タイトルの通り、日々感じたことや医療に関するニュース等を取り上げていきたいと思います。
1.平成12年12月26日 〜私が大部屋を嫌がる理由〜
2.平成13年 1月15日 〜ああ筋力トレーニングの巻〜
3.平成13年 1月28日 〜オーバーワークの巻〜
4.平成13年 4月26日 〜「集団退職の謎」の巻〜
5.平成13年 5月10日 〜「大丈夫」と「頑張って」は禁句の巻〜
6.平成13年 5月13日 〜初の文筆業の巻〜
7.平成13年 6月24日 〜生活習慣病の方の自覚〜
8.平成13年 6月28日 〜特定機能病院について〜
9.平成13年 7月 1日 〜乳ガンの再発に関するデーター〜
10.平成13年 7月 7日 〜大学病院で治療を受ける時〜
11.平成13年 7月14日 〜えらい人〜
12.平成13年 7月15日 〜意思表示について〜
13.平成13年 7月22日 〜看護必要度のチェックって何?〜
14.平成13年 7月24日 〜インターネット上での医療関連の情報収集〜
15.平成13年 9月13日 〜人生観が変わるということ〜
16.平成13年 9月16日 〜人生観が変わるということ PART2〜
17.平成13年10月26日 〜平成14年度・健康保険制度改正について〜
18.平成13年11月25日 〜JRに学ぶこと〜
19.平成13年11月29日 〜転院を考えている人へ1つの提案〜
20.平成13年12月12日 〜セカンドオピニオンについて〜
21.平成13年12月18日 〜乳ガン発症に関するデーター〜
22.平成13年12月24日 〜インフォームドコンセント・日本人の勘違いとは?〜
23.平成14年 2月19日 〜患者“様”という言い方〜 4/25追記あり
24.平成14年 4月 3日 〜読書感想文(その1)〜
25.平成14年 4月21日 〜インフォームドコンセントの問題点〜
26.平成14年 5月 6日 〜医療は本当にサービス業なのか?〜
27.平成14年 5月17日 〜インフォームドコンセントの問題点・その2〜
28.平成14年 5月26日 〜「危ない医療から身を守るための20のアドバイス」と「医者にかかる10箇条」〜
29.平成14年 6月11日 〜インフォームドコンセントの問題点・その3〜
30.平成14年 6月11日 〜インフォームドコンセントの問題点・その4〜
31.平成14年 6月23日 〜小児科医療の現状と問題点〜 別ページに移動します。8/5.9/22追記あり
32.平成14年 9月 6日 〜インフォームドコンセント・日本人の大きな勘違い〜
平成12年12月26日(火)〜私が大部屋を嫌がる理由〜
Japan Medicine00.7.10号より引用・要約させていただきました。
多床病室の患者ストレス、入院1ヶ月がピーク
−要因のトップは病室の「室温」−
信州大学医学部付属病院の二木氏らは、多床病室に入院している患者のストレスについて調査を実施。
調査はある大学病院の整形外科で4床と6床室の患者を対象に実施した。
その結果、患者が「気になる」ストレスとしては、病室の「室温」がトップで、ついで同室者の体調、いびき、湿度、
同室者の物音や咳等があがった。
一方、「気にする(気を遣う)」ストレスは、自分の風邪、排泄行為、ベッドサイドの光、テレビの光が多かった。
更に入院期間別で分析すると、入院期間が1ヶ月以上2ヶ月未満の者が、どの項目でもストレスを最も感じており、
特に室内の医療器具、物音、同室者の咳や動作、同室者と医療者の会話が気になっていた。
入院直後が最もストレスを感じると思いがちだが、入院したばかりは手術などで同室者を気にする余裕がなく、
術後、落ち着いてくると同室者の行動に敏感になるようだ。
一方、患者のストレス問題への対応を検討したのは、和歌山県立医大付属病院の濱口氏のグループ。
濱口氏らは、同室患者とのストレスの対処行動について、1大学病院の内科、成人慢性疾患患者を対象に調査した。
その結果、同室患者との対人関係でのストレスを「我慢する」患者にくらべ、「話し合いで解決する」など
積極的な対応をする患者は少なかった。また、看護婦に相談する患者は少なく、相談しない理由は
「大人同士だから自分たちで解決できる」「ストレスへの援助は看護婦の役割ではない」「相談しても解決できない」
「つげぐちしたと思われる」「自分さえ我慢すればいい」をあげた。
今後、病院側は患者のメンタルケアを重視しながら、ベッドサイドの光対策として遮光カーテンの導入や、
排泄行為には消臭剤を使用するなどの工夫が必要となる。また、入院生活のルールを守れるようにオリエンテーションや
患者がなんでも話せる環境作りなど、ソフト面での対応が急がれる。
正にこの通りなのです。
左膝に関する私の入院は「平成10年10月23日〜11月26日」を筆頭に「平成11年6月14日〜9月15日」が
2回目でした。“ナースのおばちゃん的患者生活〜平成11年・転倒編〜”がこれに該当します。
詳しくは触れていませんが、この2回の入院で同室者等から受けたり感じたりしたストレスと迷惑は多大なものでした。
「治療を受ける環境を整え、そちらに集中する」という本来の目的以外でエネルギーを使うなんて
ナンセンスだという考えなので、次回の入院が半ば義務づけられている平成11年9月15日の退院時には
「次は例え短期間でも必ず個室か2人部屋にしよう。お金の問題ではない」と強く感じました。
そのようなストレスをナースに期待するのは無理…というか、最後は結局「訴えてきた患者の話を聞いて終わり」となる事が
簡単に予想出来ていたし、それだけでは何の解決にもならないというのがあらかじめ分かっていたので、
ナースに話を聞いてもらってストレスを解消という発想は頭にありませんでした。
従って、抜釘(ばってい…と読む)で最後だと思っていたので、入院予約を入れる段階から2人部屋を希望する事にしました。
そう現状では大部屋が大多数ですし、私のように考える患者は少数だと言われています。
いくらカーテンがあっても他人の排泄行為が室内で行われていたり、あるいは夜間の雑音、そして誰が相手かは関係なく
自分と誰かの会話が他人に筒抜け状態…。
あるいはカーテンを閉めて身体を拭いていたりしても、掃除の業者が何も言わずに入ってきたり、
回診だと言ってナース達が入ってきたりするという環境下でのプライバシーは無いのも同然です。
私はこういうのに耐えられなかったし、室料差額を負担出来る程度の物はあったので「有料病室」に入る事にしました。
1人1人、考え方がありますので「どう思いますか?」とは聞きません。
以上、今日思ったことでした。
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平成13年1月15日(月)〜ああ筋力トレーニングの巻〜
先週から体力・筋力トレーニングと称して、割と近くにある所に運動負荷トレーニングに通い始めました。
いきなり仕事に出てフルタイム稼働というのも出来るかもしれない…と1回は思ったのですが、野球選手で言うと
「長期戦線離脱」なんていうのをやってしまったものですから、まずは「身体を疲労に慣れさせる」という目標設定をしました。
どこかの大学でスポーツ整形の外来を担当しているドクターが月に何回か来ているというので、入会の翌日に有料診察がある聞き、
念のために受けることにしました。「それで仕事しようと思ってたの?」とか「鍛えがいがあるじゃない」とか言われたので
「おお、やってやろうじゃないか!」と思いながらトレーニングを開始する事にしました。
…と、ここまでは良かったのですが、最初は「どれだけ体力が落ちているか」という現状把握をする羽目になったのです。
エアロバイク1つをとっても、私が入院していた病院のリハビリ施設とは雲泥の差がありました。
まず、台数そのものですが、病院では1台のみを使い回ししていたような感じでしたし、次の人が隣で待っていると早々に切り上げて
しまわないと…という感じで、何だかせかされているようでした。
しかし、ここのスポーツプラザはザッと数えた所によると25台はあると思います。
病院のは壊れていたのか1回も使っている所を見たことがありませんが、こちらのはさすがにお金を出しているだけのことはある…というか、
耳たぶに心拍数を反映させるセンサーがついていますし、病院では言われなかった“クールダウン”という機能がついていました。
これは要するに“運動を急に止めるのでなく、約1分間かけて徐々にスピードを落としていく”という方法のことです。
機械自体にそのような機能がついているようです。また各個人の「運動中の最大心拍数」の算出もされていますので、
エアロバイクをこいでいる最中は継続して画面に表示される心拍数を見ながらトレーニングが続けられます。
そしてフロアーを移動してみると…。
今度は筋力トレーニングのマシンがたくさんあるのです。
身体中の筋肉を鍛えられるようになっているみたいで、私の場合は主に下半身の筋力強化になるのですが、
そればかりだと飽きてくることも考えられるし、前述のドクターの言葉を借りれば「先発ピッチャーが中4日は必要なように、
その日毎に上半身メインの日とか下半身メインの日とかいうふうに決めて意識すると効果的」なんだそうです。
言われてみれば「なるほど」という感じです。
太ももの筋肉は4本あるのですが、前面と後面で鍛えるのに使う器具が違うのには驚きました。
また器具を使わないでやる筋トレもありますし、真面目にやったら意外とキツかったストレッチもあります。
これに上半身のトレーニングとリラクゼーションを入れると、相当なものになり、先週は“手始め”の段階だったのに
翌日に疲労が残るという状態でした。しかし「ここで休んではいけない」と思いましたし、
実際仕事に復帰したらそんな事は言ってられなくなりますから、
当初の目的でもあった「身体を疲労に慣れさせる」という目標を変える訳にはいきません。
本来は治療の一部としてやるべきことですが、私が受診・入院する病院にはリハビリ施設が整備されていないみたいなので、
自分で費用負担してでもこのようにせざるを得ません。
しかし、こんなのは大したことでなく、病院での治療が終わった後でもシェイプアップとか
体力増強目的に変更出来ますから、長期的な観点からすればむしろ良いのかもしれません。
今週からは、ドクターがインストラクターの方に指示した上で作ってもらったメニューでのトレーニングが始まりました。
疲労が翌日に残らない運動量というのを見極めるのが難しそうですが、仕事に復帰するのでのステップと考えれば、やらなくてはなりません。
ついでに…というべきか、ここのスポーツプラザではトレーニングの前後等、いつでも血圧・心拍数、そして体脂肪率を測定して
自分のカルテに自分で記載できるようになっているので、体脂肪率の低下も出来ると良いかな…というふうに思っています。
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平成13年1月28日(日)〜オーバーワークの巻〜
要するに“やり過ぎ”ということらしい。
Uターン入院(予定外の感染編のこと)からようやく退院したのが去年の12月10日のことだった。
その退院からも約1ヶ月が経過した頃からスポーツプラザに入会して体力・筋力トレーニングを始めたのは上記の通りなのだけど・・・。
1/9〜12,1/15〜18,1/22〜25というふうにWEEK-DAYは連日通うことによって、
当初の目的(身体を疲労に慣れさせること)に近づけようとしていた。
時間にしてみれば大したことはなく、スポーツプラザにいるのは2〜3時間なのだけどその間は動きっぱなしを意識していた。
そのような事を続けていた1月25日、トレーニングの終盤に差しかかった頃1人のインストラクターのお姉さんに声をかけられた。
「なんか表情がすごく疲れていませんか?」って。
一瞬、ハッとしたが「いや、そんな事はない。疲れが翌日に残ることはないし(本当は少しあったのだけど)、
ドクターのアドバイスの元にわざわざ手書きで作ってもらったメニューなんだから、やらなくてはいけない。
又、仕事が看護婦なので一端復帰したらちょっとやそっとじゃ休めないのは充分過ぎるくらい分かっているので、
今のうちに慣らさなくてはいけない。ドクターにも言われたけど“今日は上半身、明日は下半身”というように
“意識して意識する”ようにしているんだけど」と応対したのだけど・・・。
体力・筋力トレーニングのメニューを作ってくれたのとは違うインストラクターだったが、よくよく話をしているとこのスポーツプラザに
入会した後の私は完全にオーバーワークだったということに気付くことが出来た。
もちろん、左膝に関する病歴の概要や、1年半は運動も何も出来ない状況だったということも伝えた上でのやりとりなのだが・・・。
自宅に戻ってよく考え、友達にこの出来事を話したら「時には休む勇気も必要。今の段階で
やり過ぎに気付いてよかった」というアドバイスがあった。
自分では「無理なんて誰がするもんか」と思っていたのだけど、知らず知らずのうちに復帰したら少し位じゃ休めない・・・という
気持ちが強くなっていったのだろう。確かにその通りだと思うし、これが働き始めてからのことだとすると、結局は辛く嫌な思いを
するのは自分だし、周囲のスタッフは迷惑するだろうから、今の段階で気付いてよかったと
思っている。1月26日のトレーニングは休むことにした。
週末は軽くストレッチをするようにして、1月29日からの体力・筋力トレーニング再開に備えようと思っている。
最初の2週間は月・水・金でやってみることにして、余裕が出てきたと自覚できたら「月・火」と「木・金」に分ける・・・というふうに
ペースアップする事も考えていきたいと思っている。
今度は自分の判断だけでなく、担当のインストラクターのお姉さんに相談してアドバイスを受けてからにしたいと思う。
想像していた以下に体力低下が進行していたという現実を自覚した出来事だった。
復帰までの道のりは遠いのか近いのか・・・。
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平成13年4月26日(木)〜「集団退職の謎」の巻〜
たった1つの病棟から7人も退職者が出ると、退職理由は関係なく管理能力を問われるので、
退職すると分かっているのに「当院で新しいことを覚える必要性が・・・」とか何とか言ってこじつけといてから、
配置転換をせまられるのである。今回の犠牲者は見て分かる通り“元整形外科病棟”と付いている2人で
あるのは明白である。この2人を勤務交代させておけば、1つの病棟から7人も退職者が出るという形はなくなる。
数年前に勤務していた病院であった出来事と同じことが行われているんだなぁ〜、と感じた。
この7人がどうのこうの・・・と言っているのではなく、管理職は頭が良いとなれないんだと改めて思った。
彼女達がナースという職業自体を止めようと思わなければ良いのだが・・・。
縦社会って、こういう事もあるのよね。影のイジメって奴かしら??
◎卒後4.5年目と思われる、パソコンに興味を持っているナース
◎卒後5.6年目と思われる、スリム&beautifulな元整形病棟にいたナース
(産婦人科メインの混合にいる間の担当になってしまった不運なナース)
◎自称・昭和41年生まれの体格も元気も良く、体脂肪率のことで何回も握手をかわし元整形外科病棟のナース
◎卒後4.5年目と思われるprettyナース
◎去年の12/11からこの病院に勤務し始めたという、恐らく20代後半と思われる卒後1年目の元 OLナース
◎卒後2年目になる沖縄出身のナース
◎去年の10月からこの病院に勤務し始めたという、恐らく昭和41年生まれと思われる背が高いナース
そして病棟婦長自身も引責という形で院内で勤務交代があるらしい・・・って訳よね。
実際問題、3/31まで整形外科病棟の婦長だった人は4/1から外科の病棟婦長になっていた。
だけどサ、これを読んでいる貴方がナースなら分かると思うし、ナースでなくても分かると思うんだけど・・・。
体調不良を訴えたナースがいて、ちゃんと受診して「3交代禁止」という診断書を提出したにも関わらず
「それは貴方の勝手」とか言って、そのまま3交代させてるらしいよ、ここの病棟婦長。
何かあったらどうするつもりなんだろうね。
ま、アタクシの知った事ではないけど、このナースが看護婦という職業自体を嫌いにならなければ良いのにと思うだけだわね。
まだ若いのにサ・・・って入院中のアタクシが言うのも変なんだけどね。
人数を競っているという訳ではないが、私が今までに勤務した中では(1つの病棟から退職する人数としては)5人が
最高だったという記憶があるのだが、こりゃまた驚いた、ってなもんだな。
これだけでも充分に働きにくい職場であるみたい・・・というのを外部から判断する1つの材料になり得るんだけどね・・・。
毎年3月4月は人の出入りがあるのは何の業界でも同じことだと思う。この病院とて例外ではないけど・・・。
去年の今頃の時期に同じ病院内の他の病棟(外科病棟)で「一気に7人の退職者が出た」というのを聞いてしまったのだ。
そのナースはこの2月から整形病棟に勤務交代してきたらしく、また同じ事になるのかと嘆いていたけどね。
来年の今頃は都内某所に移転することになっているらしいのだが、それも本当にそうなってみないと分からない。
だが2年ほど前には病床数を減らしているし、移転先では老人保険施設を併設するので一般病棟のBed数を減らしておくと、
扱う人数は減っても職員数は少なくて済む・・・というふうになるのだ。しかし、それにしても・・・だ。
Bed数を減らす前でも200床そこそこの小さい病院ではあるけれど、本当に移転するのかどうかが分からないというか、
それが前提で人員整理でもしているんだろうか・・・?
2年も続けて7人も一気に退職する(退職者は他にもいると思うが)という風土が通ってる・・・、
それが信じられないというものだ。
残った人は大変だろうけど、これは管理職の無能さを外部に吐露したようなものだと思わざるを得ないわよね。
これが一般社会でいうリストラに該当するかどうかは分からないけど、
老人保険施設を併設するのが本当だとするとまんざらでもなさそうな気配がするというもんだ。
時期的に見て人の出入りがするのは仕方が無いけれど、
顔見知りのナース達がこぞって退職してしまうのを聞くと「今のうちにOPとしいて良かった!」って思うだけである。
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これは“ナースのおばちゃん的患者生活・またしても感染編”の本文を引用し、組み合わせただけなのだが、
後日談というのを紹介してみようと思う。あくまでも私が患者として彼女たちの看護を受けてみて感じたことなのであるが、
世の中の何処かの病院でも同様のことが行われているのだろうか・・・と思うと恐ろしくなってきた。
平成13年3月末で整形外科病棟から退職した人数は、書面上では5人となっているが事実上は
7人である。7人のうち2人は「3月末で退職すると分かっているのに」2/1からの勤務交代になったのだから・・・。
36床の病棟なので「患者2.5人に対して看護婦1人」というのを考えると、計算上ではこの病棟のナースは
14.4人いれば良いことになる。
これはあくまでも頭数の話であって、普段は動かない婦長・主任も含めるとギリギリの線ということになる。
この病院の整形外科病棟のナースは常に15人前後はいるような様子だったので、頭数は足りていたということになろう。
特に2年前の靱帯再建をした時は16人は在籍し、
常に勤務していたのだから慢性的な人員不足ということはないのではないだろうか、と思われる。外見上は。
・・・となると、15人のうちの7人というのは、整形外科病棟全体からすると半数のナースが一気に退職してしまうということになる。
その7人のうちほぼ全員が月末まで働いていたのだ。
そうなると、たくさんあるだろうと思われる有給休暇はほとんど使えずに捨ててしまったようなものだろう。
本当にお気の毒としか言いようがないんだけどね。
4/1以降はナース達の顔プレがガラッと変わって、しかもほとんどが不慣れな人ばかり・・・。
以前からいるナース達(とは言っても2年目以内の若いナースか、
2月から勤務交代になって整形外科病棟にやってきた人達が多い)はほぼ全員が、深夜明けか準夜ということになってしまうので
日中に勤務しているのは新人か“日勤の時は必ず深夜入り”が約束されている以前からいるナースということになる。
私が退院する頃はその中の1人が「皆、もう限界だと思うわ」と目の下にクマを作って言ってたっけな・・・。
そして4/1から新人ナースが4人やって来て初々しい表情を見せてはいたけれど、
この人達も気の毒としか言えない状況で働いていた。少なくとも私が退院する時までは。
4人のうち2人はまっさらの新人さん(要するに今年看護学校を卒業して国家試験に合格した人達)で、
あとの2人は2年間の臨床経験があるので「3年目」として扱われていた。
この4人のうち2人の経験者はなんと!日勤を3〜4日間やっただけでいきなり夜勤(まずは準夜)に
組み込まれたというのだから驚きだ!
そんな勤務表を作ってしまった3月末までの病棟婦長と、自らの印鑑を押し公文書にしてしまった総婦長にも
かなりの問題があろうことは予想出来ただけでなく、ナース達も口々に言っていた。
まっさらの新人さんでも私が退院する頃には夜勤をしていた。本当にお気の毒様。
もっと、ちゃんとした教育体制の中で大きくならないと困るのは患者なんだよ、って教えたかった。
何回も繰り返すが『1つの病棟から7人の集団退職者が出てしまう風土』を野放しにしてしまった管理体制の罪は
すこぶる重いものであると同時に、患者に影響が出ないウチにOPをしておいて正解だったと
改めて感じている今日この頃である。
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平成13年5月10日(木)〜「大丈夫」と「頑張って」は禁句の巻〜
この2つの言葉、誰しも1回や2回は口にしたことがあるだろう。
私は昭和60年前後に勤務していた大学病院の精神科病棟である教授のカンファレンスに参加した時、
「心理学的には非常に危険な言葉である」と教わって以来、少なくとも白衣で看護婦をしている時は1度も
使った記憶がない。意識して使わないようにしているのだ。
プライベートでも同様であるが、付き合いの深さ(長さではなく深さ)によっては使う相手もいない訳ではないが、
「大丈夫」と「頑張って」は使った記憶がほとんどない。
要するに仕事の時に“意識して使わないようにしている”のが、プライベートでもそうなっているんだろう。
では「大丈夫」と「頑張って」の何が危険因子なのか・・・について、知りうる限りのことを述べてみよう。
まずは「大丈夫」という言葉から・・・。
手元にある広辞苑には次のように書かれている。
◎しっかりしているさま。ごく堅固なさま。あぶなげのないさま。
◎間違いなく。たしかに。
正にこの通りなのだが、この言葉を使う場面を想定してみて欲しい。
場所を問わず、体調の悪そうな、あるいは危ない目にあいそうな人に対して言ったり、
受験生や悩んでいる人等に対してとりあえず「励ましの意味」として声をかける時に用いる・・・。
他にもあるとは思うのだけど、大体は相手に対して安心感を与えるのと励ましの意味で使われる場面が
ほとんどではないだろうか?
それで、だ。
では、そういう声をかけられた方は果たしてそれを感じているのだろうか?
本当は大丈夫でなくても、つい反応して思わず「うん、大丈夫」と言ってしまう事が大半ではないだろうか?
この“大丈夫の応酬”は全く意味がないどころか、言われた方は大変な心理的負担がますのだ。
「大丈夫」という声をかけられた方は・・・。
1.後に続くマークが「!」か「?」かは関係無く
2.本人(声をかけられた方)が意識しているかどうかも関係無く
3.声をかけた方が意図する“大丈夫な状況・状態”でなくても
それに応えなくては(答えなくては)ならないという心理的なプレッシャーが発生するのである。
この言葉を使う方も使われる方(声をかけられる方)も、お互いが無意識だとそのプレッシャーは深層心理下に
抑圧されかねない・・・という事である。
そう言えば2/13ボコボコに腫れた左膝で待合室に居たら数人のお婆さんの集団に「あなた、大丈夫?」と
声をかけられた。私は「来たぁ〜〜」と思い、また左足を引きずりつつも「大丈夫ではありません」とハッキリした
口調で返答した。そしたらお婆さんの集団は口々に「大丈夫でない、って言われてもねぇ」と言うのだ。
この人達は自己満足で私に声をかけたのだろうか?
そしたら、その中の1人が独り言のように「そうよね。だったら話し掛けられない方がマシよね」と言った。
当たり前だ!・・・と思っている私がいたのは事実なのだが、その時はシカトして診察の順番を待つしかなかった。
だったら、ほっといてくれ!!・・・っ、つうの!
これはもう、声をかける方が気を付ける以外に方法はないので、この「大丈夫という言葉」を使いそうな場面に
出くわした時は・・・。
◎何がどうなれば大丈夫なのかという、目的・目標になりそうな物や事柄を明確に言葉にする事
◎または大丈夫の代わりに「何かお手伝いすることはありますか?」という
この2つが妥当な線であることに何か意義がおありの方はいるだろうか?
別の考えがあれば是非メールで教えて頂きたいものである。
とっさに言っても無理なので、普段からそのように心がける事が望ましいと思うのだが・・・。
次に「頑張る」という言葉について・・・。
これも手元にある広辞苑で調べてみたら次のように書かれていた。
◎我意を張り通す
◎どこまでも忍耐して努力する
◎ある場所を占めて動かない
なるほど・・・という感じである。
「頑張る」の場合は励ましの意味で使われることがほとんどだろうけど、5W1Hを示して目的・目標を明確にしないと、
言われた方は「何に向かって」「いつまで」「どのように」頑張ればいいのかが分からなくなるというものだ。
要するに心理的に混乱をきたすということになり、行く末はやる気(意欲)の欠如という事になるのは簡単に予想できる。
受験生、リハビリ中の患者、働く人々・・・等、皆そうである。
「頑張ってね」「はい、頑張ります」・・・、このような無意味な会話がなされる機会が激減することを
願ってやまない今日このごろである。
毎度のことだけど「大丈夫?」と聞かれても自分の中で大丈夫じゃない時はハッキリと「大丈夫ではない」と
言って相手に気付かせてやろう。そうすると無意味な会話に要するエネルギーが減るというものだ。
「頑張って」と言われたら「貴方もね」とでも返せば良いかもしれないな。
目的・目標がないレースなんて、そりゃあENDLESSマラソンだ!
そんなの誰もやりたくないと思うし、私もごめんだわ!
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平成13年5月13日(日)〜初の文筆業の巻〜
「ナースのおばちゃん的患者生活・またしても感染編」の入院中にある編集者からメールを頂いたのだが、
それは原稿の執筆依頼というものだった。私のこのホームペーを見てメールを出してみたらしい。ちょっと驚いた。
門外不出とまではいかなくても、かなり際どいこと(事実なのだが)を書いているし自分が属している業界の批判とも
受け取られかねないのに・・・である。メールの差出人に「本当に私で良いのか。あんな毒を吐くようなスタイルのサイトを
運営している人間で良いのか。もう1度私のサイトを見てチェックして下さい」という主旨の返信をした。
編集者から再度来たメールには「どちらの立場も熟知している」という言葉が書かれてあった。この一言にやられた!?
私は別にどっちの立場も熟知はしているわけでなく、中途半端もいいところなんだけど「とりあえず暇つぶし」という目的と
謝礼だという1000円分の図書券をGETする目的だけで依頼を受けることにした。
編集者は、入院中である私の事情を察してくれており、通常は原稿用紙等に書いて投稿するのだがメールでの入稿でも
OKだというので条件は整った。テーマがこれまたこの季節に絶妙のタイミングでマッチした「新人ナースに伝えたいこと」という
お約束のものだった。以下に記す文章は桐書発行・Nurse
Eye(月刊誌)2001年5月号に掲載された私の文章を原文のまま
転したものである。
「ほほぉ、アンタもこんな事を思っていたのか」とでも思いながら読んでいただきたいものだ。
♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪
私は看護婦という職業にありながらも、ここ3年間は左膝の不調で入院生活をおくり、4回の手術を受けざるを得ない状況にあります。
白衣で働いていた時には気付かなかったことや、知らなかったこともありましたが、今回は5回の入院において4回の手術を受けている
途中で経験した「2つの嬉かったこと」を皆様にご紹介し、これから始まる看護婦生活に向けて、
少しでも参考にして頂ければ・・・と思います。
わざわざ、こうして書くのはこれらの出来事が本当に嬉しかったからです。まず1つ目の出来事です。
1999年7月下旬頃、左前十字靱帯再建術を受けてから約1ヶ月が経過したある日のことでした。リハビリの一環として、
CPMという機械を使っての膝関節のROM(関節可動域)拡大を図っていたのですが、一般的な経過よりも
かなり遅れている状況が続いていました。
頭では「もっと気合いを入れてリハビリをやらなくてはならない」と理解できるのですが、機械(CPM)を使って屈曲すると
痛みが強くなるので膝関節の最大可動域とされている130度にどうしても近付けられません。
自分で調節可能なものは、どうしても“ギリギリの1歩手前の状態”で逃げてしまうのです。
これは、身体が反応してしまう為にどうしようもないという事に気付きました。
また、ちょうどその時期は、入院生活が長期化しそうな気配が漂っていただけでなく、当時入っていた病室が大部屋だったので
プライバシーはないに等しい扱いでしたし、思うように進まなかったリハビリに対して精神的にも疲労が蓄積し、
不健康になっていたことが自覚できていました。自分がどんどん醜くなっていくのを自覚しているにもかかわらず、
どうにも出来ないというのは本当に辛いものでした。
そんなある日、準夜勤だというある1人のナースがやってきました。「どんな申し送りを受けたか知らないけど、私としては
頑張ってあれだけ(CPMの角度)なんだよね」と言った私に、彼女は「でも、私が部屋持ちだった時よりも少し進んでいたから
嬉しかったです」と言ってくれました。この一言は今でも忘れられません。
私は、当時、卒後1年目だったこのナースの一言をとても嬉しく感じたので、直ぐに一緒に準夜勤をしていた先輩ナースの
ところへ行って「こんなことを言ってくれた」と報告し、そのナースを誉めてもらうように伝えました。
もちろん、私からも当人にお礼を言いましたが、先輩から誉められると彼女が一瞬でも気持ちよく仕事が出来るのではないかと
考えたからです。とくに意識しての言葉ではないと思いますが、だから余計に嬉しく感じたのかもしれません。
今でもその時の状況が脳裏に浮かびます。たった一言でも患者を元気にさせられるものだと、自分で学習したような一件でした。
次に2つ目の出来事です。
つい最近のことなので記憶が新しいうちに書いておこうと思います。4回目の手術を受けるにあたっての私は
「この先、何があるか分からないというのは自覚しているが、とりあえず仕事以外で手術室に行くのは、しばらく勘弁して
もらいたい」という思いが強かったと思います。
2001年3月9日の夕方でした。
4回目の手術を受けて病室に戻り、ストレッチャーが頭の方から病室に戻ったその時、私の頭の後方で「おかえり」と言ってくれた
ベテラン・ナースがいました。腰椎麻酔薬などの影響からか、手術中から悪寒・戦慄がとても強く、ブルブル震えている最中だった
にもかかわらず、私の毛の生えた心臓にとても心地よく響きました。理由は分かりませんが何故かホッとしましたし、
本当に嬉しくて、麻酔が効いている部分以外の身体中の力が抜けていくようでした。
私が働いているときには、手術後の患者さんを前にしても痛みや麻酔レベル、あるいはバイタルサインといったことに
気を取られていました。このちょっとした一言が自然に出せるのはベテランのなせる技なのか・・・と今になって思います。
もちろん、後日、このナースにはお礼を言いましたが、唯一の心残りは悪寒が強すぎて即席ギャグで返答が出来なかったことでしょぅか(笑)。
この原稿を読んでいただいている皆様は、これから医療の現場に出られる方々が多いと伺いました。
私の数回に渡る入院体験では、同業者であるがゆえに見なくてもいい部分が見えたことも多々ありましたので、
医師や看護婦などの医療従事者には耳の痛いことを書こうかとも思いました。
でも、これから新しい世界に入ってくる皆様には適さないと考えましたのであえて避けました。
(関心のある方は私のホームページを見ていただきたいと思います。)
「患者中心とか」「患者の立場に立って」という立派なスローガンを掲げていることがよくありますが、
私はそんなに簡単に出来ることではないと思いますし、不可能である可能性の方が高いのではないでしょうか?
私も長年臨床を経験しましたが、実際にベッドで寝てみないと分からなかったことや知らなかったこと、
そして気付いているようで気付いてなかったことなどがたくさんありました。
最初は何事も大変だと思いますが“ちょっとした一言をとても嬉しく感じる人がいる”ということを頭の片隅において、
お仕事をしていただきたいと思いました。
この原稿を書いている時点では病床でリハビリ中ですが、かなり近い将来に皆様の同業者となって現場に復帰するつもりです。
♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪
皆様、ご感想はいかがなものだろうか。
尚、この出来事は“ナースのおばちゃん的患者生活・平成11年転倒編”の7月18日(日) と
“平成13年・またしても感染編”の3月9日の所に当時の模様が書かれているので宜しかったら覗いてみていただきたい。
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平成13年6月24日(日)〜生活習慣病の方の自覚の巻〜
まだ低い患者の自覚!
(日経メディカル2001年5月号より引用・要約させて頂きました)
生活習慣病に関しては、従来から患者の自覚の低さが問題視されていたが、これを裏付ける結果が厚生労働省の
「1999年国民栄養調査」で示された。調査対象は肥満(BMI≧25.0)、高血圧(≧140/90mmHg)、
高脂血(中性脂肪値≧150mg/dlまたは総コレステロール値が≧220mg/dl)、高血糖(食後3時間以降の血糖値≧110mg/dl)の
いずれかに該当する人。
“目に見える形”で認識しやすいはずの肥満でも、それらを自らの健康上の問題としてとらえていた人は全体の45.1%にとどまった。
最も低いのは高血糖で、認識度は約4分の1にすぎなかった。女性でもほぼ同様に低い値だった。
生活習慣病に関しては、患者教育を徹底させ、治療への動機付けをいかに行うかがカギ。しかし、これが容易ならぬ問題なのである。
【男性のデーター】
肥満 自覚あり 45.1% 高血圧 自覚あり 38.1%
自覚なし 54.9% 自覚なし 61.9%
高脂血 自覚あり 29.8% 高血糖 自覚あり 25.7%
自覚なし 70.2% 自覚なし 74.3%
※これは医療現場にいるドクターや ナースなら少なからずとも感じていたことだと思うが、
こうして改めてデーターとして提示されると「やっぱりな」という感じである。
さて、この文章を読んでいるあなた!あなたはどう考えますか?掲示板でもメールでも良いのでコメントを頂きたい。
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平成13年6月28日(木)〜特定機能病院について〜
少し長めにはなるけど文献からの引用をしてみる。
厚生省(現・厚生労働省)は「3時間待って3分間診療」を解消する為、45年ぶりの医療法改正に踏み切った。
1993年4月1日に改正された医療法では「特定機能病院」という新しいシステムが導入された。
特定機能病院というのは、紹介状のない患者さんが直接行くことの出来ない病院のことだ。
厚生省は「少なくとも全体の30%が紹介患者さんになるように努力すること」を義務づけ、全国に120施設くらいの
特定機能病院を設置するのが目標のようだ。
厚生省は大病院に対してムチだけをふっているわけではなく、「初診料のアップ」というアメも用意していた。
紹介状の有無によって初診料が違っており、紹介患者の割合が30%以上の大病院では初診料が1000円、
30%未満の場合には500円加算できる。
患者側からいうと、紹介状を持っていると初診時に100〜300円(保険の種類による)を支払うことになる。
紹介状を持っていない場合の初診料は健康保険の適応が認められないので、
500〜1000円の自己負担金を払わなくてはならなくなる。
大学病院は高度医療の現場であると同時に、医学教育という高度医療に負けないくらい大切な役割がある。
一見、大したことのないと思われる症状から色々な疾患を発見することも大切な医学教育になると思うのだが、
最初から「この患者はこういう病気である」と書かれているのでは少しも教育にならない。
日本人は医者の選び方が下手すぎるようだ。自分の物差しを持たないで医者選びをするからいけないのであって、
医療に対して不満ばかり言っていると国の思うつぼになりかねない。
義務教育である公立の小中学校だと、生徒は学校も選べなければ先生も選べない。
子ども達が行く学校は全て“住んでいる地域”によって強制的に決められてしまう。担任教師がいくら気の合わない
先生であっても、絶対にクラスをかえることは出来ない。そういうシステムがないのだから。
それと比較すると医療は実にスッキリしており、患者は病院や医師等を選ぶことが出来るのだ。
この“選ぶ権利”というのは大事に守らなくてはならない。うかうかしていると医療も教育と同じようになってしまいかねないらだ。
「3時間待って3分間診療」と「選ぶ権利」、どちらが本当に大切なことか・・・。
1人1人が本気で考えてもらいたいものだ。
文春文庫「医者しか知らない危険な話」より
⇒私自身が、嫌だと思いつつも大学病院を受診せざるを得なくなった為かとても興味を持ってこの文章を読んだ。
有識者の皆様は「何を今更…」と思っているだろうが、少なくとも左膝を怪我するまでは医療を提供する方にいた人間なので、
特に太字で強調している部分は「なるほどなぁ」と思える。
私?私は少なくとも「自分の疾患に対する勉強」はしているつもりだ。いざという時、誰にも何も文句を言われたくないからね。
読者の皆様はいかがだろうか?掲示板やメールにてご意見を聞かせてもらいたいものだ。
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平成13年7月1日〜乳ガンの再発に関するデーター〜
Japan Medicine6/25号より引用・要約
乳がんに対する乳房温存療法(手術)の実施率が高まっているが、乳房内再発がわずか3%にすぎないことが、
厚生労働省研究グループ(坂元班)の調査で明らかになった。
ただ、乳房のびまん性腫脹や皮膚発赤を伴う炎症性再発が生命予後を悪くすることや、
死亡するケースが皆無とされていた非浸潤がんでも死亡例が見つかったことから、乳房内再発に対する早期発見の重要性が
求められるという。日本では、再発のおそれから乳房全摘を求める声が強く、欧米に比べてまだ乳房温存療法の実施率も低いが、
温存療法はQOLを改善し、生命予後も良好なことから、この調査結果は患者には朗報で、今後、実施率がさらに高まりそうだ。
日本での乳がん治療は、かつては切除範囲を広くする乳房切除術がほとんどだった。
しかし、欧米の研究から、手術の範囲を大きくしても治療成績は向上せず、逆に切除範囲を小さくしても
治療成績が悪くならないことがわかり、日本でも1990年代になって乳房温存療法が本格的に検討され始めた。
それでも、日本では温存療法の理解がなかなか得られなかったため、厚生労働省が研究班を立ちあげ、
温存療法の実態調査に乗り出した。その結果、手術を受けたほとんどの患者が温存療法に満足している半面、
再発には強い不安をもっていることが明らかになり、これが実施率を低くしている要因であることがわかった。
その後、乳がん症例の多い19施設を対象に、86年〜97年の乳がん手術症例について再度調査を実施。
その調査で、2万9500例の乳がん手術症例中、温存療法を行ったのは5459例(18.5%)で、
うち乳房内再発(局所再発)は観察期間49か月でわずか183例(3.4%)であることが明らかになり、
温存療法の有用性が確認された。
一方、調査から温存療法の有用性が確かめられたものの、局所に再発する因子として
断端陽性(切除乳腺組織の断端近傍までがん組織が広がっている)と、放射線照射を行わないケースでは
再発の確率が高いこともわかった。また、炎症性再発(乳房のびまん性腫脹、皮膚の発赤、浮腫)は予後が悪く、
調査では再発の183例中14例(7.7%)が炎症性再発で、そのほとんどが死に至っていた。
そこで研究班では、局所再発症例の原発巣(最初の手術の標本)と再発巣(再発の標本)について、
実際に検討可能な再発例74症例(12施設)の標本を検討した。
その結果、74例中、局所再発を発見した最も大きな因子として「しこり」が73例、98.6%を占めた。
再発した74例のうちの80%は皮膚ないしは大胸筋にまで浸潤がみられ、部位では、ly(リンパ管侵襲)陽性例が20%で、
この型は遠隔臓器に転移しやすい。
また、非浸潤がんでは死亡することがないとされていたが、温存手術の局所再発例で死亡した例が初めて見かった。
黒住氏は「ごくまれに非浸潤がんでも局所再発すると死亡するケースがある」と指摘、温存療法を進めるべきだが、
再発を早期に発見することが重要だと強調。術後の定期的な診察を必ず行うよう求めている。
⇒『ナースのおばちゃんのコメント』
昔の「大胸筋を温存して乳房は切除」という術式と違い、最近では乳房温存療法が普及してきている…というのは、
少なくとも左膝を怪我して入退院を繰り返す寸前までの現状として知ってはいた。だが、こうして調査結果を数字で示される
と妙に信頼性が出てくるから不思議なものだ。いずれにせよ、明日は我が身になるかもしれないのでこのデーターを
頭の片隅においておきたいと思っている。また、それだけでなく現在乳ガンで治療中の方等もこれから手術を控えている方も
参考にしてみてはいかがだろうか。
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平成13年7月7日〜大学病院で治療を受ける時〜
不本意ではあるものの、自分自身が大学病院という所で治療を受けることに決めた時から、医療ミスの危険性が
大きくならざるを得ない環境下に自ら入っていくことを自覚していた。
こう書くと不謹慎だというおしかりが来そうな感じがしないでもないが、ハッキリ言って“自分が医療ミスの被害者にならなければ
良い”と思ってしまった。しかし偽らざる気持ちなのである。最後は宝くじを引くようなもので“運を天に任せるしかない”のだけど、
自分が被害を被らない為のささやかなる抵抗として研修医を始めとした職員の現状をさぐり始めたのだ。
これは自らの看護婦経験から「大学病院は職場として適切な環境にあるとは思えない」という事が少しは分かっていたからである。
まずは朝日新聞・6/13・第2愛知版の引用に目を通して頂きたい。
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病院経営を支える研修医がいかに安い給料で過酷な労働を強いられているか。
新聞は「研修医哀歌」として過労死した研修医の実例を示し、この状況から医療ミスが生ずると指摘する。
研修医制度は2年間を義務づける方向で法制化が進みつつあるが、現状はどうか。卒後2年間の研修が望ましいとして
努力目標とされているが、医師として基本的に必要とされる2年間の研修カリキュラムを受けているのは約20%、
残りは大学を中心に卒後すぐに専門科を決定し、その講座による研修体制に入る。
よい条件を提示している病院があるのに、なぜ学生たちは安い給料の専門医用のカリキュラムの大学で研修をしようとするのか。
その最大の原因は「医局講座制」にある。
この制度を説明するのは簡単ではないが、教授を中心とした家父長的な制度と考えるとわかりやすい。
大学の臨床の講座は地域の病院と人事交流があり、医師の派遣について相当の影響力をもっている。
卒後、医師はどこかの講座に所属することになり、これが生涯について回る。
各講座では所属した医師の将来や生活を考え、各医師は講座やその教授の顔色を見なければならない。
このやり方で日本の医療が支えられてきたのは事実であるが、昨今の医療情勢を考えるとこの方式の制度疲労が限界にきていると思う。
医療といえども、必要な医師が適切に供給されるべきである。わが国に必要な医師を養成するためには、優れた研修プログラムと指導医、
医療環境の中で研修が行われなければならない。
制度の整備は急務であるが中身が骨抜きにされた制度なら、害の方が大きくなるばかりである。
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これを読んで「なるほど、でも遅すぎないか」と思ったものである。皆さんはいかがだろうか?
また「全日本医学生自治会連合(医学連)」という組織の研修医対象の調査では、大学病院の研修医の8割以上が
アルバイト先の民間病院で単独診療を行い、その9割が不安を感じていることが分かったという。
未熟な研修医がサポートもなしに医療の最前線を担っている危うい実態が浮き彫りになった。
恐ろしいけれどこれが現実なのだという事である。
では、自分はどうすることにしたのか・・・。
今の段階で言えるのは『麻酔だけは研修医にさせないという確約を書面で取ること』である。
手術となったら麻酔は必要不可欠であるし、それには承諾書というものに医師と患者が署名捺印をしなければならない。
もちろん納得がいく説明を受けたという1つの証として、であるが実際はこんな物は紙切れ1枚に過ぎないのだという事は知っている。
それでも相手にそうさせる事で「この患者は研修医に麻酔されることを拒否している」という意思表示を認めさせる為なのだ。
意識がない時、また自分の目に見えないこと・・・、こんな時までは自己責任なんてとれないのだ。
あくまでも意思表示の1つとして、手術の承諾書にそのように書かせてやろうと考えている。そうでなければ誰が署名捺印なんてするものか!
大学病院で治療を受けるにはそれなりの覚悟が必要なのだ。
私自身もこの世界で育ってきたので、研修医も練習が必要だということは良く分かっているのだが、
どうしても譲れない条件というのもある・・・という事である。
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平成13年7月14日〜えらい人〜
教授とか部長とかそんなにえらいのかと思うことしばしば・・・である。
私自身も大学病院に勤務した経験もあるし、あるいは最近になって嫌々ながらも大学病院に
患者として受診することになって改めて考えてみたのだが・・・。
知り合いのドクターに聞くと、結構「教授にはめられた」とか「病院の部長に失敗をなすり付けられた」とか・・・
あるらしいのだ、これが。やくざさんや政治家の世界と同じで、上の者が失敗すると下っ端が責任とらされるような世界なんだと
いうことは何となく感じてはいたのだが、こうもリアルな話を聞くと妙に頷いてしまう自分がいるのである
(どこの世界も似たようなものなのか)。特に手術は密室で行われるだけになすりつけやすく、
部長が誤診して手術してしまったのを下っ端の診断ミスにするなんて朝飯前だとある外科医は言っていた。
ただ、本当に立派な教授や部長がいることも事実であり、私が言いたいのは『教授や部長なんて肩書きがついているから
えらいという訳ではない』ということである。立派なドクターは肩書きがなくたって立派なものなのだ。
えらくもないのに、偉そうにしている奴がいるから腹がたつし、教授だ助教授だ部長だ院長だ講師だ医局長だと
考えるだけでむかつくような人種が多いのはなぜなのかと考えてもらいたいものだ。
患者さんの中には「私は部長や教授にしか診てもらいません」なんて人がいるのだが、まぁ、そう言うふうにしか
ものや人を見られない人は、そういう次元の人だから仕方がないんだけど。
大抵の場合、部長や教授にお願いしたって「実際の仕事をしてるのは中堅どころのドクター」なのだ。
私の場合、大学病院の整形外科を受診した時、最初は初診医というドクターだったのだけど、
その人物が自分では手に負えないと思ったのか勝手に(?)教授の所に診察依頼をしていただけの事である。
やたらと待たされるし、嫌だったのだけど断る明確な理由が述べられなかったのだ。
まあ、早く治療方針を決めて手術なり何なりとしてもらって、働ける足にしてもらいたいだけだ。
自分を守れるのは自分自身であるし、主治医は治療への水先案内人だと考えている。
しかし実際に治療を受けるのも自分自身なので、誰も交代することが出来ないのだ。
最後の最後には自分が色々な情報から自分に1番適切と思える治療を選択しなくてはならないのである。
インフォームドコンセントの基本にあるものは何かと考えると、やはり「自分がどうしたいのか」という確固たる意見だと思う。
「薬は飲みたくない」とか「副作用が少なければ薬は飲んでもいい」とか「手術が必要なら手術をすぐに受けたい」とか
「他の方法があるのならそれから始めたい」とか・・・。ひいては「私は癌と宣告されたら出来る限りの治療を受けたい」とか
「成功の確率が6割以上であると保証された治療しか受けたくない」とか・・・。確固たる自分の意見があるからこそ
説明を受けて、自分の納得できる方法を選択して、必要な治療を受けることが出来るのだと考えている。
しかし、その確固たる治療への考えというのは元を正せば自分の生き方への確固たるものだと思っている。
つまり、自分の存在スタイルが決まっていなければ、病という、自分の存在を脅かす外敵に対して、
どのように対処するかという方法は決めようが無いだろう。何だか今の日本人が1番不得意そうな課題だけれど・・・。
そんな難しいことは考えなくても、もう少し「自分がどうしたいか」を考えた方が良いんじゃないのかしらね。
私はそう思うのだが読者の皆様はいかがなものだろうか?
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平成13年7月15日〜意思表示について〜
最近、時々質問らしい内容のメールが来るのだが・・・。
その中には病院で治療を受けてはいるものの、その内容や医師の対応に疑問があるのか「どうすればいいでしょうか?」とか
「本当に〇〇病なのでしょうか?」といった質問が書かれたメールがある。
私は医師ではないし症状からその人の病状についてとやかく助言できる立場にはないので、
そのことをはっきりと伝えてはいるが、どうしてこんな質問がくるのだろう?そもそも何故私に質問してくるのだろうか・・・?
そのことを突き詰めて考えるようになったのはある新聞に連載されているコラムを見てからである。
そのコラムはインフォームドコンセントについて自分の体験や身の回りで起こったことを例に挙げ、
医師の患者に対する接し方について論じたものだった。「相手の立場になって考えること」が欠けているのではなかろうか・・・と。
そもそも患者の疑問に答えられるのは担当医しかいないはずなのだが、それを私(を含めた第3者)に聞いてくることが
一体何を意味しているのかと思っていた。その人にとって医師とは近寄り難く質問しづらい存在だからではないだろうか?
医師とは、患者の心理を把握し、それを治療に結びつけるのが本職のはずだと思っていたが、
すべての医師がそういったことをやっているかといえば???・・・という感じでしか思われてないというのが実態なのだろう。
実際、患者から見て何か見えないバリアーを張っているかのような態度で接する医師がいることは紛れもない事実である。
本人にそうしているという意識があるかどうかは不明だが、私が6/19以降受診している大学病院の教授さんも
そういうオーラが全身から出ている。医療従事者の私でさえ、ということである。
医学部に進学するために勉強をし、試験でも常にいい成績を収めているような人でなければ医師には
なれないのだろうが・・・。試験では常にトップレベルの成績を残し、その他大勢の人たちを見下ろす立場に中学、
高校時代から位置していたことが影響しているのだろうか?
そう、東大出の高級官僚のお役人様のような感覚を周りの環境が作り出しているのではないだろうか?
周囲にも大きな問題はあると思う。
普通の人は医師という職業を特別扱いする。これが間違いなのだと思われる。
必ず「先生」と呼んでいるが「先生」と呼ばれるのは政治家、弁護士、教師、医師ぐらいだろう。
どれも特別な職業で職務上大きな権限を持つ人たちであることは共通している。
これらの人々を先生と呼んで特別扱いし、その風習が健全な医師の育成を阻害している1つの原因かも
しれないと思うのは私だけではないだろう。そこの貴方、身に覚えはないだろうか?
例えば病気で入院したとき、退院の際に主治医にお金を包むといったことが未だ日常的に行われているという
信じがたい現実があるということを頭においてもらいたい。受取りを拒否する人もいるし、黙って受取る人もいるとは思うが、
周囲がこんなことをしていれば勘違いしてしまうのも不思議はないだろうと思うのだが・・・。
患者として心得ておかなければならないことがいくつかあると思う。
1.疑問に思ったことは必ず質問する。
2.説明を受けた時、その説明が理解できたか、納得のいくものだったかを必ず考える。
もしそうでなかったらその旨を医師に必ず伝える。
3.診察前に疑問に思っていることがあれば忘れないようにメモなどに書いておく。
そうすれば診察時にメモを見ながら質問することもできるし、自分の意志を簡潔に相手に
伝えることができる。
要は「はっきりとした意志を持っているという事」、それを医師に十分に理解させることだろう。
それでも誠実に答えてくれなければその医師を見限るぐらいの覚悟は必要だろう。患者の権利とはそういうものなのだと思っている。
権利ばかり主張している人も中にはたくさんいるが、そういうのに限って自らの疾患に対しての学習はしていなく、
医師を始めとした職員の対応等に文句をつけている事が多い・・・というのは私自身が患者として体験学習したことでもある。
しかし、一般社会でも「義務を果たす前に権利を主張する人」っているよな〜!
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平成13年7月22日〜看護必要度のチェックって何?〜
JapanMedicine7/6号の記事に“看護必要度に関する基礎調査研究”というのがあったのだが、厚生省の調査結果が
まとまったとのことである。2000年までは評価者によって評価内容にばらつきがあったが、
2000年は“看護必要度チェック表”の導入により、評価者ごとの差が出にくいようにしたという。
これだけを読むと「ほほ〜」と思えるのだが、読み進んでいくと評価者が手引きを良く読んでないとかいう類の話になっている。
そして「評価者の研修を充実させる事と看護記録の統一が課題」としており、政府として「看護婦の仕事内容を評価すべき」と
いう意向を示していることからも、調査は続けられる・・・という感じで記事を終えているのだが、
一体何を訴えたかったのかがよく伝わってこなかった。
“看護必要度チェック表”に関してはこちらをクリックして頂きたいのだが、今更看護婦の業務内容を現場にいない人達が
紙面上だけで評価して何をしようとしているのだろうか?私は左膝の怪我でしばらく現場を離れているのだが、
逆の立場から看護婦の仕事内容というものを良し悪しは別として嫌というほど昼も夜も見させてもらった。
見なくて良いところも見えてしまったし、反対に普通の人は気付かないような大変さも見逃してないつもりである。
そういうのを紙面に出来るものだと思っている人がいる・・・というのに驚いた。
馬鹿げているとは言えないが、どんな評価が下されるのか今から楽しみだ。
たぶん役所の「私達はこういうことをやりました」式の報告で終わると思うけど・・・。
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平成13年7月24日〜インターネット上の医療関連の情報収集〜
個人レベルでの病気に対する対応は、その疾患の性質や症状、また診断や治療の方法に関しても、ある程度の知識を
持ち合わせることが重要だと誰もが感じるようになったのは言うまでもない。
市販の書籍だけでなく、最近はインターネットでもくまなく情報収集が出来るようになった。
何と言っても1番手っ取り早い情報源は友人・知人であろう。どこにも情報通はいるもので、
自分が心配している症状はもちろんのこと、時には気付いていなかった点まで解説をしてもらえる場合が多々ある。
しかし間違いが多いのも事実である。
一概には言えないが、健康や病気に対する知識には色々な種類の情報が存在しているので、混同することもあり得るだろう。
また書籍やインターネットに出ている情報が全て自分に当てはまると勘違いしている人もたくさんいるので、
ここで1つ指摘しておこう。どんなに優秀な医師が書いた書籍でも、ある病名に関して記載してある病状が
全ての人に該当するとは限らないし、たくさんの患者が治った、あるいは病状が軽快したとされる治療法でも
“自分に合うものかどうかはやってみないと分からない”のである。
治療行為とは患者と医師の間で結ばれる一種の契約だし、共通の目的(病状が改善する、疾患が治癒する等)に
向かっているだけで、結果は出てみないと分からないのだ。こんな事は今さら私が書くまでもないことだろうけど・・・。
言葉の選択は適切でないかもしれないが、1つの賭だと思うしかないというのは、私自身の体験からも言えることである。
共通の目的に向かい、医師は持てる限りの知識や技術を提供するし、患者は自分の疾患に関して正しい学習をし
“治療にのぞむ環境を可能な限り整えること”も、自分の病状を受け入れる事と同時に大切かつ必要なことだと考えている。
事前に正しい情報を収集していたつもりでも、治療のプロセスでその通りにいかないことが出てくる事の方が
多いということである。本に書いてあったり、インターネット上で調べられる範囲のことは誰にも該当するような書き方
しか出来ないし、かと言って全ての人に該当する事は皆無に近い・・・という『書く方の背景』も頭に入れて頂きたいと思うのは、
私だけなのだろうか?
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平成13年9月13日〜人生観が変わるということ〜
最初は気付いてなかったのかもしれない。
平成11年6月18日、左前十字靭帯再建術を受けた時、リハビリに相当な期間を要して
最終的には丸3ヶ月間の入院生活を送ることになった。
退院後、私と1週間違いで腎移植を受けた看護婦の先輩(患者生活各編の中ではMママと書かれている人)を含めた数人で
食事をする機会があった。
その時、私より8〜9才年上のMママに対して「人生観、変わりましたか?」と軽々しく聞いてしまったのだが、一瞬の間も
おかず「変わったわ」と答えたMママの芯の強さを感じずにはいられなかった。
それを聞いた私は“自分の場合は人生観が変わるほど大それたものではないが、
それまでの思いや概念が全て覆されるという意味ではMママの言ってる意味が少しだけ分かるような気がする”と感じていた。
これは患者生活・平成12年抜釘編の最後の部分に書いてある通りだ。
世間一般では、どうやらこの事を「人生観が変わる」と表現するらしいのだが・・・。
私は感性が鈍いのか、あるいは無意識下で認めたくなかったのかは不明であるが、とにかくその時点では気付いてなかったのだ。
そして左前十字靭帯再建から1年3ヵ月後に抜釘(H12,9,14)し終えて退院(H12,10,9)し、
15日後(H12,10,24)にUターン入院することになった時、
左膝の痛みと高熱に耐えながら外来待合室で隣にいた友達に「この先、何があるか分からないね」という言葉が自然と・・・、
本当に自然と私の口から出てきた。
それから暫くは痛みや何かでそんな事を考える間もなかったのだが、21世紀になって直ぐの頃
あるサイトを閲覧していた時、気付くことになったのである。
このホームページのリンク集の中にもある「ナースRIKIの入院日記」というサイトがそれである。
その中に
人工肛門を一時的にでも体験して感じた事は、「どんな身体になっても私は私。
知識さえあれば乗り越えていける!」と言いきるには、
感情面でも充分に変わってしまった自分自身を認めていなくてはならないということだった。
そして『変わった自分を認める』ことは、想像以上に難しいということを知ってしまったのである。
(この引用文は本人に許可を得ています)
という文章を読んだ時「なるほどな〜。こりゃあ体験からにじみ出てくるものだ」と思い、深く感銘したと同時に
「私の人生観はあの時変わっていたんだ」と初めて認識した。
平成10年に初めて左膝を負傷してからというもの、
次から次へと目の前に現れる現実を直視して受け入れることに全力を注いできたのだが、
その為なのか自らの人生観が変わっていたことに気付くのが遅れたようだ。
左膝との戦いは一生ものになるだろうけど、既に人工膝関節をも覚悟し、身障者手帳の申請の仕方まで勉強している身としては、
大抵のことはあまり動揺しないで受容出来るのではないかと思っている。
でも、まあ、そんな事はどうでもいいか!
「明日は生きてるかどうか分からない」のだから、とりあえず今日を楽しく終えないとね。
この左膝、前夜まで何ともなくても朝になったら腫れてくるんだもの!
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平成13年9月16日〜人生観が変わるということ PART2〜
昨日はとてもshockingなことがあった。
こういうことを繰り返しながら歳を重ねるのだと思うと、そういう年代に入ったのかとも思えてくる。
周りが倒れ始める・・・とでも言うのだろうか。
決して逃げないで、厳しい・・・いや、とてもキツイ現実を直視しなくてはならない。
携帯の着信記録は昨日(9/15)の14:09となっている。
入院中にもよく来てくれた“現在もあの大学病院に勤務する元同僚のT”が電話してきた。
私は「おうっ!どうしたの?」と言いつつテレビの音を消した。気付いたらTは泣いていた。
「悲しいお知らせがあるの。TAKAちゃんが今朝亡くなった」
しばらく言葉が出てこなかった。何、言ってんの?・・・って感じだった。
こういうのを茫然自失というのだと後で認識したのだ。
しばらく無言の時間が過ぎた後で確か年齢や病歴を聞いたと記憶している。
40台前半、転移性肺ガンとのことで、2年程前に甲状腺のOPをした時は既に肺に転移していたらしい。
しかも最後の入院は私と同じ時期に同じ大学病院の違う階に入っており、故人は私が入院していたことを知っていたという。
しかし、闘病している姿を見せたくなかったのか、あるいは私に対する気遣いなのか・・・今となっては「死人に口なし」なので
分からないが、とにかく「ナースのおばちゃんには知らせないように」と、もう1人の元同僚Nにも口止めしていたようだ。
何かおかしいと思ってた・・・というか、今から思えば皆が隠そうとしていたのかもしれないという言動が2回ほど思い当たる。
最初の数日間、産婦人科病棟の1室に入っていたのだが、そこにも元同僚が1人いた。
亡くなったというTAKAさんはこの病棟の主任をしていたので、その元同僚Kという人に「TAKAさんは?」と聞いた時
少しドモるような感じの対応だった。(夜中に車椅子でトイレに連れて行ってもらった時かな)
もう1回は整形外科病棟に移動してからなのだが、元同僚のNが来てくれた時「TAKAさん、元気にしてるのかね」と言ったら
「今、自宅療養中」と言い、直ぐに立ち去ったのだ。
大体、私は闘病していたことすら知らなかったのだ。数時間はボ〜〜ッとしていたが、それからは色んな所にTELを
かけまくった。夢中で・・・。もちろん、元同僚の所である。そしたら、周りは知っていた人が多く「ああ、やっぱり」とか
「早かった」とか言い、私のように闘病すら知らなかったのは私を含めて3人だけだった。
何の予告もなくいきなり訃報が届いたことに対し、激しく動揺したのだろう。
心の準備(?)が出来ていなかった分、とてもsensationalである。
人生の大先輩(この人は元同僚ではない)にTELしたら「死というのは周りの人がどうやって気持ちの整理をつけるかなので、
私に電話してくる時間があったら早く実家のある某県に行け」と言ったので、インターネットで空席状況を確認して予約を入れた。
先の元同僚Tからの連絡で「家族が今日中に実家に連れて帰ると言っている」というのを聞いていたのを、
この人生の大先輩にも言っていたのでね。
だけど、空港までは分かったのだが実家の住所を知らなかったので、再度元同僚Tの携帯に連絡をし、
実家の住所を聞こうとしたら意外な答えが・・・。
親族ではなくTが「行かないで。私達(たぶん元同僚TとN)も行きたいけど我慢してる」というのだ。
ちょっとムッとして不謹慎にも心の中で「だったら知らせてくるな」と思ったのたが、
元同僚のTが「落ち着いてから行こうと思っている」と言うので「じゃあ、その時は例え入院してても教えてよ。
私も同行出来るようなら行くし無理なら何か預けるかもしれない」と言うしかなかった。
本当に死んだのか確認してからでないと引きずると思ったのだ。引きずることは故人に対しても、今後の自分に取ってもよくないし、
やはり何事も自分の目で確認しないと認められないというものだ。
特に今回の場合は「電話1本で人が1人死んだというのを知らされた」ので、そう簡単に認める訳にはいかない。
親族が亡くなるのとは全然違った意味であまりにsensational過ぎてまだ悲しくない。
昨日、数人の元同僚に連絡している途中で1.2粒の涙がこぼれかかっただけである。
闘病そのものを知っていた人達は号泣していると思うが、私はまだ悲しいという感情すら湧いてこないのである。
9/13の記載にもあるし、今までの文中に幾度となく出てくる一文に
『この先何があるか分からない。明日は生きてるか分からない』というのがあるが、
TAKAさんが本当に亡くなったとしたら「TAKAさんの明日はない」わけだから・・・。
この『 』内の言葉を強く実感し、また年代が近いだけにいつ「明日は我が身」になるか分からない・・・と思うと、
改めて「今日が楽しければヨシ」とするやり方は間違ってないと強く感じたのだった。
昨夜は“10年前に当時定期的に開催していた私の部屋でやったドンチャン騒ぎ”の時に仮装して写っている、
とんでもない写真の中のTAKAさんに向かって合掌するしか、自分の心を落ち着かせる方法がなかった。
何事もなく1ヶ月経過しまずは一安心です。
この1ヶ月世界中で色々なことがあり、テレビに釘付けです。
〇〇さん的にも辛い事があったね。
いい言葉が見つからないけど、私からひとつお話があります。
先日、私の幼なじみが女の子を出産しました。
な・なんと自宅で出産した(してしまった)そうです。
なんとなく陣痛はあったので、病院に電話したところまだ大丈夫とのこと。
その後、便意をもよおしトイレにいって力んだら、赤ちゃんの頭が・・・!!
救急車を呼んだものの間に合わず自宅で出産してしまったそうです。
友人の死はとても悲しく違う事で穴埋めなど出来ないとは思うけど、
生命は世界中のどこかで休むことなく誕生しています。
友達の出産ってなんか気持ちが明るく幸せな気分になります。
〇〇さんにも幸せのおすそわけという事で・・・。
それでは、また!!
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
これは9月9日に大学病院を退院後1ヶ月程度経過したある日、友達(患者生活各編によく出てくるKママ)から
届いたメールを10月29日に転載・追記したものである。私はこのメールで救われた。
もう1度、10年前のドンチャン騒ぎの最中に仮装しているとんでもない格好のTAKAさんに向かって合掌。
2001.12.24追記
共有した時間が長い人の悲しみとは比較の余地もないし、比較するべきものでもないとは思うが・・・。
私にもかなりのダメージがあったことは確かである。しかし、こうしてひっそりとこの世を去っていく人もあれば
世の中の多くの人々に惜しまれながら去っていく人もある。また生まれる場合も同様であろう。
いずれにしても『人間の力ではどうしようもない世の中の大きな流れ』からすると、1人の人間が生まれるのも
この世を去っていくのも小さなことなんだろうな・・・と思うと、少しは衝撃が和らいだような感じがしている。
2002.03.03追記
昨夜は、大学病院に勤務する友達に電話したら珍しく在宅だった。
いつもは夜間の大学に通っていて「5時ピタ」で帰るので仕事がたまり、学校が休みの時に片付けないと・・・ということで
学校がない時の勤務は23時とか夜中の0時とかになるそうだ。
去年の秋に元同僚が亡くなってからもう少しで半年になるが、亡くなる前にノートに書き残していたらしく、お姉さんから招待されて
温泉に行ってきたとのこと。この人とこの人にはお世話になったから何かして下さい・・・と書き残したものがあったそうである。
これを聞いて「すごい。TAKAさんは自分の人生の幕引きまで綺麗にやっている」と感服してしまった。
同時にとても大きな人だったのだろうと改めて感じた。要するに、これから自分は死ぬと分かっている時点で、
周囲に面倒を見てくれる人達がよってきてくれるだけの人間性を持った人だったのだ。
もちろん周りの人達もいい人だったのは言うまでもないが、そういう状況にしたのは亡くなった本人の人間性以外の何ものでもない。
行き方を覚えたので、次に行くときは私にも声をかけてくれるらしい。「渡したいものがあったのよね」というと、そんな風に言ってたな〜。
もし墓参りか仏壇の前に行く機会があれば、井上陽水・奥田民夫のシングルCDで“ありがとう”というのをお供えしてこようと思っていた。
そして、今も大学病院に勤務している元同僚にはまだ話してないのだが、「毎年4/29(誕生日)と9/15(命日)とお盆とお彼岸には
思い出すので、本当に困った時は相談にのって下さい」とお願いしてこようかと思っている。
生前の付き合いはどちらかというと深いものではなく、以前は年に1回他の友達と共に、最近の数年間は年賀状かたまーに電話する
という程度だったのに、亡くなってからいきなりこういうのも自分勝手なのかと思ってしまうが・・・。
私の都合によるお願いはともかくとして、CDだけは是非とも墓前か仏壇に供えてきたいと思う。
お願いは「ムシが良すぎる」としてもCDは受け取ってくれるだろう、たぶん。
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平成13年10月26日〜平成14年度・健康保険制度改正について〜
9月25日に政府から医療制度改革案が出されたが、それによると来年度(平成14年4月1日以降)の患者負担の仕組みは
次のようになる方針である。
(1)乳幼児が医療機関にかかった場合の患者自己負担は、現行の原則3割から2割に引き下げる
(2)70〜74歳は原則3割(現行は原則1割)に引き上げる
(3)75歳以上でも高額所得者は2〜3割(同)を負担する。
02年度からの医療制度改革で、患者負担が原則1割の高齢者医療制度の対象を『70歳から75歳に引き上げ、
サラリーマン本人の患者負担を現行の2割から3割に引き上げる』などの方針をすでに固めている。
高齢者医療制度の対象から外れる70〜74歳は現行の1割を原則3割とし、引き続き対象となる75歳以上についても
『現在は一部定額負担があるが、それを原則1割の定率負担を徹底』するとともに高額所得者は現役並みの負担とする。
高額療養費制度については、75歳以上の高齢者は原則1割の患者負担を徹底。
外来で月3千円か5千円となっている上限額を撤廃し、1回800円で月5回目以降は無料となる診療所の定額制も廃止。
75歳以上でも高額所得者は原則2割負担とする方針だ。薬剤費の一部患者負担は廃止する。
高額療養費制度のうち月収による自己負担額の違いについて、56万円以上の人は14万円程度に、
56万円未満の人は7万2千円程度にそれぞれ引き上げる方針だ。
但し市町村民税が非課税となっている低所得者の上限は、現行の3万5400円のまま据え置く。
生産性のある働く世代にとっての負担増だけどなく、医療費の大部分を占めている老人医療費も定率になるのは大賛成だ。
先日も掲示板で話題が持ち上がったのだが、今までは『老人だけ定額』というのがおかしかっただけである。
一部の人だけにしわ寄せがきていた今までの制度と違って、全員に同じ負担ということでは賛成である。
よく考えてみると健保の本人も国保も3割負担なのねー、という感じだ。
なお、厚生労働省発表の原案はこちらを参照して頂きたい。
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平成13年11月25日〜JRに学ぶこと〜
このコラムは2/13〜4/22までの入院中に書いていたものだが、今頃になって発見したのでここに発表する。
平成13年3月3日(土)世間ではひな祭りと言われているこの日、夕方のニュースで次のようなことが報じられていた。
JR新大久保駅で泥酔して線路に落ちた人を助けようとして2人が亡くなったという例のNEWSの続き・・・とでも言うべき
内容なのかと感じていた。
JR東日本(?)が各駅に「線路に落ちた人の為の足場」を設置し始めたという。
また平成13年9月末までに「線路に落ちた人が逃げ込むスペース」を作ることも決めたという。
これを聞いて一瞬だけど「え?」と思った。今から作る・・・って事は今まで無かったのね、と。
JRサイドは「今までは予防がメインで(線路に)落ちた時の対策は皆無だった」と認めている。
ここでいう予防とは「車内放送」「駅構内放送」「ホームの白線で目印」というふうな物らしい。
このNEWSの感想としては・・・。
医療界と足して2で割ったらちょうど良いんじゃないかということである。
それこそ私が思うには
◎自らの知識の無さと勉強不足を棚に上げ
◎医療者(特に医師や看護婦に対して)に文句を言いまくり
◎保険医療制度の甘い汁を存分に吸っておきながらも
◎感謝の意識を持たない
◎自分の受けた恩恵以上の税金を払ってない
・・・というような人達に聞かせてやりたいということだ。
要するに文句を言う前に「自分達はどれだけの事をやってるのか」ということである。
そこの貴方はいかがかしら?
又、医療界も予防医学が発達してきたとはいえ「医療を提供する側の医療従事者」も「医療を受ける
側の患者」も意識づけがなされていない・・・というか、ほとんど予防なんていうことに意識を働かせて
ないのではないかとも感じる所が多々ある。
JRは事故予防に重点を置き過ぎたし、医療界はその逆であるとも感じたのが率直な感想だった。
JRと医療に直接の関係はないけれど、この“予防”という視点の置き方には学ぶべき事があると思う。
これを読んでいる皆さんはどんな意見をお持ちなのだろうか・・・?
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平成13年11月29日〜転院を考えている人へ1つの提案〜
あなたが今転院したいと考えていると仮定した場合、そこに至るまでの経緯は
他人には計り知れない様々な原因・誘因があることだろう。
☆診療時間がとても短い、思いやりのない、いいかげんな態度が気になるなど、医師や看護婦の態度に不満がある。
☆診断や治療、予後などについて医者が解るように説明してくれないし、説明を求めても「私に任せなさい的な態度」で
あやふやにされてしまう。
☆治療しているがなかなかよくならない、この医師の診断は正しいのか、他に選択できる治療法はないのか疑問を感じる。
他の医師の意見も聞いてみたい。
などがピックアップ出来るのではないだろうか?
転院はしたいがそれをためらう原因として
☆医師が気を悪くするかもしれない。そしてもうこの病院には2度と受診できないかもしれない。
☆せっかくここまで検査したのに、もし他の病院に変わったらまた同じ検査を繰り返すことになり、
今までの費用と時間が無駄になりはしないか。
☆転院した先が今まで以上にひどい病院、医師であるという可能性も否定できない(現時点では何も分からない)、
悪い医師は多いが、良い医師なんてめったにお目にかかるものじゃない。
という恐れからだろうというのは容易に予測できることである。
一般的な転院の方法として
1.黙って他の病院に行く。
2.通院できなくなった理由を適当に言って他の病院への紹介状を書いてもらう。
3.自分が受けている現在の診断や治療に満足していないことをはっきりと伝え他の病院へ紹介して欲しいと正直に話す。
もしあなたが入院中ならば必然的に1か3しかなく、1を選択するならば脱走するしかない。
入院費はあとでキチンと清算しよう!
3は通院できる状態なら可能であるかもしれないけれど、安静を要する状態ならば紹介される側が拒否する場合も少なくなく、
かなり困難であることが予想される。以上のようなことを考えると、転院は通院中に済ませておくことが双方にとって好ましく、
入院するのはその病院の人質になるようなものだという覚悟が必要なのだ。少なくとも私はそう考えていることが多かった。
私が6/9まで入院していた病院から大学病院への転院を決意したのは“ナースのおばちゃん的患者生活・3回目の感染編”に
記載した通りである。別にそれまでの治療方針自体に納得出来ていなかったわけでもなく、途中で不用意な発言をする医師が
いたけれど本当に嫌ならその時点(平成12年4月末)で転院していたのだ。
6/9まで入院していた病院は数年前から移転に向けた準備が着々と始められていたのだが、
とうとう本格的になったということもあり、また何より平成12年9月以降はそれなりの治療を受けているにも関わらず
一向に改善していないという事実を見逃せなかったという事である。
これは何も医療不信というのでは決してなく、民間病院での治療は限界なのではないかという思いがあったことも
記載しておかなければなるまい。この病院が移転を控えて閉鎖予定でなかったら、今でも受診し続けていただろう。
やはり病院そのものが閉鎖されることが決まっているというのは大きな要因だった。
しかも閉鎖まで少しの時間はあるものの、ギリギリになって慌てて転院先を探すとロクなことがないと思っていたし、
閉鎖までにこの左膝が完治するという見通しは誰も立てられなかったので、
自宅からは少し離れてしまうものの同じ自治体内だし、やむなく転院を決意するに至ったのだ。
私は1の黙って他の病院に行くか、2の適当な理由をつけて他の病院への紹介をしてもらうことを勧める。
適当な理由で好ましいと思われるのは「通院に時間がかかるためにもっと近い病院へ移りたい」とか
「職場から遠くなったため通うことが出来なくなった」「急なことだが転居するので近くの病院に通院したい」とか
「親が寝たきりになり実家へ帰ることになり通院が困難になった」などの地理的な理由が差し障りがなくて良いのではないか。
どうしても嘘をつくのがいやだというあなたは、黙って他の病院に行ってしまうに限る。
他の病院へ行き、今までの経過を簡潔に説明してそこでの対応をみて、以前の病院の方がマシと思ったら
戻ることが出来るという点もメリットである。
例外なのは癌の場合で原発巣を摘出したケースで再発したとか、術後の後療法中などで治療疑問を持っている、
あるいは薬物療法の副作用や手術療法後のトラブルなど『ある程度治療を行なってしまった場合』は今まで検査結果や
経過を書いた紹介状が必要となる。経過が長ければ長いほど紹介状を書くのに時間がかかり嫌がられるだろう。
また、特殊な検査を行なって他の病院でその検査をしたくない場合も紹介状を書いてもらう必要はあるだろう。
嘘をつきたくはないが紹介状も出して欲しいという人は、嫌な思いをすることをあらかじめ覚悟しておいた方が良いだろう。
ほとんどの医師は、自分(医師)はあなたの病気に(あなたにではなく病気に)最良な検査や治療を行なっているはずだと
思っているわけだし、診断や治療に納得できないから紹介状を書いて欲しい、セカンドオピニオンを聞きたいなどとと
患者さんに言われると少しはムカッとするのは当たり前の反応であろう。
ハイハイなどといそいそと紹介状を書き始めるのは、余程あなたが他の病院へ行ってくれることが嬉しいのか、
とても困難なケースだと感じていたからに違いない。
なぜなら医師等の医療従事者は患者を選べないのだから…。
これは客商売をしている人々が「お客を選べない」というのと同様である。
出来るだけ転院を希望する理由と根拠を論理的に説明できるようにしたり、事前にメモしたものを持参した方が良いだろうし、
いつ紹介状を取りに来れば良いのか、医師や病院側の都合も聞くことを忘れないように!
どうしても医師が紹介状を書いてくれない場合はとりあえず他の病院に行ってみて泣きついてみるのも
1つの方法かも知れない。
その場合でも前の病院や医師を激しく非難するようなことはせず(どこかで繋がっている可能性が充分考えられる)、
今までの治療の経過をできるだけ正確に伝え(メモに書くのが最も効果的)、内服中の薬を持参することを忘れないようにね。
もしかすると転院先が電話で問い合わせてくれるかもしれないし、
医療情報提供書を持たせてくれるように頼んでくれるかもしれない。
最後に「ここは危ない」と命の危機を感じたときには全てを捨てて、さっさとできるだけ早く逃げ出した方が良い。
あなたの命はたった1つのあなた自身のものだし、医者からすればたくさんの患者の1人に過ぎず
別にあなたがいなくなっても痛くも痒くもないのである。
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平成13年12月12日〜セカンドオピニオンについて〜
これはある医療ジャーナリストの方からメールを頂きましたので、そのまま掲載致します。
読者の皆さんのご意見はいかがなものでしょうか?是非ともお聞かせ下さい。
患者も勉強が必要ということです。
「かかる医者で命が決まる」といいますが、医者へのかかり方も大切です。
病気を治そうという時、最初にすべきは「敵」の正体を知ることです。その病気がどんなもので、検査法、治療法に
どういうものがあるかは「家庭の医学」等で勉強する必要があります。
そして、今受けている治療が何を目的にしたものかを把握することも大切です。
医者に任せきりにしたばかりに、ひどい目に遭ったケースは驚くほどたくさんあります。
最近私が相談を受けた中に、開業医から「狭心症」と誤診され、その薬を数年間投与され、その副作用と思われる
パーキンソン症候群で苦しんでいる患者さんがいました。
狭心症と診断されたのは15年以上も前で
科学的な検査も受けていませんでした。 狭心症は問診や補聴器だけでは診断がつきません。
大きな病院の循環器科を受診し、負荷心電図などの検査を受けるべきでした。
この開業医のひどさは言うまでもありませんが患者さんももう少し勉強していれば被害を受けずに済んだはずです。
医療内容の見極めが大切です。
「誤診」(講談社刊)の著者である大鐘稔彦医師は、その見極め方を次のように指摘してします。
まず、2.3日で症状の劇的な改善が見られれば、その医師の見立て、さじ加減は上等と判断してよい。
また、期待したほどの治療効果がない場合でも、患者の訴えに明快に答える医師ならよい。
「もう少し待ってください」とそのままの治療を漫然と2週間、3週間と続け、しかも症状の改善が見られないようならば、
他の医師の意見(セカンドオピニオン)を求める方がいい、とアドバイスしています。
このアドバイスを守っていたら、命を落とさずに済んだと思える例もたくさんあります。
典型的なのは大腸がんを痔(じ)と誤診するケースです。
下血で近くの開業医にかかったところ「痔でしょう」と言われ、
2年ほど通院したものの出血が止まらないため、大きな病院の消化器科を受診したところ、大腸がんの末期だったという
例を聞いたことがあります。最初の下血の時に「大腸がんを疑って検査を受けていたら
手術で治っていたことでしょう。
逆に、疑い過ぎるのも問題です。
46歳の子宮内膜症の患者さんが、医師から「そのぐらいなら手術をしなくていいでしょう」と言われたが5カ月過ぎても症状は変わらず
不信感を抱いて病院を変わったという話を聞きました。しかし、子宮内膜症では1つの薬で半年ぐらい様子を見ることがあります。
医師の説明不足が問題ですが、患者さんももう少し積極的になって「今の薬は効かないのですが…」といった質問をぶつけるべき
だったと思います。たくさんの患者をみている医師はどうしても説明不足になりがちです。それを補うのは患者からの質問です。
医師にしてみれば、質問されなければ理解してくれたと思いがち。
分からないことがあればまず質問をする。その時にきちんと説明してくれなかったり、嫌な顔をする医師なら
その時点で見切りをつけることができます。
今、医療に求められているのは患者の自己責任です。自分が受ける医療について
お任せではなく自らが決定する姿勢が大切です。
(参考文献:平成10年11月20日 中日新聞・健康「医療ウオッチング」<11>)
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平成13年12月18日〜乳ガン発症に関するデーター〜
2001.10.23 深夜に起きている女性には乳癌が多い、米国の2研究が示唆
夜勤などで深夜起きていることが多い女性では、深夜は眠っている女性よりも乳癌が多いことが、米国で行われた2つの研究から
明らかになった。乳癌の頻度は、夜勤の回数や寝室の明るさなど「深夜にどれだけ光を浴びたか」と量的な相関があることも
わかったという。少なくとも女性は健康のためにも深夜は眠りに就いた方がよさそうだ。
研究結果は、Journal of the National Cancer
Institute誌10月17日号に掲載された。
研究の1つは、米国Fred Hutchinson癌研究センターのScott
Davis氏らが行ったもの。
Davis氏らは、1992年11月から1995年3月までの間に乳癌と診断された女性813人を対象に症例対照研究を実施。
これらの乳癌女性と、同年代の乳癌ではない女性793人を対象に就寝時間や寝室の明るさなどの睡眠状況と、飲酒、喫煙や
家族に乳癌になった人がいるかどうかなどを調べた。
その結果、乳癌になった人とならなかった人とでは、特に睡眠状況に大きな違いがあることが判明。
乳癌の人では
1.夜勤などのため深夜1〜2時に起きている
2.寝室が明るい−−という2つの特徴があることがわかった。
乳癌のリスクは、深夜に起きている回数が週1日増えるごとに14%増える。
また明るい(眠っている位置から足先が見える)寝室で眠っている人では、乳癌リスクが36%高かった。
もう1つの研究は、米国Harvard医科大学Brigham
and Women's病院のEva S. Schernhammer氏らが行ったもの。
米国では1980年代から、医師や薬剤師、看護婦らの医療従事者を対象とした複数の疫学研究が行われている。
Schernhammer氏らはそうした研究の1つで、看護婦の協力で現在も続いている前向きコホート研究「Nurses'
Health Study」
のデータを解析し、どのような人が乳癌になりやすいかを調べた。
Nurses' Health Studyには7万8562人の看護婦が登録しているが、1988年から1998年の10年間で2441人が乳癌を発症した。
この乳癌発症リスクと夜勤との間に相関がみられ、過去29年間に夜勤を行った人では8%、30年間以上夜勤を続けてきた人では36%、
乳癌リスクが高くなっていたという。
これらの研究が示唆するのは、深夜に光を浴びることと乳癌の発症とに何らかの関係があるということ。
研究者らは「睡眠ホルモン」とも呼ばれるメラトニンが影響していると考えている。メラトニンの分泌量は深夜1〜2時に
ピークに達するが、その時間帯に光を浴びるとメラトニンが充分に分泌されなくなることが知られている。
メラトニンには女性ホルモン(エストロゲン)の量を調節する作用もあり、メラトニンが少ないとエストロゲンが増えるが、
エストロゲンには乳癌を成長させる作用があると考えられている。また、メラトニンは「癌抑制遺伝子」として知られる
p53遺伝子の働きにも影響しており、メラトニンの不足が発癌を直接増やす可能性もあるという。
乳癌はわが国でも最近増加が著しい癌の1つだが、その背景には脂肪の多い食事など食生活の変化に加え、
こうした生活パターンの変化が影響している可能性もある。
家族に乳癌になった人がいるなど、乳癌が気掛かりな人では、夜型の生活を改めた方がいいようだ。
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平成13年12月24日〜インフォームドコンセント・日本人の勘違いとは?〜
アメリカ在住という方が1冊の本を読んだとのことで読後感をメールにして送って下さったのだが、
これはアメリカ信仰がさかんな日本人にありがちな部分を的確に指摘していると思ったので、ここに紹介させて頂くことにした。
ごもっとも・・・と思われる部分は太字にしたり強調しているので悪しからず。
水野 肇著「インフォームド・コンセント」を読んで
医療現場における説明と同意
〜日本人が勘違いしていることとは一体何なのか?〜
「インフォームド・コンセント」(Informed
Consent)という言葉は普段あまり耳にすることは
ないだろう。しかし、この言葉は近年、日本の医療のキーワードになるのではないかと言われている。日本語では「説明と同意」と訳される。
詳しく説明すると、医療の現場では、医師は必ず患者の病症を説明し、どう処置するかを説明し、患者の同意を得た上で
治療をするというものである。こういうことは日本の患者にとっては信じられないものであるが、欧米諸国ではごく当たり前のことなのだ。
今の日本ではこのインフォームド・コンセントがほとんど行われていないのは確かであるが、近い将来には適用されるのではないだろうか。
そのため、医師にとってはあらゆる患者にわからせるような説明をするといった高度な言語技術を必要とする。
また患者は医療知識をある程度知っておく必要があるのだ。
【インフォームド・コンセントの歴史】
インフォームド・コンセントの発端は第二次世界大戦以降のことである。それまでの医療の歴史の中では全く逆のことが言われていた。
ヒポクラテスは「現在の病症や予後について、とくに経過が悪いときには何事も告げるべきではない。
真実を告げると死に追いやられるからだ」といっていた。つまり患者は本当の病症を知らないほうが安心して、
誤解をまねくということにならないのである。
そして、このインフォームド・コンセントが欧米の医療の世界で定着するようになった最初の出来事が1945年11月から1946年10月まで
ナチスに対する「ニューデンベルク裁判」であった。ドイツのナチスは考えられないような人体実験を行ったのである。
ナチスの行った医学研究は歴史上もっともひどいもので、国家的規模の裁判であった。
そしてニュールンベルク綱領とよばれる人体実験に対する一定の基本原則を提示したのである。
この綱領が戦後の医師に大きな衝撃を与えたのだ。こうして世界医師会にも広がり1949年には「医学倫理の国際綱領」を、
1954年には「研究および実験の原則」を、そして1964年には「ヘルシンキ宣言」を公にした。
この宣言では人体実験が不可欠であることをはっきり認めたうえで、個人の利益と福祉を優先すべきであるというものである。
これは国際的にも高く評価され、医師倫理の原点とされている。
またこれがインフォームド・コンセントの原点となっているのだ。
つまり、人体実験の場合、実験内容を被験者に知らせて納得してもらい、同意を得た上で初めて行うことができるのだ。
ニュールンベルク裁判や「ヘルシンキ宣言」を通してだんだんと患者の権利をいうものが大事にされるようになり、
医療そのものの本質が問われた。そこで1973年に「患者の権利章典」というものが登場した。
ここでは前の宣言では人体実験の在り方を明示しているのに対して、患者の権利が全面的に押し出されているのだ。
裁判では「告知義務」といわれるインフォームド・コンセントが重視され、告知されていない場合では医師の敗訴となるのだ。
また、欧米社会は契約社会なので診断や治療を一種の契約と考えるのである。
こういうことから権利意識が全面に出てくることになったのだろう。
現在、アメリカではインフォームド・コンセントをしない医師はほとんどいないといわれるくらい、一般化して常識となっている。
私達日本人にとっては違和感があるかもしれないが、不思議に感じなくなってくる時代はもうすぐやってくるのではないだろうか。
【インフォームド・コンセントをめぐる問題】
インフォームド・コンセントは前にも述べたように、患者に説明をするだけではなく納得して同意してもらわなければならないものである。
患者の承諾と医師の説明によって初めて成立するわけであって、どちらか片方だけではいけないのだ。
しかし、医師の尊重すべきものは患者の健康か、意志かという問題がある。
もし健康を尊重すれば患者に対して説明をして、承諾を得る必要がないだろう。
これはとても難しい問題である。だが、もともとインフォームド・コンセントというのは患者側から権利として持ち出されたものであるから、
患者本人が納得して承諾しなければならないのだ。
インフォームド・コンセントによって、これまであまりにも上下関係が強かった医師と患者関係に、
患者側の主張が多く取り入れられるようになったということである。
インフォームド・コンセントはだんだんと世界の潮流になりつつあり、日本でも避けては通れない問題となってきた。
しかし医療側にとっては厄介なものなのである。というのは日本では昔から「知らしむべからず、由良しむべし」という風潮があったからだ。
医学という学問は誰にでもわかるものではないので「説明してもわからないだろう」と思っていたのである。
また、医学は不確実性があるので、診療過誤は医療にとってはつきものであるから医師の独断の考えであることが多かった。
しかし、現代社会では通用しなくなってきた。
国民の医学知識は向上し、健康への関心が高くなってきたからである。医師に対して口を出すかは別にして、
多くの国民が説明しなさすぎる医師に対して情報を欲しがっているということだ。
これからの医師はインフォームド・コンセントにもっと強い関心を持っていかなければならないのである。
【アメリカのインフォームド・コンセント】
今、アメリカの医師でインフォームド・コンセントをしない人は1人もいないといわれている。
インフォームド・コンセントの発端はニュールンベルク裁判であり、それがアメリカに定着するようになったのは、
現代治療の一般的矛盾が最初にアメリカで最初に露呈されたからであろう。
そして、これが国の方針として形になったのが1983年にできた「アメリカ大統領委員会・生活倫理総括レポート」である。
こうしてインフォームド・コンセントの必要性に関して関心が高まり、患者と医療関係者との関係の改善、
患者が「より良い」あるいは「より自主的な」決断を下すことができるよう促進することなどに関して検討することになった。
臨床の場におけるインフォームド・コンセントについて委員会は3つの調査研究を行った。
この調査はインフォームド・コンセントに対する患者と医療関係者の態度を比較したものである。
その結果、一般人と医師は、患者が自分の状態と治療について可能な限りの情報を手に入れる権利があり、
患者の多くはそのような情報を知りたいと望んでいるという点で一致していた。
【現状でのインフォームド・コンセント】
一般的に昔からどこの国でも医師は特別扱いされ、権威を持ち君臨していると多くの国民は思っていただろう。
しかし、ニュールンベルク裁判以来、各国で医師への批判が強まった。
ニュールンベルク裁判でナチスの行った残虐行為が裁かれたわけだが、それが世界的なものに
広がっていったということである。その最初の問題が人体実験であった。
ナチスが行った強制収容所にいれた人々に対する一方的な人体実験は言うまでもないが、
現代においても医学発展のためにどうしても行わなければならないものであるということである。
新しい薬が登場すれば、それが人間に対して効果があるかどうかを調べるためには人体実験をせざるを得ないのである。
いくら役に立つといっても人体実験を受けたい人は誰もいないだろう。
そもそもインフォームド・コンセントの発想はこういった薬などの人体実験の問題からであったのだ。
こういった潮流の中で、日本では1982年11月に「日本ケミファ事件」といわれるデータ捏造事件があった。
この事件は、日本ケミファが新薬承認申請のさい、全く実験をしていない捏造データを入れたりと
約50症例が捏造したデータであった。薬業界はじまって以来の不祥事ということで厚生省、国民に大きなショックを与えた。
再びこのような問題が起きないためにもどのような対策を取るべきだろうか。
臨床実験をする医療機関を指定して、臨床テストをする医師も指定するというものもある。
ほかにも様々な対策があるだろうが様々に異論があり、とても難しい問題である。
国民は治療用の薬に対して選択の権利や余地はないので非常に不安を持っている。
それに対して医師はその不安を取り去り、国民の不安について考えてあげなければならない。
また、薬の難しい問題として副作用がある。サリドマイド系の睡眠系やスモンなどの医薬品ばかりではなく、
あらゆる医薬品に副作用があるのだ。一般的に医師は患者に投薬する場合、
効果と副作用のそれぞれの内容を考えて投薬する。
多少の副作用があっても病気を治すためには投与するのである。そしてこの副作用には個人差がある。
このあたりが薬の難しさであろう。薬が体に与える影響は人それぞれであり、複雑なものであるから、
いろいろな角度から研究していかなければならないのだ。
【ガン末期の場合】
インフォームド・コンセントとガン告知是非論はよく結びついて出てくる問題である。
日本ではガンを告知する医師は少ないが徐々に告知する傾向になってきている。
日本の場合、ガンを告知すると患者はショックを受け、死期を早めると考えられていたので、
告知しないのがいいのだというようにいわれるようになった。
しかし、最近では医学の進歩により絶望的なガンが今では早期発見すれば治る率が上がってきたことにより、
告知する場合が増えてきたのである。末期患者へのガンの告知はたんに告知すればいいというものではなく、
ちゃんとその後の体制を持たなければならない。患者との人間関係を作り、様々な話をして、それから告知をする。
このタイミングが難しいとされている。しかし、本人がガンであることを確認せずにターミナルケアをすることは難しい。
というのは本人が、自分の死を知ることによって残された日々を快適に生きようとするからであるだ。
かといっていきなりガンを告知すれば、患者は大きなショックを受けるだろう。
インフォームド・コンセントの真意はこのようなところにもあるのではないだろうか。
つまり、インフォームド・コンセントは、患者の立場に立った医療であり、医師と患者との人間関係が基本なのだ。
【慢性疾患の生活管理】
インフォームド・コンセントの中での重要なテーマに「慢性疾患の生活指導」というものがある。
多くの医師が教科書通りの生活をしていれば、健康を維持できると考え、それで責任をはたしたと思っている。
しかし、医療と言うものはそんな単純なものではないのだ。それなら医師はいらないということになるだろう。
医学には不確実性があるので、医師はその人に合った治療をしなければならない。
人間には個人差もあるので、そのことを前もって調査したうえで、もっと個人にふさわしい情報を与えるべきである。
しかし、実際の医療の現場、特に大学病院では忙しくて時間がないとの理由であまり問診をしない。
患者がどういう生活をしているかと聞かないのだ。患者の仕事と病気は因果関係があることが多い。
とても重要なことなので、医師は知っていなければならないことだと思う。
「インフォームド・コンセント」は単に病気の説明をするだけのものではない。
教科書通りの説明では実際に適応するものばかりではないのだ。患者にとって最適な治療をするために
インフォームド・コンセントがある。特に慢性疾患の場合、患者の生活状態を知らずに治療はできないのである。
慢性疾患の生活指導というのがうまくいくかどうかはインフォームドコンセントにかかっているということだろう。
【インフォームド・コンセントをめぐる5つの反対論】
インフォームド・コンセントを「医師の義務」という形で法的な義務にするということについて色々な議論がある。
その1、患者は治療上の危険を知りたくないのでないか。危険性の説明を受ければ驚く患者も多いが、
情報を知りたい患者のほうが多いのだ。医師が患者に対して説明の仕方を考えて行えばいいのではないだろうか。
その2、説明しても情報を理解できない患者がいる。老人患者に説明しても理解できないのは当然だが、一般の患者に説明しても
覚えていないという。いくら重要なことでも日が経てば忘れるのは当然であるから、それだけで判断するのはいけない。
一般的に医師が病症や治療の説明をわかりやすく説明するとは考えられていない。
だから医師は「わからせる説明」を考えなければならない。
その3、患者に自己決定権を与えても、患者は医師のいうがままに治療を受けるので無意味だ。患者は普通、医学的知識も
乏しいので医師を信じ、指示のもとで行動する。
その4、患者に与える情報によっては、患者がショックを受けて不利益な結果をもたらす。しかし、現代的な考え方によると
一時的ショックを受けても、そのショックから立ち直ったあと、患者は残された日々を満足できる状態で生きることができると
考えられているのだ。
その5、インフォームド・コンセントをしていると時間がかかりすぎる。確かに待ちあふれる患者を処理できなくなってしまうが、
医師の工夫次第では短時間でできる方法もあるのではないか。どの反対論も前向きに改善しようと心がければいつでも出来る。
【医師と患者の人間関係】
インフォームド・コンセントという言葉のなかの、患者の自己決定権という認識が強いが、
実際には患者に治療方法を決定できるだけの能力があるかという問題がある。
日本の医療の現場では、あまりにも医師は患者に説明しない。医療は医師対患者の人間関係の上に成立すると言われている。
これはきわめて重要なことだ。医師と患者の人間関係が必要なのは、医療が直接生命を扱うもので、
患者が医師の診療を受ける時には「まな板の上にのった鯉」と同じであるからである。
日本では、健康保険加入者の本人の場合どんな診療機関にでも行ける制度になっている。
これは便利な制度だが、医療にもっとも必要な医師と患者の人間関係を疎外させる傾向にある。
インフォームド・コンセントを医師と患者の人間関係の中で処理しようと考えると、まず医師と患者の間で話される言葉の問題があり、
もう1つは患者自身が医学知識をどれだけ持つ気があるかということがある。
人間関係の問題である以上、医師にヒューマニズムや倫理が必要であり、患者は最低限の常識が必要である。
医師と患者との間に交わされる言葉には患者から医師への言葉と、医師から患者へのものがある。
これは人よって様々で、教養や方言、表現力などの要素がからみあっている。
医師は病名を告げただけでは人間関係は切れてしまう。わかりやすい日本語にして伝えることはかなりの言語活動である。
患者も最近はマスコミによって多くの医学情報を提供され、それにすがり、乗りたがるのだ。
これによって医師までも間違った先入観を形成してしまうので危険である。
医師は自分自身の先入観と患者の先入観を取り除くために、患者が使う医学用語と違う言葉で置き換え、
よく判断した上でふつうの日本語で相手に分かりやすいように説明するのだ。
そうすることによって、お互いが納得いく方法が見つかるだろう。
【患者の医学知識】
自分の健康を自分で守るためには、国民の1人1人が、ある程度の医学知識を持っていなければならない。
医学について何も知らない患者とよく知っている患者では、当然のこととして差がでる。
よりよく医学知識を知っている患者のほうが、自己管理をすることができる。
しかし、患者が学ぶのには限界があるので最低限身の回りの医療制度を頭に入れておく必要がある。
世の中には、いいかげんな情報も多いので、一般の人には見分けるのは難しいかもしれないが
用心する必要がある。自分自身が正しい医学知識を持つことが、自分の健康を守ることにつながる。
そういう知識を得るためにある程度の努力をして、勉強することも大切なのである。
私達自身の健康のメカニズムや、特定の病気の知識、そして生理学の知識も持っていることが基本になるだろう。
【実践している医療機関】
現在の日本の医療を見ると、いまだに医療は医師のために存在し、患者のために医療を志してやっている病院は少ないだろう。
ある小児科では、患者への気配りを徹底し、限られた時間を効率よく使うための努力をしている。
また別の病院は患者本位の理想の病院といわれている。普通の病院の看護婦は勤務時間の大半をナースセンターで過ごしている。
それに比べてここの看護婦たちはベッドサイドで患者とともに過ごしているのだ。
患者とできるだけ長い時間接して看護すべきだという考えを通しているのである。
本文を通してインフォームド・コンセントについて学んだ。今まで何も知らなかったけれど、
こんなにも重要なことであるのだと思った。私も含めて一般の人はやはり医学知識が乏しいのはいうまでもない。
医師が言っていることを疑いもなく信じ、それを頼りにしている。自己決定をすることはとても難しいように思える。
しかし、すべては自分の体のことなので自分でどうにかしなければならないのだ。
そのことを忘れないで、出来る限りの努力をして情報を得たり、学んだりする必要があるということだ。
一部の人だけではなく、すべての人がそういう努力をしようと心がけなければ何も変わらないだろう。
インフォームド・コンセントが新しい医療の常識になろうとする現在、その変化に対応していかなければならない。
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平成14年2月19日〜患者“様”という言い方〜
最近の病院では「患者様」と呼ぶところが増えてきた。
患者様という総称だけでなく、個人名を呼ぶときでも“鈴木様”とか“松本様”というように・・・。
病院はサービス業であり、来院される方は「お客様」と同じであるという考え方なのだろうが、そのサービス形態は様々で、
受付などの事務的業務のみの病院もあれば、診察中の医師や看護婦まで徹底的に「様付け」を一貫しているところも見受けられる。
医療はサービス業という考え方は決して間違いではないと思うが、では他のサービス業と一緒に単純に一括りにして良いのか・・・というと、
そうでもないと思うのだ。サービス業だから「様付け」というのは、あまりに短絡的で幼稚な発想にさえ思える。
外見だけ取り繕えば少しは違うだろうというような考えが1つもないと言い切れるだろうか?
とりあえず、そうしておけば、サービスのランキングで☆マークひとつ増やせるというような・・・。
そもそも「さん」とは、そんな失礼にあたる敬称なのかと思っている。
個人的考えだが「様」という呼び方は“主従関係は明確ではあるけど、人間的な付き合い方は拒絶しているようなイメージ”がある。
つまり、サービス業における「様」はお金を持っているからこそ生まれる主従関係であり、お金を使わせるためにおだてているに
すぎない・・・というのはひねくれ過ぎだろうか?
日本には、ホテルやレストランなどで、サービスに対してチップを払うという習慣がないせいかサービスの本質について
よく分かっていないのではないだろうか?かくいう私もそうなのだが・・・。
サービス精神という言葉の「精神」が不在で口先や見た目だけの「サービス」というのが日本のサービス業の実体だという気がしている。
客の側が「サービス」に対してタダであると考えてるように、それをする側もその程度のものとしか考えていないだろう。
消費行為では利用者もそれを承知しているのだから・・・。
医療業界には医療業界の、独自のサービスを考える必要があるのではないかと感じているが読者の皆さんはいかがだろうか?
平成14年4月25日・本人の了解を得て読者からのメールを追記しました。
『患者様』という呼び方をする病院が増えました。“病院の主役は患者”、“医療はサービス業”という考え方に基づくもので、
医者の意識改革のためにもこれが有効だと言われています。基本的に異論はないのですが、実際に患者さんの前でこの言葉を使うと
かなりの違和感があります。
自分でも何処がどうおかしいのか解りませんでしたが『どうも、何か違うのじゃないか』という感じがぬぐえませんでした。
患者さん側も『そんな呼ばれ方はしたくない』という人がかなりいて、今まで自分では結論が出ていませんでした。
ネットの意見版でも賛否両論がありますが、どの意見も今ひとつすっきりしません。
昨日本屋で金田一春彦著『日本語を反省してみませんか』という本を立ち読みしていて、その疑問がすっきり解けました。
やはりこれは患者さん本人の前で使う言葉ではないようです。『患者』という言葉自体に“負”の意味が含まれており、
それをどう丁寧に言いなおそうが、呼びかけとして使うのは実は失礼にあたるのだ・・・ということです。
例えば病人、怪我人、障害者などという言葉と同じで、『病人様』、『怪我人様』とは誰も言いません。
『お客様』という言葉とは、内容が本質的に異なるのだということです。
個人的に呼びかけるのであれば、当然名前+敬称ですし、全体としてならば『ご来院の方』『受診中の方』『入院されている方』
というのが正しい丁寧語でしょう。
原則として本人の前で使う言葉ではない・・・という基本が、今までの論議の中には含まれていなかったように思います。
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平成14年4月3日〜読書感想文(その1)〜
少々長くはなるけれど、文庫本からの引用をしてみたいと思う。
技術が進歩すればするほど、組織が大きくなればなるほど、1つの数字の間違いが、1つの壊れた部品がシステムの全てを
壊してしまう恐怖を2人(この本に出てくるドキュメンタリー小説の登場人物)は身をもって体験した。
機械ならば、構成する部品の精度を極限まで追求することにより、ミスが起こる確率を限りなくゼロに近付けることが出来る。
しかし時間と共に様々に揺れ動き、好不調の波に翻弄される人の心は、どのように厳しい基準をつくり、どのように訓練を重ねようとも、
簡単にミスを犯してしまうだろう。その些細なミスは、二重三重の安全システムも、幾重にも張り巡らされたチェック機構も簡単に
すり抜けられてしまう。その途中にあるものがアラームだけの点滅か、システムの一時的な停止か、部分的な破壊か、
人命をも奪う重大な局面かは、ミス自体が知る由もない。世の中の全てのシステムが人間と機械のハイブリッドである以上、
重大な医療ミスは今後も何度も起きるだろう。
「2度とこのような事が起きないように、万全の注意を・・・」
被害者も加害者も、決まっていうこの言葉の虚しさは誰もが知っている。では、神ならぬ身でどうすればミスを犯さずに済むのか。
自らの未熟さゆえに、他人の命を縮めてしまったとき、どのようにしてそれを償えばよいのか。
医療ミスを犯してしまった2人が以上とも思えるほどゆっくりと会話を行うのは、潜在意識の中で、医学がその根元に抱える
重い問題の答えを、今でも求めているからなのかもしれない。
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この文章は“小学館文庫・松村秀樹著「病院屋台」”より引用させて頂いた訳なのだが、読んでいて今の医療界にも通じることでは
ないかと思った。それは医療従事者として実際に現場にいる人間だけではなく、利用する患者サイドとしても心得ておかなければ
ならないことである。
この文庫本は医療ミスを犯してしまった近未来の医師達をドキュメンタリー風に書いてあるのだが、著者が現場の医師であるために
リアリティーがあり、こんな風になったら良いのに・・・と誰もが感じていることが繰り広げられている。
そこには医局内の人間関係だけでなく、法廷に立った医師のこと等も詳細に記述してあるので読者の皆さんも読んでみては
いかがだろうか・・・?そんなに高い物でもないし、子どもの小遣いで充分に買える金額になっている。
この本の巻末に面白いことを書いてあるので、次回以降そのうちの一部を紹介していこうかと思っているのだが、私の原稿を待つよりは
立ち読みの方が早いと思ったりしている。
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平成14年4月21日〜インフォームドコンセントの問題点〜
『インフォームドコンセントは患者を救わない』の著者・名取春彦氏によると、インフォームドコンセント
(説明と同意、と訳されることが多い)の問題点を以下のように解説している。ふむふむ・・・と思いながら、
氏の書いた文章を読んでみた。納得出来る所がたくさんあったので引用・要約させて頂くことにした。
読者の皆さんもこの機会に改めて考えてみてはいかがだろうか?
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「インフォームド・コンセント」というものが医療改革のキーワードとなり、大部分の人たちが何の疑いもなく是認する。
それにしても「インフォームド・コンセント」は人々の心を捉えている。
多くの患者や家族、良心的医者たちや、人権派の弁護士たちが「インフォームド・コンセント」を拠り所に、
納得できる開かれた医療を要求して活動が進められている。そこへ「インフォームド・コンセント反対論」を唱えたのでは、
医療改革運動に水をさすことになりかねないし、また理解もしてもらえない。当初はしばらく執筆を見合わせた。
「インフォームド・コンセント」推進運動の成果があって、多くの患者が医者に説明を求めるようになり、医者もそれに応えるようになった。
しかし、患者の医療不信は全くおさまらない。薬害エイズ事件と厚生官僚の汚職は、官僚と製薬会社と医者の癒着と腐敗を暴露した。
「患者よ、がんと闘うな」のベストセラーにより、患者は医学界の権威者たちの言ってきたことに疑問を抱き始めた。
それでも現実の医療には何の変革も生まれない。医療不信はなくなるどころかますますつのる。
現場の患者や医者たちの間に「インフォームド・コンセント」を実践することが本当に医療改革につながっているのだろうかという
疑問が芽生え始めているのではないか。そして数年前の日本癌治療学会で、国立環境研究所副所長の大井
玄氏が「ガン治療に
インフォームド・コンセントは必要か」というテーマで講演があり「インフォームド・コンセント」の制度化に異論を唱えるのは
著者だけではないことを知った。
無批判に導入された「インフォームド・コンセント」に対し、その問題点をはっきりと投げかけても良い時期が来た。
特に「インフォームド・コンセント」に幻想をいだかせる書物は氾濫するが、問題点をまとめた書物は見あたらない。そう考えたのだ。
「インフォームド・コンセント」の理念は矛盾だらけの机上の空論である。人によって解釈はさまざまだし、
指針やルールとしても具体性がない。ところが医療不信に憤る患者や家族たちが「インフォームド・コンセント」に期待した。
人々は検査の説明に1時間もかけるアメリカの医療に憧れた。
そして十分な説明の上での自由意思での自己決定が実現できれば、医療不信はなくなると信じた。
しかし、それは幻想でしかなかった。
特に、臨床試験における「インフォームド・コンセント」とは、患者をあざむいて製薬企業が利益をむさぼることを
正当化する以外の何ものでもない。
「インフォームド・コンセント」とは「自己決定は自己責任を伴う」として患者に責任を押し付けるものであった。
インフォームド・コンセントの自律的な自己決定と自己責任、それに対する善意のパターナリズムの問題は、
医療に限らず子どもの教育や生活のあらゆる領域に共通する
普遍的課題である。
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全てとは言わないけれど、主旨はかなりの部分において納得出来るものであった。
要するに患者サイドも医者任せにしないで自分のことは自分で決めるという意志を持たなければ、
インフォームドコンセントに参加する義務はないと言えよう。
私が患者として入退院を繰り返している最中にすれ違った人達の大部分は、インフォームドコンセントの趣旨に反して
(あるいは誤解して)、自分の勉強不足や知ろうとする努力を怠っているのを棚に上げて(?)『医師の説明不足』と
『医療ミスの恐怖』だけを口々に言っていた。
全ての人がそうとは言わないが“患者というお客様的立場を利用して”医療関係者に無理難題を押しつけている人をたくさんみた。
インフォームドコンセント、自己決定などということは「自分の疾患や状況を冷静に正しく認識出来る人達に
与えられるものではないか?」と思うのだが皆さんはいかがだろうか…?
分からないことを学習もせずに放置するだけならまだしも、医療関係者の説明不足のせいにする人は意外と多かった。
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平成14年5月6日〜医療は本当にサービス業なのか?〜
【結論】医療はサービス業でなくなります!
ここで一言、サービスとは利用者の希望・要望・無理難題を全てかなえることではない!・・・という事です。
まずは総務省統計局・統計センター(http://www.stat.go.jp/info/seido/index.htm)の中にある“日本産業分類”というのを
見てみることにする。この分類は時々変更されることがあるそうで、ちょうど今年(2002年=平成14年)がその年に該当する
ようなのだ。ここで1つのことに気が付いたのだが・・・。
今年の9月までの日本産業分類(http://www.stat.go.jp/info/seido/9-1-05.htm)医療は間違いなく、サービス業に分類されている。
サービス業の中の88番目に堂々とその名称が書かれている。
88 医療業
881 病院
8811 一般病院
8812 精神病院
8813 結核病院
8814 削 除
8815 伝染病院
882 一般診療所
8821 有床診療所
8822 無床診療所
883 歯科診療所
8831 歯科診療所
884 助産所
8841 助産所
885 療術業
8851 あん摩マッサージ指圧師・はり師・きゅう師・柔道整復師の施術所
8859 その他の療術業
886 歯科技工所
8861 歯科技工所
887 医療に附帯するサービス業(別掲を除く)
8871 医療に附帯するサービス業(別掲を除く)
889 その他の医療業
8891 看護業
8892 老人保健施設
8899 他に分類されない医療業
ところが、である。
今年の10月以降は産業分類される時点で、サービス業とは全く別の独立した産業になっている。
http://www.stat.go.jp/info/seido/9-1-14.htm
サービス業自体も「複合サービス事業」と「サービス業(他に分類されないもの)」という分類方法になっているのだ。
皆さん、良く見て頂きたいものである。リンクは変更の可能性があるが“総務省統計局”で検索すれば間違いなく出てくる。
A 農 業
B 林 業
C 漁 業
D 鉱 業
E 建 設 業
F 製 造 業
G 電気・ガス・熱供給・水道業
H 情報通信業
I 運 輸 業
J 卸売・小売業
K 金融・保険業
L 不 動 産 業
M 飲食店,宿泊業
N 医療,福祉
O 教育,学習支援業
P 複合サービス事業
Q サービス業(他に分類されないもの)
R 公務(他に分類されないもの)
S 分類不能の産業
〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓
ここで医療従事者ではないと言うある方とのやりとりを掲示板からご本人の了解を得て抜粋・転載させて頂くことにする。
私も舌を巻くほどの毒舌ではあるのだが、言いたいこというか“書いている内容自体”は決して間違ってないと思うのだ。
サービス論
投稿者---◇▽(2002/03/15 23:40:48)
デフレ傾向にある昨今、価格は「もう下げられない」というところまで下がってしまったがゆえ、各企業は「サービスだ!サービスだ!」
ということが多くなりましたな。
「お客様第一」などと、なぜサービスを声高に叫ぶのか。
「社員にサービスを強いるのに金はかからないから」なんですな。
金をかけず、手っ取り早く他社との差別化を図るのには「当社はサービス第一です」などというスローガンを掲げるのが
1番良いわけですわ。金はかからず、しかも実際に苦労するのは現場の社員。経営者側にとってはまさにベストなことです。
しかし、ただ社員に「お客様にサービスしろ」などと言っているだけでは本当に顧客のことを第1に考えた上でやっている事
とは言い難いですな。
本当に客のことを考えているなら、例えば小売店舗で言えば障害者の方々も困らないように段差をなくしてスロープにするとか
そういうのが「本当のサービス」というもんでしょう。しかしそういうことはしないのですな。「金がかかるから」です。
社員にサービスを強いるだけならタダです。「当店はサービス第一です」とか「お客様のことを考えます」などという
チンケな張り紙がしてある程度の店なんかは疑ってかかった方が良いでしょう。
そういうような、金をかけた形跡が全く見当たらないわりにただスローガンだけが大々的に掲げてあるようなところはむしろ、
社員にはいつも「サービスせい!サービスせい!」と強いるだけ強いておいて給料はケチる・・・なんていう体質のケチ企業ということが
考えられますから、社員の士気は低いと見るべきでしょう。
「ありがとうございましたー」なんて言っていても心の中では「閉店前に来やがって、おかげでサービス残業だ!2度と来るなボケ!」と
思っている可能性が大です。
まあ経営者というのは口を揃えて「サービスだ!サービスだ!」と言いますが、
本気で客のことを考えているのなら「口だけでなく金も出せ」ということです。
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サービスの定義。
投稿者---ナースのおばちゃん(2002/03/16 00:38:36)
手元にある電子辞書の中に広辞苑が入っているので調べてみました。
1.奉仕
2.給仕、接待。「―の良い店」「―料」
3.商店で値引きしたり、客の便宜を図ったりすること。「付属品を値引きする」「アフター・―」
4.物質的生産過程以外で機能する労働。用役。用務。「―産業」
>しかし、ただ社員に「お客様にサービスしろ」などと言っているだけでは
>本当に顧客のことを第一に考えたうえでやっているとこととは言い難いですな。
ごもっとも。このような事をおっしゃっている方々は上記のことを勉強・・・、
してるわきゃないかっ!
病院などの医療機関でも同じ理屈が通用すると思いますよ、たぶん。
アタクシ、只今「医療は本当にサービス業なのか」ということについて、インターネット上ではありますが色々と調べている最中です。
どんな要求を持っているかによって「その人が考えているサービス」というのが違ってきて、
結局は「体裁はサービス業ということになっているが事実上はこの程度のものであるし
万人の要求に全て応えられるわけではない」となるのが分かってはいるのです・・・。
いわゆる“お客様”に対するサービスと患者に対するそれは、対価という側面で見てみると
必ずしも同一視は出来ないと思いますが、◇▽さんはどう思われますか?
一般社会と医療界というふうに分けても分けなくても、です。またどちらの視点から見た場合
でも・・・ということです。
どこかのお店で物を買うという消費行為は、金銭に対する対価として商品を受けとることになります。
店側に支払われたお金は材料費や働く人々の人件費の一部として使われ利益があれば給与として労働者のものになります。
そうやって経済が循環していくものだと教わった記憶があります。高校時代に。
医療がサービス業として認知されにくい、認知度が低いのは消費者が金銭を支払うまでに「診療保険点数」と「保険制度」が
あるからに他ならないという感じがします。おっと!話がそれました。ついつい・・・。
>社員にサービスを強いるだけならタダです。「当店はサービス第一です」とか「お客様のことを考えます」
>などというチンケな張り紙がしてある程度の店なんかは疑ってかかった方が良いでしょう。
そうですな。これは「患者様とお呼び!」などと職員に言っている病院幹部にも同じ事が言えますぜ。
こういうのに限って非公式の場に行くと「患者様」などと言っている人は1人もいないと思います。
>「ありがとうございましたー」なんて言っていても心の中では「閉店前に来やがって、おかげでサービス残業だ!2度と来るなボケ!」
>と思っている可能性が大です。
受付時間終了間際に来て「検査できないのか」等々・・・といっている人達にも通じますよ。
ある知り合いの開業医は「受付時間終了数分前からナンバーディスプレイにして登録してある人しか出ないよ」と言ってました。
今回の毒舌コラムはいつもと違った感じで読みました
--------------------------------------------------------------------------------
Re:サービスの定義。
投稿者---◇▽(2002/03/16 22:29:19)
ただブーブー言っているだけのコラムに大変ハイレベルなレスを頂き恐縮しております。
>只今「医療は本当にサービス業なのか」ということについて、インターネット上ではありますが色々と調べている最中です。
よく分かりませんが医療業界というのはサービス業に分類されるのでしょうか?
私(◇▽さんのこと)の考えでは「医業は医業であって、何にも分類されない」という感じですな。
個人病院では「医者=経営者」であることが多いわけですが、だからと言って病院の先生が金を儲けることしか頭にない
他の一般企業の経営者と同種とは考えたくありませんです。
テレビドラマで不治の病の患者が「先生!助けてください!お願いします!!」というのはよく見る光景ですが、
やはりああいった感じなんですな。一般人の我々にとって医者というのは「特別な能力を持った人」であって、
最後は先生に頼ればなんとかなるもの・・・という思いがあります。
このへんは学校の先生なんかも同じです。教師や医者というのは我々から見れば「聖職」でありまして、
一般企業のヘッポコ社長なんぞらと同じ考えを持った人種とは考えたくはありません。
>どんな要求を持っているかによって「その人が考えているサービス」というのが違ってきて、
全くその通りであります。人によって「サービス」に関する考えは様々。
例えば中年のおばちゃん方にこういった考えの人が多いようですが「何でも良いからただ安ければ安いほど良い」という方々もいます。
また、身障者の方々にとっては値段がどうこう言うよりどれだけバリアフリーに気を遣っているか、が問題となるでしょう。
また私のように、「ガソリンスタンド論」でも書きましたが「ゴチャゴチャ言わないのがサービス」と考える人もいます。
しかし、経営者というのは自社の社員をどんな目に遭わせようと「客に尽くさせるのがサービス」と単純に考えているフシがありますな。
>どこかのお店で物を買うという消費行為は、金銭に対する対価として商品を受けとることになります。
以前にも書いたことがありますが、私の考えでは物を買うという行為は「単に物と金を等価交換するだけ」のことであって、
金をもらう側が必要以上にこびへつらうことはない、と考えております。
売る側がヘコヘコし、買う側が威張っているような今の社会では「金崇拝」・「人命より金が大事」という風潮になりかねません。
なりかねませんというより既にそういう風潮になってしまってますな。
>受付時間終了間際に来て「検査できないのか」等々・・・といっている人達にも>通じますよ。
>ある知り合いの開業医は「受付時間終了数分前からナンバーディスプレイにして登録してある人しか出ないよ」と言ってました。
あまり受け付け時間にこだわるのもお役所的でどうかとも思いますが、やはり受付時間は受付時間であって、
来院する側もそれは最初から分かっていることですな。
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◇▽さん、上手い語り口でっせ。
投稿者---ナースのおばちゃん(2002/03/16 23:25:29)
その絶妙の語り口は毎回楽しみでございますゾ!
>ただブーブー言っているだけのコラムに
いや、アタクシは違うと思って読んでおりますZO!
>個人病院では「医者=経営者」であることが多いわけですが、だからと言って病院の先生が、金を儲けることしか頭にない
>他の一般企業の経営者と同種とは考えたくありませんです。
そりゃ、そうですけど・・・。これもまた◇▽さんの考え方ですな。考えたくないという部分を我々医療従事者は触れなければならない
訳でして、結局最後は「医者も患者も人間なのよね」ってことになるんですな〜。
開業医(かかりつけ医師を強調している人々の職能団体)なんてそんな人だけだと思っておいて損はないですぞ。
勤務医だと自分の思うように出来る部分とそうでない部分、開業したらしたでリスキーな事は必ずついて回るというけれど、
その2つを天秤に掛けて彼らの人生観とも照らし合わせて“一国一城の主”になる方をchoiceしたのでしょう。
医者の開業とて、自分で会社を起こす人と何ら変わりはありませんぜ。
数年前まで大学病院の医局に属しつつ勤務医を続けていたドクター友達はハッキリ言ってます。
「勤務医の時よりは良い生活をしたい」ってね。
金儲けしか頭にないその辺の会社の経営者と同じですわヨン!認めたくないかと思うけど、これ現実ですの、オホホホ!
アタクシなんて驚きもしないけどね。むしろ人間くささが出ていて良いと思うけどね。
善意を建前にしてるよりはね。だって医療も消費行為だもの。だからサービス業だって言われるのよね。
>一般人の我々にとって医者というのは「特別な能力を持った人」であって、最後は先生に頼ればなんとかなるもの・・・という思いがあります。
それは、ちょいと改めた方が良いかも・・・。確かに特殊な能力は身につけていると思いますが、特別ではないと思います。
(転載部分はこれにて終了)
〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓
サービスとは利用者の希望・要望・無理難題を全てかなえることではない!
という事をここで強調しておきたい。
医療はサービス業であるという考え方が本当に正しければ、医療従事者を志す人々が学ぶ基礎教育の段階で
人間教育がなされるはずである。
医師や看護師だけでなく“いわゆる有資格者になりたい人達”に対する学校教育は“試験に合格する為の勉強”をする所であり、
サービス業に従事する者がその基礎を勉強する所になってないなのが現状である。
個人的には「医療はサービス業でなく独立したもの」と思っていたので、周りが「患者様」とか「サービス業だ」とか
言っていることに対して多少なりとも抵抗と違和感があったことは事実だ。
それは、たぶん日本人独特の文化とでも言えば良いのか、自分の意志に反していても周りに同調しておくと目立たない…という
雰囲気を好まなかったからだと思われる。かと言って、別に日常業務に支障があった訳でもなく、
私自身の内面ではズッと違和感を持ち続けていただけのことなのだ。
“患者様という表現方法のみ”をアピールしていること、サービス業という“言葉を使っていること”だけで満足しており、
中身はなくとも「患者さんをお客様扱いしている、サービスの良い病院」
という戦略の1つであったのだ。
この“患者様という言い方”に関してはこの「雑感とトピックス」23番目に追記して書いてある通り、
実はとても失礼であるとも知らずにいる人の何と多いことか!!
看護師として元気で働いていた時に、医療はサービス業であるという考え方に少しの抵抗があったのは前述のような現状と経緯を
ふまえていた為である。しかし、ここ数年間の度重なる入院生活において、それは確固たる信念へと変化していったのだ。
医療が本当にサービス業なら・・・。
◎大部屋でとても大切なムンテラ(ドイツ語でMundtherapieと表し、病状説明のことを意味する略語)をする医師
◎患者に背を向けて、自分は壁を見てしゃべる看護師
・・・など、患者生活各編において、辛辣な表現を折に触れてしてきたことなどあり得ないのだ。
しかし、実際は「こういうのが存在するのも現実なんだ」と改めて感じている次第である。
もう1度結論を書いておくが『医療はサービス業でなくなります!』
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平成14年5月17日〜インフォームドコンセントの問題点・その2〜
「患者の願い」はいろいろ様々で、ワンパターンに1くくりに出来るものではない。
「えっ??」と驚くような要求を突きつけて来る患者もいた。
多用な価値観が氾濫する世の中だから、既成の基準で考えるのは間違いである。
「患者の願い」の内容それ自体は色々でも医療機関や医師に要求することに関してはある程度は分類出来るようだ。
つまり医師や医療機関をを選ぶときには個別の基準があるということ。
料金がやすい、安心できる、親切である、共感してくれる、納得できるような情報提供をしてくれる、技術がしっかりしている等々。
「医者の願い」も千差万別である。「財産の大きさが幸せの指標である」と考える医者はただひたすら金儲けに走るし、
手術することが喜びの医者はバンバン手術をする。それを大胆に分けてみると、医者の医療行為の動機は
1.自分のため
2.患者のため
の2つに分類される。
医療は患者のためのものでありながら1が厳然と存在すること自体に問題の1つがある。
企業の営利主義と社会的役割の問題と共通する。
1と2が対立するものでなく共存できるなら問題はないのだが、果たしてそういうことは可能であるのか、そこが問題である。
医療行為の動機が2の患者のためであれば問題はないかというと、そうでもない。
医療機関をを訪れる患者の「願い」をそのまま叶えてやることが本当に「患者のため」なのか?
説得すべきだというが、説得しても聞き分けがないときはどうするか?
「患者のため」と「患者の願い」とのギャップが医療の問題その2である。
問題その2は、患者の「自立」と「依存」をどうみるかの問題である。
これはインフォームド・コンセントとパターナリズムに置き換えてもよい。
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読者の皆さんは、この“自立と依存”についてどのように考えているだろうか?
今の時代、親身になって相談できるところなどあり得ないと考えていいのだから、
自己責任を患者に押しつける・・・という言い方はともかくとして、氏が言っている内容そのものは決して間違ってないと思うのだ。
私は今まで患者としてではなく、看護婦として医療を提供する側にいた訳であるが依存心が非常に強い人に何人も出会ってきた。
その度にこちらもやる気を削がれてきたのだが、印象に残る言葉があり
「ドクターやナースの言うことを聞いても治らないものは治らない」という一言を言われてからは、依存心の強い人だけでなく
患者さんの方から要求があるまで待てるようになった。
何かしなくては・・・と思ったからかどうかは別として、患者さんの方から質問があるという事はその事に対して疑問なり
何なりがあるからだろうし、こちらも答える義務があると感じたものだ。
しかし依存心ばかりが先行し、自立する気など全くないとしか思えないし主治医も「そこまでする必要もないよ」という人には
あえて指導らしきことはしなかった・・・という記憶がある。
疾患と闘っている人に自立なんて厳しいことを・・・と言いたい人はどんどん反論してもらいたい。
そういう時期だからこそ自立心が必要なのだ。
親族でも友人でも、周囲で色々と手伝ってくれる事は有り難いことだが、疾患と闘うこと自体は誰にも代わってもらえないのだ。
本当に追いつめられた時、闘うのは自分なのである。
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平成14年5月26日
〜「危ない医療から身を守るための20のアドバイス」と「医者にかかる10箇条」〜
[危ない医療から身を守るための20のアドバイス]
01) 治療したら必ずよくなるという幻想を捨てよう
02) 診断基準や治療法は病院や医師によって違うことを知っておこう
03) 医師のうでまえは、ピンからキリ
04) 情報収集には、医大図書館、インターネットなども利用しよう
05) 医療情報は玉石混交
06) 名医の評判、ランキング本はあてにならない
07) 患者会や市民団体は情報の宝庫。積極的に活用しよう
08) 医師に聞きたいことはあらかじめメモしておこう
09) 複数の治療法の説明を医師に求めよう
10) 薬の副作用、手術の後遺症をしっかり聞こう
11) 質問をうるさがる医師は見限ろう
12) 説明をうのみにしないで。医師の誘導に気をつけよう
13) セカンドオピニオンは、今日の常識
14) 検査データやレントゲン写真は患者のもの。臆することなく借りだそう
15) 患者として自分の直感を大事にしよう
16) 不要と思う検査、手術から逃れよう
17) いきなり5種類以上の薬を出す医師は、要注意
18) 挨拶しない医師、患者の顔を見ない医師、患者を見下す医師はやめよう
19) 入院後、転院するのも「患者の権利」
20) お任せ医療よ、さようなら。自分で治療法を選ぼう
「いい治療わるい治療の見分け方」<公開座談会の記録>(2000年4月30日発行)より
発行:医療消費者ネットワークMECON、医療を良くする会、イデアフォー、子宮筋腫・内膜症体験者の会たんぽぽ
問い合わせ先
医療消費者ネットワークMECON:Tel/Fax03-3332-8119
たんぽぽ:Tel045-252-6228Fax045-252-6287
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医者にかかる10箇条〜あなたが「いのちの主人公・からだの責任者」〜
http://www.hi-ho.ne.jp/cedie/m/10.html
この「医者にかかる10箇条」は、インフォームド・コンセント(医師による説明と、患者の理解・選択にもとづく同意)を
患者の側から普及することを願って作られたものです。
患者が自分の望む医療を選択して治療を受けるには、
まずは「いのちの主人公」「からだの責任者」としての自覚が大切です。
そのために、どのような心構えで医療を受ければ
いいのかを10項目にまとめたものです。
(1) 伝えたいことはメモして準備
(2) 対話の始まりはあいさつから
(3) よりよい関係づくりはあなたにも責任が〜相互努力・求めるだけではダメです〜
(4) 自覚症状と病歴は、あなたの伝える大切な情報
(5) これからの見通しを聞きましょう
(6) その後の変化も伝える努力を〜どちらも大切なコミュニケーション〜
(7) 大事なことはメモをとって確認
(8) 納得できないときは何度でも質問を
(9) 治療効果を上げるためにお互いに理解が必要〜お互いに最善をつくしましょう〜
(10) よく相談して治療方法を決めましょう〜治療の効果や危険性もよく相談しましょう〜
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平成14年6月11日〜インフォームドコンセントの問題点・その3〜
個人の自立が叫ばれ始めたのは産業革命以降のヨーロッパからである。大量生産は人々を物質的に豊かし余裕が生まれた。
自立とは余裕のある人々の間に生まれた発想である。
他人に指図されて生かされるのではなく、自分の人生は自分で決断し、自分で切り開いていかなければならない。
そうしてこそ人間は生きる価値がある。この「自立」の考えが基礎になってヨーロッパの人権思想は発展していった。
それがアメリカに渡り、医療の分野で踏襲されたのが、インフォームド・コンセントである。
インフォームド・コンセントは患者を「自立」した個人とみなし、患者の自己決定を何よりも重要視する。
医者は患者が自己決定できるように情報提供をするのだとするのがインフォームド・コンセントの考え方である。
インフォームド・コンセントはすでに絶対の真理だといわんばかりに、現代医療の侵すべからずの基本理念になっている。
世界医師会もWHOも規範は全てインフォームド・コンセントを基準にしている。
厚生省も日本医師会も、患者団体も大学の研究者も、インフォームド・コンセントの要求を満たしているかどうかという点から発想は始まる。
そんな中で、ただ1人、インフォームド・コンセント絶対視の問題点を説いているのが私である。
詳細は『インフォームド・コンセントは患者を救わない』洋泉社を見ていただきたい。
医療というものは、そもそも、病気の弱者を、余裕のあるものが救ってやるというところから始まった。
野生動物の世界では、自立できないものは見捨てられ生きのびることはできない。ただ人間だけが自立出来ない患者に寄り添い支える。
自立できない子供に対し、親は子供のわがままを許すことなく、子供の意に反してもしつけを怠らない。これをパターナリズムという。
インフォームド・コンセントが出現する以前は、洋の東西を問わずパターナリズムが医療の指導理念であった。
ヒポクラテスの考えの基本もそこにあるし「医は仁術」も赤ひげもそこからきている。しかしインフォームド・コンセントは、パターナリズムを、
患者の自立を侵害するものだとしてことごとく排除しようとする。個人の自立には確かにこのうえなく貴重なものである。
インフォームド・コンセントの間違いは、自立を重要視するあまり、皆がすでに自立しているようにみなすところにある。
自立には価値があるが、自立を達成できない人は「それを目指す」のであって、その人に価値がないという事ではない。
親や先生に「依存」しながら、人は「自立」していく。
自立に価値を置くならば自立を達成するために「依存」することにも価値を置かなければならない。
「人」という字は人と人とがもたれ合うのが人だということを表している。
「依存」することを否定したのでは、人間は生きてはいけない。
そもそも「自立」とは相対的なものである。完全に「自立」した人などは無人島にしかいない。
「自立」と「依存」の2つはあくまでバランスの上にある。
この「自立」と「依存」バランス関係は、患者と医者においてだけでなく、親と子や、先生と生徒、さらには顧客とメーカー、
市場と行政などの関係においても言える。現代社会は、自立の原理と依存の原理のせめぎ合いということも出来る。
私にとっては、家庭内暴力やいじめなどの近頃の社会問題の多くは、自立の誤解に関係しているように思われる。
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最後は哲学的な感じがしてきたけど、何回も何回も読んでいるうちに「ふむふむ」と思い始めた。
臨床現場に復帰したらこのように文化的な活動をする時間はじはらくないだろうから、今のうちに
どんどん活字中毒になってみたいと思っている。
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平成14年6月11日〜インフォームドコンセントの問題点・その4〜
自立には価値があるが、それは人を「自立」した存在とみなすことではない。
自立には
1.経済的自立
2.社会的自立
3.肉体的自立
4.精神的自立
・・・などがあり、その全てが備われば「自立した個人」といえる。
赤ん坊が莫大な遺産を相続すれば、確かに経済的には「自立」するが、それを「自立」した存在とはいわない。
子供が学校で勉強するのはまさに「自立」のための習練である。
5教科だけでなく体育や音楽、課外活動も指導されるのは、総合的に「自立」を達成するのが目標だからである。
就職するために大学や専門学校に通うのは、就職して経済的・社会的自立を獲得するためであろう。
障害者が本を出版してミリオンセラーとなった。経済的にも社会的にも「自立」を果たした。
しかし障害者は如何にしても肉体的には「自立」することは不可能だ。
しかし、彼は決して卑屈になることなく、自分で出来ないことは他人に手伝ってもらいながら頼もしく生きている。
逆に健常者には気がつかないことを教えてくれる。自立を目指すとはこれなのだ!
全ての面で自立を達成することが必ずしも必要条件ではない。自立のスタイルは決して一様ではない。1人1人違っていてもよい。
自立の4つをあげたがそれらは単に4つの側面であって4条件ではない。
4つの側面の中でも、もっとも曖昧もことしてはっきりしないのが4の精神的自立である。
それでいて、この問題が家庭内暴力やひきこもり、醜形恐怖、拒食症、カルト的宗教の蔓延など、現代の社会問題と大いに関連している。
精神的自立の条件を考える前に、赤ん坊から大人になるまでの精神発達の過程をざっとみてみよう。
乳児期には信頼感が育つ。母親が忙しくても、まめに授乳していれば、母親がいなくても赤ん坊は必ずくるはずだと安心していられる。
この時期に虐待を受けると、将来に渡って衝動的で情緒不安定になる。
幼児期には何にでも興味を持つ。自分でどこへでも行こうとし何でもつかんでみる。
この時期に「だめ、だめ」と行動を厳しく制限すると自発性が損なわれる。
学童期は集団の中ではじめて自分を客観的にみるようになる。さらに集団の中で自分を認めてもらいたいと願うようになる。
思春期には誰もが自意識過剰で自己中心的になる。世間はわかってくれないと孤独になったり、無性に共感する仲間を求める。
その時期を乗り越えると、夢が育ち、信じる道をまい進するようになる。挫折を体験する中で社会と自己との関係を学ぶ。
その過程で自己のアイデンティティーが確立していく。
では、自立の条件はどうなるだろう。もちろん精神的自立も相対的なもので完全はないということはいうまでもない。
独断と偏見を恐れず、あげてみよう。
◎安心感、精神的余裕
まず安心感があげられる。精神的に余裕があるということである。
経済的に自立することなども余裕につながるし、誰か依存できる人の存在も安心感につながる。
誰かを信じられるということは、赤ん坊から大人になる過程では欠かせないが、
いずれ母が死に、周りに信頼できる人がいなくなっても、精神的に自立した人間は自立した活動を続けられる。
精神的に余裕があるからである。
逆に、急にガンを宣告され動転し精神的に余裕がない状態では、普段は自立的な人でも自立した行動をとれなくなる。
いつまでも自立できない人は、不安から逃れるために依存する人を求めたり宗教にのめりこむ。
しかし、そういう人に「よしよし」とやさしくするだけでは自立はできない。
安心感や精神的余裕は「自立」のための必要条件であるが充分条件ではない。
◎自発性、意欲
次にあげられるのが自発性である。意欲や事物に対する欲望といってもよい。意欲があるから、努力してものごとを成し遂げることができる。
過保護で、自ら求める前に全て与えられて育つと、何事にも意欲がなくなる。それがスチューデント・アパシーである。
食事を準備する意欲がない。食べに出かける意欲もない。
何もする気が起きず、腹すかしてもそのまま寝ている。衣食住や知識、コミュニケーションなどに
対する基本的な意欲は、常に満たされ続けていたのでは育たない。
意欲を育てるためには満たされない、足りないという飢餓や渇望が必要である。
人間本来の欲望に対する意欲が育たないと、意欲は人為的な方向に刺激されやすい。
高校生のうちから女性と同棲などして性欲が満たされ過ぎると、女性を求める意欲がそがれ、
やがて同性愛や異常性行為に走るようになる。
◎認知力
自分を冷静に見つめる力を認知力という。社会との接点を持っていれば、その中で自分の姿を客観的に見つめられるようになる。
社会生活を送る中で、自分の思い通りにならないことも経験し社会の仕組みを理解する。
自己チューは思春期の特性であるが、いつまでも思春期を卒業できない人もいる。過保護で挫折体験のない人たちである。
挫折体験もなく順風な環境で育った人が、突如挫折を強いられると対処できなくなる。
それが対人恐怖や醜形恐怖、拒食症などの症状として現れる。自己を冷静に見れないのである。
拒食症には食欲に対する意欲の欠如も関係している。
◎自我、アイデンティティーの確立
自分は何をしたいか、あるいは、なりたい自分という自己イメージがあるということを、
自我があるとか、自己アイデンティティーを発見したという。難関を突破して大学に入学したり、一流企業に就職したのはよいが、
5月になると何となくこれでよいのかという疑問が沸き、自分というものがわからなくなる人たちがいる。5月病である。
これは、これまでなりたい自分だと信じていたものが「とらわれ」であったと気がついたのである。
それを克服できれば「自立」の道へ一歩踏み出せるのだから「とらわれ」に気がつかない人よりも先に進んでいるといえる。
◎知識、コミュニケーション能力
これらも精神的自立に不可欠である。これらを体得することは相対的なものだが、一定の段階までは自立の条件に含まれる。
本を読めない人、他人とコミュニケーションができない人が、精神的に自立しているといえるはずはない。
依存心の強い女性は特にこの部分に問題があることが多い。
自分の要求を言葉で相手に表現することも出来ずに「どうして分かってくれないの」と相手を責める。
これらの自立の条件は精神的な側面からみたものである。
一般的にはこれらに加え、経済的、社会的、肉体的「自立」を達成してはじめて「自立」した個人というが、
精神的「自立」さえ達成されれば、他の側面はおのずと達成されるものであり、必ずしも必要ではない。
障害者もリストラによる失業者も、精神的に「自立」しているなら自立した個人ということができる。
繰り返すが自立とは相対的なもので、目指すべき目標なのであって、絶対的「自立」に価値があるのではない。
言いかえれば自立を果たせない子どもや病人は価値がないのではなく自立しようと努力しない態度こそが問題であり、
自立の価値を否定するものであり、そのような態度や考え方は人間の尊厳を侵すものなのである。
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以上で名取春彦氏の著書『インフォームドコンセントは患者を救わない』を教科書にしたお勉強は一旦終了とする。
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平成14年9月6日〜インフォームドコンセント・日本人の大きな勘違い〜
今回、ある常連様からメールを頂き、読者投稿の中に埋もれさせるには勿体ないと思ったし、
書いてある内容は的をえているので、多くの方に見て貰う機会を作りたいと思ったので、こちらでも紹介することにした。
昨今の日本人の傾向として「権利意識が異様に強く、そういう人間に限って義務を果たしてないのに権利を主張する」という特徴を
見事にとらえているので是非ともご一読頂きたい。
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最近、日本ではアメリカ型の医療訴訟の実態を真似ているのか、人権派弁護士を自認する人々が医療110番を設置したり、
様々な広報活動を通して医療ミスとして賠償の取れるようなケースを探して訴える活動をしています。
患者やその関係者にも簡単に分かるような事故やミスは、一般には病院側も認め密かに賠償を支払って示談にしていくので、
あまり表に出る事は少ないでしょう。
裁判になったり、報道されるようなケースの多くは、病院側がミスを認めなかったり隠蔽しようとして失敗したケースが主になるでしょう。
命を救うという前提で行われる医療では、医療抜きでは死という結末を誰しもが予測しえて、その中で行われることです。
一時的にでも死を免れ、延命できればという医療の目標があり、時にはその処置、医療自体がかえって自然経過で死を迎えるより
危険を伴う性質のものも沢山存在します。
分かりやすい例では、内臓破裂などの体内の出血では、放置しておけば確実に死亡しますが、
手術で開腹して治療を試みると「うまく行けば」止血に成功して一時的に命を救うことが出来ます。
しかし手術の結果止血が不可能などの状態ではかえって手術をすることにより命を縮めてしまう事もあります。
また未熟児医療の分野で見られるように、放置しておけば助からない命も人工的操作で助けることは出きる場合でも
後遺症を残さずには成功が難しいものもあります。
癌の治療などでも、放置しておけばある時期確実に死に向かったり、あるいは経過的に痛みなどの為の多大な苦痛が予想されて、
それを取り除くための医療が行われますが、治療自体が命を縮めたりすることが不可避なものも稀ではありません。
医師の数が少なく単純な医療構造の中では、確実に死に至る経過を変えうるのはその医師だけに限られますし、
医師の実力の範囲で最善の策が施されていれば、誰しも諦めざるを得ずミスなどと言う概念は起こってこないものでしょう。
例え医師の能力が低くても、それ以外を利用できなければどうしようもない訳ですから患者も諦めざるを得ません。
日本の医療は、このような個人医師が助けられる範囲内で助けていれば患者は納得するという社会的土壌で、
医師の権威や絶対信頼性という中で組み立てられてきたように思います。
また、医療には金がかかりますが、経済的な裏付けのない患者は金のかかる医療が受けられないという環境では、
患者は経済的な面で納得して医療を受けずに諦めていかなければならない状況も起こり、金銭を度外視して患者の治療に当たる医師は、
その内容がいかに不充分なものでも感謝して患者から受け入れらていたという面もあります。
患者が医師を選んだり、治療を選択できないという状況のままに日本の医療は育ってきて、
それが医師と患者の暗黙の信頼性の元になっていたと思います。
無医地区あるいは医療過疎地では、今でもこのような医療信頼の原点は残っていると思います。
日本の個人開業医の規模の診療所は、このような医療過疎地区では、絶対的な信頼関係と、
患者の医師に対する意識を維持できていると思います。
そして、日本の1医療機関で診療を完結させるタイプの閉鎖病院システムは、
このような患者の医療に対する希望やその目標によって選定されますが、内容は1医師が
そのシステム内の施設の範囲で患者の要求を満たせば良いという思想原点に立っている為に、
患者の医療選択の余地のない医療が施されてきているのでしょう。
近代医学発展の原動力になり世界をリードしてきたアメリカ型の医療では、医学医療が高度化して一般医の能力を超えてきた時点で、
一般医の上にさらに一般医にも患者にも明示された制度で特殊治療やより高度な診療を行う高度な資格を持つ専門医が設定されました。
日本とは基本的に違うオープン型病院というシステムの中で、これらの専門医が一般医の紹介や補佐的な立場で、
その専門医の仕事を完結できる規模の病院内やあるいはその付近に開業するという形で配置されて、
機能的な一般医ー専門医関係が出来上がっていきました。
オープン病院システムでは、患者の直接診察治療にあたる医師は一般医も専門医もすべて病院からは経済的に独立しており、
日本のいわば個人開業医にあたる医師たちです。
この中では、専門医は一般医からの紹介という医師によって選択される立場であり、専門的技量に見合う患者の数などによって、
その経済的な競争原理でより専門的な患者が集められたり、見合わない場合はより低くても一般医に近い技術範囲に広げたりして
自然に適正数が病院近辺に配置されるような仕組みが出来あがります。
このようなメカニズムで専門医の実質の専門技術性が自然に高められ信頼性を獲得していきます。
アメリカ型の医療の発達段階では、日本に見られるような健康保険や様々な保険システムはありませんでした。
患者が病気や怪我をしたときには、すべて多額の医療費を支払わなければなりません。
経済的な余裕のない人々は原則的に医療を受けられないシステムなのです。
古い日本の医療構造にもあったのでしょうが、お金がなくて医者にかかれないという状況が今でも存続しています。
そして政府行政などの医療援助は、貧困者に最低限の医療を保証するという基本的概念があります。
このような医療環境の中では、患者が自分の経済的な状況その他で医師や医療内容を買わなければ
ならないという患者側の思考決定が絶対的に必要になります。
一般医もその治療提示の際に、どの程度の治療が可能で、専門医もどの程度の援助を頼み、
さらに1つ1つの治療の効果予測や副作用の危険性、さらには経費も含めた相談の上に患者の意思決定を促さなければなりません。
また、経済的な理由で医療を受けられない人々も、与えられる最低限の治療でも仕方なく受け入れる土壌があります。
これは医師や病院の責任ではなく政府行政の役割で、医師の経済活動にはあまり影響を与えません。
オープンシステム型の病院関連の専門開業医は、自分の専門技術に値段をつけて患者やその主治医たる一般医に売り込むわけで、
同じ領域でも技術ー値段で様々な提示をしながら競い合っているわけですから、
治療の選択もかなり広い範囲から決定しなければなりません。
また、専門医も技術を提示する上でその予測結果と危険性、不首尾に終わった場合の免責などを患者に提示しなければなりません。
それにより患者が決定選択して診療契約を結ぶ形が出来上がります。
患者が様々な医療のコストパフォーマンスを考え、提示された多彩な医療商品の中から選択しなければならないし
選択の自由度が高いシステムの中での商品にあたる医療の説明と契約。
これがアメリカ型の医療におけるインフォームドコンセントの内容なのです。
患者の「医療の自由選択」の上で、患者の同意契約として位置付けられるこの内容には、
患者が厳密に医師の治療方針に従う義務も含められていますし、医師の診療の中で予期せぬ結果になった場合の
医師の責任範囲が明確化されていて、いわゆるアメリカ型医療訴訟の原点になっているものです。
アメリカ型の医療訴訟の形式が日本に入り出して、医師側は日本にもインフォームドコンセントの
方法論を「説明と同意」等と翻訳して取り入れようとしてきました。
しかし、日本ではインフォームドコンセントと言っても、主に一方的に医師側が免責事項を記載して患者に署名させたり、
患者に形式上の説明をした事を残して単純に医療訴訟に対する防衛という意味しか無いような運用がされているようです。
そして、さらにこのようなインフォームドコンセントをしたという書類の効力は裁判によっても軽視され、
証拠免責にはならないという判断が下されている事も稀ではありません。
アメリカ型の医療におけるインフォームドコンセントは、同じ建物に開業する同種の科の複数の開業医の中から
患者が医師を選び十分な説明を聞いて、医師の治療提言と患者の納得がいかない場合は次の医師にかかり、
ダブルオピニオンといって夫々の医師の意見を比較できる環境で、
患者が納得して患者主導で医師に任せること決定するという過程で必然的に発達してきた手法です。
しかし、日本の場合は閉鎖病院システムで、ほとんどの場合病院の目的科に複数の医師がいたとしても
患者に医師選択の自由はありません。
また、検査記録を含むカルテは同一のものを使用して複数の医師がある程度統一された方針で診療を進めるのが普通で、
医師個人の独自性によるインフォームが出来にくい面もあります。
さらに日本は健康保険による診療制限の為に、ある程度画一的なインフォームしか出来ないという問題もあります。
結局は、患者が同意するという積極的決定権は無いまま一方的な診療条件に同意するしかなく、実質的に選択拒否、
あるいはベターな診療の選択という選択肢もないままに免責事項だけに同意させられるという状況が起こっているのです。
また、アメリカ型のインフォームドコンセントでは1度同意して診療が開始されると、
患者にもインフォームドコンセントの内容に従った患者の義務も生じています。
すなわち、医師の提案に完全に患者が従わずに患者自身が不利益を蒙った場合は、
医師が免責になるという厳しい患者の指示への服従義務も課せられるのです。
このようにインフォームドコンセントとは言っても、内容やその位置付けや作用は
アメリカ型の医療と日本の医療では全く異なる様相を呈してくるのが当たり前なのです。
日本での医療ミスや医療事故の認定の元になっているアメリカ型の医療訴訟事例のような掘り起こしは
アメリカ型の医療システム下のように容易ではありません。
アメリカ型のオープン病院システムでは、医師はすべて病院から独立した経営体ですし、
病院はそのサービスを医師と患者に提供する立場にあり責任範囲が明確になっています。
検査ミス、入院中の事故その他は患者と共に医師に対しての賠償をする立場として、利用医師対病院という構図もあります。
患者側はインフォームドコンセントに反する不利益には医師に賠償を求めますが、それが病院側のミスに関連してくる場合は
医師は病院側の責任部分を追求するという場面もうまれます。それにより患者側からの立証が比較的容易になっています。
しかし、日本の閉鎖病院システムでは、医師が病院内で起こるすべての監督をし、
責任を持つべき立場として規定されているので訴えも一般に医師を含めた病院総体に対して起こされるのが普通です。
このような中では、医師も病院システムも全体として組織防衛的に反応しますから、立証は容易ではありません。
多くのミスは隠蔽される方向に進まざるを得ないでしょう。
アメリカ型の医療システムのように責任範囲の対立構造が決して生まれてこないのです。
また、日本の国民皆保険制下におけるほぼ画一的な制限診療下では、
インフォームドコンセントとは言っても、医師の提案できる診療もあまりバリエーションも無く、
そのような診療に対して起こされる訴訟に対しては、医師全体の医療に対して起こされる問題であることも多くなります。
ほとんどの医師が同じような医療をしていかなければならない為、
このような訴訟自体がすべての医師に同一問題を投げかけることになり、それを患者側に立って立証に協力すれば
我クビを締めるのと同じ状況になることも多いのです。このようにして日本の医療界には緊張感が欠如し、
様々なミスや事故を内在させながら育っていると考えられます。
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