それは、いつもの“意地悪”などでは決してない。正真正銘、目の前にいる人物に心当たりが無いという目だった。
「そん、な……父さま、私だよ、真央だよ!」
「真央…………さん?」
 真央は月彦に詰め寄り、両手でしがみつくようにして叫ぶが、月彦はなんとも困ったような表情でそんな呟きを漏らすのみ。
「ちょっと、止めてよ」
 やがて、知らない少女が月彦との間に強引に割って入り、真央は無理矢理に引きはがされる。
「何なの、あなた。いい加減にしないと警察呼ぶわよ」
「そっちこそ誰なの!? 私の父さまに何をしたの!?」
「うっわ、キモッ……“私の父さま”だって。……なぁにこの子。頭おかしいんじゃないの?」
「えっと……誰かと勘違いしてるんじゃないのかな?」
「…………っっっ………………!」
 真央は目眩すら覚えて、その場に居たたまれなくなり、逃げるように駆けだした。
「あっ、ちょっと!」
 月彦の声が追ってきたが、真央は足を止めなかった。止めても無駄だと思った。“これ”はど忘れや勘違いといった、そんな単純なものではない。
 もっと大がかりな――“誰か”の罠だと感じた。
(……あの人が……?)
 準備、余興――あの言葉は“この状況”を指していたのではないか。だとすれば、今の自分に出来る事は何も無い。
 母も――真狐ももう居ない。唯一、頼りになるのは――。


 時間が時間であり、もはや電車もバスも無かった。タクシーに乗る程の持ち合わせも無く、真央は徒歩で隣町の、兄の屋敷を尋ねた。
 既に、午前零時を回っていた。しかし、そんなことに躊躇などしていられなかった。
「兄さま、兄さま! 大変なの! 父さまが、母さまが!」
 真央は両手で力一杯門扉を叩き、声を荒げる。そうして叫び続ける事十分弱、襦袢姿の白耀が眠そうな目を擦りながら潜り戸の方を開けて現れた。
「兄さま! 私が解る? 真央だよ!」
「………………。」
 返事ではなく、白耀が僅かに眉をひそめた――ただそれだけで、真央は体の力が抜けるのを感じた。
(そんな……兄さままで……?)
 一般の人間である月彦とは違い、兄白耀は曲がりなりにも三本狐だ。それすらも“騙した”というのか。
「……申し訳ない。貴方に心当たりが無いのですが……どちらさまですか?」
「私はっ……っ……」
 説明をしようとして、真央は途中で断念した。“そんなこと”で白耀が思い出してくれるほど、簡単な術の筈がない。
「………………ごめんなさい。家を、間違えたみたいです。夜中にうるさくして本当にごめんなさい」
 真央は深々と頭を下げ、そして踵を返す。「待ちなさい」――そんな声が聞こえたのはその時だった。
「貴方も妖狐……いえ、半妖ですね。もしや“不法滞在者”ですか?」
「ち、違う! 私はちゃんと帰るところがあるもん!」
 “不法滞在者”――それが辿る末路は一つしかない。真央は叫ぶように声を荒げ、その場から逃げ出した。
(母さまも……父さまも……兄さままで……!)
 ひょっとしたら、もはやこの世の中に自分のことを覚えている者はただの一人も居ないのではないか――真央は両目から涙を溢れさせながら夜の町を走り続けた。

 

 

 

 

『キツネツキ』

第四十四話

 

 

 

 

 



 はぁぁ……。
 目を覚ました真央が最初に見たのは、己の吐く白い息だった。不自然な姿勢で眠った為か、体の節々が痛く、首も少し寝違えてしまったらしくて動かすと痛みが走った。
 家を出るときに厚着をしていたのは正解だったと言わざるを得ない。そうでなければ、ひょっとしたら凍死していたのかもしれないのだから。
 真央は鼻を突く悪臭に満ちた公園の公衆トイレの個室から出、洗面台で顔を洗った。目が充血しているのは、単純な睡眠不足によるものだけではなかった。
 外に出ると、既に夜は明け公園の前の道路には学校へと向かう小学生や中学生、そして高校生の姿が見えた。そんな様子を遠巻きに見ているだけで、真央はまるで別世界に迷い込んでしまったかのような錯覚にすら陥る。
(…………もう、お金が殆どないや)
 財布ではなく、小銭入れしか持ってこなかったことが災いした。往復分のバス代を引いた残りの金額は千円にも満たない。
 きゅう、と空腹を訴える腹の音に耐えかね、真央は公園を後にし、最寄りのコンビニで130円の菓子パンを一つだけ買い、公園へと戻った。
 ベンチに座り、それをよく噛んで食べた。到底喰い足りる事など無かったが、それ以上は公園の水で腹を膨らませてしのぐ事にした。
(あ、そうだ……荷物……置いたままだ)
 昨夜眠る際、どうしても邪魔になってリュックサックを下ろしたまま、トイレの個室に放置しっぱなしである事を真央は思い出して、すぐさま取りに戻った。幸い盗まれたりはしておらず、中を開くと一昨日と昨日秘境で集めた“材料”が顔を覗かせ、そのうちのいくつかを腹の足しにして、真央は再びベンチに腰を下ろした。
(………………これからどうしよう)
 途方に暮れるとはまさにこのことだった。突然現れたまみなる狸女と、謎の少女によって完全に居場所を奪われ、どうすればよいのか真央には全く解らなかった。
(兄さままであの様子なら……きっと、由梨ちゃんや姉さまも……)
 自分のことなど覚えてはいないだろう。ひょっとしたら――という思いはあるものの、それを確かめる事は恐ろしい勇気を伴う事でもあった。文字通り血を分けた父親である月彦に“他人を見るような目”で見られた時などは心臓が張り裂けてしまいそうだった。
(…………あの人達、どうしてこんな事をするの? 私、あの人達に何もしてないのに)
 そのことが不可解でもあり、悲しくもあった。どうやら母親と何らかの確執がある事は解るものの、そのとばっちりで何故自分がこんな目に――と。
(それに……エトゥさんまで巻き添えに……)
 一体何故エトゥが殺されなければならなかったのか。真央には何から何まで理解不能だった。或いは、母親が“狸はイジメ殺してもいい”と言っていたのは、そういった理屈が通じない連中だからという事なのだろうか。

 公園のベンチに座ったまま、真央は悶々と当て所無い考えに囚われ続けた。その殆どは考えてもらちが明かない事柄であり、時間の無駄とも言える行為だったが、そもそもどうすれば“無駄ではない行為”になるのかが、真央には解らなかった。
 やがて陽が上りきり、夕暮れになる――そんな頃だった。
「あーっ、こんな所に居たんだ。んもぉ……ずいぶん探したんだよー?」
 その声を忘れる筈が無かった。真央はハッと顔を上げ、公園のベンチと入り口との丁度中間点の辺りに立つ少女へと視線を向けた。
 そこに立っているのは紛れもない、昨夜月彦の部屋で見た少女だった。赤毛よりの黒髪のショートカットはくるんと内向きにカールし、正面からみるとキノコのような形の髪型だ。体つきは母親――だと、真央はにらんでいた――のまみとは対照的にどちらかといえばスリムで、肉付きは薄い。身長も真央より頭半分くらいは低い。
 そして少女が身につけているのは、真央が通っていた学校の制服だった。
「ねえあなた、真央っていうんでしょう? 私は珠裡。我らが偉大なる妖狸族の首領カムロの末孫、珠裡だよ」
 よろしくね、真央――そう言って、珠裡はにこやかに右手を差し出してくる。真央はどうして良いか解らず、殆ど場に流される形で珠裡の手を握りしめようとして。
 ぱんっ、と。思い切り差し出した手を叩かれた。
「ばーか。誰が薄汚い駄狐なんかと握手するかっての。これでも私は齢四百の大妖狸なのよ? 立場ってものをわきまえなよ」
「……っ……なんで、こんな、事……」
「どうしてこんな事をするのかって? フン。恨むなら自分の母親を恨むのね。大した実力も無いくせにうちのママを怒らせた、愚かな女を」
「…………母さまは、馬鹿なんかじゃない」
「バカに決まってるじゃない。うちのママ怒らせて自分が殺されるだけならまだしも、娘のあんたにまでとばっちりを寄せてる時点でどうしようもないバカよ」
「……母さまは、死んでなんかないもん」
「死んだわよ。ばっちり、私がこの目で見たもの」
 珠裡は、まるで煽るように真央のすぐ目の前まで顔を寄せ、自分の目を指さした。
「調子の良いことばっかり言ってたくせに、最後は無様に命乞いまでしてたわよ? ごめんなさい、ごめんなさい、ゆるしてください。どうか娘には手を出さないでくださいーって」
「…………嘘。母さまは絶対にそんな事言わない」
「認めたくないのは解らなくもないけど。……悲しいけどこれって現実なんだよねー」
 ため息混じりに呟いて、不意に珠裡が隣へと腰を下ろしてくる。
「えっ、やっ、な、何!?」
「いいから、ほら……ジッとしてなさいよ。…………あ、あったあった。コレを探してたの」
「止めて! 返して!」
 珠裡が真央の上着のポケットから取り出したもの――それは真央の携帯電話だった。真央は慌てて取り返そうとするが、珠裡の足は思いの外速く、しかも遊具を盾にするように逃げられてなかなか捕まえる事が出来ない。
「ママの張ってくれた結界のおかげで大抵の事は“誤魔化せる”んだけどさ。こういう人間が作ったモノの調整は難しいらしくって、探せって言われてたの。……まさかこんなモノ一つでママの術が解けるとは思わないけど、一応念のために――」
 そう言って、珠裡は携帯電話を中折れからまっぷたつにへし折ると、そのまま公園中央の噴水へと投げ入れてしまう。
「ぁっ、ぁっ……ひ、ひどい…………姉さまに、貰った携帯電話なのにぃ……」
「ごめんねー。でも、言うとおりにしないと、私がママに叱られちゃうの。……うちのママは怒るとすっごく怖いんだから、悪く思わないでね」
 ごめんね、と言いつつも、珠裡は少しもすまなそうではなく、むしろ微笑すら浮かべる。
「……どうして…………どうしてこんな酷いことが出来るの!?」
「…………あんた、今までの話を聞いてなかったの? そもそもあんたの母親がママに――……まぁいいわ。私達があんたにちょっかい出すのは、私たちが妖狸で、あんた達が妖狐だから。それで充分でしょ」
 ぺっ、と。珠裡は地面に唾を吐く。
「正直さぁ、見てるだけでムカムカするんだよねー、あんた達って。弱っちぃくせに口だけピーピーやかましくって“捻り潰してやりたくなる”のよね」
 珠裡は右手を自分と真央との間に翳し、仄かに赤い妖力の光を立ち上らせる。
「あんた達の今の首領……ツクヨミだっけ? たかだか五本しか尻尾が無いくせに、そんなのが頭張ってるなんて笑っちゃうわ。あんなの、ママが出るまでもない、私一人でも楽勝よ。……知ってる? “大戦”の時は六本狐や七本狐でも妖狸族には敵わなかったのよ?」
 真央も妖狐の“歴史”は知っている。そしてそれは確かに珠裡の言う通りでもあった。
「でも、それは……妖狸の方が何十倍も数が多かったから……」
「へぇー、ふぅーん、“そっちの歴史”じゃあ“そういうこと”になってるんだ? 涙ぐましい努力ね。そうまでして歴史を捏造しないと自分たちの誇りを保てないなんて哀れねー」
「……っ……」
 珠裡の言い様には腹が立つが、真央は有効な反論を思いつかない。“大戦”についての知識など、それこそ学校で習う日本史と同程度の浅い知識しか持っていない。或いは、珠裡が口にしている方が真実かもしれないと思うと、軽々に反論は出来なかった。
「ねぇ、真央。あなたこの先どこか行く所はあるの?」
「行く……ところ…………」
 無い。在るはずが無かった。母は死に、父と兄には忘れられ、それ以外の居るかどうかも解らない親類はそもそも存在も名すらも知らない。その上、元々居た里は真狐が脱獄の際に壊滅させたと聞いている――正真正銘、行く宛など無かった。
「……一つ、条件を呑むなら、“うち”に住まわせてあげてもいいわよ?」
 珠裡の言う“うち”というのは即ち紺崎家の事だと、真央は即座に理解した。
「四禁限身の呪って聞いたことあるかしら?」
 そう言って、珠裡はスカートのポケットから犬用の首輪のようなものを取り出し、見せてくる。
「この首輪はね、装着した者を強制的にその呪を受けた状態と同じにすることができるの。ママが作ったのよ? すごいでしょ」
 四禁限身の呪――その単語にはうっすらと覚えがあった。去年、母――真狐とツクヨミとを巡る騒動の際、まさに真央はその呪いをかけられたのだから。
「真央、あなたがコレをつけて“飼い犬”になるならうちで飼ってあげるわよ? どうする?」
「そんな……」
「イヤなら、無理にとは言わないけど」
 真央は、迷った。その首輪をつける――呪を受けるという事が何を意味するのか、“経験者”である真央には解りすぎる程に解る。到底受け入れられるような事ではない。
 だが。
「言っとくけど、これは私の温情だよ? 本当ならあなたみたいな駄狐なんて野垂れ死のうがどうしようが知った事じゃないんだから。……どうする?」
 珠裡は真央の目の前で首輪をぷらぷらと、挑発するように揺らす。真央は、尚も迷った。
 迷って、迷って、迷い続けて、最後にその背を押したのは――。
(……これをつければ、父さまの側には居られる)
 妖狐としての尊厳もなにもかもが、その一点に覆される。そのことに気がついた瞬間、真央は静かに珠裡から首輪を受け取った。



「ただいまー…………ん? 珠裡、何やってるんだ?」
 玄関のドアを開けるなり、玄関マットの上でなにやらダンボールを切り張りしている“義妹”に、月彦は眉を潜めた。
「あ、月兄ぃおかえりー。あのねあのね、犬拾っちゃったの!」
「へ……?」
 言われて、月彦は気がついた。珠裡のすぐそばには、子犬のような生き物がちょこんと、神妙そうに鎮座していた。
「犬拾っちゃった……って……お前それ、飼い犬じゃないのか? 首輪ついてるぞ」
「首輪は私がつけたの。……ねえ、月兄ぃ……飼ってもいいでしょ?」
「……いや、それは俺が決める事じゃなくて、どっちかっていうと母さんが……」
「おばさんは飼ってもいいって! じゃあ、月兄ぃも反対しないなら、飼っちゃっていいよね?」
「いや、えーと…………ていうか、ちょっと待て。それ、本当に犬か? なんか違くないか?」
 主にカラーリングとか――月彦は屈み、まじまじと“子犬のような生き物”を見る。照れているのか、まるで月彦から視線を逸らすように、子犬(?)はぷいとそっぽを向く。
「犬だよ、犬。……ちょっと変わった犬なの…………そうだよね?」
 ずいと、珠裡に詰め寄られ、月彦は微かに頭の奥が痺れるような感覚を覚えた。
「…………あぁ、そうだな。確かに、ちょっと……変わった犬……だな」
「でしょでしょー? だからね、今小屋を造ってあげてるの。月兄ぃも手伝って?」
「小屋って……ダンボールでか?」
「だって、ちゃんとした犬小屋は飼うと高いし、作るの大変だし……犬なんだもん。ダンボールで作った小屋で十分だよ」
「いや、さすがに室内飼いは出来ないし、外だと雨も降るだろうし……ダンボール箱じゃあマズいだろ」
「大丈夫! 雨がふってもいいようにこうやって、ほら!」
 そう言って、珠裡は仮組みした犬小屋の横に開いた傘を立てかけ、さながら雀取り用の罠のような形にする。
「…………風の強い日はヤバそうな犬小屋だな。…………まあ、今日拾ってきたばかりで犬小屋を揃えるってのも無理な話か。……明日になったら学校で誰か使ってない犬小屋持ってないか友達に聞いといてやるよ」
「本当!? 月兄ぃありがとー!」
「その代わり、珠裡がちゃんと責任もって世話をするんだぞ?」
「大丈夫だよぉ、絶対に月兄ぃの手を煩わせたりなんかしないから」
「だといいけどな。…………そういや、名前はもう決めたのか?」
「名前……そういえば考えてなかった。何にしよう……」
「まぁ犬っていやぁポチとかシロとかそんなのが一般的だが……シロって色じゃあないなぁ……」
「じゃあ、ポチでいいや」
 あっさり言ってのける義妹に、月彦はずるりと滑りそうになった。
「いくらなんでも安直過ぎるだろ! せめてこう、もうちょっと考えてやったほうが……」
「いいじゃん、別に名前なんてさ。……ねー、ポチ?」
 珠裡が“ポチ”の頭を撫でる――が、ポチは全く嬉しそうではなく、むしろ嫌がっているように月彦には見えた。
「……名前、変えてやったほうがいいんじゃないか?」
「ううん、もう決めたの。ポチ、お前の名前はポチよ」
「……まぁ、珠裡がそう言うなら」
 義妹と正面切って対立しなければならない程の理由があるわけでもなし、月彦はあっさりと譲る事にした。
「……ともかく、生き物を飼うならちゃんと世話はするんだぞ? あと、カッターとかガムテープとか、使ったらちゃんと元の場所にしまっとけよ?」
「はぁーい」
 間延びした返事を返す義妹の脇をすり抜けて、月彦は二階へ上がった。



「…………ふぅ」
 月彦は自室に入るなり上着を脱いでハンガーにかけ、さらに制服のズボンも脱いで同様にハンガーにかける。部屋着のトレーナーとズボンに履き替え、ごろりとベッドに寝転がる。
(…………まだちょっと体が重いな。…………日曜のダメージが……)
 とはいえ、頑張った甲斐はやはりあったようで、今日の雪乃は月彦の見る限りいつになく上機嫌だった。授業中は言わずもがな、ほんの三十分ほどの談笑でお開きになってしまった“部活”の際も、いつものようにラビを邪魔者として敵視したりはせず、終始場の雰囲気は安定していた。
(このまま仲良くなってくれれば一番なんだけど……難しいかなぁ、やっぱり)
 まぁ、その時はその時。また頑張るだけだと、月彦は体の力を抜いてぐったりと大の字になる。
(……しっかし、珠裡のやつ、いきなり犬拾ってくるなんて……)
 ウトウトしながら、月彦が考えたのは、居候している“義妹”の事だった。
 そう、珠裡は月彦の事を“月兄ぃ”と呼ぶが、実際に血が繋がっているわけではない。葛葉と珠裡の母親が旧知の仲で、仕事の都合で海外に行かざるをえなくなり、去年の四月から紺崎家に居候をしているのだった。
(……今だに距離感が巧く掴めないんだよなぁ)
 一年近くも一緒に暮らしているというのに、その事が月彦の悩みの種の一つだった。珠裡の年は後輩の由梨子と同じ、つまり一つ下なわけだが、どうにも“それ以上”の距離感を感じるのだった。
 そんな筈はない、そんな筈はないのだが、“まるで昨日から突然家族の一員に加わった”かのような――いや、そんな事は本当にありえないと月彦は頭を振って否定する。
 目を瞑れば、確固たる記憶として蘇るではないか。去年の四月、珠裡が初めて家にやってきた時から、今までの様々な思い出。去年の暮れにはこっそり由梨子と二人きりでクリスマスを祝おうとして思い切り拗ねられたりもしたし、そのせいで家出騒動にまで発展しかけ、必死の説得でなんとか家に連れ戻せたのも今となっては奇跡のように思える。
 そうやって一緒に艱難辛苦を乗り越えてきたはずの家族が他人のように思えるなんて、いよいよ自分の頭はおかしくなってしまったのかと、月彦は半ば本気で心配したりもする。
(…………菖蒲さんの事も、いつまでも放っておけないしなぁ)
 焦らせば、きっとより過激な方法で自分にかまわせようとするだろう。猫とはそういうものだと、月彦は実体験もあって確信していた。
(……あれ、待てよ……そういや、白耀とはどうやって知り合ったんだっけ――)
 そんな事を月彦が考えていた時だった。コンコンと、ドアがノックされ、月彦は声を上げて返事を返した。
「月兄ぃ、おばさんがご飯の用意出来たって」
「おう、今いく」
 考え事を一旦中断し、月彦は勢いをつけてベッドから起きあがると、そのまま珠裡と共に階下へと降りた。

「やったー! ハンバーグだー!」
 席につくなり、珠裡が快哉を上げるのも無理はなかった。ハンバーグは、珠裡の大好物の一つだった。
「あれ、母さん。犬にもあげたの?」
 見れば、台所の隅の方でハンバーグを――正確には、突き崩したハンバーグをご飯に混ぜて肉飯のようにしたもの――をはぐはぐと食べている子犬の姿があった。
「小さいのが一つ余っちゃったからあげちゃったんだけど……ダメだったかしら?」
「犬って確かタマネギはあげちゃいけないんじゃなかったっけ?」
「あっ、それなら大丈夫だよ。“その犬”は特別だから、何でも食べるよ」
「……確かに、普通の柄じゃないもんな」
 月彦の目にはどう見ても犬ではないものに見えるのだが、不思議とその正体を突き止めようという気は起きなかった。
「ねえねえ、早く食べようよ! 私もうお腹ぺこぺこだよぉ!」
「そうだな。……いただきます」
「いただきまーす!」
 それぞれ手を合わせ、夕食が始まる。珠裡は真っ先にハンバーグにかぶりつき――そしていきなり青い顔をする。
「うえぇ……お、おばひゃん……これ、なんか変なあじがふる……」
「あら……?」
 はてな、と。葛葉が首をかしげるのをよそに、月彦は隣の珠裡の皿の上にあるハンバーグを注視する。
「母さん、これ……中身殆どみじん切りのタマネギしか入ってないんだけど」
「あらやだ、真央ちゃんタマネギ嫌いだったかしら?」
「や、やだなー、おばさん。マオちゃんって誰の事? 私は珠裡だよ?」
 あらやだ、と葛葉は自分の口を隠すように手を当て、ごめんなさいねと困ったように笑う。
(……マオって誰だよ、母さん……)
 何故そこで息子の自分も知らない人物の名が出てくるのだろうか。まさか隠し子でも居るのだろうか――そんな心配とは別に、何かが不意に、胸の奥でざわりと蠢くのを、月彦は感じた。
(いや待て……マオって、確か最近どっかで……っ……)
 記憶を振り返ろうとすると、またしても頭の奥に痺れを感じた。
「……っ……」
「月兄ぃ、どうしたの?」
「……何でもない。……珠裡、俺のハンバーグは普通だから、とりかえっこするか?」
「えっ、いいの!?」
「ダメよ、月彦」
 しかし、それは思わぬ方角からダメ出しをされた。
「だ、ダメって……母さん?」
「珠裡ちゃん、最近ちっともお野菜食べてないでしょう? 成長期なんだから。今夜はきちんとお皿の上にあるものは全部食べなさい」
 葛葉の発言を聞いて、月彦は気がついた。見れば、珠裡の皿の上だけ、月彦のそれの倍近くの付け合わせの野菜がのっているのだ。
「そ、そんなぁ……おばさん、野菜ばっかりこんなにいっぱい食べられないよぉ」
 珠裡は泣きを入れるが、葛葉は微笑を浮かべたまま決して“お残しOK”の許可は出さない。月彦には覚えがあった。昔、まだ自分がトマトが食べられなかった頃、皿に出されたそれを食べるまでは決して椅子から降りてはいけないと、数時間にもわたってダイニングの椅子に監禁され続けた時の事を。
「……珠裡、観念しろ。ああいうときの母さんは絶対に譲ってくれない」
「つ、月兄ぃ…………」
「あら、もうご飯たべちゃったの? まだお腹いっぱいじゃないのかしら」
 月彦、珠裡のやりとりをまるで他人事のように見守りながら、葛葉ははたと、子犬の皿に着目する。
「母さん? え、それ食べさせるの?」
 席を立った葛葉が冷蔵庫へと向かい、取り出してきたのは一枚の油揚げだった。月彦の疑問をよそに葛葉は子犬用の皿の上へとそれを置くや、たちまち子犬は文字通りかじりついて食べ始めた。
「……食べてる……しかも、ガッツリと」
「おばさん、犬ばっかり甘やかしすぎ! ねぇ……お野菜半分残してもいい?」
 なんとも媚びるような声を上げながら、珠裡が“お願い”をするが――。
「その代わり、珠裡ちゃんの分のデザートのプリンはワンちゃんにあげちゃってもいいかしら?」
「えぇぇえ! そんなのやだ! ねぇ……月兄ぃ、何とか言ってやって」
「…………珠裡、野菜はちゃんと食べろ。そしたらデザートのプリンも食べられるんだ」
 葛葉の教育方針に逆らっても何も良い事はないし、そもそも間違っては居ない――筈だと、月彦は思う。心を鬼にして、珠裡のお願いを却下する。
(…………なんだ、また違和感が……)
 珠裡に“お願い”をされた際、月彦は奇妙な差異を感じたのだ。前にも珠裡に同じような“お願い”をされた事がある筈なのだが、その時はもっと抗いがたく、そして巧妙だったような――そんな記憶が。
「もうやだ! 月兄ぃもおばさんも大ッ嫌い!」
 珠裡は声を荒げ席を立つと二階へと駆け上がっていく。
「……やれやれだな。……母さん、少し厳しかったんじゃないの?」
「そうかしら?」
 葛葉は“やりすぎた”とは微塵も思っていないのか、微笑を浮かべた静かに食事を再開する。月彦もまた母親がどういう人物かはよく解っているので、それ以上口を挟まずに自分の皿へと視線を落とした。
「ん……?」
 すりっ……と、何かが足に触れるのを感じて、月彦はテーブルの下へと視線を落とした。食事を終えた子犬が月彦の足に、まるで猫がそうするように体を擦りつけていた。
 撫でてやろうと手を伸ばすと、ハッとしたように子犬は月彦の手から逃げ、そのまま玄関の方へと走り去っていってしまった。
「………………。」
 奇妙なモヤモヤが、胸の奥にわだかまるのを、月彦は感じた。



「えっ、犬を飼うことになったんですか?」
「そうなんだ。昨日急に珠裡のやつが拾ってきてさ。母さんがアッサリOKだしちゃって」
 翌日の昼休み、月彦は屋上で久しぶりに由梨子と二人きりの昼食をとっていた。風はなく、ポカポカと穏やかな陽気を受けて体を温めながら、屋上の片隅で並んで身を寄せ合うように。時折おかずの交換などをしたりしながら、イチャイチャした一時を過ごしていた。
「まぁ、特別吠えたりとか、気性が荒いとかそういうのはないからいいっちゃいいんだけど……ほんと、珠裡の我が儘っぷりにも困ったもんだよ」
「結構マイペースなところがありますよね、珠裡さん」
 由梨子が困り顔で微笑む。
(…………はて?)
 膝の上に自分の弁当箱を乗せる形で、慎ましく食べている由梨子を見ながら、月彦ははたと。奇妙な感覚に捕らわれた。
(…………そういや俺、なんで由梨ちゃんと二人きりで食べようって思ったんだっけ)
 由梨子は、珠裡の親友でクラスも同じだ。ならば珠裡も誘って三人で食べるのが自然である筈なのに、何故自分は珠裡を避けてしまったのだろう。
(…………由梨ちゃんも普通に一人でついてきたな、そういえば)
 由梨子の事であるから、折角だから珠裡さんも、と。一言口に出しそうなものだが――まぁ大した問題ではないなと、月彦は無理矢理自分を納得させた。
「そーだ、由梨ちゃん。今日の放課後、久々に家に遊びに行ってもいいかな?」
「…………うちに、ですか?」
 由梨子の返事は、何故か遅れた。が、月彦は大して気にもとめなかった。
「最近ちょっと忙しくって、なかなかゆっくり話す機会も無かったからさ。勿論由梨ちゃんの都合が良ければだけど」
 家に遊びに行く――勿論、ただ遊びに行くだけのつもりはない。雪乃との激戦を癒す意味でも、まったりと雪乃とニャンニャンしたいという下心は、無論ある。そしてそれはきっと由梨子も同じ思いのはずだと、月彦は思っていた。
「えっ……と……」
 即諾してもらえるに違いない――とまでは思っていなかった。由梨子にも当然都合はあるだろうし、その日の気分というのもあるだろう。
 しかし、そんなに暗い顔をされるというのは、正直予想外だった。
「すみません、今日は……」
「そ……っか。残念だけどしょうがないね」
「はい………………私も、出来たら…………っ…………」
「……由梨ちゃん?」
 ぎゅっと。肩を抱くように強く握りしめる由梨子の様子が尋常ではなく、月彦は声をかけずにはいられなかった。
「…………すみません、今はまだ……でも……」
「……わかった。大丈夫、由梨ちゃんが話せるようになったら、その時に聞くよ」
 由梨子を取り巻く状況がひどく複雑でデリケートである事は、月彦も理解はしている。それは他人が気安く立ち入っていい問題ではないし、ましてや由梨子がそれを望んでいないとなれば尚更だ。
「いざとなったら、珠裡のやつにも相談してみるといいよ。男の俺相手だと、言いにくい事とかもあるだろうし、ああ見えて結構頼りになる奴だからさ」
「珠裡さん、ですか……」
 ここにきて、何故か由梨子の浮かない顔はさらに拍車がかかった。
「…………先輩、変な事を聞いてすみません。……珠裡さんって、先輩の義理の妹で、私の友達……ですよね?」
「……? そうだけど……」
 本当に変な質問だと、月彦は思った。何故そんな決まり切った事柄を、まるで確認でもとるように尋ねねばならないのか。
「ですよね。…………やっぱり、そうなんですよね」
「由梨ちゃん……?」
「自分でも、なんでこんな事を先輩に聞いているのか、よくわからないんです。珠裡さんは間違いなく私の友達の筈なのに…………時々、変な感じがして……」
「……あぁ、そういうのってあるよな。俺も経験あるよ」
 月彦自身、昨夜から幾度と無く感じている事であり、それだけに由梨子の「何かが変」という違和感には強く共感できた。
「話してて、会話がうまくかみ合わない事も多くて……珠裡さんも、なんだか私よりも他の女子と話す方が楽しいみたいで……」
「仲が良くても、そういうことはあるよ。気にしない方が良いって」
 恐らく、家族内のゴタゴタで神経質になっているのだろう。精神が参ってくると、普段はさして気にならないようなことでも気にかかったり、イライラしてしまったりする事があるものだ。
「そうでしょうか……ぁっ……」
 尚も俯いたままの由梨子をそっと抱き寄せ、背に手を回して抱きしめる。膝の上でまだ1/3ほど残っている弁当箱が落ちてしまわないように気を配りつつ、月彦はそのまま優しく由梨子の背中をぽんぽんと軽く叩く。
「もっと、肩の力を抜いて。……由梨ちゃんが何にでも一生懸命になっちゃうのは良いことだけど、たまにはリラックスして自分の体も休めなきゃダメだ」
「…………はい。ありがとうございます、先輩」
 由梨子もまた、月彦の背へと手を回してくる。このままキスまで行ってしまおうかと、月彦は僅かに悩んだが、どうも由梨子はそこまでは望んでいないような気がして、程なく包容を解いた。
「…………えと……先輩。私、そろそろ教室に戻りますね」
「俺はもう少しのんびりしてから戻るよ。……じゃあ、またね、由梨ちゃん」
 由梨子はまだ中身の残っている弁当箱を丁寧に包み直すと、赤い顔を隠しながら、逃げるように屋上を後にした。
「………………変な感じがする、か」
 それは、本当に“気のせい”なのだろうか。月彦はごろりと、屋上に仰向けに寝転がりながら、そんな事を考えた。


 月彦が体の不調を感じ始めたのは、珠裡が“犬”を飼い始めてから数日が経った頃だった。最初は雪乃戦のダメージが色濃く体に残っているだけだとばかり思っていたが、“それとは別”だと、月彦は徐々に気づかされた。
(なんか……変な感じだ)
 夜、自室のベッドの上で横になっていても、なにやら悶々として落ち着かない。先日由梨子を誘って袖にされたから、その分が溜まっているのだろうかとも思うのだが、“そういう感じ”でもない。
(ムラムラっていうのとはなんか違う……いや、ムラムラはムラムラだけど……なんつーか……)
 月彦自身、己の状態を計りかねていた。確かに、己の内側から突き上げてくる強い性欲は感じる。しかし、だからそれを解消しようという前向きな気持ちがわき起こらないのだ。
(がっつりシたい……けど……)
 真っ先に思い浮かんだ相手は雪乃だった。雪乃ならば、このムラムラを思い切りぶつけても壊れず、きっと受け止めてくれるだろう。
 しかし、“違う”――と感じる。
(……先生とはこの前したばっかり、っていうのもあるけど……)
 決して、雪乃の体に飽きたわけではない。が“今は違う”――そう感じる。例えるなら、“肉ではなく、ごはんをお腹一杯食べたい気分”なのだ。
(…………海外に長くいた日本人は、無性にごはんが食べたくなるらしいけど……)
 それが丁度“こういう感じ”なのではないかと、月彦は思っていた。無論、それはただのたとえ話であり、実際に米の飯が食いたいわけではない。
 ただ、今の自分の状況を示す比喩としてある意味適切な表現であるのは間違いない。“アレ”が欲しい――でも、それが何なのかが解らない。
(矢紗美さん…………いや、違う……)
 雪乃同様、ガッツリ性欲をぶつけても大丈夫な相手ではあるが、やはり違うと感じる。これまた食べ物に例えるなら、矢紗美の存在はお菓子のようなものだった。甘く、場合によっては癖になるほどに美味ではあるが、体が求めているものではないと感じる。
「ううう……何だってんだ……」
 “禁断症状”に耐えかねるように、月彦はとうとう頭をかかえて蹲ってしまう。そう、文字通り禁断症状のようなものだった。“アレ”が欲しい、欲しくて溜まらない。自分には“アレ”が必要なのだ――。
「うぅぅ……」
 うめきながら、月彦は半ば無意識のうちにベッドから立ち上がり、部屋を後にする。向かう先は隣の姉の部屋――ではなく、逆側の隣――珠裡の部屋だった。
(何だ……俺は、何で珠裡の部屋に……)
 自分の行動に自問しながら、それでも月彦は止まらない。ドアをノックする。珠裡は中に居るらしく、「はーい、開いてるよー」と声が聞こえた。
 月彦はドアを開け、中へと入る。室内には、まるで新品のようにまっさらのシーツのベッド、同じくまだ光沢すら放っている勉強机等々。洋服ダンス等々の家具類。そして肝心の珠裡はベッドの上に寝そべったままポテトチップスをつまみつつ雑誌を読んでいるらしかった。
 部屋には暖房が効いており、その為か珠裡の格好は薄着にも程があった。上は限りなく赤に近いピンクのTシャツに、下はおしりにパンダの描かれたパンツのみ。膝から下を交互に立てたり伏せたりさせながら雑誌に目を通している様は、到底義理の兄を“男”とは見ていない証だった。
「ん? 月兄ぃどうかしたの?」
「あ、いや…………なんでもない」
 そんな義妹の姿を見るなり、月彦は何故かひどく冷めてしまった。まだ成長期である白い太股などはそれなりに魅力的ではあるのだが、“だから何だ”という気にしかならないのだ。
(…………バカか俺は。まさか珠裡を襲う気だったのか)
 義妹とはいえ、それはれっきとしたレイプではないか。かぶりをふりながら、月彦は珠裡の部屋を後にし、自室に戻った。
「クソ……何だってんだ……」
 目を瞑ると、瞼の裏に白い残像のようなものすら見える。気がつくと“それ”目がけて手まで伸ばしてしまっていて、しかし当然手は何にも触れる事はなく、ただ空を掻くのみ。
「うがぁぁぁ…………くそっ、消えろ! 消えろ! 消えろぉぉ!」
 ごつ、ごつと頭を壁に打ち付けながら月彦は叫ぶ――が、“残像”は決して消える事はなく、それからも月彦を悩ませ続けた。



 脚気、と呼ばれる病気がある。それは主にビタミン不足によって引き起こされる病気であり、その原因が解明されるまでは治療の難しい病として多くの人が亡くなったのだという。
 或いは、“それと同じこと”なのではないか――月彦は己の体に起きている不調を、そのように認識していた。体に必要な“何か”を摂取していない為に起こる、一種の栄養障害なのではないかと。
(……母さんが出してくれる食事はきちんとバランスがとれてる……。偏食だってそんなに極端にはしてない)
 だから、単純に栄養がどうとかという話ではない筈だった。或いは、菖蒲の件でまた体調が悪化しているのかとも思うも、そういった“胃の痛さ”とはまた違った苦しみだった。
「おーい、月彦。久々にゲーセンでも行かねーか?」
「……悪ぃ、カズ。ちょっと最近寝不足でさ……今日は帰って寝るわ」
「ん、そうか。体調悪ぃ時は無理すんなよ?」
「ああ、そうする。……また今度な」
 親友の気遣いに感謝をしながら、月彦はフラフラとした足取りで家路を辿る。
(っかしぃな……まるで貧血にでもなってるみたいだ……)
 寝ている間に誰かに血でも抜かれてるのだろうか――そんなばかげた事を考えたくなる程に、月彦は体調の悪化を感じていた。
「………………まさか、犬アレルギー……ってことはないよな」
 玄関脇。ダンボール製の犬小屋(傘つき)の中で丸くなっている子犬を覗き込みながら、月彦はふとそんな事を思う。
 思い返せば、体調が悪化し始めたのはこの子犬を飼い始めてからなのだ。まさか、飼い主を呪い殺す呪われた子犬とかそういう類では――そんな危惧すら抱いて、月彦はじぃぃ……と小屋の中の子犬を見つめ続ける。
 やがて眠っていた子犬も月彦の視線に気がついたのか、ゆっくりと瞼を開けた。
「……名前何だっけか。……まぁいいや、ほら、おいで」
 目と目が合うなり無視して家に入ってしまうのもなんだかばつが悪い気がして――犬相手に何故気を遣っているのだろうと苦笑しながらも――月彦はそっと手を伸ばし、おいでおいでをする。
 が、子犬は警戒しているのか、月彦の方をじいっと見たまま近づいてくる気配すら無かった。
(……珠裡にしか慣れてないのかな)
 そう思って、月彦が手を引き、立ち上がった時だった。
 キュゥン――そんな、凡そ犬には似つかわしくないような鳴き声が聞こえて、月彦は再度膝を折った。
 クッ、クッ、と。なにやらくぐもったような独特の鳴き声を小さく漏らしながら、子犬はよたよたと犬小屋の入り口まで出てくると、先ほどまでとは別人ならぬ別犬のようにすり、すりと月彦の手に体を擦りつけてくる。
「ははっ。よーし、よし、良い子だ」
 懐かれて悪い気はしない。月彦は両手で子犬の頭や背中、顎の下などをなでつける。
「なんだ、犬も結構可愛いじゃないか。…………まてよ、犬……?」


「……はぁ」
 それは一体何によるため息なのか、白石妙子は自分でも解らなかった。“濃い友人二人”から半ば逃げるようにしてバスに飛び乗り、自宅へと帰ってきてドアを閉めるなり、勝手に出てしまったのだ。
 否、自分でも解らない――というのは、半ば嘘だ。本当はうすうす解っていた。今日の学校での出来事――即ち、“胸”をネタにからかわれたのが原因だ。
(…………好きで大きくしてるんじゃないわ)
 確かに“コレ”は人目を引くかもしれない。自分でもそう思うくらいだから、人から見れば尚更だろう。
(じゃあどうしろっていうのよ。サラシでも巻けっていうの?)
 妙子は半ば憤慨しながら制服を脱ぎ、ハンガーにかける。下着だけの姿になるや、そこではたと。着替えの手が止まった。
「………………。」
 白のブラジャーの上から、そっと手を宛い、軽く揺さぶってみる。
(……また大きくなったんじゃないでしょうね)
 微かだが、ブラをきつく感じる。気のせいだと思いたい――が、何度その“気のせい”に裏切られた事か。
「…………これ以上大きくなったら、また“あいつら”にからかわれるじゃない。……いい加減にしてよ」
 縮め、とでも言うかのように、妙子はブラの上からぎゅうううっ、と胸を押さえつける。が、勿論そんなことで縮んだりすることもなく、ただただ痛みを覚えるだけだった。
「はぁ……」
 自分は何をやってるんだろうと、ため息をさらに一つ。部屋着に着替えようと、衣装ケースを開けてトレーナーを手にとろうとして――またしても手が止まった。
「………………。」
 衣装ケースの中、トレーナーの隣に折りたたまれているのは黒のセーターだった。それは先日、“とあるバカ”にどうしても着て欲しいとせがまれ、やむなく身につけたものだった。
 着れない、というわけではない。が、しかしもうサイズが体に合っておらず、とっておいた所でもはやこれを着る事は皆無。……ならば捨てるか人にやってしまえばいいのだが――。
「…………っ……」
 がくりと。妙子は唐突に膝からその場に崩れ落ち、頭を抱えた。
「あぁもう……我ながらバカの極みとしか思えないわ……」
 セーターを見るたびにあの日の事が思い出されて、その都度妙子は柱に額を叩きつけたくなるような気分に陥る。よりにもよって“あのバカ”に自分から触っても良いと進言するなど、頭が腐って膿んでいたとしか思えない。
「そりゃあ……確かに、あんな奴に借りを作ったままっていうのはイヤだけど……だけど、それならそれで他にもいくらでも返し方はあったでしょ!?」
 何故よりにもよってあんな方法を選んでしまったのか。それが悔しくて、恥ずかしくて、恥ずかしくて、苛立たしくて、恥ずかしくて、やっぱり悔しくて、その倍くらい恥ずかしいのだった。
「あーもう、ほんっとありえないんだから。何よ、ノーブラでセーターだけ着て欲しいって。あいつも大概だけど! 私もなんでそんなの聞いてやってるのよ! あーもうバカバカ!」
 忘れろ――そう言わんばかりに、妙子は自分の頭をぽかぽかと叩く。出来ればあの男も忘れてくれれば、自分は一生神に感謝するのにと。キリスト教だろうが仏教だろうが、一生敬虔な信者として慎ましく過ごしてやるのにと。
「……っくしゅっ」
 そんな愚にもつかない考えを中断させたのは一発のくしゃみだった。季節柄、室内とはいえいつまでも下着姿で騒ぐものではないと、妙子は少しだけ冷静さを取り戻した。
「…………ほんと、ありえないわ」
 やれやれと首をふりながら、妙子は“部屋着のトレーナーだけを衣装ケースから出して”ケースをしめた。下もジーンズを履き、コーヒーでも入れようと台所へと向かった――その刹那。
 さながら、妙子が着替え終わるのを待っていたかのようなタイミングで、インターホンが鳴った。



「子犬見に来ないか?」
 ドアを開けた先に立っていたのは、少なくとも向こう3年は顔を見たくないと思っていた男の、とびきりの間抜け面だった。
「……子犬?」
 “当事者”との顔合わせで、否が応にも封印したくて堪らない記憶が浮かび上がりそうになる。が、この男の前で狼狽えるなどプライドが許さない、妙子は必死に平生を取り繕う。
「ああ、こないだ珠裡が拾ってきたんだ。ほら、居候してる義理の妹の」
「義理の妹?」
 そんな話は初耳だ――と思った瞬間、微かに頭の後ろが痺れるのを、妙子は感じた。
(……そういえば、そんな話を聞いたような……)
 いつ聞いたか、はっきりとは思い出せない。しかし、確かに“そうだったような気”がして、妙子は渋々納得する。
「……で、その珠裡ちゃんが子犬を拾ったからって、どうして私がわざわざ見に行かなきゃいけないの?」
「そう邪険にするなよ。お前、子犬好きだろ?」
「……別に、そんなの……」
 妙子は唇を尖らせながら口ごもる。はっきり言えば、子犬は見たい。見たいが、この男の誘いに乗るのが堪らなくイヤだった。
(だいたい、馴れ馴れしいのよ。月彦のくせに……)
 “犬”で誘えば、簡単に尻尾を振ってついてくる女――この男にそう勘違いをされる事だけは、我慢が出来ない。
 ここは断るのがベストだと、妙子は思った。
「悪いけど……」
「ああ、そういやほら、こないだ観た映画に出てた犬、なんていったっけ」
「…………コーギーよ」
 それくらい覚えておけと、妙子は心の中で苛立ち紛れに付け加える。
「そうそう、それそれ。多分アレの子犬なんじゃないかな。ひょっとしたら何か雑種混じってるかもしれないけど……なんか色とかそっくりだし」
「…………!」
 見えない衝撃を受けて、妙子は俄に一歩退いた。
(コーギーの……子犬……!?)
 あのあどけない笑顔。短い四肢をけなげに動かしてよちよちと歩くその姿はある種の兵器だ。目にすれば忽ち顔はほころび心は喜びに満ち、感激のあまり足から力が抜けて立っている事すらも出来なくなる――コーギーの子犬には、大げさではなくそれほどの魅力がある。
(み、見たい……見に行きたい……だけど!)
 こいつが。
 この男が邪魔だと、妙子はそれが忌々しくて堪らない。
 この男の前でゆるみきった顔など出来る筈がない。見られたが最後、もはやチベットか何処かの山奥で一人修行僧のように生きるか、無人島にでも渡って誰とも顔を合わせずに生きていくしかないではないか。
(どう……すれば……)
 この場でこの男の意識を失わせ、その隙にこっそり紺崎家まで行って子犬を見るのがベストではないか。なんとか一撃で、確実に意識を失わせる事は出来ないだろうか――そんな物騒な事まで検討しながら、妙子は葛藤を続ける。
「なんだ、この後何か予定でもあるのか?」
 月彦の暢気発言が、妙子には恨めしくすら思える。きっとこの男には――全くでは無いのだろうが――悩みなどというものは皆無で、きっと人生が毎日楽しくてたまらないのだろうと。
「い、いか……いく…………い……いか…………うぅぅ……」
「イカって食べる烏賊か? なんだ、晩飯でも買いに行くのか?」
「い……い…………行く、わよ! 行けばいいんでしょ!」
 叫ぶと同時に、妙子は思いっきり月彦の頬をビンタしていた。
「ぶはっ……ちょ、え……? 何で俺叩かれたんだ?」
「うるさい、バカ! そんなことも解らないバカだからに決まってるでしょ! 上着とってくるから外で待ってなさいよバカ!」
「…………何でそこまで言われなきゃいけないんだ」
 納得いかないと、頬を触りながら月彦は玄関から外へと出、ドアを閉める。念のため妙子は鍵をかけてから“準備”に入った。


「はぁ……ったくもぅ……なんでアンタなんかと……」
「えらく遅かったじゃないか。……ん? なんだその手提げ」
「うるさいわね。どうでもいいでしょ。何で私が持ち歩くものについてあんたにいちいち許可を取らなきゃいけないのよ」
「あ、いや…………俺が悪かった」
 どうやらいつになく機嫌が悪いらしいという事を理解して、月彦は素直に食い下がる事にした。
(失敗したな……明日にすりゃよかったか)
 妙子の性格からして素直に喜ぶ――という事は想定していなかったが、まさかひっぱたかれるとは思っていなかった。さすがに理不尽すぎると反撃も一瞬考えたが、先日の件で“殴られてもやり返す気にならないのはお前(正確には姉もだが)だけだ”発言をしてしまった手前、月彦はぐっと堪える道を選ばざるを得なかった。
「ちょっと、何グズグズしてるのよ。置いていくわよ?」
「あ、はい」
 機嫌は良くはないが、子犬は見たいらしい妙子に先導されるような形で、月彦は早足気味に自宅へと帰り着いた。
「……何コレ」
 そして、玄関先に置かれたダンボール製の犬小屋を目にするに、妙子が呆れたように呟く。
「犬小屋……らしい。義妹が作った」
「………………小屋くらいきちんとしたの用意してあげなさいよね。それが無理なら、せめて冬の間くらい家の中に入れてあげなさいよ。まだ子犬なんでしょ?」
「ごもっとも」
「それでその犬は? 何処にいるの?」
「多分中に居ると思う」
「中に?」
 そう言って妙子はかがみ込むようにして犬小屋の中を覗き込むなり――即座に立ち上がって、ビンタをしてきた。
「うぉっと、あぶねえ! いきなり何するんだよ!」
「バカ! なんできちんと繋いでないのよ! 勝手に居なくなったりしたらどうするつもり!? しかもそれで車にはねられたり、事故に巻き込まれたりしたらあんた責任とれるの?」
「お、俺に言うなよ! 飼ってるのは義妹の――」
「その義理の妹を監督するのはあんたの仕事でしょうが!」
 ぐわーっと一気にまくし立てられ、月彦はぐぬぬと後退りする。
(ひ、一人っ子のくせに……!)
 まさか一人っ子の妙子に“兄妹のなんたるか”を諭されるとは思わず、月彦は少なからずショックを受ける。
「たくもう……念のために持ってきて本当に良かったわ。私の先見に感謝しなさいよね」
 そう言って、妙子が手提げバックから取り出したのは犬用のリードだった。
「何が入ってるかと思ったら、そんなもの持ってきてたのか」
「バカに付き合って十年以上にもなると、自然と準備が良くなるのよ。羨ましいでしょ?」
「悪かったな。周りに俺以上のバカが居なくて」
 憎まれ口を叩きながら、月彦は小屋の前にしゃがみ込み、奥で丸くなっている子犬を抱きかかえるようにして外に出す。
「……この首輪にそのリードつけられるか?」
「ホックの形をちゃんとみなさいよ。ちゃんとどんな首輪にだってつけられるやつをわざわざ……」
 そこまで口にして、妙子がはたと言葉を止める。そして眉を寄せながら、ジッと子犬を凝視する。
「ちょっと、これの何処がコーギーなのよ!」
「えっ、だってそっくりだろ?」
「全然違う! 色も、形も、何もかもが違う! あ、いや……尻尾だけはちょっと似てるけど……でも全然別物じゃない!」
「そうか? じゃあこれ何の犬なんだ?」
「ていうかこれ犬じゃなくって、まさかキツ――」
 そこまで口にして、またしても妙子が口を噤む。しかし“その前”の時と違い、まるで誰かに無理矢理言葉を止められたような、そんな不自然な硬直だった。
「妙子?」
「っと……あれ…………とにかく、私はこんな犬は知らないわ。多分、何かの雑種だとは思う、けど……」
 まるで、妙子自身己の結論に納得がいっていないような、そんな不確かな口調だった。
「ったくもぅ……あんたがコーギーの子犬だって言うから来たのに。とんだ無駄足だわ 何が悲しくて雑種の子犬なんかわざわざ見に来なきゃいけないのよ!」
「わ、悪かったよ……お前と違って俺は犬には詳しくないんだ。許してくれ」
「許すとか許さないじゃないわよ。もぅ………………いいからちょっと抱かせなさいよ」
「ん? 抱きたいのか?」
 月彦は両手でかかえるように抱いていた子犬を、そっと妙子の方へと差し出す。ずっと大人しかった子犬は一瞬僅かに暴れるような仕草を見せるが、大したトラブルもなく妙子の腕の中へと引き取られた。
「よしよし、良い子ね。…………この耳……と顔つきも……あと前足…………やっぱり犬じゃ………………っ………………犬、だけど…………いやでも…………っ……」
「何だ、妙子、どうした?」
「な、何でもないわよ! なんか、ちょっと……急に頭がぼぅっとして……あっ」
 もぞりと。妙子の腕の中で急に子犬が身じろぎをしたかと思いきや、そのまま妙子の腕を蹴るようにして地面へと降り立つと、ぴょんと跳ねるような足取りで子犬は小屋の中へと戻ってしまう。
 そう、さながら“抱かせるという義理はもう果たした”そう言わんばかりの素っ気なさだった。
「そんな……」
「どうした?」
「……何でもないわ。……ちょっと、びっくりしただけ。……子犬につれなくされたのなんて初めてだから」
「そりゃあ、中には人間に抱かれるのが嫌いな犬だって居るだろうさ」
「……そうね。……ところで、この子もう今日は散歩させたの?」
「いや? ていうか散歩なんかさせたことあるのかな?――ぶへっ」
 今度のビンタはかわせず、月彦は右頬にモロに――殆ど掌底のような――ビンタを受け、数歩分吹っ飛ばされた。
「い、いちいちビンタす――」
「あんたいくらなんでも適当すぎよ! 正しい知識も覚悟も無しに、犬を飼うな!」
 声を荒げて反論しようとした矢先、その三倍以上のボリュームで怒鳴りつけられ、月彦は即座に肩を縮こまらせる。
「いやでも……」
「でもじゃないの! あんたみたいないい加減な人間が犬を飼うせいで、犬も不幸になるし周りの人も迷惑するんだから!」
「お、仰る通りです」
「……たくもぅ……しょうがないから、あんたには私がみっちりレクチャーしてあげるわ。まずは正しい散歩のさせ方から! いいわね?」
「いや、でも……」
「返事はッ!」
「サーッ! イエッサー!」
 よろしい、と妙子は満足げに頷き、手提げから今度は園芸用のスコップと軍手、不透明ビニール袋を取り出した。
「まず、散歩に行く時は最低でもこの三つは必ず持っていく事。理由は言わなくてもわかるわね?」
「“ワンちゃんの落とし物”を回収するためであります、サー!」
「それはもういいから。……次に、リードは絶対に手から離さないこと。きちんと躾の出来てる成犬だったら、広場とかで一緒に遊ぶ時には外す事はあるけど、そういう時もまず最初に周りを良く見てから判断する事。小さな子供が居ないか、側に交通量の多い道路は無いか、犬が苦手そうな人は居ないか、どんな時でも“危険”と“周りの迷惑”を考えて行動すること。……これは犬の飼い方に限った事じゃないから、いまさら詳しくは言わないわよ?」
 まさか妙子に“人の迷惑を考えろ”と説教をされるとは思わず、月彦は何となくモヤッとしたものを感じた。
「自分にとってはよく慣れた犬でも、人にとってはそうじゃないって事を肝に銘じておきなさい。特に大きな犬は近くに来られるだけでストレスを感じる人も多いから、大型犬を飼う時はとくに注意が――」
「待て、この子犬ってそんなに大きくなるのか?」
「ならないわよ、多分だけど。でもこれから先あんたが飼うかもしれないでしょ。いいから聞きなさい」
「……はい」
 ひょっとしたら、“先日”の雪乃はこんな気分だったのだろうかと。月彦は長々と続く妙子の講釈を聞きながら、そんな事を思っていた。
(いやでも、先生は自分で猫を飼うって言ってたんだしな。……でも俺は別に自分が飼いたいわけじゃないんだよな)
 とはいえ、妙子は100パーセント善意で教えてくれているわけであり、ここで逆ギレなどするのも変な話だった。
「――以上が、大型犬を飼う際の最低限のマナーよ。……で、肝心の散歩の仕方だけど」
 そう言って、妙子は小屋の前へとかがみ込み、手を伸ばして子犬を取ろうとする――が、子犬が抵抗しているのか、どうにも巧くいかない。
「……変ね…………こんなに嫌がられた事なんて一度も無いのに」
「出てこないのか?」
「うん。……あんた、ひょっとして虐めたりしてるんじゃないの?」
「馬鹿なこと言うなよ。俺には結構懐いてるんだぞ? ほーら、おいで」
 妙子を退かし、代わりに月彦がおいでおいでと手招きをすると、子犬は渋りながらも小屋から出てきて、月彦の腕の中へと収まった。
「な?」
「…………なんか、すっごく嫌々出てきたように見えたけど……まぁいいわ。まずは首輪にこのリードをつけて、っと」
 妙子が子犬の首輪にリードをとりつけ、子犬を地面へと下ろす。
「さすがに散歩のさせ方くらいは知ってるぞ? 一緒にあるきゃーいいんだろ?」
「じゃあやってみなさいよ」
 腕を組みながら不遜に言う妙子にむかっと来て、月彦はリードを受け取り、軽く振るようにして促した。
「ほら、散歩に行くぞ」
 最初はぺたりと座ったまま身動きをしようとしなかった子犬だが、月彦が促すと、トテトテと歩き出した。そのまま家から十メートルほど歩き――当然妙子もついてきていて――曲がり角でピタリと、月彦と子犬は足を止めた。
「な?」
「なじゃないわよ。なんで子犬の方があんたより前を歩いてるのよ」
「別に良いだろ、そのくらい」
「良くないの。それはつまり、子犬があんたを下に見てるって事なんだから」
「そんな事は無いだろ」
「あるのよ。それが犬っていう生き物なの!」
 ああもう――そう言って、妙子がわしゃわしゃと横髪をかきむしる。
「いーい? 犬は元々集団生活をする動物なの。その中では当然ランク付けが行われて、それは人間に飼われてる時も同じなの。犬は人間の仕草や自分に対する態度なんかを観察しながら、自分が“何位”で目の前の人間とどっちが格上なのかをしっかり把握してるのよ」
「……なんか面倒くさいな」
 これだから犬は嫌なんだ――そううっかり口に出してしまったら、おそらく“ビンタ”では済まないだろう。だから、口には出さない。人間は学ぶ生き物だからだ。
「面倒くさいって言っても、そういう生き物なんだからしょうがないじゃない。とにかく、散歩の時はきちんと真横を歩くように躾けなさい。前過ぎても、後ろ過ぎてもダメ。真横か、せいぜい一歩分後ろね。コースもきちんと決めて、犬が他の方向に行きたがっても絶対にコースを変えちゃダメよ。ましてや、好き放題に歩かせて散歩をさせるなんて論外だからね?」
「任せとけ! 俺は躾は得意だぜ」
「は? あんたが一体何を躾たって言うのよ。犬飼うのなんて初めてのくせに」
 妙子の言葉で、はたと月彦は冷静になった。そういえば、何故自分はこうも“躾”について自信満々だったのだろうか、と。
「とりあえず、今言ったことをふまえて、近くの公園まで試しに行ってみるわよ。ほら、キビキビ歩く!」
「サー! イエッサー!」


 二人と一匹で歩くこと十五分。最寄りの公園へとたどり着き、月彦は休憩も兼ねてベンチで一休みをする事にした。
「マーキングを全然しないのは子犬でメスだからかしら……全然しない子もいるとは聞いた事はあるけど……」
 妙子は妙子で何か気がかりな事があるらしく、ベンチには座らずに立ったまま何かブツブツと呟いては「やっぱり……」と「でも違う」を繰り返していた。
「妙子、ちょっとこれ持っててくれないか?」
「いいけど、何処行くの?」
「何か飲み物買ってくる。何がいい? 奢るぜ」
「じゃあ、暖かくて、一番高いコーヒーにして」
「了解」
 月彦は小走りに近場の自販機へと走り、“それ”をスルーしてさらに遠くの自販機を目指した。
(確か、この辺に“アレ”があったはず……)
 和樹と共に下校した際に見つけ、こんなモノだれが買うんだと腹を抱えて笑った“アレ”が――。

 十分後、見事目的のモノをゲットして、大急ぎで妙子の元へと月彦は戻った。
「ほらよ」
 そして、“500ml”の缶コーヒー(300円)を妙子へと差し出した。
 妙子は一瞬ギョッと眉を上げるものの、受け取らないのは負けを認める事と同義だとでも思っているのか、鬼のような顔をしながら渋々受けとった。
「……………………私、あんたのこういうところ大嫌いだわ」
「人の善意を素直に受けないからだ」
 500mlの缶コーヒーが素手で持っていられない熱さなのは、月彦が自分で確認済みだった。事実妙子ももてあましたのか、先ほど見せた軍手を手にはめてから持ち直し、蓋を開けていた。
 そのまま二人、微妙な隙間を空けてベンチへと座り、それぞれコーヒー、コンポタを口にする。
「そういや、犬には何もあげなくていいのか?」
「冬場だし、このくらいの散歩なら大丈夫よ。…………意外に美味しいじゃない」
 どうやら500mlの缶コーヒーはただのネタコーヒーではなく、味も伴った本物であったらしい。妙子は思わずそんな事を呟いて、そしてすぐに「別にあんたを褒めたわけじゃない」とでも言うかのように睨み付けてくる。
(……そりゃあ、300円もするんだもんな。美味くて当然か)
 但し、500mlもの量に付き合うのは相応に骨らしく、妙子はいつまでたっても飲み終わらなかった。無難に130円のコンポタを飲み終えた月彦は一人暇をもてあまし、一足先に缶でも捨ててこようかと、ベンチから腰をあげかけた時――。
「んっ」
 と、不意に妙子が手提げを月彦の隣へと置いた。
「おお、サンキュ」
 珍しく気が利くなと、飲み終わったコンポタの空き缶を手提げの中に放り入れようとした瞬間――缶を握っている妙子の左手が急接近してくるのを、月彦は見た。
「ぶへっ――っうあぢぃぃぃぃ!!」
 裏拳と、その追い打ちに溢れたコーヒーが顔面にかかり、痛いやら熱いやらで月彦はベンチから転がり落ちる。
「目がぁ、目がぁぁあ!」
「人のバッグに何ゴミ入れようとしてんのよ!……ああもう、私の手にもかかっちゃったじゃない!」
「何だよ、ゴミを捨てるならこの中にって意味じゃなかったのかよ!」
「んなわけないでしょ! どういう脳みそしてんのよ!」
 だからって、缶を握った手で裏拳は無いだろうと。月彦がひりひりする顔面をさすりながら体を起こそうとした瞬間だった。
「ん? わっ、こら……くすぐった……」
 軽く火傷した辺りをぺろぺろと子犬に舐められ、月彦は声を上げて笑う。――が、そんなイチャイチャ(?)も長くは続かなかった。
「コーヒーは飲んじゃダメ! カフェインは犬には毒なんだから!」
 忽ち妙子が子犬を抱え上げて引きはがし、めっ、と叱りつける。
「べ、別にちょっとくらいいいだろ? あーひりひりする……」
「人間にとっては“ちょっと”でも、体の小さい犬にとっては致死量だったりすることもあるんだから。軽はずみに人間の嗜好品を与えるのは絶対にダメ!」
「……まぁ、それは…………解るけどな」
 心情的に咄嗟に反論をしたくなるが、確かにその通りだと、月彦は渋々認めた。何も犬に限った事ではない。猫も同じだからだ。
「……たくもぅ、あんたと居るとほんっと……どうして普通に静かに出来ないのよ……」「誰かさんが裏拳して熱々のコーヒー顔面にかけたりしなきゃ、のたうち回る事も子犬がコーヒーを舐める事も無かったんだけどな」
「そもそもの原因はあんたが人のバッグにゴミを入れようとしたからでしょうが!」
「じゃあ何でバッグを横に置いたんだよ!」
「そ、それは……あんたが先に飲み終わって退屈そうにしてたから……」
 微かに口ごもりながら、妙子はバッグの中からピンクのゴムボールを取り出す。
「他に人も居ないし……車が走ってるような場所も近くにはないから…………これで、犬と遊べば、って……そういう意味だったのよ」
「…………だったら、ちゃんとそう言えよ……。“んっ”じゃさすがに解らねえって」
「あ、あんたこそ……せめてゴミを入れる前に先に確認を取るのが筋でしょ! ていうか、常識的に考えて手提げ袋に飲み終わった缶を直接ポイ捨てはあり得ないでしょうが!」
「いや、おまえの事だから後でこっそり間接キッスでも狙ってんのがぼ」
 最後まで喋り終える前に、口の中にゴムボールがねじ込まれた。
「うげっ、ぺっ、ぺっ……おま、これ……犬が咥えたボールだろうが!」
「またコーヒーかけられるよりはましでしょ。バカなこと言ってないで、さっさとそれで遊んでやればいいじゃない」
 さては、本当は自分が一緒に遊びたいのだなと、月彦はそれとなく妙子の心情を察した。
「……しょうがねえな。……ほーら、いくぞー、今から投げるからなー?」
「先にリードを外してから」
「細かいな。……っしと。んじゃいくぞ? ほーら!」
 ぽーんと、月彦はジャングルジムの辺りにゴムボールを放り投げる――が、子犬はぽてーんぽてーんと落ちるその様を目と鼻先で追いながら、月彦の足下に鎮座したままだった。
「いや、ほら……お前がとってくるんだぞ?」
「……珍しいわね。普通は教えなくても、取りには行くものなんだけど」
 その後戻ってくるかどうかは半々、戻ってきて、ボールを素直に渡すかがまた半々、と呟きながら妙子はコーヒーに口を付ける。
「ほ、ほら……とってこーい」
 月彦はゴムボールを指さして言うが、子犬は首をかしげたまま、やはり動かない。
「いいか? こうやってだな……」
 月彦は何も持っていない手で、ゆっくり投げるモーションをし――。
「俺が投げたら、走って……」
 そして自らジャングルジムの方へと走り、ゴムボールを拾い――
「ここまで戻ってきて、俺に渡すんだ。解ったか?」
 月彦は確認をとるように詰め寄るが、元より犬が「サーイエッサー!」等と返事をする筈もない。
「いいか、投げるぞ? ほーらとってこーい!」
 しっかりとボールを子犬に見せてから、月彦は大きなモーションでジャングルジムの方へと放り投げる。
 ――が、子犬はまたしても、月彦の足下に鎮座したままだった。
「ほら、だから拾ってくるんだってば…………お、おい! 妙子何笑ってんだよ!」
 ブフッ、とコーヒーを吹く音が聞こえて、目をやるとベンチに座っている妙子が月彦に背を向けるようにして体を小刻みに揺らしていた。顔は見えないが、どう見ても息を殺して笑っているのは明らかだった。
「べ、別に…………わ、わら…………ぷくく…………〜〜〜〜〜〜っっっ…………………………」
「笑ってるだろ! 違うならこっち向いてみろよ!」
 確かに、今の一連の流れは端で見ていると少々間の抜けたものであったかもしれない――月彦は顔が熱くなるのを感じて、妙子に背を向けた。
「んっ、おお!」
 その足下にトテトテと歩み寄ってきたのは、ゴムボールをくわえた子犬だった。
「よーしよし、そうだ、いいぞ。よし、もう一回だ、そーれ!」
 月彦はゴムボールをうけとるなり、今度は滑り台の方へと投げる。すかさず子犬は走り出し、ゴムボールをくわえて即座に戻ってくる。
「よーしよし。そうか、ルールがよく解ってなかっただけなんだな。妙子、こいつ実はすんげー頭いいみたいだぞ」
「そう、良かったじゃない……はー……苦し……」
 漸く落ち着いたのか、妙子は腹の辺りをさすりながら深呼吸を繰り返していた。
「涙目になるほど笑いやがって……よしよし、お前は良い子だな」
 頭を撫で背を撫で顎の下を撫で……順番に体を撫でると、子犬は擽ったそうに身をよじる。
「ねえ、ちょっと気になったんだけど……その子、名前なんていうの?」
「名前……なんだっけか。珠裡が初日に決めてたんだが……ど忘れした」
「何よそれ。……あんた、犬を何だと思ってんの!?」
「し、仕方ないだろ!? 何度も言うが、元々俺は犬を飼う気なんて無かったんだよ!」
「はぁ……。…………ねぇ、今からでも私が里親探してあげようか? お父さんの知り合いとかなら、多分引き取ってくる人は居ると思ううんだけど」
 正直、あんたに犬を飼わせるのは不安でたまらない――妙子の目は如実にそう物語っていた。
「……んー…………俺もその方がいい気がするんだけどな。うちなんかより、きちんと犬の事解ってる人のところで飼ってもらったほうがこいつも幸せだろうし……」
 そう、子犬の事を考えるなら妙子の言うとおりだとは思う。例え後で珠裡から文句を言われたとしても、不幸な飼われ方をするよりは……。
「そうだなぁ……どうすっかなぁ。……なあ、お前はどっちがいい? うちに居たいか?」
 こんなこと、犬に聞いてもしょうがないとは解っている。しかし、月彦にはまるで子犬が首肯しているように見えた。
「…………うーん……悪いな、妙子。もうちょっとだけ考えてみる」
「そう。まぁ、あんたの家の事だし、私が横から奪い取って新しい里親に渡すっていうのも変な話だから、無理強いは出来ないけど。……飼うのなら、きちんと覚悟決めなさいよね」
「そうだな、それは確かにその通りだ」
「…………暗くなってきたし、私は帰るわ。リードは新しいの買ったらちゃんと返してね。あと、小屋も出来るだけ早くにちゃんとしたの用意してあげなさいよ。それから小屋に置いておく時も、きちんとリードで繋いでおく事」
「解った解った、ちゃんとするって」
「あともし病気とか、具合悪そうだなって思ったらすぐに病院につれていきなさいよ。目安は鼻。犬の鼻が乾いたら、それはかなりの危険信号だから忘れるんじゃないわよ」
「鼻だな、了解した」
「それから…………まぁいいわ。続きは今度会った時にでも話すわ。とても一度じゃ伝えきれないし……………………お疲れ様。意外と楽しかったわ。勿論あんたのおかげじゃなくて、子犬のおかげだけどね」
「みなまで言われなくても解ってる。……こっちこそいろいろ助かった。また頼りにする事もあるかもしれんが、その時は頼む」
「ふん。……最初から人をあてにするんじゃないわよ」
 とはいいつつも、まんざらではない顔で、妙子は「んっ」と手提げ袋を差し出してくる。
「これ、あんたに預けておくわ。犬用のシャンプーとかブラッシング用の櫛とか、一式入れておいたから。……いーい? あげるんじゃないんだからね? いつかは返しなさいよ?」
「解った。んじゃしばらく借りるぜ」
 妙子はふんと鼻を鳴らしながら公園から出ようとして、はたと。空き缶用のゴミ箱の側でぐいと缶を煽り、しっかり飲み尽くしてから缶を捨てて出て行った。
(……義理堅い……のか? それとも貧乏性?)
 最後の“一気”の長さ的に、まだ相当量のコーヒーが残っていたであろうことは想像に難くないが、それを意地でも飲み終えてから帰った妙子に、月彦は恐れにも近い感情を仄かに抱いた。
(……うーむ、相変わらず、だな)
 ひょっとしたら、また前回のように触らせてくれたりするんじゃないかなーという淡い期待も、鉄壁の城壁を誇る要塞の如きガードの堅さによってとりつく島も無かった。
(まあでも、これはこれで)
 それなりに楽しかったからいいか、と。徐々に遠ざかる白のダウンジャケット姿を見送ってから、程なく月彦も子犬の首にリードを繋ぎ、公園を後にした。

 


 


 さらに、数日が経過した。子犬は徐々に紺崎家の新しい一員として受け入れられつつあったが、まるでそれに比例するように月彦は己の体が衰えていくのを感じた。
 気がつけば食欲も減退し、気力体力共に落ち込み、ただ歩くことすらおっくうに感じる程だった。
(…………なんか、前にも似たような事があったよーな……)
 はて、その時は一体どうやって治したんだったか――思い出そうとしても、まるで霧でもかかっているかのように記憶がハッキリとしない。それでも無理に思い出そうとすると、なにかひどく不快な思いでまで蘇りそうになって、月彦はいつも途中で中断してしまうのだった。
「うーん、もう喉まで出かかってる感じなんだけどなぁ……」
 学校帰りに玄関前にしゃがみ、子犬を撫でたり抱いたりしながら、月彦は呟く。
「しっかし、珠裡のやつ、結局犬小屋このまんまか。エサは母さんと俺しかあげてないし、ほんとダメだなあいつは……」
 聞けば、最近は由梨子とも疎遠ぎみで、他のクラスの女子とばかり交流をしているらしい。それは別に構わないのだが、ちょくちょくと帰りが遅かったり、自分や葛葉に反発したりと、その態度は凡そ居候のそれではないのだった。 
「………………あんな子だったっけか」
 漠然と思い出す珠裡との思い出は、どれも顔の筋肉が緩んでしまいそうな微笑ましいものばかりだというのに、“実物”がそのイメージとあまりにかけ離れていて、月彦は半ばもてあますようになっていた。
(…………正直、早く本当の親元に引き取られないかなぁ、って思わざるを得ないな……)
 原因不明のステータス異常で気力体力共に減退していなければ、人様の娘とはいえ一発がつんと言ってやる所なのだが、今の月彦にはとてもそのような余裕は無かった。

「えぇーーーー! またコロッケなのぉ……? 今日は天ぷらたべたーい」
 日が落ち、自室でまったりしていた月彦は、階下から聞こえた義妹の声にぴくりと反応した。
「ねえねえ、いーでしょ? 天ぷらにしよーよぉ」
 階段を下りていくと、珠裡が台所で調理をしている葛葉の背中をぽかぽか叩きながら駄々を捏ねている所だった。
「こーらっ、母さんが困ってるだろ」
 月彦は背後から珠裡を羽交い締めにするようにして引きはがす――すると、途端に珠裡は狂ったように暴れ出した。
「やーーーーーーーっ! 私にさわんなバカ!」
 珠裡はどんっ、と。そのまま月彦を突き飛ばして台所を飛び出し、一旦戻ってきて体半分を覗かせるや「意地悪な月兄ぃなんて死んじゃえ!」と舌を出しながら吐き捨て、二階の自室へと戻っていった。
「困った子ねぇ」
「いや、母さん…………それだけで済まされると俺も困るんだけど」
 包丁片手に微笑みながら「あらあら」と微笑を崩さない母に呆れにも似たものを感じて、月彦は小さくため息をついた。

 結局、夕食の場には珠裡は現れなかった。その代わりに買い置きしておいたお菓子がごっそり消えていたから、珠裡が代わりに食べたのだろう。
(……やっぱり、一回がつんと言ってやったほうがいいのかな)
 いつか葛葉が言うだろうと思っていたが、どうにもその気配が感じられない。思い返してみれば、きちんと目を見て諭された事はあっても、葛葉に怒鳴りつけられた事など一度もなかったなと。
 月彦はまるで傷を癒すかのようにベッドに力無く横たわりながら考え事をしていた。
(……あぁ、そうだ……風呂……寝る前に風呂入らなきゃ……)
 体から力が抜けすぎていて、風呂に入るのすらも面倒くさいと感じる。一度湯船に浸かったら最後、そのまま沈んでおぼれてしまうかもしれない――そんな事を考えながら、月彦はのそりとベッドから起き出し、着替えの準備を始める。
「ん……そういや……」
 その途中で、勉強机の上に置きっぱなしになっていた赤い手提げ袋へと視線が向く。先日妙子から“貸して”もらった犬用品の入った手提げだった。
「犬用のシャンプー……か」
 折角だから、子犬も一緒に風呂にいれてやるか――なんとなくそうしたほうがいい気がして、月彦は着替えと犬用のシャンプーを手に階下へと降りた。
 一旦脱衣所に着替えと犬用シャンプーを置いてから、玄関の外へと出る。ダンボール犬小屋の側に打ち込んだ杭――妙子とのやりとりのあと、月彦が物置から適当な角材を引っ張り出して打ち込んだ――に結んであるリードを外し、子犬をそっと抱きかかえた。どうやら夕飯を食べ終えて眠っていたらしい子犬は半目をしょぼしょぼさせながらも、それでも月彦の腕の中でここちよさそうに身じろぎをする。
「寝てた所悪いな。折角だから、今日は一緒に風呂に入ろうか」
 子犬を撫でながら脱衣所へと戻り、まだ寝ぼけている子犬を洗濯機の蓋の上へと置いて脱衣を済ませる。本来ならば犬猫を入浴させる際には暴れられた時の事を考え――慣れていれば問題はないのだが――全裸は好ましくないのだが、どういうわけか月彦にはきっと子犬は暴れないだろうという謎の確信があった。
「あ、そうだ……体洗う前に首輪外さないと……」
 子犬と共に浴室へと入り、首輪に手をかけたその時だった。それまでぬいぐるみのように大人しかった子犬が月彦の予想を翻して唐突に暴れ出した。
「うわっとと……な、なんだ……どうした?」
 子犬は浴室内を所狭しと逃げ回り、自ら浴室の引き戸を開けて外へと脱走してしまった。
「こ、こら、待て!」
 慌てて、月彦も追う。脱衣所と廊下とを隔てている戸は引き戸ではなくレバー式のドアノブのあるドアだからそれは開けられないはず――という月彦の予想は、またしても翻された。子犬はドアノブに飛びつくと、体重を利用して器用に開けてしまったのだ。
 なんて知能犯だ!――どこかそれを喜ばしく思う自分を不思議に思いながら、月彦もまたその後を追った。
「きゃあああああああああああっ!!!」
 そして、脱衣所から出るや否や、義妹とばったり鉢合わせてしまった。
「た、珠裡!?」
「キモいもの見せるなバカ!」
 義妹の鋭い蹴りがとても大事な場所に的確にヒットし、月彦は鵞鳥が首を絞められた時のような悲鳴を上げてその場に崩れ落ちた。
「うわっ、なんかグニュってした! キモい、キモ過ぎ! うわあああ鳥肌たってきたぁぁぁ!」
 蹲る月彦をさらに珠裡は踏みつけるように蹴りつけ、そのまま何処かへ行ってしまった。
「うおぉ……おぉぉ……」
 激痛の中で、月彦は意識が遠のくのを感じた。が、さすがに気絶にまでは至らず、痛みが治まったところでむくりと体を起こした。
「いちち……珠裡のやつ……何も“そこ”を蹴らなくてもいいだろうが」
 せめて妙子のようにビンタくらいで済ませてくれよと思いながら、月彦は辺りを見回し、子犬の姿が何処にも無いのを確認してから、渋々浴室へと戻ろうとした。
「きゃああああっ!? ま、また月兄ぃ!?」
 そして、今度は下着姿の珠裡とニアミスしてしまった。
「うわっ、何でお前が脱衣所に居るんだよ! さっき風呂入ったんじゃないのか!?」
「月兄ぃのキモいの蹴っちゃったからまた入らなきゃいけなくなったんじゃない!」
「キモいのって言うな! そもそもお前が――」
「うるさいうるさい! さっさとドア締めて出ていけぇ!」
 またしても蹴られそうになった為、慌てて脱衣所のドアを閉めて廊下へと戻った。
「おい、せめて服を返してくれよ!」
 そもそもこちらが全裸なのを見れば、今から風呂に入る事くらい想像つきそうなものではないか。なのにそれを無視して風呂に入ろうとするというのは、やはり居候の態度ではないと、月彦は思わざるを得ない。
 程なく、月彦が着ていた衣類がぽいとドアの隙間から放り出された。そこに下着が無いのは、珠裡の基準できっと触りたくないものだったからなのだろう。
 仕方なく下着なしで服を着、一旦自室に戻ってから珠裡が入浴を終えるのを待ってから入り直す事にした。
 入浴後、月彦はそれとなく玄関の外の犬小屋を覗いたが、子犬の姿は無かった。きっと家の中の何処かにいるのだろうが、それを探す気力が無く、自室に戻るや殆ど倒れ込むようにベッドに横になった。
 その唇から寝息が漏れ出すのに、さほどの時間はかからなかった。


 夢の中で、月彦は誰かと戯れていた。どうやら少女らしいという事は解るのだが、その顔を確認しようとすると強い逆光のようなものが発生し、影になってどうしても確認出来なかった。
「――、――――?」
 少女が何か言葉を発しているが、それは聞いたこともない言語らしく、月彦には全く理解が出来なかった。
「――――――、――」
 少女が悲しげに言葉を続ける。月彦は必死に理解しようと努めるが、やはり解らない。
「――――」
 少女が背を向け、遠ざかる。月彦は夢中になってその背を追っていた。しかしただ歩いて遠ざかっているだけの少女にどうしても追いつく事が出来ず、月彦は手を伸ばしながら――叫んだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「待ってくれ、真央!!!!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 真夜中。自分の叫び声で目を覚ました月彦は、そのままむくりと上体を起こした。
「何、だ……今の、夢……マオ、って……誰だ……?」
 真央――その名を口にするだけで、頭の奥がズキリと痛んだ。まるで“忘れろ”とでも言われているような、そんな不快な痛みだった。
「いや、待て……忘れちゃダメなんだ……マオ……真央…………一体誰の名だ……」
 月彦は、慎重に記憶を辿る。そしてあの日――部屋に居た見知らぬ少女が、そう名乗っていた事を思い出した。
「そうだ、あの子……夢の中の子は……あの子だ……」
 ズキン、ズキン。
 頭の奥が、さらに痛む。しかし月彦は歯を食いしばりながら、まるで細い糸を手繰るように思考を続ける。
 何かがおかしいと、ずっと思っていた。ひょっとしたら、己のあずかり知らない所でとんでもない事が起きていたのではないか。
「……なんだ、何か居るぞ……」
 そこで、月彦ははたと気がついた。ベッドに横になっていた自分の足に、動物の毛のようなものが触れている事に。
 見ればそれは、体を丸くして寝入っている子犬だった。月彦はそっと子犬を抱き上げ、両手で包むようにして優しく抱きしめる。
「違う、違うぞ……これは子犬なんかじゃない」
 “この姿”は以前にも見た事がある。
 そう、確かアレは――。
「っっっ痛ぅ…………なんだ、この痛みは……あと少し、後少しで思い出せそうなんだ……黙ってろッ」
 邪魔する“何か”に大して吐き捨てながら、月彦は恐る恐る“子犬”の姿を観察する。
 犬のようで、犬ではない顔つき、全身の殆どは茶色で、顎の下から腹部にかけて白い体毛。耳の後ろと足先は黒。尻尾の先は白。
 そうだ、これはどうみても――。
「首輪……そうだ、あのとき、首輪を……」
 大人しかった子犬が突然暴れ出したのは、首輪に手をかけたからだ。ならば、この首輪を外したら、一体何が起きるのだろう。
「…………外して、みるか」
 ごくりと、唾を飲んで首輪に手をかける。見た目には、金具と皮のベルトで構成されたごく普通の首輪だ。それを、月彦はまるで爆弾でも解体するような慎重な手つきで、ベルトの穴に通っている金具を抜き、四角い金具からベルトを引き抜いた。
 その瞬間、まばゆいばかりの光が子犬からあふれ出し、月彦の視界を白く染め上げた。


 さながら、長い――とても長い夢から覚めたかのようだった。
 体が縮み、ただの子狐に戻された事は、以前にもあった。しかし、首輪のせいなのか、以前の場合よりもより思考に制限がかかるのを真央は感じた。
 そう、まさに“子狐並”の思考力しかない状態にまで堕とされたのだろう。それは自我があるようで無いようなものであり、まるで終始夢の中でぼんやりしているような、そんな気分だった。
 ただ、そんな中でも時折自分に触れる父親の優しい手触りだけはハッキリと感じた。そしてその一瞬だけ真央はほんの僅か自我に目覚め、そして例え忘れられてしまっているのだとしても、こうして一緒に居られるだけで自分は幸せだと、そう思った。
 そう、真央がそんな“ささやかな幸せ”を見つけ、それに身を殉じようと思っていた矢先。
 唐突に、“自我”が解放されるのを感じた。


 視界を真っ白に染め上げる、まばゆいばかりの光。
 それは真央の体自体から発せられていて、光が収まるや否や、真央は即座に現状を把握した。
「あっ……」
 目の前に、月彦の顔があった。しかし、“視点”がおかしい。見上げるような状態ではなく、むしろ逆に真央のほうが見下ろすような視点だった。
 見れば、月彦は絨毯の上に尻餅をつき、唖然と真央を見上げていた。さながら、“突然の事に驚いて、ベッドから転がりおちた”と言わんばかりの姿勢だった。
 そして、真央は見た。月彦の手に、本来自分の首にあるはずの首輪が握られているのを。
「父さま……どうして……」
 そこまで口にして、真央はさらに気がついた。ベッドにちょこんと座っている自分が、全裸である事に。
 慌てて、胸元と股間を両手で隠す――が、月彦は尚も動かなかった。
「……真央、か?」
 しかし、その唇が不意に動いた。真央は最初、聞き間違いかと思った。
「真央……そうだ、君が真央だろ?」
 聞き間違いではなかった――しかし、真央は同時に失望した。やはり、“忘れたまま”なのだと。
「くそ……もう少しで思い出せそうなんだ…………ここまで、もう喉まで出かかってるんだ……!」
 月彦はかぶりをふり、もどかしげに声を荒げ、頭をかきむしる。そんな父親の様子を、真央は違う意味で見ていられなかった。
(父さま……どうしてそんなにやつれちゃってるの?)
 まるで別人――そこまでではないが、普段の月彦をよく見知っている真央としては、ぎょっと目を剥くほどに、月彦の様子は変わり果てていた。目の下にクマは出来頬はこけ白髪まで増えたように見える。さながら、どこか生き地獄にでも放り込まれ、数ヶ月にわたって責め苦を味わわされた後のような――そんな変わり様に、真央は胸の奥に痛みすら感じた。
「頼む、教えてくれ! 君は一体誰なんだ? 俺とはどういう関係だったんだ?」
「…………。」
 真央は、答えに窮した。果たして言葉で説明して月彦が納得するだろうか。私は貴方の娘です――ただそう言ったところで、あっさり頷くだろうか。
 違う――と、真央は思った。それは直感であり、真央の中に半分流れる野生の血の判断だった。
 そう、きっと月彦なら――“あの父親”なら――。
「父さま……」
 真央はベッドから下り、月彦のすぐ側へと屈み、ぺたりと座る。そして、月彦の手をそっと手にとり、自分の方へと引き寄せる。
「な、何を……うぁ……」
 そして、むにゅりと。胸のふくらみへと、月彦の指を埋没させる。
「この、かん、しょく…………これ、は……うぅぅ…………もう少し、もう少し、で……」
 むに、むにと。月彦が徐々に指を動かし、揉み始める。まるではれ物を触るようだったその手つきが、徐々に。徐々に荒々しく。
 “真央の知っている動き”へと変わっていく。
「んっ」
「そうだ……俺は知ってる……知ってるぞ…………っっ……このおっぱいは……俺の、俺の…………く、ぁ……ぁ……ぐぎっ、がっ……あぁぁぁぁぁぁぁァァァァァァッ!!!!」
 胸を揉んでいた月彦の手が突然止まり、指が引きつるように間接とは逆の方向に沿ったその瞬間、月彦は突然絶叫を上げながら身を仰け反らせた。
「と、父さま……大丈夫!?」
 そのまま、がっくりと。月彦は膝立ちのまま顔だけを下に向け、脱力する。真央が慌てて詰め寄り、手を伸ばしかけた瞬間、むくりと。
 月彦が、真央を見た。
「と、父さま……?」
 その目は、確かに真央を見ていた。が、自我の感じられない、ぼんやりとした目だった。しかし、真央には解った。月彦の瞳に、徐々に光が戻るのを、感じた。
「きゃっ!?」
 そして、唐突に伸びてきた手に、真央はむぎゅっ、と胸を掴まれた。
「あっ、あっ」
 そのまま、むぎゅ、むぎゅと丹念に捏ねられる。そんな愛撫(?)は、唐突に止まった。
「……夢じゃ、無い………………てことは、俺は……」
「とう、さま……?」
「真央、今まで済まなかった」
 体を引き寄せられ、ぎゅうと。両手で、真央は抱きしめられた。あぁぁ――そんな声を漏らして、真央もまた月彦の背へと手を回して抱きしめる。
「父さま、思い出したの? 私が解るの?」
「解る。真央は俺の娘で、その母親は真狐で…………全部、全部思い出した」
「父さま……父さまぁァ!」
 真央は涙が溢れてくるのを堪えきれなかった。そのまま月彦の胸に顔を埋め、“年相応”な程に、真央は声を上げて泣いた。


「……真狐が死んだ? 嘘だろ?」
 小一時間ほど泣き続けた後、真央は“自分が知っていること”を包み隠さず月彦に伝えた。
「多分、本当……だと思う。だって、母さまいくら呼んでも答えてくれないし……それに……」
「妖狸の女……真狐と喧嘩していたっていう化けダヌキか。…………厄介そうな相手だな」
 真央も頷いてみせる。恐らく実力は母と同等かそれ以上――凡そ自分が敵うような相手ではない、と。
「でも、一体何が起きたんだ? 俺はそんな奴と会ったことすら無い筈だし……一体どうして真央の事を忘れて、珠裡とかいう知らない女の子を義理の妹だって勘違いしてたんだ」
「私にも解らない、けど……珠裡って子が言ってたの。“大規模妖術”だって」
「大規模妖術――前に遊園地の時に真狐が使ったってやつか。…………察するに、広い範囲の人間を同時に化かす術――って事か?」
 うん、と真央は頷いてみせる。
「でも、こんなに長い間たくさんの人を騙し続けるなんて、普通じゃ出来ないよ。多分……何か結界みたいなのを張ってるんだと思うの」
「そういうのに関しちゃ俺はお手上げだな。……まあその辺は後で白耀に相談するとして……俺は俺の出来る事をやるか」
「父さまに……出来る、こと?」
「ああ。…………真央の話を聞いて、一人。今すぐにでもとっちめてやらなきゃいけない奴が居る事に気がついた」
「父さま、まさか……」
 “あの女”と戦うつもりなのかと、真央はその未来を想像して冷や汗を禁じ得なかった。さすがに、それは無理だ。いくらなんでも無謀だと。
「その妖狸の女と娘が一体どういうつもりで今回の事を仕掛けたのか、俺にはわからない。多分、真狐に対するイヤガラセ……本人に対して憂さを晴らしきれなかったから、その娘の真央にちょっかいを出してやろうとか、多分そんな所だろう」
 それは恐らく真実だろうと、真央もまた月彦の意見に頷く。
「あいつがそのまみって女に負けて殺されたのは――しょうがない。自業自得だ。そのことに関しては俺がどうこうする問題じゃない。その女が真狐への恨みを俺に向けて、真央を忘れさせたっていうのも、ムカつくが、それは俺がボンクラでマヌケだったからで、どっちかっていうと自分に対してムカつく方が大きい」
 どうやら、“ターゲット”はまみではないらしいという事を、真央は理解した。
 となれば、残るのは――。
「だけどな、真央に妙な首輪をつけて飼おうとした珠裡は許せん! いや、それだけじゃない、あいつは俺の股間を――……いや、それはいい。とにかく、真央を虐める奴だけは断固として許すわけにはいかない」
「と、父さま……でも、相手は四百才の妖狸なんだよ? 四百才って……兄さまよりも……」
「…………四百才の狸ってそんなにスゴいのか?」
 うん、と。真央は強く頷いてみせる。必ずしも年齢=力の強さというわけではないが、それでなくとも一つの目安になるのは間違いない。
「…………まあ、でも何とかなるだろ、多分」
 しかし、月彦は不思議な自信に満ちあふれていた。
「俺たちには、俺たちのやり方がある……そうだろ、真央?」
「で、でも……母さまも殺されちゃったんだよ?」
「大丈夫。俺に考えがある」
 思わず、どきんと心臓が跳ねてしまいそうなほどに、月彦は自信満々に言い放った。
(あぁぁ……父さまが、格好いい……!)
 見れば、先ほどまでの窶れ顔は何処へやら。全身から力という力が漲っているようにすら、真央には見えた。 それは“あるもの”に触れることで、足りなかったものが補われた事による一種の超回復現象だったのだが、勿論真央にその自覚は無かった。
「よし、真央。今から今後の作戦の流れを説明するぞ。うまくいけばきっと何もかも元に戻る。いいか、まずは――」



 広域妖術・鶴交の陣――それは術者が指定した人物を、同じく指定した人物と“無理なく”すり替える術だ。事前に対象となる地域を特殊な秘術を施した6つの要石で囲み結界とする事で不特定多数相手を同時に幻惑し、時にはその記憶すらも都合良く書き換えてしまう。その支配から逃れられるのは術者以上の実力者か、“極めて特殊な例外”のどちらかだけ。
 術の施行者であるまみの娘、珠裡は“入れ替え要員”として人間社会に溶け込み、“紺崎真央の代わり”として、多少その立ち位置を変化させながらも初めての人間界ライフを満喫していた。

「ふんふんふ〜ん♪」
 学校が終わり、珠裡はお気に入りのポップスなどを口ずさみながら下校していた。少し前まで暮らしていた妖狸の里ではそのような文化は無く、歌といえばもっぱら宴会芸のそれというのが妖狸の常識だった。勿論そういったカルチャーショックはポップスだけに止まらず、珠裡には人界のあらゆるものが新鮮に見えてしまい、毎日が興奮と驚きの連続だった。
 程なく居候先である紺崎家へとたどり着き、珠裡は玄関脇に置いてある粗末なダンボールへと目を向けた。
「おーい、まだ生きてるー?」
 ダンボール箱の中を覗くと、奥に子狐が一匹、丸くなって眠っているのが見えた。珠裡はすぐさまダンボール箱を持ち、横にゆさゆさと揺する。
「暢気に寝てるんじゃないわよ、バーカ。キャハハッ」
 見た目は子狐だが、中身は母親の“敵”である女の娘。それはイコール珠裡にとっても敵だった。それでなくとも妖狐というだけで珠裡にとって蔑むべき対象であり、二重の意味で憎たらしく、それだけに真央を虐めると晴れやかな気分がさらに清々しいものになるのだった。
 珠裡はさらに犬小屋を軽く蹴り飛ばしてから家の中へと入る。本来ならば全く知らない他人の家なのだが、まみの仕掛けた術によって、家の住人達は皆珠裡が家族の一員だと信じこまされている。
(人間ってほんっとバカ。妖狐の次くらいにバカだわ)
 珠裡は人間という生物を完璧に下に見ていた。それは妖狸の里で暮らしていた頃からそうであったのだが、人間と共に暮らすようになってことさら強く感じるようになった。
「お、珠裡。今帰ってきたのか」
「あっ、月兄ぃ、ただいまー」
 同居しているバカ一号こと、紺崎月彦が現れるなり、珠裡は途端に媚びるような声を出す。
「ねーねー、月兄ぃ……珠裡ね、お小遣いほしいなぁ」
「小遣い? 母さんからこないだ貰ったばっかりだろ?」
「そうなんだけどぉ……友達と遊びに行ったりしたらもうなくなっちゃったの」
 昨日月彦の股間を蹴った事など、珠裡は毛ほども気にしていなかった。この家に住む人間達はどいつもこいつも笑いを堪えるのが大変なのどにマヌケで、ちょっと下手に出れば容易く操れる事を珠裡はすでに学んでいた。
「ねぇー、お兄ちゃん、お小遣いちょうだぁい。三千円だけでいいからぁ」
「三千円か……まあそれくらいならいいか…………今度はちゃんと大事に使うんだぞ?」
 渋々月彦が財布を取り出し、千円札を三枚手に取る。ああ、やっぱりバカだこいつら――珠裡はウッシッシと心の中で笑いながら、さも感謝してるようなしぐさで三千円を受け取った。
「ありがとー、月兄ぃ、大好き!」
「はは、困った事があったらいつでもお兄ちゃんに言うんだぞ?」
 うん、お前は私の財布だからね!――と、心の中で付け足しながら、珠裡は笑顔を零す。
「ねえねえ、今日のおやつはなーに?」
「ドーナツが台所の方にあったぞ」
「やったぁ! お菓子だーいすき!」
「こーら、おやつは部屋で着替えてからだぞ?」
「いいじゃん、そんなの。じゃあ月兄ぃ鞄だけ部屋に戻しておいて」
 珠裡は通学鞄をぽいと月彦に放り投げるや台所へと直行する。
「わぁー! ドーナツいっぱい!」
 テーブル中央の菓子皿に盛られたドーナツの山を見るなり、珠裡は体から力が抜けそうになる。人間は愚かでバカで救いようのない生き物ではあるが、こういった美味しいものを作り出す点だけは侮れないと珠裡は思う。
(ていうか、それすら無かったら生きてる価値ないしね)
 冷蔵庫からジュースのペットボトルを出し、コップに注いでまずは半分ほど飲み干し、喉を潤す。
「……? なんか変な味…………」
 はてなと首をかしげ、くんくんと慎重に匂いを嗅いでみるものの、別段腐ってはいないようだった。初めて見る銘柄のジュースだから、元々味自体が変なのだろうと、珠裡は納得した。
「さーて、ドーナツドーナツ♪ あーん甘おいしー! 何だろ、このドーナツにかかってるシロップ、超甘くておいしー!」
 勿論、珠裡の中に「お兄ちゃんの為に半分は残さなきゃ」とか、「一人で全部食べてしまってはいけない」といった気遣いなど存在するはずもなかった。十個ほどあったドーナツの7個を一人で食べてしまい、さらにジュースも二杯お代わりをした所でさすがに満腹感を感じ、珠裡は食べる手を止めた。
「残りはお部屋に戻ってたーべよっと。あっ、月兄ぃコップ片づけておいてね」
 菓子皿を手に、入れ替わりに台所に入ってきた月彦にそんな事を言って、珠裡は二階の自室へと上がっていく。
 にたりと。背後で“獣”が笑った事など、当然気づく筈も無かった。


「んっ…………」
 自室に入り、ベッドに寝転がってドーナツの残りを食べながら少女漫画雑誌を読むこと――数分。
 何となく体が熱っぽくなるのを感じた珠裡が最初に危惧したのは人間界特有の病だった。が、すぐにそうではないと気づいた。
「んっ……やだ……なんか、……っ……」
 腹の奥からマグマが煮えたぎるような――それは今まで珠裡が味わった事のない感覚だった。肌が火照り、どうにも焦れったいようなウズウズとしたものを感じて、珠裡は雑誌を読む手を止めてベッドの上で悶え始める。
「んぁぁ……なに、これ……から、だ……あついよぉ…………」
 時間と共に肌がますます上気し、息まで荒くなる。体が疼き、自然と太股を摺り合わせるような動きをしてしまう。
「あつい……あついよぉ……」
 全身から汗が噴き出すのを感じて、珠裡は――まだ部屋着に着替えてもいなかった――ブラウスのボタンを外し、脱ぎ捨てる。
「あつい、あつい……はぁぁ…………」
 譫言のように呟きながら、さらにスカートも脱ぎ捨てる。ブラウスの下に着ていたインナーも脱ぎ、下着と、靴下だけの格好になっても尚火照りは収まらない。
「だ、め……耳が……尻尾が、出ちゃう……」
 紺崎家には、あくまで“人間”として居候をしている。当然耳も尻尾も隠さねばならないのだが、その余裕が珠裡には無くなりつつあった。
 コンコンと、ノックの音が聞こえたのはそんな時だった。
「だ、誰!?」
「俺だけど、なんか変な声聞こえるけど大丈夫か?」
「何でもないから! 絶対入って来ないで! 入ってきたらぶっ殺すから!」
 ガーッと牙をむき出すように吠えつつ、珠裡は万が一に備えてベッドの上で毛布をマントのように纏う。
「本当に大丈夫なのか?」
「大丈夫だって言ってるでしょ! ぜったい、ぜったいドアあけないでよ! 開けたら本当に殺すから!」
「わかった、本当に大丈夫なんだな?」
「いいからあっち行けぇ!」
 ドアにマクラを投げつけ、尚も吠える。どうやら追い払えたのか、それから月彦の声は聞こえなくなった。
「ふぅ……ふぅ……ふぅ…………まったく……何なのよぉ……」
 しかし、人間を追い払えたからといって事態が好転したわけでもない。体を襲う謎の感覚は治まるどころかますます酷くなっているようだった。
(おかしい……ぜったいおかしい……こんなのありえない)
 まさか、本当にジュースが腐っていたのだろうか。それとも――いや、それこそありえない。自分は完璧に“なりすまし”ている。バカで間抜けな人間共が危ぶみ、一服を盛った可能性など、それこそジュースが腐っていた可能性に比べればゼロに等しいほどの確率しかない。
(とにかく……解毒剤を……)
 こんな事もあろうかと――母親から貰った様々な丸薬が入っている布袋をベッドの下から引っ張り出し、珠裡は緑の丸薬をつまんで口へと放り込む。緑の丸薬はあらゆる毒素を中和する万能の解毒薬であり、毒の類であればまずこれで対処できない事はない――筈だった。
「う、そ……効かない……? なんで……あぁぁぁ……!」
 とうとう耳も尻尾も隠せなくなり、黒くて丸い耳と、もっさりとした黒い尻尾をにょきりと生やしてしまう。
 再びノックの音が聞こえたのは、その時だった。咄嗟に珠裡はまるで砂漠の旅人のように毛布を頭まで被り、体を包み込む。
「珠裡、開けてもいいか?」
「なっ……だ、ダメって言ったでしょ! 開けるなバカ!」
「お前、昨日俺の部屋から漫画もって行ったろ? それを返して欲しいんだが」
 確かに、昨夜月彦の部屋からいくつかの漫画の単行本を持ち出した。それはベッドの脇に積まれている。
 だが――。
「あ、後で返すからぁ……今は、とにかく放っておいてよぉ……」
「どうしても今読みたいんだ。ちょっと漫画を取るだけだから、開けてもいいだろ?」
「それはダメ! ドア開けたら殺す! 絶対殺すから!」
「なんでダメなんだ? 着替え中なのか?」
「そ、そう……着替えてるからぁ……だから、あとで……」
「わかった。んじゃ着替え終わったら漫画持ってきてくれよ」
 ホッと、珠裡は安堵の息をつく。
(早く、なんとか、しないと……)
 はぁ、はぁ。
 ふぅ、ふぅ。
 肩で息をしながら、珠裡は毛布マントを取り払い、汗びっしょりの体を拭くべくタオルを探す――。
 その時、今度は全く予告なしに、突然ドアが開かれた。
「そういや珠裡、今日の晩飯は何食いたい?」
「あぁぁぁぁぁっ! あ、開けるなって言ってるだろバカぁあああ!」
 珠裡は咄嗟にベッドの脇に積まれていた単行本を手にとり、次々に投げつける。が、月彦は事も無げに――さながら、上忍が下忍の投げる手裏剣を余裕綽々で受け止めるような仕草で――それらをキャッチする。
「ああ、そうだっけか。悪い。母さんが今夜は“お泊まり”らしくて帰れないみたいだから、自分たちで晩飯用意しなきゃいけないんだよ。珠裡は何食いたい?」
 月彦の言葉など、半分も耳に入っていなかった。珠裡は大あわてで今しがた脱ぎ捨てたばかりの毛布を頭まで被り、耳と尻尾を隠す。
「夕飯は何でもいいから、早く出ていってよ! 漫画も返したからもう用はないでしょ!?」
「珠裡、顔赤いぞ。大丈夫か? 風邪か?」
 しかし、月彦は部屋から出て行くどころか、心配そうな顔をしてベッドに歩み寄ってくる。
「ち、近寄るなぁあああ!」
 珠裡はマクラを投げつけようとして――しかし先ほど投げてしまったことに後から気がついて、代わりに何か投げるものをと辺りを見回しているうちに、目の前まで詰め寄られてしまう。
「こ、こないでって言ってるでしょっ、なんで人の話を聞かないのよバカ人間!」
「ハハハ、おかしなことを言うな、珠裡は。それじゃあまるで珠裡が人間じゃないみたいじゃないか」
 月彦の言葉に、珠裡はどきりとする。そう、母まみが敷いた鶴交の陣の影響かにあるとはいえ、それはあくまで“極めて気になりにくく、そして気がつきにくくなる”だけだ。さすがに“決定的証拠”を見られてしまったら、カバーしきれないかもしれない。
「と、とにかく……出て……ひっ」
 一瞬の隙を突かれて、珠裡の額に月彦の手が触れる。
「ふむ、熱は……無い……かな? いやちょっとはあるかな?」
「さ、触るなって……い、言って…………ほ……ホントにぶっ殺されたいの!?」
「なんだ、家族の一員の体調を心配するのは当然の事だろ? そんなに頭まで毛布を被って、ひょっとして寒気がするのか?」
 だめだ、らちが明かない――珠裡は眼前の人間の愚かさ加減に血管が切れそうな程に憤怒しながらも、必死に現状を打破する策を考える。
(……もういっそ、“そういうこと”にして話を合わせたほうが……)
 そうだ。馬鹿な人間を騙す事など、妖狸にとっては朝飯前なのだ。美味いこと口車にのせて騙してしまえばいいだけの事だ。
「そ、そうなの……ずっと熱っぽくて……風邪みたいだから、月兄ぃが部屋にいたら伝染しちゃうかもしれないから、だからお願い、早く部屋から出てほしいの」
 それまでの狂犬のような物言いから一転、珠裡は媚びるような声で“お願い”をする。
「珠裡……そんなに俺の事を心配してくれてたのか……!」
 うるるっ、と。目まで潤ませながら、月彦は感激している様だった。
 やはり、人間はチョロい――珠裡はウッシッシと心の中で嘲笑う。
「だが断る」
 そんな珠裡の耳に、信じられない言葉が飛び込んでくる。はぁ?と、思わずそんな声まで漏らしてしまう。
「そこまで俺のことを心配してくれている珠裡を一人きりにして、何かあったら大変だからな。珠裡の熱が下がるまで“お兄ちゃん”がずっと側に居てやるからな!」
 この人間は一体何を言っているのか――珠裡は生まれて初めて、微量なりとも人間に対して恐怖というものを感じた。
(ていうか……ホントに出て行ってよぉ……!)
 毛布の下で体をもじもじさせながら、珠裡は祈るように思った。どういうわけか、この男が部屋に入ってきてからというもの、体を襲う謎の焦れったさに拍車がかかっていた。
(……やっ……手、が……)
 左手で必死に毛布マントを押さえたまま、右手が勝手に自分の体をはい回るのを、珠裡は感じた。手は下腹を通り過ぎて、そのまま足の付け根へと……。
「んぁ……!」
 ちゅくっ――指先が蜜のようなものに触れた瞬間、珠裡はつい声を漏らしてしまう。
(えっ、なに……おも、らし……?)
 尿意はなかった筈――しかし、全身汗だくで気がつかなかったが、確かに下着が濡れているのを、珠裡は感じた。
「……珠裡?」
「う、うるさい! こっち見るな、バカ!」
 怪訝な顔をする月彦に吠えるも、しかし珠裡は指の動きを止められない。
 ちゅく、ちゅく、ちゅく――少しずつ、指先にヌルヌルしたものをすりつけるように、珠裡は指を下着の中へと埋めていく。
「いい、からぁ……早く、出て、行ってよ……私の、ことは……放っといて」
「珠裡、凄い汗だぞ。毛布とったほうがいいんじゃないのか?」
 本当に人の話を聞かない男だと、珠裡はつくづく思った。数日間一緒に生活した際に感じた印象としては、“なんとも冴えないバカ人間”という印象しか感じなかった男が、今は何故か高くそびえる堅牢な城壁のように感じられてならない。
「んっ、んっ……ぁ、……くっ……ほら、……み、見るなって……言って……んっ、んっ……」
 指の動きが止められない。ちゅくちゅくと控えめに音を立てながら、珠裡は次第にその“刺激”の虜になりつつあった。
(何、これ……すっごく痺れて…………きもち、いい……?)
 ひょっとしたら、これが世に言う自慰というものでは――遅ればせながらに珠裡がそのことに気がついた途端、さらに顔が火照る。
(っ……この私が……に、人間の前で…………ぁぁ……)
 止めなくてはならない、しかし止められない。
「どうしたんだ、珠裡。さっきからモジモジしっぱなしで。ひょっとしてトイレでも行きたいのか?」
「……うる、さい…………死ね、消えろ……ばか月彦……」
 もはや、この男に“出て行け”と言った所で無駄だと悟り、珠裡は苛立ちのままに憎まれ口を叩く。
「なんだ、もしかして熱のせいでトイレに行くのもキツイのか? しょうがないなぁ、珠裡は」
「なっ、誰がそんな事言っ……や、やめっ」
 にっこりと。百万ドルの笑顔と共に毛布ごと月彦に体を抱えられかけられ、珠裡が抵抗して暴れた――その時だった。
「おっと、手が滑っちまった」
 ひどく白々しいその一言とともに、持ち上げられかけていた珠裡の体は月彦が掴んでいた毛布からずりおちてしまった。――そう、結果だけを見れば、うまい事月彦に毛布だけ奪われたような形だった。
「か、返せ……」
「た、珠裡……それ、どうしたんだ!?」
 毛布を取り返そうと手を伸ばした珠裡は、自分の方を見て愕然とする月彦の顔に気がついた。
「ああっ……ち、違っ……これは……!」
 大あわてで、珠裡は頭を抑え、黒い狸耳を隠す――が、どう考えてもばっちり見られてしまった後であり、今更感は否めなかった。
「……わかった、アレだろ? カチューシャに動物の耳がついてる玩具だろ?」
 なんだ、意外に子供っぽい玩具が好きなんだな、珠裡は――そんな事を言って苦笑を漏らす月彦のバカさ加減に珠裡は心の底から感謝をした。
(うわあ、この人間バカだ! バカで助かった! 良かった、バカで!)
 危うく、自分の失態が原因で“綻び”を作ってしまうところだった。もしそんなことになれば、母になんと言われどんな仕置きをされるか、想像するだけでも恐ろしい。
「そ、そうなの! 今日学校で友達にもらったの! 似合う?」
「おお、ばっちり似合ってるぞ。珠裡のイメージにぴったりだ」
 うふふ。
 あはは。
 互いに愛想笑いをするような、そんなやりとりを止めたのは、月彦の一言だった。
「なぁ、珠裡。それちょっと貸してくれよ」
「えっ、だ……だめだよ……大事な友達から借りてるものだし、もし壊したりなんかしたら……」
「大丈夫だから、ちょっと貸せって」
「やっ、ちょ……止めっ、乱暴にしないで……!」
 月彦はいつになく強引に珠裡の両手をねじ伏せ、指先でつまむように狸耳を掴むと――。
「やっ、い、痛ぃぃぃい!」
 そのまま力任せに引っ張られ、珠裡は堪らず悲鳴を上げた。
「変な事を言うな、珠裡は。作り物の耳なのに痛いわけがないだろ?」
 月彦は笑いながらさらにグイグイと耳を持ち上げるように引っ張り、珠裡はなんとかその手をふりほどこうと両手で月彦の腕を掴むが、敵わない。爪を立てると、負けじと月彦の方も珠裡の耳に爪を立ててきて、激痛はさらに倍になった。
「痛い痛い痛い! それは作り物じゃないの、痛いから止めてぇ!」
 あまりの激痛に、珠裡は殆ど泣き叫ぶようにしてわめいた。途端、ぱっと月彦が手を離し、殆ど耳だけで持ち上げられる形で膝立ちにまでなっていた珠裡は脱力したようにベッドへと伏せた。
「認めたな、珠裡。自分が化けダヌキだって認めたな?」
 月彦の言葉に、珠裡は冷や水を浴びせられた思いだった。
「な、何言って……」
「“化かし合い”はそろそろ終わりにしようか珠裡。…………実は俺、とっくに気がついてたんだよ。お前が“義妹”でも何でもない、ただのよそ者だって事にな」
「っ……そんな、馬鹿な事……」
「いいか、珠裡。今から一つだけ質問をする。その質問にお前が素直に答えたら、俺はもうお前には何もしない。いいかもう一度言うぞ? 今からする質問に素直に答えたら、お前にはもう何もしない。解ったか?」
「偉そうに……下等な人間の分際で何言ってるのよ。第一、人間なんかがどうやってママの術を――」
「お前達が使った広域妖術とやらを解くにはどうしたらいいんだ?」
 珠裡の言葉の上からかぶせるように、月彦は言った。
 答えなど、はじめから決まっていた。
「誰が教えるか、ばーか」
 んべえ、と珠裡はあっかんべえまでおまけにつける。そしてすかさず月彦に対して“幻術”を仕掛けると同時に、その脇を抜けようとベッドから四つ足で脱した――その足が、“何か”に掴まれた。
「えっ……」
 否、“何か”ではない。それは紛れもない月彦の腕だった。
「なんだ、今……ひょっとして何かしたのか? まさかとは思うが、“幻術”ってヤツじゃあないよな?」
「う、嘘……なんでかからないの……ただの人間のくせに!」
「さあ、何でだろうな。単純にお前の化かし方がヘタクソだからじゃないのか?」
 本当に四百才の妖狸なのか?――危ぶむように言われ、珠裡はどきりとする。
「…………まぁ、本当は俺が先に一服盛ったからなんだけどな。……真央の話じゃ、“そういう状態”の時は、集中力が乱れて術が巧く使えないらしいじゃないか」
「っっ……やっぱり……何か薬を……一体、何の薬を使ったのよ!」
「それは言えない。……が、どうせすぐに解るさ」
 くつくつと笑って、月彦がぐいと。掴んでいる珠裡の足首を持ち上げる。忽ち、珠裡は逆さ吊りにされる。
「止めて! 離してよ!」
「つくづく人の話を聞かない奴だな。俺……ちゃんと言ったよな? “素直に答えたら何もしない”って。でもお前は答えなかった。それがどういう事に繋がるかちゃんと解ってるのか?」
「うるさいうるさい! どうせ何も出来ないくせに! さっさと離しなさいよバカ人間!」
「………………? 何で俺が何も出来ないって決めつけるんだ?」
 そんな事も言わなければわからないのかと、珠裡は呆れかえる思いだった。
「そんなの、私がカムロの孫だからに決まってるでしょ! もし私に手を出したら全妖狸を敵に回す事になるんだから!」
「そうかそうか、お前はそのカムロってやつの大事な大事な孫なんだな? …………てことは、人質の価値も充分にあるってことだよな?」
「ひと、じち……?」
 ぐんっ、とさらに足が持ち上げられ、そのまま勢いをつけて珠裡は背中からベッドへと叩きつけられる。――が、なにぶんベッドの上ということもあり、痛みなどは無かった。
「お前が言うこと聞かないってんなら、お前を取引材料にして、母親のまみって女かそのカムロってのに交渉持ちかけるだけさ。……だが、その前に」
 月彦が、ベッドの上へと上がってくる。反射的に、珠裡はひぃと、悲鳴を漏らしてしまった。
「“けじめ”だけはきっちりつけさせてもらうぜ。俺流の……いや、“俺たち”なりのやり方で、な」


「っっ……私に、こんな真似をして……ただで済むと思ってるの?」
 思いの外珠裡の抵抗が激しく、月彦は不本意ながらその両手をガムテープで後ろ手に拘束することにした。
「うるさい、黙れ。終いにはその口も塞ぐぞ」
 両腕をガムテープでぐるぐる巻きにし、月彦は珠裡を無造作にベッドの上へと放り出す。
「っ…………私は偉大なる妖狸の長カムロの娘であるまみのそのまた娘、つまり妖狸の長の孫娘なんだぞ? その私にこんな事をしたらどうなるのか――」
「うるさい口だな。……本当に塞いじまうか?」
 ビッ、とガムテープを音を立てて引き出すと、忽ち珠裡は口を閉じた。
「そうだ、それでいい。余計な口は利くな、聞かれた事にだけ正直に答えろ。…………最後にもう一度だけチャンスをやる。術の解き方は?」
「自分で調べろ、バーカ」
 ふぅー……。月彦は大きくため息をつき、やれやれと首を振る。
「仕方ない、か。…………本当は気が進まなかったんだけどな。優巳姉とかとは違って、お前は多分、ただの世間知らずのガキなだけなんだろうし」
「ガキって……な、何言ってるのよ……見た目で判断するなんて、さすがド低脳のバカ人間ね。私はこう見えても四百才の――」
「嘘だろ?」
 月彦はあっさりと、珠裡の言葉にかぶせて否定する。
「俺はな、こう見えて今までいろーんな“ヒト”に会ってきたんだ。妖猫族のお偉いさんや、三百才以上の妖狐に、果ては妖狐の頭領のツクヨミってのにも会った事がある。だから、そういう連中特有のヤバさっていうか、プレッシャーっていうか、肌がひりつくような感じってのを良く知ってるんだ」
「はぁ? ただのダメ人間の癖に出任せ言うんじゃないわよ。そんな大物がただの人間に会うわけないじゃない」
「……“知り合い”に顔が広いやつがいてな。……まあ、つまり何が言いたいのかっていうと、お前にはそういうものを全く感じないってことだ。四百才なんてとんでもない、ただのヘタレ嘘つき狸だって気配がビンビンに伝わってくるわけだ。……正直、お前の親の親が妖狸の頭領だって話も俺は怪しいと思ってる」
「な、何……言って…………嘘なんかじゃ……」
「まあ、そこはもうどうでもいいんだ。今問題なのは、お前は俺たちが知りたい事を答える気が全くないって事だ」
 やれやれ――そんな事を呟きながら、月彦は部屋着のポケットから、小さな小瓶を取り出す。
「話は変わるが、今日のおやつは美味かっただろ? あれはな、店で買ってきたドーナツに、真央が作った特製のシロップをかけておいたんだ。……あと、ジュースにも色々混ぜさせてもらった」
「っ……一体、何の薬よ! 毒じゃ、ないみたいだけど……」
「すぐにわかる、と言いたい所だが、どうも効きが悪いみたいだな。……もう少し使うか」
 月彦は珠裡の側へと歩み寄り、左手でその両頬を挟むように掴み、口を無理矢理開けさせる。
「や、やめ……ふぁっ……」
 そして、開けさせた口目がけてとろり、とろりとシロップを落とし込んでいく。瓶を徐々に傾け、中身を全て珠裡の口へと落とし込み、飲み込ませる。
「んげぇっ……けほっ、けほっ……」
「コレならさすがに利くだろう。…………気分はどうだ?」
「だから、何の薬って…………うっ、ぁ…………やっ、な、何っ……あぁ、ぁっ……えっ……えっ……?」
 忽ち、珠裡はベッドの上で身をよじり始め、まるで夏場の焼けたアスファルトの上におちた芋虫の様にその身を躍らせ続ける。
「さすが、真央の薬は効きが早いな。…………どうだ、いい気分になってきただろ?」
「ど、こが……はぁぁ……これ、といて……解きなさいよ……ぁあ……」
 珠裡は太股を摺り合わせるようにしながら俯せになると、膝だけを立てる。妖狐のそれとは違う、もっさりとした丸い尻尾がぱたぱたと体の熱気を払うように左右に揺れるが、月彦はあえて何もせずに、珠裡を見下ろし続ける。
「あぁっ……ぁぁぁ……やぁっ……おか、しく……おかしく……なるっ、ぅ…………あぁぁ……」
「苦しいのか?」
 はあ、はあ。
 ぜえ、ぜえ。
 開きっぱなしの口から涎まで零しながら、珠裡は微かに首を上下させる。
「じゃあ、少しだけ楽にしてやる」
 そう言って、月彦は高く掲げられた尻の上で不満げに揺れる尻尾の付け根を、ぎゅっと握りしめるように掴む。
「んひぁっ!」
 びくんっ!――尻尾を掴んだ瞬間、珠裡が素っ頓狂な声を上げ、体を大きく震わせる。
(なるほど、思った通り狸も尻尾は急所なんだな)
 そうだろう、とは思っていたが、万が一という事もある。念のための確認だった。
 月彦はそのまま、こしゅ、こしゅとやんわりと尻尾を刺激し、擦り上げる。
「あっ、あっ、あっ……ぁぁぁ……」
 珠裡が声を震わせ、身じろぎを続ける。自分の体に起きている変化に困惑しているようなその様子に、やはり、と。月彦は己の推測に確信に近いものを持った。
「ぇっ……やっ、やぁぁ……!」
 ついと、唐突に尾への愛撫を止めると、たちまち珠裡は続きを催促するように尻尾を振り始めた。
「なんだ、どうした?」
「い、いま、の……もう、いっかい……」
「もう一回?」
「し、しなさい、よ……こしゅ、こしゅって……は、早く!」
「口の利き方がなってないな」
 苦笑を一つ。月彦は手を伸ばし尾を握る――とみせかけて、パンダの顔がプリントされた下着の上から尻を撫で回す。
「やっ、ち、違っ……はぁぁぁ……」
 しかし、大量に摂取した媚薬によって敏感にされた体はそんな愛撫でも感じてしまうらしい。忽ち珠裡は声を震わせよがり始め――そしてついと、月彦は唐突に愛撫を中断する。
「何で止めるのよぉ……」
「して欲しい事があるならきちんと“お願いします”って言え」
「だ、誰がっ……ぁぁぁ!」
 さわさわっ――月彦は尻尾の毛の表面だけを掠るように撫でる。それだけで、珠裡は尻を震わせ、喘ぎ出す。
「はぁはぁ……しっぽぉ……ねえ、しっぽ触ってぇ……触ってよぉ……」
「“お願いします”だ」
「っっ…………だれ、が……んひぃっ!」
 唐突に、月彦はぎゅっと尾の付け根を握りしめ、親指の腹で強く擦る。
「あっ、あっ、あっ!」
 きっちり、三回擦った所で、手を離す。はぁぁ――不満げに漏れた珠裡の息はなんとも熱っぽく、悩ましげだった。
「やめないでぇ…………もっと、してよぉ……」
「………………。」
 月彦はもう何も言わなかった。ただ、ジッと珠裡を見下ろす。
「お――」
 そんな月彦に気圧されるように、珠裡が渋々口にする。
「おねがい、します……」
「“どうか私の尻尾を触って下さい”」
「どう、か……私の……しっぽを……さわって、くだ、さい……」
「続けて言え」
「お願い、します……どうか、私の尻尾を……触って下さい……」
「よし、ちゃんと言えたな。少しだけご褒美をやる」
 月彦は尾の付け根を掴み、先ほどまでよりも長めに擦る――が、勿論“満足”などはさせてやらない。それどころか、珠裡の体を襲っているであろう焦れがますます酷くなるようなタイミングでついと手を引いてしまう。
「ぁぁぁあぁっ……やぁぁっ……止めないでよぉ……もっと、もっと尻尾してぇ……!」
「もっとしてほしいのか?」
 こくこくと、珠裡がハッキリと頷く。どうやら、大分理性が飛んできているらしいと、月彦はほくそ笑む。
「じゃあ、俺のペットになるって誓えるか?」
「な、何……言っ…………バカも、休み休み……あぁん!」
「ペットになると誓ったら、もっともーーーっと気持ちよくしてやるぞ?」
 月彦は尾を掴み、焦らすように親指の腹で擦る。
「ぁっ、ぁっ……うる、さい……だれ、が……そんな……ぁぁぁぁぁ……」
「嘘だと思うか?」
 月彦は自らもベッドに腰掛け、珠裡の体を抱き寄せて後ろ向きに座らせ、さらに両足の膝裏を自分の足に引っかける形で足を開かせる。珠裡の体は既にこれ以上ないという程に上気し、暖房もつけていないのに全身はびっしょりと汗に濡れ、テラテラと光沢を放っていた。
(……やっぱり、“薄い”な。真央にあれだけ媚薬を飲ませたら、フェロモンとか物凄いんだが)
 くんくんと珠裡の匂いを嗅ぎながら、そんな事を思う。とはいえ、それとこれとは話が別だと割り切って、月彦は手始めにれろりと。首筋の辺りに舌を這わせる。
「ひゃんっ……ば、バカ……何、するの、よぉ……やっ、だめっ……ぁぁぁぁ!」
 そのまま、全身をサワサワと、無造作に撫で回す。太股、内股、腹部、そしてブラの上から胸元をさわさわとなでつける。
(……由梨ちゃんより、ちょっと大きいくらい、か)
 無論真央には比べるべくもない。が、外見的な幼さを考えれば充分に将来性のあるおっぱいであると言える。
「やっ……止めっ……それ以上……は……もう……ぁぁぁ! っっっ! だ、ダメっ、そこ、触る、な……ぁぁぁぁあ!」
 足を開かせ、びっしょりと濡れて透けるようになってしまっているショーツの上から、ぐりぐりと中指を押し込むように秘裂を刺激する。
「はーっ……はーっ……はーっ……だめぇ……だめっ、だめぇ……そこ、だめぇ……はぁはぁ……だめ、だめ…………」
 譫言のように繰り返しながら、珠裡は必死にイヤイヤをする。その様子を具に観察し、ギリギリのところで見切って、月彦は一切の愛撫を止める。
「あっ、ぅ……ま、また…………」
「ペットになると誓うか?」
「くっ……ぅ…………ぁっ、ぁっ、ぁっ!」
 渋る珠裡のブラのホックを外し、上へとずりあげてから、硬くしこった先端部をつまんでくりくりと刺激をする。が、それもすぐに乳輪に沿ってゆっくり指先で撫でるだけというような、焦れったい動きに変わる。
「っ……る」
「何か言ったか?」
「な、る……ペットでも、何でもなる、から……だから、それ、止めて……途中で止められると、気が狂いそうになるのぉ……」
「して欲しい事があるなら“きちんと”お願いをしろと、そう言ったよな?」
「…………っ………………ペットにして、ください……おねがいします……」
「よし、よく言えたな。……これでもうお前は、俺のペットだ。……つまり、俺の命令には絶対服従だ」
 よしよしと、月彦は褒めるように珠裡を抱きしめ、頭を撫でる。
(……解ってるぞ。そんなのは口先だけで、本心では誰が従うか、って思ってるんだろ?)
 そんな事はお見通し――しかし、月彦はあえてそれを暴かなければ、気にもしない。
 今、珠裡が何を考えていようが、結果的には同じ事だからだ。
「それじゃあ、御主人さまからの最初の命令だ。膝を絨毯について、ベッドに伏せるようにして俺の方に尻を向けろ」



 性に関する知識は、一応人並みには持っているつもりだった。しかし、月彦の命令に渋々従って膝を絨毯につき、丁度ベッドの角に腰をくっつけるように伏せた時にも、その後自分が何をされるか等、珠裡は想像も出来なかった。
 一つには、“人間ごとき”がそこまで出来るわけがないと高をくくっていたというのもある。それだけに、月彦に尻を向けた後、容赦なく下着が膝までずり下ろされた時には軽い混乱にすら陥った。
「えっ、えっ……?」
 月彦の手が、腰を掴む。“何か”が尻の下の辺りに触れる。
 まさか――そう思った時には、珠裡は稲妻のような痛みが全身を貫くのを感じた。
「あぎ、っがっ……!」
「っ……キツい、な……やっぱり処女だったか」
 自分の身に何が起きたのかを、珠裡は必死に理解しようとした。しかし、どう楽観的に考えても一つしか思い当たらなかった。
(嘘……でしょ? 人間なんかに……)
 痛みとは違った理由で、両目から涙が溢れた。屈辱の余り、奥歯を噛みしめる。
(何よ、これ……ぐいいいって、無理矢理、広げ、られ、て……く、苦しっ…………)
 “規格外”のサイズに、体が悲鳴を上げる――が、月彦はそんな珠裡の体の事などおかまいなしに、奥へ奥へと剛直をねじ込んでくる。
「多分そうだろうなと思ったから、お前には何度もチャンスをやったんだぞ。……こうなったのは自業自得だ」
「っ……人間の、分際、で……よくも……」
「…………口の利き方がなってないな。……俺のペットになる……そう言った筈だろ?」
 バカじゃないのか、この人間は。そんなのはその場しのぎの嘘に決まっているではないか――キッと、珠裡は背後の月彦を睨む目に、そんな意思を込める。
 が、とうの月彦はといえば、珠裡のそんな目すらも楽しむように余裕の笑みを浮かべていた。
「悪いが、手加減なんかしないぞ。……それに、薬のおかげで痛みもそんなにはないだろ?」
「うる、さい……はやく、抜きなさいよ……」
「冗談だろ」
 珠裡の言葉を鼻で笑って、月彦が腰を使い始める。
「くっ……あっ、ぁっ……んんっ……やっ……中、擦っ……ぁっ……」
「真央の薬はさすがだな。もう感じ始めたか。…………まずはその体にたっぷりと快楽を刻みつけてやる」
 忘れられなくなるくらいにな――そんな事を囁きながら、月彦は執拗に腰を使ってくる。珠裡はせめてもの抵抗としてベッドシーツを噛みしめ、必死に声を押し殺す。
 だが。
「〜〜〜〜〜〜〜〜〜っ!!」
 声を押し殺したからといって、快楽の押し売りが止まるわけではない。月彦は珠裡の腰を掴んで固定し、乱暴に責め立てたかと思えば8の字を描くようにぐりん、ぐりんと抉ってきて、珠裡の意思とは関係なしに体が跳ねてしまう。
(やっ、だめっ……何か、来るっ……来ちゃう……!)
 “それ”が徐々に近づいてくる感覚に、珠裡は恐怖すら感じる。かといってどうにもならず、珠裡に出来る事はただただ声を押し殺して――。
「くっ……ンっぅ……ンンッ、んんん!!!!」
 耐える事のみだった。
「おや…………今、イッたか?」
 月彦が腰の動きを止め、被さるように囁いてくる。
「あんだけ人間の俺の事を見下してたのにな。……偉大なる妖狸さまの処女を奪ったのも、ナカでイかせたのも俺が初めてってわけだ」
「うる、さい……くす、り……さえ、なけれ、ば……」
「ヘタレ臭がするとはいっても、お前の実力が未知数だったからな。“勝ち方”に拘ってる余裕は無かったから、手元にあるものは何でも使わせてもらった。それを卑怯だと言うのなら、お前らの妖術の方がよっぽど卑怯だろ」
「あぁぁぁっ、あっ、あっあぁーーーーーーッ!!」
 反論しようと口を開いた瞬間に動かれ、珠裡は声を抑える事も出来ずにサカり声を上げてしまう。
(やっ……さっき、より……)
 イかされる前よりも、イかされた後のほうが快感が増し、声が抑えがたくなる。
「あぁっ、ぁっ、ぁっ! やっ、も、動かな……くぅうl……!」
「つれない事を言うな。今まで妖猫、妖狐とは何度かヤッたが、狸ってのは初めてなんだ。しっかり味わわないとな」
「っっ……人間、のくせ、にぃ…………あっ、あっ、あっ!」
「その人間にお前は犯されてるんだろ? 自分の立場を理解しろ」
 ぱんっ、と尻に平手打ちをされ、珠裡は屈辱に涙した。
(この私が……こんな奴なんかに……)
 偉大なる妖狸に比べれば、人間など無力なサルのようなものだ。
 その筈なのに。
(……ッ……こいつ……この人間……絶対殺してやる……!)
 かつて、これほどの屈辱を他人から受けたことも無ければ、個人に対してこれほどの憎しみと殺意を抱いたのも初めてだった。
「あっ、あんっ! あんっ、あっ、あっぁっ……!」
 しかし、珠裡の心の動きとは裏腹に、月彦に動かれるたびに口からは甘い喘ぎが漏れてしまう。
「さっきまで処女だった割には反応がいいな。ひょっとして薬が無くても全然大丈夫だったんじゃないのか?」
 くつくつと、耳の後ろで含み笑いをする声が聞こえる。ギリッ、と珠裡は奥歯を噛みしめながら、屈辱に耐え続ける。
「自分で解るだろ? まるで涎を垂らすみたいに溢れっぱなしだぞ。太股を通り越して、膝までいっちまってるな。……絨毯に染みが残ったらどうする気なんだ?」
「うる、さっ……だったら、止めっ……あぁぁあん!」
「“人間ごとき”に犯されて感じる淫乱のくせに、口だけは立派だな。……ほら、そろそろだろ?」
「っ……やっ、も、動くなっ……っ……ぁっ、……〜〜〜〜〜〜〜〜〜っっ!!!!」
 ビクン!
 ビクッ、ビク!
 体を跳ねさせながら、珠裡はイく。快感の押し売りで、無理矢理イかされる。
「はぁぁぁぁっ……これ、やぁぁ…………おか、しく……おかしくなるぅ……」
「根を上げるのが早すぎだ。まだ夜は始まったばっかりだろ」
 ぐちゅ、にちゅ、にゅちゅっ。
 月彦が腰をくねらせるたびに、卑猥な音が室内に響く。それは自分が溢れさせているものが原因なのだと、珠裡にも解る。解るから、赤面してしまう。
「〜〜〜っ……人間、なんか、にぃ…………人間のくせにぃ…………ママに、言いつけてやる……絶対、ママに言ってやるんだから……」
「お前はそればっかりだな。……“私は自分一人じゃ何も出来ないゴミカスです”って言ってるのと同じなんだって気づいてるか?」
「ゴミカスは、そっち、だろ……ンッ……こんなの、で……あぁぁぁぁあ! あぁぁっ、ぁぁあ!」
「ヒィヒィ鳴きながら言われても、何も響いてこないな。…………ほら、三回目、そろそろだろ?」
「う、ぁっ……やっ……くぅぅ……ひんっ……やっ、も、止め……あぁぁ!」
「ついでにいうと、“こっち”もそろそろだ。……たっぷり中に出してやる」
「っ……! う、嘘……そんな事……出来る、わけ……」
「どうして出来ないと思うんだ?」
「だ、だって……中に、出したら……に、妊娠、しちゃう……」
「そうだな。…………ちなみに、真央の母親を孕ませたのは俺だ。……その俺が、どうしてお前にだけ中出しをしないと思うんだ?」
「やっ……な、中は止めて……いや、人間の子供なんて、絶対イヤぁ……!」
 恐怖が、屈辱を上回った瞬間だった。軽蔑の対象である人間に犯された上、その子供を孕まされるなんて想像するだけで体が震え出して止まらなかった。
「ダメだ。真央に酷いことをした罰だ……お前には俺の子供を孕ませる」
「イヤぁぁっ、イヤぁぁぁ! それだけは、それだけは止めて!」
「ちなみにお前に使った“薬”ってのがまた特別製でな。……妊娠の確率を限りなく百パーセントに高めるものなんだ」
 意地悪く囁きながら、月彦が徐々に腰の動きを早めてくる。はあはあというケダモノのような息づかいが、耳の裏に当たり、それが妊娠の恐怖を現実味のあるものとして珠裡に認識させる。
「やぁぁぁぁあっ、止めて、お願いだから止めて! 妊娠はイヤっ……絶対にイヤぁぁ! に、人間の子供なんか絶対に嫌ぁああ!」
「ほら、暴れるなよ。安心しろって。…………ちゃんと珠裡もイかせてから、中に出してやるから。ちなみにイかされればイかされるだけ、女も妊娠しやすくなるらしいぞ?」
「やっ、おね、が……中はっ……中だけはぁっ……あぁぁあ!」
 珠裡は両目から涙をこぼしながら――しかし、その口からは絶え間なく甘い喘ぎを漏らしながら、強制的に高みへと上らされる。
「ゆるっ、してぇ……おね、がい、します……なんでも、なんでもします、からっ……だから……それだけはっ……妊娠だけはぁっ……!」
「却下、だ。……お前には、お前が下等生物だと侮った人間の……俺の子供を孕ませる、これは決定事項だ。諦めて子種を受け入れろ」
「イヤッ、イヤッ……中はイヤッ……妊娠イヤァ! いやっ、いやっ……だめっ、いやっ……いやっ……いやっ、いやっっ……い、ッ…………〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜っっっ!!」
 ビクン!
 ビクッ、ビクビクッ!
 ビクゥ!
 津波のような快感と共に、体が跳ねた、その刹那。
「やっ、イヤッ……嫌ぁぁぁぁあああああああああああああああああああああっ!!」
 ドクッ、ドリュッ、ドリュリュッ!
 ドロリとした熱い液体がすさまじい勢いで己の体内に注入されるのを感じて、珠裡は怖気を走らせながら絶叫した。
「ひぁっぁっ……は、入ってくる……に、人間の精子が……ぁぁぁ……」
「ふーっ……ふーっ……たっぷり出たなぁ………………こりゃあ妊娠は確実だな。早めに子供の名前を考えておいたほうがいいぞ?」
 びゅっ、びゅるっ。
 びゅっ。
 しつこく射精を繰り返しながら囁かれた言葉を、珠裡は右から左に聞き流していた。
 人間に犯された。そのうえ子まで孕まされたとあっては、もはや母に告げ口をしてこの男を殺せば済むという問題ではなくなった。
 一体どうすれば――混乱し、思考停止状態に陥っていた珠裡を現実へと引き戻したのは――グググと己の体内で力強く反り返る剛直だった。
「え……? な、何……?」
 これでもう終わりなのだと――勝手に決めつけていた。そんな保証など、どこにもありはしないのに。
「何、じゃない。…………この程度で終わると思ってるのか?」
 月彦が、腰の動きを再開させる――珠裡にとって長い、あまりにも長い夜の始まりだった。


「あっ、あっ、あっ……あぁっ、ぁっ……ぁ!」
 思いの外チョロかった――そう感じるのは、これまでの相手が手強すぎたからなのだろうか。
 それとも、大量に摂取させた媚薬の効果か。
「あぁぁあっ、あぁぁっ、あーーーーーっ! あーーーーっ! あぁぁーーーーーーっ!」
 ビクビクッ、ビクッ、ビクゥ!
 腰上げ正常位でたっぷりと突き、とどめとばかりに最奥を小突き、イかせる。
「ひぐぅぅうぅっ! あひぁぁぁぁっ! あぁぁっ、あぁああ!」
 びくんっ、びくっ、びくっ!
 腰を上へ下へと跳ねさせながら、珠裡がイく。その両腕はとっくに拘束を解いてあるが、もっぱらシーツを握りしめる以外の役目には使われなかった。
「ふんふん、それで? その結界ってやつを壊せば、術は解けるんだな?」
 ぜえ、ぜえと今にも死にそうな呼吸を繰り返しながら、こくこくと珠裡は小さく何度も頷く。
「で、肝心の壊し方は?」
「それっ、はぁっ……む、むっつの要石、を……こ、壊っこわっ……ぁぁぁぁあ!」
 尋ねながらも、月彦は腰の動きを止めない。処女を失ったばかりでまだほぐれきっていない秘裂を丹念に――さながら、川底に住むナマズが土を掘り起こして自らの住まいを作り上げるかのように――自分好みのモノになるようにほぐしていく。
「ふんふん、要石ってやつを壊せと。……その場所は?」
「あっ、あっ、あっ! やっ、ちょっ、もぉやめっ……つ、突かないで……しゃべれなっ……あーーーーーーーーーーーーーーーーーーッ!」
 びくんっ! ビクビクビクッ!
「あはぁぁぁあ…………も、イかせないれぇ……イくの、嫌ぁ…………んひぃ! やっ、動っ、かな……あっ、あっあっ!」
「それで、その場所は?」
 ………………。
 …………。
 ……。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 ……。
 ………………。
 ……………………。
「なるほどな、知りたいことはだいたい解った」
 ぜえはあ。
 ぜえはあ。
 息も絶え絶えに肩を上下させる珠裡を見下ろしながら、月彦もまたやれやれと息を吐く。
「まさかお前が真央より年下の四才だったとはな。……どうりでガキっぽいわけだ」
「っっっ……うる、さい……年なんか、関係、な……んぁぁぁあああ!」
 ぐいと、珠裡の腰を引き寄せるようにして、月彦は軽く腰を使う。それだけで、イかされ続けて敏感になってしまっているらしい珠裡の体は、電撃が走ったようにビクビクと震え出す。
「学ばない奴だな。……どうやら妖狸って種族は妖狐に比べて遙かに頭が悪いらしい」
「ううぅ……もぉ……いい、でしょぉ……いい加減、止めて、よぉ……」
 殆ど半泣きで呟かれる言葉を、月彦は鼻で笑う。
(冗談だろ? ここで止めたら、それこそ本当に後日やり返されるじゃないか)
 これまでのはいわばただの尋問――正確には、この後の為の布石もあるが――だ。むしろ本番はこれからだと、月彦はほくそ笑む。
「…………そうしたい所だが、珠裡。……お前、こうして見ると意外と可愛いな」
「はぁ!?」
「身長も体つきも真央より一回り小さいし、胸も控えめだけど、将来性たっぷりな感じだし。あと何年かすりゃあ、スゲーいい女になるぞ、お前は」
「きゅ、急に……何言い出すのよ……気持ち悪い事言わないでよ!」
「嘘じゃない。本心からそう思うから言ってるんだ。…………可愛いぞ、珠裡」
 こんな手、並の女性相手には絶対に通じないだろう。しかし、これまでのやりとりと、四歳という珠裡の年齢から、月彦は確信に近いものを抱いていた。
 この妖狸娘は、チョロいと。
「う……うるさいうるさいうるさい! 急に機嫌を取ろうったってそうはいかないんだから! お前は殺す! 妖狸と私の誇りにかけて絶対殺す! カチカチ山に連れて行って燃える薪を背負わせてやるんだから!」
「怒る所もまた可愛いな。…………惚れちまいそうだ」
「なっ……ば、バカっ……何、言って……やっ、やめ、……こ、こら……顔、近づけてくるなぁ!」
 珠裡の抵抗をよそに、月彦はそっと被さり、そのまま脇の下から珠裡の後頭部へと手を回す形で抱きしめ、唇を奪う。
「んぅっ!? やっ……何すっ……んんっ……!」
 暴れる珠裡を押さえつけながら、何度も執拗に唇を重ねる。重ねながら、挿入しっぱなしの剛直を、ちゅこちゅことゆっくり優しく小刻みに動かすと、次第に珠裡は抵抗をしなくなった。
「んんぁぁ……んぅっ……んっ……ちゅはっ……んんっ……」
 戸惑い、ただ抵抗をしないだけというマグロのキスだったが、充分だった。月彦は舌をさしこみ、珠裡の唇を舐め舌を舐め歯を舐め、文字通り好き放題しながら、ぐりぐりと“甘いセックスの味”を覚え込ませていく。
「ふぁっ、ぁ……な、なんで……急に……キスを……」
「言っただろ。珠裡は可愛い。……だからキスをしたんだ」
「っっ……や、止めろ、ばか! か、可愛いとか言うな……キモすぎて鳥肌が――……んんんっ……!」
 再び、キス。同時にぐりん、ぐりんと剛直で蜜壺をかき回すように腰を回す。
「んんんっ! んんんんっ!」
 珠裡が目を白黒させ、腰を何度か跳ねさせる。どうやら軽くイッてしまったようだが、構わず月彦はキスを続行し、剛直の味を教え込む。
「ふぁ、ぁぁ……き、キモい屑人間の、くせにぃ…………い、いいかげんにしないと……ほ、本当に殺――……んんっ!」
 今度はキスではなく、指を二本くわえこませる。人差し指と中指、それをフェラでもさせるように出し入れする。
「珠裡、お前に一つ謝らないといけないことがある。………………お前に使った薬には、妊娠させやすくするような成分なんて入ってないんだ」
「んぁっ……んんっ!?」
「だけどな、俺個人の気持ちとしては本当に孕ませたいと思うくらい、お前の事が気に入ってる。今まで乱暴な事をしてしまったのも全部お前の事が好きだからだ」
「んんぅぅぅ…………!」
 指をくわえたまま、珠裡がキッと睨み付けてくる。その視線ほどには怒っていないという事を、月彦は“指を噛まれないこと”で理解していた。
「……珠裡、ちょっと抱き起こすぞ」
 指を引き抜き、珠裡の背中に手を回して、そっと抱き起こす。自らはあぐらをかき、その上に珠裡を座らせて――“いつもの形”へと移行する。
「……ちょっと、いい加減に離してよ……い、今止めるなら…………特別に……見逃してやらなくもないんだから」
「悪いがそれは無理な相談だ。……ほら、珠裡も俺の腰に絡めるように、足はこう……そうだ」
 ぶつくさ言いながらも言うとおりに足を腰にまわしてくる珠裡を、演技ではなく本気で――ほんの少しだけ――可愛いと感じながら、月彦は尻を掴み、優しく揺さぶる。
「あっ、あっ、あっ……まだ、する気、なの? どんだけ……スケベ、なのよ……いい加減にしろ……屑人間っ……」
 あえて反論はせず、月彦は小刻みな揺さぶりを続ける。珠裡の口から徐々に甘い喘ぎが漏れ始め、きゅっと腰に回った足と肩に置かれた手が微かに爪を立てるのを感じながら、少しずつ快感を溜めていく。
「はぁっ、はぁっ……こんな、こんな、こと……キモい屑人間の、くせに……はぁはぁ……」
 さすがに自ら腰を使う――という事はないものの、しかし珠裡はもはや快感を快感として受け入れているようだった。その気になれば引っ掻き、噛みつき、なんでも出来る今の状況でそれをせず、ただただ剛直に貫かれるままになっているのがその証だった。
(媚薬の効果もほとんど切れてるみたいだな……あんなに使ったのに……やっぱり幼いからか?)
 同じ量を真央に使おうものなら、それこそ朝までは間違いなく寝かせてはくれない上、三日間は濃厚な発情フェロモンを振りまき続けるというのに――勿論月彦は、珠裡が早い段階で解毒薬を飲んでおり、そのせいでかなりの媚薬成分が中和されている事など知るよしもなかった。
「あぁもう……何なのよぉ……こんなのキモい……キモいのが、私の中でグンって反ってて……キモすぎ……ふぅふぅ……」
 嫌なら逃げればいいだろ?――そんな言葉をぐっと我慢して、月彦はモゾリと手を動かし、珠裡の尻尾を握る。
「やっ、こ、こらぁ……尻尾は……ぁっ………………!」
 こしゅ、こしゅと丹念に愛撫しながら、珠裡の体を小刻みに揺さぶる。やはり尻尾は急所らしく、珠裡はくったりと肩に顎をのせるようにしてはぁはぁと忽ち呼吸を荒くする。
(中の方もうにうにグニュグニュ動いて……これはこれでなかなか)
 勿論、裂けたりしないよう月彦なりに最大限気は遣っているのだが、それでも幼い珠裡の膣はかなり窮屈であり、その窮屈さが月彦にある種の興奮を刻みつけていた。――即ち、幼女を抱くという、背徳感を。
「ううぅぅぅ……ほ、ホントにいい加減にしてよ……屑人間のくせにぃ……はぁはぁ……」
「そろそろイきそうなのか?」
「だ、誰が……こんなキモい屑人間のキモいのなんかで……あぁぅ!」
「珠裡…………お前とキスがしたい」
 はぁ!?――顔を赤くしながら、珠裡が声を裏返らせる。
「し、したいなら……さっきみたいに、勝手にすればいいじゃない……」
「珠裡にしてほしいんだ」
「っっっ……ふ、ふざけっ……やんっ! あっ、あっっぁぁぁ……!」
 尻肉を揉みながら、少し早めに珠裡の体を上下に揺さぶる。
「っっっ……わか、った……わよぉ……あぁもう、キスしたいとか……キモすぎ……キモい屑人間はやることも言うこともキモくて……ンッ……はぁはぁ……ほら、これで満足?」
「一回だけじゃダメだ、もっと」
「ンンッ……はぁはぁ……んっ、ちゅっ……んっ……これ、で……いい?」
「もっとだ、もっと長く、珠裡とキスを続けたい」
 かぁ、と珠裡がますます顔を赤らめる。月彦はもう、笑いを堪えるのに必死だった。
「ううぅー……ほんっっとにキモいんだから……ンッ……んっ、ちゅっ……んっ……」
 珠裡が何かに吹っ切れたように両手を月彦の首後ろにまわして、唇を合わせてくる。それは舌を使わない子供のようなキスだったが、月彦は容赦なく舌を使い、珠裡の口の中へと差し込む。
「んんっ、んっ、んんっ!」
 次第に、珠裡の方も辿々しく舌を使い始める。舌で互いの舌を舐め合うようなキスを続けながら、月彦もまた小刻みに珠裡の体を揺さぶり、自らも高みを目指していく。
「珠裡……そろそろ出そうだ」
「っっっ……い、いちいち言うな! バカ屑人間! で、出そうなら……さっさと出せば……んんっ……」
「ってことは、また中でいいのか?」
「だ、ダメって言っても……何回も出したくせに……い、今更…………あん! す、好きな所に出せば……?」
 中はダメ、とは言わないんだな――そのことに含み笑いをしてしまいそうになり、月彦は頬の内側の肉を噛みながら、真面目な顔を続ける。
「解った。……じゃあ、俺が一番出したい所……可愛い珠裡の中に出すことにする」
「っっっだから、可愛いとか言うなぁ! あんっ、あんっ……や、やっぱり、ダメっ……中は、だめぇ……!」
「今頃そんな事を言われてももう変更は無理だ。…………珠裡の中にたっぷりと出してやる」
「やめろバカ! キモい屑人間の精子なんて、絶対っ……はぁはぁ……絶対に……いやぁ! あぁんっ、あぁん! はぁはぁ……ああもう、キモい……キモいのが、来るっ……来るぅ……!」
「珠裡。……イくときは一緒だぞ?」
「うるさいばか! 誰が、キモい屑人間なんかと……っっ……はぁはぁ……ぅぅぅ……んっ……やっ……も、もぅ……ううぅぅぅ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜っっっ!!」
 せめてもの抵抗――そう言わんばかりに、珠裡は歯を食いしばり、声を押し殺しながら――イく。
 ヒクヒクと痙攣を繰り返す、まだ幼いその膣内をごちゅんと最奥まで貫き――月彦もまた、極みへと達する。
「〜〜〜〜〜〜〜っっっっっっ……………………あぁぁぁっ、ぁぁぁぁっ!!」
 どりゅっ、どりゅっ、どりゅっ……!
 小生意気な妖狸娘の膣内を陵辱し、特濃の白濁液をたっぷりと注ぎ込む――そこにある種のカタルシスを感じながら、同時に月彦は絶頂の余韻に浸り続ける。
「うぅぅぅぅ……い、いつまで、出し……ンッ…………だ、出しすぎなのよ、屑人間のくせに……ぅうっぅ……おな、か……苦し……パンパンになっちゃうぅ……」
「…………悪いな。珠裡が可愛い過ぎるから、ついたくさん出しちまうんだ」
 うるさい、バカ――てっきりそんな罵声が飛んでくるものだとばかり思っていたら、意外にも珠裡は黙り込んでしまった。顔を真っ赤にしたままうつむき、まるで縋り付くように月彦に身を寄せてくる。
(…………なんて、チョロい……)
 あまりにチョロ過ぎて、罪悪感のようなものまで感じてしまう。そう、それはさながら大人が子供相手にゲームを挑み、しかも卑怯な手段でボロ勝ちした解きに感じる罪悪感に非常に酷似していた。
(……まぁでも、大事な詰めだ。……“今後の身の安全”の為にも、クセになるくらい犯って、逆らえないようにしてやる)
 前半の尋問がムチなら、後半の甘々エッチはアメだ。その落差で珠裡を落とし、手駒にする――それが、月彦の考えた作戦だった。
「珠裡、まだだぞ?」
 くったりと脱力したまま呼吸を整えている珠裡の尻を掴み、ぐりゅっ、と剛直の先端を膣奥にすりつけるように動かす。
「やっ、んひぃ! な、何すっ…………ちょっ、やめっ……あぁぁぁぁぁ!」
「何って、マーキングだ。…………珠裡のここは俺のモノだって印を……匂いを付けてるんだ」
「っっっじょ、冗談じゃ……無っっ……あひぃぃぃ! ぅっっ、ぁあぁあ……やめっ……止めろ、バカ屑人間! マーキングとか、発想がキモ過っ……あぁぁん!」
「俺のペットになるって誓わせただろ。あれは冗談でもなんでもない、本当にそうしてやるっていう俺の意思の表れだ」
 ググンと、剛直をさらに反り返らせながら、月彦は囁く。
「俺のモノになれ、珠裡」


 首輪をつけられ、子狐化している間の意識は、さながら眠って夢を見ている状態に酷似していた。以前にも術でそのような状態にされた時とは違い、思考力まで子狐並のそれに落とされるのは、首輪自体の特性によるものだと真央は思っていた。
 とにもかくにも、真央は父親の提示した作戦が終了するのを静かに待ち続けた。一度子狐化を解除したにもかかわらず、再び首輪をつけて玄関先のダンボール小屋の中に居座ったのは、ひとえに珠裡を油断させる為だ。
 勿論それは建前であり――建前とはいえ、それが必要な手順の一つであったのは事実だが――本当は月彦がやる事の邪魔にならない為の子狐化であることも、真央は理解していた。

 朝方、小屋の中で眠っていた真央は近づいてくる足音で目を覚ました。小屋、とはいっても昨日珠裡の帰宅を確認するなり、その目を盗んで月彦が小屋ごと玄関の内側へと入れてくれた為、寒さに凍えるというような事は無かった。
「……すまない、真央。待たせたな」
 そう言って、月彦は首輪へと手を伸ばしてくる。そして首輪を外されるや、真央の体はまばゆい光を放ち、元の人型へと戻った。
「ほら、着替えだ」
「ありがとう、父さま」
 月彦から着替えを受け取り、真央は速やかに下着類と肌着、部屋着用のセーターとスカートをを身に纏う。立ち上がると、四つ足の生活に慣れすぎていたせいか、くらりと立ち眩みのようなものを感じた。
「だ、大丈夫か?」
「大丈夫……ちょっとクラってきただけだから…………父さま、シャワー浴びてきてもいい?」
「ああ。俺は先に朝飯の準備をしとく」
 真央は月彦と別れ、脱衣所へと向かう。ずっと犬として生活していた為か――子狐化していた間は気にもならなかったのだが――どうにも自分の体が不潔のように思えて、どうしても我慢できなかったのだった。
 念入りにシャワーを浴びて体を良く洗い、泡を落として、真央は浴室を出る。タオルで丁寧に体を拭き、下着を身につけ、ドライヤーで髪を乾かして脱衣所を出ると、台所の方から“朝食の匂い”が漂ってきていた。
 きゅう、と腹が鳴るのを感じて、真央は台所へと行き――そこでハッと、肩をすくめた。
 それはどうやら“相手”の方も同じだったらしい。ボーイッシュなポロシャツとハーフズボンという家の中とはいえ冬場にはそぐわない格好をした珠裡は真央の姿を見るなり、まるで月彦を盾にするかのようにささっと身を寄せる。
「お、真央、シャワー終わったか。…………珠裡が言いたい事があるそうだ」
 エプロンをつけ、目玉焼きを焼きながら、月彦が「ほらっ」と珠裡の背中を軽く叩く。
「うぐぐ……なんで、私が………妖狐なんかに………」
 珠裡は両手でハーフズボンの生地を握りしめながら、うぐぐと歯ぎしりをする。
「たーまーりー?」
「ひっ」
 しかし、月彦が名を呼んだだけでびくりと体を震わせる――それだけで真央には、昨夜一体何が行われたのかを理解した。
(……私の、父さまなのに)
 羨望と、そして少しの同情――真央の心中はより一層複雑なものになる。そんな真央の前に、珠裡は一歩踏み出してくるや、ふんと鼻を鳴らす。
「……っ…………ふんっ、悪かったわね」
「……ちゃんと謝らないと、お仕置きだぞ?」
「ひっ……ご、ごめんなさい!」
 ぷいと顔を背けながら言った側から、月彦の言葉に促されて珠裡は謝罪の言葉を口にする。
「俺じゃなくて、真央に謝るんだろ?」
「うぅうーーー……………………ごめん、なさい」
 珠裡はまるで幼子のように地団駄を踏み、唸りに唸った後――真央の方へと向き直ってぺこりと頭を下げた。
「……だ、そうだ。難しいとは思うが、一応それで今回の事は許してやってくれないか」
「……うん……父さまが、そう言うなら……」
 たかだか口で謝罪されたからといって、それで割り切れるほど真央の心中は穏やかではなかったが、ここでゴネては“良い子”ではなくなってしまうという思いから、真央は渋々に珠裡の謝罪を受諾した。
「よーし、朝飯が出来たぞ。今日はやることがいっぱいあるからな、しっかり腹ごしらえをしないとな」
 


 どこかぎこちない朝食を三人で摂った後は、月彦が音頭を取って出かけることになった。珠裡もさすがに半袖のシャツとハーフズボンのままでは外に出たくはなかったのか、セーターとさらに上着、男物のズボンに着替え――どちらも葛葉がとっておいた月彦のおさがりであり、そのことが真央は密かに不満だったりするのだが――渋々ながらもついてきた。
「父さま、何処に行くの?」
「広域妖術――鶴交の陣だっけか。それを解きに行く。六ヶ所巡りだ、今日は忙しくなるぞ」
 主にバスを利用しての道すがら、月彦は昨夜珠裡から聞き出した話を説明してくれた。
 広域妖術・鶴交の陣――それを解くためには結界を支えている六つの要石を破壊しなければならないのだという。
(それは……解るんだけど……)
 何故、バスに乗る際、珠裡がさりげなく月彦の隣に座るのか。そのことが真央には地味に不満であり、許し難かったりする。かといって露骨にそれを指摘し、自分が無理矢理隣に座る――というのも月彦に心の狭さを指摘されそうで、真央は言い出すことが出来ない。
「珠裡、本当にこっちでいいのか?」
「……何よ。信用できないなら聞かなきゃいいじゃない」
「ただの確認だ。そうとんがるな」
「ふん。分かり切った事を何度も尋ねるなんて人間ってほんとバカなんだから」
 珠裡は憎まれ口を叩きながらも月彦の隣をぴったりキープしつづけ、真央は前を歩く二人を後ろから眺めながらついていく――という図式になっていた。
(怒っちゃダメ……これはきっと父さまの作戦なんだから)
 要石とやらの場所は、珠裡しか知らない。だから珠裡の機嫌は最低限とってやらなければいけない。その為に父親もきっと我慢しているのだ。だから自分も我慢しなければならない。

 最初に向かった先は、寂れた神社の境内の片隅だった。
「これよ。これが要石」
「……ただの漬け物石かなにかにしか見えないが……」
 そう、妖力を持たない月彦には、それは人の頭ほどもあるただの石にしか見えないらしかった。しかし、真央には解った。無造作に境内の片隅に転がっているその石から、仄かに赤い光が立ち上っているのを。
「で、これを割ればいいのか? 一応工具は持ってきたけど……やれるかな」
 月彦が背負っていたリュックを下ろし、中から工具箱を出してノミとカナヅチを取り出す――その傍らで、珠裡は石を転がすようにして上下逆さまにし、徐にそこに掌を当てた。
「……解除するだけなら、別に壊さなくてもこうやって“裏面”に私が触れば大丈夫だよ」
「なっ……バカ! それを先に言えよ! だったらこんなクソ重いもの持ってくる必要無かったじゃねえか!」
「石を壊しても解除出来るけど、壊さなくても私が協力すれば解除出来るの! ……何よ、少しは感謝したっていいじゃない!」
 端で見ていた真央には解った。珠裡は、月彦に褒めてもらいたいのだと。しかしどうやら、その思惑は月彦には伝わらなかったらしい。
「あのな、珠裡。元々お前達が勝手に仕掛けてきたものを解除して回るハメになったのに、なんで感謝しなきゃいけないんだ?」
「うるさいばーか! それならもう協力なんかしてやらないんだから! 場所は教えてやるから自分で割りなさいよばーかばーか!」
「たーまーりー?」
「ぁっ……ご、ごめんなさい……」
 どうやら、余程しっかり“躾られた”らしい。どれだけいきがって調子にのっていても、月彦が威圧するような声で名を呼ぶだけで、珠裡はびくっと震えて謝罪するのだから。
「まったく……とにかくあと五つか。急がないと今日中に回れないぞ」
「ぁ……結界を解除するだけなら、過半数の要石を無効化すれば結界は維持できない、から……」
「そうなのか。……んじゃあと三つか……なるべく近くて交通の便が良さそうな所を順番に頼むぞ、珠裡」
「ふ、ふん…………あーあ、馬鹿な人間に付き合ってやるのも楽じゃないわ」
 ぷいとそっぽを向いて、珠裡が歩き出す。やれやれと月彦がその後に続き、最後に真央が続いた。


 隣町までカバーするような広域の結界を囲むように配置された要石を解除して回るのは想像していた以上に大変だった。どうにかこうにか三つの石を解除し終え、過半数解除の為の残る一つを解除すべく山道を登り始めたのは、やがて日も暮れるという頃だった。
「おい、珠裡……まだ大分かかるのか?」
 アスファルトで舗装すらされていない、地面が踏み固められているだけの獣道を一列渋滞になって歩きながら、月彦が先頭を行く珠裡に尋ねる。
「このペースなら、あと十分くらい。この先に小さな社があって、その裏においてあるの」
「なんか神社とか祠とか、そういう所ばっかりだな。やっぱそういうのって関係あるのか?」
「あるにきまってるじゃない」
「へぇー、具体的にはどういう関係があるんだ?」
「それは…………う、うるさいわね……関係あるっていったらあるのよ!」
「…………神社とか社とか祠とかは、地脈の流れとかに沿って建てられてる事が多いの。だからそういう場所は“仕掛け”をしやすいって、母さまが言ってたよ」
「へぇー、さすが物知りだな、真央は」
「何言ってるのよ、ただ受け売りを口にしただけじゃない。手柄の横取りなんてさすが卑怯者のキツネね、やることが汚いわ」
「たーまーりー? それ以上言ったら、またお尻ぺんぺんだぞ」
「やっ……ちょっ、止めてよ!」
 月彦が尻を叩く真似をすると、珠裡は慌てて尻を押さえて歩くペースを上げた。
「なによなによ、親子だからってかばったりして! あーほんとキモい、人間も妖狐もキモくて耐えらんない!」
 ぷんすかと怒りながら、珠裡が歩くペースを速める。月彦もそれに倣い、一人だけ遅れるわけにはいかず真央もまたペースを上げた。
 さらに進んでいくうちに道の傾斜は徐々に緩やかになり、程なく視界が開けた。そこは誰が、何のために切り開いた場所なのか、さして高くもない山の中腹ではあるが、まるで学校でも建てられそうなほどのスペースが用意されていた。
 とはいえ、それはあくまで“木”が無いだけであり、誰からも見向きもされていない場所であるのは一面生い茂った雑草からも明かで、それらの雑草に埋もれるようにして、“広場”の片隅にひっそりと小さな社が建っていた。
「あの裏よ」
 珠裡が指さし、一行はその裏手へと移動する。そしてそれまで行ってきたように、石を裏返しにして珠裡が掌を当てようとした――その時だった。


「…………あんさんら、何してはるん?」


 決して忘れられない声を、真央は聞いた。


 背後から聞こえた声に、月彦、真央、珠裡の三人は鋭く反応した。
「ママ!」
 立ち上がり振り返るや否や、“母親”の姿を見た珠裡は月彦、真央を突き飛ばす勢いで駆け寄った。
「聞いて聞いて! あいつらが私を虐めたの! おしおきしてやって!」
「なっ…………あいつ!……………………む、結構大きいな」
 裏切りにも近い珠裡の行動に絶句しつつも、月彦はまみの方へと目をやるなり、そんな事を呟いてごくりと喉を鳴らしていた。そんな父親を頼もしく思う反面、真央は奇妙な恥ずかしさを感じてしまう。
「なるほど、お前が“主犯”か。…………そして、真狐を殺した女だな?」
「知ってはるんなら、話が早うおす。……うちもあんさんらの事はそこはかとなく耳にしとりますえ?」
「ねぇねぇ、ママってばぁ! はやくおしおきしてやって!」
「だまらっしゃい!」
 一人、シリアスな場の空気を読まずまみの着物をぐいぐい引っ張りながら駄々を捏ねる珠裡に、まみが唐突に怒鳴り声を上げる。
「ひぃっ」
 まさかの母親の一喝に、珠裡は悲鳴を上げてぺたりと尻餅をつく。
「もちろんお仕置きはしますえ。でもそれは珠裡、あんさんにどす」
「そんなぁ! ママ、どうして!」
「どうしてもなにもあらしまへん。……珠裡、あんさんうちの店から勝手に持ち出したモノがありまっしゃろ?」
 あっ、と。珠裡は絶句し、みるみるうちに顔を青ざめさせる。
「店の品物を勝手に持っていったらアカンて、常々口を酸っぱくして言うとったの、まさか忘れたとは言わしまへんえ?」
「ご、ごめんなさい……ママ……でも、だって……」
「でももカカシもあらしまへん! しかも、こんだけ膳立てしてやったにも関わらず居候先の人間に正体を見破られるとは呆れて物も言えまへんわ。人界で一年と三年と十年、それぞれ三度に分けて生活をして、正体を見破られずに過ごせた者のみ“一人前”とされるんがうちら妖狸の掟どす。ろくに変化の術も使えへんあんさんの為に、うちがどれだけ骨を折って鶴交の陣を誂えたのか想像してみなはれ!」
「ひぃぃ……だって、だってぇぇ……ふぇぇぇぇ……」
 立て続けに怒鳴りつけられ、珠裡は尻餅をついたままわんわん泣き出してしまう。
「あー……あの、お母さん。もうそのくらいでいいじゃないですか」
 何となく見ていられなくて――珠裡が叱られている原因の一旦は自分にもある為――月彦がそっと助け船を出す――が。
「冗談やおまへん。子供は厳しう躾けなあきまへんえ! 甘やかすんはこの子の為になりまへん、口出しせんといてもらえますやろか」
「あ、はい……すみません」
 しかし、月彦は思いの外あっさり引き下がった。その後もまみのお説教は続き、その間凡そ三十分強、真央も月彦もただただ棒立ちするしかなかった。
「……えらいお待たせしましたな。改めて自己紹介させて頂きます、うちが珠裡の母のまみどす」
「紺崎月彦です」
「…………真央、です」
 やっとこさ“説教”が終わったらしく、くるりとまみが向き直るや丁寧に自己紹介をされ、釣られて月彦が自己紹介をし、それに釣られて真央も渋々自己紹介をする。
「うちの用件は一つだけどす。“それ”を解除するんは止めて、“今後のこと”も目を瞑ってはくれはりまへんやろか?」
「……それはつまり、“陣”を解除せず、珠裡を真央の代わりとして受け入れろと、そういうことですか?」
「そういうことどす。…………あんさんらにはもう解ってはりますやろけど、この子はどうにもならん不出来な子どしてなぁ。こうでもせんと、“掟”の達成なんて出来ひんのどすわ」
「その“掟”っていうのは人間の世界で人間として一年過ごす……という事ですよね?」
「試しの一年、慣れての三年、卒業の十年どす。普通は自分の力だけでやるものどすが、この子は四つにもなってまともな術は何一つ出来ひん落ち零れなんどす」
「あっ……」
 その瞬間、真央は少しだけ、珠裡に親近感を持った。落ち零れ――まさか自分以外にもそう呼ばれる者が居たなんて。
「……事情はわかりました。しかし、その申し出は受諾できかねます。俺たちにも俺たちの生活があります。いきなり赤の他人の子を預けられて、それを一年続けろと言われても無理な話です」
「一応――」
 まみはにっこりと微笑んだまま、背後で六つに分かれた帯の一つを右斜め上に持ち上げると、その先端をしゅるりと巻き込んだ。さながら、“拳を握る”かのように丸まった先端は、突然目にもとまらぬスピードでヒュン、と月彦と真央の間を抜き、社の一部をあっさりと破砕する。
「うちがその気になれば、あんさんらは二秒とかからずに息の根を止められるいう事も、判断材料に入れて考えてくれはりまへん?」
「……っ……」
 それは丁寧な。とても丁寧な形での脅迫だった。月彦も、そして当然真央も足を縫いつけられたようにその場から動く事が出来なかった。
「悪い、真央。……俺が読み違えた。…………珠裡の事だから、どうせショボい黒幕だとばかり思ってたんだが……」
 この人、少なくとも春菜さん級の大物だ――ぎりっと奥歯を鳴らしながら、呻くように月彦が呟く。
「…………一つ、聞きたい。なんでうちなんだ? その術とやらはその気になれば何処の誰とでも入れ替えられるんだろ?」
「勿論偶然やあらしまへん。この町が陣を張るのに都合の良い立地やった事も理由の一つどすが……一番の理由はやっぱり“あの女の娘”が居た事どすなぁ」
「真狐との因縁か……でもそれはあんたと真狐の間だけの問題だろ。真央を巻き込むな」
「話をすり替えて主導権を握ろうとしても無駄どすえ? うちからの要求はただ一つ、再びうちの術を受け入れて珠裡の保護者として一年過ごすか、それが嫌なら大人しく死んでもらわないとあきまへん。…………あんさんには娘もえろう世話になったみたいどすし、容赦はしまへんえ?」
「……譲る気はない、ってことか。わかった……じゃあ、こっちが提示できるギリギリの条件を言う。その子を真央の代わりとして受け入れる事は出来ない。けじめが欲しいってんなら、真央じゃなく俺からとってくれ」
「そんな……父さま、何言ってるの!?」
「鶴交の陣ってやつは対象者を“誰か”とすり替えて、それを周りに気づかせない術なんだろ。……また真央の事を忘れさせられるくらいなら、拷問されて死んだ方がマシだ」
「そんなの絶対だめ! 父さまが死んだら私も死ぬ! この人達の目的は私なんだから、殺すなら私を――」
「そんなのはダメだ。まみさん……だっけか。頼む、俺の命と引き替えに真央にはもう手を出さないでくれ」
「ダメ! 父さまには手を出さないで! 私は、私は何をされてもいいから、父さまには何もしないで!」
「…………なんやえらい面倒な事になりましたなぁ。……ほなら、二人とも仲良う冥土で暮らすというのはどうどすか? 今ならまだあの女も閻魔様の前で待ってるかもしれまへんえ?」
 まみが左右一つずつの帯を高く掲げ、その先端を今度は剣のように尖らせる。あれを先ほどのように目に見えないスピードで繰り出されれば、即死は確実――月彦が覚悟を決めるように真央の手を握った。
 その時だった。

『……大丈夫。誰も死ぬ必要なんてありませんよ』

 その声は正確には“声”ではなく、直接真央の脳内に響いた。同時に辺りに白い霧のようなものが立ちのぼり、月彦も真央も、そして恐らくまみもそれに気を捕らわれた――その刹那。
 赤い炎の槍が眼前のまみの体を貫いていた。


「ママぁ!」
 真っ先に、珠裡が叫ぶように悲鳴を上げた。しかし、真央にはすぐに解った。
 “やってはいない”――と。
「っ……変わり身……ってやつ、か?」
 月彦もまた同様の感想を持ったのか、炎の槍に貫かれ瞬く間に塵と化したまみの姿を見ながら、そんな言葉を漏らす。
「そないな高尚なもんやあらしまへん。ただゆっくり避けただけどすえ?」
 そして、視界の外から聞こえた声が、直感が正しかった事を示した。見ると、手傷一つ負っていないまみがくすくすと、興味深そうに微笑んでいた。そこへさらに、何もない筈の空間に突如赤い炎の渦が現れ、渦の中心から炎の槍が連続してまみへと打ち込まれる。
 ふっ、とまみが空気が抜けるような笑みを浮かべ、そっと手を翳す。その瞬間、まみの首に巻き付いていたショールが、まるでそれ自体が生き物であるかのように蠢き、まみの手元まで這うやしゅるりと。さながら巨大な茶釜の蓋を思わせる鋼鉄の盾へと変化する。炎の槍は苦もなくその盾によって弾かれ、空気に溶けるように消滅した。
「誰だか知りまへんが、えらい挨拶どすな。顔見せへんのやったら、この二人殺してしまいますえ?」
 まみが再び帯を構え、月彦と真央を狙う――まるでその盾となるように、白い霧が収縮し、男の形へを作り上げる。
「白耀!?」
「えっ……嘘……にい、さま……?」
 若草色の髪に、雪のように白い肌。そして三つの尾――それはどうみても、兄、白耀だった。
「…………遅くなってすみません、月彦さん、真央さん。話は後です、すぐにここから逃げて下さい」
「いやでも……」
「不意打ちは失敗しました。……カムロの娘、まみ。その名は僕ですらも知っています。……正直、役者が違いすぎます。なんとか時間は稼ぎますから、その間に少しでも遠くに逃げて下さい」
「わ、わかった……すまん、白耀! お前もヤバくなったらすぐに逃げろよ!」
 白耀の様子から逼迫したものを感じ取ったのか、月彦の逡巡は長くはなかった。むしろ即座にと言ってもいい勢いで真央の手をとり、その場から逃げ出した。
「待って、父さま! 兄さま一人じゃ……」
「俺たちが残って何が出来る! 俺たちが逃げれば白耀だって逃げられるんだ!」
 確かに月彦の言うとおりであり、真央は月彦に遅れじとその場を後にする。来た道を辿って獣道を下り、傾斜のきつい場所では滑るようにして先を急いだ。
「ねえ、父さま……何処に逃げればいいの?」
「……わからん……とりあえず……白耀の屋敷を目指す。そこなら、合流もしやすい……筈だ」
 月彦の案に真央は同意しかねるも、かといって他に安全そうな場所も思いつけず、異を唱える事は出来なかった。
「しっかし、どうして白耀が……あいつも真央の事は忘れてたんじゃなかったのか?」
 月彦に事情を説明した際、当然兄白耀の事も話した。だからこそ、今回の要石壊しに関しては白耀の協力を仰がなかったわけなのだが。
「多分、だけど……三つ壊して、それで結界自体は消えなくても、結界の効力は薄くなったんじゃないかな……だから、兄さまには……」
「そういうことか。んで慌てて駆けつけてくれたってワケか………………あいつ良い奴過ぎだろ」
 月彦の声には、苦渋めいたものが含まれていた。勿論その意味の示す所など、真央には解らない。
「そろそろだ、林を抜けて麓に出るぞ。躓かないように気をつけろよ」
「うん!」
 月彦に腕を引かれ、程なく木々の切れ目から麓の町へと出る――筈だった。
「なっ」
「えっ……」
 月彦も、真央も二人して立ちつくし、絶句した。山道を下り続け、麓に出る筈が――気がついたときにはそこは元の、社のある広場だったのだから。
「月彦さんに真央さん、どうして――くッ」
 二人の姿を見た白耀もまた驚きの声を上げ――その瞬間、眼前に迫っていた剣状の帯に気がついて、咄嗟に体を霧のように霧散させる。
「面白い術使いはりますなぁ。……でも、格上と戦ってる時によそ見はあきまへんえ?」
 まみから距離をとった場所に、白耀の体が実体化する。その頬には赤い傷口が一筋、それがまるで実体化を待っていたかのように赤い雫を滴らせる。
「白耀! ……っ……何でだ、ずっと下ってたのに、なんで元の場所に出るんだよ!」
「月彦さん……まさか、それは――ッ!」
「ほらほら、ぼさっとしとったら串刺しどすえ?」
 まみの帯が触手のように伸び、再び白耀を狙う――すんでの所で白耀はその体を霧散させて回避するが、連続でその状態を長く維持することは出来ないのか、再び実体化した所を執拗に狙われ、その度に手傷を負っていく。
「っ……とにかく、逃げるしかない。真央、行くぞ!」
「う、うん……」
 月彦に手を引かれ、再び山道へと走り出す――だが、今度はものの数分と走らないうちに、広場へと“戻される”。
「な、何でだ……」
 絶句し、ぜえぜえと肩で息をしながら月彦がその場に膝から崩れ落ちる。同様に真央も呼吸の限界で、月彦に倣うようにその場に膝を突いた。
「とう、さま……もしか、したら……」
「何だ、真央……カラクリが解ったのか?」
 解った――とは認めたくはなかった。それを認めるという事は、それが正しいのだとすれば、それはもうどうあがいてもこの場から逃げられないという事を認める事にもなるからだ。
「母さまから、聞いたことがあるの……大妖狐……たとえばツクヨミ様くらいすごい妖狐になると、こうしたい、ああしたいって思っただけで、本当にそうなっちゃったりするらしいの」
 そしてその力は、“恐怖”を抱いている者に対して、より強く作用する。即ち、まみを恐れ「逃げられないかもしれない」と考える事自体が――
「何だそれ、一体どういうことだ――」
「正解どす」
 呼吸を整える事に必死で、すぐ側にまで近寄られている事に気がつかなかった。真央も月彦も慌ててその場から逃げ出そうとするが、まみの帯がしゅるりと足に絡みつき、立つ事すらも出来なくなる。
「うちが“逃がさへん”思たら、逃げられるわけあらしまへん。“力の差”いうんはそういうもんどす。…………あの兄さんもとんだ無駄死にどしたなぁ」
「そんな……兄さまァァ!」
 まみの視線の先を辿って、真央は堪らず悲鳴を上げた。そこにはまるでボロ雑巾のように切り刻まれてぴくりとも動かない兄の姿があった。
「は、白耀……てめぇ!」
「意気込むんは勝手どすけど、“その後”の事はきちんと考えとかんとあきまへんえ?」
 恐らくは、立ち上がってまみに殴りかかろうとしたのだろう――だが、足をまみの帯に絡め取られている状態ではそもそもそんな事が叶うわけがない。月彦はそのまま足を持ち上げられ――かつて真央がそうされたように逆さ吊りにされる。
「くっ、そ……」
「最後にもういっぺんだけお願いしますわ。……あんさんの娘の代わりに、うちの娘を一年間育ててくれまへん?」
「断る! ちくしょう、殺せ!」
「と、父さまぁ……」
 月彦を助けたい――しかし、真央にもどうする術も無かった。眼前の女との力量差は絶対的であり、仮に自分が一万人居ても勝つ事は出来ないのではないかという程のプレッシャーを真央は感じていた。
「ママ、ねえ、ママ……ほ、本当に殺しちゃうの?」
 そんな中、突然珠裡の声が聞こえて、真央ははっとまみの背後へと目をやった。
「…………この子らにおしおきしてほしい言うたんはあんさんどすえ。それを今更何どす?」
「お、お仕置きは……してって言ったけど、別に、殺さなくても……」
「珠裡、あんさんまさか……人間に情がわいたんどすか?」
 くるりと、まみが珠裡の方へと向き直る。それだけで、珠裡はひぃと悲鳴を漏らして尻餅をついてしまう。
「ち、違う……人間なんてどうでもいい、けど……だけど、そ……そいつらには、私が自分で仕返しをしてやりたいの! だからお願いママ、殺さないで!」
「……なんとまぁ……あんさんら、うちの娘にいったい何してくれはったん? この子がうちに逆らうなんて余程の事どすえ?」
「ずいぶんと躾のなってない娘だったんでな、代わりに躾直してやったんだ! ありがたく思え!」
 宙づりにされたままじたばたと藻掻きながら、月彦がいーっ、とまみを威嚇する。
(父さま、すごい……どうしてそんなに……)
 この状況において、何故怯えたりせずこの怖い女にくってかかる事が出来るのだろう。その勇気は一体どこから来るのだろうと、真央は不思議に思うと同時に、父親をこれ以上なく誇らしいと感じた。
「それはそれは、えらい迷惑かけましたなぁ。…………お礼は首切りでようどすか? それとも四肢切断にまけときまひょか?」
「好きにしろ! 但し真央には手を出すな!」
「そないな言い分――………………」
 そこまで口にしたまみが、不意にハッと。空を見上げた。釣られて、真央も、月彦も、そして珠裡も空を見上げた。
 夜空。そこには雲と星と月以外何も見えない。その空に、一筋の光が走った。
 まさか、と思う。しかし目を凝らせば凝らす程に“それ”が夢幻ではないという事が解る。
 流星に見えたのは、空を駆ける牛車だった。漆黒の牛に引かれたそれはさながら、平安の世の貴人が乗るような御簾のかかったもので、不意にその中から小さな影が飛び出した。
 影は、次第にその大きさを増しながら、ぐんぐんと近づいてくる。その輪郭がはっきりするにつれ、真央は両目から涙を溢れさせた。
「まぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁみぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃい!!!!!!!!!!!!!!!!!!! そぉぉぉぉこぉぉぉぉかぁぁぁぁぁぁああああああああああああああっ!!!!!!!」
 黒い影が遙か上空から、まるで隕石のようにすさまじいスピードで接近してくる。その風切り音にも負けない叫び声に、真央は真っ先に反応した。
「母さまぁぁッ!!!!」



 隕石のように飛来するその影を目で追えたのも途中までだった。突然足に絡みついているまみの帯が動き始め、真央も月彦も、そして珠裡もぽいと無造作に放り投げられる。――と同時に、けたたましい音を立てて、まみが立っていた場所に“それ”が着弾した。
「そんな……ママぁ!」
「いや、待て。……あの人ならあれくらい避けるだろ」
 土煙の上がった着弾地点へと駆け出そうとする珠裡の肩を冷静に月彦が掴む。
「その通りどすえ。……ほんま、不出来な子どすなぁ」
 珠裡の傍らにまみが姿を現し、そして土埃の方へと視線を向ける。やがて煙が晴れ、その場所に立っている者の姿が明らかになる。
 ハレンチ極まりない――露出狂と言われても仕方がない程に肌を露わにした、派手な色合いの着物。長身長髪、底意地の悪そうな顔立ち――その姿を見るなり、真央は両目から涙があふれ出すのを止められなかった。
「母さまぁ! 母さまが生きてた!」
「…………やっぱりな。そうだろうと思ってた」
 月彦がやれやれと冷めた口調で言いながらも、ホッと安堵のため息をつくのを、真央は見逃さなかった。
(あれ、でも母さまどうして……)
 ホッとしたのもつかの間、真央は新たな疑問に思わず首を傾けた。何故なら、土煙の中から現れた真狐は何故か学校にある二宮金次郎像のように大量の薪を背負っており、さらに何故か小脇には結構な大きさの豚まで抱えていたからだ。
「ふ、ふふふ、あはははは……まさか“こっち”にいるとは思わなかったわ。ずいぶん探させてくれたじゃない…………しかもなぁに? ガン首揃えて楽しそうな事しちゃって、あたしも混ぜなさいよ」
「えらい遅い到着どしたなぁ。さすが頭の回転の鈍いキツネはんどす。あんさんの居ない間、あんさんの娘でたーっぷり遊ばしてもらいましたえ?」
「は? あんた誰?」
 真狐は小脇に抱えた豚を地面に下ろしさらに薪を下ろしながら、さも初めて見る顔だと言わんばかりの顔で呟く。
「あ、まみか。ごめーん、ちょっと見ない間に顔つきがずいぶん変わってたから気づかなかったわ。そんなにブタみたいな顔してたっけ? また太ったんじゃない?」
「ふふふ……相変わらずどすな。この間痛い目に合わせたばかりやのに、もう忘れはったんどすか?」
「は? 何? ブヒブヒって豚語で言われても聞き取れないんだけど……あ、ちがった。あっちがまみか」
 真狐はこれ見よがしに足下の豚の顔の方へと耳を傾け、そして独り言を呟きながらくるりとまみの方を向き直る。
 ぴきっ、と。まみの周辺の空気が凍り付くのが、真央にも解った。
(母さま、まさか……このために豚さんを持ってきたの……?)
 人が嫌がる事をする為にはあらゆる労力を惜しまない女――父である月彦は、母真狐をそのように表した。それは正鵠を射ていると、真央も思った。
「……あいつ、まさかこの為だけに豚を……」
 月彦もまたそんな事を呟きながら呆れているようだった。
「小道具持参の小芝居、ご苦労さんどす。………………どうやら、また痛い目に遭いたい様どすな」
「ふん、この前はべろべろに酔っぱらってたからあんたのトロい攻撃でも当てられたのよ。いいからさっさとそのダッサい柄の妖具でかかってきなさいよブタ……じゃなかった、まみ!」
「…………手加減はしまへんえ!」
 まみの背に揺蕩う六本の帯が、一斉に先を尖らせ、真狐の方へと伸びる――刹那、真央も、そして月彦も珠裡も、誰に促されるでもなく大急ぎで二人の側から離れた。
「はんっ、止まって見えるわ!」
 どうやらまみは白耀と戦っている時ですら手加減をしていたらしい。真狐へと向けて伸びる帯のスピードはその比ではなく、一瞬にしてその身を串刺しにする。
 ――が、次の瞬間には、真狐の姿はふっと空気に溶けるようにかき消えていた。
「ほーらほーら! こっちよこっち、ブタさんこちら!」
 真央の目には、それはもう母の姿が分身したようにしか見えなかった。まみを中心として常時最低七人以上の真狐が小躍りをするようにしてまみを挑発し続けていた。
「っっ……あい、かわらず……逃げ足、だけは……っ……!」
 勿論まみも黙ってはいない。その六本帯をフルに使って次々に真狐の姿を串刺しに、或いは拳のように握ったそれでなぐりつけていく――が、そうして殴られたものはすべて空気に溶けるようにかき消えるだけで、およそダメージには繋がっていなかった。
 そして一瞬の隙を突いて、真狐がその右腕に炎を宿らせ、さながら弩のように炎の槍を撃ち放つ――が、それはまみのショールが瞬時に鋼鉄の盾へと変化し、苦もなく弾く。
「ちっ」
 舌打ちを一つ。真狐の動きが止まったその一瞬を狙ってまみの帯が剣のように殺到する――が、串刺しされたように見えたそれはやはり幻――残像だった。
「くすっ、“溜め”の時間なんか作らしまへんえ?」
 怒濤のようなまみの攻め――しかし、その全ての攻撃は空を切る。一方、真狐の攻撃は防がれてこそいるものの、まみの隙を突くその攻撃に対する防御はつねにギリギリだった。
 真狐のワンサイドゲーム――真央にはそう見えた。まるでその“安心”をあざ笑うように、まみの帯剣の一つがぴっ……と、真狐の頬をかすめた。
 “それ”は分身や残像ではなく本体だと、真央にも解った。真狐もまた避けきれなかったその一撃に気を取られたのか、次の回避が遅れた。
「がふっ……!」
 結果、拳のように丸まったまみの一撃をまともに腹に受け、後方に派手に吹き飛んだ。
「母さま!」
 たまらず真央が悲鳴を上げる――が、その目の前で、真狐は吹き飛びながらもバク転でもするように体制を立て直し、立ち上がる。
「よっと……情けない声出すんじゃないわよ。このあたしがこんなブタの脂肪臭い攻撃なんかで……あ、違った。まみの帯なんかで……うげぇ……」
 この期に及んでもまみをからかう事を忘れないらしい。真狐は憎まれ口を叩きながらも、さながらボディブローをしこたま受けたボクサーーのように顔を青くする。
「なかなかええのが入ってしまいましたなぁ。……その様子やと、さっきみたいには避けられまへんやろ?」
 くすくすと余裕の笑みを浮かべながら、まみがにじりっ、と距離を詰める。
「やれやれ、デブはほんと横着でいけないわね。戦闘の真っ最中でも攻撃は妖具まかせで自分はろくに動きもしないなんて。そりゃあ太るわ、見るも無惨にぶくぶく太るわ」
「…………うちはデブじゃあらしまへん。うちくらいのは“ふくよか”言うんどす」
「うわぁ、あんたっていつも鏡見ながらそうやって自分を慰めてるの? 引くわぁ……あんたがデブだからとかじゃなくて、そうやって必死に自分を慰めてる所に引くわ」
 ビキビキビキ――目に見えない所で、まみの堪忍袋の緒が切れかかっているのが、端で見ている真央にも解った。
「……ほんま癪に障るお人どすえ。そこまで言わはるんなら、覚悟は出来てまっしゃろな?」
 ジャキン!――まるでそんな音が聞こえてきそうな程に、まみの帯が硬質化し、先を鋭くとがらせ、まるでザリガニやカニなどが威嚇のポーズをするように、真狐に向けて身構える。
「なによ、あたしに喧嘩売りたいからうちの娘にちょっかい出したんでしょうが。………………狙うなら直接あたしを狙えこのクソ女がッ!」
 真狐を中心に気迫がまるで波動のように広がり、真央は咄嗟に悲鳴を漏らしそうになった。
(母さまが……本気で怒ってる……?)
 先ほどまでの遊び半分ふざけ半分の顔ではなかった。本気で、相手を殺す時の目をした母に、真央は全身の毛が逆立つような恐怖を覚えた。
 真狐がその手に炎を――狐火を宿らせる。それをまみへと放つかと思いきや、真狐は見当違いの方角へとその炎をとばした。
 炎が飛ぶ先、それは真狐が持参した大量の薪だった。それらは真狐の炎を受けて瞬く間に赤く燃えさかり、ボンと爆ぜるような音を立てて爆散した。
「なんだなんだ……!?」
 二人の様子を見守っていた月彦もまた、そんな声を上げる。事実真央にも、母が一体何をしたかったのか全く解らなかった。持ってきた薪を燃やし、ただ散らしただけにしか見えなかったからだ。
「いくわよ、まみ。…………大ヤケドさせてあげるわ」
 何かがおかしい――そう感じたのは、真狐が翳した手をまみの方へと振り下ろした時だった。
 爆散してちりぢりになった筈の薪はその実、大量に空中に舞っていただけで、それらは真狐の合図で一斉にまみの方へと向きをそろえると、まるでミサイルのように一斉に加速を始める。
「“こういうの”はあんたの盾じゃあ防げないでしょ? そらそらそらッ」
 真狐の体から、さらに赤い光が迸り、細く散ったそれらが加速中の薪に吸い込まれると、薪はたちまちジグザク軌道を取り始める。
「こないな子供だまし……うちに通用すると思てはるんどすか?」
 まみの帯が一斉にざわめき、“薪ミサイル”を迎撃し、粉々に打ち壊していく。薪の量はかなりのものではあるが、それは決してまみの帯がしのぎきれない量ではなかった。
 至極、あっさり全ての薪は破砕され、粉砕された。余裕の笑みを浮かべるまみの口元が凍り付いたのはその時だった。
「残念、気づくのが遅すぎたわね。……ボンッ」
 真狐がぱちんと指を鳴らした瞬間、まみを取り囲むように“舞って”いた薪の破片が炎に包まれ、すさまじい勢いで膨れあがり、まみを中心とした爆発を起こす。
「ばーかばーか! ただの薪だとでも思ったの? そんなワケないじゃない。あんたの為にわざわざ拷磨の森まで行って爆雷樹の薪をたっぷり拾ってきてやったのよ」
 爆雷樹――その名は真央も聞いた事がある。主に火術系の仕掛けや符の材料として使われる樹木だ。その特性は加工法によって千変万化するものの、それを“薪のまま”使うなどという話は聞いたことも、ましてや見るのも初めてだった。
 殆ど未加工とはいえ、その火力はすさまじく、まみを中心に火球のように炎が渦を巻いていた。仮に並の人間であれば、軽く骨まで燃やし尽くされそうな勢いのその炎の中から、ひゅんと風切り音を立てて突然一本の帯が鋭く槍のように飛び出してくる。それはケタケタと大笑いをしていた真狐の頬をかすめ、髪を数本散らした。
 次の瞬間、まみを中心に形成されていた炎が渦を巻き、まるで竜巻のように天へと立ち上りながらかき消える。その中心に居たまみは当然無傷ではなく、肌は煤け服は焦げ、その帯も四本にまで数を減らしていた。
「ふふ……今のはさすがにひやりとしましたわ。……なかなか面白い手品どしたえ?」
「あーら、しぶといわね。さすがデブは打たれ強いわ。皮下脂肪が豊富だから、火をつけたら簡単に燃えるものだと思ってたけど、油の質が悪いのかしら。普段ろくなもの食べてないのねきっと。デブだから質より量なんでしょ? 良かったわねデブで。痩せてたら今頃スミ屑になってた所よ?」
「人の個性をあげつらう前に、自分の事を見直しはったらどうどすか? あんさんのその無意味な脂肪の塊も火ぃつけたらよく燃えそうどすえ」
「は? まみに個性がどうとか言う資格ないし。前からずっと言おうと思ってたけど、あんた春菜とキャラ被ってんのよばーか」
「うちは思たことはきちんと口に出す性格しとります。あないな腹黒と一緒にされたらたまりまへんえ」
「ああ、そういえば春菜は誰かさんと違って足もそこそこ速かったわね。だからあたしほどじゃないけどスタイルもいいし。だれかさんと違って。ねえほらまみ、ブヒブヒ言ってないで何か言い返してみなさいよ。……あ、また間違えちゃった」
 真狐はまたしても―― 一連の騒動から怯えるように木の陰に待避していたブタに向かって話しかけ、てへぺろしながらまみの方へと向き直る。
「……戯れもそのくらいにしときなはれ。うちの我慢にも限度がありますえ」
「戯れなんてとんでもないわよ! ねえまみ、マジな話するけど、あんたもしかして生き別れの双子の妹とか居たりしない? だってほら、この子とあんたそっくりじゃない。この全身についた脂肪とか、ブタッ鼻とか、たるんだ腹周りとかさ。ねえあんた、試しにブタ語で話しかけてみなさいよ。ひょっとしたら本当に妹かもしれないわよ?」
「…………っっっっ……………………!」
 あっ、切れた――端で傍観している真央にも、母の最後の一押しでまみが“切れた”のが解った。
 それはもう見事なまでに、ぷっつーーんと。
「こ、の………………」
 ぷるぷると唇を震わせながら、まみは全身に怒りの炎を漲らせる。――否、それはもはや比喩ではなく、青白く燃えさかる確かな炎だった。
「ダボがァっ! ボテクリ回すゾワレェ!」
 それまでの穏やかな様子とはあまりにかけ離れた言葉遣いで叫ぶや否や、真央は見た。まみの背後で揺れていた帯が竜巻のように渦を巻き、巨大な――まるで灯台かと見紛うようなサイズの拳を作り上げる。それらはまみの体から迸った妖力の光を受けて鈍色を放つ金属のそれとなり、大きく振りかぶるや、落雷の如きすさまじいスピードで真狐へと打ち下ろされる。
  が、真狐もそれをのんびり棒立ちで受ける筈もない。拳が着弾する直前に――恐らくは充分な余裕をもって回避をしたのだろうが、着弾した瞬間の爆風のような煽りを受けて俄に空中でバランスを崩した。
 その一瞬を、まみは見逃さなかった。
「逃がさへん言うとるやろが!」
 ギンッ!――まるでそんな擬音が聞こえてきそうなほどの鋭い眼光で、まみが睨み付ける。その刹那、まみを中心として不可視の波動が同心円状に広がり、辺りを“灰色”に染め上げていく。
 あれはヤバい――真央は直感でそう感じた。
「ダメぇ! 母さま逃げて!」
 しかし真央の叫びもむなしく真狐はあっさりとその波動に飲み込まれた。そして真狐を飲み込むや、波動は逆回し再生のようにまみに向かって収縮し、最後にはまみ自身も飲み込んで消えた。
「そん、な……母さまが……」
「ママが……消えた……?」
「…………何が起きたんだ?」
 三人が三人とも茫然自失と立ちつくしながら呟く。――“答え”は意外な方向から舞い込んできた。
「あれは……“幻界”です」
「にーさま!?」
「白耀!? 生きてたのか!」
 背後を振り返るなり、真央が、次に月彦が快哉を上げた。
「すみません、心配をかけてしまったみたいで……っ……」
「ていうか、大丈夫なのか? お前全身ボロボロだぞ」
 そう、月彦の言うとおりだった。白耀の着物は全身ズタボロに切り裂かれ、顔も腕も切り傷だらけだった。その体が仄かに赤い光に包まれているのは、妖力によって治癒を促進しているからに他ならない。
「いえ、見た目ほどには酷い怪我ではありません。…………僕にもよく解らないのですが……どうもあの人は最初から僕を殺す気はなかったようです」
「殺す気がなかった……?」
「ええ、実際幾度と無く僕は死を覚悟しました。力量差は歴然で、殺られると解っていても、僕にはそれを防ぐ術が無かった。でも、“致命の一撃”は来なかった―― 一度や二度ではありません。それこそ、幾度と無く」
 悔しげに呟きながら、白耀は唇を噛みしめる。
「あの人と僕では、人間に例えるなら格闘家と赤ん坊ほどに力の差がありました。殺す気なら、それこそ一瞬で殺せた筈です。でも、そうはならなかった。今にして思い返せば、むしろ“うっかり殺してしまわないよう”に細心の注意を払われていたんじゃないかとすら思えるくらいに、丁寧な攻撃でした」
「……確かにな。……あの人がその気なら、俺だって……」
「それなら、私も……」
 初めて会った夜――まみに殺意があれば、それこそあの場でどうとでも出来た筈ではないか。
 それならば、何故自分たちは生かされたのだろう。
(そして、どうしてエトゥさんは……)
 目の前で焼き殺された友達のことを思うと、真央は胸の奥がキュウと痛んだ。
「…………で、白耀。話を戻すけど、その幻界ってのは何なんだ?」
「幻界というのは、高位の妖狐が使う――いえ、まみのように妖狐以外でも使う者は居ますが、例えるなら“自分の世界”です」
「自分の世界……?」
「はい。……その、恥ずかしい話、僕には使えない術ですので、具体的な説明は出来かねるのですが……なんでも莫大な妖力を行使して特殊な空間を作り出す術なのだそうです。古くは大妖狐が強敵と出くわした際、邪魔の入らない場所で一騎打ちをする為に用いた――と伝えられてます」
「なるほど……ようはアレだな。“おう、てめぇ白黒はっきりつけてやっから、ちょっと放課後ツラかせや! タイマンすっぞ!”って事だな!」
「ま、まぁ……そのようなものだと思っていただければ……」
 白耀が困ったような顔で笑う。その時にはもう、その体の怪我は殆どが回復しきっていた。
「ていうか、珠裡。さっきから白耀の顔を見たまま黙り込んでるけどどうしたんだ? まさか一目惚れか?」
「えっ……ち、違うし! なんで私がこんなヒョロっちぃ妖狐の男なんかに…………第一、私はもう……好きな人、居る、し……」
「へっ……? なんだそりゃ……初耳だぞ! 何でもっと早く言わなかったんだよ!」
「うっさいバカ! なんでそんな事までバカ屑人間に言わなきゃいけないのよ!」
「何でってお前……好きな人がいるんなら……“アレ”はまずいだろ、知ってたらさすがに他の手段を考えたのに…………」
 あ、これは自分が聞いてはいけない情報だと、真央は瞬時に理解した。
「兄さま、元気出して」
「えっ……えぇ……ありがとう、真央さん」
 地味に“ヒョロっちぃ男”発言でダメージを受けたらしく、肩を落としてしまっている兄を慰めるフリをしながら、真央はそっと月彦と珠裡の二人から距離をとる。
(…………母さま、大丈夫だよね?)
 もし戻ってきたら、何故あのとき“通信”に答えてくれなかったのか。そして叶うなら、何故まみは真狐を殺した等と嘘をついたのか。二人に聞いてみようと、真央は思った。



 真狐とまみの二人が異界へと消えてから一時間が経過し、さらに二時間、三時間が経過した。
 日はとっくに暮れており、さして標高があるわけではないものの山の中はさすがに冷えた。やむなく一部分の草をむしり取って土を露出させ、そこにたき火を起こして暖を取りつつ二人が戻るのを待つ事にした。もちろん、四つ目の要石の解除はとっくに済ませてある。
 真央も、そして恐らく月彦も消えた二人の安否についてはさほどに心配はしていなかった。心配したからといって何がどうなるわけでもない――という理由も、むろんあるが、少なくとも真央は違う理由で心配はしていなかった。
(だって、母さまだもん……)
 久しぶりに顔を見て、はっきりと確信した。あの母親が負ける筈がない。ましてや死ぬ筈がない。きっと無事に戻ってくる筈だと。
「……なぁ、白耀……このブタどうする?」
「耳にタグがついてます。きっとどこかの農場から盗んだものでしょう……後日僕が盗まれた所を探して戻しておきますよ」
 どうやらブタも寒いらしく、暖を求めるようにたき火の側でぶいぶいと鳴いていた。可愛いけど、ちょっと臭いからあまり側にはこないでほしいなと、真央はそんな事を思う。
「ていうか、白耀……お前店とかは大丈夫なのか? この時間帯ってモロ営業時間だろ?」
「ははは、そうですね……いきなり飛び出してきましたから、店のほうはさぞかしてんやわんやでしょうね。正直、戻るのがちょっと怖いです」
「ねえ、兄さま。兄さまはどうして来てくれたの? 最初は私の事忘れちゃってたのに」
「…………やはりそうだったんですか。本当に申し訳ない事ですが、術にかかっていた間の事は殆ど覚えていないんです。いえ、日常の事とかはきちんと覚えているのですが……真央さんが尋ねていらした事などは、おぼろげにしか」
 突然思い出した件については、やはり要石を無効化し、結界の力が弱まったからだろうと――当然白耀は月彦らがそのようなことをしているとは知らなかったわけだが、説明を聞いて時間帯的にもそれがきっかけなのだろうと頷いた。
「記憶や認識を操るのが鶴交の陣だもん。術を解除したら私たちが入れ替わってた事なんてだーれも覚えてないよ」
 “当事者”と“一足先に気づいた者”以外は――珠裡は体育座りをしたまま口をとがらせて言った。
「そういや珠裡、今更だがお前もまみさんもなんで真狐を殺したなんて嘘をついたんだ?」
「…………そんなの私にもわかんないよ。だって、ママがそう言えって言ったんだもん」
 ぷいと、珠裡は拗ねるようにそっぽを向く。
「珠裡…………残念だな。“こんな形”でさえなけりゃ、真央のいい友達になれただろうにな」
「うるさい! うるさい! 誰が妖狐なんかと友達になるもんか! き、気安く頭を撫でるなぁ!」
 がるるるるっ――歯をむき出してわめきながらも、珠裡は月彦の手の届く範囲から逃げたりはせず――それどころかたき火を囲んで座る時もちゃっかり月彦の隣を確保していて――頭を撫でられ続けて次第に大人しくなる。
 自分も珠裡とだけは友達になんかなれない、なれる気がしないと、さすがに口には出来ないまでも心の中で呟いて、真央はじっとたき火の炎を見つめる。
 きゅう、と。誰ともなく腹の音が聞こえたのはそんな時だった。
「そーだ! 今日は弁当もってきてたんだ、すっかり忘れてた!」
「えぇっ、父さま、お弁当なんか作ってたの!?」
「いやぁ、今日はほら、一日外に居る事になるだろうって思ってな。……弁当って言うほど立派な物じゃあないんだが……」
 月彦はリュックをあぐらのうえに置き、中からアルミホイルで包まれた塊を三つ取り出した。開いてみると、それはややいびつな形をしたおにぎりだった。三個いりのものが二つに四個入りのものが一つの計十個
「中身はうめぼし、おかか、あと塩だ。……本当は鮭にしたかったんだけど、冷蔵庫に入ってなくってさ。白耀も腹減ってるんじゃないか? 俺の分二個ずつ分けて食おうぜ」
「……ここで断るのは野暮になりますね。……すみません、頂きます」
「あとこれ、おしぼりと麦茶だ。ちゃんと手を拭いてから食うんだぞ。コップは蓋のこれしかないから、飲んだら隣にまわしてくれな」
 月彦はさらに水筒を取り出し、隣の珠裡に手渡す。何故反対側の自分の方じゃないのかと、真央は一瞬ムッとするが、勿論顔に出したりはしない。
(……きっと、珠裡ちゃんの方が年下だからだ)
 実年齢五才である真央よりも、四つの珠裡の方が一応は年下だ。月彦が珠裡を優先させたのはただそれだけが理由に違いない。
 
 さながら、キャンプファイヤーでもするかのような団らんの一時は、突如。空気を直接叩くような、ドォン、ドォン!というけたたましい音によって中断された。
 雷鳴とも違うその音は“二人”が消えた辺りから響いていて、そして唐突に――まるで空間自体が裂けたように亀裂が走り、そこから二つの影が同極の磁石が互いを弾き合うようにそれぞれ逆方向に飛び出した。
「母さま!」
「ママ!」
 二つの影は草の上を転がり、しばらくはぴくりとも動かなかった。が、やがて片方が立ち上がると釣られたようにもう片方もよろりと立ち上がり、対峙する。
「っ……たく、この……デブ…………っとにタフ、なんだからぁ……」
「はぁ……はぁ……あんさんにだけは……負けるわけには……いきまへんえ……」
 見れば、二人ともズタボロ。どちらの衣類も裂けたり焦げたりで無事な場所を探すほうが難しい程だった。その顔もまるで試合後のボクサーのように青あざが出来たりひっかき傷があったり腕や足には歯形までついていて、真央ら一行がのどかに団らんしていた間中、二人が血みどろの死闘を繰り広げていたのは明らかだった。
「……二人とも、今日の所はそこまでにしてもう止めにしましょう」
「あ゛ぁん?」
「あ゛ぁ?」
 さりげなく二人の間に入ろうとしうた白耀が、一斉に睨み付けられて忽ち硬直する。
「も、もう戦える状態ではないのは、自分でよく解っている筈です。今日の所は痛み分けという事で」
「じゃあ、このシマシマデブ女が背中に火のついた薪をたっぷり背負ってひぃひぃ泣きながら這い蹲って土下座して謝るなら、ここで手打ちにしてやるわ」
「したら、うちはあんさんが牛みたいに鼻輪つけて、モォモォ鳴きながら牛の真似して謝るなら手打ちにしますわ」
「ふ、二人とも……そんな事言ってたら……」
「あーあー……待て、白耀。ここは俺に任せろ」
 ずいと、白耀の肩を掴んで後ろへと下がらせ、月彦が前に出る。否、正確には月彦に背を押される形で、真央と珠裡が前へと出される。
「ほら、二人とも説得してこい」
 どん、と強く背を押され、真央は戸惑いつつも真狐の側へと駆け寄る。
「母さま……お願い、もう止めて?」
「……………………あんたは、それでいいの?」
 真狐はつまらなそうに、それだけを聞いてくる。真央は一瞬逡巡するも、即座に頷いた。
(だって……母さまが生きてたんだもん)
 これ以上続ければ、“そうではなくなる”かもしれないのだ。となれば、真央にはもう選択の余地は無かった。
「……………………解ったわ」
 ふぅ、とため息混じりに、真狐が体の力を抜く。と同時に、がくりとその場に座り込んでしまう。本当は立っているのもやっとの状態だったのだと、真央は瞬時に理解した。
「ぁ……そうだ、母さま……一つだけ、どうしても聞きたい事があったの」
「何よ」
「私、何回も母さまと連絡取ろうとしたんだよ? それなのにどうして応えてくれなかったの?」
「はぁ? あたしはただの一度も“着信”なんて受けてないわよ」
「でも、でも! 何回やっても――……」
「どーせあんたの事だから、十円玉の裏表間違えてたとかそんなんじゃないの?」
「あっ――」
 言われて、真央はハッとした。十円玉を“表”でセットすれば、それは“発信”状態であり、“裏”でセットすれば、それは着信待ちの状態になる――その事をすっかり失念していた。
「まさか……本当に間違えてたっていうの!?」
 自分で口にしたとはいえ、さすがに信じがたいと言わんばかりに真狐が声を裏返らせる。
「えへへ、ごめんね……母さま」
「えへへじゃないわよ! あんたがもっと早くに知らせてたらっっ…………ったく…………ほんとにしょーがないんだから……」
 こつん、と軽く頭を小突かれ、真央は目尻が熱くなるのを感じた。そして珠裡とまみの方へと目をやると、どうやらあちらも“説得”に成功したらしく、がっくりとその場に座り込んでしまっていた。
(あっ……)
 その時、真央はハッと思い出した。真狐に「それでいいの?」と聞かれてうなずきはしたが、ただ一つだけ。譲ることが出来ないものがあった事を。
「あのっ!」
 さながら、親族の葬式の準備に追われ寝る間も惜しんで音頭をとり続け、漸く全てを滞りなく終了させ、疲労困憊で座り込んだ喪主のようになってしまっているまみに、真央は勇気を振り絞って詰め寄る。
「……何か用どすか?」
「え、エトゥさんに……謝って、ください!」
 一度失われた命は、何をやったところで戻る事はない。ならばせめて、まみに心からの謝罪をしてもらう事こそが、エトゥへの償いになると、真央は思った。
「えとぅ……さぁ、知らん名前どすな。ひょっとして……あの小人はんどすか?」
「そう、です……謝って下さい!」
 くすくすと、まみは意味深な笑みを浮かべるばかりで謝る気配など微塵も無かった。やはりダメなのかと、真央が諦めかけた時だった。
「…………なんぼうちでも、子供の仕置きの為に殺生なんてしまへんえ」
 まみはそう言い、側に落ちていた枯れ葉を一つ手に取るや、それをボウと青白い炎で燃やす――しかしその実、燃えたはずの枯れ葉はまみの逆の手へと移動していた。
「あんさんを脅かすために利用しただけどす。少しばかり眠ってもらって、後で事情を聞いたらえらい困ってはるみたいどしたから、ハルちゃんに頼んで薬処方してもろて持たせてやりましたわ。……あの腹黒、ヒト助けやー言うとんのにふんだくりよってからに……えらい散財どす。小人はんになんぞ礼してもらわんと割に合いまへんわ」
 今日の昼、出来た薬と一緒に里の近くまで送ってきた所どす――やれやれとため息混じりに、まみが言う。
「えっ……じゃ、じゃあ……エトゥさんは……生きてる、の?」
「そういえば、あんさんに会うたら伝言してほしいー言うてましたな。……“再会を祈ります、また一緒に演奏しましょう”……確かに伝えましたえ?」
「ぁ……」
 まみの伝言で、真央は漸くエトゥの生存を確信する事が出来た。何故なら、もしあの場で本当に焼き殺されていたのならば、まみがそのことを知っている筈が無いからだ。
(エトゥさんが……生きてる!)
 その瞬間、真央にはもう目の前の二人を恨む気持ちは微塵も無くなった。
「でも……だったら、どうして…………母さまを殺したって……嘘を……」
 まみが悪人ならぬ悪狸であるのならば、今回の一連の騒動も理解が出来る。しかし“そうではない”のなら、何故そんな事をしたのかという疑問が沸くのを真央は止められなかった。
「……くす、ただの気まぐれどす。前々からアイちゃんの末娘の顔は一度見てみたい思てましたし、ちょっと意地悪するついでに珠裡の“通過儀礼”も済ましてまおて横着しただけどす。……ぎょうさん邪魔がいらはったけど、なかなか面白い喧嘩どしたえ」
 あぁしんど――そんな声を漏らしながら、まみはゆっくりと立ち上がる。ボロボロだった衣類が傷の回復と共に徐々に修復しつつあるのは、ただの衣類ではなく妖力によって作り上げられた衣類だからなのだろう。
「日も暮れたようやし、今日の所は大人しゅう帰りますわ。……珠裡、あんさんには問いたださんとあかん事がぎょうさんおます。覚悟しときなはれ」
「ひぃっ……ままごめんなさい!」
 謝りながらも、珠裡はぎゅっとまみの袖を掴み、身を寄せる。
「ほな。またそのうち顔見せにきますわ」
 しゅるるっ――若干復元した帯がまみと珠裡を円錐状に包み込み、再びしゅるしゅると帯が戻ったその場所には、もうまみの姿も珠裡の姿も消え失せてしまっていた。
「……あー………………俺たちも帰る、か」
 月彦の言葉をきっかけに、一同もまた下山を始めた。


 豚を白耀に任せ、真央は月彦に連れられて帰路についた。てっきり母も一緒に帰るものだとばかり思っていたのだが、気がついたときには母親の姿はどこにもなかった。
 帰り道、月彦は殆ど口を開かなかった。まるで何かにせき立てられるように早足で歩くので、真央も息を弾ませながら必死にその後ろをついていかねばならなかった。
 どうやら、葛葉はまだ帰ってきていないらしい。家には一切の明かりがついていなかった。月彦も、そして真央も別段その件については気にもせず、家の中へと入る。
(……あれ?)
 家の中へと入り、玄関の鍵をかけた瞬間。何故か真央は自分が檻の中にでも入れられたような、そんな錯覚を覚えた。それも、ただの檻ではない、まるで獰猛な肉食獣かなにかの居る檻に、“エサ”として放り込まれたような――。
「…………。」
 ざわりと、スカートの下で――外では隠していた――尻尾が波打つようにして姿を現す。そのまま、もぞもぞとスカートの下で尻尾がざわめくのを、真央は止められない。
「真央、腹減ってないか?」
 さっきのオニギリだけでは足りないだろうという、月彦の気遣いなのだろう。真央は早くも呼吸を乱しながら、小さく首を振った。
「そ、っか。……んじゃ、俺も食わなくていいや」
 父親の様子は、普段通り――それこそいたって普通の一言だ。だがしかし、一体いつそれが“豹変”するのか、その瞬間を想像して、真央はゾクゾクが止まらない。
 そう、“体”の方は早くも予感していた。この後、自分の身に降りかかるであろう事を。
「じゃあ、風呂にするか。俺が準備してくるから、真央は部屋で休んでていいぞ」
「う、うん……わかった……」
 はぁ、はぁ。
 ふぅ、ふぅ。
 そんな熱っぽい息づかいを必死に隠しながら、真央はやや覚束ない足取りで二階の自室へと戻る。
 部屋着に着替えようかと思うも、すぐに風呂に入るのだからその必要もないなと。クローゼットの前で考えていた時だった。
「きゃっ!?」
 突然背後から抱きすくめられて、真央は思わず悲鳴を漏らしてしまった。
「と、父さま……? あ、あれ……だって、お風呂……」
 一体いつのまに背後に回られたのか、足音どころか気配すら感じなかった。月彦はそのままぎゅうううっ、と。真央が呼吸すら出来ないほどにきつく抱きしめてくる。
「……悪い、真央。…………もう、限界なんだ」
「限界……? ぁっ……」
「一昨日、真央の事を思い出した時から、真央とヤりたくてヤりたくて……ずっと我慢してたんだ。でも、“今回のこと”が片づくまでは、って。タヌキ共を追い出したら、その時のご褒美にしようって、我慢してたんだが……限界、だ」
 真央の体を抱きしめていた手がわさわさとうごめき、セーターの上からむぎゅうううっ、と両胸を掴んでくる。
「せめて、風呂に入るまでは耐えようって思ってたんだが……でも、もう無理だ。真央の方から、そんな風にエロい匂い振りまきながら誘われたら理性なんかブッ飛んじまう」
「ぁ……ち、違う、の……私、は……別に……」
「真央、そこで“良い子”ぶるのはズルいぞ?」
 肩の後ろ辺りで苦笑が聞こえ、そのままぐるりと真央は視界が反転するのを感じた。軽い衝撃と共に、背中がベッドへと着地し、間髪置かずに月彦に組み伏せられる。
(あぁぁ……!)
 ゾクゾクゾク……!
 押し倒され、見下ろされる。ただそれだけのことなのに、真央は声が出そうな程に背筋が震えるのを感じた。
(ぁぁ……好きぃ……父さまに、こうやって見下ろされるの、大好き……!)
 これから何をされるんだろう。
 どうされてしまうんだろう。
 様々なことを妄想してしまい、真央は瞬く間に肌を上気させてしまう。
「……さっきの感触、真央……今日はブラを付けてるな?」
「う、うん……だって、珠裡ちゃんと出かけるって父さまが言ってたから……」
「まあ、そうだな。いくらなんでも、いつでもノーブラで居ろっていうのはさすがに、な」
 苦笑しながら、月彦はセーター越しに胸に触れてくる。揉む、というよりは、文字通り触る、といったほうが正しい手つきだった。
(ぁっ、ぁっ……やっ……父さまぁ……もっと、むぎゅうって……むぎゅうってシてぇ……!)
 真央はもどかしげに身をくねらせるが、下着の上からではそれが難しい事を知ってもいた。何故自分は部屋に上がるなりすぐに下着を外さなかったのだろうと、その事ばかりを後悔してしまう。
「……ところで真央、今日、これからの事なんだが」
「な、なに? 父さま」
「今日は特別に、好きなときに、好きなだけイッてもいいからな」
 えっ、と。真央は絶句に近い形で言葉を詰まらせた。
 好きなだけイッてもいい――それは、いわゆる最上級の“ご褒美”の一つだったからだ。
「……俺が妖狸の術なんかにかかっちまったせいで、真央には辛い思いをさせちまったからな。せめてものお詫びだ」
「そんな……父さまは悪くない、よ……悪いのは、あの人達なんだから」
 何せ、三本狐である兄白耀ですらも術に落ちたのだ。ましてや、一般人――と言っていいのかどうか難しいが――の月彦では抗う事などできないだろう。むしろ、時間がかかったとはいえ、自力で術の影響下から逃れた事の方が、真央には信じがたかった。
「いいんだ。とにかく俺がそうしてやりたいんだ。…………真央、今夜はどうして欲しい?」
 今夜だけは真央の我が儘を何でも聞いてやるぞ?――暗に仄めかされて、真央は飛び上がりそうな程に嬉しい反面、微かな失望も感じていた。
(……ダメ……折角、父さまが私の為にそう言ってくれてるのに……)
 長くシてなくて“溜まっている”のは真央も同じだった。だからこそ、最大級の“意地悪”でたっぷりゾクゾクさせられた後、骨まで溶けてしまうような甘い、甘いエッチが望みだったりする。
 それが最初から“あまあま”では――
「どうした、真央。……なんか不満そうだな」
「えっ……そ、そんなこと……ないよ?」
 やや気分を害したような月彦の声にどきりとしながら、真央は慌てて取り繕う。
 ――が。
「わかった。……じゃあ、どっちが良いか真央に選ばせてやろう。“簡単にはイかせないエッチ”と“好きなだけイッてもいいエッチ”。真央はどっちがシたい?」
「えっ……そ、それは……」
 ゾクッ……。
 そんな微かな身震いと共に、真央は徐々に息を弾ませる。
(父さま……ひょっとして……)
 口にも、態度にも出していない筈だった。
 それなのに。
「ほら、真央。簡単だろ? 好きな方を答えればいいんだ」
 笑顔のまま促されて、真央はますます呼吸を乱してしまう。
 はぁ、はぁ。
 ふぅ、ふぅ。
 大きな胸を揺らすように上下させながら、ごくりと唾を飲む。
「わ、私は……父さまの、す……好きな方、が……いい、な」
「ダメだ。真央が自分で選ぶんだ」
 あぁぁ――!
 まるで飼い犬でも躾るような、月彦の冷たい声に真央はゾクゾクが止まらなくなってしまう。
 やっぱり、気づいている。
 “これ”こそが、“本当の望み”なのだと。
「わ、私は――」
 声を震わせながら。
 瞳を潤ませながら。
 真央は答えた。
「イけない、エッチのほうが……いい……な」


「“好きなだけイッてもいい”よりも“イけないエッチ”の方を選ぶのか。…………真央はやっぱりドMだな」
「やっ……父さま……そんな風に言わないでぇ……」
「ドMと言われてますます息を荒げてるくせに、認めないのか?」
「ち、違う……私、は……マゾじゃ……ない……」
 はぁ、はぁ、はぁ……。
 真央は肩で息をしながら、必死に首を振る。両手でその巨乳を抱きしめるようにしながら身もだえし、スカートの下では執拗に太股を擦り合わせる。
(あぁ……父さまぁ……早く、早く触ってぇ……!)
 ドMと罵られながら乳首を思い切りつねられたら、それだけでイッてしまうかもしれない。――否、イきそうな程に感じることはできても、絶対にイく事はできないだろう。何故なら自分の体は、父親にそのように躾られてしまっているのだから。
(私が、触って欲しいって思ってるから……)
 だから、逆に月彦は何もしてこないのだ。ただただ冷たい――特権階級である貴族が、小作農民でも見るような――目で見下ろしながら言葉で嬲ってくるだけなのだ。
 それがなんとも焦れったくて堪らないと、真央は思う。
「マゾじゃない、か。……さて、どうすれば真央に認めさせる事が出来るのかな」
 月彦が、意味深な笑みを浮かべる。その笑みを見ているだけで、真央は腹の奥がキュンと疼き、イきそうなほどに興奮してしまう。
 きっとその笑みの向こうでは様々な“悪い考え”が渦を巻き、妄想の中で自分はこれでもかという程に犯され、いたぶられているのだろう。そう、さながら“紺崎真央”という名のあめ玉を舐めしゃぶるように、その料理法を吟味されてるの違いない。
(あぁぁ……父さまの頭の中で、私……スゴい事されてる……の?)
 その“試行錯誤”を直接自分の体に試してくれればいいのに――そんな無茶なことまで真央は考えてしまう。
「んー……そうだな、真央……こういうのはどうだ?」
 熟考の末、月彦が取り出したのは――真狐が昔置いていったケースの中に入っていた――革製のアイマスクだった。以前にも何度か使ったことがあり、装着すると視界は完璧に封じられるという事を真央は知っていた。
 手始めに視界を奪われ、さらには拘束までされるのだろうか――そんな想像にゾクゾクしながら、真央は大人しくアイマスクを装着される。
 が、真央の予想に反して、手足の拘束はされなかった。
「あ、れ……父さま……?」
 それどころか、アイマスクを装着し終わるや、月彦の気配すらも周囲から消えてしまった。真央は嗅覚と聴覚で月彦の存在を探るが、室内に居るらしいという事は解るも、それ以上の位置については全く解らなかった。
「と、父さま……どこにいるの?」
 真央は恐る恐る、手探りで周囲をさぐる。しかし、ベッドのシーツ生地やめくられた掛け布団ばかりで、肝心の月彦の体にたどり着けない。
 にたりと、耳元で悪い笑みと共にそんな声が聞こえ、真央の体は再びベッドの上へと押し倒される。セーターを捲し上げられ、露出したブラを力任せにはぎ取られる。
「やっ、い、痛っ…………」
 そして、露出した胸をむぎぅぅう、と強く掴まれる。視覚を封じられる為見る事はできないが、恐らくは月彦の指の間から白い肉が盛り上がるほどに強く握られているのだろう。
「痛いくらいのほうが良いくせに。……先っぽもピンピンに硬くなってるぞ、真央?」
「やっ、……ひぎっ……ぁ、ぁぁぁぁあああ!」
 先端をキュッと強く掴まれ、そのまま抓るように持ち上げられて、たちまち真央は背を反らせ浮かせながら声を上げる。
(やっ、イくッ……イッちゃう……!)
 放置プレイ兼おあずけの焦れも相まって、真央は自分が限りなく絶頂に近い場所まで押し上げられるのを感じた――が、無論イく事は出来ない。
「真央、勝手にイくなよ。…………自分でそっちがいいって選んだんだろ?」
 くつくつと、耳元で悪い笑みが聞こえる。それが、真央の中の“ゾクゾク”をますます強くする。
 乳首抓りは長くは続かなかった。そうして月彦の手が離れると、どういうわけか月彦の存在自体もかき消えたように気配が探れなくなった。或いは、そういう特技を体得しているのかもしれない。
 そうして存在を消しておいて、不意に――。
「ひゃんっ」
 突然耳を舐められ、しゃぶられ、内耳をれろれろとなめ回される。かと思えば、唐突に愛撫が止まり、気配も消える。真央が次の愛撫に備えて気構えしているうちは、絶対に何もされない。
 が、ひとたび気を緩めると――。
「やっ、父さま……くすぐったいよぉ……」
 今度は手を、足を、全身を撫で回される。火照った肌はそうやって撫で回されるだけで心地よく、真央は声を震わせてよがる――が、それも唐突に止まる。
「やぁぁ……父さまぁ……焦らさないでぇ……!」
 もうすっかり全身が出来上がり、火照った肌が暑苦しいまでになっている。汗が浮き、珠のような雫となって滴り落ちる。
「じゃあ、自分がマゾだって認めるか?」
 はい、認めます――うっかりそう返事をしてしまいそうになって、真央はハッと唇を噛む。
 そして、ゾクゾクと背筋を震わせながら、答えた。
「ち、違う……私は、普通……だもん……」
「まだ認めないのか」
 苛立たしげな、それでいてどこか嬉しそうな月彦の声に、真央の中のゾクゾクがさらに増す。
「やっ……父さま、何、を……」
 俯せに寝かされ、両腕が後ろ手にタオルかなにかで拘束される。そして尻尾を掴まれ、ぐいと尻だけを持ち上げるような、姿勢にさせられる。
 あぁ、これは尻尾を弄られて焦らされるやつだと、真央が予想し、“それ”に備える――が、予想したような刺激はいつになっても襲ってこなかった。
「えっ……あれ……とう、さま……?」
 尻尾をさんざんこしゅこしゅされて焦らされるプレイではないのかと、真央が困惑したその時だった。
 唐突に、下着が膝下まで下ろされた。
「と、父さま……!? やっ……ひぎっ……」
 慌てて身じろぎしようとする体を押さえつけられ、またしても唐突に、肉の槍が体を貫くのを感じた。
「か……はっ……」
 見えていれば。
 予想できていれば、心の準備も出来ただろう。
 しかし。
「どうした、真央。……“予想と違う”とでも言いたそうだな?」
 いきなり挿れられるとは思わなかっただろう?――言外にそう言いたげな父親の声に、真央は喜びに打ち震えていた。
「んぁっ、ぁぁ……やっ、い、いきなりぃ……く、苦しっ……あぁぁ!」
 視界を奪われ。
 両腕を拘束され。
 背後から、獣のように犯される。
 そんな“限りなく本物に近いレイプ”に、真央は身震いが止まらない。
 月彦もまた、娘のそういった性癖を知り尽くしているかのように態と乱暴な手つきで、半ば爪を立てるように両胸をもみくちゃにし、尻が鳴るほどに強く剛直を抉り込んでくる。
「あぁっ! あぁっ! あぁぁ! ンンッッ!!」
 声を上げていた頭を掴み上げられ、そのままマクラへと押しつけられる。声を上げるどころか呼吸すらままならず、真央は身をよじって暴れるが、それすらも圧倒的な力によってねじ伏せられる。
(あぁぁぁぁぁぁ………………!)
 ゾクゾクゾクゾクゥ――!
 自分は、父親に強姦されている。
 牡として発情した父親に、一匹の牝として犯されている。
 そのことを実感すればするほどに、真央は己の中の快感が増していくのを感じる。
「……どうした、真央。こんな風に乱暴にされて興奮してるのか?」
 もう膝まで濡れるくらい溢れさせてるぞ?――そんな意地悪な言葉を囁かれながら、真央はさらに犯される。
「っ……なんだ、言葉責めも好きなのか? ますます吸い付いてきてるぞ……っ……ほら、真央……今、自分の体がどうなっているのか説明してみろ」
「せ、せつ、めい……? んぁっ……ふぁぁっ……やっ、父さまっ……そこ、ソコだめっ……あぁぁあっ!」
「説明してみろ、と言っている」
 ずんっ、と一際強く奥を小突かれる。
「あぁぁ……とう、さまの……かたくて、おっきいのがぁ……真央の中で、ずんずんって暴れて……あぁぁぁ!」
「それだけじゃないだろ? 俺にそういう風にされて、自分の体がどうなっているのかを説明してみせろ」
「と、父さまに……乱暴に、されて……私の――」
「インランでマゾな、が抜けてるぞ」
 ゾクゥッ……!
 父親の意地悪な囁きに、真央は危うくイきそうになってしまう。
「い、インランで……マゾな……真央の、いやらしいところが……父さまの、に……キュッ、キュッって……吸い付いて……父さまが動くたびに、引っ張られるような感じが、して……」
「いやらしい所じゃ解らない」
 えっ――と。真央はゾクゾクと背筋を震わせながらも絶句する。
(あぁぁ……父さま……そこまで言わなきゃいけないの……?)
 ゾクッ、ゾクゥッ!
 より辱め、貶めようとする月彦に、真央は興奮を禁じ得ない。例えどれほど恥ずかしい事であっても、それを父親が望むので在れば、真央には選択の余地はなかった。
「あっ、あっ……と、父さまに、犯され、て……ま、真央の……真央の、いやらしい……お、……おま…………」
 かぁ、と。顔が火を噴きそうな程に上気するのを感じる。
お、おま…………こ…………が………………
 消え入りそうな声で呟いた時だった。唐突に、くすりと。耳の後ろの辺りで含み笑いが聞こえた。
「真央、イけ」
 えっ、――そんな声を漏らすよりも早く、月彦が再び抽送を始める。
「あっ、あっ、あっ……!」
 真央の腰のくびれを掴み、まるで極太の杭でも打ち込むかのように。
「あぁっ! あぁっ! あぁぁ!」
 剛直が挿入されるたびに、真央の意思とは無関係に肉襞が絡みつき、文字通り吸い付くようにして締め上げる。そこを月彦が強引に腰を引くと、文字通り内蔵を引っ張り出されるような、そんな錯覚さえ、真央は覚える。
「あっぁぁっ、やっ……とっ……さまっ……イ、イッくっ……ほんとにイッ………………あァァーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーッ!!!!」
 真央が声を上げてイくのと同時に、月彦も同時に果てたらしい。びゅうっ、と灼熱の白濁が下腹に満ちるのを感じて、真央はさらに二度、三度と立て続けにイかされる。
「あーーーーーーッ!!! あーーーーーーーッ!!!!!」
 獣のように声を荒げることしかできない。背後からぎゅうっ、と月彦に抱きしめられたまま、真央は全身を痙攣させ、イき続ける。
「ふーーーーっ…………ふーーーーっ…………真央、悪いな……本当はもうちょっとゾクゾクさせてやって、楽しませてやる予定だったんだが」
 射精が終わり、呼吸を整えながら、月彦が“普段の声”で囁いてくる。
「さっきの……恥ずかしがってる真央がメチャクチャ可愛くてな……俺の方がイきそうになっちまったんだ」
「ぁっ……そんな……父さま……」
 真央もまた、先ほど自分が口走りそうになった単語を思い出して赤面する。
「だ、だって……今まで、あんな事……」
「確かに、な」
 また苦笑。そして、アイマスクが外され、両手の拘束も解かれる。
「ぁっ……父さま……」
 そして、ぐるりと体の向きが変えられ、仰向けに寝かされる。視界が開け、愛しい愛しい父親の顔を見るなり、真央はつい笑顔を零してしまう。
「ほら、真央。……あれくらいじゃ全然足りないだろ?」
 真央は笑顔のまま頷き、そして両手を月彦の後頭部へと回し、自ら招くようにして唇を重ねた。



 甘い甘い時間が、続いた。
「あっ、あっ、あっ、あっ!」
 正常位のままゆっくりと、時には激しく。緩急をきわどく織り交ぜながら突き上げられ、真央はひっきりなしに声を上げさせられる。
「あぁっ! あぁぁあっ! とう、さまぁ……もっと、もっとぉ……おっぱいむぎゅってしてぇ!」
「なんだ、まだ足りないのか?」
 月彦が苦笑して、抽送のたびにたっぷたっぷと揺れる白乳をむぎゅっと掴み、粘土細工のようにこね上げてくる。
「あぁぁぁぁっ、いいっ……父さまに、おっぱいむぎゅうってされるの好きぃ……あぁぁぁ!」
 ヒクヒクヒクッ――!
 まるで乳を捏ねられる事自体がスイッチであるかのように、肉襞が蠢き、ギュウウと剛直を締め上げるのを感じる。
「……っ……」
 自分を見下ろす父親の顔が、俄に苦しげになるのを、真央は見逃さない。さらにキュッ、キュッ、と意識的に締め上げると、月彦の顔を覆っている脂汗の量は目に見えて多くなった。
「こーらっ、真央……俺を虐めて楽しいか?」
 冗談っぽく、月彦が怒ったような声を出す。
「俺だけ先にイかせようとするなんて、悪い子だな、真央は」
 呟いて、月彦の右手が髪を撫でてくる。そのまま自然の流れで唇が重なり、重なりながらにゅぐり、にゅぐりと剛直が真央の中を抉ってくる。
「ンンンッ! ンンッ、ンゥ!!」
 先ほどまでとは違った“ゾクゾク”に、忽ち真央はイきそうになる。が、必死に堪えながら、月彦の腰に足を絡め、自ら腰をくねらせて月彦を迎え撃つ。
「っ……こ、こらっ……真央っ……だからっ……」
「なぁに? 父さま」
 堪りかねたようにキスを中断させて文句を言う月彦を、真央は悪戯っぽく見上げる。
「っ……ちょっ……真央のナカって……こんなに…………だ、ダメだ……一端抜――……」
 慌てて剛直を抜こうとする月彦の腰に絡めた足を、勿論真央は離したりなどはしない。何もしらない幼女のようなおどけた笑顔を浮かべたまま、その実精を搾り取ることを生業としている淫魔のような腰使いで――
「くああぁ…………!」
 月彦がなんとも情けない声を上げた瞬間、びゅるっ、とまるで詫びるような弱々しい勢いで白濁汁が漏れるのを、真央は感じた。
「…………〜〜〜〜っ……………………格好悪ぃ……………………いいか、真央! これだけは言っとくぞ!……………………ず、ずっとシてなくて溜まってただけだからな!?」
 慌てて取り繕うように言う月彦を前に、真央は喜怒哀楽のどの感情も籠もらない顔できょとんと見上げてみせる。
(…………でも、父さま……珠裡ちゃんとシたんだよね?)
 だったら“溜まってる”のは言い訳にならないと、真央は思う。
「……ねえ、父さま…………次は私が上になってもいい?」
「…………………………どうぞ」
 先ほどの“早漏っぷり”で余程ばつが悪いのか、月彦は意気消沈したように頷いた。真央はそのまま月彦の体を押す形で、今度は仰向けにねた月彦の上に自分が跨る姿勢になる。
「んっ……父さま……今度は私がいっぱい気持ちよくしてあげるね」
 先ほどたっぷりゾクゾクエッチを楽しませてもらったお礼だと言わんばかりに、真央は腰をくねらせ始める。
「んおぉ…………お、お手柔らかに、な…………ほ、本当に久しぶりだから……くはぁぁぁぁ……」
 確かに、いつもより快感に弱いように真央にも思えた。こうして上に跨り、見下ろしていると尚更だった。
(…………父さまに、意地悪したい……)
 ゾクリと、先ほどまでとは違った“ゾクゾク”が背筋を駆けめぐる。
(でも、どうして……? 私、父さまに良い子だって思われたいのに……)
 ここで意地悪なんかしたら、とてもそうは思ってもらえないのに。それでも、意地悪をしたいという気持ちがどんどん己の中で大きくなっていくのを、真央は感じた。
「ねえ、父さま……今度は父さまがコレつけて?」
「えっ……俺が……か?」
 余程予想外の要求だったのだろう。が、月彦は渋々ながらも、先ほどまで真央が装着していたアイマスクを自ら装着する。
「…………これ本当に何も見えないな。真央、これでいいのか?」
 うん、と頷いて、真央がゆっくりと腰を動かし始める。正直なところ、何故月彦にアイマスクを付けさせたのか、真央自身にも解らなかった。
「はぁっ、はぁっ……んっ…………とう、さま……気持ちいい?」
 ぐちゅ、にちゅ、にちゃ、にちゅ。
 腰を動かすたびに、白濁液と愛液の混じったものがごぽりと溢れ、泡立ちながら糸を引く。腰を振る真央もまた、硬い肉槍で蜜壺をかき回される快楽に徐々に頭の芯がとろけていくのを感じる。
「あ、あぁ……すっげー良い……やっぱり真央のナカが一番、だ……」
 それは珠裡ちゃんと比べて?――そんな言葉をうっかり口にしかけて、真央は慌てて唇を噛む。
(やだ……私、嫉妬、してる……)
 漸くにして、真央はそのことを自覚する。いつになく意地悪をしたいと思ってしまうのも、或いはそのせいかもしれないと。
(父さまに、意地悪したい…………)
 快感で頭がとろける程に、それは抗いがたい誘惑となる。自分の下で、父親がひぃひぃと喘ぐ様が見てみたいと思う。
(だめっ……だめ……そんなこと、したら……)
 後で、必ず“お仕置き”をされる。そうに決まってる。
 でも――
「あんっ、あんっ……はぁはぁ……ねえ、とう、さま……?」
「な、なんだ? ッ……真央……」
「珠裡ちゃんと、エッチ……したの?」
 ぎょっと、月彦が体を強ばらせるのが剛直越しに伝わる。それだけでもう、質問には答えてもらったようなものだった。
「えーと……なんつーか……か、勘違いするなよ? アレはほら、不可抗力っつーか……くっ……」
 ギュウウッ、と。意図的に真央は剛直を締め付ける。
「くはぁぁぁぁっ…………ま、真央……ひょっとして怒ってるのか?」
「………………? 怒ってないよ?」
 真央はきょとんと、首をかしげて見せるが、無論それは月彦には見えない。
 そして事実、怒ってなどいないと真央は思っていた。確かに父親の言うとおり、それはあのタヌキ娘を追い払う為に必要な処置であり、最適な判断だという事は、真央も理解しているからだ。
 だから、怒っていないはずだと、真央は思う。
「ねえ父さま」
「な、なんだ?」
「珠裡ちゃんとは何回くらいシたの?」
「何回って……だから、シたのは、昨日の夜一回だけ……」
「珠裡ちゃんの中に、何回くらい出したの?」
 真央は質問を変えながら、さらにギュウゥゥゥ……と剛直を締め上げ、小刻みに腰を前後させる。
「ぁぐっ……や、やっぱり怒ってるだろ、真央!」
「怒ってないよ。質問に答えて、父さま」
「お、覚えてない……」
「覚えてられないくらい、出したの?」
 はぁはぁと。真央もまた息を荒げながら、徐々に腰の動きを早めていく。
(私の、父さまなのに)
 “コレ”を、珠裡も味わったのだと思うと、全身から火が出そうな程に憎たらしいと感じる。
「ま、真央……許してくれ……」
「許す? 何を許すの? 父さま」
 ぐっちゃ、にちゃ。
 にちょ、ぐちゅ。
 腰を大きくグラインドさせ、剛直をまるで六角レンチのように回しながら、真央もまた息を弾ませる。
(父さま……父さま……私の、父さま……!)
 その想いを込めるように、真央は情熱的に腰を使い、髪を振り乱す。
「くっ……ま、真央……やばっ……そんなに、され、たら……」
「父さまっ、父さまっ……父さま、父さま…………あぁぁっ!!」
 キュウと締め上げながら腰を持ち上げ、叩きつけるようにして落とす。剛直に吸い付いた肉襞のせいで、体の内側を引っ張られるような感覚が心地よく、真央もまた高みへと上り詰める。
「父さまっ、父さま……父さま……父さまっ…………父さまっ……あぁぁぁァァーーーーーーーーーーーーーーッ!!!!」
「くっ……!」
 最後の瞬間、月彦が腰を掴み、己の方へと引き寄せるような仕草をする。グリュッ、と剛直の先端が子宮口へと押し当てられ、びゅぐ、びゅぐと白濁液が打ち出される。腰を押さえつけられて浮かせないのに、そのあまりの勢いに子宮だけが浮かされそうになるほどの勢いで白濁液を注ぎ込まれ、真央は声を震わせ、喘ぐ。
「あああぁぁぁぁ……ぁはぁぁぁぁ……!」
 体の芯までとろけそうになる、中出しの快楽。真央はそのまま脱力して月彦に被さり、唇を重ねる。
「んふっ、んんっ……んんっ……」
 重ねながら、自ら腰をくねらせ、白濁汁を自らの肉襞へと塗り込んでいく。
「んはぁぁっ…………ねぇ、父さまぁ……もっと、もっとシて…………おねがい、父さまぁ……」
 あの妖狸娘よりも、何倍も激しく抱いて――そう目の光りに込めながら、真央はおねだりをする。
 わかった、とは月彦は言わなかった。変わりに行動で――真央を納得させた。


「あーーーーッ!!! あーーーーーッ!!! あーーーーーーーッ!!!」
 両胸をもみくちゃにされ、さらに剛直で膣奥を小突かれながら、真央はイく。
「どうだ、真央。“いつもとは違う”のも悪くはないだろ?」
 背面座位――ベッドの端に腰掛けた月彦の上に、背を向ける形で座らされ、さらに両足を月彦の膝に引っかけるようにして広げられていた。
「あぁぁぁぁ……父さまぁ……もっと、もっとシてぇ……!」
 イかされながら、真央はさらにねだる。月彦が苦笑しながら、乳をこね回していた手を結合部へと這わせ、ぷっくりと勃起している淫核をキュッと摘む。
「あーーーーーッ!!!」
 ぴゅっ、ぴゅるっ。
 結合部から潮を吹きながら、真央がさらにイく。体をひねり、キスをねだると月彦もまた応じ、舌を絡め合う。
「ンくっ……んぁぁっ、んふっ……んんっ、んんっ!」
 そうして舌を絡ませながら小刻みに腰を使われ、真央は小さく三度ほどイかされる。
「ふぁっぁぁあっ……あぁぁっ、あぁぁぁぁっ! ぁぁぁっ、ぁああぁっ!!」
 そうしてキスが終わったかと思えば、体が弾むほど激しく突き上げられる。両胸を再びむぎゅむぎゅと強く捏ねられ、反射的に剛直を締め上げ、絡みついた肉襞を振り切るようにさらに突き上げられる。
「ぁああぁっ、あぁっ、あぁぁぁっ!!」
 ぐりんと、視界が変わる。気がつくとベッドから下ろされ、絨毯の上に四つんばいにさせられていた。
「あっ、あっ、あっあっ!!」
 そのままパン、パンと尻が鳴るほどに強く突き上げられる。背後から一方的に犯される快楽に全身から力が抜け、真央は自然と上半身を絨毯の上に伏せるような姿勢になる。そうして伏せた所を、上から両手首を絨毯に押さえつけられ、ゾクリと興奮をかきたてられる。
「ひはぁぁぁ……とう、さまぁ……やっ、スゴ……んぁあっ、……だ、め……意識、トんじゃ……あーーーーーッ!!!」
 事実、小刻みな失神を繰り返していたのかもしれない。時折記憶が飛んだかと思えば、いつのまにか体位が変わっているのだから。
「はぁーーーー……はぁーーーーっ…………とうさま、父さまぁ…………ンンッ、んんっ……」
 そして気がつくと、再びベッドへと持ち上げられていて、体を横向きに寝かされ、片足を月彦の肩に抱え上げられて突き上げられていた。そのまま唇を奪われ、舌を絡めながら――犯される。
「んふぅ……んんふ……んっ…………ふはぁっ……と、さま……アレっ……アレして……」
 意識を混濁させながら、真央は涎まみれの声でさらにねだる。月彦が苦笑したのが解った。
 体位が、正常位へと変わる。そこからさらに腰が持ち上げられ、月彦の膝の上へとのせられる。
 そして。
「あぁあっ、あっ! そ、そこぉ…………ソコ、好きぃ…………あぁぁぁぁ!!!」
 臍の裏の辺りを剛直の先端でゴリゴリ削られ、真央は腰を跳ねさせながら声を荒げる。
「あーーーーーーッッ! あぁぁーーーーーーッ!!! もっと、もっとソコ擦ってぇ……真央のザラザラしてるところ、いっぱいシてぇ!」
 わめくようにねだりながら、真央はさらにイく。ビュッ、ビュッと時折潮まで吹きながらイかされる。
「っっ……ヤバい……真央、出す、ぞ」
 そんな最中で、月彦の言葉を辛うじて聞き取れてのは、或いは暁光だったのかもしれない。
 おかげで、真央は“その瞬間”に備える事ができた。
「あぁっ、ぁぁっ、出してぇ……父さまぁあっ、熱いの、いっぱい……びゅうって、真央の奥に、いっぱい……いっぱい……あーーーーーーーーーーーーーーッ!!!!!」
 ………………。
 …………。
 ……。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 ――翌朝。
 
「いやぁ、いい朝だ」
 いつも通りの時間に起き、いつも通りの時間に朝食を摂り――いつのまにか葛葉は帰宅していたらしく、朝にはいつも通りに朝食の支度をしていた――いつも通りの時間に家を出る。
 睡眠時間などほぼ無いに等しかったにもかかわらず――イコール夜通しで体を動かし続けたにもかかわらず――全身を包むけだるさ以上の力が漲っているのを感じる。
 そう、長らく不足し続けていた“何か”が漸くにして満ちたのだ。
(本音を言えば、まあまだシ足りないんだが……まぁそれは家に帰ってからで)
 んーっ、と玄関の前で両手の指を組み、手のひらを空に向けるようにして伸びをする。その傍らには、真央の姿はない。日直だとかで、月彦より三十分ほど早く家を出たためだ。
(なんか、いろいろウヤムヤに終わった気がするけど……まぁ、少なくとも当分は大丈夫だろう)
 去り際、「また顔を見せに来る」とまみが言っていたのが気にはなるものの、それを心配してもしょうがない。真狐と喧嘩がしたいなら、俺たちを巻き込まないようにやれ、と思うばかりだった。
「ともかくこれで平和な日常が――痛っ」
 いざ通学路を歩まん!――と月彦が歩み出し、塀の角を曲がって道路へと踏み出さんとしたその時。何かが後頭部を直撃した。
「てて……なんだ…………桃……?」
 振り返ると、足下には僅かにひしゃげた桃が落ちていた。月彦は後頭部を撫でさすりながら桃を拾い、周囲を見回してみる。
 当然桃の木などは無く、ましてやそれを投げつけてきそうな人影も見あたらない。
「…………真狐の悪戯か?」
 つくづくどうしようもないやつだと、月彦は心中で愚痴を零しながら桃を通学路途中の空き地へと放る。
 一日が終わり、学校から帰る際にも同じ空き地の側を通るわけだが、その頃にはもう桃の事など毛ほども頭の中には残ってはいなかった。


 

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