人たちを束ねて有力豪族になった蘇我氏の勢力範囲だったところです。橿原市から明日香村 に入って周囲の風景ものどかになり、呉女の大好きな甘樫丘(あまかしのおか)を右前に見る あたりを右に曲がると、すぐ向原寺というお寺があります。 向原寺(むくはらでら、こうげんじ)――豊浦寺(とゆらでら)跡 小さなお寺ですが……。 『日本書紀』によれば、欽明天皇の時代、百済の仏教が伝わり(552年)、蘇我稲目が向原 の自分の家を寺としました。つまり最古の寺だったわけですが、後に仏教の受容に反対する物 部氏らによって焼かれてしまったのです。 その後、稲目の子、蘇我馬子の代になると蘇我氏の勢力はいよいよ増し、蘇我氏の血縁 の皇族が天皇に立てられるようになります。最古の女帝、推古天皇もその一人です。
つの候補地、雷丘(いかづちのおか)東方遺跡があるそうで、東方遺跡のほうから「小治田宮」 と書かれた土器が出土しているので、こちらのほうが有力のようです。 小墾田宮に移ってすぐ冠位十二階の制が定められ、604年には憲法十七条が制定されま す。推古天皇を頂点にいただき、天皇の甥である厩戸(うまやど)皇子(聖徳太子)と天皇のお じである大臣蘇我馬子によって、この場所でこの国は国家としての形を整備しはじめたのでし た。
今はとってもこじんまりしたお寺(安居院という)ですが、もともとは塔の周りを三つの金堂が取 り囲む壮大な寺でした。大陸から来た工人たちが腕を振るった文化の最先端だったのです。 現在の建物はずっと後の時代のものですが、大仏の位置は当初のままだそうです。
(2002年7月記)
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