意外と知らないものですね。ちなみに武蔵の国の範囲は現在の東京都、埼玉県、そして神奈川県横浜市と川 崎市にあたる範囲。かなり広かったのです。
んですけど、そのスキマに古代が入り込んでいるような、ちょっと面白い町でした。
(2003年1月記)
2003年5月、川崎市民ミュージアムで開催中の「古代を考える 郡の役所と寺院」展を見 てきました。この企画展ではちょうど呉女の興味の対象である7世紀から8世紀にスポットをあ てています。群馬をはじめとする関東の史跡が紹介されていて、わかりやすく面白い展示でし た。そこでこの展示の中でも紹介され、ミュージアムから車ですぐの場所にある影向寺に帰り
役所が置かれる……という一つの典型をここでも見ることができるのかもしれません。 影向寺へは武蔵小杉駅からバスで行けます。
(2003年5月記)
2004年4月、前の週末に静岡県藤枝市の御子ヶ谷遺跡(志太郡衙跡)へ行った関連で、東京 都にある「御殿前遺跡(豊島郡衙跡)」を訪ねようということになりました。 都電荒川線に乗って飛鳥山駅で降りると、すぐ前が飛鳥山公園(JR王子駅からもすぐで す)。「飛鳥山」なんて名前も気になります。ここは徳川吉宗の時代に桜が植えられて名所とな ったところです(この日の日記)。
呉女が育ったのは練馬。「呉女もここまで税金を納めに来るんだったんだよ」「たいへん〜」。
国府を結び、武蔵野台地の東端にあたる交通の要衝としてこの地に郡衙ができたようです。 最近ムズカシイ本を熱心に読んでいるオオアマさまによれば、全国で発掘された郡衙跡の多 くは7世紀も後半になってからできたものが多い中、この豊島郡衙は7世紀の中頃に遡れる 可能性があり、いわゆる大化の改新の評制によるものらしい(郡衙ではなく評衙というべき か)ということなのです。「大化の改新って本当にあったんだ……」と珍しく東京の空の下で古代 を感じたのでした。
(2004年4月記)
このページの最初にある「狛江」も渡来人の居住を思わせる地名ですが、埼玉県の南部、日 高市にある高麗はもっとはっきりした形で古代の渡来人の足跡を残しています。2004年のゴー ルデンウィーク。晴天に恵まれた一日、高麗にハイキングに行きました。 JR八王子駅から八高線で40分程。JR川越線と別れる高麗川駅下車。住宅街の中を抜け、 少し先の山の中腹にお寺が見えるのを頼りにテクテク歩くこと20分くらい。急に車と人が増えた と思ったら川辺でバーベキューなどを楽しむ人たちでした。それを横目に出世橋という橋をわ たり、まず高麗神社へ。祭神は高麗王若光(こまのこきしじゃっこう)という人。
開発しようということだったのでしょう。若光さんはこのときすでに高麗にいたのか、それともは じめて移ってきたのかわかりませんが、すでにかなりの高齢だったでしょう。高麗神社は別名 「白鬚神社」とも言うそうですが若光さんを「白鬚さま」と呼んでいたからだとか。彼の死後、神 社が建立され、その子孫が代々宮司を務めて現在にいたっているといわれ、高麗家の系図も 伝えられているそうです。ただし中世に一度焼けているのでその後に復元したものだそうです が。神社裏には代々の宮司が住んだ高麗家住宅(江戸期のもの)も残されています。また藤 原仲麻呂のもとで活躍した高麗福信もここの出身といわれ彼と若光さんは親族という説もある けれど、実際はよくわからないようです。 ところでこの神社は「出世明神」とも言われているそうです。なんでも若槻礼次郎と浜口雄幸 が二人ともここを参拝した翌年に首相になったんだそうな。今でも参拝者一覧の中にお二人の 名前が見えます。だけど、オオアマさま、出世しなくていいからね! 高麗神社から山裾を少し先へ進むと、聖天院に着きます。正しくは高麗山勝楽寺。ここは 751年(天平勝宝3)若光の菩提を弔うために建立されたというお寺。山門の横のほうに若光 の墓と伝わる石塔が残されています。遠くからでもよく見えた山の中腹と本堂は近年になって 建てられたもので、以前は一段低いところにあったようです。本堂隣の鐘楼の脇で若光さんの 像が高麗の町を見下ろしています。 ところでこの寺の前、さきほどの神社の前、駅の前などで「天下大将軍」「地下女将軍」と書い た一対の「将軍標」が目につきますが、これは古来からの朝鮮半島の守護神なんだそうで、厄 病を防ぐとされているそうです。
は確かに明日香を思わせますから、歩く場所もそんな雰囲気を期待していたのですが、どのガ イドを見ても歩く道は車道。カワセミ街道と呼ばれる山沿いの少し高いところの道を歩いたので すが、景観が開けるわけでもなく単調な道でした。あまり人も歩いていないし。ところが巾着田 に近づくと、反対側からたくさんの家族連れなどが山のほうへ向かっていきます。その山は日 和田山。のぼると巾着田の展望が開けると聞いていました。標高は300メートル。余力があっ たので、登ってみようという気になりました。30〜40分ほどのぼったところで一番眺望がいいと いう金刀比羅神社に到着。ここで巾着田と高麗の景色を眺めながら駅前で買ったおにぎりを 食べました。巾着田というのは秋のマンジュシャゲが有名なところで、この日和田山から見おろ すとよくわかるのですが、高麗川が蛇行して巾着袋みたいな形に見えるのです。言い伝え によれば、もともと水田には適さなかったこの土地で渡来人たちが川に堰をつくって流れを蛇 行させ、その内側を水田にしたといわれているそうです。あまりに気持ちよかったので、どのく らいそこにいたでしょうか。オオアマさまはまるで若光さんになりきったように高麗の土地を眺 めていました。山に囲まれてはいるけど、一方は関東平野に向かって開けていて歩いていたと きに感じたほど閉鎖的な土地ではない……。「それにしても大和政権はどうしてここを開発させ ようとしたんだろうねえ」「うーん……。この山の奥はすぐ秩父よ。年代からいって和同開珎との 関係なんてどう?」「そういうこともあるかも……」なんて会話がはずんでしまいます。
目に私たちは巾着田の内側をちょっと散歩。レンゲの花が見られるかと思っていたら、もう終 わっていたのか見れなくて残念。今は半分田んぼ、半分は公園といった感じでした。 川の堰を渡って、西武線高麗駅までは歩いて15分くらい。一つ目の東飯能駅で八高線に乗り 換えて帰ってきました。
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