「――は?」
 由梨子の言葉に、月彦は一瞬意識が飛んだ。
「今、なんて……」
「抱いて下さい。そう言いました」
 由梨子は月彦の手を取ると、無理矢理に避妊具を握らせてくる。
「いや、だからなんでそうなるんだ? 俺はここに真央の事で相談を受けるために来た筈なんだが……」
 そうだ、そうだった筈だ。放課後相談したいことがあると由梨子に言われ、裏門で待ち合わせて、そしたら由梨子が家に行こうと言い出して、そして――。
「……飲み込みの悪い人ですね。だからそれは嘘だとさっき言いました。先輩を呼び出すための口実だったんです」
「んで俺の事が好きだって?」
「はい」
「……待てよ、由梨ちゃんって……その、姉ちゃんとデキてたんじゃなかったのか?」
「……っ……」
 由梨子の体が微かに揺れ、口籠もる。
「……確かに、霧亜先輩には憧れてました。デートもしました。……でも、私が本当に好きなのは――……」
 ちらり、と上目遣いに月彦を見る。
「むむむ、む……」
 月彦は両手で頭を抱え、うずくまってしまう。後輩にいきなり家に連れ込まれ、告白をされる等という生涯で遭遇もしなければ全く想定もしていなかったケースにどうして良いか解らなくなる。
「……もしかして、真央に頼まれたのか?」
「……は?」
 今度は由梨子が首をかしげる番だった。
「真央に頼まれたんだろ。俺を誘ってみるように、俺が浮気するかどうかを確かめてくれって」
 それが月彦が出した、由梨子の行動に最も納得がいく理由だった。少なくとも、いきなり好きだと言われるよりはこっちのほうがまだ可能性があると見た。
「……どうして私がそんなことをしないといけないんですか」
「だから、真央に頼まれて……」
「だったら、もっと逃げやすくて、いざという時にすぐ助けを呼べる場所で先輩にモーションをかけます。こんな密室で先輩を誘って、万が一襲われたらどうするんですか」
「……案外、隣の部屋とかで真央が聞き耳立ててたりするんじゃないのか?」
「……っ……疑り深い人ですね」
 苛立ったような声を出して、ずいと由梨子が一歩踏み出してくる。
「な、なんだよ……」
「先輩の事が好きだという証拠を見せます」
 そう言って、電光石火。手が伸びたと思った次の刹那には唇を奪われていた。
「なっ……!」
 慌てて後ずさる。ただ、唇を合わせただけのもの。しかしそれは、紛れもないキスだった。
「……これで、信じて頂けましたか」
 どこか吐き捨てるように、由梨子は言う。その全身からは決意が滲んでいて、不退転の覚悟が月彦の方にまで伝わってくる程だった。
「し、信じるもなにも……正気か。俺には、真央が――」
「知ってます。先輩と真央さんが学校で、保健室で何をしていたのかも全部知っています」
「なっ……!」
「写真だって撮ってるんですよ。携帯のですけど、もし先輩が私を拒んだら……学校中にバラ蒔きます」
「ちょっっ……ほ、本気で言ってるのか?」
「無論本気です。過激、と思うかもしれませんが、私の気持ちに気づかなかった先輩が悪いんです。もう、先輩が真央さんと仲良くしているのを見るのが嫌なんです」
「ゆ、由梨ちゃんの気持ちって……」
 そんなそぶりは皆無だったぞと言おうとして、やめる。ここは下手に刺激しない方が良いと月彦は判断したのだ。何故かは解らないが、今日の由梨子は変だ。口調こそ物静かだが、後がないという雰囲気だけはひしひしと伝わってくる。
「……まだ、信用して頂けませんか。だったら――……」
 由梨子が、制服のリボンを取り、ボタンを外す。瞬く間にスカートとブラウスだけになって、そのブラウスのボタンも外し始める。
「ま、待て……まずは俺の話を――」
 慌てて止めようとしたのがまずかった。足が縺れたのか、それとも由梨子が足をかけたのかは解らない。とにかく――結果だけを見れば、さも月彦が由梨子をベッドに押し倒したような形になった。
「やっとその気になってくれたんですか」
「ち、違う……俺は――」
「待ってください」
 立ち上がろうとする月彦の体を、由梨子が掴む。
「いいんですか? 今先輩が立ったら、私から離れたら……私、何をするか解りませんよ」
「何をするか解りません……って……何をする気なんだ」
「ですから、何をするか自分でもわからないと言っています」
 嘘を言っているようには――見えない。少なくとも由梨子からある種の本気は伝わってくる。
「私も、先輩の彼女になりたいなんて厚かましいことは考えてません。ただ……一度だけ抱いてくれればいいんです」
「一度……だけ?」
「はい。一度抱いてくれたら……先輩の事は忘れます。真央さんとの事も黙ってます」
「ぐっ……」
 月彦は悩んだ。それこそいつになく悩んだ。脳細胞をフルに使って、これから自分がとる行動で起こりうる“被害”をシミュレートする。
 まず、無理に帰った場合はどうだろうか。その場合、由梨子はどういう手段に出るだろうか。先ほど言ったように自分と真央が抱き合っている写真をばらまくのだろうか。
 ハッタリではないか――と考えてみる。出任せではないかと。しかし由梨子ははっきり“保健室で”と言った。ハッタリでそこまで断定できるだろうか。少なくとも目撃はされていると考えたほうが良いのではないか。
 学校でしている写真などばらまかれたら、もう順風満帆な学校生活などは送れない。それこそ下手をすれば退学になるかもしれない。そこまでの事を由梨子はやるだろうか。
 ――否、やる。少なくともやりかねない。理由は分からないが、今日の、今目の前にいる由梨子からは異様な気迫が感じ取れる。尋常ではない行動もとりかねない。
 では、由梨子の言うとおり、“思い出作り”として体を重ねた場合はどうか。由梨子ははたして本当にそれで身を引いてくれるのか。真央にはバレないのか。否、そもそも自分を好きだという由梨子の言葉は正しいのか――。
 幾重もの思考がぐるぐると交差する。不確定要素が多すぎて結論が出せない。ただただ苦渋の表情で、うめきにも近い声しか出せない。
「…………やっぱり、駄目です、よね」
 不意に、由梨子が視線を横にそらして、呟く。
「そうですよね。先輩には……真央さんっていう彼女が居るんですから。私なんて……抱く気も起きませんよね」
「い、いや……そういうワケじゃ……」
「いいんです。さっきの言葉は忘れてください。……私なんかが、真央さんと張り合おうとしたのが間違いでした」
「っっっ……だあああああああああああッ!!!」
 奇声。咆吼。そのどちらでもあり、どちらでもない声を上げて、月彦はばんとベッドに手を叩きつけた。
「可愛いとか、可愛くないとか、そういうのは関係ない! そんなんで抱く、抱かないを決めている奴は人間のクズだ」
「……じゃあ、どうして抱いてくれないんですか?」
 じぃ、と今度は真剣な眼差しで射抜いてくる。ぐっ、と月彦は言葉に詰まる。
「う、浮気をしたくないからだ」
「嘘ですね」
 きっぱりと、由梨子は否定する。
「浮気をしたくないからじゃなくて、浮気がバレるのが恐いからじゃないんですか」
「な、なんで……由梨ちゃんにそんなことが解るんだよ」
「カンです」
「カンって……」
「強いて言うなら、女のカンです。真央さんって、そういう所に厳しい人だと思うんですよ」
「うっ……」
 鋭い、というか女のカン恐るべし、と月彦は恐れ入る。
「でも、安心してください。私はバラしたりしませんから」
 だんだん由梨子の言葉が、悪魔の囁きに聞こえてくる。
「私だって、真央さんとは友達で居たいんです。ですから、先輩とそういうことをしたって、絶対言いません」
 そう、由梨子もそう言っている。真央とは友達のままで居たい――その言葉には説得力もある。
「一度だけ、一度だけでいいんです。それで、先輩の事は忘れますから」
 一度だけ。誰にだって過ちはある。事実、今まで真央以外の女の子と全くしなかったわけではないではないか。それと同じ事だ。
「それに先輩、言いにくいんですけど……私、初めてというわけでもないんです。だから、そんなに気張らなくていいんですよ」
 初めてでもない。ならば、雛森雪乃のケースに比べれば、まだ――。
「……それとも、処女でもない女を抱く気になんて、やっぱりなれませんか?」
 それまでとは違う、少し泣きそうな由梨子の声。それが、月彦の心の障壁を一気に砕いた。ぎゅう、と月彦は由梨子を両腕で抱きしめる。
「……解った。一度だけ……一度だけ、だな」
「はい……嬉しいです、先輩」
 由梨子もまた、月彦の背に手を回す。言葉とは裏腹に、まるで覚悟を決めるように瞼を閉じた事に、月彦は気がつかなかった。

 やっと落ちた――由梨子は内心、ホッと安堵する。思ったよりも手こずった。本来ならば、もっと簡単に“その気”にさせられる筈だった。
 やはり、自分は真央に比べて魅力が足りな過ぎるのかと、半ば本気で考えもした。それが“演技”にリアリティを付加し、結果的に良い方向に働いたのは僥倖だったが。
 目論見は成功したが、由梨子の心中は罪悪感で一杯だった。本当にこれで良いのか――その考えが先ほどから何度も反芻する。今ならまだ止められる。そう、今ならまだ――しかし、止められない。
 男の手が、月彦の手がブラウスごしに胸元をまさぐる。その感触にぞっと怖気が走る。霧亜にそうされるのとは雲泥の差だ。やはり男の愛撫など、気持ち悪いことこの上ない。霧亜の命でなければ、絶対に耐えられない事だった。
「んっ……先輩……」
 精一杯愛撫に感じているフリをして、甘い声を出す。月彦はそれを信じたのか、ブラウス越しにさらに胸元をまさぐり、やがてブラウスのボタンに手をかける。
 月彦は今、自分が本当に月彦の事を好きで、誘っているのだと思っているはずだ。少なくともそう思わせるべく、打てる手を打った。せいいっぱい口説いた。――皮肉なことに、月彦への罪悪感がそれらの演技に迫真のものを付加してしまったわけだ。
 自分は今、とても酷いことをやろうとしている。何の罪もない月彦を騙して、無理矢理自分を抱かせ、それをネタに真央と別れさせようとしている。霧亜の命令には違いがない――が、心の奥底で由梨子自身がそのことを望んでいるのもまた事実。
 また、思う。自分はひどく薄汚れた人間だと。自分の幸せの為には他人の幸せなど容易く壊してしまう、卑怯な人間なのだと。
 そして、そのことを自覚していて尚、霧亜に従ってしまう。霧亜に好かれる為に、こんな汚いことも平気でやってしまう。そんな自分の事が――由梨子は大嫌いだった。
「ぁ…………」
 ブラウスのボタンが外され、ブラが露出する。思っていたほど恥ずかしくはない。それよりも、やはり月彦に対してすまないと思う気持ちが強い。
「あんまり……見ないでください。真央さんのと違って、小さいですから」
 頬を染めて、さも恥ずかしそうに――そうやったつもりだった。月彦は無言で由梨子の背中に手を回す。由梨子は体を浮かせて、ブラを外しやすいように促す。
(ごめんなさい、先輩……)
 騙してごめんなさい。無理矢理抱かせてごめんなさい。そして――真央さんと別れさせてごめんなさい。
 何度も心の中で呟く。呟いているうちに、優しい手つきでそっとブラが取り去られる。月彦は何も言わない。無言のまま、由梨子の胸をそっと掴む。
「あ……んっ……」
 如何にも反応するフリをしながら、少し態とらしく声を出しすぎたか、とハッとする。ちょっと胸を触られた程度で声を出すのは――否、もはやどう演技して良いか解らなくなっていた。
 罪悪感と、後悔の念で頭がいっぱいだった。何故、こんなにも苦しまなければならないのだろう。自分が一番幸福に、幸せになるために行動してきたのではなかったのか。だから霧亜の命令にも従ったのでは無かったのか。
 決心が揺らぎそうになる。月彦が不憫に見えて堪らない。いっそ好きになった相手が真央でもなく霧亜でもなく月彦であれば、今この瞬間を至福の時と感じられたかもしれないのに――そんな意味もない事を考えてしまい、思わず苦笑しそうになる。そうなのだ、自分は所詮、同性しか愛せない女なのだ――と。
「ぁっ、や……先輩、そこは…………」
 胸元をまさぐっていた手が、下方へと伸び、スカートの中へと入り込む。ぞっ……と、突然背筋が冷える。覚悟していた筈なのに、歯の根が鳴りそうになる。
 あぁ、そうなのだ。抱かれる――ということは、即ちそういうことをされるということなのだ。下着を脱がされ、何もかも見られてしまうのだ。霧亜の命令で、好きでもない相手に。
「ん……」
 すぐにでも下着を下ろされると思っていた。だが、月彦の手はスカートの内側に潜り込んだまま、一向に行方が知れない。
「先輩……? ぁ、――」
 由梨子が問いかけようとした刹那、ショーツの端に指がかかるのが解った。ぞくりと、それまでとは比較にならないほどの悪寒が走る。
「やめっ――」
 半ば以上本気で、由梨子は声を出していた。指が、一気に引き下ろされる。由梨子は体を強ばらせ、その瞬間に備えた。
「え……」
 最初はわからなかった。そして遅まきながらに気がついた。月彦はただ、ショーツの端に指をかけて、引き下げるフリをしてそのまま指だけを抜いたのだと。
「……泣くほど嫌なら、今度からはこういう遊びはやらないんだな」
 酷く不機嫌そうな声で吐き捨てると、月彦はぷいと体を起こしてベッドの端に座った。そこで漸く、由梨子は自分が涙を滲ませていることに気がついた。

 酷く不愉快な気分だった。それは由梨子が騙していたと知った為か、一時とはいえ真央を裏切って良しとする行動を自分がとってしまった為か、或いはその両方か、月彦には判断がつかない。
「納得のいく理由を聞かせてもらえるか」
 抑えてはいるが、どうしても攻撃的な口調になってしまう。背後で、由梨子が体をおこすのが衣擦れの音で聞こえた。
「……どうして、途中で止めたんですか」
 しかし、帰ってきたのはそんな言葉だった。
「ふざけるなよ、男だったら殴ってる所だ」
 声を荒げて、由梨子の方を振り返る。由梨子もまた、月彦の剣幕に負けない勢いでにらみ返してくる。
「殴ればいいじゃないですか。女だから殴らないっていうのは、男女差別ですよ」
「ッ……この……!」
 一瞬本当に手を出しかけて、なんとか自制する。冷静になれ、と何度も自分を宥めかける。由梨子とて、何の理由も無しにこんな事をする筈がないのだ。
「……由梨ちゃんがただ悪戯でこんなことをする子じゃない、ってのは解ってるつもりだ」
「まるで保護者みたいな口調ですね。貴方が私の何を知ってるというんですか?」
「……真央の友達で、理由も無しに真央を裏切るような真似はしないって事だ」
「……っ」
 由梨子が口籠もる。有効打かな、と月彦は推測する。
「誰かに頼まれたんじゃないか、と俺は思ってる」
 黙る由梨子をよそに、月彦は自分の推論を口にする。
「どうも真央じゃあないみたいだ。いくら真央が嫉妬深くて疑り深くても、一番の友達の由梨ちゃんを泣かせてまで、俺の浮気をチェックするとは考えられない」
「………………」
 由梨子は何も喋らない。ただ、じっと月彦の方を見る。
「じゃあ、誰なら由梨ちゃんにこんな事を頼めるのか。――否、頼むんじゃなくて“命令”なのかな」
 ぴくり、と由梨子の体が僅かに揺れた。やはり――と、月彦は嫌な想像が当たってしまった事に落胆する。
「……姉ちゃんだな?」
「違います」
 驚くほど強い口調で由梨子が否定する。が、故に――月彦は確信を深めてしまった。
「全く……困ったもんだよな。何が狙いか知らねーが……姉ちゃんが俺を巻き込むって事はどうせロクでもない事だな」
「違うと言っています!」
「今すぐ帰って姉ちゃんを問いただす――って言いたいところだけどな。由梨ちゃんには悪いが、俺も姉ちゃんには負い目があってな。あんまり強くはでれないんだ」
「…………」
 由梨子はもう否定しなかった。ただ、睨み付けるように、月彦を見る。
「ある意味、姉ちゃんがあんなになっちまったのは俺のせいみたいなモンだからな……由梨ちゃんに迷惑かけたんなら、それは俺の責任だ」
「霧亜先輩は関係ありません。私が勝手にやった事です」
 心なしか、先ほどよりも口調が弱い。もう、否定しても無駄だと由梨子自身悟っているのかもしれない。
「心配しなくても、由梨ちゃんがバラしたなんて言わないよ。なんなら、出来うる範囲で口裏を合わせても良い」
「……何を――言って、るんですか」
「だから、由梨ちゃんは何か理由があってこんな事をしたんだろ。だから、俺たちはそういう事をしたんだ――と、表向きだけでもそういうフリを姉ちゃんにしてもいい、ってことだ。さすがに真央には内緒にしておかないとヤバイが――」
 無論、あの姉に対してそんな嘘が通用するとは思えない。思えないが――
「……そんな嘘で、霧亜先輩を裏切るような事は出来ません」
 由梨子は、認めた。姉の、霧亜の命令であると。九分九厘そうだろうとは思っていたが、やはりそうだったのだ。ならば、月彦には言わねばならない事がある。
「由梨ちゃん、酷なことを言うみたいだが――多分、姉ちゃんは由梨ちゃんが思ってる程、由梨ちゃんの事を想ってはいないぜ」
「…………っっ……!」
 それまで冷静沈着を装っていた由梨子が、途端に怒りの形相を滲ませる。そう、怒られるのは覚悟の上だ。しかし、月彦は言わずにはいられない。
「冷静になって考えるんだ。普通、自分が本当に好きな相手に、大切に思っている相手に、他の男と寝ろだなんて言えるか? 姉ちゃんと由梨ちゃんの立場が仮に逆だったとして、由梨ちゃんは姉ちゃんにそんな事を言うか?」
「それ、は――私が――」
「仮に、由梨ちゃんに何らかの落ち度があって、それの罰だとしても重すぎる。少なくとも俺なら――真央に絶対そんな事は言わない」
「っっっ…………貴方に、何が――」
「俺が何年あの人の弟やってると思ってるんだ。由梨ちゃんより遙かに付き合いは長いし、捨てられた女の子達もたくさん見てる」
「……ッ………………」
 捨てられた女の子達、と聞いた途端由梨子がまたびくんと震えた。何か心当たりがあったのか、途端に怯えるような目になる。
「……身内として一つ言わせて貰えば、姉ちゃんだって最初からあんなじゃなかったんだ。そりゃあ、横暴で女王様気取りな感じはあったが……それでもまだ、なんつーか、人間らしい暖かみみたいなのがあった。それに、女の子しか相手にしないってワケでもなかった」
「えっ……?」
 由梨子の疑問符に、月彦はハッと言葉を止める。自分が危うくタブーを口にしそうになっていた事に遅まきながらに気がつく。
「……悪い。これ以上は言えない。言ったらマジで、冗談抜きで、俺は姉ちゃんに殺される」
「どういう、ことですか」
「忘れてくれ。口が滑っただけだ……真央も知らないことだ。誰にも言わないで欲しい」
 由梨子の口が軽いとは思わない。しかし、“あのこと”だけは言うわけにはいかない。無論、真央にも。
「まあ、そういうわけだから、姉ちゃんと付き合うならほどほどにしておいた方が良い。そりゃまあ、恋愛は個人の自由だろうとは思うが――」
「…………先輩の言い分は解りました」
 相変わらず涼しくも険しい表情のまま、由梨子が呟く。
「でも、やっぱり私は霧亜先輩が好きです。霧亜先輩から離れる事なんて出来ません」
「そうだな、その辺は由梨ちゃんの自由だ。俺がどうこう言うことじゃない。……ただ、今回みたいな事はもうやめてくれよ」
「それは保証出来かねます」
「……って、おいっ! それじゃあ何も――」
「……霧亜先輩の“命令”だったから――それが全ての理由というわけではないんです。先輩と真央さんに別れてほしいと、私自身願っていたというのも、あります」
「俺と真央に別れて欲しいって……まさか、本当に……」
「勘違いしないでくださいね。私が好きなのは真央さんの方です」
 だよなぁ、と月彦は落胆しつつも苦笑し、そして納得する。
「霧亜先輩と同じくらい、真央さんの事も好きです。……ですから、今回みたいに、真央さんを悲しませる結果になるような事はもうしません。けど……真央さんを振り向かせる努力は惜しまない、そういう事です」
「……真央を、俺から奪うって事か?」
「さあ。成り行き上そうなるかもしれません、という事です」
「宣戦布告ってワケか」
「どうとって頂いても結構です。真央さんを手放したくなかったら、今までより大切にしてあげる事ですね」
 言われなくても――という所だった。とはいえ、面と向かって真央を寝取ると宣言されたにもかかわらず、不思議なほど月彦の心に怒りや憎しみといった類の感情は沸いてこなかった。否、むしろ清々しささえ感じる。恐らく、由梨子の言葉から、真央への気持ちの真摯さが伝わったからではないか。なまじ嘘や演技をされて「好きだ」と言われるよりも正々堂々と宣戦布告をされたほうが気持ちがいいというのも変な話だった。
「…………最初からそうしてくれてりゃ、俺も嫌な思いしなくてすんだんだけどな」
「すみませんでした。次からはもっとバレないように演技します」
 何だと、と声を荒げようとして、由梨子の笑みに気がつく。くすくすと、悪戯っぽい笑みだ。
「からかい甲斐のある人ですね。先輩みたいな人が弟だから、霧亜先輩が意地悪な人になっちゃったんですよ」
「……由梨ちゃんもその素質十分みたいだぜ」
「一応私も“姉”ですから。尤も、弟は先輩みたいに可愛げはありませんけど」
「つっても、世の“姉”が須くああだったら、世界は間違いなく女系社会になってただろうけどな…………」
 どんな恐怖政治だよ、と月彦は己の想像した世界につっこみを入れる。
「霧亜先輩は確かに恐い人です。でも、優しい所もいっぱいあるんですよ?」
「……………………まあな」
 月彦は思う。確かに――確かに霧亜は由梨子には、そして他の女の子達には優しいのだろう。それこそ、自分に接する時とはうって変わって。しかしそれは、霧亜の本心からの優しさなのか――と。
 自分がその責めを負うのは良い。霧亜がそうなる原因を作ってしまったのは、間違いなく自分なのだから。しかしそのせいで由梨子や他の女の子まで巻き込んでいるのだとすれば――否、そう思ったところで自分に何が出来るというのか。
「…………先輩がどうして霧亜先輩に嫌われているのかは解りません。解りませんけど、早く許してもらえると良いですね」
 思わずドキリとしてしまう程に優しい口調で、由梨子が独り言のように呟く。本当にそうなったらどんなに良いか――月彦はそう願いつつも、しかし過去に自分がやった事を鑑みて絶望的な気分になるのだった。

 由梨子としても、そして多分月彦としても――思いの外話が弾んでしまった。二人の共通の話題は決して多くは無かったが、それでも小一時間ほど話し込む材料には事欠かなかった。
「……ところで、由梨ちゃん、さっきから言おう、言おうと思ってたんだけど」
「何ですか?」
「出来れば、その……服をちゃんと着てもらえると、ありがたいんだが」
「え……あっ――」
 言われて、気がつく。自分の破廉恥な格好に。ブラウスのボタンは半ばまで外され、ブラは無く――しかしかろうじてブラウスで胸元は隠れていたが――まるで暴行を受けた後の女生徒のような有様だった。
「そういう大事な事は、もっと早く言って下さい」
 先ほど脱がされていた時とは比較にならない羞恥に、顔が真っ赤になる。すぐさま月彦に壁の方を向くように指示して、ブラをつけ、ブラウスのボタンをきちんと留める。
「……言いたかったんだが、話の流れ上、ちょっと言い出しづらかった」
 壁の方を向いたまま、月彦はそんな弁明をする。確かに――そんな事を言うような雰囲気でも無かったかもしれないと思う。何より由梨子自身、話に夢中でそのことに気がつかなかったのだから。
 考えてみれば、家族以外の男の子とこんなに会話をしたのは初めてのような気がする。否――それは月彦が特別なのではなく、彼の置かれている状況が特殊なのだと由梨子は納得する。
 正直、月彦の立場が羨ましい。真央と、霧亜。その両方と同居しているのだから。代われるものならばすぐにでも代わりたい程だ。その月彦から聞く真央の話、霧亜の話が面白く無かろう筈がない。
 そして一つ、気になる話も聞いた。霧亜の過去――月彦との間に何かがあったらしい。が、そこまではさすがに話す気はないようだった。由梨子も無理に聞き出すことは霧亜への反逆になるような気がして、聞くに聞けなかった。
「……もう着ましたから、こっち向いてもいいですよ」
 ん、と月彦が上半身だけベッドの上にいる由梨子の方を向く。さっきから思っていたのだが、その体勢は苦しくないのだろうか。いっそ同じようにベッドに座ればいいのに、女の子の部屋だからと遠慮しているのだろうか。
 不意に、由梨子の目に壁掛け時計が入る。まずい、と反射的に思う。
「……先輩、無理矢理連れてきておいてこんな事を言い出すのは心苦しいんですが……」
「うん」
「そろそろ弟が帰ってくる時間なんです。その、出来れば――」
 月彦が家に来た事は、家族には隠しておきたいと、暗に含める。結果的に何も無かったとはいえ、何かがあったと邪推されかねないからだ。
「解ってる。さっさと帰ったほうがいいよな……」
「はい……すみません」
 由梨子は本心から謝る。本当に、悪い人ではない――そう思う。それこそ、こうして話をしているだけでは何故霧亜にああまで嫌われるのか全く解らない。
 いっそ、霧亜に陳情してみようかと思って、さすがにそれは出来ないと思いとどまる。こうして霧亜の命も果たせず、さらには月彦を許すようになど頼める筈がない。
 そう、自分は失敗したのだ。しかし不思議と――それほど後悔はない。むしろ安堵している。この後、霧亜からどういった処分をされるかもわからないというのに。
「……あの、先輩?」
 ふと気がつけば、月彦はまだベッドに腰を下ろしたままだ。いつのまに引き寄せたのか、自分の鞄をきちんと膝の上に乗せている。さっさと帰ったほうがいいよな……と、さっき自分で言っていた筈なのに、何をまごまごしているのだろう。
「解っている。帰る、すぐ帰るから……だからあと十秒、いや二十秒待ってくれ」
 は?――と由梨子は首をかしげそうになる。一体何を言っているのだろう。立ち上がるのにカウントダウンが必要なわけでもあるまいし。しかし月彦は先ほどからなにやら目をつむってぶつぶつと独り言を呟いている。聞き取ろうと耳を傾けると、どうやら数学の公式か何からしかった。
 由梨子は大人しく待った。しかし三十秒が経過して一分が経過しても、まだ月彦は立たない。時間は刻一刻と過ぎていく。意味の分からない月彦の行為にだんだん苛立ちが募る。
「……先輩、もしかして……さっきの仕返しをしているつもりですか?」
「へ……仕返し?」
「ベッドから腰を上げる事くらいで、どうしてそんなに時間をかけないといけないんですか。態と帰るのを遅延しているようにしか見えません」
「や、それが……ちょっと足が痺れてて……」
「普通に座っていただけなのに、どうして足が痺れるんですか!」
 由梨子はベッドから下り、無理矢理月彦の手を掴んで立たせようとする。
「おわっ、こ、こらっ……やめっ――」
 思いの外月彦の抵抗は激しく、由梨子は手を振り払われる形で後ずさり、壁に軽く背を打ち付けた。――同時に、月彦が膝の上に置いていた鞄が床の上に落ちた。
「あっ……」
 二人の声が重なった。ズボンを突き破りそうな程に隆起した股間を目の当たりにして漸く、由梨子は何故月彦が立とうとしなかったのかを理解した。

「……どういう事ですか、先輩」
 突き刺さりそうな程の軽蔑の視線に晒されながら、月彦は再び鞄を膝の上に戻し、ベッドに座った。穴があったら――どころではない、なければ掘ってでも隠れたいような心境だった。
「どうして、その…………そんなに……」
 大きく、と由梨子は声は出さずに口だけを動かして言った。痛い、軽蔑の視線というのは本当に痛いと月彦は思う。
「もしかして、ずっと……」
 月彦は返事が出来なかった。肯定すれば、今以上の軽蔑の視線に晒されることは明白だったからだ。しかし、それは黙っていても同じ事のようだった。由梨子の目が、明らかに物語っている。あんなに偉そうに、真面目ぶって講釈しておいてソレか――と。
「……正直、幻滅しました。先輩、……人間として恥ずかしくないんですか?」
 さすがにそこまで言われて、月彦はかちんと頭に来る。元はといえば、原因を作ったのは由梨子の方ではないか――と。
「も、元はと言えばだな――由梨ちゃんが、誘ったりするから、だろうが」
 しかし、口調が弱々しい。吹けば消えるロウソクのような声しか出せない。
「それは――でも、あれから何分経ったと思ってるんですか。それなのにそんな………………は、はっきり言って異常です!」
「い、異常じゃない。男はみんなこうなんだ」
 本当は違うんじゃないかな――とは思う。思うが、どうせ解るまいと思って強気に出る。案の定、由梨子はうぐと言葉を飲んだ。
「この際、先輩が異常かどうかはどうでもいいです。とにかく、早く……戻してください」
「それが出来たらとうにやってる」
「何とかその……鞄で隠しながら歩けないんですか?」
「無理だ。立った瞬間ズボンが破けちまう」
「………………」
 由梨子が閉口する。ああ、また呆れられている。軽蔑されている。しかし、どうしようもない。一度こうなってしまったら、なかなか元には戻らないのだ。
 もし真央が居れば、それこそ嬉々として“処理”してくれるのだろうが――。
「……ら」
 由梨子が何かを呟く。あまりにか細い声で語尾しか聞こえない。
「……一度、出したら……収まるんじゃないんですか?」
「そりゃあ、な。でもやっぱり無理だ」
「何が無理なんですか?」
「……なんつーか、その……自分でしようとしても、ダメなんだ。PTSDって言ったらいいのかな……ちょっとトラウマがあってな……」
 さすがに“真央の膣内が気持ちよすぎて自分の手で擦った程度の刺激じゃイけなくなった”とは言えず、そこはかとなく誤魔化す。
「トラウマ、ですか」
 由梨子はどこまで月彦の言葉を信じたのか、ふぅと呆れるようなため息をつく。
「ま、まぁ……大丈夫。なんとか収めてみせるから……そうだ、教科書でも読めば収まるかもな」
「……男の人って、本当に不便なんですね」
 また、さも呆れているような物言い。本当にそうだと月彦も納得する。本当に、心底、真央が側にいないと日常生活にすら支障を来すような体にされてしまっているのだ。
「こんな時、真央さんが居たら……すぐに収めてくれるんですか」
 まるで心中を見透かしたような由梨子の問いかけ。一瞬どきりとするも、さてそれはどうだろうと月彦は思う。確かに口ですることに躊躇はないだろうが、その後に収まるかどうかは――。
「はは……どうだろうな。案外由梨ちゃんと同じで呆れるかもな」
 苦笑いを浮かべ、鞄を開ける。さてどの教科書が有効かなと吟味していると、ついと鞄が持ち上げられた。
「え……あれ?」
「……今だけ、です」
 持ち上げた月彦の鞄を、由梨子はぽいとベッドの上に投げる。
「今だけ、私が真央さんの代わりをしてあげます」
「えっ、な……」
 由梨子は跪き、月彦の足の間に強引に体を割り込ませる。
「ちょっ、由梨ちゃん……何を……」
「先輩はすぐに帰りたい。私もすぐに帰ってほしい――利害は一致します。……それに、私は先輩を騙そうとしました。これはその詫びと受け取って貰っても結構です」
 由梨子の手が、ズボンの上から強ばりに触れる。小刻みに震えるそれは単純に慣れていない――というだけではないのだろう。
「詫びって……俺はもう何とも思ってないし、こんなことしなくてもなんとか自力で――」
「自力じゃ無理だと、さっき先輩が自分で言ったじゃないですか。だから私が手伝う……それだけの事です」
 まるで、何でもない事のように由梨子は言う。が、そんな筈はないのだ。また、演技をしているだけなのだ。
「いいですか、これは浮気ではないんです。真央さんがいる家に一刻も早く帰る為に必要な事で、他にどうしようもない事なんです」
 きっと、月彦の心の負担を軽くする為なのだろう。如何にも由梨子はもっともらしい事を言う。
「それに、さっき先輩……言いましたよね。私が誘ったから、こうなったと。だったら……やっぱり私が収めてあげるのが筋じゃないですか?」
 きっと、頭の良い娘なんだろう――と思う。先ほど自分を焚きつけた時と良い、今回といい、巧く理を絡めながら“じゃあしょうがないか”と月彦が思う様にし向けてくる。
「……幻滅したって言いましたけど、本当は少し嬉しかったんですよ。たとえ一時でも、先輩は私のことを抱きたいって思ってくれたから、こうなっちゃったんですよね。だから……先輩が想像しているほど、先輩にこうしてあげるのは嫌じゃないんです」
 剛直をズボン越しにさすりながら、上目遣いに由梨子は言う。そんな筈はない。詭弁だ。また騙そうとしているのだ。そうに違いない。違いない、が――。
「ベルト、外しますね」
 由梨子の手が、ベルトにかかる。が、月彦はそれを止めなかった。由梨子の言葉を真に受けたわけではない。十中八九、嘘だと思ってる。それでも、止められなかった。
 ベルトが外され、ホックが外れ、ジッパーも下ろされる。隙間から、トランクス越しに怒張したものがぬうと顔を出す。由梨子はおずおずとした手つきでトランクスの縁に手を掛け、剛直そのものを露わにする。
「……っ……」
 一瞬、声にならない声を上げる。さっき初めてではないと、そう言ったが――その割にはずいぶんと驚いているように見えた。まるで、初めて勃起した男性器を目の当たりにしたとでもいうかのように。
「先輩、すみません……」
 避妊具を、と申し訳なさそうに言われて、慌てて月彦はベッドの上に転がっていた男性用の避妊具を手に取り、由梨子に手渡す。考えてみれば、いくらなんでも直接なんてのはやりすぎだよな、と思って、僅かに落胆する。
 そうなのだ。ここへ来て月彦自身、認めざるを得なかった。真央ではなく、真狐でもなく、由梨子に奉仕されてみたいと、そう願っている自分に。
 由梨子が辿々しい手つきで剛直に避妊具を装着する。考えてみれば、それくらいは自分でやるべきだったかと思うも、既に後の祭り。
「あの……これで、いいんですよね?」
 不安げに、由梨子が尋ねてくる。避妊具はちょうど剛直の上部三分の一ほどをすっぽり覆った形になっている。
「い、いいんじゃないかな……」
 想像していたよりも避妊具って小さいんだなと思いつつ、なにげに自分も使うのが初めてだという事に少しばかり苦笑する。
(そうだよなぁ……普通はちゃんと、妊娠しないように気を遣ってするものなんだよな……)
 そう考えると、自分がいかに非常識なエッチをしてきたのかが解る。まだ生理が来ていない真央はともかく、真狐とするときは多少は避妊を考えたほうがいいかもしれないな、とそんな事を思う。
「あの、先輩……どうですか?」
「えっ……あ、あぁ……凄く、気持ちいいよ」
 考え事につい夢中になって気がつかなかったが、由梨子の奉仕は始まっていた。だがそれは真央の激しい愛撫に比べるべくもなく弱々しいものだった。
 一言で言うなら、ただ触っているだけ。避妊具の上から、さわさわと。これでは百年経ってもイけないな、とは思うものの、かといって百パーセント由梨子の善意でしてもらっているわけだから口を出すのもどうかと思う。
「……あの、悪いところがあったら、言ってくださいね。男の子にこういうことするの……初めてで、勝手が分からないんです」
 もしかして自分は余程考えていることが顔に出るのだろうか――と思ってしまうほどに、由梨子がそんな申し出をする。
「っと、じゃあ……もう少し強く、やってもらえるかな」
「わかりました。……こう、ですか?」
 こしゅこしゅと、先ほどよりは確かにマシになっている。なってはいるが――しかしやはり、真央のそれに比べると雲泥の差だ。
「……由梨ちゃん、やっぱりいいよ。何とか他の方法で――」
 月彦が制止しようとした瞬間、由梨子は思わぬ行動に出た。ずいと体を前に出したかと思えば、剛直についと舌を這わせたのだ。
「ぃっ……!?」
 予期しなかった刺激に、つい声を漏らしてしまう。
「下手くそで、ごめんなさい……でも、頑張りますから。……ん……」
 ちろちろと、薄いゴムごしに由梨子の舌の感触が伝わってくる。正直、その舌の感触自体はさしたるものでは無かったが、月彦の中では極度に興奮が高まりつつあった。
 そう、今口戯をしているのは真央でもなければ真狐でもない。“あの”由梨子なのだ。それが、本意ではないにせよ、自分のモノを舌で舐めている――その光景に、堪らなく興奮してしまう。
「どうですか、先輩。やっぱりダメですか?」
 舌を這わせながら、見上げてくる。ダメな筈はない。喋る暇があるなら、続けて欲しいと、そう思ってしまう。
「……いい。凄く、いいから……続けてくれ」
 せっぱ詰まった声でそう言うと、由梨子は素直にはいと返事をした。また、ぞわぞわと舌の感触が来る。たまらない――、と思う。
「んっ……」
 今度はゴムごし、だけではない。根本からつつつと舐められる。びくんと体が震えてしまい、どうやらそれが由梨子にも伝わったようだ。何度も何度も、筋をぞわぞわと責めてくる。
「ちょっ……由梨ちゃん、そこまで――」
 しなくても、と言おうとした声は情けない喘ぎ声に変わってしまった。由梨子の責めはどんどん苛烈になってくる。次第に、月彦も我慢が出来なくなる。
 竿部分を手でさすりながら、何度も何度も根本から舌を這わせる。キスをするように唇をつけ、ぬぅっと嘗め回し、かと思えば先端部をくわえ込んで――
「んっ、ふっ……!」
 ぐぷぐぷと音を立てて由梨子が剛直をしゃぶる。ぎこちない動きには違いないが、しかしそのぎこちなさが逆にむず痒く、かゆいところに手が届きそうで届かない、そんな焦れとなって月彦を焚きつける。
「んはぁ……」
 口を一端離し、上目遣いに見ながら唾液にまみれた剛直を丁寧に撫でる。湿った吐息を避妊具ごしに剛直に吐きかけながら、どうすればより月彦が気持ちよくなれるかを月彦自身の反応を見て確かめているようだった。
 撫で、さするだけだった由梨子の手つきが、徐々に大胆になってくる。剛直を握りながら親指の腹で軽く先端部を擦るように刺激したり、カリ首を弄ったりと月彦がつい声を上げたくなるようなことまでやり始める。
 由梨子は、同性愛者の筈だ。少なくとも月彦はそう思っている。しかし――月彦を時折見上げながら愛しげとも言える手つきで男性器を弄り、舐めるその仕草はどこか真央や真狐のそれと重なってしまう。
「んっ……は……先輩、どうですか?」
 イけそうか――という意味だと月彦は判断した。はあはあと呼吸を荒げながら、ただこくりとうなずき、無言で続きを促す。由梨子もそれを察したのか、再び剛直に舌を這わせ、しゃぶりつく。
「ッ……ヤバ……出――るッ……」
「んんんっ、んん!?」
 つい、いつもの癖が、悪い癖が出てしまう。由梨子の頭を掴んで、無理矢理先端を銜えさせる。そのまま、どくり、どくりとゴムがはちきれんばかりに白濁を吐き出す。由梨子が呻きながらじたばたと暴れるも、射精が終わるまでは頭を押さえつけ続ける。
「あ――っ……」
 と、漸くに今自分が相手にしているのは真央ではなく、由梨子だということを月彦は思い出す。すぐに手をどけ、途端に由梨子は苦しげに咳き込み始める。
「ご、ごめん……」
 つい癖で――、と言いそうになって、止まる。由梨子は両手を床に突き、けほけほと何度も咳をしてから漸く落ち着いたのか、立ち上がる。
「……口を、ゆすいできます。先輩も気が済んだら、早く帰ってください」
 月彦の方を見ず、怒ったような口調で言い残して部屋から出て行った。
「……ごめん、由梨ちゃん」
 そりゃあいきなりあんな事をすれば怒るよなぁとため息をついて、いそいそと後始末にかかる。避妊具を外して液が漏れないように結び、それをゴミ箱に捨てようと投げかけて、不意に手を止める。こんなものを部屋に残して欲しくはないだろう、と思って、やむなくティッシュで包んでポケットにいれる。
 イく前はあれほど気持ちよく、興奮させられた由梨子の口戯だったが、終わってみればなんと後味の悪いことか。やはり、止めるべきだったのだ――月彦は己の理性の弱さが恨めしかった。
 しかし、ならどうすれば良かったのか。今は由梨子のお陰で股間も平常通りに戻り、帰ることが出来るが他に手だてはあったのか。
 月彦は衣類を整えると、由梨子に言われた通りに部屋を後にし、脱衣所の方にいるらしい由梨子に再度謝ってから帰るべきかと悩んで、結局声をかけずに宮本邸を後にした。


「父さま、どこ行ってたの?」
 家に着くなり、玄関でふくれっ面の真央に出迎えられる。
「いや、ちょっと……友達とゲーセンに、な」
「嘘。女の子の所に行ってたんでしょ」
 真央は当てずっぽうに言っているのだろうが、聞かれる月彦としては心臓に悪い。
「そんなワケないだろ。真央は勘ぐりすぎだ」
 もっと俺を信用しろ、と言って心が痛む。本当は真央の言う通りなのだ。不本意ながら、仕方なくとはいえ浮気に近いようなことまでやってしまった。
 いや、待てよ……真央とは別に恋人というわけではないのだから、浮気をとやかく言われる筋合いはないのではないか。――否、そういう問題ではないな、と思い直す。
(真狐にでも相談してみるか……)
 今後、このようなことを予防するためにも。あの女に頼るのはシャクだが、他に相談できる相手が居るはずもない。このままますます真央への依存度が高くなってしまったらそれこそ日常生活が送れなくなってしまう。
 ただ、問題はあの女が“性欲を抑える薬”などという良心的なものを用意してくれるかどうかという事だ。その辺は……真狐の良心に期待するしかない。
(いや、その前に連絡を取る方法が……)
 皆無だ。どこに住んでいるのかも解らないし、そもそも定住しているのだろうか。真央に聞こうにも、真狐の事など尋ねようものなら一発でへそを曲げられる事は確実だ。
 だいたい根底がおかしいのだ。父親が娘に母親のことを尋ねて嫉妬、不機嫌になってしまうという事自体が。
「難儀なもんだ……」
 はぁ、とため息を突きながら、二階の自室へと上がる。その後ろを真央もついてくる。「ん、どうした、真央?」
 なにやら真央が興味深げに、くんくんと鼻を鳴らしている。そして真央の目が月彦のポケットに向いたとき、しまった――と、月彦は青ざめた。
「ま、待て、真央――」
 止める間もなく、ポケットに真央の手が滑り込む。そして取り出されたそれは……中にたっぷりと液体の入った避妊具だった。
 しまった、途中で捨てるつもりがすっかり忘れていた。月彦は己の迂闊さに脱力する。
「……父さま、これは何?」
 見える。月彦にははっきりと見える。真央のバックに燃えさかる炎と、ゴゴゴという岩のような文字が。
「そ、それはだな……げ、ゲーセンの景品だ!」
 苦しい。あまりに苦しすぎる言い訳に月彦自身固まってしまう。無論、真央がそれで納得する筈もない。
「答えて、父さま。何処で、誰と、何をやってたの?」
 狭い階段の踊り場で、ぐいと真央が詰め寄ってくる。月彦は背後の壁に張り付くようにして真央の圧力から逃れようとする。
「母さまに会ったの?」
 月彦が答えないから、さらにずいと真央が問いつめてくる。
「あ、会ってない……」
「じゃあ、誰――」
 真央がそう問いつめようとした刹那だった。げし、と強烈な蹴りが月彦の横腹を襲った。
「ぐはあっ」
「邪魔」
 蹴られた後で、そんな呟きを聞いた気がした。訳の分からないうちに月彦は階段を転がり落ちる。
「父さまっ!」
 真央の悲鳴が、やけに遠くで聞こえた。さらに全く動じることなく近づいてきた足音がむぎゅと容赦なく自分を踏み、遠ざかっていく。
「父さまっ、大丈夫? 父さま!」
 全身を襲う痛みが、真央にがくがくと揺さぶられてさらに増す。ああ、これは罰だなと。浮気をしたからこんな目にあうのだと月彦は思う。そして、由梨子が言ったように、早く霧亜が許してくれないものかな――とも。

 夜。
 宮本由梨子は自室のベッドの縁に座って思案していた。
 事が失敗したことを霧亜に報告するべきか、否か。悩んだ末、由梨子は何も言わない事に決めた。
 別に月彦の説得を受け入れたわけではない。受け入れたわけではないが――以前よりも疑念が大きくなった事は事実だった。
 “自分だけは大丈夫”――その考えこそ危険なのではないか。利用価値が無くなれば、自分とて容易く捨てられてしまうのではないか。
 試してみようと、そこまで不遜に思ったわけではない。ただ、成功した旨も失敗した旨も伝えなかったら、霧亜はどう出るだろうか。それが知りたかった。
 もし、自分が霧亜にとって“特別”なのなら、きっと連絡を取ってくるはずだ。今夜とは限らない。それは一週間後かもしれないし、一月後かもしれない。でも、早ければ早いほど、自分は霧亜にとって特別である証になると思った。
 恐くない、と言えば嘘になる。来なかったらどうしようと、不安でたまらない。
『遊びみたいなものだから……』
 不意に、真央の言葉を思い出す。遊び――そうなのだろうか。デートに誘ってくれたのも、抱きしめてくれたのも、キスをしてくれたのも、……好きだと言ってくれたのも、全て本気ではなく、遊びだったのだろうか。
「……霧亜先輩、貴方は何を思って、何を考えているんですか……?」
 本当に自分を使って月彦と真央を別れさせるつもりだったのだろうか。冷静になって考えれば浮気の写真を使って真央達を別れさせるという案自体、霧亜らしくないと思う。それこそ、真央を誘い、手込めにして自分のモノにすればいい。霧亜ならきっとそれが出来る筈だ。こんな回りくどいことは必要ない。
 考えれば考えるほど、霧亜が信じられなくなる。自分はいいように利用されているのではないか――否、それ以下の“どうでも良い遊びの駒”として使われているだけではないのか。命じた事の正否すらどちらでもいい、そんな駒として――。
 或いは、それこそが――本当の罰なのではないか。由梨子がこうしてそのことに気づく事まで見越して、霧亜は――否、ただの邪推だと、思考を止める。ただでさえ今日はいろいろな事があって疲れているから、ネガティブに考えてしまうのだと。
 ぱふん、とベッドに倒れ込む。本当に疲れた――、今日は特にそう感じる。月彦のことといい、慣れないことをやりすぎた。
「…………〜〜〜〜〜っっっ」
 あの時の自分の行動はどうかしていたとしか思えない。あれではまるで――痴女ではないか。
 思い出すだけで恥ずかしい。恥ずかしくて、ベッドの上を意味もなく転がり、じたばたしてしまう。
 恥ずかしい、恥ずかしすぎる。いくらなんでも、舐めるのはやりすぎだと、自分の行動を思い出しては顔を赤くする。
 真央の代わりをする――何故そんなことを言い出してしまったのだろう。由梨子は自分でも解らない。勿論月彦に言った事など全て建前だ、自分の裸を見て興奮してくれたから嬉しい――そんな台詞、“演技”でもしていなければ言える筈がない。
 そう、演技。演技だとしても――由梨子にはやっぱり解らない。なぜ自分があんなことをしてしまったのか。避妊具越しとはいえ、男性の性器を舐める等と――想像しただけで気持ちが悪い。気持ちが悪い筈――だったのに。
 確かに、何の抵抗もなく出来た――というわけではない。ただ、程度の問題なのだ。最初、月彦に体を触られるときに感じ、下着を脱がされる時に最高潮になったあの嫌悪感。あれに比べれば――全然たいしたことはなかった。
 ひょっとしたら、ただの食わず嫌いだったのではないか――そんな事を思う。そもそも何故、自分は同性しか愛せないと思っていたのか。たまたま初めて好きになった相手が同性だったから、勝手にそう思いこんでしまったのではないか。別の可能性を自分で塞いでしまっていただけではないのか。
 実際、悪い人ではないと思った。……確かに、いろいろと問題はあるが、少なくとも由梨子にしてみれば嫌う要素は特に無いと言える。とはいえ、好きになる要素もまた特に無い事も事実なのだが。
 話友達くらいにはなれるだろう――由梨子は最終的に月彦の位置をそこに決めた。真央を交えて三人で話す位は、楽しくやれそうだ。尤も、それ以上の関係には決してならないだろうが。
 そして思う。月彦に限らず、男の子にも少しずつ心を開いてみようと。或いは、半ば諦めていた普通の恋愛というものにたどり着けるかも知れない。
 寝返りをした由梨子の目に、白い置き時計が映る。それは土曜日のデートの際、霧亜に買ってもらったものだった。あの時は――否、少なくとも今朝までは、あれほど輝いて見えた時計が、今夜に限って妙に安っぽく、色あせて見えてしまう。
 新しい可能性、男性を好きになれるかもしれないという可能性。それを探るということは、同時に霧亜との関係を捨てるものであると、このときの由梨子はまだ気づいていなかった。

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