聖徳太子といったら、何といっても法隆寺。世界遺産に真っ先に登録された世界最古の木造建築、なんていう理 屈ぬきでも、呉女が思うに日本人なら一度は見ておくべき価値のある寺だと思います。呉女も中学の修学旅行に始 まって、独身時代にも一人で(さびしー。でも法隆寺でナンパされた記憶も……)何度か訪れています。オオアマさまと は1994年の7月に一度だけ。この年の春「法隆寺展」という展覧会を見て、急に行きたくなって計画を立てたのでし た。この日の午前中は唐招提寺などを訪ねて、午後バスで法隆寺へ。それにしても写真がほとんどなくて困るー。そ ろそろまた行きたいので、今度写真を撮ってきたら差し替えます。 法隆寺に入る、その前に……。
生まれたころのものということになります。これだけの遺品にもかかわらず、被葬者については わかっていませんが、聖徳太子がここに宮を造る以前からこの土地を開発していた勢力の存 在を伺わせます。聖徳太子に近い人だったかもしれませんし……。 法隆寺 一説では、斑鳩に勢力のあった一族というのは、聖徳太子の妻の一人、膳大郎女の実家の 膳(かしわで)氏ともいわれますが、はっきりしたことはわからないようです。 奈良に詳しくない方なら、法隆寺は東大寺のある奈良市内にもっと近いところにあると思わ れているかもしれませんが、実は奈良市内からバスで1時間近く、渋滞するともっとかかりま す。当時の都、明日香と斑鳩を結ぶ「太子道」というほぼ直線の道路でも約20キロあります。斑 鳩の里は意外にポツンと離れたところにあるのです。だからこそ、南都焼き討ちなどの戦乱に も巻き込まれずに、奇跡の木造建築が残ってくれたともいえるでしょう。
との政争に敗れたからとか、政治に疲れて仏教三昧の生活がしたかったからとか、後ろ向き に捉えられることも多かったのですが、現在は斑鳩が明日香と難波を結ぶ道の途中にあるこ とから、海外の文化を一早く受容できる先進地域であったとの見方がされています。また単に 太子の宮と寺があっただけでなく、その家族たちの宮、それをつなぐ道路などが整っていたよ うです。太子は亡くなるまでの17年間をここで過ごし、斑鳩は上宮王家(上宮はかみつみや、う えのみや、じょうぐうなど読み方はいろいろ。太子が青年期を過ごした宮の名から太子一族を 上宮王家と呼ぶ。上宮の場所は桜井駅南の上之宮遺跡が今のところ有力)の町として、約40 年間栄えたのです。 その斑鳩から明日香に通う道として太子が造ったとされるのが「太子道」なのですが、当時20 キロを毎日通うかあ〜? そりゃたまには通っただろうけど、馬子と適度に距離を保ちつつ、マ イペースで仕事していたんじゃないかしら……。ま、それはともかく。 西院伽藍に入ると回廊に囲まれた中に左に塔、右に金堂↓(写真は北から撮っているので
うもこの建築様式のようです。文化区分でいうと太子の時代は「飛鳥文化」。再建された時期 は「白鳳文化」。現在の建物が飛鳥様式(いわゆる卍崩しの勾欄とか人字形割束とかのことら しい)なので再建であるはずがないと。再建当時、一時代前のデザインであっても創建当初の 様式を再現しようとしたとすれば、再建したお方の感覚はかなり斬新でスゴイものであったの かもしれません。 ところで、この金堂の中に教科書に出てくる鞍作鳥(くらつくりのとり)作と銘の入った釈迦三 尊像(アルカイックスマイルで有名)があるので、それだけを見て出てきてしまいがちですが、釈 迦三尊像の周囲にもたくさんの仏像が並んでいるし、仏様の頭上には豪華な天蓋がかかって いるし、楽器を持った天人像も飛んでいる(?)し、これをグルッと見回すだけでも見ごたえがあ
西院伽藍を出て、東側の大宝蔵殿に向かいますが、聖徳太子像を祀る聖霊院前に鏡池↓
ないかとも言われていて、光背銘の信憑性にも諸説あるようです。それでも「書紀」に606年播 磨の国の水田を斑鳩寺(法隆寺のこと)に施入したとの記事がありますから、それほど大きくは ズレていないのでしょう。本尊の釈迦三尊像は太子の病気平癒を祈って家族たちによって発 願されたけれど、622年に太子が亡くなり、623年に完成したと光背銘に書かれています。つま りご本尊は再建前から存在していて火事の時も助け出されたけれど、太子自身は完成を見て いないことになりますね。 さて、大宝蔵殿は最近新しい建物になったそうですが、この当時はまだ古いままでした。内 部は謎の仏様百済観音像や夢違観音、玉虫厨子、橘夫人厨子などの逸品揃い。ここだけ でもかなり時間がかかると覚悟してください。 さらに子院の並ぶ道を東に歩きます。これらの子院は太子信仰が盛んになった平安時代以 降に造られ出し、寺勢はますます盛んになりました。そんな法隆寺でも明治期の廃仏毀釈の風 潮の中では経済的に困り、皇室に寺の宝物を献納してその下賜金によって危機をのりこえま した。そしてその時に献納された宝物は現在東京国立博物館の「法隆寺宝物館」で見ること ができます。東京で古代を浴びることができる貴重な場所です。 余談ですが、東京の「法隆寺宝物館」にも伎楽面が収蔵されていますが、保存が難しいらしく公開されるのは春夏 秋のそれぞれ一ヶ月ずつのみ。私が自分に似ていると思っているのは正倉院にある呉女面ですが、法隆寺の呉女 面のほうが時代は古くて、もしかしたら、さらら様と対面したかも……。
閉じられ、明治になってフェノロサ(アメリカの東洋美術研究家)の強い勧めで恐る恐る扉を開 けた……といわれています。現在では4月11日〜5月5日、10月22日〜11月3日に開扉され、 尊いお姿を拝することができます。呉女も独身時代、2度ほど拝観させていただきましたが、実 際にはお堂の中は薄暗くて、写真で見るほどよくは見えないんです。それでも少ーしだけ太子 にお近づきになったような気分になる、それは実物を前にしてこその感動です。 斑鳩宮そのものは643年に蘇我入鹿が太子の子、山背(やましろ)大兄王を襲撃して上宮王 家を滅亡させた悲劇の舞台となって焼け落ちてしまいます。現在の八角堂は739年(天平11年) に僧行信(ぎょうしん、お堂の中にえらく目のつり上がった印象的なお顔の坐像がある)が斑鳩 宮跡の荒廃を嘆き、太子の冥福を祈って建てました。ですから、文化の時代区分では天平文 化になります。もとは法隆寺とは別の寺で、その縁起には行信の発願で「皇太子阿部内親王 が藤原房前に命じて造らせた」とあり、その説を採用しているガイドブックもありますが、房前 は737年に病死、その翌年に阿部内親王が立太子するなど年代的に合わないことから、これ は疑問視されています。当時の八角堂というのは興福寺などにも見られ、霊廟的な性格の建 築と考えられます。鎌倉時代にかなり改造されているそうですが、屋根の上の華やかな露盤な どは創建当時のものです。
お隣の中宮寺も訪ねなければいけません(断言!)。 中宮寺は推古天皇と太子が建てた七つの寺の一つとして史料の中に登場し、平安以降の 史料によれば、太子の母穴穂部間人皇女の宮を彼女の死(621年)後にその菩提を弔うため
です。指をそっと頬に触れ、限りなくあたたかい微笑みで迎えてくださる仏様と、ここでは畳に 座ってじっくりと対面できる、ぜいたくな空間です。ここに写真は載せられませんけれど、写真で みなさんおなじみの仏様だと思います。黒い光沢で一見ブロンズ像のように見えますけれど、 実は木造。これだけ有名な仏様でありながら、由来については飛鳥時代後期の作だろうという ことくらいで、よくわからないようです。 もう一つこの寺で有名なのが「天寿国曼荼羅繍帳(てんじゅこくまんだらしゅうちょう)」。最近 では展覧会などで実物にお目にかかれる機会もありますが、ここにはレプリカが展示されてい ます。太子に関する重要史料である「上宮聖徳法王帝説」によれば、これは太子の死後、妃の 一人である橘大郎女(たちばなのおおいらつめ)が太子が往生した天寿国の様子を表そうと、 祖母である推古天皇に願い出て、采女たちに造らせた刺繍の帳(とばり)だそうです。後に法隆 寺の蔵の中で忘れられ、鎌倉時代になって中宮寺の尼に発見されたそうです。もともとはかな り大きなものだったそうですが、鎌倉期でも破損がひどく、現在残っているのは鎌倉期につくら れた模本と飛鳥時代の原本のごく一部ずつを張り合わせたものです。 この時はとにかく暑くて暑くて、なんで私たちはこんな暑い中を好き好んで史跡めぐりなんかしているのかしら、と頭 の中では疑問に思いつつも、足と目は動いてしまうような状態でした。斑鳩にはほかにも上宮王家ゆかりの法輪寺、 法起寺など、ゆっくり時間をかければまだまだ見所はあるのですが、法隆寺だけでもかなり時間がかかり消耗してい ましたので、これにて旅を終わりとしバスで近鉄郡山駅に出て帰りました。呉女は独身時代に一人で斑鳩散策をした ことがありますが、オオアマさまとはこれ以降行っていないので、また行くことがあれば書き加えることにしたいと思 います。
京都の広隆寺を訪ねたのは1999年の10月。何かの用事があって義母の家を訪ねた帰りに、京都で新幹線に乗 るまでのあまった時間でどこへ行こう?と考えたときに、なぜか突然広隆寺を思いたったのです。京都駅で太秦方面 へ行くバスを待っていたら、道路が混雑していたらしくてなかなか来なくて、待ちくたびれた記憶があります。そのとき の写真があまりないので、2002年8月の帰省時にオオアマさまと京都で別行動をする時間があり、ちょうど御池通り のバス停で太秦の方へ行くバスが来たもので呉女はふらっとそれに乗り、一人で訪ねたときの写真も使っています。 このときはスムーズに行くことができました。
は宝冠を被り、少し赤味がかった珍しい赤松でできています。かつてこの仏様に恋をして思わ ず仏様の指を折ってしまった学生がいる……なんて話もうなずけるような穏やかで美しい仏様 です。その隣にほぼ同じポーズをとるひと回り小さい仏様がいらっしゃいます。こちらはお顔の
が咲いていました。お寺そのものは何度か焼けて復興したようですが、多分命がけで仏様を守 ってくださった多くの人々が存在したことに、感謝しましょう。 聖徳太子ゆかりと伝わる寺は全国各地に数多くあります。太子信仰が広がったためです。こ こでは太子に関係する確実性の高い寺のみ、取り上げました。 次は「聖徳太子が眠る町」河内飛鳥を訪ねます。
(2002年12月記)
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