ここでは皇極天皇の時代(642〜645)までの歴史の舞台を訪ねて、明日香を旅します。何 回かの旅を組み合わせて、「大化の改新コース」をつくってみました。今回はその1として、明 日香の東南部、稲淵散策です。 舒明天皇が亡くなったあと、舒明天皇の皇后だった宝皇女が即位します。日本史上二人目の女帝の誕生で す。おそらく聖徳太子の息子、山背大兄王と、舒明天皇の息子、古人大兄皇子(母は馬子の娘、法提郎媛)のどちら を立てても、舒明天皇が即位する前のようにガタガタする。その混乱を避けるために推古天皇の前例から元皇后が 即位した、ということなのでしょう。皇極天皇自身の息子、中大兄はまだ十代の若さだったからか、この時点ではあま り問題にされていないようですが……。
南淵請安の墓 「南淵」というのはこのあたりの地名だったと思われますが、今ではそれが「稲淵」に変化して います。南淵請安先生はこのあたりに居住していた渡来人の一族の一人で608年に小野妹子 と隋に渡って30年も隋、唐で学んだ学問僧。中大兄皇子と中臣鎌足は、唐から帰国して間も ない請安先生宅に通って教えを請いつつ、その道すがら蘇我氏を打つ計画を練ったともいわ れています。つまりこれから歩く道を中大兄と鎌足も歩いていたかもしれないわけ。請安先 生は大化の改新後の政治に関与していないようなので、改新前に亡くなったのではないかとも 言われていますが、実際のところは生年も没年も不明です。請安先生の墓はバス停から思っ たより近く、民家の脇の細い坂道を登った高台にありました。小さな鳥居をくぐると祠が一つ。 春には桜がきれいなところなのだそうです。
私は駆け足で戻ってバス停を過ぎ、案内板に従って細い坂道を下っていくと、黄金色の稲穂 の中に埋まるようにオオアマさまの姿が見えました。その下のほうに飛鳥川の小さな流れと、 観光写真ではよく見ていた飛び石とよばれる石橋(いわはし)がありました。夏には蛍が飛び 交うのだそうです。今はすっかり秋の風情。周囲に人影はなく、万葉集にこの橋を詠った恋の 歌があるのも納得できるような、立ち去りがたい場所でした。
さて、しばらくはバスの走ってきた道をたどって、石舞台を目指して歩きます。ゆるい下り坂。 目の前には棚田の風景が広がっています。稲淵の集落が切れるあたりに五穀豊穣を願う勧 請縄が飛鳥川をまたいでかけられていました。あれ、どうやって架けるんだろう? その下の 橋に「南淵先生講義図」のデザインを見つけました。
今さらながら新しい明日香の一面を見たような気がしました。観光客の姿も意外と多くて、特に 一人旅の女性の姿が目につきます。レンタサイクルに乗ってくる人も多いようですが、こちらに 向かうのに上り坂はキツイようで、ほとんどの人は自転車から降りておしていました(それでウ チは金かめバスの企画に飛びついたのですが)。棚田の中を左にのびた道を行くと峠を越えて 高松塚古墳方面にも出られるのですが、私たちはまっすぐに山と棚田の間の道をゆっくりと下 っていきます。のどかに見える棚田も維持していくのはたいへんなようです。そのため明日香 には棚田のオーナー制度があるのですが、オオアマさまはそれに興味を示していましたから、 そのうち農作業に来るようになったりして……。それにしても、このあたりの水田を開いたのも ここに住んだ渡来人たちなのでしょうか? だとしたら、どうしてこんな水田に向きそうにない土 地をわざわざ開いたのかしら……。
坂田寺跡 棚田が途切れたころ、右へ坂道を入るとすぐ、坂田寺跡があります。仏師鞍作鳥を出した鞍 作氏の氏寺の跡。渡来人である鞍作氏はかなり早い時点からこの地に仏堂を建てていたと 思われます。日本で一人目の出家者といわれるのがこの家の善心尼であり、実際坂田寺は尼 寺であったようです。中大兄と鎌足が歩いていた当時はどの程度の規模だったのかわかりま せんが、その後、8世紀には「飛鳥の五大寺」の一つとして隆盛を誇っていたようです。
稲淵宮殿跡
次は石舞台古墳のある「嶋」から始めます。
(2003年10月記)
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