大化の改新 その1
〜秋の稲淵散策〜


 ここでは皇極天皇の時代(642〜645)までの歴史の舞台を訪ねて、明日香を旅します。何
回かの旅を組み合わせて、「大化の改新コース」をつくってみました。今回はその1として、明
日香の東南部、稲淵散策です。

 舒明天皇が亡くなったあと、舒明天皇の皇后だった宝皇女が即位します。日本史上二人目の女帝の誕生で
す。おそらく聖徳太子の息子、山背大兄王と、舒明天皇の息子、古人大兄皇子(母は馬子の娘、法提郎媛)のどちら
を立てても、舒明天皇が即位する前のようにガタガタする。その混乱を避けるために推古天皇の前例から元皇后が
即位した、ということなのでしょう。皇極天皇自身の息子、中大兄はまだ十代の若さだったからか、この時点ではあま
り問題にされていないようですが……。

 2003年10月。ちょうど「飛鳥京ルネッサンス」というイベン
トを開催中で観光用の「赤かめバス」と主に地元住民用の
金かめバス」を試験運行中。このバスを使ってみることに
しました。石舞台バス停から「高市方面」という金かめバス
に乗るとまず東方向に坂をぐんぐんの登り、そして折り返し
てくる(地元住民用ですから)。この道は初体験だったので
すが、坂を下ってくるとき明日香村を上から見ているような
感じで、なかなか感動モノでした。
バスのフロントガラスからの眺め→

稲淵バス停と金かめバス。かめバス
は亀の形はしていません(笑い)
 そしてバスは石舞台の少し東で南に方向を変え、山沿いの道を走ります。本当は栢森まで乗る予定を、オオアマさまの体調があまりよくなかったので、一つ手前の稲淵バス停で下りました。その先に南淵請安の墓があるのですが、どの程度先まで歩くのかがわからず、元気のないオオアマさまは「今日はあきらめる」と。呉女は「私だけ走って行ってくるから、飛び石のところで待ってて!」と一人飛び出して行きました。このときのことをオオアマさまは自分の旅日記に「呉女を一人で山里に放すのは心配だった」と書いています。まるで私を犬か何かみたいに……。

南淵請安の墓 
 「南淵」というのはこのあたりの地名だったと思われますが、今ではそれが「稲淵」に変化して
います。南淵請安先生はこのあたりに居住していた渡来人の一族の一人で608年に小野妹子
と隋に渡って30年も隋、唐で学んだ学問僧。中大兄皇子と中臣鎌足は、唐から帰国して間も
ない請安先生宅に通って教えを請いつつ、その道すがら蘇我氏を打つ計画を練ったともいわ
れています。つまりこれから歩く道を中大兄と鎌足も歩いていたかもしれないわけ。請安先
生は大化の改新後の政治に関与していないようなので、改新前に亡くなったのではないかとも
言われていますが、実際のところは生年も没年も不明です。請安先生の墓はバス停から思っ
たより近く、民家の脇の細い坂道を登った高台にありました。小さな鳥居をくぐると祠が一つ。
春には桜がきれいなところなのだそうです。

ここの道を左へ入ると

これが南淵請安先生の墓、といわれています。

お墓の前から見た稲淵の集落

 私は駆け足で戻ってバス停を過ぎ、案内板に従って細い坂道を下っていくと、黄金色の稲穂
の中に埋まるようにオオアマさまの姿が見えました。その下のほうに飛鳥川の小さな流れと、
観光写真ではよく見ていた飛び石とよばれる石橋(いわはし)がありました。夏には蛍が飛び
交うのだそうです。今はすっかり秋の風情。周囲に人影はなく、万葉集にこの橋を詠った恋の
歌があるのも納得できるような、立ち去りがたい場所でした。

飛び石へ下りる坂道。彼岸花が迎えてくれます。

  これが飛び石。風情ある〜。

飛び石から見た飛鳥川の秋

 さて、しばらくはバスの走ってきた道をたどって、石舞台を目指して歩きます。ゆるい下り坂。
目の前には棚田の風景が広がっています。稲淵の集落が切れるあたりに五穀豊穣を願う
請縄が飛鳥川をまたいでかけられていました。あれ、どうやって架けるんだろう? その下の
橋に「南淵先生講義図」のデザインを見つけました。

勧請縄
の男綱。
その向こう
で何やら
手を振る
人の姿が
……。
←アップにしてみました。
棚田で開催中のかかしコンテ
ストのジャンボかかし
デザインされているのは正に
宝皇女(皇極天皇、後の
斉明天皇)その人です。

「南淵先生講義図」
 棚田は明日香でも人気のある風景ですが、今まであまりきちんと見たことがなかったので、
今さらながら新しい明日香の一面を見たような気がしました。観光客の姿も意外と多くて、特に
一人旅の女性の姿が目につきます。レンタサイクルに乗ってくる人も多いようですが、こちらに
向かうのに上り坂はキツイようで、ほとんどの人は自転車から降りておしていました(それでウ
チは金かめバスの企画に飛びついたのですが)。棚田の中を左にのびた道を行くと峠を越えて
高松塚古墳方面にも出られるのですが、私たちはまっすぐに山と棚田の間の道をゆっくりと下
っていきます。のどかに見える棚田も維持していくのはたいへんなようです。そのため明日香
には棚田のオーナー制度があるのですが、オオアマさまはそれに興味を示していましたから、
そのうち農作業に来るようになったりして……。それにしても、このあたりの水田を開いたのも
ここに住んだ渡来人たちなのでしょうか? だとしたら、どうしてこんな水田に向きそうにない土
地をわざわざ開いたのかしら……。

坂田寺跡
 棚田が途切れたころ、右へ坂道を入るとすぐ、坂田寺跡があります。仏師鞍作鳥を出した
作氏の氏寺の跡。渡来人である鞍作氏はかなり早い時点からこの地に仏堂を建てていたと
思われます。日本で一人目の出家者といわれるのがこの家の善心尼であり、実際坂田寺は尼
寺であったようです。中大兄と鎌足が歩いていた当時はどの程度の規模だったのかわかりま
せんが、その後、8世紀には「飛鳥の五大寺」の一つとして隆盛を誇っていたようです。

坂田寺跡

8世紀の遺構が発掘されています

坂田寺跡周辺の秋

稲淵宮殿跡

稲淵宮殿跡。2002年11月
  坂田寺跡の近くから、バスの来た道を離れて西の道へ入ります。祝戸地区です。この日はそのまま飛鳥川沿いに石舞台へと向かいましたが、元気があったら目の前にそびえる丘、飛鳥を一望できるという祝戸の展望台に登りたかった……。呉女は一年ほど前にもう少し先の展望台への入口あたりまで一人で歩いたことがあるのですが、駐車場のところが稲淵宮殿跡といって石敷の遺構などが見つかったところです。皇極天皇の時代の有名なエピソードに雨乞いの話があります。皇極元年、旱魃が続き、蘇我入鹿が僧たちにお経を読ませたけれど雨は少ししか降らなかった。そこで天皇自身が南淵の川上で祈ったところ大雨が降った…
…という皇極天皇の徳をあらわすエピソードですが、この
ときの「南淵の川上」はこの場所ではないか、といわれて
います。(請安先生の墓のもっと先にある今回は行けな
かった宇須多岐比売命神社がその場所だという説もあり
ます)。また、改新後、中大兄たちが難波から明日香へ
戻ってきたときに入った河辺行宮がこの稲淵宮殿跡で
はないか、という見方もあります。ちなみに、雨乞いのと
き入鹿が読経をさせた場所はなぜか舒明天皇が建てた
百済大寺の南の広場。そしてこの読経が悔過会(東大寺
のお水取りはこれ)の初見であるといわれています。

稲淵宮殿跡近くからの棚田。2002年11月


祝戸付近の飛鳥川
 飛鳥川の小さな滝が見える玉藻
橋を渡れば、すぐ石舞台横の広
場に到着。1時間ほどの散策でし
た。オオアマさまは石舞台より南
の地域へ行くのははじめてだった
ので、ちょっと体調に無理はした
けれど、棚田の風景が見られて
新鮮でよかった、と言っていまし
た。

玉藻橋から 


石舞台古墳付近。2002年11月
石舞台古墳といえば蘇我馬子の墓であることがほぼ定説となっている古墳ですが、この周辺は「」と呼ばれ、馬子の邸宅があったといわれているほか、大化の改新当時には中大兄皇子がこのあたりに住んでいたとも言われている場所です。(ということは、やはりこの日の道は中大兄と鎌足が歩いた道、といえるわけだワ)。それに、時代が下って、壬申の乱前には、近江から逃げてきた大海人皇子が一時は入ったのがこの「嶋宮」。つまり大海人さらら夫婦が吉野へ越えて行った道もこの道。稲淵から先へ行くと吉野へ通じる芋峠。多分、さらら様が後に何度も吉野へ通った道でもあります。私はまだ稲淵より先に行ったことはないけれど、いつか芋峠を越えて吉野まで行ってみたいものです。

次は石舞台古墳のある「嶋」から始めます。
(2003年10月記)


大化の改新その2
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