2005年1月、初史跡巡りで上総の国の中心部、市原市の史跡を訪ねました。3世紀から8世紀 まで、狭い範囲に古代のいろいろな意義深い史跡があって、密度の濃い場所でした。日記に は歩いたコースを載せましたので、こちらでは、古い時代順に個々の史跡を紹介します。 神門(ごうど)5号墳 〜古墳か墳丘墓か?〜 遠くに東京湾を見下ろす台地の斜面。もともと五つはあった神門古墳群の中で現在残ってい るのは5号墳のみで、他は潰されて住宅地などになってしまっているようです。
稲荷台1号墳記念広場 〜「王賜」銘鉄剣の発見〜
貴重なことです。銘文が刻まれたことで有名な埼玉古墳群の「稲荷山古墳出土鉄剣」や熊本 の江田船山古墳出土大刀(共に「ワカタケル=雄略天皇」の銘が刻まれている)よりもさらに 古い、ということがこの稲荷台古墳出土鉄剣の重要なところ。刻まれた12文字も「王賜」以外 はほとんどはっきり読めないのではありますが、この「王」が誰なのか。この地域の王なのか、 それとも畿内の王なのか。「畿内の王」説のほうが有力で「倭の五王」の誰かであろうと言われ ているようです。とすると、その王からこの剣を賜った古墳の被葬者は? 副葬品に武具が多 いことから畿内の王に武力で遣えた人なのか、この剣を携えて畿内から上総に派遣されてき た人なのか、それとも意外に小さな古墳であることから、東国の有力者を通じて間接的にもた らされたものなのか……。今のところはまだはっきりしないけれど、今後、倭国がだんだんまと まってくる5世紀の時代を探るときに一つの鍵となる発見には違いありません。 上総国分寺跡 いわずとしれた741年の「国分寺建立の詔」によって全国に建てられた国分寺。詔が出てから 突然建ったわけではありませんから、場所を選び、人材や資材を集め建築し……とかなりの 年月がかってだいたい8世紀後半に建立されたものと考えられます。そんな全国の国分寺の 中でも武蔵、下野につぐ広さという上総国分寺跡は市民会館の西裏、神門5号墳もすぐ近 く。周辺でも最も高いと思われる台地の上にあります。南側はだだっ広い野っぱらの中心にこ んもりした塔の基壇の跡と、その上に塔心礎と礎石。ここの伽藍配置は大官大寺式……という のはわかりにくいかしら。いわば二つの塔がある薬師寺式の西塔を省いたような配置だったそ うです。塔跡の北側、金堂や講堂があったあたりは、江戸時代に建立された「国分寺」という名 の雰囲気のあるお寺になっています。そのまた北側には「政所院(まんどころいん)」という国分 寺を運営するための付属の役所があったことがわかっています。その地形からいっても、ここ にそびえていた七重塔はさぞかし遠くからでも目立って、国家の威厳を感じさせたことでしょう。
上総国分尼寺跡
そうです。また発掘調査により講堂北の尼坊が尼僧の定員の増減(道鏡政権下で増員された) に対応して建てかえられている様子や、間取りまでがわかるのだそうです。また、国分寺にも あった「政所院」のほか、仏像などの修理をする「修理院(すりいん)」、奴婢たちの居住した「卑 賤院」などの付属施設群の全容が明らかにされた貴重な国分尼寺なのだそうです。 はっきり言って、いろんな国分寺、国分尼寺跡に行きましたが、こんなに立派な国分尼寺跡 ははじめてです。中門、回廊と金堂基壇が古代工法で鮮やかに復元され、天平気分を盛り上 げてくれます。
上総国古代寺院と役所跡を求めて なんだから上総の国が気に入ってしまった私たちは、上記の旅から一月とたたない二月のあ る日、車に乗って再度アクアラインを渡ったのでありました。今回はオオアマさまのシュミで古 代郡衙やその隣接寺院などを推察する旅。前回よりかなりマニアックではあります。(この日の 日記はこちら) まずは館山自動車道を市原インターで下りたあたりが村上地区で、国府があった推定地のひ とつ。そこから五井駅のほうへ出てJRと館山道が平行して走るその間を北上すると、ただ畑 が広がる地域が出てくるのですが、空からでも見なければわからないのだと思いますが、古代 の条里制の地割がよく残っている地域なのだそうです。
から勧請したという社伝が残っているそうで。古代役所との関係はわからないものの、白鳳期 創建の伝説には因縁を感じます。やはり由緒のある土地なのか、と。本殿は室町期のもので 県の指定文化財。それより狛犬ではなくて狛猿だったのがとっても気になりました。猿は日吉 神社の神の使いなんだそうです。とってもユニーク。 古代役所の手がかりとして、郡衙の隣接寺院だったかもしれない古代寺院の跡も探してみま した。丘の上の住宅地の中に光善寺という小さな寺を発見。市原市内には国分寺よりも古い 寺が六つはあって瓦などが発掘されているということですが、そのうちの一つが「光善寺廃寺」 ですからこのあたりなのでしょう。遠くに海を望めるいい場所でした。
する。上総の国ではその最初のものがこの大寺廃寺で670〜690年くらいのことだろうといわれ ています。 久留里線の旅のときにも気にしていたように、その7世紀に活躍した人物の伝説がこの地方 には多く残されています。今回はそれらを巡る時間はなかったので、一ヶ所だけ、私がリクエス トして連れていってもらいました。 かずさ鎌足……鎌足伝説の地 大寺廃寺から木更津北インターへもどって通り過ぎ、山のほうへ登っていくと、「かずさアカデミ アパーク」という研究所やコンベンションセンターやホテルのある地域が突然あらわれます。こ この地名が「かずさ鎌足」。何度かここを通って気になってしかたがありませんでした。
すが、今回はそこまでは深入りせずに鎌足の地を通りぬけて木更津市街へ戻る道を走ってき ましたが、その途中、鎌足公民館前に鎌足桜なるものを発見。鎌足が高倉観音にお参りに来 たときに杖をたてたら桜の木になったという伝説の木なのだそうです。周囲は鎌足小学校、鎌 足中学校……と鎌足だらけ。なんだか不思議な気分のするのどかな地でした。
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