前のページで推古朝が終わったことにしましょう(笑)。聖徳太子が亡くなったあと、蘇我馬子が亡くなり、長生きした 推古天皇も亡くなる……。その後即位したのは舒明天皇(在位629〜641)。そう、中大兄、大海人兄弟のパパで す(大海人は舒明天皇の子ではないという説もありますが「学説」として一般的ではないし、呉女は個人的にこの説 は好きではないので、ここではその説には触れません。)このページでは蘇我氏の影に隠れて地味になりがちの舒 明天皇の時代にスポットをあてて、明日香より北側の地域を歩いてみます。 天の香久山 〜万葉のはじまり〜 舒明天皇の時代といえば、この時代から「万葉集」の時代がはじまります。8世紀に編纂され た「万葉集」には5世紀の仁徳天皇や雄略天皇の作といわれる歌も収録されていますが、おそ らくこれらは当時伝承されていた歌謡のようなもの。作者にしろ年代にしろ、ある程度信憑性 のある歌が連続して出てくるようになるのは舒明天皇の時代からです。 そこで「万葉集」の2首目の舒明天皇が「香具山に登りて望国(くにみ)したまふ時の御製歌」
まは小学生のとき国語の教科書で大和三山ハイキングをする話を読んだときから、ここに来た かったのですって。畝傍御陵前の駅から歩きはじめて(畝傍山には登りませんでしたが)、本薬 師寺に立ち寄り、奈文研の資料室の南側の道から香久山に登りました。とはいえ香久山って 本当に低いのです。本によって高さの記述が違うので困るのですが、だいたい150mくらい。す ぐに頂上の国常立(くにのところたて)神社に着いてしまいます。木が茂っているのでほとんど眺 望はありません。なんとか下界の見えるところを探して撮ったのが上の写真。耳成山とその前 に広がるのが舒明天皇の孫(さらら様)の代になって日本で初めての本格的な都城ができる藤 原宮跡です。 このときは「ロマントピア藤原京」というイベントを開催中。香久山をおりて、珍しく観光客がい る藤原宮跡を歩きましたが、今は平坦なこの土地は、都を造るために整地する前は起伏があ ったり古墳があったり集落があったり……という土地だったようです。
かえってぼけが進むんじゃないかと思うほど、暑くてつらい道のりでした。
って春日神社の横を入ると池のほとりに出ることができます。このあたりにはよくある、何てこ とないため池ですが、舒明天皇といえば、ここをはずせません。 舒明天皇(田村皇子)は、推古天皇の夫だった敏達天皇と最初の皇后との間に生まれた押坂彦人大兄皇子の 息子。押坂彦人大兄皇子という人はいつ亡くなったかも記録にない謎の人物ですが、おそらくこの人が聖徳太子な どにも関わる推古朝の皇位継承問題の鍵を握る人物だったのではないか、と思います。推古天皇は田村皇子か聖 徳太子の息子の山背大兄王かどちらを皇位につけるかで、とてもビミョ〜な遺言を残しました。それで後継者をめぐ って9ヵ月間もガタガタして流血の惨事まであった挙句に、蘇我馬子の娘との間に息子(古人大兄皇子)がいた田村 皇子が蘇我蝦夷の支持を得て即位することになったわけです。「日本書紀」の舒明天皇の条を読むと即位するまで のガタガタがものすごく詳細に書かれています。ところが即位してからの話はえらくあっさり(笑)。温泉が好きだった のか有馬温泉に2回、道後温泉も行っています。あとは外交の話とか(第一回遣唐使はこの時代)、天変地異の話と か。 舒明天皇の岡本宮は飛鳥岡の麓といいますから、飛鳥寺の南、真神原の、おそらく後で出 てくる「伝板蓋宮跡」とほぼ同じ場所にあったようなのですが、きちんと確認されてはいないよう です。即位して8年目に岡本宮が焼けて、少し北のほうの田中宮へ遷ります。 そして舒明11年(639)百済宮と百済大寺を造ることを宣言。百済宮のほうは比較的早くでき たようで、翌年には百済宮へ遷っています。 百済宮と百済大寺の所在地は、少し前までここより北西方向に少し離れた広陵町の「百済」 という地名が残るあたりが有力(他説もありましたが)と思われていたのですが、1997年からは
……亀と蛇で縁起はよかったのかもしれませんけどね。
きさがわかりますよ))よりひと回り大きいというのですから……なかなか想像できません。 百済大寺の九重の塔というと長岡良子先生が中大兄の若い頃を描いた漫画「暁の回廊」で炎上するシーンを思い 出す方もいるでしょう。百済大寺の後身である奈良の大安寺に伝わる縁起には百済大寺の塔はできてすぐに炎上し たと書かれているようです。そして塔の造営は舒明天皇の死後、妻の皇極天皇や息子の天智天皇(中大兄)によって 造営が受け継がれます。そして天武朝に高市大寺→藤原京の大官大寺→平城京の大安寺と移転し、現在に 至っているのです。 ところで、大安寺に伝わる縁起によれば「百済大寺は聖徳太子の熊凝精舎をはじまりとし、それを舒明天皇が 受け継いだ」ことが起源ということになっているそうです。そういえば、この寺の伽藍配置は法隆寺式。百済大寺と百 済宮の組み合わせも斑鳩寺(法隆寺)と斑鳩宮を思わせます。それにしても、舒明天皇の父に対抗して推古天皇や 聖徳太子が立てられ、次には聖徳太子の息子に対抗して舒明天皇が立てられた、と考えたら(蘇我氏って勝手だ ワ)、舒明天皇と上宮王家って何やら因縁がありますね。舒明天皇自身は聖徳太子に魅かれていたのかも……。
吉備池廃寺を北西に歩き、近鉄大福駅へ出て帰途に着きました。「このあたりが中大兄のデ ビューの地だったかもしれない」……なんて考える余裕もなく、ひたすら汗をふきふき、フラフラ しながらの炎天下史跡散歩でありました。
(2003年7月記)
|