3月9日(金)〜4回目のOP日〜



3/9(金)
その後はテレビを見たり本を読んだりしていたら、いつの間にか朝になっていた。
朝の検温は“卒後4.5年目と思われるいつも元気なprettyナース”だった。
朝から相変わらずで「おっはぁ〜!」という定例化した挨拶をし、これまた定例化した排泄回数を報告した。
体温は37.0℃、血圧が120−70前後だったと記憶している。
とにかく生理中でなければ良いや・・・という感覚なので、他のことはどうでもいいんである。

日勤は“卒後1年目のprettyナース2”だ。
早々とAM8:30過ぎにこの病室にやって来て、今日1日の流れをおおまかに説明していった。
OP GOODS(バスタオル、T字帯、長方形の紙オムツ1枚)をナースに預けたら、OP室に着ていくそれ用の
服みたいなもの(OP着という俗称)を持ってきてくれたので、サイズがちょうど良いことを確認した。

それからしばらくして点滴が始まったのだが、私の血管は出にくいので先輩ナースに交代して刺してもらった。
この先輩ナースは、私が左膝のことで1番最初に(今回の最初と同じ産婦人科メインの混合病棟)入院した時
に、そこの病棟に勤務していたと言う不思議なめぐり合わせである。
そして今回整形外科病棟のこの有料病室に入って間もない頃、このナースに挨拶をしたら「わずかに」では
あるが、産婦人科メインの混合病棟に入院していた私の事を記憶していたようだったのだ。2月から勤務交代
で整形外科病棟に勤務することになったらしい。

何とか左手首(専門用語で手関節)付近に太い針が刺さってから手術室に入るまでの間に、500mlの点滴が
2本目に突入しているのがベストだというのでそうなるように滴下(落ち具合)を調整していた。
時間は忘れたが点滴が開始される前後に、2/26まで入院していた産婦人科メインの混合病棟の婦長さんが
「今日、OPだって聞いたから」と言って様子を見に来てくれた。
昼食が配膳される時間になると「私もお腹が空いた」と感じながら、涙を飲んで(?)配膳車を見送った・・・。

そうこうしているとまたたく間に時間が経過したように思った・・・。
手術室から呼びだしがかかったようで、まずはプレメディ(前投薬といって麻酔をかけやすくする為の筋肉注射)
が行われ、その数分後にストレッチャー(患者を横にしたままで運べる運搬車)に自ら乗った。
この時点で既にプレメディの効果が出てきており、ナース達に「プレメディってやっぱお薬なのねぇ」などと余裕を
かましていたら、頼んでないのに(?)病棟婦長も送りだすのに来ていたみたいで「すっかり素人になってますね」
と余計なことをおぬかしになられた。
そして“卒後1年目のprettyナース1と“卒後2年目になっても私の担当になってしまった不運なナース”・・・、
この若い2人に連れられて龍宮城ではなく手術室に向かった。
大して大きくない病院なので間もなく手術室に到着し、前夜病室にやって来た人も含めたOP室のナース達に
引継ぎが行われた。

ここからは本当にOP室の中なので入ったことがある人以外は想像で読んでもらうしかない。
この病院のOP室に入るのは今回で4回目なんだけど、実際にOPが行われる部屋は3つあるらしい。
そのうちの1つに入ったら既に空調は整えてあり、ほとんど全裸に近い状態でも寒さは感じないようになっていた。
この時点での私は「OP室の中専用のストレッチャー」に乗せられていたのだが、ここでまた移動が行われて
手術台にのることになった。ここまで来たら、いくら私でもまな板の上の鯉になってしまう。
天上には無影灯(むえいとう)という電気があり、より一層OP室だという雰囲気をかもし出していた。
右手に血圧計が巻かれ、胸には心電図の電極が3〜4ヶ所貼られ・・・、周りでは私の手術に立ち合う人達が
ざわざわするのを極力避けつつ動き始めている。

気付いたら「〇〇さん(私の本名)麻酔科です」と麻酔科医と思われる人から声をかけられた。
私が看護婦だと知っているらしく、専門用語を使って簡単な説明が行われた。
私はプレメディの効果で少しだけど頭がボーッとしながらも「聞かなくちゃ」と思って必死に聞いていた。
麻酔科のドクターと思われる人は「まずエピドラ(背中から針を刺してビニール製の細いチューブを硬膜外と
いう位置に留置し、鎮痛剤を持続的に注入出来るようにしたもの)からやります。そしてルンバール(腰椎麻酔の
こと)をやりますから・・・」というようなものだった。
「なるほどね」等と感心していたらアッと言う間に右を下にする格好にされて背部の消毒が行われた。

身体全体をエビのように丸くしてお臍を見るように・・・という注意を受けた経験のある人もいると思うが、
私にも同様の声かけがあったので、ナースに手伝われながらそのような体勢になっていた。
ちょうど背中から腰にかける部分が後方に反り出している、とでも表現したら分かりやすいだろうか。
局所麻酔がかけられたと思っていたら、既にエピドラ用のチューブが留置されていたらしく背中にテープが
貼られた後、再度付近の消毒が行われた。
エピドラチューブの少し下と思われる位置に再び局所麻酔がかけられ「痛たたた・・・」と言ってしまった。
「はい、少し押される感じがしますよ」と言われ、本当に押されたと感じていた。
それが腰椎麻酔薬を脊髄腔内に注入する為の針が刺さったというものだったらしい。
しばらくすると左足全体がしびれてきて感覚がなくなっていくのが自覚できた。
手術台の周りに居た数人のナースや麻酔科ドクターの手によって私の身体は仰臥位(仰向けのこと)に
なっていた。

いつの間にか今回の執刀医でもある整形外科部長のDr.Yや若ドクターIも周りに居た。
私の身体に布がかけられたり、消毒の準備が始められたりするような様子だった。
ちょっと待ってくれ〜〜!!
麻酔がかかって感覚が分からなくなってから・・・としつこく頼んでいたバルンがまだ入ってないぞ!
昨夜、術前訪問に来たナースにもあれほど言っただろ!
OP後の痛みだけでなく尿閉も嫌なんだよぉ〜!
慌てて「あのぉ、バルン、まだですよね!?」と言ったら、ナース達も慌ててかどうかは知らないが
バルン(尿の管)が留置されたらしい。私自身は感覚が無いので分からないのだ。
これって感覚があったら、さぞ気持ちが悪いだろうなぁ。
バルンを留置すること自体は感染の元にもなり得るので好ましくはないが、留置しっぱなしという訳でもなく
短期間だし尿閉になって“導尿されているのが感覚的に分かる自分がいること”の方が嫌だったのだ。

顔というか頭部全体の前に布があるので、顎から向こうは見えないようになっているので何が行われているか
全く分からない状態である。
下半身は麻酔が効いており感覚がない状態になっている。
手術に使用する機械の音がカチャカチャしたと思ったら、ドクターの「じゃあ、よろしくお願いします」という
声がスタートの合図となり手術が開始されたようだった。

まず最初に左膝関節内を洗浄・掻爬(そうは)するということで、関節鏡視下での滑膜切除術が行われた。
関節鏡で写し出される私の左膝関節内は“イソギンチャク”のような滑膜という組織が存在していた。
モニター画面で操作しているのが写し出されはするが、電気メスで焼却している以外は何をしているのか
見ているだけなのかはドクターにしか分からないとのことだった。

それらを掻きだしたり、あるいは病巣部と思われる左膝の内側あたりを電気メスで何回かに渡って焼却した。
どうやらこの部位は高校生のときに半月板損傷で受けた手術(左内側半月板切除)で取り去られた後に
出来た“再生半月”という組織があるみたいで、それが上下の組織を傷つけており、そこが病巣の根源かも
しれないという見解だった。
なるほどね、再生半月かぁ〜。執刀医のDr.Yいわく「今は半月板切除はほとんどやらないけど、昔のOP
だから取った(切除)したのかもね」とのことだった。
なるほどね、って感じかな。

腰椎麻酔なのでもちろん意識があることはドクター達にも分かっている為、時々説明を加えながらの手術と
なったのは言うまでもない。我ながら「ほほぉ〜!」という感じで聞いたり、見たりしていた。
しかし、プレメディの効果が最大限に達したようで、次の大腿部抜釘に移行する時には既にウトウトしていた。
いつの間にか大腿部の抜釘も終えられており「終わりましたよ」という声をかけられて、正気に戻ったという感じ
だったのを覚えている。そしてOP後のレントゲンを撮影したのも覚えている。

確か腰椎麻酔がかかってからしばらく時間が経ってからだと思うけど、悪寒・戦慄が始まっていた。
何だか寒いなぁ〜、としきりにつぶやいていたのを覚えている。
とにかく寒くて仕方がなかったんだよなぁ、ホントに。
まるで1人だけ北極にいるんじゃないかと勘違いする位の寒さだった。
とは言っても下半身は麻酔がかかっているだけでなく、OP用の滅菌した布がかけられているので、掛け物で
調節するって言っても限られちゃう訳よね。肩が寒いと言えば両肩にバスタオルが、首が寒いと言えば首の
付近にもタオルがかけられたりして「上半身だけ冬のエスキモー状態」になっていた。
あと電気毛布も使われてたっけな・・・。
この悪寒・戦慄はOP室から病室まで移動する時も、そして病室に戻ってからも数時間は続いていた。

さて無事にOPが終わって病室に戻るべく、整形外科病棟のナース達の迎えを待っていた。
迎えに来てくれたのは次の3人だったと記憶している。
1.本日の部屋担当でもある“卒後1年目のprettyナース2”→運搬時は私から見て右側に位置していた。
2.今回の入院も私担当になってしまった卒後2年目のナース→運搬時は私の左側に立っていた。
3.本日の準夜の部屋担当でもある“この病棟で最年長と思われるナース”
  →OP室からの申し送り(OP中の一般状態等の引継ぎのこと)を聞くために来ていた。 

ブルブル震えながらも病室に戻ったのは、確かPM4:30前後ではなかったかと思う。
病室で待っていた中の1人に、本日のもう1人の準夜でもある“去年の10月からこの病院に勤務し始めた
という、恐らく昭和41年生まれと思われる背が高いナース”の姿もあった。
ストレッチャーに乗せられた私が頭の方から病室に入れられた時、そのナースが「おかえり」と声をかけてくれた。
これがまた実に嬉しく、また何故かホッとするものであった。やはり緊張していたのかもしれない。
1人だけ北極状態の中でも、私の“毛の生えた心臓”にとても心地よく響いた言葉だった。
ただ1つの心残りは・・・。
悪寒・戦慄にさいなまれていた為、即席ギャグでお返し出来なかった事である。
悪寒がなかったら「よう、お主、帰ったぞ」とでも言っていたかもしれないと思うと、とても残念で仕方がない!?
それにしても嬉しかったな。


23時の巡視にやって来た“この病棟で最年長と思われるナース”にこのことを伝えて「あれはniceな発言だったと
そのナースに言っておいて下さい」とお願いしたら、23:30頃だったと思うが準夜勤務を終えて帰宅する前に
ソ〜〜ッとこの病室に立ち寄って「明後日、また来ますから」と言って去っていった。
私もその時間帯には悪寒がしなくなってきていたので、布団から少しだけ出した手を振りつつ「じゃあね」と挨拶し
ていた。うん、なかなかヨロシイ!

こうして私の4回目の手術日でもあった平成13年3月9日(金)は夜が更けていったのであ〜る。


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