橘 寺 〜明日香〜
橘寺があるのは飛鳥寺や飛鳥京遺跡のある真神原のすぐ南。明日香はこの橘寺のあたり から北が比較的平地が多く寺や宮が営まれた土地、南側は起伏のある土地で古墳が多い地 区になります。下の写真は北から見た橘寺全景↓。現在の建物は江戸時代に建てられたも のですが、当初から門、塔、金堂、講堂が東西に一直線に並ぶ伽藍(がらん)配置であったよう です。 はないし、「ここで生まれた」とはっきり書いた史料があるわけではないのです。ただ、彼の本 当の名前、厩戸(うまやと)皇子の「厩戸」という地名がこの付近にあったこととか、祖父の欽明 天皇の離宮の橘宮がこのあたりにあったらしいこととか、父の名前が橘豊日(たちばなのとよ ひ)皇子(用明天皇)ということとか、いろんなことを考えると、このあたりが候補地になるというわ けなのです。 聖徳太子が生まれたのは674年(異説もあり)。720年に成立した「日本書紀」ですでに、母の 穴穂部間人(あなほべのはしひと)皇女が馬司にやってきたときに厩の戸にあたって難なく出産 したとか、生まれてすぐしゃべったとかというふうに伝説化されています。これが平安時代に書 かれた「聖徳太子伝暦」では穴穂部間人皇女は不思議な夢を見てみごもったという話も加わっ てまるでイエス・キリスト。これだから、この人のことは実はよくわからなくて、最近では「聖徳太 子はいなかった」説まで出てくるのです。
実はまだ(2002年9月現在)オオアマさまといっしょには石舞台には行っていないのです。なんで? 拝観料がかか るからかしら?(違いますっ) この日はすぐ前の川原寺跡と、定番の甘樫丘にのぼって帰りました。突然だったし……ね。でも、こういうのが、ま た楽しいのですよ。
四天王寺 〜大阪〜 呉女は独身時代の宝塚通いで大阪にはしょっちゅう行っていたのですが、乗り換えたり買い物をしたりする程度 で、観光はしたことがありませんでした。しかし歴史ファンにとって大阪は見逃すにはもったいない、ものすごく魅力あ る土地です。そこで1996年の年末の帰省中に1泊の大阪旅行をしてみました。年末の忙しいさなかにのんびり旅をし ているような人は少なくて、施設など閉まっているところもあるのですが、そんなことはおかまいなし。1日目はキタ へ、2日目はミナミへ。ここではその2日目のお話。 ん」と親しみを込めてよぶそうですから、JR天王寺駅から行ってもいいのですが、最寄駅はこ ちらなんですね。徒歩5分ほど、西の鳥居をくぐって境内へ。さらに拝観料(200円)を払って回
説あるようですが、いずれにせよ発掘調査によると推古朝つまり7世紀初めころにこの地に造 営されたのは確かなようです。しかも、その後836年の落雷にはじまり、南北朝の戦乱やら織 田信長の本願寺攻めやら大阪冬の陣やら、果ては1945年の空襲やらで何度も被災しながら、 そのたびにもとの通りに復興されてきたらしく、1963年に再建された現在の伽藍もこの地に 創建された当時のままの規模、そのままの位置で存在し続けている、これはものすごーくた いへんなことなのであります。 歴史の授業でこの「伽藍配置」というのを無理やり覚えさせられた記憶をお持ちの方もいるで
す。開口部が少ないので見晴らしがいい、というわけではないのですが。 この寺が造られた理由として考えられることが一つ。当時、大陸との交流は盛んで大阪、つ まり難波は国際的な港町でした。船はまず九州へ来て、瀬戸内海を通って難波津(なにわづ) に到着しました。もちろん遣隋使として隋に渡った小野妹子もここから旅立ったでしょう。海岸 線は現在とはずいぶん違い、この寺の建つ台地の下はすぐ海だったようですから、外国から 来た人々にこの寺の威容を見せて「この国だってすごいんだぞっ」と示したかったのでしょう。 さて、四天王寺にはこの中心伽藍の外側にも多くのお堂があります。これらの多くは戦災を 逃れて江戸時代初期から現存しています。忙しい年末でありながら参詣する人々がたくさんい ました。最初は国がつくった形の寺でありながら、その後庶民の信仰に支えられて何度も復興
うです。この古式ゆかしい舞楽を4月22日の聖霊会(しょうりょうえ、聖徳太子の命日、旧暦の2 月22日)などにはここで見ることができるそうです(もう「呉女」は出てきませんけど)。そのほか 四天王寺は「どやどや」「四天王寺ワッソ」などのお祭りでも知られています。 最初に西の鳥居をくぐって、と言いました。寺なのに鳥居?と思われたかもしれませんが、明
そうです。
それから地下鉄恵美須町のホームでちょっとコワイ目に。いかにも漫画に出てきそうなミナミのおにーちゃんがベン チに座っていた私の足につまづいて(あんな人の少ないホームで呉女の短い足にひっかかる方が不自然でしょうが…
(2002年10月記)
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