呉女のこじつけ旅日記2
2002年11月〜12月


2002年11月5日  正倉院展その1  〜呉女面が眠っていた倉〜

 毎年文化の日前後の約2週間、奈良国立博物館で行われる「正倉院展」は我が家の秋の
恒例行事です。奈良時代から伝わる聖武天皇ーさらら様のひ孫にあたるので首(おびと)くんと
呼ばせていただいていますーの愛用品、東大寺の法会に使ったもの、裏を写経所でリサイク
ルしたために偶然残った当時の行政文書……昔は権力者しか見ることができなかったという
宝物の数々。毎年数十点ずつ展示されるので、54回目の今回でも初出展のものがけっこうあ
り、宝物との出会いはまさに一期一会といえます。
 4年前、私がはじめて行った正倉院展で伎楽面呉女と出会いました。伎楽とは中国から6世紀に伝わった仮面劇。東大寺の開眼会でも上演されました。その後断絶したので詳しいことはわからないそうですが、呉女は一応美女とされ、モテモテのヒロインなのだそうです。その時代に生まれていたら……ねえ。
 写真(昨年)の正倉院は博物館からも歩ける東大寺大仏殿の北に現在もその威容をとどめています。周囲を塀で囲まれていますが、正倉院展開催中と平日の午前10時
から15時までは塀の中に入れてくれるので外観を見ることができます(つまり普段の土日は見
られない)。ただし、校倉造りで知られるこの建物の中に現在は宝物はありません。戦後になっ
て近くに造られた鉄筋コンクリートの宝庫に移されたのです。それでもこの建物が1200年も宝
物を守ってきてくれたことは紛れもない事実です。


2002年11月6日  正倉院展その2  〜崑崙は呉女を見つけたか?〜

 さて今年の正倉院展。大仏開眼から1250年記念ということで、目玉の一つは開眼会で聖武
太上天皇、光明皇太后、孝謙天皇が身につけていた「御冠残欠」。13世紀に後嵯峨天皇が持
ち出したときに壊れてしまったので、今ではその部品がバラバラに残っているだけなのです
が、きれいな金の細工、細かい真珠、地中海で採れたと思われるサンゴなど豪華でボリューム
もあるんです。もとの冠の形を見てみたかったものです。伎楽面も3面出ていて、一つが呉女
を追いかけ回す役の崑崙(こんろん)面。見つかったら大変、と正面には立たないようにしました
(笑)。それから開眼会の少し後に来日した新羅の使節が持ってきたと思われるお椀やスプー
ン。包んでいた紙が新羅の文書だったので、そういうことがわかるのだそうです。当時はまだ
紙が貴重でしたからリサイクルが徹底していて、今ならプライバシーの問題になるようなものが
残っていたりするのです。今回の文書の中にも「おじいちゃんは飛鳥宮、お父さんは藤原宮で
働いていた。だからボクも働かせてくれ〜」てなものがあったりして面白いんですよ。「ひらがな
は書かないのねえ」なんて声をよく聞くのですが、この時代にひらがなは存在しなかったんです……。
  写真は今年の博物館前の秋景色。向こうに若草山が見えます。とても寒かったのですが、博物館周辺は正倉院展期間中特有の活気がありました。正倉院展は確かに混雑します。私も土日に行くので必ず9時半の開館までには行くようにしています。そうすると入館までに多少並びますが、まだ中にいる人が少ないだけに、ケースの前でちょっと待っていればじっくり見ることがで
きます。十分楽しんで博物館を出るのは、いつもだいたい昼頃です。


2002年11月7日  明日香ひとり歩き  〜大原の古りにし里に……〜

 正倉院展の前日、オオアマさまは午前は出勤、午後は結婚式。それで私だけ先に行って明
日香を歩いていました。名古屋で近鉄に乗り、伊勢中川で乗り換えて大和八木へ。これだと京
都まわりより安上がり。近鉄の接続がよければ(これが問題だけど)時間もさほどかわりませ
ん。しかも大和路スルーきっぷを使えば名張以降京都まで乗り降り自由で便利です。
 明日香では、岡寺バス停を起点に石舞台、稲淵、岡寺、酒船石と歩いて、ここは万葉文化館の前あたり。今バス停の名は「明日香小原」ですが、かつては大原の里と呼ばれていました。写真の左のほうで甘樫丘と畝傍山と二上山が重なって見えるのがいいなと思ったのですが、二上山はほとんど見えませんね……。鎌足が生まれた地といわれ、また大海人さまが夫人の一人(鎌足の娘)に送った「わが里に大雪降れり大原の古りにし里に降らまくは後」というちょっとおちょくったような歌でも知られます。ここでウチのオオアマさまからは「4時過ぎの新幹線に乗る」という電話。 
 私はこの後、バスの時間まで万葉文化館の企画展「歴史画のゆくえ」を見て(部屋にポストカ
ードを飾っている安田靫彦の「飛鳥の春の額田王」の実物に感動!)、奈良市内のホテルへ。
7時過ぎに近鉄奈良駅でオオアマさまを迎えました。改札前にスタパができていたのにビック
リ。先日の新聞記事によると奈良県にはあと3店スタバがあるらしい。あとはどこだ?
 後日、奈良県にあるあと3軒のスタバはJR奈良駅、近鉄西大寺、近鉄学園前の駅近くにあることが判明いたしまし
た。(2002年12月)


2002年11月8日  談山(たんざん)神社  〜鎌足を祀る、大和路の紅葉の名所〜



 正倉院展の後、オオアマさまの提案で突然多武峰(とうのみね)へ。盛りには早いけど、全山
を撮るにのいい場所見つけた!


2002年11月10日  箸墓古墳  〜大和は国のまほろば〜

先週の奈良の最終回。「正倉院展の後は山の辺の道を歩きたい」というのが行く前のオオア
マさまの希望だったのが、突然「談山神社へ行きたい」と言い出したので大幅に予定がくるった
のですけれど、多武峰からバスで桜井駅まで帰ってきたら「大神(おおみわ)神社直行臨時バ
ス」がいたのでそれに飛び乗りました。もともと山の辺の道の纏向(まきむく)遺跡周辺だけを歩
くつもりでしたが、大神神社前ですでに3時。北に向かって歩き出しました。数年前に桜井から
天理まで歩き通したことはあるのですが、けっこうきつくてその晩私は持病の発作でホテルの
人に病院に連れていってもらったという悪い思い出も……。それでもあらためて歩いてみると
「こんなにアップダウンがあったっけ?」。日本最古の道といわれますが、このあたりは湿地帯
だったので少し高くなった山すそ沿いに道ができたのだと聞きました。それだけに景色のよい
場所も多いんです。桧原(ひばら)神社まで歩いたところで雨も降り出し日も傾いてきたので、二上山に向かってのびる道をおりて駅に出ることにしましたが、この道がものすごくいい道でした。ここ纏向はヤマト政権発祥の地。川端康成が自らこの場所を選んで「大和は国まほろば」の歌碑をたてたという場所から撮った箸墓古墳。左に二上山がうーっすらと……。この先、道が南へカーブする、曲がったとたん目の前に大和三山が……!!  


 ホケノ山古墳、箸墓古墳を見て、JR巻向駅へ。電車を待つ間凍えそうに寒かったけど、山の
辺の道はまた歩いてみたいです。 


2002年11月18日  松阪 その1 〜蒲生氏郷の城下町〜

  久々に大河ドラマからのこじつけ。昨日の「利家とまつ」に蒲生氏郷という武将が出てきまし
たが、東近江の出身でキリシタンにもなり茶人でもある、戦国武将の中では呉女が気になって
いる人なんです。
 そんな氏郷を「町の祖」とあがめる町が二つあります。一つ白虎隊で有名な福島県の会津若
松。こちらはまだオオアマさまといっしょに訪ねたことはないのですが、もう一つは松阪牛で有
名な三重県の松阪。こちらは95年の5月、名古屋から大和へ向かう途中で寄ってみたことがあります。秀吉によってこの地に移された氏郷がちょっと離れた松ヶ島にあった城をこちらに移して町をつくったのが松阪の町。写真は松阪城跡から見た「御城番(ごじょうばん)屋敷」といわれる組長屋の武家屋敷跡。今でも普通に人が暮らしているんです。城下町のたたずまいを残す町並み、天守閣こそ残っていませんが散策にちょうどよく眺めのいい城跡など、小さいけれどしっとりとした、また訪ねてみたい町です。 
 次はこの松阪が生んだ、偉大なるわれらが大先輩のお話です


2002年11月19日  松阪 その2  〜大先輩! 宣長先生の勉強部屋〜

  ……オマエに大先輩といわれたくないって言われそうだけど。本居宣長先生、結局先生も古
代史がお好きだったわけでしょう? 偉大な成果をいろいろ残してくださっている。藤原宮の大
極殿跡が大宮土壇だと言いだしたのは先生と、先生の先生である賀茂真淵先生だって聞いて
ますよー。でも真淵先生と宣長先生は生涯で一度しか会っていないそうですね。その一晩語り
明かした新上屋(しんじょうや)さんは今は松阪の商店街で碑がたっています。それから額田王
と鏡王が姉妹ではないかと言い出したのも先生だって聞いた気がするんですけど……。「菅笠
日記」なんて紀行文もお書きになっているし、お好きだったんですねぇ。先生も……。
 てなわけで、松阪城址のすぐそばの本居宣長記念館の敷地内に先生の旧居が移築されています。その2階部分が先生の書斎として有名な「鈴屋(すずのや)」です。かつては中に入れたそうですが、私たちが行った時は外(ちょっと高くなった所がある)から覗き込むだけ。この小さな部屋で先生は研究に明け暮れていたんですね。さぞかし楽しかったことでしょう。1階は診療所。おっと先生の本職はお医者さんでいらしたんですねえ。
 先生の旧居が実際にあった場所は、もう少し駅に近いところにあって、その近くには「豪商三井家発祥の地」なんていうのもある。小さ
いけれどなかなかすごい町です。松阪は。


2002年11月24日  岡崎  〜家康誕生の地の呉女のオススメ〜

  昨日、三河の香嵐渓に紅葉狩りに行く途中、八丁味噌で有名な岡崎の町を通過しました。写真は……木立から顔を出しているハズの岡崎城の天守閣がはっきりしない写真ですけれど、2001年11月に義母と西浦温泉に行き岡崎に寄った時に、ビルの上のレストランから撮った岡崎公園と岡崎のです。徳川家康はこの地で誕生しました。
 私とオオアマさまは1995年12月にも岡崎を訪れています。その時からお気に入りなのが岡崎公園内の「三河武士のやかた家康館」。多分、昭和58年に大河ドラマで「徳川家康」が放送されたのに合わせてできた施設だと思う(実はこのドラマに関しては信長役に大抜擢された役所広司さんのかっ
こよさしかほとんど印象にない)のですが、地下の常設展示で三河武士の源流から家康の時代
までをわかりやすく解説しています。少なくとも呉女が今までに見たこのテの史料館では珍しい
充実ぶり。何かスゴイものが展示してあるわけではありませんが、展示の内容や構成がいい
のだと思います。家康さんのファンでも戦国時代好きでもない呉女が楽しめるのですから、歴
史好きの方にはオススメです。
 岡崎公園へはJR岡崎駅からバスか、名鉄の中岡崎、岡崎公園前、東岡崎下車です。
 岡崎から香嵐渓へは巴川を遡ること1時間くらい。途中松平氏発祥の地、豊田市松平のあ
たりを通ります。 


2002年11月28日 香嵐渓  〜東海随一の紅葉の名所で……〜

 勤労感謝の日。岡崎を過ぎて、香嵐渓の手前まで来るとさすがに渋滞。やっと着いてバスを降り、香嵐渓の入り口あたりがまた人間の渋滞。いや〜すごかった。
 飯盛山(いいもりやま)という小さな山の南に沿って流れる巴川に沿って紅葉が競演。これは木立の中の香積寺(こうじゃくじ)の和尚さんが江戸時代初期に楓を植えていったのが始まりだそうです。やはり人為的に植えないと自然のままではなかなか名所にはならないのですね。盛りは過ぎていたそうですが、川沿いより香積寺の周辺が錦に包まれるようできれいでした。 
  それよりも驚いたのは観光バスの多さ。もうズラ〜〜っとすごいですよ。しかも駐車場でバス
会社の名前とかナンバーとかを見ていると関東から関西、北陸まで、広範囲から集まってきて
いるんです。私の乗ってきた相模ナンバーのバスの隣に奈良交通のバス。帰りはこっそりそっ
ちに乗っちゃおうかと……。そして、尾張、三河の国は昔から中央(京都)と東国の政権の勢力
圏の境にあたり、そのために戦乱が繰り返された、ということがミョーに実感として分かる気が
したのでありました。 


2002年12月1日  足助(あすけ) 〜黒曜石、南北朝、三河の塩、そして……〜

香嵐渓から歩いてすぐ、飯盛山の北が足助の町です。ここは三河湾の(そういえば吉良さん
のところが塩の産地で、それで赤穂と何のかんの……という説もありますものね)を信州に運
ぶのに巴川を船で遡り、足助の近くで馬に積み替えて中馬(ちゅうま)街道といわれる道を行
ったので、その中継地として塩問屋や宿場で栄えた町だそうです。それ以前に縄文時代にはこ
の道を黒曜石が運ばれ、南北朝には南朝側で活躍し若くして命を散らした足助重範という人
が出て、なぜかその死後足助来た二条良基(「菟玖波集」を著し連歌の地位を高めたことで有
名)が滞在して足助重範との間に子供を産んだといわれています(二条良基は北朝方で関白に
までなった人なんだけどなあ……) 。その後、武田信玄はこの道を三河に向かいました。そし
て江戸期に豪商が立ち並ぶ町になり、現在もその町並の面影を残しているのですが、現在残る古い家は18世紀に大火があった後に建てられた江戸末から明治のもの。その風景の代表がこのマンリン小路です。この小路の角、昔は呉服屋だったという「マンリン書房」はこだわりを感じる品揃えの店。ここで足助町観光協会が出している「新・三州足助」というガイドブックを買いました。500円という安さで町を分かりやすく紹介していました。私たちは町を訪ねるとよく本屋さんに寄り、地元ならではガイドブックをさがすのですが、実際は手頃なものはなかなかないのです。  
 足助には魅力的な和菓子屋さんも何軒かあります。そのうちの一軒、
「加東屋」さんは昔は造り酒屋で江戸後期の加茂一揆(教科書にも出てくる有名な一揆です)で
襲撃された商家の一つ。店の隣にその時のキズが残る部屋が残されていて見学できます。お
菓子もおいしかったし、お店の方もとても親切でした。
 古い町並が残るとはいえ、そう意識しなければ通り過ぎてしまいそうな、さりげない足助の
町。何だか居心地のいい、あたたかな町でした。
 そんな中で呉女が気になったのは町に入り口にある足助八幡宮。創建を673年と伝えていま
す。673年は壬申の乱の翌年。大海人さまがこのあたりからも兵を集めたことは考えられま
す。何か関係するのかしら、と。


2002年12月14日  吉良邸跡 〜祝! 赤穂浪士討ち入り300年!〜

↑で吉良さんのことを思い出したのは偶然ですが、写真はちょうど300年前、赤穂浪士が討ち入りした吉良邸のあとです。呉女は東京でも山手育ち(というか、東京のド田舎育ち)なもので、下町はほとんど行ったことがないのですが、2001年6月、江戸東京博物館に「発掘された日本列島2001展」を見にいった帰りにフラっと歩いていってみました。両国駅から数分。国技館も近いので、近辺には相撲部屋がたくさんあります(相撲部屋といってもマンションの中にあったりするのですが)。そんな中のなまこ壁に囲まれた狭い場所が吉良上野介屋敷跡として保存されていて、何があるわけでもないのですが、行ってみると観光客がいっぱい。さすが忠臣蔵人気はすごい、と思
いました。呉女の父も好きですね。父いわく「滅びの美学」なんだそうで。呉女は特別に思い入
れが、というわけでもないのですが、大河ドラマで何度も見ているから、どうしても興味は出てき
ますよね。でもこの両国に行った日の記憶でいちばん鮮明なのは、大江戸線の両国駅近くの
天ぷら屋さんの天丼がものすごくおいしかったこと……。(もちろん展覧会もよかったですよ)
 東京ではあと高輪の泉岳寺がゆかりの場所として有名です。結婚前になら行ったことあるけ
ど、写真がありません。ゴメンナサイ。(関西地方と熱心さが違う……)
 とはいえ、300年を記念して、赤穂浪士シリーズ(3回くらいかな?)をやろうかな、と。


2002年12月16日 東大寺法華堂  〜良弁(ろうべん)忌〜

 赤穂浪士はちょっとお休みして、奈良の話。ちょうど首(おびと)くん(聖武天皇)が最初に大仏
を造ろうとした紫香楽の都に行ってきたところですが、今日12月16日良弁忌。良弁さんという
のは、同時代の行基さんとか鑑真さんとかに比べて馴染みがないでしょうが、東大寺創建に尽
力した東大寺の初代別当で、開山堂の良弁坐像を見るとなかなかキリッとしたハンサムであ
ります(ちなみに瀬田川で出てきた源氏物語で有名な石山寺も良弁さんの建立です)。
 東大寺の前身は首くんが息子、基(最近は「某」とする場合が多い)の菩提を弔った金鐘寺(こんしゅじ、きんしょうじ)なのですが、その金鐘寺の建物だったともいわれ、数少ない東大寺創建当時からの建物なのがこの法華堂(三月堂)の北側半分(南側は鎌倉期の増築)で、有名な日光、月光菩薩など、天平仏の宝庫です。その中で毎年12月16日の良弁忌にだけ公開するのが、執金剛神立像(しゅこんごうじんりゅうぞう)。金鐘寺にいた良弁さんの念持仏だったと伝えられています。今年は大仏開眼1250年にあたることで、春にも特別公開されたのでその時見たのですが、天平の色彩をよく
残し、強そうなんだけどどこかかわいらしい感じのする仏像でした。
  ところで、良弁忌には法華堂の隣の二月堂で行われる有名な修二会(お水取り)に参加す
る僧侶(練行衆)の配役発表が行われる日でもあるのです。練行衆が参籠を始めるのが2月。
修二会は3月ですが、その始まりは今日なのです。大仏開眼と同じ752年、修二会を創始した
実忠さんは良弁さんのお弟子さん。そうそう、道鏡さんもお弟子さんです。
 お水取り」については「お・ま・つ・り。」の「お水取り(修二会)」で取り上げています。


2002年12月16日 播州赤穂  〜祝! 赤穂浪士討ち入り300年その2

 呉女は結婚前にも山陽地方を旅をした時、赤穂の町に立ち寄ったことがあって、あだ討ちな
んていう血走ったイメージとは全然違いホンワリと暖かな町の雰囲気が忘れられずにいまし
た。再訪したいな、と思ってオオアマさまと帰省前に寄ったのが1998年の暮れ。翌年の大河ド
ラマが「元禄繚乱」でしたから、この二人もミーハーだし、赤穂の町もここぞと盛り上がっている
時でした。
 オオアマさまは二学期の疲れが出たのか熱を出して寝込んでいたのに「これで行けなかった
ら何のために働いてきたんだ!」と言い張って、姫路行きの深夜高速バス「プリンセスロード」
(そのまんまの名前……)号に乗りこみました。電車の本数は多くないですが、姫路からは30分
ほど、相生駅からほどなく播州赤穂駅。駅前で迎えてくれるのはもちろん石内蔵介良雄(よしたか)像です。
 赤穂城など主要な見所は駅から歩いて回れますが、この時は赤穂御崎(温泉もある)のほうまで行ってみたかったので、ちょうどその時走っていた、地元のお菓子屋さん(塩まんじゅうがおいしい)のダンナさんが案内してくれる観光バスに乗りました。  
 前に訪れたときも思ったのですが、赤穂の人たちはこの町と義士たちに誇りを持っています。このダンナさんも浅野家の菩提寺、花岳寺(かがくじ、義士の墓もある)のおねえさんも、その口調に親しみと愛情が感じられて、それ
が観光客の心もあたためてくれる。オオアマさまの体調もずいぶんよくなったようです。 
 赤穂場内には大石内蔵介邸をはじめ、義士たちの家
の跡が表示されていたり、まるで兵馬俑のような義士像
がずらりと並んぶアプローチの大石神社があったり、も
ちろん本丸跡があったり、の忠臣蔵ワールド。また歩い
てすぐのところに蔵の形の歴史博物館があって、1階は
主に赤穂の塩、2階は忠臣蔵がテーマになっています。
二人は観光バスを降りてからも再度この博物館を訪ね
てじっくり見ました。討ち入り直後はその行動の是非につ
いて、当時の学者の間でも賛否両論だったそうです。し
かし、まもなく英雄視されるようになって以後は、世の中が変化し価値観が変わっても一貫して
赤穂浪士たちは英雄とされ愛され続けてきたことがわかりました。
 こんなのんびりした町にいて、よくまあ血気盛んなことができたこと……と謎が深まってしま
う、でも何だか不思議とのんびりできる、そんな赤穂の町です。

 
 2002年12月21日  新発田(しばた)  〜祝! 赤穂浪士討ち入り300年その3
 
 新発田って読みにくい地名ですけど、甲子園に出てくることもあるし、関東の天気予報にも出
てくるから読める人もけっこういるのかな? 
 新潟市の北30キロくらいの小さな城下町。ここが赤穂浪士の中でも二枚目さんが演じて人気のある堀部安兵衛の故郷です。実は新発田は呉女の母の故郷でもありまして、98年のゴールデンウィークに新潟市を旅したときに、バスに乗って(電車のほうが早いけど)久々に訪ねてみました。
 写真は新発田城。この前に堀部安兵衛の銅像が立っているのですが、なぜか写真は撮っていないみたい。長
徳寺というお寺には安兵衛が植えたと伝えられる松があります。安兵衛の実家、中山家の菩
提寺ですが、境内のかたわらに義士堂があり、12月14日には義士祭も行われるそうです。
 新発田のもう一つの売り物はお城の近くの新発田出身の人気挿絵画家「蕗谷虹児記念館
です。館内に虹児の描く大正浪漫があふれていて、オオアマさまは意外にここが気にいったよ
うです。そのほかにも新発田藩の下屋敷だった清水園という庭園や足軽長屋は見逃せませ
ん。半日もあれば町をクルッと歩いて回れる静かな城下町。近くに月岡温泉があります。
 それにしても、安兵衛はもともと浅野家の家臣だったわけじゃないのに、どうしてあんなに熱く
なれたのかしら……。
 

2002年12月22日 天武持統天皇陵 〜さらら様、1300年目の命日〜

 さらら様は702年12月22日にお亡くなりになられました。前年に大宝律令が完成し、この年の
11月には大海人さまが壬申の乱でたどった土地を旅されて、帰京して間もなく倒れられ、帰ら
ぬ人となったのでした。その日から今日でちょうど1300年……。
 写真は明日香にある天武持統天皇陵。石段はアプローチの部分で、上にちょっと見えている木のところが大海人さまとさらら様の御陵です。天皇陵はそのほとんどが実際にその天皇が被葬者なのかわからないのですが、この御陵は被葬者が正しいことが明確な数少ない天皇陵なのです。というのは鎌倉時代に盗掘された時の記録が残っているからで、その記録からするとこの中にもうさらら様はいないらしいのですが、当初はこの中で大海人さまとさらら様が眠っていらしたことは確かなのです。それからこの御陵は藤原京の中軸線のほぼ延長上にあるのです。つまりさらら様が藤原京の真ん中に立つと、大海人さまと
向き合うような形になるわけ。大海人さまには多くの妻がいたけれど、さらら様だけは亡くなっ
てからここで大海人さまとふたりきりになれたのです。
  つい一週間前、紫香楽に行く前に立ち寄り、さらら様と大海人さまにごあいさつしてまいりま
した。さらら様ファンにとってここは聖地ですから、何度行っても涙が出そうになります。
 この写真は「推古天皇の都」に出てきた、99年のオオアマさまとの初明日香の時の写真で、
そのページのいちばん下に書いたように、実際の写真にはこの隣に疲れあきれたオオアマさ
まが写っています。
 この日、御陵で薬師寺管長さんによる御忌法要が行われたそうです。リンクにある「明日香村ファン倶楽部」にちゅ
んたさまがレポートを載せていらっしゃいます。


2002年12月27日  南紀白浜温泉  〜斉明天皇の牟婁(むろ)の湯行幸〜

  先日、義母と一緒に南紀白浜温泉に行ってまいりました。大阪から特急で2時間くらい。バ
スも出ています。私たちは白浜駅ではなく、その手前の田辺駅からバスで白浜温泉へと入った
のですが、駅に降り立った時、あまりにあたたかいのにびっくりしました。
 義母と一緒に白浜に行くことになって呉女は大喜び。それで呉女の希望で白浜温泉の何ヶ所
かある温泉地のうち、湯崎温泉の旅館を選びました。白
浜温泉は昔は「牟婁の湯」といい、特に湯崎温泉の源泉
「行幸源泉」といって、7世紀の斉明天皇の行幸の
時から使われている源泉といわれています。斉明天皇
は大海人さまの母、つまりさらら様の義母(祖母でもあるけ
ど)ですから、呉女が喜んだのは理由は……おわかりです
ね。
 白浜温泉にはいくつかの外湯もあります。旅館の近くに
は「崎の湯」という露天風呂(ここはたまたまお休みだっ
た)があり、その背後の丘には「行幸の芝」という石碑がたっていて、ここに天皇の行宮があったそうです。また、その名も「牟婁のという外湯(こちらは内風呂。夕方だったので写真が暗くてすみません)にオオアマさまと入りに行ったのですが、呉女がなかなか出てこないので待ちぼうけのオオアマさま、あきれ顔でいわく「湯船の中でさらら様にでもなった気でいるんだろうなあと……」「あったり〜!!」。「天上の虹」にもこの行幸のシーンがあります。大田皇女がさらら様に「愛されたがりやさんね。あたなって」というシーン。そして、この行幸中にかの有間皇子の悲劇が起こ
るのです。詳しくはいつになるかわからないけど、「飛鳥・奈良」ページにて。
 さらら様は、太上天皇になってからも孫の文武天皇と一緒に牟婁の湯を訪れています。ここ
でさらら様はどんなふうに若き日の自分を思ったのでしょうね。

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