濃い、霧の中。
ひとりの少女が立っている。
金色の髪が柔らかそうになびき、ゆっくりと彼の方を向いた。
翡翠の色の瞳が、悲しげに揺れる。
少女の輪郭がぼやけ、どんどん離れていく。
「泣くな。泣かないでくれ。」
彼はその少女の名を呼ぼうとした。
だが、呼ぶべき名を、彼は失ってしまっていた。
愕然として、彼は辺りを見回した。景色は急速に崩れ、どろどろととけていく。
「うわああああっ」
悲鳴をあげて、彼は身を起こした。「ああ、目が覚めた?」
金色の髪の少女が笑う。
彼−−−燃えるような赤い髪と氷を宿したような青い瞳の青年−−−は、さっきまで自分が見ていたのが夢だったのだと気づくのに、一瞬かかった。
「俺、は……」
どうしたのだろう。それに、ここはどこなのだろう。
その視線に気づいたのか、金色の髪の少女が彼に答える。翡翠を宿した瞳が微笑む形になった。
「けがをして、がけの下に倒れていたのよ。わたしの名前は、キャロル。あなたは?」
答えようとして、彼は、答えられなかった。
「なまえ……」
「どうしたの?まさか、覚えてないの?」
「わからない。俺は……誰だ。」
「記憶がないってこと?」
彼は頭を振って思い出そうとした。しかし、そんなことで思い出せるわけもなく、彼が発見されたときに、身につけていたものに手がかりがないかと探すことになった。
ふと、彼は思いだした。
夢の中にいた少女。彼女も、確か、金色の髪と、緑色の瞳を持っていたと思った。
しかし、雰囲気が違う。別人なのだろうか。
「これを着ていたのよ。」
そう言いながら、キャロルが取り出したのは、軽い、しかし防御力はそれなりにありそうな鎧と、青い生地で作られた、マント。鎧についている模様と同じ模様(紋章だろうか?)の入ったブーツ。
それに、古そうだが、きちんと手入れのされている、一振りの大剣。
どれも、自分の体に合わせて作られているのがわかる。
剣も、しっくりと手になじむ。
見覚えはないのだが。
「どう?何か、思い出して?」
「いや……何も。」
彼は、自分が着ていたという、その鎧をあちこち調べていると、一枚のハンカチと、いくばくかの硬貨が現れた。
「シルクね。これ。……あら、刺繍がしてあるわ。」
キャロルに促されてのぞき込むと、そこには、確かの刺繍がされてあった。
赤い糸で縫いとられた文字。『Oscar』
「……オスカー……?これが、俺の名前なのか……?」
口に出すと、改めて呼ばれ慣れたような響きがある。
「まあ。ぴったりね。じゃあ、これからあなたのことは『オスカー』って呼ぶことにするわね。」
キャロルの声を聞きながら、オスカーは、自分のものと思われる名前の刺繍の横に、小さく、白い糸で、『A』と刺繍されているのに気がついた。
どきん……と、心臓がはねる。
『A』
誰だろう。白いハンカチに、隠れるように白い糸で刺繍してあった。
「オスカー?どうしたの?」
オスカーは、ふっと、我に返る。
「あ?ああ、いや、なんでもない。そうだな。確かに、俺はオスカーという名前らしい。……それよりも、この『A』というのが誰なのか、……わかるだろうか。」
「『A』?……さあ……」
やっぱり、わかるわけがないか……と、彼は思う。
「きっと、あなたにとって大切な人なのよ。だって、あなたも大切にしまってあったみたいだし。」
と、いうことは、夢で見たあの少女は、彼女ではないということになる。
キャロルは窓を開けた。のぞき込んで、手を振る。
「スレーイ!この人、気がついたわよー!」
すぐに行く、と、男の声で返事がある。いくらも経たないうちに、足音が部屋の外まで聞こえてきた。
「やあ。目が覚めたんですね。よかった。」
現れたのは、茶色い髪と、茶色の瞳を持った青年だった。
「ここは宿屋もかねているんですよ。食事は、身体がよくなったら階下に食堂がありますから、そちらでどうぞ。僕の名は、スレイ。あなたは?」
「オスカー……と、いうらしいです。」
「らしい?」
「スレイ。彼、記憶がないみたいなの。記憶が戻るまでいてもらってもかまわないわよね?」
スレイは、一瞬、奇妙な表情をしてみせる。
「記憶が?そうなんですか。けがをしたのが頭ですからねえ……。そういうことなら、かまいませんよ。何でしたらここで働いてもらってもいいですし。」
「そうそう、言い忘れてたわ。彼ね、わたしの婚約者なの。」
そう言って、キャロルは幸せそうに微笑んだ。
つられたように、オスカーも微笑む。ふと、鎧の中から見つけた硬貨のことを思い出して、キャロルに差し出す。
「これを……。お礼というか、食費の足しにでもして欲しいというか……。俺のものらしい。受け取って欲しい。」
「こんなにたくさんはいらないわ。それに、記憶が戻ったとき、必要だったら困るでしょう?」
「キャロル。そう言っては彼が困るよ。じゃあ、こうしましょう。オスカーさんがよくなったら、うちの宿や食堂を手伝ってもらいましょう。これは、これで、あなたの治療にかかった分を支払うということにしませんか。」
人のいいふたりだ、と、オスカーは苦笑する。
しかし、実際、記憶が戻ったときに必要な金だったら、困るのは確かに自分なので、ふたりの好意に甘えることにした。
濃い、霧の中。
ひとりの少女が立っている。
金色の髪が柔らかそうになびき、ゆっくりと彼の方を向いた。
翡翠の色の瞳が、悲しげに揺れる。
少女の輪郭がぼやけ、どんどん離れていく。
「待ってくれ。」
彼はその少女の名を呼ぼうとした。
だが、呼ぶべき名を、彼は失ってしまっていた。目が、さめた。
そして感じるのは孤独。
そして感じるのは、深い、喪失感。
彼の目には、涙。
オスカーが目覚めてから、一週間ほどが経過した。
ようやく歩けるほどにはなったものの、頭にはまだ、いたいたしい包帯が巻き付けられ、服の袖口や、襟元から包帯がのぞいていることから、身体のあちこちに傷があることをうかがわせている。
彼が今着ているものは、彼を救った女性、キャロルの婚約者、スレイの服だった。
スレイは、さすがに商家の息子であるだけあって、服の仕立てはよいものを使っているようだ。
スレイにそれを告げると、スレイは、オスカーが貴族か何かの出身ではないかと言い出した。彼に言わせると、『立ち居振る舞いが優雅』であるし、先に身につけていたものから、相当の地位にある者の持ち物なのではないかということだった。
自分の出自も思いだせないので、参考意見として聞いている。恩人たちが経営しているのは、旅人のために用意されているらしい、小さな宿。こういう宿にはありがちな酒場をかねたつくりの食堂。夜になると、女主人の婚約者である、スレイの余興が行われる。ハープを片手にした、弾き語りである。殺伐とした旅に疲れた人たちにも、町の人たちにも、評判がいい。
スレイの、おとなしすぎるほどおとなしい性格に、オスカーは、内心のいらつきを覚えるものの、奇妙な懐かしさを感じながら、弾き語りを楽しみにしていた。
いつもの通りに宿のドアを開けると、そこは食堂をかねた酒場に行き着くはずだった。
今日は、なぜか野卑な声が中から漏れ聞こえてくる。
それだけではない。小さな、キャロルの悲鳴も、聞こえてくる。
そして、がたん、という大きな音。
「キャロル?」
オスカーは、ドアを勢いよく開けた。
見るからに柄の悪そうな男たちが、キャロルに言い寄っている。
「オ……オスカー……?」
今にも泣き出しそうなキャロルが視界に入った。
そして、彼女から少し離れた、床の上に、スレイが倒れている。
「スレイ……」
反射的に、彼は飛び出していた。一気に間合いを詰める。右手のこぶしを突き出し、キャロルを羽交い締めていた男の顔に、思いっきりたたき込む。
男がもんどり打って倒れるのを、冷ややかなまなざしで眺めやり、キャロルの腕をつかんでいた男の腹を思い切り蹴り込んだ。
「キャロル!」
「オスカー!スレイが!」
わかっていると目で合図して、スレイに蹴りを入れようとしている男に、先ほど自分が蹴り込んで身体を折っていた男の、襟首をつかんで投げつける。
「貴様ら、何者だ。このふたりに何をした。」
「なんだあ?てめえは。」
「このふたりは、俺の命の恩人だ。何かあったら、このオスカーが許さないから、覚悟するんだな。」
言いながら、オスカーは、妙に冴えている自分を自覚する。
もしかしたら、自分はこういうシチュエーションには慣れているのかもしれない、そう思う。
そうだとすると、自分は何者なのだろう。軍人か、それとも、この野盗崩れの男たちと、大して変わらないのか。スレイの言葉をも信じるとするなら、軍人というのが最も近いような気もしてくる。
もうひとり、叩きのめしたところで、男たちは、なにやら陳腐な捨てぜりふをはいて、出ていった。
「オスカー……ありがとう。助かったわ。」
「なあに。俺は困った女性の味方なのさ。」
軽く言葉を返して、彼は、妙に言い慣れた感じがすると、そっと思った。キャロルの話によると、この男たちのボスが、どうやらキャロルに求婚しているらしい。
キャロルはきっぱりと断ったのだが、わかってはくれないのか、無理を通そうとしているのか、さっぱりあきらめる気配がないのだそうだ。
そして、どうやら彼がそう長いことこの宿にはいないとふんだのか、翌日からは、男たちは姿を現さなくなった。
夢を、見た。
何人もの男女が、彼の名を呼んでいる。
ひとりは、豪奢な金髪の、厳格そうな青年。
ひとりは、長い黒髪に、アメジストのサークレットを身につけた青年。
帽子のようなものをかぶった、理知的な顔立ちの青年。
流れる水を連想させる、穏やかな顔をした青年。
きらびやかな衣装を身にまとった、化粧をした青年。
まっすぐなまなざしの、茶色い髪の少年。
どこか、拗ねているような表情をした、プラチナの髪の少年。
金髪に、すみれ色の瞳を持つ、幼さの残った少年。
青いドレスをまとい、青いリボンをつけた、青い瞳の少女。
そして。毎日、彼の夢の中に現れる、金色の髪と緑色の瞳をもつ少女。赤を基本としたシンプルな服装に赤いリボン。
突然、彼の頭の中を覆っていた霧が晴れた。
「アンジェリーク」
名前を呼んだ。失ってしまっていた、愛しい名前を。
「ジュリアスさま。クラヴィスさま。」
忘れていた、最も近しいものたちの名前。
「ルヴァ。リュミエール。オリヴィエ。ランディ。ゼフェル。マルセル。ロザリア……。」
身体が、ふるえた。
「そうだ。俺は、オスカー。……炎の守護聖……」
どうして忘れていられたんだろう。
金の髪の少女、アンジェリークが微笑う。
「アンジェリーク。俺の、お嬢ちゃん。」
オスカーは、彼女に近づいた。抱きしめようと腕を伸ばした、その、とき。
どろどろと景色は崩れ、目の前の少女の身体も、霧散してしまった。気が狂うほどの喪失感。
もろく、崩れそうな自分。
こんなに弱いはずがない。
しかし、ようやく思い出せたはずの記憶も、少女の姿とともに今、闇に溶けていった。
恐ろしいほどの不安と、彼は懸命に闘っていた。
そしてまた、彼の目に、涙。
金色の少女の顔が、また、悲しげにゆがんだ。