「紺崎くん!」
 席を立つと同時にほとんど叫ぶような大声を上げた雪乃に、職員室内に居た全員の視線が突き刺さる。あっ、と雪乃はたちまち顔を赤らめ、早足に職員室の入り口までやってくると月彦の腕を掴んでそのまま廊下の隅へと引っ張っていく。
「もう! 心配してたんだから…………体は大丈夫なの?」
「え、えぇ……すみません。インフルエンザがなかなか治らなくて……」
 昨夜、友人二人の来訪を何故教えてくれなかったのかと――忘我状態は仕方ないとしても、意識を取り戻した後に――葛葉に詰め寄った際、学校や千夏達にはインフルエンザだからと偽っていたという話を聞いたのだった。
「お見舞いに行こうかどうか、本当に迷ってたんだから。入院の時みたいに、紺崎くんが病院に居るんだったらいくらでも行けたんだけど……」
 さすがに、家族の手前「どうして担任でもない先生がわざわざ?」と疑問を持たれる事は避けたかった――もしくは避けた方が良いだろうと、雪乃は判断したのだろう。
 その判断は非常にありがたいと、月彦は思う。
「…………それに、具合が良くなったのなら、電話くらいしてくれてもいいんじゃないかしら。言っとくけど、本当の本当に心配してたんだからね?」
「す、すみません……やっとベッドから起き上がれるようになったのが一昨日で……」
「とにかく、元気になったみたいで安心したわ。……そうそう、月島さんもずっと心配してたみたいだから、一応顔くらい見せに行ってあげたほうがいいんじゃないかしら」
「わかりました。あとで月島さんにも謝っておきます」
 うん、と雪乃は頷き、なにやらちらちらと周囲の様子をうかがい始める。雪乃に連れてこられたのは職員室からさらに廊下を奧に進んだ校舎の端であり、月彦の背中側には外の非常階段へと通じる扉、右手側には生徒指導室の扉があり、そんな場所にそうそう用事のある者は居ないため、辺りの人気は皆無と言ってよかった。
 それを確認するや、雪乃は意味深に身を寄せてきて、そっと目をつむる。どんなに鈍感な男でも、雪乃が何を求めているかは一目瞭然――そんな状況に、月彦は冷や汗を禁じ得ない。
「そっ……そーだ! 先生! ちょっと……二人きりで話したい事があるんですけど」
「二人きりで話したいこと?」
 瞼を開けながら、雪乃がやや不満げに漏らす。が、月彦はあくまでキスを求めていた事には気がつかなかったフリを続ける。
「はい、二人きりで、です。そんなにすぐ終わる話じゃないんで、出来れば昼休みか放課後がいいんですけど」
「だったら放課後に――」
 と、そこまで口にするや、雪乃がハッと。何かを思い出したように言葉を止めた。
「ううん、やっぱり放課後はダメ! 昼休みの方がいいわ」
「放課後なにか用事があるんですか?」
「無くもないけど、とにかくお昼休み! 生徒指導室とっておくから、四時限目が終わったらすぐに来ること!」
「は、はい!」
 いつのまにか雪乃の方が主導権を握るような流れになっているものの、とにもかくにも二人きりで話が出来るシチュエーションになれるのならばと。月彦は特に異論は挟まなかった。
「そういえば、紺崎くんは今日のお昼はお弁当? それともパン?」
「弁当ですけど」
「じゃあ、それも一緒に持ってきて。折角だし、二人で一緒にお昼食べましょ」
「はぁ……それはいいですけど……」
「じゃあ決まりね。……うふふ、楽しみに待っててね、紺崎くん」
「楽しみ……?」
 月彦の呟きに対する返事は無く、雪乃は踊るような足取りで――事実、バレエでもするかのようにくるくる回りながら職員室へと戻っていった。
「……何だろう。ものすごく嫌な予感がする」
 雪乃が喜ぶ事というのは、えてして自分にとってはろくなことではないという事を骨身に染みて知っている月彦は、心がザワつくのを止められない。
「…………でも、先生と二人きりになるチャンスなのは間違いないんだ。……ここはなんとか乗り切るしかないな」
 雪乃がどんな罠をしかけていようとも、自分がやることは代わりがないはずだ――月彦もまたその場を離れ、教室へと戻るのだった。



「…………っし、行くか!」
 四時限目終了のチャイムが鳴り響き、椅子を引く音が教室内に響き渡る中、さながら空手家がやる“息吹”のような仕草と共に、月彦は己に気合いを入れる。
「あれ、月彦。お前今日パンなのか?」
「いや、弁当だけど……悪い、カズ。ちょっと先約があってさ」
 月彦としても、久方ぶりに友人達と共に昼食を取りたかった。が、雪乃の説得にどれほどの時間がかかるか分からない。弁当を食べた後で〜などと余裕をかましている場合ではないのだ。
(……昼食も一緒に、って言ってたしな)
 こういうのは切り出すタイミングも難しい。弁当箱を持って行き、弁当を食べ終わったら切り出そう――密かにそう決めながら、月彦は早足に生徒指導室へと向かった。
「先生、俺です」
「どうぞー、鍵はかかってないから」
 ノックの返事はすぐに返ってきた。月彦もまた生徒指導室の中へと入り、念のため鍵をかける。
 通常の教室の半分ほどの広さの生徒指導室はさらにその半分ほどのスペースがホワイトボードやらなにやらで埋まって物置のようになっており、その残された1/4のスペースに長机が置かれ、教師と生徒が対面して座れるようになっている。
「ほらほら、見て! 紺崎くん! 携帯の待ち受け、ノンにしてみたの!」
 雪乃の前のパイプ椅子に腰掛けるや、雪乃がまるで印籠でも差し出すように携帯の画面を向けてくる。液晶には、スヤスヤと心地よさそうに仰向けに寝る子猫の姿が映し出されていた。
「へぇー、よく撮れてますね」
「でしょでしょ? もうね、すっごい懐いちゃって。最近なんて帰ったら必ず玄関先でニャアーってお出迎えしてくれるの! テレビ見てる時は必ず膝の上に乗ろうとしてくるし、ベッドに一緒に入って寝たりなんかしちゃって」
「いい子猫を拾いましたね。猫って結構性格に個体差がありますから、懐かない子は本当に懐かなくて苦労するらしいですよ」
 話を聞きながら、月彦はどこかホッとしていた。ノンがこれほど雪乃に気に入られているのならば、失恋した雪乃のショックもノンがきっと和らげてくれるのではないかと。
 雪乃はそのままひとしきりノンの話を続けた後、不意に
「そうそう、紺崎くん。ちゃんとお弁当持ってきてくれた?」
 話題を変えてきた。
「ええ、ちゃんとここに」
 月彦は膝の上に置いていた弁当包みをテーブルの上へと置く。それを見て、雪乃もまた鼻歌交じりに――どうやら足下に置いていたらしい手提げ袋から――巾着型の弁当包みを取り出して、テーブルの上へと置く。
(おや?)
 と思ったのは、それがどう見ても手作りの弁当だったからだった。月彦の知る限り、雪乃は料理などしたことがなく、雪乃の家に泊まった際の食事もほとんどが出前か保存食だった。
「ふっふー……見て驚きなさいよ! じゃーん! 手作りのおべんとうー!!!」
「手作り!?」
 雪乃が巾着袋から取り出したのは、円柱型の二段重ねの弁当箱だった。その蓋をとりさるや、またしても印籠でもかざすかのように――本当にそんな事をしたら中身がこぼれてしまうから、実際にはやや傾けた程度で――月彦の前へと突きつける。
 弁当箱は一段目がごはん、二段目がおかずとなっており、さらにおかずエリアは三つの仕切りによってそれぞれゆでた野菜、卵焼き、コロッケといった具合に別れていた。
「……矢紗美さんに作ってもらったんですか?」
「自作よ! じーさーく!」
「ええぇー……」
 図らずも、そんな疑いの声と眼差しを雪乃に向けてしまう。が、言われてみれば確かに、ごはんは白米にただふりかけをかけただけであり、おかずエリアについても不格好な卵焼きに、本当にただゆでただけらしいブロッコリーと人参。そしておそらく冷食かお総菜で買ったものをそのまま転用したらしいコロッケと、“初心者らしい”お弁当だった。
「……頭でも打ったんですか?」
「紺崎くんって時々ものすごい毒吐くわよね。…………まあでも、無理もないか。紺崎くんの前でお料理なんてほとんどしたことなかったし」
「ええ、てっきり先生は料理全く駄目なんだとばかり」
「……それも否定はしないわ。だけどね、人は変わるのよ、紺崎くん!」
 はぁ、としか月彦は言えなかった。
「紺崎くんが休んでた間、私だって何もしてなかったわけじゃないんだから。だってそうじゃない? 今はまだいいとしても、この先紺崎くんと一緒に暮らすようになった時、お料理は何一つ出来ませんじゃ話にならないもの」
 うぐ、と。月彦は咄嗟に胸を押さえそうになる。
「紺崎くん、人生はね。“百の言葉より、心の籠もった手料理”なのよ。今はまだ簡単な料理しか出来ないけど、そのうちすっごいのを作ってビックリさせてあげるわ」
「……それは……楽しみです」
 何となく、月彦には雪乃の急な心変わりの原因が見えた気がした。
(多分……部活の時と同じなんだろうな)
 おそらくは、またドラマか何かに影響されたのではないだろうか。
(……まあでも、きっかけはどうであれ、料理の腕を磨き始めたのは良いこと……だよな)
 それは決して今後の雪乃の人生にマイナスに働く事はないだろう。むしろ喜ぶべき事ではないだろうか。
「そーゆーわけだから、次は紺崎くんのお弁当見せて」
「えっ……でも、俺のは普通のお弁当ですよ?」
「そういうのが見たいの。……それにぃ、紺崎くんが好きなおかずとかも知りたいじゃない」
 こういったやりとりも、雪乃の中では“イチャイチャ”に類するのだろうか。なんとも楽しそうに手を伸ばしてくる雪乃に根負けする形で、月彦は渋々弁当箱を渡した。
「ふんふーん。さぁーて、紺崎くんのお弁当はどんなおべ――」
 鼻歌交じりに包みをとき、蓋を開けるなり――雪乃が固まる。
「うわっ」
 と。遅ればせながらその中身を見た月彦もまた、悲鳴に近い声を上げて固まった。
(か、母さん……よりにもよって、なんて弁当を!)
 それは、中学高校と葛葉の作ったお弁当を食べ続けてきた月彦でさえ初めて見るようななんとも豪奢な弁当だった。ご飯部分は蟹の身がふんだんに混じった蟹五目ご飯、さらに上には大量の錦糸卵がかけられており、上にはちょこんと木の芽まで乗せられている。おかずには見事にミディアムレアに焼き上げられたローストビーフやら、おそらく何種類かの魚のすり身をミルフィーユ状に重ねて作ったらしい、かまぼこのようで明らかに違う何かやら、有頭のエビチリやら、明らかに日本近海には生息していない類の貝を使った炒め物がレタスなどの生野菜をベッド代わりに横たわっており、だめ押しとばかりに置かれたワンポイント用ミニトマトでそれはもう点睛を欠かない画竜以外の何物でもなかった。
(お、大人気なさ過ぎる……)
 まるで、市のサッカー大会で優勝したことを鼻にかける小学生チームを、プロのサッカーチームがガチでフルボッコにするような大人げなさを、月彦は葛葉の弁当から感じ取った。そんなはずは無い。そんなはずは絶対にないのだが、今日に限って葛葉が嫌味な程に豪奢な弁当を作ったのは、こうして雪乃が参考にしようとすることを見越していたのではないか――そんなはずは無いと思いながらも、月彦にはそうとしか思えなかった。
「………………。」
 形容しがたいショックを受けたらしい雪乃は、そっと弁当箱の蓋を閉め、そのまま月彦の方へと押しやるように遠ざける。
「ま、待ってください、先生! いつもはこんなじゃないんです! いつもはもっとこう……海苔だけがのっかったご飯に焼いたウインナーと卵焼きとあとは冷食みたいな組み合わせの弁当なんですよ!」
「あ、あはは……ごめんね、紺崎くん…………ちょっと、見せるの早すぎた、かな……」
 誇らしいと思っていた自作の弁当が、急に恥ずかしくなった――自分の弁当を囲うように両手でバリケードを作る雪乃の様を見ていると、その心中がありありと分かる。
「せ、先生! 俺は“ここまで”は求めたりなんかしませんから! いえ、むしろ豪華な弁当なんて引きます!」
「…………別に、気を遣ってくれなくてもいいのよ? 紺崎くん。…………考えてみたら、ほんの一週間かそこら我流で勉強しただけで、見栄えのするお弁当なんて作れるワケが――」
「期間なんか関係ないです! 一番大事なのは気持ちですよ!」
「一番大事なのは……気持ち……」
 ズキュウゥゥン!――そんな音を立てながら、“言葉”が雪乃の胸を貫いたのが、月彦にも分かった。
「そーよね! 一番大事なのは“気持ち”なのよ! やっぱりそうなのね!」
「えっ、あ……あれ?」
 やっぱり、というのはどういう事なのだろう。悩む月彦の手をとって立ち上がり、雪乃はその手を上下にぶんぶん振りながら目が覚めたと言わんばかりに飛び跳ねる。
「そうよ……見た目じゃないのよ! 気持ちさえ入ってればどんな粗末なお弁当だって……」
「あ、いや……先生、そこは見た目もちゃんとしてた方が……」
 “そこ”を勘違いされると、雪乃の料理の上達が止まってしまう為、月彦はきちんと訂正をしようとした。
「紺崎くん!」
 が、その言葉は五倍くらい勢いの違う雪乃の声にかき消された。
「私、決めたわ。これから毎日紺崎くんの分のお弁当も作ってくる!」
「ええぇえ!? ちょ、なんでそう……先生待ってくださ――」
「大丈夫! ちゃんとお料理の勉強も続けて、少しでも上達できるように頑張るから。すぐには無理だけど、紺崎くんのお母様のお弁当に負けないような、スッゴいの作るから!」
「ちょ、ちょっと待ってください先生! 落ち着いて!」
 どう、どうとまるで暴れ馬をなだめる牧童のような気持ちで、鼻息荒く拳を握りしめている雪乃をおちつかせ、椅子に座らせる。
「ええとですね、料理を頑張ろうとやる気を出しているのはすごく良いことだと思います。だけど先生、“無理”は続かないものですよ?」
「無理なんかじゃないわ。自分のお弁当じゃ今ひとつテンションも上がらないけど、紺崎くんが食べるお弁当作らなきゃって思ったら、眼前やる気が出てきたの!」
「つ、作らなきゃって……いやでも、俺はほら、母が毎日弁当作ってくれますから」
「そんなの、明日からはお弁当いらないって言えばいいじゃない」
「そういうわけにはいきませんよ。どうして?って聞き返されたらどう答えればいいんですか」
「じゃあ、お弁当じゃなくてパンにするからーって言って、お金だけもらうようにすればいいじゃない」
「それも心苦しいですよ。今まで毎日お弁当だったのに、急にパンに変えるなんてー、って。母に無用の心配を与えるのは気が進みません」
 むうう、と雪乃が唸る。
「紺崎くん……ひょっとして私のお弁当食べたくないの?」
「そんなことはないです」
 本音であるから、月彦は即答することができた。
(ただ、そうなると毎日先生とお昼を一緒にとることになりそうな事に抵抗を感じるだけです)
 これもまた本音なのだが、さすがにこっちは口に出来ない。
「ただ、やっぱり今までほとんど料理をしたことが無かった先生にいきなり二人分も、それも毎日お弁当を作ってもらうのは負担をかけすぎじゃないかと思うんです。母が言ってましたけど、毎日違う献立を考えるのって、結構大変らしいですよ?」
「……言われてみれば、確かに……でも、それくらい……」
「じゃ、じゃあせめて……最初は週に1日だけで。それに慣れたら2日、3日という具合にちょっとずつ増やしていくのはどうですか?」
「最初は1日……か。……確かに、紺崎くんの言うとおり、それくらいのほうがいいのかも…………一週間じっくり献立を考える事も出来るし」
「そ、そうなんですよ! 最初から何でもかんでもやろうとしても無理に決まってるんです。こういうのは焦らずこつこつ地力を上げていったほうがいいんですって!」
「わかったわ。……じゃあ、とりあえずしばらくの間は一週間に1日だけ、紺崎くんのお弁当作って持ってくることにするわね」
「ははは……楽しみにしてます」
「早速新しいお料理の本買わなくっちゃ。……そうだ、紺崎くん、今日学校が終わったら一緒に本屋に行ってみない? 紺崎くんがどういう料理が好きなのか知っておきたいし」
「すみません、今日の放課後は――」
 そこまで口にして、月彦は固まった。
「何か予定があるの?」
「えーと……」
 だらだらと。滝のような勢いで冷や汗が流れ出す。
「あっ、そういえば何か話したい事があるって言ってたけど、そのことと関係してるのかしら」
 そう、話したい事が――話さなければならない事があったということを、月彦は今更に思い出した。
 同時に、“それ”を切り出すタイミングを完全に逃してしまった事にも気がついた。
「ええと……その……うわああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ」
「ちょ、ちょっと……紺崎くん!?」
 叫んでも、何も解決しないことは分かっていた。それでも、月彦は叫ばずにはいられなかった。


 昼休みは結局切り出せず、放課後は雪乃から逃げるように足早に学校を去った。そのまま家まで逃げ帰って布団を被って寝てしまいたかったが、矢紗美と約束してしまった手前、せめて事情の説明くらいはしなければと、月彦は渋々コンビニへと向かった。

 矢紗美を待つ間、これ以上無いという程に月彦は自己嫌悪に苛まれていた。朝、自分は間違いなく雪乃に別れ話をするつもりで家を出たはずだった。否、少なくとも教室を出て、生徒指導室に入るまでは間違いなくそうだった。
(運が悪かった……と、思いたい)
 雪乃が自作の弁当など作ってきていなければ。それを応援してやりたいという気持ちにさえならなければ――そこまで考えて、月彦は頭を振る。
 結局の所、決意が足りなかったのだろう。断固として雪乃と別れる意思さえあれば、雪乃が何を見せようが「先生、まずは俺の話を聞いてください」と話を切り出せたはずだ。
(いやでも……そんな事、言えるか?)
 結婚することを前提に料理の勉強まで始めてしまっている女性を、無碍に突き飛ばし足蹴にするかのような言葉を口に出来るものなのだろうか。もし出来る者がいるとすれば、人として何か大切なものをどこかに置き忘れているのではないか――。
(まずはプロポーズなんかしてないって先生の誤解を解く方が先だったか……)
 しかし難易度で言えば、どちらも似たようなものではないかと思える。プロポーズなんかしてないとあえて否定するということは、お前とは結婚する気はないと宣言するようなものだ。雪乃にとってショックである事は変わりは無い。

 午後五時過ぎ、見慣れた軽自動車が後輪を滑らせながら店の前へと止まり、車体が完全に停止する前に運転席のドアが開いた。
「紺崎クン!?」
 運転席から現れた矢紗美がきょろきょろと辺りを見回す。矢紗美の車を見るなり店内から出ていた月彦は、なんとも浮かない笑顔で矢紗美に軽く手を振ってみせた。
 そのまま助手席へと乗り込み、矢紗美もまた運転席へと戻る。
「ごめんね、ちょっと会議が長引いちゃって」
 相当急いで飛び出してきたのだろう。走ったわけでもないのに、矢紗美はびっしょりと汗をかき、息を弾ませていた。着替える時間も惜しかったのか、普段の制服から上着だけを脱いで辛うじて一目見ただけでは警官ではないように見えるが、見る者が見ればすぐにその素性は看破できることだろう。
「ずいぶん待ったでしょ? ホントにごめんね。もうちょっと早く出てこれるはずだったんだけど」
「いえ、こんなの待ったうちにはいらないです。……それより矢紗美さん」
「待って。とにかくここから離れるから。いくらなんでも制服で一般車の運転席座ってたら目立つし、紺崎クンの知り合いに会っちゃうかもしれないし」
 言って、矢紗美が慌ただしく車を発進させる。矢紗美は行き先を言わなかったが、土曜日の夜の話の流れでは、このまま矢紗美のマンションに行って“すっごいコト”をする手はずになっている――はずだった。
「ああもう、何やってるのよ! 信号青になってるんだからさっさと行きなさいよね!」
 普段の矢紗美ならば、絶対にそんなことはしないのだろう。しかし、よほど先を急いでいるのか、交差点で青信号になってもなかなか発進しない前方車に容赦なくクラクションの嵐を浴びせる姿を見て、月彦は軽い既視感に襲われた。
(……なんか、先生と一緒に居たときに同じようなコトがあったような)
 あのときはタクシーだっただろうか。運転手の後部座席を蹴りつける勢いで急かしつける雪乃の姿が矢紗美にダブって見え、やっぱり姉妹だなぁと、月彦はしみじみと思う。
 矢紗美のマンションはそう遠くは無い。矢紗美が急いだこともあり、二十分もしないうちにその車はマンションの地下駐車場へと到着した。
「はぁぁ……やっと着いた……」
 こんなに家が遠く感じたのは始めて――そんな言葉を漏らしながら、矢紗美はハンドルにもたれかかるようにして脱力する。
「あの、矢紗美さん……実は――」
「待って、ちょっとだけ深呼吸させて。ドキドキしすぎて、今立ち上がったら目眩で倒れちゃいそう……すう、はあ……すう、はあ…………よし、大丈夫! 部屋に行きましょ」
 矢紗美が運転席から飛び出していってしまったので、やむなく月彦もその後を追わねばならなかった。
「待ってください、矢紗美さん!」
「ほらほら、紺崎クン急いで!」
 やはり姉妹――そう言わざるを得ない。矢紗美はもう辛抱たまらないと言わんばかりに月彦の腕を掴むと、ぐいぐいと力任せに自分の部屋へと引っ張っていく。そのまま部屋の前まで来て、慌ただしく鍵を開けて中へと入るや――
「うわっとと……」
 強引に押し倒され、月彦は玄関マットの上に仰向けに寝転がる形にされる。その上に矢紗美が血に飢えた肉食獣ばりに息を荒げながら跨がってくる。
 食われる――!
 そう直感した瞬間、月彦は叫んでいた。
「ま、待ってください! 実は俺、失敗したんです!」
 月彦のブレザーを肩まで脱がせ、ネクタイに手をかけていた矢紗美の動きがぴたりと止まる。
「失敗……ってどういう意味? 紺崎クン」
「で、ですから……その……先生に切り出せなかったんです……別れ話、出来なかったんです」
「…………?」
 矢紗美が、不思議そうに首を傾げる。
「どうして? 紺崎クン、今日雪乃と別れるって……そう言ってたでしょ?」
「お、俺もそのつもりだったんですけど……ただ、いろいろと事情があって……」
「どんな事情?」
 矢紗美の声に怒気が籠もる。ヤバい――そう思うも、答えないわけにはいかない。
「せ、先生が……料理の勉強始めたらしくって……頑張って下さいって応援してたら、なんか……俺の弁当作ってくれるって話になっちゃって……それで、切り出せなくなって……」
「雪乃が料理?」
 怪訝そうに矢紗美が眉を寄せる。
「あり得なくは無いけど……つまり」
 キュッと、矢紗美が制服のネクタイを掴み、引く。
「かはッ……ちょ、矢紗美さん……苦しっ」
「紺崎クンは、約束を守れなかったのね?」
「そ、それは…………はい……すみません」
 そこについては、弁明のしようもない。月彦は素直に謝罪した。
「ヒドいなぁ、私……今日のことすっごく楽しみにしてたのよ? 今夜はいっぱい、いーーーっぱい、紺崎クンにサービスしてあげようと思ってたのに」
「ううぅ……す、すみません…………」
「それで。紺崎クンはどうするの?」
 えっ?――そんなかすれた声と共に、月彦は矢紗美を見上げ、矢紗美は月彦を見下ろしてくすりと笑う。
「約束、したでしょ? でも紺崎クンは破った。……私はすっごく傷ついたし、今日の予定も台無し。……まさか、“すみません”って謝っただけで済むと思ってる?」
「お、思ってません!」
「だよねー。………………これはもう、“おしおき”しかないよね?」
「え……お、おしおきって一体なにす」
「まさかとは思うけど、紺崎クンは異論あったりする?」
「ううぅ…………あ、ありません……」
 がっくりと。観念するように、月彦は瞼を閉じた。


 今日ばかりは、矢紗美がどんな無茶な要求をしてこようとも逆らうことなど出来ない――月彦はそう思っていた。それだけの負い目を感じているという事でも有る。
 矢紗美の部屋で簡単な夕食をとり――月彦にとっては砂を噛むようなものだったが――そのまま日暮れまで微妙に重い空気のまま過ごした。イチャついていたわけではない、“今日”の為に矢紗美が用意したらしい、コスプレ衣装やらをチラチラ見せられながら「いろいろ準備してたんだけどなぁ」とため息混じりに呟かれ、すみませんすみませんとひたすら謝るだけの時間だった。
(……もしかして、これがおしおき……ってことなのか?)
 と、月彦はチラリと思うも、そんなはずが無いとすぐにかぶりを振った。確かにこうしてねちねちと責められるのも堪えるものがあるが、“そんなこと”で済まされるわけがないと。
「……んー……そろそろ頃合いかな」
 うつむき加減に正座したままひたすら謝罪を続けていた月彦の耳に、そんな思わせぶりな矢紗美の言葉が届く。
「頃合い?」
「うん。そろそろいいかなって。一緒にちょっとおでかけしよっか。紺崎クン」
 にっこりと、矢紗美が微笑む。笑顔ではあるが、有無を言わせぬ笑顔だった。
「私はちょっと準備があるから、先に駐車場に下りてて」
「わ、わかりました」
 今日の矢紗美には逆らうわけにはいかない。月彦は矢紗美の部屋を後にし、駐車場へと下りる。
(……出かけるって、もう結構遅い時間だけど……)
 ちらりと、腕時計に目をやるとすでに七時を過ぎている。こんな時間から一体どこに向かうというのか。
(……何処に行くにしても、俺には逆らう権利なんか無い、よなぁ)
 月彦もまた、ため息をつく。すべては自分の不甲斐なさが招いた事だ。
 矢紗美の車の側で待つ事約十五分。エレベータから降りてきた矢紗美はどういうわけか膝下まである薄い茶のコート(しかも、前のボタンはすべて止められている)を着ていて、しかも左手には大きな紙袋まで提げていた。
「さっ、出かけるわよ。紺崎クン」
「……はい」
 矢紗美の格好に突っ込んだものか、月彦は悩んだがあえて聞かなかった。聞いてもおそらくは教えてくれないであろうし、聞かずともそのうち教えてくれるであろうからだ。
 車に乗り込み、夜の町を走ること十数分。車を発進させてからというもの、矢紗美は一頃も喋らなかった。
「……あの、矢紗美さん。一体どこに向かってるんですか?」
 車内の沈黙に堪えかねて、月彦は聞いて見るも、矢紗美からの返事は帰ってこない。聞こえていないはずは無いから、あえて黙っているのだろう。
(……遠くに向かってる……わけではなさそうだけど)
 高速の乗り口へと向かっているわけでも、山の方へと向かっているわけでもない。
 否、それよりもむしろこの道は――。



「着いたわ。下りて、紺崎クン」
「ここで……ですか?」
 矢紗美が車を止めたのは、有料の無人パーキングエリアだった。
「こっちよ」
 車から降りるなり、矢紗美が早足に歩き出して、月彦も慌てて後を追った。
「何処にいくんですか?」
 月彦の問いに対する返答は、またしても返って来なかった。ただ、矢紗美の横顔が微かに笑ったように、月彦には見えた。
(あれ、でもこっちは――)
 見知った町並みに、まさかという思いが募る。このまま進めば、間違いなくその場所へとついてしまうのだが、しかしそこではないだろうとも思う。何故ならその場所は、雪乃はともかく矢紗美には全く関係のない場所だからだ。
 しかし、“そんなはずはない”という月彦の思いとは裏腹に、矢紗美は“その場所”めがけて一直線に向かっていく。
「あ、あの……矢紗美さん?」
 矢紗美は月彦の言葉などまるで聞こえていないかのように早足に歩き、とうとうその場所――月彦が通っている高校の正門前までやってくると、ぴたりと足を止めた。時刻は夜八時を回り、校門はすでに閉ざされている。
「紺崎クン、ちょっとこれ持ってて」
「はい……って、えぇぇ!?」
 月彦に紙袋を渡すや、矢紗美は閉じている校門に手をかけ、ひょいと。まるで野良猫が塀でも乗り越えるようにヒラリと越えてしまう。
「紺崎クン、紙袋こっちに」
 言われるままに紙袋を渡すと、矢紗美はそのまま校舎の方に向かって歩き出す。
「ちょ、ちょっと待ってください! 矢紗美さん!」
 仕方なく月彦もまた校門を乗り越え、後を追う。
 すでに部活で残っている生徒も居ないのだろう。学校内のほとんどは闇に包まれ、教室はもちろんの事、職員室にすら明かりはついていない。
「矢紗美さん! 待ってください、一体どこに行くんですか」
「どこって……決まってるじゃない。紺崎クンの教室よ」
「お、俺の教室!?」
 まるで当たり前の事のようにけろりとした顔で言われて、月彦は思わず引きつった声を上げてしまう。
「一体どうして……」
「それは着いてからのお楽しみ。さっ、ここからは紺崎クンが案内して?」
 校舎の側まで来るなり、矢紗美が猫なで声にそんな事を言う。
「そんな事言われても……こんな時間じゃ校舎だって閉まってますよ」
「大丈夫。こんな事もあろうかと、前に雪乃を騙してこっそり合い鍵作っておいたから」
 矢紗美がコートのポケットからちゃらりと意味深な鍵束を見せ、それを職員用玄関口の鍵穴へと差し込む。
 かちりと、音を立てて錠が外れたのが、月彦にも分かった。
「……ね?」
「は、犯罪ですよ……矢紗美さん」
 すっかり忘れていた。忘れていた――が、月彦は思い出した。そういえば矢紗美はこういった事を物怖じせずにやる性格――過去には小学生を路上で襲った事もあった――だったと。
「矢紗美さん、一体何をするつもりか知りませんけど、止めましょう。見つかったら洒落になりませんよ」
「大丈夫。宿直の先生の見回り時間とかもぜーんぶ雪乃から聞いて知ってるんだから」
「で、でも……」
「いいから、紺崎クンは早く教室に案内しなさい」
 怒ったような口調で言われると、月彦にはもうそれ以上逆らうことは出来ない。当然のことながら明かりをつけることなど出来ず、夜の不気味な教室の中を、半ば手探りで月彦は自分の教室に向かって歩き出す。
(……月明かりが結構入ってくるな。これならなんとか……)
 人気の無い、夜の教室というものは何故こうも不気味に感じられるのだろうか。側に矢紗美が居なければ、とても教室まで行く気にはなれなかった。
(…………矢紗美さんはこういうの平気なのかな)
 ちらりと矢紗美の様子を横目でうかがうも、あまり不安がっているようには見えない。むしろその目を爛々と輝かせている様は、猫科の動物を彷彿とさせる。
「……着きました、ここが俺の教室です」
 音を立てぬ様、教室の引き戸を開けて中に入る。見知った教室。今朝も来た教室。しかしまるで異世界に迷い込んだような錯覚すら覚える。それほどに、昼と夜とでは教室は別世界に見えた。
「ふぅん……ここが紺崎クンの教室なんだ。…………じゃあ、紺崎クン、早速だけど、ちょっとあっち向いててもらえる?」
 そう言って、矢紗美が教室の後方を指さす。言われるままに月彦はそちらを向き、矢紗美に背を向ける形になる。
「……私がいいって言うまで、絶対に振り返っちゃダメよ?」
 耳元に息を吹きかけるような、妙に艶っぽい声で言われて、背筋が冷えるのを感じた。ひょっとしてこのまま後ろから刺し殺されるのでは――そんな馬鹿な想像に捕らわれていると、背後からなにやら衣擦れのような音が聞こえ始めた。
(着替えてる……のか?)
 時折紙袋を漁るような音が混じるから、着替えてるのは間違いない。五分とかからず、「もういいわよ」という声が聞こえた。
 月彦はおそるおそる――矢紗美の方を振り返った。
「や、矢紗美……さん!?」
 ある程度、想像はしていた。していたが――それでも月彦は驚いた。
 女性もののチャコールグレーのスーツ。下はミニで、黒のガーターストッキングにはいやでも目を奪われる。上は白のシャツと茶のネクタイが胸元から覗き、さらに髪型もいつもとは違い、後ろ髪をアップにしており、縁なしの伊達メガネも相まって、その姿は完全に“女性教師”にしか見えなかった。
「“雛森先生”でしょ?」
 ぴっ、と。矢紗美は伸縮式の指し棒を伸ばしながら、首を傾げて微笑む。
「夜の個人授業の始まりよ、紺崎クン?」



 
「えっ……こ、個人授業って……えぇぇ!?」
 狼狽える月彦ののど元に、ぴっ、と指し棒が押し当てられる。
「ほら、早く席に着きなさい」
 まるで、教師が生徒を窘めるような口調で矢紗美が言う。少なくとも、矢紗美は完全になりきっているようだった。
「は、はい!」
 やむなく、月彦は自分の席へと座る。よろしいと、矢紗美が頷く。
「じゃあ、早速聞かせてもらおうかしら」
「な……何を、ですか?」
「とぼけないで。先週の期末テスト、どうしてあんなに酷い点数だったのかしら?」
 は?――思わずそんな言葉が口から出てしまいそうになるのを、月彦は慌てて止めた。
(な、何を言ってるんだ???)
 混乱する。――が、幸いその時間は短かった。
(いや、待てよ……矢紗美さんは教師になりきってるんだ。てことは……)
 こちらも“そのつもり”で応じろという事では無いのか。つまり、“これ”は一種のプレイであり、つまりこれが矢紗美の言う“おしおき”なのではないか。
「ほら、黙ってないで答えなさい」
 こつこつと、矢紗美が不満を表すように指し棒の先で月彦の机をこづく。そういうことなら、と月彦も矢紗美の意図を察した。
「……すみません、次はちゃんと頑張ります」
 言いながら、月彦は意味深に矢紗美から視線を逸らす。すかさず、指し棒の先が月彦の頬を捉え、再び正面を向かされる。
「とぼけないでって言ってるでしょ。紺崎クン、前期の期末は学年で一番だったじゃない。それなのに、どうして急に成績が落ちたのかしら」
「ははは……たまたま苦手な問題ばかり出たからじゃないでしょうか」
 とぼけながら、月彦は再び視線を逸らす。が、再び指し棒で促され、正面を向かされる。
「ちゃんと先生の目を見て答えなさい。特に酷かったのは私が受け持ってる英語だから、成績が落ちたのは担任の私のせいなんじゃないかって、他の先生達から白い目で見られてるんだから。…………何か授業に不満でもあるのかしら?」
「…………授業には不満はないんですが」
 月彦の言葉に、伊達メガネの奧できらりと矢紗美が目を輝かせるのが分かった。
「最近、その……気になる事があって、授業に集中出来ないんです」
「気になること?」
「はい……ええと」
 そこで、月彦は溜める。ちらりと、矢紗美の目を盗み見ては視線を伏せ、戸惑ってみせる。
「分からないわ。きちんと、はっきり言いなさい。怒らないから」
「……本当に怒りませんか?」
「そう言ってるでしょ。ほら、早く」
 ばんっ、と矢紗美が机の上に両手を叩きつける。それは半ば演技で、半ば本心なのではないかと、月彦は思う。
「……嫌な噂を聞いちゃって」
「嫌な噂?」
「はい……その、先生が今年で学校を辞めて、結婚するって噂を」
 矢紗美が、言葉に詰まる。予想を上回る答えに、思わず“素”が出てしまいそうになって、慌てて肩を抱いて震えを止めた――そんな様に、月彦には見えた。
「わ――」
 舌を噛んでしまったのか、矢紗美が口元を押さえる。これが演技だったら、矢紗美は俳優にすらなれるのではないかと、月彦は思う。
「私が、け、結婚するからって、どうして紺崎クンの成績が……下がるのかしら?」
「確かに、そうですね。先生の結婚と、俺の成績は全く関係ないです」
 もっともだと、月彦は頷く。
「俺もそう思います。…………だけど、その話を聞いてから、授業に集中出来なくなっちゃって」
「だから、どうしてそうなるのかって……聞いてるんだけど」
「勉強しようと机に向かっても、雛森先生の事ばかり頭に浮かんでしまって、自分でもどうにもならないんです」
 月彦は胸を押さえながら、苦しげに言う。
「先生の授業中が、特にヤバいんです。先生が黒板に向かって文字を書いてる姿を見ているだけで、なんかこう……モヤモヤしちゃって……」
「そ、それって……つまり……紺崎クンは……」
「はい、俺は……先生のことが……」
 そこまで口にしたところで、突如。
「ちょっと待ちなさい、紺崎クン」
 ぴしりと。それまでの狼狽えているような口調から一転、生徒を窘めるような口調で、矢紗美が言う。
「私も、噂に聞いてるわよ。紺崎クンには歴とした彼女が居るらしいじゃない? ……名前は“雪乃さん”だったかしら?」
 うっ、そう来たか――今度は月彦が狼狽える番だった。
「た、確かに……居ます、けど……」
「その子が居るのに、私の事が好きだって言いたいのかしら? 紺崎クンは」
 まるで挑発するように言いながら――否、実際に挑発しているのかもしれない。尋ねながら、矢紗美は月彦の机の上に腰掛け、指し棒ではなく指先で月彦の喉から顎先までを撫でつけてくる。
 同時に、ふわりと、矢紗美がつけている香水の香りが鼻先をくすぐる。
「じ、自分でも節操が無いと思います……でも、俺……本当に先生の事が好きで……」
「“雪乃さん”より?」
「…………はい」
 ゾクゥッ……!――矢紗美が肩を抱きながら、快感に身震いするのが、目の前で見ている月彦にも伝わった。
「悪い子」
 はぁぁ――そんな熱っぽい息と共に、矢紗美が悪魔のような口調で呟く。
「付き合ってる子がいるのに、“先生”の事が好きになっちゃって、授業に身が入らなくなっちゃった――つまりそういうコトなのね?」
「は、はい……そういうコトなんです」
 もちろんこれはそういう“プレイ”というコトで、矢紗美にあわせてそう言っているだけに過ぎない。そう、これはただのお遊びなのだ。
 お遊びなのだが――月彦はちらりと思った。最低な男だな――と。
「ねえ、紺崎クン」
 はぁはぁと。乱れた吐息を必死におちつけようとするも、興奮のあまり押さえきれない――そんな息づかい、言葉遣いだった。気づけば、机の上に腰掛けた矢紗美は、さらに上半身を月彦の方へと寄せてきていた。
「先生はどうすればいいのかしら?」
「どう、とは」
「私がどうすれば、紺崎クンは授業に身が入るようになるのかしら?」
「そ、それは……」
 月彦は、しばし悩む。正確には悩む――フリをする。
「……先生が、婚約者との結婚を辞めてくれれば……」
「それは無理」
 矢紗美はきっぱりと断言する。
「あの人との事は、親同士が決めた事なの。私一人の意向じゃ絶対に止めたりなんて出来ないわ」
「そんな……」
「それに、婚約こそまだだけど、デートくらいなら何度もしたし、セックスだってしてるのよ? それでも紺崎クンは先生のことが好きなの?」
「そ、そこまで……しちゃってるんですか?」
「うん、シちゃってるの。子供が出来ちゃったらまずいから、避妊はちゃんとしてるけど」
「な、何回くらい……ですか?」
「たくさん。10回より少ないってことは絶対ないわ」
 もちろんこれはそういうプレイ。それは分かっている。分かっているが――月彦は正体不明の不快感を感じた。――そう、ジェラシーとも呼ばれる、“嫉妬”を。
(や、矢紗美さんが……他の男、に……)
 以前は、そんなこと何とも思わなかった。むしろ、自分以外の男の所に行ってくれないかなと何度も思った程だ。
 それがどうだ。想像の上とはいえ、矢紗美が他の男に抱かれている事を想像するだけで、体が燃えるような苦しさを覚える――自分のその変化に、月彦は驚いていた。
「ね、幻滅したでしょ?」
「……いえ、幻滅はしません。俺は先生の事が好きですから」
 また、矢紗美がぶるりと体を震わせる。「んっ」と声まで漏らして。
「紺崎クンの……気持ちはすごく嬉しいのよ? でも、ゴメンね」
 はぁはぁと、悶えながら――矢紗美はやっとの事で、それだけの言葉を紡ぎ出す。
「年だって離れてるし、いくら親同士が決めた許嫁だっていっても、あの人の事も好きだし……別れるなんて出来ないの」
 “これ”は前振りだ。切なげな矢紗美の吐息から、月彦はそれを感じ取る。
「…………だけど、一回、なら」
 大げさに肩で息をしながら、矢紗美が濡れた目で、月彦を見る。
「それで、紺崎クンが先生のこと諦めてくれるなら…………」
「一回だけ、ですか?」
「うん、一回だけ。…………それで、先生のコト忘れてくれる?」
 月彦は思わず吹き出しそうになるのを我慢しながら、顔を引き締めねばならなかった。誰よりも矢紗美自身が、もうシたくてシたくてたまらないという泣きそうな顔をしているのだ。
 ここで突っぱねたらどうなるかな――そんな誘惑に心が動くも、そんなことをすれば今まで積み重ねてきたものが台無しになってしまう。
 故に、月彦はこう答えねばならなかった。
「……分かりました。じゃあ、それで……俺も先生を忘れます」



 人気の無い夜の教室というのは、ビックリするほどに音が響くものだ。邪魔になる机を移動させようとして、その脚が床と擦れる音が校舎中に響き渡ったのではという程に大きく聞こえて、月彦も矢紗美も思わず体を硬直させる。
 が、その硬直も長くは続かない。辺りに異常がないとわかるや、すぐさま行為の続きを始めてしまう。何故ならそこにいるのは発情した牝と牡、二匹のケダモノだったからだ。
「紺崎クン……」
 艶めいた声で呟きながら、矢紗美が月彦の上に跨がってくる。脱衣はしていない。ただ、邪魔な机をどけて、椅子に座している月彦の上に跨がってきただけだ。
 ふわりと、また矢紗美の香水の香りが鼻をくすぐる。
「やざ……雛森先生」
 矢紗美と目が合う。矢紗美のことを“先生”と呼ぶことに微かな抵抗を感じる。が、それはもう気にしないようにしようと、努力する他無かった。
「んっ」
 もう我慢できないとばかりに、矢紗美に唇を奪われる。柔らかい唇の感触。微かに感じる、口紅の味。
「んはぁ……ねえ、紺崎クン。紺崎クンが先生のコトどう思ってるのか、もう一度聞かせて?」
 媚びるような目。首を傾げながら、のぞき込むように。男を籠絡する手管を知り尽くしているのだなと思わざるを得ない。そしてそれが分かっていても抵抗が出来ない。
「好き、です。授業が手につかないくらい」
「んんっ……はぁぁ…………そんなに、そんなに好きなの? “彼女”が居るのに、それなのに……」
 “そこ”にいやに拘るなと、月彦は思う。自分としてはあまり触れて欲しくない部分だから、そう感じるのかもしれない。
(いや、多分矢紗美さんも……)
 “雪乃より”という部分が、女としての自尊心を一番満足できる大事なポイントなのだろう。
「ねえ、紺崎クン。紺崎クンは……先生のコト考えながらオナニーしたこと、ある?」
「…………えーと」
 月彦はガチで言葉に詰まった。正直に答えるべきか、プレイと割り切って嘘をつくか。
(矢紗美さんが喜ぶのは……)
 後者だろう。間違いなくそうだ。
 ならば。
「そんなの、毎日です。学校から帰るなり、先生のコト考えながら……何回も……」
「ぁっ……」
 ぶるるっ――矢紗美がまた体を震わせる。
「やだっ……ちょっ……んんっ……」
「先生?」
 矢紗美が腹痛でも堪えるように、前屈みになる。自然と、月彦の肩に額を押し当てるような形になる。
「はぁ……はぁ……ちょ、ちょっと……待って……」
 矢紗美が顔を伏せたまま、呼吸を整える。何か痛みを感じると思ったら、右手がブレザーの袖の上からぎゅううときつく矢紗美に握りしめられていた。
「はぁ……はぁ……ご、ゴメン、ね……紺崎クン。私が、質問、した、のに……」
「いえ……大丈夫ですか?」
「大丈夫……うん、大丈夫よ?」
 はあ、はあ。
 ふう、ふう。
 とろんと瞳をとろけさせたまま、矢紗美が微笑む。
「じゃあ、今度は……どんなコト想像したのか、聞かせて」
「どんなコト?」
「どんなエッチな妄想でオナニーしたのか、聞かせて」
 また難易度の高い質問を――月彦は演技では無く、素で困り顔になってしまう。
「そ、そりゃあ……いろいろ、ですよ。先生とこんな風に、放課後の教室で二人きりっていう所を想像したり……」
「したり?」
 矢紗美が両目を爛々と輝かせながら、続きを促してくる。
「あ、あとは……すみません、さすがに言えません。先生に軽蔑されたくないんで」
 我ながら巧い逃げ方だと、月彦はホッと安堵する。が、同時に矢紗美にもそれは看破されただろうなと察してもいた。
「ふぅん、そんな口に出来ないようなコトを、妄想の中で先生にしたんだ?」
「はい。それはもう、すっごいコトを」
「それを教えてくれたら同じ事をさせてあげるって言ったら、どうする?」
 えっ――口を開いたまま固まる月彦を見て、矢紗美がふふふと笑う。
「ねえほら、紺崎クン。早く教えて?」
「か、勘弁してください! それだけは……言えません」
「あら、生徒のクセに……先生に逆らうの?」
 まるで「犯罪者のクセに警察官に逆らうの?」とでも言いたげな口調だった。生徒は別に教師に逆らってもいいよなぁ、といった疑問を月彦はぐっと飲み込む。
「ホント、悪いコなんだから。彼女が居るくせに、先生に恋したりなんかして……そのくせ逆らったり………………いじめちゃおうかしら」
「いじめ……ええぇ?!」
 しゅるりと、衣擦れの音が聞こえた。見ると、矢紗美が自分のネクタイを外し、それを目隠しのように月彦の目元に結びつけてくる。
「動いちゃダメ。じっとしてて?」
 暗闇の中、耳元で矢紗美の声が聞こえた。やむなくじっとしていると、今度は自分の制服のネクタイが外されるのが分かった。そして、両手が後ろに回され――ネクタイで椅子の背に固定される。
「せ、先生?」
 ネクタイの拘束は、決して強固なものではない。強引に腕を引き抜こうとすれば、いくらでも引き抜くことはできる。がしかし、現実的にそれは不可能だった。
 そう、“矢紗美に対する負い目”という、鉄の鎖よりも強固な鎖で縛り付けられているのだから。
「ダメよ、紺崎クン。暴れないで……大きな声を出すのもダメ。誰か来ちゃったらどうするの?」
 矢紗美の声に混じって、ジィィという音。股間のジッパーが開けられる音だった。
「や、矢紗美さん!?」
 思わず、演技を忘れた。ぐんっ、と。矢紗美の体重を感じながら怒張気味だった分身がジッパーの隙間からトランクスの生地ごと盛り上がるのを感じる。
 ぴしっ、と。その先端に、突如痛みが走った。
「雛森先生、でしょ?」
 堅いその感触は、おそらく指し棒の先だ。ラジオのアンテナのようなその先端で、ぴしりと剛直の先端を軽く打たれたのだろう。
「す、すみません……雛森先生」
「安心して。……ちゃんと最後にはさせてあげるから。でも、その前に……」
 トランクスの前のボタンが外され、小窓から剛直が解放される。肌に触れる冷たい外気から、剛直が根元近くまで露出されたコトを、月彦は知った。
「くすくす、紺崎クンも結構興奮してたのかしら? こんなになっちゃって」
 何かが――矢紗美の手が触れ、竿部分を優しくしごかれる。
「っ……せ、先生……」
「どう? 気持ちいい?」
「……は、はい……」
「紺崎クンの、すっごく堅くて熱いわ。やけどしちゃいそう」
 暗闇の中、矢紗美の声だけが耳元で聞こえる。吐息が微かに耳たぶにかかる程度の距離で囁きながら、断続的に剛直をしごかれ続ける。
「……それじゃあ、さっきの質問の続きを聞かせてもらおうかしら」
「さっきの、質問……?」
「とぼけないの。…………妄想の中で、先生にどんないやらしいコトをさせたか、きちんと答えなさい。答えないと……」
「えっ、ちょっ……うぁぁぁぁ……!」
 ギンギンにそそり立っている剛直の先端、その鈴口に、何か堅いものが振れ、くりくりと弄られる。背筋がゾワゾワするその感触に、月彦は溜まらず声をうわずらせる。
「ホント、スゴいわ。紺崎クンのコレ……小指くらいなら入っちゃいそうなんだもの。……“コレ”ならどこまで入るかしら?」
「こ、“コレ”ってまさか……」
 血の気が引く。矢紗美の言葉から想像できるものは一つしかない。
 あの指し棒の先だ。
「や、止めてください! そんなことをされたら……使い物にならなくなります!」
「だったら、質問に答えるコト。……ほら、ね?」
 飴と鞭。一転して甘い声で囁きながら、優しく、優しく剛直がしごかれる。
「え、えーと……」
 剛直から送られる柔らかい快感。それに促されながら、月彦は必死に頭を回転させる。
「その……先生には、婚約者が居るって言ってたじゃないですか」
「うんうん、それで?」
 期待できそうな話だと、そう思われたのか。矢紗美の指の動きがよりなめらかに、先端からにじみ出る液体を指に絡めながら、より大きく快感が得られるようにしごき始める。
「だから……そ、その人の前で……先生を寝取る……ような、妄想、とか……」
「へぇぇ……」
 感心するような声だが、目隠しをされて尚、月彦には分かった。矢紗美がなんとも嬉しげに、口の端をゆがめているのが。
「寝取るなんて。紺崎クンって、そういう趣味があったんだ?」
「ち、違います! 俺はただ、先生を……自分のモノにしたくて……」
「でも、興奮したんでしょう?」
 図星――なわけがない。そもそもそんな妄想などしたことがないのだから。
 そのはずなのに、何故か月彦はどきりと心臓を跳ねさせてしまった。
(ち、がう……菖蒲さんの時は、ああしないと命が危なかったからで……)
 しかし、普段よりも興奮してはいなかったか。白耀という、確固たる彼氏がいる女を、無理矢理犯して自分のモノにするその行為に。
「ふふ、紺崎クンは正直ね。ぐんっ、ってますます堅くしちゃって。……可愛い」
 最後の“可愛い”はいやに耳元から遠く聞こえた。矢紗美が体を離したのだろう。
「じゃあ――」
 これまた、矢紗美の声は遠かった。距離にして約一メートルほどだろうか。ぎし、と微かに何かがきしむ音。おそらくは、少し離して置いてある机の上にでも腰掛けたのではないか。
「その“婚約者がいる先生”が口でシてあげたら、寝取り好きな紺崎クンはもっともっと興奮してくれるのかしら?」
「えっ、いやちょっと待っ……べ、別に寝取り好きなわけっ……っ……」
 手とも指し棒とも違う何かが、剛直に触れる。人間の肌ではない、何かの生地のような――
「嘘ばっかり。本当は好きなんでしょ?」
 こしゅ、こしゅと何かがすり当てられ、時にぐいと腹の方に押しつけられる。足だと、ようやくにして分かった。机に座り、足で剛直を踏みつけるような形で刺激しているのだ。
「ほら、正直に言いなさい。“俺は寝取りが好きです”って」
「ち、違います……俺には、そんな、趣味はっ……」
 “それ”を認めてしまったら、何か大切なものを失ってしまう気がした。故に、月彦は矢紗美の望みを叶えてやらねばと思いながらも、否定せずにはいられなかった。
「………………聞き分けのないコ。嘘つきは先生嫌いよ?」
 微かに、机がきしむような音。矢紗美が机の上から床へと下りたのだろう。
 そして、次の瞬間には――。
「うっ、わ……」
 ぬろりと。生暖かいものに剛直の先端が包み込まれた。
「んっは…………どう? 紺崎クン……これでもまだ白状しない?」
「だから、違っ……くっ、ぅ……」
 ぬろりっ。
 ぬろっ。
 暗闇の中、剛直を這う舌の感触が普段よりも確かに感じられる。視覚がふさがれている分、触覚に意識が集中する為だろうか。
 それ故に、ぺろりとひと舐めされただけで、思わず背を逸らすほどに感じてしまう。
「んふっ……カウパ-液こんなに溢れさせちゃって……んふっ、ちゅっ……んんっ……」
「うっ、ぁ……やめっ、そんな、吸わなっ……くっ……」
「ふふっ……紺崎クンの先走りおつゆおいひぃ……んふんっんんっ……」
 ちゅっ、ちゅっ。
 まるで花の蜜でも吸うように先端を吸われ、月彦はその都度体をビクつかせ、喘ぎ声を漏らしてしまう。
「んはぁ……前にシた時より、んっ……いっぱい溢れてくる……おいひぃ……んふっ……んんっ……」
 矢紗美もまた、興奮しているのだろう。そうでなければ、自分の発言がシチュエーションと矛盾しているコトに、すぐに気づくはずだった。
「ほらぁ、紺崎クン……ちゃんと妄想してる? 夜のきょうひふへっ……んふっんぷぷっ……婚約者が居るふぇんへいに……口でシてもらってるのよ? んんっ……んんっ……はぁぁっ……あむっ、んんっ……」
「ううぅ……ほ、本当に俺にはそういう趣味は……っ……」
 むしろ、白耀と菖蒲の一件を思い出して萎えそうになる――はずだが、親の心子知らず。萎えるどころか剛直の堅さだけは増しこそすれ和らぐことは一切無かった。
「はぁはぁ……ホント……これ……おいひぃぃ…………止まらなくなっちゃう……んぷっ、んぷっ……」
 一体どこまで演技なのか。矢紗美は口戯の合間、合間にそんな呟きを漏らし、呟きを漏らしては唇を離していた時間を惜しむように、より貪欲にむしゃぶりついてくる。
「んぷっ、んんっっ……はぁはぁ……ねぇ、紺崎クン?」
 唾液まみれになった剛直を手でしごきながら、矢紗美が上目遣いに――目隠しをされていても、それが分かってしまう――尋ねてくる。
「先生のフェラ、どう? “彼女”と比べて巧い?」
「えーと……」
 返答に困る――が、どう答えれば良いのかは、すぐに分かった。
「さ、最高……です」
「ちゃんと言って。……“彼女”より巧い?」
「は、はい……先生の方が……巧い、です」
 “間”が空く。微かな息づかいから、矢紗美が身もだえしているのだと分かる。
「ぁっ、ん……だ、め……もぉ……口なんか、じゃ……」
 辿々しい声。そして、衣擦れの音。
「せ、先生……? ひゃっ」
 突然ひどく濡れそぼったものが頬に押し当てられて、月彦は素っ頓狂な声を上げてしまう。
「はぁ、はぁ……ね、分かる? 紺崎クン……。 先生、もうこんなになっちゃってるの」
 矢紗美の言葉で、月彦は理解した。下着だ。頬に押し当てられたのは、絞れるほどに濡れそぼった下着だったのだ。
「もうね、紺崎クンのが欲しくて欲しくて堪らないの……」
 ぎゅっ、と。両肩にツメが立てられる。
「お、俺も……です。先生……さっき途中で止められたから、もう……」
「じゃあ、今度こそちゃんと誓って」
「ち、誓うって……何をですか?」
「“彼女”と別れるって」
 月彦は、言葉に詰まる。
「今度こそ、絶対別れ話をするって。誓ってくれなきゃ、させて、あげない……んだから……」
 はあはあ、ぜえぜえ。
 息も絶え絶えに、ほとんど泣くような声で言う矢紗美に、月彦は興奮と、そして申し訳なさを同時に感じた。
「わかり、ました……今度こそ、絶対に、切り出します。絶対に……」
「ホント? ホントのホントに別れるって約束よ?」
「はい、ホントのホントです」
「分かった……紺崎クンのコト、信じてあげる…………んっ……」
 矢紗美が腰を浮かす。同時に、今まで矢紗美に上に乗られているような形だった剛直が、ぐんと天を仰ぐ。それを――おそらく手探りで――位置を調節して、ゆっくりと。矢紗美が腰を落とし始める。
「あっ……あぁぁぁぁ〜〜〜〜〜〜〜〜っっっ!!」
 剛直の先端が、徐々に熱く、とろけるように柔らかい肉の中へと埋没していく。それに併せて、矢紗美が甲高い声を上げ始める。
「こ、コレぇぇぇ……コレが、コレが欲しかったのぉぉ……あぁぁぁぁ……ふ、太くて擦れるぅぅぅ……!!」
「くぁっ……や、矢紗美さん……締めすぎっ…………くは……」
 ギュウウッ!――凄まじい膣圧に、月彦は思わず指を逆関節にそらせてしまう。
 矢紗美が、さらに腰を落とす。たっぷり焦らされた分、そして視覚を奪われている分、熱くとろけた膣肉の感触がよりリアルに感じられる。
「あっ、あっ……す、ごい……まだ、入って…………奧まで、来るぅぅ…………奧に……当たるっ、ぅぅぅ……はぁぁぁぁ…………」
 ブレザー越しに、矢紗美の両手がツメを立ててくる。或いは、矢紗美の言う通り、普段よりも興奮しているのかもしれない。“その状態”は、矢紗美の小柄な体には、やや酷かもしれないと思うも、“調節”が思うようにいかない。
「だ、だめ……こ、コレ……ほんと、良すぎ…………」
「や、矢紗美さんの中も……キツキツで、密着感がスゴい……です……」
 仮に拘束されていなくとも、これは動けない――そう月彦は感じた。自ら少しでも動こうモノなら、たちまち射精してしまうことだろう。
「だ、めぇ……こんな、の……ホントに婚約者が居ても、寝取られちゃうぅ…………」
「う、わちょ……まだ、腰、動かさなっ……」
 くい、くいと矢紗美が小刻みに腰を前後させはじめ、月彦は慌ててうわずった声を上げる。
「はぁはぁ……だめ、だめっ……腰、勝手に、動いちゃう…………ずっと……我慢してた、から……も……イきそ…………イく……イくぅ……!」
「待って……くださっ……お、俺も、ほんとヤバ…………う、動かないで――……〜〜〜〜っっっ」
 歯を食いしばる――が、それはとても堪えられるものではなかった。さながら、板きれ一枚でダムの放流を止めようとするかのような絶望的な戦力比だった。
「あっ、あっ……こ、紺崎クン……中は……ダメよ? 先生には、彼が……婚約者が居るんだから……だから、中は、絶対……ダメ、なんだから……」
 その設定はまだ続いてたんですか!――平時であれば、そう突っ込んでいた所だった。
「だ、ダメって言われても……上に乗ってるのはやざ……せ、先生なわけで……俺にはどうすることも……」
「あンッ! やっ……急に……グンって沿って……あっ、あっ……も、もぉ……ホントに我慢できな…………ああぁ〜〜〜〜〜〜〜〜〜っっっ!!!」
 ビクビクビクゥッ!
 月彦の体にしがみついたまま、矢紗美が全身を痙攣させる。同時に、膣内が激しく収縮し、剛直を締め上げてくる。
「くぁっ……や、矢紗美、さ――」
 ドリュッ! 
 ドリュッ、ドリュッ、ドリュッ!
「やっ、な、ナカは……だめぇぇぇぇ……!!!…………あっ、あんっ……あんっ……!」
 かすれた声を上げながら、矢紗美は両手で月彦の体にしがみつき、腰を浮かそうともしない。射精の度に、その白濁の熱を受けるたびに、心地よさそうに甘い声すら漏らしながら、ぐったりと脱力する。
「はぁぁぁぁ………………ナカはダメって言ってるのに……」
 しがみついたまま、肩に顎をのせるようにして脱力したまま、何故か不満そうに――それでいて、それが演技であるとあからさまにわかるように――矢紗美が呟く。
「もぅ、本当に悪いコなんだから。そんなに悪いコにはもっとおしおきを――」
「先生」
 矢紗美の言葉を割るように、月彦が声を被せる。
「確か……“一回だけ”っていう約束でしたよね」
「……そ、そうだったかしら?」
「ええ、確かに。間違いなく、そういう約束でした。……“婚約者がいるけど、1回だけなら”っていう話でしたよね」
「で、でもね、紺崎クン――」
「約束通り、俺はこれで“雛森先生”のコトは忘れます。それで終わりですよね」
「だ、だけどね? それはほら……」
「それとも――」
 くすりと。月彦は口元をゆがめる。
「“足りない”んですか?」
 うぅ――そんな、子供がうめくような声。
「……だったら、まずはこの目隠しと、拘束を取ってもらいましょうか。“先生”?」



  “これ”はあくまでそういうプレイだと割り切ろう。それが現状を楽しむ為のベストな選択肢であると、月彦は理解した。
 つまり、眼前にいるのは矢紗美ではなく、雛森矢紗美という名の架空の女教師であり、彼女には許嫁の婚約者が居て、彼女自身もその男のコトは決して嫌いではなく、結婚すらもやぶさかでは無い関係である。そしてそんな彼女に横恋慕しているのが“紺崎クン(しかも彼女持ち)”というこれまた架空の男子生徒であり、自分はあくまでその生徒になりきればいいのだと。
 “設定”によれば、“彼”には寝取り性癖があるらしい。ならば、それに沿った行動をとるのが矢紗美に対する礼儀にもなるのではないか。
「そういうわけですから、今から頑張って“先生”を寝取らせていただきますね」
 矢紗美に拘束を解かれるなり、月彦はにこやかに宣言する。今からすることをきちんと宣言しておかねば、矢紗美にいらぬ誤解をされる恐れがあるからだ。
「そ、そういうわけ……って、こ、紺崎クン?……ひょっとして……いつもの変なスイッチ入っちゃった?」
 どこか怯えたように後じさりする矢紗美の手を掴み、抱き寄せる。
「変なスイッチとか心外ですね。俺はただ、矢紗美さんが求める役割に徹しようと決めただけですよ」
 言って、戸惑う矢紗美の唇を強引に奪う。
「んんっ……」
 一瞬、矢紗美が抵抗するようなそぶりをみせるも、すぐに体から力が抜ける。そのまま、くち、くちと互いの唾液を混ぜ合わせるようにキスを交わした後、それとなく矢紗美をエスコートし、教壇へと上がる。
「教卓に手をついてもらえますか、先生」
「こ、こんな感じで……いいのかしら」
 今度は、月彦が囁きかける番だった。言われるままに矢紗美が教卓へと手をつく。自然と、月彦に向けて尻を差し出すような形になる。
「……ずっと、この日を夢見ていました」
 芝居がかった口調で、月彦はミニスカートの上から尻肉を円を描くように揉み、ついでにスカートをまくしあげていく。やがて安物のスターライトスコープ並に夜目の利く月彦の目に、白い尻肉が露わになる。
 月彦はそれを両手で掴み、ぐいと親指で秘裂を割開くようにする。
「あっ、やんっ…………」
 咄嗟に矢紗美が恥ずかしそうな声を上げ、身を硬直させる。割開かれた秘裂からは、先ほどタップリと出した白濁液が若干愛液に薄められた形でどろりとあふれ出していた。
「ダメ……見ないで、紺崎クン……」
 矢紗美もまた――すべてが演技ではないのだろうが――心得たもので、許嫁に操を立てる女教師を装うかのように羞恥のそぶりを見せる。
 ムラムラと、得体の知れない炎が体の内側にわき起こるのを、月彦は感じた。
「子供が出来るとまずいから、その許嫁とは避妊具つきでしかシたこと無い――確か、そう言ってましたよね」
 こくりと、矢紗美が不安げに振り返りながら、頷く。
「てことは……先生のナカに初めて中出ししたのは、俺……ってことですよね。嬉しいです」
 感慨深そうに言いながら、月彦は萎え知らずの分身を再び矢紗美の秘裂へと押し当てる。
「ま、待って……紺崎クン……い、一回だけって約束……でしょ?」
 何を今更――月彦は再度吹き出しそうになってしまう。そもそも一回だけという約束を最初に破ろうとしていたのは矢紗美の方であるというのに。
「そんなの、方便に決まってるじゃないですか。俺はずっと先生のコトが好きで、先生とシたくてシたくて堪らなかったんですよ? たった一回で満足できるわけないです」
 矢紗美の腰を掴み、剛直をゆっくりと埋没させていく。
「やっ、止めっ……お、お願い……紺崎クン! 他のコトならなんでもしてあげるから、だから……」
「ダメです。それに、俺のは良いって、先生も褒めてくれたじゃないですか」
「あ、あれは……んんぅぅ…………やっ……くぅぅぅぅ…………」
 挿入を拒もうとするように、矢紗美が暴れる。その力加減が絶妙の一言で、容易すぎず、それでいて“牝を力ずくで犯したい”という牡の欲望を満たす程度に小賢しく、月彦はむしろ関心すら覚えた。
(…………“これ”を真央が覚えたら、エラいことになりそうだな)
 真央も時に“いやがるフリ”をすることはあるが、月彦に言わせればそれは抵抗が弱すぎるのだ。あまりにも容易すぎてリアリティがなく、それが若干不満ではあるものの、むしろそこを完璧にされるとますます真央の体にのめり込んでしまう為、不満に感じつつも口には出せないというジレンマなのだった。
「や、止めて……ホントに止めて、紺崎クン……こ、これ……お、大き過ぎ、て…………あはぁぁぁ……」
「大きすぎる……ってことは、“彼氏”のはそうじゃないんですか」
 矢紗美に被さるようにして、教卓についた手の甲側から握りしめながら、意地悪くささやきかける。
「……そんなの、言えない」
 ふいと、矢紗美がそっぽを向く。巧いなと、月彦はまたしても関心してしまう。ここであっさりと答えられたらむしろ興ざめしてしまうところだった。
「どうして言えないんですか?」
 問いながら、腰を引き――ずんと突き上げる。
「ひぃうっ」
「ほら、ちゃんと答えて下さい」
「あはぁっ、ひんっ、あぁぁっ……や、止めっ……つ、突かないでぇ……!」
「ほら、先生。ちゃんと答えてください。“彼氏”のと、どっちが“良い”のか」
 動きを止め、月彦は意地悪くささやきかける。半分は演技――もう半分は、さんざん“雪乃より”と口にさせられた仕返しだった。
「はぁっんっ……ダメ、そんなの……言えない…………あはぁぁぁ!」
 月彦は体を引いて矢紗美の腰をしっかりと掴み、しゃにむに突き上げる。
「あぁぁっ! あぁぁっ!! あんっ、あっ、あぁっ!!」
 ガタガタと教卓を揺らしながら、矢紗美が獣のような声を上げる。
「い、嫌ッ……嫌ぁぁっ……や、めっ……あぁぁぁぁ…………だめっ、止めてぇぇぇ……か、彼を裏切りたくないのぉ!!」
 かぶりを振りながら鳴きわめき、イヤイヤをするように腰を左右に振るその様があまりに堂に入っていて、すべてを承知の上のはずの月彦ですらまるで本当に婚約者の居る女教師を無理矢理犯しているような錯覚に陥ってしまう。
「嫌、止めて……って言ってる割には、先生のココ、凄いですよ。ヒクヒクうねりっぱなしで、むちゃくちゃ吸い付いてきますし、溢れっぱなしでほら……教壇の上にまでシミができちゃってますよ」
「あぁぁ……いやぁ……そんなの見せないでぇ」
「ダメです。ほら、ちゃんと見てください。…………先生が婚約者ではない男に抱かれて喜んでるその証なんですから」
 月彦は矢紗美の体を起こさせ、教卓から一歩下がって足下を見せつける。本当に恥じているかのように顔を背ける矢紗美の後ろ髪を掴み、無理矢理足下を見せつけてやると――
「おや……今、キュって締め付けましたか?」
 意図的にやったのかどうかは、月彦には分からない。ただ、そのことを囁いてやると、矢紗美はぶるりと体を震わせ、「んぅ」と艶めかしく声を漏らした。
「だめ……紺崎クン、こんなコト……もう止めて……じゃないと……」
「じゃないと、何ですか?」
 再び、矢紗美の手を教卓に突かせる。突かせて、奧の奧まで――。
「あっ、あぁぁ……だ、だめぇぇぇ……そん、な……奧、まで……やっ……あ、足に、力、が……」
 こちゅ、と奧をこづき、そのままコリコリと膣奧を揉むように刺激すると、たちまち矢紗美は両足をがくがく震えさせ、立っているのも怪しくなる。そこを背後から抱きしめ、左手だけで抱き起こしながら、右手で――。
「あぁぁっ、やっ……だ、だめぇぇぇぇぇ!」
 すっかり堅くなってしまってる淫核を人差し指と中指ではさみ、くにくにと刺激すると、矢紗美は弾かれたように声を荒げた。ビクゥッ!――震えていた両足がつま先立ちになり、いっそうキツく剛直を締め付けてくる。
「……クリ敏感なんですね、先生。…………“彼氏”にもいっぱい触ってもらったんですか?」
「あっ、あっ、あっ……だ、だめぇ……そ、そこ……コリコリってしなっ……あーーーーーーーーーーーーーッ!」
 ビクゥ!
 ビクゥッ! ビクゥッ!
 矢紗美の体が三度、大きく跳ねる。同時にビュ、ビュ、ビュ、と結合部から飛沫が迸り、教卓の側面をぬらした。
「くす、ホントにクリ敏感なんですね」
「はぁっ……はぁっ……やっ、も…………止めてぇ……そ、そこ……弄られたら……すぐっ…………」
「大丈夫です。もう力加減は分かりましたから。………………簡単にはイかせません」
 えっ――そんな声を上げる矢紗美をくすりとあざ笑い、月彦は見事な力加減で矢紗美が決してイかないよう、ギリギリの愛撫で責め立てる。
「や、やだぁ…………そ、それ……だめ…………はぁはぁ…………」
「さっきの質問に答えてくれたら、すぐイかせてあげますよ、先生?」
「んっ……く……そ、それ……は……」
「それは?」
「んんぅ……はぁはぁ…………やぁ……く、クリ触るの、止めてぇ…………う、裏切りたくない……裏切りたくないのぉ…………」
「“一回だけなら”とか言ってる時点で、すでに裏切りだと俺は思いますけど」
 もちろん月彦はクリ責めを止める気など毛頭ない。つまんだり、擦ったり、指を当ててゲームコントローラのスティックでも弄るようにクリクリ動かしたりと、強弱の刺激を織り交ぜて――矢紗美を追い詰める。
「はぁ、はぁ……だ、め…………こ、こんなの……堪えられ、ない…………あぁぁぁ…………」
 或いは、矢紗美には女優の才能もあるのではないか――月彦はふとそんなコトを考える。矢紗美がクリ責めに弱いのは百も承知だし、たとえ互いに合意のうえの演技とはいえ、ここまで粘れるものだろうか。
 すでに全身は汗だく。矢紗美の足下も自らが溢れさせた恥蜜で水浸しであり、ガーターストッキングがさらにそれを吸い、快感を堪えるように足踏みをする度ににちゃにちゃと音がするまでになっている。
「お、お願い……紺崎クン……もう、イかせてぇ……気が、狂いそうなの……お願い、お願い……」
 身をよじり、懇願する矢紗美の姿に、月彦は一瞬これが“プレイ”であるコトを忘れそうになる。――否、矢紗美の口から漏れたその言葉は、まさしく真実であったのだろう。
「……イかせて欲しかったら、分かってますよね?」
「…………の方が……い……」
「もっと大きな声でお願いします」
「紺崎クンの方が……良い、の…………あの人のより、紺崎クンのほうが…………比べものにならないくらい…………」
 これはプレイだ。それは分かっている。矢紗美はあくまで自分が設定したキャラのそれを演じているに過ぎない。
 それは分かっている。分かっているが――。
(……実際に言われると、来るものがあるな)
 あの人のより、紺崎クンの方が良い――そう言われたときの興奮は、筆舌にしがたかった。
 なるほど、だからなのかと、月彦は納得した。
 何故、矢紗美があれほど“雪乃より”に拘ったのか。月彦は今こそ分かる気がした。
「……そうですか、嬉しいです、先生」
 興奮を隠し、あくまで冷静を装いながら、月彦は言葉を続ける。
「じゃあ先生、そんなに気に入ってもらえたなら…………婚約も解消してくれませんか?」
「えっ……あぁん!」
 クリ責めを止め、月彦は再び矢紗美の腰に両手を添えて、突き上げる。
「その彼氏を振って、俺のモノになってください」
「い、嫌……それは……それだけは……」
「嫌だっていうんですか?」
「あひィィ!」
 ずんっ、と。怒気まじりに突き上げる。
「あっ、あっ、あっ」
「ほら、先生? 俺と一緒になってくれるなら、毎日だって抱いてあげますよ?」
「あっ、ひっ、あっ、ほ、本当、に……毎日っ……あぁん!」
「ええ、本当です。毎日、放課後……休み時間、早朝でも、先生が好きなだけ」
 ヒクヒクヒク――月彦の言葉に反応するように、肉襞が震え、剛直に絡みついてくる。
(おや……矢紗美さんのツボを突いたかな?)
 毎日、好きなだけ抱いてやる――それが矢紗美の夢なのかもしれない。
「な、なるぅ……あの人と別れて、紺崎クンのモノになる、から……だからぁぁぁ!」
「だから?」
 ゾクゾクと、寝取りの興奮に身震いしながら、月彦は続きを促す。スパートをかけるように腰の動きを早め、高みへと上り詰めながら。
「だから……私だけを………………あっっ……あぁぁぁぁぁぁぁぁぁ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜っっ!!」
「っ……くっ、ぁっ……」
 矢紗美の体が大きくはね、びくんとつま先立ちになる。肉襞が収縮し、剛直をギチギチと締め上げてくる。
 その圧力に抗うように、ねっとりと濃い白濁汁を矢紗美のナカへとぶちまけていく。
「あっ、あぁぁ〜〜〜〜〜〜っっ…………………………」
 ビュッ、ビュッ、ビュッ――射精にあわせて、矢紗美が小刻みに尻を震わせ、イく。イく度に、その体は徐々に脱力し、教卓の上にぐったりと伏せるように崩れ落ちる。
(……なんだ、この感覚、は……)
 同時に、月彦は先ほどまで心中で渦巻いていたドロドロとした欲望が急速に霧散するのを感じた。プレイの上でのこととはいえ、恋人の居る女をオトし、ものにしたという実感故なのかもしれない。
 後に残ったのは、気怠い絶頂の余韻と、矢紗美に対する純粋な愛しさだけだった。
「ふーっ……ふーっ…………………………矢紗美、さん」
 性欲とは別の欲求の赴くままに、呼吸を整えながら、月彦は囁く。
「もう一回……もう一回だけ……今度は“普通”にシたいんですけど……いいですか?」
 矢紗美もまた呼吸を整えながら、小さく。コクリと頷いた。



 ベッドや布団がないことを、これほどもどかしく感じたことはなかった。
「矢紗美、さん」
「紺崎クン……」
 立ったまま抱き合ってキスをかわし、そのまま互いの体をまさぐりあいながら、服が汚れるのも構わず教室の床の上に寝そべる。行為に適した場所に移動する暇すら惜しいと、互いに暗黙のうちに了承しての苦肉の策だった。
「あの、今更ですけど……その眼鏡、すごくよく似合ってますよ」
「そう? ありがとう、紺崎クン。本当に今更ね」
 苦笑して、キス。さすがに矢紗美を直接床の上に寝させるのは気が引け、月彦は自分のブレザーを一応の敷物代わりにして、矢紗美の体をそっと床の上に横たえ、服の上から胸元をまさぐる。考えてみれば、まだ今日は乳に触れるのはおろか、目にしてすらいないのだ。
「脱いだ方がいい?」
「いえ、ボタンだけで大丈夫です」
 シャツのボタンを外し、下着を上へとずらす。矢紗美の裸は何度も見たことがあるが、場所が場所だからか、月明かりに照らされた白い果肉を目にするなり、月彦は思わず喉を鳴らすほどに興奮した。
「矢紗美さん、キレイです」
「どうせなら、“そこ”よりも顔を見て言ってほしいなぁ」
 困ったように笑う矢紗美に月彦もまた照れ笑いを返して、露わになった胸元へと両手を伸ばす。
「んっ……いいよ、紺崎クンが好きなように触って」
「舐めてもいいですか?」
「ダメって言うと思う? ……あんっ」
 矢紗美の言葉を聞くなり、月彦はむしゃぶりついていた。右手は左乳をこねながら、右乳に吸い付き、舐め回す。
「んんぅ……紺崎クン……こっちも……」
 矢紗美の手に、左手が導かれる。汗やらなにやらですっかり濡れそぼったミニスカートのその下へと。
「ん、ガッチガチに堅く勃起しちゃってる、矢紗美さんのクリを触ればいいんですか?」
「い、いちいち言わなくていーの! んっ……そ、そう……そんな、感じ…………あっ、ぁっ……」
 右手で乳をこねながら、口で乳を吸いながら、左手でクリを弄るのはなかなか難しい並列作業だった。しかし、月彦の脳はここぞとばかりに120パーセントの機能を発揮し、絶妙の力加減ですべての作業を完璧にやり遂げていた。
「あっ、あっ……ンッ…………こ、紺崎クン…………ね、ねぇ…………そろそろ…………」
 矢紗美が、じれったそうに身もだえする。が、構わず月彦は三点責めを続ける。
「お、おっぱいなら……ね? ほら、シながらでも……触れるでしょ? だから…………は、早く……」
 クリを責められると、感じるだけではなく“欲し”くもなるのだということは、当然月彦も知っている。
 だから、ぎりぎりまで――焦らす。
「ちょっと、ちょっと、紺崎クン!? い、いつまで…………」
 ばんばんと矢紗美がたまりかねたように背中を叩いてくる。そこでようやく、月彦は乳への愛撫を止めた。
「すみません、矢紗美さん。ずっと矢紗美さんの胸に触ってなかったんで、ちょっとばかり没頭してました」
「……嘘ばっかり。どうせぎりぎりまで焦らしてやろうとか、そんなコト考えてたんでしょ?」
 うっ、と月彦が言葉に詰まると、矢紗美はやれやれと言わんばかりに微笑んで、その両手を月彦の首へとかけてくる。
「ね、来て?」
 百の言葉よりも、その一言は月彦の“牡”を刺激した。ガチガチに屹立しっぱなしの剛直を、十数回の絶頂と二度の中出しでトロトロになっている秘裂へとあてがい――
「んっ、……あっ、あんっ! あっ、あぁぁぁ……!」
 優しく、ゆっくりと挿入する。
「あっ、あぁっ、あぁっ、……うぅぅ…………ホント、これ…………こ、擦れ…………ぅぅぅぅぅ…………」
「大丈夫ですか、矢紗美さん。背中、痛くないですか?」
「ん、平気……紺崎クン、動いてもいいわよ?」
「わかりました」
 月彦は床に手を突き、抽送を始める。が、やはりベッドやソファの上と床の上は勝手が違い、なかなか思うように動けない。
「だ、大丈夫? 紺崎クン……私が、上になろっか?」
「いえ……大丈夫です……」
 何とか動きやすい姿勢はないかと、あれこれ試行錯誤を繰り返すも、手や足が周囲の机や椅子の脚にあたり、なかなか思うように行かない。
「……す、すみません……矢紗美さん……あの……」
 やむなく月彦は妥協することにし、矢紗美に一つの提案をした。
「いいわよ」
 矢紗美は二つ返事でOKし、両手を伸ばしてくる。月彦はその手を引き、矢紗美を抱き起こす形であぐらを掻き、“いつもの形”へと移行する。
「す、すみません、矢紗美さん。最初の形と被っちゃうから、避けようとは思ってたんですけど」
「いいじゃない。私は好きよ?」
 ちゅっ、とついばむようなキスをされ、がらにもなく月彦は顔を赤らめてしまう。
「あっ、紺崎クンひょっとして照れてるの?」
「て、照れてなんかいませんよ! 第一、こんな暗いのにそんなの分かるわけないじゃないですか」
「分かるわよ、それくらい。微妙な表情の変化とかでさ。…………こんなにお互いの顔が近いんだし」
 こつんと、矢紗美が額を合わせてくる。
「それに……ンッ」
 キュッと、締まる。矢紗美が意図的に力を込めたのだろう。
「こっちも、繋がってるんだから。……紺崎クンの考えてるコトなんて筒抜けよ?」
「こ、怖いこと言わないでください! もし本当に筒抜けだったら、俺はとっくに矢紗美さんに刺されてますよ」
「ふぅん……私に刺されるようなコト秘密にしてるんだ?」
 いじわるな笑み。矢紗美が、クイクイと腰を使い始める。
「おっと、そうはさせませんよ、矢紗美さん」
 このままでは押し倒され、矢紗美のペースになる――そう直感し、すかさず月彦も矢紗美の背中から尻へと手を動かし、尻肉を掴んで、上下に揺さぶる。
「あっ、んっ……もぅ……紺崎クンったら、ホント負けずぎらい……ンッ」
「“最初”にたっぷり矢紗美さんに苛められましたから。中盤後半はさすがに一方的にはやられませんよ」
「あら、それは紺崎クンが約束を破ったからでしょ?」
「そ、それを言われると辛いところですが……」
「でも、許してあげる。…………なかなか巧かったわよ?」
「矢紗美さんこそ……途中本当にレイプしてるような錯覚に……」
「んふふ……紺崎クン随分興奮してたわよね。……“俺にはそんな趣味はありません”とか言ってるクセに」
「あ、アレは話を合わせてただけです!」
「嘘ばっかり。…………すごぉく堅くなってたわよ? ググンって私のナカで反り返って、本当に壊れされちゃうかと思ったもの」
「だ、だから……それも含めて全部演技――んっ」
 突然、矢紗美に唇を奪われる。
「…………さすがに婚約者は居なかったけど、でも紺崎クンが寝取ったのは本当よ?」
「矢紗美……さん?」
「両手の指じゃ足りないくらい居たボーイフレンド全員フッて、私は紺崎クンだけを選んだんだから。……私は、紺崎クンに寝取られちゃったの」
 ぎゅぅぅ――矢紗美が瞳を潤ませ、しがみつくように抱きしめてくると同時に、剛直を肉襞が締め上げてくる。
「………………ほら、やっぱり。ググンってなった」
 そして、にぃ、と。矢紗美が小悪魔のような笑顔を浮かべる。
「ち、ちが……い、今締め付けてきたのは矢紗美さんの方じゃないですか!」
「んーん? 私は何もしてないわよ。紺崎クンが勝手に興奮して、勝手におっきくしちゃったから、締め付けられてるって勘違いしただけ」
「違います! 矢紗美さんが――」
「はいはい、分かったから。紺崎クンにそういう性癖があるのは私だけの秘密にしといてあげるから…………寝取るのは私だけにしといてね?」
 だめだ、らちがあかない――矢紗美の説得は不可能であると察して、月彦は沈黙を選んだ。
(……もしくは、分かってて俺をからかってるだけか)
 敵わない、と思わざるを得ない。同じ年上でもやはり長女だからか。雪乃より矢紗美の方が上手だと感じてしまう。
(……ていうかむしろ、先生は年下って感じが……)
 手のかかる妹、と言ってしまうのはさすがに雪乃にとって失礼だろうか。
「……今、雪乃のコト考えてたでしょ?」
「えっ」
 どきりと心臓が跳ねる。まさか、本当に考えているコトが伝わるとでもいうのか。
「今のは、顔で分かったの。すっごく浮かない顔してたから」
「……すみません。確かに、先生のコト考えてました」
「やっぱり別れたくないなぁ、って?」
「……そういう気持ちがゼロじゃない、といったら嘘になります。先生のことも好きですから」
「でも、紺崎クンは私を選んでくれたんでしょ?」
「…………はい」
 キュッ、と。矢紗美の中が締まる。
「だったら、もう迷ったりしないでほしいんだけどなぁ」
「す、すみません……」
「いーい、紺崎クン。許してあげるのは一回だけ、二度目はないからね?」
「わ、わかってます」
「本当に分かってるのかなぁ?」
 なんとも意味深な呟きだった。矢紗美がごそごそと、スーツのポケットから何か黒いスティック状のものを取り出す。
「矢紗美さん、それは……」
「これはね、ボイスレコーダーっていうのよ。声や音を録音するのに使う機械なの」
「そ、それくらい知ってます! それをどうするつもりなのかっていう意味で……」
「雪乃より私の方が好きって、今ここで録音させて」
「えぇぇぇ!?」
「大丈夫、紺崎クンが自分できちんと別れ話できたら、すぐに破棄してあげるから」
「できたら、ってことは……」
「うん、また出来ませんでしたーって言われたら、このボイスレコーダーは雪乃の手に渡ることになるわ」
「なっ……」
「何か問題でもあるの? 紺崎クンは今度こそ、ちゃんと雪乃と関係を清算してくれるんでしょ? だったら、失敗した時のコトなんて関係ないんじゃない?」
「そうですけど……ほら、不測の事態が起きる可能性も……」
「……つまり、紺崎クンは本当は雪乃と別れる気はない、と」
「そ、そんなコト言ってないじゃないですか!」
「じゃあ、録音して?」
 ずいと、ボイスレコーダーを目の前に突きつけられる。
「いーい? 今からスイッチいれるからね。なるべく雪乃には無加工のまま聞かせたいから、余計なコトはあんまり言わない方がいいわよ?」
 月彦の目の前で、矢紗美がボイスレコーダーのスイッチを入れる。
「はい、紺崎クン?」
「ううぅ……」
 気がつけば、座位――ではない。完全に矢紗美に押し倒される形、騎乗位になってしまっていた。
「言っとくけど、録音中だからね? ふふっ……」
 淫魔の微笑みを浮かべ、確信犯的に矢紗美が腰をくねらせ始める。
「くぁっちょ……矢紗美さっ……」
「んっ、はぁっ……紺崎クンのっ、すっごくかたぁい……あぁあんっ!」
 やや芝居がかったような嬌声を上げ、矢紗美が腰を浮かせては叩きつけ、派手に肉と肉のぶつかる音を響かせる。
「ほらっ、ほらぁっ……紺崎クン、早くぅ……あんまり引っ張ると、雪乃が聞く時に困るわよ?」
「で、でも……くぁぁぁ……」
「んぁぁっ……すっごぉい……肉の槍の中心に鉄の棒でも入ってるみたい……はぁはぁ……ねえほら、雪乃、聞こえる? 今、お姉ちゃん紺崎クンとゴムなしの生ハメセックスしてるのよ?」
「なっ……ちょっ! や、矢紗美さん!」
「だーいじょうぶだって。別に雪乃に電話してるわけじゃないんだから、あくまで録音よ、録音。……ふふっ、でも……ちょっと興奮しちゃわない? もしこれを雪乃が聞いたらどうなるかしら?」
「こ、興奮どころか……魂まで縮み上がってるんですけど、俺……」
「その割には……こっちは相変わらずみたいだけど? 言ってるコトと体が真逆よ、紺崎クン」
「それは……矢紗美さんが動いているからで……や、やっぱり止めましょう、こんなの……」
「だあめ。こうでもしなきゃ、紺崎クンまた土壇場で尻込みしそうなんだもの」
「尻込みなんかしません! 今度こそ、絶対に、確実に先生と別れますから!」
「だったら、今ここで録音しても大丈夫でしょ? これは紺崎クンが失敗しない限り、雪乃が聞くことは無いんだから」
「そうですけど……万が一流出とかしたら……くぁぁ……」
「大丈夫、私が責任持って管理するから……ほら、ね?」
 はあはあと息を荒げ、両目を輝かせながら、矢紗美がボイスレコーダを向けてくる。その様を見るに、もはや“保険”が欲しいというより、単純に自分がその一言を聞きたいだけという風にしか見えない。
「ううぅ……ほ、本当に……きちんと管理……してくれるんですか?」
「するする、大事に大事に保管して、紺崎クンが約束通り雪乃と別れてくれたら、その場で破棄してあげるから」
 キュッ、キュッ、キュッ――!
 矢紗美の興奮の度合いを示すように、剛直が何度も締め付けられる。
「ほら、紺崎クン?」
 くい、くいと腰をくねらせながら、矢紗美が状態を被せて密着してくる。互いに寄せた顔の間にボイスレコーダを持ってきて、息づかいすら録音しようとするかのように。
「お、俺は……」
「俺は?」
「せ、先生より……矢紗美さんの、方が……好き、です……」
「んんっ…………もうちょっと大きな声で、はっきりと。ほら、紺崎クン?」
「おっ、俺は先生より、矢紗美さんの方が好き、です! だから、先生とは、別れ……ます!」
 半ばヤケクソ気味に、月彦は声を荒げる。
「んっ、あぁぁぁぁ………………!」
 その月彦の上で、矢紗美がかつてないほどに身震いする。その瞳を恍惚に輝かせ、はぁぁあと熱と湿り気を帯びた吐息を吐きながら、まるで宝物でも手にいれたかのように、ボイスレコーダに頬ずりまでしていた。
「ねえ、雪乃……聞こえた? 紺崎クンね、雪乃より私の方が好きなんだって」
「や、矢紗美、さん?」
 矢紗美が、激しく腰をくねらせる。まるで、剛直を根元からねじ切ろうとするかのように。
「ごめんね、雪乃。お姉ちゃんまた貴方の彼氏寝取っちゃったみたい。でもしょうがないよね、雪乃より私の方が好きって言われちゃうんだから。紺崎クンね、雪乃とのセックスじゃ全然満足できなくて、すっごい溜まってたみたい」
「ちょっ、止めてください! 余計なコトを吹きこまな――くぁぁ……」
 ギチッ!
 ギュゥゥゥゥ!
 かつて無いほどに剛直を締め付けられ、月彦は声すら出せなくなる。
「ねえ雪乃、まだ聞いてる? 聞いてるわよね? 私たちに嫉妬しながら、怒りながら、それでも最後まで聞かずにはいられないんでしょ? んっ……はぁはぁ……今からね、紺崎クンに中出しされてイクから、その声もちゃんと聞かせてあげる。……紺崎クンとのエッチを思い出しながらオナニーするのに役に立つわよ? ふふっ……」
「や、矢紗美さん! ちょっ……は、激しっっ…………くぁぁぁぁ……!」
 ぱちゅん!
 ぱちゅん! ぱちゅん!
 肉と肉がぶつかり、飛沫を散らす音を響かせながら、さらに矢紗美は体をくねらせ、喘ぐ。
「はぁぁぁぁあっ……コレ、凄くいぃぃ! あぁぁぁっ! あぁーーーー! き、気持ちいいぃぃぃ……んぁああっ! ねぇ、紺崎クン……もっと言ってぇ……聞かせてぇ! ほら、ほらぁっ!」
 腰を使いながら、矢紗美が上体を被せてきて、喘ぎながら詰め寄ってくる。
「も、もっと……って……」
「雪乃より良いって、言って!」
「くはっ……せ、先生より、良い……です……」
「あぁぁ……ンッ……ゾクゾク来るっぅぅ……あはぁぁぁ……妹の彼氏寝取るのってたまんない……気持ち、良すぎて……頭トロけちゃいそう……」
 その口からはひっきりなしに喘ぎ声を漏らし、涎すら零しながら矢紗美がうっとりと微笑む。微笑みながら、腰を使う。
「や、矢紗美、さん……ちょっ、俺……もう、ヤバ…………」
 まるで、矢紗美の感じ方の度合いを示すかのように、矢紗美の中もまた極上に仕上がっていた。トロトロの熱い密が剛直全体に絡みつき、その上から肉襞が吸い付くように擦りあげてきて、体を動かすことはおろかろくに声を発することも出来ない。
 そんな月彦を満足げに見下ろしながら、矢紗美はさらに動きを激しくする。
「あんっ! あんっ! あんっ! あぁぁぁぁあ……紺崎クンの極太麻薬チンポ最高ォ! あーーーーッ!! あーーーーッ!! あんっ、あっ、あっ、あっ……あっあっぁっ、だめっ、だめぇぇぇ!! い、イクッ……あぁーーーイクイクゥ! 妹の彼氏のチンポでイっちゃうゥゥゥウウ!!!!!」
 嬌声、絶叫――同時に、矢紗美は弓のように背を逸らせしならせ、達する。
「くっ…………ぁ…………!」
 同時に、月彦もまた達してしまっていた。びゅく、びゅくと矢紗美の中に吐精しながら、こんな状況でも絶頂を迎えてしまう男という生き物を呪わしくすら思う。
「あぁぁぁ……出てるぅぅ……びゅぅ、びゅうってぇぇぇ……紺崎クンの生ハメチンポミルク熱すぎいぃぃ……あんっ……まだ出て………はぁぁぁ………だ、だめぇぇ……量、多すぎぃぃ…………パンク、しちゃう…………」
 ぶるりと、中出しを受けながら、矢紗美が体を震わせる。
「ぁっ……ぁっ……ま、また……イくっ……イッたばっかりなのにぃ……紺崎クンに中出しされてまたイッちゃう…………あぁぁぁぁぁ…………〜〜〜〜〜〜〜っっっ!!!!…………ッ!!…………ッ!…………………………はぁぁぁぁぁあ……………こんな気持ちいいセックス、紺崎クン以外とじゃ絶対出来ないぃぃ…………」
 余韻たっぷりにボイスレコーダーに吹き込み、ピッと録音を終了させるや、矢紗美は糸が切れた操り人形のようにぐったりと倒れ込んでくる。
「はぁぁ…………すっごく良かったぁぁ…………今までで一番気持ちよかったかも」
 ごろにゃーんと矢紗美に頬ずりされながら、月彦はといえばかつて無いほどの雪乃への罪悪感に苛まれていた。
(ね、寝取りが好きなのは…………矢紗美さんの方じゃないか……)
 人にバカだと言うやつがバカ――の理論ではないが、自分がそうだから人もそうであると、矢紗美はそう思っているのかもしれない。或いは、単純にからかうネタにしただけか。
「うううぅ……矢紗美さん……ホントの本当に約束は守ってくださいよ?」
「あら、それはこっちのセリフ。紺崎クンこそ――」

 ガラッと。教室の引き戸が乱暴に開け放たれたのはそのときだった。

「コラッ! そこで何をしている!」
 あっ、俺の人生終わった――懐中電灯の光を向けられた瞬間、月彦はすべてを観念した。

 

 

 

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