――気がつくと、森の中を逃げていた。
「はぁっ……はぁっ……はぁっ……」
精一杯腕を振り、力一杯地面を蹴り、月彦は走った。
暗い暗い森の中。追ってくる悪魔の足音はすぐ側まで迫ってきている。捕まったら全てが終わりだという恐怖が、より一層地を蹴る足に力を込める。
「はぁっ……はぁっ……はぁっ……あぐっ……!」
背後を気にして振り返った刹那、足下が疎かになった。地面から飛び出した木の根につま先を引っかけ、月彦はあっけなく転ぶ。顎と両手、胸を地面で強かに打ったが、そんな事でくじけてなどいられない。
(もし、捕まったら――)
その先を想像するだけで身の毛がよだつ。涙が溢れてきそうになる。――否、実際に目尻に涙が浮かび、月彦は泥にまみれた手で目元を拭いながら立ち上がろうとした。
「痛っ……」
不意に足首を襲った痛みに、月彦は立ち上がるなり再び膝をつく。どうやら、転んだ時にくじいてしまったらしい。
「ぁぐっ……うっ、……」
痛みで走るどころか、歩くことすら難しかった。月彦は何度も何度も背後を振り返りながら、ひょこひょこと殆ど片足で跳ねるようにして前へと進む。
(逃げなきゃ――)
一瞬、脳裏に意地の悪い笑みを浮かべた長身の女の姿がフラッシュバックした。違う――と、月彦は首を振る。そんな女は知らない。今自分を追いかけてきているのは双子の――。
「ヒーくーん。どこー?」
「あんまり奥まで行ったら危ないよぉ? 早く戻っておいでー」
後方――それも、大した距離のない場所から聞こえた声に、思わずヒィと悲鳴を漏らしてしまう。
“あいつら”の声だ!――月彦は歯の根をガチガチ言わせながら、懸命に――痛みのため立っていることすら出来ず――這うようにして逃げた。
――が。
「あはっ。ヒーくんみーっけ。アイナ、こっちこっちぃ」
「わっ……うわぁああああっ!!!!」
背後から走り寄ってくる影に月彦は悲鳴を上げる。半狂乱になって這うも、その背が踏まれ、すぐに逃げる事も出来なくなる。
「んもう。ヒーくんったらどうして逃げるの?」
「あっ、あぁっ……く、来るなっ……来るなぁ!」
月彦は咄嗟に右手で土を掴み、間接が痛むのも構わず無理矢理に自分を踏んでいる白いフリフリのワンピース姿の少女目がけて投げつけた。
「きゃっ」
と声を上げ、少女が飛び退く。その隙に立ち上がろうとして――しかし挫いた痛みの為にそれは叶わず――再び地面に転んだ。
「ちょっと……何すんのよ。この服お気に入りだったのに」
「居た居た。ユミ、今度は逃がしちゃダメだよ」
“声”が二つに増えた――瞬間、月彦は全てを諦めた。揃いの白ワンピースを着た少女達は月彦を挟むように立ち、好奇心の塊のような目を向けてくる。
「大丈夫だよアイナ。……ほらっ」
不意に少女の片方がこんっ、と月彦の右足首を蹴る。ぎゃうっ、と悲鳴を上げる月彦を見下ろしながら、双子の少女がケラケラと笑い声を上げた。
「あららー、ヒーくん足挫いちゃったの? だから危ないって言ったのに。……じゃあ、今からアイナがお医者さんやってあげるね」
「アイナってばズルいー! 次はユミの番なのにぃ」
「何言ってるの。ユミが前にやりすぎちゃったから、ヒーくんが逃げ出しちゃったんでしょ? ユミは看護婦さんの役ね」
そう言って、少女は手に持っていた虫かごをもう一人の少女へと手渡す。中に入っているのは――と、月彦が注視しようとした矢先、右足首から凄まじい激痛が走った。
「ぎゃああああっ!!」
「あぁー、残念ですねえ、これはもう手遅れですねぇ」
少女は月彦の傍らにしゃがみ込むなり、挫いた足先をぐりぐり捻るようにしながらそんな事を呟く。
「看護婦さん、お注射お願いしまーす」
「……だってさ、ヒーくん。ズボン脱いじゃおうねー」
「い、イヤッ……やめっ……」
凄まじい激痛で意識すらも飛びかけている中、強引にズボンが、そしてその下のパンツが下ろされていく。露わになった男性器を見るなり、双子はきゃあと黄色い声を上げ、
指先で弾いたり、軽く扱いたりと散々に弄んだ後、不意に虫かごへと手を伸ばした。
「はーい、それじゃあいつもみたいにおちんちんに注射しちゃいますねぇ。今日のはいつもより大きめの注射ですよぉ?」
「良かったね、ヒーくん。おっきい男の子はモテるんだよー?」
少女はそう言い、虫かごの中に躊躇無く手を突っ込むと一匹の昆虫を取り出した。それは月彦の親指よりも大きな、黄色と黒のストライプの入ったスズメバチだった。
「うわぁあああああああああっ! うわっ、うわっ、うわぁああああああああああ!!!」
暴れる月彦を一人が押さえつけ、もう一人が手にスズメバチを持ち、股間の方へと近づけてくる。
そして――
「やめろおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおッッ!!!!!!」
叫ぶと同時に、月彦はどんがらがっしゃーんと椅子から転げ落ちていた。
「痛たた…………あ、あれ……?」
尻餅をついたまま、月彦は周囲を見回して唖然とした。そこは慣れ親しんだ自室でも、時々お泊まりしている雪乃の部屋でも矢紗美の部屋でも、勿論白耀の部屋でもなかった。
「……紺崎、何を止めればいいんだ?」
自分を見る四十弱の視線と、笑顔のまま青筋を立てている古文教師の言葉に、月彦は漸くにして己が授業中に眠りこけてしまっていた事を理解した。
「あ、はい……すみません、何でもないです」
月彦はいそいそと椅子を元に戻し、何事もなかったかのように座り直した。
「紺崎、座ったままじゃまた眠くなるだろ。立っとれ」
「…………はい」
嫌です、とはさすがに言えなかった。
「よぉ、一体どんな夢見てたんだ?」
授業が終わり、昼休みになるや、早速にやついた顔の和樹が側に寄ってきた。
「…………聞くな。口にするのも嫌な夢だ」
見れば、周囲の男子女子の殆どが月彦の方を見ながらヒソヒソと小声で話をしていた。無理もない――と月彦は思う。立場が逆ならば、自分だって一体どんな夢を見ていたのか気になって仕方がないだろう。
(……しっかし…………何だって今頃あんな夢を……)
夢に出てきた双子の顔を思い出すだけで、月彦は全身に鳥肌が立つのを感じた。“双子の夢”は、かつては散々悩まされた類の悪夢であったが、ここ五年ほどはとんと音沙汰が無かっただけに、何故今更?――とつい考え込んでしまう。
(……いや違うな。この五年の間も悪夢は見ていた……ただ、その種類が――)
別の女が出てくるものに代わっただけだ。そのことを思い出すと無性にむかっ腹が立つのだが、その結果が愛しい愛しい娘の存在であると思うと月彦は板に挟まれるような気分になってしまう。
「やめろぉぉ! だもんなぁ。よっぽど怖ぇ夢だったんだな」
「怖い……まぁ、そうだな……」
肩を揺らしながら笑う友人の言葉を、月彦はあえて肯定した。本心から言えば怖い夢などと認めたくはなかったが、今はともかく“当時”はあの二人の事を心底恐れていた事は事実だった。
そう、あれはただの夢ではない。かつて自分が経験した紛れもない事実なのだから。
(あのときだって……姉ちゃんが助けに来てくれなかったら――)
くっ、と。月彦は思わず唇を噛みしめた。頭から血を流し、揃いの白のワンピースに朱の花を咲かせた姉妹と、その傍らに立つ棒きれを持った姉の姿――そんな光景がフラッシュバックのように脳裏に蘇り、月彦は思わず胸を抑えた。
(…………ッ……姉ちゃん……)
双子の夢――それはかつて己が犯した大罪の記憶に他ならなかった。
『キツネツキ』
第三十五話
「なぁ、和樹。今日の放課後辺り、久々に千夏と三人でゲーセンでも行かないか?」
放課後。HRが終わるなり、月彦は帰り支度をしている和樹に声をかけた。
「お前から誘ってくるなんて珍しいな。俺は別に構わないぜ」
「助かる。……ちょっと気晴らしがしたくてな」
結局、“夢”のダメージが抜けきらず、昼食もまともに食べられなかった。このまま帰宅すれば真央に要らぬ心配をかけてしまうのではないかという思いが多分に混じっての判断だった。
「ただまぁ……千夏を誘うのは無理だな。確か今日は休みだった筈だ」
「そういや、昼休みにも顔見せなかったな。……ん、っていうか最近全然千夏の顔を見てないような……」
ふと、月彦はここ数日間の事を振り返った。最後に千夏と話したのはいつだったか――記憶を辿り、妙子とのイチャイチャを千夏に邪魔されたあの日だという事を、月彦は思い出した。
「なーんか最近元気ないんだよな、あいつ。月彦、お前何か知らないか?」
「うーん……俺が最後に会った時は普通だったぞ?」
少なくとも、目に見えて落ち込んでいたとか、ふさぎ込んでいた――というような記憶はない。となると、その後に何かがあったという事だろうか。
(……まぁ、いざとなったら千夏自身か、妙子あたりに聞いてみればいいか)
元々が元気の塊のような幼なじみではあるが、ごくまれにふさぎ込む事があるという事を月彦は経験から知っていた。
(前の時は……確か……)
好きだった音楽バンドが解散した時だっただろうか。三日間ほど学校を欠席し、四日目にはけろりとした顔で登校していたから、そう心配するような事でもないだろうと月彦は思っていた。
「まー、野郎二人でゲーセンってのも微妙だなぁ。気晴らしならもう2、3人誘ってカラオケでも行ったほうが良くないか?」
「ん、そういやカラオケも久しく行ってないな。そうするか」
最後に行ったのは由梨子と二人でだっただろうか。あの時は歌を歌いに行ったというより、二人きりになれる場所として選んだというのが正しいから、勘定には含まれないだろう。
結局、和樹の薦めに従い、クラスメイトの何人かに声をかけ、誘いに乗ってきた二人と共に駅前のカラオケボックスへと行く事になった。さすがにアルコールには手を出さなかったが、二時間たっぷり熱唱し騒ぎ続けた結果、胸のモヤモヤのほうはその大半が払拭された。
(あぁ……なんか良いなぁ……。久々に“普通の高校生らしい事”をやった気がする)
喉が痛む程に歌いまくった後、カラオケボックスを出るなり月彦はそんな事を思い、妙に感慨深い気持ちになった。
駅前で二人のクラスメイトと別れ、和樹もまた「まっ、あんま気にすんなよ」と別れ際に一言残して去り、月彦は一人帰路についた。自宅へと歩みながら、月彦はひっそりと目頭を熱くしていた。友人というものはなんとすばらしいのかと、目から鱗が落ちる思いだった。
(…………そうだよ、あんなのはただの夢だ。気にした所で何の得も無いじゃないか)
既に、連中とは縁も切れている。絶縁と言ってもいい状態だ。恐らくこの先二度と顔を合わせる事もあるまい。
(……いやまてよ、そういや真央が初めて来たときも……)
はたと、月彦は思い出した。今や己の半身と言っても差し支えないほどに愛して止まない真央との出会い――その日の朝にも、同じように悪夢にうなされた事を。
(……偶然だ)
真央の場合は親子の絆からくる不思議な波長によるものだったと思えなくもないが、少なくとも月彦はあの悪魔のような双子達ともそのようなものがあるとは考えたくはなかった。
(……そう、ただの夢だ。ここのところいろいろあったしな。きっとストレスが溜まってたんだろう)
友人達との交流によって体の中にたっぷりと溜まっていた悪い気が発散され、清められたような実感すらある。今夜はきっといい夢が見られるに違いない――そんな漠然とした予感を胸に、今にもスキップをし出さん勢いで歩いていた、まさにその時だった。
「きゃっ」
「っと、すみません」
曲がり角を左折する際、左側から現れた女性のキャリーバッグと危うくぶつかりそうになってしまい、月彦は軽く頭を下げるようにして謝罪し、その脇をすり抜けようとした。
「……あれぇ?」
“その声”を耳にした瞬間、不意に月彦の足は止まった。
「ひょっとして……ヒーくん?」
そして次の瞬間には、月彦はその場から弾かれたように走り出していた。恐らくはこれまでの人生において最速に近い速度で自宅へと帰り着き、玄関へと駆け込むや即座に後ろ手で鍵をかけた。
「はぁっ……はぁっ……はぁっ……」
膝に手を突き、月彦は必死に呼吸を整える。全力疾走をしてきた直後だというのに、全身から血の気が引いていた。心臓が不自然な鼓動を刻み続けているのも、決して限界以上の力で走った為“だけ”ではなかった。
深呼吸を繰り返し、なんとか体の状態を平常へと戻そうとする月彦の耳に、ぱたぱたというスリッパの足音が近づいてきた。葛葉だった。
「あら、月彦。今日は随分遅かったのね」
「……母さん。………………ただいま」
その二つの単語だけを絞り出すように言い、月彦はさらに深呼吸を続けた。一体何故わざわざ葛葉が玄関まで自分を出迎えたのか、その意図を察するほどには、頭が回らなかった。
「そうそう、月彦。今日はね――」
年甲斐もなく悪戯っぽい笑みを浮かべた葛葉がそこまで口にした時だった。ピンポーンと、インターホンが鳴らされたのは。
悪夢だ。
これは悪夢の続きだ。
眼前の光景をどうしても現実だと認めたくなくて、月彦は頑なにそう思いこもうとしていた。
「従姉妹の黒須優巳ちゃんよ。……ほら、昔はよく一緒に遊んでたでしょ? 覚えてないかしら?」
葛葉はといえば、今日も今日とていつも通りの平常運転で、のほほんと隣に座っている女の紹介を始める始末だ。
「はぁい、ヒーくん。十年ぶりくらいかな? ヒーくんもキーちゃんもうちの田舎に全然遊びに来てくれないんだもの。私も愛奈もずっと待ってたのよ?」
優巳もまた、葛葉の紹介を受けてにこりと笑顔を零し、昔を懐かしむようにそっと目を細める。
月彦はといえば、食卓の椅子に腰掛けたまま、同じように対面の席に座っている二人を前にして完全に固まっていた。
黒須優巳。姉の愛奈とあわせて、忘れたくても忘れられない名前だった。優巳の言葉の通り、かれこれ十年以上は顔を合わせていない筈なのだが、微かに残る面影から間違いなく眼前の人物は黒須優巳であると月彦には確信が持てた。
(……忘れる、筈がない)
かつて、幼い頃の月彦にとって黒須姉妹という存在は恐怖という単語と同義だった。忘れられる筈がなかった。
「優巳ちゃん今ね、アパートで一人暮らししながらこっちの方の大学に通ってるんですって。だけどそのアパートが改装工事で二週間くらい部屋を空けなきゃいけないそうなのよ」
「急な話でゴメンね、ヒーくん。最初の一週間はなんとか友達の家をハシゴしてたんだけど、さすがに行く宛が尽きちゃってさ。お金もそんなに無いし、諦めて大学休んで一端田舎に帰ろうかなって思ってたら、愛奈がヒーくんちが確かこの辺だった、って教えてくれてさ。ダメ元で葛葉さんにお願いしてみたの」
優巳はやや申し訳なさそうに、謙虚そのものといった様子で肩をすくめてみせる。昔は長かった髪は今はショートカットになっていて、上はウインドジャケットにダウンベストを重ね着し、下はショートパンツという出で立ちの姿を見る限りは、ごく普通の女子大生という風にしか見えない。
立っていた時の背丈の差から察するに、身長は160の前半くらいだろうか。女性としては高い部類だろう。が、女性である証ともいえる胸元の膨らみは無いに等しく、そこだけは十年前から変わってはいなかった。
「うちからだったら、電車でギリギリ大学にも通えるらしいのよ。……一週間くらい優巳ちゃんが泊まる事になるけど、別に構わないでしょ?」
構うも構わないもない、と月彦は思った。現にもうこうしてキャリーバッグ片手に優巳が家に上がり込んでしまっているのだ。今更ダメだと反対した所で、葛葉に押し切られてしまうのは明白だった。
「……ところで、さっきから気になってたんだけど…………そっちの可愛い子はどちら様かしら? ひょっとしてヒーくんの彼女?」
ついと、優巳の目が月彦の隣で父親同様固まっている真央の方へと向く。
「えーと……そうねえ。真央ちゃんは居候……っていう事になるのかしら?」
「へぇ、じゃあ私と同じだね。よろしくね、まーちゃん」
「ぁ……はい、よろしくお願いします」
“知らない人”を前にして緊張しているらしい真央はぎこちなくそのような挨拶を返す。勿論耳と尻尾は隠している。
「何分急な話だけど、一週間だけだから。よろしくね」
「あら、優巳ちゃん気兼ねなんかしなくていいのよ? 一週間と言わずいつまでだって居てくれていいんだから。今は霧亜が入院してて居ないし、私も時々家を空けなきゃいけないから、優巳ちゃんが月彦達を見ててくれるととっても助かるわぁ」
「なっ……ちょ、母さん!」
とんでもない事を言い出す母親に、月彦はさすがに口を挟まざるを得なかった。
「前にも言ったけど、俺も真央も自分のことくらい自分で出来るから! 姉ちゃんが居なくたって俺たちだけで大丈夫だよ!」
「あら……でもほら、何かあった時とか、やっぱり……ねぇ?」
と、葛葉は隣の優巳に同意を求めるように首を傾げる。
(…………いつもの事ながら、どんだけ信用無いんだ、俺……)
先日の試験の頑張りも何処へやら。どうやら未だに自分に対する葛葉の信頼値はゼロに等しいらしいことを知って、月彦はがっくりと肩を落とした。そんな息子を前に、葛葉はうーんと悩むように唸り、そして不意にぽむと軽く手を叩いた。
「そうだわ、優巳ちゃんが泊まるお部屋だけど……空き部屋よりは霧亜の部屋の方がいいんじゃないかしら」
「えっ……!? だ、ダメだって! 姉ちゃんの部屋は絶対ダメだ!」
「あら、どうして?」
そう言って首を傾げる葛葉はどうやら本気で月彦の反対の理由が分からない様だった。
「なんで、って……母さん、覚えてないの?」
姉――霧亜と、黒須姉妹の仲の悪さを。
(そもそも、俺たちが親父の実家に帰省しなくなったのだって……)
“あの時”の事がきっかけではないか。まさかそれも忘れてしまったのだろうか。
(…………いや、待てよ。……そういやあの時って……)
月彦は恐る恐る、そして慎重に記憶を辿っていく。そして気がついた。“事件”の前後の記憶をどれだけ洗っても、帰省に葛葉が同行していたという確たる記憶が見つからないのだ。
(あの時、母さんは一緒に来なかったんだっけか……なんでだ?)
疑問の答えを探し、月彦は己の記憶を辿った。
「あっ、いいんです、伯母さま。お布団さえあれば、空き部屋でも全然ありがたいです」
が、そんな月彦にいちいち構っていられないとばかりに事態が勝手に進行していく為、うかうかと物思いにも耽っていられなかった。
「気兼ねなんてしなくていいのよ? 霧亜だって、優巳ちゃんだったら文句も言わないと思うんだけど」
「いや……ちょっと、母さん?」
「いえ、本当にいいんです。雨露凌げるだけでありがたいんですから」
「そう? 優巳ちゃんがそう言うなら………………じゃあ、月彦。空いてる部屋に優巳ちゃんの分のお布団と荷物、あとで運んであげなさいね?」
これはダメだ、と。月彦は奇妙な無力感に襲われた。少なくとも、黒須姉妹とのいざこざにおいて母親は何の助けにもならないという事だけはよく分かった。
「……ああ、わかったよ。真央、話がある。部屋に戻るぞ」
「あっ……うん……」
月彦はぽむと真央の肩を叩き、台所を後にする。「待って!」――その背に、優巳が声を上げた。が、月彦は待たずに無視して廊下に出、階段へと向かった。
「ヒーくん待って! 私ね、ずっとヒーくんには謝らなきゃって思ってたんだよ? だから――」
「黙れ。誰が信じるか」
月彦は唾でも吐くように言い捨てて、真央の手を引いて部屋へと戻った。
「いいか、真央。まずこれだけは守るんだ。……絶対にあの女の言葉を信じるな」
自室に戻るなり、真央はベッドに座らされ、そして両肩に手を置かれてしっかりと目を見据えながらそう言われた。
「次に、一人の時に絶対に近づくな。いいな、絶対だぞ?」
「うん……それは、解ったけど……父さま?」
「なんだ?」
「これから一週間……あの人が泊まる……んだよね?」
「………………じゃあ、やっぱり“あの人”の時みたいに……シちゃいけないの?」
「……真央。いいか」
再度肩に手を置かれ――ぐっと力を込められた。
「そういう問題じゃない。俺は真面目に言ってるんだ。冗談抜きで“アイツら”はやばいんだ」
あの女は悪魔だ――と、月彦はさらに吐き捨てるように付け加えた。
「比喩じゃない、本当に悪魔なんだ。真狐も確かに厄介で迷惑極まりない奴だが、あいつらがやることに比べればまだかわいげがあるってもんだ。いいか、絶対に不用意に近づいたりするんじゃないぞ。話しかけられても返事もするな、体に触られそうになったらすぐに大声を上げて俺を呼ぶんだ。いいな?」
「う、うん……」
納得した、というよりは月彦の剣幕に押される形で真央は頷いた。
「夜寝ている時も絶対に気を抜くな。いや、そうだな……いっそ交代で見張りをしたほうがいいかもしれない」
「ぇ……父さま……そこまで、するの?」
さすがにそれはなんでもやりすぎではないかと、真央は思った。が、真央が口を挟むなり月彦は再びすさまじい形相で切り返してきた。
「やりすぎじゃない! 実際、俺は寝てる時にパジャマの中にでかいムカデを何匹も入れられたことがあるんだ! 体中噛みまくられて高熱が出て三日くらい寝込んだんだぞ!?」
「そんな……」
と、さすがに真央は絶句した。その話が本当であれば、確かに“あの母親”よりもタチが悪いかも知れない。
「だ、だったら……父さま、義母さまに言って泊めないようにしてもらったほうが……」
「……そうしたい所だが、無理だろうな。母さんは俺や姉ちゃんがあいつらと仲良しだって信じ切ってる。それに、あいつらは自分の親達は勿論、周りの大人達にも完璧にネコをかぶり通して、絶大な信頼があるんだ。……“あの時”だって、姉ちゃん一人だけが悪者にされたしな」
「あの時……?」
「……昔の話だ。わざわざ人に言うような事じゃない」
くっ、と月彦が唇を噛みしめる。その時、階下から葛葉の呼ぶ声が聞こえた。
「…………くそ、そういや空き部屋に布団運ばなきゃいけないんだった。……真央、俺が戻るまで隠れてじっとしてるんだ。例えあの女がドア越しに声をかけてきても絶対に返事をするな。いいな?」
「うん、解ったよ、父さま」
真央は力強く頷き、月彦を部屋から送り出すと言われたとおりに息を潜め、こそこそと勉強机の下に身を隠した。
空き部屋があるのは同じ二階だ。下から布団と荷物を運ぶだけならそう時間はかからない筈――だったが、ついでに風呂の用意でも頼まれたのか、月彦はなかなか戻ってこなかった。
いい加減机の下に隠れている事に飽きて、真央がそっと這い出ようかとした時だった。
コンコンと、ノックの音が室内に響いた。
「私だけど。……まーちゃんいる?」
ドア越しに聞こえたのは、父親曰く“悪魔”の声だった。真央はうっかり返事をしそうになるも、慌てて両手で口を押さえ、再び体を机の下へと押し込んだ。
コンコンと、もう一度ノックの音がして、ドアノブが回った。
「まーちゃん、居ないの?」
キィと、微かな音を立ててドアが開かれ、優巳が室内へと入ってくる。その足が――何故か靴下が足首まで丸められていた――はたと真央が隠れている勉強机の前で止まった。
「…………そこかなぁ?」
「ひぃあっ!」
唐突にのぞき込まれ、驚いた真央は飛び上がろうとして引き出しの底で強かに頭を打った。
「あらら、大丈夫? ごめんね、驚かせるつもりはなかったんだけど……」
優巳は勉強机の真ん前にしゃがみ込んで陣取り、くすくす笑いながら真央がぶつけた辺りを優しく撫でてくる。
「ねぇねぇ、まーちゃんってさ…………きつねでしょ?」
「えっ……ち、違っ……」
ぎょっと、真央は全身を強ばらせた。耳は勿論、尻尾すら見せていないというのに何故見破られたのか。
優巳は真央のそんな狼狽え方を見てますます確信を得たのか、にっこりと微笑みを浮かべた。
「初めて見た時にぴーんと来たよ。うちの田舎の方でもさ、まーちゃんみたいな子時々見かけるから何となく雰囲気で解っちゃうのよね。……ヒーくんや葛葉さんだけの時は耳とか尻尾とか見せてるんでしょ?」
「ぁ、ぁ……」
頭を撫でていた手が、頬、そして顎へと降りてくる。その感触がまるでヘビがはい回っているように怖気が立ち、恐怖のあまり真央はまともに声も出せなかった。
「おいっ、何やってんだよ!」
「あ、ヒーくん。お布団と荷物運び終わったの?」
「どけよ! 勝手に部屋に入んな!」
半ば突き飛ばすように――その実、実際に月彦が突き飛ばすよりも早く優巳はぴょんと飛び後退ったが――して、月彦の手によって机の前から優巳が追い払われ、真央は飛びつくようにし机の下から出てきた。
「ヒーくん誤解しないで。私はただまーちゃんとも仲良くしたくて……」
「五月蠅い、黙れ。俺に話しかけるな、一秒以内に部屋から出て行け!」
優巳に喋る隙を与えず、月彦は早口にまくし立てた。忽ち、優巳は目尻を下げ、今にも泣きそうな顔をする。
「…………勝手に部屋に入ってごめんね、ヒーくん。……ばいばい、まーちゃん」
肩を落とし、優巳は部屋を後にする。その後ろ姿に、真央は少しだけ胸の痛みを覚えた。
「……騙されるなよ、真央」
それはまるで、自分自身に言い聞かせるような言い方だった。
その夜の夕飯は奇しくも、と言うべきか。かつて月彦が気まぐれに手伝い、そして霧亜に食事を拒否されたハンバーグだった。
「今日のご飯は優巳ちゃんが手伝ってくれたのよ?」
配膳を終え、着席した葛葉が誇らしげに言うが、むしろその一言によって月彦の食欲はゼロとなった。
眼前の平皿の上に置かれているのは見た目にはいつも通りの葛葉のハンバーグであるというのに、その調理過程に優巳の手が介入していると思うだけで悪臭を放つ生ゴミかなにかのように感じられるのだ。
(………………あの時の姉ちゃんも……こんな感じだったのかな)
だとすれば、箸を置いた霧亜の気持ちが痛いほどによく分かるというものだった。それでいて自分には葛葉の叱責覚悟で“お残し”をして二階へと去る勇気など無い事も月彦は自覚していた。
ハンバーグを箸先で割り、そのひとかけらを口の中へと入れてみる。味も、いつも通り葛葉オリジナルのそれの筈であるというのに、油粘土かなにかのようにしか感じられない。
(うぐっ……)
咀嚼を続けるうちに猛烈な吐き気を催し、月彦は思わず口を覆った。なんとか懸命に吐き気を堪え痙攣する胃を押さえ込むようにして飲み込んだ時には脂汗すら滲んでいた。
そして再び皿の方へと目をやった瞬間――月彦は全身に怖気が走った。
『ヒーくん、今日のお昼ご飯はね、芋虫のハンバーグだよぉ?』
そんな空耳と共に眼前に現れたのは、無数の芋虫を泥と一緒に練り固めハンバーグ状にしたものだった。泥からはみ出た芋虫の頭や胴体がうねうねと動き、悪魔の一人が月彦を羽交い締めにし、もう一人が木の枝を箸代わりにしてそれを月彦の口へと――。
「うわぁああああああああああああ!」
月彦は叫び声を上げるなり席を立ち、そのままトイレに駆け込んだ。
「うげぇっ……げぇっ……」
胃がひっくり返るような勢いで今し方口にしたばかりの僅かな肉を吐き続けた。
「月彦……どうしたの、体の具合でも悪いの?」
「父さま……大丈夫?」
遅れてやってきた葛葉達が背後から声をかけてくる。肩で息をしながら振り返ると、葛葉と真央が心配そうな顔をしている背後で、優巳だけが笑みを零していた。
「ヒーくんヒーくん」
風呂から上がって脱衣所を出るなり、月彦は寝間着姿の優巳に声をかけられた。
「…………。」
「ねえ、ヒーくんってば、ねえ」
「…………なんだよ」
どうやら待ち伏せをされていたらしい。無視しきれないと判断するや、月彦はやむなく優巳に返事を返した。
「もうー、どうしてそんなにケンカ腰なのさ。久しぶりに会ったイトコに対する態度としてちょっと酷すぎると思うよ?」
「……用件は?」
「ヒーくんハンバーグ嫌いだったの? 葛葉さんにヒーくんとまーちゃんの大好物だって聞いたから一生懸命作ったのに」
「作り手の問題だ」
月彦は吐き捨てるように言って、優巳の脇を抜けてようとした――が、その腕が掴まれた。
「待ってよ、ヒーくん。…………まーちゃんの事なんだけどさ」
「…………。」
「さっき……“父さま”って言ってたよね? あれってどういう事? ただの居候じゃないの?」
「……………………関係ないだろ」
「全然関係なく無いよぉ。愛奈から泊まるついでにヒーくんの女関係調べてきてーって頼まれてるんだもん」
「俺の知った事じゃない」
「ふーん。…………ねえ、ヒーくん。まーちゃんってさ、…………きつねでしょ?」
「…………何の事だ?」
「隠しても無駄だよ? さっきまーちゃんから直接言質とったし。あ、心配しなくても大丈夫だよ。私、きつねっ娘見るの初めてじゃないから。別に言いふらしたりするつもりもないし」
「………………真央は母さんの知り合いから預かってる子だ。……幼い頃に父親を亡くしてるらしくてな、その面影を俺に重ねてるだけだ」
「ふぅーん…………まぁいいや、とりあえずそういう事にしといてあげる」
「あぁ、それとな。これだけは言っとく。…………優巳姉がどういうつもりでうちに泊まりにきたのか知らないけど、真央にだけは絶対手を出さない方がいいぜ」
「どういうつもりもなにも、葛葉さんの説明通りの理由なんだけど。…………ちなみに、参考までに聞くけど、まーちゃんに手を出すとどうなるの?」
「一言で言うと、祟りに遭う」
「へぇ?」
「真央が嫌がる事は勿論、悪口その他、怖がらせるような真似も厳禁だ。そういう真似をした奴は近日中に必ず不慮の事故に遭ってるんだ。……どうしてかは知らないけどな」
優巳が真央は妖狐だと感づいているのならば、こういう脅しは逆に効果的だろうと。月彦は思った。勿論全ては真央を守るため、真央に手を出させない為の布石だった。
「ひょっとしてさぁ…………キーちゃんが入院したのも、まーちゃん食べちゃったせいだったり?」
「…………姉ちゃんの怪我はスキーで転んだせいだ。真央は関係ない」
「そのスキーで転んだ、っていうのがまーちゃんに手を出した祟りなんじゃないの? 知ってるよ? キーちゃんってレズなんでしょ?」
「………………とにかく、姉ちゃんの件は真央は関係ない」
どうしてか、この話題を続ける事が不快で――尤も、優巳と向き合って話をしている事自体、月彦には苦痛で――堪らなくて、月彦は掴まれた腕を強引にふりほどいた。
「待ってよ、ヒーくん」
月彦は無視して自室に戻ろうとした。足を止める気は全くなかった。しかし優巳が「許嫁の件だけど」と口にした瞬間、両足が硬直するようにして止まった。
「ヒーくんはもう有耶無耶になったと思ってるみたいだけど、愛奈の方はまだそのつもりみたいだよ? 今だにヒーくんの写真とか肌身離さず持ち歩いてるんだから」
「……ふざけるな。こっちはお前達の顔を見るだけで吐き気がするんだ」
背を向けたまま吐き捨てて、月彦はその場を後にした。
月彦と別れた後、優巳は自分に宛われた空き部屋へと戻るなり、部屋に置いておいたポシェットから嬉々として携帯電話を取り出した。履歴を確認すると、姉からの着信が三度も入っていた。
小さな笑みを一つ零して、優巳はすぐさま姉の番号を選び、発信ボタンを押した。
「…………もしもし、愛奈? ごめーん、寝てた?」
優巳は戯けて言いながら、枕元に置いてある愛用の目覚まし時計へと視線を移した。時刻は夜11時を過ぎたばかりだが、それは普段の姉の就寝時間を一時間以上オーバーしていた。
当然、受話器の向こうから聞こえてくる声は多分に眠気を孕んでは居たが、それでも尚不機嫌さは伝わってこない。
何故なら。
「うんうん、そうだよー、今ヒーくんちに居るの。ううん、一人だよ? なんか空き部屋とかいって、汚い部屋に押し込められちゃった。……違う違う、家自体がもうボロっちぃの。典型的な庶民の一軒家って感じ。敷地全部含めてもあたし達んちの庭の池くらいしかないよコレ。えっ、そんなこと聞いてない?」
キャハッ。そんな声を上げて優巳は笑う。そう、電話の相手が最も欲している情報は紺崎家の家の造りなどではない事など百も承知だった。
「解ってるよぉ、ヒーくんの事でしょぉ? えっ、写メ? それはまだとってないよぉ……そんなのよりちゃんとした写真の方が嬉しいでしょ? うんうん、解ってるって。でもタダじゃ嫌だよ? 普段着のヒーくんの写真なら千円、裸ネクタイは一万円、スカート姿なら五万円。どれがいい?」
うーんと悩むような声が受話器から漏れた後、姉が返してきた答えは優巳の予想通りのものだった。二卵性の双子ではあるが、それでもこの世の誰よりも互いの事は理解している。少なくとも、優巳はそう思っていた。
「あっははー、愛奈ってば趣味悪すぎ! うん、解ったよ、頑張ってみるけどさ、やっぱりスカートは難しいと思うよ? なんだかんだでヒーくんも一応高校生だし、昔みたいに無理矢理着せるってワケにもいかないしさ。…………うん、そうだねー、一応カッコイイ部類だとは思うよ。“あのヒーくんが”って感じ? ええぇーホントだって。すんごく背も高くなってるし。ううん、私の好みじゃあないけどさ、愛奈なら気に入るんじゃない? 私はほらどっちかっていうと――」
優巳は僅かに言葉を切り、そしてやや声のトーンを落として続けた。
「目当ては、キーちゃんの方だし。うん、愛奈の言った通りだったよ。ホントに入院してるみたい。……えーっ、そうじゃないってばぁ。違う違う、ホントに違うって、そういうんじゃないの。……ただ、ふつーにキーちゃんどんな女になってるのかなぁ、って。……うん、仕返しはするよ? 当たり前じゃない」
優巳はちらりと――部屋の隅に置かれている化粧台の方へと視線をやった。長らく使われていないのであろうその化粧台に映る自分の横顔。髪を僅かにかきあげ、その下に刻まれている傷痕を見るなり、思わず口元に笑みを浮かべてしまう。
「うん、ヒーくん苛めて遊ぶのはその後。だーいじょうぶだって、確かに背も高いし体格もそれなりだけどさ。中身はヒーくんなんだよ? 身長が20メートルあったって負ける気なんかしないよ。それにいざとなったらヒーくんに襲われたフリして葛葉叔母さんに泣きつけばそれ以上手出しなんか出来ないっしょ。うんうん、葛葉叔母さん、相変わらずみたい。……そそ、泊まり込むのもアパートが改装中で〜とか嘘ついたら一発だったよ。ヒーくんがバカなのは間違いなく叔母さんからの遺伝だね。……えっ、何? そんなのはどうでもいい?」
焦れに焦れたような姉からの言葉に、優巳はあえて惚けてみせた。何? よく聞こえなーい、等とさらに一分近く焦らした後、さすがに姉の声に怒りが混じり始めた所で漸く優巳はふざけるのをやめた。
「解ってるってぇ、ヒーくんの女関係でしょ? さすがにまだ会ったばっかりだから解らないよぉ。……うん、なーんか警戒されてるっぽいし。でもさ、アレは多分本命の彼女とかは居ないと思うよ。………………あーっ! そうそう、彼女っていえば、愛奈! ヒーくんちにきつねっ娘がいたの! それもとびきり可愛い子でしかもなんかワケアリっぽくて…………えっ、それもどうでもいい? ああそう……うん、うん……じゃあ好きにしていい? うん、私はヒーくんよりその子の方が好みかも」
ぺろりと舌なめずりをしながら、優巳は記憶の中にある――確か、真央とかいったか――狐娘の姿を思い浮かべる。男好きしそうな体躯についてはこの際どうでもよかった。それよりなにより、あの怯えるような目が堪らない、と思う。
「え、なぁに? だから女関係なんてすぐには解らないってば。……うん、うん……多分まだ童貞なんじゃない? ヒーくんってなんか奥手っぽいし……え、童貞だったら手を出しちゃダメ? んっふふー、どうしよっかな?」
忽ち、罵声のようながなり声が受話器から飛び出してきて、優巳は思わず携帯電話を顔から離した。
「あー、ごめん愛奈。電池きれそーだからもう切っちゃうね、バイバイ」
早口に言って、優巳は強引に通話を終了させた。かけ直してくるかな、と少しだけ液晶画面を見続けたが、次に着信したのは通話のほうではなくメールの方だった。その内容を見るなり、優巳はぎょっと目を見開いた。
「……うわっ、愛奈ってば……ヘンタイすぎ。そしてヒーくんの事愛しすぎ。…………私には何処が良いんだかサッパリだよ。どう考えたってヒーくんよりキーちゃんの方が良いのに」
やれやれと言わんばかりに優巳は息を吐いて、そのまま布団へと潜った。“明日の事”が楽しみで堪らなくて、その夜はなかなか寝付く事が出来なかった。
翌朝。幸い――と言うべきか、月彦は優巳と顔を合わせる事無く朝食を済ませ、家を出る事が出来た。というのも、朝になっても優巳が部屋から出て来なかったからなのだが、葛葉が起こす必要はないと言った為、月彦も居ない者として無視することにしたのだ。どうやら葛葉は「慣れない家に来て、疲れが溜まってしまった」とでも思っているらしかったが、あの女がそんなタマではないという事を月彦は確信していた。
学校に着いた後は、欠伸ばかりをして過ごした。夜中、優巳を警戒して見張りをしていたから――ではなかった。結局の所、その案は現実的ではないと気がついてしまったのだ。
(俺はともかく……真央が、多分無理だろう)
連中の悪魔のような所行を身に染みて知っている自分はともかくとして、ただ言葉で聞いただけの真央にそこまでの緊張感の持続は無理だろうと月彦は判断した。そして何より、自分が寝て真央だけが起きているという状態がどれほど真央の悪戯心を擽り、ハァハァな状況に陥りやすいかという事も経験から熟知していた。
結果、月彦がとった安全策は勉強机をドアの前に移動させて侵入そのものを防ぐという手段だった。これでひとまずは安心――の筈だったのだが、そうだと解っていてもなかなか寝付く事ができなかった。一つ屋根の下に優巳が居ると思っただけで目が冴え、全身が警戒モードに入ったまま解かれる事が無かった。
そういうわけで授業なども殆ど眠るようにしながら――前日の轍は踏まない様最大限注意はしながら――受け続けた。昼休みなどはもう机に突っ伏したまま爆睡した。どうやら今日は千夏は学校に来ているらしかったが、話を聞かねばという意志よりも眠気の方が勝ってしまった。
或いは、そのように簡単に欲求に負けて爆睡してしまった罰――であったのかもしれない。放課後、眠い目を擦り擦り昇降口へと降りてきた月彦は、再び悪魔の待ち伏せを受ける事になった。
「やほっ。ヒーくん、待ってたよー」
「ッ! ……優巳……ねえ? どうして学校に――」
靴を手に取ろうとした矢先、思いも寄らぬ人物に声をかけられ、月彦は思わず尻餅を突きそうになった。
「どうしてもなにも無いよ! ヒーくんも葛葉さんも酷いよ! 朝だーれも起こしてくれないんだもん……おかげで寝過ごしちゃったから、今日はもう休んじゃう事にしたの!…………で、しょうがないからキーちゃんのお見舞いにでも行こうかなーって」
「姉ちゃんの……見舞い……?」
「そそ。丁度葛葉さんにキーちゃんの着替えもっていってあげてって頼まれてるし。病院の場所はヒーくんが知ってるって聞いたから待ってたんだよ?」
優巳は右手に提げた紙袋を月彦にアピールするように持ち上げてみせる。
「…………いいよ。着替えは俺が持っていくから、優巳ねえは先に家に帰ってなよ」
月彦は靴を履き、優巳に近づくや強引にその紙袋を取ろうとする――が。
「一緒に行こうよ。私も十年ぶりにキーちゃんに会いたいもん」
「姉ちゃんは会いたくないと思うよ。……着替えをこっちに渡してくれ」
「だーめ。連れて行ってくれないなら、葛葉さんに告げ口しちゃうよ? ヒーくんが意地悪して教えてくれないって」
「………………。」
月彦は考えた。この女のことだ、恐らくは本当にそうするだろう。となれば、あの人の良い葛葉の事だ、優巳に霧亜が入院している病院の住所を教えてしまうかもしれない。その場合、怪我で身動きの取れない霧亜の所にこの女が一人で行く事になるのではないか。
だったら。
「…………解った。ついてきなよ」
「案内してくれるの? やったぁ!」
優巳はわざとらしくぴょんと跳ね、月彦の隣に並ぶようにして歩き出す。月彦は無視して裏門から学校を出て、そのまま一直線に姉の入院している病院を目指した。
「ねーねー、ヒーくん。ヒーくんってば」
「……なんだよ」
「んもう、つれないなぁ。……どうしてそうつっかかるの? “昔のこと”なんて水に流して仲良くしようよ、イトコ同士なんだし」
「嫌だ。俺はお前達に何をされたのか忘れてない。出来れば口も聞きたくないし顔も見たくない」
「だーかーら、その事に関しては本当にごめんなさい、って何度も謝ったじゃない。私も愛奈もまだ子供だったし、“加減”が解らなかったの」
「………………。」
「今だから言うけど、あたしも愛奈もヒーくんの事大好きだったんだよ? ほら、よく言うじゃない。好きな子には意地悪したくなるってやつ?」
「…………ついた。ここだ」
優巳の話には一切取り合わず、月彦は黙々と歩き続け、程なく目当ての病院へと到着した。病院の外見について貧相だのなんだのと漏らす優巳を置いていかんばかりの勢いで受け付けで面会の手続きを済ませ、階段を上がった。
「うっわー……きったない階段……埃くさーい」
階段を上がりながら、優巳が呆れたように声を上げる。が、月彦は取り合わない。
「キーちゃんどうしてこんな病院に入院してるの?」
「………………。」
「あっ、ひょっとしてお金が無いから? だったら、あたし後でお父さんに電話してもっといい病院に移してもらえるように頼んであげる! ほら、ヒーくんも知ってるでしょ? うちのお父さんってすっごく顔が広いから――」
「いや、いい。姉ちゃんも絶対そう言う」
月彦は短く言って、さらに廊下を歩き、紺崎霧亜とネームプレートに書かれた部屋の前に立ち、控えめにノックをした。
「……姉ちゃん、俺だけど」
ノックにも、声にも返事は無かった。いつもの事だった。月彦はそっとドアノブをひねり、室内へと入った。
ドアの前に置かれた衝立の影からそっと顔を覗かせるなり、月彦は思わず安堵の息を漏らした。
霧亜は、居た。相変わらずの痛々しい包帯まみれの姿だが、ベッドの上で上半身だけを起こして気だるそうに本を読んでいるその姿自体は、月彦の良く知っている自慢の姉の佇まいそのものだった。
勿論、霧亜は愚弟が病室内に入ってきている事には気がついているだろう。が、しかし気がついていて尚一瞥もよこさず一言の挨拶も無く、頑ななまでに文庫本に目を落とし続けているのもいつも通りと言えばいつも通り。そんないつも通りの姉だからこそ、月彦は安堵を覚えたのだった。
――しかし、その霧亜が不意に顔を上げ、月彦の方を見た。
「やっ。キーちゃん、久しぶり!」
否、正確には月彦の後ろから現れた優巳を見た。我が目を疑うように見開き、文庫本にしおりを挟んで閉じ、側の棚の上に置くや代わりに引き出しから果物ナイフを手に取り、いきなり鞘を抜いた。。
「ちょっ、姉ちゃん!?」
さすがにこれには月彦が慌てた。慌てながらナイフを取り上げようと駆け寄りかけるも、その切っ先を霧亜に向けられ、それ以上近寄る事が出来なかった。
「……相変わらず、だね。キーちゃん。そんなに警戒しなくても大丈夫だよ、私はただ、葛葉さんに頼まれて着替えを持ってきただけだから」
優巳は着替えの入った紙袋を置き、自分は丸腰だとアピールするかのように両手を上げてみせた。
霧亜は切っ先を月彦から優巳の方へと向け、その切っ先以上に鋭い視線で睨み付ける。
その口から最初に出た言葉は不出来な弟に対する叱責でも、十年ぶりに会った従姉妹に対する挨拶でもなかった。
「……愛奈は?」
ただ一言。まるでそれこそが一番の重要事だと言わんばかりに霧亜は呟いた。
「愛奈は来てないよ。私は田舎出てこっちの方の大学に進学したけど、愛奈は地元に残って土岐坂の家の――」
「出て行って」
優巳の言葉を切るように、霧亜は言った。やれやれ、と言わんばかりに優巳が肩を竦める。
「ヒーくんもキーちゃんもつれないなぁ。……折角会ったんだし、ちょっとくらい話しようよ」
「……姉ちゃんがああ言ってるんだ。帰ろうぜ」
「じゃあ、ヒーくんは先に帰っていいよ。私はキーちゃんと二人きりで話があるから。…………キーちゃんだって私に話あるでしょ?」
そういって、優巳は月彦からは見えない位置で唇だけを動かし、霧亜に“読ませ”た。
「………………月彦、病室から出なさい」
「なっ……姉ちゃん!?」
「ほら、ヒーくん。キーちゃんもああ言ってるし、外に出てなよ」
「姉ちゃん、急にどうして……」
「…………。」
「っ……わーったよ! 外で待ってるからな!」
霧亜からの返事は無かった。月彦は二人の顔を見、渋々病室を後にした。
「……やっと二人きりになれたねぇ、キーちゃん」
「何しに来たの」
「何って……“話”に決まってるじゃない。…………とりあえずさ、そんな物騒なものしまいなよ」
霧亜は片時も優巳から視線を外さず、静かに果物ナイフを鞘に収めた。それを確認してから、優巳は来客用の椅子を手にとり、ベッドの傍らへと置いて腰掛けた。
「うっわー……キーちゃん美人になったねぇ。友達から写真では見せてもらってたけど、こうして近くで実物見ると全然違うよ。愛奈もさ、キーちゃんは将来美人になるって言ってたけど、実物見たら絶対びっくりするよ。……これじゃあ、女の子のファンが出来るのも無理ないかなぁ。すっぴんでそれだもん、化粧なんかしちゃったらどうなっちゃうの?」
心底感心したような声で優巳は漏らす――が、霧亜は何も返さない。
「スゴいよねー、うちの大学でも、キーちゃんのおっかけって子結構居るんだよ? そういう子達から話を聞く度に、いつかキーちゃん達と仲直りしたいなぁ、って、ずっと思ってたんだから」
くすりと、優巳は口元に笑みを浮かべる。そう、まるで“世間話はここまで”とでも言わんばかりに。
「ところでさぁ、キーちゃん。質問なんだけど、どうして女の子とばっかり付き合ってるの?」
「…………。」
「キーちゃんの噂、いっぱい聞いたよ? だけどぜーんぶ“女の子と”の噂なんだよね。男と付き合ってるって話は一度も無し。どうして?」
「…………。」
「キーちゃんも一度くらいは男と付き合った事あるんでしょ? あっ、もしかしてそれで滅茶苦茶タチの悪い男に引っかかっちゃって、女の子の道に入っちゃったとか? まさか二十歳にもなって一度も彼氏持った事ないなんてイタい事言わないよね?」
「…………。」
「ねえねえ、教えてよ。キーちゃんって私と同じバイなの? それともガチレズなの? 私や愛奈にもムラムラした事あるの? 背の低い女の子と高い女の子、どっちが好き? おっぱいは大きい方が好きなの? ボーイッシュな子は好き? キーちゃんの性癖の事、ヒーくんや葛葉さんはどう思ってるのか聞いたことある?」
優巳は早口にまくし立てるが、霧亜は眉一つ動かさずにただただ唇を固く閉じ続けた。優巳が喋り終わってからたっぷり一分以上の間をとってから、漸く
「……そんな下らない話をするために、わざわざ来たの」
感情の全く籠もってない声で呟いた。そう、眼前の女に向けて言ったのではなく、あくまで独り言のように。
「そんなに邪険にしないでよ。……ちゃんと“仲良く”してくれないと、またヒーくん苛めちゃうよ?」
優巳は先ほど唇だけで伝えた言葉を、今度は声に出して言った。霧亜は無表情を通したが、握りしめたままの鞘付果物ナイフを握った手が僅かに動いたのを、優巳は見逃さなかった。
「ところでさー、これも噂に聞いたんだけど、キーちゃんとヒーくんって今すっごく仲悪いんだって?」
「…………。」
「変だよねぇ。だって、昔はあんなに仲良かったじゃない。何処に行くにも二人一緒でずっと手をつないだまま、つかず離れず四六時中べったりでさ。寝るときまで同じ布団で寝たりして………………正直見ててかなりキモかったよ? もうあからさまに“姉弟以上の関係です”って感じでさ」
くすくすと、優巳はまるで小虫の羽を毟って遊ぶ無邪気な子供のように笑う。
「ねえ、キーちゃん教えてよ。一体どうしてヒーくんとの仲が拗れちゃったの?」
「…………。」
「答えてくれないんだ。…………じゃあさ、私と愛奈が考えた推論いくつか言うから、当たってたら教えてね?」
勿論、霧亜は答えない。
「推論その1。ヒーくんが勝手に彼女作ったのがブラコンのキーちゃんにはどうしても許せなくて、無理矢理別れさせようとしたら」
「…………。」
「推論その2。ヒーくんが勝手に童貞捨てたのがブラコンのキーちゃんにはどうしても許せなくて、その相手とつかみ合いの大喧嘩をしたから」
「…………。」
「推論その3。重度のブラコン拗らせたキーちゃんがむりやり姉弟の一線越えようとしたけど、ビビったヒーくんに拒絶されたから」
「…………。」
「推論そのよ――」
「胸糞の悪くなる話はまだ続くの?」
優巳の言葉をかき消すような強い語気で、霧亜は唐突に口を挟んだ。
「だったら少し待ってくれる? 耳栓作るから」
霧亜は枕元の雑誌を手に取り、ページの一部をべりべりと破り始める。
「キーちゃん、そういう態度は良くないなぁ。…………言ったでしょ、“仲良くして”って」
「アレの事苛めたいなら、好きにすれば?」
霧亜は雑誌を破る手を止め、軽く鼻で笑った。
「何か勘違いしてるみたいだから、はっきり言うけど。私もあの愚図のバカッぷりにはいい加減嫌気が差してるの。いっそ死んで欲しいくらいだわ」
「ふーん?」
「昔、アイツの面倒見てたのだって、母さんと父さんにそうしろって言われたからよ。あんたも知ってるでしょ、あいつがどれだけバカで間抜けでビビリだったか。でも、そんな愚図のお守りもいい加減飽きた。…………それだけの事よ」
「じゃあさ、私がヒーくんに何しても、キーちゃんは怒らないし気にもしないってコト?」
「そうね」
「寝ちゃっても?」
一瞬、霧亜の動きが止まった。アハッ、と優巳が愉快で堪らないという声を出す。
「だってさー、久しぶりに見たヒーくんってすっごく背ぇ高くって、結構好みのタイプなのよね。……いいの? キーちゃんがいいって言うんなら、本当に寝ちゃうよ?」
「…………。」
「ねえほら、いいって言ってよ。さっき何してもいいって言ってたじゃない」
「………………あんな奴と寝たいの。その足首まで丸めた靴下と一緒で相変わらず趣味悪いのね。味覚がおかしいのも相変わらずなの? 今でもコーラ茶漬け食べたりしてるのかしら」
「急に喋るようになったね、キーちゃん。……くふふっ、ヒーくんが好みのタイプなんて本当は嘘だよ? だいたい私、本命の彼氏居るし。……ただ、私とヒーくんが寝たら、キーちゃんがすんごい悔しがるだろうから、寝たいだけ」
霧亜が、僅かに片眉を上げる。
「ねえ、キーちゃん。愛奈はさ、心底ヒーくんのコトが好きで好きで堪らなくって苛めてたけど、私は本当はキーちゃんの方を苛めたかったんだよ? 愛奈と一緒にヒーくんを苛めると、キーちゃんがムキになって追いかけてきたりするから、それが楽しくて私は愛奈を手伝ってただけ。知らなかったでしょ?」
「…………。」
「ほらほらぁ、ダメならダメって言わないと、本当に寝ちゃうよ? あと一週間はヒーくんちに泊まる予定だから、それだけあればいくらでもオトす自信あるし。自慢じゃないけど、手の早さならキーちゃんにも負けないと思うよ?」
「……好きに………………」
「なーに、キーちゃん。聞こえないよ? もっとはっきり大きな声で言ってよ」
「……っ……」
「ねえねえキーちゃん、知ってる? 従姉妹同士って勿論エッチOKだし、その気になれば結婚だって出来るんだよ? …………姉弟じゃ無理だけど。キャハハハハハハハ!!!」
声を上げ手を叩いて笑う優巳に、霧亜はまるで汚い生き物でも見るような目を向ける。――不意に、ぴたりと、優巳が笑うのを止めた。
「……キーちゃんってやっぱりステキ。すっごくいい顔するよね、たまんない」
優巳は上着のポケットから黒いゴム製の棒のようなものを取り出し、素早く振る。じゃきんと音を立てて金属の筒が二段にスライドして現れ、その先端を霧亜の方へと向けた。
「ふふ……ねえ、キーちゃん。……覚えてる? 十年前……ううん、正確には十三年前かな。私と愛奈とヒーくんとの三人で“お医者さんごっこ”してた時のコト」
優巳は警棒の切っ先を霧亜から外し、頬ずりをするようにして小首を傾げてみせる。
「あの時さぁ、私と愛奈が夢中になって“遊んで”たら、いきなりキーちゃんに木の棒で頭殴られたんだよね。ガツーン!って。……すっごく痛かったなぁ……血もいっぱい出たし、ほら……まだここに傷跡残ってるんだよ?」
優巳は左手で耳の側の髪をかき上げるようにして、“傷痕”を霧亜に見せる。
「鏡で見る度にムカつくからさぁ、いつかキーちゃんにも同じ傷痕つけてやろうって、その為にわざわざ買ったんだよ? コレ」
優巳はうすら笑みを浮かべながら椅子から立ち上がり、ヒュンヒュンと音を立てるように警棒を振る。
「だけどさ、私も鬼じゃないから。さすがに大怪我して入院してるキーちゃん相手にそんな酷いことは出来ないよ。……だ・か・ら」
優巳はしゃきんと警棒の金属部分をしまい、ダウンベストのポケットへと戻すと、その手で冷蔵庫の側の棚に置かれていた水差しを掴んだ。
「今日の所はこれくらいで勘弁してあげる」
そのまま水差しを霧亜の頭上へと持ってくる。
「別に嫌なら避けたり、手で払ったりしてもいいよ。……その時は代わりにさっきの警棒でヒーくん殴って憂さ晴らししちゃうから」
キャハッ、と声を上げて、優巳は容赦なく水差しを傾けた。中に入っていた常温のお茶が重力に引かれるままに霧亜の頭へと落ち、髪をしたたり、パジャマと布団を濡らしていく。
「あはっ、どうしたの? キーちゃん。ほらほら、じっとしてたらずぶぬれになっちゃうよ?」
挑発されても、霧亜は身じろぎ一つせず、ただただ冷めた目で優巳を見続けた。
「…………これで満足?」
空になった水差しを棚に戻す優巳にただ一言、感情のない声で霧亜は言った。
「うん。やっぱりキーちゃんを苛めるには、ヒーくんを苛めるしかないって良く解ったよ」
「……ッ!」
「ほらっ、その顔だよぉ! キーちゃんのそういう顔がもっと見たいの! プライドの高いペルシャ猫みたいに、いっつも気取って澄ました顔してるキーちゃんが慌てふためいたり、狼狽しきってオロオロしたり、きぃぃーーって歯ぎしりするところが、私は見たくて見たくて堪らないの!」
優巳はたちまち歓喜の声を上げ、肩を抱くようにして悶え出す。
「はぁはぁ……ダメ、もぉ堪んない……やっぱりキーちゃんは最高のオナペットだよぉ。だって彼氏とセックスするより、キーちゃんを踏みつけたり、裸にして首輪つけたりしてるところ想像してオナニーしたほうが断然気持ちいいもん。……キーちゃんにだけ教えてあげるけど、私、キーちゃんでしか本気でイッた事ないんだよ?」
「ッ……耳が腐るわ」
「酷いなぁ、傷つくなぁ。愛奈にも言ったこと無い一番の秘密だったのに。……くふふっ、でもそういう“怖気が走る”っていう時のキーちゃんもステキ。新ネタゲットしちゃった。これだけでごはん十杯はイけそうだよ」
「……相変わらずの始末に負えない下衆女ね。昔よりも大分酷いわ」
「キーちゃんにそういうコト言われる筋合いはないと思うなぁ? キーちゃんだって付き合った女の子達いっぱい手酷くフッてきたんでしょ? キーちゃんにフラれて自殺未遂した子も居るって聞いたよ?」
「…………。」
「つまり、これは天罰って事なんだよ。キーちゃんの普段の行いが悪いから、ヒーくんに災難が降りかかるんだよ? くふくふ、楽しみだなぁ……ヒーくんをいーっぱい苛めて、精神的にも、肉体的にもボロ雑巾みたいにした時に、キーちゃんがどんな顔をするのか、本当に楽しみ」
「……バカね。アイツだって腐っても高校生なのよ。体格で負けてた昔ならいざ知らず、今取っ組み合いになって勝てると思ってるの。……第一、あからさまにそんな事をしたら、いくらなんでも母さんが黙ってないわ」
「大丈夫だよ、キーちゃん。ヒーくんの弱みなんていくらでも知ってるんだから。私だって昔の私じゃないんだよ? それにぃ、“大人”は役に立たないってコト、キーちゃんならよーく解ってるでしょ?」
「……っ……」
「ねえねえ、キーちゃん悔しい? 悔しい? どうするの? ダメもとで叔母さんに告げ口しちゃう? それとも今すぐ無理矢理退院して、家に戻っちゃう? あぁーでもキーちゃんは本当はヒーくんのコト大嫌いなんだっけ? だったら今まで通り入院したままでいるのが一番だよね? 私が来た途端いきなり退院なんかしちゃったらヒーくんだって変に思うよ? 姉ちゃん、ひょっとして俺のことが心配で……なんて、“勘違い”しちゃうかも?」
「いい加減に……っ……」
「それともなぁに? やっぱりキーちゃんはヒーくんラブなの? 高校の頃は成績優秀だったのに、卒業した途端大学も行かずに引きこもりになっちゃったのも、女の子とばっかり遊んでるのもぜーんぶヒーくんの気を引きたいからなの? ほら、そうならそうって言いなさいよ。“お姉ちゃん月彦が構ってくれなきゃどんどんダメな子になっちゃうの! もっと私の事を気にかけて! お姉ちゃん大好きって言ってぇ!” って――」
鼻息荒く早口にまくし立てる優巳の目の前で、突然霧亜が掛け布団をまくり上げた。次の瞬間、その手には鞘の外された果物ナイフが握られていて。
「アハッ……」
その刃の冷たい光に、優巳の笑いが止まった。そして――二人の影が重なった。
病室の前で待ちぼうけをしていた月彦の耳に、ガターン!と激しい物音が飛び込んできたのはその時だった。
「姉ちゃん!?」
ハッと、大あわてで病室の中へと戻った月彦が目にしたのは、床に転がった来客用の椅子と、その側に立っている優巳、そしてその足下に倒れている霧亜の姿だった。
「姉ちゃん、大丈夫か!」
月彦は大あわてで霧亜の側へと駆け寄り、その体を抱き起こした。
(なんだ……濡れ、てる……?)
髪も、そしてパジャマもぐっしょりと何かで濡れていた。微かな匂いで、それがお茶だと解った。
「……何をした」
月彦は真っ先に容疑者を睨み付けた。
「私は何もしてないよ」
優巳は心外だ、と言わんばかりに首を振った。
「ただ、二人で話をしてたら、キーちゃんが果物ナイフを床に落としちゃって。私が拾ってあげるーって言ったのに、キーちゃんが無理に拾おうとしてベッドから転げ落ちちゃって、慌てて支えようとしたら、手にもってたお茶がキーちゃんにかかっちゃったの」
「何言ってんだ……そんなでまかせ――」
「その女の言う通りよ」
月彦の言葉を切るように霧亜は言い、そしてその助けを嫌うように自ら体を持ち上げ、苦痛に顔を歪めながらベッドの上へと体を戻す。月彦は仕方なく足下に転がっていた果物ナイフを手に取り、きちんと鞘に収めて棚の引き出しへと戻した。
「“話”は終わったのか?」
「まぁね。……じゃあね、キーちゃん。風邪引くといけないから、早めに着替えた方がいいよ。……ヒーくん、私は先に帰るね」
優巳はおどけて言い、何故か早足に病室を後にした。
「…………ごめん、姉ちゃん。あんな奴連れてきちまって」
「…………。」
霧亜からの返事はない。ただただ無言で、濡れた髪を絞るようにしながらタオルで拭いていた。
(………………姉ちゃん……やっぱり怒ってる、よなぁ)
やはり、どんな手段を使ってでも連れてくるべきでは無かったかもしれない。せめてさっき、二人きりの話とやらを容認しなければ、少なくとも今のこの状態は避けられたのではないか。
(……ベッドから落ちるのを支えようとして茶がかかった、って……どう考えても嘘だろ)
この病室内に茶と呼べるモノは、冷蔵庫の側の棚に置かれた水差しに入っているものしか存在しない。最初に入室したときは1/3ほど残っていたそれが、今は空になっているから、霧亜にかかったのは間違いなくその茶だろう。
しかし、病室の床には勿論、優巳の手にもそれを飲むための紙コップは握られていなかった。
となれば――考えられるのは一つしかなかった。
(あいつ…………怪我で動けない姉ちゃんに、よくも……ッ……)
ギリッ、と歯を慣らしながら、月彦は思わず握り拳を作った。
「……姉ちゃん、ごめん……俺ももう帰るよ」
見たところ、霧亜のパジャマは上半身がほぼ完全に濡れそぼってしまっていた。一刻も早く着替えをせねばならないであろうから、その為には自分が病室から出る必要があるということは、勘の悪い不出来な弟の頭でも容易に解る事だった。
(着替えは……看護婦さんに任せよう。…………あいつ、このままで済ませるか!)
頬の一つも張ってやらねば収まらないとばかりに、月彦が腰を上げたその時だった。
「待って」
その声があまりにも意外過ぎて、月彦はしばらく自分に向けられた言葉だという事に気がつかなかった。
「……着替え、手伝ってくれる」
「えっ……」
馬鹿な――と。姉のまさかの言葉に、月彦は何度も己の耳を疑った。さらには、眼前の姉が本物ではない可能性まで疑った。
「聞こえなかったの?」
しかし、半ばいらだちの籠もった催促の声に、長年染みついた弟としての“習性”が勝手に返事を返した。
「…………で、でも……着替えって……」
月彦の質問に対する返事は無く、霧亜は唯一自由になる左手でパジャマの前のボタンを外し始める。瞬間、月彦は慌ててベッドに対して背を向け、気をつけの姿勢をとった。
「新しいタオル」
「は、はい!」
まるで手術室で主治医に「メス」と言われた看護婦のような俊敏さで、月彦は持ってきた紙袋からバスタオルを取り出すと、背を向けたまま霧亜に渡した。
「背中拭いて」
「ぇっ……で、でも……」
「二度言わせないで」
「は、はひ!」
月彦は後ろ手にやや湿ったバスタオルを受け取り、「し、失礼します」等と上ずった声で漏らしてから、恐る恐る振り返った。
「(ぐはぁっ!)」
と、月彦は忽ち口の中だけで悲鳴を上げた。霧亜はベッドの上で、丁度月彦に背を向けるようにして黒い髪の被さった背中を晒していた。
(ね、姉ちゃん……ブラもつけてなっ……よ、横乳が……よkちtiがががga・綜マ }・ ・寛懼a ・ucニF・シkDC-D、柁?澁ッE・跋・・・ュ調・a・絏O碾&a)
あまりにも刺激的すぎる光景に脳内CPUが煙を噴き、月彦の脳内は完全にクラッシュした。そんなクラッシュ状態にあっても月彦アイに内蔵された高感度乳センサーによって瞳は自動的に横乳の動きを追い、サブの記憶領域に映像を記録し続けていた。
「月彦?」
そして、そんな脳みそクラッシュ状態にあっても、姉の怪訝そうな一言によって瞬時に通常状態に復旧できたのは、偏に長年の躾の賜だった。
「えっ……あ、あぁ………姉ちゃん、ちょっと………髪が邪魔なんだけど」
「ん」
霧亜は湿り気を帯びた後ろ髪をまとめるようにして、右の肩から前へと下ろした。そうして露わになった白い背中を目の当たりにした瞬間、月彦の緊張と興奮はピークに達した。
(ぐっ……い、いかん………鼻血が………)
興奮して鼻血が出るなど、何年ぶりだろうか。月彦は大あわてで箱ティッシュからむしり取ったそれを両方の鼻の穴へと詰め込んだ。
「……月彦?」
「わ、解ってるって!」
ハァハァとケダモノのような息づかいで――両方の鼻がふさがっている為やむなしとも言えるが――月彦は恐る恐る霧亜の背中にバスタオルを宛い、湿り気をふき取っていく。
「髪も」
「あ、あぁ……」
月彦は長い黒髪を揉むようにして、可能な限り湿り気をふき取っていく。
「もういいわ、ありがと。……着替え」
はい、と月彦は返事を返し、紙袋から代わりのパジャマと下着を取り出して霧亜へと手渡し、再び背を向けて気をつけの姿勢をとった。勿論、そういった一連の動作に関して、霧亜の躾が実によく行き届いているといった自覚は無かった。
「ね、姉ちゃん……もう、行ってもいいか?」
返事はなかった。背後からは微かな衣擦れの音だけが聞こえ、月彦はついつい両の耳に全神経を集中させてしまう。随分と時間が掛かっているのは、両腕が自由にならずさらに言えばギブスがまだとれていないからだろう。
「紙袋」
はい、と月彦は空になった紙袋を最後に手渡して、そして気がついた。着替えを行った以上、それまで来ていた衣類は当然洗濯物として持って帰らねばならない。つまりは、着替えの最中に勝手に帰ってしまうなど論外であり、そんな事も解らないような愚弟に恐らく霧亜はますます呆れの色を強めたのではないかと――
「終わったわ」
愚にもつかない事をぐだぐだと考えていた矢先、またしても月彦は霧亜の一言で条件反射的にベッドの方へと向き直った。途端、えっ、と霧亜が露骨に眉根を寄せた意味が、すぐには分からなかった。
(あっ)
と、数秒遅れて鼻に詰めたティッシュの事を思いだし――しかも、半ばほどまで真っ赤に染まっていた――慌ててそれを引き抜き、新たにティッシュでくるんでゴミ箱へと捨てた。
「じゃ、じゃあ……姉ちゃん……俺は帰るから」
先ほどまで殺意に近い感情に支配されていた月彦だったが、今はもう先ほど見た姉の背中とほんの少しだけ見えた横乳に脳のメモリーの大半を侵食されてしまっていた。残りの部分も「何故?」「どうして」という疑問ばかりが繰り返されていて、まったく使い物にならなかった。
「月彦」
しかし、去ろうとする月彦を霧亜の言葉が再度呼び止めた。
「な、なんだよ……姉ちゃん……」
返事の代わりに、霧亜はちょいちょいと指先を動かし、近くまで来るように促した。やむなく、月彦は誘われるままに体を近づけ――。
「ぐえっ」
唐突に制服のネクタイを掴まれ、さらにぐいと引き寄せられた。
「ちょっ……ね、姉ちゃん!?」
まさか、あんな女を病室に招き入れた失態を死を持って償わせるつもりで――そして、不出来な弟の死出の旅路への最後の手向けとしてちらりと裸を見せて――体を拭かせたのだろうか。このまま首を絞められ続ければ、まさしくその通りになるだろうなと、月彦が馬鹿な事を考えながら意識を朦朧とさせていた時だった。
「――、――。」
額と額がつきそうな程の近距離で、霧亜が何事かを呟いた。えっ、と聞き返す間もなく、ネクタイは解放され、月彦は反動で後方に二,三歩よろめいた。
「ね、姉ちゃん……今、なんて……」
「帰りなさい」
それだけ言って、霧亜は何事も無かったかのように文庫本を手にとると、最初に病室に入った時そのままの姿勢で読み始めた。
仕方なく、月彦もその場を後にした。
突然の姉の奇行に首を捻りながらも病院を後にし、時折横乳の映像を思い出しては即座に打ち消し――等というようなことを繰り返しているうちに気がついたときには自宅に帰り着いてしまっていた。
「ただいまー……って、母さんは留守か」
玄関に葛葉の靴はなかった。さらに言うならば、先に帰った筈の優巳の靴も無い。
(真央は帰ってるのか)
そのことに奇妙な安堵を覚えつつ、月彦は持ち帰った洗濯物を洗濯かごへと放り込み――その際、下着などを見てしまわないように頑なに視線をそらして――二階の自室へと上がった。
「っと……あれ、真央……居ないのか」
一階に人気が無かったからてっきり二階に居るものだとばかり思っていた月彦は、自室のドアを開けるなりついそんな呟きを漏らしてしまった。
その時だった。
「あいたっ」
どんっ、と鈍い音と共に真央の声が聞こえた。
「真央、そんな所で何やってるんだ?」
頭をさすりつつ、涙目になりながら机の下から這いだしてきた真央に月彦はつい怪訝な声を出してしまった。
「だって……一応隠れてたほうがいいと思って……」
「……なるほど」
真央なりに昨日の言いつけを守っていたという事だろうか。
(…………だけど真央、一度バレた場所にまた隠れるのはどうかと思うぞ?)
とは思うものの、愛娘の健気な気持ちを汲んで月彦はその言葉を飲み込む事にした。
「……そういうことだったのか。偉いぞ、真央」
引き出しの底でぶつけてしまったらしい頭を優しく撫でながら褒めてやると、真央は心地よさそうに息を漏らして体を擦りつけてきた。いつもならばそのままベッドに押し倒してイチャイチャする所だが――事実真央はそれを望んでいる様だったが――月彦の心中はそれどころではなかった。
(……さて、どうやって“アイツ”を追い出してやるかな)
霧亜との事で幾分はぐらかされはしたが、無論月彦はあの時に感じた止めどない怒りを忘れてはいない。さも事故を装ってはいたが、あの女が姉に手を出したのは九分九厘明らかだ。
(……母さんを味方につける……のは難しいだろうな)
昔同様、あの女は普段は完璧にネコをかぶり通している。となればなまなかな方法では追い出す事自体難しいだろう。
(………………こんな時、姉ちゃんならどうするんだ)
聡明なあの姉ならば、きっと巧い手を考えつくのだろうが、その出涸らしである自分には巧い手段が思いつかない。
となれば。
「…………父さま?」
ぐーりぐーりと頭を擦りつけるようにしていた真央が「もう撫でてくれないの?」とばかりに見上げてくる。月彦は苦笑を漏らし、真央の髪を優しく撫でてやった。
「……大丈夫だ。真央。…………今夜にでもアイツを追っ払ってやるからな」
友達と帰りにファーストフードを食べてきたから――そう言って、月彦は夕食をパスした。優巳の顔を見ながらとても食べ物など口に出来ないというのが本音なのだが、さすがに葛葉にはそんな事は言えない。言えば、あの母親は間違いなく不仲の理由を問いただし、無理矢理にでも“仲直り”をさせようとしてくるだろう。
(……冗談じゃない)
そんなのはこっちから願い下げだ、と月彦は思っていた。そういった面倒を避ける意味でも極力葛葉は巻き込みたくないと思っていた。
唯一、優巳だけは“友達と帰りにファーストフードを食べたから”という言い訳の不自然さに気がつくだろうが、そんな事は知ったことではなかった。さらに言うならば、優巳相手に限れば「お前なんかと一緒に飯なんか食えるか」と面と向かって吐き捨ててやりたい気分だった。
(…………絶対に、許さない)
自分でも不思議に思えるほどに全身が怒りに満ちていた。かつてあれほど怯え、恐怖し、苦手とした相手だというのに、いざとなればその胸ぐらを掴んで力ずくでも家から叩きだしてやろうとすら、月彦は思い始めていた。
だから。
「優巳姉、ちょっと話がある」
夕食の後かたづけを終えたばかりの優巳に、月彦は自ら声をかけた。
「……丁度良かった。私もね、ヒーくんに大事な話があったんだよ」
「そりゃ奇遇だ。じゃあちょっとこっちに――」
「あっ、待って、ヒーくん。今はダメ」
側ではまだ葛葉が洗い物をしている。少し距離をとらねばと優巳の手を引こうとした矢先、思いがけず拒絶をされた。
「……? どういう事だ?」
「ちょっと今は都合が悪いの。あとで……んー……そうだねぇ……」
優巳はちらりと葛葉の方を横目で見た後、ついと月彦へと身を寄せ、その耳元に囁いてきた。
「今夜十一時になったら、私の部屋に来て」
「……何寝ぼけた事言ってんだ。俺の方の話はすぐにすむからこっちに来てくれ」
「やだっ……ちょ、ヒーくん痛っ……きゃあっ!」
優巳の腕を掴み、“軽く”引いたその時だった。優巳は思い切り地面を蹴るようにして食卓とその椅子が並んでいる場所へと盛大に頭からつっこんだ。
「なっ……」
どんがらがっしゃーん!
地響きがするほど派手な音を立てて転がった椅子と食卓の間で、優巳は蹲るようにして倒れていた。
「月彦! 何してるの!」
忽ち葛葉が叫ぶように声を上げ、濡れた手を拭く間ももどかしいとばかりに優巳に駆け寄り、その体を抱き起こした。
「優巳ちゃん、大丈夫!?」
「……痛っ……ぅぅ……!」
葛葉に体を抱き起こされながら、優巳は右手で左腕を庇うような仕草をする。
「左手を打ったの? 月彦、急いで救急箱を持ってきなさい!」
「……ぁ……大丈夫です、葛葉さん。……ちょっと、バランスを崩して転んだだけですから」
優巳は力無く笑い、ちらりと。一瞬だけ月彦の方を見て、すぐに葛葉の方へと視線を戻した。そう、まるで『大丈夫、“ヒーくんに転ばされた”なんて絶対言わないから安心して』という目配せをした、と葛葉に“読ませる”ような仕草を。
(………………これがこいつらの手だ)
昔から何も変わっていない――と、月彦は思う。無論月彦は優巳が転ぶほど強く腕を引いた覚えも無ければ、食卓の方へとつっこむ際に優巳が先に椅子を手で払って派手な音をたてて転がるようにした後で、空いたスペースに体を滑り込ませるという流れを具に見ていた。
「……本当に大丈夫? 少しでも痛むようならすぐ言うのよ?」
「本当に大丈夫ですって。私これでも新体操やってましたから、怪我とかあんまりしないんです」
「それならいいんだけど…………月彦、優巳ちゃんは女の子なんだから、ちゃんと加減をしてあげなさいね?」
「…………ああ。ごめん、優巳姉」
これで“葛葉を味方につけて追い出す”という作戦は不可能になったな――月彦は口先だけで謝りながら、元々使うつもりもなかった作戦を封じられた事を感じていた。
「……痛つつ……それで、ヒーくん。話ってなぁに?」
わざとらしく痛がりながら立ち上がり、優巳はニッコリと微笑んでみせる。
「……いや、いいよ。後で優巳姉の部屋に行くから、その時に話すよ」
かくなる上は、恐らくは仕掛けてくるであろう“罠”に真っ向からぶつかるだけだ――月彦は覚悟を決め、台所を後にした。
「じゃあ真央、ちょっと話をつけてくる。……1人で待てるな?」
自室で時間を潰し、優巳の指定した時間になるなり月彦はベッドから立ち上がった。
「あっ……」
「うん? なんだ、真央」
「……ううん、なんでもない。……父さま、なるべく早く戻ってきてね?」
「そのつもりだが、ひょっとしたら少し遅くなるかも知れない。…………その時は、絶対に部屋から出るな。間違っても俺を捜しに来ようとするんじゃないぞ?」
危ないからな?――月彦は言い含めるようにして頭を撫で、真央が渋々ながらもこくりと頷いたのを確認して自室を後にした。
どうやら既に葛葉も就寝しているらしい。階下に灯りはなかった。月彦は慎重に足音を殺し――そうする必要性は別段無いのだが――優巳の居る部屋の前へとやってきた。
「優巳姉。俺だけど」
「……ヒーくん? 入っていいよ」
控えめな優巳の声がして、月彦は恐る恐るノブを握り、ドアを開けた。優巳が使っている空き部屋は元々は父親が書斎に使っていた部屋であり、月彦や霧亜の部屋とは違い畳敷きの和室になっていて、現在は殆ど物置と化していた。とはいえ、置いてあるのは古いタンスに使わなくなった鏡台くらいであり、それらを無視すれば人1人が布団を敷いて寝起きするスペースは十二分にある。
優巳は、部屋の中央に居た。既に強いてある布団のに寝転がり、なにやら携帯を操作しているらしく月彦の方へは目もくれない。
「ちょっと待ってね。すぐ終わるから」
「…………。」
月彦はドアを後ろ手で閉め、その場で腕を組み仁王立ちになった。程なく、優巳が携帯の操作を終え、布団からもぞもぞと這い出てきた。
「お待たせ。愛奈がヒーくんの事教えて教えてって五月蠅くってさ。良かったら少し電話で話してみる? きっと飛び上がって喜ぶと思――」
「出て行ってくれないか」
優巳が喋り終わるのを待たず、月彦は思い切り言葉をかぶせた。――瞬間、優巳が笑みを浮かべるのを止めた。
「…………ヒドい。……ヒーくん、どうしてそんな酷い事ばかり言うの?」
「自分の胸に聞いてみろ。俺も、姉ちゃんもお前達と仲良くする気なんか1ナノも無いんだ。明日の朝、出来れば俺が起きる前に家から出て行ってくれ」
「……ねぇ、ヒーくん。どうして今日になって急にそんな事言い出すの? 私なにかヒーくんの気に障る事しちゃったの?」
「もう一度言うぞ。“自分の胸に聞いてみろ”」
「……ひょっとして……キーちゃんの病室での事で怒ってるの? ちゃんと説明したじゃない。アレは事故だって……キーちゃんも……」
「俺はそう思ってない。もし本当に事故だったんだとしても、俺はそれを信じられない。信じられないだけの仕打ちをお前達から受けたからだ」
「ヒーくん……」
哀願から失望。もし演技でやっているのだとすれば、その表情の変化は見事だと月彦は思った。
「……そう、だよね」
優巳は瞳を伏せ、自嘲気味に呟く。
「愛奈と一緒に……いっぱいヒドい事しちゃったもんね。……やっぱり……嫌われてる、よね」
「解ってくれてるんなら話は早い。……俺からの話は以上だ」
「待って! ヒーくん!」
話は終わりだ、とばかりに踵を返そうとした月彦の背に、悲痛な声が突き刺さる。
「お願い、ヒーくんがどうしても出て行って欲しいっていうのなら、言うとおりにするから……だからもう少しだけ私の話を聞いて!」
「話すことなんて無い」
「っ……ずっと好きだったの!」
無視してドアノブを握った月彦の背に、何かがしがみついてきた。
「ヒーくんの事が好きで好きで自分でもどうしようもなくって……だからヒーくんの事いっぱい苛めちゃったの! ヒーくんの写真持ち歩いてるの……愛奈だけじゃないんだよ? 私だって……まだ、持ってるんだから」
「……離れろよ」
「ねえ、ヒーくん……昨日も言ったけど、私……本当にヒーくんに謝りたかったんだよ? あの時……うちのお父さんがヒーくん達とは絶縁だ、って言い出して……絶対に会っちゃダメって言われてたから、今までずっと謝れなくて――」
ぎゅう、としがみつく手に力がこもる。背中越しに、嗚咽混じりの声が聞こえる。
「でも、キーちゃんが入院したって聞いて……ヒーくんに会うにはもうこれしかないって……愛奈が無理矢理お父さん説得して……それでも、二人とも会うのは許してもらえなくて……だから、私だけヒーくん達に会いに来たんだよ? アパートの改装工事なんて嘘なの……本当は……ヒーくんとキーちゃんと仲直りしたくて来ただけなの」
「虫が良すぎる話だ。……だったら、さっきの“アレ”は何だ」
「……ヒーくんが“出て行け”って言おうとしてるのは解ってたから……ちゃんと“話”をする機会が欲しくて……」
「……じゃあもうその用は済んだな。話も聞くだけは聞いた。……約束通り明日出て行ってくれよ」
「……っ……」
びくりと、体にしがみついていた腕越しに優巳が震えたのが解った。そう、さも“覚悟を決めて、本音で謝罪をしたけどそれでも伝わらなかった”とでも言いたげに。
(……っ……騙されるな。……姉ちゃんなら、絶対に騙されない)
これがこいつらの手じゃないか。今まで何度騙され、掌で踊らされ続けたか思い出せ。黒須姉妹を人間だと思うな。こいつらに常識は通じない。文字通りの悪魔なのだから。
「……そ、っか……私たち、そこまで嫌われてたんだ」
ふっと、体を掴んでいた腕が解かれた。
「……そう、だよね。……当たり前、だもんね。…………あんなに、いっぱいヒドい事して…………それなのに、許して貰おうだなんて……勝手過ぎるよね」
優巳の言葉など無視して、さっさと部屋から出てしまえばいい。それが最善策だと解ってはいるのに――しかし、月彦はそれが出来ない。
「ゴメンね、ヒーくん……考えてみたら当然だよね。…………あはは……イタい事しちゃったなぁ……ひょっとしたら、ヒーくんやキーちゃんと仲直りできるかもなんて……勝手に夢みたいな事考えて…………ぅぅぅ……」
一歩、二歩。背中越しに聞こえる“声”で、優巳が少しずつ後ずさりしているのが解る。
「…………それとも、私が来ちゃったからダメだったのかな。……愛奈だったら……ヒーくんやキーちゃんとの仲直りも……うま……うまく……出来……ぅ……っ……」
「っ……優巳、姉……」
月彦は、振り返ってしまった。布団の上に膝から崩れおちたような体勢でほろほろと涙を零している優巳の元へと歩み寄ってしまった。
「ごめんね、ごめんね……ヒーくん、本当にごめんね……もう、二度と……絶対ヒーくん達の前に現れないから――」
「……っ……狡ぃよ……何、泣いてんだよ!」
月彦は苛立ち紛れに吐き捨てた。そう、心底狡い――と思った。
(そんな風に泣かれたら――)
九分九厘演技だと解っていても、足が止まってしまう。見捨てられなくなってしまう。そう、“演技だった場合”に自分が受けるショックよりも、万が一に……否、百億分の一以下の確立であろうとも“演技ではなかった場合”に相手が受けるショックを想像してしまう。
(違う……九分九厘、じゃない。十割だ。こいつらは百%、生粋の“悪”だ。……騙される、な――)
ぎり、と奥歯を噛みしめる。でも――と、月彦の中の良心が、1人の女性の例を脳裏に思い描かせた。
(……っ……確かに、矢紗美さんは……最初はアレな人だったけど…………)
“そういう例もある”という事が、月彦の決心を突き崩していく。眼前で泣き崩れている女性が心底心を痛めているようにしか見えなくなる。
「……優巳姉。一つだけ……聞きたい」
優巳からの返事は無かった。ただただ、嗚咽を漏らしながら顔を覆っていた。月彦は構わず、言葉を続けた。
「…………今日、姉ちゃんの病室での事は……本当に“事故”だったのか?」
「………………。」
優巳はしゃくりあげるようにして呼吸を整えながら、小さくコクリと頷いた。
「…………そうか、解った」
そんな筈はない。あれは事故なんかじゃない――そう叫び続ける己の中の1人をねじ伏せるかのように、月彦は拳を作り、握りしめる。
「疑って悪かった。………………ごめん」
「…………………………信じて、くれるの?」
漁船が大嵐に遭い、舵も壊れ動力も失い水も食料も尽きた漁師が地平線の彼方に陸地の影を見たような――そんな希望の輝きを含んだ声で、ぽつりと優巳が呟いた。
「……完全に信じるわけじゃない。……………………だけど、本当に優巳姉と愛姉が心を入れ替えて仲良くしたいっていうんなら………………多分、時間はかかると思うけど…………少なくとも俺は…………努力はしてみたいと思ってる」
「……ヒーくん……」
優巳は顔を上げ、両目に大粒の涙を蓄えたまま月彦を見る。そしてそのまま、ほろほろと再び涙をこぼし始めた。
「ありがとう、ヒーくん…………ヒーくんが本当に許してくれるまで、私も愛奈も待ってるから……ずっと、待ってるから」
「…………解ったからさ、とにかくもう泣くのは止めなよ」
「あっ……ごめんね。……いい年して泣きじゃくってたらみっともないよね」
照れ笑いを浮かべながら、優巳はハンカチを取り出し、涙を拭い始める。
(いい年して……か)
さらに一回り近く年上の女性に何度も泣き落としを食らっている月彦としては、そのこと自体にはさほどの違和感を感じなかった。
(畜生……“泣く”のは狡いよなぁ、ホント……)
そもそも何故自分はこんなに“泣かれる”事に弱いのだろうか。否、それは世の男全員の一般的な弱点に相違ないのではないか。
つまるところ――。
「あーっすっきりした! おまたせ! ヒーくん」
月彦があぐらをかいて思案に耽り、そろそろ哲学的な領域へと踏み出しかけた所で、どうやらいつの間にか部屋から出て顔を洗いに行っていたらしい優巳が戻ってきた。顔を洗ってサッパリしたのか、その顔はもう殆ど普段のそれに戻っていた。
「………………おかえり。……じゃあ、そっちの話も終わったみたいだから、今度こそ俺も自分の部屋に――」
「待って、ヒーくん」
がしっと。立ち上がろうとした矢先、その肩が優巳によって掴まれた。
「……な、何だよ……まだ何か用があるのか?」
肩を掴む優巳の力が予想外に強く、月彦はつい狼狽えたような声を出してしまった。
「いいから、ほら、座って?」
「…………。」
言われるままに、月彦は座り直した。優巳の言葉に従わねばならない理由など何も無いのだが、何かと“年上の女性のお願い”に晒されているが故の殆ど反射的な行動だった。
「ねえ、ヒーくん。私ね、やっぱり明日帰ろうと思うの」
「うん」
どうぞ、とまでは月彦は言わなかった。少なくとも、引き留める気は毛頭なかった。優巳もそこは覚悟の上だったのか、別段失望も落胆もしていないようだった。
「だからさ、“最後の夜”は昔みたいにヒーくんに添い寝して欲しいな」
「……断る!」
月彦は即答した。
「第一、“昔みたいに”って、まるで俺が自分から添い寝したみたいに言うけどな、アレは全部優巳姉と愛姉が無理矢理布団に入ってきたり、殆ど攫うみたいにして自分たちの布団に連れ込んでただけだろ!」
「でもでも、ヒーくんだってまんざら嫌じゃなかったでしょ? …………ちょっとエッチな事も三人でいっぱいやったよね?」
「アレは“エッチ”じゃねえ! “性的なイタズラ”ってんだ!」
優巳と愛奈の布団に強引に誘拐され、一晩かけてたっぷり“イタズラ”をされた時の事を思い出し、月彦はゾゾゾと鳥肌を立てた。
「あはは、しょうがないじゃない。ヒーくんもあたし達もみーんな子供だったんだもん。…………だけど、今はもう違うでしょ?」
「なっ……ちょ、……ゆ、優巳ねえ……?」
ずい、といきなり距離を詰められて、月彦は思わず声を上ずらせた。
「…………ねえ、ヒーくんって童貞?」
「えっ……い、いや……えーと……多分違う……的な感じかな……?」
「そっか。…………じゃあ、女がこんな時間に自分の部屋に男を呼んだっていう事がどういう事なのか、勿論解ってるよね?」
ずい、とさらに優巳が距離を詰めてくる。それから逃げるように月彦は座ったまま状態を後ろへと反らせ――そこを押し倒された。
「いやっ、ちょっと! えっ、何っ……」
それはさながら、得物を狙うヘビの様な――不可避のキスだった。
「ぷはっ……ちょっ……優巳姉! いきなりなにすんだよ!」
「だーかーら、エッチしようって言ってるの! ヒーくんってば相変わらず飲み込み悪いんだから」
「いやだから、何でそんな話に――」
「別に良いじゃない、エッチくらい。……仲直りの証だとでも思えば、ね?」
「な、仲直りの証って――」
事態が、月彦の理解を完全に越えていた。一体全体何がどうなって自分は優巳に押し倒されているのか、全く解らなかった。
「……それとも、“経験アリ”っていうのは、どーてークンの悲しい見栄なのかなぁ?」
「……なんだと?」
事態は全く飲み込めない。飲み込めないが、優巳の男を食ったような口調にかちんと、月彦の中の“何か”が反応した。
(…………そうだよ。さっきのが演技にしろ、演技じゃないにしろ……)
“敵”が自分からこちらの射程距離内に踏み込んできているのだ。ならばいっそそのまま仕留めてしまえば、全ての憂いも断ち切れるのではないか。
(……やるか?)
月彦は、少しだけ迷った。“勝つ”自信が無いからではなかった。眼前の人物をはたして“女”と認識してよいのか、そのことに対して迷いを感じたのだった。
食べ物に例えるなら、間違いなくゲテモノの類に含まれるであろう相手を食って、果たして“誇り”が保てるのか。
(…………“誇り”? そんなモン、俺にあったか?)
内なる月彦が鼻で笑った。そう、獣は獣らしく、ただ目の前の得物に食らいつけばそれで十分ではないか。
「ほらほらぁ、ヒーくん、怖じ気づいちゃったの? ビビリなのまだ治ってないんだ? それとも、従姉妹同士は本番禁止とか思ってるのかな?」
「…………ああ、悪い。優巳姉。ちょっと考え事してたんだ…………仲直りのエッチ、か。…………悪くないんじゃないかな」
月彦はうすら笑みを浮かべ、優巳の体ごと寝返りをうつようにして、強引に“上下”を入れ替えた。
「きゃっ…………ひ、ヒーくん……!?」
驚きの声を上げる優巳の手首を掴み、敷き布団の上へと押しつける。――か弱い、と思った。かつての自分はこんな細腕の拘束すらも逃れられなかったのかと、むしろ己に怒りが沸いた。
(……昔の俺とは違うって事を思い知らせてやるよ、優巳姉)
月彦は、勝利を確信した。
優巳の腕を布団に押しつけたまま、月彦ははたと動きを止めた。
(……なんだ?)
一瞬、何かの声が聞こえた気がして、月彦は咄嗟に周囲に視線をやった。が、無論誰かが居るわけもない。
「……ヒーくん、どうしたの?」
「いや……なんか、今……声が聞こえたような……?」
「ふぅーん、ホントかなぁ? 土壇場でビビッたんじゃないの?」
「……まさか」
昔はいざ知らず、“今の自分”がこんな事で臆するわけがないと。月彦は半ば鼻で笑うようにして、右手で乱暴に優巳の胸元をまさぐった。
「あんっ……もぉ、あんまり乱暴にしないでよぉ」
「悪い。…………そういや、優巳姉って全然胸無かったんだっけ」
「全然って……ちょっとヒドくない?」
ムッと眉を寄せる優巳を無視して、月彦は左手だけでぱぱぱーっと寝間着の前のボタンを外してしまう。優巳は寝間着の下にブラをつけておらず、微笑ましいほどに小振りな二つの膨らみが忽ち眼下に姿を表した。
(…………由梨ちゃんより無いな)
“あの人”とならどっちが大きいだろう?――そんな脳内ちちくらべを行い、結論を導き出しかけた矢先、何やら得体の知れない殺気を感じて月彦はすぐさまそれを中止した。
「ほらぁ、ヒーくんってば。何固まってるの? 好きにして良いんだよ?」
「……好きにって言われてもな」
これじゃあ揉みようがないと、月彦は処置に困った。仕方なくその僅かな膨らみに舌を這わせ、そのまま堅い先端を口に含むようにしてテロテロとなめ回した。
「あっ、んっ……それ、ちょっとイイかも…………ヒーくん解ってるじゃない…………んっ、そこ……そこ、もっと吸って……」
余裕綽々という感じだった優巳の声に、徐々に艶が混じる。月彦は言われるままに先端を舐め、強く吸った。
ザザッ――ノイズの様な音を耳が拾ったのはその時だった。
――――、――ス。
「ん……?」
また何かが聞こえた気がして、月彦ははっと唇を離した。
「……ヒーくん?」
はぁはぁと、微かに胸を上下させ吐息を乱しながら、優巳が呟いた。
「いや、また何か……」
「もぉ……空耳でしょぉ? そんなのどうでもいいから、こっちにもっと集中してよぉ」
「いやでも……」
「あーもー……解った! 今度は私がするから、ヒーくんが寝て!」
痺れを切らした優巳がむくりと体を起こし、今度は月彦が強引に仰向けに寝かされた。
「んっふふー……さーて、ヒーくんのはどんなかな、っと」
そんな月彦の寝間着ズボンを嬉々として優巳が脱がし始める。この段階になって、月彦ははたと、とんでもない事に気がついた。
(…………あれ、ちょっと待てよ……今――)
そして気づくなり、ぎょっと背筋が凍った。
「ちょっ……優巳姉、待ってくれ!」
「なぁに? 今更電気消してーとか、そんな泣き言は聞かないよ?」
「いや、そうじゃなくて……えーと……」
止める間もなく、強引にズボンとトランクスが下ろされる。そして、てろんと。やる気のない軟体動物のようなそれが姿を現した。
「へぇ……割と大きい方……かな? ちゃんとムケてるみたいだし」
「……えーと」
ふにふにと、堅さのカケラのないそれをいじくり回されながら、月彦は珍しく赤面していた。そう、完全に臨戦態勢の相棒を見られる分には何の恥じらいも感じないが、“平常時”をまじまじと見られることには――ましてや、いじられる事には――月彦は全く慣れていなかった。
「……ねぇ、ヒーくん。口でシてあげよっか?」
月彦の返事を待たず、はむっ……と先端部分が咥えこまれ、てろてろとなめ回される。普段とは趣の違う刺激に、月彦は微かにうめき声を上げた。
――が。
「んむっ……んむっ……ちゅっ……んんっ……………………ねぇ、ヒーくん……。コレ、全然堅くならないんだけど」
五分ほどたっぷりなめ回された後、不審そうに優巳がそんな言葉を漏らした。
「……丁度俺も変だな、って思ってた所だ」
勃起したまま元に戻らない事はあっても、その逆など一度も無かった。――否、正確には一度だけあるにはあったが、それは一過性のものでしかも治った筈だった。
(何故だ……)
月彦は考え、そして一つの結論に達した。“体そのもの”が優巳との交接を拒絶しているのではないかと。即ち、紺崎月彦という体の細胞一つ一つに至るまでが黒須優巳を毛嫌いしているのでは――。
「……ちょっとぉ……ヒーくん…………さすがにコレは私も想定してなかったよ?」
「いや……優巳姉、ちょっと待ってくれ」
完全に冷め切ったような優巳の声に、月彦は冷や汗をかきながら慌ててトランクスを履いた。
「まさか、ヒーくんがその年で“不能”だったなんて。…………ちょっとシャレにならないんじゃない?」
「違う! 俺は不能なんかじゃない!」
「不能でしょ、どう考えたってコレは」
「っっっ……ち、違うって言ってるだろ!」
月彦は勢いに任せ、再度優巳を押し倒した。
(こうなったら……“乳パワー”で、無理矢理にでも勃たせてやる!)
例え相手がトラウマそのものであったとしても、紺崎月彦という男の乳に対する執着心はそれを遙かに凌駕する筈だと。ワラにも縋るような思いで月彦は優巳の胸元へと顔を埋めた。
――が。
(……しまった……乳が、無い!)
思わず、月彦は悲痛な心の叫びを漏らした。
顔面を受け止めてくれる柔らかい果実などそこには存在せず、鼻先に痛みすら感じるほどの絶壁があるのみだった。
「あーあ……ホント最悪。折角いい小遣いかせぎになると思ったのになぁ」
「……優巳姉?」
絶壁に鼻をぶつけた痛みを涙目で堪えつつ、月彦は聞き捨てならない言葉についオウム返しに尋ね返した。
「愛奈がさぁ、ヒーくんの精液欲しいって。冷凍してクール便で送ってくれたら、お年玉貯めてある貯金全部あげてもいいって言うからさぁ。…………あれ、ひょっとして仲直りのエッチとか、本気で信じてた?」
けろりとした顔で言われ、さすがに月彦は唖然とした。
「ちょ、ちょっとまてよ! いろいろ言いたい事は山ほどあるけど…………それより何より、俺の精液欲しいって……一体何する気なんだよ!」
「さぁ? 多分、くんくん匂い嗅いだり、ぺろぺろ舐めたりするんじゃない? まさか子供作ったりはしないと思うけど、愛奈ならやりかねないかも?」
「なっ…………」
月彦は絶句し、寒気すら感じて咄嗟に衣類をただした。
こいつらは悪魔だと、骨の髄まで知っている筈だった。しかしそれでも認識が甘かった、と思わざるを得なかった。
(………………つまり、全部演技だった、って事か)
十中八九、九分九厘そうではないかと思っていたから、そのこと自体にはさほどにはショックを覚えなかった。それよりも、この女の目的の方が遙かに恐ろしいと感じた。
「……しょうがないなぁ、……ねえ、ヒーくん、取引しない?」
「と、取引!?」
「そ。……ヒーくんがインポだって事は私1人の胸の内にしまっておいてあげるからさ、コレ着てくれない?」
そう言って、優巳がキャリーバッグから取り出したのはどこからどう見てもセーラー服にしか見えない代物だった。
「俺はインポなんかじゃない! ……てか、なんだよそれ、女用の制服だろ!」
「うん、私と愛奈が通ってた高校の制服だよ? 愛奈がさ、コレを着たヒーくんが見たいーって。着てる所写真に撮ってくれたら、十万円出してもいいって言うの」
「冗談じゃねえ! 誰が女装なんかするか!」
「またまたぁ、ヒーくん結構女装好きでしょ? 昔はよくスカート履いてたじゃない」
「お前らに無理矢理履かされてただけだ!」
「そだっけ? まぁいいや。とにかくこれ着てよ。ああ、あと下着もちゃんと女物つけてね。……えーっと、ちょっと待ってね……愛奈から細かいリクエストが確かメールに…………あったあった。えーと“セーラー服着て、女物の下着からおちんちんがはみ出してる所を自分でスカート持ち上げて見せながら恥ずかしそうにしてる所”の写真だって。ヒーくん、ちょっとやってみてよ」
「死んでも断る!」
「だよねー。私もさすがにコレは無理だと思ったよ。第一そんなキモいの私は見たくないし……じゃあ、少し値段は下がるけど、普通に女装してるだけでいいや」
「……嫌だ」
「じゃあ、裸ネクタイ。最悪これでも一万円で買ってくれるみたいなんだよね」
「絶対に、嫌だ」
「……………………いいの? ヒーくん。言うこと聞いてくれないと、ヒーくんが不能だって言いふらしちゃうよ?」
「勝手にしろ! そのくらい、痛くも痒くもない!」
「ふーん?」
優巳が浮かべた笑みに、月彦は思わずゾクリを背筋を振るわせた。そう、体が覚えているのだ。優巳が、そして愛奈がこの笑みを浮かべた後に出した“提案”は、全てがろくでもないものだったという経験則に基づいて。
「じゃあ、またキーちゃん苛めちゃおっかなぁ」
「ッ…………なん、だと……?」
「アハッ、ヒーくんってば、本当に“アレ”が事故だと思ってたの? そんなワケないじゃない。キーちゃんがあんまりつれない事言うからさぁ、むかむかーってきて頭からお茶かけて憂さ晴らししちゃったんだよね。ほら、我慢は体に毒って言うじゃない?」
「っ……」
「ああ、ちなみにヒーくんの事好きだって言ったの大嘘だから。だいたい私、大学に本命の彼氏居るしね。ヒーくん達と仲直りしたいっていうのも全部嘘。あっ、キーちゃんと仲良くしたいって所だけはホントかな? うん、キーちゃんに首輪つけて人間椅子にしたり、犬の餌食べさせたりするのはすっごく楽しそうだし」
「…………馬鹿じゃないのか。姉ちゃんがそんな真似、死んでもするワケないだろ」
「普通はしないかもね。……でも大丈夫。私、キーちゃんの“弱み”知ってるし」
「姉ちゃんの……弱み……?」
そんなもの在るはずがない――と、月彦は思った。あの姉に限って、そんな“弱点”など在るはずがない。……確かに、いくつかの“苦手”はあるにはあるが、少なくとも己のプライドよりも優先されるような弱みには月彦には何一つ心当たりが無かった。
「……ハッタリだ。…………でもな、次に姉ちゃんに何かやってみろ。その時は、絶対に後悔させてやる」
「ふーん? ヒーくん達、今はすっごい仲悪いって聞いてたけど、ヒーくんは今でもキーちゃんラブなんだ?」
「…………そういうわけじゃない。あくまで、家族の一員として、だ」
「どうかなぁ? どのみち、“次に”なんて言ってる時点でヘタレ臭ぷんぷんするよね。そもそも“後悔させてやる”って具体的にはどうするつもりなの?」
「っ……それ、はッ……」
「単純に殴って仕返しする? いいよ? ほら、今日キーちゃんにお茶かけた仕返しに今すぐ殴りなよ。右の頬がいい? それとも左? 好きな方リクエストしていいよ。殴りやすいように横向いててあげるからさ」
優巳は言葉の通りに横顔を晒す――が、無論殴れる筈がない。
「あっ、そっか。顔だと痕が残ったりして、いろいろ厄介だもんね。じゃあ、お腹とかにしとく? ほら、蹴りやすいように服まくっといてあげよっか?」
「…………ッッ人を舐めるのもいい加減にしろよ」
「だからさぁ、“舐めたらどうなるか”を具体的に言いなよ。どうせ何も出来ないんでしょ? インポのヘタレだもんね、ヒーくんは。知ってる? インポには人権ないんだよ? 生殖活動も行えないような奴は人間以下で家畜以下、生物としても最底辺――」
「っっっ黙れってんだよ!」
機関銃の如く止めどなく吐き出される悪口雑言を他に止める手段を思いつけなくて――それでも、最後の良心で拳ではなく掌で――月彦は思い切り優巳の頬を打った。
「アハッ…………殴ったね?」
優巳は打たれた頬を抑えながら、にぃと口元に笑みを浮かべる。
「この痛み。“ヒーくん以外の相手”に必ず返すからね」
「っ……なん、だと……やるなら俺だろ! 俺にやり返せよ!」
「アハッ、だぁってぇ……ヒーくん強そうなんだもん。だから、代わりに弱ってるキーちゃんの方にやり返しちゃおっかなぁ」
意地の悪い笑みを――同じ類でも、性悪狐の浮かべるそれよりも数段悪魔じみたそれを――浮かべながら、優巳はマクラの下へと手を伸ばす。そこから取り出したのは、ゴルフクラブの柄の部分のような代物だった。
優巳はそれを軽く振る。じゃきん、と金属の筒が伸びたそれは自衛用の警棒かなにかのようだった。
「ねぇ、ほら。ヒーくん……これ、何だかわかる?」
優巳はさも楽しそうに警棒の先を弄びながら、徐にこめかみの辺りの髪を書きあげ、“傷痕”を見せてくる。
「それ、は……まさか、あの時の……」
「そう、“あの時の傷”だよ。この警棒でさぁ、キーちゃんの頭思いっきり殴りつけたら、同じ傷つけられるかな?」
「っっ……止めろ! 姉ちゃんには手を出すな!」
「“止めろ”?」
「……っ……止めて、下さい」
唇を噛みながら、月彦は呻くように言った。
「ねぇ、ヒーくん。それが人にモノを頼む態度?」
「くっ…………止めて、下さい」
月彦は両手を畳の上につき、頭を下げた。アハッ、と。心底愉快そうな声が頭上から振ってきた。
「なになに? よく聞こえなーい。もっと大きな声で言ってよぉ」
「っ……姉ちゃんを殴るのは、止めて……下さい!」
月彦は頭を下げたまま、今度は殆ど叫ぶように言った。
(怪我さえ……してなきゃ――)
例え不意を突かれようとも、あの姉が優巳の一撃などもらう筈は無いという確信はある。しかし、今はダメだ。ベッドの上からろくに身動きが出来ない状況では、避ける事も防ぐ事も出来るわけがない。
(……それに、姉ちゃんの事だ。優巳姉に殴られたからって、誰かに泣きついたりなんて、絶対にしない)
無論警察に訴えたりもしないだろう。ただ、傷の回復を待った上で、己の手で復讐をする。紺崎霧亜とはそういう人間であると月彦は理解している。間違っても泣き寝入りなどはしない。昔から自分の事は自分で解決する――ましてや、“愚弟ごとき”に自分が庇われる事など望んでいないだろう。それが解っていても。
(…………姉ちゃんが殴られるなんて、絶対に嫌だ)
あんなもので殴られればそれこそ“痛い”では済まされないだろう。或いは優巳は本気で自分と同じ傷――或いはそれ以上を霧亜につけるつもりかもしれない。この女ならばそれだけの事をやりかねないという事を、月彦はいやという程に思い知っていた。
(それに、優巳姉にしてみれば、多分これは……“復讐”のつもりなんだ)
先に霧亜に殴られたのは自分だ。だから自分には殴る権利がある――とでも思っているのだろう。
(……だったら、俺は姉ちゃんの盾にならなきゃいけない)
例え霧亜がそれを望んでいなくとも。
「ねぇ、ヒーくん?」
こんこんと、堅い警棒の先が不意に月彦の頭を小突いた。
「ヒーくんの“頼み事”を私だけ一方的に聞かなきゃいけない、っていうのは、おかしくない?」
「……っ……」
「優巳はねぇ、ヒーくんがセーラー服着た所見てみたいなぁ?」
「ぐっ…………」
「返事は?」
こんこんと、再び警棒の先で頭が小突かれる。月彦は歯を食いしばり、落涙寸前まで目に涙を溜めて、血を吐くように呟いた。
「…………わかり、ました」
月彦は何も騙らなかったが、“話をつける”のは失敗したのだという事は真央もすぐに理解した。何故ならば翌朝も、その日の夜も優巳はけろりとした顔で紺崎家に居座り続けたからだ。
そのことに対して、真央は父親に対して深く追求する事は出来なかった。何よりも、あの時――「話をつけてくる」と部屋を出て、二時間あまりして戻ってきた時の父親の様子が尋常ではなく、真央にそれ以上の追求を許さなかったからだ。
そう、まるで肉体はそのままに、魂だけが地獄飛ばされて半年ばかりありとあらゆる責め苦を負わされて戻ってきたような――それでいて、何があったのかをひた隠しにして心配をかけさせまいとしているのが痛いほどに伝わってくるのだ。そんな父親に対して、重ねて“説得”を頼むような事は真央には出来なかった。
勿論真央も「口を利くな」「接触するな」という月彦の言いつけを極力守っていた。確かに月彦の言うとおり、優巳と対峙しているとぴりぴりとしたものを尾の付け根に感じたし、初見でいきなり半妖であることを見破られた事からも決して油断できない相手である事は十二分に感じ取っていた。
“怖い人”――優巳は真央の中でそのように分類されたと言っていい。最早月彦に言われるまでもなく、極力接触を避けたい相手ではあった。とはいえ、優巳に間接的に嬲られ続ける父親を見るのは忍びなく、かといって自分には何ができるのだろうと真央はそんな事ばかり毎日考えていた。
可能ならば、優巳の件は一度親友の由梨子に相談をしたかったのだが、どういうわけか最近休みがちで今日も学校に来ておらず、それは叶わなかった。
(……由梨ちゃん、大丈夫なのかな?)
由梨子の様子がおかしくなったのが件の“入れ替わり事件”以来であるから、真央としても気になる事柄ではあった。が、肝心の由梨子が「何でもない」の一点張りである為、真央としてもそれ以上の追求はしづらいのだった。
(……父さまに相談したほうがいいのかな)
とも思うが、優巳の件でただでさえ心身共に多大な負担が掛かっていそうな父親にこれ以上悩みの種を植え付けるのが心苦しくて、真央はこの件は己1人の胸の内に留めておくことにしていた。無論、由梨子の様子がさらに悪化するようであれば、月彦に相談するつもりではあったが。
真央はHRが終わるなり、すぐさま月彦との待ち合わせ場所である裏門近くの駐輪場の物陰へと向かった。そのまま月彦を待つこと三十分。いつもならばだいたい十分以内には来る筈であるのに、これはどうした事だろうと真央は月彦のクラスの下駄箱を見に行ってみる事にした。
月彦の靴は、まだあった。しかし他のクラスメイトの靴は部活動中らしい一部の生徒のものを残して、殆どが上履きのみになっていた。
あぁ、これは例のアレだと、即座に理解した。真央は鞄からルーズリーフを取り出すと、さらさらと先に帰る旨を書き、折りたたんで月彦の靴の中へと入れた。モヤモヤするものを押し殺し、月彦が今どこで誰と何をしているかなど絶対に考えないようにしながら、真央は帰路についた。
本来ならば、それは絶対にしてはいけないと月彦に言われている事だった。しかし、体内に蟠る“モヤモヤ”が真央に自分でも予期しない行動をとらせた。
(……父さまが言えないなら、私が言ってやる)
と、珍しく真央は強気になっていた。そもそも、あの女が来たからすべてがおかしくなっているのだ。あいつさえ追い払えば、全てが元通りになるはずではないか。
(…………“あの人”には、敵わなかったけど)
少し前に同じように無理矢理に居候となった猫女の事を思い出して、真央は少しだけ憂鬱になった。あの時とは違う、今度の相手はただの人間だ。万が一取っ組み合いになったところでせいぜい五分と五分ではないかと、真央は己を奮い立たせた。
或いは、この事で月彦に叱られるかもしれない。が、もし巧くあの女を追い払えたならば――その時はきっと叱られる以上に褒めてくれるに違いない。
(……ご褒美、いっぱいくれるよね、父さま?)
きっかけは単なる“モヤモヤ”であったのだが、いつしか真央の中でその目的意識がすり替わっていた。あの女を追い払うことができれば、きっと父さまが褒めてくれるに違いない――そしてその先に待っているであろうご褒美の魅力に、真央はすっかり虜になっていた。肝心要の“追い払う方法”に関しては殆ど無策と言っていい状況であるにもかかわらず、既に事を成功した後の見返りの事を考えてしまう辺り、手足は伸びきってもまだまだ子供と言わざるを得ないのだが、無論真央自身にその自覚は無かった。
(…………どうしよう)
紺崎家に帰り着き、玄関に入るなりはたと、真央は立ち止まった。浮かれ気分で帰ってはきたものの、事ここに至って己が全くの無策だという事にきがついたのだった。いくらなんでも“出て行って下さい”と口で言っただけで追い払うのは無理ではないか――若干冷静になった頭で真央は思った。
(……こんな時、母さまだったら)
きっと巧いこと策を練り、追い出すのだろうと真央は詮無いことを考えてしまう。それは月彦が「姉ちゃんなら――」と考える時の思考法にそっくりであったが、真央がそのことを知る筈もない。
(……私も母さまみたいにやってみよう)
うん、と頷いて、真央は靴を脱いだ。既に玄関に優巳の靴があるのは確認済みだった。真央は人間の大学というものを大まかな知識でしか知らないのだが、優巳の行動パターンからそれは少なくとも高校生よりは遅く家を出て早く帰ってこられる場所であると認識していた。
(二階にいるのかな?)
一階に優巳の姿は無く、真央はそっと足音を忍ばせて二階へと上がった。
(……いる)
第六感とでもいうべきか。人のそれよりも鋭い獣としての感性で真央はそれを感じ取った。耳をにょきりと出し、尻尾をそよがせるようにして真央はさらに優巳の気配をたぐり、どうやら霧亜の部屋にいるらしいという事を突き止めた。
(……え?)
そろり、そろりと霧亜の部屋のドアへと忍び寄る矢先、真央はハッと顔を赤らめた。ぴくぴくと耳をアンテナのように動かしてさらに室内の様子を探る。
「ぅぅんっ……んっ……はぁっ……ふぅっ……んんっ……ふはぁぁっ……」
荒い息づかいと共に漏れる、どこか艶を帯びた声。
微かに軋むベッドの音。
真央は咄嗟に優巳と“誰か”が室内でいたしている所を連想したが――その相手として真っ先に父親が浮かんだが――優れた感覚器が室内には優巳が1人だけだという事をすぐさま真央に伝えた。
(何……してるんだろう)
ドキドキと胸を高鳴らせながら、真央はそっとその場に膝を突き、ドアを少しだけ開けて中を覗き見た。
「んんんっ……ふはぁぁぁっ……キーちゃんの匂いぃっ……はふぅぅっ……んんっっ……」
カーテンが閉められたままの暗い室内で、ベッドの辺りだけがもぞもぞと蠢いていた。即座に状況を理解し、真央は再び音もなくドアを閉めた。
(……どうしよう)
と、再び真央は困り果てた。まさか相手が1人エッチの真っ最中などとは想定だにしていなかった。普通の感性であれば悩むより何よりやりたい放題の居候にドン引きの瞬間ではあるのだが、真央自身居候であり、しかも自室のベッドで何度か似たような事をしたことがある為、別段ショックなどは受けなかった。
(……あの人、姉さまの事が好きなんだ)
と思っただけだった。そして同時に安心もした。“そういう嗜好”であるならば、少なくとも父親に手を出されることだけはなさそうだと思った。
真央は少し悩み、さすがに一人エッチの真っ最中に談判するのも後味が悪いと判断し、一端階下へと降りる事にした。僅かに火照ってしまった体を落ち着けるためにも深呼吸をし、冷蔵庫の中にしまわれていたおやつのシュークリームなどを食べていると、とたとたと足音が階段を下りてきた。
「あら、まーちゃん。今日は早かったねえ。ヒーくんと一緒じゃなかったの?」
「あっ……はい。今日は――」
と、真央がそこまで口にしかけた時だった。突然びたーんと、優巳に額を掌で叩かれた。
「ぇっ……」
ビリッ、と。優巳に額を叩かれた瞬間、真央は体に電気のようなものが走るのを感じた。たちまち四肢から力が抜け、真央は台所の椅子に腰掛けたままだらりと両手を下に下げた。
「……まーちゃん。盗み見は良くないなぁ。…………私が気づいてないとでもおもった?」
「ぁっ……っ……」
からだが――ぱくぱくと、真央は陸に揚げられた魚のように口を動かすが、そこから“言葉”が出ない。それどころか、全身から力という力が抜けて全く身動きが出来なかった。
(何……何、された……の?)
真央は混乱しつつも、見た。びたーんと額を叩かれた際に、何か札のようなものが自分の額に貼り付けられたという事に。
「まーちゃんってば不用心すぎだよ? そりゃあ私は愛奈に比べたら“力”なんて全然無いけど、それでも簡単な符くらいは使えるんだから」
力……?
符……?
一体何の事なのか真央には全く解らなかった。優巳はさらにくすくすと笑う。
「あれぇ、言ってなかったっけ? うちって“そういう家系”なんだって。……まぁ、本格的にやってたのはおじいちゃんのおじいちゃんくらいまでらしいんだけど。……でも、言わなかったにしてもまーちゃんも勘が悪いよね。頭の良いキツネちゃんなら一目で正体見破った相手の事くらいちゃんと警戒しとかなきゃ」
優巳は真央が座っている椅子の後ろへと回り、その肩に手を置き、やんわりと揉むようにしてくる。
「どうしよっかなー。キーちゃんのベッドでこっそりオナニーしてるの見られちゃったから、まーちゃんに“口止め”しなきゃいけないんだけど」
肩を揉んでいた優巳の手が、真央の首の方へと登ってくる。
「…………“死人に口なし”っていうのもアリかな?」
「……っ!」
首に宛われた優巳の手に、徐々に力が籠もり始める。呼吸が徐々に難しくなるが、四肢を動かす事は出来ない。
「かはっ……かひっ……!」
気道を圧迫され、真央は体を痙攣させるようにして噎せた。――瞬間、優巳の手からふっと力が抜けた。
「……なんちゃって。……オナニー見られたくらいで殺しちゃうわけないじゃない。……まーちゃん、ビックリした?」
真央は何も言葉を返せなかった。目は動かせるが、首を振る事すら出来ないのだ。そんな真央の体を、まるで値踏みでもするように優巳の手がはい回る。
(い、イヤッ……父さま、助けて……)
真央は叫び声を上げようとした――が、無論叶うわけもない。優巳の手が肩を這い胸を這い腹部を通り制服のスカートの上から太股へと這う。そして太股をなで回すようにして、ゆっくりと真央は足を開かされる。
「んふふー……仕方ないから、恥ずかしくて誰にも見せられないようなまーちゃんの写真でも撮っちゃおうかな?」
悪戯っぽく笑う優巳に、真央は拒絶も何も出来なかった。
「いーい? 紺崎くん。トイレに籠もってたからって、便秘だとか、下痢だとかそういう理由って決まるわけじゃないの! 女には生理痛っていう厄介なものがあるんだから!」
「はぁ……つまり“あの時”は生理痛でトイレから出られなかったというわけなんですね。解りました」
では、と月彦は強引に会話を打ち切り、密談部屋こと生徒指導室を後にする。
「こ、こら! 待ちなさい、紺崎くん!」
――筈だったのだが、雪乃に強引に肩を掴まれて脱出は失敗に終わった。
「まだ話は終わってないわよ! 第一、紺崎くん信じてないでしょ?」
「いえ、信じました。あの日あの時先生は間違いなく生理痛でトイレから出られなかったんだと骨身に染みました。疑う余地のない正論だと思います」
では、と月彦は再びドアへと向かおうとするが、肩を掴んだままの手がそれを許してくれなかった。
「ま、待ちなさいって言ってるでしょ! ほら、ちゃんと椅子に座りなさい」
「先生、あの……俺、人を待たせてるんですけど……すぐ終わる話じゃなかったんですか?」
月彦は両肩を押さえつけられる形でパイプ椅子へと座らされた。
(……参ったな。真央が待ってるのに)
帰りのHRが終わり、いざ真央との待ち合わせ場所へと向かおうとした矢先、月彦は廊下で雪乃とばったり遭遇してしまったのだった。とはいえ、どういうわけか最近の雪乃は自分から接触を避けている様な節があった為、月彦は別段気にもとめず軽く会釈だけしてその脇を通り抜けようとした――が、捕まってしまった。
『紺崎くん、ちょっと話があるんだけど……いいかしら?』
月彦は待ち合わせがあるから、と断ろうとした。が、それで引くような相手ならば苦労は無かった。どうあっても引くつもりがないらしい雪乃と廊下で口論し続けるよりも、早いところその話とやらを聞いた方が時間的ロスは少ないだろうと見込んだのだった。
勿論、それが間違いの始まりだったりするのだが。
「全くもう……久しぶりに二人きりになれたんだから、少しくらいゆっくりしていってもバチはあたらないのよ?」
等と言いながら、雪乃はがさごそとどこからともなく二人分のマグカップと魔法瓶を取り出すと、それらにお茶を注ぎ始める。
(……急いでるって言ってるのに)
何故この期に及んで茶の準備など始めるのか。月彦には雪乃の考えが全く解らなかった。
「そうそう、紺崎くん。お茶請けは何がいいかしら? いちおう甘いのと辛いの、いろいろ買っておいたんだけど」
雪乃はマグカップを月彦の前に置くや、今度は両手分の買い物袋を折うんしょっ、と持ち上げ、折りたたみ式のテーブルの上へとぶちまけた。
(……お茶請けって量じゃないぞ)
全部食え、というわけではないのだろうが、少なくとも何が何でも雪乃は自分を早期退室させる気はないのだなと。その覚悟の程だけは痛いほどに伝わってきた。
(……すみません、先生……いつもなら、そういう先生のワガママにももう少し付き合ってあげられるんですが)
さすがに今は時期が悪い。
(…………俺1人が餌食になるだけなら、いい。我慢できなくはない。……でも、もし真央までが――)
考えたくはない。考えたくはないが、あの姉妹に限っては一体何をするか解らない。大事なものからはつかず離れず目を離してはいけないという事を教えてくれたのは他ならぬあの姉妹なのだから。
「…………先生、解ってもらえないみたいなのでもう一度言います。人と約束をしてるんです。お茶なら後日、都合の良い時にいくらでも付き合いますから今日のところは――」
「……………………だったら“その相手”もここに呼べばいいじゃない」
月彦の言葉は、途中で雪乃に切られた。月彦の声自体、幾分か怒りを含んだものであったが、雪乃のそれはそれ以上だった。
「いや、それは――」
「どうして呼べないの? ……その相手っていうのが“女の子”だから?」
ぎくり、と。月彦は心臓が跳ねるのを感じた。
(まさか――バレたのか!?)
月彦は必死にポーカーフェイスを装いつつも、脳内では必死に雪乃の言う“女の子”が誰なのかを探った。
(真央か? それとも由梨ちゃん? まさか矢紗美さんじゃ無い……よな?)
だが、月彦の推測は全て外れた。
「解ってるのよ? また部室にいって“あの子”とイチャイチャする気なんでしょ?」
「……へ?」
「私が、何も知らないと思ってるなら大間違いなんだからね! 紺崎くんが時々あの子と二人きりで部室で会ってるの知ってるんだから!」
「…………あの、先生?」
「待って、言い訳なんか聞きたくないわ。そうならそうってはっきり言ってくれていいのよ。紺崎くんの心がそこまで私から離れてるのなら、私にだって考えがあるんだから」
「いや、えーと……」
月彦は頭を掻き、さてなんと言ったものかと首を捻った。
(あの子っていうのは、月島さんの事だったのか)
ホッとしたような、それでいて呆れたような、なんとも微妙な心持ちだった。
(…………一応同じ部活に入ってるわけなんだから、部室で会うのは至極当然な事だって……言って通じるのか?)
二人きりで会うのは、部員が二人しか居ないからだし、さらに言えばここ最近は雪乃の方が避けるようなそぶりを見せて部室にも顔を見せなかったから尚更だ。
(…………ただ普通に“弁明”したってダメだろうな)
そういう事を言っているのではないのだと、月彦は理解した。“雪乃語”を自分なりに日本語訳し、その意味するところをじっくりと吟味して最も効果的と思われる“弁明”を口にした。
「先生、今度デートしましょうか」
えっ、と。よほど虚を突かれたのか、ぶっすーと不機嫌そうな顔をしていた雪乃があっけにとられたような声を出した。
「急に、何を……」
「いえ、そういえば最近先生と一緒に出かけたりとかしてなかったなぁ……って。部室でも全然会ってませんでしたし、そういえば月島さんもどうしたんだろうって心配してましたよ」
「な、何よ……今更……デートなんて……」
相変わらず不機嫌そうな顔をしたまま雪乃はぶつぶつと呟き、しかし何やらおちつかないのかしきりに両手を意味もなく組んだり、すぐに机の上に戻したり、かと思えば足を組み替えたりと忙しない。
「あれ、先生は嫌なんですか?」
さも、「先生が嫌なら、しょうがない。諦めるか」とでも言わんばかりの口調で月彦は言った。ぎょっと、その言葉に瞬時に反応したのは勿論雪乃だ。
「だ、誰も嫌だなんて言ってないでしょ! わ……私が言いたいのは…………い、今まで散々ほっといたくせに、いきなりデートだなんて言われても…………って事よ」
「……今まで先生と話す機会が持てなかったのは、先生が俺を避けてるからだと思ってましたけど……違うんですか?」
「避けてたわけじゃ…………ただ、なんか紺崎くん誤解してるっぽかったし…………あ、会わせる顔が無かったっていうか…………だけど……ずっとこのままってわけにもいかないから………………」
誤解、と雪乃は言うが、実のところ月彦はどうしても腑に落ちなかった。生理痛でトイレに籠もっていたというのが正しいのであれば、あの時何故雪乃は『コーヒーが悪かったのかしら』と言ったのだろうか。しかもその後、『紺崎くんは大丈夫?』とまで言っているのだ。
生理痛で腹が痛い時にそれは変ではないのか、と月彦は思うが、この場合それは口にしないが吉だと思っていた。つまるところ雪乃が“そういう事にしておきたい”と思っているのならば、それに合わせてやるのが一番面倒が少ないと思うからだ。
「解りました。……つまり、先生はデートには乗り気ではない、と」
「だから! そんな事は一言も言ってないでしょ!」
がーっ!と。雪乃は顔を真っ赤にして吠えるようにして言った。
「したいわよ! 本当なら、このまま家までお持ち帰りしたいくらい、紺崎くんと一緒に居たくて居たくて我慢できなかったんだから! ああもぅ……言わせないでよ、こんな事……」
雪乃は耳まで顔を赤くして、泣きそうな声を出しながら机に伏せてしまう。
「解りました。じゃあ、近々デートをするって事で俺の方も考えておきます。詳しい日程が決まったらまた連絡しますから――」
とりあえず今日の所はこの辺で――月彦はさりげなく席を立とうとした。が、その腕が顔を伏せたままの雪乃に掴まれた。
「……いつ?」
「いや、ですから詳しい日程はまた後日――」
「いつ?」
雪乃は顔を伏せたまま、ぎりぎりと月彦の腕を握りしめてくる。およそ女性の細腕とは思えないその握力に、月彦は腕を振り切ることも、勿論逃げる事も出来ない。
「ええーと……じゃあ、来週の土曜日……でどうですか?」
「…………。」
ぎりぎりぎりとさらに雪乃の握力が強くなる。
「い、痛だだっ……せ、先生っ…………ちょっ…………わ、解りました……土日! 土日全部先生の為に空けますから!」
フッ、と。熊のような握力から漸くに腕が解放された。――が、完全に離してはもらえなかった。
「どうして“来週の”なの? 紺崎くん、今日は木曜日よ?」
“今週の”でいいじゃないと、雪乃の笑顔は語っていた。
「すみません、今週はダメなんです。どうしてはずせない用事があって……」
まずは優巳を追い払わねば、おいそれと家を空けるわけにもいかない――が、そんな事を雪乃に説明できるわけもない。
「来週でいいじゃないですか、来週の土日は先生のためにガッツリ空けておきますから!」
むーっ、と雪乃は不満そうな顔でしばらく唸り、ぽつりと呟いた。
「じゃあ、金曜の夜もつけて」
「えっ……?」
「金曜の夜も、うちにお泊まり。………………ダメ?」
先ほどまでのような、握力にモノをいわせた“脅迫”ではない。真央のそれのような“おねだり”だった。
「………………ぜ、善処します」
ぱっ、と。漸くにして月彦の腕は解放された。
「よろしい。…………来週の土日、金曜日のお泊まりつきのデート、楽しみにしてるからね? 紺崎くん」
「えっ……あの、金曜日泊まれるかどうかはまだ――」
と口にしかけて、月彦は噤んだ。折角雪乃の機嫌が直ったのだ。ここで余計な事を言ってさらに事が長引くのだけは避けねばならなかった。
「わ、解りました……じゃあ、金曜の夜からのデートってことで……何処に行くかとかは全部先生に任せますから! 好きに予定組んで下さい」
程なく、月彦は超速で“お茶”を済ませ、生徒指導室を後にした。廊下に出るや否や全速力で昇降口へと向かい、靴を履こうとして――はたと。真央の残したメモに気がつくなり、月彦は愕然とその場に膝を突いた。
(真央……馬鹿な……何を考えてるんだ!)
あれほど優巳は危険だと言ったではないか――月彦は即座に立ち上がり、靴を履くなり全速力で駆け出した。
「んっふふー……さーて、まーちゃん。何して遊ぼっか?」
真央を見下ろしながら、優巳はぺろりと舌なめずりをする。真央は符によって体の動きを封じられた後、優巳の手によって自室のベッドにまで運ばれていた。
「ねーねー、まーちゃんって処女?」
返事はもとより、首を振る事すらも真央は出来ない。
「あ、そっか。返事できないんだったね。……じゃあ、私が当ててあげる」
優巳は真央の体をベッドの上に仰向けに転がし、その足を開かせ、スカートをまくり上げる。
「やっ……やめっ……」
「んー? どうして声が出せるのかなー。キツネ……妖狐なら身動き一つできない筈なんだけど。……まーちゃんってひょっとして純粋なキツネじゃないとか?」
不思議そうに首を傾げながらも、優巳は真央の足の間へと体をいれ、その太股に頬ずりをするようにして股ぐらへと埋めていく。
(イヤッ……! 父さま、助けて……!)
真央の叫びは、言葉にならない。辛うじて掠れたような声は出せるものの、それ以上は無理だった。身じろぎも僅かに出来なくはないが、抵抗という意味では無抵抗のそれと同義だった。
「んー……良い匂い…………ずばり、まーちゃん処女じゃないでしょ。……相手はヒーくんかな?」
ショーツの上から鼻を埋めるようにしてスンスンと鳴らされ、真央は怖気すら感じた。優巳の手がさらにショーツの端へとかかり、ゆっくりと下ろされ始めた時などは、目尻に涙が浮かんだ。
「やっ……やぁっ……」
「あっはー、良いリアクションするじゃない。何々、まーちゃんの体はヒーくんだけのモノなの? “他の女”に汚されるのは嫌なの?」
優巳はずりずりとショーツを下ろし、“ギリギリ見えない”という所であえて止めた。その意図は、無論真央には分からない。
「んー、怯えてるまーちゃんの顔凄くいいよぉ……。どうしよう、キーちゃんも良いけど、まーちゃんも凄く可愛いから優巳困っちゃう」
優巳はスカートの下から顔を出し、ずいと顔をのぞき込むようにして近づけてくる。唇が触れそうな程に近くまで顔を寄せられ、真央は渾身の力を振り絞って口を閉じ、唇を隠した。
「アハッ、違う違う。キスなんか狙ってないよぉ…………くすっ、ヒーくんに操を立ててるのかなぁ?」
「っ……!」
真央は必死に首を動かし、優巳から顔を逸らせようとする。が、真央のそんな努力空しく顎を掴まれ、優巳の方を向かされ――
「……ッッッ!!」
そのまま、唇を奪われた。
「んっ……ンンッ……」
真央は必死に口を閉じようとした――が、それをこじ開けて優巳の舌が入ってくる。快楽を求めるというよりは、単純に陵辱したいだけ――というような、一方的なキスだった。
「んんんっっ……ンンンーーーーー!」
首を振って逃れる事も許されず、真央に出来る事はむせび泣く事だけだった。そう、実際に真央は泣いた。両目から涙もこぼした。それを見て優巳は笑い、より一層熱っぽくキスを続けた。
長い、真央にとって永遠にも感じられる長いキスが終わり、優巳は唇を離すなりぺろりと真央の涙の後を舐めた。
「あはぁっ、まーちゃん、凄く良いよぉ……キスされただけで泣いちゃうなんて純情すぎぃ……すっごくイイ……はぁはぁ……」
優巳は瞳を潤ませながら呟き、ぶるりっ、と体を震わせたかと思えばそのままぎゅうううっ、と真央に抱きついてきた。
「あぁん、もぉ……早くまーちゃんのいやらしい写真とらないとヒーくんが帰ってきちゃうのにぃ……んんっ……まーちゃんってすっごくいい匂いがする……キーちゃんみたい……」
優巳は真央の胸元の辺りに鼻を埋め、すうはあすうはあと深呼吸を何度も繰り返しながら、真央の太股を己の足で挟み込み、秘部を擦りつけるような動きをしてくる。太股に感じる濡れた下着の感触が、ことさら真央には気色悪く感じられた。
「はぁはぁ……ダメ、ダメ、止まらなくなっちゃう………………先に写真撮っちゃわないと……」
といいつつも、優巳自身自分の体がどうにもならないのか、鼻息荒く真央の体に頬ずりをしては両手を忙しなく動かしてブラウスの上から胸元をまさぐりだした。
「いっ……やっ……」
真央は抵抗をしようとしたが、やはり出来ない。
(この人となんて……絶対に、嫌っ……)
そう、相手が月彦や由梨子――或いは霧亜であれば、“イヤ”の意味が全く変わってくるところだが、少なくとも優巳相手においては真央は嫌悪しか感じなかった。或いはそれは父である月彦から受け継いだ、黒須姉妹に対する絶対的な拒絶反応であったのかもしれない。
そう、嫌悪するだけではない。優巳に触られるだけで、その場所が“汚された”ような実感すら襲ってくるのだ。
「ダメっ……止まらない……まーちゃん、まーちゃんのおっぱい……ンッ、ンッ……」
優巳は鼻息荒くブラウスのボタンを外し、露出したブラを上にずらすや、夢中になって真央の乳を舐め始める。両手で握りしめるようにして掴み、ぐぐっ、と押し出されるようにして強調された乳首へと舌を這わせてくる――無論、真央は快感など微塵も感じなかった。
「いっ、やっ……ぁっ……」
てろり、てろりと乳をなめ回されながら、真央は再び目尻に涙を浮かべていた。
(ダメッ……父さまの為のおっぱいなのに…………汚されちゃうっ…………)
ちゅぱ、ちゅぱと音を立てて胸を吸われながらも、真央は必死に体の自由を取り戻そうとしていた。そう、優巳自身が言った事ではないか。『妖狐なら、身動き一つできない筈』――と。
ならば、動けるはずだ。自分には半分、人間の血が流れているのだから。
(動け……動け、動け……)
真央は右手に対して懸命に“指令”を送る。全身を動かす必要はない、右手だけでも動かせれば、額に張られた符を剥がす事が出来る。そうすれば、全身の自由も取り戻せる――筈だ。
「んく、んく……ふはぁぁ……まーちゃんのおっぱいすっごく美味しい……ミルクみたいな味がする……もぉだめ、辛抱堪んない……このまま、んっ……食べちゃお」
優巳は唾液まみれになった真央の胸元に顔を埋めたまま、すすすと手だけを南下させ、真央のスカートの下へとさしこんでくる。その手がショーツの下へと潜り込もうとした刹那――
「い…………やっ……ァァァァ!!!!」
真央は叫び、そして右腕が動いた。右手はすぐさま額に張られた符を剥がし――その瞬間、真央は体の自由が戻るのを感じた。
「えっ……?」
優巳の対応は一瞬遅れた。その隙に優巳を突き飛ばし、ベッドの上から逃げた。本来ならばそのまま部屋の外まで逃げる筈だったのだが――。
「ぎゃンッ!」
突如右足に走った激痛に、真央はベッドから数歩と歩けずにその場に倒れ込んだ。
「んもぅ……まーちゃんったら、悪いコ。大人しくしてくれないと、痛い目に遭うだけだよ?」
「くっ……ぁ……」
真央はなんとか上体を起こし、己の右足を見た。ベッドから逃げる際に再度張られたのか、足首にはまた別の符が張られていた。真央はすぐさまそれを剥がそうと手を伸ばすが、手が符に触れるか否かの所でバチィ、と激しく音を立てて火花が散り、触れる事すら出来なかった。
「あぁん、ダメダメ。それちょっと“強い”符だから、あんまり触らない方がいいよ? でも、自分で符を剥がして逃げるなんて、まーちゃんちょっと普通じゃないね。…………段々興味が沸いて来ちゃった」
「っ……い、イヤッ……来ないで……!」
「あぁ、大丈夫だよ? みーんな最初はそうやって嫌がるの。…………だけどね、何度も何度も無理矢理イかされてるうちに、段々私抜きじゃ生きていけなくなっちゃうみたい。……まーちゃんは何回目でそうなっちゃうかな?」
「いやっ……いやっ……触ら、ないっ、でっ……父さま、助けてぇェェ!!!!!!!」
体に触れようとする優巳の手を払い、真央は叫んだ。――瞬間、部屋のドアが勢いよく開いた。
「真央!?」
自室のドアを開けるのと、真央の悲鳴が耳に飛び込んできたのはほぼ同時だった。眼前に広がる光景――月彦は咄嗟に真央の側へと駆け寄り、反対に優巳は月彦を見るなり飛び退くようにして真央から距離をとった。
「父さまぁっ!」
よほど怖い思いをしたのだろう、真央がぎゅうっと両手でしがみついてきた。そんな真央を抱き留めながら、月彦は優巳を睨み付けた。
「優巳姉……真央に何をした」
「別に何も? ちょっとまーちゃんと二人でふざけてただけだよ?」
けろりとした顔で、優巳はそんな風に睨まれるのは心外だとでも言いたげだった。
「……真央、何をされた」
月彦は小声で真央のキツネ耳に向かって囁く――が、真央は月彦のシャツに顔を埋めるようにしたままただただ首を横に振るばかりだった。
(…………着衣に乱れがあるな)
月彦は真央の姿を冷静に観察し、大凡何が起きたのかを推測した。そう、恐らくは“食われかけた”のだろうと。
「あーあ、もうちょっとだったのに。ヒーくんったらKYなんだから」
「……部屋から出て行け」
月彦は静かに言った。本来ならば“部屋から”ではなく“家から”と言いたい所だったが、今この瞬間に至っては“部屋から”の方が気分的に正しかった。
「はいはい。二人でいーーーーぱいいちゃつくと良いわ。…………どうせもうすぐまーちゃんは私のモノになるんだから」
冗談とも負け惜しみともとれないような言葉を残して、優巳は真央の足に張られていた札のようなものをピッと剥がして、部屋を後にした。
「…………真央、どうして1人で帰ったんだ。優巳姉に一人で近づいたら危ないって教えただろ?」
「……ごめんなさい、父さま」
真央は多くを騙らなかった。くすんくすんと肩を揺らしながらただただ月彦にしがみつき続けた。月彦もそんな真央をあやすように抱きしめ、背中を、髪をなで続けた。
(………………許さねぇ)
自分はおろか、姉にも――そして真央にも危害を加えようとしたあの女を、最早許すわけにはいかない。
(“駆除”してやる)
例え、どんな手段を使っても。家から叩きだしてやる。
その為には。
「…………真央、いいか。これから俺が言う事をよく聞くんだ」
……。
…………。
………………。
小一時間後、月彦は真央をベッドに残し、部屋を出た。階下ではいつの間にか帰宅していたらしい葛葉が夕飯の支度を始めているらしく、台所の方から小気味のよい包丁の音が聞こえていた。
「…………随分好き勝手されてるみたいじゃない」
自分も階下へと降りようかと足を踏み出しかけた矢先、月彦は唐突に“廊下の暗がり”に話しかけられた。
「何だ、居たのか。…………なんで真央を助けてやらなかったんだ」
「助けて良かったの?」
そう言う女の声は、心なしか怒気を孕んでいるように感じられた。
「……いや、悪い。俺の責任だよな。……むしろ、よく我慢したと言ったほうがいいか」
「別に、我慢なんかしてないけど」
やはり、声にトゲがある、と月彦は思った。
「それで、どうするの。……アンタが手も足も出ないーって泣きつくなら、あたしが何とかしてやってもいいわよ?」
「いや、いい。俺が自分で落とし前をつける」
「アンタに何が出来るっていうの?」
くすくすと“暗がり”が笑う。この女の事だから、恐らくは優巳相手では不能となってしまう事も掴んでいるのだろう。
「今度はこの前みたいな無様な事にはならない。絶対に」
「ふぅん? 根拠は?」
「無い。……けど、アテはある。…………多分、あの時に枷をかけられたんだ」
「枷?」
真狐が怪訝そうな声を出すが、月彦にもそういう表現しか出来なかった。あの屈辱の夜以降、どうしても腑に落ちなくて、考えに考え抜いた末の結論だった。
「そうとしか言えない。何でそんな事をしたのかも解らない。だけど、それさえ外せれば……勝てる筈だ」
勝利――それは、単純な暴力や痛みによる排除ではない。あくまで“自分なりのやり方”であの女にこれ以上ない屈辱感と敗北感を植え付け、 今後二度と紺崎家に近づく気さえ起きないようにする――それが、月彦の考える完全勝利だった。
そしてその為には、いくつかの手順を踏む必要があった。――そう、二度と失敗をしないために、それはどうしても必要な手順なのだ。
「なんか全然ピンと来ないんだけど。……ま、アンタがなんとかするっていうんなら任せるわ。……但し、ちんたらしてまたあの女が真央に何かしたら、次はあたしも黙ってないわよ」
そんな言葉を残して、廊下の暗がりから音もなく“気配”が消えた。
(………………相変わらず真央にだけ甘い奴め)
姿を見せなかったのは、怒った顔を見られたくなかったからではないか――そんな推測をしながら、月彦は階下へと降りかけて、ふと足を止めた。
「……おい、真狐。……もしかしてお前、“さっきの話”も聞いてたのか?」
月彦は背後の暗がりに向けて再度問いかけたが、返事は帰ってこなかった。本当に去ってしまったからなのか、それともただ無視されているからなのか、月彦には判断がつかなかった。
仕方なく、月彦はそのまま階下へと降りた。“用事”を済ませるためだ。
「む……?」
が、いざ電話をかけようと受話器を手にとりかけた瞬間、逆に電話が鳴り出した。月彦は一瞬止めた手で再度受話器を取った。
「もしもし?」
『……月彦?』
えっ、と。思わず声を漏らしそうになった。受話器から聞こえてきた声は、月彦が電話の相手として想定していた誰でもなかったからだ。
「姉ちゃん!? ……どうしたんだよ、何かあったのか?」
まさか、優巳が――と月彦は危惧したが、居間の方から絶え間なく聞こえる笑い声は間違いなく優巳のものだった。恐らくはバラエティ番組でも見ているのだろう。最早居候のいの字も無いほどのくつろぎっぷりだった。
「姉ちゃん? もしもし?」
霧亜からの返事がない。一瞬通話が切れてしまったのかと思ったが、不通音は鳴っていない。
「……母さんに代わろうか?」
あの姉がわざわざ電話をかけてきたという事は、よほどの用件がある筈だと、月彦はにらんだ。しかしどうやら自分に対しては言えないらしいと見るや、気を利かせて切りだした。
――が
『……ダメよ。電話をかけたこと、母さんには黙ってて』
「えっ……じゃあ……」
まさか真央に用事だろうか。さすがに優巳に話があったとは考えにくい。
(…………でもそれならそれで電話を代われって言えばすむ話だよな)
はてな、一体全体何用で電話をかけてきたのだろうと月彦が首を捻っていた矢先だった。唐突にぶつりと通話が切られ、不通音が鳴り響いた。
「…………姉ちゃん?」
月彦は一端受話器を置き、或いは霧亜がかけ直してくるのではないかと期待をしたが、電話が再び鳴り出す事は無かった。仕方なくその場を後にしかけて、月彦は背中に悪魔の気配を感じた。
「ヒーくんヒーくん、聞いて聞いて!」
「…………なんだよ」
振り返りながら、月彦は不機嫌を隠そうともせずに言った。
「あのね、葛葉さん明日からちょっと“お出かけ”しなきゃいけないんだって」
「へえ」
月彦は無感動に返事を返した。葛葉が泊まりがけでどこかに消えるのは、最早珍しいことでもなんでも無かったからだ。
「だからぁ、週末は私とヒーくんとまーちゃんの三人だけだね。くふふふふっ」
優巳は心底楽しみだと言わんばかりに笑うと、そのままスリッパをぱたぱた言わせて居間へと戻っていった。
「……あぁ、楽しみだな。本当に」
独り言のように呟いて、月彦は再び受話器を手にとった。そう、“本来の用件”を果たすために。
「じゃあ、真央。言った通りにな。白耀にはちゃんと電話で話通してあるから」
「うん……」
翌朝、真央はいつも通りの時間に月彦と共に家を出た。勿論学校に行くためであったが、その“帰り”は家ではなく、白耀の邸宅に向かうように事前に言い含められていた。
(……昨日はごめんなさい、父さま)
真央は心の中で謝らずにはいられなかった。結局、何故一人で帰ったのか、その理由について真央は何も言わなかった。言わなかったが、そのせいで優巳に襲われてしまったのだから、アレは間違いなく自分のミスだと反省していた。
(父さまが、あの人は危ないって……ちゃんと教えてくれてたのに)
悪癖だ、と真央は思う。胸がむかむかして、頭がカーッとなってしまうと、父親にダメだと言われたことをやってしまう自分が嫌で堪らなかった。
直さなければ――と、思う。
「……あ、そうだ。……父さま、これ……」
真央は自己嫌悪に苛まれながら登校し、はたと。校門が見えた辺りで父親に渡さなければならないものがあった事を思い出した。
「あの、ね……姉さまに、手紙……書いたの」
「……姉ちゃんに?」
封筒を受け取りながら、月彦は怪訝そうな声を出した。そんな父親の反応から、ひょっとして出しゃばりすぎたかな、と真央は少し後悔した。紺崎家に来てじき一年となるが、霧亜と月彦の確執の根深さについて、真央は簡単には触れてはいけないのだという事を思い知っていた。
(でも……)
真央は、昨夜聞いてしまったのだ。恐らくは、その確執の一因であるだろう出来事を。
そう、あれは――月彦に助けてもらった直後の事だ。
「…………真央、いいか。これから俺が言う事をよく聞くんだ。…………明日、学校が終わったら家には帰らず、しばらくそのまま白耀の家に泊まるんだ」
「……兄さまの所に?」
「ああ、さすがにあそこなら優巳姉も手出しはできない筈だ。……アイツを追い出したら、すぐに迎えに行くから。だからそれまでは白耀の家から学校に通うんだ」
言いながら、月彦は苦渋に満ちた顔をしていた。その意味を、真央は誤解した。
「……父さま、だったら……父さまも一緒に……」
「いいや、それはダメだ。俺は逃げるわけにはいかない。………………今度ばかりは、逃げるわけにはいかないんだ」
一緒に逃げよう――真央のその言葉に、月彦は一も二もなく首を振った。逃げるわけにはいかない――その決意が、肩を掴んでいる月彦の腕から痛いほどに伝わってくる。
どうして?――と思う。真央は既に聞いた。幼い頃、父親があの女とその姉にどういう目に遭わされたのか、その一端を。そしてそのことが例えようもない程のトラウマになり、ただこうして同じ屋根の下に居るだけで父親の心に負担をかけている事も。
(一緒に……逃げようよ、父さま)
そんなに辛いのなら、無理にあの女とぶつかる事はないと。どのみち、永遠に居座る事など出来はしないのだから、一時的にせよ逃げる場所があるのなら、一緒に行けばいいではないか。
真央の気持ちは、恐らく視線を通じて月彦に伝わった。月彦はただ、首を横に振った。
「俺は逃げられない。逃げるわけにはいかないんだ。事、あいつらに関しては……絶対に」
「そんな……父さま……どうして……」
「……っ……」
月彦はぎりっ、と歯を鳴らす。それは紛れもない怒りの感情の発露に見えたが、しかしそれは真央に対してでも、そして優巳に対するものでもないように見えた。
いうなれば、己自身に対しての――。
「……真央、これは……絶対の、秘密だ」
月彦は小声で、しかしハッキリとした声で、言った。
「誰も知らない。誰にも話したことがない秘密だ。…………真央、他の誰にも喋らないと誓えるか?」
真央は迷い、そして力強く頷いた。
月彦もまた頷き、そして語った。
「……前にも少しだけ話したな。俺はガキの頃――まだ小学校に入る前、あいつら姉妹に手酷く苛められてたんだ」
それは、真央も既に聞いた話だった。
「あいつらには不思議な力があった。……今思うと、それは多分優巳姉にはなかったんだろう。その頃のあいつらは本当にうり二つで、同じ格好をするとどっちがどっちか解らなかった。実の親でも見分けがつかなかったほどだ。…………ただ一人、姉ちゃんだけが完璧に見分けてたけどな」
月彦は苦笑しながら、霧亜が語った“判別法”を付け加えた。
「“趣味が悪い方が優巳、タチが悪い方が愛奈”って、姉ちゃんはよく言ってた。……まぁ、それを聞いても、俺にはまったく解らなかったけどな」
まぁそれはいい、と月彦は話を戻した。
「愛姉は手をかざすだけで虫を眠らせる事が出来たんだ。その力を使って、いくらでも大型の昆虫を捕まえる事が出来た。……そしてそれを、“虐め”に使った」
それも、既に真央が聞いた事だった。寝ている時にパジャマにムカデを入れられたり、ハチの針で刺されたりしたと。
「そしてあの時も、俺は二人に追いかけられて森の中を逃げていた。途中で転んで足を挫いて逃げられなくなって、あっという間に二人に追いつかれた。あいつらは俺の体を押さえつけて服を脱がし、虫かごからスズメバチを取りだして――……」
月彦が、そこで言葉を詰まらせた。あるいは、“当時の恐怖”を思い出したのかもしれない。苦痛に顔を歪め、気がつくと脂汗すらも滲んでいた。
「もうダメだって、俺は諦めた。ひょっとしたらこのままこいつらに虐め殺されるんじゃないかって思った。…………その時、茂みから姉ちゃんが飛び出してきて、手に持っていた木刀みたいに太い木の枝であっという間に二人を殴り飛ばしたんだ」
あの時の姉ちゃんは最高に格好良く見えた、と。月彦は――多分自分では気がついていないのだろうが――目をきらきら輝かせて語った。
しかし、それも長くは続かなかった。
「でも、そう見えたのは一瞬だけだった。俺は助かった、って思うより先に、姉ちゃんにもビビっちまったんだ。姉ちゃんは鬼みたいな顔をして、頭を抑えて蹲ってる二人を殴ることを止めなかった。完全に逆上してるみたいだった」
それは、真央の知らない霧亜の姿だった。“あの”霧亜が逆上をする所など、真央には全く想像がつかなかった。
「二人が着てた揃いの白いワンピースがあっという間に血の色に染まって、ビビった俺は小便漏らしながらもうやめてくれって姉ちゃんにせがんだ。でも、姉ちゃんは止めなかった。こいつらはもう殺すしかないって。今殺さなきゃ絶対に後悔することになる、って、殴りつけるのを止めなかった」
今なら、姉ちゃんが言ってたことも少し解る、と月彦は苦笑混じりに付け加えた。
「俺はもう、自分でもワケが解らなくなって、このままじゃ姉ちゃんが人殺しになっちまうって思った時には、二人と姉ちゃんの間に割って入ってた。姉ちゃんがぎょっとして木の棒を振り下ろす手を止めようとしたのが解った。……けど、それは間に合わなくて、俺は肩に一発もらった。ちょっと痣が残るくらい痛かったけど、そんな事はどうでも良かった。それで姉ちゃんの頭が冷えて、いつもの冷静な姉ちゃんに戻ってくれた事の方が大事だった」
この若すぎる父親は、本当に姉の事が好きなのだと。真央は月彦の話し方からそんな事を思った。しかし不思議と、それを妬ましいとは感じなかった。本当に不思議だと真央は自分自身が信じられなかった。
(“好き”の種類が違うからかもしれない)
そうとしか思えなかった。
月彦の話は続く。
「幸い……って言うべきなんだろうな。優巳姉も愛姉も、“命に別状はない”程度の怪我で済んでた。だけどそれは決して軽い怪我でもなくて、二人とも入院した。…………で、どうしてそういう事になったのか、っていう話になった」
ここからが話の“核心”なのだと、真央は月彦の表情の変化で理解した。
「あいつらは言った。“三人で森にカブトムシを採りに行ったら、仲間はずれにされたって勘違いしたキーちゃんが逆上して襲いかかってきた”ってな。…………そして、俺はそれが“真実”だって、認めてしまったんだ」
怖かった――そう、月彦は掠れるように言った。
「あいつらに逆らって、“報復”されるのが怖かった。折角姉ちゃんが助けてくれたのに、俺は裏切って姉ちゃん一人悪者にしちまったんだ」
「父さま……」
まるで、教会で懺悔をする罪人のようだった。月彦の心の痛みそのものが伝わってくるようで、真央は思わず胸を押さえた。
「俺ってやつは本当に……自分でも嫌になるくらい、ビビリでヘタレだったんだ。今でもはっきり覚えてる。バカみたいにでかいあいつらの家の座敷に姉ちゃんが正座させられて……まだ、小学校に上がったばかりの姉ちゃんを囲むように車座に大人達が座って、罵声を浴びせてる光景を。一番大声を上げてたのはあいつらの父親だった。……まぁ、当然っちゃ当然だよな。娘を殺されかけたんだから」
それに、もともと双子の父親と霧亜とは仲が悪かったと、月彦は付け加えた。
「…………それより前に、何度か姉ちゃんがあいつらの“本性”を大人達に伝えようとしたんだ。その度に馬鹿にされて、一度も真面目に聞いてもらえなかった。あの子達に限ってそんなワケないでしょう、って。それで姉ちゃん怒って“目が見えていない、耳も聞こえていないお人好し共の統治は楽そうでいいですね”って、あいつらの父親に面と向かって吐き捨てて頬を打たれた事があったんだ。その時から……いや、考えてみたらそれより前からもう仲は悪かったな。多分、自分の娘より明らかに可愛くて、将来美人になりそうな姉ちゃんが最初から疎ましかったんだろう、絶対そうだ」
うんうん、と頷く月彦に、真央は一緒に頷くことが出来なかった。確かに、大人相手でも怯まずに毒舌を振るう辺りは霧亜らしいと真央は思ったが、最後の一言に関してはどうだろうと。
(……それは……父さまの、欲目じゃ……)
ちらりとそんな事を思ったが、口には出来なかった。それよりも、真央は先ほどから沸々とわき上がる疑問を口にしたくて仕方がなかった。
「…………ねえ、父さま。……義母さまは?」
「母さん?」
「うん。義母さまも信じてくれなかったの?」
「それ、は……」
月彦はハッと、まるで背中から刺されたかのような顔をする。その質問はまったく予期していなかったとばかりに。
「…………信じて……くれなかったんだと、思う…………多分…………あれ、でも……それならどうして……」
そして、何やら混乱するようにぶつぶつと独り言を呟き始めた。
「と、とにかく……姉ちゃんは何を言われても、一言も弁解はしなかった。何も言わずに大人達を睨み付けてて……お前達には何を言っても無駄だって、目で言ってるようなもんだった。それで、あいつらの父親がキレて、俺たちは“絶縁”されたんだ」
双子の父親は地元の名士であり、村の顔役でもあったと、月彦は付け加えた。
「…………父さまが姉さまを裏切ったから……だから、姉さま……父さまに優しくしてくれなくなったの?」
「………………まぁ、そう、だな」
どこか歯切れの悪い言い方だったが、月彦は頷いた。
「とにかく、そういう事なんだ。真央……俺はヘタレでビビリだった自分から決別する為にも、今度こそあいつから、あいつらから逃げるわけにはいかないんだ」
真央にも、その決意は伝わった。そして、自分が何をすべきなのかも。
(……大丈夫だよ、父さま。……姉さまは、きっと許してくれるよ)
この瞬間、真央は霧亜に手紙を書こうと、心に決めた。
確かに、霧亜にとって助けたはずの弟からの裏切りは辛かっただろう。しかしそれから十年以上も経っているのならば、そろそろ許してもらえてもいいのではないかと。否、きっと許してくれるはずだと、真央は確信していた。
放課後、月彦は学校からまっすぐ霧亜の病室へと向かった。受付で手続きを済ませ、途中の廊下で既に顔なじみとなりつつある看護士達と簡単な会話などをしながら――どうやら足繁く通う姉想いの弟ということで好感を持たれているらしい――月彦は霧亜の病室へとたどり着いた。
「姉ちゃん、俺だけど」
ノックをして、ドアを開ける。衝立の影からそっとベッドの方をのぞき込むと、昼寝でもしているのか霧亜はベッドに仰向けに寝たまま目を閉じていた。月彦は音を立てぬ様忍び足で来客用の椅子をベッドの傍らに置き、座った。
そのまましばし、月彦は霧亜の寝顔に見入った。寝顔とはいっても、実際には寝てはいないであろう事を月彦はなんとなく察していた。或いは、先ほどまでは本当に寝ていたのかもしれないが、狸寝入りかそうでないかを見分ける事くらいは出来るつもりだった。
いつもならば、このままそっと病室を去ろう――と思う所だった。が、しかし今日ばかりは勝手が違った。
月彦には、どうしても霧亜と話をする必要があった。
「…………。」
故に、辛抱強く待った。一種の根比べと言っていい。月彦はただひたすらに霧亜の覚醒を待った。
「…………………………眠いから帰れ、って言わないと解らないの」
病室に入って四十分近く経過しただろうか。先に“根比べ”に音を上げたのは霧亜の方だった。
「ごめん。今日はどうしても姉ちゃんに用があるんだ」
「帰れって言ってるのよ」
霧亜は鬱陶しそうに呟きながらも、むくりと上体を起こした。
「言われなくても、“用件”が済んだらすぐに帰る。………………まず、昨日の電話の件だけど」
ちっ、と。霧亜が小さく舌を鳴らした。
「ただのかけ間違いよ」
「……なるほど」
月彦は尤もらしく頷いた。
「ちなみに、優巳姉は今のところ大人しくしてる」
「どうでもいいわ、そんな事」
月彦が“てる”の部分を言い終わる前に霧亜はまるでかぶせるように強い口調で言った。そんな事には心底興味が無い――そう示すかのように。
「何も問題が無いなら結構な事じゃない。さっさと帰ってあの女の足の裏でも舐めて喜ばせてやったら?」
「問題が無いわけじゃない」
今度は月彦が“たら?”にかぶせるように言った。
「俺は、あの女が家の中に居る事自体が許せない。同じ空気を吸う事自体我慢できないんだ」
「今、全く同じ気分だわ」
さらりと言われて、月彦は思わず言葉を詰まらせた。
「…………一言、言ってくれればいいんだ」
月彦は霧亜の冷め切った視線から逃げるように顔を背けながら、呟いた。
「頼む、姉ちゃん。命令してくれ、“やれ”って、一言言ってくれるだけでいい。……多分、それで俺は動ける。“枷”が外れる」
「……枷?」
霧亜が怪訝そうな声と共に眉を寄せる。
「惚けるなよ。……あの時言ったのは“優巳と寝たら殺す”……か?。こっそりと人に暗示をかけるような真似したのは姉ちゃんだろ」
「知らないわ。……第一、仮に言ったとして、それが何?」
「…………姉ちゃんが言う事は、多分姉ちゃんが思ってる以上に、俺には“効く”んだよ! 何のつもりか知らないけど、そのせいで俺はっ……」
「…………………………………………あいつに何かされたの」
霧亜の言葉が、月彦には死角から投げつけられた石のように感じられた。
「別に、何もされてない」
「何をされたの」
月彦は、霧亜の方を見れない。見れば、“長年の躾”から自分は霧亜に全てを白状してしまうであろう事は容易に想像がついた。
(……っ……あんな事、姉ちゃんにだって……言えるか)
“あの夜”の屈辱を思い出して、月彦は無意識のうちに唇を噛みしめた。“それ”を見た霧亜が一瞬表情を曇らせた事には、月彦は気がつかなかった。
「…………。」
霧亜はベッドの側の棚の引き出しをあけると、そこから一枚のメモ用紙を取り出し、月彦の方へと差し出した。
「……姉ちゃん、これは……?」
「“知り合い”が経営してるホテルの住所よ。そこに行って私の名前を出せば、真央ちゃん一人くらいはしばらく面倒見てもらえる筈よ」
或いは、“もう一人”くらいは同じ部屋に泊めてもらえるかもしれないと、霧亜は月彦が聞き取れるかどうかという音量で呟いた。
「……あいつから逃げろっていうのか?」
「アンタはともかく、真央ちゃんまであの女の餌食になるのは可愛そうだわ」
「真央の事なら心配ない。“親戚”の家に待避させてある」
月彦は受け取ったメモ用紙をこんなもの不要だとばかりに二つに裂き、さらに四つに裂いてゴミ箱へと放った。
「さらに言うなら、今夜から日曜の夜まで母さんは“お泊まり”で帰らない。家には俺と、あの女しか居ない」
「………………。」
「姉ちゃん、俺はもう逃げたくないんだ! 頼む!」
「………………。」
「頼む! 姉ちゃん! もう俺は昔の俺じゃないって事を、優巳姉に思い知らせてやりたいんだ! “枷”を外してくれ!」
月彦は椅子から降り、病室の床に膝をつき手をつき頭を下げた。願いが聞き入れてもらえるまで、頭を上げない覚悟だった。
霧亜の沈黙は長かった。月彦の体感時間で五分以上も経ってから漸く。
「……………………好きになさい」
月彦は“許し”を得た。そう、霧亜の思惑がどうであれ、月彦はそれを“好きにやってみせろ”という自分への命令だと解釈した。
「……ありがとう、姉ちゃん!」
月彦は立ち上がり、もう一度頭を下げてからすぐさま病室を後にしようと駆け出しかけて――はたと。最後の用件がまだであった事を思いだした。
「そうだ、真央から手紙預かってたんだった」
「手紙……?」
月彦は鞄から封筒を取り出し、それを霧亜へと渡す。
「内容については、俺も知らない。……なんとなく想像はつくけど、一応返事書いてやったら、喜ぶと思う」
「……気が向いたら書くわ」
霧亜は封筒を受け取るなり、興味もなさげに棚の引き出しへとしまうと、再びベッドに横になり、瞼を閉じた。月彦は姉の昼寝の邪魔をせぬ様、別れの挨拶は言わずに病室を後にした。
……。
…………。
……………………。
弟の足音が十分に遠ざかってから、霧亜はそっと体を起こし、引き出しから先ほど受け取った封筒を取り出した。ペーパーナイフで封を切ると、中から出てきたのは一枚の便せんだった。
便せんにはたった一文“とうさまをゆるしてあげてください”とだけ書かれていた。お世辞にも上手とは言えない文体であったが、姪っ子の普段の字を知っている霧亜にはその一文にかけられた想いが見てとれるようだった。
そう、便せんに書かれていたのはたった一行の文字。その意味も極めて単純。悪意などカケラもあるはずがない。
なのに。
「…………っ……」
その一文を見た瞬間、霧亜は冷たい手で心臓を握られたような気分になった。
霧亜は考える。真央が何故今このような手紙をよこしたのかについて。あの可愛らしい姪がそれとなく自分と月彦の仲を修復しようとしているであろう事は、霧亜もうすうすは感じていた。
そう、だからこのような手紙を書いてよこすこと自体、さほどには不自然ではない。が、しかし何事にも“きっかけ”というものは存在するものだ。
(……あのバカ、まさか……)
“話した”のではあるまいかと、霧亜は危惧した。そしてすぐにバカなとその考えを打ち消した。
そんな筈はない。いくら“アレ”が始末に負えないほどのバカとはいえ、“あのこと”を口外するとは思えなかった。そう、相手が例え血を分けた娘であったとしても、それを口にしたが最後、一体どういう事になるか解らない筈がない。
愚弟の頭の血の巡りの悪さについては、霧亜は誰よりも知っているつもりだった。それほどに愚かな弟であっても、秘密を漏らす事などあり得ないと霧亜は信じたかった。何故ならばそれを第三者に知られたが最後、紺崎霧亜は最早命を絶つしかないという事を、他の誰よりもあの愚弟が身に染みている筈なのだから。
そういう霧亜からして見れば、微笑ましいまでに父親への想いが伝わってくる文面すらも、脅迫状にしか見えなかった。“おまえの秘密を知っている”――そう書かれているに等しかった。
「…………ッ……」
霧亜はすぐさま便せんの上部の中程に指をかけ、二つに裂こうとした。が、しかし一センチほど破いたところで不意に手が止まった。しばらくそのまま再び便せんの文字へと視線を落とし、今度は両手でくしゃくしゃに便せんを丸めた。それをゴミ箱へと放ろうとして、やはり手が止まる。
「…………。」
手を止めたまま、再度霧亜は考える。本当に月彦は話したのだろうかと。そしてやはり、喋る筈がないと思った。喋っていない確証など何もないのに、それでも霧亜は信じたかった。あのバカはバカには違いないが、そこまでバカではないと。
「…………。」
話していないのならば、これは脅迫文などではなく、純粋に姪からのお願いの文章に他ならない。
だがもし、真央が知ってしまっているのなら、その時は――。
霧亜の病室を後にした月彦は、真っ先に自宅へと向かった。最後の憂いも消え、心力気力共に充実しきっていた月彦は今度という今度こそ、必勝を確信していた。最早何が起きようとも動じないつもりだった。
自宅の、玄関のドアを開けるまでは。
「ヒーくん、おっかえりぃー!」
ドアを開けるなり、オタマ片手にどこかの魔法少女ばりにポーズをきめる従姉妹の裸エプロン姿に、月彦はいきなり出鼻を挫かれた。
「ご飯にする? お風呂が先? そ・れ・と・も…………アタシ?」
「…………服を着ろ」
月彦は唖然とした口を閉じるなり、冷徹に言い放った。
「ええぇー……ヒーくんノリ悪いよぉ。折角二人きりの夜なんだから、サービスしてあげたのにぃ」
「いいから服を着ろよ。その後で話がある」
「んもぅ……裸エプロンで喜ばないなんて、ヒーくんってやっぱり筋金入りのインポだね。それとももしかしてガチホモなの? やだ、愛奈になんて言おう」
「もう一度言う。話があるから、ちゃんと服を着ろ。その後で俺の部屋に来い」
「………………わかったわよ。あーあ、シラけちゃった」
優巳はぶつくさ呟きながら、とたとたと階段を上がっていく。月彦はその後ろ姿が見えなくなってから、自室に鞄を置き、優巳を待った。
(…………優巳姉に、最後のチャンスをやる)
最後に、月彦はもう一度だけ“説得”を試みるつもりだった。ありえないとは思うが、もしそれで優巳が大人しく去ってくれるのならばそれが一番良いからだ。
さもなければ、間違いなく自分はやりすぎてしまうであろう事を、月彦は薄々感じ取っていた。
「おっまたせー! どう、ヒーくん。似合う?」
「…………ッ!!」
ばむっ、と勢いよく部屋に飛び込んできた優巳の格好に、月彦は思わず腰を浮かせた。何故ならそれは間違いなく――。
「姉ちゃんの……制服?」
「そうだよ? ねえねえヒーくん、信じられる? キーちゃんってスカートこれしか持ってないんだよ? 他はぜーんぶジーンズとかそういうのばっかり」
わなわなと、体が震えた。同時に、月彦の中に残っていた最後の慈悲というものが音もなく霧散していくのを感じた。
「…………脱げ」
この女は。
「えぇー、着ろって言ったり、脱げって言ったり、ヒーくんちょっと我が儘すぎない?」
絶対にやってはいけないことをやった。
「いいから、脱げ!」
「くすくす、ヒーくんってば分かりやすすぎるくらいにシスコンだねえ。キーちゃんの制服がそんなに大事だなんて知らなかったよ。面白いから今日はずっとこの格好で居ようっと」
「…………。」
「あれぇ、ヒーくんどうしたの? 顔が怖いよ? ひょっとしてマジ切れってやつ?」
「…………。」
「ごめんねぇ、ヒーくん。実はキーちゃんの服着るのって今日が初めてじゃないの。昨日なんてキーちゃんの下着つけたままキーちゃんのベッドに潜っていっぱいオナニーしちゃった。キャハッ」
優巳はさらに挑発でもするかのようにスカートをひらめかせ、くるくると踊るように回る。――その時、月彦は頭の中で何かが切れる音を聞いた。
ゆらりと。幽鬼のような足取りで、月彦は優巳へと歩み寄った。右手を、優巳の方へと伸ばす――今までならばそれは、野生動物のように俊敏な動きであっけなくかわされる――筈だった。
「かはっ……!?」
それは恐らく、優巳にとっても意外すぎる結果だったのだろう。月彦はいとも容易く従姉妹の首を掴むと、そのまま片腕だけで体を持ち上げ、背負い投げのようにしてベッドへと叩きつけた。
優巳が、さらに掠れたような悲鳴を上げるが、月彦は止まらない。暴れる四肢を押さえつけながら無理矢理に――しかし決して制服は破かない様に――脱がした。
「ちょっ……苦しっ……やーだー! ヒーくん止めてよ!」
上着とリボン、ブラウス、そしてスカートを脱がすなり、月彦はさらに口元を怒りに歪めた。よりにもよって――またしてもと言うべきか――下着まで姉のものを着用していたからだ。
「脱げ」
月彦は冷たく言い放ち、しかし優巳が自発的に脱ぐのなどは待たずに強引に脱がせにかかる。優巳は何事かを叫び、叫びながら抵抗をしたが、月彦は全く頓着しなかった。
「ッ……ちょ、痛いってば! 乱暴は止めてよ!」
乱暴は止めろ?――どの口が言うんだと月彦は思った。かつて、体格にものを言わせて二人がかりで仕掛けてきたアレは乱暴ではないとでも言いたいのだろうか。
「ああもぅ、解ったわよ! 脱げばいいんでしょ! ほら、コレで満足?」
優巳は自ら下着を脱ぎ、足首まで丸められたソックスだけの姿になるや怒気を孕ませた声で言った。
「たかがキーちゃんの服着たくらいでマジギレとか、ヒーくん達相変わらずキモい関係してるよね。ひょっとして仲悪いフリしてるだけで、本当はとっくに“姉弟以上”なワケ?」
「黙れ」
もううんざりだとばかりに、月彦は再び優巳の首を掴み、ぎりっ、と力を込める。
「ちょっ……かはっ……」
優巳が目を見開き、月彦の腕を掴むなりツメを立ててくる。が、月彦は微塵も力を緩めない。それどころか――
「ツメを立てるな」
ぎり、とさらに力を込める。
「大人しくすれば、ゆるめてやる」
程なく、観念したように優巳が腕から手を離した。月彦は言葉通りに首を絞めていた手の力を緩め、優巳に呼吸を許してやった。
「かはっ……けほっ……けほっ……」
「足を開け」
それは囁きでも呟きでもなく、紛れもない“命令”だった。
「はぁ? 何エラソーに命令してんの?」
インポの癖に、と優巳が鼻で笑ったその時だった。バキン、と鈍い音を立ててズボンの金具がはじけ飛び、その一部が優巳の頬に当たったのは。
「えっ……ちょ……」
「もう一度言う、“足を開け”」
月彦の声は、あくまで冷徹だった。
「ちょ、ちょっと待って! 待って!」
しゅぱぱーんと一瞬にして脱衣を済ませ、さらに優巳の足を強引に開かせ、挿入しようとした矢先、半狂乱のように暴れられて月彦は仕方なく手を止めた。
「はぁはぁ……な、何よ、それ…………この前と、全然、違うじゃない」
「あのときは勃たなかったからな」
月彦はけろりと言った。
「やだ……ホントにスゴい……こんなの見たこと無い……こ、こんなの……入るの?」
「さぁ? 試してみれば解るだろ」
「ってっ、待って、待ってよ! ていうかなんで勝手にヤる流れにしてるのよ、言っとくけどね、私はヒーくんの事なんて――」
「勘違いするな」
がしっ、と月彦は再び優巳の喉を掴み、締める。
「これは“躾”だ」
そして、力を抜く。
「……っ……し、躾って……」
「俺にも、姉ちゃんにも、そして真央にも……二度と何かしようなんて気が起こらなくしてやる、っていう意味だ」
「……はぁ? 言ってることがまったく解らないんだけど。……てゆーか、ヒーくんこれってもう殆どレイプなんだけど。まさか、このまま私が洒落で済ますとか思ってる?」
「レイプじゃないだろ。……互いに合意の上での事なんだから」
「何処が合意なの? 私、無理矢理服脱がされたんだよ? このうえさらにヒーくんに何かされたら、私自分でも仕返しに何するか解らないよ?」
「自分でも何するか解らない、か。…………随分曖昧な言い方だな、具体的にはどうするつもりなんだ?」
「それは……勿論、警察に言ったりとか……」
「へぇ? 他には?」
「ほ、他には……って………………と、とにかく警察沙汰なんてヒーくんも困るでしょ? だから、早くそこを退きなさいよ!」
優巳は語気を荒げ、月彦を睨み付けるようにして見上げ、その体を押しのけようとしてくる。が、月彦はびくとも動かず、勿論体も引かず、ただただニッコリと微笑みを浮かべた。
「どうした、優巳姉。珍しく焦ってるみたいじゃないか。………………ひょっとして、ビビってるのか?」
「誰がよ! いーい、言っとくけど、私の彼氏ってもーすんごいマッチョなんだからね? 身長はヒーくんより20センチ以上高くて、しかも格闘技マニアでこの前なんてコンクリートの壁に素手で――」
「あー、はいはい。解った解った。…………じゃあ、そういう事でもう始めていいか?」
「なっ……ま、待って、……待ってって言ってるでしょ!」
ぐいと、足の間に強引に体を入れるやいなや、またしても優巳が暴れ、月彦は再度手を止めざるを得なかった。
「はぁはぁ……もぅ……どんだけヤりたがってるのよ…………わかったらかもぅとにかく避妊だけはしてよね。ゴム無しじゃ絶対に嫌よ」
「…………?」
優巳の言葉が理解できない、とばかりに月彦は大きく首を傾げてみせた。
「何惚けてるのよ! 避妊はちゃんとしろって言ってるの! 私は愛奈じゃないんだから、ヒーくんの子供なんて絶対に――……ちょ、止めてよ! 止めてって言ってるでしょ!?」
月彦は優巳の言葉などまるきり無視して、ヘソまで反り返った剛直をまださほどには濡れても居ない場所へと宛った。
「何で俺が優巳姉の言うことを聞かなきゃいけないんだ? 元はといえば“一番最初”に誘ってきたのは優巳姉の方だろ。当然、妊娠くらい覚悟の上じゃないのか?」
「なっ……何言ってるのよ! 頭おかしいんじゃないの!? だいたいアレはキーちゃんへの嫌がらせと……愛奈との取引の為だけに……そ、それに万が一妊娠したら洒落じゃ済まされないのよ!? ちょっ……止めて、ホントに止めてってば!」
「暴れるな。…………肩、外すぞ」
月彦は冷徹に言い放ち、己の左手を優巳の右手の付け根へと宛い、さらに右手でその手首を掴み、ぐいと引くそぶりをした。
「ちょっ……ヒーくん……冗談でしょ?」
「…………。」
月彦は無言で右手に力を込め、引く。右肩の辺りがぎりぎりと軋み、優巳が堪らず悲鳴を上げた。
「い、痛いッ……止めて、ヒーくん、お願い……止めてぇ!」
優巳はたちまち大粒の涙をこぼし、そのまま泣き始めてしまう。
「うぅ、ぅ……お願い、止めて……ヒーくん………」
月彦はふっと両腕から力を抜き、優巳の右手を解放した。
「……解った、止める」
しゃくり上げるようにして泣き続ける優巳を見下ろしながら月彦は言い、そして続けた。
「…………って言うとでも思ったのか?」
えっ、と。優巳が“泣き真似”を止めた時にはもう、月彦はその腰を掴み、自らの腰を突き出していた。
「ちょっ、や、やだっ……あぎっぃぃぃぃいいいッ!!!」
「ん……キツいな…………まあでもそれはそれで」
ぎち、ぎちと軋むように悲鳴を上げる優巳の中を強引にこじ開けるようにして、月彦は無理矢理に剛直をねじ込んでいく。
「だ、めっ……やっ……生で、なんて……彼氏、にもっ……させたこと、ない、のにぃ……だめっ、だめっ……やっ……裂け、るぅっ……」
「大丈夫だろ。…………“丸飲み”はヘビの十八番だろ?」
「っっっ……へ、ヘビって言うなぁ!」
突然、優巳がムキになって声を荒げ、月彦は思わず苦笑を漏らした。
「胸も尻も無い、性格は狡猾、ヘビそのものじゃないか」
「う、うるさい! …………ぁくっっ………………」
暴れる優巳の両手首をベッドに押さえつけながら、月彦はぐいぐいと腰を進めていく。
「は、早く、抜っっ……くぅぅ……」
優巳が、ベッドシーツにツメを立て、苦痛に顔を歪ませる。確かに、“手応え”からして、かなりの無理を優巳に強いている事は月彦にも解った。
しかし、抽送の手は些かもゆるめない。
何故なら。
(……それでこそ、“仕置き”になる)
“多少”は痛い目を見てもらうくらいのほうがいいとすら、月彦は思っていた。
(この女は、矢紗美さんとは違う)
矢紗美の場合はまだやり口に可愛げというものがあった。菖蒲の場合も、厄介な相手ではあったがどちらも“根”は悪ではないと思った。
しかしこの女は違う。放置すれば、自分は愚か周りにまで被害が広がるだろう。容赦など一切してやるかとばかりに、月彦は“躾”を続ける。
「む、無視っ……するんじゃないわよっ……抜いて、……抜いて、よぉ!」
「“抜いて下さいお願いします”って言えたら、抜いてやる」
「っっっ……っ……ンッ……こ、殺す……絶対、殺してやる……!」
「面白い、是非やってみせてくれ。今まで何度か同じ事を言われたけど、一度も実行されたことがないんだ。…………頼むから、途中で決心を萎えさせたりなんかするなよ?」
ごく最近、同じような言葉を言われた時の事を思い出して――月彦はつい笑みを浮かべてしまう。……それが、優巳には馬鹿にされたととられたらしかった。
「っっっ……私に出来ないとでも思ってるの? ヒーくん1人くらっ、い……しゃ、社会、的に……殺す、の……ンッ……なんて……こっちには、この前撮った……ヒーくんの恥ずかしい写真もあるんだからっ……っ……アレを、沢山っ……コピー……くっ…………して……そこら中に、バラ蒔っ……ね、ネットにも……」
優巳の言葉など右から左に聞き流しながら、月彦は好き勝手に腰を振るう。優巳の反応を観察しながら、弱い場所を探っていく。
「ちょ、ちょっと……聞いて、るの? 写真、バラ蒔かれたく、なかったらっ……さっさとっ……抜っ――……くっ、やぁぁっ……か、カウパーでも……妊娠すること、あるんだよ? それくらい、知ってるでしょ?」
「随分妊娠を怖がるんだな。…………ひょっとして、危険日か?」
「怖いんじゃない、嫌なのよ!……っ……ビビリでヘタレの、精子、なんか……間違ってもっ……」
「へぇ?」
鼻で笑い飛ばしながら、頭の悪い女だと月彦は思った。そういう口を利けば利く程に、“ビビリでヘタレの精子”を注入される回数が増えるという事にまだ気がついていないのだから。
(……でも、それは後回しだ)
まずは、この女にたっぷりと己の罪を思い知らせてやらねばならない。月彦は優巳の言葉を全て無視しながら、ひたすら機械的に腰を振り続けた。最初こそ優巳は抜け、抜けと口やかましく罵り続けていたが、やがてその声が途切れ、息づかいのみに変わった。
「はぁっ……はぁっ…………はぁっ…………」
どこか熱に浮かされたような、焦点の定まらない目をして、優巳は肩で息をする。最初は潤いが足りず、ぎちぎちと軋むようだった膣肉も、今やたっぷりの潤滑油が滴らんばかりに溢れていた。
「優巳姉、一つ質問がある」
腰の動きを一端止め、不意に月彦は話しかけた。
「“彼氏”とのセックスで、いつも何回くらいイくんだ?」
それは、一つの疑問から出た質問だった。優巳はおぼろげだった焦点を再び月彦で結ぶなり、ハハンと鼻で笑った。
「……男とのセックスなんかで私がイくわけないでしょ、バーカ」
そして、優巳の答えは月彦の疑問――そしてそれに対する自分なりの答え――を裏付けるものだった。
「私をイかせられるのは愛奈だけ。…………あとは、キーちゃんの事考えながらオナニーした時しか、イッたことなんてないわ」
「……道理で。…………随分感度が悪いと思った」
自分が本気ではないという部分を差し引いても、優巳の感度の悪さは異常だと、月彦は感じた。――或いは、今まで相手をしてきた女性達が須く常識はずれの感度の良さであったという可能性もゼロではないため、一応の確認をしたわけだったのだが。
「生憎ね。ヒーくんの予定じゃあ、私をイかせまくってアヘアヘにして、虜にしちゃう筈だったのかな? 残念だったわね、私、ヒーくんの粗チンなんかじゃ全然感じないの。キャハッ」
息を弾ませながら、優巳はさも憎たらしげに笑う。
「愛奈ってばほんっとスゴいんだよ? 一度抱かれたら男相手のセックスなんかじゃ満足できなくされちゃうんだから。キーちゃんもレズテク凄いらしいけど、絶対愛奈の方が上だよ?」
「……姉ちゃんの方が凄いに決まってるだろ」
かちんと来る優巳の言いぐさに、月彦はすかさず反論した。
「ううん、絶対に愛奈の勝ちだよ。キーちゃんが凄いのはあくまで庶民レベルの話だって」
「いいや、姉ちゃんの方が上だ」
「愛奈の方が上だって」
「姉ちゃんが負けるわけ無いだろ!」
叫ぶように声を荒げた後で、月彦ははたと、優巳の冷めた目に晒されている自分に気がついた。
「うっわー……キモッ。……ヒーくん、キモすぎ。シスコンすぎてキモい。鳥肌たってきちゃった」
「う、うるさいっ……とにかく、だ!」
肩を抱くようにしてぶるりと体を震わせる優巳の両手首を掴み、再びベッドへと押しつけながら、月彦は続けた。
「俺が優巳姉をイかせられたら、姉ちゃんの方が凄いってことだよな!」
「……何で?」
「決まってるだろ。…………姉ちゃんは俺なんかとは比べものにならないくらい凄いんだから」
「意味わかんないんだけど。……まあ好きにすれば? どうせヒーくん相手じゃ……っ……」
言われるまでもなく、月彦は抽送を再開させる。
「……くっ……」
優巳が、僅かに唇を噛むような仕草をする。月彦は構わず腰を振るい、じわじわと優巳の弱い部分を攻めていく。
「ふんっ……なにサルみたいに腰振ってるのよ……バッカじゃないの? ……っ……ほらっ、いい加減諦めて……さっさと抜きなさいよ………………ぅん………………ふぅ……ふぅ……」
いきなり“全力”では攻めない。穴蔵に逃げ込んだ野ウサギを煙で燻り出すが如く、じわりじわりとまずは外堀から埋めていく。
「はぁっ…………はぁっ……はぁっ……っ……くっ…………」
一時間ほどそうしてじわじわと攻め続けた結果、優巳の肌が徐々に赤みを帯び、ほんのりピンク色に染まり始めた。次第に呼吸も荒く、薄い胸元の上下も大きくなる。
そんな“獲物”の変化を具に観察しながら、月彦は尚も腰を振るう。
「ちょ、ちょっと……いい加減、諦めっ……ンッ…………はぁ、はぁっ……くっ……ぅぅ…………」
「ん? 少し体位を変えるか」
ずっと正常位のままというのも芸がない。月彦はくるりと優巳の足をくぐるようにして抽送を行いながら優巳を四つんばいにさせ、腰をしっかりと掴み逃げられぬようにした上で背後から突き上げる。
「や、やだっ……バック、なんて…………ぁぁっ……!」
「気持ちよくなってきたのか? 優巳姉」
「全ッ然。……愛奈相手だったら、もう3,4回はイかされてるだろうけど……っ……生憎、ヒーくんの粗チンなんっ……か……くっ…………」
「確かに。随分とスロースターターみたいだな。………………彼氏が可愛そうだ」
顔も見たことのない相手に同情しながらも、月彦は腰を振るう。本来ならば“それ以外”も使って快感を増幅させてやるのがいつものやり方ではあるのだが、月彦はあえて己の分身一つのみで優巳を屈服させてやろうと思っていた。
何よりも、この女相手に愛撫はともかくキスなどは絶対にしたくないと思った。
「っくっ…………ぁっ、ぁっ……ぁぁッ……ぁっ……!」
結合部から溢れてくる恥蜜の量がさらに増し、びくびくと痙攣するように太股が震える。剛直に絡みついてくる肉襞の感触から、月彦は優巳の絶頂がそう遠くない事を察した。
「……そろそろか? 優巳姉」
「っ……なに、がっ……くっぅ………………ちょっ……もぉ……何よ、これぇ……んっ……ぁあっ……ふと、くてぇ……カリが、引っかかって……〜〜〜〜っっっ…………」
優巳の文句など無視して、月彦は機械的に腰を振るい続ける。
「ぁっぁっ……ダメッ……ぅっ……ンッっ……ッ!……〜〜〜〜〜っっっッ!」
優巳は何かを堪えるようにベッドシーツを握りしめ、びくん、びくんと腰を跳ねさせる。その都度、肉襞が生き物のように剛直に吸い付き、締め上げてくる。
「……イッたな、優巳姉」
月彦は優巳に被さり、ぽつりと耳元に囁いた。勝ち誇るでもなく、ただ淡々と事実のみを語るニュースキャスターのような機械的な声で。
「はぁ……はぁっ………………っ…………そーね、イかされちゃったわ」
優巳は体をベッドに伏せたまま、さも余裕たっぷりとでも言いたげな声で言った。
「ヒーくんの勝ちだよ。嬉しい?」
“年上の余裕”――を見せたつもりなのだろう。ご苦労様とでも言いたげな、人を小馬鹿にした声の調子に、月彦は怒るでも悔しがるでもなく、ただくすりと笑みを漏らした。
(甘い)
とだけ思った。
「えっ、やだっ……ちょっ……ンンッ……!」
イッたばかりで敏感な膣内を抉るように、月彦は再び抽送を再開する。
「何勝手に“勝負は終わり”みたいな空気出してるんだよ。自分が一体誰を相手にしてるのか解ってるのか?」
「何……言って……」
困惑したように呟く優巳の後ろ髪を掴み、マクラへと押さえつけるようにしながら、月彦はその耳元に囁いた。
「紺崎家の姉弟をナメた報い、その身で思い知れ」
六時間が経過した。
「ぁっ、ぁっ、ぁっ……ぁっ、ぁっぁっ!」
優巳の腰を掴み、背中を見下ろしながら月彦は突き上げる。途中、幾度となく体位を変えたが、やはり優巳のような女には後背位こそ相応しいと感じた。
「ああぁっ、あぁッ! ぁっ、ぁううっ、んぅっ! んんぅっ!」
激しく突き上げる度に、優巳は舌に涎が絡んだような喘ぎ声を上げる。不感気味などとんでもない。“お膳立て”さえしてやれば、優巳の感度は十分に並以上と言えた。
(ただ、“そうなる”までにかなり時間がかかるみたいだな)
月彦はそう判断した。それが元々の体質なのか、“テクニシャンな相方”に体を開発された結果なのかは解らないし、興味も無かった。
「ほら、そろそろだろ。イけよ」
「んぁっ! ……やっ、ちょっ……止めっっ…………〜〜〜っっっっ!!!!」
たっぷり弱い場所を擦り上げてやった後、トドメとばかりに淫核を弄ってやると、優巳はあっさりと達し、体を跳ねさせた。背中に汗を浮かせながらビクビクと痙攣する“天敵”の姿を見下ろしながら、月彦はなんとも言えない愉悦を感じていた。
「はーっ……はーっ……はーっ………………」
「こら、誰が休んでいいって言った?」
ぐたぁ、とベッドに伏せたまま呼吸を整える優巳の後ろ髪を掴み、強引に体を起こさせる。
「やっ……い、痛いっ……髪、掴まないでっ……」
「だったらサボるな。……次はそっちが動け」
月彦は優巳の腰を掴んだまま、背後にごろりと寝転がり仰向けになる。自然、背面騎乗位の形になる――が、優巳は動かない。
「ね、ねぇ……いい加減……休もうよ……もう、夜の一時、回ってるんだよ?」
ぜえ、はあ。
ぜえ、はあ。
肩で息をしながら、優巳がそんな泣き言を言う――が。
「却下だ」
月彦はにべもなく首を振った。
「第一、俺はまだ一度もイッてない」
「っっ……それよっ……それがっ……不思議で堪らないの、よ……あれだけ、シて……どうして……」
「さぁ? それは俺じゃなくてそっちの問題じゃないのか?」
月彦の言葉に、優巳は露骨に顔を引きつらせた。
“通常”であれば、とても六時間などもたせられる筈がない。――が、交接によって得られる快感を遙かに凌駕する怒りを抱いている今は別だった。
「ほら、早く腰を動かせよ。…………俺をイかせられたら休憩にしてやる」
「…………っっ…………ま、待って……ヒーくん……私ね、もう本当にくたくたなの……だから、今日はもうコレで終わりにしよ?」
「却下だ。早く腰を振れよ」
「くっ…………わかった、わよ……」
さも言外に“後で覚えてなさいよ”と含めるように優巳は呟き、月彦に背を向けたままゆっくりと腰を使い始める。が、その動きは辿々しく、とても満足できるレベルではなかった。
「優巳姉、それじゃあイけない」
「うる、さっ……だまっ、て……ンッ……疲れて、るし……くっ……こ、れ……堅、くて……あんまり、動け、なっ……ンッ……」
「泣き言言わずに動けよ、ほら」
月彦は優巳の尻を肉が震えるほど強く打ち、催促をする。くっ、と優巳が唇を噛み、動きをやや激しくするが、やはり満足できるレベルではない。
「……ダメだな。ヘタクソが。……この程度の事も出来ないのか」
「ちょっと……さっきから黙って聞いてれば……私にそんな口聞いて――」
「黙れ。やっぱり俺が動く」
月彦は強引に体を起こし、優巳の後ろ髪を掴むや再びマクラに押さえつけるようにして押し倒し、背後から好き勝手に突き始める。
「んんっ、ぁっ、んんっ……! ぁっ、ぁっ、ぁっ……ぁうっ!」
「締まりが悪いな。もっとちゃんと締めろよ。ほらっ」
ばしぃん!
月彦は再度優巳の尻を叩き、さらに突く。勿論方便であり、優巳が意識的にきゅうっ、と締め上げたせいで月彦は唇を噛む羽目になった。
「っっ……覚えて、なさい、よ…………絶対に、仕返し、して、やるっ……」
地獄の底から呪うような声で、優巳は続ける。
「あの警棒で、キーちゃんの顔っ……二目とみられなくなるくらい、殴りつけて、やるっ……まーちゃんもっ……」
「好きにしろ」
月彦は優巳の耳元でキッパリと言い放った。
「その代わり、俺も好きにさせてもらう」
ぐぐっ、と。月彦は優巳がそこに意識が行くように、剛直の先端を子宮口へと押しつける。
「……優巳姉、確か……危険日だったよな?」
「っっ……!?……ちょっと……まさか――」
背後から組み伏せている月彦には、優巳が“まさか”と呟いた瞬間どれほど体を強ばらせたかが直に伝わった。
「いいだろ、別に。中出しくらい」
「ふっ、ふざけないでよ! 冗談じゃないわ! 絶対に駄目っ、誰が、ヒーくんの精子なんかっ……」
「まぁ、優巳姉がどんだけ嫌がっても、俺の気は変わらないわけだが」
月彦はさも楽しげに言い放ち、まるでスパートでもかけるように腰の動きを早めていく。
「ちょっ……う、嘘、でしょ? っ……やだっ、止めてよっ……ンッ……ちょっ、やだっ……本当にやだってばぁ!」
「……優巳姉。俺だけ優巳姉の言う事を聞かなきゃいけないのって変じゃないか?」
月彦は腰の動きを一度止め、ぽつりと囁いた。
「っっ…………わ、解ったわよ……キーちゃんにも、まーちゃんにも何もしないわ……それでいいでしょ?」
「“いいでしょ?”」
月彦はオウム返しに言った。――そう、かつて、これ以上ないほどの屈辱を味わわされたあの夜、優巳がそうしたように。
くっ、と。優巳が唇を噛んだ。
「お、お願い……ヒーくん……キーちゃんにもまーちゃんにも何もしないから、中出しするのだけは……止めて…………下さい」
「良く聞こえない」
ぱぁん!――尻が鳴るほどに強く、月彦は一度だけ突き上げた。
「っ…………キーちゃんとまーちゃんには何もしないから、中出しするのだけは止めて下さい!」
「もう一度だ」
「キーちゃんとマーちゃんには何もしないから、中出しするのだけは止めて下さい!」
殆どヤケになったような声で、優巳は叫んだ。くつくつと、月彦はまるでどこかの悪いキツネのように笑みを漏らす。
「駄目だな。心が籠もってない。嘘だ」
「っっ……ふざけっ――」
がっ、と優巳が大口を開けて声を荒げようとした瞬間、月彦は一足先にその後頭部を掴み、マクラへと押しつけた。
「…………俺がそう簡単にお前の言葉を信じるわけがないだろ。信じて欲しいなら、まず心の底から謝罪しろ」
「っ……しゃ、謝罪って……何を……」
「“何を?”」
びきびきと、月彦は己のこめかみに青筋が浮かぶのを感じた。この女は、この期に及んで己の罪すらも理解していないのだ。
「……救いようがないな」
月彦は呟き、再度抽送を始めた。先ほどまでのような“演技”ではない。本気でイくための動きだ。
「ひぁっ!? やっ、ちょっ……ひ、ヒーくん!? やっ、やめっやぁっ……ごめん、ごめんなさい! い、いっぱい苛めて……ごめんなさい!!」
月彦の動きに危機感を覚えたのか、慌てたように優巳が謝罪の言葉を口にする。
「……黙れ。上辺だけの謝罪の言葉なんか聞きたくもない。……お前にも“本当に大事なモノ”を汚されるつらさを味わわせてやる」
そう、本当にこの女は何も解っていないと思った。過去の恨みなどでここまで怒っているわけではないと。
(お前は、真央を泣かせた。……そしてッ――!)
病室のベッドの上で――髪を濡らした姉の姿を思い出した瞬間、月彦の怒りは頂点に達した。
「やっ、っっ……っ……やっ、やぁっ……ダメッ……ナカっはぁっ……ダメッ……ホントに駄目なのっ、ヒーくんお願いっ、止めてっ……ダメッ、ナカはダメッ……ダメぇッ!!!」
突然狂ったように暴れ出す優巳を押さえつけ――知らず知らずのうちに舌なめずりすらしながら――月彦は徐々に高みへと登っていく。
「……ダメだ。お前みたいな女には口でいくら言っても無駄だ。子宮で反省しろ」
ぐりっ、と堅くそそり立った剛直の先端を子宮口へと押しつけた。
「いやっ、イヤッダメッ……止めてっ……やっ、イヤッ嫌ァァァああああああああああああああああああッ!!!!」
どくんっ……!
どぷっ、どぷっ……どびゅっ……!
どびゅるっ、どぷっ、どぷっ……!
暴れる優巳を押さえつけながら、月彦は溜まりに溜まった怒りごと特濃の白濁汁をその体内へと注ぎ込んでいく。
「くはっ、ぁ……」
ぶるりと、体が震えた。かつて無いほどの快感に一瞬目眩すらも覚えた。
「やっ、イヤッ……う、そ……ホントに入って…………やぁっ、イヤッ、イヤッ、嫌ッ! 止めてっ、ヒーくん止めて! 妊娠しちゃう!」
優巳は全身に鳥肌を立たせ、暴れながら声を荒げる――が、月彦はそんな優巳を押さえつけながら、最後の一滴までその体へと注入する。
(散々ビビリだのヘタレだの罵り続けた男の精液を入れられる気分はどうだ? 優巳姉)
相手が優巳でさえなければ、本気で嫌がる女性相手に中出しなど到底出来るわけがない。仮にやってしまった所で、良心の呵責に耐えられなかっただろう。
だが、相手は外道、悪魔だ。人間ではない。むしろこういう扱いこそが相応しいのだと、月彦は達成感すら覚えた。
だから。
「ぅっ……ぅぅ……ぅ……ヤダ、ぁ…………ホント、に……中に……ぅぅ…………」
コレまで散々に見せられた演技ではなく、どうやらマジ泣きしているらしい優巳を見て尚、心が痛むどころか苛立ちすら沸いた。
「……何泣いてんだよ。泣けば俺が手をゆるめるとでも思ってるのか?」
月彦は構わず、ぐりんっ、と剛直で優巳のナカを抉る。
「あうっ! ぅぅ……」
「安心しろよ、優巳姉。夜はまだ長い……それに明日は――もう今日か。土曜日だし、日曜日もある。……こんなのすぐに慣れるさ。…………いや、慣れるだけじゃない、むしろ癖になって止められないようになるさ」
月彦は被さるようにして囁き、さらに言葉を続けた。
「二度と、俺に逆らえない体にしてやる」
さらに、12時間後。
「はぁっ……はぁっ……はぁっ…………」
人形の様にぐったりと力無く、数時間前から一切の抵抗すらしなくなった優巳の体を、月彦は執拗に犯し続けていた。
「どうした、優巳姉。もう“中出しはイヤ”って言わないのか?」
「ぁっ、ぁっ……い、や、ぁ……止め――」
譫言のように拒絶の言葉を吐く優巳をあざ笑い、見下ろしながら、月彦は最早幾度目か解らない射精を行う。
「ぁっ、ぁぁ……やぁぁ……また、ナカ、でぇ……」
ごぽりと、汚らしい音を立てて結合部から白い泡のようなものが漏れる。一度たりとも抜かないまま、何度も何度も注入しつづけた白濁液が、既に“内容量”を越えているのだった。
「はーっ……はーっ……はーっ…………も……やめ、てぇ……限界…………おかしく、なっちゃう……」
「なんだ、もう少しで“おかしくなる”のか? …………じゃあ、尚更止めるわけにはいかないな」
ひっ、と優巳が本気で怯えるような顔をする。“天敵”の、そういう顔がたまらなく心地よくて、月彦はつい笑みを漏らしてしまう。
「言っとくが、姉ちゃんは俺とは比べものにならないくらいスゴいぞ?」
ずんっ、と月彦は一際強く突き上げる。たまらず、優巳は悲鳴を漏らした。
「や、止めて! もう……動かさないで!」
勿論、優巳の言葉など月彦が聞き入れるはずもない。遠慮など一切なしに、ずん、ずんと断続的に突き上げる。
「やっ、ぁっ、い、嫌ッ……止め、て……やぁっ……おかしく、なる……おかしくなるっぅ……!」
「当たり前だ、そうなるようにしてるんだからな。…………優巳姉を一度ぶっ壊して、“素直な良い子”に躾直してやるよ」
「っっ……やっ……ほ、ホントに、これ……ヤバ……ぁんっ! はぁはぁっ……だめっ、イくっ……イくぅっ……〜〜〜〜〜っっっっ!」
体を不自然に痙攣させながら、優巳がイく。その様を、まるで残飯に群がる乞食を見つめる貴族のような目で月彦は見下ろし、ぬぷりと剛直を引き抜いた。
「んぁっ…………はーっ…………はーっ…………はーっ………………」
「取り込み中の所悪いが、優巳姉。口でしてくれよ」
どんよりと、濁った目で虚空を見つめる優巳に息を整える間も与えずに、月彦は剛直の先端をその頬へと押しつけ、催促をする。
「ど、どうして……私が……」
「“どうして”じゃない。しゃぶれって言ってるんだ。……やらないならまたナカに出すぞ」
月彦は優巳の髪を掴み、その唇へと先端をこすりつける。渋々、といった具合に優巳が唇を開き、剛直を口内へと受け入れていく。
「んんっ……ンッ……」
「そうだ。なかなか巧いじゃないか」
てちてちと這う優巳の舌と唇の感触に、月彦は満足げに息を吐いた。同時に、優巳がしきりに焦れったげに太股を摺り合わせているのも確認した。
「もっと奥まで咥えろ」
言いながら、月彦は強引に喉奥まで剛直をねじ込んだ。優巳が噎び、痙攣するように体を震わせたが一切手はゆるめない。噛まれるかもしれないという事は、全く恐れなかった。己の極限の怒りを具現化している分身の硬度を月彦は完璧に信頼していた。
「ンッ……ごぉぉ……んっ……けほっ、けほっ……はぁはぁっ……やっ、ヒーくん……ちょっ……乱暴、過ぎ……」
「勝手に喋るな。……黙って続けろ」
月彦は再度“命令”した。優巳は不満げに一度月彦を見上げた後、言われるままに口戯を再開し始めた。
「………………しゃぶりながら、“ごめんなさい”って言え」
それは考えての事ではなく、剛直を舐める優巳を見下ろしながらふと頭に沸いた考えを口にしたものだった。
「何よ……黙れって言ったり……言えって言ったり……」
「いいから、言うとおりにしろ」
また喉奥につっこむぞ、と月彦がそぶりだけで脅すと、優巳は忽ち口戯を再開し、呟いた。
「…………ごめん、なさい」
ゾクリと、背筋が震えるのを、月彦は感じた。
「もっとだ、もっと言え」
「んぁっ、はぷっ、んっ…………ごめんなさい……んぷっ、んっ」
「もっとだ」
はぁはぁと息を荒げながら、月彦はさらに催促した。謝罪をしながら剛直をしゃぶる優巳の姿を見ているだけで、ゾクゾクと背筋が震えるほどの快感が襲ってくるのだった。
「んくっ、んんっ……はぁはぁ……ごめんなさい、あむっ、、んっ……んぐっ、んんっ……ごめんなさい……」
「っ……!」
急激な興奮の高まりから、月彦は不意打ちのように絶頂へと達した。
「きゃんっ!」
ぶるりと剛直が震え、溢れた白濁が優巳の顔を白く汚した。はぁはぁと息を乱し、さすがに気怠さを感じたが、月彦は優巳の髪を掴み、再度命じた。
「もう一度だ、もう一度同じようにしろ」
二度目は、口の中に出し、飲み干させた。
「やっ……ぁあっ、あーーーーーッ!!!」
上体をベッドに伏せ、尻だけを高く持ち上げたまま、優巳が声を荒げ、イく。
「……勝手にイくな」
震える尻をぺしんと叩き、月彦は構わず抽送を続ける。
「あひぃっ……! あぁっ……ぁああっ、ぁっ……あはぁぁぁっ…………」
最初の頃のような抵抗など微塵もない。完全に快感に溶けきったような声で、優巳は喘ぐ。
月彦は不意に抽送を止め、被さるようにしてそっとその耳元に囁いた。
「優巳姉。……もう一度聞く。…………愛姉とどっちが良い?」
囁きながらその体を抱きしめ、ぐりん、ぐりんと膣内を抉るように動かすと、忽ち優巳は弾かれたように声を上げた。
「あぁぁァッ! ァァッ! ……ぁぁっ……んんぅんっ!……おな、じ……同じ、くらい……イイッ……ヒーくんのも、良いぃ……」
「……“同じくらい”?」
月彦はムッとしたような声を出し、さらに激しく優巳の中を抉った。
「アッッ……あァァァッ……あーーーーーーーーーーーーーッ!!!! う、嘘っ…………ヒーくんの方が、良いっ……ヒーくんのがイイぃ!」
「……勝手にイくなと言っている」
意図も容易く体を痙攣させ、イく優巳の尻をぺしんと、月彦は再び叩く。その痛みすら快感なのか、優巳は甘い声を上げた。
「あぁぁんっ……ねぇっ、ヒーくん……乳首っ……乳首もっと責めてぇっ……おねがい、ねぇっ!」
「イヤだ」
「やぁっ……お願いっ……ナカだけじゃイヤっ……乳首……凄く感じるのォ……弄ってぇ!」
「“弄って下さい”だろ?」
「あぁんっ……弄って……下さい……ゆみの……乳首、もっと……もっと……」
はぁはぁと、優巳はもう快感を追い求める以外なにも考えられないといった口調で呟き、催促してくる。月彦はくすりと笑みを漏らし、言われるままに優巳の薄い胸元へと手を伸ばした。
「あぁっぁぁぁっ……やっ……ぁあっイイッ……あんっ、いいっ……あぁっ……イくっ……イクッ……!」
「勝手にイくな。……抜くぞ」
脅すような口調で言うと、途端にひいと優巳は怯え声を出した。
「やっ……イヤ、イヤァっ……駄目、抜かないでぇ……」
「“抜かないで下さい”だ」
「ぬ……抜かないで、下さい……お願い、します」
「そうだ。……いい加減自分の立場を覚えろ」
月彦は囁きながら、言葉を刷り込むように優巳の胸元を刺激し、同時にぐりぐりと剛直を肉襞に擦りつける。俺に逆らえば、もう二度と“コレ”は味わわせてやらない――そう言外に言い含めるかのように。
「あぁぁっ、ぁっ……あぁぁあッ!! あぁぁぁぁッ!!!!」
「……また勝手にイッたな。……お仕置きだ」
月彦は優巳の乳首を摘み、ぎゅううっ、と痛い程に抓りあげる。
「あぁぁあっ、ぁっ、あァァーーーーーーーーーーーーーーーーーーッ!!!!! ………………はぁはぁ…………ご、ごめん、なさい……だって……こんなの、我慢なんて、出来なッ……」
「お前の意見なんか聞いてない」
月彦は冷徹に言い、さらに“体で”優巳に言い聞かせる。
「あっ、あっ、あっ!」
「口で言って解らないなら、子宮で覚えろ。俺には逆らうな。俺の命令には絶対服従しろ。いいな?」
乳首を弄り、さらに子宮口をノックでもするように小突きながら、月彦は囁く。
「あぁぁッぁあっ、ァアッ……ひーくんっ……あぁあんっ! あぁあっ……おくっ……奥にっ……来るっ……来るッ……あぁッ、ぁっあぁッ……ひぁっ……あっ、あァァーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーッ!!!!!」
ぎゅぬぬっ!――雑巾でも絞るように肉襞が収縮し、絡みついてきた瞬間、月彦もまた子種を放った。ぎゅぬ、ぎゅぬと何度も痙攣するように下半身を震わせながら、優巳は事切れたようにぐたぁ、と脱力した。
「……勝手に失神するな」
月彦は冷たい呟きと共に、ずんと一際強く突き上げる。
「あぁっっ!?……あぁっっ……んぁっ、ぁあっ……あぁっ……」
外部刺激による強制的な覚醒に、優巳は寝ぼけたような声を上げる。そのままどんよりと濁った目を月彦へと向けてくるが、その光には多分に怯えの色が混じっていた。
その後も二度、三度と立て続けに失神と覚醒を繰り返し、その度に優巳の精神状態は確実に摩耗していった。
「はぁっ……はぁっ……はぁっ…………も……ゆる、ひてぇ…………ゆるひて……っ……あはァァッ!」
優巳の言い分など聞かず、月彦はさらにイかせる。ビクビクビクゥッ――腹部を持ち上げるようにしながら優巳が体を痙攣させる。食いしばった歯の間からは泡のような涎が漏れていた。
「ひグぅぅッ!…………はぁ……はぁ……も……ひぬぅ……ひんらうぅ……」
舌足らずな悲鳴に月彦はくすりと、愉悦の笑みを浮かべた。
「……止めていいのか?」
ぴたりと腰の動きを止めると、忽ち優巳はイヤイヤをするように首を横に振った。
「やっ……やぁっ……止め、ないれぇ……」
「続けて欲しいのか、止めて欲しいのか、どっちだ」
「あぁっぁ……ぁぁ……ぁぁぁっ……」
自分自身、己の真の欲求が解らないのか、優巳はイヤイヤをしながらも、力無い指を月彦の首へと絡めてくる。
くすりと、さらに笑みを一つ残して、月彦は抽送を再開させた。
――約二十四時間後
瞼の裏に光を感じて、月彦は俄に覚醒した。目を開け、見慣れた天井を見上げながらぼんやりと十分ほど過ごして、不意にむくりと体を起こした。
「っ…………さすがに、結構キてるな」
全身が軋むように痛んだのは、恐らく筋肉痛の為だろう。結局どれくらいヤッたのかと記憶を辿って、途中で断念した。ハッキリと覚えているのは土曜日の夕方までであり、少なくともその後日が暮れるまで優巳を犯し続けていた事だけは間違いがなかった。
「……まさか、月曜じゃないよな」
そうであれば、とうに葛葉が帰ってきているはずだから、それはないだろうと思った。が、一応念のため枕元の時計で日付を確認し、間違いなく日曜日の午後二時である事を月彦は確かめた。
「…………腹が減ったな。何か食うか」
隣で死んだように眠り続けている優巳には一瞥もくれず、月彦は階下へと降りるなりシャワーを浴び、冷蔵庫を開けた。
が。
「………………何も無いな。見事に」
葛葉が買い置きを忘れたのか、冷蔵庫の中には見事なまでに飲料と調味料の類しか残されていなかった。とりあえず、パックに半分ほど残っていた牛乳を一息で飲み干した後、月彦は一度自室に戻って着替え、買い出しに出かける事にした。
さすがに全身が疲れ切っているらしい。歩いてスーパーに行くのすらも骨だった。帰って自分で調理するのが面倒に思えて、月彦はスーパーではなくさらに近場のコンビニで弁当を二人前と、お茶を二人分、そしてドッグフードの缶詰を一つ買って自宅へと戻った。
「あっ」
と、台所で丁度起きてきたらしい優巳と遭遇した。優巳はぱぁ、と。それまで一度たりとも見せたことがないような媚びた笑みを見せて、ぎこちない歩き方で月彦の方へとすり寄ってくる。
「おはよう、ヒーくん」
「おはよう」
月彦は極めて事務的に挨拶をした。
「んもぅ、ヒーくんったらつれないなぁ。シャワー浴びるなら、私も起こしてくれれば一緒に浴びられたのに」
優巳は子供が拗ねたような口調で言って、自らもシャワーを浴びるべく脱衣所の方へと消えていった。そんな従姉妹を尻目に、月彦は食卓の上に弁当と飲み物を取り出し、さらに平皿にドッグフードの缶詰をあけて椅子の足下へと置く。
早速弁当を貪っていると、シャワーを終えた優巳が髪を拭き拭き台所に戻ってきた。
「あっ、お弁当買ってきてくれたんだ」
優巳は黄色い声を上げて月彦の隣の椅子へと座った。その瞬間、ばむっ、と月彦は強くテーブルを叩いた。
「そこは真央の席だ」
「……?」
「お前の席じゃない」
不思議そうに首を傾げる優巳に、月彦は冷徹に言った。その瞬間、優巳はまるで弾かれたように席から立ち上がった。
「ど、どうしたの? ヒーくん……ひょっとして、ご機嫌ナナメ?」
苦笑いで誤魔化しながら、いそいそと月彦の正面の席へと座り直そうとする。
「そこは姉ちゃんの席だ」
しかし、月彦の言葉が、優巳を座らせない。
「隣は母さんの席」
食卓には四つしか椅子がない。進退窮まった優巳は狼狽して立ちつくした。
「や……やだなぁ、ヒーくん……一体どうしたっていうの? まるで別人みたい」
月彦は答えず、黙々と弁当を食い続ける。
「ていうか……本当に別人だったりする? だって、ヒーくんがあんなにスゴいなんて、私全然知らなかったよ」
ぽぅ、と優巳は頬を赤らめて呟くが、月彦は優巳の方を見もしない。その視線は眼前の弁当にのみ注がれていた。
「ホント……凄かったなぁ……まだお腹の奥痺れたみたいになってるもん。こんなの初めてだよ? 体中筋肉痛でスゴい事になってるし、声もなんか枯れてるし……さっき体重計載ってみたら、体重が三キロも落ちててビックリしたよ」
勿論、月彦は何も答えない。
「ねぇ……ヒーくん……私たち、色々あったけどさ……本当の本当に仲直りすることにしない? 私ももう絶対キーちゃんに何かしたりとかしないし、まーちゃんを怖がらせるようなこともしないからさ。だから――」
「俺のこと、絶対殺すって言ってなかったか?」
弁当を食い終わり、ペットボトルの茶を飲みながら月彦はぽつりと言った。
「そ、それは……言葉の綾だよ。今時“殺す”なんてちょっとした口論でも言うよ? あの時は、ヒーくんが随分生意気な事言ってたから、私もちょっとカッとなってあんな事言っちゃったけど、全然本気なんかじゃなかったんだから」
「ふーん」
月彦は特に感心もなさそうに呟き、ごくごくと茶を飲み続ける。
「それよりもさ……なんていうか……私もいっそキーちゃんからヒーくんに乗り換えちゃおうかなーなんて……思ったりして………………キーちゃんも悪くないんだけど、ヒーくんも思ってたより悪くなかったっていうか……正直ちょっと人生観変わっちゃったっていうか……」
「食わないのか?」
優巳の言葉を無視して、月彦は促した。
「腹、減ってるんだろ?」
「あっ……うん! もうすんごいぺこぺこ……お腹と背中がくっついちゃいそうだったよ」
優巳がもう一つの弁当へと手を伸ばす――が、それを途中で月彦の手が払った。
「それは俺の弁当だ」
「えっ……」
「優巳姉のはそっちだ」
言って、月彦は足下を指さした。優巳が食卓を回り込み、月彦の足下を見るなりぎょっと顔を引きつらせた。
「俺と仲直りしたい? だったら、それが答えだ。犬みたいに手を使わずに全部食えたら、その時考えてやる」
「ひ、ヒーくん…………冗談、でしょ?」
「それとももう忘れちまったのか? 十四年前の盆、帰省して二日目。お前が急に“ドッグフードってどんな味がするんだろう?”って言い出して、それを俺に確かめさせた事を。あの時は犬の真似までさせられたっけか?」
「ち、違っ……犬の真似させたのは……私じゃなくて愛奈……」
「だから犬の真似までしろとは言ってないだろ。あの時俺がさせられたみたいに、手を使わずに口だけで食えばそれでいいと言ってる」
「こ、子供の時の話でしょ? いくらなんでも今やれなんて無茶――」
「ガキの頃なら何やっても許されるとでも思ってるのか?」
「そ、そこまでは…………あっ、そうだ!」
優巳は突然声を上げ、ぱたぱたと階段を上っていき、数分も立たずに戻ってきた。その手にはデジタルカメラが握られていた。
「これ、ヒーくんにあげる!」
「…………こないだ、俺の写真を撮ったやつか」
「そうだよ。写真のデータごと、ヒーくんにこれあげる。……“仲直りの証”として」
「…………。」
月彦はデジカメを受け取り、不慣れな手つきで時間はかかったがかつて自分が撮られた屈辱の写真データを全て消去し、再び優巳の手へとカメラを戻した。
「本体は要らない。返す」
「ちょ、ちょっと! ヒーくん、さすがにそれは無いんじゃない?」
「……?」
「“?”じゃなくて!……“仲直りの証”としてカメラ渡したんだよ? なのに――」
「“仲直りして下さい”――だろ?」
月彦は二つ目の弁当のパッケージを開けながら、優巳の方を見もせずに言った。
「ちょっと……ヒーくん?」
戸惑う優巳の言葉をさらに無視し、月彦は弁当を食べ始める。
「ね、ねぇ……」
縋るような優巳の言葉を無視して、月彦は黙々と弁当を食べる。
「なっ……」
ぎりっ、と。優巳が歯を鳴らすのを、月彦は弁当を食べながら横目で見た。
「仲直り……して、ください……」
「“お願いします”」
「仲直り、してください……お願い、します」
「優巳姉の田舎の方じゃ、人に“お願い”をする時に頭は下げないのか?」
「……っ……」
優巳は顔を引きつらせ、何かを口にしかけるも、途中で断念したかのように閉じた。そして、ゆっくりと月彦の足下に膝をつき、両手を床についた。
「仲直り、して下さい……今までの事を、許して下さい……お願い、します」
「ドッグフードを食えたら考えてやるよ」
「っっっっ…………!! ちょっ……いい加減に……!」
「イヤなら食わなくていいんだぜ? 俺はそもそもお前達と仲直りなんかしたくないんだ。このまま“絶交”で全然構わない」
「…………っっ……ぜ、絶交……って……」
「言葉の通り。優巳姉とは二度と口も聞かないし、一切の接触をしない。…………当然“アレ”もな」
アレ――口の形だけで優巳は呟き、まるで腹痛でも堪えるかのように己の腹部を押さえた。
「…………っ……ぁ、ぅ…………」
優巳がぶるりと体を震わせ、肩を抱く。昨夜――或いは今朝――までの事を“体が思い出した”のか、忽ちハァハァと肩で息をし始める。そうだろう――と月彦は内心頷いた。“そうなる様”にたっぷり仕込んでやったのだから。
「“仲直り”をしたいなら早くしたほうがいいぞ。リミットは俺がこの弁当を食い終わるまでだからな」
「っ……!」
優巳の位置からは、二つ目の弁当の残量は見てとれない。見えないからこそ、余計に恐怖を煽ったのだろう。
優巳は何度も眼前の皿と、月彦の横顔を見比べ、そして意を決したように口を皿の方へと近づけていく。それを横目で見ながら、月彦は口元を歪めて笑った。
「ちゃんと皿まで舐めろよ」
「ちょ、ちょっと……待ってよ、言うとおりにしたのに、どうして……!」
月彦は優巳の手を掴み、優巳が寝泊まりしている部屋へと強引に連れて来るなり部屋の奥目がけて体を突き飛ばした。
「いいから、さっさと着替えて帰り支度をしろよ」
「ちょっと、人の話を聞きなさいよ! 私はヒーくんと仲直りをするために――」
「俺に逆らうのか?」
絶対的な響きを含んだ声で月彦は言った。その声の圧力に押されるように優巳は後ずさり、唇を噛むと渋々“帰り支度”を始めた。
「モタモタするなよ。母さんが帰ってくる前には家から出るんだ。さもないと――」
いかにもやる気がなさそうな優巳の手つきを見て、月彦はさらに釘を刺した。慌てたように優巳はスピードアップをするが、気乗りがしていないのは明白だった。
「ね、ねぇ……ヒーくん?」
「勝手に手を止めるな」
優巳はびくりと体を震わせ、今度は“帰り支度をしながら”声を出した。
「あの、ね……ヒーくん、携帯のアドレスとか……教えてくれないかな」
「生憎、携帯は持ってない」
「じゃ、じゃあ……家の電話に……時々かけたりしてもいいかな?」
「好きにかければいいさ。……但し、俺はいつも“留守”だけどな」
「や、休みの日に……遊びにきたりとかは……」
「真央が嫌がるから家には絶対に来るな。勿論、姉ちゃんの病院にも絶対に近づくなよ」
「そん、な……じゃあ……」
一体どうしたら――目尻に涙をいっぱい溜めて、優巳が哀願するような目を向けてくる。その目に僅かに心を揺さぶられかけて、月彦は優巳から視線をそらした。
「あと六十秒以内に帰り支度を済ませろ」
怒りが、萎えかかっているのを感じた。早くこの女を追い出さなければと。
漸くにして帰り支度を終えた優巳にキャリーバッグを持たせ、背中を押すようにして玄関へと連れてきた。
――が。
「ねえ、ヒーくん……私、ちゃんと言うとおりにしたでしょ? お願い……仲直り、しよ?」
「俺は“考える”と言っただけだ」
「お願いだから……ね? ヒーくん……彼女とかじゃなくていいから、だから……」
「断る。お前達の顔は二度と見たくない。さっさと出て行け」
「ヒーくん!」
「…………ああ、そうだ。お茶が一本余ってたな、最後の餞別に優巳姉にやるよ」
月彦は台所の食卓からペットボトルの茶を手にとり、優巳の方へと差し出す。
「礼は?」
「…………あり、がとう」
掠れるような声で呟き、茶を受け取ろうとする優巳の手を、月彦は茶を握っていない方の手で払った。
「違うだろ」
「ヒーくん……?」
「優巳姉にとって、飲み物はこうするモノなんだろ?」
月彦はキャップをあけ、優巳の頭上へと持ってくるなり、ペットボトルをいっきに傾けた。
「やだっ……冷たっ――」
「動くな」
“命令”すると、優巳は怯えたように体を竦ませ、棒立ちの姿勢になった。月彦は容赦なく内容量五百ミリリットル全てをぶちまけた。
「外は寒い。風邪引くなよ」
優巳はもう何も言わず、うつむいたままキャリーバッグを手に、玄関のドアを開けた。外へと出、扉を閉める前にキッと、地獄の亡者のような目で月彦を睨み付けてきた。
「……覚えて、なさいよ」
優巳の最後の呟きは、ドアがしまった際の音に阻まれて、月彦の耳には届かなかった。
日曜日の夜。面会時間ギリギリにやってきたその足音の主が愚弟であると、霧亜にはすぐに察しがついた。といっても、病院の床だ。そうそうあからさまに音が響くわけではない。それでも、ベッドに身を横たえ、半覚醒状態でウトウトしていた霧亜には、それが弟のものであるという事が解った。医者や看護婦に比べて、特別足音が大きいというわけでも、歩調が特徴的というわけでもない。そう、特別ではないのに、忌々しさすら感じるのに、霧亜には解ってしまうのだった。
むくりと霧亜は体を起こし、ベッドの端に腰掛ける形で膝の上に雑誌を広げた。
「姉ちゃん、やったぜ!」
「ノック」
ばむ、と突然部屋に入ってきた弟に、霧亜は目も合わせずに呟いた。
「あ、あぁ……悪い、ちょっと、慌てて……それよりも姉ちゃん! 優巳姉をばっちり追い払ってやったぜ!」
「そう」
さも感心なさげに霧亜は呟いた。視線は片時も雑誌から上げない。そんな姉の冷めた態度に、鼻息荒く興奮していた弟は俄に興ざめした様だった。恐らくは、褒めてもらえるとでも思っていたのだろう。
だから、霧亜は言わねばならなかった。
「あんな雑魚追い払ったくらいでいい気になってるんじゃないわよ」
はらり、と雑誌をめくる。
「本当にヤバいのは愛奈。優巳なんてオマケみたいなものよ。それくらいあんただって解ってるでしょ」
「だ、大丈夫だって。ちゃんと二度と俺たちに手を出せないようにきっちり話をつけてやったから。愛姉だって……もう関わってこないさ」
どーだか、と霧亜は内心冷めきっていた。優巳はともかくとして、自称“ヒーくんの許嫁”とまで言い張っていたあの女が簡単に弟を諦めるとは到底思えなかった。何より霧亜は弟の言う“大丈夫”を全く信用していなかった。
「それに、ちゃんと姉ちゃんの仇も討ってやったぜ!」
「…………余計なことを」
アホ面下げて得意げに言う弟に、堪りかねるように霧亜は吐き捨てた。一体誰が、いつそんな事を望んだというのか。霧亜は不機嫌を隠そうともせずに枕元の棚から煙草の箱を取り出すと、堂々と一服を始めた。
「姉ちゃん……病室で煙草は……」
「うるさい」
忌々しげに言って、霧亜は大きく息を吸い込み、そして白く濁った煙を吐いた。
「…………月彦、お手」
命じると、いつも通りの俊敏さでサッ、と月彦が右掌を差し出した。霧亜は躊躇いもせずに煙草の火をそこに押しつけたが――。
「…………。」
「へへっ…………姉ちゃん、俺だって成長するんだぜ?」
月彦の右手には小さな携帯用の灰皿が握られていた。これ以上ないというほどに得意げな弟の笑顔に、霧亜はこれ以上ないという程に苛立ちを覚えた。
「月彦、」
霧亜はちょいちょいと、指先だけで月彦に寄るように指示をする。そして屈むようにして顔を寄せてくるや否や、、霧亜は唯一自由になる方の手で思い切り張り飛ばした。
「ぶふっ……痛ってぇ……いきなり何すんだよ!」
「ムカついた」
霧亜は吐き捨てるように言い、雑誌を畳んで再びベッドに横になった。帰れ、とわざわざ口で言うのも面倒臭く感じた。
「……………………………………じゃ、じゃあ……姉ちゃん、俺は帰るから…………」
まるで引き留める事を期待しているような弟の物言いに、霧亜はさらに苛立ちを募らせ、その姿が病室から消えるまでひたすらに無視を続ける――つもりだった。
「……待ちなさい」
“姪の手紙”の件を思い出すまでは。
「……姉ちゃん?」
くるりと振り返った弟の顔はこれまた見るに耐えない間抜け面だった。霧亜は吐き気すら催しながらも、それでも確認せずには居られなかった。
「……あんた、まさか…………真央ちゃんに、あの事を……」
話したのか――と、声が震えて最後まで言う事ができなかった。それでも、弟の表情で意味は伝わったと知った。
「な……何言ってんだよ! 言うわけないだろ!」
「…………。」
「真央には…………っ……優巳姉や愛姉との事を……教えただけだ。俺はあいつらからは絶対に逃げるわけにはいかないって……」
成る程、そういう事かと霧亜は漸くにして胸をなで下ろした。同時に、その程度の事も察する事ができなかった自分が情けないとも思った。認めたくはないが、気が動転していたとしか思えなかった。
「そう。解ったわ。……真央ちゃんには悪いけど、“それは無理”って伝えておいて」
聞きたいことはそれだけだと言わんばかりに、霧亜は布団をかぶり、弟に背を向けた。
「……姉ちゃん、安心しろよ。あの事は、絶対に誰にも言わない」
そんな言葉を残して月彦は病室から出て行った。
弟の足音が十分に遠ざかってから、霧亜ははたと。あの愚図が一体どうやって優巳を追い払ったのだろうという、本来ならば真っ先に浮かばなければならない疑問が遅まきながら浮かんだ。
が、すぐにその手段を推測するのを止めた。きっと不愉快になるような手段に決まっているからだ。
真央の手紙には一体何が書かれていたのか――その内容はやはり、自分が推測した通りのものだったのだろうと、月彦は思った。
(……真央には言いづらいな)
霧亜の返事を伝えねばならないのだろうが、そのことを考えると月彦は気が重くて堪らなかった。
さらに言うならば、優巳の件を報告した際の霧亜の反応についても、月彦は密かにヘコんでいた。
「…………そりゃあ、手放しで褒めてくれるとは思って無かったが……」
あそこまで無関心そうにされるとは――それどころか、不機嫌にさせてしまう等とは夢にも思っていなかった。
(…………姉ちゃんのプライドを傷つけちまったのかな)
或いは、霧亜は怪我を治した後、自力で報復をするつもりだったのかもしれない。しかしそれは到底笑い事では済まされないような手段によるものではないかと、月彦は思うのだった。
如何に相手が悪魔共とはいえ、そこまでやるのはやりすぎだと感じてしまうのは、自分がまだまだヘタレである証なのだろうかと、月彦は悩まずにはいられなかった。
「………………とりあえず、真央を迎えに行くか」
ぎしぎしと軋む体を引きずるようにして、月彦は真田邸へと向かった。本来なら自分がしてしまった事を考えれば、真央を預かって貰う事など頼める筈がないのだが、そこはそこ。背に腹は代えられないの一言でつい頼み込んでしまったのだった。
(うぅ……顔、併せづらいなぁ)
真田邸に近づくにつれて二の足を踏みそうになるが、真央を迎えに行かないわけにもいかない。白耀にも、きちんと面と向かって礼くらいは言わねばならないだろう。どの面下げて、と吐き捨てるもう1人の自分に心を痛めつけられながら、月彦は真田邸の門扉を叩いた。
「月彦さま」
「うわぁっ!?」
門扉を叩いた次の瞬間にいきなり背後から声をかけられ、月彦は思わず悲鳴を上げて飛び退いた。
「あ、菖蒲さん!? いつからそこに……」
「……ずっと、お待ちしておりました。どうぞ」
答えになるのかならないのか解らない事を言いながら、菖蒲は木戸を開けるとさあどうぞと中に入るよう促してくる。
「あ、あぁ……ありがとう」
月彦は軽く頭を下げて、促されるままに木戸をくぐろうとした。
その矢先。
「……月彦さま」
「って、うわぁあ!?」
またしても唐突に、今度は背後からぴたーっと身を寄せられ、耳元に吐息まで吹きかけられて、丁度木戸を潜りかけていた月彦は飛び上がるなり強かに頭を打ち付けた。
「ッッ痛ぅぅ…………あ、菖蒲さん! いきなり何するんだよ!」
「…………申し訳ありません。…………どうも私は……甘え方が下手で……」
菖蒲はしゅん、と猫耳と猫尻尾を萎れさせ、そんな事を呟く。
(甘え方云々じゃなく、挨拶にしろ何にしろ“後ろからいきなり”ってのを止めてほしいんだけど……)
“あの人”といい、菖蒲といい、妖猫というものはよほど人の背後をとるのが好きな種族なのだろうと月彦は思った。
「と、とにかく……今日は真央を迎えに来ただけだからさ……」
正直なところ、菖蒲にどう接せばいいのか解らなかった。月彦はもう半分逃げるようにして、真田邸の庭の方へと小走り気味に向かった。
「あっ、父さま!」
庭を歩いていると、不意に母屋の方から真央の声が聞こえた。
「おっ、真央! 良い子にしてたか?」
「うん!」
真央は土足もなんのその、とばかりに渡り廊下から庭へと飛び降りると、そのまま飛びつくようにして抱きついてきた。
「待たせて悪かったな。……“アイツ”はばっちり追い払ったからな。今日からは家に帰れるぞ」
「本当!? 父さま、スゴい!」
真央はよほど興奮しているのか、尻尾をぶんぶん振りながら飛び跳ねるようにして何度も何度もキスをしてくる。どう、どうと月彦はまるでレース前にいきりたっている競走馬を宥めるようにして、真央を落ち着かせた。
「っと、帰る前にまず白耀に礼を言わないとな…………真央、白耀はどこだ?」
「僕ならここです、月彦さん」
声のした方へと目をやると、丁度真央が飛び降りてきた辺りの廊下に白耀の姿があった。
「あぁ……白耀。今回は悪かったな、無理言っちまって」
「いえいえ、気になさらないで下さい。……会えて良かった、丁度僕も月彦さんにお話ししたい事があったんです」
そう言って、母譲りの怪しい魅力を持つ男は静かに笑みを浮かべた。
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