武蔵の古代史探索記

ここでは、呉女が生まれ育った武蔵の国の古代史探索記を集めてみました。灯台下暗し、というか、故郷のことって
意外と知らないものですね。ちなみに武蔵の国の範囲は現在の東京都、埼玉県、そして神奈川県横浜市と川
崎市にあたる範囲。かなり広かったのです。

<index >  狛江小散策  影向寺  豊島郡衙跡(御殿前遺跡)  高麗       
     番外ながら「お・ま・つ・り。」の国分寺祭りも「武蔵の古代史」にあたるかな?
 
狛江小散策  〜多摩川にさらす手作りさらさらに……〜

 2003年1月のある日、小田急線の狛江駅で降りることになり
ました。通ることならあるけれど、降りる機会は2度とないかも
……。「狛江というのは渡来人の高麗からきている地名だろ」
とオオアマさま。「有名な東歌の歌碑があるところよね」と呉
女。それで少し早めに出て、駅近くの図書館で地図などの資
料をいただき、1時間ほどの狛江散策をしてみました。
 まず駅のすぐ近くに泉龍寺。開基が良弁の伝説があるそ
うですが、これはアヤシイ。そこから多摩川の方向に歩くとア
パートなどに挟まれて亀塚古墳がありました。       
案内板が読めない位置にあったのが残念ですが、この古墳からは鏡など渡来系を思わせる遺物が出土しているのだそうです。見つけられなかったけど、この近くにはペリーが井伊直弼に贈った記念樹があるのだとか。迷いつつしばらく歩くと←塚古墳。こちらは亀塚よりは大きい円墳です。これらの古墳を「狛江古墳群」といい、5〜6世紀のものとされるそうですが、狛江にその時代から渡来人が在住していたことを今の時点では断定はできず、その可能性もある、という程度なのだそうです。兜塚古墳からほどなく、多摩川近く(川べりではない)
に万葉集の本でよく見る歌碑がありました。「多摩川にさらす手づくり →
さらさらになにぞこの子のここだかなしき」という心地よいリズムで有名な
万葉集の東歌です。歌の意味は「何でこの娘はこんなにかわいいの?」とい
うことですが、調として納める布を川の水でさらす労働を描いていることから
当時の税金の話でも引き合いに出される歌ですね。ここから少し多摩川をさ
かのぼると「調布」という町もあり、そのあたりにあったほうがふさわしそうな
気もしますが、もともとここに歌碑を立てたのは松平定信(寛政の改革をした
人ね)なのだそうです(税金払えってことかしら……)。
 すぐ前の多摩川べりに出てみました。このあたりの風景、テレビドラマに
出てきます。近くに撮影所が多
いことと関係するのかな?
 帰り道、小さな和菓子やさん
で「高麗のかおり」という鏡
を模ったお菓子を見つけまし
た。月餅のような木の実の入っ
た餡で、おいしいです。また、
駅の近くのマンション横に経塚
古墳というのも発見しました。
 多摩川を渡れば神奈川県。つまりギリギリの東京都のせいかアパートが立ち並ぶフツー町な
んですけど、そのスキマに古代が入り込んでいるような、ちょっと面白い町でした。
(2003年1月記)


影向寺(ようごうじ)    〜川崎の白鳳寺院〜

 2003年5月、川崎市民ミュージアムで開催中の「古代を考える 郡の役所と寺院」展を見
てきました。この企画展ではちょうど呉女の興味の対象である7世紀から8世紀にスポットをあ
てています。群馬をはじめとする関東の史跡が紹介されていて、わかりやすく面白い展示でし
た。そこでこの展示の中でも紹介され、ミュージアムから車ですぐの場所にある影向寺に帰り
に寄ってみました。
 ミュージアムの講演会で「この段階での寺院は、仏教が地方
に広まった結果というより、古墳に替わる政治的モニュメン
として造営された。だから後の山岳寺院などとは違って、目
立つ場所にある場合が多い」と聞いたように、影向寺も今では
住宅地の中に埋もれているものの、丘の上のいかにも目立ち
そうな場所にありました。現在もご覧のように立派なお寺。こ
の時代の寺院の多くが跡しか残されていないのに、この寺は
創建当時の本堂の礎石の上に現在の薬師堂がそのままたっ
ているらしいというのは驚きです。境内の片隅にある「影向

影向寺境内。奥が薬師堂

 影向石
」という塔の心礎石は眼病に効く霊石として信仰の対象として残されてきたそうです。
 寺の縁起では聖武天皇と光明皇后が行基に命じてたてた寺とされているそうですが、近年の発掘調査によると実際にはもっと古くて、白鳳期の天武・持統朝にはすでにあったことがわかったそうです。多分、神奈川に残る最古の寺院でしょう。
 この寺のすぐ近くでは当時の橘樹(たちばな)郡の役所(郡衙(ぐんが)、郡家(ぐうけ)とも)だったのではないかと思われる遺跡も発掘されているし、ちょっと離れたところに馬絹古墳という古墳もあります。7世紀から8世紀という時代の変革期、
地方豪族の支配のシンボルが古墳から寺院へと替わり、中央支配にとりこまれてその領域に
役所が置かれる……という一つの典型をここでも見ることができるのかもしれません。
 影向寺へは武蔵小杉駅からバスで行けます。
(2003年5月記)


豊島郡衙跡(御殿前遺跡)  〜圧巻の正倉復元〜

 2004年4月、前の週末に静岡県藤枝市の御子ヶ谷遺跡(志太郡衙跡)へ行った関連で、東京
都にある「御殿前遺跡(豊島郡衙跡)」を訪ねようということになりました。
 都電荒川線に乗って飛鳥山駅で降りると、すぐ前が飛鳥山公園(JR王子駅からもすぐで
す)。「飛鳥山」なんて名前も気になります。ここは徳川吉宗の時代に桜が植えられて名所とな
ったところです(この日の日記)。 
 飛鳥山公園の中に北区飛鳥山博物館があり、その中にこ
の近くにあった律令制下の豊島郡衙(ぐんが=律令制下の市
役所みたいなもの)の正倉が実物大で復元されているの
が圧巻です。正倉とは税として集めた米を貯蔵する倉のこと。
郡衙には正倉が並ぶ「正倉院」がつきものでした(今では東大
寺にあるのが「正倉院」になってしまっていますが、もともとは
普通名詞です)。豊島郡衙の場合、大溝で囲われた正倉院の
が東西205m、南北258mというのスケールの大きさ。展示室の
中では当時の役人と納税者たちの会話が楽しいアニメで再現
されています。もちろん墨書土器など遺物の展示も。
 武蔵国豊島郡は現在の東京都の北・板橋・荒川・台東・文京・豊島・練馬区にあたる地域。
呉女が育ったのは練馬。「呉女もここまで税金を納めに来るんだったんだよ」「たいへん〜」。
 博物館の展示を見た後は本郷通りを10分ほど歩きます。途中の一里塚から滝野川公園に至るあたりが豊島郡衙や正倉院があった御殿前遺跡にあたるようで、滝野川公園の入り口近くに御殿山遺跡のモニュメントがあります。弥生式土器があしらわれているのはここが複合遺跡だから。あとで都電から「飛鳥山」を見上げてよくわかったのですが、「飛鳥山」を先端とする舌状の台地の上に遺跡は広がっています。縄文時代くらいまではその下は海。近くの遺跡では丸木舟が発掘されたりもするのだそうです。その後、海は低地となり、飛鳥山
公園あたりには弥生時代の大環濠集落があったそうです。律令制期に入ると武蔵国府と下総
国府を結び、武蔵野台地の東端にあたる交通の要衝としてこの地に郡衙ができたようです。 
 最近ムズカシイ本を熱心に読んでいるオオアマさまによれば、全国で発掘された郡衙跡の多
くは7世紀も後半になってからできたものが多い中、この豊島郡衙は7世紀の中頃に遡れる
可能性があり、いわゆる大化の改新の評制によるものらしい(郡衙ではなく評衙というべき
か)ということなのです。「大化の改新って本当にあったんだ……」と珍しく東京の空の下で古代
を感じたのでした。
(2004年4月記)

武蔵の明日香?……高麗(こま)  〜高麗王若光の面影を残す町〜

 このページの最初にある「狛江」も渡来人の居住を思わせる地名ですが、埼玉県の南部、日
高市にある高麗はもっとはっきりした形で古代の渡来人の足跡を残しています。2004年のゴー
ルデンウィーク。晴天に恵まれた一日、高麗にハイキングに行きました。
 JR八王子駅から八高線で40分程。JR川越線と別れる高麗川駅下車。住宅街の中を抜け、
少し先の山の中腹にお寺が見えるのを頼りにテクテク歩くこと20分くらい。急に車と人が増えた
と思ったら川辺でバーベキューなどを楽しむ人たちでした。それを横目に出世橋という橋をわ
たり、まず高麗神社へ。祭神は高麗王若光(こまのこきしじゃっこう)という人。

明治になってから寄進されたという扁
額には高麗の字の間に「句」の字が。
 この人は「日本書紀」に666年(天智5)高句麗が派遣してきた訪日団の一人、二位玄武若光と同一人物と考えられています。来日した二年後には高句麗が唐に滅ぼされ、そのまま日本に残ったものと思われます。相模の大磯にある高来神社が若光が滞在した地と伝えられています(まだ行ったことはありません)。若光は703年(大宝3)に王(こきし)という姓(かばね)を賜りました(高麗王といっても高句麗の王族というわけではない)。そして716年(霊亀2)駿河、相模などの高麗人1799人を武蔵国高麗に移住させて高麗郡を置いたと「続日本紀」にあります。この移住者たちのリーダー(郡司だったらしい)が若光だったのです。
 当時、このような渡来人の入植というのはよく行われたようで、彼らの技術で未開の土地を
開発しようということだったのでしょう。若光さんはこのときすでに高麗にいたのか、それともは
じめて移ってきたのかわかりませんが、すでにかなりの高齢だったでしょう。高麗神社は別名
「白鬚神社」とも言うそうですが若光さんを「白鬚さま」と呼んでいたからだとか。彼の死後、神
社が建立され、その子孫が代々宮司を務めて現在にいたっているといわれ、高麗家の系図も
伝えられているそうです。ただし中世に一度焼けているのでその後に復元したものだそうです
が。神社裏には代々の宮司が住んだ高麗家住宅(江戸期のもの)も残されています。また藤
原仲麻呂のもとで活躍した高麗福信もここの出身といわれ彼と若光さんは親族という説もある
けれど、実際はよくわからないようです。
 ところでこの神社は「出世明神」とも言われているそうです。なんでも若槻礼次郎と浜口雄幸
が二人ともここを参拝した翌年に首相になったんだそうな。今でも参拝者一覧の中にお二人の
名前が見えます。だけど、オオアマさま、出世しなくていいからね!
 高麗神社から山裾を少し先へ進むと、聖天院に着きます。正しくは高麗山勝楽寺。ここは
751年(天平勝宝3)若光の菩提を弔うために建立されたというお寺。山門の横のほうに若光
の墓と伝わる石塔が残されています。遠くからでもよく見えた山の中腹と本堂は近年になって
建てられたもので、以前は一段低いところにあったようです。本堂隣の鐘楼の脇で若光さんの
像が高麗の町を見下ろしています。
 ところでこの寺の前、さきほどの神社の前、駅の前などで「天下大将軍」「地下女将軍」と書い
た一対の「将軍標」が目につきますが、これは古来からの朝鮮半島の守護神なんだそうで、厄
病を防ぐとされているそうです。 

聖天院と将軍標

若光像

若光が見下ろしている風景

若光の墓
 次に巾着田をめざして歩きます。「武蔵の明日香」と呼ばれ、周囲を低い山で囲まれた地形
は確かに明日香を思わせますから、歩く場所もそんな雰囲気を期待していたのですが、どのガ
イドを見ても歩く道は車道。カワセミ街道と呼ばれる山沿いの少し高いところの道を歩いたので
すが、景観が開けるわけでもなく単調な道でした。あまり人も歩いていないし。ところが巾着田
に近づくと、反対側からたくさんの家族連れなどが山のほうへ向かっていきます。その山は
和田山。のぼると巾着田の展望が開けると聞いていました。標高は300メートル。余力があっ
たので、登ってみようという気になりました。30〜40分ほどのぼったところで一番眺望がいいと
いう金刀比羅神社に到着。ここで巾着田と高麗の景色を眺めながら駅前で買ったおにぎりを
食べました。巾着田というのは秋のマンジュシャゲが有名なところで、この日和田山から見おろ
すとよくわかるのですが、高麗川が蛇行して巾着袋みたいな形に見えるのです。言い伝え
によれば、もともと水田には適さなかったこの土地で渡来人たちが川に堰をつくって流れを蛇
行させ、その内側を水田にしたといわれているそうです。あまりに気持ちよかったので、どのく
らいそこにいたでしょうか。オオアマさまはまるで若光さんになりきったように高麗の土地を眺
めていました。山に囲まれてはいるけど、一方は関東平野に向かって開けていて歩いていたと
きに感じたほど閉鎖的な土地ではない……。「それにしても大和政権はどうしてここを開発させ
ようとしたんだろうねえ」「うーん……。この山の奥はすぐ秩父よ。年代からいって和同開珎との
関係なんてどう?」「そういうこともあるかも……」なんて会話がはずんでしまいます。

日和田山から高麗を望む。この左の
方に関東平野が広がります。

巾着田。くるっと木がとりまいているよう
なところに高麗川が流れています。

巾着田の西方向。山の方に和銅遺跡のある秩父があります。
 さて、山を降りてその巾着田へ。川べりには川遊びをする人の山。道路は大渋滞。それを尻
目に私たちは巾着田の内側をちょっと散歩。レンゲの花が見られるかと思っていたら、もう終
わっていたのか見れなくて残念。今は半分田んぼ、半分は公園といった感じでした。
 川の堰を渡って、西武線高麗駅までは歩いて15分くらい。一つ目の東飯能駅で八高線に乗り
換えて帰ってきました。
 


巾着田から見る日和田山

高麗川の堰
(2000年5月記)


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