聖徳太子の眠る町

河内飛鳥 
  大和の飛鳥の西にそびえる二上山の向こう側に「もうひとつの飛鳥」がある。そこには「王陵の谷」と呼ばれる一帯
があって、聖徳太子もそこに眠る……。いつも大和から二上山を見ている呉女にとって、そこは何となく神秘的な場
所でした。そんな神秘に足を踏み入れてみようと思いたったのは、2001年のゴールデンウィーク。何だかど〜んよりし
た天気の日だったのですけれど、橿原神宮前駅を拠点に、さあ出発!

 橿原神宮前駅から大阪、あべの橋へ向かう近鉄南大阪線に乗ります。ニ上山の北側を抜け
て大阪府に入ると間もなく上ノ太子(かみのたいし)駅。これから散策する一帯の最寄駅はここ
なのですが、最初に寄ろうとする「近つ飛鳥博物館」に行くバスはこの先の古市駅で近鉄長野
線に乗り換えて南へ一つ目の喜志駅からしか出ていない。地図で見るとすごく遠回りだけど、
しかたがないから、そのルートで行きます。
 この上ノ太子駅から古市駅までの線路に沿うように竹内(たけのうち)街道があります。「日
本書紀」の613年(推古21)の記述に「難波から都に至る大路を設ける」とあり、それがこの街
道だといわれています。港のあった難波から堺、そしてこの古市を通り、ニ上山の麓を通って
大和へ入る道。堺も古市も巨大古墳群のある所だから、外国からの使節に「どうだっ!」と見
せびらかしたかったんでしょうね……。
 喜志駅から「阪南ネオポリス」行きのバスに乗って終点で降りる。どんな
とこや?と思っていたら、丘の斜面に開かれた新興住宅街で、その奥の
丘、というのが一須賀古墳群という群集墳で「近つ飛鳥風土記の丘」とし
て整備され、その中に「大阪府立近つ飛鳥博物館」はあります。「近つ
飛鳥」というのは多分、難波を基準として大和の飛鳥を「遠つ飛鳥」という
のに対して河内の飛鳥をさすのです。「あすか」という地名は実は全国に
たくさんあって、一説によれば古代朝鮮語の「アンスク(安宿)」から転化し
たという、渡来人が定住した土地にみられる地名なのだそうです。
 まずは博物館へ(常設展300円)。近年できたばかりの最新設備を備えた博物館で、展示物
がそれほど多いわけではないのに、呉女とオオアマさまはハマリこんでしまいました。見所はま
聖徳太子の墓の内部復元。この話はまた後にしましょう。それから地下にある大仙陵古
墳(仁徳天皇陵)の縮尺150分の1の模型です。それでも直径が10mもあり、古墳を造って
いる当時の様子を細かく再現しています。工房の様子、儀式や宴の様子や日常ののどかな風
景まで、見ていて飽きません。おかげで午前中で出てくる予定が昼過ぎまでここにいてしまい、
お昼ごはんは館内の軽食ですませました。
 次は外に出て、風土記の丘になっている群集墳の見学です。群集墳は大型古墳が出てこなくなる古墳時代後期の5世紀後半くらいから現れる家族墓的な古墳で、この一須賀←古墳群も6世紀にこのあたりを拠点としていた蘇我氏に統括されていた渡来人一族の墓と見られています。丘の上に100基以上の円墳がポコポコあって、石室が露出しているものもたくさん……ですから、考えればかなりブキミなところなんですが、超コワガリの呉女がなぜかこういうところは平
気なのよね〜。
 コースに従って丘を登っていくと北
側を見渡せる展望台があり、ここに
見えているのが「王陵の谷といわ
れる磯長(しなが)谷です。写真
はその東の部分のなのですが、中
央手前に見えているのが多分、
古天皇陵です。推古陵といえば、ち
ょうどこの少し前に発掘されて話題
になった橿原神宮前駅にも近い植山古墳では?と思う方もいらっしゃるでしょう。「古事記」によ
れば推古天皇ははじめ「大野丘上」に、それから「科長(しなが)」に改葬されたそうですので最
初が植山古墳、その後がこちらということのようです。もちろん推古天皇が溺愛したであろう息
子の竹田皇子もいっしょに葬られています。この時代は墓室の構造上、出し入れがカンタンに
なったせいか(?)「改葬した」という話はたくさん出てきます。
 ところで、文献上この磯長谷に墓が造られたことが分かる天皇が敏達、用明、推古、孝徳
と4代います。また聖徳太子もそうです。磯長谷には他にもいくつも古墳がある中で、明治期
に五つの古墳がそれぞれの御陵に指定されました。その比定の正確さに疑問はあるものの、
五つの御陵が梅の花の形のように並んでいることから総称して「梅鉢御陵」と呼ばれていま
す。写真ではわかりませんが、この展望台で地図とにらめっこすれば、その梅の花の形がよく
わかります。ここでまたしばらくボーッとして……。本当は梅鉢御陵を一つ一つ訪ねる予定だっ
たのだけど、今日は無理そうだワ、とアキラメル。向かいの山の斜面の白いところが気になり
ます? あれは確かビニールハウス。ぶどうを栽培しているようです。

 さて、丘をおりてバスで来た道とは違う、博物館の前の道から梅鉢御陵のいちばん西にある敏達天皇陵へ向かいます。この道がちゃんと幅のある車道なんだけど人通りのない道で、一人で歩いたらさびしかったかも……。昔はよく一人で史跡めぐりをしたものですが、今は相棒がいてよかった、とこういうときに思います。そんな道を延々30分近く歩いてやっと周囲に住宅も見えてくると、敏達天皇陵があります。天皇陵に指定されて
いる中では最後の前方後円墳。敏達天皇は推古天皇のダンナさまです。これが本当に敏達天
皇の墓だったとしても、敏達天皇のために造られたものではなく、その母、欽明天皇の后石姫
の御陵に追葬されたのだそうで、そういう意味では「石姫陵」であるわ
けで……ちょっと気の毒。
 次に向かうのが聖徳太子陵のある叡福寺(えいふくじ)。この辺りの
住所は「太子町」。途中にあった高校の名称が「上宮太子高校」(甲子
園に出て有名になった)。……というふうに他の天皇が束になってもか
なわないくらい聖徳太子は英雄なのであります。この高校の裏の住宅
地に入って地図を片手にクネクネ歩く。聖徳太子の乳母たちの寺とい
う言い伝えのあるきれいな寺(住職さんは蘇我さんというそうだ)、西方
院の前から正面に叡福寺が見えるのが何ともいい雰囲気です。
 
石段をのぼって叡福寺へ。門をくぐると広々した境内に多宝塔や太子殿、金堂などが並びます。これらは織田信長の河内攻めで全焼した後に建てられた江戸期の建築だそうです。その正面奥にこんもりと見える円墳が聖徳太子のお墓です。
 聖徳太子の死に関しては、「日本書紀」では621年になっているのですが、法隆寺で出てきた釈迦三尊像の光背銘などその他の史料では622年(推古30)2月22日となっていて、こちらが正しいとされています。その前年に亡くなった母、穴穂部間人皇女の墓に合葬されたと後の史料は
伝えています。また呉女がうらやましいなあ、と
思うのは、太子が亡くなる前日に太子の妻の一
人、膳大郎女(かしわでのおおいらつめ)が亡くな
って、彼女もいっしょに葬られているということで
す。ダンナさんと一日違い、しかも前日に亡くな
るなんて理想的だと思いません?(オスカルとア
ンドレの逆だね……ぉぃ)。……ということでこの
墓は3人がいっしょに葬られた「三骨一廟」の墓
で、「実際内部に入った」という記録がいくつも残
っているのだそうです。(もちろん現在は宮内庁管轄で入れませんが)。それで先ほどの「近つ
飛鳥博物館」に聖徳太子の墓の内部の復元があったわけです。石室内の奥には穴穂部間人
皇女の棺が、手前左に膳大郎女、右に太子の棺が安置してあるのだそうです。ここまで記録
があれば、これが聖徳太子の墓であることは確実……と思いきや、それでも少しは疑問の余
地もあるらしい。この叡福寺は太子の墓の墓前寺として造られたわけですが、寺伝によれば8
世紀半ばに聖武天皇が造ったことになっていて、叡福寺の解説にはみんなそう書いてありま
す。ただ、聖武天皇がこの寺をつくったという記録は他にはなく、現在わかるところではせいぜ
い平安期の創建ではないか……ということで創建に関してもまだまだ謎というのが実際のとこ
ろらしいのです。ま、聖武天皇は多分、聖徳太子を意識していたとは思うから、寺を建てても不思議はないとは思いますけどね。もちろん、ここは太子信仰の広まりとともに聖地となり、日蓮とか一遍とか、たくさんの有名人が参詣した記録も残っています。
写真は叡福寺境内から東に見える上山。大和の飛鳥からは遠いけれど、こ
こからはこんなに近くに見えます。

叡福寺前でこんなもの見っけ! ランドセルをしょ
って、手を上げて横断歩道を渡るよい子の聖徳太子
でした。そのままパス通りを歩いていたら、足元に
こんなもの発見! マンホールのふたに「和を以っ
て貴しとなす」だって。さすが太子町!

 叡福寺から東にバス停ひとつ分を歩くと、南側に見
えるのが用明天皇陵です。推古天皇の兄、穴穂部間人皇女の夫、つまり聖徳太子のお父さんですね。ご家族みなさん、お近くにいらっしゃるわけで。いろいろ本を読んだ感じでは梅鉢御陵の中で聖徳太子墓の次に推古天皇陵とこの用明天皇陵はけっこう確度が高いらしい。推古陵と用明陵は方墳なんです。前方後円墳の後の新しい墳墓の形として、蘇我氏に近い人の墓は方墳が多い、という考え方
があるそうです(たとえば蘇我馬子の石舞台古墳は方墳だった)。この2人の母は蘇我氏です
からね。とすると円墳である聖徳太子はやはり馬子と対抗していた……なんて見方もあるのだ
そうです。
 この道をまっすぐ東に行って竹内街道とぶつかったあたりにもう一つの梅鉢御陵、孝徳天皇
(円墳)があるのですが、そこまでは行きませんでした。孝徳天皇は645年大化の改新の後に
皇位についた人で、敏達、用明、推古ときて、いきなり孝徳というのは何かつながらない気が
するけど何でここに葬られたのかな? ……孝徳天皇については、また後に触れます。

 本当は推古天皇陵にも孝徳天皇陵にも行って、小野妹子の墓なんてところにも行って、竹内
街道を歩いて大和方面へ出る、という午後のハイキングコースを考えていたのですが、とてもじ
ゃないけど時間切れ(体力切れも)。バスに乗って上ノ太子駅に出て、近鉄に乗って橿原神宮前
駅へと戻りました。

 この日は橿原神宮前駅近くのホテルに宿泊し、翌日は飛鳥散策と橿原考古学研究所付属
博物館へ行きました。博物館の特別展でちょうど「聖徳太子の遺跡ー斑鳩宮造営千四百年
」をやっていました。このサイトでの聖徳太子関連についての記述はこのときの解説図録を
かなり参考にさせていただいています。

 次は大和へ戻って、次の舒明天皇の時代へ旅を進めていきましょう。

(2003年2月記)

舒明天皇の時代へ

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