濃い、霧の中。
ひとりの少女が立っている。
金色の髪が柔らかそうになびき、ゆっくりと彼の方を向いた。
翡翠の色の瞳が、悲しげに揺れる。
少女の輪郭がぼやけ、どんどん離れていく。
「待ってくれ。」
彼はその少女の名を呼ぼうとした。
だが、呼ぶべき名を、彼は失ってしまっていた。目が、さめた。
そして感じるのは孤独。
そして感じるのは、深い、喪失感。
彼の目には、涙。
「ここで、倒れていたのよ。わたしが見つけたの。」
彼の命の恩人。金色の髪と緑の瞳をもつ女、キャロルは、彼を崖の下へ案内してきていた。
「あわててスレイを呼んできて、あなたを運んでもらったのよ。どう?なにか、思い出せそう?」
彼、オスカーは、あたりを見回して、ため息をついた。
「悪いな。思い出せそうにない。」
「そう。……あそこから落ちたのね。よく助かったわね。」
さらり、と、キャロルの金髪が揺れた。
金色。金色の髪。あの、少女。
泣きたくなるほどに恋しい。
自分は、こんなに弱い人間ではないはずだ。
少なくとも、人前で泣き出したりするような人間では。
緑の瞳。金色の髪。どうしようもないほどの懐かしさ。
彼女が、欲しいのだと。
自分ひとりのものにしたいのだと、彼はようやく気がついた。
忘れられない記憶。
自分の名前すらも失っておきながら、忘れることのできない、恋しい少女のイメージ。
大切なのは、自分や少女の名前などではない。
少女の、存在、そのもの。
「オスカー?どうしたの?また、傷が痛むの?」
目を上げると、キャロルの心配そうな顔があった。オスカーは慌てて微笑みを作ってみせる。
「すまない。考え事をしていた。大丈夫だ。」
「そう?なら、いいけど。」
キャロルがまた、崖の下に視線を向けたとき、オスカーはふと、人の気配を感じた。
反射的に、彼女を後ろ手にかばいながら向きなおる。
「誰だ!」
きらり、と、何かが陽に反射した。何かが視界の隅で動く。
その、とき、
いつかの野盗崩れどもがここまで追ってきたのかと、剣を持ってこなかった自分の迂闊さを呪いかけた、そのとき、見覚えのあるような気のする少年がひょっこりと現れた。
「なんだ。生きてんじゃねーか。生きてるんなら生きてるって、レンラクくらいしろよなー!おーい。いたぜ。こっちだ。」
ぶっきらぼうな少年の物言いに、オスカーは、面食らう。
少年は、誰かを呼んだようだった。
「あ?どうしたよ。おっさん。」
続いて現れたのは、派手な衣装を身にまとい、化粧までした青年の姿。
プラチナの髪をした少年と、この青年とでは、ものすごく違和感のある取り合わせだ。青年の方がオスカーに笑いかける。
「やっと見つけたよ。オスカー。さあ、帰ろう。」
「俺を……知っているのか?」
おそるおそる尋ねたオスカーに、ふたりは
「はあ?」
と、声を合わせて彼を見た。
「キオクソーシツウウ?」
少年(ゼフェルというらしい)と、青年(オリヴィエというらしい)の声がまたきれいにそろって発せられた。
「オスカー……おめー……ばか?」
少年の言葉は、飾らない。ぐさぐさと痛いところをついてくる。
「まったく、炎の守護聖ともあろうひとが……」
「守護……聖……?」
オリヴィエが、頭を抱え込む。
「それも忘れちゃったんだね……」
「おめーは、忘れてしまって楽でいいけどよ。あいつはどーなるんだよ。おめーの大事な女王候補はよ。」
「女王……候補……」
妙に引っかかる言葉。
「とにかく、聖地へ戻って、治療しなきゃね。」
そう言って立ち上がるオリヴィエに、オスカーは気になることがあるから、待って欲しいといいだして、ことの次第を説明した。
「ふうん……なるほどね。つまり、命の恩人の彼女のことが心配だと言うわけだね。」
オスカーは、無言でうなずく。
「記憶がなくても、オスカーは、オスカーか。まったく、女に甘いところだけは忘れていねーな。」
何となく、引っかかるものを感じながら、オスカーは、あの少女のことを考えた。夢の中の少女。このふたりなら、知っているかもしれない。
「聞きたいんだが……」
「ん?なんか、思い出したの?」
「夢に出てくる女の子なんだが……金色の髪で、緑色の目をした……赤いリボンもつけていたかな。……誰なのか、知っているか?」
びっくりしたようなふたりの顔に、オスカーは何かまずいことでも言ったのかと思っていた。
「完全に、忘れたわけじゃ、ないんだね……?」
「誰なんだ?知っているのか?」
「知ってるも何も」
ゼフェルが言おうとした、そのとき、オリヴィエが、彼を止めた。
「それは、自分で思い出すべきだよ。いや、そうしなきゃいけない。わたしたちが教えるんじゃ、あの子があまりにもかわいそうだよ。」ひそひそと、おしひそめられた話し声に、オスカーは目を覚ました。
彼の記憶の手がかりになる少年と青年が現れた、その夜のことだった。
「だからさ、そういうことで。……ああ、わかってるよ。アンジェは?そこにいるの?」
心臓が、はねた。
『アンジェ』
それが、彼女の名前……?
いや。
ちがう。愛称だ。
思い出したわけではない。だが、はっきりとわかる。
理由も、根拠もなく、彼は、そう思った。
「そうだよね。いるわけない……か。じゃあ伝えてよ。オスカーが見つかったって。すぐには帰れないけど、なるべく早いうちに戻るって。じゃあ、頼んだよ。ジュリアス。」
「ジュリアスのやろー、なんか、言ってたか?」
「いや。今のところは何も。」
「そっか。」
「心配してんだよ。あの人なりにね。」
ジュリアス……聞き覚えのあるような名前。
このふたりの名前を聞いたときにも感じた、奇妙な懐かしさ。翌朝。
いつも通り(ただし今日はひとりではない)に、朝食のため、食堂へ降りていく。
奇妙な空気に、彼は眉をひそめる。
「キャロル?」
そうだ。いつもいるはずの少女の顔が、今はないのだ。
代わりにスレイが、顔を出す。
彼の顔は青ざめ、視線に落ち着きがない。
その視線が、オスカーの上で止まった。ゆっくりと焦点が合っていく。
「オスカーさん……あんた……なんてことをしてくれたんだ。」
スレイの発した言葉の意味が、オスカーには分からない。
「あんたのせいでっ、キャロルが……っ」
「キャロルが?どうしたって言うんだ?」
「キャロルが……あいつらに、さらわれた……」
がん。と、頭を殴られたような感覚が、彼を襲った。
「ちょっと待ってよ。オスカーだけが悪いわけじゃないでしょう。」
オリヴィエが、オスカーをかばう格好で間に割って入る。
「事情ってやつを、せつめーしろよな。」
ゼフェルに言われて、スレイは、顔を赤らめる。
「……すみません……取り乱してしまいました……」
スレイの語る事情というのは、こうだった。
朝、早くに、男たちが来て、キャロルを連れ去ったこと。
何とか阻止しようとしたが、あっけなく倒されてしまったこと。
頭を打って、しばらく気絶していたこと。
「そう……やり方が気に入らないねえ。横恋慕のあげくに、なびかないとみれば暴力か。あー、やだやだ。これだからもてない男ってのは。」「やっぱ、よう。反省させなきゃな。」
「ゼフェルに反省しろなんていわれたら、おしまいだね。」
「言ってろ。ばーか。」
ゼフェルが、なにやら物騒なものを取り出しはじめた。
野盗どものアジトへ突入しようと決めた、ほんの少し後のことだ。
彼らにとって意外だったのは、スレイが、ついていくと言い出したことだった。どうやら、人と争うのが苦手らしいスレイが、来ると言い出すとはは思わなかったからだ。
「足手まといなのはわかっています。……でも、このまま安全なところで待つだけなのも、いやなんです。」
と、いうのが、スレイの、そのときのせりふだ。
自分の身は自分で守るように言って、納得させたものの、本人も言っているとおり、足手まとい以外の何者でもない。
その上、
「あのー……、できれば、殺さないようにして欲しいんですが……」
などと言い出す始末だ。
「なんか……あのヤローを思い出すなあ……」
「そうだね……」
その『あのヤロー』が、誰なのか、今のオスカーにはわからないことだったが、その人物は自分もよく知っているはずの人だということはわかっていた。町のはずれにある、大きな空き家。
そこに、キャロルが捕らわれている。と、スレイは言った。
ゼフェルが戸口に爆薬を仕掛けて戻ってきた。
「よーし。行こうか。ゼフェル。おやり。」
「めーれーすんな。」
そう言いながら、ゼフェルが、手元のスイッチを押す。
どぉん……と、派手な音を立ててドアが吹き飛んだ。
「行くよ。オスカー。」
さっと、オリヴィエが先頭を切って飛び出す。すぐにゼフェルが身のこなしも軽く出ていった。オスカーとスレイも続いていく。
どこに隠し持っていたのか、オリヴィエは細身のレイピアを、ゼフェルは短剣を、それぞれ手にしている。オスカーは、彼自身の剣を持っているが、『殺さない』という約束に基づいて、鞘をつけたままで振り回すことにした。
一方、スレイはといえば、なんだか頼りない木製の棒を持っている。
空き家に入り込んだ。
とたんに、けっこうな人数に囲まれる。
「おいでなすったね。」
凄惨ともいえる顔で、オリヴィエが男たちをにらみつけた。
ゼフェルと言えば、にやにや笑いながら事の成り行きを眺めていたりする。
オスカーも、妙にさめている。緊張を隠せないのは、スレイただひとりだけだ。
ふっと、ゼフェルの手が動いたような気がした、その、時。
彼らの正面で小さな爆発が起こった。その騒ぎに乗じて、ゼフェルの小柄な身体から鋭い蹴りが、ひとりの男にたたき込まれる。
即座にオリヴィエとオスカーも反応して展開する。
乱闘が始まった。
一見、こういう乱闘には縁のなさそうなオリヴィエが、意外と強いのに、オスカーは、内心感心していた。ゼフェルは、小柄な身体をフルに生かした戦い方をしている。スレイは、今のオスカーの位置からでは何をしているのか、どこにいるのかも、よくはわからない。
しかも、オスカーが内心、驚いていたのは、自分のことだった。
こんな乱闘状態なのに、連れの動きがわかるのだ。
いったい自分は、そしてこのふたりは、何者なのだろう。
そのとき、オスカーは、ふと何かに躓いて、思わず剣を落としてしまった。
『しまった。』
そう思っても、もう遅い。男たちのひとりが、隙のできたオスカーに向かって棍棒のようなものを振り下ろす。
対処法を思い描きながら、床に落とした剣を、どうやってつかもうかと考えて身体をひねったところで、なんと、スレイが、男にぶつかっていったのが視界に入った。
思わぬ方向からの攻撃に男が床に崩れると、即座に先ほど取り落とした剣を拾い上げ、鞘のついたままの刀身で男の関節を狙ってうち下ろす。
外見通りの粗野な声で悲鳴をあげる男を後目にみて、オスカーはスレイに礼を言った。
「僕は……夢中で……オスカーさんが危ないって思ったら……」
それ以上、言葉にならない。顔色は真っ青で、手も足も、がくがくと震えている。
オスカーは、苦笑して、それ以上は何もいわずに奥へと視線を向けた。
「あっちだと、思うか?」
「お……思います。」
「よし。ここはあらかた片づいたみたいだから、先に行こう。」先に進んでも、次々に、いかにも柄の悪い連中がわらわらと集まってくる。
どこにこれだけの人数を潜めていたのか。そして再び乱闘が始まる。
ぶんぶんと武器を振り回しながら向かってくる男たちを必要最小限の動きでかわしながら、的確な急所を鞘をつけたままの剣で突きあげる。
だいたいは、よく訓練もされていないような、有象無象の塊で、先頭はまったく苦にならなかったが、たまに軍人崩れのような、それなりに訓練された動きを見せるものもいた。
そんな男と切り結んでいたときだ。「オスカーさま。」
声が、聞こえた。
聞きたかった声。
記憶をなくした後、彼が、ずっと求めてやまなかった声。
オスカーは、今がどんなときなのかも忘れ、思わず振り向いた。
愛しい少女の声が聞こえてきた方に向かって。その、瞬間。
醜い悲鳴を耳にして、オスカーは、はっと我に返る。
見ると、先ほど彼と戦っていた男に、剣が突き刺さっている。
もし、声に導かれて振り向いていなければ、それは、自分の頭の当たりにもろに刺さっていたはずだ。
思わずぞっとして、剣の飛んできた方向に目を向けると、あの、宿での騒ぎの時に、キャロルを羽交い締めていた、あの男が、ものすごい形相でそこに立っていた。
「ふん。この前の、お返しってところか。」
不敵に笑ってみせるオスカーに、男は逆上したように見えた。
剣を(オスカーはあいかわらず鞘をつけたままだ)構えて両者が対峙する。
2、3回切り結んだだけで、両者の力量はあきらかだった。
むろん、こんな野盗ごときに遅れをとるオスカーではない。
思い切り、剣を腹にたたき込んで気絶させた、そのとき、スレイの声が響いた!
「キャロル!」
「スレイ!」
後ろ手に縛り上げられたまま、恋人の名前を呼ぶ、その女は、確かにキャロルだった。
あの少女と同じ、金色の髪と緑の瞳。
涙でくしゃくしゃになった顔を隠すこともできず、少女はただ、恋人の名前を呼ぶばかりしかできない。
いつの間にか、オリヴィエとゼフェルが、横に立っていた。
「ようやく、ゴールって訳ね。」
「さっさと終わらせて帰ろーぜ。早くしろ。オスカー。」
「馬鹿だねえ。知らなかったとはいえ、守護聖を3人まで敵に回して、無事にすむと思ってんのかしら。」
「いずれ、王立軍の連中に、こいつらを監視させよーぜ。」
「あたりまえでしょ。」
ボスと思われる男と、オスカーが戦っている間に、ふたりの守護聖は、言いたい放題である。もとより、こんな野盗のボスごときにオスカーがやられるなどとは、間違っても考えていない。「スレイ……ああ、スレイ……よかった。助けに来てくれたのね。」
「キャロル。けがは。」
「ないわ。ちょっと、手首が痛いけど。」
ようやく救い出されて、恋人と抱き合った少女は、涙に濡れた瞳をオスカーにも向けた。
「オスカー……ありがとう。」
「いや。これで、貸し借りはなしかな。」
「いやあね。困ったときは、お互い様でしょう?」
少女が、微笑う。朝が来た。
昨夜は、キャロルとスレイの結婚式が、宿中を巻き込んで行われた。その、余韻のさめやらぬままの少女が、夫とともに彼ら3人を見送りに出ていた。
「本当に……ありがとう。オスカー。……守護聖さまを助けたなんて、光栄だわ。」
「キャロル。幸せに。」
オスカーが答えると、キャロルは頬を赤く染めながらも、にっこりと笑ってみせた。
「キャロルちゃん。わたしたちの大事な仲間を助けてくれてありがとう。この、幸福な花嫁に、美しい、夢のような人生に恵まれるように。夢の守護聖、オリヴィエの祝福を与えるよ。」
「じゃあ、オレも。鋼の守護聖、ゼフェルの、鋼の祝福を。おめーの場合、料理や、裁縫なんかの技術ってとこかな。」
「ほら。あんたも。」
促されて、オスカーは、少なからず戸惑う。
「わたしが誘導してあげるから。」
「俺の力は……『強さ』だったな。」
オリヴィエが頷いたのを確認して、オスカーは心を決めた。
「俺は、キャロルではなくて、スレイに。この、幸せな花嫁に、何かあったときに彼女を守り通すことのできる強さを持てるよう。炎の守護聖、オスカーの祝福を。」
「ありがとう。オスカーさん。」
「オスカー。早く、記憶が戻るよう、祈ってるわ。」
そうして、別れを惜しみながら、3人の守護聖は、その場を後にした。
濃い、霧の中。
ひとりの少女が立っている。
金色の髪が柔らかそうになびき、ゆっくりと彼の方を向いた。
翡翠の色の瞳が、悲しげに揺れる。ようやく、彼女に逢える。
オスカーは、飛空都市に降り立った。