「これは胃癌ですねー」
「が、癌……ですか!?」
 突然の“告知”に、月彦は堪らず声を上げた。
「さらに詳しく言うならボールマンW型、スキルス胃癌ですねー」
「……すみません、ええと……それってヤバいんですか?」
「えぇーとぉ……なんて申し上げたら良いかー…………とりあえず、レントゲン写真を見て頂けますー?」
 てきぱきと、女医は机の上の蛍光板にレントゲン写真を貼り付け、ぱっ、と灯りをつける。
「これがー、ポン崎さんの胃なんですけどー……」
「えと……すみません。ポン崎じゃなくて紺崎です」
「ああ、はいはい。そうでした。でぇ、これが紺崎さんの胃なんですけどー」
「……はぁ、これが……」
 女医に示された写真を見るなり、月彦はぎょっと息をのんだ。それは素人目に見ても、到底まともな胃の形には見えなかったからだ。
「それでぇ、この影になってる部分なんですけどー」
「……? すみません、どの部分ですか?」
「ですからー、この部分が胃でぇ、この黒い影になってる部分が――」
「先生、レントゲン写真が上下逆です」
 見るに見かねた、とでもいわんばかりに、傍らに立っていた看護婦がぽつりと小声で指摘する。
「あらー」
 女医はまるで目当ての虫を見つけた子供のような声を上げ、写真をいったん取り外し上下を反転させて指し直す。
「それから、紺崎さんのレントゲン写真はこちらです。……その写真はスキルスの資料用のものです」
 あらー、と。またしても女医は黄色い声を上げて、些かばつが悪そうに丸メガネをくいくいさせたあとレントゲン写真を入れ替える。
「……えーとぉ。これは胃潰瘍ですねえ」
 そして、いったんカルテへと視線を落とした後、何事も無かったようにそんな診断を下した。
「…………胃潰瘍、で間違いないんですね?」
 安堵が半分、不安が半分。安堵したのは勿論癌などではないと分かったからであるし、不安なのは大丈夫かよこの医者、と思ったからだった。
「そうですねー。これはもう完ッ璧に胃潰瘍ですねー。……最近なにか大きくストレスを感じるような事とかありましたかー?」
「……ストレス……一応心当たりはあります」
「ならそれが原因ですねー。見たところまだお若いのに大変ですねー」
 なんとも人ごとのように――事実人ごとなのだが――女医は言う。
「とりあえずお薬出しておきますから、一日三回、食前と食後に飲むようにしてください。もし痛みが収まらなかったり、酷くなるようでしたら改めて来院なさって下さい」
「はぁ……分かりました」
 仮にそうなった場合、少なくともこの病院だけは来まい、と月彦は頷きながら密かに思った。
「そうそう、言い忘れましたけど、結構胃の粘膜が荒れてるようなので、しばらくはおかゆとか、なるべく胃に優しい消化の良いものを食べるようにしてくださいねー。間違っても暴飲暴食なんかはしちゃだめですよー?」
「分かりました、極力心がけます」
 月彦は軽く頭を下げて、診察室を後にした。


(……やっぱり、病院はしっかり選ぶべきなのかもしれない)
 診療所を後にし、併設されている薬局で恐らく胃薬の類だろうと思われる薬を受け取りながら月彦はそんな事を考えていた。
(…………なんとなく、学校からの帰り道の途中にあるからってだけで、この診療所を選んでしまったが……)
 胃潰瘍という診断は本当に正しいのだろうか。一応他の病院でも診てもらったほうがいいのではないか……。
 薬局から出ると、既に日が暮れかけていた。今から他の病院に行くべきかどうか、月彦は俄に悩み――。
「…………姉ちゃんの病院に行ってみるか」
 そんな結論に達した。

 

 

 

 

 

『キツネツキ』

第三十八話

 

 

 


 三十分ほど歩き、月彦は姉の入院している病院へと到着した。が、肝心の診療時間が終了してしまっていて、当初の目的を果たす事はできなかった。
(……まぁ、仕方ないか)
 しかし、不思議と落胆の念も、無駄足を踏んでしまったという怒りも何も沸かなかった。
 代わりに。
(…………ついでだから、姉ちゃんの見舞いでも行くか)
 即座にそう思考を切り替えると、不思議と足取りすらも軽くなった。受付で手続きを済ませ、階段を段とばしで上り、いざ姉の病室のドアノブを握ろうとした瞬間。
『ああァッ……!』
 部屋の中から突然そんな叫び声にも似た声が聞こえ、月彦はびくりと全身を硬直させた。
『ふぁァッ……ぁっ、やめっ……あっ、あああァァッ!!』
 さらに続けて、そんな声が響く。月彦は咄嗟に周囲を見回し、身構えてしまった。
『あぁっ、ぁっ、んふっ……んんっぅ……ぅぅぅ……ぁぁっ……やうっ、指、あぁぁっ……そ、そこはぁあっ……あひあぁぁぁッ!!』
 立て続けに聞こえる、女性のあられもない声。月彦にはすぐに、室内で何が行われているのかを理解した。何故なら、自宅の姉の部屋のドアの前で何度も“似たような経験”をした事があるからだ。
『ああァッ! ぁあっ、ァッ……やぅっ……ンンッ……そん、なっ……声、なんて……抑えられ、なっ……やあっ……や、止めっ……止めっないでぇぇ……お姉様ぁぁ……!』
 はしたなく喘ぐ女の声に遮られてか、霧亜の声自体は全く聞こえない。聞こえないが、恐らくは「そんなに大声を出したら外に聞こえてしまうでしょ?」的な事を言っているのではないかと、月彦は推測した。そして、声を抑えないのならば、続きをしてやらないとも。
『はぁ……はぁ…………ねぇ、お願いお姉様ぁ……続きしてぇ……もぅ、彼氏とのセックスなんかじゃ満足できないのぉ……私のからだ……お姉様じゃないとダメなのぉ……』
 ドア越しでもハッキリと、女のあられもない“おねだり”聞き取れる。その後、しばし小声でのやりとりが続いて――。
『ンぁぁっ! ぁひぃ……!』
 唐突に、叫び声が響いた。
『はぁ、はぁ、はぁ……ふやぁぁぁっ……あはぁぁあっ……お、お姉様ぁぁあっ……あヒぁッ……ぁうう……ぁぁぁッ、す、スゴっ……あはあああうッ!! やっ、そ、ソコはらめぇえっ……も、頭真っ白になるぅぅ……あぁぁっ、はひぃぃっひぁあああああッ!!』
 そして、さらにドアを震わさんばかりに大きくなる。
『やぁぁあっ、らめっ、らめっ、そこ、やぁぁあっ、あぁぁぁあっ、ああああっっ!! ああああァァァァーーーーーーーーーーーーーーッ!!!!!』
 最早、絶叫。そうとしか表現出来ないような声を上げて、途端に声が途絶える。どうしたものか、と月彦が固まったまま思案していると、唐突にドアノブが回った。
「…………!」
 咄嗟に月彦は走り、物陰へと身を隠した。病室から出てきたのは若い看護婦だった。明らかに着衣が乱れており、濡れた瞳に陶然と惚けたような顔は、かつて何度か目にした、姉の部屋から出てきた女性のそれにそっくりだった。
 看護婦はすっかり濡れそぼった下着を片足首に引っかけたまま、まるで雲の上でも散歩しているかのようなフラフラとした足取りで廊下の奥へと消えていく。
「……姉ちゃん、相変わらずスゴいな」
 やはり、姉にはとても敵わないと、月彦は改めて思い知った。或いはこれが霧亜以外の女性であれば、なにくそと張り合う気も起きるのかもしれないが、不思議と月彦にそういった感情は沸かなかった。
(…………しかし、困ったな)
 ドアノブを握る事に逡巡を覚えたのには、無論理由があった。どういうわけか、昔から霧亜の部屋からああやってフラフラになった女性が出て行った後というのは、極限に近いほどに姉の機嫌が悪いのだ。幾度と無く不用意に話しかけて、その都度酷い目に遭った苦い記憶が沸々と蘇ってくる。
(…………思い切り蹴り飛ばされて、肋骨にヒビ入れられた事もあったっけな、そういえば)
 常識的に考えれば、このまま回れ右をするのが正しい判断なのだ。触らぬ神に祟りなし、そう、このまま帰るのが一番安全で無難な道――。
「……姉ちゃん、俺だけど」
 であるのに、気がつくと月彦は病室のドアをノックしてしまっていた。機嫌の悪い姉は恐ろしい。そのことは骨身に染みるほどに理解している筈であるのにも関わらずだ。
「あー……姉ちゃん。入るぜ」
 当然のように返事はなく、月彦は一応断ってから室内へと入った。先ほどの蜜月の残り香だろうか、室内には甘酸っぱい香りが充満しており、月彦は思わず口を覆った。
 そっと衝立の影から覗くように中の様子を伺うと、ベッドに腰掛けた霧亜が小さなタオルで不自由そうに片手を拭っているのが見えた。その仕草がまるで泥水でも拭っているかのように乱暴で、やはり姉の機嫌は良くないのだという事を、月彦は間接的に悟った。
(…………姉ちゃん、まだ両手が自由にならないのに)
 片手でアレかと。しかも、霧亜には着衣の乱れ一つ無かった。殆ど一方的に(しかも片手で)手込めにしてしまったのだろう。姉の技量に改めて月彦は驚嘆しつつ、その様子を見守った。弟の視線に気がついたのか、不意に霧亜が手を拭うのを止め、月彦を見た。霧亜は何も言わず、まるで目配せでもするように窓の方へと視線を移した。
 すぐさま月彦は動き、鍵を外して窓を開ける。考えての事ではない、長年の“躾”の賜だった。
 忽ち、冬場の冷たい寒気が部屋の中へと吹き込んでくる。カミソリのように身を斬りつける冷たい空気と引き替えに室内に籠もっていた甘酸っぱい香りは雲散霧消し、月彦はほんの僅かだけ姉の機嫌が良くなるのを肌で感じた。
「何の用?」
 そして、姉に声をかけてもらえたことで、その直感は間違っていなかった事を確信した。同時に、姉の問いに対して適切な――姉を不機嫌にさせない正当な――理由を持ち合わせていない事にも気がついた。
「……いや、えーと…………なんとなく、姉ちゃんの顔が見たくなって」
 等という本音は、口が裂けても言えなかった。口にすれば、それは間違いなく姉の機嫌を著しく損ねるであろう事が分かり切っていたからだ。
「……ちょっと用事で近くまで来たからさ。ついでに寄ってみた」
「…………。」
 霧亜は何も言わない。が、心の底から鬱陶しそうな顔をする。
(…………良かった。いつもの姉ちゃんだ)
 姉の様子が気になっていたのは、ひょっとしたらあの後優巳が何かしらちょっかいを出してきているのではと危ぶんでいたせいもあるのだが、どうもそういう事は無いらしい。最も、何かあったとしても姉がそれを悟らせてくれるかどうかは分からないが。
「……じゃあ、そろそろ俺は帰るよ」
 互いに黙り込んだまま、三分ほど立ちつくした後、月彦は唐突に切りだした。窓を閉め、病室を後にしようとした矢先――
「それは何?」
 姉の言葉で、月彦の足は止まった。
「……姉ちゃん?」
「ポケットに入ってるのは何?」
 ぽけっと――と、月彦は慌てて自分の腰回りを探った。
(あっ)
 と、そこで気がついた。薬局で貰った胃薬その他が入っている薬袋をブレザーのポケットに突っ込んでいたのだが、それが1/3ほどはみ出ていたらしいという事に。
「べ、別に……何でもないよ」
「………………。」
 霧亜が、無言で松葉杖に手をかける。殴られる!――そう思った瞬間、月彦は弾かれたように声を上げる。
「わ、分かった! 言うよ! ただの胃薬だって! さ、最近ちょっと胃の調子がおかしくって、さっき診てもらってきたんだ」
「見せなさい」
 渋々月彦はポケットから薬袋を取りだし、霧亜に渡す。まるで弟の言葉などひとかけらも信頼していないような手つきで、霧亜は掌に中身の薬を出し、処方箋の文章を熟読する。
「本当に胃潰瘍なの?」
「た、多分……医者はそう言ってたけど……正直ちょっと怪しいっていうか――」
「返すわ」
 月彦の発言を切る形で霧亜はぽいと放るように薬袋を投げ、そのままごろりとベッドに横になってしまう。月彦はホッと安堵のため息をついて、今度こそ病室を後にした。


「父さま、お帰りなさーい!」
「おおうっ」
 どごぉ!――自宅のドアを開けて靴を脱ぎ始めるなり、いつになく強烈な愛娘の体当たり兼フライング抱きつきを腰を落として受け止めるも、衝撃を殺しきれずに月彦は背中をドアに強かに打ち付けた。
「た、ただいま……真央……」
 背中よりも、弱った胃がキリキリ痛むのを感じながら、月彦はそれでも笑顔で真央の頭を撫でてやる。
「あのねあのね! 今日ね、由梨ちゃんちで一緒にお菓子作ったの!」
「お、お菓子……?」
「うん! 父さま、来て」
 ぐいぐいと部屋着姿の真央に腕を引かれる形で、月彦は自室へと連れてこられた。真央は真っ先に勉強机の上に置かれていたちょっぴりおしゃれな紙袋に手を突っ込み、中身の菓子を月彦の目の前にぢゃん!と効果音つきで突きつける。
「ま、真央……それは……」
「うん、ドーナツだよ、父さま」
 そう、真央が取りだしたのは紛れもないドーナツだった。まだ仄かに暖かい生地にはたっぷりと砂糖がふりかけられており、溶けてシロップのようになっているそれが今にもしたたり落ちそうだった。
(うぷっ……)
 匂いを嗅いだだけで、胃がキリキリと悲鳴を上げるのが分かる。月彦が思わず顔を背けてしまうと――
「父さま、食べて食べて! すっごく美味しいから!」
 まるで先回りをするように、真央がぴょんと平行移動をする。
「……わ、分かった……」
 無用の心配はさせたくない――そんな思いから、吐血してしまった事は真央には伏せている。葛葉にだけは胃の痛みを訴え、診療代をもらいはしたものの、やはり症状の重度については伏せたままだった。
(そうだ……真央を心配させないためなら……ドーナツの一個や二個……)
 月彦は真央の手からドーナツを受け取り、満面の笑顔でかぶりつく。
(うぐ……!)
 噛みしめた瞬間、口の中いっぱいにジュワァ――と広がる甘い油の味に、思わず全てを吐き出してしまいたくなるも、月彦は懸命に堪えた。
「おお、本当に美味しいな。真央もすっかり料理上手だな」
 笑顔すら浮かべて、汚れていない方の手で頭を撫でてやりながら、月彦は美味い、美味いと連呼しながら辛くもドーナツにかぶりつき、飲み込んでいく。
(あ、油が……)
 手作り、だからだろうか。それは今まで食べたどんなドーナツよりもギトギトした油で満たされていて、恐らく万全の体調であっても胃もたれは確実ではないかと危ぶみたくなるほどだった。
 しかし、どんな障害も親子の愛の前には敵わない。月彦はドーナツを残らず腹に収め、指についたシロップをぺろぺろ舐めながら、俺ってカッコイイとちょっとだけ悦に入っていた。
 そう、まるで――そんな月彦を罰するかのように。
「はい、父さま。こっちも食べてみて! すっごく美味しいよ!」
 真央が、二つ目のドーナツを取り出す。これまた見るからに油ギトギトの、シロップたっぷりの、半分がチョコ、もう半分に砕いたナッツをまぶされたドーナツだった。
「ま、まだあったのか…………悪い、真央。もうすぐ夕飯だしさ、あんまりこういう腹に溜まるのは……」
「…………父さま、食べてくれないの……?」
 うるっ、と。忽ち真央が瞳を潤ませる。
「もしかして、さっきのドーナツ、本当は美味しくなかったの?」
「ま、不味いわけがないだろ!? 滅茶苦茶美味かったけど、ほら、母さんが晩ご飯の準備してるみたいだし――」
 しかし、どれほど言葉を重ねても、真央の両目に溜まった涙の量は増えこそすれ減ることがない。月彦に残された道は一つしかなかった。
「しょ、しょうがないな…………ったく、晩飯食えなくなったら真央のせいだからな? むぐっ……んぐんぐ…………ンンンっ、これも美味い! 最高だ!」
 一つ目に勝るとも劣らない油まみれのドーナツを口いっぱいに頬張りながら、月彦は満面の笑みで声を上げた。
「……本当?」
 大泣きする寸前の所で辛うじて止まったというような、そんな掠れた声で、真央が上目遣いに尋ねてくる。無論、月彦は大きく頷いた。
「俺が真央に嘘をつくわけがないだろ? ほーら、もう食べちまった」
 月彦は笑顔のまま辛くも二つ目のドーナツを平らげる。そう、まるで過剰に摂取してしまった油分を放出するかのように、全身から脂汗を流しながら。
「良かったぁ、あのねあのね、もう一つとっておきがあるの!」
「え゛……とっておき?」
 うん!と笑顔で頷く真央に、月彦は全身が石になるのを感じた。
「最初の二つはね、本当は由梨ちゃんが作ったドーナツなの。私が作ったのは……これだよ、父さま!」
「ぶふっ……!」
 真央が取りだしたのは――まさしくラスボスという表現が当てはまるような、凄まじいものだった。
 恐らくベースになっているのはドーナツ生地かなにかなのだろう。クッキング用の銀皿に乗せられた生地の上にごってりと乗せられた生クリームがとぐろを巻き、色とりどりのチョコチップと共に頂点にサクランボが乗せられたそれを目の当たりにするなり、月彦は思わず二歩ほど後退りをしてしまった。
「あのねあのねっ、このお皿のところにね、父さまへの秘密のメッセージを書いたの! 全部食べたら読める仕組みだよ!?」
「お、おう…………それは、是非読んでみたいが……………………い、今食べないとダメか?」
 一か八か、月彦は尋ねてみたが、真央からの返事は無かった。代わりに、みるみるうちに両目に溜まっていく涙が、真央の手から生クリームと油と砂糖の塊をひったくらせ、月彦の口へと押し込ませた。
「ぐおおおおおおおおおおッ!!!」
 まるで手負いの獣のような叫び声を上げながら、月彦は一心不乱にむしゃぶりつく。最早、世辞など言っている余裕は無かった。文字通り命をかけなければ、この難敵を消滅せしむることは能わないと思ったからだ。
(あ、あと少し……後少し……)
 キリキリ痛む胃と吐き気に涙すら滲ませながら、それでも月彦は必死になって食らいつき、そしてやっとの事で全てを己の口に、そして手負いの胃へと収める事に成功した。
「み、見たか……ちゃんと食べたぞ、真央?」
「………………………………? 父さま、何を食べたの?」
「何って……アレ?」
 気がつけば、目の前に真央の姿は無かった。はてな、では今の声は一体――と、月彦は背後を振り返り、部屋の入り口にきょとんとした顔の真央を見つけた。
「あれ、真央……なんでまた制服に着替えて――……」
「私は今帰ってきたばかりだよ、父さま」
「……なんだと!?」
 じゃあ、さっきのは、まさか――月彦は不意に、己が手に持っている、先ほどまでドーナツ(?)が乗っていた銀皿へと視線を落とした。
 銀皿にしては一部分だけが不自然なまでに磨き込まれ、顔が写るほどに光沢を放つその部分を矢印が指し、さらに大きく油性マジックで、幼稚園児が泣きながら書いたような下手くそな文字で“バカの顔”と書かれていた。
「お、お、お、お…………」
「と、父さま……どうしたの? 具合悪いの?」
 棒立ちしたまま、不自然に体を痙攣させる父親の尋常ではない様子を見かねたのか、真央が鞄を放り出して慌てて駆け寄ってくる。
「ぐぶぶ……だ、ダメだ……真央、早く離れ――」
「……え?」
 真央がきょとんと首を傾げたその瞬間、月彦の体は限界を超え、さながら噴水塔のそれのように吐き出された液体は綺麗な虹を描き――。
「きゃーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーッ!!!!」
 愛娘の絶叫を聞きながら、月彦は意識が遠のいていくのを感じた。


 



 何故失念していたのだろう。
 辛いとき、悲しいとき、苦しいとき――あの女はそういった苦境を狙い澄ましたようにちょっかいをかけてくる生き物だという事を。
「うぐぅぅぅ……」
 憎い女の顔を頭に思い浮かべるだけで、胃がキリキリと痛み出す。病院で貰った薬を飲んでいるから少しは症状も緩和されている筈なのだが、恐らくはストレスのほうが薬の効き目を上回っているのではないだろうか。
(……真央も、酷い目に遭わせてしまった)
 さすがの真央も昨日のアレは堪えたらしい。ほぼ一晩まるまる気を失っていた月彦が目を覚ましたとき、普段よりも明らかに口数が減ってしまっていた。無論、父親の身に起きた事の察しはついたのか、文句の一つも零さずただただ体調を気遣ってくる愛娘に、月彦はよりいっそう申し訳ない心境に陥った。
 不幸中の幸いは吐いてしまったのはあくまで真狐の持ってきたドーナツ(?)のせいであり、胃潰瘍を患っているという事まではバレなかった事だった。勿論無用の心配をかけたくないという思いもあるが、またぞろ怪しげな薬を持ち出されないとも限らないから、この件に関しては伏せ続ける事に月彦は決めた。
(くそぅ……それにしても、あんにゃろう……なんとか仕返ししてやる手はないものか)
 極々極々極々極々希に手助けと言えなくもない恩恵(?)を受ける事はあるものの、トータルの収支で考えれば明らかにマイナスではないかと思うのだ。たまにはこちらから仕掛けて、あの女の鼻をあかしてやれないものか――。
(………………まぁ、体が治ってから、だな。うん)
 こうしてあの女の事を考えているだけでますます体調が悪くなっていくのを感じて、月彦は思考を切り替える事にした。そもそも今はあの女になど構っている暇など無いのだ。白耀の件しかり、菖蒲の件しかり、考えることはそれこそ山のように累積している。
(…………ぐ、ぐぐぐ……)
 そして二人の事を考えると、よりいっそう胃のほうがキリキリと痛みだし、月彦は肉体的な都合によってまたしても思考を中断せざるをえなくなった。
 そんなこんなで気がつけば学校の授業も六時限目の終わりにさしかかっており、あとはHRさえ終われば自由の身となるわけなのだが。
(……今日は……行かなきゃまずいよなぁ、やっぱり)
 気持ちを切り替えようとしても、いまいち晴れ晴れとしないのは、偏に放課後の予定に“先約”があるからだった。
(……まぁいいか、なんとなく真央とも顔併せづらいし。たまには部室に顔を出すのも気分転換にはなるかな)
 程なくHRが終わり、月彦は荷物を纏めて教室を後にした。

 成り行きから天文部所属という事になり、しかも部長まで兼ねる事になってしまってはいるが、今のところ取り立てて面倒だと感じたことは一度もなかった。部室に顔を出す事も嫌だとは感じないし、それこそ留守番していた子犬のように全身でかまってかまってと迫ってくるラビの相手をするのもそれなりに楽しかったりする。
 が、一つだけ気がかり――気に病む事があるとすれば、雪乃の事だった。雪乃と二人きりの時はまだいい。が、そこにラビが加わると、途端に部室内が緊迫感に包まれるからだ。
 以前ほど露骨ではないとはいえ、やはり雪乃にとってラビの存在は邪魔者以外の何物でもないらしい。さすがに話しかけられても無視するという事は無くなったものの、いつまたとんでもない事を言い出すかと間に挟まれている月彦は気が気でなかった。
(……その先生が、一体どういう風の吹き回しだろう)
 部室棟へと向かいながら、月彦はふと昼休みに聞いた校内放送を思い出した。『天文部員は今日の放課後、必ず部室へと来るように』――聞き慣れた雪乃の声で二度ほど放送されたその内容を思い出すたびに、月彦は首を捻りたくなる。これが“天文部部長は”と雪乃が言ったのならば、合点もいくしいつもの雪乃だという気になる。しかし、呼び出しをかけられたのは“天文部員”だ。それには即ちラビも含まれる。
(…………どういう事だろう)
 考えて、月彦は一つだけ思い当たる節がある事に気がついた。そう、以前雪乃に頼んだ例のアレの件ではないかと。
(そっか。先生、ちゃんと考えてくれてたんだ)
 或いはその動機は天文部に所属しているのだから、きちんとそれらしい活動をしなければならないという常識的な理由からではなく、その後に発生するであろう“見返り”目当てなのかもしれないが、そこはあえて深く考えない事にした。
「…………ん?」
 昇降口の辺りで視線を感じて――部室棟には、一度靴に履き替えないと行けない――月彦はついと振り返った。見覚えのある、疑似餌のような金髪が、ちらちらと柱の影から見え隠れしていて、苦笑混じりに月彦はその側へと歩み寄る。
「月島さん」
「ぁっ…………つき、ひこ……くん?」
 声をかけると、疑似餌はいったん引っ込み、そして恐る恐るという具合にラビが顔を覗かせる。
「あ、あのっ、ね…………ほ、放送……聞い、た?」
「うん。俺も丁度今から部室に行くところだよ。良かったら一緒に行かない?」
 ラビはたちまち前髪を跳ねさせ、残像が残るほどの速さで何度も何度も大きく頷く。
「きょ、今日」
 互いに靴に履き替え、部室棟へと歩む最中、ラビが堪りかねるように口を開いた。
「ひな、森せんせ……どう、したのかな」
「ん? 放送の事?」
 うんうん、とラビが頷く。
「んー……さぁ、どうだろう? 俺には分からないなぁ」
 雪乃の用件とやらは大凡察しがついているが、あえて言わないのがラビの為だろうと、月彦ははぐらかすことにした。
(…………観測会、一番楽しみにしてたの月島さんだもんな)
 ならば、ギリギリまで黙っておくのが人としてのマナーだと月彦は思っていた。当然の事ながら、月彦は己の予測はあくまで予測に過ぎず、外れる事もあるという事など微塵も考えていなかった。
 ましてや、予測のさらに斜め上の結果など――。



「合宿に行くわよ!」
 ラビと共に部室で雪乃を待つ事約十分。ほどなくカツコツとヒールの音を響かせながらやってきた雪乃は部室内へと入り、ホワイトボードの前に立つや声高にそう叫んだ。
「が、合宿!?」
 驚きながら目を輝かせているラビの傍らで、月彦は思わず声を上ずらせながら立ち上がっていた。
「い、一体急にどうしたんですか!? 今日は観測会の打ち合わせじゃなかったんですか?」
「だから、その為の合宿よ。……ちゃーんと順序立てて説明してあげるから、大人しく聞いてなさい」
 雪乃に肩を押さえられる形で、月彦はパイプ椅子へと腰を下ろす。うん、と笑顔で頷き、雪乃はまるで教壇に立つような口ぶりで説明を始める。
「さて、まずここで一つ言っておかなければならないわ。今、私たちが居る天文部は言わば二代目。一度無くなったものを復活させたのが、今の天文部だという事。…………紺崎くんは知ってるわよね?」
「ええ。最初に部を作るときに聞きました」
 他ならぬ、雪乃の口から。
「で、その無くなっちゃった前の天文部なんだけど、年に数回合宿を行ってた事が分かったの。場所はここから車で一時間半くらい行った所にあるキャンプ場なんだけど、山の中だから平地より断然星が良く見えるらしいのよ」
「山の中のキャンプ場……ですか」
 近くの山と聞いて、月彦は胸の奥にザワリとした不快な感触を覚えた。
「先生、その山ってまさか……狐美姫峠がある山じゃないですよね?」
「どうだったかしら? 山の名前までは詳しく覚えてないけど……多分違うんじゃないかしら。狐美姫峠ってそんな近くじゃないでしょ?」
「そう、ですね。確か、そうだったと思います」
 月彦はホッと胸をなで下ろす。忌まわしい思い出の地――あの場所の近くになど、絶対に近寄りたくないからだ。
「話を戻すけど、そのキャンプ場っていうのが、うちの学校の卒業生が経営してる所らしいのね。昔もそういった関係で、殆どタダみたいな料金で合宿に使わせてもらってたらしいのよ」
「成る程。……それで、改めて連絡してみたら…………全然ウェルカムだったと」
「そういう事。話が早いじゃない。今週末だったら予約も入ってないし、食材とか炭とか消耗品持ち込みなら天文部復活記念ってことでぜーんぶタダで泊まらせてくれるらしいのよ! これはもう行くしか無いでしょ!?」
 ばんっ、と鼻息荒くホワイトボードを叩く雪乃に、月彦は「おー!」という声を返せなかった。
「で、でも先生……今は冬ですよ? 山でキャンプなんかしたら凍え死にませんか?」
「その点は大丈夫。キャンプ場っていっても、泊まるのはテントじゃなくてバンガローだから。聞いた話じゃエアコンもついてて、防寒はばっちりらしいわよ」
「そういう事なら……まぁ……」
 さすがにこの寒空の下でテントは――という不安は、とりあえずのところぬぐい去る事が出来た。
 だが。
(今週末、か……)
 行くのが嫌というわけではない。ただ、気がかりなのは自分の体調だった。
(もし合宿中に何かあって、万が一吐血なんかしちまったら……)
 合宿がぶちこわしになるだけでなく、下手をすると雪乃の責任問題になってしまうのではないか。
「…………ちなみに出発は土曜日の朝で、帰りは日曜日の午後の予定なんだけど、月島さん。週末の予定は空いて――」
「い、行きます!」
 ラビにしては珍しく、雪乃が喋り終わるのを待たずに部室の壁が震えるような大声で返事をする。
「ぜ、絶対……行く……行きます……予定、大丈夫、です」
「そ、そう……紺崎くんは?」
「えーと……俺は……」
 月彦は考える。ここで自分が行かないと答えた場合、どうなるか。天文部は顧問の雪乃を含めても三人しかいない。そのうちの一人が行かないという事になっても、果たして合宿は成立するのだろうかと。
(……いや、無理だろうな)
 仮に雪乃とラビだけで合宿に行ったとして、二人が仲むつまじく天体観測などしている様子など想像もできない。それ以前に、まず間違いなく“今回は見送る”という流れになるだろう。
(…………そうなったら、月島さんが……)
 その場合のラビの落胆を考えると、とても“行かない”などとは口に出来なかった。
「……勿論、行きます」
「そう、良かったわ。じゃあ早速予約を入れておくわね」
「あっ!」
 と、またしてもらしくない大声を上げたのはラビだった。
「どしたの? 月島さん」
「あ、あのっ……!」
 ラビは椅子から立ち上がり、なにやらごにょごにょと雪乃に耳打ちをする。
「えぇっ!?」
 と、ラビの耳打ちを聞くなり雪乃は眉を寄せ、怪訝そうに声を荒げる。
「ぁぅ……や、やっぱり…………ダメ、…………です、か?」
「うーーーーん…………」
 雪乃は何故か、チラチラと月彦の方を見ながら腕を組み、唸り続ける。
「…………いいわ。考えてみたら、その方がいろいろ都合がいいし。特別に認めてあげる」
「あ、りっ……ありがとっ……ございます!」
「えーと……あの、まったく話が見えないんですけど、一体何を認めたんですか?」
「いーのいーの、紺崎くんには全く関係ない話だから。気にしないで」
「はぁ……先生がそう言うなら……」
 ラビが相談した内容というのが気にはなるが、教えてもらえないと言う事は言い換えればその事については一切責任を取らなくてもいいという事でもある。
(…………とにかく、週末までに少しでも体調をベストに戻さないと、な)
 むしろ問題があるとすればそちらの方だと、月彦は思った。

 



 
 


 その日から、殆ど毎日のように放課後部室に集まっては、合宿に必要なもの、注意点、等が雪乃の口から伝えられた。一応は部活動の一端という事で、ただ星を見てきました、とても綺麗でした――では、学校側が納得しない。何らかの形で“活動記録”というものを他人の目にも明らかな形で残す必要があると、雪乃は珍しく教師のような口調で強調した。
「食材や炭なんかは私が用意するから、紺崎くん達は自分たちが食べる分のお米だけ持ってきてね。……そうねえ、土曜日の昼、夜、日曜日の朝、昼で一人当たり四合もあれば十分じゃないかしら。多少余っても困るようなものでもないから、少し多めに持ってきた方がいいかもしれないわね」
 他にも、防寒具についてしつこく注意したりと、あぁそういえば雪乃は一応本職の教師であったのだと思い直させられる程に、その気配りは行き届いていた。
 そして、あれよあれよという間に、“当日”となった。


「えーと……忘れ物は無い……よな」
 土曜日の朝。唯一の危惧だった天気は見事なまでの快晴であり、予報に寄れば週末は晴れの日が続くとの事だった。月彦は念のため再度ナップサックを開いて中身を取りだした。着替えにタオル、洗顔用品、ノートにメモ帳、レポート用紙に筆記用具。方位磁石に懐中電灯、十徳ナイフ等々。そして米五合と飲み薬が間違いなく入っている事を確認して、それらを詰め直していく。
「よし、ばっちりだ。……さて、行くか」
 服装も登山にも耐えうるトレッキング用のズボンにシャツ、上着へと着替え、月彦はナップサックを背負い、階下へと降りる。靴箱から普段の履いているスニーカーではなく、これまた登山にも耐えうるブーツを履いていると――
「父さま、出かけるの?」
「ん? あぁ、真央か。昨日言っただろ? 友達と山登りしてくるって」
「……うん、行ってらっしゃい」
 パジャマ姿の真央に見送られて、月彦は些かばつが悪いものを感じながら紺崎邸を後にする。左腕の時計に目をやると、時刻は午前八時半。九時に学校に集合の予定だから、一応少し急いだ方がいいかもしれないと、月彦は早足に歩き出した。
(…………真央、寂しそうだったな)
 歩きながら、脳裏にふと愛娘の顔がよぎる。口にこそ出さないが、きっと不満が溜まっているに違いない。なにせここのところ立て続けに休日に予定が入り、ろくに構ってやれてないのだから。
(すまん、真央……来週こそは……!)
 未練を振り切るように、月彦はさらに歩速を早める。そう、これは浮気ではないのだ。あくまで健全な、部活動の一端なのだと心の中で言い訳をしながら。
(…………だけど、多分……)
 “健全な部活動だけ”では済まないだろうなと、月彦は自分の運命を予期してもいた。雪乃がどういうつもりかは推測するしかないのだが、ほぼ間違いなく“合宿の件”に対する見返りは求められるだろうと。あとはそれが合宿中に求められるか、後日まとめて精算させられるかの違いなのだが……。
(…………さすがに、月島さんも一緒だし。合宿中は無いだろう)
 とは思うのだが、何分雪乃の考える事だから油断は禁物だ。何せ学校内で求められた例もあるくらいだ。そして今回の膳立ての事を鑑みれば、雪乃の誘いをそうそう無碍にするわけにもいかないとなれば――。
(…………どうか、先生に一般的な良識がありますように)
 月彦にはそう祈るより手がなかった。

 早足と青信号に恵まれた事もあり、月彦が学校についたのは八時五十分を少し過ぎた頃だった。
「えーと……確か職員用玄関前に集合、だったよな」
 駐車場の関係でそうなったのだ。早速向かうと、玄関前に早速ラビの姿を見つけた。
「おはよう、月島さん」
「あっ……お、おは、よう! つき、ひこ、くん」
 恐らくは防寒対策の一環だろう。ラビは見慣れたいつものツインテールではなく、頭にはてっぺんにまるで兎の尻尾のようなポワポワがついた白い毛糸の帽子を被っていた。背中には大きなニンジンのようなデザインのリュック、服装も上は白のダウンジャケットに薄い茶のズボン。どちらも登山用らしく、機能性を重視したデザインになっている。
(…………でも、高校生の格好じゃないな)
 ニンジン型のリュックのせいで余計にそう見えるのだろうか。実際の年齢よりもかなり幼く見えてしまうラビの格好に苦笑しながらも――
「……ん?」
 はたと、月彦はなにやら不審な影がラビの側に追従している事に気がついた。さらに、影の方も月彦の視線を感じたかのように、ぴょんと、まるで小動物が草むらから飛び出してくるような足取りで、月彦の前へと姿を現した。
「はじめましてー! いつもおねーちゃんがお世話になってます!」
「はじめ……まして? えと……えっ、ひょっとして月島さんの妹……?」
 ラビに同意を求めると、こくこくとあっさりと頷きが返ってくる。
「はい! 月島レミ、十三才、ちゅーいちです! 今日はおねーちゃんの保護者として来ました!」
 レミ、と名乗った少女はラビよりもさらに頭一つは低い身長に、姉妹である事を示すかのように揃いの碧眼に金髪。髪型は肩に向けて若干末広がりな形のショートカット。服装はピンクのパーカーに淡いブルーのストレッチトレイルスカート、さらに下には黒のトレッキングタイツという出で立ちに、月彦はうっかり視線が下に動きそうになってしまう。
「えーと…………事情はよく分からないんだけど、姉妹とはいえさすがに部外者をキャンプに参加させるのはダメなんじゃないかな」
「だいじょーぶです! おねーちゃんがちゃんと顧問のせんせーに許可を貰ったって言ってましたから!」
 姉に比べてずいぶんと饒舌な妹は元気いっぱいに月彦の疑問に答えた。
「許可……って、もしかしてあの時に?」
 最初に雪乃から合宿の話を聞かされた時に、ラビがなにやら耳打ちしていたのを月彦は思いだした。
(……まさか、妹を参加させたいって……そういう事だったのか)
 雪乃もよく認めたものだと、月彦はそれが信じられなかった。
「仕方ないんです。おねーちゃん人見知りだから、一人でよそにお泊まりに行くなんて出来ないんです。だから私が付き添いなんです」
「な、なるほど……」
 中学一年生に付き添われる高校二年生というのはどうなのだろうと、月彦は頭の片隅でちらりと思ったが、口には出さなかった。
「あぁ、ごめん、自己紹介が遅れたね。俺は紺崎月彦。一応、天文部の部長って事になってる。今日はよろしくね、レミちゃん」
 雪乃が認めた、という事は間違いなくレミも今日の合宿に参加するのだろう。月彦は可能な限りのサワヤカ顔で挨拶するも、レミはといえばその青い目を大きく見開き、ぱちくりと何度か瞬かせる。
「紺崎……つき彦……さん…………という事は、ひょっとして貴方がおねーちゃんのフィア――」
 どんっ!――まるで交通事故のような勢いで、唐突にレミの体が真横から突き飛ばされ、その小さな体は職員玄関前の植え込みへと突っ込んだ。
「○※□◇#△!! &$★*!……#*○%#◆$!!」
 突き飛ばしたのはラビだった。顔を真っ赤にし、ぶんぶんと両手をふりまわしながら聞いたこともないような言葉でわめき立てる。ひょっとしたらラビの母国語かなにかかもしれないのだが、少なくとも月彦には全く理解できなかった。
「いったぁ〜い…………おねーちゃん、いきなり何す――……わぷっ、ちょっ……おねーちゃっ……止めっ……!」
 やっとの事で植え込みの中から這いだしてきたレミに、ラビはばふばふと小さなタオルで――これまた可愛らしいニンジンの絵が刺繍された年季の入った代物――叩くようにして無言の抗議を続ける。
「まぁまぁ、月島さん。なんだかよくわからないけど、それくらいにして許してあげなよ」
 ラビの言葉が分からない月彦に出来る事といえば、二人の喧嘩(?)の仲裁をする事だけだった。
(……にしても、先生遅いなぁ。……もう九時過ぎてるのに)
 仲裁しながら、月彦はちらりと腕時計に視線を這わせる。よくよく考えてみれば、あの雪乃が待ち合わせ時間に遅れる事自体がひどく珍しい。むしろ一番乗りで待っていそうなものではないか。
(……何かあったのかな)
 という月彦の予感は、ある意味では当たった。
「あっ」
 と、タオルでぺちぺちされていたレミが真っ先に声を上げ、続いてラビが、最後に月彦が駐車場の入り口へと目をやった。見慣れた軽自動車がのそりと鼻面を覗かせ、そのままよたよたと玄関口前のロータリーを回って月彦らの前へと停車する。
「せ、先生……!?」
 運転席のドアを開け、降りてきた雪乃の姿に、月彦はぎょっと声を上ずらせた。
「お、おまたせぇ……さぁ、みんな早く乗っッ……ケホッ、ケホッ…………しゅ、しゅっぱつ……する、わよぉ……」
 上も下も、これでもかというほどに厚着し、ラビ同様毛糸の帽子を深くかぶり首にはマフラー、大きなマスクを二重に装着しているせいで殆ど目元しか肌が露出していないが、それは間違いなく雛森雪乃本人に他ならなかった。
「ちょっ……どうしたんですか! 風邪でも引いたんですか!?」
 少なくとも昨日の時点ではそれらしい仕草は――と、月彦は記憶を巡り、はたと思い至った。そういえば、昨日の部活――という名目の、合宿前の最後の打ち合わせ――の際、雪乃が妙にだるそうにしていた事を。
「だぁいじょーぶ……ちょっと、熱があるだけ……だから…………あぁ、そっちが月島さんが言ってた妹さんね……あれ……三つ子?」
 鼻声なのは、鼻が詰まっているからだろう。運転席から降り、ただ立っているだけだというのに雪乃はぜえぜえと肩で息をし、見当違いの方向を見ながらレミへと挨拶をする。
「ちょっ……先生、その状態で車の運転なんか無理ですって! 今日の合宿は中止に――」
「ダメよ!」
 マスクを飛ばさんばかりの勢いで雪乃が大声をあげ、立て続けに苦しげにゲホゲホと何度も咳をする。
「ぜ、絶対……行く、んだからぁ…………ほら、早く、乗りなさい……だぁいじょーぶ……車の運転、なんて……目を瞑ってたって、出来ッッ……げほっ、けほっ……」
「どうして……そこまで……」
「お、おねーちゃん……どうしよう?」
「…………っ……」
 月彦も、そしてラビもレミも、雪乃の並々ならぬ気迫に押されるように、俄に後退りをする。普通に考えれば、合宿を中止にするのが最良の判断であろう事は誰の目にも明らかだった。しかし、それを口にし、実行に移そうとしたが最後、眼前の雪乃に絞め殺されるのではないかという程に、凄まじい執念を感じてもいるのだ。
「……っ……わ、分かりました。俺が助手席に座りますから、くれぐれも安全運転でお願いします。…………もし、俺が途中でこれ以上運転が無理だと判断したら、その時は絶対に車を停めて下さいね?」
 交通事故の際、最も致死率が高いのは助手席だという話を思い出しながら、月彦はあえて進言した。月彦の覚悟に引きずられる形で、ラビとレミも渋々車の後部座席へと乗り込んでいく。
「ふぅ……ふぅ……心配、しなくたって……私だって、自分の、体調くらい…………分かってるんだから…………安全運転で、ちゃんと…………あれ、アクセルは右だったかしら…………」
「せ、先生……マジで頼みますよ? いっそのことずっと徐行でいいですから、事故だけは起こさないで下さいね? 俺も先生もみんなも、命はたった一つしか持ってないんですから!」
 シートベルトをいつになくしっかりとしながら月彦は訴えたが、返事は無かった。雪乃はまるで体中に残された最後の力をかき集めているかのように、ハンドルに両手を引っかけ、額を押し当てたままゼエゼエと深呼吸を繰り返し――。
「……じゃあ、出発、する、わよ」
 キッ、と。まるで親の敵でも睨み付けるかのように顔を上げ、一気にアクセルを踏み込む。
 それから一時間ほどの間に起きた様々な出来事は、月彦の生涯の中で忘れられない経験の一つになった。



 OBが経営しているというキャンプ場は、月彦が想像していたよりも大きな規模のものだった。十二のバンガローの他に、春から夏、そして秋にかけてはテントで賑わうという広場があり、さらに近くには河原まであるという、まさにキャンプには最適とも言える立地だった。
 冗談抜きで生命の危機を感じるドライブを経て一行は無事駐車場へと到着し、月彦が肩を貸す形で雪乃と共に管理人に挨拶をし、バンガローの鍵を借り受けた。その後、後部座席で死んだようになっている月島姉妹を回収して、各自荷物を手にバンガローへと移動した。……尤も、雪乃が用意した食材が入ったビニール袋やらクーラーボックスや炭などを運ぶ為に雪乃以外の三人は駐車場とバンガローを三往復ほどしなければならなかったが。
「……ふう、とりあえず荷物はこれで全部かな」
 車の後部開閉口を閉め、ドアにも施錠がされている事を確認してから、月彦もバンガローへと戻る。雪乃が予約を入れて借りたのは二人用のバンガローが二棟だった。管理人の話では、大人数が一度に泊まれるバンガローもあるとの事だったが、ここへ来て月彦は何故雪乃がああも合宿を強行したのかを理解した。
(……そして、どうして月島さんに妹の同行を許可したのかも)
 恐らく、雪乃の筋書きではこういうことになっていたのだろう。バンガローはそれぞれ二人ずつしか泊まれない。二つのうち一つを月島姉妹が使い、もう一つを余った二人が“しかたなく”使う――そういう流れだったのだろう。
(つっても……さすがに……)
 あんな状態では、雪乃がしたい事も、して欲しい事も無理ではないかと、月彦は思うのだった。
「つきひこ、くん」
 バンガローの中に食材などを運び込みながら、うーんと唸る月彦の上着の裾を、くいくいとラビが引っ張ってくる。
「雛森、せんせい……だいじょう、ぶ、かな?」
「うーん…………どう見ても大丈夫じゃなさそうなんだけど」
 荷物を運び込む前に、一番最初に雪乃をバンガローの中へと運び、居間のソファに寝かせて毛布をかけてあった。本当ならばベッドへと運びたかったのだが、バンガローは一階が居間や風呂トイレ、キッチン、吹き抜け状に壁沿いに設置されている階段を上った二階がベッドスペースというような仕組みだった為、雪乃に階段を上らせるのは酷なように思えて、やむなくソファに寝かせる形になったのだった。そしてその容態は月彦の見る限りとても快方に向かっているとは思えなかった。
「先生……大丈夫ですか?」
「…………だい、じょぶ……これ、くらい……すぐに……」
 ソファの側にあるテーブルの上には、洗面器と氷水、そしてぬれタオルが既に準備済みだ。月彦はぬれタオルを氷水に浸してからぎゅっと絞り、雪乃の額へと乗せる。
「おまたせー! 管理人さんからお薬と、体温計と氷枕借りてきたよ!」
「ありがとう、レミちゃん。……先生、熱を測りますから体温計を脇に挟んで下さい」
「う……」
 雪乃が肩で息をしながら、のそりと体を起こし、もぞもぞと動いて体温計を脇へと挟む。さらに、月彦はレミから受け取った氷枕にタオルを巻いて雪乃の頭の下へと置き、薬を渡す。
「でき、れば……紺崎くんの口移しが、いい、な」
「な、何言ってるんですか! 先生、ふざけてないで、ちゃんと飲んで下さい!」
 ラビやレミの前で突然何を言い出すのかと、月彦はぎょっとしながらもなんとか“冗談”という形でごまかし、雪乃に薬と水を飲ませて再びその体を寝かせた。――丁度その瞬間ピピピと電子音が鳴り、月彦は体温計を回収して液晶画面を確認する。
「……三十九度一分……これ、かなりヤバいんじゃ……」
「…………病院行った方がいいんじゃないかなぁ……四十度越えちゃったら死んじゃうよ?」
 レミの言葉はもっともだった。山道の運転で相当に無理をしたのか、学校で見た時よりも明らかに病状が悪化しているように見える。
(まいったな……こりゃ合宿どころじゃないぞ)
 やはり、学校の時点で無理にでも中止するべきだったのかもしれない。雪乃も簡単には納得はしなかっただろうが、誠心誠意説得すれば分かってもらえた可能性は決して否定できない。
「…………仕方ない。万が一ってこともあるし、管理人さんに話して救急車を――」
 と、ベッドの側から去ろうとした月彦の腕を、何かが掴んだ。
「だめ……」
「先生? でも……」
「すぐ、治る、から……大丈夫、だから……」
「先生……」
 病人とは思えない握力でぎゅううう……と掴んでくる雪乃の手を振り払えなくて、月彦はやむなく隣のベッドへと腰を下ろす。
「……雛森、せんせい……」
 そんな雪乃の様子に、ラビは感極まったように両目をうるうるさせる。恐らくは、病床にあっても天文部の事を考え、合宿の成就を第一に自分の身を犠牲にしているすばらしい先生――という様に見えているのかもしれない。
 やれやれ、本当にどうしたものだろうと、月彦がため息をつきたくなった時だった。ごうごうとエアコンの暖房の音だけが響くバンガロー内に、突然甲高い電子音が鳴り響いた。
「ん……携帯の音……かな。月島さんの?」
 ラビは首を振る。
「私のでもないよー。せんせーのじゃない?」
「そうか……すみません、先生。ちょっと携帯探しますよ」
 最早、自力で携帯を取り出す気力すら無いらしい雪乃の体をまさぐり、月彦はそのポケットから携帯電話を取り出す。
「着信……矢紗美さんからだ」


「こぉんのバカ雪乃! あんたってば一体全体どーゆー脳みそしてんのよ!」
「っ……お、お姉ちゃ……どうして……」
 突然の姉からの罵声に、びくりと。雪乃は弾かれたように体を起こす。
「どうしても何もないわよ! ほらっ、病院連れて行ってあげるから、とっととベッドから出なさい! 早く!」
「ちょ、ちょっと待って……えっ……なんで、どうして……お、お姉ちゃんが居るの……?」
「どうして、って……先生、やっぱり覚えてないんですね」
 それは、ほんの一時間ほど前の出来事だった。雪乃の携帯に矢紗美からの着信があり、月彦は最初雪乃に電話に出るように促したのだが、眠ってしまったのか昏睡してしまったのか、雪乃からの反応は皆無だった。
 やむを得ず月彦が電話へと出、驚いたのは電話をかけた矢紗美の方だった。ひょっとしてデートの邪魔をしてしまったのかと申し訳なさそうに謝る矢紗美に、月彦は素直に“現在の状況”を相談した。
 矢紗美はしばらく沈黙し、そしてこう言ったのだ。「今すぐ行くから、そこの住所を教えて」――と。
「ほんっっとにもー……あんたって子は……。合宿だか何だか知らないけど、そんな体調で参加したって紺崎クン達に迷惑がかかるだけだって分からないの!?」
「ほ、ほっといてよ! お姉ちゃんには……けほっ、けほ……関係なっ……けほっ!」
「あーはいはい、分かったからとにかく病院行くわよ。それとも救急車呼ばれる方がいい? 好きな方を選びなさい」
「ちょ、ちょっと……止めてよ、ホントにそんな大げさな病気じゃ――」
「四十度近い熱が出てるって事は十分命に関わる容態なのよ! いーい? 体温が四十度を超えると、体内のタンパク質が熱で変質しちゃうのよ! それがどんだけヤバい事か理解できないっていうのなら――」
 矢紗美が携帯電話を取りだし、1,1,9と雪乃に見えるようにボタンを押す。
「ま、待って……待って、お姉ちゃん……」
「大人しく病院に行くの?」
「うぅー…………」
 雪乃はベソをかいた子供のように唸り、ちらりと月彦の方へと視線を送ってくる。とりあえず、月彦は頷き返した。
 誰がどう見ても、雪乃は病院に行くべきだからだ。
「わ、わかった……わよぉ…………でも、その前に……月島さん」
 雪乃は何故かラビに向けて手招きをし、なにやらぼそぼそと耳打ちをする。
「わか、り、ました! ま、まかせて、ください!」
 耳打ちが終わるや、ラビは珍しく力強い口調で言い、大きく頷いた。さながら、瀕死の上官から最後の命令を伝えられた一兵卒のように、雪乃に尊敬の眼差しすら贈りながら。
(…………ひょっとして、実は結構仲良いんじゃ……)
 二人のやりとりをみながら、ふと月彦はそんな事を思った。
「じゃあ、そういうわけだから。とりあえず紺崎クン達はお昼ご飯でも食べながら待っててくれる? このバカ妹を病院に放り込んだらすぐ戻ってくるから」
「分かりました。先生の事宜しくお願いします」
「お願いします」
「おねがい、します」
 月彦の言葉に続いて、月島姉妹もぺこりと矢紗美に頭を下げる。
「ほら、行くわよ! 駐車場までなら自力で歩けるでしょ! 甘えずキリキリ歩く!」
「ううぅ……」
 雪乃の尻を蹴り飛ばすような勢いで矢紗美がせかし、二人は駐車場へと消えていく。
「……さすが矢紗美さんだ。……やっぱり頼りになるなぁ」
 二人の姿が見えなくなるまでバンガローの入り口で見送り、月彦はついそんな“本音”を口にした。


 思いも寄らぬ形で三人でのお留守番状態となったが、とにもかくにも昼飯時であるし、矢紗美も“昼食でも食べながら”と言っていたわけであるし、唯一の男であるし、何よりも部長という立場でもあるし、ここは自分が率先して指揮をとらねばと、月彦は思った。
「……えーと……それじゃあ昼飯の準備でもしようか。……確か、土曜日のお昼は――」
「バーベキュー!」
 “打ち合わせ”の際にだいたいの予定は取り決められ、それらは月彦もメモ帳へときちんと記載してあった。それを確認するよりも前に、レミが元気よく返事をする。
「バーベキューするんでしょ!? 私すっごく楽しみにしてたの!」
「あ、あぁ……そうそう。確か初日はバーベキュー……だったかな」
 食材を確認すると、確かにそれ用とおぼしき野菜と、クーラーボックスの中にも肉類が入っていた。
「…………なんか、先生抜きでやっちゃうのは悪い気がするけど」
 ぶっちゃけてしまえば、これらはすべて雪乃が自腹で用意した食材だ。月彦らは各自自分が食べる分の米を持参したに過ぎない。果たして雪乃の許し無く勝手に手をつけていいものだろうかという逡巡は、無論ある。
 ――が。
(…………いざとなったら、部長の俺が全責任を負うって事で)
 十中八九問題はないだろうとは思うが、もし万が一の際はそのつもりで、月彦はバーベキューの準備に取りかかる事にした。
「えーと……じゃあどうするかな。俺が外でコンロと炭の準備するから、月島さんは野菜を切ってもらえる?」
「ああー! ダメ、それはダメ、絶対!」
「……レミちゃん?」
 両手で大きくバッテンを作りながらレミは大きく声を上げ、いそいそとパーカーを脱いでは自前らしいエプロンを装着し、腕まくりをする。
「おねーちゃんに包丁なんか持たせたら、野菜切る前に自分の手首から先切り落としちゃうよ。ものっっすごい不器用なんだから」
「えっ……そうなの? あれ、でも前に手作りクッキーもらったような……」
「手作りクッキーって……それひょっとして――」
 ドンッ、と。またしても交通事故にでも遭ったかのような勢いでレミの体は突き飛ばされ、どんがらがっしゃーんと鍋などが仕舞われている棚へと突っ込んでしまう。
「レミちゃん!? っていうか、月島さんいきなり何を」
「い、言っちゃ、ダメ!」
 顔を真っ赤にして、肩を怒らせながら、ラビは絞り出すように言う。
「いったぁ〜い……もぉ、いきなり何するのよおねーちゃん!」
 鍋やフライパンなどをかき分けながら、のそりとレミが立ち上がる。月彦の心配をよそに、よほど巧く突っ込んだのか。あるいは普段から突き飛ばされ慣れているのか、思いの外レミはけろりとしていた。
「れ、レミは……おしゃべり、過ぎ……」
「だからって、あんなに強く突き飛ばすのは良くないよ。何より、危ない」
「そーだよ。自分が不器用だってバラされたからって怒るのは筋違いだよー?」
 きっ、と。ラビににらまれるや否や、レミは月彦を盾にしてささっと身を隠してしまう。
「まーまー……二人とも落ち着いて。とにかくキッチンには刃物とか沢山あるから、突き飛ばしたりするのは危ないよ。とりあえず、野菜を切るのはレミちゃんに任せて……えーと……月島さんには……」
 月彦は悩み、ぽむと手を叩く。
「そうだ! ご飯も炊かなきゃいけないんだ」
「え……お米? どーして?」
「いや、どうしても何も、バーベキューっていったらご飯だろ?」
「ええええーーーーー? ぶちょーさんバーベキューでご飯食べるの!?」
 信じられない、と言わんばかりに声を上げられ、月彦は妙な気恥ずかしさを覚えた。
「えっ……バーベキューにご飯ってそんなに変かな……?」
「少なくとも私は聞いたことないよー。ありえないとは言わないけど……バーベキューはバーベキューだけでいいんじゃない?」
「で、でも……そのつもりでお米も持ってきたわけだし……ご飯も食べた方がお腹膨れるしさ、何より味の濃いものばかりだと喉も渇くし、絶対ご飯が欲しくなるよ」
 何故俺はこうまでご飯の肩を持っているのだろう――そんな事を考えながら、月彦はごり押しでレミを説得する。
「……そういうわけだから、月島さんにはお米を研いでもらって――」
 ぱぁ、と目を輝かせ、ラビが大きく頷こうとした矢先、ぽつりと。
「それも無理! ぶちょーさん、お米を研ぐなんて複雑な作業、おねーちゃんには絶対無理だから! 間違いなく十分の一も残らないよ」
「…………月島さんってそんなに不器用なの?」
「うん。ぶちょーさんが信じられないっていうのなら、私も無理には止めないけど。……でも、おねーちゃんがまき散らしたお米の掃除はぶちょーさんとおねーちゃんの二人だけでやってね?」
「…………………………となると、後は……」
「おねーちゃんにはドアの前で不審者が来ないか見張りでもしてもらってたらいいんじゃない? それなら邪魔にならないと思う」
「いや、さすがにそれは……」
「じゃあ、食材の見張りは? 一応山の中なんだし、野生の猿とかが何か持っていこうとするかも?」
「み、見張り以外で何か出来そうな事はないの?」
「あったら見張りにしようなんて言わないよ?」
「うーーーん…………」
 ひそひそと背中に隠れているレミとそんなやりとりをして、ハッと視線を前に戻すと、ラビは着用前のエプロンを握りしめたまま両目いっぱいに涙を溜めて今にも泣き出しそうになっていた。
「わ、わかった! じゃあこうしよう! レミちゃんが野菜と肉とお米の準備! 俺と月島さんが外でコンロの準備! これでいこう!」



 レミの言葉は、恐らく真実だったのだろうと、月彦はラビと共にコンロの準備をしながら思った。バンガローの倉庫にしまわれていたコンロを庭へと持ち出し、組み立てるわけなのだが、普通にやればものの五分ほどで組み立て終わるであろうその作業にゆうに三倍もの時間がかかってしまったのは、偏にラビが足を引っ張ったからだった。
「よし、あとは炭を入れて……っと。…………だ、ダメだよ月島さん! 危ないから近づかないで!」
 またぞろコンロを倒されたりしてはたまらないと、不用意にコンロに近づこうとするラビを月彦は体を張って止める。
「と、とりあえずこっちの準備はこれで終わりだからさ。後はもう余計なこ――……な、何もしなくていいから。火を付けるまえにレミちゃんの様子を見てくるから、月島さんはコンロが風で倒れたりしないよう、そこで見張っててくれる?」
 こくこくと素直に頷くラビに一抹の不安を覚えつつも、月彦はその場を後にする。
(……レミちゃんの言った通りだ。本当に見張りしかやってもらう事がない)
 ラビと一緒にコンロの準備をした月彦には、レミの言葉が痛いほどに実感出来た。月彦はバンガロー内へと向かいながら、中に炭が入りきちんと足も固定されたコンロがもし倒れるような事があるとすれば、それは風ではなくラビが原因で倒れるのだろうなと、そんな事を思った。
「レミちゃん、そっちの準備はどう?」
「とりあえず野菜は1/3くらい切ったよー。……ていうかこれ、全部がバーベキュー用じゃないよね? 多すぎるもん」
「うん、確か予定じゃ今夜はカレーを作る筈だから、その分の野菜もあったはずだよ」
「だよねー。だから野菜はこれくらいで良いと思ったんだけど。足りなかったらまた切ればいいし」
 銀色のトレイに綺麗に切りそろえられた野菜が並んでおり、確かにレミの言うとおり三〜四人分であればこんなものか、と思える分量ではあった。
「ご飯の準備は出来てる?」
「一番最初にお米を研いで炊飯してるよ。炊飯ジャーだけど……」
 と、レミが指さしたのは電子炊飯ジャーだった。可能ならばキャンプらしく飯盒炊爨といきたかったが、音頭を取る予定だった雪乃が戦線離脱してしまい、残った三人の誰もが飯盒の使い方を正確には知らないのだから無理はなかった。
「にしても、レミちゃん料理上手だね。…………正直、来てくれてよかったよ」
 まさかラビがあそこまで不器用だとは思っていなかっただけに、尚更レミの存在がありがたかった。二人だけでバーベキューの準備をしていたら、恐らく夜になっても準備が終わらなかったかもしれない
「……てゆーか……ぶちょーさん。こっちきてて大丈夫なの? おねーちゃん一人にしておくと危ないと思うよ?」
「大丈夫、コンロはもう組み立て終わって、あとはもう炭に火を付けるだけだから。ライターも着火用のガスバーナーもほら、ちゃんと俺が持ってるし――」
 どんがらがっしゃーん!と。雪崩のような音と、ラビの悲鳴が聞こえたのはその時だった。
「…………ごめん、レミちゃん。あとよろしく」
「はーい、いってらっしゃーい。……………………未来のおにーちゃん」
 レミに手を振られ――そして、聞こえないように呟かれた最後の一言には気がつかず――月彦は大急ぎでバンガローの庭へと駆け戻るのだった。



 


 ご飯の炊きあがりに合わせる形で炭に火を入れ、いつでも焼けるよう準備が調った所で、丁度矢紗美が戻ってきた。
「矢紗美さん! 先生の容態はどうだったんですか!?」
「だいじょーぶ。肺炎とかじゃなくって、単に風邪を拗らせただけみたい。とりあえず自力で動けるようになるまでは入院してなさいーって麓近くの病院に放り込んできたから心配はいらないわ」
「そうですか……」
 月彦はホッと胸をなで下ろす。ラビも、そしてレミもそれは同様だった。
「そんで、紺崎クン達が準備してるのは…………ひょっとしてお昼はバーベキューなの?」
「ええ、良かったら矢紗美さんも一緒にどうですか?」
 元より、矢紗美も食べるものだとして準備を進めていたから、当然の申し出ではあった。
「折角だからいただこうかしら。雪乃に電話したの朝ご飯食べる前で、そのまま緊急発進しちゃったから、実はお腹ぺこぺこなの」
「丁度良かったです。先生が食べる筈だった分がまるまる余っちゃう所でしたから、いっぱい食べて下さい。先生も矢紗美さんなら文句言わないと思いますし」
「どうかしら? あの子顔に似合わず結構ケチなところがあるから、私が食べた分だけ後から請求されちゃうかも?」
 苦笑しながら矢紗美は一端バンガローの中へと入り、上着だけを脱いで外へと戻ってくる。真冬の屋外ではあるが、コンロのおかげでその周囲だけは寒さが和らぐ為だ。
「あ、あの!」
「うん?」
 月彦とレミがてきぱきと食材を外のテーブルの上へと運ぶ最中、一人だけその準備から閉め出されたラビが矢紗美の前へと立ちふさがる。
「せ、先生、病院……あり、ありが、とう……ございました!」
「ん、どーいたしまして。こちらこそ、自分の体調管理もできないようなバカな妹のせいで色々迷惑かけちゃってごめんなさいね。……風邪、伝染ったりしなきゃいいんだけど」
「先生もその辺は考えてくれてたんだと思いますよ。マスクも二重につけてましたし」
「だといいんだけどねぇ。……あ、自己紹介が遅れたわね。私は雛森矢紗美。雪乃の姉で、これでも婦警よ。教員免許は無いけど、保護者の代わりくらいは出来るから、合宿の方は予定通り続けて大丈夫みたい。学校の方にも確認済みよ」
 さすがの手際だなと。矢紗美の言葉に月彦は密かに感心した。
「あっ……えとっ、つ、つきしま……ラビ! です、天文部、です!」
「……の妹のレミです。天文部じゃないけど、おねーちゃんの付き添いで来ました」
「はい、二人ともよろしくね」
 矢紗美はにっこりと微笑み、ラビ、レミ両方と握手などを交わす。“昔”を知っている月彦には、目を疑うような微笑ましい光景だった。
(…………悪い夢でも見てたんじゃないか、って思いたくなるな)
 こうしてラビやレミとのやりとりを見る限り、とても“男食い”が趣味の女性には見えないのだ。それこそ、極めて善良な公務員の鏡のような婦警さんにしか。
(ぅ……やばい。なんでドキドキしてるんだ、俺…………相手は矢紗美さんだぞ)
 そういえば、いつぞやのデートの時にも似たような事になったなと。そんな事を思いだしながらも、月彦はまるで己の想いを誤魔化すようにてきぱきとバーベキューの準備を進めていく。
 きちんと切り分けられた肉と野菜をコンロの上へと並べ、トングを使ってそれらを移動させたり、ひっくり返したりを繰り返す。
「あ、矢紗美さん。お肉焼けましたよ」
「ありがとう、紺崎クン」
「レミちゃんも」
「はぁーい。ありがとー、ぶちょーさん」
「月島さんも」
「ぁっ……」
 ラビは一瞬受け取ろうと皿を出しかけて、不意にその手を止める。
「あぁー、ぶちょーさん、ダメだよー。おねーちゃんお肉食べられないから」
「えっ、そうなの!?」
 ラビの方へと目をやると、申し訳なさそうに小さく頷いた。
「そっか……じゃあ、イカとかホタテとかはどう?」
「それ、なら…………あり、がとう……月彦、くん」
 ほどよく焼けたイカリングとホタテの貝柱をラビの皿へと写し、金網の空いたスペースに月彦はてきぱきと食材を追加していく。
「そうそう、矢紗美さん。あっちのジャーにごはんも炊けてますから、どんどん食べちゃって下さい」
「あら、キャンプ場のバーベキューなのに、ご飯は炊飯ジャーで炊いちゃったの?」
「ええ……その、俺たち誰も飯盒の使い方わからなくって……」
「あちゃー……それはもったいない事をしたわねえ。キャンプ場で、飯盒炊爨したご飯が一番美味しいのに」
「……ひょっとして、矢紗美さん…………飯盒の使い方知ってるんですか?」
「当たり前じゃない。始めちょろちょろ中ぱっぱ、ってね」
「さすがですね。…………そうだ、矢紗美さん、一つ聞いてもいいですか?」
「なぁに? 紺崎クン」
「バーベキューって……普通ごはんも一緒に食べますよね?」
「うーん…………普通は食べないんじゃないかしら?」
 なっ、と。月彦は言葉を失った。
「うちでキャンプするときはご飯も一緒に食べるけど、友達とバーベキューするときはご飯なんて準備したことないもの。どっちが普通かっていったら、ご飯準備しないのが普通だと私は思うけど」
「そ、そうなんですか…………うちも少数派だったみたいです」
 月彦は少しだけ肩を落とす。
「……ねーねー、ぶちょーさん。私も一つ聞いていーい?」
「何かな、レミちゃん」
「ぶちょーさんと婦警のおねーさんは知り合いなの?」
「えーと……うん、前に一度、先生の家で晩ご飯ご馳走してもらったときに、矢紗美さんも一緒でね。面識は一応あるよ」
「へぇー…………だってさ、おねーちゃん。恋人同士とかじゃなくてよかったね」
「っ……なっ……れ、レミ……!」
 くわっ、と。顔を真っ赤にしたラビが凄まじい顔で妹を睨み付ける。
「何よー、おねーちゃんが聞けって言ったんじゃない。あっ、痛っ、ちょっ……痛いってば!」
 ラビがどこから取りだしたのか、小さなタオルでぺちぺちとレミを叩く。どうやらそれはラビ流の“おしおき”の一環なのだろうと月彦は推測した。
(……んで、やりすぎると……突き飛ばし、かな)
 だんだん、月島姉妹のあり方というものが、月彦にも見えてきた。
「あらあら、二人とも仲が良いのね。羨ましいわ」
「何を言ってるんですか。先生と矢紗美さんだって、ばっちり仲良しじゃないですか」
「……表面上はそう見えるかもね」
 意味深な事を呟いて、矢紗美はクーラーボックスの中から缶ビールを取り出す。
「……一本くらい飲んじゃってもいいわよね? もう今日は運転しないんだし」
「いい……と思いますけど……」
「んじゃ遠慮無く。んんっっ……ぷはーーーーっ、やっぱりバーベキューにはビールよねぇ。これが夏だったらもっと美味しかったんだけど…………良かったら紺崎クンも飲む?」
「い、いえ……俺は、ほら……未成年ですから」
「そういえばそうだったわね。……月島さんは?」
「同級生です!」
「冗談よ。あっ、紺崎クン、お肉が焦げそう」
「えっ」
 慌てて月彦は肉と野菜をひっくり返し、十分に焼けた肉を矢紗美とレミ、そして自分の皿へと分配する。野菜のほうはラビを優先する。
「ぶちょーさん、おねーちゃんにトウモロコシとニンジン焼いてあげて。おねーちゃん大好きだから」
「そうだったんだ。月島さん言ってくれればいいのに」
「ぁっ…………れ、レミ!」
 また例のタオルぺちぺちをしながら、ラビが顔を真っ赤にする。そんな二人を尻目に、月彦はレミのリクエスト通りに輪切りにされたトウモロコシと、短冊切りにされたニンジンを金網の上へと並べていく。
「………………瑤子は元気にしているのかしら」
 ビールを飲み干す傍らに呟かれた矢紗美の言葉に気がついた者は、誰一人いなかった。



 昼食の後は四人で後かたづけを行い、当初の予定通りハイキングを行った。コースは片道一時間半ほどの展望台に行って帰ってくるだけの簡単なものだった。
 天気は予報の通りの快晴、しかしながら季節柄紅葉を眺める――というわけにもいかない。さして高地でもないため雪が降ったり、残っているというわけでもない。平地に比べて多少空気が美味しく、都会の雑多とした喧噪の代わりに野生動物たちのざわめきなどが時折聞こえるだけのハイキングコースを雑談混じりに歩いているだけだというのに――恐らくは普段が普段だからなのだろうが――まるで身も心も清められていくかのようだった。
(うん、これは体にも良さそうだ。…………胃に効く……気がする)
 昼間のバーベキューの時は胃に遠慮して量を控えめに、いつもよりもよく噛んで食べたりと気を使ったりもしたが、特別痛んだりという事は無かった。薬も飲み続けているし、きっと快方に向かっているのだろう。
(…………先生に感謝しないとなぁ)
 そもそも天文部としての活動をするだけならば、夕方にキャンプ場に来て夕飯を食べ、天体観測さえすれば問題は無い筈だった。それをあえて昼前からのキャンプにしたのは、一つは時間に余裕を持って動きたいというのと、折角だからいろいろな思い出を残したいからという雪乃の希望によるものが大きかった。
(…………先生的には、デートの代わりのつもりだったんだろうけど)
 今頃はきっと病院のベッドで臍をかんでいる事だろう。入院が長引くようであれば見舞いに行ってあげたほうがいいかもしれないと、ハイキングコースを歩きながら月彦はそんな事を考えた。
 
 夕飯のカレーは、ラビが肉類を食べられないという事で必然的に魚介カレーとなった。月彦、レミがカレーの準備。矢紗美とラビが飯盒炊爨の準備、但しラビの担当は調理に使う竈用の石の調達という振り分けになった。
 バンガロー内には一応ガスコンロもあり、それを使う許可も管理人から貰ってはいたが、あえて外で作ることになったのは、偏に矢紗美の提案だった。
「折角キャンプに来てるんだもの。多少寒くても、絶対外で食べるべきよ」
 矢紗美曰く、屋内で作ったものと屋外で作ったものでは同じカレーでも旨さが三倍は変わるとの事だった。
「けど……さすがにちょっと寒いですね」
「真冬だし、河原だしねぇ。風があんまり無いのが幸いかな?」
 ラビが集めてきた石で河原で竈を組み――勿論、ラビは極力竈本体には近づけないようにして――月彦は大鍋に湯を沸かし、一方矢紗美は洗米の入った飯盒を木の枝にぶら下げて火であぶる。
「はーい、お野菜とあと貝とかいろいろ、おまちどーさまー」
「グッドタイミング、レミちゃん。お湯も沸いてるからざざーっと入れちゃって」
 どざざーっと、レミが二つのボウルいっぱいに切ってきた材料を無造作に鍋に放り込んでいく。本来ならば先に炒めたり、或いは煮えにくいものから入れるのがセオリーではあるが、野外料理に細かい配慮は無用だと言わんばかりの豪快な手つきだった。
「…………うーん、悔いが残るわねぇ。買い出しに行ったのが雪乃じゃなくって私だったら、もうちょっと気の利いた材料にしたんだけど……。あの子の事だから、カレールーもどうせ市販のやつでしょ?」
「ええ……そうですけど……」
 矢紗美の言いたい事は分かるものの、そのことに関して雪乃に文句を言うつもりは、月彦には無かった。雪乃なりに純粋に材料を吟味し、自腹を切って準備してくれたのだ。そのことに感謝こそすれ、文句を言ういわれはない。
「…………ま、大丈夫よ。外で食べるカレーってホント美味しいんだから。…………さすがに私もこんな真冬に食べたことはないけどね」
「そ、そうですね……きっと美味しい……と思います。あ、月島さん、もう石はいいよ、ありがとう」
 カレー鍋用と飯盒用の二つの竈が出来上がって尚、律儀に石を運び続けていたラビに月彦はそっと声をかける。無意味に積み上げられた石が腰の高さほどにまでなっていて、さすがに見てられなくなったのだった。
「つ、次……何、する?」
「次……うーん……じゃあ、おたまでお鍋の中をゆっくりかき混ぜてくれるかな? ゆっくり、ゆーーーっくりでいいから」
「うん!」
「くれぐれも鍋をひっくり返さないように注意してね。俺はちょっと薪をとってくるからさ」
 安全のためには、出来れば鍋のそばから離れたくは無かった。が、しかしラビにばかり重いものを運ばせる事に気が引け、月彦はバンガロー裏の薪置き場へと向かった。
 河原とバンガローの距離はそれほどには離れていない。一足先にバンガローへと戻り、サラダの準備をしているであろうレミの様子を伺ってから、月彦は両手に薪を持って河原へと戻った。
「あー……えーと……ありがとう、月島さん。後は俺が変わるよ。月島さんは火の具合を見ながら薪を足してもらえる?」
 きっと俺の言い方がまずかったのだろう――それこそ、ナメクジ並みと言ってもいい、秒速一ミリほどの速さでゆーーーーっくり、ゆーーーーーっくり鍋をかき回すラビを見ていられなくて、月彦はお玉係を代わる事にした。
(ゆっくりって言ったのは、慌てて鍋を倒したりしないように、っていう意味で言ったんだけどな……)
 一生懸命やっているであろうことは痛いほどに伝わってくるだけに、月彦としても指摘しづらいのだった。


「それじゃあ、いっただきまーす!」
「いただきます!」
「いただきまーす」
「いただき、ます」
 カレーとサラダが出来上がり、ご飯も無事炊けて配膳が終わるや、全員一斉にスプーンを握る。昼間ハイキングで目一杯体を動かし、さらに寒風吹きすさぶ河原でそれこそ竈作りから始める事二時間以上。既に腹は限界に近いほどに減っていた。
 だからこそ、というのもあるのだろう。スプーンに掬ったカレーの一口目は、確かに矢紗美が言った通り普段口にしているカレーの三倍は美味く感じられた。
「ホント美味しいですね。カレールーも普通に市販されてるのをまんま使っただけなのに」
「出来れば夏場とか、秋口とかだともっと美味しいんだけどねぇ。…………やっぱり、ちょっと寒いわね」
「それは……しょうがないですね。もう少し火を強くしましょうか」
 たき火を中心に車座になって食べているのだが、月彦はさらに薪を放り込み、たき火の勢いを盛んにする。
「……またこのご飯が美味しいですね。電子ジャーで炊いたのよりふっくらしてて……ちょっとお焦げの所なんかすごく香ばしいですし」
「でしょでしょー? コレがいいのよ!」
 さらに二口、三口と立て続けにカレーを頬張っていく。魚介の旨さがしっかりと活きたまごう事無きシーフードカレーの味に、月彦は己の胃袋が大いに満足するのを感じた。
「レミちゃんが作ってくれたマカロニサラダも凄く美味しいよ。ドレッシングが薄味で、その分野菜の味が活きてるし。マカロニの茹で具合もすごくいい」
「そうね、レミちゃん、たしか中学生よね? 私も中学の頃にこんなサラダは作れなかったわ」
 矢紗美もサラダを口に運んでは、感心するように頷く。
「ありがとー、婦警さん、ぶちょーさん。いちおーこれでも学校じゃ、お料理クラブに入ってるんだよね」
 えへん、とばかりにレミが胸を張る。うぅぅー。と奇妙なうなり声のようなものを月彦が耳にしたのはその時だった。
「あ、あぁ……そうそう。月島さんも石運びありがとう。おかげでこんな立派な竈が作れたし、そういう意味では月島さんが一番の功労者だよね」
 すかさずフォローをいれると、ラビは忽ち笑顔になった。ふふふと小さく矢紗美が笑い、レミもまたやれやれという顔をする。
「とりあえず、のんびりおしゃべりするのはバンガローに戻ってからの方がいいかもしれないわね。……言い出しっぺの私が言うのも何だけど、こんな所にずっと居たら雪乃の隣に寝るハメになっちゃいそう」
「確かにそうですね。早めに食べて、片づけ済ませちゃいましょうか」
「さんせーい!」
「…………。」
 こくこくとラビが頷き、各々それぞれのペースで“早めに”食事を終わらせる。後かたづけをしてバンガローへと戻った時には、すっかり日も暮れていた。



 予定では天体観測を行うのは夜の八時から十時の二時間という事になっていた。それまでは片方のバンガローに四人で集まり、レミが持参したトランプをすることになった。
「あちゃー、また大貧民だ。ぜんっぜん上がれない」
「紺崎クンの場合はカードの出し方に問題があると思うわよ? さっきだってAを出すタイミングさえ間違えなかったら富豪には上がれてたんだし」
「いやでも、あそこはAを出して権利をとらないとヤバいと思ったんで……」
「でも結局そのAを2で切られて、切り札を失った挙げ句月島さんに先に上がられたわけでしょ?」
「け、結果論としてはそうなりますけど! ていうか矢紗美さんが強すぎるんですよ! さっきから富豪と大富豪を行ったり来たりしてるだけじゃないですか!」
「あら、それを言うなら月島さんもでしょ? ていうか、私が大富豪になったのは一回だけで、あとはずーっと月島さんが大富豪なんだか、どっちが強いのか明白だと思うけど」
「…………おねーちゃん、トランプだけは妙に強いんだよね……。…………ブラックジャックなんか、殆ど無敵だし」
 月彦ほど悲惨ではないものの、殆ど貧民が定位置であるレミがつまらなそうにため息をつきながら呟く。
(……トランプに強いっていうよりは、多分数字に強いんじゃないか)
 何となく、月彦はそうではないかと思うのだった。以前ラビに数学と物理の指南を受けた際にも、特にそう感じた。
「ねえ月島さん。次はちょっと趣向を変えて、大貧民じゃなくて七並べにしない? 俺、七並べなら自信あるんだ!」
「それはいいけど、紺崎クン。そろそろ時間じゃないの?」
 あっ、と。月彦は居間に備え付けられている柱時計へと目をやった。矢紗美の言うとおり、時計の針は八時にさしかかっていることを示していた。
「観測の時間……ですね」
 月彦の呟きに、待ってました!と言わんばかりにラビが目を輝かせ、ソファから立ち上がる。
「そういえば、観測って何処でするの? やっぱり外?」
「いえ、えーと……確か二階のバルコニーからです。管理人さんがこっちのバンガローの二階に望遠鏡を運んでくれてる筈なんですが……」
「あ、さっき二階に上がった時に見たよー。おっきな大根の親玉みたいな望遠鏡がバルコニーの前に置いてあった」
「だ、そうです。早速二階に――」
 と、月彦が喋り終わるのを待たずして、ラビが飛ぶような速さで二階へと駆け上がっていく。
「……月島さん、よっぽど楽しみだったんだな。……えーと、ノートにメモ帳、筆記用具っと」
 苦笑混じりに観測に必要な道具をそろえていると、どんがらがっしゃーん!と凄まじい音が二階から響いてきた。
「なっ……つ、月島さん……何を……」
「まさかおねーちゃん、自分で望遠鏡バルコニーに出そうとしたんじゃ……」
 青ざめた顔でレミが言い、その言葉を聞いて月彦もまた青ざめた。
「…………早く二階に行った方が良さそうね」
 矢紗美も保護者兼責任者という立場上、何かが起きたら人ごとでは済まされない。レミ、矢紗美に続いて月彦も大あわてで準備をし、二階へと上がった。



 幸い、というべきか。ラビは天体望遠鏡を動かそうとしてそれを固定する三脚ごと床に倒してしまっただけらしかった。派手な音の割には部品がとれているという事も無く、月彦は慎重に望遠鏡をバルコニーへと出し、レンズをのぞき込んでその機能が失われていない事を確認する。
「良かった……壊れてはないみたいだ」
「……このサイズの天体望遠鏡なら下手すると百万近くするかもしれないわね。……月島さん、気を付けたほうがいいわよ?」
 冗談交じりの矢紗美の忠告に、ラビはしゅんと肩を縮こまらせる。
「ん、いい星空。昼間晴れてたから多分大丈夫とは思ってたけど、これなら思う存分観測出来そうね」
 矢紗美が夜空を見上げ、軽く伸びをしながら呟く。
「予報でも週末は快晴ってなってましたしね」
「でも、本当は雪乃と一緒にやるはずだったのよね? そう考えると、あの子が途中退場したのはある意味僥倖だったかもしれないわね」
「どうしてですか?」
「だって、あの子結構な雨女だもの。あの子と一緒に出かけると、しょっちゅー雨に降られるのよね」
 そういえば、雪乃とのデートも雨が多かった気がすると、月彦はふと記憶を巡らせる。もっとも、そんなものはただの迷信であり、雨が降るのはただの偶然だろうとも思っていたが。
「……てゆーか、みんな寒くないの? 私寒いから中に居てもいーい?」
「ちゃんと上着着てきたから大丈夫だよ。矢紗美さんも寒かったら中入ってて大丈夫ですよ。月島さんと二人でちゃんとやりますから」
「大丈夫、私もちゃんと着込んできたし、それに星を見るのは嫌いじゃないしね」
「えっ、そうなんですか?」
 月彦の意外そうな声がよほど意外だったのか、矢紗美がふふふと笑みを漏らす。ちなみにレミはあっさりと屋内へと引っ込んでしまった。
「私が星を見るのが好きって、そんなに似合わないかしら?」
「に、似合わないって事はないですけど……正直、ちょっと意外です」
「少なくとも、雪乃よりは確実に好きだと思うわよ? あの子はほら、花より団子な性格だし。星座も……そうねぇ、あそこに三つ並んでるのがオリオン座のベルトの部分だって事くらいは分かるわよ?」
「…………えーと」
 どれですか?――とは、部長という立場上さすがに聞けず、目を爛々と輝かせて矢紗美を見るラビの影に隠れる形で月彦はノートをとる用意をする。
「ちなみにオリオン座のペテルギウスと、こいぬ座のプロキオンと、おおいぬ座のシリウスの三つが冬の大三角形なのよね」
「………………!!!!」
 ふすー、ふすーと音が聞こえるほどにラビは鼻息を荒くし、矢紗美の言葉に感極まったように両こぶしを握りしめぶんぶんと振る。。
「で、でも……ペテル、ギウス……も、すぐっ……」
「そーそー。爆発して白色矮星になっちゃうんだっけ? 正確には六百年くらい前に爆発しちゃった時の光がそろそろ届くかもって事んだんだけど……六百光年離れてるんだったかな?」
「……矢紗美さん、随分詳しいですね」
「一般常識の範疇だと思うわよ? さすがに自宅で望遠鏡で夜空を見上げるような趣味はないし」
「一般常識……ですか」
 仮にも天文部部長という立場上、これではまずいのではないか――二人の会話を聞きながら、月彦はそんな事を思うのだった。


 約二時間の天体観測を終えて――望遠鏡を覗いていたのは殆どラビで、必死にメモ帳やノートに走り書きを残していたが、その意味するところは殆ど月彦には分からなかった――望遠鏡を屋内へとしまった。
「それにしても随分立派な天体望遠鏡ねえ。……誰が買ったのかしら」
「先生から聞いた話ですけど、昔の天文部のOBが何人かでお金を出し合って、後輩の為に買ってこのキャンプ場に寄付したそうなんです。このキャンプ場を経営してる人もうちの学校のOBですから、ずっと預かっててくれたそうなんですよ」
「なるほどねー。……ところでさ、気になってたんだけど、このバンガローってベッド二つしかないわよね?」
「ええ……えーと、六人まで泊まれるバンガローもあったんですけど、どういうわけか先生が借りたのは二人用のやつでして……」
「…………あの子が考えそうな事ね」
 矢紗美が苦笑する。
「っていうことは、私と紺崎クンが同じバンガローで、月島さんとレミちゃんが同じバンガローって事になるのかしら?」
「ぁっ……だ、だめ、です!」
 と、矢紗美の言葉にダメ出しをしてきたのは、意外なことにラビだった。
「つ、きひこ、君と……や、やざみ、さん……同じ、ダメ……です!」
「ど、どうしたの……月島さん?」
 まさか、“関係”を見破られたわけではないと思うのだが、他にラビに反対される理由が思いつかなかった。
「あー、きっとアレね。雪乃にそう言われたんでしょ?」
「あぁ!」
 そういえば、雪乃が去り際、ラビに何かを耳打ちしていた。アレは、紺崎月彦と雛森矢紗美を同じ部屋に泊まらせるな、という事だったのか。
「死にかけててもそういうところには気が回るのね、あの子は。……仕方ないわ、じゃあ……そうねえ。月島さん、私と一緒に泊まる?」
 ラビは少しだけ逡巡して、こくりと頷いた。
「うんうん。一応保護者としては、紺崎クンと月島さんを同じ部屋に泊めるわけにはいかないのよね。……“事故”が起きちゃうかもしれないし」
「起きません!」
 月彦は声高に叫んだが、その叫びには悲しいほどに説得力が無かった。
「レミちゃんの事が心配だけど、紺崎クンでもさすがに中学生には手を出さないと思うし…………信じていいのよね? 紺崎クン」
「や、矢紗美さん! 怒りますよ!?」
「あはは。……それじゃあ、夜も遅いし、月島さん。私たちのバンガローに移動しましょうか」
 矢紗美とラビがそれぞれ着替えや日用品の入ったバッグを手に、バンガローから出て行く。月彦は二人を見送った後、少し考えて、一応念のために施錠はきちんと行った。二人を閉め出したいわけではなく、万が一にも物取りや変質者の類が来ないとも限らないからだ。
「さて、と……あれ、そういえばレミちゃんは何処に行ったのかな」
 観測が始まる前に寒いからと屋内に引っ込んでしまってからの足取りがつかめなくて、月彦はそれとなくバンガロー内を探してみた。
「あぁ、お風呂か」
 そして、脱衣所へと通じるドア越しに鼻歌のようなものが聞こえて、同時に安堵した。
「…………危ない危ない。うっかりドア開けて“キャー!”なんてのは御免だからな」
 慎重に行動していて良かったと月彦が頷いていると、程なく脱衣所の扉が内側から開いた。
「あー、いいお風呂だったぁ。……あ、ぶちょーさん。もう観測終わったの?」
「ついさっきね。月島さんと矢紗美さんも自分たちのバンガローに戻っていったよ」
「そっかぁ。じゃあ、私とぶちょーさんが一緒に泊まるんだね」
 何やら意味深なレミの呟きにぎょっとしながらも、月彦は無視していそいそと着替えの準備を始める。
「じゃ、じゃあ俺も風呂に入ってくるから。もし眠かったら先に寝ててもいいよ」
「りょーかいっ。…………一時間以上かけてたーっぷりお湯に浸かってたから、きっといっぱいお出汁が出てて美味しいよ。好きなだけ楽しんでねっ」
「なっ……」
 絶句する月彦をからかうように、レミはキャハと笑ってぴょんぴょんと跳ねて二階へと上がっていってしまう。
「…………なんか、入りづらいな」
 紺崎クンでもさすがに中学生には手を出さないと思うし…………信じていいのよね?――不意に脳内で矢紗美の言葉が再生される。
(…………大丈夫、大丈夫だ。俺はロリコンなんかじゃない)
 まるで呪文のように呟きながら、月彦は脱衣所へと足を踏み入れた。

 湯から上がり、二階のベッドスペースへと向かうと、黄色いパジャマに着替えたレミがベッドの上に寝そべってなにやらトランプを広げている所だった。
「おかえりー、ぶちょーさん。お風呂どうだった?」
「あぁ、うん……すごく良かったよ」
 ハーフ中学生の生エキスがたっぷりと染み出した湯船は甘ったるいような、どこか心が浮き立つような香りを放っており、その危険なフェロモンに月彦はがつんがつん本能を揺さぶられ、結局ほとんど浸からずに体だけ洗って出来てしまったというのが真相だった。
(…………もしここに居るのが真央だったら、間違いなく俺は飛びかかっている)
 しかし、目の前に居るのは真央ではなく、レミだ。背の高さは言わずもがな、体つきもまるで違う。中学一年生の未発達なその体躯には微塵も惹かれないし、何よりパジャマがはちきれんばかりに存在を強調する母譲りのアレに頭を悩まされる事もない。
 そう、何一つ惹かれるものなど無いはずなのに――どういうわけか、今宵に限って『つるぺたもそんなに悪くないんじゃなかろうか』等と考えてしまう自分がいるから恐ろしい。
「れ、レミちゃんは……何をしてるのかな」
 とにかく、一刻も早く平常心を取り戻さなければならない。月彦はさりげなく――ベッドは五十センチほどのスペースを空けて並んで配置されている――隣のベッドへと腰を下ろした。
「んー……ちょっとねー。簡単な占い」
「へぇ、レミちゃんも占い好きなんだ?」
「まーねー。おねーちゃんほど上手じゃないし、正確でもないけど」
 レミはぺたぺたと、まるでタロットカードでも扱うような手つきでトランプをベッドの上に配置し、うーんと首を捻っている。
「ちなみに、それは何の占い?」
「恋占いだよ」
「恋占い……」
「おねーちゃんとぶちょーさんは巧くいくのかなーって」
「なっ……」
 絶句する月彦をよそに、レミはまたしてもうーんと大きく首を捻る。
「…………結構、難しいかも?」
「む、難しいって……何が?」
「こんなパターン初めてで、私もよくわかんないんだけど…………ぶちょーさんの周りに邪魔な星がいっぱい見えるの。おっかしいなぁ……もう一度最初からやりなおそっと」
「そ、そーーだ! レミちゃんに聞きたい事があったんだ!」
 なんだかこのまま占いを続けさせるのは非常に危険な気がして、月彦は強引に話題を変える事にした。
「ほらっ、昼間! クッキーの話した時に、月島さんが怒ってたけど…………あれってどういう事なの?」
「うん? ぶちょーさんが言ってるのって、フォーチュン・クッキーの事でしょ?」
「ふぉーちゅんくっきー?」
「そそ。おねーちゃんから貰ったクッキー、中に何か入ってなかった?」
「……入ってた」
「それがフォーチュン・クッキーだよ。おみくじクッキーって言ったりもするけど、私はフォーチュンって呼び名の方が好き」
「…………あれ作ったの、やっぱりレミちゃん?」
「うん。おねーちゃんにクッキーなんか作れないもん。…………クッキーの事をぶちょーさんが知ってるって事は、おねーちゃんに貰ったんだよね?」
「……うん、貰った」
「あちゃー……」
 レミが自分の額をぱんっ、と叩く。
「ごめんね、ぶちょーさん。アレ失敗作なの。なんか変な文字出てなかった?」
「……えーと、どうだったかな」
 本当はなんて書いてあったのか、無論覚えてはいたが月彦はあえてはぐらかした。
(ていうか……“出てなかった?”って、どういう事だ? レミちゃんが書いたんじゃないのか?)
 あれは予め運勢(?)を書いた紙をクッキーの中に忍ばせることで完成するものではないのだろうか。
「どーしても運命予測とその焼き付けがうまくいかなくって。捨てるつもりだったのを、おねーちゃんに勝手に持ち出されちゃったの」
 運命予測? 焼き付け?――聞き慣れない言葉に月彦は首を傾げながらも、兎にも角にも一番の懸念を口にしてみることにした。
「そ、そうなんだ……じゃあ、あのおみくじに書かれてた内容って、まるきりデタラメ……って思っていいのかな?」
「うーん……そこが難しい所なんだよね。まるきりデタラメ、っていうわけでもないけど、正確でもないってゆーか……自分で食べた時なんて“発育不良”なんて運命予測ですらない意味不明な文字出たりしてたし……」
「たとえば……“大凶”って出たら危ないとか、そういうのは?」
「え、ぶちょーさん大凶出たの?」
 ぎょっと、レミが上体を引きながら声を上げる。
「えーと……いや、出たっていえば出たっていうか……出たような気がしなくもないっていうか……」
「多分、バグでたまたま出ただけだと思うけど……もしそうじゃなかったら、かなりヤバいよ」
「ぐ、具体的には……?」
「最悪、死んじゃうかもしれない」
「え……?」
「そうじゃなくても、死にそうなくらいヤバい目には遭う……かも……。……あ、うん……多分大丈夫だとは思うよ? なにせ失敗作だし。たまたまだよ、うん」
「そ、そっか……たまたま、か」
 ハハハと空笑いをする月彦にあわせてレミも笑う。
「そ、そーいえばさぁ、ぶちょーさん。私もぶちょーさんに聞きたい事があったんだよね」
 今度はまるでレミの方が話題を変えようとするかのような、強引なタイミングで話を切り出してくる。
「な、何かな?」
「ぶちょーさんは、おねーちゃんの事どう思ってるの?」
 それは、投球に例えるならばど真ん中のストレート。空手で言うならば正拳突き。言わば“逃げ”の許されない質問だった。
「…………同じ部活の部員として、仲良くしていきたいと思ってるよ」
 だから、月彦は正直に答えた。
「……それだけ?」
 ずいと。レミはいつのまにか月彦の方のベッドに乗り移り、鼻が触れ合いそうなほどの距離で問いつめてくる。ふわりと、シャンプーだかリンスさかのいい匂いが、月彦の鼻を擽った。
「そ、それだけって……どういう意味?」
「だからぁ、ぶちょーさんはおねーちゃんと“ただの友達”以上になる気はないのかなーってコト」
 ない、と言い切ってしまったら、何か大切なものを壊してしまう気がして、月彦は答えられなかった。
「……妹としてもさぁ、心配なんだよねー。……おねーちゃんあんな性格だし、しかも超ブキヨーだし。ほっといたら一日中部屋に籠もって占いばっかりやってるし。……考えてもみてよ、ずーっと一人で黙々とタロットカードを並べたりひっくり返したりして、時々フフッ、って笑ったりするんだよ!? 正直ちょっと怖いって思うじゃない」
「そ、それは……うん……分かる気がするよ」
「だからさー。おねーちゃんも好きな男の人とか出来たら、休みの日にデートしたりするんじゃないかなーって思うわけなんだよねー」
「は、ははは…………ま、まぁ彼氏彼女とかはともかくとして、休みの日に一緒に遊びに行くくらいなら、引き受けてもいいよ」
「そうだね。いくらなんでもいきなり恋人同士っていうのは無理があるし、おねーちゃんすんごい恥ずかしがり屋だし、ああでもだけどね? これだけは教えといたげる。………………おねーちゃんって、脱いだら結構スゴいよ?」
「……どんな風に?」
 本来なら聞き流すべき所なのだが、尋ね返してしまうのが男の悲しい性だった。
「…………答えは自分で確かめて。ぶちょーさんなら、そんなに難しくないと思うよ。妹の私が保証したげる」
 小悪魔のように笑って、レミはぴょんと自分のベッドへと戻るや、そのまま掛け布団のしたに潜り込んでしまう。
「なんだか眠くなっちゃった。おやすみ、ぶちょーさん。消灯と戸締まりの確認よろしくねー。あとあと、夜這いは絶対止めてね? 体格的に、私じゃ絶対ぶちょーさんには勝てないから」
「す、するわけないだろ!」
 声を荒げると、レミはきゃっ、と声を上げて布団に潜ってしまう。やれやれと、月彦は苦笑を漏らしながら階下へと降り、再度戸締まりを確認して二階へと戻る。備品の目覚まし時計にアラームをセットし、枕元のスイッチで消灯をする。
(…………矢紗美さん達は、まだ起きてるのか)
 隣のバンガローにはまだ灯りが灯っているのを窓越しに見ながら、月彦もまた自分のベッドに潜り込む。
 そんなに自覚はなかったが、恐らく体の方は疲れていたのだろう。堪っていた筈のムラムラも何処へやら、驚くほどにあっさりと、月彦の意識は眠りの谷へと落ちていった。



『あぁっ…………ぁぁぁぁっ…………!』
 声が、聞こえた。
『あぁぁあっ、ぁぁっ……いぃっ……あぁっ……ぁぁぁ……!』
 鼻腔を擽る、甘酸っぱい香り。それは女性の汗と、その体液の香りが混じった時に感じる匂いであると、月彦は経験から知っていた。
「あぁぁぁぁっ! ぶちょーさぁあんっ……あぁぁぁっ!!」
 徐々に、意識がはっきりとしてくる。自分が誰かを組み敷き、抱いているのだというコトを、月彦は自覚する。
「はぁっ……はぁっ……もぉ、だめぇ…………ァはぁ……!」
 小さな、とても小さな体だった。小振りな尻に、ふくらみかけの胸。どうやら抵抗をしているようだが、その力はか弱く、およそ“行為”の邪魔にはなり得ない。
「かはァッ! やっ、だ、めぇ……ぶちょーさんの、太すぎぃぃ……レミのおまんこ裂け、ちゃうぅぅ……!」
 暴れる手足を押さえつけ、月彦は獣欲のままにその巨根をねじ込んでいく。“獲物”の秘部が裂けたりしないよう、そこだけは細心の注意を払いながら、しかし貪欲にその幼い体を貪っていく。
「フーッ……フーッ……」
 月彦は、いつになく興奮していた。未成熟とはいえ、ふくらみかけの胸とツンと尖った先端が揺れるたびに鼻息を荒くし、堪らずむしゃぶりつく。
「あぁぁあっ! やぁっ……おっぱい、だめぇ……やっ、そんな、とこっ……ひゃああっっ!」
 胸とその頂をなめ回した後、腕を上げさせ、その脇の下を月彦は執拗に舐め上げる。くすぐったいのか、“獲物”は声を震わせて喘ぎ、ぎゅううぅ、と痛いほどに剛直を締め上げてくる。
「はぁっ……はぁっ……ぶ、ぶちょー……さぁん……もう、ホントに止めてぇぇ…………こんなコトしちゃダメだよぉ……」
 “獲物”の命乞いなど、獣欲に猛った月彦の耳には届かない。むしろ興奮すら覚え、月彦は“獲物”の目尻に浮かんだ涙を舌先で舐め取るや、体位を入れ替え、四つんばいにさせるとその腰のくびれをしっかりと掴み、ケダモノのように腰を振り始める。
「あぁっ……あぁっ、……ぅっ、ぁあっ……ひぃっ……ぁああっ……お、奥……にぃ……ずんずん来るぅぅっ……ぁああっ、ぁあぁぁッ!!」
 悲鳴混じりながらも、“獲物”が徐々に悦に入った声を上げ始める。月彦は舌なめずりをして、さらに剛直の角度を変え、時折抉るように腰を動かして、獲物がより甲高い声を上げるように調節していく。
「あひぃぃぃいっ! ぁぁっ……ぁぁぁっ……そん、なぁぁ……は、初めて、なのにぃ…………こんな、こんなの……教えられたら……お、おかしくなっちゃぅぅ……!」
 喘ぎっぱなしの口から漏れる唾液と、剛直によってひっきりなしに書き出される愛液が太股を濡らし、伝い、シーツに大きな染みを作っていく。
 くすりと、悪い笑みを一つ。もはや、逆らう気など毛ほども無くなったらしい獲物に被さり、月彦はそっと、耳打ちをする。
「えっ……やっ、やぁっ……だ、ダメ……ぶちょーさぁん、ナカは、絶対、ダメ、だよぉ!」
 途端に、獲物が抵抗を始める。が、それをさらに押さえつけ、月彦は強引に腰を使う。そうやって抵抗をする牝に無理矢理中出しを――種付けをするコトこそが、牡としての本懐であると言わんばかりに。
「だ、ダメッ……ホントにダメだってばぁ! 今日、危ない日なのぉ……ナカに出されたら絶対妊娠しちゃうぅ! 大きくなったお腹隠しながら学校行くのなんて嫌だよぉぉ!」
 “前兆”を感じ取ったのか、獲物の抵抗がいっそう激しくなる。そしてそれこそが月彦に最高潮の興奮を呼んだ。
「ひっ……!」
 ずんっ、と最奥まで剛直をねじ込み、子宮口と剛直の先端を密着させる。
 ぎゅうと。両腕で獲物を抱きしめるように拘束し、一気に――。
「かはっ、ぁ……ひぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅ!!!」
 どくっ、どぷっ、どりゅっ!
 どくっ、どぷぷっ、どくっ!
 小さな獲物の体内奥深くへ、特濃の牡液を注ぎ込んでいく。
「い、やぁっ、ぁぁぁ…………こ、濃いの……いっぱい入ってくるぅぅ…………ぶちょーさんに種付けされちゃってるぅぅ……んんっ……子宮、熱いぃぃ…………」
 はーっ、はーっ――……そんな息づかいは、自分のものか獲物のものか、月彦にはもう分からなかった。
「ひ、ひどいよぉ……ぶちょーさぁん……無理矢理、こんなコトするなんてぇ……あんっ……まだ、出て……」
 どりゅうっ、どぷ!
 しつこく続く射精を続けながら、月彦は再度囁きかける。
「はぁーっ…………はぁーっ…………何……つ、続き? だ、ダメだよぉ……こ、これ以上は……絶対、だめぇ…………えっ……?」
 月彦はさらに囁き、萎えしらずの剛直でこんっ、と。獲物の膣奥を小突く。
「ぁんっ…………う、嘘……ぶちょーさん……私のコト、好き、なの? ……ぁんっ……ほ、本当に? おねーちゃんよりも?」
 頷く代わりに、ぐりぐりと。剛直で抉るようにして獲物を手なずける。
「あんっ、あんっ……わ、分かった……いいよ。……私も、ぶちょーさんのコト、そんなに嫌いじゃないから…………レミのキツキツな中学生まんこでいーっぱい気持ちよくなってね?」
 中学生?――その単語に、はたと。
 月彦の意識は覚醒した。


 
 
「うわぁああああああああああああああああああああああっ!!」
 叫び声と共に、月彦は目を見開き、上体を起こした。
「はぁっ、はぁっ、はぁっ、はぁっ……」
 ぺちぺちと、両手で自分の顔を触り、続けて肩、胸と触っていく。寝間着は、きちんと着ている。布団も腰まで被っている、外はまだちょっと暗い。
 そこまで確認して、良かった、夢かと安堵の息をつきかけた所で――はたと。月彦は“何か”が自分の体の上に乗っているコトに気がついた。
「ンゥ……なーにぃ……どーしたのぉ?」
「んなーーーーーーーーっ!?」
 視線を下方へとやるなり、そこに下着姿のレミを見つけて――月彦は大あわてでベッドから飛び出し、絨毯の上に転がった。
「うわっ、うわっ、うわーーーーーー!」
「どしたの? ぶちょーさん。オバケでも見たような顔して…………ってあれ、なんで私こっちで寝てるんだろ」
 絨毯の上を仰向けに這うようにしながらベッドから遠ざかる月彦を尻目に、レミはブラとショーツだけの格好でベッドの上にあぐらをかいたままはてなと首を傾げる。
「あ、そっか。夜中トイレに起きた後、寝ぼけてぶちょーさんのベッドに潜り込んじゃったんだ。ごめんねー、ぶちょーさん。私、家でもよくやっちゃうの」
 レミは軽く拳をにぎって自分の頭を小突き、てへっ、と舌を出す。
「えーとパジャマは、っと……あったあった。そうそう、夜中暑くって脱いじゃったんだっけ」
 さらに、月彦のベッドの上を漁り、自分のパジャマを見つけるやいそいそと着込んでいく。
「てゆーか、ぶちょーさんいくらなんでも驚きすぎじゃない? ひょっとして何か悪い夢でも見たの?」
「ゆ、夢……?」
 ここにきて漸く、月彦は少しばかり落ち着きを取り戻した。
(夢……やっぱり、夢だったのか?)
 自分は、レミを襲ったりはしていなかったのか。そのことがどうにも疑わしくて、落ち着くことが出来ない。
(なにせ、こないだは……)
 夢だと思いこみたかったのに、現実であったばかりだ。
「そーそー。そういえば…………私と一緒に寝ると変な夢見るーって、おねーちゃんにも嫌がられるんだよね。私は誰かと一緒に布団の中はいるの好きなんだけど…………ひょっとして、ぶちょーさんも“変な夢”見ちゃったクチ?」
「…………見た、かも、しれない」
「どんな夢だった?」
 言えるわけがなかった。
「よ、よく……覚えてない、けど。……すっげー怖い夢だった」
「ふぅん……おねーちゃんも教えてくれないんだよね。聞いても、顔真っ赤にしてタオルでぺちぺちしてくるだけでさ」
 一体、ラビはどんな夢を見たのだろうか。気にはなるが、およそろくでもない内容なのではないかと、月彦は思う。
(…………ひょっとして、添い寝するとエロい夢見ちゃう体質とか、そういうんじゃ……)
 ここにいたって漸く、月彦は自分が禁忌を犯さずに済んだらしいという実感を得始めていた。一応念のためベッドの上を調べてみたが、そこには涎の染み一つ残っては居なかった。
(よ、良かった…………本当に良かった)
 安堵の余り、涙すら滲んだ。もしアレが現実であったなら、さすがに生きている事自体に罪悪感を覚えてしまう所だった。
「っ……くっ…………」
 ほっとした反動――とでもいうかのように、ここ数日穏やかだった胃がキリキリと痛み始める。正確にはほっとしたからではなく、ほっとしたことによってその痛みを自覚したという事なのだろう。
(くっ……薬っ……)
 月彦は殆ど転げ落ちるように階段を下り、病院で貰った粉薬をコップの水と共に飲み干す。
「んぐ、んぐ……ぷはぁぁ…………」
 薬に含まれる有効成分によって、徐々に胃が楽になっていくのを感じながら、月彦はずるずるとその場に尻餅をついた。
(…………こんな事繰り返してたら、ぜってー早死にする気がする)
 レミには悪気などなさそうなだけに、責めるわけにもいかない。月彦に出来ることは何事もなかったような笑顔で二階のベッドスペースへと戻る事だけだった。



 朝食は初日の残りの炭を使って、トーストとウインナーを焼いて食べる事になった。肉類がダメなラビには、矢紗美が鉄板を使い同じく余り物の野菜を使って焼きそばやスクランブルエッグを作ってそれらをパンに挟んで食べた。
「へぇ、食パンもこうやって炭で焼くとまた全然違った味になりますね」
「そうねえ。でも、家で炭使って焼いたりなんかできないから、こればかりは出先の特権ね」
「とっても美味しいよー、婦警のおねーちゃん!」
 こくこく、とラビも大きく頷く。
 実のところ、朝食をこうやって食べようと企画したのは矢紗美だった。雪乃の計画では初日の昼と夜はバーベキューにカレーと豪華にいき、二日目の朝以降は余り物の食材で適当に、という事になっていた。
 一応何も残らなかった時の事を考えて食パンやインスタントラーメンなどの保存食も買ってあったのだが、さすがにキャンプ場に来てそんなものを食べるのは忍びないと、それらは麺だけを茹でられ、ラビの焼きそばへと転用されたのだった。
「そういえば紺崎クン。食パンって、どうしてわざわざ“食”ってつくか分かる?」
「えっ……言われてみれば……もともと食べる為のものだから、食ってつけなくてもいいですよね……。フランスパンとか、他のパンと区別するために仕方なくつけたとかですか?」
「昔は絵画のデッサンとかで鉛筆の線を消すのにパンを使ったりしたのよ。だから、食用のパンは食パンって区別したわけ」
「へぇー、知りませんでした」
 ラビもレミも顔を見合わせるようにして感心していた。
「ところで、この後の予定だけど、雪乃の予定じゃ昼までのんびり過ごして、それから帰る事になってるわよね。……でも、合宿としてのメニューはもう消化しちゃったんだし、いっそ少し早めに出て、雪乃の見舞いをしてから帰ろうかと思うんだけど、どう?」
「あっ、俺はそれでいいと思います。先生にお礼も言いたいですし」
「私もさんせー!」
「賛成、です」
「じゃあ後かたづけと掃除終わらせたら、管理人さんに挨拶して病院に行こっか」
 
 矢紗美の言葉の通りに後かたづけと掃除をてきぱきと終わらせ、九時過ぎにはキャンプ場を後にした。
「あれ、そういえば矢紗美さんはどうやってここに来たんですか?」
 当たり前のように雪乃の車へと乗り込み、下山する傍ら、助手席ではてなと月彦は首を捻った。
「最初は自分の車で来て、雪乃を病院まで送ったついでに職場の同僚一人拾って連れてきて、その子に持って帰ってもらったの」
「なるほど、そういう事でしたか」
 何から何まで手際が良い人だと、月彦は感心するばかりだった。
(……まるで、姉ちゃんみたいだ)
 静かに高鳴る胸の鼓動を抑えながらその後も雑談を続け、程なく山の麓の小さな総合病院で矢紗美は車を停めた。
「じゃあ、私はここで待ってるから、お見舞いは三人で行ってきて」
「え、矢紗美さんは行かないんですか?」
「行きたいけど、私と紺崎クンが一緒に行ったら、あの子絶対癇癪起こしちゃうでしょ?」
 確かに、と月彦は納得してしまう。
「……? どーして?」
 素直に首を捻るレミになんと答えたものか、月彦は大いに悩んだ。
「ま、前に三人で一緒に夕飯食べた時に、ちょっと揉めてね。三人顔あわせちゃうと、その時の話が蒸し返されちゃうから」
「そうそう。紺崎クンの言うとおりだから、気にしないで三人で行ってきちゃって。……ああ、あとこれ。さっき寄ったコンビニで買った雑誌も持って行ってあげて。きっと暇してると思うから」
「わかりました。なるべく早く戻ってきます」
 矢紗美に見送られ、月彦はラビ、レミと共に病院の受付へと向かった。手続きをすませ、念のためにと手の消毒とうがい、マスク着用を義務づけられて雪乃の病室へと案内される。雪乃が入院している病室は霧亜のそれのような個室ではなく、六人部屋だった。しかし埋まっているのは二つだけで、一つは高齢の女性患者、もう一つがいわずもがな雪乃だった。
 病室にはドアは無かった。月彦はもう一人の入院患者の迷惑にならぬ様、声を控えめにして仕切カーテン越しにそっと声をかけた。
「先生、具合はどうですか?」
「っっっ…………こ、紺崎くん!?」
 雪乃のそんな上ずった声が聞こえた。
「ちょ、ちょっと待ってね! 今、開けるから!」
 しばらく衣擦れの音が聞こえて、程なくしゃーっとカーテンが開けられた。病衣に身をつつんだ雪乃が顔を赤らめて微笑み――そして、月彦の後ろに並ぶ金髪姉妹に気づくなり、露骨に眉を寄せる。
「無事合宿が終わりましたから、みんなでお見舞いに来たんです。熱は下がりました?」
「…………うん。注射と点滴で、大分楽にはなったわ」
 雪乃のテンションがガタ落ちになるのがハッキリと分かった。幸いなのは、後ろの二人にはそれは単純に病気の為元気が無いという風に見えているらしいという事だった。
「ごめんね、紺崎くんに月島さん。折角の合宿なのにこんな事になっちゃって。……お姉ちゃんが代わりに行ってくれたらしいけど、大丈夫だった?」
「はい、ばっちりでした。観測もきちんとやって、“活動記録”も残せましたし。……その、食事の方も先生が用意してくれた食材のおかげで……」
「そう……。それは……良かったわ」
 しゅーんと。報告を聞けば聞くほどに雪乃が肩を落としていき、月彦は段々見ていられなくなる。
「あ、あのっ、先生!」
「うん? どうしたの、月島さん」
 その時、突然ラビが誰かに突き飛ばされたような勢いで月彦の前へと歩み出、ぼしょぼしょと何かを雪乃に耳打ちをする。
「……ありがとう、月島さん。じゃあ、月島さんがお姉ちゃんと同じバンガローに泊まったのね?」
 こくこくとラビが大きく頷く。
「良かったわ……それが一番心配だったの。お姉ちゃんなんかと一緒に泊まったら、狼の檻の中にお肉を置いて一晩放置するのと同じだもの。……ありがとう、月島さん」
 雪乃は心底感謝しているのか、珍しくラビに笑顔を見せる。さらにその頭まで撫でた事から、本当に感謝しているのだろう。
「ぶちょーさん、それ。せんせーに渡さないと」
「ああ、そうだ! 先生、これ。矢紗美さんからです」
「ありがとう。…………そういえば、お姉ちゃんは?」
 コンビニ袋を受け取りながら、はてなと。雪乃は周囲に視線を這わせる。
「えーと……なんかちょっと職場から急な電話がかかってきたとかで、今は手が離せないそうです」
 咄嗟に、月彦は嘘をついた。ラビも、レミも月彦の話に合わせるのが吉と思ったのか、無言で頷いてみせる。
「そう。とにもかくにも、合宿が中止になったりしなくて良かったわ。私も今夜か、遅くても明日には退院できそうだから、合宿の件に関しては後日改めて聞かせてね」
「はい。俺たちの事は気にせず、先生は体を治す事に専念して下さい」
 あまり長々と話しても雪乃を疲れさせるだけだと、月彦は早めに見舞いを切り上げる事にした。
「せんせっ……いっぱい、休んで、体……治して、ください!」
「うんうん。ばいばいせんせー。お肉美味しかったよー、参加させてくれてありがとー!」
 ラビもレミもそれぞれぺこりと挨拶をして、病室を後にする。そして車に戻るまでの間、ふと思いついたように、レミが口を開いた。
「……きのーはさ、これでもか!っていうくらい厚着してたから気がつかなかったけどさ」
「どうしたの、レミちゃん」
「せんせー、おっぱいすごいね。思わずおかーさんって呼びそうになっちゃった」
「…………レミちゃん達のお母さんも……やっぱりスゴいの?」
 レミはともかく、ラビの発育具合を見るに、ひょっとしたら真狐クラスなのではないかと思うも、その答えはレミからもラビからも返ってこなかった。
「………………。」
「………………。」
「あ、あれ? …………ごめん、もしかして俺、何か変な事聞いた?」
「…………あの、ね。……お母さん……居ない、の」
 ぽつりと、まるで独り言のように呟かれたラビの言葉に、月彦は己がとんでもない地雷を踏んでしまった事に漸く気がついた。
「……ごめん」
「ううん、ぶちょーさんが謝る事じゃないよ。私がよけーな事言っちゃったから…………こっちこそごめんね、ぶちょーさん」
 レミの不自然に明るい声が、尚更痛々しく月彦には聞こえた。
(…………もしかして)
 今はともかく、初期はあれほどに邪険に扱われてもラビが雪乃に懐いていたのは、亡き母親の面影を追っていたからなのでは――不意にそんな事を考えて、月彦は強く胸の辺りを押さえた。


 見舞いを終え、矢紗美と合流した後改めて学校へと向かうその道すがら、月彦は矢紗美に雪乃の容態などを説明した。熱は大分下がったらしく、今夜か遅くても明日には退院できそうだという事も。
 矢紗美はさして興味も無さそうに聞いてはいたが、それはただのポーズであると月彦は思っていた。本心では、誰よりも自分が一番先に見舞いに駆けつけたかったのだろうと。そこをぐっと堪えて、留守番に徹したのだろうと。
(…………矢紗美さん)
 そうやって矢紗美の心中を推し量れば推し量る程に、申し訳なさとは別の感情が沸々とわき上がってくるのを感じる。苦しいような、それでいて切ないような、己一人ではどうにも処理できないその感情にモヤモヤしながら、月彦は運転中何度も何度も横目で矢紗美の方を盗み見る事しか出来なかった。
 小一時間後、車が学校へと到着し、その場で現地解散という形になった。矢紗美も車を駐車場へと停め、あとはバスかタクシーで帰るとの事だった。
「じゃーねー、ぶちょーさん、ふけーのおねーちゃん! またあそぼーねー!」
「つきひこ、くん。……ま、た……明日……」
 元気よくぶんぶん手を振る妹と、ぎこちない挨拶を残す姉の二人を月彦は見送る。
(……ホントに仲が良いんだな)
 手を繋いだまま姿を小さくしていく金髪姉妹の姿になんだかほっこりしながら、さて俺も帰るか――と。リュックを肩にかけたときだった。
(そうだ。……一応もう一回、きちんと矢紗美さんにお礼言っとこう)
 考えてもみれば、最初から合宿をするつもりだった自分たちはともかく、矢紗美は完全にとばっちりを食った形ではないか。ひょっとしたら矢紗美にも何か休日の予定があったのかもしれない。にも関わらず、嫌な顔一つせず、自分たちの保護者を買って出てくれた矢紗美に礼を言わなければという想いが、まるで間欠泉のような激しさで急激にわき上がったのだった。
(矢紗美さんは……)
 その姿を探して、月彦は職員用玄関口に矢紗美の靴がそろえられているのを見つけた。休日とはいえ、恐らく職員室には何らかの職員が居るのだろう。合宿の件の報告か、はたまた妹の件か、その両方かの報告にでも行っているのかもしれない。
 靴があるのだからそのうち戻ってくるだろうと、月彦は玄関の外で矢紗美が戻ってくるのを待つ事にした。
 思ったよりも時間が掛かり、矢紗美が帰ってきたのは十五分ほど経った後だった。
「あれ、どうしたの、紺崎クン。帰らないの?」
「帰ります……けど、その前に。矢紗美さんにお礼言わなきゃ、って思って」
「お礼?」
 きょとんと、まるで自覚がないとばかりに矢紗美は少しだけ首を傾げる。
「先生の代わりをしてくれた事です。……矢紗美さん、本当は何か予定があったんじゃないんですか?」
「やだ、そんなこと心配してたの? 大丈夫よ、予定なんかなんにもなくって、暇だから雪乃でも誘ってどこかドライブでも行こうかなーって思って電話しただけだったんだから。むしろキャンプなんて学生以来で、私もすっごく楽しかったし。こっちがお礼言いたいくらいよ?」
「そう……だったんですか……良かった。…………もし、矢紗美さんの予定を潰しちゃってたらって……そう考えたら、俺……」
「心配性ねえ。そんなにいっぱい気を使ってたら、長生きできないわよ? 同級生の女の子相手ならともかく、私や雪乃相手にそんなに気を使わなくていいんだから。むしろ、年上には思い切り甘えるくらいで丁度良いんじゃない?」
「……ははは。先生に甘えると、後が怖いですから」
 そう、恐らくは今回の合宿の件についても、後から何らかの請求がくるだろうと月彦は覚悟していた。
「私も、怖い?」
「えっ……」
 不意に、目の前に忍び寄った矢紗美に顔をのぞき込まれるような形で問いつめられ、月彦は言葉を失った。
「私に甘えるのも、後が怖い……って思う?」
「えと……その……」
 じーっ……と。無垢な幼女のような目で見つめられ、月彦は答える事が出来ない。ただただ、頬が熱をもっていくのを感じる。
「…………こっそり白状しちゃうけど、もし雪乃が面倒見る事になってた生徒の中に紺崎クンが居なかったら、いくらなんでも合宿の保護者までは引き受けなかったんじゃないかなぁ」
 何かあったときの責任とか、怖いもの――矢紗美はふっと肩を抱きながら、視線を伏せ、呟く。
「……こういう事言うから、“後が怖い”って言われるんだよね。……ごめん、忘れて!」
 ぱっと。一転夏のひまわりの様な笑顔を見せる矢紗美に逆に胸の奥が締め付けられる。ぐっ、と月彦は呻きながらも、胸を押さえてしまう。
「…………そんな事ないです。…………先生と、矢紗美さんは……全然違う、と思います」
 苦しさに耐えかねるように、月彦はついそんな言葉を漏らしてしまう。
「ていうか…………正直、先生にはあまり……甘えたいなぁ、って思う事とか……無いんですけど…………矢紗美さん相手だと……けっこう……クラクラって来ちゃう事がありますし……」
「だけど、“後が怖い”?」
 クスクスと笑いながら、矢紗美が尋ね返してくる。
「……こ、怖くないって言ったら嘘になります、けど……そういう誘惑に抗しかねる事があるのも事実というか……」
「ズルいなぁ、紺崎クンは。…………そうやって私に気を持たせて、無理矢理誘わせようってしてるでしょ?」
「えっ……べ、別にそんなつもりは――」
 否定しかけて、月彦ははたと冷静になる。ひょっとしたら、矢紗美の言うとおりではないのかと。自分はそれとなく矢紗美に水を向けて、自分から強引に誘うようにし向けているのではないか――。
「ズルい子の言うことは聞いてあげない。…………どうしたいのか、紺崎クンの口からはっきり聞かせて」
「う……」
「ほら、紺崎クン?」
 まるで、催眠術かなにかにかけられているような気分だった。自分はただ、純粋に矢紗美に礼を言いたかっただけであるのに、気がついた時には――。
「……えと……矢紗美さん、この後の予定とか、ありますか?」
「んーん? なんにもないよ? あとは家に帰って、ゴロゴロするだけ」
「だ、だったら」
 体中に操り糸をくくりつけられ、勝手に喋らされているような、そんな錯覚すら、月彦は覚える。
 しかし、自分の意志だけではどうにも止められない。
「だったら?」
「これから……お邪魔しても……いいですか?」
「お邪魔して……どうするの?」
 いつになく矢紗美は意地悪だった。小悪魔のように微笑みながら、みなまで月彦に言わせようとしてくる。
「お邪魔して……あ、甘えさせてもらえれば、と……」
「もっと具体的に」
「ぐ、具体的に……って……」
 あわわ、あわわと言葉に月彦を見るに見かねたように、矢紗美がフフフと声を漏らす。
「ごめん、ちょっと意地悪だったね。…………いいよ、うちにおいで」
 矢紗美の手が、月彦の肩へと触れる。そのままぐいと押さえつけられて、月彦はその力に逆らわず、俄に体をナナメに崩す体勢になる。その下がった耳へと、矢紗美がまるで口づけをするかのように、唇を寄せる。
「甘えさせてあげる」



「ごめん、ちょっと片づけてくるから、少しだけ待ってて」
「はい」
 タクシーで共にマンションに乗り付け、部屋の前まで来るなり矢紗美はそう言って一足先に中へと入ってしまう。
「お待たせ、入って、紺崎クン」
 十五分ほど待った所で漸く許しが出て、月彦は久しぶりに矢紗美の部屋に上がった。
「……矢紗美さんの部屋に来るの、随分久しぶりな気がします。前に来たのは確か――」
「雪乃のアルバム見た時かな? あっ、そーだ。紺崎クンお腹減ってるんじゃない?」
 言われてみればと、月彦は腕時計に視線を落とす。気がつくと短針が十二にさしかかろうとしていた。
「良かったら何か作るけど、リクエストはある?」
「えーと……すみません。それじゃあ、何か消化の良さそうなものを……」
「……どうしたの? 体の具合でも悪いの?」
「あぁ、いえ……そういうわけじゃないんですけど……」
 誤魔化そうかと一瞬考えて、しかし他に“消化の良さそうなモノ”が食べたくなる理由を咄嗟に思いつけなくて、月彦は仕方なく正直に話す事にした。
「最近、ちょっと胃の調子が悪くて……」
「そうだったんだ……ひょっとして、昨日のバーベキューやカレーも辛かったんじゃない? ………………そういえば、今朝会った時、紺崎クン顔色真っ青だったわね」
「あぁ……それは……」
 消化の悪い食べ物を食べたからではなく、“怖い夢”を見てしまったショックが抜け切れてなかっただけだと思ったが、説明は省いた。
「分かったわ。そういうことなら任せておいて。すぐ準備するから、紺崎クンは向こうの部屋でテレビでも見てくつろいでて」
「あっ、何か手伝う事があったら――」
「いいからいいから。紺崎クンは大人しくしてて。……“甘えさせてあげる”って言ったでしょ? お姉さんに任せておきなさい」
 月彦は背中を押される形で居間へと追いやられ、リビングから閉め出されてしまう。やむなくコタツに入って――無論掘り炬燵――スイッチを入れ、テレビをつける。
(お姉さん、か……)
 不思議とその単語にドキドキしながら、月彦は矢紗美の帰りを待ちわびた。

「おまたせー。冷蔵庫に何にも無くって、こんなのしか作れなかったけど、味は保証するから安心して」
「いえ、そんな……十分です。いただきます!」
 矢紗美が作ったのは小さめの土鍋に入った鍋焼きうどんだった。うどんとはいってもきしめんの様に平べったい麺で、昆布出汁のスープの中に温泉卵状に煮えた卵と、細切りのネギが入っているだけの簡単なものだったが、矢紗美の言うとおり味は抜群だった。
「とっても熱いから、火傷に気を付けてね」
 矢紗美もまた対面席へと座り、まったく同じデザインの土鍋を自らの前へと置く。中身もどうやらまったく同じものらしかった。
 腹が減っていたこともあり、夢中になってはふはふと麺を冷ましながら食らいつき――もちろん、意識的によく噛みはした――もう少しで食べ終わるという所で、はたと月彦は手を止めた。
(…………待てよ、あんまり早く食べ終わったら、“足りない”って催促してるみたいだよな)
 見れば、ほぼ同じ時間に食べ始めた矢紗美の方はまだ半分ほどしか平らげていない。やむなく月彦はペースダウンをして、なるべく同じくらいの時間に食べ終わるように調節をした。
「……ごちそうさまでした」
「ごちそうさま。…………紺崎クン、本当にこれだけで良かったの? まだまだ食べるなら何か作ってくるけど」
「いえ、ばっちりです。胃を痛めてから、ほんと小食になっちゃって…………バーベキューの時も俺、そんなに食べなかったじゃないですか」
「そういえば……そうね。カレーも一杯きりでお代わりもしなかったし……ちょっと気にはなってたのよね」
 矢紗美が立ち上がり、土鍋の後かたづけを始める。月彦も、慌てて立ち上がった。
「あ、俺がやりますよ。どうせ食後の薬も飲まなきゃいけないんで、ついでに洗ってきます」
「ううん、私にやらせて。言ったでしょ、今日は徹底的に甘えていいんだから」
 矢紗美は強引に月彦の土鍋を奪う形でキッチンへと持っていってしまう。仕方なく月彦は炬燵へと腰をおちつけ、矢紗美が用意した湯冷ましで一息に食後の薬を飲んだ。
「…………ん?」
 つきっぱなしのテレビの内容にさして興味を感じず、なんとなく手持ちぶさたで部屋の中を見回していた月彦の目がはたと、壁に掛かっているカレンダーへと止まった。そのカレンダー自体はどうという事もない、ありふれた可愛らしい子猫の写真と共に日付が書かれているものだったが、月彦が気になったのは昨日――土曜日の場所に赤い○がつけられていたからだった。
(…………やっぱり、何か予定があったんじゃ)
 矢紗美はああ言っていたが、それは気を使わせない為の方便だったのではないか。
(……あれは何だろう)
 次に目がとまったのは、炬燵の脇に置かれたままになっている矢紗美のハンドバッグだった。口が僅かに開いていて、そこから白い紙のようなものがちらりと見えている。月彦は悪い、とは思いつつも、そっと四つんばいでバッグの側へと移動し、その紙を抜き取ってみた。
「うげっ」
 と、思わず声を出してしまったのは、バッグからはみ出していたものの正体が予想を遙かに上回ったからだった。
(なんだ……お、オペラのチケット……S席……ご、ごまんきゅうせんえん!?)
 日付を確認すると、そのものズバリ昨日の日付だった。つまり、矢紗美は五万九千円のオペラのチケットを蹴って、キャンプに参加したことになる。
(っ、やばっ……元に戻さないと!)
 キッチンの方から聞こえていた水の音が止まった瞬間、月彦は慌ててチケットをバッグへと戻し、元通りの場所へと鎮座した。……正座で。
「……あれ、どうしたの? 紺崎クン、正座なんかして……」
「あぁ、いえ……き、気にしないで下さい。この姿勢のほうが胃に負担がかからないって医者に言われたんです」
「そうなの? 初めて聞いたけど……」
 矢紗美もまた炬燵に座ろうとして、あっ、と。バッグの存在に気がつき、そっと……まるで月彦から隠すように自分の後ろへと遠ざける。
「……と、所で……矢紗美さん。……ミュージカルとか、好きですか?」
「ミュージカル?」
 突然何を言い出すのだろうと、矢紗美がきょとんと目を丸くする。
「あぁ、いえ……ついさっきテレビのCMでやってたものですから」
「うーん、そうねぇ。割と好き、かなぁ。子供の頃親に連れられて見に行ったんだけど、それが凄く面白くって。“人間になりたがった猫”っていうお話なんだけどね。それ以来、気が向いた時なんかに一人で見に行ったりしてるわ」
「ひ、一人で……ですか?」
「デートとかに使う人もいるけどね。私はああいうのは一人で見に行きたい派なのよね。前に一度だけ雪乃を誘って行った事があったんだけど、あの子途中で寝ちゃってたし」
「じゃ、じゃあ……たとえば、オペラとかも好きだったりするんですか?」
「……………………………………ううん、全然。変に格式高いところとか、気取ってる感じのところが気に入らないのよね、オペラは」
「で、でも……」
「紺崎クン、ダメよ。人のバッグの中、勝手に見たりしちゃ」
 うっ、と。矢紗美の冷ややかな声に、月彦は言葉を詰まらせた。
「ち、違うんです! その……バッグから小さな紙がちらっと出てて……何かなーって思って……」
「誤解がないように言っておくけど、これはただのもらい物。元から行く気なんて全く無かったの」
「………………。」
 だったら、あのカレンダーの印は何だというのか。
(…………俺に気を使わせないように、嘘をついてるんだ)
 カレンダーの印まで指摘すれば、或いは矢紗美は嘘を認めるかもしれない。しかし、ここで矢紗美に嘘を認めさせる事になんの意味があるのか。ただ単に矢紗美の思いやりを無碍にするだけの愚行ではないのか。
(…………嘘に気がつかないフリをするのが、一番……だよな)
 矢紗美がそうあって欲しいと思うのなら、愚者にでもなんにでもなろうと、月彦は思った。
「そ、そうだったんですかー…………すみません、てっきり矢紗美さんがオペラの予定をキャンセルして、合宿に付き合ってくれたのかなぁ、って思っちゃって……」
「そんなワケないじゃない。もう、紺崎クンったらほんと心配性なんだから」
 ははははは、ふふふふふ――そんな具合に二人して奇妙な愛想笑いにも似たもので場を誤魔化す時間は、長くは続かなかった。
「でも――」
 矢紗美がぴたりと、笑うのを止める。
「どんな理由があろうと、やっぱり勝手にバッグの中を見ちゃうのは良くないと思うわ」
「す、すみません! 二度としませんから、許して下さい!」
 ごちん、と月彦はテーブルに額を打ち付ける――が。
「だーめ、口ではなんとでも言えるもの。…………罰として、私に膝枕させなさい」
「……え?」
「だから、勝手にバッグの中見ちゃった罰。……大人しく膝枕されたら、許してあげるって言ってるの」
 それの何処が“罰”なのだろうかと、月彦は何度も聞き違いを疑った。
「ほら、紺崎クン。こっちに来なさい」
 矢紗美は炬燵から距離を取り、布団部分から太股を露出させてぱんぱんと叩いて促してくる。
「わ、わかりました……」
 とにもかくにも、その程度の事で許してもらえるならばと、月彦は矢紗美の言葉に従う事にした。


「えっ、ちょ……や、矢紗美さん!?」
「こーら、動くんじゃないの。ジッとしてないと怪我するわよ?」
 矢紗美に促されるままに、月彦は太股に頭を乗せ、身を横たえた。こんなご褒美のような罰があっていいのだろうかという思いにドキドキしていられたのも僅かな間だけだった。
 どこから取りだしたのか、矢紗美の手に耳かきが握られているのを見るなり、月彦は慌てて逃げようとしたが、それは矢紗美の言葉によって制された。
「こういうの、一度やってみたかったの。……初めてだから、痛かったらゴメンね」
「えっ……は、初めて?…………う、ぁ……」
 耳に、異物が入ってくる感触。懐かしくもむず痒いようなその感触に、月彦は強ばらせ、程なく脱力させた。
(ていうか……は、初めてって言ったよな? 矢紗美さんの事だから、てっきり……)
 付き合った男は星の数――というと、さすがに語弊があるだろうが――の矢紗美が、男に耳かきをするのが初めてというのは意外だった。
(あぁ、でも…………き、気持ちいい、かも……)
 がさごそと耳の中からほどよい快感を伴って異物が掻き出されていく。月彦はまるで麻酔でも打たれたかのように、全身から力が抜けていくのを感じた。
「……どう、紺崎クン。痛くない?」
「だ、大丈夫です。……ていうか……す、すごく……気持ちいい、です」
 嘘ではなかった。徐々にではあるが、月彦は耳かきの虜になりつつあった。
「こっちは終わり。逆もやってあげるから、体の向きを変えて」
 はい、と。月彦は素直に体の向きを変え、逆の耳を矢紗美へと差し出した。丁度鼻が矢紗美の腹の方を向く形になり、呼吸のたびになんともかぐわしい――成人した女性としての――芳香が鼻腔をつく。
(……あぁ、これが……甘えるって事なのか)
 雪乃にも膝枕をしてもらった事があるが、感じる安心感がダンチなのだった。
(なんていうか……無防備になれるっていうか…………心の底から安心できるっていうか……)
 うっすらと眠気すら感じるほどの安心感に、身も心も安らいでいく。最近は胃に負担がかかるような出来事が続いただけに、月彦は己の心と体がどれほどに“癒し”に飢えていたのかを自覚した。
「はい、こっちもおしまい。もう体を起こしても大丈夫よ、紺崎クン」
「えっ……もう、終わっちゃったんですか?」
 その言葉こそ、本音がモロに出てしまった一言だった。んー?と、矢紗美がにんまりとちょっと悪い笑みを浮かべる。
「紺崎クンは、もっと“罰”が欲しいのかなー?」
「いや、ええと……………………はい」
 自分の心を偽りきれなくて、月彦は素直に答えた。
「正直でよろしい。…………じゃあ、紺崎クンが好きなだけ膝枕してあげる」
 矢紗美の手が優しく、髪のあたりを撫でてくる。
「………………もしかして、雪乃はこういう事してくれないの?」
 それは、いつもの矢紗美の口調ではない。まるで、尋ねることを散々に心の中で逡巡したような口調だった。
「ひ、膝枕をしてもらったことはあります……ただ……」
「……ただ?」
「せ、先生のがダメっていうわけじゃないんです。…………俺にも、よくわからないんですけど……矢紗美さんの方が安心できるっていうか……」
「そうなの? ……それって、褒め言葉だって思っていいのかな?」
「はい。……その、最近ちょっと色々あって疲れてたみたいで…………余計に効いちゃってます。……かなり、癒されます」
「その“色々”って……ひょっとして、天文部の子と雪乃の三角関係?」
「え゛っ……?」
「ごめんね。ひょっとして紺崎クン的には、あの子と一緒に泊まりたかったんじゃない?」
「いえ、そんな事ないです! ていうか、矢紗美さんも勘違いしてるみたいですから一応断っときますけど、俺と月島さんはそういうんじゃないんですよ」
「そうなの?」
「月島さんってちょっと変わっているっていうか、俺たちには想像もできないくらい星とかが好きみたいなんですよ。それで、中でも特に月が好きらしくって……それで、俺……名前に月が入ってるじゃないですか。そのせいで何か気に入られちゃってて……それだけなんです」
「ふぅーん。……ま、紺崎クンには雪乃がいるしね。同級生のちょっと高校生離れしたおっぱいくらいじゃ、誘惑もされないか」
「こ、高校生離れしたおっぱい……?」
 ごくりと、思わず月彦は反射的に生唾を飲み込んでしまう。
「ちょっと気になったから、無理いってお風呂一緒に入っちゃったのよねー。…………うん、正直負けた、って思ったわ」
「や、矢紗美さんより……」
 月彦は知っている。自分で言う程には、矢紗美のプロポーションは捨てたものではない。むしろ、身長の割にはグラマーであるとすら言えるだろう。しかしそれよりも、高校二年生であるラビの方が――となると、興味をそそられるのも事実だった。
「しかもあの子、多分ハーフでしょ? 肌とか透き通るみたいに白くて綺麗で……若さもあるんだろうけど、一緒にお風呂入った事をちょっと後悔しちゃったわ」
「若さって……矢紗美さんが言うとすっごい違和感あるんですけど……。前にアルバム見せてもらった時も思いましたけど、矢紗美さんこそ中学の終わりくらいから全然変わってないじゃないですか。ぶっちゃけ、二十歳って言っても全然通用すると思いますよ」
「ありがとう、紺崎クン。嘘でも嬉しいわ」
「嘘なんかじゃないですって! 矢紗美さんは綺麗です、美人です! もっと自信を持って下さい!」
 がばっ、と。月彦は咄嗟に体を起こし、矢紗美を正面から見据えて声高に言った。
「矢紗美さんはいつも、自分は先生には勝てないみたいな事言ってますけど、そんな事はないです。むしろ、矢紗美さんの方が――」
「……紺崎クン」
 まるで、月彦の勢いに圧倒されたかのように、矢紗美はきょとんと目を丸くしていた。
「そういう事、言っちゃだめって、何度も言ってるでしょ? 折角、紺崎クンの事忘れよう、って……頑張ってるのに」
「あっ……す、すみません……だけど、俺…………」
「うん、分かってる。紺崎クンに悪気はないって事くらい。………………だから、私も言わない。“だったら、証拠を見せて”なんて……絶対に言わない」
「…………矢紗美さん、それ……言ってるのと同じですよ」
 今度は、月彦が苦笑する。合宿の始まりから終わり、そして今にかけて溜まりに溜まった矢紗美への想いが爆発し、まるでその勢いに背中を押される形で――
「きゃっ……ちょっ、紺崎クン!?」
 矢紗美の体を抱きしめ、そのまま絨毯の上へと押し倒す。
「……証拠、見せても……いいんですか?」



「だ、ダメっ……ま、待って、紺崎クン……お願い、待って!」
 思いの外矢紗美の抵抗は強く、月彦はやむなく愛撫の手を止めざるを得なかった。
(……ていうか、嫌がる矢紗美さんって…………なんか新鮮……)
 むしろ、誘われるよりも逆に興奮をかき立てられる事に、月彦は気がついた。無論、相手が矢紗美であればこそ、なのだが。
「ごめんね、勘違いさせるような事言っちゃった私が悪いんだよね。……こういう事する為に、紺崎クンを部屋に入れたわけじゃないの。 だから、ね……止めよ?」
 或いは、矢紗美の言葉は真実だったのかもしれない。もしくは、長年の習性から、ついつい無意識のうちに男を誘うような仕草、言動になってしまっただけなのかもしれない。
 ただ、どちらにせよ、月彦は止めるつもりは毛頭無かった。――否、止められない所まで来てしまったと言ったほうが正しい。
「……止める気はないって言ったら、どうしますか、矢紗美さん」
「こ、紺崎クン……?」
「それに、矢紗美さんも……先生より魅力的だっていう証拠が欲しいって言いましたよね?」
「だからそれは……」
「……俺も、矢紗美さんに“お礼”がしたいんです」
 お礼?――と、矢紗美が戸惑いながらもオウム返しに尋ね返してくる。
「膝枕をしてくれたお礼。ご飯をご馳走してもらったお礼。先生の代わりに合宿に付き合ってくれたお礼……上げればキリがないです。……そういった諸々のお礼を、矢紗美さんが最も悦ぶ形で返してあげたいんです」
「えーと……つまり、どういう事なのかしら?」
「矢紗美さんが肩を揉めというのなら、肩を揉みます。足を舐めろというのなら、舐めます。“例のアレ”をして欲しいといのなら、何時間でもします。……つまり、そういうことです」
 矢紗美の為に、自分に何が出来るか。何をすれば、一番矢紗美を悦ばせてあげられるか――月彦なりに、多少自虐的にとはいえ考えた結論だった。
(…………こんな形でしか、俺は……矢紗美さんに恩が返せない)
 逆を言えば、こういう形であればきっと矢紗美を満足させるだけのモノを提供する自信はあった。そしてそれは、月彦の“牡”としての部分の望みでもある。
「紺崎クンが……私がして欲しいこと、なんでも言うこと聞いてくれるって事……よね、それは」
「さすがに何でも、っていうのは怖いですけど。……出来るだけ、矢紗美さんの希望は叶えてあげたいって思ってます」
 とはいえ、もし仮に矢紗美が「だったら、何もしないで」とか、はたまたエロい事以外の要求をしてきた場合、月彦は大人しくその意見を尊重するつもりだった。
 この申し出はあくまで大部分は矢紗美に対してお礼がしたいという純粋な善意であり、そこにちょっぴり久しぶりに矢紗美とシたいという下心が紛れ込んだに過ぎない。
 あくまで尊重されるのは矢紗美の気持ち。そこを台無しにしてまで体を求めようとは、さすがに月彦も思っていなかった。
「もぅ……紺崎クンったら……ほんと、ズルいんだから」
「ズルい……?」
「ていうか…………白状……する、けど…………ほんとは、ちょっとだけ……あのまま紺崎クンに無理矢理犯られちゃうシチュエーションを期待してたんだから。…………なのに、そんな……私が、して欲しい事……なんでもするとか……」
「いや、ですから……なんでもってワケじゃ……」
 そこを勘違いされると、とんでもない事を要求されそうで、月彦は口を挟まざるを得ない。
「やだ……どうしよう……別に普通でもいいんだけど…………なんだかもったいない気がするし……」
「えーと……矢紗美さん?」
 何やら頬を赤らめながら、悶々と妄想を膨らませているらしい矢紗美に空恐ろしいものを感じて、月彦は俄に冷静になった。
(あれ……ひょっとして俺……とんでもない相手に白紙の小切手切っちゃったんじゃないか?)
 この人は一体0をいくつ書き込むつもりなんだろうか――そんな事を危ぶむ月彦の心中を知ってか知らいでか、矢紗美が何かを決意するようにコクリと頷いた。
「決めたわ、紺崎クン。…………あのね、まずは――」



 仮に、同じ要求を真央にされたら、真央が望むのならばと、渋々受けるだろう。由梨子であれば、逆に奇妙な興奮を覚えるかもしれない。雪乃相手であれば恐らく断るし、真狐相手であれば――やらなければ真央の命が危ないという事にでもならない限りは、絶対に首を縦には振らないだろう。
 月彦は矢紗美と共に寝室へと移動し――カーテンが閉め切られているが、居間から入ってくる灯りで視界が利かないという事はない――最初に矢紗美がベッドへと腰掛ける。
(…………仕方ない、自分で言った事だ)
 心から望んでやる――と言えば、嘘になる。がしかし、矢紗美の為ならば、矢紗美が望むのならば、やってもいいかなと、月彦は思うのだった。
(……6万円もフイにさせちゃったんだし)
 正確には、その責任は雪乃が負うべきなのかもしれない。が、本人の過失ならばともかく病気では仕方がない。何より、実際に矢紗美の手を煩わせ世話になったのは自分たちなのであるから――そして部長である自分がラビやレミの分まで――償うべきだと月彦は思うのだった。
「……ホントにいいの? 嫌ならべつに無理にしなくても……」
「いえ、自分で言った事ですから」
 月彦はベッドには座らず、その脇へと膝を突く。そう、矢紗美の要求はそのものズバリ“足を舐めて”だったのだ。
(…………前に、俺がやらせた事とはいえ……)
 まさかその時の復讐ではとちらりと思いながらも、月彦は自分で言った事だからと。覚悟を決める。矢紗美の右足を持ち上げ、ソックスを脱がせていく。
(ええい、ままよ……!)
 さすがに、女性のものとはいえ、他人の足にいきなり口を付けることには抵抗があった。月彦は目を瞑り、一気に口を近づけ、まずは足の指先のあたりをれろりと舐める。
「ひゃんっ」
 途端に、矢紗美が擽ったそうな声をあげ、びくりと足を引いてしまう。
「あっ、……ごめん、続けて」
 心なしか吐息を乱しながら、矢紗美はどこかうっとりとした目で言う。月彦は改めて矢紗美の右足を掴み、れろり、と舌を這わせる。
「んんっ……!」
 また、ぴくりと足が引かれるも、それは軽い痙攣程度の動きで留まった。月彦はさらにれろり、れろりと舌を這わせ、なめ回していく。
「ぁっ、ぅ……ンっ……ぁぁ……」
 くすぐったいのか、矢紗美はほとんど呼吸のたびに切なげに息を漏らしていた。
「んんっ……紺崎クン……で、出来れば……指の間の所…………ぁっ、そ、そこっ……あぁぁ……!」
 リクエスト通り、親指と人差し指の間に舌を這わせ、れろり、れろりとなめ回すと忽ち矢紗美は声を上げ、足をぴくぴくと震わせた。
「やだ……ウソ…………紺崎クンに、足……舐められてる、だけで…………ンッ…………おね、がい……今度は、指……しゃぶる、みたいに…………ァァァア!」
 月彦は機械的に、矢紗美の望み通りに指をくわえ込み、しゃぶるようにして舌で愛撫する。
(……スゴいな。……下手するとクリフェラの時と同じくらい悶えてるんじゃないか)
 ひょっとしたら、矢紗美はクリだけではなく足の指も弱いのではないか。そう思うと、少なからず感じていた屈辱感が俄に払拭し、むしろ矢紗美を悶えさせてやろうという気になってくるから不思議だった。
「……矢紗美さん、悦んでもらえて俺も嬉しいです。…………もっとしてあげますね」
「う、うん……もっと、シて…………んんっ…………や、やだ…………これ、イイ、かも…………ンッ……だ、だめ……濡れてきちゃう……」
 ぎゅううっ、と矢紗美はミニスカートの上から股間を押さえながら、はあはあと吐息を荒げている。そんな様に月彦自身興奮を覚えて、汚らしく音まで立てて足の指を舐めしゃぶっていく。
「……ぁぁっ……ぁん! ……ぁっ……も、もう……いい……紺崎クン、もう……いいから…………お、終わりに……」
「…………矢紗美さん。足は二本ありますよね?」
 苦笑。かつてのやりとりを思い出しながら、月彦は半ば強引に矢紗美の左足を掴み、ソックスを脱がせ――同じように舌を這わせる。
「や、やんっ! だ、だめぇぇ………………あ、溢れちゃう、のぉ…………あぁ、だめ…………紺崎クンに、足、舐められると…………すごく、興奮しちゃう…………」
「俺に、って事は…………他の男相手だと違ったんですか?」
 今の矢紗美には、ひょっとしたら酷な質問であったのかもしれない。矢紗美は俄に表情を曇らせるが、控えめに頷いた。
「何度か……やらせたことは、あったけど……ンッ…………こ、こんなには………………だ、だめっ……そんな所にキスなんて……」
 戯れに足の甲にキスをしたのが、思いの外矢紗美には効いたらしい。月彦は気を良くして、ちゅっ、ちゅっ、と臑、脹ら脛、太股へと立て続けにキスをしていく。
「ちょっ、だ、だめぇ…………きゅ、休憩! 休憩っ……ね? ……やっ……ふ、太股舐めるの、だめぇ……!」
 白い、矢紗美の要望など関係なしにむしゃぶりつきたくなるような太股を心ゆくまでなめ回して漸く、月彦は体を離した。
「はぁっ…………はぁっ…………はぁっ………………もぅっ………………ほんの、遊びのつもりだったのに…………み、見て……紺崎クンのせいよ?」
 矢紗美はスカートの裾を握り、そっとたくし上げる。ピンク色の下着が、見事に色が変わってしまっているのがありありと見えた。
「次は、私の番なんだから…………異論は認めないわよ?」



「あ、あの……矢紗美さん……俺だけ脱ぐんですか?」
「うん。何でも私の言うこと聞いてくれるんでしょ?」
「いや、ですから何でもというわけでは……」
 語尾を弱めながら、月彦は仕方なく脱衣し、トランクスだけの姿になってからベッドへと上がる。
「それから、コレをつけて」
「えっ、それって……て、手錠……ですか?」
「ちゃんと見て。ただのプラスチックの玩具。…………紺崎クンがその気になれば、こんなの簡単に壊せるでしょ?」
 確かに、矢紗美が見せたのは普通の玩具屋などに売ってそうな、安っぽいプラスチックの作りのものだった。これならば、以前つけられたそれとは比べモノにならないほどに容易く、いざとなれば破壊する事が出来るだろう。
 矢紗美の要求通りに、月彦は後ろ手に手錠をかけられ、ベッドに仰向けに寝かされる。
「あとは、コレ」
「アイマスク……ですね」
 これまた、SMグッズ的なものではなく、通常の安眠用のアイマスクだった。装着されると、視界の端に微かに部屋の配置は見えるものの、視界の九十五%は塞がれてしまった。
(…………矢紗美さん。やっぱりこういうのが好きなんだな)
 人が変わっても、その性癖まではなかなか変わらないのかもしれない。
(……まぁ、いざとなったら……)
 こんな手錠など壊してしまえばいいだけの話だ。矜持の許す限り矢紗美の“遊び”に付き合おうと、月彦は覚悟を決めた。
「お待たせ、紺崎クン。…………約束通り、今度は私がいーっぱいシてあげる」
「よ、よろしくおねがいします…………っ……」
 ぐに、と。半勃起状態だった剛直がトランクスごと矢紗美の手に握られる。そのままぐにぐにと弄られると、忽ち全勃起――トランクスを突き破らんばかりの大きさへと膨れあがった。
「トランクスをずらして……っと。……あとは、んっ……」
 暗闇の中聞こえる、衣擦れの音。そして唐突に――
「うひゃあっ!?」
 何かひどく濡れそぼった布のようなものが、ぴちゃりと頬に触れ、月彦は思わず声を上げてしまった。
「分かる? 紺崎クンのせいでこうなっちゃったのよ? これを――」
 今度は、剛直の方に濡れた布がまとわりつくのを感じる。それごと矢紗美の手が握りしめ、ゆっくりと上下し始める。
「っ……や、矢紗美、さん……?」
「なぁに?」
「さっきのは……」
「脱ぎたての私の下着。……こういうの、嫌い?」
「ど、どうでしょう?」
 声を上ずらせながら、月彦は自分が息を乱し始めている事に気がついた。そんなバカな――と思う。
「んっ、もうヌルヌルしてきた……紺崎クンも結構濡れるの早いほうよね」
「そ、そうなんでしょうか……」
 人と比べたことなどないから、自分ではどうにも判断つきかねる事ではあった。
「ほら、どんどん溢れてくる。トロォって、私の指に絡みついてるわよ?」
 その様を想像しろ――と言わんばかりに、矢紗美は月彦にぴったりと密着するように添い寝し、唇が耳に触れそうなほどの距離で囁いてくる。矢紗美自身興奮を覚えているのか、荒い吐息がひっきりなしに耳に触れる。
「ねえ、紺崎クン」
 ゆっくり、下着ごと剛直をしごきながら、矢紗美がまるで欲しいものでもねだるような、ねっとりとした口調で囁いてくる。
「は、はい……?」
「…………雪乃とのセックスについて、教えて」
「え……?」
「いつも、どんな風にしてるの?」
「ど、どんな風って……」
「詳しく教えて。……まず最初は、どんな風に始まるの?」
「ええと……それ、答えないと……ダメ、ですか?」
 返事の代わりに、剛直を扱く手が止まった。
「ぁっ……や、矢紗美さん……?」
「教えて」
 再び、ゆっくりと根本から先端へと。下着ごと握った手が往復する。
「紺崎クンの事、全部知りたいの」
「っ……く…………で、でも……先生に、悪いですし……」
「雪乃には絶対に言わないから。…………ね、いいでしょ?」
「でもっ……ぁくっぅ……」
「お願い、ね?」
 猫なで声とはまさにこの事だった。ねっとりとした口調と、同じくらいねっとりとした手つきで剛直を弄られ、月彦は渋々首を縦に振った。
「ええと……せ、先生とは……ふ、普通な感じで始まります……」
「普通じゃ分からないわ。……もっと具体的に」
「っ……せ、先生がちょっかい出してきて……それで、俺が押し倒したり、とか……」
「ふぅん? 雪乃の方が誘ってくるんだ。…………紺崎クンから誘ったりはしないの?」
「俺の方からは……あまり……先生とエッチする時って……だいたい先生がムラムラして我慢できなくなった時とかに……っ……誘われて、それで……っていう流れが多い、ですから……」
「へぇ? 雪乃がムラムラしてるって、紺崎クンから見てはっきり分かるの?」
「は、はっきりっていうか……態度とか、仕草で何となく察しはつきます……じゅ、授業中とかも……物欲しそうに見られたりっ……あ、あと……スカートの丈が短くなったり……意味深に、ぷりんっ、って……お尻を振られたり……」
「そういうのを見て、紺崎クンも……ムラムラしちゃうの?」
「しない、といえば……嘘になります…………っ、くっ……」
 神業――とまで言うのは、さすがに大げさかもしれない。しかし少なくともそう感じられるほどに、矢紗美の手コキの技術は力加減、緩急の妙共に完成されていた。時折思い出したように動きを止められるのがまたもどかしく、その都度うっかり腰を動かして快感を求めようとしてしまいそうになるのを堪えねばならなかった。
「それで、雪乃がムラムラして、紺崎クンもムラムラして……それから?」
「そ、それから……だいたいいつも、先生の部屋に連れ込まれて……」
「へぇ、雪乃ったら大胆。無理矢理紺崎クン引っ張り込んじゃうんだ?」
「無理矢理っていうと語弊がありますけど……ムラムラしてる時の先生は結構強引ですね、確か……げ、玄関入ってすぐ、襲われた事も……ありますし……」
「雪乃が? 詳しく聞かせて」
 ぎゅっ、と剛直を握られ、“先”が促される。
「あ、あの時は……確か……先生と一緒にちょっとエッチな映画を見に行った帰りで……先生が発情したみたいになっちゃって……そ、それで……先生の部屋に入るなり、ズボンを脱がされて……」
「ズボンを脱がされて?」
 気がつくと、矢紗美の吐息がいっそう荒々しくなっていた。まるで、今まさに自分が発情してズボンを脱がしたばかり――とでもいわんばかりに。
「く、口で……」
「玄関先で、雪乃に口でされたの? じゅぽじゅぽって、いっぱい音立てながら」
「お、音を立ててたかどうかまでは……」
「ふぅーん、ちょっと意外。あの子が玄関先で自分から男のズボン脱がしてフェラするなんて。…………紺崎クンは気持ちよかった?」
「そ、そりゃあ……」
「最初、雪乃はフェラしてくれないって言ってたわよね? あの子、フェラ上手になったの?」
「えーと……さすがにそれはノーコメントでお願いします」
「教えてよ。……学校で、いつも真面目な顔をして英語の授業やって、英文を読んだり、生徒を叱ったり、褒めたりしてるのと同じ口で、紺崎クンのをしゃぶったりしてるんでしょう? 紺崎クンもそういう授業中の雪乃とか想像して、コーフンしちゃったりするんじゃないの?」
「え、ええと……たまに、は……」
 いやらしい子――矢紗美がぽつりと、そんな独り言めいた呟きを漏らす。
「それで、玄関先で雪乃にフェラされてどうなったのかしら。がくがくって、腰砕けになっちゃって、どびゅううっ、ってあっさり出しちゃったの? ドロッドロの濃ゆい精液ゼリーをいっぱい、雪乃の口の中に」
「は、はい……」
 心なしか、剛直を扱くスピードが速くなっている気がした。月彦もまた、呼吸を速めていく。
「すんごいネバネバしてて、飲み込んだ後も口の裏側からムァって匂いが登っきて、思わず頭がクラクラしちゃうくらい濃い精液、ごっくんっ、ごっくんって。目をうっとり潤ませながら飲んだの? 濃すぎて、飲み込んでも食道の所に張り付いて、とろぉ〜ってゆっくり降りていくのがはっきり分かるアレを、去年まで処女だった雪乃が」
 はぁはぁと、矢紗美は自分自身興奮を隠しきれないような荒々しい口調で――最早囁くというレベルではなく、殆ど問いつめるような声で――言う。
「ちょ、や、矢紗美さん? 落ち着いて下さい……」
「そ、そうね…………ふぅ、ふぅ…………ンッ…………そ、それで……その後は?」
「その後……?」
「フェラしておしまいじゃないでしょ? その場で続きをしたの? それともベッドに?」
「べ、ベッドに行きました……そ、その後は……普通に……っ……」
 ぐっ、と。剛直を扱く手が止まり、強く握りしめられる。
「き、キスしたり……胸を触ったりしながら、少しずつ、服を脱がせて……」
「服を脱がせて……?」
「さ、さすがに一挙手一投足までは覚えてないんですけど……確か、そのまま翌朝あたりまでガッツリやった……ような……」
「ふぅん……翌朝までガッツリ、ねぇ。…………それは、雪乃が求めたの? それとも紺崎クンが?」
「両方、だと思います。…………先生、いつも限界ギリギリまで溜まってる時に誘ってくるだけあって、一回や二回じゃ全然満足できないみたいで……」
「もっと、もっとって……求めてくるわけね。雪乃が、あの体で」
 あの体で――矢紗美のその言葉に刺激されて、月彦はつい雪乃の肢体を思い出してしまう。グラマラスという単語をまんま擬人化したような肉付き、たわわな胸元とヒップは言わずもがな、そのくせキュッと絞まったウエストなどは高校時代の面影などは皆無。
 正に、男の夢の結晶とも言うべきプロポーションの持ち主にくねくねと身もだえされながらおねだりをされたら――
「……紺崎クン?」
 矢紗美の冷ややかな声が、月彦の耳から頬の辺りを冷やす。
「今、グンッ……って、紺崎クンのが二割増しくらいになったんだけど? 私の気のせいかしら?」
「き、気のせい……だと思います」
「そう? さっきまでこうして握ったら、親指の先と人差し指の先がちゃんとくっついてたのに、今はつかないんだけど、それでも気のせい?」
「き、気のせいです!」
「ふぅーん?」
 こしゅ、こしゅと。何やら意味深なまでにゆっくりと擦り上げられる。
「じゃあ、紺崎クン。次は雪乃が弱い場所教えて」
「えっ……?」
「雪乃は何処が一番感じるのか、答えなさい」
 先ほどまでよりもややキツい、まるで刑事かなにかが尋問をするような口調だった。暗に“嘘をついた罰”とでも言いたげに。
「さ、さすがにそれは言えません! せ、先生に悪いです!」
「……紺崎クン。紺崎クンは忘れちゃってるかもしれないけど、私は覚えてるわよ? 前に、私の部屋に来て、雪乃とのノロケ話をしたことあったわよね?」
「うっ……」
「それと似たような事だと思わない? ……いいじゃない、どうせ雪乃には言わないんだから、バラしちゃっても」
「で、でも……ぅっ…………」
「それに、紺崎クンもさすがにそろそろイきたいでしょ? 紺崎クンからは見えないだろうけど、もう私の右手、先走り汁でトロットロになっちゃってるのよ? 出したくて出したくて我慢できないでしょ?」
「ぅぅぅ……」
「ほら、答えて。……雪乃が弱いのは何処?」
「せ、先生が……弱いのは……………………お、お腹……です……」
 さすがに、“先生が一番好きなのはナマのセックスで、しかも中出ししてあげないと満足してくれません”とは言えず、月彦は次案を出す事にした。
「お腹?」
 その答えがよほど意外だったのか矢紗美が素っ頓狂な声を上げる。
「はい……えと、最初からじゃなくて……さ、最近……なんですけど……お腹の辺り撫でたり、揺すったりすると、それだけで……我慢できなくなっちゃうみたいで……」
「…………紺崎クン、それは多分お腹じゃないわ」
「お腹じゃない……?」
「多分ね。…………それはきっと、ポルチオ性感帯が開発されちゃったのよ、紺崎クンのコレで」
「ぽるちお……せいかんたい?」
「子宮膣部の事をそう呼ぶの。他にもPスポットとかも言われたりするけど……とにかくそこを開発されちゃうと、お腹に手を当ててゆさぶられるだけですっごく気持ちよくなったり、下手するとイッちゃうくらい感じるようになるらしいわ」
「そ、そうなんですか……知りませんでした……」
「…………つまり、Pスポット開発されちゃうくらい……雪乃は紺崎クンに抱かれて、イかされちゃったのね。……この太くて堅くて長いので、ぐりぐりって……何度も何度も何度も何度も雪乃のPスポットを責めたんでしょう?」
 ぐりぐり――その言葉を示すかのように、矢紗美が親指の腹で剛直の先端を擦ってくる。堪らず、月彦は顎を跳ね上げるようにして体を震わせた。
「くぁっ……や、矢紗美、さん……そ、それは……」
「可愛そうな雪乃。……よりにもよってこんな太くて長くて堅い、凶悪なチンポで処女を奪われて、しかも病みつきになるくらい慣らされちゃったのね。どうするの? 紺崎クン……あの子、多分もう一生紺崎クンの麻薬チンポから離れられないわよ?」
「や、矢紗美さんっ……くぅう…………」
 最早、矢紗美の言葉など半分も耳に届いてはいなかった。こしゅ、こしゅと剛直の竿部分を根本から先端まで強く扱き上げられ、時折思い出したように先端部を弄られ、月彦は無意識のうちに矢紗美の手の動きにあわせて腰まで使い始めていた。
「ほら、紺崎クン……聞こえる? にちゃ、にちゃって、凄い音するでしょう? これ全部カウパー液の音よ? ほら、にちゃ、にちゃって。ネバネバ糸を引いて……スゴい量……セックスしながらこんなに一杯出されたら、カウパー液だけで妊娠させられちゃうかも?」
 矢紗美の体が、さらに密着してくる。背中とベッドの間を矢紗美の左手が這い、月彦の左肩を掴んでぎゅっと自分の側に抱き寄せるようにしながら、にちゃ、にちゃと。
「っ……!」
 体を跳ねさせてしまったのは、突然乳首を舐められたからだった。にちゃにちゃと剛直を扱かれながら、矢紗美の舌が胸板を、そして乳首を這う。
「紺崎クン、乳首立ってる」
 悪戯っぽく言って、矢紗美の唇に堅くなった突起を吸われる。さらに甘く噛まれ、月彦はたまらず女のような声を上げた。
「フフッ……そろそろ限界かな? …………イかせて欲しいでしょ?」
 長いようで短かった乳首攻めは唐突に終わり、再び矢紗美の唇が右耳へと寄せられる。
「紺崎クン、私ね」
 矢紗美の囁きは千変万化。時には小悪魔のように囁き、そして時には子猫のように甘えた声を出す。
「紺崎クンのおねだりが聞きたいな」
 剛直を散々に嬲られたせいか、月彦はもう答える余裕もなく息も絶え絶えになっていた。
「ね、聞かせて?」
 イきたい。早くイきたい。剛直の根本に溜まりに溜まっているマグマのような“これ”を、一秒でも早く出してしまいたい。
 その為なら――
「イかせて……下さい」
 はぁぁぁあっ――そんなため息にも似た息を吐きながら、矢紗美がぶるりと全身を震わせるのが、密着している月彦には分かった。
「いいわ……イかせてあげる。……濃くて臭いザーメンミルク吹き出しながら紺崎クンがイく所、特等席で見ていてあげる」
 矢紗美が、とどめとばかりに扱く手を強め、加速させていく。忽ち、月彦は――己でもそう感じた程に――情けない声を上げながら達した。


 考えてもみれば、屈辱的な“おねだり”などせず、自力で拘束を解いてそのまま矢紗美に襲いかかってしまえばよかったのだと。月彦は事が終わり矢紗美に手錠を外される段階になってそんな事を思った。
 そう、不思議なことに事の最中はどういうわけか全くそういった発想が出てこなかったのだった。
 そして――
「きゃっ、……こ、紺崎クン……!?」
 アイマスクが外され、両腕が自由になるや否や、月彦は矢紗美の肩を掴み、ベッドへとおしつけていた。
「ど、どうしたの? “私がしたい事”はもう終わりだよ……?」
 自分でも不思議なほどに猛っている事を、月彦は自覚していた。それこそ、先ほど矢紗美を押し倒した時に比べるまでもなく。
「矢紗美さん……俺……」
 高熱に魘されているような声で呟きながら、月彦は矢紗美に覆い被さりながらその体を――成人女性としては小柄ともいえる肢体をまさぐっていく。
「ま、待って……紺崎クン! そ、それは……止めよ、ね?」
 しかし、やはりというべきか。先ほど同様、矢紗美の抵抗は意外なほどに手強かった。
「本番はやっぱりマズイって……そりゃあ、私もしたいけど……だけど我慢するから、紺崎クンも我慢しよ? ね?」
「……でも、矢紗美さんさっき……“このまま犯られちゃうのをちょっと期待してた”とか……言ってましたよね?」
「そ、それは……だけど……」
 矢紗美が、視線を泳がせる。そんな矢紗美が、どういうわけか月彦には初々しいとすら感じられる。そう、手練手管に長けた男食いの女性を相手にしているとは到底思えない、純粋に――穏やかな年上の女性を無理矢理押し倒しているような錯覚すら覚える程に。
 矢紗美を抱きたいという思いが、ますます強くなってくる。
「矢紗美さん……見て下さい。俺……もう、矢紗美さんとシたくてシたくて、こんなになっちゃってるんです」
「そ、それは……分かるのよ? うん……てゆーか……それを……私に入れる気、なの?」
 視線を下方に傾けて、矢紗美がぎょっと身を竦ませる。ヘソまで反り返った剛直はびくびくと胎動するように脈打ち、先端から漏れる先走り汁は矢紗美のミニスカートの上に透明な軌跡を残していく。
「矢紗美さん……好き、です…………もう、俺……止まれません」
「やっ……す、好きって…………だめっ……そんなのダメよ……だめ、だめ……………………絶対、だめ…………」
 矢紗美はふぅふぅと荒い呼吸を隠そうとするかのように、緩く握った拳で口を覆う。その言葉は控えめな“承諾”であると、月彦は勝手に解釈した。
「ぁんっ……ちょっ、紺崎クン……だめだったらぁ…………」
 上はセーターを、下はミニスカートを履いてはいるが、下着は既に矢紗美自身脱衣済みだ。その両足を強引に開き、無防備な秘裂へと、月彦は剛直の先端を押しつけ、塗りつけるように動かしていく。
「だめ、だめ……前に、紺崎クンとシてから……誰ともシてないんだから…………私も、ホントは凄くセックスしたいの……だけど、我慢するって……言ってるのに…………や、止めて……ぐいぐいって、押しつけないでぇ……!」
 剛直を押しつけ、先走り汁を塗りつけるたびに矢紗美は加速度的に息を荒くし、体を上方へ逃がそうとする。が、それは肩を押さえつけて許さない。
「矢紗美さん、俺もレイプはしたくありません。…………本当に嫌なら、前みたいな柔道の技とかで、俺を拘束してください」
「い、嫌じゃないの……嫌じゃないから困ってるのぉ…………はぁはぁ…………だめぇ……ダメだって思ってるのに……体が、勝手に屈しちゃう…………紺崎クンの事、受け入れちゃう…………」
 剛直の動きに合わせる形で、矢紗美が腰をくねらせ始める。月彦は“うっかり入って”しまわないように、細心の注意を払いながら、にちゃにちゃと。矢紗美が溢れさせている蜜と自らのそれを混ぜ合わせていく。
「だめぇ……逆らえ、ない……欲しいぃ……紺崎クンの太くて堅いの…………奥まで、ごちゅんって来て欲しいのぉ……」
「矢紗美さん、俺を受け入れてくれるなら、自分の指で広げてみせて下さい」
 それが合図です――と、月彦は己自身もせっぱ詰まっているような声で、囁きかける。
 矢紗美は戸惑い、躊躇いながらも己の秘部へと指を這わせ、人差し指と中指で秘裂を割り開いた。
「来て……紺崎クン……」
「……わかりました」
 月彦は割り開かれた秘裂にぐっと先端を押しつけ、そのままゆっくり腰を進めていく。
「んぅ……!」
 矢紗美が僅かに腰を跳ねさせ、悲鳴とも取れる声を漏らす。
(うわ、キッツ……)
 媚肉を割り開きながら剛直を埋めていくも、その抵抗がいつになく強く感じる。
「あぁッ……だめっ……太すぎぃぃ……」
「ていうか……矢紗美さんの中がキツすぎっていうか…………っ……」
 そういえば、前にも下半身を鍛えていると言っていた。その鍛錬の賜なのかもしれない。
「あぁぁ、ぁぁぁぁ…………堅いの……ぐ、グイグイ来るぅ……無理矢理、広げられて……お、奥にぃ…………」
「や、矢紗美さん……もうちょっと力抜けませんか…………滅茶苦茶締め付けられて……すっげぇ擦れて……っ……か、かなり……ヤバいんですけど……」
 よほど鍛えたのだろう。体格的な窮屈さに加えての痛烈な締め付けは、まるで粘膜そのものに吸着されているかのような密着感を月彦に与えた。至極、そんな状況で動けば、摩擦も凄まじいものになる。
「はぁ……はぁ……し、締めてるんじゃないの……こ、紺崎クンのが大きいから……広がり過ぎてるのを、戻そうってなってるだけで……はぁはぁ……ホントに大きい…………ゆ、雪乃は……こんなので、いつも…………」
 息が深く吸えないのか、矢紗美は浅い呼吸を繰り返しながらうっとしとした声で呟く。
「…………先生とする時みたいにするのが、矢紗美さんのリクエストですか?」
「べつ、に……そういう、わけじゃ…………で、でも……興味は、ある、かも……」
「先生とする時は……こうします」
 言って、月彦はゆっくりと抽送を開始する。ゆっくり、ゆっくり、雪乃とする時のように、雪乃の好きなペースで突き上げていく。
「んぁぁ! ぁっ、ぅぅ…………はぁはぁ……こ、こんな風に……雪乃、は……ぁぁぁ…………」
「そうです。こういう風にゆっくり動いてあげると、先生は顔を真っ赤にして恥ずかしながら可愛い声を上げてくれます」
「ぁ、ぁ、ぁっ……んんぅ……ふと、いのが……こす、れてぇ……ふぅ、ふぅ………………はぁ……はぁ……」
 矢紗美の呼吸に合わせる形で、月彦はゆっくりの抽送を続ける。空いている手で時折愛しげに矢紗美の髪を撫でつけながら。
(矢紗美、さん……)
 眼前ではぁはぁと胸を上下させながらうっとりと潤んだ目をしている矢紗美をこれほど愛しいと感じたことはなかった。男として――否、牡として、もっともっと感じさせてやりたいと、半ば義務感のように月彦は思う。
「……まぁ、これはあくまで先生が一番好きなやり方、動き方です。…………でも、矢紗美さんは違いますよね?」
「んっ……そんな、事…………わ、私も……こんな風に優しくされるの、嫌いじゃ、ない……よ?」
「嫌いじゃない……けど、もっと好きな事がありますよね?」
 月彦は一端体を起こし、矢紗美の片足を肩に担ぐようにして体を潜らせ、後背位の形へと移行する。
「や、やだ……紺崎クン……まさか――」
「多分、そのまさかです」
「ひゃン! や、だめっ、……こ、紺崎クン……そこ、だめぇ……!」
「クリ弄りながら突かれるの……好きですよね?」
 月彦は左手で矢紗美の体を抱きしめ、暴れるのを封じながら、右手の指先でクリクリと淫核を弄る。無論、最初は優しく触れるだけ――そして徐々に、矢紗美の反応を見ながら、擦ったり、指で挟んだりと愛撫を強くしていく。
「……クリトリス堅くなってますよ、矢紗美さん」
「だめぇぇ……クリ、弱いんだからぁ…………ぁんっ! ぁぁ……やだっ……紺崎クン……ホント、慣れてるぅ……あんっ、あんっ……お、奥もっ……こちゅ、こちゅってされて……や、い、イくっ……イクぅ……!」
「やっぱりクリ弄ると早いですね。……いいですよ、好きなだけイッて下さい」
 矢紗美が溢れさせる蜜を指先で淫核に絡めるようにしながら、月彦は小刻みに突き上げる。
「あっ、あっ、あっ……あぁっ……! こ、紺崎、くぅん……ぁあっ……い、イク…………ぅ!」
 矢紗美が呼吸の都度声を漏らしながら、イく。ぶるりと身を震わせ、声を抑えながら。
(…………まだまだ、“軽く”ですよね、矢紗美さん)
 雪乃に一番有効なのは何なのか分かっているのと同様に、月彦もまた、矢紗美にとって何が一番有効で、どうされると最も声を上げるのかを学習していた。ゆっくりと抽送を再開させる。
「んぁぁ……! だ、だめっ……ぇ……イッてすぐ、突いちゃ、だめぇぇぇ……」
「イくって言っても、軽くですよね。……大丈夫、すぐにもっともっと、気持ちよくしてあげますから」
「やっ……アァァァッ!!」
 被さり、体を密着させて突き上げながら、月彦は再び右手で淫核を弄る。たちまち矢紗美が腰を跳ねさせ、ぎゅぅぅう!と痛い程に締め付けてくる。
(……ッ……キッツ……たまんね……)
 男を悦ばせる為だけに鍛えられた膣肉の感触に思わず嘆息を漏らしながらも、月彦は歯を食いしばり絶頂を堪える。なるべく長く、より多く矢紗美に満足を与えるには、その方が良いからだ。
「はぁ、はぁ……んんっ! あぁぁぁっ……こ、紺崎クン……ちょ、待って…………ど、同時はダメぇ……つ、突かれながら、そこ、弄られると…………ほ、ホントにすぐイッちゃう……!」
「それでいいんです。……俺は矢紗美さんを気持ちよくしてあげたいんですから」
「で、でもぉ……ぁぁン!」
 はむ、と耳を咥え、れろれろとなめ回しながら月彦は小刻みに突き上げ、クリを弄る。
そうしてたっぷり二十分は矢紗美に声を上げさせ、イかせた後――
「矢紗美さん、そろそろ……俺もヤバいです」
 さすがに射精を堪えきれなくなって、月彦は囁くように白状した。
「はぁ……はぁ……ま、待って……紺崎クン…………今日は、中、は……」
「ダメですか?」
 矢紗美は肩で呼吸をしながら、小さく頷いた。
「どうしても?」
「だ、ダメ……避妊薬とか何も飲んでないし…………あ、安全日でもないの……ていうか…………ほ、ホントはナマでしちゃうのも……」
「ホントのホントに、どうしても、絶対にダメですか?」
「あぁぁぁ!」
 ぐりんっ、ぐりんと抉るように剛直を動かし、さらに指先で淫核をキュッと挟み込む。
「ちょっと……今日の俺、ヤバいくらい、矢紗美さんに中出ししたくて堪らないんですけど」
 えっ、と。矢紗美が驚いたように息をのみ、さらにごくりと喉を鳴らしたのが、月彦には分かった。
「やだ……紺崎クン……ちょっ、何、言って……」
「どうしてもダメですか? 矢紗美さん」
 月彦は一端淫核を弄る手を止め、ぎゅうと両腕で強く抱きしめる。逃がさない――まるでそうジェスチャアするかのように。
「だ、め……だめ、よ……危険日なのに、中出し、なんて……絶対だめ……………………だめ、だけど…………」
 ふぅ、ふぅ。
 はぁ、はぁ。
 矢紗美自身、何か強烈な衝動でも堪えているかのように、切なげに荒い呼吸を繰り返す。
「紺崎クンが……どうしても、そうしたいっていうのなら………………紺崎クン、だったら…………」
 きゅん、きゅんと剛直を締めながら、矢紗美は独り言のように小声で呟く。
「受け止めて、くれますか?」
 矢紗美からの返事はなかった。ただ、小さく――注意深く見ていなければ気がつかないほどに小さく、頷いた。
 月彦も、最早何も言わなかった。密着していた体を僅かに起こし、抽送を再開する。いつもの、“イく為”の動きを。
「んんっ、んんっ! ぁっ……んっ……あんっ、あぁん!」
 先ほどまでとは違い、両手で矢紗美の腰を掴んでの抽送。クリ責めがないにもかかわらず、矢紗美の反応はそれまでと同等か、或いはそれ以上に良くなっていた。まるで、中出しをされる未来を認識することによって、興奮を覚えているかのように。
「ぁぁあっ、ぁあんっ、あんっ! はぁ、はぁ……んっ、あぁんっ……こ、紺崎く、んっ……も、だめ……私、イきそ…………いっしょ、……一緒にっ……」
「分かりました……俺も、もう…………矢紗美、さんっ……!」
 ぱぁん!――尻が鳴る程に最後に強く突き上げ、月彦はそのまま被さって矢紗美の体を抱きしめる。
 抱きしめながら――注ぎ込む。
「ぁぁぁぁぁぁァァァア……!」
 矢紗美が、苦しげとも言える声で呻き、びくっ、びくと月彦の腕の中で痙攣するように震える。
「かはぁぁぁっ……びゅるぅぅぅ、って……スゴい勢いで、入ってくるぅ…………あ、熱、いぃ…………はぁぁぁぁぁぁ…………」
 痙攣しているのは体だけではない。膣内もまたうねうねと生き物のように蠢き、剛直を締め上げてくる。その感触に月彦もまた心地よさそうに嘆息を漏らし、絶頂の余韻に浸りながら、矢紗美の背へと身を預ける。
「ぁはぁぁ……まだ、出てるぅ……んぅ……こ、こんなにしつこく射精されるの……初めて、かも…………やんっ、……ま、まだ……出すの? んぅ…………」
「……言ったじゃないですか。今日はいつになく……矢紗美さんに中出ししたい気分だって。…………嘘じゃないって分かってもらえました?」
 うん、と矢紗美はどこか照れくさそうに頷いて、右手で愛しげに自分の腹部に触れる。
「お腹の奥、すっごく熱くなってるもの………………この感触……せっかく忘れかけてたのに……」
「……悪いですけど、矢紗美さん。…………これくらいじゃ、まだまだ足りないです」
 グンッ、と。埋まったままの剛直に力を込めると、微かに矢紗美がうめき声を漏らした。
「もっと、もっと……矢紗美さんとシたいです」
 さながら何かの中毒患者のように呟いて、月彦は抽送を再開させた。



 日は、大分前に暮れた。
「はぁっ……はぁっ…………こ、紺崎クン…………ちょっ、も、もう……止めっ……やっ…………ぁぁぁッ!」
 嫌がる矢紗美を押さえつけ、月彦は執拗に腰を振る。喘ぎっぱなし開きっぱなしの唇を本能の赴くままに奪い、舌を絡め、唾液を注ぎ込み、飲ませながら、腰を振る。
「んふぅっ……んんっ、んんっ……!」
 後頭部へと手を回し、後ろ髪を撫でながら嬲るようなキスを続けた後は、その下。セーターの上から膨らみの間へと顔を埋める。月彦にしては珍しく、セーターをまくってもいなければその下のブラも外してはいなかった。そこに顔を埋めたのは、偏に長い長い交尾でたっぷりと矢紗美の汗を吸ったセーターの香りを嗅ぎたかったからに過ぎない。
(矢紗美、さん……)
 どうしようもなく矢紗美が愛しいと感じるこの感覚に、月彦は覚えがあった。そう、以前――降雪で危うく遭難しかけた後、矢紗美の部屋で仕切直しでセックスをした際もまた、同様に止まらなくなってしまったのだ。
「ふぅ……ふぅ…………こ、紺崎クン……ねぇ…………どう、して……また、こんな…………この前、みたいに…………そ、そんなにスローセックスが好きなの?」
 スローセックス?――Pスポットに続いて、また耳慣れない単語が出てきたと、月彦は俄に冷静さを取り戻した。
「スローセックスって何ですか?」
「だ、だからぁ…………こ、こんな風に…………時間を、かけてぇ…………ぁぁぁぁ! ゆ、ゆっくりイッたり……い、イかされ、たりぃ……」
 勿論問う間も腰の動きをとめたりはしない。ゆっくり、ゆっくり――そう、焦らしているわけではなく、十分に時間をかけながら共に興奮を高めていき、イかせる。無意識のうちに、そういう動きをしていたのだった。
(……だって、そうした時が一番矢紗美さんの反応が良かったし)
 “前回”の経験から、それこそ無意識のうちに月彦はそういったプランニングを行っていたのだった。
 そう、ひたすらイかせ続けるのではなく、たっぷり時間をかけて大きくイかせる。しかも、初めからそうするのではなく、最初は軽く、比較的小刻みに。徐々に愛撫の時間を長くしていき、絶頂にかかるまでの時間を伸ばしていく。
 月彦の見たところ、それこそが――。
「あああァァァァァッ!!!!」
 たっぷり一時間半はかけて愛撫し、キスを挟みながら簡単にイッてしまわない程度の動きで剛直で責め続けた反動か、矢紗美は背骨が軋むほどに大きく背を反らせ、ほとんど叫ぶような声を上げて、イく。
「ンッ……く……し、ま、る…………ッくはぁ……」
 ぎち、ぎちと締め付けられ、思わず射精してしまいそうになるのを脂汗を流しながら歯を食いしばり、堪える。
「ッッッッ………………………………ッはーっ…………はーーーっ………………はーーーーっ………………」
 呼吸が止まるほどの絶頂から漸く解放されたらしい矢紗美に被さり、そっと優しくキスをする。もはやキスに応じる余裕すらもないのか、されるがままに矢紗美は脱力しきっていた。
「ちょっ…………こ、紺崎クン…………これ、……もう、止め、よ?」
「どうしてですか?」
「さ、最初……みたいに……ふ、普通の、方が……私は、好きだな……こ、紺崎クンも……こんなの、疲れるだけ、でしょ?」
「いいえ、全然」
 確かに、手加減をして突いたり、射精を我慢するのは疲れる。が、その疲れを吹っ飛ばして余りあるほどに可愛い反応を矢紗美が返してくるから、全く苦にならないのだった。
「矢紗美さんがいっぱい感じてくれてるのを見てるだけで、俺は満足できますから」
「そ、そんなの……だめぇ…………私、だけ……イかされる、なんてぇ…………ンンッ……」
 矢紗美がなんと言おうと、止める気はないとばかりに月彦は唇を塞ぐ。また優しく剛直を動かしながら、今更のように胸元をまさぐる。
「分かりました。次に矢紗美さんがイく時に俺も合わせますから、それならいいですよね?」
「よ、よく、ないぃ…………お願いだから、普通に、しよ? ね?」
「ダメです。……こうやって時間をかけてイく時の矢紗美さんの声、もっと聞きたいですから」
「こ、紺崎クン……んんぅ……!」
 キスをすると大人しくなるのは雪乃と同じかなと、そんなことを考えながら、月彦は優しく、優しく。それこそ処女を扱うような仕草で抽送を、その合間合間にキスを続ける。
 体位も、正常位ばかりではない。側位、後背位、座位、背面座位――様々な体位で、矢紗美をイかせぬ様手加減しながら、徐々に、徐々に。快感を溜めていく。
 そう、たっぷりと……時間をかけて。
「あぁっ……あぁぁっ…………ぁぁぁぁ…………も、嫌っ……あぁ……こんな、の……覚えさせないでぇ……」
 体位を変えたのは何度目だろうか。背後から抱きしめるようにしながらこちゅ、こちゅと小刻みに突いていると、矢紗美が泣きそうな声を上げた。
「はぁっ、はぁっ……し、死んじゃうぅ…………ずっと、イッてるみたいなのに……イッてないのに……あぁぁぁっっ…………だめぇ……わたし……ワケわかんないこと言ってるぅ……」
「……矢紗美さん?」
 月彦の体感時間では、前回の矢紗美の絶頂からかれこれ二時間は経過している筈だった。
「心臓、ばくんばくんってしてて……からだ、あつくってぇ…………ぁぁぁぁっ……」
 確かに熱い――と、月彦は背後から矢紗美の体を抱きしめながら思った。セーターも、脱がせていないミニスカートも矢紗美の汗をたっぷりと吸い、最初の挿入以来体位を変える際にすら一度も剛直を抜いていない結合部から溢れる蜜は、既に矢紗美の太股を伝って膝まで濡らしていた。
「おね、がいぃ……紺崎クン…………ほ、ホントに私、死んじゃうぅ…………こ、こんなの無理ぃ…………」
「矢紗美さん……」
 分かりました――そう囁いて、月彦は一端体を起こして、正常位へと体位を変える。
「……じゃあ、次で終わりにしますね。……最後は、キスをしながら一緒にイきましょうか」
 うん、と矢紗美が頷き、月彦もまた吸い込まれるように矢紗美に被さり、その背へとしっかりと手を回す。矢紗美も同様にし、さらに月彦の腰に足を絡める形で――あくまでゆっくりと絶頂を目指していく。
「ぁはぁぁぁぁ…………ひぅぅう…………ふぁぁぁ…………はぁぁぁぁぁっ……」
 ゆっくり、ゆっくり、矢紗美の呼吸に合わせて剛直をギリギリまで引き抜き、根本まで押し込んでいく。
「ぁぁぁぁぁっ…………こ、これ……きついぃ…………きつい、けど…………き、気持ちいぃぃぃぃ……!」
 はぁ、はぁ。
 ぜぇ、ぜぇ。
 息も絶え絶えに矢紗美は両目から涙すら溢れさせながら、堪りかねるように呟く。
「気持ちいいぃ……気持ちいいぃ…………よ、良すぎて……終わるの、怖いぃ…………」
「終わるのが怖い? じゃあ、もっと続けますか?」
「い、嫌ッ……それは、イヤァ…………続けたら、死んじゃう…………だから、止めてぇ……止めないでぇ……止めたら嫌ぁぁ……」
 己の発言が矛盾している事すら矢紗美にはもう分からないのか、月彦は苦笑を一つもらして徐々にスパートをかけていく。
「あぁっ……あぁぁぁっ……ぁぁぁっ…………き、気持ちいいの……どんどん大きくなるぅ…………な、流されちゃうぅう!」
「流されないように、しっかり捕まってて下さい。…………っ……」
 月彦の言葉に、矢紗美はきゅうっと両手で痛いほどにしがみついてくる。
「気持ちいいぃぃ……いぃ……いいいぃ……! あぁぁ……イくぅ……イきそぉ……イくぅ……」
「俺も、です…………矢紗美さん」
 限界を感じて、月彦はそっと唇を重ねる。そのまま舌を絡め合いながら剛直が抜け落ちるぎりぎりまで腰を引き、突き。再度引き、突き。再度引いて――
「んふっ、んんっ、んんんんぅーーーーーーーーーーーーーー!!!」
 突き上げ、グリッ……と強く子宮口に先端を押しつけ、溜まりに溜まった快感ごと、獣欲の滾りをぶちまける。
(くはぁっ………………!)
 我慢していた分、快感もひとしおだった。狂ったような勢いで吐き出されていく子種に思わず腰を引きそうになりながらも、それでも月彦は矢紗美の体を抱きしめ、密着したまま、快感の反動に耐えた。
「んんんんーーーーーーッ!!」
 矢紗美が喉奥で噎びながら、ビクン。ビクンと全身を痙攣させる。
(矢紗美さん……すっげぇ可愛い……)
 小柄な体も相まってか、己の腕に抱かれて小刻みに震えながらイく矢紗美に月彦は殊更強くそう感じながら――それこそしつこいほどに射精を繰り返し、子種を注ぎ込んでいく。
「……くはぁ…………矢紗美さん、凄く……良かったです」
 余韻を楽しみながらのキスも終え、少しだけ体を離しながら月彦は呟いたが、矢紗美からの反応は返ってこなかった。それこそ、魂の入っていない人形のような、濁った目をしたままはぁはぁと荒い呼吸を繰り返すのみだ。
 くすりと、月彦は意地悪な笑みを一つ浮かべる。
「………………もう一回だけ、シてもいいですか?」
「っ……やっ……、む、無理っ……止めて……」
 びくっと。怯えるように矢紗美が体を震わせ、その目に僅かながら光が灯った。
「冗談です。…………今夜はもう、このまま寝ましょうか。…………って、そういえば今何時――」
 はて、今日は土曜日だっただろうか――月彦は何の気なしにベッドの枕元にある目覚まし時計へと目をやり、ぎょっと硬直した。
 時計は、月曜日の午前五時である事を示していた。



 

「ほらほらぁ、遠慮なんかしなくていいんだから、じゃんじゃん飲みなさいよ」
「うるさいわね……これでも一応病み上がりなんだから」
 雪乃はぶすっと仏頂面のまま、最初に注文した生ビールの残りをちびりと口に含む。如何に自他共に認める酒好きとはいっても、ほんの一週間前に生死の境を彷徨うような目にあった身としては、そうそう暴飲暴食に身を任せる気にはなれないのだった。
 そう、快気祝いしてやるから飲みに付き合えと最初に姉に誘われた時、雪乃は咄嗟に断ろうかと思った。にもかかわらず申し出を受けてしまったのは、自分のせいで少なからず姉に迷惑をかけてしまったという負い目があったからだった。
 しかし、姉の申し出を受け、なじみの居酒屋へと共に足を運び、木目を覚えてしまいそうな程になじみのある木のテーブルについてものの十分で、雪乃は申し出を受けた事を後悔し始めていた。
「あ、すいませーん。マッコリと泡盛、あと焼酎このメニューにのってるの上から三本まとめて持ってきてもらえます?」
「……私、焼酎飲めないんだけど」
「分かってるわよぉ、そんなことくらい。私が飲むからいいでしょ。あんたも飲みたいのがあったらどんどん注文していいのよ?」
「…………じゃあ、ビールおかわり」
 まだジョッキに三分の一ほど残っているのだが、来店してから大分時間が経ってしまったせいでとても飲めたものではなくなってしまっていた。注文を受けた店員がほどなく酒を持って現れ、さらに矢紗美がいくつかのつまみを注文する。
「んんーーーやっぱりいいわねぇ、お酒は女を磨く水とはよく言ったものだわ」
「初めて聞いたわ、そんな台詞」
「何よ、ノリ悪いわねぇ。何か職場で嫌なことでもあったの?」
「別に……」
 しいて言うなら、お姉ちゃんのテンションの高さがウザい、と雪乃は喉まででかかったが我慢した。一応自分の回復を祝ってくれている肉親に対して、さすがにそれは言えなかった。
「むしろ、お姉ちゃんのほうがどうしてそんなにテンション高いのか教えて欲しいんだけど」
「えっ、別に私はいつも通りよ? 何かおかしい所ある?」
 おかしいところだらけよ、と雪乃は声にならない声で呟いた。
「んっふふー……そっかぁ、機嫌良さそうに見えちゃうかぁ。そっかそっかぁ……やっぱり雪乃には隠し事できないわねぇ」
「なーに? 宝くじでも当たったの?」
 雪乃は態と、ありそうもない事を言った。ぐびり、と生ビールを口に含み、店員がもってきたばかりの軟骨の唐揚げを口にいれる。
「ひょっとしたらそれより嬉しいかも? あーでもどうしよっかなぁ、あんまりノロケとかって趣味じゃないし、でも雪乃がどうしても聞きたいっていうのならしょうがないかなー? ねぇ、聞きたい? 聞きたい?」
「別に……」
 雪乃は興味なさそうに呟き、今度は枝豆をむいて口へと放り込む。
(やっぱり、“男関係”なのね)
 大方、狙っていた彼女持ちの男とやらの陥落に成功したとか、そういう話なのだろうと雪乃は推測する。
(…………でも、お姉ちゃんが男一人落としただけでこんなに上機嫌になるなんて…………本気で好きっていう話、本当だったのかしら)
 少なくとも雪乃が覚えている限り、今回のケースを除いて矢紗美が男のあれこれで上機嫌になったという事など一度も無かった。
「んっふふー……ホントに聞きたくなぁい? 聞いた方がいいんじゃない? 今後の参考になるかもしれないわよ? ほらほら、本当は聞きたいんでしょぉ?」
 酔いが回っているのか、顔をほんのり赤くしながらそんな事を言う姉を心底ウザいと思いながらも、迷惑をかけたのは自分の方なのだからと、雪乃は言いたい言葉をぐっと飲み込んだ。
「……お姉ちゃんが話したいっていうのなら、別にノロケ話聞くくらい構わないけど」
 本当は、聞きたくなどない。聞きたくはないが、“負い目”がそれを許さない。
 さらに言えば、先だっての合宿の後にもラビと月彦の両方から矢紗美がどれほどしっかりと自分たちの面倒を見、リードをしてくれたのかを聞かされ、そのあまりの褒められ方に少しばかり姉の事を見直し、ちょっぴり嫉妬まで覚えた程だ。
(…………紺崎くんに手を出すのは月島さんがしっかり目を光らせてガードしてくれたらしいけど……)
 しかし、雪乃には僅かな気がかりがあった。それは、合宿の件以降、部室で顔を合わせてもどこか月彦の態度がよそよそしく感じられる事だった。尤も、月彦が素っ気ないのは普段からなので、そこまで気になる、という程でも無かったが。
「そっかー、聞きたいのねー?……んじゃ、雪乃にだけ特別に教えちゃう。………………例の彼氏なんだけど……くふくふ……とうとう私の事が好きって言わせちゃった。それも、かなり本気っぽい感じで。くふくふくふっ」
「ふーん、それは良かったわね」
 ふぁーあ、とあくびの一つもしたい心境だった。
「なんかさー、付き合ってる彼女っていうのが結構ヤな女っていうか、いろいろ気苦労が多いらしいのよね。だから私に靡いてくれたってのもあるのかも?」
「ふーん」
「しかもさぁ、その女っていうのがとんでもないド淫乱の変態女みたいでさ。デートのたんびにしつこく体を求めてきて辟易してるんだって」
「へー、それは大変ね」
「でしょぉ? 何でもデートの帰り、いきなり部屋に連れ込まれて、玄関先でいきなりズボン脱がされた事もあるんだって。ドン引きする話よねえ」
 ぎくり、と。姉の言葉などそれまで殆ど聞き流していた雪乃は、不意に冷水を浴びせられたように固まった。
「あれ、どうしたの、雪乃。固まっちゃって」
「な、何でもないわ…………それで、その……ズボン脱がせた後、どうなったの?」
「そのまま、その場で口でされちゃったんだって。それでその後ベッドまで引っ張られていって、次の日まで延々……ね」
「……………………………………。」
 冷や汗が止まらなかった。姉の話を聞きながら舌がカラカラに乾くのを感じて、雪乃はまだジョッキに半分残っていたビールを一息に飲み干した。
「どうしたの? 雪乃。急に無口になっちゃって」
「べ、別に………………その、おねーちゃん……や、やっぱり……玄関先でいきなり、なんて……変、よね?」
「当たり前じゃない」
 何を今更、とでも言いたげに矢紗美はけろりと言ってのける。
「男の方が求めるならまだしも、女の側からなんて。正直、頭どうかしてるんじゃないかって思われても仕方がない行為でしょ。はっきり言ってあり得ないわ」
「や、やっぱり……そう、よね………………」
 矢紗美の話に出てくる“嫌な女”というのはひょっとして自分なのでは――とは、雪乃は微塵も思わなかった。純粋に、過去に自分がやってしまった事と同じ事をやった女がこきおろされているという、居心地の悪さを感じているに過ぎない。
「なになに、どーしたの? まさかあんたにも心当たりがあるなんて言わないわよね?」
「あ、当たり前じゃない! やーねぇ、お姉ちゃんったら……自分からそんな事なんてするわけないでしょ?」
「そうよねー。もう、紛らわしい顔しないでよ。一瞬不安になっちゃったじゃない」
 互いに誤魔化し笑いをしながら、各々酒を口に含む。
「……そういえばさ、雪乃。あんた“Pスポット”って知ってる?」
「ぴーすぽっと? なにそれ。穴場の駐車場かなにか?」
「やっぱり知らないか。……実はうちの職場にさ、彼氏にコレ開発されまくっちゃった可愛そうな子がいるのよ」
「彼氏に開発って……何? もしかして……体の一部なの?」
「私も詳しくは知らないんだけどね。ココ開発されちゃうと、寝ても覚めてもセックスの事しか考えられなくなっちゃうらしいわよ?」
「なにそれ、怖い……。一体どうされたらそうなっちゃうの?」
「人から聞いた話だから、どこまで正確なのかは分からないんだけどね。…………セックスの時、奥の方まで挿れられて、そこをグイグイってしつこく刺激されるとなっちゃうらしいわ」
「お、奥を……ぐいぐい…………」
 さーっと。雪乃は顔から血の気が引くのを感じた。
「それでね、Pスポット開発されると、お腹に手を当てて撫でられたり揺らされたりするだけで気持ちよくなっちゃうらしいわ。…………どうしたの、雪乃。顔真っ青よ?」
「そ、そう? 光の加減じゃない? …………………………ちなみに、その……Pスポット……だっけ。そこ開発されすぎちゃうと……どうなっちゃうの?」
「さぁ? 私には分からない感覚だもの。ただ、職場の同僚見てる限りだと…………セックス中毒っていうか、依存症みたいになっちゃうんじゃないかなー。寝ても覚めてもセックスセックス、もー男なら誰でもいいって感じよ? 怖い怖い」
「そ、そうね……。……お、お姉ちゃんも気を付けなきゃダメよ? お姉ちゃんみたいなのが一番危ないんだから!」
「そうね、そう思うわ。……その点、あんたは安心ね、雪乃」
 うん、と。雪乃は青ざめたまま小さく頷く。その実、全身から嫌な汗がだくだくと溢れるのを止められなかった。
「あっ、そーだ。忘れる所だった」
 ぱん、と。矢紗美が今思い出した、と言わんばかりに手を叩き、ハンドバッグから何かのチケットを取り出し、テーブルの上に置く。
「なにこれ。…………オペラのチケット? 私にくれるの?…………って、これ先週の土曜日じゃない」
「そ。あんたのせいで行けなくなっちゃったから弁償してもらおうと思って」
「弁償って…………ちょっ、何よこの値段! 六万円なんて今持ってないわよ! 第一、私は無理に代わりをやってなんて頼んでないわよ!? お姉ちゃんが勝手に来て、勝手に代わりをやっただけでしょ!」
「でも、おかげで合宿中止にならずに済んだんでしょ? みんな感謝してたわよぉ?」
「だ、だけど…………だいたい、お姉ちゃんオペラなんて観ないでしょ!? ましてや、こんな大金出してまでなんて…………どうせこれ、お姉ちゃんに気がある男から一方的に送りつけられたやつなんじゃないの?」
「ご明察。正直にバラしちゃうけど、自分はこの隣の席で待ってますから、是非来てくださいーって強引に渡されちゃってさ。勿論行くつもりなんか微塵も無かったんだけど、意外とこういうのが思わぬ所で役に立ったりするのよねぇ」
 フフフと、矢紗美は何かを思い出しているのか、にんまりと微笑む。
「……じゃあ、弁償なんかしなくてもいいわよね。……だいたい、合宿に使った食材とか炭とかで私だって結構散財してるんだから。これ以上出せって言われたって無理なの!」
「はいはい、分かったわよ。今日はちゃーんと私が奢ってあげるから安心してお腹一杯食べなさい」
「そのつもりだったけど…………」
 矢紗美の話のせいで食欲が消えた――というのが、正直な所だった。
(……紺崎くんとエッチしたいって思うのも……それのせい、なの?)
 まるで、秘密の庭園で大切に大切に育ててきたバラの花に突然泥水をかけられたような、そんな気分だった。月彦への愛情が故に体を求めてしまうのではなく、純粋に肉体的な欲求から求めているだけに過ぎない――かもしれないという可能性を示唆され、雪乃は戸惑いを隠せなかった。
「ほらほらぁ、元気出しなさいって。人生山あり谷あり、明けない夜はないのよ?」
 ずーんと沈んでいる雪乃とは裏腹に、矢紗美は喜色満面。まさに人生バラ色で楽しくてたまらないといった様子でコップに酒を注いでは一息で飲み干していく。
「ぷはーっ。ほらぁ、雪乃も飲みなさいって。……ほらほら、お姉ちゃんが注いであげるから」
「ちょっ、いいわよ! 自分で注ぐから」
「いーからいーから。今日はお祝い! ドンペリだろうがクリュグだろーが何でも好きなの注文しなさい。ぜーんぶあたしが奢ってあげる」
「……こんな場末の居酒屋にそんな酒置いてるわけないじゃない」
 この浮かれっぷりは尋常ではない、と雪乃は改めて目を見張った。先ほど矢紗美自身が口にした「宝くじに当たるよりも嬉しい」という表現はあながち間違ってはいないのではないかと思える程に。
(……別に、お姉ちゃんが浮かれてるのは勝手だけど……)
 そんな姉を見て、何故これほどまでに不安な気持ちになるのだろう。無論、“体の事”も不安だが、それとは別種の不安がムクムクと首を擡げそうになるのは何故なのか。
「あーもう! ほら、まーた辛気くさい顔してるぅ! 過ぎた事でいつまでも悔やんでるんじゃないわよ! 合宿なんてまたやればいいじゃない。そんで紺崎クンとも好きなだけいちゃつけばいいじゃない」
「そ、そうね……うん。お姉ちゃんの言うとおり……だわ」
 沈んだ顔をしていたのは、その件ではなかったのだが、雪乃はあえて口裏を合わせた。しかし、一度頭に浮かんだいくつかの疑念の種はそう簡単にはぬぐい去る事は出来なかった。

 

 


 
 

 

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