お水取り(修二会)
奈良・東大寺二月堂
若草山の麓、東大寺二月堂の「舞台」の上をあかあかと燃える松明が走る「お水取り」は、誰
もが知っている有名な行事です。でも、その「お水取り」がいったいどういう行事であるのか、と いうことは一般的にはあまり知られていないように思います。
「お水取り」は、3月12日がクライマックスになるので、その日だけがクローズアップされます
が、正式には「修二会(しゅにえ)」という14日間にわたる壮大な法会です。私たちがその「修 二会」に出かけたのは2001年のこと。実はその前年にも行ったのですが、奈良に着いたらオオ アマさまが体調を崩して熱を出しホテルで寝ていたので未遂に終わり、翌年やっと念願を果た したというわけ。とはいえ、14日間のうちの一日の、それも「お松明」と呼ばれるほんの一部を チラリと見ただけですので、とても「お水取り」を見た、とは言えないのです。でも一般観光客と してはこれがフツーかと思いますので、せめて「お水取り」とはどういう行事で、私たちはそ の中の何を見ているのか、それをはっきりさせることを趣旨として、今回のレポートとさせて
場合「目的」は国家の安泰や人民の幸福。「修二会」で厳しい行を繰り返す11人の僧侶(練行 衆)さんたちは、すべての人の罪を背負って懺悔をし、すべての人にかわって祈ってくださって いるのです。東大寺という寺の成り立ちを考えると、そのことも納得できますね。それを1250 年もの間、一度も欠かすことなくずっと続けてやってくださっている。南都焼き討ちや第二次 世界大戦などの危機の中でもやめなかった、とよくいわれますが、法会の目的からすれば、そ ういう危機の中でこそ、この法会が必要とされた、ともいえるのではないでしょうか。
ちなみに二月堂の本尊は十一面観音なので、「十一面観音悔過会」とも呼ばれます。
さて実際の「修二会」の流れを見ましょう。東大寺の塔頭の子弟などから毎年選ばれる練行
衆さんたちは、本行(3月1日から14日)の前に別火(べっか)という精進潔斎の期間を2月20 日から末日まで、大仏殿西の戒壇院に篭って送ります(戒壇院は四天王像の傑作があることで 有名ですが、この期間は拝観できないようです)。別火というのは、俗世間と火を別にする、つ まり、別火坊(戒壇院)でおこした火にしかあたらないし、その火で煮炊きしたものしか食べない ことで心身を浄めるのだそうです。前半は試別火(ころべっか)といって忘れ物を取りに帰ったり もできるゆるやかなものだそうですが、後半は惣別火(そうべっか)といって私語さえ制限される 厳しさなのだそうです。この別火の期間中に本行の準備をするわけですが、声明(しょうみょう)
2001年3月、本行が始まって間もないある日、奈良に着いた私たちは、何はともあれ二月堂
に向かいました。東大寺の中でも東の奥のほうにある二月堂まではバスを降りてからもけっこ う歩きます。12日であればもっと観光客も多いのでしょうが、この日は日曜日にもかかわらず、 東大寺境内はのどかな雰囲気でした。二月堂に着いたのが昼の2時ごろ。お堂に上がってみ ると、中から練行衆さんたちの沓の音。覗いてみるとお掃除の最中でした。造花などで飾られ た内陣は戸帳が掛けられているので普通は中を見ることはできないのですが、お掃除のため にちょうど戸帳があげられていて、中を垣間見ることができたのはラッキーでした。その後、私
を1日6回行うのですが(これを「六時の行法」という)ですが、私たちが二月堂に上がったとき は、ちょうど日没の勤行が終わったところだったようです。ここで練行衆さんたちはいったん参 篭所に戻り、夕方まで仮眠をとるそうです。
参篭所の前には浴室である湯屋や食事を作る仏餉屋(ぶつしょうのや)があり、中では童子さ
この法会には光明皇太后が興味を示したようで、皇太后は翌年の753年、実忠を朝廷に出んたちがきびきびと働いていました。写真をとればよかったのですが、なんだかカメラを向ける のに抵抗を感じるほど神聖な場所という雰囲気が漂っていました。普段はほとんど意識するこ とのない建物なのですが。
れが平安後期から鎌倉時代には参詣者も増えて、次第に大きなお堂になっていったようです。 仕させて「紫微中台悔過所」をつくって十一面観音悔過会をやったりしているのだそうです。
6時半を過ぎ、私たちは耐寒防備をして二月堂に向かいました。途中の道が暗いので懐中
電灯持参。折から冷たい雨が降ってきましたが、二月堂の周りにはたくさんの人……。それで も12日は混雑で立っていられないほどのすごさと聞きますので、それに比べればたいしたこと はありません。さすがにお堂の真下の火の粉をかぶるような場所は空いていませんが、その 下の斜面あたりでならゆっくり見ることができます。ただし、見上げたときに斜面の真ん中あた りにある「良弁杉」がジャマになる場合がありますので、それを考慮して場所を選びましょう。
7時。直前に雨もあがってくれました。周辺の明かりが消えたのか、鐘の音とともに荘厳な雰
囲気に包まれます。少しすると屋根のかかった左の階段をあかあかと松明がのぼってくる、い
あるのかはわかりませんが、松明の火の粉をかぶると、その年は健康で幸せに暮らせるとい
た「二月堂縁起」によれば、「修二会」が始められて間もないころ、実忠さんが日本全国の神々 を呼び集めたのですが、若狭国の遠敷(おにゅう)明神が釣りをしていて遅刻したので、その謝 罪にお堂の近くに香水を出すことを約束し、たちまち泉が湧き出た、という伝説があります。こ の「神々を呼ぶ」ことは今も「神名帳」の読み上げとして、毎日初夜の勤行で行われています。
上堂松明は7時半くらいで終わります。すると多くの観客は一斉にお堂の近くに殺到します。
松明の燃えかすを拾うためです。この燃えかすを護符として持ち帰って枕の下におくと夜泣き が治るとか(呉女もさすがに夜泣きはしないぞ……)、とにかく燃えかすは「ありがたいもの」とさ れているのです。一歩出遅れた呉女も必死にさがしました。暗いので見つけにくいのですが、 それでもひとつまみ程度は拾い集めてきました。そのままお堂に上がると、舞台からは奈良の 夜景がまたたいていました。
お堂の中では初夜の勤行が始まります。中の局と呼ばれるところに入ってその様子を聴聞
することもできますが、この時は時間的、体力的な面を考慮して、迷ったけれどやめました。
勤行では懺悔の作法として「五体投地」という板に体をぶつける激しい所作があったりしま
す。そして声明の節回しはほとんど美しい音楽なのだそうで、見ごたえ、聞きごたえがあるそう です。
また14日間にはきまったスケジュールがあり、その日によって行事が少しずつ違います。大
きくは大観音を本尊とする前半の上(じょう)七日と小観音を本尊とする下(げ)七日に分かれ ます。二つの本尊は厨子に守られた絶対の秘仏で、鎌倉時代に書かれた絵が残る以外はそ の姿は誰も知らない。わからないものを拝むなんて……とも思いますが、逆にだからこそ心の 中にご本尊が息づく、ということもあるのかもしれませんね。
行事の中で呉女が興味を持つのは上、下それぞれ5日目の「過去帳」の読み上げです。「過
去帳」は修二会にゆかりの人々の名が記録されたもので、元禄時代の人まで記録され続けた そうですが、そのうち鎌倉時代の人までが読み上げられるそうです。聖武天皇、光明皇后、行 基から始まって源頼朝などの著名人の名があり、また突然現れて「なぜ自分の名を呼ばない のか」と言って消えたという伝説の「青衣の女人(しょうえのにょにん)」も有名です。下七日の5 日目は12日なので混雑して聴聞は無理なのだそうですが、いつか3月5日に訪ねて聴聞してみ たいと思っています。
また、上下それぞれ5、6、7日目には「走り」という行法があります。文字通り練行衆がお堂
の中を走るそうですが、これは「二月堂縁起」の中の修二会の始まりの伝説に由来します。そ れよれば、実忠さんが笠置山の龍穴から兜卒天(とそつてん、将来仏となるべき菩薩が住んで いるところ)に出て、そこで見た「十一面観音悔過会」を人間界でも行いたい、と修二会を始め た。しかし、兜卒天の1日は人間界の400日にあたるので、その時間差を縮めようとして必死に 走る、ということだそうです。
また、12、13、14日には達陀(だったん)という激しい行法があります。これはこの世の邪悪な
ものを燃え尽くすかの如く大きな松明を振り回し、引きずりまわし、床に投げつけるという荒行 なのだそうです。そんなことをして火事にならないのか?と思いますよね。なったのだそうです。 1度だけ。江戸時代、1667年に達陀の火から二月堂は焼失。でもすぐに元の通りに再建され たそうです。この火事で小観音は助け出されたけれど大観音は被災してしまったそうで、その ときバラバラになった光背は奈良国立博物館の上記の特別陳列のほか、常設展でも見ること
けに14日間の勤めを無事「満行」したときの練行衆さんたちは充実感に満ちているとか……。
そして、この修二会が終わると、奈良に春が訪れるのです。
(2003年2月記)
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