その時、彼は何と言っていただろう。
陰湿な蔑みの中で、彼は耐えるでもなく刃向かうでもなく、
最初から何もなかったように、何事もなかったように。
それでも止むことのなかった彼への暴力は更に加熱していた。
彼は死んでもいい人間。
きっと彼等の中では彼は人でもなかったに違いない。
死ななくてはいけないモノ。
いつだったか、彼等の中の誰かが足を震わせながら話していた。
恐れているのは彼等が報復が怖いのだろうと考えていた。
けれどそれは違っていた。本当に怖いのだ。
彼が暴力を振るわれて1年が過ぎた頃から、
何人いるかも知らない彼等が1人1人と行方を眩ませていた。
女のところにでも行ったのだろう。
最初の1人の時はさして危機感も持たなかった。
最初の1人は見つからない。
そしてまた、もう1人いなくなった。
彼等の中のリーダーはいなくなった者を探したが、
結局は徒労に終わるだけだった。
リーダーは彼を指差して怒鳴った。
「お前がやったんだ」
彼は何にも言わず、ただ哀しそうにリーダーを見ていた。
多くの人間が見ていたにも関わらず、誰も彼を犯人だと責めなかった。
彼の報復が怖かったからではない。彼を信じたわけでもない。
彼と関わり合いにだけはなりたくなかったのだ。
静まりかえった教室の中で、彼は口を開きかけ、止めた。
何も言わずに教室を出ようとする彼を咎める者はいない。
残るものは静寂。
後からくるざわめき。
目の端に捉えた、彼を追う影。
午前の授業が終わった休憩時間だった。
たまたま彼が彼等に暴力を振るわれている場面に遭遇した。
自分に危害が及ぶのを恐れ、逃げようとも思った。
けれど足は動かなく、物陰に息を潜め事が終わるのを待つしかできなかった。
彼等は泣きもしない、叫びもしない彼に与えられるだけの暴力を振るい、
満足も出来ずに飽きて罵り帰って行く。
彼等が横を通り過ぎる時、とても怖かったのを憶えている。
まだ、動けない。
頭の中を色々な感情が渦を巻いた。
彼を助けなかった。
彼等が怖かった。
助けさえも求めない彼。
血が怖くて見ることさえできない。
彼は
誰にも助けなど求めたりはしないだろう。
怖かった。
自分の感情が、自分の行動が。
これがきっと友人だったならば何としてでも助けただろう。
わからない。
殴られたら痛いだろうから、蹴られたら痣ができるだろうから。
俯いていた自分に、更なる影が差した。
「ごめんね」
口の端から乾いた血を流し、彼は目の前に立っていた。
「ごめん」
更に彼は言う。
目の周りは赤黒い痣となっていた。
「怖かっただろう」
すまなそうに目を伏せて、ジャケットについた埃を軽くはたいた。
「ごめんね、忘れて」
この時の彼に、どれだけ救われただろう。
膝の力は抜け、情けなくも床に座り込んだ。もうどうでもよかった。
彼は何も言わずに、じっと見ていた。
見上げると、彼はやはり何事もないように立っていた。
「僕は、キミの名前さえ知らない」
彼は黙ったままだった。
「だけど、キミのことを知っている」
彼は少しだけ眉を寄せた。
「僕は彼等の仲間じゃない、けど、僕は彼等と一緒だ」
すまないと、謝った。
謝らずにはいられなかった。
何度も、何度も謝った。
彼は黙って見たままだった。
「すまない」
やがて彼は微かにだけど痛むだろう口の端を上げた。
「忘れて」
彼は私を立ち上がらせると、私の手をとった。
「ありがとう」
彼と私はこの日初めて言葉を交わした。
けれど、ただそれだけだった。他には何もない。
これ以降の接点は、ない。
彼は何を求めていたのか。
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