推古天皇の都
豊浦寺跡  飛鳥寺 

明日香
 このHPをつくるためにアルバム整理をして驚いたことに、呉女とオオアマさまが一緒に明日香の地を初めて踏んだのは、なんと結婚してから6年もたってからのことだったのです。これは明日香を北を橿原神宮前駅、南を飛鳥駅とする一般的な範囲とした場合で、その周辺部には行っていたのですけれど。今から思えば明日香に行かずしてよく6年も我慢したものです。お互い「そんなに明日香が好きなら早く言ってよ」という感じでその後は何度も足を運んでいます。二人とも「とっておき」と思っていたのか、自分の趣味をあまりに相手に押し付けてはいけないと遠慮していたのか……。
ともかくも1999年5月、
やっと二人は自分たちの、
そして日本人の原点、明日香に
たどりついたのでした。
この年のゴールデンウィークはまず高野山へ行きました。
夜行バスで五条まで行き、そこから電車を乗り継いで高野山へ。
たっぷり見学したあと、夕方JR線で畝傍駅へ。
ビジネスホテル(オオアマさまの学生時代の常宿)に泊まりました。ホテルからは近鉄大和八木駅へもすぐ近くです。

  大阪、京都、名古屋をむすぶ交通の要衝、近鉄の大和八木駅から橿原神
宮前駅までは近鉄ですぐ。ここでレンタサイクルを借り、駅から真東に自転車を
走らせます。
明日香は自転車…… バスは本数が多くない。歩きたいけど歩くには広い。
そこで明日香巡りは自転車が定番。レンタサイクル屋さんは何軒もあるし、
駐輪場も整備されています。でも昔から呉女愛用の橿原神宮前駅の
レンタサイクル屋さんは最近えらく小さくなっちゃったし、
若いころには何とも思わなかったちょっとした坂が最近はきつい……。

  明日香は渡来人の居住地だったところです。自転車で走っているこのあたりは、その渡来
人たちを束ねて有力豪族になった蘇我氏の勢力範囲だったところです。橿原市から明日香村
に入って周囲の風景ものどかになり、呉女の大好きな甘樫丘(あまかしのおか)を右前に見る
あたりを右に曲がると、すぐ向原寺というお寺があります。

向原寺(むくはらでら、こうげんじ)――豊浦寺(とゆらでら)跡  小さなお寺ですが……。
  『日本書紀』によれば、欽明天皇の時代、百済の仏教が伝わり(552年)、蘇我稲目が向原
の自分の家を寺としました。つまり最古の寺だったわけですが、後に仏教の受容に反対する物
部氏らによって焼かれてしまったのです。
  その後、稲目の子、蘇我馬子の代になると蘇我氏の勢力はいよいよ増し、蘇我氏の血縁
の皇族が天皇に立てられるようになります。最古の女帝、推古天皇もその一人です。
  馬子は蘇我氏の屋敷のあったこの場所に豊浦宮を造り、推古天皇はここで即位しました(592年)。このころの天皇はその代ごとに宮をあちこちに移動させますが、言ってみれば馬子は自分の勢力下に天皇を連れてきてしまったわけで、この時から天皇の宮はこの明日香に多く営まれることになり、奈良へ遷都するまで明日香はこの国の中心地になるのです。
  豊浦宮は手狭だったのか、603年に小墾田宮(おはりだのみや)に移り、豊浦宮の跡は寺にしました。その豊浦寺の礎石(柱の土台となる石)が寺の裏に残っています。    
  
 向原寺から少し奥に入った民家の前に「推古天皇豊浦宮跡」という石
標があります。すぐ横にある石も礎石です。ここは向原寺の前で会ったお
じさんが教えてくれました。普通に行ったらわかりにくいかもしれません。

  駅から東に来たもとの道に戻ります。この道はだいたい古代「山田道」
といわれた道にあたると思います。このすぐ北が小墾田宮の推定地
す。たんぼの中に風になびいたようなヒョロリとした木が立っているのが歴
史の本などによく出てきますが、いつも自転車で走りぬけてしまうせいか、
うちには写真がありませんでした。また飛鳥川をはさんでもっと東の方に小墾田宮跡のもうひと
つの候補地、雷丘(いかづちのおか)東方遺跡があるそうで、東方遺跡のほうから「小治田宮」
と書かれた土器が出土しているので、こちらのほうが有力のようです。
 小墾田宮に移ってすぐ冠位十二階の制が定められ、604年には憲法十七条が制定されま
す。推古天皇を頂点にいただき、天皇の甥である厩戸(うまやど)皇子(聖徳太子)と天皇のお
じである大臣蘇我馬子によって、この場所でこの国は国家としての形を整備しはじめたのでし
た。
  甘樫丘はすぐですが、ここではちょっと素通りしました。ここから南へたどるのが通常の観光コースですが、呉女とオオアマさまは山田道(そういえば、この写真の手前あたりが雷丘東方遺跡かも)から北へ東へと自在に自転車を走らせるのでなかなか先に進まない……(この時期はレンゲの花が咲いているのが好き)。このへんで行った場所はのことは後にまわして、今は推古朝の話。

 飛鳥寺   明日香を訪れる観光客の多くが訪れるスポット。甘樫丘の東、歩いても5分くらいのところにあります。
  甘樫丘の東に広がるこの小さな盆地は真神原(まかみのはら)ともいい、後に明日香の中心地になっていく場所です。ここに蘇我馬が寺をたてはじめたのは、推古天皇の前の崇峻天皇の時代。馬
子が物部守屋との戦いに際して、戦勝したら寺を建てるとの誓
いをたて、その結果建てたのがこの寺ですが、『日本書紀』に
は「法興寺」とか「元興寺(がんごうじ)」という名で出てきます。
推古天皇の時代になって完成をみました。
  この寺で有名なのは現存する最古の仏像、飛鳥大仏。
作鳥(くらつくりのとり)といわれる釈迦如来像です。最古とい
っても補修されているので、当時のものは顔や手の一部といわ
れています。この像を見るには拝観料(300円)を払ってお堂
に入らなければなりませんが、このときズラッと行列ができてい
まして。結局入りませんでした。(ちなみに翌年同じ時期に行っ
たら朝ドラ「あすか」などの影響か、もっと込んでいました。周囲は車だらけで大渋滞!) 
 今はとってもこじんまりしたお寺(安居院という)ですが、もともとは塔の周りを三つの金堂が取
り囲む壮大な寺でした。大陸から来た工人たちが腕を振るった文化の最先端だったのです。
現在の建物はずっと後の時代のものですが、大仏の位置は当初のままだそうです。

  飛鳥寺の境内を東から西へと通り抜けて、いよいよ甘樫丘にのぼります。標高150メートル足らずの丘ですが、一気にのぼるとちょっときついかな。
  なぜ遠回りしたかというと、お昼の時間に合わせて丘の上でお弁当を食べたかったのです。呉女はこの丘の上で、今たずねてきた景色を見ながら、駅かコンビニで買ってきたおにぎりを食べるのが好きなのです。独身時代はひとりで夜行バスで来てここに直行し、朝食を食べていたこともありましたな……。その趣味にオオアマさまもひきずりこんだというわけでして。とにかく気分がよいのです。
  この丘には後に蘇我氏の邸宅が建つのですが、それは少しあとの話。この次はこの時代の主役の一人、厩戸皇子(聖徳太子)ゆかりの地を紹介します。
  
ちなみにこの日の行程はまだ続くわけですが、それはおいおいご紹介していく予定です。
 ひとつだけ。この日の最後、オオアマさま「そろそろ帰るぞ」。「えー、さらら様の御陵だけは必須なの!」と呉女は突然自転車を暴走させて、天武持統天皇陵へ。オオアマさまもしかたなくそれを追いかける……。御陵の前で撮った写真の呉女の晴れやかな顔と対照的に、オオアマさまの「もう、やってらんない……」という疲れた顔が印象的なのでした。

(2002年7月記)

聖徳太子ゆかりの寺その1
                                             
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