上総の古代史探索記

市原市古代史跡散歩
2005年1月、初史跡巡りで上総の国の中心部、市原市の史跡を訪ねました。3世紀から8世紀
まで、狭い範囲に古代のいろいろな意義深い史跡があって、密度の濃い場所でした。日記
は歩いたコースを載せましたので、こちらでは、古い時代順に個々の史跡を紹介します。

神門(ごうど)5号墳 〜古墳か墳丘墓か?〜
 遠くに東京湾を見下ろす台地の斜面。もともと五つはあった神門古墳群の中で現在残ってい
るのは5号墳のみで、他は潰されて住宅地などになってしまっているようです。
 築造は3世紀後半。全長38.5m。形は「イチジク形」といわれ、円墳に小さな突起がついているような形。周濠もあったようです。この古墳のすごいのはその古さ。東日本では最古いう説も。「出現期古墳」ともいわれ「神門5号墳は古墳か、墳丘墓か」という議論があるそうです。では古墳と墳丘墓はどう違う? 大雑把に言って墳丘墓は弥生時代、古墳は古墳時のものなんだそうです……って、そもそもその時代区分は誰がどう決めるの? このあたりはどうも難しい話になるようで私もよくわからんのですが(笑)、墳丘墓は地域的なもので、
それが古墳になると全国的な規格が出てきてくる、というよう
なことがあるらしい。この神門古墳群の場合も定型化前方後
円墳の前段階の形として「纏向(まきむく)型前方後円墳」と
いわれる古墳のひとつなんだそうで、あの大和政権の発祥の
地である纏向にある最古の古墳たちとの規格の統一性が指
摘されるのだそうな。
 今では住宅に囲まれてしまって海はのぞめないけれど、縄
文時代の遺跡も多く古くから人が住んだと思われるこの地域
の首長たちの、気持ちのいい〜〜場所に作られた、当時にし
ては最先端の古墳群があったことをしのばせます。

古墳の近くから今も東京湾が見える

稲荷台1号墳記念広場 〜「王賜」銘鉄剣の発見〜 
 国道から民家一軒分北へ入ったところにある小さな広場に丸い小さな古墳が復元されています。このあたりにも12基ほどの稲荷台古墳群があって1976年に発掘調査のあと区画整理で潰されたらしいのです。ところが1988年になって、その1号墳から出土した鉄剣に「王賜」にはじまる銘文が刻まれていることがわかって、それでその古墳の三分の一サイズのミニチュアをつくって記念広場にした、ということらしいのです。
 この古墳はもともと直径30m足らずの円墳でさほど大きなものではありません。鉄剣といっしょに副葬されていた須恵器の年代から5世紀の中葉から後半くらいの築造と思われます。
 この時代にはまだ文字資料がほどんどありませんから、文字が出てくるというのはものすごく
貴重なことです。銘文が刻まれたことで有名な埼玉古墳群の「稲荷山古墳出土鉄剣」や熊本
江田船山古墳出土大刀(共に「ワカタケル=雄略天皇」の銘が刻まれている)よりもさらに
古い、ということがこの稲荷台古墳出土鉄剣の重要なところ。刻まれた12文字も「王賜」以外
はほとんどはっきり読めないのではありますが、この「王」が誰なのか。この地域の王なのか、
それとも畿内の王なのか。「畿内の王」説のほうが有力で「倭の五王」の誰かであろうと言われ
ているようです。とすると、その王からこの剣を賜った古墳の被葬者は? 副葬品に武具が多
いことから畿内の王に武力で遣えた人なのか、この剣を携えて畿内から上総に派遣されてき
た人なのか、それとも意外に小さな古墳であることから、東国の有力者を通じて間接的にもた
らされたものなのか……。今のところはまだはっきりしないけれど、今後、倭国がだんだんまと
まってくる5世紀の時代を探るときに一つの鍵となる発見には違いありません。

上総国分寺跡 
いわずとしれた741年の「国分寺建立の詔」によって全国に建てられた国分寺。詔が出てから
突然建ったわけではありませんから、場所を選び、人材や資材を集め建築し……とかなりの
年月がかってだいたい8世紀後半に建立されたものと考えられます。そんな全国の国分寺の
中でも武蔵、下野につぐ広さという上総国分寺跡は市民会館の西裏、神門5号墳もすぐ近
く。周辺でも最も高いと思われる台地の上にあります。南側はだだっ広い野っぱらの中心にこ
んもりした塔の基壇の跡と、その上に塔心礎と礎石。ここの伽藍配置は大官大寺式……という
のはわかりにくいかしら。いわば二つの塔がある薬師寺式の西塔を省いたような配置だったそ
うです。塔跡の北側、金堂や講堂があったあたりは、江戸時代に建立された「国分寺」という名
の雰囲気のあるお寺になっています。そのまた北側には「政所院(まんどころいん)」という国分
寺を運営するための付属の役所があったことがわかっています。その地形からいっても、ここ
にそびえていた七重塔はさぞかし遠くからでも目立って、国家の威厳を感じさせたことでしょう。

天平をしのぶよすが、七重塔跡の
塔心礎

国分寺跡を東側から。右に見えるの
が現在の国分寺の薬師堂。

国分寺西門跡の復元基壇。奥は現在の国分寺の仁王門。

上総国分尼寺跡
国分寺とセットの国分尼
寺跡は国分寺跡の北東。
台地おりて谷をわたった
もう一つの台地の上。現
在では市役所の北東裏。
フェンスに囲まれているの
で北西にある「上総国分
尼寺跡展示館」脇から入
りますが、まずは展示館
でお勉強。こんなジオラマ
が楽しませてくれます。
 この国分尼寺はとにかく広い!総国分尼寺である大和の法華寺に匹敵する規模なのだ
そうです。また発掘調査により講堂北の尼坊が尼僧の定員の増減(道鏡政権下で増員された)
に対応して建てかえられている様子や、間取りまでがわかるのだそうです。また、国分寺にも
あった「政所院」のほか、仏像などの修理をする「修理院(すりいん)」、奴婢たちの居住した「卑
賤院」などの付属施設群の全容が明らかにされた貴重な国分尼寺なのだそうです。
 はっきり言って、いろんな国分寺、国分尼寺跡に行きましたが、こんなに立派な国分尼寺跡
ははじめてです。中門、回廊と金堂基壇が古代工法で鮮やかに復元され、天平気分を盛り上
げてくれます。 

復元回廊を外側から。

回廊は法隆寺や山田寺などを参考に
復元したそうです。

金堂基壇。その北に講堂、尼坊がありました。

金堂基壇を近くから。

国分寺跡を参考にし
た蛇紋岩という礎石。

向こうに市役所が見えます。国分尼寺に塔はありませんが国分寺の塔はあの庁舎より高かったとか。


上総国古代寺院と役所跡を求めて
なんだから上総の国が気に入ってしまった私たちは、上記の旅から一月とたたない二月のあ
る日、車に乗って再度アクアラインを渡ったのでありました。今回はオオアマさまのシュミで古
代郡衙やその隣接寺院などを推察する旅。前回よりかなりマニアックではあります。(この日の
日記はこちら)
まずは館山自動車道を市原インターで下りたあたりが村上地区で、国府があった推定地のひ
とつ。そこから五井駅のほうへ出てJRと館山道が平行して走るその間を北上すると、ただ畑
が広がる地域が出てくるのですが、空からでも見なければわからないのだと思いますが、古代
条里制の地割がよく残っている地域なのだそうです。
そのあたりで館山道をくぐると郡本地区。この地名からも市原郡
の郡衙があったことを推測させます。まず郡本八幡神社を訪ね
ます。「千葉県の歴史散歩山川出版社)によれば「神社の礎石は
現存の建物としては大きく、かつてこの付近に大きな建造物の
存在が推定され、市原郡の郡衙跡に推定されている」とあり、実
際周囲より高い丘の上の立地は郡衙があってもおかしくないと
思わせます。このへんからは古代道路の跡でもあるんだとか。
この郡本から隣接する門前地域が今のところ上総国府の最有
力地域でもあるようで、そのあたりを走ってみます。

郡本八幡神社にて。「礎石」ってアレかな? わからん……(笑い)
 少し東へそれて、その名前が気になる「府中日吉神社」は673年(天武2)に近江の日吉神社
から勧請したという社伝が残っているそうで。古代役所との関係はわからないものの、白鳳期
創建の伝説には因縁を感じます。やはり由緒のある土地なのか、と。本殿は室町期のもので
県の指定文化財。それより狛犬ではなくて狛猿だったのがとっても気になりました。猿は日吉
神社の神の使いなんだそうです。とってもユニーク。
 古代役所の手がかりとして、郡衙の隣接寺院だったかもしれない古代寺院の跡も探してみま
した。丘の上の住宅地の中に光善寺という小さな寺を発見。市原市内には国分寺よりも古い
寺が六つはあって瓦などが発掘されているということですが、そのうちの一つが「光善寺廃寺
ですからこのあたりなのでしょう。遠くに海を望めるいい場所でした。   

府中日吉神社

狛猿!!

      現在の光善寺

今富地区。我が家が行く先に「何に
もない」ところは珍しくない(笑い)
古代道の跡なのかな?と思われる道(もちろん今は普通の道路)を南下して、先日行った国分寺跡付近へ出てランチのあと、国分寺の丘を南へ突っ切り、古代は重要な交通路でもあったと思う養老川を渡ります。
間もなく今富地区は市原郡のお隣、海上(うなかみ)郡の郡衙推定地でもあり、今富廃寺という古代寺院跡も見つかっているそうですが……、今見ると広い農地でしかありません(笑い) そのへんの丘がアヤシイかな、とか思いつつ、再び館山自動車道にのって南へ戻る。さあ、今度はちょっとは残っているモノを見に行きますよ〜〜(笑い)
市原市を離れて木更津市へ。木更津北インターを
おりて西へ。アクアライン連絡道とぶつかるところで
小櫃川を北へ渡ります(オオアマさまに言わせると、
この川の存在が重要なんだって)。その近く、熊野神
社の境内にそのモノはひっそりとありました。ちょう
ど一年前、久留里線初体験をしたときに、ここに白
鳳寺院跡があるということを知って、ずっと気になっ
ていた大寺廃寺跡。「大寺」という地名が残っていた
のもその寺ゆえなのでしょう。瓦なども出土している
そうですが、そこに残されているのはその礎石と石
製露盤(塔の屋根の上に置く)。

大寺廃寺跡の礎石(右)と石製露盤。露盤は囲ってもらっていないし、ただの石にしか見えない?
7世紀には権威の象徴」がそれまでの古墳から寺にかわっていき、それが当然地方へも波及
する。上総の国ではその最初のものがこの大寺廃寺で670〜690年くらいのことだろうといわれ
ています。
 久留里線の旅のときにも気にしていたように、その7世紀に活躍した人物の伝説がこの地方
には多く残されています。今回はそれらを巡る時間はなかったので、一ヶ所だけ、私がリクエス
トして連れていってもらいました。

かずさ鎌足……鎌足伝説の地
大寺廃寺から木更津北インターへもどって通り過ぎ、山のほうへ登っていくと、「かずさアカデミ
アパーク」という研究所やコンベンションセンターやホテルのある地域が突然あらわれます。こ
この地名が「かずさ鎌足」。何度かここを通って気になってしかたがありませんでした。

高蔵寺はかずさアカデミアパークから
さらに少し登ったところ。地元では有
名な心霊スポットというウワサも…。
ここの鎌足伝説のもとが坂東三十三観音霊場の一つ高蔵寺であるらしいので訪ねてみました。「鎌足生誕伝説」というから、鎌足がここで生まれた伝説なのかと思っていたらそうではなくて、ここの観音様は用明天皇時代につくられたという伝説がまずあり、ある人がこの観音さまに願をたてて一女をもうけたが、この一女は器量が悪くなかなか縁に恵まれない。それでまたこの観音さまに願を立てたところ「鹿島に行くように」といわれ、鹿島で鎌足を生んだ、というお話なんだそうです。鎌足は後にこの観音さまに感謝をして寺の堂宇を建てたのがこの高蔵寺だと。その本尊、高倉観音は秘仏でめったに開帳しないそうです(料金を払えば腰から下だけは見れるとか)。
 この南の小糸とか根本というあたりにも鎌足にちなんだ伝説はいろいろ残されているそうで
すが、今回はそこまでは深入りせずに鎌足の地を通りぬけて木更津市街へ戻る道を走ってき
ましたが、その途中、鎌足公民館前に鎌足桜なるものを発見。鎌足が高倉観音にお参りに来
たときに杖をたてたら桜の木になったという伝説の木なのだそうです。周囲は鎌足小学校、鎌
足中学校……と鎌足だらけ。なんだか不思議な気分のするのどかな地でした。

左が鎌足桜

花が咲き魚が泳ぐ鎌足に 鎌足を考える会」と書いてあります。



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