緩和 04






 会議も数をこなすごとにキリルの緊張も目に見えて解れてきた。
 ただ硬くなるのではなく、程良い緊張感。
 それはキリルの集中力の高さ、そして周囲のサポートの賜物と言えるだろう。
 キカと共に街の自警団と依頼人との顔合わせ、その間ハーヴェイやシグルドを始めとした参加メンバー全員が、各々用意した地図片手に現地で実際に歩き警備ルートの確認。
 相手を一網打尽にするのならこのような大々的な確認は避け、相手を油断させて当日に挑むものだが、今回の仕事はあくまでも祭りを無事に終わらせる為の警護である。
 こうして事前に堂々と見回る事で犯罪を未然に防ぐ事が出来たのならそれが一番だ。
 もう仕事は始まっている。
 途中出店の準備や渡御の予行練習をしている光景に遭遇し、いよいよと気持ちを新たにする。

 それは祭り開催まであと二日と迫った昼間の事。







 風呂で一日の疲れを癒し、日課である剣の手入れを念入りに行い。
 そろそろ寝ようかと、ハーヴェイはベッドに寝転び、何をするでもなく天井をただ見上げている。
 寝る気でベッドに上がったというのに何となくその気にならない、何とも宙ぶらりんな状態だ。
 何気なく顔を横に向けると、この部屋にあるもう一つのベッドが何の乱れもなく綺麗に鎮座している。
 人一人分の体重が乗って皺のよっている自分のベッドとは大違い。
 綺麗な方のベッドの主は、まだ部屋に帰ってきていない。

 今回の依頼では勉強という名の裏方に徹しているキリルだが、その指導や教育はある程度シグルドが引き受けている。
 キカが受け持っても問題はなかったが、キリルが無意識に恐縮してしまう恐れがあった。
 その点シグルドならば普段からキリルと行動を共にする事が多くて気兼ねもなく、何より指導者としての能力も申し分ない。
 二人とも仲がいい者同士だからと気や手を抜いたり甘えたりする性格でもない。
 気づけばこの依頼の話がきてから、シグルドはキリルにほとんど付きっきりとなっていた。
 勉強熱心なキリルと、それに丁寧に応えるシグルド。
 キリルにとってはまだまだ未知の体験、色々聞きたい事や見ておきたい事もあるだろう。
 シグルドもシグルドで、そんなキリルをまるで必死に成長しようと頑張っている弟でも見守るかのような眼差しで嬉しそうに付き合っている。
 成長云々に関してはハーヴェイも同感で、キリルのそれを楽しみにしている人間の一人であり、その為の協力なら惜しまないと考えている。
 だからシグルドがキリルの成長に付き合う事に何の不満もなければ、疑問もない。
 が、しかし今ハーヴェイの視線は無人のベッドから動こうとはしない。
 自分一人しかいない静かな部屋を特別意識している訳ではない。
 だがこんな静かな夜が続くのは一体いつ以来だろうか。
 そんな事はもうとうの昔に忘れてしまった。
 ぼーっと考え事をしている間も刻一刻と時間は過ぎていく。
 そんな向かいのベッドに留まったままのハーヴェイの視線を次に動かしたのは、自室のドアが開く音だった。
「よう、お疲れさん」
 ノックもなしに入ってくるのはその部屋の住人という証。
 相手の確認をするまでもない。
「ああハーヴェイ。まだ起きていたのか」
「まあな」
 ベッドから上半身を起こし、その場で胡坐をかきながら入ってきた相手、シグルドに声をかける。
 胸に紙を数枚抱えているシグルドは、ハーヴェイの出迎えに別段驚く事もせずに淡々と言葉を返す。
 静かにドアを閉め、自身の机に胸の中のそれを置いた。
「忙しそうだな」
「おかげさまで」
 聞こえるか聞こえないかの小さな溜息をハーヴェイは見逃さない。
 その中には若干の疲労も見え隠れしているようだ。
 キリルの指導に加えて通常の会議進行、そのまとめ。
 ここ最近まさにフル稼働中のシグルドだが、元々器用で頭の回転も早く、キカのもとでずっと参謀のような立ち位置を勤めてきただけに、今更資料に向かう時間が増えたところでどうって事はない。
 そんなシグルドの主な疲労の原因は、一昼夜の警備の為に昼と夜とに割り振った班分けの件にある。
 いくらこの船の一員で皆が認める戦力だとしても女や子供に夜の警備を当てるのもどうかという配慮から、昼は女子供を中心に、夜は男を中心とした班分けを行ったのだが。
 『せっかくの祭りなのに夜酒が飲めないのは嫌だ』
 『自分も神輿が見たい』
 『明るいうちに出店で買い物をしたい』
 『この時間のあのイベントが見たい、行きたい、参加したい』
 その他諸々。
 ようは皆のワガママの調節に忙しいのだ。
 全部はねのけて不満を残したままでは仕事に差し支える可能性がある。
 が、例え一人でも全面的にワガママを認めてしまえば「自分も」「自分も」と皆が殺到して収拾がつかなくなる事は必至。
 限られた時間で説得をし、その中で出来る限りの譲歩を提案する。
 シグルドが溜息をつきたくなるのも判る、非常に面倒で損で大変な役回りである。
 少なくともハーヴェイには出来そうもない。
 先ほど胸に抱えていたのは今回の仕事のシフト表だろう。
 部屋だからと襟を少しだけ緩め、机に座ってまたそれと向き合い始めるシグルドを無性に労わりたくなったハーヴェイは、少し考えるように視線を部屋の角に飛ばしたあとでそっとベッドから立ち上がる。
 そして水差しに手を伸ばして空のコップに豪快に注ぎ入れた。
「ゆっくり風呂にでも入ってこいよ。サッパリするし、疲れもちょっとは取れるだろ」
 シグルドの傍らに八分目まで満たしたコップを置く。
 普段「労わる」なんて意識して考えた事がなかったせいか、咄嗟に出てきたのはこんな些細な気遣いである。
 視界の端に突然現れたそれに少し驚いた様子のシグルドだったが、しかしハーヴェイの意図を瞬時に理解したのか小さな笑みを浮かべながら見上げてくる。
「そうだな。後で行ってくるよ」
 そして「有難う」と早速コップに手を伸ばした。
 意識して行った分、礼を言われる事が何となく気恥ずかしく感じてしまう。
 ただコップに水を注いで渡しただけという本当に些細な事なので余計に。
 眼下で一、二回上下する喉からふと視線を外して「ああ、そうしろ」と早口で告げる。
 そうして何気なく移した視線の先に、手入れ済みのシグルドのナイフが数本並べられている光景が映った。
 武器の手入れは戦闘に出る者の義務と言ってもいい。
 これを怠ったが為に負けました、命を落としました、なんて冗談にもなりはしない。
 ハーヴェイもシグルドも一日の終わりには必ず己の武器を手に取る。
 剣一本のハーヴェイと違って何本ものナイフを持つシグルドは、複数あるナイフを二つに分けて手入れのローテーションを定めている。
 実際に持って歩ける本数は限られているので、その日一日持って歩いていたものを夜に手入れし、翌日はそれを寝かして、そして昨日寝かせておいた方のナイフを持って出る。
 その繰り返し。
 今ハーヴェイの目にとまったのは、昨日シグルドと行動を共にしたナイフ達である。
 そして明日シグルドの懐に収まるもの。
「……あ、そうだ」
 それを見ているうちに、ピンとある一つの考えがハーヴェイの頭の中に浮かぶ。
 思い立ったら即行動。
 水差しを元の位置に戻すと、綺麗に手入れの行き届いたシグルドのナイフを一本手に取った。
「なあ、これしばらく借りてもいいか?」
 柄の部分を指先で器用に回しながら研ぎ澄まされた刃に瞳を映す。
 刃毀れのない非常に綺麗なナイフだ。
「何だ突然。一体何に使う気だ」
「勿論お仕事に万全を期す為だよ」
 小さな笑みから一転、怪訝そうに眉を寄せるシグルドに、今度はハーヴェイが瞳を細めてニカッと笑って見せる。
 警護の最中は勿論自分の剣も所持するが、万が一狭い路地裏や周囲に障害物、及び人混みの中で戦闘になった場合、剣の大きさが仇となる場合がある。
 そうなった時、この一本のナイフはハーヴェイにとって最高に頼りになる武器になるだろう。
 それにこの仕事を成功させる事が何よりの労わりになるのではないかと、そう考えたのだ。
 これならば改まって水を差し出すという慣れない行為よりも遥かに自分に合っている、と。
 でもさすがに剣とナイフとでは勝手が違うので、本番でいきなり持つのではなく今から手に慣らしておきたい。
 だから今から貸してくれないかと申し出た。
 大切な武器を貸し出す事に最初は多少の難色を示していたシグルドだったが、仕事に万全を期す為と言われてしまえば断りようもない。
「……毎日しっかり手入れをする事。返却の際も手入れを忘れない事」
「それが条件か?」
「ああ」
「了解」
 小気味いい音を鳴らしてナイフが手の平におさまる。
 短い間だけど仲良くやっていけそうだと、翳した手の中のそれを前に瞳を細めた。

 借りたナイフと共に自身のベッドに戻ったハーヴェイはそれを手の中で遊ばせながら、皆のワガママの調節で紙面がごちゃごちゃになったシフト表の清書をするシグルドとの気まぐれな会話を楽しむ。
 普段は作業中の会話をあまり好まないシグルドだが、今は忙しなく動いているのは手だけで、難しい事を考える必要のない頭は暇を持て余していた為にハーヴェイが話しかければ付き合ってくれる。
 何て事のない日常会話でもそれなりに気晴らしになるのだろう。
 さほど時間をかける事もなくシグルドのデスクワークは順調に終了した。
 座ったままで軽く背を伸ばし、凝り固まった身体を解す。
 そして机に広げていた紙を整頓してからコップの中に残っていた水を飲み干し、椅子を引いた。
「終わったのか?」
「ああ。武器の方は後にして先に風呂に行ってくる。ここまで付き合わせて悪かったな」
「お前に付き合った覚えはないぜ。俺はただ自分のしたい事してただけだ」
 まるで長年の癖であるかのように手の中で器用にナイフを回しているハーヴェイに、シグルドは「そうか」と静かに瞳を伏せた。

 さて、シグルドが風呂から上がるのを待っているのも変だし、逆に気疲れさせそうなのでそろそろ寝ようと思う。
 その前に最後に一仕事。
「シグルド」
 必要な道具を手に風呂場に行こうとするシグルドを引きとめ、ちょいちょいと手招きする。
 首を傾げながらも素直にそれに従い近づいてきたシグルドの腕を素早く取ると、それを引いて有無を言わさず身体を、唇を密着させた。
 勢いのままにピタリと隙間なく重なる唇に、間近にあるシグルドの瞳が見開かれたのが判る。
 反射的に距離を取ろうとする身体を引きとめるべく掴んだ腕をしっかりと握り直し、少しだけ浮かせた唇で相手の上唇を優しく食めば、途端に瞬き出す瞳と呑まれる息。
 突然の事に驚いて手の中の道具を落とさないのはさすがだ。
 時々わざとリップ音を響かせながら何度も何度も啄んでいると段々緊張が解れてきたのか、うっすらと唇を開いて小さく応えてくれるようになった。
 呼吸のたびに熱くなりつつある吐息が互いを刺激する。
 これ以上は別の何かに発展してしまいそうだ。
 目的を見失う前にと名残惜しげに再度唇を強く重ね、そっと舌をシグルドの口内へと差し入れる。
 目的のものを見つけて先の方だけ緩やかに絡めてから、ゆっくりと身体を解放した。
 掴む腕の力を緩める。
 もういつだって振り解けるくらいの力だが、呆けたシグルドはそのままハーヴェイの間近に留まり続けた。
 頬はほどよく色付いているが、呼吸が荒くなるほどの行為ではなかったので、先ほどまで柔らかく重なっていた唇がすぐに言葉を紡ぎ出す。
 ただし、それはシグルドには珍しく酷く断片的だ。
「……何を……」
「疲れてるんだろ?」
「だからって」
「これくらいのだとリラックスしないか?」
 これ以上は身体が大変な事になるけど。
 そう言うと唇の端を持ち上げて、悪戯っ子のようにベッと舌を出す。
 言葉の意味など考えるまでもない。
 カッと更に頬を上気させたシグルドの身体がハーヴェイから素早く離れていく。
 その際にささやかな仕返しとばかりに頭を一回叩く事も忘れない。
「……早く寝ろ」
「へいへい」
 叩かれた箇所を手の平で押さえながら笑い混じりの生返事。
 シグルドは判り易く顔を逸らしたあと、道具をしっかり抱え直して足早に部屋から去って行った。

 何故だろう。
 労わるつもりが逆に労われたような、そんな妙な気分になった。





 


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