聖徳太子ゆかりの寺
その1
橘寺   四天王寺 

ここでは、聖徳太子にゆかりの寺を訪ねた旅をスポット的にご紹介します。

橘 寺  〜明日香〜
 1999年5月に結婚後6年もたってから、はじめて一緒に明日香へ行った2人であり
ますが、翌6月、この2人はまた明日香の地へ舞い戻ることになったのです。
 6月も半ばのある日の新聞の一面に「飛鳥時代の大庭園跡」発掘のニュースがデ
カデカと載りました。現在「飛鳥京苑池遺構」といわれているものですが、週末に現
地説明会があるというので「行こう」と。こういう時は誰も止める人がいないもので経
済的事情などそっちのけで決まってしまうのです。で、飛んでいってしまったわけで
す。この遺跡の話は時代的にもっと後なので、今回はこの現地説明会での写真
だけにしますが、この時橿原考古学研究所が作成した庭園のイメージ図が新聞など
にも載りまして、池のそばに大海人様とさらら様らしき2人がたたずみ、遠景に寺が
見えている。その寺が橘寺と思われるので、説明会のあと橘寺へ行ってみました。
その橘寺のお話。
 
 橘寺があるのは飛鳥寺や飛鳥京遺跡のある真神原のすぐ南。明日香はこの橘寺のあたり
から北が比較的平地が多く寺や宮が営まれた土地、南側は起伏のある土地で古墳が多い地
区になります。下の写真は北から見た橘寺全景↓。現在の建物は江戸時代に建てられたも
のですが、当初から門、塔、金堂、講堂が東西に一直線に並ぶ伽藍(がらん)配置であったよう
です。

  ここは聖徳太子誕生の地といわれています。といっても聖徳太子が寺で生まれたわけで
はないし、「ここで生まれた」とはっきり書いた史料があるわけではないのです。ただ、彼の本
当の名前、厩戸(うまやと)皇子の「厩戸」という地名がこの付近にあったこととか、祖父の欽明
天皇の離宮の橘宮がこのあたりにあったらしいこととか、父の名前が橘豊日(たちばなのとよ
ひ)皇子(用明天皇)ということとか、いろんなことを考えると、このあたりが候補地になるというわ
けなのです。
 聖徳太子が生まれたのは674年(異説もあり)。720年に成立した「日本書紀」ですでに、母の
穴穂部間人(あなほべのはしひと)皇女が馬司にやってきたときに厩の戸にあたって難なく出産
したとか、生まれてすぐしゃべったとかというふうに伝説化されています。これが平安時代に書
かれた「聖徳太子伝暦」では穴穂部間人皇女は不思議な夢を見てみごもったという話も加わっ
てまるでイエス・キリスト。これだから、この人のことは実はよくわからなくて、最近では「聖徳太
子はいなかった」説まで出てくるのです。
 さて、お寺の中に入ってみます。実はこの寺の前は何度も通るものの意外に中に入ることは少ないのです。理由はカンタン。明日香の中で数少ない拝観料(300円)がかかる場所の一つだから…。寺の中で聖徳太子の時代から残るものといえば、この塔の心礎石。何だかクマの足あとみたいに見えますが、上からみると正三角形の角に円がついているようなかわいい形。かなり大きな塔があったと思われます。
 この時代、宮だったところを寺にすることはよくあります。寺伝によれば
606年に聖徳太子がここで勝鬘経(しょうまんぎょう)を講じたときに庭に蓮
の花が降り積もったり……という奇瑞がおこったので推古天皇の命で寺を
建立したということになっています。また奈良時代に成立した史料には607
年に推古天皇と聖徳太子が七つの寺を建てたという中に「橘尼寺」(当初
は尼寺だった)が入っています。実際の発掘調査によっても7世紀前半に
創建されたと考えられるということなので、伝説は差し引いて考えても、こ
の時代にできた聖徳太子に何らかのゆかりのある寺なのでしょう。
 お寺の境内には、中に入ると何だかほっこりしてしまう太子堂という本堂
のほかに観音堂や経堂、鐘楼など。太子堂の南にはニ面石↑があります。明日香に多く残る不思議な石造物の一つで、善悪二つの顔を持つという意味深な感じのする石ですが、どこか別のところから運ばれてきたらしいです。最近ではこれらの石造物は庭園を飾っていたものだろうといわれています。この橘寺を出て、西に少し歩いたところには石造物でも一番人気(?)亀石があります。ニ面石よりずっと大きいですが、愛嬌があって何ともかわいい明日香のアイドルです。
 橘寺境内から北側に広がる真神→
を見たところ。真ん中の樹木の向こ
うの方で現地説明会をやっています。
この地に宮殿がデーンと建つのはもう
少し後の時代ですが、飛鳥寺がこの
奥のほうにありました。当時は聖徳太
子と共に政治を執った蘇我馬子の屋
敷があったといわれ、現在は馬子の
墓とされる石舞台古墳があるのは、
前の通りを右の方に1キロほど行ったところです。
 実はまだ(2002年9月現在)オオアマさまといっしょには石舞台には行っていないのです。なんで? 拝観料がかか
るからかしら?(違いますっ)
 この日はすぐ前の川原寺跡と、定番の甘樫丘にのぼって帰りました。突然だったし……ね。でも、こういうのが、ま
た楽しいのですよ。

ところで、聖徳太子が創建したと伝わる寺は橘寺を含め多数存在するのですが、「日本書紀」に「聖徳太子が創建した」ことがはっきり書いてある寺はただ一つ、四天王寺です。そこで、次はその四天王寺のある大阪に飛びましょう。


四天王寺    〜大阪〜

 呉女は独身時代の宝塚通いで大阪にはしょっちゅう行っていたのですが、乗り換えたり買い物をしたりする程度
で、観光はしたことがありませんでした。しかし歴史ファンにとって大阪は見逃すにはもったいない、ものすごく魅力あ
る土地です。そこで1996年の年末の帰省中に1泊の大阪旅行をしてみました。年末の忙しいさなかにのんびり旅をし
ているような人は少なくて、施設など閉まっているところもあるのですが、そんなことはおかまいなし。1日目はキタ
へ、2日目はミナミへ。ここではその2日目のお話。

 地下鉄谷町線の夕陽ヶ丘四天王寺前駅で下車。大阪の人は四天王寺のことを「天王寺さ
ん」と親しみを込めてよぶそうですから、JR天王寺駅から行ってもいいのですが、最寄駅はこ
ちらなんですね。徒歩5分ほど、西の鳥居をくぐって境内へ。さらに拝観料(200円)を払って回
廊に囲まれた中心伽藍に入ると飛鳥時代にタイムスリップしたような華やかさ。ここは2001年秋にNHKで放映されたドラマ「聖徳太子」のロケにも使われたんですよ。
 「日本書紀」によれば、物部守屋との戦いの時に「この戦いに勝ったら寺を建てる」と誓いをたてて、蘇我馬子が建てたのが飛鳥寺、聖徳太子が建てたのが四天王寺。ただし、先にも書いたように「日本書紀」の時点で聖徳太子はすでに伝説化されていますから、本当か
どうかはわかりません。この寺も別の地から移転された説、最初からここに建てられた説の両
説あるようですが、いずれにせよ発掘調査によると推古朝つまり7世紀初めころにこの地に造
営されたのは確かなようです。しかも、その後836年の落雷にはじまり、南北朝の戦乱やら織
田信長の本願寺攻めやら大阪冬の陣やら、果ては1945年の空襲やらで何度も被災しながら、
そのたびにもとの通りに復興されてきたらしく、1963年に再建された現在の伽藍もこの地に
創建された当時のままの規模、そのままの位置で存在し続けている、これはものすごーくた
いへんなことなのであります。
 歴史の授業でこの「伽藍配置」というのを無理やり覚えさせられた記憶をお持ちの方もいるで
しょう。この中門、塔、金堂、講堂が南北に一直線
に並ぶ様式はズバリ「四天王寺式」。橘寺も東西
に並んでいるものの並び方はこの様式、次に出て
くる法隆寺の当初の「若草伽藍」も、明日香の山田
寺もと、7世紀前半にできた寺はは四天王寺式が
多いようで、朝鮮半島の百済(くだら、ひゃくさい)の
影響を受けているそうです。
 何しろみ〜んな途中で焼けてしまっているから、
ご本尊などもわかっていないようで、現在安置され
ている仏様も新しいものです。意外に珍しいのはここの↑五重塔は上の層までのぼれるので
す。開口部が少ないので見晴らしがいい、というわけではないのですが。
 この寺が造られた理由として考えられることが一つ。当時、大陸との交流は盛んで大阪、つ
まり難波は国際的な港町でした。船はまず九州へ来て、瀬戸内海を通って難波津(なにわづ)
に到着しました。もちろん遣隋使として隋に渡った小野妹子もここから旅立ったでしょう。海岸
線は現在とはずいぶん違い、この寺の建つ台地の下はすぐ海だったようですから、外国から
来た人々にこの寺の威容を見せて「この国だってすごいんだぞっ」と示したかったのでしょう。

 さて、四天王寺にはこの中心伽藍の外側にも多くのお堂があります。これらの多くは戦災を
逃れて江戸時代初期から現存しています。忙しい年末でありながら参詣する人々がたくさんい
ました。最初は国がつくった形の寺でありながら、その後庶民の信仰に支えられて何度も復興
してきたこの寺のパワーを見た気がしました。写真はその内の一つ、六時堂ですが、前に白い台みたいなものがボワ〜ッと見えます。これは石舞台と呼ばれていて、ここで「天王寺舞楽」が行われます。「日本書紀」には612年(推古20年)百済の人、味摩之(みまし)が中国、呉の国の伎楽(「呉女」はこの伎楽の登場人物です)を伝えたと書かれています。それで聖徳太子は芸能の祖ともいわれるそう
です。この伎楽の流れをひいたのが「天王寺舞楽」で平安時代には貴族たちの楽しみだったよ
うです。この古式ゆかしい舞楽を4月22日の聖霊会(しょうりょうえ、聖徳太子の命日、旧暦の2
月22日)などにはここで見ることができるそうです(もう「呉女」は出てきませんけど)。そのほか
四天王寺は「どやどや」「四天王寺ワッソ」などのお祭りでも知られています。

 最初に西の鳥居をくぐって、と言いました。寺なのに鳥居?と思われたかもしれませんが、明
治の神仏分離令以前の日本では寺と神社はちゃんと共存し
ていました。そういう神仏、それに儒教も習合してしまう日本
の精神文化の基をつくった人こそ聖徳太子だという人もいま
す。四天王寺の石鳥居は極楽浄土の東門といわれ、お
彼岸にはこの鳥居に落ちる夕陽を拝するのだとか(それで駅
名が「夕陽ヶ丘」……)。この鳥居は1294年別当(長官)だった
忍性(にんしょう)が建てたもので、この寺では最古の建造物。全国でも最も古いほうの鳥居だ
そうです。  
 
 結局、四天王寺には宝物館(聖徳太子関連以外にも国宝級の宝物を多数所蔵していて見ごたえあり)も含めて約2時間いたのです。「一つの寺で何で2時間もかかったんだ〜?」とか言いつつ、ぷらぷら歩くこと十数分。かの通天閣へやってきました。その通天閣の展望台から見た四天王寺……よ〜く見ると塔の形が見えるんですけど。境内に入ると広い感じがしますが、周囲はビルがいっぱいなんです。 

 それから地下鉄恵美須町のホームでちょっとコワイ目に。いかにも漫画に出てきそうなミナミのおにーちゃんがベン
チに座っていた私の足につまづいて(あんな人の少ないホームで呉女の短い足にひっかかる方が不自然でしょうが…
…)そのコワイ細い目でにらみつけられたんですゥ〜。すぐオオア
マさまが来てくれたから助かりましたけど。「ミナミはコワイ」なん
て思いたくはなかったのですが、ああもイメージ通りのにーちゃ
んが現れるとねぇ……。
 気を取り直して、一つ目の日本橋駅で降りて道頓堀へ。こ
こも年末にもかかわらず、人気のたこ焼きやさんにはずらっと行
列ができるなど賑わっていました。何だか大阪パワーに圧倒さ
れて何も買わず食べずに通り過ぎてしまったんですけど。法善
寺横町などを散策してなんば駅に出て、この日の旅は終わりに
しました。今度行ったら安くておいしいものを食べまくりたいィ
〜。


次は「聖徳太子ゆかりの寺その2」、法隆寺と広隆寺に行きます。

(2002年10月記)

聖徳太子ゆかりの寺その2

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