が、「大化の改新その1」の終わりに「次は嶋から」と書いたきり、なかなか更新できずに悩み、 そのうちパソコンが壊れスキャナで取り込んだ写真も消えて「あ〜あ」とため息……。そんな 2004年3月、飛鳥京発掘に続けて嶋宮発掘のニュースが飛び込んできました。もちろん、呉女 とオオアマさまも現地説明会に駆けつけました。ここでは「蘇我馬子邸か」と騒がれたその嶋 宮推定地「島庄遺跡」へ行きましょう。 島庄(しまのしょう)遺跡 2004年4月、1時間並んだ末に飛鳥京遺跡の見学を終えた私たちは、人の流れにのって歩き ます。飛鳥京跡のある真神原からは、多武峰の麓にのっかるように坂道を少しのぼる感じ。10 分ちょっとで島庄へ着きます。このあたりは石舞台古墳では有名でも、蘇我馬子の邸宅やそ の後身かもしれない嶋宮のことは、今回の発掘で話題になるまで一般的にはあまり知られて いなかったかもしれません。
とその脇の田んぼ。ここが池跡が発掘された場所です。ほぼ東西に走る道から見るとかなり 傾いた方形だったようですが、もしかしてその池の名残かも、と思われれるラインがはっきり見 えます(本当にそうかどうかはわかりません)。発掘されたのは内径一辺42mの正方形、深さ2 m、石底は玉石敷き、護岸も石積みの池とそれを囲む堤。ただし、池の中に島は見つからな かったそうです。池のすべてを掘ったわけではないそうなので可能性としては残されているので すが……。それから「あすか野」さんの裏あたりの田んぼからは石組溝や掘立柱の跡も発掘 されています。すぐ前に看板などはないので、普段は私のようなモノ好き以外には見向きもさ れない場所ですが、この日ばかりは田んぼを覗き込み、写真に撮る人を何人も見かけました。
に彼らが住んだかどうかはわかりません。一方で舒明天皇と皇極天皇の間に生まれた中大兄 皇子がこのあたりに住んだと伺わせる記述があります。皇極天皇の条に当時流行ったとされ る「謡歌(わざうた)」がのっていて、それが「嶋大臣の家の近くに中大兄皇子が家を建てて密議 をしていた」という意味だ、というのです。馬子の家がこのあたりなら、中大兄と鎌足もこのあた りで語り合っていたと考えられるのです。 皇極2年(643)に皇極天皇が床を離れずに看病していた天皇の母、吉備嶋皇祖母命(きびのしまのすめみおやの みこと)が亡くなりますが、この方の名前に「嶋」の字が入っています。当時名前と地名は密接な関係があることか ら、吉備嶋皇祖母命もこのあたりに住んでいたのではないかと考えられています。ちなみに吉備嶋皇祖母命は飛鳥 駅から近い、現在猿石が並べられていることで有名な「吉備姫王墓」の吉備姫王その人です。ただし、そこが吉備 姫王の墓であるという信憑性は低いようです。 ところでその娘である皇極天皇(宝皇女)は舒明天皇の皇后だった人。舒明天皇との血縁関係でいえば異母兄弟 の娘。つまり蘇我氏とは血縁のない人のように見えます。ただ母方の血では吉備姫王の父、桜井皇子は推古天皇 の同母弟。つまり馬子の甥ですから、馬子と関係がなくはないのです。もしかして、そういう関係で吉備姫王が「嶋」 に住んでいたのかもしれないし。 また別の見方では吉備姫王邸は馬子邸の隣で、吉備姫王が亡くなった後その孫にあたる中大兄が住んだのかも しれないし。それから中大兄のもう一人の祖母(舒明天皇の母)も「嶋皇祖母命」と呼ばれています。この方はけっこ う長生き(664年没)だから、中大兄邸の後にお住まいかしら?
す。そういえば、池跡をはさんでちょうど反対の位置にあたる前述の「あすか野」さんの裏の建 物跡も、7世紀前半のものは角度があり、7世紀後半のものは真南北を向いているそうです。 689年に草壁クンが亡くなったときの舎人たちの歌の中に嶋宮が詠み込まれています。 中大兄、大海人、草壁と有力皇位継承候補者が嶋宮に関係していることに注目する学者さんもいます。つまりここ が宮(飛鳥京跡)の東にあることから「東宮」の起源では?ということなのでしょう。 また、奈良時代に入っても「嶋宮」は存続し、北は山の尾根あたり、西は石舞台、東と南は飛鳥川を越えた範囲を 含む広大な宮域をもっていたのではないか、と言われています。
一生懸命見学した後はお腹がすごーくすいたので、発掘現場のすぐ東隣のの「明日香の夢 市」さんでお弁当を買って、そのまたすぐ東隣の石舞台広場で食べて(この部分は日記にて)、 それからこの日は来た道を戻りましたが、ここでは広場のまた東隣、石舞台古墳へと進みまし ょう。
は「細川谷古墳群」という古墳が集中している地域なのですが、石舞台古墳は6世紀末、つま りその時代にはまだ新しい古墳をいくつか崩して、その上に造っているのだそうで、7世紀の初 めにそれほどの権力を持っていた人物、そしてその所在が馬子ゆかりの島庄、ということでこ れが蘇我馬子の墓であろうということは、ほぼ確実視されています。 入場料(250円)を払って古墳へ。方墳の上は広々、遠くに二上山が見え、周囲の新緑は清々 しい……。お墓の上(中?)にいることなど忘れてしまう気持ちよさです。石室の中もこれだけ大 きければ入るのに「コワイ」というような抵抗は全くありません。中でボランティアガイドさんの説 明を聞きます。どうやってこの巨大な石を積み上げたか。まず最初の石を置いたらその周り に石と同じ高さに盛り土して、その土の上で石を引っ張り上げて積み、最後に石室の中の土を かき出したということでした。メモを取り出しガイドさんのおっしゃることをいちいち書き留めるオ オアマさまの律儀さ……。
説があります。橿考研の河上邦彦先生の説ですが、石舞台古墳を少し南に行ったところにある都塚古墳。私はまだ 訪ねたことはないのですが河上先生によれば石舞台と石室の形や方向が同じで大きさだけは小さい。つまり石舞台 と「対」に見える。もしかして「書紀」に蘇我蝦夷・入鹿親子が「生前に自分たちの大・小の双墓を作って大陵・小 陵と称した」というようなことが書かれているのがこの二つである可能性もあるのではないか、ということなのです。そ うすると馬子ではなく蝦夷の墓ということになり、じゃあ馬子の墓は?という話になりますが……(それは私に聞かな いで!)。「書紀」にはその大陵・小陵をつくるために聖徳太子の一族「上宮王家」の人民が使われたことで山背大兄 王の妻、大娘姫王(聖徳太子の娘で山背大兄とは異母兄妹)がカンカンに怒った、とあります。そして皇極2年(643) 11月、入鹿は斑鳩に山背大兄王を襲撃。上宮王家は滅亡するのです。
てもらえたかどうかはわかりません。 ちなみに、石舞台古墳が石室を露出した状態になったのは、大化の改新で蘇我本宗家が滅んだ後にあばかれた のだ、というようなことが言われますが、それは俗説なのだそうで、かといってあのような姿にいつごろからなぜなっ たのかというのは、いろいろ推察する先生はいらっしゃいますが、結局のところよくわかっていないようです。 さて、次はいよいよその異変の当日へ、旅してみましょう。
(2004年4月記)
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