呉女のこじつけ旅日記1
2002年7月〜10月


2002年7月14日  本能寺跡  〜おやかたさま〜!!〜

 普段は大河ドラマの再放送まで見ないのですが、昨日は見てしまいました。「本能寺の変」
小学生のときから大河ドラマを見ている私は何度も本能寺の変を見ているわけですが、反町く
んの信長は姿かたちからして信長のイメージぴったりで、初回から気に入ってました。役作りも
回を重ねるごとに板についてきて。最後も信長の悲劇性がひしひし……。
 その本能寺なんですが、現在の本能寺は京都の町にド真ん中にありますから何度も行っていましたが、もとの場所には昨年12月に初めて行ってみました。四条烏丸でご飯食べたりしたあと、二条城の前のホテルまで「歩いちゃえ」ということで蛸薬師通りを西へ。途中「南蛮寺跡」という碑もあると愛用の「歩く地図」にはあるのですが、見つかりませんでした。
 「此付近 本能寺」の碑最初からわかりにくい写真で申し訳ないのですが、実はこのすぐ横にごみが積んであったんです。もー、こういう場所で写真を撮りたい単純な人間もいるんだから、ごみなんて置かないでほしいんですけどー。観光シーズン
ではないときに行く私も悪いのですが。
 京都ってこういう石標を探して歩くだけでも楽しいです。


2002年7月17日    祇園祭

 続けて京都の話題になりますが、今日は祇園祭のクライマックス、山鉾巡行の日でしたね。祇園祭というと16日の宵山と17日の山鉾巡行が有名ですが、実際は7月の一月、ほとんどが祇園祭の期間のようなもので、前後にもいろいろあるんですね。
 宵山や巡行には行ったことがないけれど、94年に鉾建ての作業をしているのを見たのが、はたまたはっきりしないこの写真。これは稚児をのせて巡行の先頭を行く長刀鉾を組み立て中。交通量の多い四条烏丸の交差点近くで、デーンと車線を陣取り、路線バスも避けて通るこの迫力は、よそ者には新鮮でした。いつか、ちゃんと動いているところを見たいなあ.〜〜。


2002年7月22日   箱根旧街道 〜おすすめハイキングコース〜

  相模の国の田舎に住む私にとって、箱根は「ちょっとそこまで」感覚で、日帰りでも行ける気軽なリゾート。今日もちょっくら温泉につかってきました。だって肩こってたんだもの。
  そこで箱根リピーター、呉女のお勧めする箱根は「箱根旧街道ハイキングコース」です。江戸時代の幹線道路、東海道は、関所があったことで知られるように箱根の山を通っていたわけですが、その名残が旧街道です。江戸時代の石畳が所々に残り、復元された石畳でつながれて、途中車道の脇を歩いたりする部分もあるものの、往時をしのびながら芦ノ湖畔まで登っていけます。歩いてい
ると古い石畳はすぐ見分けがつきます。多くの人に踏まれてツルツルになっていますから。
  湯本から途中まではバスで。私たちは鎖雲寺から歩きましたが、一般的にはもう少し上の畑
宿から歩く人が多いかもしれません。呉女が歩いたのは結婚間もない今に比べりゃ若かりしこ
ろなのですが、それほどきついコースではないと思います。また歩きたいと思いますもの。歩い
たあとに芦ノ湖畔で食べたカツ丼はやたらおいしく感じたなあ〜。その上温泉に入って汗を流
せば、最高ですね。


2002年7月25日   薬師寺展  〜「持統天皇千三百年玉忌」〜

  「持統天皇千三百年玉忌」 ……とポスターに書いてあるのを見ただけで口元がムニ〜〜っとしてしまう。きのう日本橋三越で始まった「薬師寺展」(8月5日まで)を見てきました。そう今年はさらら様が亡くなられてちょうど1300年にあたる年なのです。奈良西の京の薬師寺(写真は東塔)は、創建について「天武天皇が皇后(のちの持統天皇)の病気平癒祈願のために発願された」と必ず説明されますが、この「妻の病気平癒を……」というのを文字通りのイメージで受け取ったのではこの夫婦の場合ちょっと違うのであって……とこの話は別のところでしつこいほどすることになるでしょうから、ここでは置いておいて「薬師寺展」の話。
  この企画はもう一つ、現在復興中の大講堂が来年春に落慶するのを記念するものなので、
そのために奉納されたものなど、けっこう新しいものの展示が主で、それはそれで新鮮なので
すが(平成の十大弟子像など)古いもの、特に奈良時代のものは私が見た限り2点、東塔初
層支輪板菩薩像頭部だけ。見どころは、さらら様が天武天皇の七回忌に奉納した大講堂
の本尊で16世紀に焼失した「阿弥陀三尊繍仏」復元図。新しい講堂に飾るべく今当初の大き
さのものを復元中なのだそうで、今回の展示はその前の段階の1/9の大きさの図。復元され
るのは本当に刺繍でできているのかしら? だとしたら楽しみ〜〜。それから小倉遊亀画伯
の「天武天皇像」「持統天皇像」も神様のごとく展示されていましたが、その前で、やっぱり自
分のホームページに「さらら紀行」と名づけ、ダンナのことをオオアマさま(天武天皇の名にちな
む)と呼んでしまうことはやはりおそれ多過ぎたなあ……と反省してきたのでした。


2002年7月29日  因幡国府  〜万葉集最後の歌が詠まれた地〜

  「鳥取県に研修で行くことになったんだけど、前泊しなきゃなんないから一緒に行かない?」と
いうオオアマさまの誘いに、「そんなお金がどこにある〜」と一瞬頭をよぎったものの、「鳥取」と
いう誘惑には勝てませんでした。それで今、鳥取に来ています。
  97年5月にその時オオアマさまが取り組んでいたある原稿の取材が目的で鳥取を訪ねました。そして二人とも、この地にゾッコン惚れ込んでしまったのです。この写真はその時のもの。鳥取市の隣町、国府町にある因幡国府の跡。因幡国府といえば万葉集にお詳しい方なら(呉女はあまり詳しくない)ピンとくるでしょう。大伴家持が万葉集の最後の歌を歌ったところです。奥に見える山は因幡三山の一つ面影山です。因幡三山というのは、大和三山にちなんでいるわけですが、ここを歩いていると本当に明日香を思い出します。昨日はこの
近くにある「因幡万葉歴史館」へ行きました。呉女は万葉装束の試着をして大はしゃぎ。それを
見てオオアマさまは今にも逃げ出しそうでした。今日は研修へ出かけるオオアマさまを見送っ
たあと、炎天下、自転車でこの周囲を一人で走ってきました。
  「珠玉の町」第2段は鳥取です。タイトルは「ある采女のふるさと」。いつアップできるかな?
「珠玉の町」たちのほうはまだできあがりませんが、ここで詠まれた大伴家持の歌については「私のイチオシ万葉歌」
の2回目で紹介しています。                                            2002年12月



2002年8月16日   大文字五山送り火

  きょうは京都の大文字送り火の日でしたね。お盆に帰ってきていた精霊を送る行事です。だいたい毎年お盆は京都から電車で1時間くらいのところにあるオオアマさまの実家に行くし、京都には義姉が住んでいるのですが、まだお盆の送り火は一回しか見たことがないんです。それで、この写真は実はお盆のものではなく、20世紀最後の日に特別に点火されたものなんです。「お盆以外に送り火なんて」という批判もあったようですが、何かに思いを込め、送る、ということの表現にこれほどふさわしいものがあろう
か、とものすごく感動しながら、20世紀にお別れをしました。
映像で見るとただの灯りに見えますが、実際に見ると火が燃えているのがわかるし、消えてい
くときの風情がまたいいのです。こんなに暑いのに、あの火を思い出すと、ああ夏も終わるの
かな、という気分になってしまいます。


2002年8月18日  賤ヶ岳古戦場  〜「利家とまつ」クライマックス〜

  先週の「利家とまつ」がクライマックスのひとつ、賤ヶ岳(しずがたけ)の戦いのシーンでした。先ほどビデオに撮ったものを見たので思いたって写真を探してきました。ここはオオアマさまの実家にもさほど遠くないところにあるので何度か訪ねています。北陸自動車道の木之本インターから1kmくらいかな。リフトに乗って山の上にのぼるんです。南には琵琶湖が、北には余呉湖が見えます。写真は余呉湖を見下ろしたところ。余呉湖を取り囲むように各陣営が配置され、利家の陣はちょうど湖の向こう側にあったようですね。
琵琶湖の周辺は史跡もたくさんあって面白い所ですが、この奥琵琶
湖あたりはそんな戦いが信じられないように静かな土地です。余呉湖も小さな湖ですがなかな
か風情のあるところです。琵琶湖といってもこの辺りは北陸に近く、冬はスキー場があったりす
るので、関西の方にはなじみがある地域なのかもしれません。


2002年8月19日  北の庄城跡  〜勝家とお市の終焉の地〜

  昨日に引き続き「利家とまつ」特集。柴田勝家とお市の終焉の地、北の庄城跡。写真は城跡の柴田勝家像です。ここへ行ったのは記念すべきお見合い一周年の日。その前日、オオアマさまが以前北陸に住んでいた時の縁で石川県で開かれたあるシンポジウムのパネリストとして参加したので、呉女もついて行ったのです。その帰りに福井で下車しフラッとオオアマさまが連れて行ってくれたのが、ここ。今はどうなっているかわかりませんが、駅から近い裏通りみたいなところを入った、ビルの裏の児童公園みたいなところでした。ここでお市さまが波乱の人生を終え、茶々たち三姉妹が脱出し……なんていうドラマがあったのです。
  ちょっとバスに乗って、新田義貞終焉の地にも行きました。出会って一年目の日に何やって
たんでしょうね、この二人は。


2002年8月28日 「飛鳥・藤原京展」その1

  昨日、上野の東京都美術館で開催中の「飛鳥・藤原京展」(9月29日まで、秋に宮城、冬は四
日市で開催)を見に行ってきました。
この展覧会は明日香に日本の中心があった、仏教公伝の時代から初の本格的都城「藤原京」
ができるさらら様(持統天皇)の時代までを通観するもの、つまり呉女が大好きな時代とドンピシ
ャリなのです。ものすごく目新しい展示物があるわけではないのですが、その時代がよく整理さ
れ、網羅されているわけですから、呉女にとっては展示会場で寝泊りしたくなるような極楽空間
です。特に「天武持統天皇夫妻の手によってわが国の古代国家は誕生をみたのである」なん
て書かれちゃうと「キャ〜〜〜」って叫びたくなっちゃう。(何なんだか……)
写真は現在の藤原京跡。つい先日オオアマさまと訪れたときの写真はまだ現像していないので、3月に呉女が一人で行ったときのもの。大極殿跡から朝堂院のほうを見ていますから、さらら様が居並ぶ役人たちを見ているようなイメージです。展示に儀式のときに使った幡などの復元がありましたが、さらら様は日本で初めてのこの都の真ん中で、きらびやかに装い群臣たちを従えて君臨していたのだなあ、と想像がふくらみ、「カーッコイイーッ」と……。
とはいえ、写真ではただの広い空き地じゃない、と。そうなんで
す。現在はこんなところです。この展覧会は先月まで大阪で開催されていたのですが、大阪の
人と東京の人とでは感覚が違うのではないでしょうか。明日香は大阪からなら電車で一本。お
そらく小学校や中学校の遠足か何かで一度くらい訪れているでしょう。それにひきかえ関東の
人間は私のような「もの好き」でなければなかなか行きません。碁盤の目に整然と区画された
都の模型を見ても、その周囲の土地の感じや、現在の状況とのギャップがなかなか想像でき
ないでしょう。ま、展覧会に来るような人は「もの好き」が多いかもしれませんが。この展示を見
て、明日香へ行きたくなる人が増えてくれればいいなと思います。


2002年8月29日     「飛鳥・藤原京展」その2

  「飛鳥・藤原京展」の話のつづき。
  写真は1999年飛鳥京苑池遺構が発見されたときの現地説明会の様子です。今回の展示のひとつの意義は明日香という場所でこの30年ほどの間に次々と発掘がなされて、新しい発見がそれまではわからなかった新しい飛鳥観をつくっていった、ということの再確認ではないかと思います。実際、私くらいの年齢になると、そのひとつひとつのニュースをよく覚えているのです。30年前の高松塚古墳の壁画発見はさすがにおぼろげなものの、たとえば山田寺の回
廊がバタッと倒れたそのままの状態で発見されたニュース(1982年)とか、板蓋宮跡から「大津」
などと書かれた木簡が多数見つかり、そこが浄御原宮でもあったことがわかったニュース
(1985年)、もちろん最近の飛鳥池遺跡や酒船石遺跡なども。そんな記事が新聞の一面を飾る
たびに心躍らせたことを、展示を見ながら懐かしく思い出せるのです。
  私がはじめて明日香に行った二十数年前と現在とでは、明日香はずいぶん変わっているの
です。まるでパズルを一枚一枚めくるように、遺跡が増えたり、場所が変わったり……。そし
て、これからもパズルがめくられるたびに新しい発見があるかもしれません。
  今回の展示の最後にある粟田真人を正使とする遣唐使は、はじめて対外的に「日本」を名乗
った、といわれています。その「日本」が生みの苦しみをした時代とその場所の、まだまだ底知
れない魅力を少しでも知っていただければ、と思います。


2002年9月11日   ニューヨークの思い出  〜9.11に思うこと〜

結婚する何年か前、はじめての海外旅行の行き先はニューヨーク。私も若くて無鉄砲だった。
いっしょに行った友人がこれまた勇敢だったこともあって、のっけからツアーの市内観光をキャ
ンセルし、勝手に歩きまわった。最初こそ目の色も肌の色も髪の色もすべてがバラエティーに
富みすぎる人々に囲まれておびえていたけれど、ほどなく「自分もその中の一人に過ぎない」こ
とに気づくと、とたんに自由になった気がした。夜、ブロードウェイミュージカルを観に突然飛び
出して、帰ってから深夜営業の店でしゃべりこんでいたら、ツアーの人たちに行方不明になっ
たものと思われて大騒ぎさせてしまったっけ……。帰りたくなくて帰りたくなくてしかたなかった
最後の夜、マンハッタン・ディナークルーズの船に乗った。ディナーのあと、寒さをこらえて甲板
に出たら、ライトアップされた自由の女神の向こう側にまばゆいばかりに輝く摩天楼群がそそり
たっていた。「信じられない……」とつい口に出たほどの美しさだった。
 今まで見た風景の中で何をもう一度見たいかと問われたら、あの輝く摩天楼群と答えるな、と
去年の9月9日ころに突然思ったのを覚えている。2日後に、その風景が、少なくとも2本のビ
ルがいちばん高くそびえたつ風景が永遠に消えてしまうなどとは、どうして考えられただろう?
 消えてしまってから考えた。あのころはバブルの絶頂期。経済は右肩上がりに成長するもの
と思いこみ、人類は進化するものと思いこんでいたような気がする。つまり「人類の勝利」を信
じ、その象徴があの摩天楼群だったのだ……。それが幻だったかもしれないと感じるようにな
った今、あの風景はまた違った意味をもって思い出されてしまう。
 たかだか十数年しかたっていない。それなのにこの差はなんなのだろう? 私自身変わって
いないようで実はずいぶん変わったのだ。結婚も私を変えたし、年齢も私を変えた。そして私
の価値観を根底から覆した事件が阪神大震災とこのテロ事件なのだ。
 今回イタリアへ行っても思ったのだけど、歴史ってただ進むものではない、と。ときには足踏
みもするし後退もする。あの自由の女神をつくり、摩天楼群をつくった大きな歴史の流れが、今
どこへ行くのか考えあぐねて渦を巻いているような気がする。こんな毎日グデグデしているだけ
の私でさえ、その歴史の渦の中にいるってことだけはひしひしと感じてしまう……。


2002年9月26日   東山  〜京都を歩こう!〜

  秋分の日の連休は京都の菩提寺での法要に参加するため関西に行ってまいりました。今日
はその「こじつけでない旅日記」第1弾。
 お昼過ぎに法要は終わり、お精進のお昼もいただいて、その日泊まっていたホテルに荷物を
取りに行くわけですが、連休のお彼岸なんて京都の道路が渋滞しないはずないのであって、バ
スに乗ってもどうせ動かないなら天気もいいしぼちぼち歩こうか、と結局菩提寺のある岡崎あ
たりから京都駅に比較的近い東山七条のホテルまで歩いてしまいました。
 平安神宮前の神宮道から青蓮院前、知恩院前を通れば円山公園。ここでルネサンス建築の長楽館にてお茶を一服。それから現在「ねねの道」として人気の高台寺前から二年坂。そこで産寧坂のほうへは行かずに右の坂を下りてみたところがこの写真。京都を象徴する風景の一つ、八坂の塔です。ここは正しくは法観寺といって、聖徳太子の創建といわれますが、確かにそのくらいの時代からあった可能性はあるし、四天王寺式伽藍だったというし、聖徳太子と現在の京都はゆかりがあったとは思いますが、創建したかどうかはかなり疑問。でも京都でもっとも古い寺の一つであることは確かです。現在の塔は室町時代の再建です。ここからはバス通りに出て五条から七条へと歩きま
した。(途中、大学のオープンキャンパスの看板を見て急にオオアマさまの教師の血が騒ぎ出
し、その大学に寄り道したので遠回りすることになりましたが)  案の定、どこのバス停もバス
が来ないらしくて人があふれ、来たバスも私たちと同じくらいの速度で走っていました。
 普通ならあまり歩こうとは考えない距離なのかもしれませんが、途中に観光地がいっぱいあ
って雰囲気もいいからついつい歩いてしまう。これぞ京都の魅力だと思うのです。特に東山近
辺はその代表です。私はこのくらいなら地図なしで歩いてしまうリピーターなのですが、岡崎か
ら北へ歩けば哲学の道を銀閣寺へ至りますし、京都初心者の方にも「まずは東山を歩いて」と
勧めています。


2002年9月27日   三十三間堂 〜修学旅行コースは侮れない!〜

 秋分の日連休「こじつけでない旅日記」第2段です。この日は義母いる実家に泊まるのです
が、東山七条に着いた時点でまだ時間はあったので、一ヶ所観光することにしました。以前に
もこの近辺をオオアマさまと観光したことはありましたが、その時素通りしてしまったのが修学
旅行の定番、三十三間堂。リピーターってついこういうところを軽く見てしまいがち。それで初
心にかえってみようと。
 そしたら、何だかすごくよかった〜。お堂の中は外国人の団体であふれていましたが、皆に
「見て見て〜」と自慢したくなるような……。1000体の千手観音がズラーリ整然と階段上に並ぶ
様は「まるで宝塚のフィナーレだね」。その迫力に圧倒されますが、真ん中の湛慶作のご本尊
さまもとてもいいお顔の観音さまです。
 さて写真は肝心のお堂が隠れちゃいましたが、看板と碑にはここが後白河法皇の御所、法住寺殿であったことが書かれています。一時はここが政治の中心だったわけですね。三十三間堂は正式には蓮華王院といい、後白河法皇が1164年に平清盛の協力で自分の御所に建てた観音堂です。これだけたくさん観音さまがいれば必ずどなたかは自分を救ってくれるだろうとでも思ったのでしょうか。後白河法皇って欲張りだったのか、意外に気が小さかったのか。それが1249年に木曽義仲の焼き討ちで焼失。ところが1266年にはすぐ再建されてい
る。この再建されたことがスゴイと感じますね。三十三間堂の歴史などについては観音さまが
並ぶ裏側のところに、こういう場所には珍しく(笑)わかりやすい解説がされていますので、ゆっく
り読まれることをお勧めします。 
 この近辺については興味深いこととか、お気に入りのお店とかあるのですが、京都ページを
作るときのためにとっておこう、っと。


2002年10月2日 瀬田の唐橋 〜ぐる〜っと瀬田川、駅のチラシは情報の宝庫〜

秋分の日連休「こじつけでない旅日記」第3段です。関西の駅に降り立つと、まず観光情報の
チラシやパンフレットを収集するのが呉女の趣味。これが貴重な情報源なのです。今回もいい
モノみつけました。連休を含む5日間限定で瀬田川周辺をぐるぐる周ってくれるバスが運行す
るというのです。しかも乗り放題500円!! 法要の翌日、夕方の新幹線までの観光はこれに
キマリ!!
 ……といっても瀬田川ってどこ?という方が多いでしょう。琵琶湖を水源として南へと流れる川です。新幹線で京都に入る前に渡るんですよ。橋を通してすぐ琵琶湖が見えています。その橋が「瀬田の唐」と呼ばれる写真の橋です。呉女的に言えば672年壬申の乱で高市皇子率いる大海人皇子軍と大友皇子率いる近江朝軍がこの橋で激突、勝敗が決まりました。「唐橋を制するものは天下を制す」といわれるほど、そのほかでも何度も戦乱に巻き込まれた重要な橋でした。もっとも今の位置に橋を移したのは織田信長で、壬申の乱のころはもう少し下流にあったということだから、ちょうど新幹線のあたり
かしら? ……ということで、JR石山駅を基点に「ぐる〜っと瀬田川」バスの旅にでかけたので
した。近江はホントに面白いですよ。第3弾までの予定だったけど第4段までいっちゃいます。


2002年10月3日 岩間寺(いわまでら) ぐる〜っと瀬田川、観音巡礼と古代史めぐり〜

 秋分の日連休、第4弾。前日に1001体もの観音様にお会いしましたが、この日も瀬田川を周遊するバスで観音巡りをすることになりました。一つが岩間寺(通称。正式には正法寺)。京都と滋賀の県境の山の上。ぼけ封じの観音様だというので、呉女「しっかりお参りしよ」オオアマさま「手遅れでしょ」。それより呉女にはさらら様の孫、氷高ちゃん(元正天皇)の病気を僧泰澄が治したことで建てられた寺だというのが興味深いのです。写真は本堂ですが、ここから山道(?)を10分ほど歩くと瀬田川と琵琶湖の展望台があります。もう一つは源氏物語の構想が練られたという伝説で有名な石山寺。現在貴重な秘仏を公開中。本堂の奥で優しいお顔の観音様が光輝
いていました。この寺は東大寺を造るとき、この辺りから木材を切り出し瀬田川を船で運んだ、
その役所が起源ともいわれています。もう一つ立木観音。ここは670段の石段をのぼるという
のでパスさせていただきました(こういう人には御利益ないのよね)。
 そのほかに近江国の一宮、建部大社。これは他の場所から大海人さま(天武天皇)が国家鎮
護の場所として移転させたとのこと。唐橋の近くだから? それから川幅も狭くなる奥の方のほ
とりには近江朝の重臣中臣金が中大兄さま(天智天皇)の命で創建したという佐久奈度神社が
あります。この日行ったのは以上ですが、これだけ連れて行ってもらえて、各スポット乗り降り
自由で500円は破格でしょ。しかも「紫式部クリアファイル」などお土産つき。うれしい企画でし
た。瀬田川流域観光連盟さん、ありがとう!
 このように、瀬田川周辺は地味だけど古代史スポットがいっぱい。ほかにも近江の国府や国
分寺、阿部ちゃん(孝謙上皇)と道鏡が出会った保良宮跡など、行っていないところもまだまだ
あります。また行こうっと。
 秋分の日、こじつけでない旅日記はこれにて終了です。


2002年10月12日  鎌倉を歩こう!  〜でも、鎌倉市にチト言いたい〜

  先週の日曜日。オオアマさまの用事で取材に鎌倉へ行きました。まず午前中は浄妙寺から鎌倉宮を経由して鶴岡八幡宮まで歩きました。鎌倉というと、買い物とか食事をして一つか二つ観光地も覗いてみて……というような訪ね方が多くて、きちんと歩いたのは久々だったのです。鎌倉はそもそも小さな町ですし、京都と同じように適度に見所が散らばっていて歩いて回るのにちょうどいい町だなと再確認しました。今回歩いた鶴岡八幡宮の東側は鎌倉幕府ができた当初、頼朝の屋敷があり、幕府の中心だったところです。頼朝の墓がある丘の真下がその大蔵幕府と呼ばれた跡地で小学校の角に石碑がたっています。
  この石碑、鎌倉を歩いているとあちこちで見られる史跡案内で、ありがたいものではあるので
すが、何しろ大正時代に建てられたものなので説明書きが見事な旧字体。現代人にはとても
読めたものではありません。そばにわかりやい解説をつけるとかしないとあんまり意味がない
ような気がするのですが。この石碑を見るたびにそれが気になってしかたがないのです。何と
かしてくれないものでしょうか……。


2002年10月14日 鶴岡八幡宮  〜観光バス利用法〜

  日曜の午後はオオアマさまの提案で定期観光バスに乗ってみることにしました。
「このサイトについて」で書いたように、普通はあまり観光バスには乗らないのです。理由は@
お金がかかるAもっと見たいと思っても集合時間に縛られるB自分で地図を見ながら歩かな
いとその町そのものの印象が薄くなってしまう……など。でも今回乗った「よりとも号」は建長
寺、鶴岡八幡宮、鎌倉宮、長谷寺、大仏をまわって2250円。拝観料だけでも1000円以上します
から、まあリーズナブル。ABは何度も来ている、または再訪が容易な場所なら問題ないわけ
です。むしろ初心にかえったといいましょうか、以前訪れた場所でも新鮮に思えて、なじみのあ
る町で観光バスに乗ってみるのも面白いものだな、と発見しました。これからクセになったりし
て……。以下、別に観光バスで聞いた話ではないのですけれど。
  写真は鶴岡八幡宮。本殿入り口上の額の「八」の字が鳩の形になっている。この鳩が銘菓「鳩サブレー」のもと、というのはよく聞く話だけど、肝心なのはなぜ鳩の形になっているか、のほうですよね。これは八幡神のお使いが鳩だから、なのだそうで、北野天満宮の牛、春日神社の鹿、と同じことなんですね。でも中世武士団の守護神たる神の使いが平和の象徴「鳩」だというのは何だかね……。それからこの八幡宮の裏山を「大臣山」というそうで、「大臣」が誰のことなのか気になっていたのですが、一説にはなんと鎌足どの(7世紀の人物になると急になれなれしくなる……)のことなのだそうです。浄妙寺の裏には鎌足稲荷社というお社があるというの
で、この日の午前行こうと試みたのですが、道をくもの巣に阻まれて断念しました。(オオアマさ
まはくもの巣が大の苦手!)

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